-空夢-

-空夢-

ヒトの姿でも人ならぬ「力」を持つ化け物達、「千族」。人間の文明が徐々に発展する傍ら、個体の少ない千族は対立する魔の勢力に圧されてますます数を減らしていた。
獣の形をした力を使役する「霊獣族」も、そうして悪魔に滅ぼされた千族の一つであり、殺されたはずの黒狼の彼女が目覚めた時には心を全て失くした状態だった。
彼女はある「力」を持っていたため、自らを知る者に出会う度に、失われた己の過去を掬い上げるが……。
update:2023.8.15

-空夢- Within "Elixir".

 青い空の獣を探す。いつもその夢だけが「あたし」に残った。
 何度繰り返しても失ってしまう。夜の後には必ず朝が訪れ、「あたし」は「わたし」の影になるだけ。
 空は全てを呑み込む冷たい光。闇が混沌の落とし子ならば、空は混沌をも灰と散らして光に還す。

 だから空は、全てのものの本質を知る光。空を満たす夜は光を(はぐく)み、空の夢から人の世を見る。
 空が望む青の不知火(残り火)。その時確かに「あたし」は終わりを迎え、新たな水沼(みぬま)の黒い光が産声をあげた……。

千族化け物譚❖終夜

千族化け物譚❖終夜

C1.5//Cry per A. ~Ash lined nyx skies~
発行:Studio ***46

❖1.

 いつも誰かの裏にいるあたしが、久しぶりに声だけでも出すことができたのは、そこが「橘診療所」だからだった。
「……タチバナ……カイ……?」
「おう、何とか目が開いてくれたか。桃花(とうか)……と言いたいが、おまえには多分、その名は持てないんだろうな」
 ぴくりとも動かせないわたしの体が、黒い服に髪に目と、黒ずくめの白衣の男の前で横たわっている。前開きの病人着で、硬い処置台の上で。
「やっぱり動けないな。せっかく復元してやったのに、その後は培養管に完全放置ときたから仕方ないが」
「……?」
「他に呼びようがないから、ここでは桃花と呼ぶぞ。確認するが、桃花――俺の声を理解できている『力』は、俺が灰から復元したフェンリルの裏にいた『夜』だな?」
 あたしは頷く。わたしは混乱する。何故ならここで目覚めた黒い髪と目の「わたし」に、思考力など育っていない。だからあたしが代わりに返答をしている。

 「あたし」はおそらく命を失い、奈落の火の池で灰となった。それを目の前の黒い男が、生き物そっくりの人形として復元した女が「わたし」。
 けれど「わたし」は空っぽの灰なので、あたしが返事をしていることを黒い男はわかっていて言う。
「『桃花』は俺の娘の名前だ。おまえも俺が作った点では俺の娘だ。でもわけがわからないだろうから、おまえの中に『夜』がいると思えばいい、フェンリル」
「……なんで、そんな……ややこしいこと……」
 黒い男は、「わたし」――この女の体をフェンリルと呼んでいる。そしてその話を理解しているあたしを「夜」だと、この男はおそらく言っている。
 あたしは何も覚えていない。「力」であるらしいあたしは、宿る体の記憶とリンクできなければ何者でもない。ただあたしには、同じ空間にいる相手の情報を汲み取れる「空」の力の一端があり、それで男から知性を借りて、男の言葉を正確に理解しているだけだ。

 そんなややこしいあたしのことを、男は娘と呼ぶだけあって把握している。この男が目前にいるから、あたしは自分の事情がわかった。そのあたしとは裏腹に混乱するだけのわたしに、男は無表情な声色で続ける。
「おまえは死ぬ寸前で俺に人形にされたフェンリルだ。殺した奴が返せというんで、きちんと愛でることを条件に渡してやったのに、結局飼い主が滅亡したからもう一度回収してきたわけだ」
 ここで「わたし」の本体のわたしは、やっと納得していた。どこかの城で大きな試験管にいただけのわたしにも自我はあり、あたしが目を覚ましたことで知性の吸収を始めた。本来ならあたしこそわたしを真似て生きる影であるのに、黒い男の介入によって立場が逆転したものと見えた。

「わかってはいたが、おまえが桃花になれないなら、ここにはいなくていい。望むことを為せ――おまえがいつか、『空』にかえされないように」

 黒い男は、そうしてわたしに空を意味する名前をつけた。わたしがわたしの名前(意味)を見つけるまでは、「空」を忘れず、警戒して生きるこれからのために。
 「空」は、そのフェンリルを探している。それだけわかった。黒い男の元にいると、見つかりやすくなってしまうらしい。
 ただただ、SKYという名だけを与えられたわたしは、動けるようになるためにあたしに成りきることを決めた。辛うじてヒトの真似事ができるようになると、黒い男は退院だ、と言って、わたしを診療所から追い出したのだった。


 黒い男――橘診療所の院長が人形というこの体は、黒い男曰く、「不便だけど少々チート」とのことだった。
 わたしにはさっぱり意味がわかっていない。それより問題は、どうやらわたしにはあたしを知覚することができない。つまりわたしは、体感的にはたった一人で、何も知らない世界に放り出されたのだ。
 黒い男に忠告されたこと。「『空』に見つからず、望むことを為せ」の意味がわからず、橘診療所とは違う家々の街も、自分が誰かもわからないわたしは困惑している。
 あたしも人世は、久しぶり過ぎて慣れない。「わたし」の体に沈む記録を、言語で整理できるほどには掘り起こせない。反射的対応のレベルで何とか汲み上げ、長棍を駆使した戦闘と旅だけは何とかできた。
 それはわたしには、「よくわからないが体が勝手に動く」状態であり、わたしはいつも戸惑い、最初に目覚めた安寧の試験管に帰りたがっている。それでも「わたし」に、その望みは難しいことをあたしは知っている。

 この「灰人形」という体には、食事や手入れがいらない。臓器や血肉も再現された、人に限りなく近い人形なのだそうだ。多少の怪我なら湿らせて固定すれば治る、と黒い男は言っていた。それが「不老」という「少々チート」なのだ。
 歳を取らない。外的な強い侵襲がなければ変化の起きない体であるが、「不死」なわけではなかった。人と同じ構造で電気信号で動かす体な以上、灰で作られた脳でも体液を失えば意識が落ちる。固定不可能な寸断を受ければ治癒もできずに、行動や思考が不可能になるので人の「死」と変わらない。
 ただそれも、黒い男がパーツを回収して繋げればまた復元できるらしい。最も人に、そして不老不死に近い体は、変化を受け付けない――飲食ができない、成長できない、「力」がある者は使えないことを除けば、人の理想に限りなく迫る人形なのだ。

 だからそれが「わたし」の問題だ、と、あたしは早々に診療所で悟った。「わたし」に安寧、つまり死を与える場合、この体を灰も残さず消し切らなければいけない。灰を回収すれば黒い男には復元できてしまうからだ。
 試験管に戻れないなら、望みも何もない「わたし」が生きる理由はない。あたしもわたしも面倒なので、望みがあるとすれば「眠りたい」のに、黒い男はこの体を桃花――自分の娘だと言った。診療所で保護することはしないくせに、死なせる気もないと見えた。

 人に似せた人造の人形には、大きく三系統があるのだという。黒い男にしか扱うことができず、「力」も使えない灰人形には、実際あまり需要がなかった。他の二系統は、外形だけ人で物として強度を与えた「骨人形」と、人に寄せたが繊細な整備の必要な「肉人形」があるときいた。前者はカラクリ人形や機械や付喪神、後者はゾンビや人造人、死者の一族と呼ばれる類のイメージらしい。骨人形は材料と技術のコストが高く、肉人形は維持のコストが高い、と何故か黒い男に滔々(とうとう)と教えられた。

 灰人形はその点、まず人形にしたい相手の骨と水でこねた動植物の死灰で形を造り、その素体を本人の灰で作った釉薬(ゆうやく)で固定すればいい。昔は雑な粘土細工だったというが、今では精巧に内臓も作り込めるとのことで、維持は橘診療所にいれば不要、外界に出ても大きな損傷がなければ乾燥に気を付けるだけ。飲食をすれば喉から奥に詰まるだけだからやめろ、とのことだった。
 この体の内部は、黒い男だけが扱える「止水」に混ぜた灰で、全て人間と同じ形に復元されているのだ。止水とは流れの止まった水で、血も臓器も体内の信号を伝えるだけで、それで筋骨格系が動く。蒸発することも、それ以上かたまりも広がりもしない、変化のない体であるのだと。

 元々、灰の主だった女は、「フェンリル」という「力」の狼が本性だった。実体を持つ黒い狼(フェンリル)の灰を素体としたので、「わたし」に他の「力」は残っていない。だから「力」が使えない灰人形の身は、別に不便なことではない。
 しかしこの灰人形は、女型としては足りないものが多いという。死ぬ直前に灰にしなければ、人形にしても目は覚まさず、それまでに欠損した部分は原則復元できないそうだった。あたしにはどうでもいいことなのだが、わたしは「女物の服が着難いことが多い」とたまに悩んでいる。
 簡単に眠りにつくことができないのであれば、わたしは黒い男の言った通り、生きられるだけ生きてみよう、と人真似を頑張っている。あたしがいることを知覚できないわたしにとって、黒い男だけが近しい存在だからだろう。そうは言っても何もやることはなく、体が汚れても苦にならないので、基本は山で引き籠っていた。山中での生活に慣れているような体だったためだ。

 けれどその内、わたしが人里に行きたがり始めた。「望むことを為せ」と言われているので、人里で浮くことはわかっていたが、あえて都会での生活を始めてみた。行き交う人々を見ていれば大体の生活法はわかったが、警備隊を避けて路地裏にいるとゴロツキとばかり縁があった。
 一晩でも宿があるのはありがたいので、わたしは様々な男の元を泊まり歩くようになった。復元後の体は貧相で子供じみた黒い女でも、不思議と誘いをかけてくる男が後をたたない。仕事も紹介する、と言われていたが、そこまで望んだ覚えはなかった。飲食物は不要だと言っても、何かの薬を執拗に与えてくる人間も多かった。
 地面よりましな床がほしかっただけのわたしは、しがらみが次第にうっとうしくなった。だからあたしは、そこで疑問を持つことはなく、「わたし」が取るべき行動を決めた――

 単純な話だ。寝床を与えてもらうために、約束した以外のことを始める相手は、もれなく永遠の寝床についてもらった。
 わたしもあたしも、それらを「どう後片付けするか」以外、何も躊躇(ためら)いは持たなかった。

「――じゃあ、契約しよう。あたしは君のおもちゃになってあげる。でも、おもちゃに人間生活や奉仕をさせたらだめだよ?」

 「わたし」の「契約」生活が始まった。取引の約束を破る相手は片っ端から山に埋めた。契約違反の代償は死、ときちんと最初に説明するのに、誰もが冗談だと受け取っていた。けれどそんな事情は知ったことではない。
 何人も殺すと、一つの町に長居はまずいとわかったので、殺した相手の金目のもので気楽な旅を始めた。何となく、黒い男は嘆くだろうと思ったものの、診療所には最初から帰れないので考えるのはやめた。

~・~・~

 人間の世は、人間の法で回っている。一応そういうことらしい。何処にいても至る所で矛盾を見かけたが、わたしのヒト殺しに対して人世の法は甘くはならないだろう。
 わたしはわかっていなかったが、あたしはわたしを守る気があった。だから旅型の生活に切り替えさせた。
 わたしは人里に慣れた後も、まるで試験管から外を眺めるように、成り行きに流される傍観者だった。唯一の望みが「人里に行きたい」で、誰かに関わるほどに死体の山が増えるが、わたしは何故かそれを望み続けた。

 むしろ、わたしの方こそ、誰かの死体を望んでいること。いつしかあたしはそれに気が付くようになった。
 わたしは何故か、「いかに人と関わるか」の工夫を始め、寝床を借りる以外の契約もするようになった。同じ空間にあるものの情報を汲めるあたしがいるため、「やろうと思えば大体のサービス業ができる」自身の特性をわたしは把握したのだ。あたしを知覚できないとはいえ、あたしにわかることはいずれわたしにも伝わっていくからだ。
 そうして、「契約すれば何でもしてくれる女」――「何でも屋」ができた。簡単な契約なら対価は金銭取引で済ませるが、難しい契約であるほどわたしは乗り気で、相手が必ず破るような代償を指定しては、契約違反をした相手を手にかけるようになっていった。

 わたしはいったい、何がしたいのだろう。あたしは首を傾げるものの、そもそも鬱陶しい相手は始末しろ、と促したのはあたしでもある。
 わたしは基本、あたしの行動様式で動いている。けれど流血を特に好むようになったのは、確実にわたしだ。
 要因の一つには、この灰の体が劣化を避けるには、血の予備があれば修復が素早くなるからだろう。飲食物を異化してエネルギーとすることはできない体だが、他者の血は傷に塗り込めば同化して固定剤になる。その点吸血鬼と似た存在でもあり、違うのは吸血鬼の体は変化すること、状態が良ければ飲食も可能で成長もできることだろう。

 契約の依頼者達は大概、この体を粗末に扱う。ついた傷はほとんどいつも、依頼者達の血で補う。その繰り返し。
 五年もたつと、さすがのわたしも飽きたようだった。今度はもう少し、長く契約できる人間を選ぼう。そう考えて一人の裁判官の女と出会い、二十四時間体制の護衛役を引き受けることになった。

 それがあたしの転機となることを、その時のわたしは知る由もない。

❖2.

 女の新米裁判官の護衛となってから、わたしは珍しく、とても丁重な扱いを受けるようになった。
 二十四時間体制の仕事とはいえ、裁判官は屋内に居る日中はわたしをなるべく休ませ、出歩く時だけよく頼ってきた。わたしがたとえ有事に眠っていても、あたしがいるので気付いて起こせる。隙のない仕事は裁判官にも好評で、簡単な仕事なので金銭以外の代償は指定しておらず、契約違反が起きることもなかった。

 同じ人間なのだから、と。人に近い灰の人形に、裁判官は無愛想に優しく言った。護衛として頼りにしているが、そなたも何か、自分の好きなことをしろ、と。
 他でもない契約人からのお達しなので、わたしはとても真面目に考え始めた。いつもどうしても、「その時やるべきこと」しかあたしにはわからない。何か望み――「好きなこと」を持てるとすれば、わたしだけだろう。
 それでも何も見つかることなく、結局護衛しかしていない日々の中で。
 何気なく動いていただけのわたしが、その運命に出会ったのは、静かな雨が降っていた日のことだった。


 真っ黒に復元された「わたし」よりも、よほどキレイな灰色の空の下で。
 久しぶりに、不意に路地裏に入りたくなった。休憩をもらい、いつも控える裁判所を出てすぐ、建物の裏に回った先にいたのが「彼」だった。

――……左肩……。

 裁判所の裏手の壁にもたれて、息を荒げて肩を押える若い男がいた。
 人間でないことはすぐにわかった。傍目には地味な茶髪に見えるような暗示の施された短い髪が、あたしの目にははっきり紫苑色だと見えていた。

――……いたいの……?

 髪と同じ紫苑色の目を持つ男は、わたしの視線にすぐに気が付き端整な顔を上げた。
 傘をさして歩いていたわたしは、声をかけはしたものの、あたしほどにその男には興味がなかった。行こうとしていた場所はもっと、物騒なチンピラの溜まり場の近くだ。
 男はほとんど有害に見えない。だからわたしは見向きもせずに、すれ違おうとした。誘われては相手を害してきたわたしにとって、無害そうな男はそもそも無縁な存在でしかない。

 だというのに、苦しそうな男を見た瞬間、あたしは信じられない速さでその情報を引き上げていた。
 痛む左肩を掴んだまま、わたしを見つめた紫苑色の男。その髪も目も、「あたし」は知っている、と。
 この「フェンリル」は、紫苑色の男に関わったことがある。それが一瞬であたしの全霊を巡り、わたしを思わず立ち止まらせていた。

 そう。「わたし」は初めて、「あたし」を知る相手に巡り会ったのだ。
 目の前にいる相手の情報を汲めるあたしは、自分を知った相手がいれば、その記憶からやっと「あたし」の手がかりを得ることができる。
 出会うまでは思いもよらなかった衝撃。わたしはただ、不思議な好奇心としてしかそれを感じていなかったが、あたしは最初に見えたものを紫苑色の男にそのまま伝えていた。

――いい加減お姉さん、解放してあげたら?

 左肩の痛みで苦しむ男。それは蜘蛛の足のように、男の双子だった娘の魂が刻まれているからだった。
 この体は確かにその娘――男と同じ紫苑色の相手に最期に関わっていた。男が双子の娘を失った場で、この体も終わりを迎えて奈落に囚われていった。その情報を受け取ったあたしは、思わず微笑んでいたかもしれない。

 そんなあたしの衝撃を知るわけもなく、驚いた男は、待てよ、と「わたし」の手を傘ごと掴んできた。

――どういう意味だ。あんた、誰だよ。

 無害そうだった男は、見知らぬ通りすがりに図星をつかれてうろたえたらしく、「わたし」を壁に押し付けて問い詰めてきた。わたしの方はわけがわかっていないので、さあ? と笑って濁すだけで、それがまた癇に障ったらしい。舌打ちして「わたし」から離れると、背中を向けてさっさと歩いていってしまった。

 そうして僅かの時に、間近になった紫苑色の目から、男と関わるこの体の記憶が更に流れ込んだ。だからその夜、裁判官の私室の隣で、あたしは「あたし」の大事な夢を見ることになった。
 わたしにそれは、ほとんど伝わることはなかった。わたしはあたしが知ったことの、利点を共有するだけの傍観者で、わたしもあたしも互いの感情をほとんど知らない。それが「あたし」の夢であたしが気付いた、一番大事な収穫だった。

~・~・~

 いつのことかはわからない夢。光石付きの長棍を持ち、白い外套に身を隠す「あたし」が、息を切らせて山道を走っていた。
 故郷の隠れ里に近い森で。「あたし」はその不思議な少年――紫苑色の髪と目をした「ラスト」に出会った。それはいつものように、親の薬を買うために人里に降りた帰り道だった。

「ちょっと待って、ラスト君……! いくら人間相手とはいえ、一人で山賊の拠点に行くって本気!?」
「うるさいなぁ、怖いならねーちゃんはついてくんなよ。それじゃオレが戦ってね、って言ったのはねーちゃんの方じゃん」

 「あたし」と同じく、長物の扱いが得意で精霊魔法まで使える少年。ずば抜けた戦闘センスがあることは初対面で魔物と戦う姿からわかっていたが、双極の鎌と小さな道具袋しか持たない小柄な相手は、「あたし」にはどうしても幼い子供に見えた。
 賞金がかかっているから、山賊退治に行く、と少年は言った。本当のところは偶然保護した小さな女の子が、お姉ちゃんを助けて、と泣きながら頼んできたからで、その時「あたし」はどうにも嫌な胸騒ぎを覚えた。身軽でさっさと行ってしまった少年を追いかけていくと、少し屈強なだけの十数人はあっさり気絶させられていたが、女の子の「お姉ちゃん」と頭目に関してだけは、少々事情が違った事態を目の当たりにする。

「あー、ちくしょー、かっこわりー……っつか、ねーちゃん案外、容赦ないね……」
「仕方ないよ、まさかあの子のお姉ちゃんが、自分からボスをかばうなんて思わないじゃん?」

 助けるはずの相手にまさかの邪魔をされ、武器を奪われた少年は絶体絶命。それを囮に「あたし」は奇襲で、背後から頭目達を(なぐ)り倒した。頭目だけは雑魚の人間を操る力を持った厄介な化け物(千族)で、捕われた乙女も魅了済みで、そちらも遠慮なく昏倒させた「あたし」だった。
 「何でも道具屋」という少年が持っていた拘束具で、山賊全てを戦闘不能にすることができた後に。少年の怪我を大切な黒いヘアバンドで「あたし」は止血し、警備隊に報告に向かう少年と別れた。少年が遠慮しないよう笑ってやり過ごしていたが、独りの帰り道ではどんよりと、思い出の装身具を手放した自分に落ち込んでいた。

――いいよ、どーせレイアス、気付かないだろうし……ってか、くれたことも忘れてそうだし……。

 向かう隠れ里の入り口近くに棲む、幼馴染みの一人を彼女は思っていた。よほど強い落ち込みだったようで、少年から離れた後の光景なのに夢で引き上げられてきた心。
 そこから違う誰かに出会ったところでわたしが目を覚まし、少年と出会った時の夢は終わった。

 紫苑色の髪と目をして、精霊魔法を扱う「何でも道具屋」の少年。裁判所の裏で会った男は、その頃の才気を失った暗い顔で、それでも「何でも道具屋」を続けていることだけはわかった。
 「あたし」がどうして少年の前で、少年の双子と共に滅びたのかまでは、この夢では汲み上げられなかった。

❖3.

 紫苑色の男が「あたし」と知り合いなのは、あたしだけが気付いていることだった。わたしはあたしの夢を見れず、あたしが彼に興味を持ったこともわかっていない。護衛の仕事以外に結局何もしないで、彼に関われ、というあたしの促しを無視するわたしだった。
 わたしにはあたしの感情が伝わらない。得た情報による理性的な指示は届いているのに、そんなずれが存在していた。わたしの心はとても幼く、まるで荒野をさまよう獣のようで、あたしはそれを感じ取れるが、わたしはあたしの心を理解できないのだ。

 わたしはただ、理由も目的もなく生きる日々に飽きていた。「望むことを為せ」の言葉も忘れかけている。
 あたしも思った。「空」から隠れて生きているはずの今。それはいったい何のためだったのだろう、と。
 そもそも「空」とは何なのだろう。情報を汲み取るあたしの「力」の源というが、簡単に滅亡できない「わたし」であるなら、「空」にかえされるのが一番早い終局に思える。黒い男の忠告を言葉だけでも覚えていたわたしは、意味はわからないまま「空」に出会うことを待っている。あたしはそれを止めるべきかを悩んでいる。

 そして、わたしから関わることはなかったのに、何故か裁判官に気に入られたという紫苑色の男が、ほどなくたびたび訪れるという不思議な展開が起こってきた。
「……あんた、SKYってーの? いい腕してるみたいだけど、どこで鍛えたんだよ」
 無愛想でもお人好しな裁判官は、体調不良でうずくまっていた彼を発見し、控室の一つで休ませたらしい。ラスティ・L・ミスティという異国の戸籍を持った彼は、病のためにこの街――三大商業都市の一つ「ウィル」に療養にきており、普段は下宿で休んでいるが、都心に薬を買いにこなければならない。異国者なのであまり警備隊に関わりたくなく、体調が悪くなると路地裏にいる、というふれこみだった。
 警備隊の組織と裁判所は、近いようでいて個別の機関だ。異国者の滞在許可は双方が協同して出すものなので、まず裁判所で査定を行っていくから、その間は自由にしていろ、と裁判官は彼に言った。
 そして裁判官が、自分の護衛だ、とわたしを紹介したのを見て、紫苑色の男は露骨に嫌そうな顔になった。どう考えてもこいつが一番ヤバイ、と鋭く感じ取ったらしい。

「メリナの護衛って、本気でやってるのかよ? あんたが一番、血の匂いがするんですけど」
 素直でない病み人に成長しているが、山賊に立ち向かうような人の好さは、少年の頃のままの彼だった。彼を保護した裁判官に懐き、街に出た時はここで休んでいけ、とまで言ってくれたことに感謝し、傍につくヒト殺しのわたしを明らかに警戒している。

 わたしはそれが、丁度良い退屈しのぎになった。暇な時には紫苑色の男をとことんからかうと決め、自分の仮眠室に難無く彼を連れ込んでいた。
「それじゃあラスティ君が、あたしを監視してたらいいよ? メリナ様に何もしないって、あたしも正直、契約次第では保証ができないんだなあ」
 いつもあたしになり切るわたしは、こうしてけらけらと人と話すのが日常の姿だった。あたしはそんなヒトのつもりはないが、わたしにはそう感じられるらしい。
 真っ黒なわたしの目が本気と察したのか、彼はベッドにもたれて床に座りながら、布団にあぐらをかくわたしを見上げてまた嫌そうな顔を見せた。
「契約次第って、どーいう意味だよ、それ?」
「あはは、ないと思うけど、給金の支払いが滞ったら命で払ってもらうかな。メリナ様にもちゃんと言ってあるよ? 契約違反があった時は、どちらかが死ぬことで契約が終わります、って」
「ひっでぇ、悪魔の契約より悪質じゃねーか。せめて魂を奪うくらいに留めとけよ、っつかそれ普通にお縄になるだろ、人間の街でやらかしたらさ」

 とてもキレイに歪められる、人間にはない澄んだ紫苑色の目。彼は千族(せんぞく)という、人の姿をしながら人にない「力」を持つ化け物の一人だ。精霊魔法も「何でも道具屋」も、その「力」で成り立っている。
 武器や道具、「力」なき人間も護身ができるマジックアイテムを作れる彼は、裁判官をわたしから守る結界を張るために裁判所に訪れていた。大がかりな結界なので、秘密裏に仕込んでいることをあたしはしっかり気付いている。なのでわたしもちょくちょく彼をつつく。
「大丈夫だよ、ラスティ君と同じで人間じゃないもん。人間の法なんて気にしてないよ」
「いやそれは、そこは気にしろって。あんたみたいなのがいるから、千族はいつまでも危険視されるんだぞ」
 彼は人間に紛れて人間の街に隠れ住んでいる。わたしは特に「力」がないので、殊更人間だと嘘をつく必要はなく護衛をしている。その点から別にわたしが悪さをしたところで、「力」ある千族の風評被害は起こさないよ、と笑う。
 左肩に受けた呪いのせいで、彼の戦闘力は昔と比べて随分落ちていた。道具を使わせないようにすれば、今のわたしには十分勝てる相手で、だから彼もわたしを警戒し続けている。
 もしもわたしが、契約違反で裁判官を殺そうとすれば。この紫苑色の男は命をかけても、わたしを止めに戦ってくれる、とわかっていた。

 だから、どうすればわたしを倒せるか、の偵察も含めて、彼はちょくちょく会いに来るのだ。わたしは是非倒してほしい、と思っているので喜んで迎える。この「何でも道具屋」の彼であれば、上手く怒らせれば「わたし」を消滅させることもできるかもしれない。
 しかしそれには、彼の左肩に刻まれた双子の娘が邪魔だ。その魂は彼が全力を使えない(くさび)になっており、そうやって呪いをかけた悪魔に削られた命を、使い過ぎないよう守ってもいるとあたしは気が付いていた。

 それなのである日、双子の魂を抱える彼を揺さぶってみることにした。
 彼はただの淋しがり屋だった。この世に双子以外の相方が元々いないから、いつまでも物言わぬ魂を手放せずに、自身の命を代償に固執している。
「ラスティ君、お姉さんのことしか頭にないからつまんないな。可愛い猫ちゃんがそばにいるみたいなのに、いつまで放っておくつもりかな?」
「……」
 定位置でベッドにもたれて座る彼に、上から細い首に両手を絡める。彼の頭にちょんと顎を置いて、うつ伏せで抱き着いてみたわたしを、紫苑色の目だけが不服そうに見上げた。
 「可愛い猫ちゃん」とは、左肩の呪いでたびたび発作を起こす彼を、介抱するために追いかけてきた同居人のことだ。桜色の髪を風に揺らし、白い武闘服の似合う少女。裁判官がいつでも倒れそうな彼の軽い身辺調査をしたので、十五歳の少女とその養父が、彼と共に暮らしているのは把握していた。
「……もしもあいつに何かしたら、うるさい(バカ)が黙ってないからな」
「えー、ラスティ君が守ってはあげないんだあ。まあ、さすがに十五歳相手は、人間的には犯罪だったっけ?」
 元から鬱陶しそうな顔が、更にきつく歪められた。見下ろすわたしの長い括り髪が、肩からさらりと落ちて彼の耳に当たる。
「それともラスティ君は、よりによってお姉さんに操を立ててるのかな。いつもお姉さんに見られてるわけだし、どれだけモテても誰にも手は出せない?」
「…………」

 黙って視線を下げた彼が、わたしの手をほどいて静かに立ち上がった。わたしも無言の彼を見ようと上体を起こして座った瞬間、振り返った彼が斜め向きにわたしをベッドの上に押し倒していた。
「……誘ってるつもりか? それ」
 事態はまさに、彼の左肩が蜘蛛の足まではっきり見える体勢。
 業務中なんだけどなー。とわたしが笑い、挑発にあえて乗った彼が眉間にしわを寄せる。

 基本的には強い彼は、弱い者いじめをせずに、力ずくを嫌う。実に無害である紫苑色の男は、異性関係においては複雑な遍歴を持っていると見えた。
「ふーん。ラスティ君は、やもめ専かと思ってたけど」
 ぐ、っと口元が引き結ばれた。ここまで近付いてもこれ以上はしない彼は、単なる見栄っ張りだ。
 淋しい者同士で温め合ったことはありそうながら、根本的には一途に見えた。
「失っちゃったけど……好きな人がちゃんといたんだ?」
 わたしにその相手はわかっていない。けれどあたしは思わず、憂い気な紫苑の目に思考を止めた。
 わたしの叩く軽い上から口調に、彼はかつての命の恩人を思い出して、面影をわたしに重ねていた。自分でそうとは気付いておらず、この体がその女の灰ともわかってないのに。

 わたしは彼の腕の間で、理由もわからず、くすり、と笑った。
「お仕事でなら、いくらでも相手してあげるよ。こんな貧相な体に、契約の価値があるとは思わないけど」
「……――」
 乾いた声の一言だけで、敏い彼は悟ったらしい。「何でも屋」のわたしは請われれば誰とでも肌を重ね、またその相手を沢山手にかけてきたことに。
「代償を払う覚悟があるならいつでもどうぞ。ラスティ君のお望みに添った、あたしになってあげる」

 これはあくまで、わたしには暇つぶしの軽口に過ぎなかった。その後無言でわたしから離れ、控室を出ていった彼に、そこまでの執心があるとはとても思わなかった。
 けれどあたしはわかっていた。この時確かに、「あたし」は彼に出会ってしまった。

 ベッドとカーペットしかない薄茶色の仮眠室が、急に広く見えた。
 大きな紫苑色の目に映った黒い「わたし」は、いつまでも空ろに笑っていた。

❖4.

 自宅にあまり帰らない裁判官は、裁判所の私室によく泊まっていた。所内のあちこちに紫苑色の男が結界を張ったので安全、とは誰も知らないため、わたしも隣の部屋に夜は控えている。
 そんなわたしに、日中は仮眠しろ、と裁判官は度々休憩をくれる。所内の裁判官は心配ないので、その時間を上手く作って抜け出し、街外れの彼の家に、わたしはひっそり通うようになった。

 同居人に気付かれないよう、いつも窓をこんこん、と叩く。人形であるわたしに気配はほとんどないので、その音で彼もやっとわたしの来訪に気が付く。
 窓を開けると大体の場合、やつれた重い声のまま、工具だらけの部屋から彼が顔を出す。
「あんた、いつもタイミング悪くね……何でヒトが、絶不調の時に限って来るんだよ?」
 左肩を押えて言うので、痛みの発作が起こった後なのだろう。契約は「彼が呼んだ時になるべく訪ねる」なので、望んだのは君、とあたしは笑う。
「そりゃ、無職のラスティ君とは違うからね。ラストは、いやだった?」

 こちらの仕事はいつも、彼の呼び方を変えることから始まる。
 目をそらす彼の前で、鍵のかけられた部屋に窓から入る。開けたままの窓枠に靴を揃え、時間を節約するため裁判所で体は洗ってくるので、床でもベッドでも彼の気分で静かになだれ込む。

 裁判官が法廷で暴漢にナイフを投げられる、小さな襲撃があった日の夜、彼は「契約をしたい」と言い出してきた。裁判所の内の、人が少ない領域には念入りに結界を張っていたのに、公の法廷は様々な人が出入りするので、悩んでいた矢先の出来事だった。

――オレと契約をしてる間は、オレ以外の客は全て取っ払ってくれ。あんたの体に、オレ以外に傷をつけさせるな。

 可愛いものだ、とあたしは笑った。きっと彼は、裁判官が襲われたのは自分の手落ちだと凹み、ナイフが腕に刺さったわたしに動揺している。
 そして仕事で体を売るだけのわたしに、浮気をするな、と言っている。これは多分、自覚はないのだろうが。

――いいけど、それならラストもこれから、あたし以外とくっついちゃ駄目だよ? 代償はそれで許してあげるから、裏切ったら殺すけどいい?

 可哀相に。これで彼は、彼を慕う大切な猫ちゃんに手を出せなくなった。
 けれどそれは、彼も望むところであったようで、命がけの代償にあっさり了承してしまった。腕の傷に何度も口付ける彼の下で、今までの得意先との連絡をわたしは断つことになった。
 工房を兼ねる殺風景な白い部屋で、冷たい壁にもたれて彼が座る。呪いに(むしば)まれた体は病んでいるくせ、大事に包み込みようにわたしを懐に抱える。額を合わせて、唇を重ね、そこから進むかはその日の彼の体力による。
 代償が目に見える報酬ではないので、タダ喰いしてるみたい。とバツが悪そうによく言う。
「うん、そのまま酷い男でいてよ。下手したらロリコンの称号も追加されるよ」
 彼はこの体の主――「あたし」のことを、あまり多くは知らなかった。近付けばもっと、「あたし」の情報がわかるかとも思っていたが、双子の娘もフェンリルの主も、彼が関われたのは最後の短い半年だった。
 だから余計に未練が尽きないのだろう。最早何を見ることもなく、感じることのない双子の魂にも遠慮はない。全てはもう失われている、それを嫌と言うほどわかっている。

 わたしにはただの、慣れた仕事。あたしにはいつしか、ささやかで優しい時間になった。
「……ずっと……――」
 あたしの声は出せずに終わる。わたしは多分、契約を破れば彼も殺す。それとも殺して、と待ち構えているのが、血を望み続けるわたし。
 あたしとわたしの心の違いが、決定的になったその頃だった。わたしはいったい、どうしてそんなに、関わる相手を壊していくのか。あたしはわたしを守ってきただけ。それならわたしは何を望んで、人と関わる契約を結ぶのだろう。

 だんだんわたしが、あたしの思う方向には動かなくなり始めていた。とても良い待遇で仕事をくれた裁判官を、わたしはこれまでの契約の依頼者と同じように、契約を破るように仕向けて殺そうとした。
 けれど今回は彼がいたので、わたしの凶刃は辛うじて止められた。同時に裁判官が人事不省となったことで、契約は完全には破られなかった。一命を取り留めた裁判官は昏迷状態になり、元の聡明さに戻ることはなく、何故かつまらなくなってしまったわたしは、彼の呼び声を無視してその街を後にしたのだった。

~・~・~

 呼ばれたら「なるべく」訪ねるなので、紫苑色の男との契約はまだ続いていた。けれどわたしは、あたしも知らない思いをいつからか得ていた。
 向かったのは橘診療所だった。帰って来るな、と言われていたのに、わたしは黒い男の言葉を破って一度きりの帰郷をしていた。
「それで、何を訊きにきたんだ、おまえは。思ったよりも随分上手く、人間世界に溶け込んでそうだが」
「…………」
 屋内はあまり良くない、と黒い男は、診療所のある島国の変わった庭先でわたしを出迎えてきた。それはおそらく、橘診療所の内であれば、あたしがわたしを抑えて話しかねないからだ。
 ききたいことがあったのはわたしだ。何も考えていないような声で、わたしはそれを――ここで必ず、あたしに伝えておくためだけに、はっきり口にしたのだった。
「あたしを……この体を動かしているのは、『空』?」

 あたしは一瞬、わたしの声が聴き取れなかった。
 まるで何もなかったように、ひらひらと紅葉が散っていった。今が秋だと、どうでもいい季節のことを珍しく思い出した。
 けれどわたしは諦めずに、その声が「(うつろ)」にされてしまうに、片手を自分の胸に当てる。
「『フェンリル』はそもそも、『力』の獣。その灰でできたあたしは、既に誰かに使役される『力』。『空』にかえるな、とアナタは言った――けれど、あたしが何を思ったところで、ここに望みが残らないのは何故?」
 黒い男は何も言わない。否定しないことが答なのだ、とわたしはすぐにわかったようで、裏腹にあたしは何が起こっているのかわからず黒い男を見つめる。

 煙草を捨てた黒い男が、深い黒の目でまっすぐにわたしを見つめ、押し殺した悲しい声で言った。
「……いや。おまえの意志を、実際に奪っているのは『白夜(はくや)』で……おまえの体を保つための魔の衝動は、魔竜(fuchsia)と呼ばれる怨念の永い悲しみだ」
 わたしは黒い男を見つめ返す。あたしは全く知らなかった、『空』の介入を受け続ける体で。
「『白夜』はそろそろ、封印から醒める。その時『空』も解放される。その前におまえには、何か望みを持ってほしかった」
 それが男が、わたしを診療所から外に出した理由。混乱するあたしにも伝えるよう、男は順を追って話す。
「『空』は、魔竜と『白夜』に己の夢を分けた。おまえは今の時代で唯一、『空』の器になれる灰だ。『白夜』は『空』からおまえの記憶を奪える。『空』が起きればその体を奪われて、おまえが消える日はもう遠くない」

 一つ一つ、説明されていく現実が、それでもあたしにはまだ汲み取り切れなかった。「空」の「力」の一端であたしにこの把握能力があるなら、それを邪魔することも「空」にはできるのだろう。
 しかしそれならどうして、完全に阻害し切らないのか。少なくとも今はあたしに、黒い男は事情を話せている。あたしにその声が何とか届く、とわかって話しているのだ。
「俺はだから、おまえが消える未来を防ぐために――おまえを復元する時に、魔竜の血を加えたんだ」
「……?」
「魔竜の血が強まれば、おまえにこうして話せる日が来るのを待っていた。けれどそれは……おまえにはきっと、酷な人間生活だっただろう」
 ここでようやく、あたしにも事情が掴めていた。そういうことか、とわたしの代わりに歯を噛み締めた。
 とっくに「空」に介入されているわたしの心は、あたし単体では補い切れなかった。あたしの「力」は「空」から流れてくるものだから、「空」に都合のいい指示だけが、あたしからわたしに届く意志だった。
 けれど魔竜の血は違う。同じ「空」が源とはいえ、魔竜は「空」が捨てる悪い夢も見ているらしい。
 だから魔竜の血と共に、流血を求める衝動が強まるほどに、わたしの心は「空」から離れる時間が増えたのだ。

 だから後は、と、黒い男が撫でるように、わたしの頭にそっと手を置いた。
「魔竜でなく、本来のフェンリルとして、おまえを強められる者は一人だけいる」
 ずっと悲しそうな重い黒瞳は、「わたし」に消えるな、とだけ訴えていた。
「失くしてしまった光の花を取り返せ。それが最後の、おまえの仕事だ、桃花」
 そこまでが限界だったのか、黒い男の大事な助言を、全ては把握できなかった。
 ただ生かされるだけで、誰にも救われはしない空っぽの器。橘診療所の庭を出てから、否応なく薄れる意志に抗えないまま、「わたし」は一つだけ残った契約の街に帰ることにしたのだった。

❖5.

 失くしてしまった光の花。何のことだかさっぱり意味を汲めないままで、わたしは商業都市に帰って仕事に就いた。
 今度はそこの新任都市長の護衛だった。人間の街にはかなり無謀な、「病人と老人の安楽死」法案を提出した都市長は、大きな反発を覚悟し私財を投じた護衛団を作ったのだ。
 裁判官は昏迷したままだった。わたしが彼女を殺そうとしたことを、紫苑色の彼が黙っているので、特に何の問題もなくわたしは街に帰ることができた。

「やぁ、久しぶり。ラスティ君」
「何が、やぁ、だ。今まであんた、何処で何してやがったんだよ」
 久しぶりに叩いた窓の中で、拗ねたような彼がすぐに顔を出した。危険なヒト殺しが帰ってきたというのに、彼の警戒レベルは今までのまま、むしろ喜んでいる空気すらあった。
 無様だな、と自分で言うので、戦う「何でも道具屋」な彼の手腕を最大発揮できそうな、都市長の護衛に誘ってみたわたしだった。

 黒い男はずっとわたしに、消えるな、と訴えかけていたが。わたしは今も心を消され続け、どの道空っぽでしかない。
 その空ろの軽さが耐えられずに、わたしは流血を求めて仕事を探す。都市長の護衛も頃合いを見て、契約を破らせれば楽しくなる、と画策していた。
 紫苑色の男をわざわざ混じらせたのも、その方が戦う相手が増えそうだからだ。光の花なんて忘れ去っているわたしの裏で、あたしは為す術もなく過ごすしかない。何かに気付けるとすれば、「空」の系譜のあたしではなく、魔竜の血を持つわたししかいないのだから。

 夜を明けさせる残り火、青い手負いの獣を探す。あたしが自覚できる夢は、それだけだった。
 紫苑色の男は「青」にとても近い。どうしてかそんな気がして、彼に絡む時間が段々増えていった。
「……なぁ、あんた。今回の仕事が終わったら、その後はどーするんだ?」
「さぁ? 仕事はいつも、風任せだからねぇ」
 予定外の休養をもらえたある夜、久しぶりに彼の工房にゆっくり泊まった。その前に彼と夜の散歩をしたら、不思議な黒い猫に出会った。
 その時何故か、黒猫の姿を見た瞬間、突然わたしの頬に一筋の涙がつたっていた。
「って……あんたも、泣くんだな?」
「ねぇ。泣くんだねぇ?」

 わたしはその黒猫を、無様な姿、と言った。
 その瞬間、紫苑色の彼が隣にいたこともあり、あたしの方には電撃のように大きな答が駆け抜けていった。
「何だったんだ、アレ」
 彼は同じように黒猫を見て、一瞬、かつての想い人を浮かべた。白の全身に手足と耳だけが黒く、この体の主の「あたし」が駆っていた、「力」の猫のことを。
 だからあたしもその情報を汲めた。黒一色になった猫を、わたしは無様だ、と言った。それは、かつての白黒の猫を、わたしも刹那に思い出したからだ。
 わたしはすぐにそれを忘れた。けれどあたしはその後の彼のそばで、久しぶりに優しい腕の中で、記憶を確かに思い起こしていった。
 あの黒猫が今、現れた意味。「猫」という形をとった「力」。それは確か、この「わたし」も知っているはずのもの……。

 うとうとと、短い安らぎの寝物語で。あたしはわたしの代わりに、向かい合う彼の素肌に小さく尋ねていた。
「……ねぇ。『光の花』と言われたら、ラストは何を思い浮かべる?」
 ほとんど落ちかけている彼は、わたしを抱えながら真面目に考え、夢現のまま答えてくれた。
「……光の花、ねえ? オレなら……桜、かな……――」
「……――」
 桜。青い空の中に浮かぶ、数多の白と紅の光。
 黒い男があの時最後に、あたしをわざわざ「桃花」と呼んだのを思い出した。
「桜……それじゃ、桜と桃は、ラストにとってどんな関係?」
 ぇぇ……? ともう目をほぼ閉じてしまいながら、博識な彼は大事なことを教えてくれたのだった。
「桜も桃も、バラの仲間だろ……兄弟みたいな、もんじゃねぇの……――」
 そのまま眠ってしまった彼の、緩くて幼げな白い寝顔。わたしはしばらく、無表情に見つめていた。
 あたしにはまだ、確信はなかった。けれど彼は、桜という単語を口にした時、確かにある少女を同時に思い浮かべた。
 それは敏い彼の本能的な連想だろう。彼のそばにはずっと、花を思わせる名前を持った、桜色の髪の少女がいたのだから。

-Elixir-

 夢を見ていた。白黒の猫を駆るかつての「あたし」は、黒い狼の本質を持っていながら、猫型の「力」も扱っていた。
 とても強い化け物の女だった。己の内の、黒い狼だけでも守るために、彼女の白黒猫はそこで犠牲になった。

――アナタがみんなを選ばせてくれないなら……誰も選ばず、全員捨てるだけよ。

 そうして奈落の火の池に隠された黒い狼。黒い男はそれを見つけ、人の姿を与えるために灰の人形にした。
 消えてしまった白黒猫は、橘診療所に保護されていない。「力」の後釜は、この街の彼のそばで、灰色の猫を連れる白い服の少女。

「……こんにちは。あたしはあなたの、残りかす」

 紫苑色の男が大切に守ってきた少女。左肩の呪いに苦しむ彼は、自らの命がもう長くないと知って、追いかけてきた少女に振り向くことはしなかったのだ。
 わたしが都市長を契約違反で殺そうとした時、邪魔をした彼の弱味を握るために、わたしは屋根が吹き飛んだ彼の下宿で少女の「力」を奪った。
 結果、少女が連れる「力」の猫は、灰から黒へ。そして「わたし」を取り込み、巨大な黒い狼に変わった。

――フェンリルとして、おまえを強められる者は一人だけいる。

 桜色の髪の少女は、「あたし」を殺した悪魔が作った、「あたし」の後継者だった。だから「あたし」の白黒猫は、少女の下で灰色に眠り、その「力」が花開く時を待っていた。
 少女を殺して「力」を奪い、「わたし」は黒い狼に戻った。駆け付けた紫苑色の彼は少女を助けるために、残った命を使い切る覚悟で、ぼろぼろの二階で「わたし」に双極の鎌を向けた。
 そうしてわたしの望み通り、いつか「わたし」を葬ってもらうために、傍に置き続けた紫苑色の男との殺し合いが始まり……。

~・~・~

 「フェンリル」に成ったはずのわたしは、気付けば謎の暗闇に黒い幼女の姿でいた。
 何故かそこにいた、人間サイズの灰色の猫が、戸惑うあたしに話しかけてきた。
「良かった、やっと会えて嬉しい! ――桃花!」
「……え?」
 灰色の猫がそばに来ると、わたしの姿が水色のパーカーを着た尻尾髪の幼女に変わった。どうやらそれは、灰色猫が思う「桃花」のようで、この相手には「力」の姿を変える「力」があるのだとわかる。
「私は咲杳(さくら)。『あたし』がいなくなっちゃってから、あなたのことをずっと探してたの。サキには痛い思いをさせたけど、でも、あなたに会えて本当に良かった……!」
 わたしが先程殺したはずの、桜色の少女の名前。けれどその姿はうっすら灰色猫の向こうに浮かび、まるでわたしと灰色猫の逢瀬を見つめているようだった。

 時間がないの、と灰色猫が、座り込むあたしの膝に両手を乗せて視線を合わせた。
「私はこれからサキになって、タオ――暴走したフェンリルを止める。私の記憶はここで終わるから、いつかあなたが、サキになった私に今度は伝えてほしいの」
「……サキになった……あなた?」
「私、咲杳は桃花と一緒に、魔竜の娘として生まれるはずだった。サキは今、ヴァシュカ(灰色)からバステト(白黒)の力を引き出すために、自分の心を巻き戻してるの。サキより前の私は咲杳だった――でも、これからはもう、本当の意味では咲杳になれない」
 そしてもう、「あたし」にも戻れない、と悲しそうな声で灰色猫が告げた。
「私とあなた、二人が揃って生まれたのが『あたし』だった。ほんとはラスティに、もう一度会わせてあげたかったよ……ミストのことも、桃花のあなたも」

 だから、と灰色猫はまっすぐに言う。よくわからない言葉を受け取るだけで精一杯の、自分が誰かもわからないあたしに。
「サキは一人じゃない、戻って来て、って伝えて。これから先、桃花のあなたが世に戻るとすれば、サキが消えてしまいそうになる時だから」
「……一人じゃ、ない」
「桃花もそうだよ、忘れないで。私とあなたは、一緒にいたの。これからあなたも、自分を忘れてタオになるけど、ラスティが絶対、あなたを探してくれるはずだから――……」
 やがてそこで、灰色猫の姿は闇に融けていってしまった。このひとときが何だったのか、残ったあたしには何もわからないまま。
 ただ、以前に黒猫に会った時のように、涙だけが不意に零れ落ちていたのだった。

~・~・~

 闇から戻り、蘇生した桜色の少女の助力で、紫苑色の彼は巨大なフェンリルを打ち破った。
 少女に「力」を取り戻されたので、わたしも狼から人型に戻った。巨大化したはずなのに、服は破れず着たままだったので、フェンリルと「わたし」は入れ替わっていたとでも言うのだろう。
 わたしも彼も、桜色の少女も、全員倒れて動けないほど消耗していた。色々あって屋根が吹き飛んだ下宿は、誰が弁償するのだろう。

 それなのに呑気な彼は、無理やりわたしの方に這いずってくると、いつかのように上からわたしを覗き込んで言った。
「あんたさ……仕事を口実に、それだけ周囲に嫌がらせして。結局何がしたいんだよ」
 契約をしてはわざと破らせ、依頼人を殺していくわたしに(もっと)もなことを言う。

 わたしも真面目に考えていた。魔竜の衝動、と黒い男は言っていたが、わたしはそれを覚えていない。
「さあ……望むことを、為せと言われて……それでこうなったなら……これが望みなんじゃない?」 
 誰かを傷付けたい。何かが足りない。空ろが辛い……望みを探したい。
 そんな思いが、浮かんでは消された。「仕事」としてしか、一定の動き方を見出せなかったわたしに、彼はとても辛そうに紫苑の両目を歪めた。

 その後に続いた言葉が、あまりに滑稽だったせいだろう。
 ここでわたしは、ぽかんと真っ白になった。
「そんなに仕事がしたいなら、あんた……オレんところに、永久就職しろよ」
 時間が止まった。
 わたしは多分、一瞬だけは笑ったと思うが、その理由も全て消されていってしまう。

 その建物にいるのは、最早、わたし一人でしかなかった。
 あたしは遠い暗闇に離され、わたしの見るものが辛うじて届くだけ。「桃花」に変えられたあたしの情報が、幼い姿から怒涛のように流れ込んでいて、わたしのことも薄れていくさなかにあった。

 わたしはいつも、あたしの「空」の夢から行動を決めた。だからあたしが暗闇に囚われ、指示が届かなくなれば、「何でも屋」は成立しなくなってしまう。
「……ありがと、ラスト」
 もう依頼にはこたえられない。彼が本当に望む「あたし」は戻らず、きっと何度繰り返しても失くす。
 夜の後には必ず朝がきて、「あたし」は「わたし」の影になるだけ。いつか「空」になるのを待つ灰の器。
 空は全てを呑み込む冷たい光。空が混沌の黒をも夜に換えるから、闇は輪郭(カタチ)を持つのだから。
「その願いは、あたしには叶えられない」

 それから先は、桜色の少女が残した、無意識の慈悲がわたしを包んだ。
 「あたし」を継いだ桜色の少女は、「わたし」を自身の「力」とできる。その在り方の帰結。
「……って、そんなのアリか、オイ!」
 フェンリルという「力」の灰で作られた体が、「力」そのものに戻っていった。きっとこれからは白黒猫と共に、桜色の少女の「力」になっていくように。
「オレとの契約、残ってるだろ、SKY……!」
 そして最後に、消えゆくわたしに彼は尋ねた。
 ……あんた、誰なんだ、と。

 暗闇の中、彼の必死なその声だけは、最後にあたしに届いていた。
「あたしは……あなたの…………」
 何を言おうとしたのか、自分でわからなくなった。
 先程までは、薄いパーカーを着る自分と暗闇の区別がついていたのに、姿も黒闇の一部になってしまった。
 黒いケモノ。そんな言葉しか浮かばなかった。
 紫苑色の彼のことは覚えているのに。彼が自分を何と呼んだか、もう何一つも思い出せない。

 その時確かに「あたし」は終わりを迎え、新たな水沼の黒い光が産声をあげた
 タオ・フェンリル。混沌の「桃花水(とうかすい)」から生じる黒いケモノ。空の光を秘める黒いケモノは、魔性の(あか)い花を水底に咲かせる。
 ここには「魔竜が守りたいもの」があり、そのため「わたし」は魔竜の血を分けられていた。
 長く魔竜と共に在り続けてきた「桃花水」は、分かたれた「空」と魔竜の悲しみをよく知っている。だからこの「桃花水」の管理に、わたしは疑問を持たなかった。
 ……今更、自身(あたし)の「望み」を持ってしまうまでは。

「もう一度、会う……ラスティが探して……サキに伝える……――」
 忘れたくない。忘れてはいけない心を、灰色猫がくれた。
 一人じゃない、と言われた。この「桃花水」に沈む何かも、今灰色猫を「力」とする「私」も、きっといつか助けがいるのだ。
 魔竜の悲しみは、「家族を奪われた傷」。空ろな紅花(fuchsia)が、人との関わりを求めた心。それがこの闇に在る限り、黒いケモノは「家族への望み」を見失うことはない。

 自分がどんな「形」になっていくか、今は何もわからなかった。
 冷たく黒い水底の闇で、ただ、いつかの温かさを想った。
「……ずっと……一緒に――」
 安寧を求めていたはずのケモノは、しばしの眠りにつく。
 いつか、空っぽでなくなる日を待つために。


千族化け物譚C1終夜 了

-空夢-

ここまでご覧下さりありがとうございました。
最長編Cry/シリーズのC1『千族化け物譚』ですが、ノベラボに一応全編を載せる予定であるため、ここ星空文庫には補完話の本作を書下ろしで置くことにしました。
C1は上篇だけ同時公開していますが、本作はC1下篇を見ないとわからない内容が多く、下篇は暗めなので星空文庫では公開を悩んでいます。

シリーズネタバレが詰まった本作ですが、話自体は後日談『Elixir』の補記で、C1本篇も本作も一応単独で読める仕様です。また星空文庫中別作『青炎』-青の霧氷-章の狼少女が桃花、烙人がラスティにあたります。本作の後日がもしも気になれば『青炎』をご覧下さい。
→『青炎』https://slib.net/117044 ※本作の本筋『ELIXIR』は11月にノベラボでUP予定です
初稿:2023.8.15

-空夢-

その時確かに、「あたし」は終わりを迎えた。消えたはずの黒狼である彼女は、出会う人々の命を奪う「契約」を繰り返していたが、やがて死を呼ぶ呪いを負う青年に再会する。特殊感覚を持つ化け物の異世界ファンタジー❖Cry/Aシリーズ補記・星空文庫限定作 ※単独で読めますがC1結末ネタバレ&『青炎』関連作 ※一部過激表現注意

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-08-15

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. -空夢- Within "Elixir".
  2. 千族化け物譚❖終夜
  3. ❖1.
  4. ❖2.
  5. ❖3.
  6. ❖4.
  7. ❖5.
  8. -Elixir-