白と赤



高校二年生の夏の盛りに、僕は愛する人の子を授かった。これは神様が僕に授けて下さった奇跡だ。僕は長い間、好きな人のことを一途に思い続けることで、自分が男性であるにも関わらず、愛する人との子をこの身に授かることができた。僕が身籠った理由は、もちろん肉体的な性行為によるものではない。僕は彼とそのような類の行為をしたこともなければ、手の平を固く結び合ったことすらもないのだから。
僕は彼のことをみっちゃんと呼んでいる。彼とは中学生の頃から交友関係を持ち、その愛の糸は少しも痩せることなく、現在も保ち続いているのだ。 
彼とはずっと親密な関係であったが、自分が彼に恋をしていることに初めて気付いたのは、今年の夏の長期休みのことだった。逆に言えばそれまでの間、僕は彼に対する自らの恋心に気が付かなかった。
僕は今でもあの夏の日の出来事を覚えている。それは長期休み中、僕がみっちゃんの家で、初めて罪を犯した日のことだった。
確かあの日は、長かった休みの連日に終わりが見えてきた頃で、僕は数多くの宿題が入ったリュックサックに肩を揉まれて、彼の家に遊びに行った。
僕は今までに何度も彼の家を訪れたことがある。これは親友の特権とでも呼ぶべきものだろうか。僕は例え今、誰かに白紙を用意されたとしても、彼の住む部屋の空間を悠々と描いてみせることができるだろう。
彼の部屋の一面には、幾何学模様の浮かび上がった白い壁紙が貼られている。その空間は決して広いとは言えないが、それでも部屋の奥隅にはクローゼットがあって、その隣には勉強机が置かれていて、それと向き合うように反対側の壁に沿ってベッドが置かれている。勉強机とベッドとの間には、開かれたノートが二つ置けるほどの座卓がある。そしてその座卓とベッドから目を向けられるように、部屋の入口付近にはテレビ台が置かれている。
僕はみっちゃんの住む部屋の描写なら、きっと誰にも劣らないほど鮮明に完成させるだろう。そして誰かがその絵の中に人物を書けと言うならば、僕はあっという間にみっちゃんの全体像を描くこともできる。彼は背が高くて、全体的に体格が大きい。しかし決して太っているわけではない。彼は肩幅が広くて筋肉質であるので、傍から見れば自然と大きく見えるのだ。彼の髪は男気のある体格とは異なって長く伸びているが、その両眉毛に少し触れる髪からは、不潔感が全く漂ってこない。むしろ伸びた髪によって、彼は清潔的にも見えるほどだ。そして彼の顔立ちを説明するならば、まず一番に印象的なのは、目尻が吊り上がっている両目だろう。そこだけを見るならば、彼は相当に気が強そうに見える。おまけに目の色彩は茶褐色で鼻が高いので、少しだけ日本人離れをしているのかもしれない。もちろん、彼は生粋の日本人だ。
 みっちゃんは容貌こそはシャープな印象だ。しかし彼には内に隠された愛嬌があって、例えば彼が夢中になって喋っているときなど、その愛らしさが突如、僕の体感を刺激する。その愛嬌は、彼の持つ無限の優しさを含めているのだ。あの触れると冷たそうな鋭い面相とは裏腹に、花を喜ばせる太陽の健康的な光のような、穏やかさを彼は心に持っている。
 僕はあの日、昼食を自宅で済ませてから彼の家に向かった。そして例の大きくはない座卓に、無理やりにも僕達二人の教科書とノートを広げて、黙々と宿題をしていた。
 僕達が共に遊ぶときはいつでも二人だった。しかしこの日までは、僕が彼と二人でいるからと言って、恋心を暖炉で燃える薪のように轟轟と煮やしたことは一度もなかったし、自分がまさか彼に恋をしていると考えたこともなかった。
 僕が彼の匂いのする空間の中で、黙々と勉強を始めてから、いいたい何時間が経過した頃だろうか。僕の人生を大きく変えてしまう事件が起こった。彼は昨夜も徹夜で宿題をしていたらしくて、どうやら体調が良くなかったらしい。そのことは彼の目元を見れば、自分もすぐに気が付いた。普段は日に焼けた古紙のように健康的な色をした瞼が、まるで黴にでも侵されたかのように黒くなっていたからだ。要するに彼は寝不足だった。
 みっちゃんは「少しだけ横になるね。」と言って、ベッドの上に横たわり、十秒もしない内に眠り込んでしまった。
 僕は彼が友達思いなのを知っていたから、自分の前で眠る彼を、礼儀知らずの奴だとは微塵とも思わなかった。そもそも人間には抗うことのできない魔物がいることを、僕だって人間だから承知している。僕はそのまま宿題を続けて、彼が目を覚ますまで、ゆっくりと待ち続けることに決めた。
 しばらくの間、僕は粗い字をノートに書き連ねた。一時間ほどは一人で勉強を続けていたと思う。でも時が一時間も経過してしまえば、僕の幼子とほぼ変わらないはずの集中力が切れてしまって、僕は電池を失ったモーターのように、手を動かすことを中断してしまった。
 宿題を放り出してしまった僕は、だからと言ってすることがあるわけでもなく、まるで重い銅像のように固まってしまった。そして僕は何もすることがないものだから、彼の部屋をうろうろと歩き回った。やはり集中力が切れてしまったときは、足を動かすことが一番に決まっている。僕は彼の広くはない部屋を、何周も何周も歩き回った。すると当たり前だが僕の視界には、仰向けになるみっちゃんの寝顔が映り込む。僕はその寝顔を何度も見ている内に、遂に足を動かすことも放棄してしまって、彼の横たわっているベッドの前に立ち尽くした。僕はその際に、彼の無防備な全身を眺めながら、今までには思いついたこともない衝動的な欲求に駆られてしまった。僕は彼の唇に接吻をしたいと思ったのだ。
 どれほどに回想を繰り返そうが、どうして自分がそれを思い到ったのかが分からない。
僕は今までに授業中以外で、彼の寝顔を見たことはなかった。そして二人きりの空間で、彼の気持ち良さげに眠る表情を見て、接吻をしたいという欲望が、まるで魔物のように初めて現れてきたのだ。
 僕は自分を操る強大な力に抗えず、彼が深く眠っていることを、顔を近づけてよくよくと確認した。そのときの彼は、確かに深い睡眠に落ちていた。僕は彼の片頬を軽く叩いてみたけれど、彼は一向に起きる様子をみせなかった。それを確認した僕は、とうとう自分の唇で、彼の唇に触れてしまったのだ……
 僕に初めての幸福を与えてくれたあの感触を、自分は未だに忘れられない。僕は今でも鮮明に覚えている。あのときの僕の心は、確かに愛を感じていた。自分の胸奥は火が燃えるように熱くて、このままでは胸が火傷をするように感じられた。だからと言ってその炎から遠ざかれば、身の凍えに襲われるような気がした。恋の蝋燭は人の感情を複雑にする。
 僕のみっちゃんに対する態度が、あの日を境に変わってしまった。かつて親友に対して抱き続けてきた友情は、あの夏の日の事をきっかけにして、暖炉に投げ込まれたように姿を消してしまったのだ。そして現在の僕が彼に対して抱いている感情は、燃え尽きることを知らない恋心なのだ。僕はあの衝動的な接吻をすることで、自分が彼に熱烈な恋をしていることに初めて気付いた。

 僕は一月程前から体調を崩している。今日が十一月の六日であるので、僕は約一カ月間、謎の体調不良に苦しめられていることになる。
 僕はこの体調不良のことを、初めは風邪だと思っていた。けれどもこの健康の欠如は、日が増す度に悪化していった。 
僕を苦しめる未知の病は、色々な症状として現れて、自分の気分を大いに苦しませた。初めそれらは、頭痛、全身の倦怠感というもので、僕も余り苦にはならなかった。いや、苦にならなかったと言えば嘘になるだろう。言い方を改めよう。かつての苦は、今ほどの苦ではなかった。急な頭痛に襲われるようになって、何日が経過した頃だろう。僕は突発的な吐き気に襲われるようになった。その吐き気と言うものが、僕には到底、我慢のできないものだった。そもそも吐き気ほど人を不愉快にさせるものはないだろう。嘔吐を我慢している瞬間ほど、自らの気分を苦しませる瞬間を僕は知らない。
 急に自分を襲う吐き気も、最初の頃はまだ良かった。これもまだ間もない内は、少し気持ち悪いような気がする。と言った、吐き気の予感のようなものだった。しかしそれから一ケ月も経った今となれば、ただただ嘔吐を我慢せざるを得ない、不愉快極まりない吐き気となっている。しかも吐き気は突如やってくる。もしそれが授業中にでもやってくるのならば、僕は胸の内を嘔吐に対する配慮に乱れさせて、ひたすらに吐くのを我慢しなければならない。これほどにも自分の気分を苦しめるものが、果たしてこの世に存在するだろうか。
 僕はここ一週間で、食欲すらも落としてしまった。どうしてか僕の嗅覚が、以前よりも鋭敏になってしまったからだ。今の自分の嗅覚は、きっと犬よりも敏感に違いない。食事時になれば、いつもそれを思い知らされる。食べ物を口に入れたときなど、今までには感じたことのないような刺激的な臭いが、僕の気分を非常に悪くしてしまうようになった。そのような事例は、白飯を喰うときには必ず現れる。自分は今までに白飯の臭いを意識したことはなかったし、それが僕を不快にさせることもまずなかった。しかしここ数日は違う。今日の僕は白飯の臭いを手に取って感じることができるし、驚くことにその臭いの感じ方が、毎日の白飯によって違うのだ。これには僕も驚いた。まるで自分が天才的な絶対音感者にでもなったようだ。きっと僕の嗅覚に起こったことが聴覚にも起これば、自分は蚊の飛ぶ音を聞いても、その音程をはっきりと言い当てることができるようになるだろう。
 白飯を喰う度に気分を悪くするようになって、僕は食事をすることも億劫になってしまった。当たり前だが顔面はやつれて、体重も少しだが落ちた。そして二日前からこの体調不良が激しく、僕は週初めの登校日となる月曜日の学校を欠席してしまった。
 どうして僕はもっと早くに、あれがツワリだと気が付かなかったのだろう。今から思い返してみれば、あれらの症状はツワリ以外の何ものでもないではないか。逆にどうして僕が、今までの症状をツワリによるものだと断定できるのか。それは先ほどに見た昼寝中の夢で、神様が僕にそのことを教えて下さったからだ。
 学校を欠席した僕は、一日中を寝床の上で過ごしていた。起きたり眠ったりを、ただひたすらと繰り返していた。僕は寝床で過ごす一日中に、時刻の確認をする必要もなかったので、自分が天から授かった甘美な夢を、何時頃に見たのかさえも覚えていない。ただ自分が覚えていることは、天から届いた神の御言葉だけだ。
 
 僕が見た夢の始まりは病院の個室だった。しかしその部屋内には、あの病院独特の胡散臭さが漂っていなかった。そこには入院患者が共有するはずの殺風景さが少しもなかったのだ。そして僕が白い壁の次に部屋から見出だしたのは、幸福であることを僕に伝えるかのように、最高の笑顔で僕を見つめるみっちゃんの表情だった。
 最高の笑顔で喜びを表現する彼を見ていると、彼が何かを両手で抱え込んでいることに気が付いた。そしてそれを確認したとき、僕は心の中で何と驚いたことだろう!彼が両手で抱いていたのは、信じ難いことに僕達の赤ん坊だったのだ!
愛し合う者同士に生まれた赤ちゃんは、真っ白なブランケットに包まれていた。生まれたての赤子をおそらく見たことのない僕は、余りにも脆弱で、だが心の底から愛しいと思える存在と初めて相対していた。小さな子どもは髪も眉毛も薄くて、睫毛に関しては一本も生えていなかった。浮き上がっている目元は、きっとこれから多用する涙を、たっぷりと蓄えているのだろう。その柔らかな見た目は、女性の白い胸の膨らみにも似ていた。
我が子の顔全体は、その真っ赤な唇と同様に赤かった。そして驚くことに、鼻の先、両頬、両耳の端は、それらに比べてもまだ赤い。微妙に隙間の生じている瞼は、まだ瞼を完全に持ち上げることのできない赤ん坊の、薄弱な力が開けているのだろうか。僕は目前の赤ん坊を眺めることで、神秘的なベールで包まれている非現実的なものと、自らが向かい合っているような夢心地を抱いた。しかしそのような感覚はすぐに忘れてしまった。それも仕方がないだろう。愛する人の示す笑顔が、自分にとってどれほどに眩しいこと!彼は満面の笑みで、自らの子をずっと見つめていた。そして彼を見た僕は、自分と我が子にこの太陽が向く内は、いつまでも希望を持ち続け、生きていくことができるだろう。と確信したのだ。
みっちゃんは僕に赤子を覗かせて、「皆で幸せになろう。」と言ってくれた。僕はその言葉を聞いて、赤ちゃんを驚かせないためにも、静かに感動の涙を落した。僕達は三人で、強大な幸福の下で生きていけるのだ!
僕は「絶対に幸せになろうね。」と涙を笑顔に滑らせて言った。するとその瞬く間にどこからか、今までに聞いたことのない神々しい声が聞こえてきた。僕がそれをどうして神々しいなどと表現するのか。いや、それはあの声を聞いた者でしか共感できないだろう。何せ神々しいと表現する他、言葉の連ね方が思い浮かばないのだ。あれは天からの声に違いない。あれは神様が僕に口を開いて下さった、絶対的な事実に違いないのだ。
神様は僕にこう告げた。
「人間は好きな人を好きでいるべきだ。君が彼を強く愛する故に、私は君に奇跡を授けよう。」
神様がその御言葉を僕に預けて下さったと同時に、僕の視界は黄金の光に包まれた。そして「僕には希望がある!」と自らの魂が自然と叫んだ。今思えばあの瞬間だけが、客観的であったように思える。もっと言えばあの瞬間以外の僕は、夢の中であるにも関わらずに自由な意志を持っていたのだ。ただあの瞬間だけ、僕は主体性を失って、何者かに手繰られているような不思議さを感じていた。
天からの授け物である夢は、僕の力強い叫びで終わった。僕は神様の憐れみによって、男性の妊娠という奇跡を現実にしたのだ。
当たり前のことだが、僕は男性が妊娠をしたという事実を、今までに一度だって耳にしたことがない。ならどうして、自分だけが妊娠をしたのか。まず誰もがこの異例な現実を受け入れてはくれないだろう。しかし僕はこう考えるべきだと思っている。愛の特別さだけが、人類の慣わしを破壊することで、異例と人から呼ばれる奇跡を実現することができる……僕が言いたいことは、僕のみっちゃんに対する愛情は、特別なものであったということだ。
初めて唇の柔らかさを知ったあの日から、僕はずっと恋をしてきた。僕は彼に恋する自分の気持ちを知ってから、いつでも彼のことを考えるようになった。そして僕は妊娠した。彼に恋をし続けた結果、愛する人の子を自らの腹の中に授かったのだ!
 これは神様が与えて下さった、僕の人生で最大の贈り物だ。神様は僕のみっちゃんに対する愛の誠実さを認めて下さった。だからこそ神様は、僕に奇跡を与えて下さったに違いない。そして間違いなく、奇跡のきっかけを作ったのはこの僕自身だ。僕以外に誰がいようか。愛する人のことをずっと一途に思ってきたからこそ、僕は妊娠という賜りものを、神様から頂くことができたのだ。彼のことが好きになって本当に良かった! 


 十一月七日……今日は僕にとって忘れられない記念日となるだろう。僕は今日、自分が妊娠したことをみっちゃんに告白する。彼は未来に生まれてくる赤ちゃんの報告を耳にして、喜びに満ちた表情を僕に見せるに違いない。僕は彼が喜びに狂う様子を想像しただけでも、陰気な微笑みを心から溢れさせてしまう。
 僕は毎日、みっちゃんと二人で通学している。我が家から学校までの距離は、だいたい六キロくらいだろうか。僕は自転車で学校まで通っているが、到着までに用いる時間は二十分ほどだ。
僕の住む我が家とみっちゃんの住まいとでは、だいたいで二キロほどの距離がある。彼の住む家の方が学校から離れている。そのために彼は、僕よりも少しだけ時間を多く費やして、登校をすることになる。
僕は毎日決まって八時前に家を出る。すると僕が家を出るのと同時に、みっちゃんが僕の家の前で自転車を止める。この習慣は僕達の高校生活において、今までに変わったことがない。この習慣は友情の証でもあるのだ。
今日もみっちゃんと一緒に通学した。でも今日の通学の時間だけは、いつもとは違ったように感じられて、今までには経験したことのない新鮮さを感じた。これは言うまでもなくて僕の精神的状態が、日頃に比べて特別であったからだろう。
僕は愛する人の子を、自らの身に授かった。だからこそ通学時に彼が話す一言一言が、まるで自分の未来にでも関係のあるような、すごく親しいものに感じられたのだ。今や僕達は二人で家庭を築いていく関係にある。僕と彼、自分のお腹で眠る赤ちゃん……自分の横に並んで自転車を漕ぐ彼が、僕自身ではなくて僕自身であるような、今までには見覚えのない感覚が、自分の胸の中をくすぐっていた。それはきっと、自分の子を育む愛し愛される者同士だけが、知ることのできる心持ちなのだろう。
 僕にとっての大きな問題は、自分が妊娠をしたことを、彼にどのタイミングで言うべきか、ということだった。それで僕はずっと昨夜に考えていたのだが、学校を終えてから彼に報告することに決めた。何故ならいくら僕を愛してくれている彼であっても、自分に子どもができたことを知れば、大きく動揺をするに決まっているからだ。まず同性同士に子どもができることは異端であるし、かつてそのようなことを僕だって聞いたことがない。男同士で子を誕生させることが、生物学的に不可能なことくらい自分も知っている。それでも彼ならば、僕の言うことを真剣に聞いてくれるはずだ。いずれ生れ出る子どもは、神様による絶対的な力によって、僕達二人の下にやってきたことを彼は信じてくれるだろう。彼は僕のことを愛してくれている。それは神様が実現して下さった奇跡によって確信ができる。もし僕達二人が心の底から愛し合っていなければ、神様が僕の身に赤ちゃんを授けて下さることはありえない。それは余りにも当然のことではないか。僕達二人の愛情が、神様の実現された奇跡よりも、間違いなく先立っている。言わば僕達二人の精神は、お互いの意識を超越して、体感もそれを認識することなく、気付かぬ間に混ざり合っていたのだ。その精神における事実が存在していたからこそ、神様は僕達に奇跡を起こして下さった。神様だって互いに愛し合わない不完全な愛に、完全な愛の形を与えることはできないはずだ。僕達の精神が互いを愛し合うことで、二度と外れないほどに固く結び合ったからこそ、神様がその完全な愛の形を認めて下さったのだ。
 僕はみっちゃんに対して、絶対的な信頼をしている。だからこそ、我が身の妊娠を報告することに、少しの不安も持ちはしない。そしてその場面を想像してみると、彼の泣いて喜ぶ姿が何と愛おしいこと!僕は彼の幸福だけを待ち望んでいる!
 今日一日の授業が全て終わる瞬間を、僕は一日千秋の思いで待ち続けた。それにしても放課後が訪れるまでの時間が、今日の僕にとってはどれほどに長かったことか!唯一、それに反して早く動くものと言えば、幸福の期待に激情する心臓の鼓動くらいだっただろう。
 一日に課せられた学業を全て終えると、僕は我が家にみっちゃんを招待した。自宅でならばどんな内容の話をしたって、誰かに聞かれる心配もない。
 僕達は自転車に跨って校門を出ると、寄り道をすることなく目的の場所に向った。僕はいつもよりも熱心に自転車を漕いでいたのか、あっという間に我が家に着いた。   
我が家には相当の年季がある。それは外見からも一目瞭然だろう。家を形作る木造の色は、まるで煙草の脂でも染み込ませたかのようだ。この家は相当に古くから残っているものらしい。変わり者の父が母と結婚した際に、この家に引っ越すことに決めたそうだ。しかし家を購入したのは父ではなくて、僕の祖母だったらしい。それも父方ではなくて母方のだ。どうやら僕の父は、自分の財布にすらも金が入っていないときに結婚を決めたらしくて、住まいを買う金を持っているはずがなかったそうだ。それでも父は僕の母と籍を入れた後、将来に生まれてくる多くの子ども達のためにも、狭いアパートの室内から一軒家に移りたいと、祖母に強く駄々をこねたとか。祖母も金銭上にゆとりがなかったため、この脂が染み込んだかのような、古臭い家を選ぶことしかできなかったらしい。祖母の財産には迷惑な話だ。なんせ一軒家が欲しいという駄々を貫き通した当本人が、もうこの家にはいないのだから。
 話は戻って、僕の自室は二階にある。玄関先にある階段を上って、すぐ右側にあるのが僕の自室だ。やはり脂色の戸を引けば、そこには僕の部屋と呼ばれる空間がある。そしてその空間は非常に狭い。僕の部屋の奥には勉強机があるが、本来ならその手前には椅子があるはずだろう。しかし僕の部屋には椅子がない。ならどうして椅子がないのか。それは部屋を一目すれば明瞭で、椅子を置いてしまえば、就寝に用いるベッドが置けなくなるからだ。そのために僕は、ベッドを就寝器具としてだけではなくて、椅子としても使用している。自室の狭い空間の半分以上は、これら二つのものに占領されていて、あとは勉強机の隣に、六段仕様の本棚が一つ置かれているだけだ。
 自室は本当に窮屈だ。そもそもどうして、狭い室内にわざわざベッドを置こうと思ったのか。他の部屋で寝ればいいだろうに……と何度も友人に言われたことがある。僕だって幼い頃は母と二人、就寝用の部屋で寝ていた。その部屋は、自室にある勉強机の向かい側にあって、そこには箪笥と母の使っているベッド以外には何も置かれていない。僕も元々はその場で、母と二人で就寝していた。でも僕が中学生のとき、思春期のせいであるのか、母に許可をもらうよりも早く、僕は自分のベッドをこの狭い自室に運び込んだ。おかげで現在の自室は、息をするのさえ窮屈に感じるわけだが、僕はこの現状を解決したいとも思っていない。
 僕は今に述べた狭苦しい部屋にみっちゃんを招待した。僕が普段この部屋に彼を呼ぶことはまずない。だから彼がこの部屋を見渡すのは、もう数年ぶりに違いなかった。この部屋には腰を落ち着かせるところが、僕のベッド以外には存在しない。僕がこの部屋に友達を呼ばない理由は明らかだろう。友人がこの部屋に連れてこられたとして、どうしてその人が退屈の罰を受けなくてはいけないのか。それでもこれからは、僕は頻繁に彼をここに連れてくるだろう。愛し合う二人には、ベッドが一つあれば充分であるから。例え僕等二人がこの部屋に監禁されたって、愛し合う者同士の心が、ベッドの上で退屈を感じるわけがない。
 僕がまず自室に入って、みっちゃんが僕の後ろから続いた。僕は帰宅した際にはいつだって、自室に一度入ってしまえば、制服から着替えもせずに机の前に座る。つまり僕は潔癖症ではないわけだ。
僕は自らがベッドに腰を下ろすと、みっちゃんにも座るように言った。そして彼の筋肉質で硬い体をベッドが吸い込んだとき、僕の脆弱な体までもが少し揺れた気がした。
 彼は僕の左隣、つまりは本棚の正面に座っている。そして彼は目の前に並ぶ、数多くのの本からなる隊列を、まるで教科書に載るおもしろくもない小説を読むときのように見ていた。
「難しそうな本ばかりだね。著者名は皆、カタカナだし。」
「僕は日本の小説は全く読まないから。最近はフランスの恋愛小説ばかりを読んでいるよ。」
 彼は「ふーん」とだけ言って、興味のない本の背をしばらく見ていた。そのためか、彼はいつもよりも険しい目付きになっている。  
そして彼は急に僕の方に視点を移して、「大事な話があるって言ったよね?大事な話っていったい何なの?」と尋ねた。
 とうとうこのときがやってきた。僕は喜びに狂い踊る彼の姿を想像しながら、その閃く空想の中で、今から自分が言うべき言葉を整理する。そして高鳴る心臓の鼓動に劣らない
激しさで、彼に言葉を投げ掛けた。
「みっちゃん!今から僕が言うことを真面目に聞いて欲しい。」
「うん。分かった。」
「僕はみっちゃんの子を妊娠したの。」
「え?何だって?」
「だから僕は、みっちゃんの子を妊娠したんだ。」
 彼は僕の話を聞いて、まるで凶器でも持った男を目前にしているような、突然の恐怖に驚愕する表情を僕に見せた。
「おい、優。君は何を言っているんだ?それは冗談にしても気色悪いよ。そんな吐き気のする冗談はやめてくれ。親しき仲にも礼儀ありって言うだろうが。」
「冗談だって?冗談なんかじゃないよ。僕達の愛し合う心を神様が認めて下さって、神様が僕達二人に赤ちゃんを与えて下さったんだよ!実に嬉しいことだろう?もう一度言うね。神様が僕達に赤ちゃんを与えて下さったんだ!要するにね、僕達はもう家族なんだよ!僕達の抱き続けた大きな愛情が、僕の妊娠という奇跡を実現させたのさ!」
 僕は胸を満たしていた思いを彼にぶちまけた。そして僕は彼の頑丈で頼りがいのありそうな手の平を、僕のみすぼらしくて脆弱な手の平で握った。
「僕はみっちゃんの子を妊娠したんだ!」
 僕が全身を至福の感情に浸らしていたためか、自分の両目からは多くの水滴が溢れ出てきた。そして涙に霞んで見える彼の表情を確認したとき、自分のこれまでの期待が、余りにも残酷に裏切られたことを知った。彼が僕に示している態度は、僕の流している涙よりも冷ややかだった!
「お前、すごく気持ち悪いよ。」
 僕は彼の辛辣な言葉を聞いて、夢でも見ているような気になった。
「ごめん。お前とは絶交だ。もう一緒にはいられない。吐き気がするほどに気持ち悪いよ。これからは一生、俺に関わらないで欲しい。」
 彼はそれだけを言ってしまうと、僕の側から離れていった。
 僕は憔悴した。たった一瞬の内に、僕はかつての幸福感の全てを失おうとしている。もはや僕の頬を伝っていた嬉し涙は、この瞬間には絶望の涙に変わって頬を滑り落ちていた。
「行かないで!行かないでよ、みっちゃん!」
 僕は大きな声で叫ぶと、彼の肩を捕えようと立ち上がった。だがそれにも関わらず、僕が彼に触れようとした瞬間、彼が言葉の暴力で僕を懲らしめてしまったのだ。
「俺に触れるな!気色悪いから、二度と俺に構わないでくれ!絶交だ!」
 僕は彼の言葉に頬を打たれたかのような痛みを感じて、その場に崩れ落ちてしまった。そして胸奥の痛みに耐えかねて、僕は子どものように泣きじゃくった。
 みっちゃんは僕の視界から消えた。彼が部屋を出て行った後、僕が声を上げて泣いていると、下の階からは、玄関の戸が開かれる音が響いてきた。その直後には、玄関前の門が押し開かれる音が、自室の奥にある窓から伝わってきて、僕の鼓膜を振動させた。彼は僕を放って、この家から出て行ってしまったのだ。
 僕は絶望に暮れた。あれからというもの、自分は携帯電を用いて彼に何度も連絡を取ろうとしたが、やはり何度試みても無駄だった。そして彼の家に直接行ってみるとも考えた。でもそれだけはできなかった。何故なら彼が僕に示した猛威的な態度が、自らの記憶に精神的外傷として、鮮明に刻み込まれていたからだ。
 僕は溢れ出る涙を止めることができないまま、絶望に体を任せてベッドに倒れ込んだ。自分は愛する人に裏切られてしまったのだ。自分の瞳孔には今でも、みっちゃんが僕に示してみせた、あの強烈的な嫌悪感がはっきりと映っている。僕は彼に嫌われてしまったのだろうか?彼は絶交の言葉を、僕を幸福から切り離す尖った言の葉を、何の躊躇もなく言い放った。でも、どうしてだろうか?僕が彼に何をしたというのか?僕はただ、彼にありのままの真実を告げただけであるのに……彼はどうして、僕を放って家から出て行ってしまったのか。僕達の血の繋がらない他人同士の関係を、家族の名で抱擁してくれる愛しき赤子が、僕のお腹に宿っているというのに!
 彼は僕の告げた妊娠の報告を聞いて、全く嬉しくなかったのだろうか?僕が彼の子を授かったことに関して、彼が嬉しさを感じていないことはありえないはずではないか?そもそも彼が僕を愛してくれていたはずだからこそ、僕達の魂は内的な性交を共にすることができた。そのおかげで僕は妊娠したはずだ。もし彼が僕のことを全く愛していなかったとするならば、この子はいったい僕が誰との間に授かった子であるのか。僕はこの世界でただ一人、彼のことだけを一途に愛してきた。そして彼にもその気持ちが存在することを、僕はこれまで信じてきた。しかし現実は違った。彼は「絶交する」と僕に言ったのだ。
 僕はベッドに倒れ込んで、何時間も泣き続けた。すると僕は自分の顔面が、氷のように冷たくなっていることを感じた。僕の顔中全体が、目と鼻から出る体液に塗れていたのだ。
 自分は明日からどうなるのだろう。僕が明日学校に登校すれば、みっちゃんはいつもと変わらず僕に優しく接してくれるだろうか。もし彼の口にした「絶交」の言霊が、僕の信じた未来の幸福をぶち壊すようなことがあれば、まだ目にすることのできない僕の赤ちゃんを、自分はこれからどのように守っていけばいいのだろうか。もし明日からみっちゃんが僕を除け者にするならば、神様の奇跡で身籠った天使の子は、生まれる前から片親を失うことになる。そうなれば、子どもは一生を不幸に過ごすだろう。もちろんその場合は、僕もそれ同様に不幸となるに決まっている。彼が僕を熱愛して、僕達二人の子を愛してくれないのならば……
 僕は人を必ず幸福にしてくれるような、真実の愛を幼い頃から夢想していた。その思いだけは、自分の周囲にいた全ての同年代の子に比べても、絶対に劣らなかったはずだ。
僕は生まれたときから、自らの父を見たことがない。僕の父親である人は、母が母胎に僕を身籠ってから数か月後、母の膨れた腹に性的な魅力を見出だせなくなってしまったのか、他の魅力ある女性の傍らへと逃げてしまったらしい。母はその当初、信頼していた夫に捨てられた悲しみと、子を身籠った孤独な女に対する情けなさとに襲われて、ひねもす涙に暮れていたとか……これは当たり前のことだが、身籠った女性は我が子を出産する際、想像もできないほどの激しい痛みに叫び声を出し続けるものだ。しかしそのような激烈を極める痛みは、妊娠という一年がかりの大仕事を終えるためにある。女性にとっては、大きな恐怖と痛みを伴う苦しい出産……それらはこれから生まれようとする、幸福な未来に対する喜び、愛情、そのようなものを見出だすための、女性自らの人生で最も意味のある苦しみであるはずだ。しかし僕の母は違った。母は僕を身籠ることで、自らの腹が妊娠で膨れ始めたときから僕をお産するまでずっと、彼女は自らの憂き目のために、涙を流し続けるしかなかったのだ。
 僕は決して母を非難しているわけではない。むしろ僕は今だって、感謝の思いを母に向けて抱き続けている。それに母は今も怨んで止まない元夫の子である僕を、虐待もせずに今日まで養い続けてくれた。もし僕の母が忍耐力の凡庸な一般女性であったなら、幼児である僕に熱湯をかけてみたり、湯船に僕の顔面を沈めてみたりしていたことだろう。と言うのも、僕が父の子であるのは事実であるのだから、僕が成長するにつれて母の憎む人でなしの形相が、僕の風貌のあらゆる部分に現れてくるに決まっている。きっと母は育児の途中、自分の視界に映る僕を通して、自分を捨てた悪人を何度も思い返したはずだ。それでも母は今に至るまで、僕のことを心身共に健康的な子どもに育んでくれた。
 自分はこれまで何の苦もなく育ってきた。ただ僕は一つだけ、人生の残酷な秘密を知ってしまっている。それはもちろん、自らの両親を通して学んできたことだ。
愛を失った人間は、孤独という不幸に死ぬまで人生を蝕まれ続ける。母のいるような逆境には、僕は絶対に立ちたくない。僕は絶対的な愛の力によって、必ず幸福になりたいのだ。僕は絶対に幸せな未来を実現させる。僕に赤ちゃんができたのは、自分とみっちゃんが、心の底からお互いのことを愛し合った結果だ。僕達は自らも気付かない内に、裸の心がとろけてしまうような、優しい愛撫をし合っていた。だからこそ、僕は妊娠したのだ。
僕達の抱く愛は、両親のものとは違う。もしかすると男女の間には、肉欲に騙された歪な愛が存在するのかもしれない。しかし僕達の愛は神様を通した愛だ。僕が妊娠をしたのは神様のおかげだと、それだけは確実に言える。何しろ僕は男だ。男の僕を妊娠させうるのは、天の力以外にありえない。完全な神様が二人の偽善的な愛情関係に騙されて、子を誤って授けることがありえるだろうか。いや、それは絶対にありえない。神様は僕の愛情同様に、みっちゃんの嘘偽りのない真実の愛を知っておられるからこそ、僕に子を授けて下さったのだ。
今日の彼は、僕に対して深い嫌悪感を示した。でも彼だって、近い内には理解をしてくれるだろう。僕達には生れてくるべき子を、二人で共に力を合わせて守っていくべき義務がある。そして僕達には家族の三人で、幸せになるべき権利がある。だって、僕は宇宙のように莫大な愛情を胸に保ち続けて、その巨大な塊に心身を破裂させてしまうこともなく、己の一途な愛情を信じ続けることによって、彼の子を神様から授かったのだから。


 世の不条理に直面した翌朝、僕は人生で初めての喪失感を認めた。それは僕が家を出たときだ。僕はいつもの決まった時刻に家を出た。普段ならば、僕が玄関前の小さな門を開くのと同時に、自転車に乗ったみっちゃんが姿を現す。これが今までにずっと変わることのなかった、二人の習慣だった。しかし今日、僕が家を出ると彼の姿がなかった。
 僕は昨日の眠れない夜に、ほんの僅かだが希望の光明を見ていた。自分が翌朝に家を出ると、みっちゃんが我が家の前で、感動のために表情を輝かせている。そして昨日のひどい仕打ちを僕に懺悔して、心の底から僕を抱き締めてくれる。僕はそのような微かな希望を願っていた。しかしその理想的な空想に反して、みっちゃんは姿を現さなかった。彼のいない空間は、いつもよりも冷たく感じる。独りぼっちの視界には、視点を向けるべきところがどこにも見当たらなかったので、僕は空をじっと睨んだ。初秋の空は、灰色の雲に蝕まれている。僕は自分にどこか似ているような、雨を含めて大きく膨らむ雲を一瞥して、きっと姿を現すはずである彼のことを待ち続けた。
 僕は自宅の前に止めてある自転車に跨って、十分程の時間を費やした。だがそれでも、みっちゃんはやってこない。とうとう僕は彼の到来を諦めてしまった。
僕は自分の将来に対して甚だしい不安を見出だしながら、自ら動くことのないペダルを足で踏みつけて、自分が向かうべき場所へと一人きりで向かった。

学校に到着した僕が、自らが毎日通う教室の戸を開けると、その場には自分が待ち続けていた人の姿があった。彼の席は教室の入り口から見て一番奥にあって、教壇からは三列目のところだ。そして彼の座る机の周囲には、いつものように祐輔と智海が突っ立っていた。
 祐輔、智海とは高校一年生の頃からの友人で、僕とみっちゃんは学校内で、いつも彼等と行動を共にしている。
この教室にいるクラスメイトは、入学式の頃から誰も変わっていない。要するにこの教室では、クラス替えが行われていないというわけだ。僕達の入学した学科は少数人数制で、全員で三十四人しか生徒がいない。そのため教室は一つあれば充分であるし、新入生が一年後に再び春を迎えて進級をしたとしても、クラス替えを行う必要がないのだ。
 祐輔、智海とは去年からの付き合いだが、彼等とは学校内での上辺だけの友人であって、彼等と休日に会うことはまずない。それでも学校生活の中では、大いに友情を交わしてきた仲ではある。
 祐輔はこの教室で一番に背が高い。しかし縦の長さはあっても、横の幅が余りないものだから、みっちゃんと隣合わせになれば、彼は一見痩せこけているように見える。真っ黒の髪はさっぱりと短くて、毛質が硬いのか、いつも旋毛周りの毛が背伸びをしているように突っ立っている。目の形はいわゆる狐目で、目の細さでは彼かみっちゃんかが、この教室で一位、二位を争うだろう。ちなみに僕は祐輔のことが余り好きではない。それは狐目である彼の性格までもが、あのイソップ童話に登場する狐にそっくりだからだ。それを一番に理解してもらうためには、定期テストが返却されるときの彼を見てもらうのが最も良いだろう。
 定期テスト返却時の黒板には、先生が白のチョークで力強く彫り付けた、教室内で最高得点を獲得した生徒の点数が大きな文字で刻まれている。そして名簿順で生徒等が教卓に向かって先生から直接、自らのテスト用紙を受け取りにいく。そして一枚の紙っぺらを受け取った生徒等は、自分の獲得した点数に応じて一喜一憂する。もしある生徒がテストの高得点に喜びの表情を綻ばせて、席に着いてから左右の友人にテスト用紙を見せびらかしているとしよう。そのときにこそ、祐輔の足元を是非とも見て頂きたい。彼の貧乏揺すりの激しさときたら!
 彼は自分よりも力のある者が許せないのだ。そのくせ彼は体育の科目以外の成績が良くないものだから、体育以外の科目では多くのクラスメイトに成績の順位で負けてしまう。だからこそ彼は自らに負い目を感じると、負け犬のようなぼやきを机上に落としてしまう。
「馬鹿な奴らだ。たかがテストの成績で、あれほどにもはしゃいでやがる。例えテストの成績が良くても、あれでは幼児と変わらない精神年齢だ。成績が良いのと賢いのとは全くの別物だな!」
彼は人の持つ嫉妬と呼ばれる感情に、肉を与えたかのような人物で、どうしてみっちゃんが彼と一緒にいるのかが僕には理解できない。
祐輔の内的な陰険さに比べると、智海は彼と正反対の人物だ。でも僕は彼のことを、決して穏健な人物であると言うつもりはない。彼に精神的な冷徹さはない。しかし彼はその冷たさに身を任せて漂う、言わば海に浮くクラゲのような人物なのだ。
彼はいつだってヘラヘラとしている。そして僕は個人性という観念を、一度も彼を見て感じ取ったことがない。彼は誰かが生じさせた、ぐるぐる回る空気の波を目にすれば、道化師のような笑い顔で喜びそれに乗っかっていく。彼はそのような生き方しかできない人間なのだ。一見すると彼は一日中ニヤニヤしているものだから、穏やかにも優しそうにも見える。けれどもそれは全く違う。例えば祐輔が嫉妬心を晴らすため、誰かに嫌がらせをするとする。すると智海は喜んでそれに便乗して、油に火を注ぐようなことを平気でしてしまうような奴だ。
智海はこの教室で二番目に背が低い。そして一番目に背が低いのは女の子だから、男子の中で一番に背が低いのは智海だ。そして彼は少し太り気味で、体の幅は年頃の女の子等に劣らずふっくらとしている。だからもし実際に彼がクラゲであるならば、彼は体に蓄えられた脂肪のため、海の中に沈んでしまうに違いないだろう。
僕は智海に対しても、個人的には余り好いていない。ただ、彼には良いところが一つだけある。それは目が大きくて、そのブラウン色の虹彩が放つ明かりのためか、彼を初見したときの第一印象が、誰よりも優しそうに見えることだ。
僕とみっちゃんの仲が良いように、彼等二人も互いに仲が良い。彼等二人の関係は去年から始まったものだが、二人共が同じ運動部に所属しているので、彼等は全ての授業を終えた放課後でも、二人でずっと一緒にいるわけだ。ちなみに僕とみっちゃんは、どの部活動にも所属していない。僕に関しては根っからの文学少年なわけで、運動部なんてまっぴらごめんだ。僕は体を動かすことが好きではない。もちろん文化系の部活もあることはあるのだが、どの部活動も僕に魅力を見せてはくれなかった。
自分は生来の運動音痴であるわけだが、みっちゃんはそうでない。彼は運動神経が抜群で、おそらくどの運動部に入っても、人並み優れた結果を残すことだろう。でも彼は決して部活動には入らない。その理由は彼自身が、年齢の差が生じる従属関係に我慢のできない性分であるからだ。彼はプライドが高い。だから相手がいくら人生の先輩であろうたって、媚びへつらう自分を許せないのだ。僕は彼のそういうところが好きだ。なんせ彼の自分自身に対する誇りは、彼の内では太陽のように輝いていて、それがいつも僕に温もりを与えてくれる。
 僕は教室の後ろ側にある出入口を通った後、そのまま自分の席に向かって行った。
 僕の席は後ろから三列目、ちょうど教卓と直面する位置にある。僕は自分の席の側にスクールバッグを置いて、すぐさまみっちゃんの座る席に向かった。
「みっちゃん、どうして僕を待ってくれなかったの?」
 僕は彼の目を見つめた。すると彼はまるで僕の声が聞こえていないのか無視をする。そして僕が来るまでは楽しげに話していた三人が、僕が現れたのを機として黙りこくってしまった。三人は僕に顔さえも向けてくれない。
「どうして黙っているの?何とか言ってよ。」
 僕は少々声を荒げた。それでも彼等には、僕の声が届かない。そしてみっちゃんはただ、自分に向かう机の木目をじっと見つめていた。
 僕は彼の口が開いてくれる瞬間を、数十秒間と待ち続けた。しかし彼等は無視を続ける。
 僕は自らが拒絶をされているように感じた。そして目前の孤独感に対する不安から、僕は「おい!」と彼等に向かって叫んだ。すると祐輔が僕を怯えさせるように言った。
「うるさいぞ、オカマ野郎が!お前はあっちに行け!俺達にもホモがうつってしまうだろうが!」
 僕は彼の吐いた罵言にただ呆然としてしまった。智海が満面の笑みで僕の方を見つめているので、僕は初め、まさか自分が侮辱されているとは思わなかったのだ。
「あっちに行けよ!ホモはこっちに来るな!」
「おい!俺まで恥を掻くことになるから、それだけは言うな!」
「ああ、悪かった。とりあえずお前はあっちに行ってくれ。近くに寄られるだけで気分が悪いから。」
 祐輔が僕を仲間から外そうとしている。それなのにみっちゃんは、どうして僕を守ってくれないのだろう。それに「俺まで恥を掻く」とは、いったいどういう意味であるのか。
みっちゃんが人を蔑むような視線で僕を見る。祐輔は剃刀の刃のような冷ややかな目付きで、僕のことを睨んでいる。そして智海だけが僕を見て、どこかの飼い犬のように舌を伸ばしてヘラヘラと笑っていた。
「僕はどこにも行かないよ。どうして、君達は僕を仲間外れにしようとするの?」
 僕は高らかな声で言い放った。僕の声はもともと高いため、このときは黒板を爪で削ったときのような音がしたのかもしれない。しかしそれも仕方がなかった。僕は急な裏切りに脳内の言葉を整理する暇もなく、突如湧き起こる大きな驚きと焦りとだけで、彼等に対抗しようとしていたのだから。
「みっちゃん。いったい僕の何が君の恥となるのさ?お願いだから僕を仲間外れにしないでよ!」
 僕が身の内にある硝子の玉を破裂させてしまうと、その破片が祐輔に突き刺さってしまったのか、彼は僕が話し終えた直後、険しい表情で両足を数歩分と動かして僕に近づいてきた。僕は自分の目の前に、毛皮の冷たい野獣がいるような気がして、「どうしたの?」と彼に尋ねた。するとその瞬間、祐輔が僕の腹に大きな拳を埋めたのだ。その衝撃のために僕の腹部からは鈍い音が、喉からは悲鳴のような声が出た。
「あっちに行かないともう一発殴るぞ。」
 僕は本能から身の危険を察知して、目元から小さな涙を溢さないように、ゆっくりと、しかし俊敏に自分の席に戻った。
 僕は自分の席に腰を下ろしてから、莫大な絶望の中をもがき苦しむように、苦しい呼吸を続けていた。今さっき悲劇が催された舞台に目をやれば、みっちゃんと祐輔がまるで何もなかったかのように会話をしている。彼等は何ともいいようのない卑しい笑みを表情に浮かべながら、蚊の飛ぶ音のような声でぼそぼそと喋っていた。そして僕が彼等に視線を投げ掛けても、二人は決してそれに答えてはくれない。彼等は僕の視線に気が付かない演技をしていた。ただ智海だけが悲しむ僕を見ることで、猿のような下品な笑い声を出しながらニヤニヤとしていた。
 僕は絶望した。あいつ等と一緒にいれば、間違いなく近い内に、自分の赤ちゃんを殺されてしまう。僕が先ほどに祐輔から与えられた打撃は、力いっぱいに加えられたものではなかったが、それでも打撃は打撃だ。それに今だって殴られた辺りに痛みを感じる……僕の赤ちゃんは大丈夫だろうか?
 僕は身に染みる絶望感をどう対処していいのか分からず、視界を目前の現実から遠ざけるように、自分の腕に両目を沈めた。
 僕の赤ちゃんは大丈夫だろうか?もしさっきに受けた打撃で、自分の子が流産してしまうとなれば……僕は最悪の事態が起こる可能性に怯えれば怯えるほど、自分の子を守れなかった自分の非力さを恨めしく思った。そして僕の抱くもう一つの大きな悲しみは、みっちゃんの我が子に対する配慮心のなさだった。
 みっちゃんはどうして、僕達の子どもを守ってくれなかったのだろう。祐輔が僕のお腹を殴ったとき、彼は自らの子の生命を懸念しなかったのだろうか?僕はそれが不思議で仕方なかった。
 一限目の授業が始まる前に起きた悲劇のために、午前中の間はずっと憂鬱だった。激流する不安から自分の心を救い出すことが、どうして今の自分に出来るだろうか。
僕はこの日、ずっと一人ぼっちだった。授業と授業の間にある十分間の休憩時間も、僕は常に一人で過ごしていた。それにしてもみっちゃんは、僕のことが本当に嫌いになってしまったのだろうか?僕には彼の心境が理解できない。どうして彼は家族である者に対して、非情な態度を取ることしかできないのだろう。僕達はもう既に家族の関係にあるではないか。天から子を授かった二人が、家族の絆で結ばれていないわけがない。でも彼は僕に乱暴な仕打ちをする。これは言うまでもなく罪なことだ。彼が精神的な暴力で僕を傷つけるということは、神から授かった僕のお腹に眠る天使にも、それ同様の苦しみを与えてしまっていることになる。彼は神様から頂いた賜り物を、彼自身の手で傷つけてしまっているのだ。
 僕は集中のできない授業中に、みっちゃんの心に潜む魔物的なものについてずっと考え込んでいた。今の僕に先生の言葉を聞く余力などは、微塵たりとも残っていない。ましてや深緑色の黒板に連ねられた、小さな虫の死骸のような数多くの文字が、僕の意識に止まるわけがなかった。もちろん僕は、小さな点線だけが何本も細かに引かれたノートを、机の上に開けてはいた。しかしそれと同様に机上で横たわるシャープペンシルの尖端が、まだ新品同様のページを掠めることはなかった。僕はただひたすらに、みっちゃんが別人と化してしまった、彼の変貌の要因を考え続けた。そしてそれを考えているとき、自分の胸奥では巨大な豪華客船を転覆させるような嵐が、不気味な高音を轟かせていた。その嵐は僕の体までも粉砕してしまう勢いだった。僕は午前の授業中、二つの拳を机上で震わせながら、自らに立ちはだかる大きな不安とずっと葛藤していた。午前の授業が全て終わったとき、僕は自分が長い戦史の中にでもいたかのように、激烈な動悸との戦いの後に疲労を感じていた。
 この日はずっと孤独だった。昼食のときがやってくると、いつもは二つの対面し合う机の周囲に、みっちゃんと祐輔と智海がいる。でも今日は違う。僕は一人きりだ。自分は肩身の狭い窮屈な机の上で、母が用意してくれたお弁当箱を開けるが、自分でも驚くほどに食欲がなかった。今の僕が持つ胃袋は、きっと小さな鳩とさほど変わらないだろう。もし誰かが床に落とした弁当の残り屑を嘴で突っつけば、僕の腹は膨らんで満たされるに違いない。
 僕は何も掴まない箸の先端を舐めながら、自分が昨日に昼食を食べていた場所を見つめた。すると僕のいない、みっちゃんの正面には、空間の穴があるわけでもなくて、そこには祐輔の姿があった。昨日の僕の席は、もう空いてすらもいなかったのだ。
ちょうど僕に向いて机の横側に座る智海が、僕の投げ掛ける視線にゴミでもついているのか、僕を見てさも人を小馬鹿にするようにニヤニヤとしている。僕はその満面の笑みを見るだけでも怒りが胸に湧き上がるので、それからは彼等の方を一切見ないようにした。
時が過ぎて午後の授業が始まろうと、僕の魂の悲嘆が止むことはもちろんなかった。もう僕は愛する人との良好的な関係を築くことができないのだろうか?僕の心には血の大海ができている。それは舐めればしょっぱいだろうし、浸かれば衣服が真っ赤に染まることだろう。僕は貧乏人の持つみすぼらしい漁船のように、血の海に首まで浸かって激しく揺られ続けていた。それでも僕は、汚れた海にも無差別に日光を与えてくれる太陽を信じて、幾多もの思考で頭を回転させることを止めなかった。するとこの日最後の授業中、僕は天からの啓示を得るように、一つの考えを閃いたのだ。
自分は神様から最高の贈り物を賜った。これは僕の人生で最大の宝物となるだろう。しかし僕が神から黄金の賜り物を受け取ったことを、羨み妬んでいる輩もいるには違いない。では神の偉大な施しの力に嫉妬する者は、いったい誰であるのか?そのような者は悪魔の他にありえようか?そうだ。みっちゃんは悪魔に翻弄されているのだ。彼の僕に対する乱暴な態度の全てが、彼の意志ではないはずだ。それは彼の影の中に潜んでいるに違いない、鮫に劣らない鋭利な牙を剥けた、悪魔の仕業に違いないだろう。そうだとすればどうして神様は、僕を悪魔から救っては下さらないのか。いや、その考えは間違っている。神様は僕のことを見放しているわけではない。神様は僕のことを試しておられるのだ。そう、これは試練だ。僕が神様から宝物を受け取る価値のある人間かどうか、神様が神様自身の目で、僕のことを見極めておられるのだ。だからこそ自分は、絶対に希望を捨ててはいけない。僕は強く思った。例え好きな人に頬を激しく叩かれようと、僕は絶対に希望を捨ててはいけない。僕は神様に試されているのだ。絶対に神様の期待に応えよう。僕は最後まで希望を持ち続ける。それは僕のため、みっちゃんのためでもあって、近い将来に生れてくる我が子のためでもあるのだから……
今日に課された全ての授業を終えると、僕は誰よりも早く教室を出て、誰よりも早く靴箱で上履きを脱いだ。そして僕は誰よりも早く駐輪場に向かって走る。駐輪増に到着すると、僕は自転車に跨ったと同時に漕ぎ出して、通学時に通った道を細い車輪で、全速力を用いてなぞっていった。
僕がどうして、これほどにも急いで自転車を漕いでいるのか。それには一つの理由がある。僕は今日、みっちゃんに無視をされ続けた。ならどうして、彼が僕と一緒に帰ってくれようか。僕は行きしなだって彼に放って行かれたのだ。彼が僕と一緒に帰ってくれるはずがない。しかし彼が僕と共に帰ってくれないのならば、僕達には話す機会が全く生まれない。彼は僕の携帯電話での連絡すらも拒否しているのだ。それでも僕には、彼に伝えないといけないことがある。もちろん、彼が悪魔の掌で踊らされていることについてだ。
みっちゃんは帰りしな、絶対に僕の家を通る。正確に言うならば、別に僕の家の門を通らなくても彼は帰宅できるのだが、そうすれば余りにも遠回りになってしまう。僕は彼の面倒なことに我慢ができない性格を知っている。だからこそ僕はある策略を思いついたのだ。
僕は全速力で自転車を漕ぎ続けた。そして自宅の門前に到着したとき、僕は右腕の紺色のブレザーを翻して、今までは姿を隠していた腕時計で現在の時刻を確認した。すると今日の僕はいつもに比べて、帰宅時間を五分以上も縮めていた。
僕は自宅の前で、みっちゃんを待ち続けた。
今日は一限目の授業が始まってから、一度も校舎から出ることがなかった。そのために全く気が付かなかったが、どうやらいつの間にか雨が降っていたらしい。僕が校舎を出て急ぎ駐輪場に向かったとき、もう雨は降っていなかったものの道が濡れていた。そして駐輪場の横に伸び続ける屋根が、僕の自転車を雨の水滴から守ってくれはしたが、自分が自転車に跨ったときに、冷気のためか、ズボンが少し濡れてしまったかのように感じた。それにしても僕はどうして、雨が降っていることに気が付かなかったのだろう。例え細かな雨が足音を立てなかったために、自分が聴覚で雨の認識を出来ずにいたとしても、一度でも窓を見ることがあれば、雨が降っていたことに気が付いただろう。それにみっちゃんが座っている側には大きな窓が連なっているのでで、今日の僕の視界に窓が一度も映っていなかったことはありえない。ではどうして僕は、透き通る窓に刻まれた小さな雨の模様を、全く気付かずにいたのだろう。はたして授業中の僕は、いったいどこに目をやっていたのだろうか。僕が見ていたみっちゃんの後ろ背景は、窓ではなくて何が存在していたのだろうか……
雨上がりの空気は冷たかった。僕は震える体を押さえるために両腕を組んで、我が家の門前で彼のことを待ち続けていた。十一月初旬の露をたっぷりと含んだ空気に、僕の体は何度と震えたことだろう。僕は門前に自転車を止めて、みっちゃんがやってくるだろう方角を見つめながら突っ立っていた。そして僕の凍える肉体の震えが数百回目と達したとき、みっちゃんは一人で自転車に乗ってこちらにやってきた。僕が彼の姿を認めたとき、彼は遠近法の魔法にかけられて、自分の視界には小人のように映っていた。その小人の余りにも小さな両目が、どこを向いていたのかは分からない。ただ一つ言えることは、僕が彼の姿を認識するよりも先に、彼が僕の姿に気付いていたのではないかということだ。何故なら彼が自分の視界に現れたときには、彼の両目が僕の方を向いていたように感じたから。 
彼は経過する時間と共に体を膨らませた。そして気が付けば自分の目前には、僕よりも背の高いみっちゃんがいた。
みっちゃんは僕との距離が三メートル程のところで、回転する大きな車輪を静止させて自転車から降りた。
「何をしているの?」と彼の鋭い言の葉が、僕に向かって飛んできた。
「僕はみっちゃんを待っていたんだよ。」
「どうして俺を待っていたんだ?」
「どうしてもみっちゃんに聞きたいことがあったから。」
「何だよ。」と彼はさも僕を蔑むかのような口調で言った。
「どうして僕を放って学校に行ってしまったの?それにどうして、教室で僕を一人にするのさ。」
「そんなことは言うまでもないだろうが。もう二度とお前と関わりたくないからだよ。」
「どうしてそんなことを言うの……」
 僕の唇が先鋭な彼の言葉に傷を負ってしまったのか、僕は少し口を開くのにさえ痛みを感じて、流血しているだろう唇の痛みに涙を流しそうになった。
 僕は瞼に涙を留めながら、「どうしてそんなことを言うの。」と再び彼に尋ねた。
「お前のことが嫌いだから。お前のことが気持ち悪いからだよ。」
「僕の何が気持ち悪いって言うの?」と、僕はとうとう硝子色の涙を頬に露わにして言った。
「お前はさ、今までずっと俺のことをいやらしい目で見てきたわけだよな。お前が俺と二人でいるとき、お前は常に気色の悪い妄想で頭を働かせていたんだろう。それを考えただけでも、お前と遊んできた過去を思い返せば、吐き気がするほどに気持ち悪いんだ。どうしてずっと、その本性を隠してきたのかな?頼むからもう俺に近づかないでくれ。」
 僕は両頬からだけではなくて、胸部からも湿りっ気のある冷たさが伝わってきた。おそらく僕の心からは、大量の血液が流出しているはずだ。僕の愛する人の言葉が、自分には余りにも辛辣すぎた。
 僕が何も言い返せずにいると、みっちゃんは自転車に跨ろうとして、利き足を宙に上げた。そして僕はそれを阻止するために、彼の体を取り押さえようとした。
「君は悪魔に操られているんだ!」と僕は大声で叫んで、みっちゃんの両肩に手を乗せた。
するとみっちゃんは「触るな!くそったれ!」と怒鳴って、僕の体を力一杯に押しつけた。その瞬間、彼の自転車は音を立てて横に倒れた。そして自転車が倒れたと同時に、僕の体も地面に倒れ込んでしまった。僕は両掌を面前に投げ出したまま転んだので、尻に強い衝撃が走った。僕が痛みを感じた直後には、濡れたアスファルトが僕のズボンを濡らす。僕はお腹にいる赤ちゃんまでもが痛みで涙を流して、自分の肉体を濡らしているかのように感じた。僕はこのとき、全身で泣いていたのだ。そのために体中が冷たかった。
 みっちゃんは倒れた自分の自転車を起こしては、倒れている僕を放って、自転車に乗って走り去ってしまった。
僕はどれほどの悲しみを感じたことか!神様、これも試練の一つなのでしょうか……
 僕は大きな泣き声を発しながら起き上がって、大きな絶望から弱弱しい我が身を隠すように、家の中に入り込んだ。

 四
 自分が孤独の身となってから数日が過ぎた。僕はかつて、これほどの寂しさを経験したことがない。僕は無視をされるようになった初日から、彼等に話し掛けることを一切やめた。僕はみっちゃんにさえ、自ら話しかけることをやめていた。その理由は明確で、僕は我が子を彼等に傷つけられることが怖いのだ。
 僕は未だにあの恐怖を忘れられない。自分の肉体が暴力を受けることで、我が子までもが傷ついてしまう。僕は祐輔から振るわれた拳の暴力に怖気ついてしまって、今ではもう、彼の目を見るのさえ怖かった。もし僕が彼に近づきでもしたら、僕はまた殴られてしまうだろう。それが再び自分の腹部にも命中しようものなら、自分はまた赤ちゃんの命を、大いに懸念しなくてはならない。そして何よりも辛いことは、みっちゃんが彼自身の子どものことを、少しも考えてくれていないことだ。  
日々は悲しみの連続だった。しかしこれは、神様に課せられた試練でもある。僕はこれをどうしても乗り越えなくてはいけないのだ。ところが、神の試練に耐え続けている僕であったが、とうとう自分の胸が裂けてしまいそうなほどに悲しい出来事が起こった。それは今日の昼食時のことだ。僕はいつもと同様で、一人で孤独にお昼ご飯を食べていた。しかし今日のみっちゃんはいつもと違った。僕が目先を彼がいるはずの方に向ければ、祐輔と智海が二人だけでお互いに向かい合いながら昼食を食べている。そこにはみっちゃんの姿がなかったのだ。なら彼はどこに?それは祐輔等の視線を追えば分かった。彼等は僕の方を時々、軽い笑みを浮かべてちらりと見た。でもそれは決して、孤独な僕を楽しむために見ているわけではなかった。いや、それもあったのかもしれないが、彼等は実際には僕の斜め背後、教室後ろ側の出入り口から一番に近い二つの席を見ていたのだ。ではそこに誰がいるのか?そこには二人の女子に混ざって昼食を食べているみっちゃんがいた……
 彼はどうして、女の子二人とご飯を食べているのだろう。彼と一緒にいた二人の女性は、いつも昼時はその場で机を向かえ合わせにしてご飯を食べている。僕は彼女等と余り話したことがなかったが、二人がいつもオシドリ夫婦のように共にいることぐらいは知っていた。
 彼女等それぞれの名は、木村美華と中本沙耶だ。木村美華は小柄で小動物を思わせる雰囲気の女の子だ。年頃の男子ならば、こういう子を見れば守ってあげたいと自然に思うのだろう。彼女は美白肌の持ち主で、下膨れの色白な顔に比べてミディアムヘアの髪は艶のある真っ黒色で、そのコントラストが不思議なほどに美しく思える。二つのまん丸な瞳は、毛質の太い髪の色に劣らないほどに真っ黒で、オニキスのように力強く輝いていた。
中本沙耶の風貌は、木村の漂わせる可愛らしさとは対照的だ。彼女はこの教室の女子等に比べても、とりわけ背が高く見える。だからと言って、彼女の身長が特別に高いわけではない。彼女の身長は僕とほぼ同じで、高校二年生男子の平均身長に比べれば、大人の握り拳一つ分程に低い。それでも女性の中でならば背の高いほうだろう。
彼女は髪が長くて、その長髪は胸の乳房の辺りまで垂れ下がっている。そして毛質は細く、地毛の色は出生時からの赤茶色であるらしい。この学校は髪を染料で明るくすることを禁じているので、彼女は校則を破らずともおしゃれを楽しめるわけだ。
彼女の容貌は木村と比べ対照的で、木村の第一印象が可愛らしい小動物であるならば、中本を見た第一印象は冷静で格好良い肉食動物だろう。いや、肉食動物と言えば彼女に失礼かもしれない。けれども男勝りの顔立ちは、どうやら多くの女性から人気があるらしくて、やはり木村と並べて中本を、小動物と呼ぶわけにはいかないはずだ。彼女の顔は骨格がしっかりとしていて、全体的に彫が深いのが特徴的だ。鼻は高く、顎の輪郭がしっかりとしている。もしも彼女が男に生まれていたならば、きっとこの学校で一番の人気者であっただろう。
木村と中本は入学した当日から大の仲良しで、いつだって行動を共にしている。彼女等が一人で歩いているところは見たことがない。木村が子猫のように、または中本が親猫のように、彼女等は常に互いの存在を欲しているのだろう。でもどうしてその二人の中にみっちゃんがいるのか、その訳が全く分からない。僕は名付けようのない不安を胸に抱いた。

 彼等の関係はその翌日からも変わらなかった。僕が友人等に無視をされるようになって、もう既に一週間以上が経った。十一月も中旬に入り、学校の校庭にある大木の葉は、僕達日本人のように黄色味に染まっていた。この頃では気温がかなり寒く、自分が通学する時分などは、気温が十度を下回っていた。
 僕はここ数日間、みっちゃんのことをずっと観察していた。すると驚くことが分かったのだ。
みっちゃんの木村に対する、僕が妬んでしまうような甘い視線が、僕を非常に煩わせた。彼は木村に恋をしているようで、それは昼時の彼を見れば一目瞭然だ。彼は木村、中本と会話をするとき、常に木村の表情を確認していて、その愛する女性を見つめる目付きが、何と優しげであることか!僕だって、彼のあんなにも柔らかな表情を見たことがなかった。
みっちゃんはここ数日、昼休み時はずっと彼女等が対面し合う机の横側で、教室の壁を背にして座っていた。だから僕が首を少し後ろに捻れば、彼のしまりのない表情が嫌でも目に入る。彼は二つの対面しあう机の側に座っているが、彼の座る椅子は決して向き合う机の中心地にあるわけではなくて、木村の体のほぼ真横にあった。そして彼は大きく開けた瞳孔で頻りに彼女を見つめて、時々に二人のどちらかが、性の恥ずかしさからか目を相手から背ける。そして二人共が緊張しているためか、しばしば沈黙の時間が訪れるのだ。そうなれば、みっちゃんが静かな空間を避けるためか、会話を弾ませるために次から次へと話題を展開する。そして彼は自分の話していることが支離滅裂なことも気にせず、両頬を喜びで持ち上げて、元々細い目を更に細くしているのだった。
僕は彼等の関係性を非常に懸念した。それもそのはずで、みっちゃんは僕の恋人で、それに自分達には赤ちゃんもいる。それにも関わらず彼がもしも浮気をしようものなら、それは僕にとって、余りにも辛すぎる現実ではないか!僕は今までずっと、みっちゃんのことを信じてきた。そのみっちゃんが僕を捨てて、僕ではない他の女と恋に落ちてしまえば、それは浮気以外の何物でもないはずだ。でも本当に彼は浮気をするような人間なのだろうか。もし彼が浮気をするような人間ならば、彼は僕の父親と同等の人種ではないか!
僕の父親は生前からの浮気心のために僕の母を、それどころか僕のことまでも捨て、自分の家族である者の側から逃亡してしまった。その後、僕の母はどうなってしまったか……それは僕自身が、今までにずっと見てきた。母はまるで孤児のように寂しげな調子で、ずっと愛に見放された不幸の中で生きてきたではないか。母の目元には大きな黒い隈がある。あの皮の内に詰まっているのは、おそらく哀愁だけに違いなかった。
僕は数日間、不安に圧し潰されそうになっていたが、それは残念なことに危惧では終わらなかった。本日の昼休み、彼等三人がお昼を食べ終えた後、みっちゃんと木村だけが教室から姿を消してしまったのだ。
僕は激しい不安に襲われた。二人は教室から姿を消して、いったいどこで何をしているのだろう……僕はそれを考えただけでも気が狂ってしまいそうになった。木村はみっちゃんをどこに連れて行ってしまったのか……そのことを考えれば考えるほど、息をするのも苦しくなるくらいに、僕の心臓の鼓動は早くなった。
 僕が自分の席に一人で座りながら、考えたくもない空想に浸っていると、突然、僕の名を呼ぶ乱暴的で大きい声が聞こえた。僕がその声が聞こえてきた方を見ると、驚くことに僕を呼んでいるのは祐輔だった。
 僕が予想もしなかった意外な呼び掛けにきょとんとしていると、祐輔の荒々しい呼び掛けが再び聞こえてきた。そして彼が、「こっちに来いよ。」と自分を呼び掛けたので、僕はそれに従って彼の席の側に行った。彼の席は窓際の最前列で、みっちゃんの席のすぐ近くだ。祐輔は自分の席の上に座っていて、その隣には壁にもたれてしゃがみ込む智海がいた。そして不思議なことに、祐輔の席には中本沙耶が座っている。
 僕は彼等が中本と仲良くしているところを、今までに一度も見たことがない。そもそも中本はずっと木村と二人きりでいたので、彼女がそれ以外の人と話すところを余り見たことがなかった。僕は何故に今更、この三人に自分が呼び出されたのかが分からなくて、その理由を何も思いつけないでいた。ただ彼等の側に近づいて分かったことは、彼等三人共が奇妙で不吉な微笑みを、顔面に表していることだけだった。
 僕が三人の側に近づいたと同時に、祐輔が掌に乗せた白いラムネ菓子のようなものを僕に見せ、笑い声を出しながら喋り始めた。
「これを食べろよ。」
 彼が僕に差し出したものは、ラムネ菓子にしか見えなかった。それには白色以外のどのような染みもついてはいなかった。だが僕は彼の不気味な笑顔が何か狡猾なものにしか思えなくて、本能から湧いてきた疑いを抱いて彼に尋ねた。
「それは何なの?」
「これは中絶剤だ。」
 祐輔がそう答えると、智海と中本は声を上げて笑い出した。
 僕には祐輔の口にした言葉が理解できなかった。だから彼が口にした名詞と思われる言葉を、そのままに言い返すことで、彼にもう一度その意味を尋ねた。すると祐輔がまたもや笑い声で言った。
「これはお腹の赤ん坊を殺してしまう薬だよ。もしお前がこれを飲めば、お前のお腹でおねんねしている赤ん坊が、お前の尻の穴から糞と一緒に落ちてきて、そのまま便所の水に流されてしまうってわけだ。」
祐輔の話が終わらない内から、智海と中本は喉を壊しかねないほどに笑い続けていた。それにしても、どうして彼等は笑っているのだろうか。そのときの僕の驚きようは、言葉で表現できるものではなかった。
「君は何を言っているの?そんなにも恐ろしい薬を、どうして君が持っているのさ……」
「いいから早くこれを手に取れ。お前のために高い金を払って買ったんだ。さあ、これを早く口に入れろ。」
祐輔は僕を睨みつけて命令した。しかし僕がその見るのも恐ろしい薬物を、直接手で触れるわけがなかった。
「君は人殺しを楽しもうとしているの?君は自分が口にしていることを理解しているのか?君は僕に自分の赤ちゃんを殺せと言っているんだよ。そんなことできるわけがないだろうが!」
 僕が拒否の思いを言葉に出した瞬間、祐輔が薬を乗せた大きな掌を握りしめて、その拳で僕の腹部を殴った。僕はみぞおちの辺りを殴られたので、激しい痛みに息すらも吐けなくなって、その場に崩れ落ちてしまった。
「殴られたくなかったら、さっさとこれを飲め。もし断れば、俺はまたお前の腹を殴ってやる。」
僕は腹を殴られないために、咄嗟の判断で両手を腹部に巻きつけた。
「優、早く飲めよ。それともまた、殴られたいのか?」
 僕に対してこのような態度を取る祐輔を、今までに見たことがなかった。彼の僕に対する態度が変わったのは、言うまでもなく自分がみっちゃんに妊娠を告白した後日からだ。それまでの祐輔は、決して僕にこのような態度を見せたことがなかったし、彼が僕に暴言、暴力を振るうだなんて、今まででは考えられないことだった。でもどうして、彼の僕に対する態度が、こうも急激に変わってしまったのか。これではまるで別人だ。
 僕は「飲め」と脅してくる彼の非道さを訴えるため、他の二人を交互に見つめた。すると彼等はまるでコメディー映画を見ているつもりなのか、ひたすらに笑っているだけだ。
 僕が「絶対に飲まない。」と祐輔に拒絶をすれば、僕が両手で腹を防御しているのをいいことに、彼は僕の頬に平手打ちをした。
「手を上げろ。お前、まさか本当に赤ん坊を守っているつもりなのか?今からでもいいから、僕は茶番劇を演じていましたって言えばどうだ?それともお前は本当に、自分の腹に赤ちゃんができたと信じているのか?」
僕は頬がジンジンとする痛みの残響に耐えながら言った。
「僕はみっちゃんの子を守らないといけない。だからこの両手は絶対にお腹から離さない。僕はこの子の親だから、君みたいな乱暴者から、愛する我が子の命を守らないといけないんだ。」
僕が言い終えると、さっそく二度目の平手打ちがきた。でも僕は自分の頬を守るために両手を上げようとはしなかった。もしそうすれば、僕の赤ちゃんが眠る場所を彼に殴られてしまう。それが原因で赤ちゃんが死んでしまうかもしれない。僕は髪を強く引っ張られ、今度は握り拳で、さっき二発の平手打ちを受けた反対側の頬を殴られた。僕は激痛に何度も叫び声を出したが、僕を助けてくれる人は誰もいない。そして祐輔の顔に憎悪の念がはっきりと表れ始めた頃合いに、中本が僕をやっと助けてくれた。
「祐輔くん、もうやめて。藤原の頬に手形がついているし、もしこれ以上続ければ先生に勘繰られるよ。」
中本のおかげで、祐輔の僕に対する暴力が終わった。そして彼は少し歩き窓を開けて、利き手の掌でずっと握っていた白い錠剤を、運動場に目掛けて投げた。僕は祐輔が外に向かって錠剤を投げた瞬間、今がチャンスとばかりに体を起こして、駆け足で教室を出て行った。そして教室を出た僕は、自分の通う教室の隣にある、「多目的教室」と呼ばれている教室にすぐさま入り込んだ。
 この教室は多目的教室と全生徒に呼ばれてはいるが、この教室が使われているところを見る機会は殆どない。誰かに聞いた話によれば、この教室は選択制の少人数授業に使用されているようだが、どうやら僕等の通う科には全く関係がないらしかった。そしてこの教室は授業中以外の使用を禁じられているため、休み時間に生徒がいることはまずない。もしそれに例外があるとすれば、それらは八百字詰めの反省文を恐れない、脳なしの問題児等によるものだろう。
 僕は多目的教室に入った瞬間、体から力が抜けたかのように崩れ落ちて、それと同時に大量の涙が瞼から流れ出た。そして僕は声を殺して、昼休みが終わるまで一人で泣き続けていた。

 祐輔に非情な暴力を受けた翌日、昼休み中は教室から抜け出すことに決めた。自分が教室にいれば、また祐輔に苛められてしまうかもしれない。
僕は昼休み時間を迎えると、急いでご飯を食べ終えようとした。早くこの教室から出て行かなければいけないからだ。
教室内には既にみっちゃんと木村の姿がなかった。彼等はまだ開けていないお弁当箱を手に持って、どこかへと行ってしまったのだ。今までは木村と昼を共にしていた中本が、今日からは祐輔等と共にご飯を食べている。僕は一人で食事をしている間、いつ彼等に呼ばれるのかと心配で、結局はお弁当の中身を完食しないままに、教室から抜け出してきてしまった。
教室を出た僕は、自分がどこに向かうべきかを思案した。僕はまず図書室に行こうかと考えた。しかしこの学校の図書室は、読書に用いられているというよりも、暇人の雑談場所として使用されている。複雑な思いに心が引き裂かれそうになっている僕は、自ら好んでそのような賑やかな場所には行きたくない。読書の場には紙魚だけで充分だろう。今の僕は静穏とした場所を望んでいる。でも一人になれる場所が、いったい学校内のどこにあるのだろうか。僕はトイレの個室に籠ろうかとも考えたが、男子用トイレには個室が一つしかなくて、もし腹痛のためトイレに駆け足でやってくる者がいれば、僕はその人に迷惑を掛けてしまうことになる。僕は教室から出た後の数十秒間の間に、脳の回転を閃きで何周もさせて、やっと一つの妙案を思いつくことができた。
僕達の教室は、本館と呼ばれている西校舎の二階にある。そして僕達二年生の教室は、その階の廊下に連なっている。そして一階には一年生の教室、三階には三年生の教室が並んでいるのだが、この校舎は四階建てだ。では四階には何があるのか?そのフロアには、国語科や社会科の資料室だとか、特定の教科で使用されている視聴覚室などがある。しかしそれらはほぼ使われることのない教室で、その階に生徒がいることはほぼないはずだ。それに四階に上がれば、不要な机がたくさん並べられている場所がある。そこには幾つもの机が並べられていて、その机の上には、まるでその机の子のように椅子が乗せられているのだ。
僕はそこで静かに昼休みを過ごすことに決めた。教室を出た僕は、自分の教室がある方向に背を向けて真っすぐに歩いた。そして歩き続けると行き止まりがあって、右手には階段、左手には壁を迂回するように伸びた通路が見える。この学校の校舎は二つあって、その建物内は一階だけが繋がっている。この学校では、僕のクラスがある校舎を西校舎、そして今目の前にある曲り角を進んだ先の校舎のことを南校舎と呼ぶ。別館とも呼ばれている南校舎には、西校舎に収めることのできなかったクラスが点々とあるのと、あとは広いコンピューター室など特別教室が連なっている。
 僕は南校舎には用がないので、右手にある階段を一段、また一段と上っていった。
 僕は階段を上り続けている間、自分が社会の目を恐れて逃げている犯罪者であるような、後ろめたい気持ちを何故か感じてしまっていた。そもそもどうして僕は、自分の教室から逃げてこなければいけないのか。僕は悪いことを何一つとしていない。それにも関わらず教室から出てきた僕の姿は、まるで虐殺を懸念して亡命してきた異国人のようではないか。
 僕は階段を上がり続けることで息切れをしてしまって、妊娠前と比べて自分の体力がかなり落ちていることを知った。そして僕は重たい息を静かに吐き出すことを、何度も何度も繰り返した。するといつの間にか、自分は最上階のフロアを目にしていた。
 僕が最上階を目に映したときに、正面から男女の会話が聞こえてきた。僕は聞き覚えのある声に驚いた。僕は一度、足を止めた。そしてその声を黙って聞いていると、それがどこから響いてくるものであるのかを察知した。その声は例の生徒に使われることのない、机と椅子とが閑散と並べられているところから響いてきているのだ。その場所は階段を全て上りきると目に見える。最上階にある広い踊り場だ。
 僕は一歩も動かずに耳をすましていた。するとその声は間違いなく、みっちゃん、木村の声に違いなかった。
 僕は二人の会話を、立ち往生しながら盗み聞いた。すると信じ難いことに、二人で交わされている会話は、二人だけの秘密とでもいうばかりの、恋人に交わされる甘い言葉ばかりで形成されていた。
 僕は絶望した。みっちゃんが木村に「好き」と言ったのを、僕はこの耳で聞いてしまったのだ。僕はみっちゃんに裏切られてしまったことを、痛切に感じ取った。
 僕はかつての母と同じ逆境に立っていた。僕はみっちゃんに裏切られてしまったのだ。それも今、僕はお腹に彼の子を宿しているというのに……
 僕は聴覚で受けた衝撃で、立ってもいられないほどに辛くなった。ましてや彼等を視覚で認めてしまえば、余りにも大きなショックのために気を失ってしまうかもしれない。僕はすぐさま体を反転させて、まるで誰かに追いかけられているかのように、走ってその場を去ってしまった。


 僕は帰宅すると、ずっと泣き続けた。これほどにも辛い現実が、自分の過去にあっただろうか。僕はみっちゃんのことを、これまでにずっと愛してきた。最近の彼が僕を乱暴な言動で苦しめようと、僕は心臓に槍が貫いているような痛みを、まるで神聖なものに忠誠を尽くすかのように耐え忍び続けてきた。近頃の自分はずっと、血を吐くような我慢を続けていた。もちろんそれには大いなる理由がある。その理由は、自分の体に宿った我が子に対する高尚な愛、それ故の無償の責任感が生じているものに違いなかった。
 僕はここ最近の数日間、自分の目前に迫る苦しい現状と、いつでも決別することができたはずだ。自分は突如、教室の孤児とされてしまった。そして誰も僕をこの孤独から救おうとはしてくれなかった。クラスの者は、僕から貧乏の悪臭でも感じ取っているかのように、自分のことを無視し続けている。しかし僕はその気になれば、この困窮極まる事態から、すぐにも逃れることができたはずだろう。なんせ僕だって、自分が孤立してしまった原因が妊娠にあると知っている。僕を取り巻く環境が、自分の妊娠を機に一変してしまった。
 もし僕が自らの身に起こった奇跡を否定して、彼等に自分の過ちを謝罪すれば、きっと僕はすぐにでも許されるだろう。でもそれは、卑怯な偽善行為に他ならない。僕は愛する人の子どもを身に授かった喜びを、道化の戯け事に昇華したくはないのだ。
 僕は今日、愛する人に裏切られていたことを知った。それにみっちゃんは僕だけではなくて、僕達二人の間に宿った、小さな命すらも裏切ってしまったのだ。
 僕は激しい不安に襲われ続けた。自分の未来には嵐の予感を伴った、真っ黒な雲が漂っている。彼は僕のことを愛していない。それどころか、自らの子のことさえも愛していない。彼は淫らな異性を求める本能的欲求心に、この世で最も大切なものを見失ってしまっている。これから僕達は、いったいどうなってしまうのだろう……
 僕は未来のことを考えれば考えるほど、顔面を涙と鼻水で汚してしまった。けれどこの透明な粘液は、決して精神的には汚れていないはずだ。これらの体液は、僕がみっちゃんと我が子のことを愛しているからこそ、泉のように湧き出てくるのだから。
 もしかすれば、みっちゃんは僕のことを捨ててしまうかもしれない。彼は我が子のことだって、見放してしまうかもしれない。そうなれば僕は、一生を未亡人のように暮らすことになるだろう。そして我が子は、一生を母子家庭のもとで、僕が経験してきた寂しい環境の中で過ごしていくことになる。
 僕はこれまでの生涯でずっと、母を見捨て、他の女性と一緒になった父を恨んできた。でもまさか自分の最も愛する人までが、僕の子どもにそのような思いをさせてしまうかもしれないとは!
 それでも僕と母には大きな違いが一つある。母はもう父のことを愛してはいない。それどころか、今だって元夫のことを憎み続けている。だが僕の場合は例え彼に裏切られたとしても、一生を通して彼のことを愛し続けるだろう。もし未来が僕にとって苦しいものになったとしても、僕はみっちゃんのこと、これから生まれてくる我が子のこと、そして三人を待っている将来のこと、これら全てのことをいつまでも、心の底から愛し続けるに決まっている。
 
僕は翌日、体調を崩したために学校を休んだ。ちょうどその日が金曜日であったので、僕は三連休を、自分の悲惨な精神状態を激励するために用いようと専念した。そして三連休の最終日、十九日の日曜日に思いがけない事が起こった。
僕は連休最後の日を迎えても、夜明けまで思慮に苦しんでいたので、自分は時刻が昼を過ぎても布団に被さって眠っていた。そのようなときに僕の目を覚ましたのは、目覚まし時計でもなければ、携帯の着信音でもなくて、下の階から響いてきた来客を知らせるチャイムの音だった。僕はその音に目を覚ますと、すぐさまベッドから飛び降りて玄関に向かった。僕は夢の中でも思考を働かせていたのか、この日に関しては寝起きが良かったので、来客を余り待たせずにすんだ。
僕が家の出入り口を開けると、驚くことにみっちゃんがいた。そして僕は彼が傘をさしているのを見て、家の外では細かな雨が、静かに降っていることを知った。
僕はみっちゃんの姿を確認したとき、言葉では表現の仕様がないような、微妙な感覚にとらわれた。それは喜びといっていいのか、恐れといっていいのか、どちらにも似て適さない感情だった。そしてみっちゃんが門を開けて傘を畳んだと同時に、やっと自分は彼に声を掛けることができた。
「久しぶりだね。」
自分はそれ以外に言う言葉を見つけられなかった。なんせ、彼とは久しく会っていないような気がしたから……
「お母さんはいるのか?」
「仕事だよ。」
「ちょっと、話したいことがあって来た。部屋に入ってもいいか?」
「うん。」と一言で返答した僕は、余りにも予想していなかった事態に困惑して、彼の表情を確認することもできなかった。そして彼を玄関に迎え入れた後、ふと身に雨の染み込むような寒さを感じて、まるでそれから逃げるかのように家の扉を閉めた。それにも関わらず室内の温度も低かったのだが……
 僕は彼の前に立って階段を上がっている間、これから起こる出来事を少しでも予想しようと努めたが、階段を上りきるまでの数秒間ではそれを終えるには短すぎた。
 自室に入れば、僕はすぐさまベッドに腰を掛けた。
「みっちゃんも座って。」
「俺は服が濡れているからいいよ。」
みっちゃんは雨に濡れていた。僕は彼の自転車を見なかったが、彼は傘をさしながら自転車に乗って来たのだろう。その証拠に上着に比べ、ズボンが少しだけ濡れていた。
「タオルを持って来るね。」と僕が立ち上がると、彼は反射的にそれを止めた。
「今日は話したいことが少しあるだけだ。言いたいことを言えばすぐに帰る。だから立ったままでも大丈夫だ。」
 僕は一度持ち上げた腰を再びベッドに下ろした。そして険しい彼の表情からこの後先を危惧した僕を、布団の柔らかさだけが守ってくれているように感じた。
「言いたいことって何?」
「どうして、金曜日は学校を休んだの?」
「体調が優れなかったから。」
「そうか……」とだけ言って、みっちゃんは短い溜息を吐いた。
「お前、祐輔に酷いことをされたらしいな。」
「誰から聞いたの?」
「美華だよ。」
僕はその名を理解するために、少しの間だけ沈黙を必要とした。そしてその名が木村の名前であることを理解したとき、僕はどれほどの嫌悪感を抱いたことだろう。
 僕が口を開けることも、みっちゃんの顔を見ることもできずにいたから、彼が凍って固まった僕に温かな息を吹きかけるかのように言葉を発した。
「祐輔には俺が言っておいたから。もうあいつはお前に何もしないだろうし、明日からは安心して学校に来なよ。」
僕の視界は陽の目が刺すように輝いた。彼は祐輔の乱暴から僕を守ってくれたのだ。けれどその嬉しさの反面、胸のどこからか怒りが、一瞬の嬉しさを遥かに上回る量で湧き出てきた。そして僕はその衝動的な感情に手繰られたかのように、ベッドから立ち上がって彼に叫んだ。
「木村と別れて!」
僕は子を守る母の役目を果たそうと、力一杯に叫んだのだ。
「みっちゃんは何をしているの?どうして、木村と付き合ってしまったの?みっちゃんが木村と一緒になれば、残された僕と僕達の赤ちゃんはどうすればいいんだ!早く木村と別れてよ!」
僕が言いたいことを言い終えたとき、その言葉の重みのためか、僕の上半身が大きく揺れた。そして僕は心の枷が外れてしまったのか、愛する人の前で大きな声をあげて泣き出してしまった。そして幼稚園児のように泣きじゃくる僕は、みっちゃんに激しく抱き締めてもらうことだけを望んでいた。
僕は水分を吸い込んではくれない右の手で、何度も何度も涙を拭いた。そして手が水浸しになって使い物にならなくなったとき、ようやく愛する人の表情を確認すれば、それは見るのも辛い嫌悪感を示した形相で、鋭敏な僕の胸はそれを見るだけで亀裂が走った。
僕は涙の混じる声で言い放った。
「僕は幸福になりたいだけなのに!未来では大きな喜びが、僕達のことを既に待っているはずなのに!みっちゃんはどうして、何も分かってくれないの!」
 僕がそう言ってみっちゃんを睨んだとき、彼は僕の頬に黄色い痰でもついていたのか、汚いものを見るような目で僕を見て、大股に一歩後ろに引き下がった。
「本当に気持ち悪いよ、お前は……」
彼はそれだけを僕に言い残して、駆け足で部屋を出て行った。僕は「行かないで!」と叫んだが、彼が戻ってきてくれるわけもなく、僕は一人で部屋に残された。そして少しすると家の外からは、自転車のスタンドを蹴る音が響いてくる。それに反応した僕が急いで外に向かえば、いつの間にか大きなみっちゃんの背中が、僕の指よりも小さくなっていた。
 僕は彼の背が完全に消えるまで、細かな雨に髪を濡らしながら、燃えるような喪失感を心に揺らめかせ、その場に突っ立っていた。

 六
 月曜日からも変わらず、誰一人として僕に話し掛ける者はいなかった。
僕はこの週明けの初日から、木村に対する激烈な怒りを抱いていた。その原因は今更、言うまでもないだろう。僕は彼女に家族の幸福を奪われてしまったのだ。僕に子を授けて下さったのが神様ならば、僕から幸福を奪っていく木村は悪魔に違いない。なんせ彼女は、僕に用意された神様の導きを、何の躊躇もなく僕から消し去ってしまったのだ!神様の御計画を邪魔する者が、悪魔以外の何者であろうか?
 僕の怒りは一秒を費やすごとに大きくなった。時刻が正午を過ぎて午前中最後の授業を終えると、みっちゃんと木村が二人で教室から出て行く。彼等が共に歩くとき、まるで木村をどこかへと導いていくように、みっちゃんが木村の一歩先にいた。僕はそのときに木村の後ろ姿を、悪魔の顔面のように真っ黒な後頭部を、激しい閃光で焼き尽くすかのような思いで睨んでいた。
 僕は一日また一日と、愛する者に疎外された孤独感に耐え忍び続けた。しかし週が始まってからの四日目、僕は怒りに理性を蝕まれ続けて、とうとう自分を見失ってしまったのだ。
木曜日の昼休みだった。僕はこの数日間、睡眠不足と感情の乱れに悩まされ続けていて、昼食を完食することさえもできなくなっていた。そして僕の鋭敏な精神は、とうとう発作を起こしてしまったのだ。僕はまだ完食していないお弁当の蓋を閉じて片付けると、何かを決心したかのように教室を出た。
僕は胸の奥で膨らみ続ける憎悪に逆らうことができず、膨らみすぎた風船のように、自分の感情が突如、大きな音をたてて破裂してしまったのだ。僕は迷うことなく、自分に秘密で言葉の愛撫が行われている場所へと向かって行った。
四階に到着すれば、自分は何も躊躇わずに二人の前に出た。すると前には声でしか認識できなかった二人が、僕の目の前で二つの机を迎え合わせにして座っている。
僕から見て横に向いた彼等の肩の後ろには、椅子を乗せた幾つもの机が並べられていた。それらは掃除さえもろくにされていないのか、彼等の背後が埃っぽく見えた。そして彼等が使用している机だけが、人に見放された集合体から少し離れて置かれていた。
僕はすぐに彼等と目が合った。
「どうしたの?」
みっちゃんが困惑のためか、少しだけたじろいでいるように思えた。僕はみっちゃんの質問に答えるつもりで、僕を見て不思議そうにぼんやりとしている、憎むべき可憐な悪魔に向いた。そしてきっと陰険さが内に潜んでいるに違いない、彼女の顔面を睨みつけた。
僕は木村の座る机まで近づいて、大声で怒鳴った。
「お前のせいで!何もかもがお前のせいで!」
僕が木村に怒鳴ると、木村は蛇に睨まれた蛙のように、表情を驚嘆と恐怖とに凍らせて固まった。
「お前が全部悪いんだ!お前は悪魔だ!お前が全てを僕から奪い取ってしまった!」
 僕が荒げた声を止めたとき、自分の踵が微妙に浮くような感覚を抱いた。驚くことに僕は制服の襟をみっちゃんの大きな拳で、ちぎれそうなほどに伸ばされていたのだ。
「美華に手を出して見ろ。俺がお前を殺してやるからな。」
彼の憤りは静かで、一瞬、嵐の前の閑散とした中に自分がいるように思われた。しかし僕は嵐の前の静けさよりも先に訪れた、突如現れた大きな稲妻に頭を打ち砕かれて、気を失ってしまいそうな目眩を感じていたのだ。
 みっちゃんが僕を殺すと言った……彼が僕を殺す?僕を殺すとはどういうことなのか、彼はそれを理解して発言しているのだろうか?
 みっちゃんが僕に言葉を発した後の一秒間で、僕の脳内の思考回路はいったい何十周と回り続けたことだろう。彼は僕に殺すと言った。彼が僕を殺すということは、姦通の罪に比べても遥かに卑劣な行為ではないだろうか?彼が僕を殺してしまうということは、彼が彼自身の手で、将来に約束された家庭の幸せを破壊してしまうということだ。そして彼が僕を殺してしまったと同時に、彼は僕の母胎に宿った自らの子の命までも、自らの手で殺めてしまうことになるはずだ。
 僕は彼に強い不信感を抱いた。彼はもはや本当に、僕達のことを愛してはいないのかもしれない。彼は僕に向かって「殺してやるからな。」と言った。はたして心の底から愛する者に、そのような下劣な言葉を言えるだろうか。いや、言えるはずがない。
 かつての自分はみっちゃんに愛されていた。二人が互いに抱いた愛情は、神様も認めてくれたほどに高尚なものであった。僕達はお互いに意識をせずとも、その純潔な精神をこれまでずっと、ゆっくりと交じり合わせてきた。そして僕達は性行為をすることもなく、神様から子どもを授かることができた。僕達はお互いを愛し続けることで、永遠に思えるほどの幸福を、そして奇跡を神様から与えてもらったはずであった。
 では今の僕は幸福だろうか?いや、今の僕はどうしようもなく不幸で、現在の自分は人生の逆境に立たされている。そして自分は胸を壊してしまうほどの絶望をしている。でも、それはどうして?僕の幸福は神様から約束をされたものではなかったのか?僕はそのことを考えた瞬間、余りにも巨大で、神様にも匹敵するように思われる化物を目前に見た気がした。
 僕は理性では抑圧のできなくなった興奮を発散するように、襟を掴むみっちゃんを力一杯に押した。すると彼は後ろに転んだ。
 みっちゃんが転んで尻もちをつくと、木村は「充昌くん!」と叫んで席から立ち上がって、机を回り僕を追い越して彼に近づこうとした。僕はそれを止めるために彼女の手首を掴んだ。
 彼女がみっちゃんの名を呼んだとき、僕は新たな心痛に唖然としてしまった。
 自分が愛する人の名を、木村が親しみを込めて「充昌くん」と呼んだことが、僕にはとても辛く感じられた。硝子に以前から深いひびが入っていれば、少しの力でそれを押しただけでも、硝子が音を鳴らして割れてしまうことがある。それと同様に彼女がみっちゃんの名を呼んだ行為が、僕の逆鱗に触れてしまったのだ。
 僕が木村の手首を掴んだとき、彼女は狂人を目にするような、臆病な面構えをしていた。けれど僕はそれにもお構いなしに、悪行をなした幼子を鞭打つように、彼女の頬を強く叩いた。
「お前のせいだ!何もかもがお前のせいだ!」
僕がそれを言い終えた瞬間、自分の腹部に激しくて重い衝撃が生じた。僕はわけの分からないままに仰向けに倒れてしまって、その直後には怒りに燃えたみっちゃんの表情が、自分の腹部の上に見えたのだった。
「糞野郎が!」
彼がそう叫んだと同時に、僕の頬は彼の大きな拳で思いっきり打たれた。そして彼が再び僕を殴ろうと手を振り上げると、木村が「やめて!」と叫んでみっちゃんを後ろから抱いた。彼女は目元に浮かんだ涙を、みっちゃんの制服の生地に埋めていた。
 みっちゃんは彼女の声を聞いて、僕の体から尻を離して立ち上がった。しかし彼の鋭くて見ただけで物を切断してしまいそうな目線は、彼が立ち上がった後もずっと僕に注がれていた。
 僕は長い間、自ら起き上がることができずにいた。精神を粉々に破られてしまって、どうして肉体を動かすことが可能だろうか。
僕は自分を睨みつけるみっちゃんに手を差し伸べてもらいたかった。しかし彼は動けずにいる僕を無視して、恋人の背中に腕を回し、そのまま僕の目の前から去ってしまったのだ。
 やっとのことで身を起こした僕は、彼等が座っていた机を見つめた。そしてみっちゃんが座っていた席に腰を下ろした。すると冷たくはない椅子には、まだ彼の体温が残っているように感じられた。僕は衝撃を受けた腹部を気にして目をやれば、ブレザーには彼の大きな足跡がついていた。それを見たと同時に僕の瞼からは、次々と涙が溢れきた。
 僕は昼休みの終わりを知らせる予鈴のチャイムが鳴るまで、机上にうつ伏せて泣き続けた。みっちゃんはこれまでに一度も僕を守ってくれたことはなかった。でも僕に一度だけ叩かれた木村に関しては……僕は彼に腹部を蹴られ、頬を殴られた。みっちゃんは僕よりも木村を選んだのだ。
 僕は再び制服に残った足跡を見た。するとその奥部にある愛しい命を思って、僕は精神的苦痛に息をするのも難しくなってしまった。そして僕は小さな我が子を慰めてやるように、大きくて真っ黒な足跡を両手で擦り落として、真っ白で無垢な魂から汚れを取り除いてやった。

 僕は一日の授業を終えて帰宅すると、それからはずっと、今日の出来事を回顧することに時間を費やしていた。
 僕はあれほどにも怒りを露わにした、みっちゃんの表情を初めて見た。彼が発狂して暴力を振るうところを、僕は今までに一度も見たことがなかった。それも彼は彼自身を愚弄されたわけでもない。彼は木村という愛人がたった一度の報復に頬を痛めただけで、僕の最も愛すべき存在が眠る場所を蹴って、更には彼の子の親である僕の顔さえも殴ってしまったのだ。
 僕は非常に辛かった。もう今の僕には、自らの家族の将来性というものが信じられなかった。
 自分は生前からの母子家庭で、生後からずっと世間の家族に漂う、愛の空間というものを知らなかった。だからこそ僕は家庭というものに対して、数多くの理想を抱いてきた。それは僕にとっては理想であるが、本来はそうであるべき姿、家庭の道理に他ならないものであるはずだ。僕の家族に関しては本来の道理から逸れて、道を誤っていただけにすぎない。
 本来の家庭の姿とは、愛に充ち溢れたものでないのか?自分が生涯の伴侶を心から愛する。その相手も自分のことを心底に愛してくれる。そしてその最高の愛に勝る逆説的な愛が、我が子に対してだけは許される。そのような愛に充ち溢れた生活こそが、本来の家庭に存在するものではないのか?
僕は自らの現状に絶望した。
 翌日の金曜日は学校を休んだ。これは故意的なもので、今日に学校を休むことで、またみっちゃんが先週のように僕の様子を懸念して、自分の家に訪ねてくれることを信じたのだ。僕は昨日の件があって、みっちゃんに対して気まずさを感じていた。それはぼんやりとした恐怖心とでも表現した方が適切であるかもしれない。僕は昨日に彼が自分に初めて向けた、激しい怒りに動揺していた。だからこそ僕の臆病な精神は受動的になってしまって、彼が僕の家にやってきてくれることだけを望んでいた。
 僕は三日間の休日を、揺れ動く精神状態の内で過ごした。僕は衰退した生命力を駆使して、大きな希望を待ち望んでいたのだ。しかしその思いとは裏腹に、彼は一向に僕を訪ねてはくれなかった。
 とうとう自分が日曜日の晩を迎えたとき、僕は己の持つ希望の無力さを痛感した。みっちゃんは先週と違って、僕のことを訪ねてはくれなかった。彼はもう、僕のことを気にしてくれてもいないのだろうか?
 僕は自分が愛する人に見捨てられたような、心の痛む空虚感に襲われて、三連休最後の日を終えたのだった。

 七
 僕はみっちゃんが訪ねてくれなかった寂しさ、または不安を抱いたまま、週初めの登校日を迎えた。この日は定期テストの一週間前で、来週の新たな月を迎えた四日目からは試験が始まる。しかし今の僕にテスト勉強をする気力があるわけなかった。
 僕はどう抵抗すればいいのか分からない、漠然とした無気力の縄に拘束された状態で、行きたくもない学校に仕方なく通学した。そして僕が学校の門をくぐって、靴箱のある正面玄関の間に入ったとき、自分は信じられない問題と向かい合わせになった。僕が上履きに履き替えるために自分の靴箱を開けて上履きを手に取れば、それを掴んだ手が冷たさに濡れてしまったのだ。僕は呆気に取られて、上履きを自分の両足の隣、簀の子の上に置いた。
 僕は急な出来事に、唖然とすることしかできなかった。どうして僕の上履きが濡れているのだろう。普通に考えるのならば、これは誰か僕を困惑させたい人による悪戯だろう。でも、いったい誰がこんなことを……
 僕はまず祐輔の顔を思い浮かべた。けれど彼は以前、みっちゃんに僕を困らせないように言及されたはずだ。だからこれは祐輔やその周囲の者による悪戯ではなくて、僕のことを知らない誰かによる、無差別的なものであるのかもしれない。
 僕は濡れた靴箱にできた空間を見つめながら、濡れた上履きに足を通すかどうかを悩んだ。一組の上履きは、この寒い季節に足を入れるには余りにも濡れすぎていた。来客用の玄関には確か訪問者用のスリッパが用意されていたはずなので、それを借りようかとも考えた。だがもし教職員にスリッパを履いているわけを聞かれてしまったら、僕は何と答えれば良いのだろう……僕は少し考えた末、連休前に上履きを洗うために持ち帰ったことにしようと考えた。しかし改めて考えてみると、僕は体調不良という理由で、金曜日は学校を欠席した。そのために僕は言い訳のしようもなくて、それでも事実を先生にばれてしまえば、大きな問題になる可能性があるので、僕は濡れた上履きで一日を過ごすことに決めた。
 僕の濡れた上履きの底は、きっと教室に向かう途中、廊下の数多くの箇所を濡らしたに違いない。透明色の足跡は目で見えなくても、間違いなく廊下には、僕の足と同じ大きさである余りにも薄い水たまりが、あちこちに散らばっていることだろう。もしかすると誰かがそれに足を滑らして、転んでしまうかもしれない。
 僕は濡れた足に視線をやりながら、惨めな気持ちを背負った背中を丸めて、憂鬱な気分で教室に入った。すると自分が教室に入った瞬間、みっちゃんの席に集まっている木村、中本、祐輔、智海が、まざまざと僕の顔を見つめてきた。
 僕に目をやる五人の表情はそれぞれに異なっていた。みっちゃん、木村、中本の三人は、怒りを露わにして僕を睨みつけている。そして他の二人は、まるで不様な人間の醜態を嘲笑うかのような微笑を、顔面に添えていた。
 僕は不気味な違和感に襲われながら席に着いた。すると途端に中本が僕に近づいてきた。それから彼女は着席する僕の前にやって来ると、僕のことを数秒間と睨んだ。その人相はまるで子を殺された親が、長い間、恨みを果たすのを待ち続けてきたかのような、激烈な怒りを露わにしたものだった。
 中本は僕を睨み終えた後、手で大きな半円を顔の側に描いて、僕の頬を激しく打った。僕は急な痛みが響いている頬に手を添えた。すると彼女が僕に向かって口を開いた。
「女を殴るなんて人間の屑。美華を殴ったことは絶対に許さない。ずっと、苦しませてやるから。」
僕はとっさの痛みに耐えながらも口を開いた。
「僕の上履きを濡らしたのは君?」
「そうよ。それに何か問題でもあるの?」
彼女はそれだけを言ってしまうと、自分の仲間が集まる席に戻って行った。
 僕は彼等の表情を確認した。すると祐輔と智海が泣きそうになっている僕を見ることで、腹を抱えて笑っていた。そして僕に中本の頬打ちよりも大きな打撃を与えたのは、その二人の側の椅子に座っているみっちゃんが、彼等と一緒にうっすらと笑っていることだった。彼は僕を見てくれることもなく、ただ祐輔達の視点とは反する場所に目線を向けて微笑していた。木村と中本は相変わらず、被害者の家族が殺人鬼を睨みつけるような視線を自分に送っている。
 僕はみっちゃんに失望した。彼は僕の不幸を見て笑っている。彼は僕の上履きが濡らされようと、僕が彼の目の前で暴力を受けようと、自分のことを助けてはくれない。僕は孤独だ。誰も僕のことを助けてくれない。みっちゃんが僕のことを助けてくれないのだから、それ以外の者が僕を助けてくれるはずもない。 
僕は中本が口にした、「ずっと苦しませる。」という言葉が忘れられなかった。
 一限目の授業が始まってからは、僕にどのような災難も起こらなかった。もし災難があったとするならば、それは自分自身による、不安を主題とした自問自答の連続だった。
 僕が本当に恐れたのは、昼休み時のみっちゃんと木村が教室を離れる時間だった。僕はその時になれば、残された三人によって徹底的に痛めつけられてしまうかもしれない。そのことを考えるだけでも自分は不安で仕様がなかった。自分が殴られるだけならまだ我慢ができる。けれど今の僕の体は、僕の体であって僕だけの体ではない。今の僕の体には、愛しくてたまらない我が子が健やかに眠っている。僕は自分の肉体に暴力が振るわれることで、この子にまで危険を及ぼされることを非常に恐れているのだ。
 昼休みの時刻になったとき、僕はお弁当箱を開けることなく教室を出て行こうと思った。そうでもしなければ、みっちゃんと木村がすぐさまお弁当箱を携えて、教室から出て行ってしまうはずであるので、僕は残された三人組に残酷な苛めを受けるかもしれない。祐輔はリーダー格であるみっちゃんがいなければ、虐待の頭角を現すに決まっている。彼はそういう人間なのだ。しかしこの日のみっちゃんは、昼休みになろうと席を立たなかった。それどころか彼の周囲には、今朝そこに集まっていた人間が集まってきた。そして彼等はみっちゃんの机の周囲にある、誰にも使われていない机を三つ近づけて、その大きなテーブルを五人で囲み、昼食を共に食べ始めた。彼等は皆で仲良さげにしていた。
 僕はそれを見ると、今日は開けずに持ち帰ろうとしたお弁当を持って、現実から目を背けるように、そのまま教室から出て行った。
 僕は一人で、みっちゃんが恋人と食事を共にしていた、最上階の踊り場に向かっていた。
僕がその場に到着すれば、彼等の築き上げた二つの机が、今もそのまま向かい合わせに置かれていた。僕はすぐさま、みっちゃんが座っていた席にお弁当箱を置いた。そして木村が座っていた椅子を、その組となった机上に乗せて、それらを奥の倉庫代わりとなっている場に運んだ。机を運び終えた僕は、一つだけ残された席に腰を下ろして、そこで食事をすることに決めた。けれど僕がお弁当箱の蓋を開けようとするよりも早く、自分の胸にこれ以上は抑えることができない、不幸の感情を全て吐き出すように、自分は瞼から大量の涙を流し始めた。
僕の精神的な苦痛は極めて大きかった。自分が不幸になればなるほど、彼等は楽しそうにやっている。今まで木村と中本は、二年間同じクラスメイトではあったが、みっちゃん、祐輔、智海とは余り接点がなかったはずだ。その彼等が、僕の不幸を機として仲良くなっている。そしてその空間の中には、僕の居場所などありはしない。
 僕は完全に孤独だ。彼等にとって、僕の存在価値などきっと無に等しいだろう。自分は別にそれでも良かった。彼等が僕に価値を見出さずとも、それでも別に僕は構わない。ただみっちゃんにだけは、そうであって欲しくなかった。自分の愛する人にだけは、僕の居場所を用意してもらいたかった……
「この子は愛されているのだろうか……」
 僕は頬に激しく流れている涙のせいで、昼食に手をつけることもできなかった。自らの頬には大きな二本の川が流れているが、僕はそれを止める術が分からず、頭の中のどこを探しても、川の真ん中に盛り上げる土砂を見つけられないでいた。
 しばらくしてようやく涙が落ち着いた頃、僕はやっとお弁当の蓋を開けることができた。そして僕は右手で箸を持ち、ようやく昼食を口にすることができた。
 僕は口に入れたものを飲み込んで、口内に空っぽの穴ができたとき、何度も赤ちゃんに一つのことを言い続けた。
「一緒に幸せになろうね。」
僕は何度もそれを口にした。まるで自分を激励するかのように、何度だってそれを口にした。
 けれども幸福とはいったい何なのだろう?僕と我が子にとっての幸福とは、いったい何であるのか……僕は少しの間、自分の胸の内にある考えを探り続けたが、それは言うまでもなくて、愛する人に愛されることではないだろうか?僕は今、幸福ではないだろう。むしろ今の僕は不幸であるに違いない。だって僕達は、自らが愛する人に少しも愛されていないのだから。
 僕はみっちゃんに愛されたい。僕は彼に愛されることで幸福になりたい。でも彼は僕のことを愛してくれない。それに彼は僕達の赤ちゃんのことさえも愛していない。彼がもし我が子のことを愛しているのならば、自分の子が宿る僕のお腹を、木村のために蹴れるわけがないだろうから……それとも彼は僕が彼の子を妊娠したことを、本当に知らないだけなのだろうか。彼は僕が妊娠したことを知らないために、僕のことを愛してくれないのだろうか……
 僕が自分の身に不幸を感じているのは、自分のみっちゃんに対する愛情が、ただ一方的なものであるからだ。彼は僕のことを愛してくれてはいない。だから今の僕は不幸であるわけだ。でも彼には僕を愛さなければいけない責任がある。僕達は共に神様から子を授かった。今は僕の母胎で眠る赤ちゃんが、僕と彼とを永遠に繋ぐものであるはずだ。現在の僕と彼との関係は、友達同士でもなければ、恋人同士でもない。僕達は天から子を授かった身内同士だ。だからこそ彼には僕を愛さなければいけない責任があるし、僕には彼に愛される義務がある。僕達の愛情は、一方的なものから相互的なものに変わらなければいけないはずだ。彼がそれを拒むのならば、それは神様に対する冒涜行為に他ならない。もし彼がそれを承知の上で、僕に向けるべき愛を否定するならば、彼は地獄に落とされてしまうだろう。しかし僕は彼がそのような人間でないことを知っている。彼はきっと、僕が妊娠したことを知らないだけだ。きっと彼は信仰心のなさのため、神様が起こして下さった奇跡を信じることができないでいるのだ。ならどうすれば彼に真実を知ってもらえるのだろうか。
 僕は考えるまでもなく、一見は難関にも思われる問題に答えを出した。それは僕が彼との間に授かった赤ちゃんを絶対に産むことだ。
 僕はお腹に手を添えて、その手の温かみを感じているだろう我が子に笑いかけた。すると僕のお腹の中が少しだけ動いたような気がした。この子は僕とみっちゃんが心から互いを愛し合った結果として、自分のお腹に宿った。いわばこの子は、僕達が互いに抱いた特別な愛情の証明である。だから僕がこの子を産めば、そしてみっちゃんがこの子の姿を目にしてくれれば、かつての僕に対する愛情を、彼は必ず思い出してくれるに違いない。僕は例え今がどれほどに辛くとも、みっちゃんに対する愛情だけは失わないようにしよう。僕がこの子を産むまでの間、僕は彼に対する愛情を絶対に失わない。自分が孤独感に襲われるのは、この子を産むまでの我慢だ。その後で僕は必ず幸せになろう。
僕は赤ちゃんに呟いた。
「一緒にみっちゃんを信じようね。」
 
 予鈴のチャイムが鳴ると、僕は教室に帰って行った。
僕が出入り口に入って行ったとき、そのすぐ側の席に座っていた中本が、教室に入ってきた僕を見て、卑しい笑みを表情に浮かべた。それに自分が教室に入った瞬間、僕はクラスメイトの全員から、好奇心を宿した目で見られているような気がした。
 僕は不思議で気味の悪い気分に襲われて、自分の座席に向かった。そして着席するべき席に近づいたとき、僕は自らの机に白いチョークで「死ね。」と書かれていることを目で確認した。
 僕は落書きされた机を見て、ただ茫然と突っ立っていた。僕は度の過ぎた悪戯に唖然としてしまって、着席することさえもできなかった。そして僕は机上に大きく書かれた落書きを消すために、手で白い文字を擦ってみた。しかしチョークの白い汚れは、ただ横に広がって太くなるだけだった。
 僕が手で机を必死に擦っていたとき、教室内の所々から笑い声が聞こえてきた。その中でもとりわけ笑い声が大きかったのは、言うまでもなく智海で、その次が祐輔だった。
 僕は先生が教室に入ってくるまでに、どうしても机の落書きを消してしまいたかった。この落書きが先生にばれてしまえば、確実に大きな問題となる。そうなれば僕は苛められた側として、先生から擁護してもらえることにはなるだろうが、この件にはみっちゃんが関わっている。だから教職員を巻き込むような、面倒な問題事に彼を巻き込みたくはない。
 僕は急いで廊下に出た。そして教室の出入り口のすぐ側に置かれている雑巾置きから一枚の雑巾を取って、幾つかの教室分を隔てた水道場まで走って行った。そして雑巾を濡らすと再び幾つかの教室を越えて、自分の教室に戻って行った。
 僕が落書きのされた自分の席に向かえば、驚くことにさっきまではなかった文字が新たに書き足されている。机一杯に書かれた「死ね」の文字に重なって、「キチガイ」と赤色のチョークで書かれていた。
 僕は濡れた雑巾で机を拭いた。僕の握っている雑巾の面は、血でも流したかのように真っ赤になった。
 僕はとてつもなく悲しかった。この教室は敵ばかりだ。僕が机を濡れ雑巾で拭いている間も、所々から笑い声が響いてくる。そしてその中でも大きな声を出しているのは、相変わらず智海と祐輔だった。
 僕が汚れた机を綺麗にしたと同時に、担任の先生が教室に入って来た。そのために僕は一面が真っ赤になった濡れ雑巾を、仕方なく机の中にしまった。そしてその瞬間、またしても何人かの笑い声が聞こえてきたが、その中でも際立っていたのが、今度は中本の甲高い笑い声だった。
 僕の心は雑巾に濡れて湿った教科書のように、憂鬱に潤んでしまっていた。このときの僕は、自分を救ってくれる者を見出だしたくて、僅かな希望を頼りにみっちゃんの席に目を向けた。するとまず目に入ってきたのは、みっちゃんの席から二つ前の席に座る祐輔の卑しい笑い顔だった。僕はその顔を敵視して睨みつけた後に、愛する人の顔を確認した。するとみっちゃんは真顔で、僕のことを笑うでも責めるでもなく、机上に刻まれた皺の数を数えているように、机の面を見ているだけだった。
 僕は彼がいったい何を考えているのかを想像した。それとも彼は何も考えていないのだろうか?もしそうならば、彼は僕に関心がないということになる。でも僕は彼が自分の不幸に同情をして、自らの正義感と葛藤しているようにも思えた。だからこそこの日に限っては、彼に対する信頼心を少しだけ取り戻すことができた。
 
 僕に対する残酷な苛めは、この週初めからずっと続いた。僕がクラスの皆に無視をされるのは当たり前で、僕が教室にいるときは、耳を澄ませば必ずどこからか、僕に対する陰口が聞こえてくる。僕は一日に何度も陰湿な言葉の暴力を受けた。そして休み時間中に僕がトイレに行けば、自分の机には必ず落書きがされているから、僕は常に濡れ雑巾を机の中に常備しなければいけなくなった。それどころか授業中に教科書を開ければ、大きな文字で書かれた落書きを見つけることもあった。これが鉛筆で書かれたものならばまだ良かったが、酷いときは油性ペンによる落書きや、もっと酷いときは教科書の見開き一ページが破られてしまっていたため、僕は授業をまともに受けることもできなくなってしまうときがあった。それに絶対に持ってきたはずの教科書やノートが、どこにも見当たらないことも幾度とあった。そういうときは、後からゴミ箱を探れば出てくるときもあったし、どこを探しても見つからないときもあった。学校が終わって帰宅する際も、靴箱の靴が濡れていたり、ましてや見当たらなかったりもした。そのために僕は授業が終わってから、上履きで運動場を歩き回って、見当たらない靴の詮索をした日だってあった。そして完全下校のチャイムが鳴っても靴が見当たらないときは、上履きを履いたままで帰宅して、母にそれがばれないように、通学用のカバンに上履きを入れて自分の部屋に引き籠った。それにしても何て苦しみの連続する日々だろう!僕は生まれて初めて、他人からの攻撃というものを経験しているのだった。
最悪の日々が続いた。しかしその中でも、自分を幸福にしてくれた日があった。精神的に追い詰められる日々の中で、僕は苦しむ自らを励ましてくれるような、まるで天使の歌声のように甘美な夢を見たのだ。
 僕は夢の中で、自分の知らない家のリビングにいた。そのリビング内には、食事用の長机と四席の椅子、テレビにソファーなどが置かれていた。まるで僕の住む古い家のリビングとは違って、壁は木造ではなく幾何学模様の浮かんだ、真っ白な壁紙が貼られていた。そして床も汚れた板目ではなくて、艶のあるコルク製で、柔らかく踏み心地の良いものだった。
 僕は真っ黒のソファーに沈んでいた。そしてソファーから動こうともせず、その様はまるで一度憂鬱に浸ったものが、なかなかその沼から抜け出せずにいる光景に似ていた。そしてそんな僕の目の前に自分の身長の半分にも満たない、小さな幼子がやってきたのだ。
 僕はその幼子の顔立ちをはっきりと思い出せない。しかし夢の中の僕は、その子の顔をはっきりと確認していたはずだ。それでも記憶となった夢を回顧してみれば、その幼子の顔面には始終、濃厚な靄のようなものが覆い被さっている。不思議なことに僕は、どうしてもあの幼い子の風貌を思い出せないのだ。ただ僕は夢の中でその子に対して、自分やみっちゃんに共通する類似点を何度も見出だしていたことを覚えている。そして髪を襟足まで伸ばした幼子は、女の子のような甲高くて可愛らしい声を発するのだが、その子は僕とみっちゃんとの間に生まれた男の子だった。
 ソファーに座る僕の目の前に現れた幼子は、僕にパパと呼び掛けて話し始めた。
「パパ!あのね、さっきおばあちゃんから聞いたんだけれど、みっちゃんは天国に行ったんだよね?なら、僕とパパも天国に行けば、みっちゃんに会えるかもしれないよ!」
僕の息子は満面の笑みで、自分の目の前に立っていた。そして僕は可愛らしい子の愛しげな言葉に、何と言って反応をすれば良いのかが分からなかった。
「僕と君はまだ天国にはいけないよ。」
「どうして?どうして僕は天国には行けないの?ならどうすれば僕は天国に行けるの?」
「天国に行くためにはね……」
僕は天国に行くための方法を真剣に考えた。どうすれば幼い子を納得させることができるのか……僕は少しの沈黙の後、その静寂をゆっくりと優しく破るように口を開けた。
「天国に行くためにはね、誠実に生き続けなければいけないんだ。」
「誠実って何なの?」
「それはね、自分の思いに素直であることだよ。」
「わけがわかんないよ。」
 僕の子どもは拗ねてそっぽを向いてしまった。その拗ねた表情が僕にはとても可愛らしく思えて、僕はその小さな顔を、膨らんではいない自分の胸に埋めた。
「天国に行くためにはね、同じ人のことをずっと好きでいればいいんだ。」
僕の胸に挟まれた子どもは、僕の目に視点を合わせるために、首を少しだけ上に向けた。
「好きな人のことをずっと好きでいれば、僕だってみっちゃんのいる天国に行けるの?」
「そうだよ。」
僕は子どもの背中に回した両手を解いて、自分の隣に座るように言った。そして我が子が自分の隣に勢いづけて座れば、僕はソファーから伝わる微妙な衝撃に少しだけ揺れた。子どもは相変わらず、僕の方を向いて話し掛けてくる。
「僕はずっと、みっちゃんのことを好きでいたよ?だから僕もそろそろ天国に行けるってことだよね?」
「いや、君はみっちゃんのことを、君がおじいちゃんになるまで、ずっと好きでいる必要がある。ずっと好きでいるってことはね、君が死ぬまで好きでいるってことなんだ。君と同じで僕だって、今もそしてこれからもずっと、みっちゃんのことを好きでいるよ。
 そんなに待てないだって?でもこれだけは仕方のないことだからね。君はずっとずっと、好きな人のことを好きでいなければいけない。人生で一番に大切なことは、同じ人をずっと好きでいることだから、それさえ止めなければ君は絶対に報われる。必ず幸せになれるよ。」
僕がそれを言い終えた瞬間、誰かが僕の右肩をソファーの後ろから叩いた。僕が驚いて後ろを振り向けば、そこには十代の姿ではない、大人になって更に大きくなっていた彼がいた。彼は満面の笑みで僕のことを見つめていた。
 僕はすぐさまに体を反転して、みっちゃんの逞しい胴体に抱き付いた。
「みっちゃん!」
僕がみっちゃんの着用する服を嬉し涙で濡らしていると、僕と彼との子どもが足をソファーに上げて、小さな手でみっちゃんの大きな掌を取った。そして我が子は僕と同じように嬉し涙で泣き崩れてしまった。
「パパ!パパ!大好きだよ、パパ!」
部屋内では僕と我が子の泣き声が響いていて、その中でも際立って我が子の「大好き」と叫ぶ声が、この世の天よりも輝いて目立っていた。

 八
 十二月四日の金曜日から定期テストが始まった。十二月に入れば、昼になろうと気温が一桁で、通学時には身を刺すような寒さが生徒を苦しめた。そしてこの季節に、この寒さよりも生徒を憂鬱にするのが、今回の定期テストであるということだ。
 僕は勉強が出来ないわけではなかった。今までだって、僕は常に平均点を下回ることはなかったし、いつも定期テストの一週間前になれば、僕はみっちゃんと一緒に教室に残って、彼に勉強を教えていた。しかし今回のテストでは、僕は問題を全く解くことが出来なかった。
 そもそも僕は今、もう二度と向き合うことはないだろう、人生の難問に挑戦している。だからそれ以外の問題が、今の僕の目には入らないのだ。ただ言えることは、この僕が相対する問題は、学校のテストとは違って、努力に比例した結果を与えてはくれない。何しろ当問題は、思考ではなくて信仰心によって解決される問題であるから。
 僕は週明け初日のテストも、二日目のテストも全く解けなかった。何しろ近頃の僕は、精神的な緊張のため、授業をまともに受けることもできなかったのだから。
今日に行われた二日目のテストは、三教科しかなかった。そのために午前中には全てのテストを終えた。
 テストを全て終えた僕は教室を出ようとした。するとそのすぐ側に座っていた中本が立ち上がって、僕の左肩を掴んだのだった。
 僕は驚いて彼女を見た。すると弱者で空腹を満たそうと興奮しているかのように、彼女が意地悪な笑みを顔に浮かべていた。
「この後、一緒に勉強しようよ。」
「止めておく……」
「いいから一緒に勉強しようよ。ね?」
中本が僕を逃さないため、僕の手首を不気味な力で離さなかった。僕はその網から逃れようとする小魚のように、情を心の内で轟々と燃やして叫んだ。
「離して!」
 僕が必死の抵抗で中本から逃れたと同時に、誰かの大きい手が再び僕の手を捕まえた。それは言うまでもなくて祐輔だった。
 僕は祐輔を見て、先日の彼による暴力的行為を思い出し、瞬きをすることさえも忘れてしまった。
 僕は助けを求めるように、クラス中を視点で詮索して、みっちゃんの姿を探した。けれど彼の姿はどこにも見当たらなかった。そして中本の前の席も既に空席となっていた。
「一緒に勉強するぞ。」
僕は祐輔の誘いを断りきれず、彼、智海、中本に連れられて、隣の空き教室へと連れて行かれた。
 祐輔は課目的教室に入った瞬間、この教室の使用を、テスト期間中だけ担任に許可されたことを僕に話した。
「自分の教室は、居残っている奴がたくさんいるし、そいつらの声が耳障りで仕方ないって言えば、担任はすぐに許可してくれたよ。歳が俺等と近いだけあって、話の分かる担任だぜ。」
「どこに座るの?」と中本が尋ねる。
「中央にしよう。」と智海が答えた。
僕等は中央にある四つの机を互いに向かい合わせた。僕の隣には智海、真ん前では祐輔が向かい合わせに座っていた。
 僕はこの先、何が起こるか分からない現状を克服しようとしたが、恐怖する他に何も術を思い至らなかった。僕は獅子を目前にした子猫のように、始終、びくびくと震えていた。しかしその不安に反して、彼等は黙々と勉強に励んでいるのだった。僕にはこの静けさが、逆に奇妙に思われて仕方がなかった。本当に彼等は勉強をするためだけに僕を誘ったのだろうか?それとも彼等が僕をここに連れて来たのには、何か他の理由があるのだろうか。僕はこの後に起こる可能性のある事態を、何度も不安と憔悴を用いて予想した。そして真面目な勉強会が開かれてから約一時間後、その問題が明らかになってきた。
 僕達は最初の一時間、教科書、ノート、テスト対策に配られたプリントを机に置いて、お互いの知るところを小声で互いに捕捉しあった。それは真面目な勉強会だった。けれど祐輔の発言を気にして、その頼りない仮面が簡単に外れてしまったのだ。
 祐輔はプリントに数式を連ねていたシャープペンシルを、指先から離して机上に落とした。そして単調な落下音が消えたのと同時に、彼は僕に嘲るような顔を向けた。
「優は妊婦さんだよな?」
彼にそう尋ねられても、僕は口を開くことができなかった。その僕の無言を代用するように、智海と中本が、噛み締めた笑い声を口内から漏らしていた。
「俺はお前を妊婦さんと知らずに、ひどいことをしてしまっていたよ。お前の腹を殴ったこともあったからな。本当に悪かった。でもな、俺にも少しだけ聞きたいことがあるんだ。お前はどうやって、充昌の子を腹に宿したんだ?お前さ、赤ちゃんって何をすればママのお腹に宿るのか知っている?言ってみなよ。」
「やめなよ。」と言って、中本が意地悪く声を出して笑った。
「僕達の場合は、赤ちゃんを贈り物として神様から授かったんだ。僕とみっちゃんがお互いに心から愛し合っていたから、神様が僕達に赤ちゃんをプレゼントして下さったんだ。」
「愛し合ったからプレゼントしてもらった?それならば木村の腹の中にだって、今頃はベイビーが宿っているはずだな。」
祐輔が話している間、まるで彼の道化に背景音楽を奏でるかのように、智海が人から出たものとは思えない不調子なテンポで、笑い声を発するのだった。
祐輔は智海の笑い声が弱まると、再び口を開いた。
「どうしてあの二人には、子どもができやしないんだ?」
「それは彼等が愛し合っていないから。」
「違うよ。彼等がまだ裸を見せ合っていない、もしくは避妊をしているからだろうが?」
「やめなよ。」と中本が笑顔で彼に言った。
「お前はお互いが愛し合えば子が宿ると言ったな?なら、この世の不妊症に悩む夫婦はどうだ?彼等はどうして子を作れないんだ?この世の不妊症に悩む全ての夫婦が、お互いが愛し合っていないからとでも言うのか?」
「僕達は特別だ。僕達は運が良くたまたま、二人の濃厚な愛情を、天に住まいの神様にご覧頂くことができた。そして二人の誠実な愛情が神様の心を動かして、僕達は奇跡的にも特別に子どもを授かったんだ!」
僕が熱を込めた言葉を言い終えると、教室内は静けさに包まれた。そしてその静けさを破るように、祐輔が真顔で、荒げた声を僕にぶつけてきた。
「お前の言うことが全く理解できない。お前は俺等を馬鹿にしているのか?あのな、言っておくが、男が子ども腹に宿せないことなんて、幼稚園児でも知っているぜ?
智海!あれを出してくれ!」
智海は「分かった。」と言って、やけに楽しそうに鞄から小さな箱を取り出して、それを乱暴に開けた。
 彼が箱から取り出したものは、スティック状である小袋だった。僕はそれを目にしたとき、もしかすると赤ちゃんに悪影響のある粉薬ではないかと勘ぐった。僕はかつて祐輔が自分に見せた、丸い錠剤を思い出していたのだ。しかし智海がその小袋を開けると、そこから出てきたのは、白い体温計のようなものだった。智海はそれを祐輔に手渡した。
「中本。これはどうやって使うんだ?俺は男だから妊娠とは無縁だし。」
「私だって知らないわよ。まだ使ったことがないもの。とりあえず、説明書を読んでみたら?」
 祐輔は箱に同封されていた、説明書らしい一枚の紙を読み始めた。
「なんだ、すごく簡単だな。棒先に小便をかけるだけって書いてあるぜ。でもこの図にはある棒先の部分が、これには見当たらない。」
「キャップを開けなよ。」
「本当だ。これキャップだったのか。全く気付かなかった。でもどうして、中本は分かったんだ?」
「見れば分かるでしょ!」
 中本は顔を赤らめていたが、僕にはその理由が分からなかった。そもそも祐輔が持っているものが何であるのか、全く自分には分からない。僕が呆然としていると、祐輔が僕の側までやってきた。
「優、この棒先を小便で濡らしてこい。そうすれば、お前が本当に妊娠をしているのかが分かるから。もしお前がこれに小便をかけて、この四角い窓に青い線が入れば、お前は俺達に嘘をついていなかったことになる。とりあえず立て。そして早くトイレに走って行け。」
 僕は祐輔から体温計のようなものを受け取った。それの真ん中には四角い窓と丸い窓が並んでいる。その先端には、スポンジ生地のようなものでできている、短い棒が伸びていた。
「優、これは妊娠検査薬って言うんだ。要するに女性が妊娠をしたかどうかを調べるために使うものだ。これでお前も、やっと自分が本当に妊娠をしているのか調べることができるわけだ。どうせ、今までに検査薬を使ったこともないんだろう?」
 僕は手に持った非常に軽い妊娠検査薬を見て、自分でもどこからきたのかが分からない恐れを抱いた。理由は分からないが、絶対にこれを使用してはいけない気がした。これを使ってしまえば、自分の内にある何かが簡単に壊れてしまうような気がした。
これで僕が妊娠をしているかが分かると彼等は言う。でも、こんなにも軽くて、中には何も詰まっていないようなもので、僕が神様から子を預かった奇跡を知れると言うのか?僕の妊娠が、この間抜けな一本の棒で証明できるわけがない!それにこれを使用するということは、神様から頂戴した賜り物を、まるで疑っているのも同然ではないか!
「僕はこんなもの、絶対に使わないよ。」
「使わなければ、お前が気を失うまで腹を殴ってやる。」
 僕はどうしても検査薬を使いたくなかったので、手で握り締めた検査薬の先端にある、棒先の部分を親指で強く押した。すると棒先が折れたのか下に落ちてしまって、手の中にある検査薬は二つに分解した。そして僕が手を開ければ、その中から透明色の付箋のようなものが地に落ちた。僕がひらひらと落ちる小さな紙を見ていると、急な痛みを頭から感じた。祐輔が僕の髪の毛を強い力で引っ張っていたのだ。
「痛いよ!やめて!」
「ふざけやがって!もう一本あるからな!次は絶対に壊すなよ!」
「嫌だ!僕は絶対に使わないから!」
 祐輔が引っ張っていた僕の髪を手から離して、僕の腹に物凄い力で暴力を振るった。僕はその衝動でその場に蹲った。すると祐輔が僕の体を力一杯に押すので、自分は床に仰向けに倒れてしまった。その後に突如、彼が僕の腰辺りに乗っかってきたのだ。
「智海!こいつの両手を早く抑えろ!」
 祐輔の命令を聞いた智海は、すぐさま僕の両手を掴み込んだ。僕はそれに激しく対抗したが、それを防ぐように一回目のパンチが自分の腹を襲った。祐輔は何度も何度も連続で、僕のお腹を拳で殴った。僕はその急な暴力に弱ってしまって、もう智海と戦うことすらもできなくなってしまった。
「痛い!やめて!」
 祐輔が大声で言った。
「殴られるのが嫌ならば、検査薬を使え!使うと約束すれば、俺はここから離れてやる!」
「嫌だ!さっさとどけ!」
 祐輔の暴力は一向に終わらない。僕は全身を用いて彼に抗おうとするが、自分の腹に痛みが生じる度に、僕は全身の力を失くしてしまうのだった。
 自分は目を開けていたが、自らの視界には何も映っていなかった。天井も祐輔の顔面も映らない。笑い声を上げる智海の姿も見えはしない。ただ自分の目に映っていたのは、僕の愛する人の姿だけだった。
「助けて、みっちゃん!みっちゃん!」
 僕は愛する人の名を呼び続けた。しかし彼が僕を助けにやってきてくれるはずもない。それでも僕は、みっちゃんに助けを求め続けた。
「みっちゃん!助けて!」
 僕は大きな泣き声を発しながら、自分を痛めつける彼等に訴えた。しかし僕がどれほどに顔面を涙で汚くしようが、彼等はちっとも暴力を止めてはくれなかった。
「赤ちゃんが、赤ちゃんが死んでしまう!」
 僕は腹を百発は殴られたに違いない。それに智海にずっと強い力で掴まれていたので、両手首からも非常に強い痛みを感じていた。そして僕が落涙してからきっと数十分と経過した後で、中本が二人を止めてくれたのだった。僕は再び彼女のおかげで、祐輔の暴力から解放された。
 僕はすぐに立ち上がることもできず、しばらくの間は横たわっていた。すると祐輔が汚い靴を僕の腹に乗せて言った。
「もう一本あるからな。明日はちゃんと使えよ。さもないと今日みたいに苦しめてやるからな。」
 彼は僕にそう言い残すと、側にいる二人を連れて教室から出て行った。
 誰もいない教室に残された僕は、仰向けのままでずっと泣いていた。殴られたところが痛かった。そして一番に痛いのは心だった。きっと祐輔の非情な暴力に耐えていた赤子は、今も僕のお腹の中で泣いているだろう。そのことを想像すればするほど、自分の胸奥に感じる痛みが増した。体も心も痛かった。どうして僕だけが、こんなにも苦しまないといけないのか。僕は痛む腹を手で優しく擦った。そして苦しんだに違いない我が子のことを考えて泣いた。それにしても人を愛するためには、これほどにも苦しまないといけないのか?それとも、人を愛するということは、数多くの苦難を乗り越えていくことなのだろうか……
 僕は翌日、翌々日のテストを欠席した。理由は言うまでもない。そして自分は金曜日から通学することに決めた。テスト最終日である金曜日は、学校が午前中で終わらず、午後からも授業がある。それに金曜日から全ての運動部が活動を再開するはずであるので、祐輔等もあそこまで僕を苛められるほど暇ではないはずだ。
 僕は二日間の休みで、我が子の状態をずっと懸念していた。自らの腹があれだけ暴力を受けて、いったい我が子は無事であるのか?もしかすると我が子は今、瀕死の状態であるのかもしれない……心配事は考慮を続ければその分だけ大きく膨らんだ。僕はその大きな膨らみに圧し潰されたように苦しんだが、その重圧から逃れるように神様に気を向けた。  
僕はこの二日間で、自分を救うためにある独り言を繰り返していた。
「神様が奇跡を起こして、自らに授けて下さった子どもだ。きっと無事だよ……」
 僕は金曜日に登校するときも、相当の覚悟を持って通学した。また自分は朝から酷い暴力を受けるかもしれない。そう考えただけでも恐ろしかった。しかし僕は意外なことにも、その恐怖感に良い意味で裏切られたのだ。
 何とこの日から、僕に対する苛めが全くなくなった。祐輔、智海は僕に目もくれない。僕は久しぶりに、落ち着いた学校生活を送ることができたのだ。
 今までに自分を悲しませた数多くの事が、今日一は自分に一度も起こらなかった。ただ時折感じる中本の鋭い視線だけが、自分を悩ませるのだったが……
 
 九
 週が明けた月曜日も相変わらず平和だった。何とも奇妙なことに金曜日から、クラスメイトの僕に対する苛めが完全になくなった。しかし教室内で唯一、中本からだけは今日も強烈な視線を感じている。彼女の僕を睨みつける目は、まるで親に反感する反抗期の子のような、煩わしさはないが棘のあるものだった。
 僕は皆の自分に対する苛めが急になくなったことをとても奇妙に思った。しかしそれが良いことであるのには間違いがない。ただこの奇妙さが新たなる事件性を含んでいるとするならば恐ろしいが……そして僕が最も不思議に感じたのは、みっちゃんが祐輔や智海と、金曜から一言も話していないことだ。それどころか彼等は、お互いに避け合っているようにも思えた。彼等は食事時も別れていた。みっちゃんは木村と、祐輔は智海と、中本に関しては一人で食事をしていた。いったい彼等に何があったのだろうか。僕には彼等の醸し出す違和感が不思議で仕方なかった。
 この日の下校時、靴を履き替えるために玄関口に行った後、自分の靴箱の中に折り畳まれた紙が置かれているのを発見した。
 僕は急所を突かれたかのように怯んで、突発的な出来事に狼狽したが、自分は決してそれから逃避することなく、自らの両手を用いてその紙を開けた。開けた用紙には、上部から細かな字が横に連ねてあった。字は全体的に丸みを帯びていて、触れれば折れてしまいそうなほど弱々しく見えたが、それは誰が見ても綺麗と言うに違いない類の字だ。そしてその手紙には僕が二度と涙を流した、精神的外傷を思い出させる教室に訪れて欲しいと書かれてある。そこで僕と二人で話し合いをしたいらしい。
 僕は手紙に書かれた文字を見て、それの差出人が中本であることを察した。まず、文字が見るからに女性のものであった。そして先週から僕を睨みつける中本の視線が、自分に何か話があることを、明らかに突き付けていたからだ。
 僕は彼女の待つ教室に行くべきかどうかを悩んだ。そもそも僕が出向いたとして、本当に相手が一人であるのかも分からない。もしかすれば僕はまた、非情な暴力を受けてしまうかもしれない。しかし定期テストが終了したので、活動を一時停止していた部活動が再会をしている。そのために祐輔、智海は僕よりも早くに教室を出て行ったので、彼等が僕の今から向かう場所にいることはないはずだ。それに僕が呼び出された場所へ向かうことで、自分がこの二日間に抱いていた違和感が解決されるかもしれない。迷いはあったものの、僕はそれを強引に引きちぎって、行くべき場所に向うことに決めた。
 自分が目的地に到着すれば、その場には思った通りに中本がいた。彼女は教室の後ろで突っ立って、僕のことを待っていたのだ。
 僕は彼女の側まで歩いて行った。
「どうして僕を呼び出したの?」
僕が尋ねたと同時に、彼女は僕の頬を強く叩いた。彼女は大きな恨みを持つ感情豊かな詩人のように、心に抑えきれないほどの怒りを体で表現していた。
「先週の金曜日、あなたのせいで皆の心がばらばらになった。」
彼女は震える声で僕にそれを告げた。その震えが僕の心にも伝わったのか、自分も震える声で彼女に尋ねた。
「いったいどうして?」
「あなたが学校を二日間休んだことで、充昌が私達にその原因があると睨んで、私達にあなたと何があったのかを尋ねたのよ。それで祐輔が、この教室であった全ての事を話したの。その瞬間よ。充昌が祐輔を殴って、二人は激しい喧嘩になった。」
僕はこの話を聞いたとき、どれほど大きな希望に救われたことか!僕の彼に対する信頼感が、今となっては完全に復活したのだ!
「みっちゃんが僕を助けてくれた!」
僕の話を聞くこともなく彼女は話し続けた。
「私はそれから、美華とも疎遠になってしまった……あなたは私達の関係を、めちゃくちゃに壊してしまったのよ!」
「どうして僕が原因なの?」
僕が開いた口を閉じた瞬間、彼女の片手が再び僕の頬を叩いた。僕はこのとき、まるで自分が母に罰を受けている子になったようで、その惨めな自分の心持に狼狽した。そしてその苦しみを隠せる場所は、この教室のどこを探しても見つからなかった。
「自己中心的すぎる……あなたはまるで、自分のことしか考えていない!」
「何だって?どうして、僕が自己中心的なの?」
「あなたは正常ではない愛情を、一方的に情欲のままに押し付けているだけ!あなたが同性愛者なのは、私達にはどうだっていい。けれども、周囲の人に害を与えるのだけはやめて!」
「僕が皆に害を与えているだって?」
「そうよ!あなたの勝手な妄想のせいで、私達の友人関係は崩壊した。あなたのせいで、私は親友の美華まで失ってしまいそうなの。
はっきり言うとあなたは気違いよ。まず、男性の人が妊娠をするわけがないでしょう?あなたは自分の都合を良くするために、目の前の現実を狂った妄想で捻じ曲げているだけ。そのことを現実逃避と言うのよ!それに充昌には、現に美華という恋人がいるじゃない。あなただって性の対象として、彼に愛されていないことくらい知っているでしょう?」
「それは違う!僕達は常に愛し合ってきた。ただ、木村が僕からみっちゃんを奪ってしまっただけだ!」
「美華に告白をしたのは充昌よ。彼が美華に片思いをしていたの。美華から充昌に告白をしたわけじゃない。それでもあなたは、美華に恋人を奪われたと言うつもりなの?」
「嘘だ。ありえない……」
「嘘じゃない。あなたはただ、一方的に充昌のことを愛しているだけ。それは片思いと言うのよ。片思いなら誰だってする。私だってするもの。でもあなたの場合は違う……あなたは片思いである現実を受け止めようとはしない。その努力さえもしない。
 あなたは一方的な愛を無理強いに押し付けて、ありもしない責任を相手に投げつけているだけよ!それはストーカー行為よ。あなたは片思いの相手に、無責任に思い責任を背負わせて、自分の手で好きな人のことを傷つけているのよ!」
「僕がみっちゃんを傷つけているだって?」
 僕は大きな衝撃を受けた。彼女の一言が、僕の世界を壊してしまったような気がした。この瞬間、教室の床が地割れで大きな穴を作って、僕は今までに見たことのない闇の空間に落ちてしまったかのように感じた。
 僕がみっちゃんを傷つけているだって?僕が彼の心を傷つけている?僕は今の今まで、彼が僕を苦しめているものだと思っていた。僕が近頃にずっと辛い思いをしてきたのは、みっちゃんの不誠実な心のためだと考えてきた。それが今になって、目前にいる正義を装う彼女に、僕の確信していた心理を転換されてしまったのだ。
 僕がストーカーだって?僕の信じていた二人の愛情が、一方的な自分だけのものだって?ならどうして子は生まれてきたの?もしみっちゃんが本当に僕のことを愛していないのならば、どうしてこの子は僕のお腹に宿ったの?もしみっちゃんが僕を一度も愛したことがなかったのなら、この子はいったい誰の子なのだろう。この子はみっちゃんが親ではないのだろうか……でも僕は彼以外の人のことをこれまでに愛したことがない。もしこの子の親がみっちゃんでないならば、僕の母胎で眠る我が子は、いったい何者であるのだろうか?そもそも僕が彼と不仲になったのは、自分がこの子を授かってからだ。するともしかすれば、この子の誕生は神様からの贈り物ではなくて、悪魔による災いではないだろうか?だからこそみっちゃんは、悪の力によって僕から遠のいてしまったのかもしれない。
 僕はこの教室で、大きな希望を抱いた後、それと同等の大きさである絶望に希望を奪われてしまった。
中本と交わした話を通して、僕は自分の神様に対して不信感を抱くようになった。しかしこの疑いは、僕が罪人になる可能性を潜めた危険なものに違いない。僕はお腹に宿った子の真の親が、神様なのか悪魔なのかに悩んではいた。しかし悪魔に人の子を創造することはできないはずだ。何故なら悪魔が人に授けるものは自堕落だけで、愛の塊である小さな命を創造する力が、悪魔にあるはずがない。それに僕は今でも、あの幸福に満ちた夢を鮮明に覚えている。あのときの僕に告げられた御言葉を、僕は今でも鮮明に覚えているのだ。
「人は好きな人を好きでいるべきだ。君が彼を強く愛する故に、私は君に奇跡を授けよう。」
あの天使の羽を羽ばたかせて僕のもとに降りてきた言葉が、神様によるものではないなど、はたしてありえることだろうか?
僕は考え抜いたあげく、神様の奇跡を信じることにした。そして近い内にみっちゃんを、木村から奪い返せることも……

僕は翌日の放課後、校門を並んで出るみっちゃんと木村の後を追った。そして彼等が校門から少し離れたときに、僕は二人を呼び止めた。僕が彼等を呼び止めた場所は、当学校の学生等のために作られた歩道で、電車通学の学生等は必ず、その広々とした遊歩道を通らなければいけない。みっちゃんと木村は二人で並列し、自転車を押して歩いていた。
 僕が声を掛けると二人は足を止めた。僕達の他にも、その道を通るものは多くいたが、僕達三人がそこに留まっていようが、この広々とした道では他人に迷惑をかけることもない。僕は静止した彼達に向かって口を開いた。
「みっちゃん、聞いて欲しい話がある。」
彼は僕の方を振り返って、「何?」と尋ねた。
「まず僕はみっちゃんにお礼を言わないといけない。僕のことを助けてくれたから……本当にありがとう。」
彼は決まり悪そうに顔を歪めて、「そのことはいいよ。」と口にした。
「僕は本当に感謝しているんだ。ありがとうね……」
 少しの間、沈黙が続いた。けれどこの沈黙は、僕にとって嫌なものではなかった。
「僕は最後、みっちゃんに確認をしておきたいことがある。みっちゃんは僕と木村さんとを比べて、いったいどちらの方を愛しているの?」
再び沈黙が訪れた。今度の沈黙は、僕の心臓の鼓動を速めた。
「俺は美華を愛している。それに君のことは、これっぽっちも愛していない。」
「なら僕のことは嫌いなの?」
「どちらかと言えば嫌いになった。」
僕の心臓が激しい動悸とは別の理由で、壊れてしまったかのような気がした。そして震えた声で築いた歪な言葉を彼に送った。
「僕は君を傷つけている?」
「うん。」と彼は真剣な面持ちで僕の心を突き放した。僕は自分が彼等の空間から追い出されたことを感じて、彼の言葉に何も言い返すことができなかった。
「君の妄言一つが、僕達の友情をもう二度と戻らないほどに壊してしまった。」
彼の発言を聞いて、二人の友情関係を壊した張本人が、僕自身であることを初めて知った。そのために僕はとても驚いた。そして彼は長い間を費やして積み重ね続けた思いを吐露するように、口を開き続けた。
「君とはずっと、健康的な友好関係を保ち続けていたかった。けれど君の狂った精神が、僕達の平和だった日常を壊してしまったんだ。」
 僕は戸惑いを覚えた。彼は僕を悪役だと言う。でも僕は、彼のことを愛し続けていただけだ。狂った精神だって?僕はただ、自己を見失うくらいに彼を愛していただけではないか。僕は彼のことが愛しくて、愛しくてたまらなかった。この愛の大きさだけは、木村のものと比較しても絶対に劣らないはずだ。
 この僕の大きな愛の塊が、僕達の友情関係を崩壊させたと言うのだろうか。僕はただ、彼のことを強く愛し続けただけなのに!
 僕の心の中に悪があるのか?僕の精神の内には、人の心を傷つけてしまう何かがあるというのか?もしそうならば人を愛するということは、実は良くないことなのだろうか。好きな人を好きでいるということは、誰にも許されないことであるのだろうか……
 僕が言葉の見つからない自問自答を繰り返していると、彼はふいに言った。
「藤原だって本当は認めているはずだ。君が最初から妊娠をしていないことを……」
 僕は彼の言葉に激しく反発した。
「そんなことあるもんか!僕は毎日、いつだって、我が子の命の鼓動を身に感じている。今だって僕と君との子どもが、自らの体の中で息をしているよ!これは嘘じゃない、本当のことだ!」
 みっちゃんは僕に真摯な気持ちを向けられると、それをどこかに流してしまうような、呆れた顔をしているのだった。
「藤原とは生涯、親友として付き合っていこうと思っていたよ。けれどもう無理みたいだね。残念だ……」
「木村さえいなければ!」
「美華は関係ないだろうが!」と彼は声を荒げて言った。その瞬間、多くの人の視線がこちらを向いて、僕は周囲の全ての人に睨まれているような気がした。僕は自分の意見の正しさのなさのため、誰も彼にも目で咎められているように感じたのだ。
 彼が荒げた声を僕に突き刺した直後に、木村が自らの恋人に何かを言った。僕には彼女が何を口にしたのかが分からなかったが、彼女の表情は喜怒哀楽の全てに当てはまらなかった。ただ白っぽい肌に埋まった二つの目が、僕の苦しみを少しでも預かってくれているのか、いつもよりも大きく開いているように見えた。そして彼女が口を開いたと同時に彼等は僕から去って行った。
僕は帰宅してから、今日の放課後の出来事を延々と回想していた。
 いったい、僕とみっちゃんとの間に広大な穴を掘ったのは誰なのか。僕は自分から離れた彼の心に近づこうと努めるが、二人の間に存在する穴が余りにも広いために、自分はその隔たりを越えることができない。しかしこの透明色の距離はいったい、誰の手によって創られたものなのだろうか。僕は彼を愛し続けてきた。そして二人の将来に対する希望を持ち続けてきた。でもまさかこの特別な感情こそが、僕達の幸福を壊してしまったのだろうか?僕はふと、自らを裏切るようなことを口に出した。
「僕に子どもさえできなければ……」
僕がそう言った瞬間、自分の腹の内側から、小さな力で蹴られたような衝撃を感じた。それは言うまでもなくて、我が子による親しみのある衝撃だった……
 僕はお腹の中で動く赤ちゃんを感じた。まだ人間の形が完成されていないはずの赤ちゃんが、絶望の一歩手前に立つ僕を、明日の希望に導くために、全身で激励をしてくれているのかもしれない。僕はお腹の内にいる赤ちゃんを身で感じたのと同時に、先ほどに抱いてしまった、我が子に対する良くない思案を反省した。
 僕の赤ちゃんはまるで僕の幸せを祈ってくれているように、僕の体内の中で動いていた。僕は今までにこれほどにも優しくて、愛に満ちた衝撃を受けたことがない。この人を幸福にさせる衝撃は、赤ちゃんの掌によるものなのだろうか。それともつま先によるものだろうか。僕はこの身の内の生命力を感じるまで、我が子の存在を否定してしまっていた。僕はこの子を、まるで僕を不幸に導いた悪魔のように考えていたのだ。でもこの子は僕の体の中で、こうやって思いっきり動いている……この子は僕の中で生きているのだ!
我が子は何のために生まれてきたのか。その理由は明瞭だ。それは僕に愛されるためだろう。そしてみっちゃんに愛されるためだろう。僕の赤ちゃんは、いや、生まれ来る全ての子ども達は、愛を感じるために生まれてくるのではないか?愛を感じるとは、どういうことか?僕が思うに愛を感じるというのは、愛する、愛される相互関係で、自分の愛する相手と絶対的な糸で結ばれているとき、自分の心に得られる感情のことではないだろうか?そして地球上の全ての人類は、この一つの純粋な幸福を得るために、この世に生まれてくるのではないだろうか?
僕が生れて十七年が経った。どうして十七年前に僕が生まれたのか?それは僕の両親が今は離れていようと、当時は互いに深く愛し合ったからに他ならない。確かに今となれば自分の両親は離婚をしているし、二人共が互いに向けて、愛情を微塵とも持っていないだろう。しかし僕が生れる少し前、その時の彼等は、僕にも計り知れないほどに互いを愛し合っていたはずだ。だからこそ僕は生まれた。僕は両親が抱いていた互いを愛し合う心によって、この世に生まれてきたわけだ。なら愛の力で生まれてきた僕は、何のためにこの世に生まれてきたのか。それは自らを誕生させてくれた、誠の親である真実の愛を見つけ出すためではないか?僕が生れるきっかけになった愛は、今はもう潔白ではなくなっている。それでもその愛が自分の生みの親であるならば、自分はかつての彼等が抱いた愛も否定しない。そして現在の僕は十七年のときを越えて、その真実の愛を見つけ出した。そして自分はこれを真実の愛であると言い切れる。だって僕の体に宿った赤ちゃんは、今もこうやって動いているじゃないか!
 僕は夜も眠らずに空想を続けた。自分はただひたすらに、みっちゃんと我が子のことを思い続けた。自分は例え最悪な結果を迎えようが、幸せな家庭を築こうとする意思を持ち続けていたい。僕は誰よりも幸福の意味を知っている。自分はいとも簡単に、幸せな光景を胸の中に描き出すことができる。その僕が幸せになれないはずがない。だって、幸せはもう自分のすぐ近くにあるはずではないか?僕のお腹で眠る赤ちゃんも、健康そうに動いている。そして僕は母胎の赤ちゃんを感じて、今日の絶望を忘れてしまった。僕は出産をやり遂げることで、必ず幸せになってみせるんだ!
 今はもう遠くなってしまった、みっちゃんと仲睦まじかった日を回想した。すると僕の胸には、過去に培った大きな喜びが沸き上がってくる。そして僕は在りし日の幸福な日々を思って、瞼を涙で濡らしてしまった。
「僕はあのとき、幸福だった!あの幸福はずっと消えやしない!だってあの過去の日々は、誰もが僕から奪うことのできない、自分の胸の中にある財産だ!そしてあの幸福は、まだ決して消滅していない!何故なら僕のお腹には、愛と幸福との子どもである赤ちゃんが存在するのだから!この子が僕とみっちゃんを、結び合わせてくれるに違いないんだ!」
 僕は眠れない夜を過ごしていたが、身に感じる我が子の運動のおかげで、長い夜も全く苦にはならなかった。

 十
 深い瞑想から夢に落ちて、就寝中も脳内を動かし続けた翌朝の瞼は、糸で縫われたかのように開かなかった。そして僕が起床して意識を持ち始めたのは、不甲斐ないことに正午過ぎだった。
 僕は昼から学校に行くわけにも行かないので、仕方なく学校を休むことにした。
 この日、僕は明日に自らが取るべき行動について、遥か彼方で輝く希望のために考え続けた。僕は明日、みっちゃんと仲直りをしよう。もし必要ならば、自分が妊娠していることだって否定する。その真実は、彼だっていずれ分かってくれることだから。僕はまず、みっちゃんとの間にできてしまった、漠然とする隔たりを少しずつ縮めていきたい。僕と彼との結婚が、例え百年後になっても全然構わない。僕が彼に対する愛を持ち続ければ、きっといつの日にか、僕達は結ばれるに違いないから……
彼は昨日、僕に言ってくれた。
「藤原とは生涯、親友として付き合っていこうと思っていた。」
彼はその言葉の現実性を完全に否定した。けれどもどうしてそれが無理なものか。僕はそれだけを、寿命を縮める思いで熱望しているというのに!
 僕は明日のお昼休み、彼に話し掛けることを決心した。それに今ならば、みっちゃんと食事を共にしているのは木村だけだ。彼の抱いている友を失った悲しみを、僕の大きな愛で満たしてあげよう。
大きな決意をした日の翌朝は、十二月も中旬を迎えようとしている頃で、体に浅手を負わすような、冷たくて鋭い風が吹いていた。大空は黒に似た色を含める雲に覆われて、雨が降らないのが不思議にさえ思えた。
 僕は慣れてしまった一人きりの通学中に、自転車のペダルを用いて円弧を描くとき、制服から心臓に伝わってくる寒さの他には何も感じなかった。そして不思議なことに身を切るような寒風は、僕をちっとも不快にしない。僕はただ、今日に訪れるはずの希望だけを空想して、幻像の太陽に絶えず温まっていたのだ。
 一限目、二限目の授業が始まって、決意した未来のときが近づいてきても、僕は少しも緊張感を持たなかったし、動悸に息を詰まらせることもなかった。そもそも僕を取り巻く環境がみっちゃんのおかげで静かになって、その閑静には不安の風を一時たりとも感じなかった。僕はもう誰にも苛められてはいないし、これ以上にこの環境が悪化するなどということは、今の自分には考えることもできない。これまでの僕の心には、暖かな時分が少しの間もなかった。いつだって僕の心臓の温度は、氷点を大きく下回っていたのだ。僕の心臓は常に氷結の状態にあった。だが現在は固まった氷が融解して、自らの心象的な体温は、丁度プラスとマイナスの境界線上にある。そして僕はこの温度がもう下降しないことを知っている。何故なら僕の心から愛する人が、僕を絶対零度の逆境から救ってくれたからだ。そしてもうこれ以上、自分が不幸になることがないのならば、後は自らの天上に見える、希望の球体を目指して歩いていけばいい。今の僕には、もう幸福しか残っていないはずだ。
 
 本日四限目の授業を終えたとき、僕は終えた授業の教科書を机上に放置させたまま、首を左に向けて、これから向かうべき場所を眺めていた。おそらく今日も、みっちゃんと木村は二人で昼食を取るはずだ。僕は二人の中に混ぜてもらおう。僕が一言謝罪をすれば、きっと彼も許してくれるはずだ。
 僕はその企てを、何度も胸の中で行動に移してみた。僕が彼等のいる場所に行って、みっちゃんに形だけの謝罪をする。彼は目で見たものしか信じられない性分であるから、本当のことは自分が出産を終えたときに言えばいい。とりあえず今の僕に必要なものは、彼との親交関係の回復に他ならないはずだ……
 僕は二人が共になることを待っていた。しかし残念なことに僕の眼球は、自らの希望に相対的な光景を見出してしまった。信じられないことにみっちゃんの机の周囲には、祐輔、智海が集まってきた。そして僕の背後から、木村と中本が仲睦まじそうに喋り合いながら、僕の視野の中に入ってきたのだ。
 僕は愕然とした。自分が裏切られたかのような気さえ感じた。二日前には彼等五人が話し合うところを、一度も目にしなかった。前日にみっちゃんと祐輔は殴り合うほどの喧嘩をして、中本でさえも木村に対して気まずさを抱いていたはずだった。でも今の彼等は、どうして仲良さげに会話をしているのだろうか……
 僕は四つの机を囲み合って、楽しげに食事をする五人をずっと見つめていた。彼等は口と耳とを夢中にさせて、僕の投げ掛ける視線には気付きもしない。その世界には、僕の入り込める隙間など用意されてはいなかった。
 彼等はいつ仲直りをしたのか。昨日の僕が欠席をした日、いったい彼等の間に何があったのか。二日前には仲違いをしていた彼等が、今となってはいとも簡単に、引き裂かれた関係性を修復している。僕は不条理を感じた。自分は失われた友との関係性のために、体が潰れてしまいそうなほどに、不幸の重圧をずっと背負い続けてきた。そして僕がどれほど天に祈ろうと、大切な友との関係性が元に戻ることは決してなかった。それなのに彼等はどうして、一度壊れたものをいとも簡単に、再び手にしているのだろうか?どうしてあいつらだけが……
 僕は絶望的な孤立感に襲われた。そして僕は自分でも気付かない内に、大量の涙を瞼から零してしまっていた。涙を流し始めて間もない内は、僕の慟哭から落涙の音が響くこともなくて、僕は静かさと共に涙を流していた。しかし目が楽しげな五人を追うほどに、僕の涙は激しいものになっていった。
 僕は気付かない内に自分でも抑えられない声を荒げて、大声で泣きじゃくっていた。そして僕が大きな声で泣くものだから、自分の視界に映る人々は、誰もが僕の方を向いた。僕の視野に映る全ての人が、僕のことを唖然として観察している。その自らに向けられた多くの視線を感じると、僕はそれを感じるほどに、痛々しい孤立感に襲われるのだった。
僕は絶望した。そして僕は机上でうつ伏せになって、腕で作った枕の中に両目を強い力で沈めた。そして長い間、泣き続けていた。自分の視界には瞼の裏しか映っておらず、それも巨大な雲に夜の明かりが、全て奪われたかのように真っ暗だった。
 僕は大声で泣き続けた。自分は対抗のできない理不尽さと向かい合っている。どうして僕を苛め続けた悪人が、一度壊れた友情関係を簡単に取り戻して、今でもみっちゃんのことを愛し続けている僕が、彼との間にできた友好的亀裂を修復するために、これほどにも苦しんでいるのだろうか。
 僕はこの昼休み中、お弁当箱を開けることもできず、ただただ泣き続けることで、とうとう昼休みを終えてしまった。
 僕は昼休みを終えるチャイムが鳴り止むと同時に、おそらく大量の水分を含めた腕枕から、ずっと暗闇の中にいた両瞼を離した。すると光から離脱していたのが原因か、視界には大きな靄がかかっている。それでも僕の方に顔を向ける生徒を自分は何人か確認できた。いったい彼等はどのような気持ちで、僕のことを観察しているのだろう。僕のことを狂人だとでも思っているのだろうか?それにしてもどうして彼等は、誰一人として僕に声を掛けてくれないのか。僕は自分自身の孤独と不幸とを強く意識して、涙のせいで真っ赤に腫れているはずの眼球を、泣き声と共に再び痙攣させてしまいそうになった。しかし僕はそれを我慢して、自らの絶望に激励するかのように胸の中で叫んだ。
「孤独だ!僕は孤独だ!」

 昨夜は目前で輝いていた希望を、僕は不甲斐なくも一瞬の内に見失ってしまった。あの不条理を知った一瞬が、僕を深い憂鬱の中でずっと溺れさせていた。
翌日の金曜日、やはり僕は誰からも嫌がらせを受けなかった。客観的に自らを観察すれば、その日も平和であったには違いない。でも僕はこのときほど、裏切りに己の魂を凌辱されたような、悲観的な心境に襲われていたときがあっただろうか。
 僕はみっちゃんとの仲直りさえも諦めていた。自分の望むことが何一つ上手くいかないことを、僕は身に染みて知っている。もう僕に残された最良の手段は、自らの体内に孕んだ彼の子どもを出産して、彼に自分が父親であることを気付いてもらうことだけだ。それでも彼が僕の産んだ子を見て、もしそれが自分の子であると気付かない場合、僕はどうすればいいのだろう……今までにだって僕は希望を抱けば抱くほど、それと同等の数だけ裏切られてきた。これまでにだって、自分の計算してきた幸福の可能性が、運命の不条理に何度と騙され続けてきたことか。そして絶望に打ちのめされた僕は、ただもう世に出てくる赤子の形相がみっちゃんに酷似していることを、心から祈ることしかできなかった。
 今日はテスト明けの週、最後の平日で、先週に受けたテストが全て自分のもとに揃う日だった。そして僕の試験の結果がどうであったのか。それはテストを返却されなくても分かっていたし、そんなことは何も辛くなかった。やはり自分の学校生活における最大の苦しみは、みっちゃんと共にいられない寂しさ、または彼に見捨てられている孤独感だった。
 憂鬱な気分で今週最後の授業を受け終えた僕は、気怠さで動かない体を無理やりに持ち上げて、帰宅するために席を立った。そして教室の前側にある出入口を出て廊下を歩いて行くと、久しぶりにも誰かに腕を掴まれた。僕は驚いて右側を向いた。するとそこに立っていたのは、意外なことに木村だった。
「藤原くん、この後は空いている?」
「どうして?」
「一度、藤原くんと二人で話しておきたいと思って。」
僕が「何を?」と尋ねようとした瞬間、彼女の背後に僕の愛する人が現れた。そして僕は彼を見ると同時に、自分が言おうとしていた言葉を忘れてしまった。
「藤原くん、私についてきて。」
急な出来事に頭を真っ白にして、自分は断りの術も見出せず、主人に隷従する犬のように彼等の後ろについて歩いて行った。
 彼等が僕を連れてきたのは、いつの日か僕が木村を叩いた、校舎の最上階にある踊り場だった。そこには僕が涙を流して食事をした一席が、今も変わらずに置かれていた。
「俺は席を外せばいいのか?」
目的地に着くと、みっちゃんが木村に自らに課された任務を確認した。
「うん。二人だけで話しがしたいから……」
みっちゃんは懸念する表情で木村を見ると、その優しげな目を僕の方に移して、少しの間僕を睨みつけた。
「分かった。俺はこの場を離れる。けれどこの階からは離れないから、もし何かあったらすぐに俺を呼んで欲しい。」
 彼はそれを恋人に伝え終わると、僕に背を向けて廊下の方向へと歩いて行った。
 彼女がどうして自分を呼び出したのか、僕は全く理解できなかった。自分が恋敵に示す反応に困惑していると、その相手が僕を助けるように口を開いた。
「わざわざ呼び出してごめんね。藤原くんとは一度、二人きりで話しておきたいと思っていたの。」
自分は彼女の言葉に何の反応も返さなかった。そして黙りこくる僕に木村が真顔で、「私のことを恨んでいる?」と尋ねてきた。
 僕はただ彼女を見つめていた。その視線が彼女には辛辣なものに感じたのだろう。いや、もしかすると僕は無意識にも怒りを露わにした表情で、彼女のことを睨みつけていたのかもしれない。彼女が再び僕に尋ねてきた。
「私が充昌くんを、藤原くんから奪い取ったから?」
彼女は口を開かない僕に落胆することなく、自らの赤い唇を発語する度に軽く揺らした。
「私は藤原くんから、何も奪い取ってはいないはずだよ。」
「君さえいなければ、僕とみっちゃんはずっと愛し合っていたはずだ!」
先ほどまで自分を不自由にしていた、強硬な枷が外れたかのように、僕は情に呑み込まれた頭で、脳内に浮かび出る言葉を彼女に浴びせ掛けた。すると彼女はそれに挑むかのように口を開いた。
「充昌くんに告白をしたのは私からだよ。でも私は、藤原くんから彼を奪ったわけではない。私はただ充昌くんに対して、好きと伝える以外には何もしていないから。」
僕は以前に中本から聞いたことと、今に聞いた彼女の発言が、互いに食い違っていることに気付いた。中本は彼等恋人同士の交際が、みっちゃんから始まったと僕に伝えたはずだ。でも僕は木村の言うことを聞いて、あれがでたらめであったことを知った。僕はその事実を認識すると、余計に目の前にいる女のことが憎らしくなった。
「君が僕から何もかもを奪ってしまったんだ!」
「違うよ!ただ私は藤原くんと同じで、自分の胸にある好きっていう気持ちを彼に伝えただけ。」
「そんなことがあるものか!君はみっちゃんを洗脳したんだ!そうでなければみっちゃんが僕を見放して、君を愛するわけがない!」
僕は発狂する前の精神異常者のように、両肩をぶるぶると震わせていた。すると体の小さな女の子は、その勢いに負けるわけにはいかないとでも言いたげに、大きな瞳の内に一種の輝きを含めて僕に言い放った。
「洗脳をしているのは、藤原くんのほうだと思うよ。」
自らの持つ正義感を妄信する輩のように、彼女の両目は光で充ち溢れていた。そしてその目の眩む輝きのためか、それとも上にある電球の明かりのためか、元々肌白い彼女の顔が、真っ白い無垢の装飾品で飾られているかのように綺麗に見えた。
「僕がみっちゃんを洗脳しているだって?」
「いいえ、違う。藤原くんは藤原くんを……自分自身のことを洗脳してしまっていると思う。」
「僕が僕自身を洗脳しているだって?」
「うん。充昌くんは藤原くんに対して、恋愛感情を少しも持っていない。藤原くんはただ、一方的に充昌くんに片思いをしているだけだよ。当たり前の話しだけれど、藤原くんが充昌くんのことを好きだからって、彼が藤原くんのことを好きになるとは限らないよね?それとも藤原くんは今までに一度でも、充昌くんから好きと言われたことがあるの?」
「それは……」
僕は一瞬の内に、かつての日々を勢いよく回想してみた。そして思い当たる全ての過去を整理し終えた後で、僕は深い闇の中に落ちてしまった。そして僕は前方、左右と真っ暗闇しか見出だすことができないでいた。
 僕はみっちゃんに好きと言われたことが、今までに一度もなかった……確かに彼の口からは、僕のことを愛しているという言葉が出たことがない。僕は自分の信仰していた未来に対して、束の間、どんよりとした猜疑心を抱いた。
「愛情はね、お互いが愛し合うときにだけ、互いに対する愛の責任が生じる。でもそれが一方的な愛の場合は、愛される側の人は何の責任も持たなくていいの。
藤原くんがしている恋は、片思いだよね?充昌くんは藤原くんのことを、今までに一度だって、恋人としては愛していなかったよね?」
自らの喉は何か棘でも刺さったのか、軽く震え出していた。そして僕は自分が泣きそうになっていることを、心で渦巻いている感情を察して理解した。それでも僕は心を奮い立たせて、自分を追い詰める彼女に反駁することを試みた。
「僕達の恋が片思いだって?そんなわけがないだろう!だって僕は妊娠した。両想いでなくて、どうして僕に赤ちゃんができたというのさ!」
僕が感情に任せて言いたかったことを口にし終えると、彼女は不幸なものを憐れむかのように、同情心で瞼を半ば閉じて僕の方を見つめた。僕は彼女の狭まった瞳を見返したが、何故かお互いの視線が絡みあうことはなく、彼女はまるで僕の方に目を向けながらも、僕のことを見てはいないようだった。
「すごく言いにくいけれど……藤原くんは心の病を患っていると思うの。だって藤原くんの言っていることは、すごくおかしいことだよ?いったいどうして、男の子同士で妊娠できるの?妊娠は女性がするものだよね?それとも藤原くんは、実は自分が女の子であることを皆に隠していたとでも言うの?」
「僕の妊娠は神様が……」
「神様のおかげで妊娠したの?ならどうして、藤原くんだけが特別なの?藤原くんが充昌くんのことをとても愛しているから?それだったら私だってそうだよ。それに私達は両想いだし、本当に心の底から互いのことを愛し合っている。なら私もその気持ちだけで妊娠してしまうの?」
「それは……」
「男の人が妊娠をするわけがないよ。だって男の人の体は、妊娠をする構造じゃない。それとも藤原くんは生理がきたことがあるの?
藤原くんは自分が妊娠する妄想を頼りにして、現実逃避をしているだけだよ。ありもしない話でしか自分と充昌くんとを繋げられないほどに、自らの思いが不可能な恋愛事だって、藤原くんも気付いているはずだよね。
 男性の人は妊娠しない。それでも藤原くんが妊娠したのは、受け止めたくない現実を、自分のお腹に隠しただけ。藤原くんのお腹にいるのは赤ちゃんじゃない。それは赤ちゃんではなくて、失恋を受け止められなくて絶望している藤原くん自身だと思うよ。」
 僕は自分でも気付かない内に涙を流していた。この透明の体液は、言うまでもなく僕の敗北を象徴化していた。
僕は彼女に言い返す言葉を見つけられず、自らの涙声に導き出されたかのように、彼女の話しとは全く由縁のないことを尋ねていた。
「みっちゃんとはキスをしたの?」
木村は顔を赤らめることもなく、「うん。」と頷いた。そして僕は涙声を口から溢れさせながら、再び彼女に質問をした。
「セックスは?」
すると木村は真顔で、僕に最後の一撃を喰らわせるかのように言葉を発した。
「私だったら、充昌くんの子どもを本当にお腹の中に宿すことができる。」
 彼女がそれを言ったと同時に、僕は「やめてくれ!」と叫んだ。すると彼女は急な大声に驚いたのか「きゃ!」と高らかな声を発した。そしてそれと同時にどこからか人が走ってくる足音が響く。
「どうした?」
木村の隣にはみっちゃんがいた。彼は僕のことを見ようともせずに、自分の恋人に気を取られている。
 僕は生まれてきて初めて、絶望を目の前に見出したような敗北感に陥っていた。僕の前後左右は真っ黒い霧に覆われているようで、自分が暗い洞窟、または人生のどん底にいるような気がした。
 みっちゃんは木村に何もなかったことを知ると、僕の方をやっと向いてくれた。そして僕には彼の視線が、どん底の境遇に落とされた一本のロープであるような、自分を今の逆境から救い出してくれるものに感じられた。そのために僕はただ宙で揺れているロープを、命懸けで握り締めようとした。
 僕はその場で、精神の崩壊を示した涙声を出して倒れ込み、地べたに膝をついた後に顔面を床に深く埋めた。そして僕が土下座をした二秒後に、みっちゃんが僕の奇行に気がついたのか「やめてくれ!」と叫んだ。後頭部に落ちてきた声の衝撃を感じた僕は、彼の表情が目に入らないためか、その言葉の意味に抗うことしか考えていなかった。
僕は涙で廊下を濡らしながら大声を発した。
「クリスマスは僕と遊んで下さい!」
 僕は何故、そのようなことを言ったのか、自分でも全く理解ができない。ただ口から自然に出てきた聖夜の言葉が、悲しみに暮れる僕を更なる悲しみに沈めた。僕は自分でその言葉を発言することで、先ほどまでは意識していなかった恋人同士の祭典を、突然、頭の中で認識してしまったのだ。
自分の脳裏に閃光が走った。その発生のすぐ後に消滅した閃きの残像には、裸で抱き合う二人の恋人同士が映っていて、僕は体全身を嫌悪感で震わせた。そして僕の悲しみは更に増して、僕の涙を緩やかにする術はもう一つも残されていなかった。
「クリスマスイヴは、僕と二人で過ごして下さい!」
僕は彼の顔を見ることなく、高らかな声だけを頼りとして、みっちゃんに再び頼み込む。しかし誰も僕を憐れんではくれない。僕が号泣をしながら廊下を涙で冷たくしていると、その温度よりも更に冷淡な声の調子が、僕の敏感な鼓膜に伝わってきた。
「俺は美華が好きだ。」
僕は鼓膜が破れる痛みに似た、突発的な物理衝撃を心に受けた。そして心身共に力を失ってしまって、下がっている頭を上に持ち上げることさえもできないでいた。ただ自分が視界を二人から逸らしていようが、彼等がこの場から去っていくことだけは、足音を感じる聴覚を通して知ったのだった。 

十一
僕の持つ無限の喜びの可能性が、全て略奪された日の翌日と翌々日、僕は学生としての二日間の休日を、どのようにして過ごせばいいのかが分からなかった。僕は土曜日の目覚めから日曜日の陽が沈むまで、少しも休むことなく木村のことを憎み続けていた。そしてその感情は、秒数が経過するほどに大きさを増した。すると土曜日が終わりを告げる夜更けのときには、彼女に対する憎しみが、何か偉大で特別なもののように思えてきたのだった。そして僕は夜に横たわるベッドで、ある考えを長々と巡らしていた。
「僕の愛情と木村の命と、いったいどちらが重いのだろう。」
僕は純粋な思いを口から溢した後、その真相をよくよくと考えてみた。
僕の抱くみっちゃんに対する愛情は、嘘偽りの全くない純粋なものだ。その思いの中には、曇った箇所が少しも存在しない。もし心が丸い物ならば、僕が彼のことを考えているとき、誰にどの方角から目を向けられようと、自らの愛に充ちた心は透き通っているに決まっている。もしそのような自らの心情を具現化するならば、それはこの世で一番に美しい特別な宝石であるに違いない。そして疑うこともなく、その宝石には高価な値がつくはずだ。それに比べて木村の命は、僕の抱く愛情ほどに価値のあるものなのだろうか?今にこの世の摂理が、どちらかの一つを滅ぼそうとしている。ではどちらが滅ぶべきなのか?僕は自分の愛が、彼女の命に劣るとは思えない。彼女の命の価値に勝るものが、僕の胸の中に存在しているからだ。僕はこの事実を少しも疑おうとは思わない。 
「真実の愛を守るためになら、人の命を奪っても許されるのか……」
僕は独りごとを言ったと同時に、すぐさま解答を出した。
「木村を殺してしまおう……」
僕はみっちゃんを誰にも独占されたくはない。だって、彼は僕の伴侶なのだから。
自らが衝動的に生成した信念を、それが誤りであるかと考えることもせず、自分は木村の命を彼女から略奪することに決めた。僕は週初めの通学日の前日、台所下部にある扉を、母が仕事でいないために安堵して開けた。扉の裏側には、包丁を収納できるポケットが、片手にある指の本数と同様に連なっている。五つのポケットは全て使用されていて、ここにある包丁は、今は完全に放置されているものであった。それもそのはずで、台所上にはこれとは別に包丁を収納するスタンドが置かれているし、その中にはいつも立派な二本の包丁が片付けられていた。
僕は母がこれらのもの以外は使用しないことを知っている。それにスタンドの中には二本の包丁があるが、それらはほぼ同じ大きさの刃であるし、母が作るものによってそれらを使い分けているとは考えられない。そもそも僕の母は、二本の包丁を使い分けるほどに料理が得意でない。きっと料理に取り組む際に、毎回、無造作に二本ある内の一本を選んでいるはずだ。要するに僕が扉裏のポケットから一本の刃物を持ち出そうが、親に気付かれる可能性は絶対にない。もし母がこの件に介入すれば、自分の決意が壊れかねない。僕は今回の計画だけは、誰にも邪魔をされたくはないのだ。
僕は木村から愛する人を奪い返すと決めた。そのためにも必ず木村を殺す。彼女さえいなくなれば、僕はみっちゃんを誰にも奪われずにすむはずだから……

十八日の月曜日、自分が通学する時刻はやはり空気が冷たくて、快晴の空は青い色をしているが、通学中に目にする田んぼ道は、霜が降りているために白っぽく濁って見えた。僕は朝風に感じる寒さで頭が冴えてくる内に、自らの意識が通学鞄に入っている包丁に向いた。鞄には新聞紙で巻かれて姿を隠した、一本の包丁が入っている。朝の透き通る冷たい風に吹かれると同時に、寝不足のために難癖をついていた自らの脳内が目覚め始めて、僕の心身が今日に課せられた事を思い出した。そのためか僕は通学の途中で、小鳥が一斉に飛びだったような、突発的で慌ただしい動悸を感じ始めた。僕はこのときに改めて、動悸が体感温度を狂わせることを知った。何故なら僕はこのとき、まるで寒さを感じてはいなかったからだ。僕の心身は、人殺しに対する自分の未知が生み出した、緊張感とそれによる不安だけを感じていた。
僕は自転車を漕ぎながら、自分が木村を殺す光景を何度も想像した。僕は何度も何度も彼女を刃物で刺す。僕は空想の中で、彼女を殺す行為を繰り返した。しかし僕はその後に続くはずの場面を、頭に描くことができずにいた。自分が何度空想を繰り返しても、彼女が息を止めた直後からは、自分の想像力が続かない。それに不思議なことに、僕の持つ想像力で木村を何度と刃物で刺そうが、固まった絵の具のような血液しか、彼女の体からは見出だすことができなかった。
僕は今日、人を殺そうとしている。けれども僕自身、人を殺すということがどういうことなのか分かっていない。いや、僕は殺人についてはともかく、人が死ぬということさえ、それがどういうことであるのかを理解していない。そもそも僕は人の死を、この目で見たことがなかった。言ってしまえば、お葬式に出席したことのない僕は、空想中の凝り固まった血糊と同様に、死の概念さえもが定着した表象を持たず、想像上で霧のように漂っていた。
校門をくぐった後、授業を受ける他にすることもなくなった僕は、自分の席でひたすらと木村を殺す予行演習に再び励んでいた。それにしても空想とは不思議なもので、時間に対する体感を狂わせる。例えば僕は今日、一限目から四限目まで、何度も自らの妄想上で木村を殺した。その激烈な妄想力は、自分の意識を現実世界のどん底に沈めてしまって、教壇に立つ先生の話は、僕の聴覚を少しも刺激することができなかった。
妄想力は不思議だ。僕は妄想に駆られている間、現実世界に対する自らの意識が、少しの塵も残さずに消滅してしまっている。僕が妄想をするとき、自分の両目は開いているものの、視界に映る世界から僕の意識は離れてしまっていて、自分はまるで夢の世界に浸りきってしまう。要するに妄想とは、目を開けながら夢を見ることなのだろう。そしておかしなことに、夢は現実を超越する。僕の燃え上がる夢の時間は、現実における時間性を一瞬の内に焦がしてしまうのだ。夢ほど現実世界に対する人間の体感を、これほどにも狂わせてしまうものはないだろう。僕が激しい妄想の火花を一瞬の内にパッと開かせれば、僕が視野に入れていない世界の時計は、いつの間にか長針を何周もさせている。僕はこの日、あっという間に終わっていた午前中の授業に当惑した。どうやら時計の秒針は、僕の心臓の鼓動が速まる度に、それの二倍も三倍も速くなって動いているらしい。
お昼休みはずっと自分の席にいた。僕はその場を離れることなく、栄養摂取と思考、想像することにずっと時間を費やしていた。僕は味のしない白ご飯を口に放り込みながら、先日と変わらずに、楽しそうな昼食時を共有している五人組を盗み見る。すると僕の暴走する思考が走る回路に、小さいが硬い石ころが、どこからか飛んできたらしい。自らの思考は理性から脱線して暴走した。
僕は木村を殺す。僕は彼女を自らの強大な愛ゆえに殺す。僕の心から見渡せば、それは良いことに決まっている。例え人殺しが罪であろうが、僕の愛ゆえに殺人は許されるだろう。しかし僕が木村を殺したとして、みっちゃんは僕を愛してくれるだろうか。彼の愛する人が死ねば、彼は次に僕を、愛に満ち溢れた瞳で見つめてくれるだろうか……
僕は重要なことを一つ見失っていた。彼が愛する人を殺されたとして、その悲しみはどれほどに大きいものなのだろう。そして愛人を殺められた彼は、その後、彼女に対する愛を完全に遮断してくれるだろうか。もし彼が魂だけとなった彼女を愛し続けることになれば、それこそ僕の企てに意味がなくなってしまう。それに彼がもし亡き木村を愛し続けるのならば、彼は彼女を殺めた僕のことを恨み続けるのではないか?
僕は少し悩んだ。しかしすぐさま、まるで天からの導きに似た、気まぐれな閃きを受け取った。
自分は何を躊躇しているのか……僕が木村を殺めるのは、木村からみっちゃんを奪うためではないか?そもそも僕が一番に耐えられないことは、木村がみっちゃんと共にいて、楽しそうにしていることだ。木村がみっちゃんの愛で喜ぶ姿を見るのは、僕がみっちゃんに愛されないことに比べても、大きく上回って辛いように感じられる。僕にはそれだけが、どうしたって耐えられない。自分が木村を殺す理由は、それだけでもう充分に足りている。僕はどうしても、人殺しをしなくてはいけないのだ!
自分は木村を殺す決心を益々深めた。しかし五、六時間目が終わってしまおうと、僕は自らの考えを行動に移すことができずにいた。自宅から持ち出した包丁は、机の横に置いてある鞄に入ったままだ。僕は今日一日中、刃物を包み隠している、分厚くなった新聞紙にさえ触れてはいなかった。
とうとう授業は七限目となった。そして僕はそのときを迎えて、予想外の出来事に我が身を翻弄されてしまうことになった。
毎週、月曜日の七限目はロングホームルームの時間となっている。時間割には、LHRと略されて記されているが、これは担任である教師が取り仕切る学級活動の時間のことだ。その授業時間に行われる活動内容は多種多様だが、クラス内の席替えもこの時間に行われている。そして定期テストが終了した今の時期が、ちょうど席替えの行われる頃合いだった。
すっかり忘れていた席替えではあったが、僕にはそんなことはどうだって良かった。クラス替えが今の僕の心境に、いったいどのような影響を与えうるというのか。
席替えはいつもくじ形式で行われる。まず男女別に小さな箱が席順に回されて、各自が箱に入った四つ折りの紙を引く。その折られた紙を広げれば数字が書かれているわけだ。そして全員に紙が配り終われば、担任が黒板に前もって書かれていた座席表に、青と赤のチョークを用いて気分気ままに数字を書いていく。言うまでもないが、青色の数字は男子生徒、赤色の数字は女子生徒に当てられたものだ。そして担任が座席表の全ての空白に数字を埋めると、先生の合図で生徒等が折り畳まれた紙を開ける。そしてその数字を見て目の前の黒板を頼りに、それぞれの生徒は各自の荷物を持って、新しい席に移動するというわけだ。
窮屈なテスト勉強の後だから、クラスメイトはほぼ皆、新たな席に対する興味で、期待と緊張感とを抱き目を輝かせていた。僕は自分の新しい席が決まることに、何の興味も示せなかった。いや、それ以外に考えることがありすぎて、そちらに意識を向けることができなかったのだ。だから僕はクラスメイトが自らに定められた席を知って、歓声や嘆息を教室内で一杯に埋めるまでは、自分の手に持った汗ばんだ紙を開けることもしなかった。
僕は無意識に紙を強く握り締めていたらしい。小さな四つ折りの紙は湿っているばかりか、幾つもの小さな皺を刻んでいた。そして皆から十秒ほど遅れた後に紙を開ければ、自分の新しい席は、今の自分の席から前方に向けて机二つ分だけ、移動したところであることを知った。要するに教卓の真正面、前から二列目の席だ。
僕達が自分の向かうべき席に移動すると、驚くべき事が起こった。まず僕は自分の席の前にみっちゃんの後ろ姿を認めた。これは僕にとっては、嬉しくも切ないことであって、今はもう僕を愛してくれない彼の背中が、僕の目前に堂々と姿を現していた。そして僕の心臓を激しく震わせたのはその直後だった。何と僕の席の左隣に、木村が腰を下ろしたのだ!
僕は彼女と隣同士になることで、激しい動悸を感じ始めた。自分はこれで気分のままに、彼女を殺すことができるわけだ!
「明日だ。明日に自分の決めた頃合いで、こいつのことを殺してしまおう!」
僕は心で叫んだ。彼等は何故か二人共、黒板を無意味に見つめているだけで、恋人同士の会話をしようとはしなかった。
僕は自分の方を向いてはくれないみっちゃんを見つめて、その遠くに感じる背中に語り掛けた。
「君は僕だけのものだ。君を愛することが許されているのは、この世界で一人、僕だけだ。僕から君を奪う者は、例え君の愛する人であろうとも容赦はしない。僕は君の恋人を殺してやるから……」
僕は新たな席に腰掛けてから、脂質の多く含まれた液体を、手の汗線に溢れさせていた。そしてこの体液は、僕が学校を去って帰宅した後も続いた。それに僕に起きた体の変異は、この病的な発汗の他にもあった。
僕は帰宅した後、両肩に肥えた豚がぶら下がるような重さを感じて、その身体の気怠さに引っ張られるがまま、ベッドの中に体を沈めた。
僕は身体的な苦しみに襲われ続けた。今となってはもう、精神力を空想に生成させるほどの余裕もなく、僕はただ喉から唸るような声を出すことだけに、自らの生命力を酷使していた。僕は肉体に感じる慢性的な怠さ、疲労感に打ちのめされている。めまいと頭痛が僕の気を苛立たせ、心臓からは死の派閥に違いない激しい動悸が、気味の悪い声を僕に聞かせていた。僕は体温が高いのか、顔中が火照っていた。僕は熱くなったおでこに、広げた利き手の手の平を乗せて、その冷たさで熱を少しでも冷ませようとした。そして思ったよりも冷えている手の平が、現状の気分を良くしてくれたので、僕はずっと手の平を乗せ続けた。右手が冷却の効果を失えば、次はおでこに左手を乗せて、また数分後には右手を乗せ変えた。そしてしばらくすると、自分の顔面に沿う手が震えているのに気が付き、僕はもう一方の手で震える手首を握った。するとその手までもが震えていることに気付いて、僕は両手を放り出して、衰弱する自分の生命力から抗うように、言葉にならない唸り声を喉から出し続けた。そして熱病患者のように苦しむ僕は、何も考えられない頭で、肉体の全身を用いて言葉を表現するように、死を目前にしたような微かな声量で、自らに向かって魂から叫んだ。
「明日は絶対に木村を殺そう。自分の幸福は自らの手で守るんだ。」

十二
運命の日が訪れた。僕が家を出れば、目に見える道々が、雪化粧で自らのことを美人に魅せている。視野に収まる景色全体が、真っ白な雪で染まっていた。
僕は昨日、母が帰宅する前から夕飯も食べずに眠っていた。そのために今朝はいつもよりも少し早くに目が覚めて、浴室で制服を脱いでは風呂に入り、入浴後は再び新たな下着と靴下、シャツを着用した。ブレザーとズボンに関しては、昨日の汗が染みついたままであったが……
自分は入浴後、身だしなみを整えればすぐに家を出たので、自らの体温が急激な温度変化に対応できず、僕は頭の天辺から足の爪先まで冷えを感じた。しかし寒さを感じていた反面、入浴後に純白の雪模様を見たことで、自らを取り巻く環境とそれを眺める自分に対して、心の芯から清々しさを感じることができた。
雪はもう止んでいた。きっと雪は昨夜から早朝にかけて降り続いていたのだろう。積雪の程度は浅かったが、それでも自宅前の道は真っ白で、そのためか住宅街がいつもに比べて綺麗に見えた。白い雪が、寝ぼけ顔の太陽が発した光を、町全体に反射させ輝かせているからだろうか?
自分は目に映る雪の景色に対して、特別な思いを抱いていた。どうして雪の色彩は、これほどにも美しいのだろう。雪の純白さほど、美しい色がこの世にあるのだろうか?その色彩に表れる潔白性は、どれ程に大きな美を携えていることだろう。そしてその色に心を惹かれて雪に触れれば、何と指先の冷たいこと。人はこの冷たさに触れて、いったい何を感じるのだろう。もしかすれば人間は、己の切ろうとも切れない寂しさ、哀愁の感覚などを、その冷たさに思い出すのではないか?
僕は雪の色彩に惚れ惚れとしていた。この天使の持つ翼のような純白色こそが、人間の魂に相応しい色彩ではないだろうか。誠実な人間の透き通るような魂は、きっとこのような色をしているはずだ。
僕は久しぶりに清々しい気持ちで、学校に登校した。しかしそれも教室に入ると同時に消えてしまった。その理由は言うまでもなく、自分よりも先に通学していた木村の姿を認めたからだった。彼女は中本の座る席の側で突っ立て、二人で何やら楽しそうな表情をして話し合っていた。中本の席は窓際に一番近い列で、ちょうど最前列と最後列の真ん中辺りにあった。
僕は通学時の厳しい寒風のために、脳内の記憶を吹き飛ばされていたのか、教室に入るまでは昨日の席替えのことさえも、それどころか木村を殺害する計画のことさえも忘れていた。そもそも僕は通学時に自分が何を考えていたのか、自らの心の視線を思い返しても、何一つと思い出せない。そして不思議なことに、自分をあれほどにも興奮させた席替えを、僕はすっかりと忘れてしまっていたので、わざわざ僕は教室の後ろにある入り口から入って行った。すると自分が教室に入ったと同時に、木村がドアの開く音に反応したのか僕の方を向いた。
木村と視線が合ったのは、一瞬の出来事だった。ただ、その一瞬の出来事が、僕に無限の憎しみを蘇らせた。その瞬間から僕は、昨日と変わらない病に再び煩わされることになった。それにしても僕は、通学中にどうして、鞄に入っている包丁のことさえも、忘れることができたのだろうか……
着席してからの時間は地獄的だった。僕は椅子に座りながら、今すぐに倒れ込みたいほどの動悸に苦しみ、全身がどんどんと火照っていくことに気が付いた。僕は自らを襲う動悸から逃れるように、ゆっくりと深呼吸を続けながら、包丁の包まれた新聞紙を鞄から取り出して、机の中にしまい込んだ。これで僕はいつでも好きなときに、木村を殺すことができるわけだ。
午前に行われた授業の間はずっと、どのタイミングで木村を殺すべきかを考えていた。僕はできるだけ早く、自分の企てを実行に移したかった。僕はなるべく早くに彼女を殺さなければいけない。そうでないと自分は彼女を殺すタイミングを見失って、けっきょくは何もすることができずに、昨日のように学校生活を終えてしまうだろう。僕は心臓の動悸と共に、緊張感とはまた違った憔悴感を抱いていた。
午前中の授業を受けていた僕は、めまいで回って見える板書された文字を、目で追うことにさえも苦しんだ。頭痛と同時進行をしていると思われる耳鳴りは、僕の意識を先生の声から大きくずらす。自分の席が前列の方にあるのでなかったならば、僕は机上に頭を俯せてしまいたかった。自分の頭の中に重量の鉄でも流し込まれたのか、それとも発熱のためか倦怠感のためか、僕は茎が折れた花のように頭部をふらふらと揺らしていた。今の自分にとっては、呼吸をすることさえもが、苦行を課されているかのように感じた。
僕は午前最後の授業を迎えても木村を殺せずにいた。そしてその授業中に、刻が正午を過ぎた頃、僕はある決心をした。僕はこの授業が終わった後に、彼女を刺殺することに決めた。僕がそれを決めた途端、僕の体温が更に上昇したように思われて、自らの両手の平には、汗が残した砂粒が無数に散らばっているようだった。計画の実行時間を定めてしまえば、計量を計れないほどの重い苦痛が、僕の肉体に襲い掛かってきた。そして四限目の授業が終わろうとしたときには、僕の精神が多数の細かなひびをきっかけに、底の方面から崩れ落ちてしまいそうになっていた。教壇に立つ教師にも自らの体調不良を見破られて、一度は先生に具合を尋ねられたが、自分には「何ともありません。」という他、何も答えることが許されていなかった。僕はこの授業を終えた後に木村を殺すと決めていたから、今に教室を抜け出して、保健室に向かうわけにはいかない。僕にとってこの決心は、机の中に隠してある刃物よりも鋭くて、もしそれを曲げようと手で掴み力を入れれば、その手の平は血に塗れるに違いなかった。
四限目の授業が終わると、先生が教室から去った後、僕は自らの座席に座ったまま、机の中にある新聞紙を取り出して机上に置いた。何回も畳み折られた新聞紙は長方形の形になっていて、誰もがそれを一目見ただけでは、その中に刃物が隠されていることを見抜けないだろう。僕はその全面を指でなぞって、刃物の先端と柄の部位を見定めた。そして柄の部分を力一杯に握った。僕はそのままで木村を刺してやろうと考えた。このままの状態で彼女を刺しても、刃の尖端は分厚い紙の層をいくつも破っていくだろうし、最終的には尖った刃が木村の皮膚を抉るはずだ。僕はそれを手にしたままで、自分の隣に座る彼女に向いた。そして僕は衣服の繊維が覆われていない首を狙うことに決めて、すぐさまに立ち上がろうとした。
僕は心の中で叫んだ。
「今しかない!殺してしまえ!」
自分が立ち上がると、その瞬間に木村が僕の目に視線を向けて、「三人で一緒にご飯を食べる?」と言ってきた。彼女は誰しもに向けているとは思えない優しげな微笑で、僕のことを見ていた。僕はその問いかけに、何も考えることができずに、「うん。」と答えてしまったのだ。
僕はそう答えた後に、右手で強く握り締めていた凶器を、隠すようにそっと机の中に片付けた。
どうやら木村の言葉に戸惑ったのは、僕だけではないらしかった。木村の声を聞いていたみっちゃんも、自分が彼女に続いて何を言うべきか、その言葉を思考回路から見つけられずにいるようだった。だが彼女が机を横に向けると同時に、彼もその動作に従ったので、僕も彼のするように自分の机を木村のものと向かい合わせた。
僕達がお弁当箱を開けてからの数十秒間は、三人共が沈黙に耽っていた。三人共が何を話題にして口を開けばいいのか、きっと考えつかなかったのだろう。しかし木村が先陣を切って、その複雑な沈黙を打ち破った。そして彼女は何気ない話題の会話で、この場の雰囲気を和らげることに努めた。みっちゃんは彼女の方を向いて、楽しそうに話を聞いている。二人は心から溢れる幸福を表情に浮かばせて、夢中で会話を続けていた。木村は時に僕の方を向いて話を振ってくれたのだが、僕は彼等の会話に上手く交わることができず、ただ愛想笑いをすることしかできなかった。
僕は話し合う彼等を見て、ずっと考え事に耽っていたのだ。僕は取り留めのない彼等の会話の中に、さも幸福そうな様子の二人を見出だして、そこには自分の入る隙がないことを知った。僕は二人の間に漂っていた幸福感を感じ取って、自分が未知なる現象に遭遇したかのように怯えてしまった。彼等は互いを見つめ合う瞳から、何と莫大な幸福感を放出していることだろう。みっちゃんが僕の前で、あのような表情になったことがあるだろうか?木村を見るときの彼は、まるで僕の知っている彼とは別人だった。言葉を発さなくとも、「愛している。」と語っているあの瞳を、僕は一度だって見たことがない。あの柔らかい表情を照らす瞳の奥では、優しい感情が硝子を潤ませて輝いている。そしてそれは木村も同様だった。
気付かれないように二人の顔を見つめては、恋人同士の間にある新しい発見に戸惑った。これが男女の仲というものなのか?これこそが、僕の母が手にすることのできなかった、男女間の幸福というものなのか?
僕は自問自答を繰り返していた。彼等の持つこのかけがえのない宝物を、二人から略奪してしまう権利が自らにあるのだろうか?もし彼等に将来、幸福な家庭を営む日々が用意されているとして、僕が目前の木村を殺してしまえば、みっちゃんは僕の母と同じ立場に没落してしまうのではないか……
僕はふと、木村の後ろの方向に目を向けた。すると硝子窓には、細かな雪の落ちていく様子が映っている。いつから雪が降り出したのだろう。今朝には落雪を止めていた乱層雲が、窓の向こうでは再び白い雪を吐き出していた。
自分の脳内は混乱していた。僕がみっちゃんの愛する人を殺してしまうことは、本当に許された行為なのだろうか?僕は口内の噛み砕いた食物を飲み込むこともできず、二人の会話を聞いている演技をしながら、終わりの見えない自問自答をひたすらと繰り返していた。自分はいったい、どうすれば良いのだろうか。自分はいったいどうすれば、今の絶望から抜け出せるのだろうか……
僕はふと、まだ中身の残っているお弁当箱に蓋をした。そしてそれを専用のケースに入れて鞄にしまい込んだ。それから僕は二人が口を開くのを予想して、それよりも早くに言葉を発した。
「体調が悪いから保健室に行ってくるね。」
僕はそれを言い終えると、片手を机の中に突っ込んで、紙に包まれた包丁を手に持ち席から立ち上がった。そして僕は教室から廊下に出て、感情のままに歩いて行った。
感情を意識に先立たせて歩いていた結果、僕はいつの間にか体育館裏に到着していた。自分はここに向かうまでに、一階を通して本館から別館へと移り、その別館から通じている体育館までの専用通路を歩いてきたらしい。この体育館に向かうために繋がれた通路は、苔が生えたような緑色のインクが塗られていて、その通路だけは校舎外でも上履きで歩行しなければならない道であった。しかし体育館裏に行くためには、その通路を外れなければいけない。僕は上履きのままで、体育館を大きく周って歩いて来たのだ。
この場所は当校で唯一、立ち入り禁止となっている。どうやら幾分も前に、この場所で喫煙をする者がいたらしい。それが立ち入り禁止の原因であるそうだ。
この立ち入り禁止場所は、学校の敷地を囲む壁と体育館の建物に挟まれている。と言っても空間の余裕は充分にあって、この場に机を横に並べても三台は収まるだろう。僕はその道の行き止まりまで歩いて行った。そして行く先を阻むコンクリートのすぐ側に、幾つもある体育館の出入り口の一つがあって、その場には四段ほどの階段があった。その一番上の段だけが、ちょうどその上にある屋根の出っ張りのために、雪が少しも積もっていなかった。僕はその場に腰を下ろすことに決めた。
階段に腰掛けると、冷たい感触がズボンを通して伝わってきた。そして相変わらず放心状態から抜け出せないまま、僕はとっさに足元を見ると、自分の右手が握り締めていた包丁に気が付いて我に返った。
「こんなものを持ち歩いて、僕はここまでやって来たのか……もし教師に古紙の膨らみを怪しまれ、これを捲られるようなことがあれば、僕は直ちに警察を呼ばれることになっただろう。」
僕は巻かれた新聞紙を全て捲って、その中にある包丁を取り出した。そして柄の部分を強く握り締めて、刃の尖端を天に向けた。
外はとても寒い。それもそのはずで、雪が降っている。視界に入る地面は真っ白で、人々の目から見放された雑草も雪に埋まっていた。そして僕のいる場所だけが、落ちてくる雪に当たらずにすむ。しかしここに来るまでに自分は、幾つもの雪の結晶に体温を奪われて、体が芯から冷めてしまっていた。
僕は目前にある刃を見つめた。左手の人差し指で刃の面をなぞれば、それは雪と同様に冷たかった。天から落ちてくる柔らかな雪と少しも変わらない冷たさである刃が、人を殺す凶器になることが、今の自分には信じられなかった。
僕がこれで木村を刺せば、彼女は死んでしまう。そうすれば僕は、先ほど目にしたような喜びを、みっちゃんから奪ってしまうことになるのだろう……それでは僕自身、幼い頃からずっと恨み続けてきた父親と、同じ罪を犯すことになるのではないか?もし僕が木村を殺してしまえば、母から幸福の全てを奪った父と、僕は少しも変わらない……
僕は幼い頃からずっと、誰にも愛されることのない母の孤独な姿を、自らの胸を悲しみに痛ませて見続けてきた。もし僕が木村を殺してしまえば、僕はみっちゃんに自らの母と同じ気持ちをさせることになる。なら僕はどうすれば、今のように苦しまなくてすむのだろうか……
僕は刃先をしばらく見つめていた。すると自らの心境を一変させるような考えが、唐突に思い浮かんできた。
「いっそのこと、自分が死んでしまおうか。」
僕は自らの衝動的な考えに驚いたものの、その考えにいとも簡単に心を縛られて、それこそが自らが救われる最善の手段であうように思えた。
「自分が死ねば、誰もが傷つかず一切のことを解決できる。」
僕は新たな希望を抱き、包丁を両手で握り締めて、刃先を自らの喉に向けた。すると両手が刃物から逃れるように震え出した。
今の自分の姿を誰かに見られれば、僕は即、精神病院に送られることだろう。そのようなことを考えれば、自らのことが不憫に思えてくる。
僕は死ぬことに決めた。自殺することを、自分はほんの一瞬で決意したのだ。しかし決意はしたものの、僕は自らの喉に刃を突き刺すことができずにいる。僕は死の恐怖に怯えているのだ。僕はいったい、何を怖がっているんだ?まさか死ぬのが怖いのか?昼休みまでは、殺人の罪を犯そうとしていたにも関わらず、その僕自身が死に怯えているというのか?いや、死が怖いものか!それよりも、今の絶望的な状況の方がよっぽど怖い!僕は今すぐにでも、この絶望的な孤独感から逃げ出してしまいたい!その術がもう自殺しか残っていないんだ!
僕がどれほどに自分自身を激励しようが、自分の死に対する臆病さは変わらなかった。そして僕は目前に誰かの姿でも見えているのか、まるで目の前にいる者を非難するように言葉を発した。
「誰かが来てくれればいいのに!なら、こんな不甲斐ない僕だって、面倒事を避けるため、今すぐにでも死ねるだろうに!」
僕が大きな声を出そうが、この場には誰もやって来なかった。ただ、目前に広がる雪の白さだけが、自分の目に焼き付いている。もし僕がここで死ねば、純白色の雪が天使に変身して、僕を天国まで運んでくれるのではないか?僕がそのようなことを考えている間に、休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
僕は石段に転がっていた皺だらけになった古紙を拾って、刃物を再び古紙で覆い隠した。そして僕はその凶器をズボンのポケットに入れて、ポケットからはみでた新聞紙をブレザーの裾で隠した。そして僕は周囲の人に見られないように、先ほどに歩いて来た道を戻って行った。
僕は教室に戻ると、ポケットにあるものを鞄に片付けた。すると隣にいる木村が、「大丈夫?」と僕に尋ねてきた。僕は最初、彼女の問いかけの意味を理解できず、ただ成り行きに任せて「うん。」と答えた。そして後から良く考えて見れば、僕は保健室に行くことを口実に、彼等の間から抜け出してきたことを思い出した。
僕は目の前のみっちゃんの背中を見つめると、胸が割れてしまいそうな痛みを感じた。僕は彼の背中を見つめ続けているだけで、憂鬱と悲しみに死んでしまいそうになる。
もし僕が死ねば、みっちゃんは何を思うのだろう。その逞しい大きな背中を揺らして、彼は僕のために泣いてくれるだろうか。彼は僕のことを、真面目に憐れんでくれるだろうか。それとも彼は、僕みたいな奴がいなくなったことを喜んでせいぜいするのだろうか。
針で心を突かれたかような痛みで、僕の瞼からは自然と透明色の血液が流れていた。僕はその涙を誰にも見せないようにと、急いで指で拭って、再び目の前の愛する人の後ろ姿を見つめた。するとその背中が、僕にとっては余りにも遠く思えて、僕の存在価値が、悪戯な隔たりのために小さく感じられて仕方なかった。
みっちゃんは木村の存在を必要としている。彼の生活にとって、木村は欠かすことのできない特別な存在だ。では、僕のことはどうなのだろう。彼は僕のことを必要としているのだろうか?もし彼が僕の存在を必要としていないのならば、僕はどうすれば良いのだろう。自らが愛する人に必要とされていない生活は、死に等しいものではないだろうか。
僕はこの日、けっきょく何も事を起こさないままに帰宅した。               

十三
 死の恐怖と初めて対面した日の翌朝、僕は布団の上で、身に感じる激しい悪寒のために唸っていた。この症状は昨夜から続いていたのだが、起床した後にはそれが重度に悪化していたのだ。僕が目を覚ましたのは、もう既に母が仕事に出掛けた、いつもと変わらない時刻だった。僕は布団から体を起こしてすぐさま、身を震わす悪寒と熱く火照った肉体に気が付いて、自分には熱があるのではないかと思った。そして一階に置いてある救急箱を取りに下に降りて、脇に体温計を挟んだままで自室に戻ったのだが、それから数分後、自分に三十八度を超える熱があることを知った。
 僕は体温計に示された三と八の数字を見て、苦しみが先ほどよりも増したような気がして、体温計を握り締めたまま、再びベッドの上に倒れ込んだ。
 この日は冬休み前最後の登校日で、明日からは長期休み期間に入る。僕は高熱のためにこの日は学校を欠席した。僕は余りにも熱が高かったので、本当なら病院に行くのが当然であるはずだが、全身の倦怠感が、自分が家から出ることを許さなかった。僕は明日まで待ってみて、それでも熱が下がらなければ、病院に行くことに決めた。
 僕は一日中を、入院患者が苦しみに喘ぎ続けるように、ベッドに仰向けとなって寝転がっていた。体調は大変悪く、眠ってしまえば楽になるのだろうが、目を閉じてみても決して眠れない。自分は全身を襲う苦しみに唸り続けることしかできなかった。吐き気は全くなかったが、悪寒と目眩に悩まされて、僕は半ば死んだも同然だった。もしかすれば今、死が僕のことを迎えに来ている途中で、自分の命を引き取ろうとする者が、自らに近づきつつあるのではないかとさえ思えた。
 僕は朝から晩まで、半ば昏睡状態で過ごしていた。そのためか自らの精神が、この長い時間の内にどのような活動をしたのか、僕は余り覚えていない。そして僕はいつの間にか、電球を消せば室内が真っ暗になりつつある時間帯を迎えていた。そのときになると、自らの体調は少し回復していたのだが、回復の安堵感と同時に僕は、寝間着が汗で濡れていることの不快さを感じ取った。そして自分が昏睡状態の内にどれほど苦しんでいたのかを、冷たい汗の量で思い知った。
 その晩、僕は母を非常に心配させた。何しろ母が帰宅した後も自室から出ず、晩飯にもろくに手をつけないで、風呂にも入らず自室に籠り切っていたからだ。母は僕の部屋に入ってきて、翌朝に病院へ連れて行くと言ったが、僕は一人で行くから仕事を優先するようにと母に伝えた。
 翌朝、体調はだいぶ良くなったが、やはりまだ熱があった。それでも熱は三十七度五分まで下がっていて、昨日のような意識を失うほどの発熱ではなかった。そして肉体は回復しつつあったのだろうが、僕の精神力の調子はそれと違って、時間が経てば経つほど悪化していった。そのために昨夜は散々、母に病院へ行くことを勧められたが、僕は自室から出ることさえもしなかった。自分は昨日のような激しい悪寒を感じてはいなかったが、自らの精神力はあの寒さによって凍ってしまったのか、僕は全身を鉛の鎖で縛られているような、漠然とした気怠さに悩まされていた。
 僕はこの日も終日、布団の上で過ごしていた。そして今日の自分は昨日とは違って、少しは頭を動かすことができた。しかしその面、憂鬱感が大きく増して、自らの考え事に憂き目を見るばかりだった。
 僕はかつて、死んでしまいたいと思ったことなどなかった。けれど今の僕には、死ぬことだけが自らに許された希望であるように思えて、自分は自殺することばかりを考えていた。誰がいつ僕を罠にかけたのか、今の自分は得体の知れない憂鬱感に首を絞められ続けていて、息をして生きるのさえも苦しく、この状況から逃れるためには死んでしまうしか他がないように感じられた。それにしてもこの憂鬱感というものは、いったい何であるのだろうか。僕は時たま、この憂鬱感から目を伏せることを許されるときがあった。それはかつてに見たあの幸福な二つの夢が、急に胸の中に描き出されるときだった。あの鼻を近づければ甘い香りがするに違いない、一時は僕という人間の支えであった夢を、僕はときどき思い返していたのだ。
みっちゃんが僕達の子を抱いている夢が、僕にどれほど、希望と絶望とを交互に与えたことだろう。彼の赤ちゃんを見る笑顔の眩しさが、どれほど僕を喜ばせたか。そしてその分、後から僕をどれだけ落胆させたことか!
みっちゃんは夢の中で僕に向かって、「皆で幸せになろうね。」と言ってくれた。そして僕は天から届けられた、「人は好きな人を好きでいるべきだ。」という御言葉を、ずっとこれまで信じ続けてきた。だがそれにも関わらず結果は最悪だ。もう僕には彼を愛することを許されていない。そして彼自身が僕の愛を許してくれないのならば、僕の愛は死んだも同然だろう。
僕はいつの日か、自分の子に天国に行くための術を教えた。我が子に向かって、「同じ人のことをずっと好きでいる」ことの大切さを語った僕は、今もそのことを信じているのだろうか。僕は同じ人をずっと好きでいようと努めてきた。けれどもその僕が辿り着いた場所は、楽園でも理想郷でもなくて、大きな絶望が広がる、地獄と変わらない世界ではなかったか?僕の抱いている憂鬱は、時が経過すると共に膨らみ続けた。その憂鬱の正体は、恋が叶わない運命の中で捨てきれずにいた、愛する人に対する思いであるような気がした。僕はそれから逃れるため、自分に課せられた一日中を、自殺の決意を固めるために費やした。しかしそれでも僕は、自らの体を血に染めて死ぬことができないでいた。自分は常に死を欲しているのに、いつまでも死に対する臆病さを克服することができない。それにしても今の僕を絶望に陥れている逆境が、死に比べて怖くないことがあるだろうか?僕は死について考えることよりも、現在の逆境に苦しむ己の姿を見ることのほうが、よっぽど怖くて仕方がないというのに!なら死に対する恐怖など、自分にとって克服のできないものではないはずだ。僕に残されているのはただ一つ、死ぬことだけではないのか?

僕の胸で膨らみ続ける陰鬱な魂は、激しい時間の流れに身を任せ、自らの望みとは異なる場所を漂い続けた。そして冬休みの日は壊れるように、あっという間に過ぎていって、自分は気が付けばクリスマスイヴの前日を迎えていた。
僕はその日、白日夢の後に眠りに落ちたのだが、僕に幸福だった二つの夢を顧みる癖がついていたからだろうか。僕の人生に終止符を打つように、三つ目の夢が僕を訪れた。

 十四
 僕は吹雪の中で、裸になった赤子を抱いて泣き続けていた。腕の中で物と化した我が子は、この世に誕生してからまだ間もないはずで、小さな子は全身の赤味を帯びた桃色の肌を、二度と柔らかくはならないほどに凍らせてしまっていた。
「僕の赤ちゃんが死んでしまった!」
所々に穴が空いた、褐色のぼろきれに包まれた僕の体は、底がないであろう深い雪の上に崩れ落ちて、僕の魂は我が子の死を嘆き悲しみ、大声で叫び続けていた。雪よりは温かい透き通る涙が、僕の瞼から落ちて赤子の肌を濡らしたが、その水滴が凍った赤子を溶かしてくれるわけもない。僕は永遠であるはずの絶望に浸っていた。
 絶望感が僕の首元までを埋めた頃、無限に雪が伝わる前方を見つめていれば、僕の視野から一番遠く離れたところに、にわかには信じられない光景が浮かび上がってきた。
 僕から最も遠く離れた地点に、何と緑色の芝生が広がっていたのだ。芝生は真っ白な平野の先に伸びていて、緑色に輝いていた。その緑の輝きは、太陽の光によるものか、それとも雪の白さが僕に錯覚をもたらしているのか、その要因は分からない。しかし僕の視界に芝生が映っていることは、間違いのない確かなことであった。
 僕は凍傷で痛む両足に体重を乗せて、自然と喉から出る悲鳴と共に立ち上がった。そして緑色に光る彼方を見つめれば、自らの小指よりも遥かに小さい人影を三つ確認した。
僕がその点となった人物が何者であるか、把握をすることは不可能であったはずにも関わらず、僕はそれらの人物が誰であるかを知っていた。その人物は、みっちゃんと木村、そして二人の間に生まれた子どもだった。
彼等は僕と違って、大きな幸福を緑色に輝く芝生に漂わせていた。
不思議なことに遠くにいたはずの彼等が、突如急に大きくなって、僕の目の前に見えるようになった。いや、彼等が僕に近づいたわけではない。僕と彼等の間にあった莫大な隔たりが、何かの訳で突然に消滅したのだ。
 僕の視界に映る彼等の子どもは、芝生の上を馬のように駆けて、その後を追うようにみっちゃんが、自分の子の背中を追いかけていた。そして木村は、柔らかな芝生に膝を付けて、その二人の様を見守っている。
 僕は彼等を目にしてから初めて言葉を発した。
「幸福は平等にやってこないね。」
僕はそう言って腕に抱いた赤子を見ると、我が子は泣き声と共に凍ってしまったのか、小さな面積の表情は悲しみを示していた。
「僕は君を守れなかった。僕はかけがえのない存在を、自分の非力さのために死なせてしまったんだ。何と残酷な現実だろう。君は二度と目を開かない……
 自分は親であることに失格だ。僕はただ、君と幸せになりたかった。けれど幸せというものは、自らの意志では支配ができないらしい。僕等にあったのは虚無だけだった!」
僕は我が子に言いたいことを言い終えた後、腹から湧き出る笑い声を喉から溢れさせた。
「ああ、僕の愛しい子!君はあの子を許せるかい?僕等を不幸に陥れたがために、幸福となったあの子を、君は笑って見ていられるかい?僕は絶対に許すことができない。僕はあの子を壊してしまいたいんだ!だって僕等がこんな逆境にいるのは、全てがあの子のせいなんだから!僕が死んでしまった君を雪に埋めた後、あいつも生きたままで雪に埋めてしまおう!」
 僕は手に痛みを感じながら、冷たい雪に穴を掘って、その中に死んだ赤子の遺体を入れた。そしてその上に雪を覆い被せるとき、凍った涙が瞼に傷をつけたのか、自分の両目からは赤い血が、消えた我が子を求めるように滴り落ちた。僕は赤子に落ちた血の一点を見つめながら、我が子に最後の言葉を掛けた。
「大丈夫だよ。僕が何もかもを壊してやるからね。」
 僕は赤子を埋め終えて立ち上がると、自らの視界に映った、僕の姿に気付かないみっちゃんを見つめて叫んだ。
「みっちゃん、君が愛しいよ!僕は君を独占したい。どうせなら君を殺してしまって、僕も君の後を追って死んでしまおうか。そうすれば、誰もが僕等の愛を邪魔することができないはずだ。
 僕達の死体を、誰かが雪の中に埋めてくれれば良い。もちろん、二人で同じ穴に入るんだ。僕の魂は君さえいれば、冷たい雪の中でも生き続けるだろう。それにしても雪は冷たいね。僕はこの冷たさに見覚えがある。この冷たさは、人が孤独に苦しむときの心に似ている。この冷たさは、愛に見捨てられた人を襲う虚無感のようだ。でも雪が虚無であるとしても、僕はみっちゃんと共であるのならば何も怖くない。僕は君と一緒なら、無限の虚無を両手で搔き分けて、その中にある希望を見つけられるだろう!」
 僕は愛する人をずっと目で追いかけていたはずだったが、気付かぬ内に彼の姿を見失っていた。それどころか他の二人までもが消えてしまっていて、自分はこの世界で一人きりになってしまったのだ。僕がその事実に孤独感を抱くと、太陽がそれと同時に沈んでしまったのか、この辺りが急に薄暗くなった。
 僕は突如現れた薄暗さに包まれて、一時、動物的本能による不安を感じた。そして自分は一人きりでいることに耐えかねて、埋めた赤子を掘り返すことに決めた。
僕は赤子を掘り返すために腰を下ろした。いくら一面が同じ色であろうと、自分の足元を掘り続ければ、赤子を見つけられるはずだ。僕は赤子を埋めてからというもの、視点ばかりを動かし続けて、我が子のお墓からは一歩も動いていなかった。
 僕は両手で雪を掘り返した。すると意外なことに、穴は思ったよりも深くなって、いくら範囲を広げて掘ろうと、自分の子は決して姿を見せてくれない。世界の薄暗さに対する自分の不安が、我が子を見つけられないがために、その大きさの分だけ憔悴感に変わってしまった。
僕は穴を掘り続けた。そしてもう自分の手先が届かないほどに穴を深くすると、僕は我が子を再び抱き締めることを諦めた。僕は胸が張り裂けそうな絶望感のせいで、本当に体内のある部分を破裂させたのか、喉から大量の血を吐き出してしまった。五分間ほど吐血は止まず、僕は嘔吐物を吐き出すように、自分が掘った穴の中に血を吐き続けた。そして地獄的な発作がやっとの思いで止むと、僕は激しい体力の消耗のために意識を朦朧とさせた。
 弱っていた僕はどこを見ることも無く、前を向けば自然と目に映る景色を、機械的に見つめていた。しかし奇妙なことに、自分が先ほどに見た芝生がなくなっている。ただ前方には雪模様が無限に連なっていて、僕は自分の体を目に映すことがなければ、きっと自分がモノクロの世界に迷い込んだものと思い込んだことだろう。
 僕は荒い息を落ち着かせると、何の理由もなく目下の穴に一瞬、視点を落とした。するとそこから目を離したと同時に、自分でも信じられないような残像を見た。僕は慌てて視線を戻すと、何と穴の中には赤子ではない、肉体を発達させた男性が裸で倒れていた。
 僕は背中を見せて倒れている男性を地上に戻すため、雪の上で腹ばいになって両手を穴に入れた。しかし僕の脆弱な力では、何もすることができなかった。それでも僕は諦めることをしなかった。自分はどうしても、男性の体を地上に引っ張り上げたかったのだ。
 僕は自らの力では彼を引き上げられないことを理解したので、その行為を一度中断することにした。そして彼をこちらに引き上げることを諦めて、僕が雪を掘り進めることで、自分が男性の身元まで近づくことに決めた。
 僕は手で雪を掻き続けた。そして自分の体が男性を踏み潰さないほどに穴を広げれば、僕はその中に飛び降りた。すると雪に空いていた穴が、先ほどまでは自分の肩から指先までの深さであったはずであるのに、自分がその中に足を入れたと同時に、僕の全身は巨大な雪の壁に挟まれていた。目を上に向けても、空が見えないほどに壁は高い。僕は非現実的な違和感に屈することもなく、自分の足元に倒れている男性の姿を確認した。するとその男性は、信じ難いごとにみっちゃんだった。  
僕は腰を下ろして、彼の顔をできるだけ近くで見た。すると裸になった彼は、体の至るところを僕の血で汚している。僕は自分の血に染まった悲惨な彼の姿を見て、喉から自然と出てくる泣き声に身を任せ、彼の氷のように冷たくなった体を持ち上げて抱き締めた。
「みっちゃん!僕は君を愛しているよ!」
僕は彼の死体を抱き締めたまま、氷点下に心臓を凍らせて死んでしまった。そして彼の体を抱き締めた自らの手は、凍って外れなくなってしまったのか、彼を抱き締めたままで、僕はその場に倒れ落ちた。

 僕は長い昼寝から覚めたとき、自らの気が狂ってしまっていたことを、自分でも確かに自覚していた。
 僕は今のままでは、自分の大切な人の何もかもを奪ってしまうだろう。それを防ぐためには、狂人と化した僕が消えなければいけない……
 僕は目を覚ましてから気を動転させた数分後、恐ろしい夢を回想することに努めた。しかし僕は不思議なことに、自分が見た夢の内容を、ほとんど思い出すことができなかった。ただ僕が覚えていることは、自分が小さな子を殺してしまったことだけだった……
「僕は二人の子どもを殺してしまった!僕は好きな人を好きでいるために、二人の子どもを殺してしまったんだ!」
 僕は帰宅した母に夕食の知らせを受けるまで、ずっと自室に引き籠っていた。そして僕は一階の食卓から自分の名を呼ぶ声を聞いて、その声の残響の導きを頼りに、やっとの思いで食卓へと降りて行った。
 僕は食卓で母と向かい合った。木製のテーブルは四人掛けのもので、椅子もきちんと四人分が置かれている。そして僕と母はその半分の数だけをいつものように使用した。この日の夕食はカレーライスで、これは僕が最も好きである夕食のメニューだ。僕は昼食を食べていなかったので、夢中で自分の好物であるカレーライスを食べた。
「優、今日はお昼に何も食べなかったの?」
「うん、そうだよ。でもどうして、それを知っているの?」
「さっき鍋の蓋を開けたとき、まだ手がつけられていない状態だったから。」
「今日のお昼ご飯もカレーだったの?」
「うん、そうよ。優、テーブルに置いてあった置き手紙にも目を通していないのね。」
「ごめん。今日はずっと自室に引き籠っていたから。なんだか最近、体調が良くなくて。」
 僕がそう言ったとき、母は一瞬、虫にでも噛まれたのか、物凄く気難しそうな表情になった。
「優、月曜日は空けておいてね。」
月曜日は母の働いている職場の定休日だ。だから母は、僕を連れてどこかに出掛けたいのかなと、自分は勝手な想像をした。
「分かったよ。でも、どうして?」
僕が母にその訳を尋ねたとき、母は口を開くのが辛そうに、自分が言おうとしていることを言いかねていた。そして母は口内に大きな吹き出物でもあるのか、目に涙を溜めていたので、事情を察しれない僕は、陰鬱な奇妙さを潰してしまうように再び尋ねた。
「月曜日にどこか出掛けたい場所でもあるの?」
「優、最近調子がおかしいでしょ?だから病院に行こう?お母さんも一緒についていくからね。」
「病院くらい一人でいけるよ。それにその必要もないと思うよ。ちょっと風邪を拗らせただけだから。」
「駄目。優が行く病院は、ここから少しだけ離れた場所にあるから……」
「どうして風邪なんかで……」
 僕は母の両目が、涙の形が悪かったのか、赤く充血していることに気が付いた。僕はどうして母が泣いているのかが理解できず、自分の知らない訳が母を苦しませていると考えると、漠然とした不安に襲われた。
「母さん!母さんは僕に何を隠しているの?母さんは僕をどこに連れて行こうとしているのさ!」
僕が母にそれを言い終えたとき、母の瞼から溢れ出した涙の量が、僕を恐ろしさに震え上がらせた。
「ごめんね。私が頼りないから……」
 母はただただ泣くだけで、僕はその様を唖然として見やった。
「どうして泣いているの?」
 母は手で顔についた涙の汚れを拭き取りながら、聞き取るのも難しい涙声で話し始めた。
「一昨日にね、充昌くんが私の働く職場に来てくれたの。彼はお店の近くでずっと、私の仕事帰りを待ち続けてくれていたみたい。
私が店を出たと同時に彼が声を掛けてきてくれた。それでね、近頃の優のことを聞いたの。充昌くん、優のことをすごく心配してくれていたのよ。だからね、優……一緒に病院に行こう?今の優は心の病気だと思う。でもね、病気は人に突然、訪れるものだから、優に悪いところは何一つないのよ?優はただ、運が悪かっただけなの。優は小さな頃から父親がいなくて、周囲の子等に比べても、大きな愛を受けて育つことができなかった。それに私は貧乏人で、優には色々な楽しい経験をさしてあげることもできなかった。どれもお母さんが悪いのよ。私が余りにも頼りないから……だからね、優は何も悪くないんだからね……」
 母はそれを言い終えると、大きな泣き声を上げながら机の上に頭を沈めた。僕は椅子から離れて母の席まで机を回り、机上で泣き崩れた母の両肩を、手で強く握り締めた。
「泣かないで!泣かないでよ、母さん!」
僕は自らの手の平に、母の肩が震える振動を感じて、自分までもが泣きたくなってしまった。
「泣かないで!母さんが泣けば泣くほど、僕は悪い人間になってしまうから!お願いだから泣かないで!僕をこれ以上、悪者にしないでよ!」
 母は顔を上げて、側にいる僕の体を抱き締めた。そして母と同じように泣いている僕に向かって、優しい口調で話した。
「優は何も悪くないの。優は何も悪くない。悪いのは全部」
「やめて!もう何も言わないで!僕は自分のせいで、母さんを悪者にしたくないんだ!」
 僕はそれを言い終えると、幼稚園児のように泣きじゃくった。そして僕の背中に手を回す母は、僕が泣き止むまで、自分のことをずっと抱き締めてくれていた。
 僕が泣き声を弱めると、母は僕の体からゆっくりと手を放して、僕の目を覗き込んだ。 
「優、お願いだから月曜日、一緒に病院に行ってくれる?」
「行くよ。だから少しだけ、僕を一人にさせて欲しい……」
 僕は皿に残っていたご飯を、機械的に残さず食べ終えて、そのまま自室に戻って行った。
そして僕は自室に戻ったと同時に、胸で膨らみ続けた溜息を、心から思いっきり吐き出した。
自分は自らの親にも嫌われてしまったのだろうか?母さんはずっと、僕のことを愛してくれていた。でも僕のせいで母さんは、僕のことが嫌いになったかもしれない。なんせ自分の息子が、これほどにも気が狂ってしまっていると知ったんだ!母さんは人生で二度、かけがえのない愛を奪われた!一度は夫に、そして今度は我が子によって!
僕はベッドに崩れ落ちて、次々と流れてくる涙を枕で消した。
「僕は母を殺してしまった!赤ちゃんの次は母を!僕は母を殺してしまったんだ!」
 僕は自分が生きていることによって、次々と大切な人が死んでしまうことを知った。
自分に生きる価値などあるはずがない。僕はもう死んでしまうしかないんだ!生きていることが絶望ならば、死んでしまうことは喜びとなるだろう!それとも死ぬことまでが絶望であるならば、僕はもうこの絶望感からは二度と逃れられない運命なんだ!
「僕は死ななければいけない……」
 僕は自らに定められた死について考えれば考えるほど、頭の中がぐるぐると激しく回って、そのために何時間と経過しても眠りに落ちることができなかった。
 僕は死人のように枕に頭を突っ伏したまま、瞼から溢れ出る涙で、枕の繊維を溺れさせていた。そしてそれよりも悲惨な様で溺れもがいているのは、言うまでもなく自分の心に違いなかった。
 僕は罪人だ。自分は誰にも愛される資格のない人間だ。しかしそれにも関わらず、僕はみっちゃんからの愛を強く欲している。僕は彼のことが大好きだから……でも僕がどうして罪を犯してしまったのだろう。僕は初めから終わりまで、彼のことを強く愛し続けていただけだ。そして僕は自分が死んでしまうまでずっと、彼のことを愛しているに違いない。けれど僕の愛は人を不幸に陥れる。だからこそ僕が生き続ければ、自分は愛する人のことを、一生苦しめ続けることになるだろう。
 自分が息をするだけでも、再び誰かの希望が壊してしまう。でも僕はみっちゃんのことが大好きだから、やっぱり彼には愛されたい。僕は彼のことを心から愛しているのだ。
 僕はずっと眠ることができなかった。そして僕が夜を越えて考えていたことは、自らが犯した罪に対する償いの方法についてだった。僕はまるで最期を迎える患者が死に吸い込まれるように、自分が自殺をする空想に耽り続けた。

 十五
 僕は寝ずに朝を迎えた。寒い夜更けを布団に包まり耐えて、僕は眠れないままに陽の目を窓から受けた。そして疲労感に崩れてしまいそうな体で、自分はやっとの思いで、布団から抜け出すことができた。
僕は体を起こすと、ベッドの側に置いてある鞄の中から、凶器を包んだ新聞紙を取り出した。そして僕はそれを勉強机に置いてまじまじと見やった。僕は空想に耽り込むことに嫌気がさしたので、肉体とは対照的に荒ぶる精神に気を配って、現実的なものと触れ合おうとしたのだ。
 僕は刃物を覆い隠す新聞紙を捲った。そして身を露わにした包丁を見たとき、その刃先でさえも傷つけられないほどに、あるものが僕の心を抉ってしまった。それは机の上に無造作に置かれていた、数カ月前から時の止まっている卓上カレンダーだった。
 僕はある巡り合わせなのか、無意識の内に十二月の月まで厚紙を捲った。そして携帯の液晶画面に表示されている、今日の日付を確認した。そして僕が本日の日付を知ったとき、自らの背中には寒気が走った。
今日は恋人達が愛に興じる日だ。今日は世間一般では、愛する者同士に用意されている特別な日だった。そしてこの日は僕にも大いに関係がある。自分は誰にも劣らない愛情を持っているのだから当然だ。例え僕の肉体が朽ちてしまっても、僕の魂はずっと、みっちゃんのことを求め続ける。そういう意味では、僕のこの愛情は永遠的なものだろう。
 僕は自らの胸に存在する愛情を確かめると、その感情に火薬でも仕込んであったのか、唐突的な閃きが自分の心に強い光を発した。
 どうせ死ぬならば、この日に死んでしまおう。僕は自殺をするにしても、最後まで自分の愛を貫いて死にたい。自らの肉体が機能を停止する瞬間まで、僕は自分の愛する人を見続けながら死んでやろう。
 僕はみっちゃんの前で自殺をする。自分は彼に対する激しい愛情の動きによって死ぬのだから、それを目にした彼は、僕が抱く愛情の大きさを絶対に認めてくれるだろう。今度こそは、彼が僕の抱き続けてきた真実の愛を、きっと信じてくれるはずだ。
自分は今日、常人には決してできないような、特別な愛の告白をする。僕は自らが抱く純粋で偉大な愛の思いを、みっちゃんに告白するのだ。そしてもしかすれば、彼はこの思いを認めてくれて、僕のことを愛してくれるかもしれない。もしそうなれば僕は途中で死ぬのを止めて、まだまだ生き続けることができる。愛の喜びは、どのような絶望心をも癒すのだから。僕は自分に唯一与えられた、か細い希望の一筋を見た。
 僕は勉強机に一度置いた凶器を再び手で握った。僕は鼠に狙いをつけた猫のように瞳孔を開いて、鋭利な鉄の刃先を見る。すると自分の心臓が激しく動いていることを感じた。だがこの動悸がいつからのものなのか、自分は一向に思い出せなかった。
 僕は包丁を握ったままで、ベッドに横たわった。僕の瞳はずっと刃を向いている。この刃が、自分を殺してしまうかもしれない。僕はその可能性を考慮した後に、刃のむねを指でなぞった。するとそれは予想以上に冷たくて、そのためか僕の体は独特な悪寒に震えた。そしてその不快感を紛らわすために、僕は全体重で潰していた掛布団を救い出して、それを自らの体に覆い被せた。
 僕が掛布団に包まってから少し経って、部屋の扉が二回、音を鳴らした。それから扉が開いて、母がまるで僕の召使いかと思われるほどに、恐る恐る顔を覗かせたのだ。
 母が部屋に入ってくると、僕は体を少しも動かさず、視線だけで親を迎えた。
「もう起きているの?」
「うん。」
「今日の予定は?」
「何もないよ。」
「そっか……お母さんは仕事に行ってくるからね。今日は一日中、寒くなるみたいだから、夕食は鍋にするつもり。楽しみに待っておいて。」
「分かったよ。」
母は楽しいことなど何もないはずなのに、無理やりに笑顔を作って、身に感じる寂しさを僕のためだけに殺していた。そして母は己の憂鬱を完全に隠せていない笑顔を、やつれて見える顔面に浮かべたまま、音を立てずに僕の部屋から出て行った。
母が部屋から出ていった後になって、僕は刃を露わにしている包丁のことを思い出した。一瞬の間、激しい緊張感に息を止めた。しかし親には何も見られていないはずだ。そもそも母がそれを見つけていれば、あの調子でこの部屋から出て行かなかったに決まっている。
僕は自分が包丁をどこに置いたのか探した。すると運が良いことに、僕を殺す予定である凶器は、僕の体に覆い被さった掛布団の中で、自分の体と同じように温められていた。それにしても、掛布団が包丁を潜ませてくれていて良かった。もしこれが母の視界に露わになっていたならば、自分の将来は大きく変わっていただろう。
 僕は昨夜から一睡もしていないのに、母が出て行った後も眠ることができなかった。それどころか、もう僕の体はくたくたに疲れているはずであるのに、自らの心臓の動悸は昨夜よりも激しくて、両手から滲み出る汗は、前日の量とは比べられないほどであった。僕は大袈裟ではなく、自分が死んでしまうのかとさえ思った。自分の体調は今までの人生の中で、一番に悪い状態だった。これからの僕は、さも死んでしまった人間のように、後何時間も横たわっているに違い。
 僕は生まれてこの方、今日のような気分を味わったことがない。僕の魂は、憂鬱と興奮の境界線上で突っ立っていた。そしてその立ち位置は、自分に大きすぎる緊張感を与える。僕はこの緊張感のために、身を削るような苦痛に溺れていた。心臓が壊れそうな動悸も、頭が割れそうな頭痛も、肉体を八つ裂きにするような倦怠感も、全てはこの緊張感によるものに思えた。けれども人をこれほどにも苦しめるものを、僕は今までに知っていただろうか。
これが僕の人生であるのか?それが人生と呼ぶ名称を持つものであっても、はたしてこれは人生と呼ぶに値するものなのだろうか?
 僕は死ぬのが運命である病人のように、肉体的また精神的苦痛に呻き声を漏らし続けることで、自らに残された人生の時間を費やしていた。それは時計の秒針が動く調子と変わらず、自分が死んでしまわない以上は、無限的なものであるように思えた。時の流れは僕を休ませてはくれない。誰かが僕の苦痛の秒針を止めてくれるはずもなく、自らの回り続けている精神は、吐き気を催すほどに酔ってしまっていた。そのために僕は廃人のようになって、すぐには去ってくれない時間の流れの中に蹂躙され続けた。僕の意識は眠りに落ちてさえくれない。そして僕は意識を意識できるほど、健康的な精神状態ではなかった。それでも僕は、時々、携帯電話の液晶画面を見て、来るべき時を逃さないように注意していた。これは真実の愛に対する執着心による、究極的な無意識の例だろう。
母が帰宅する時刻が近づいたときに、自分はこの家から出ることに決めた。もちろん、中身を空にした通学用鞄には、身を露わにさせた包丁を忍ばせて。
 僕は食卓に、母に向けて書いた置手紙を残しておいた。
「必ず帰ってきます。少しだけ待っていて下さい。食事は先に済ませてもらって構いません。」
僕は家を出ると、地面が真っ白であること
に驚いた。純白の地に足を乗せれば、その綿のように柔らかい地面が、僕の靴の殆どを呑み込んでしまって、靴下が凍ってしまうのもきっと時間の問題だった。僕は自転車のタイヤが滑ることを考慮したが、それでも靴が濡れるのは嫌なので、けっきょくは自転車でみっちゃんの家まで向かうことに決めた。
サドルに積もる雪を、裸の手の平で払い除けた。それでも僕のお尻は、汗で湿った手の平と変わらずに濡れて、ズボンの繊維はたっぷりと雪の冷たさを吸収した。

僕がみっちゃんの家に着いたのは七時過ぎだった。彼の家の玄関先に設置されたインターホンを鳴らすと、彼の母親が家の扉を開けて、息子の親友に対する最高の礼儀で、僕のことを迎えてくれた。
僕がみっちゃんの親に会うのは久しぶりだった。彼の母はとうの昔に、背を息子に抜かされていた。髪はとても長くて胸元まで垂れ下がっている。息子に似た細い目が、自然と彼女に男勝りの気性を醸し出しているが、華奢に見える体つきが、そのぶん彼女に女性らしさを印象づけていた。
彼の母親が息子の幸せに対する喜びを顔に表しながら、僕に彼の不在を伝えた。
「あの子ったら、恋人さんとデートに行っているらしいのよ。今日はクリスマスイヴだもんね。今頃は、プレゼント交換でもしているのかもしれないわ。ところで、あの子の恋人さんは、いったいどんな感じの子なの?私、まだご対面したことがないのよ。あの子の恋人は可愛い子?」
「僕は今まで、みっちゃんに恋人がいること
を知りませんでした。」
彼の母は大袈裟に驚きの声を漏らした。
「まあ、そうなの?あの子は優くんにさえ、自分の恋を秘密にしていたのね。本当に困った子よ。充昌は私にはもちろん、同性の旦那にまで何も話さないんだから。私が充昌に恋人がいることを知ったのも、充昌が電話で誰かと会話している声が、あの子の部屋から毎日のように聞こえてきたからなのよ。私はあの子にたくさんの質問攻めをしたけれども、自分に恋人がいること以外には何も教えてくれないのよ。まあ、秘密主義者になるお年頃なのかもしれないけどね。」
みっちゃんの母は、僕に家に上がって待つように勧めてくれたが、僕はそれを丁寧にお断りしてその場を立ち去った。
僕は住宅街を一度抜け出すために、自転車を押して五分ほど歩いた。今朝から続いている動悸を伴う倦怠感が、自分をとてつもなく苦しめる。だから僕は靴を濡れることも承知で、ゆっくりとした調子の深呼吸を繰り返して、両方の足を少しずつ動かしながら進んだ。
そして住宅街を出れば、歩道が整備されている道路に出た。ここでなら、ずっと突っ立っていても迷惑にはならないだろう。僕は少し歩いただけでも物凄い息切れに襲われたので、一度、道の端で体を崩したくなった。しかしそうすることもできないので、僕は最も車道から離れた歩道の端で、今にでも倒れそうな自転車のスタンドを下ろした。そして僕は右と左のハンドルに両手を交えて、それらの手が繋げた二重の腕を枕代わりにすることで、その中に重い鉛の頭を沈めた。
 僕の顔面は、彼の家が並ぶ住宅の列に入るための、曲り角を向いている。彼がこの道を曲がることは間違いがなくて、僕はこの場を離れることさえしなければ、彼と確実に会えるはずだ。
 僕は背中を大きく曲げた、大袈裟な前のめりの姿勢で、今にも倒れ落ちてしまいそうな体を、駐輪する自転車が支えてくれている。雪は相変わらず降り続いていて、当たり前だが外は非常に寒かった。自分は分厚いコートに包まっていたが、それも雪に濡れてしまっては、何の役にも立ちはしない。雪の水滴で冷たくなったコートは、僕の全身を余すところなく凍えさせた。そして自らの肉体は、体を凍てつかせないためか、燃えるような熱さを全身から発している。
 僕は一時間、二時間と待ち続けた。しかしみっちゃんは現れない。僕は凍死する寸前の子猫のように、雪が降り続く中で意識を朦朧とさせていた。僕の意識を朦朧とさせる原因は、今朝からずっと変わらないはずだったが、今ではそれに甚だしい疲労感が加わっている。
このときの僕にとっては、現在の時間の流れが長くも短くも感じられた。僕がこの場で一時間を費やしたことを知ったとき、僕はどれほど意外に思ったことだろう。肉体に纏わりつく激烈な疲労感からすれば、一時間は非常に長く思えた。しかし奮い立つ精神の緊張感からすれば、一時間は余りにも短く思えた。今の僕にとっては一瞬が永遠に、永遠が一瞬に思えたのだ。
 待ち始めてから二時間が経過したことを確認したときは、固まった自分を纏うコートが雪で重さを増していたためか、文鎮で押さえられた書道紙のような、僕は自分の思うままに体を動かせない不自由さに苦しんだ。経過する時間と共に重くなるコートは、僕の背中をどれほど大きく曲げたことだろう。僕は心身共に嘆いている極寒の中で、自らの姿を雪と徐々に同化させて待ち続けた。燃えているように熱を保ち続けている肌は、この極寒の中でも熱を冷ますことなく、僕の体はずっと火照っている。それでも雪が手の甲に落ちれば冷たかったし、熱を持つ肌が雪を溶かすわけもなく、僕は唯々、身内の熱さと身外の寒さとに苦しめられて、それらが自分の肉体を左右に引っ張るかのような痛みさえも感じた。僕は時折、自らのおでこに手を触れたが、その部分の温度を手で確かめれば、自分に熱があることは疑いようもなかった。
 僕は死んだように雪に埋もれ、愛する人の帰りを待ち続けた。そして僕が時間に対する興味を病的に失った頃に、眠ったように頭を下げていた僕の名を、誰かが口にしたのだ。 
僕は前方から聞こえてくる声に振り向くため、地に垂らした頭を元の位置に戻して、僕の名を呼ぶ者がいったい誰であるのかを確認しようとした。

 十六
 僕の目の前にはみっちゃんがいた。彼は自転車に跨って、両足で雪を踏みつけていた。彼は寒中を凌ぐため、ニット帽、マフラー、手袋に分厚いジャンバーを着用して、全身を防寒に徹していた。分厚いジャンバーは真っ黒で、僕は一面が真っ白な景色の中に、大きな人影が映っているかのように見えた。大きく膨らんだリュックサックを肩に背負っていて、どうやら片手で持つ傘は、彼にではなくてその鞄に傾いていた。
「藤原、こんなところで何をしているの?」
 彼の声を聞いたとき、衰弱状態に陥っていた僕は、天から力を返してもらったかのように、暴力的な衝動性に駆られた。そしてこの時を待ち続けていた僕は、つい先ほどまでは忘れていた破壊衝動を、心の中に蘇らせたのだ。
僕は自転車から降りて彼に言った。
「僕は君の目の前で死のうとおもう。」
 彼は怖いものを見て怯えているような、体が突発的な不安のために、固まってしまった者のような表情を僕に示した。
「また君は訳の分からないことを言い出すのか?」
「どうしてみっちゃんは、いつだって僕の気持ちを理解してくれないの?僕はみっちゃんに向けた力強い愛の思いを、君に証明するために死のうとしているのに……一度冷静になって、よく考えてみて欲しい。木村はみっちゃんに対する愛のために、自分を殺すことができると思う?」
彼は僕の問い掛けを、一秒間も考えてはくれなかった。
「できると思うよ。美華は君よりも僕のことを愛してくれている。彼女は君と違って、僕を苦しめるようなことはしないからね。」
 彼は少しの謙虚さもなく彼女を立てた。そして僕は、彼の言い放った言葉の終わりに対して、鋭敏に反応してしまった。
「僕が君を傷つけているだって?」
「言うまでもないだろうが!」
彼は僕を怒鳴りつけた。僕はその険しい彼の態度を見て、いかに自分が彼を苦しめていたのかを知った。
「僕はもう人を苦しめるのは嫌だ!僕は人殺しにはなりたくないんだ!」
 僕が自らの思いを叫ぶと、彼は呆然として、その沈黙の中で僕に尋ねた。
「何の話だ?まさか、自分のお母さんを殺したのか?」
「違う。僕が殺したのは、僕と君との赤ちゃんだ!」
「いい加減にしてくれ!妄想に魂を売却した気違いが!」
 彼は再び僕に向かって叫んだが、その後は閑散とした寒夜の街に気配りをして、周囲を恐る恐る見回した後に、小声で僕に向かって言った。
「お前は妄想に狂わされた気違いだ。」
「僕がどのような妄想をしていると見なして、みっちゃんは僕のことを馬鹿にしているの?僕は本当に君の赤ちゃんを殺してしまった。僕はその罪を償うため、そして君に対して抱いている愛情を表現するために、この場で死のうと思っているんだ。」
 彼は僕の熱い気持ちを、冷淡な微笑で跳ねのけてしまった。
「ふん。妄想にしか居場所のない君が、この現実世界で何ができる?君にはどうせ何もできやしない。夢見がちの口だけ野郎が!」
「僕は君のために死のうとしているのに!」
 僕は自分の抱く愛の大きさを蔑む彼の発言が許せず、逆上の赴くままに、自転車の籠に乗る鞄を手に取った。僕は雪の積もった冷たい鞄から、一本の包丁を取り出した。そして包丁を掴んだ後に鞄を地面に放った。
僕は包丁を握ったまま、みっちゃんに視線を向けた。彼は目前の出来事が信じられないのか、幽霊を見て金縛りになった者のように固まっている。
「僕のことを好きと言って!僕のことを愛していると言って!僕は愛している人に愛されたいだけだ!もうこれ以上、僕の純粋な愛情を傷つけないでよ!
 お願いだ!みっちゃん!僕のことを、世界で一番に愛していると言って!お願いだから言ってよ!そうでないと、僕は君の前で死んでやる!君に振り向いてもらえない人生なんて、この自殺行為に比べても価値がないんだよ!」
「ふざけるな!」
 みっちゃんは叫ぶと、慌てて自転車から飛び降りた。そして彼は自転車を横に放りだすと、僕の方に近寄った。僕と彼との間にある隔たりは、僕の持つ包丁の柄から刃先の距離、言わば三〇センチもなかった。
「ふざけるのも大概にしろ!さっさとそれを捨てるんだ!」
「ふざけてなんかいるものか!僕はみっちゃんに愛されるためだけに生きている。僕の見出す人生の意味は、みっちゃんに愛されることだけだ!どうして僕がこれほどまでにも君を愛しているのに、君は僕のことを少しも愛してくれないの?僕は寂しいよ!こんなのって、余りにも寂しすぎるじゃないか!
 自分の愛情が報われない人生ならば、僕は今すぐにでもこの場で死んでやる!」
「お前は病気だ!もう何も言う必要はないから、今すぐにそのナイフを手から離せ!」
 彼はそれを僕に言い終えると、僕にできるだけ近寄って、力ずくで僕の手から包丁を奪おうとした。そして僕は彼の強い力に負けるものかと、彼の激しい動きに思いきり対抗した。
「さっさと離せ!」
「嫌だ!」
「早く離すんだ!」
「絶対に嫌だ!」
 僕の包丁を握る手の平は、彼の両手に強く掴まれていたので、僕もかじかむ両手と両腕を振り回して、彼の黒い手袋に包まれた手の平に抗い続けた。
 僕達の取っ組み合いはしばらく続いた。そして僕がみっちゃんよりも早く息切れを始めて、とうとう彼に包丁を奪われてしまったとき、自分は最後の力を振り絞ってそれを奪い返そうとした。するとその狂気の刃先はとっさに僕の方を向いて、激しく僕のコートに突き刺さってしまったのだ。
 僕は自らの腹部に刃が突き刺さった直後、その抉られているコートの繊維を見つめた。すると包丁の柄だけが目に見えていて、刃は服の内で肉を抉っているに違いなかった。僕はそれを抜き出すと、破れているはずの服の繊維から、大量の血が飛び出してきた。僕はそのシャワーのように飛び出る血を見ると、全身から力が抜けていくことを感じた。
僕はその場に倒れ込んでしまった。自らの足元は、赤い血で汚れている。色の変わった雪は血の温度で溶けてしまったのか、すぐにでも消えてしまいそうに思えたが、それは自らの意識が見間違えたのだろう。雪はこの極寒のなかで消えやしない。ただ、雪そのものの色彩が血に奪われて、僕が雪と血液を見分けられずにいるだけだ。
「今すぐに救急車を呼ぶからな!」
みっちゃんは気を動転させているのか、一度、後ろに転んで尻もちをつき、それからすぐさまに立ち上がると、僕に背を向けて走り出そうとした。僕は彼が携帯電を持っていることも忘れて、自宅で息子の帰りを待つ両親に助けを求めに行くのだと思って、彼を呼び止めるために声を発した。
「待って!お願いだから僕を置いていかないで!」
 僕は自分の思うように声を発せられず、口にしたことが彼に伝わったのかどうか、とても不安に思った。
刃が抉った腹部は、僕に痛みの代わりに眠気を与えて、自分は今すぐにでも意識を失ってしまいそうだった。そして血液の溢れる腹部から伝わる熱さが、今の僕を助けてくれる唯一の温かさであるように感じられた。
 みっちゃんは僕を見て、独り言を言うように口を開いた。
「優が、優が死んでしまう!」
 僕は肉体に残された微量の力を全て用いて、彼に自らの思いを伝えた。
「僕を優しく抱き締めて……」
これは僕の人生で、きっと最後の願いに違いなかった。
「君に愛する人がいるなら、もう愛の言葉を君からは求めない。だから最後に優しく僕を抱き締めて欲しい……」
僕は発声のために力を振り絞ったが、自らが口にした一字一字は途切れ途切れで、きっと彼は僕の言うことを理解するために、頭を非常に回転させたことだろう。
 みっちゃんは僕に近づき腰を落として、倒れる僕を抱き締めてくれた。
「君は馬鹿だ!」
 みっちゃんは泣いていた。それを見ると、僕の目からも自然と涙が流れてきた。僕はこれほどにも優しい暴言を、彼の口から聞いたことがなかった。そして僕はその納得のいかない言葉の意味を、心から受け取ろうとした。
「そうかもしれないね……」
 みっちゃんは声を上げて泣いていた。彼は大きい泣き声と共に、僕に何かを言ってくれたが、もう僕にその言葉を聞き取ることはできなかった。
「泣かないで……あと、ずっと離れないで抱き締めていて……」
 みっちゃんは決して、僕の体から両腕を離さなかった。それどころか、僕の名前を何度も呼んでくれたのが、彼の唇の動きで分かった。
 彼が僕のために泣いてくれている。これこそが、真実の愛だろう。僕は自分が求め続けていたものを、やっと手にすることができたように感じた。
 みっちゃんとは一生を共にしたかった。もし僕が彼に恋をしなければ、僕等はきっとかけがえのない友情を、生涯をかけて育み続けたのだろう。でも、これで良かったはずだ。僕は彼を愛している。どうして、このことに嘘がつけるだろうか?僕は彼のことが大好きであるからこそ、彼からの愛を求め続けてきたんだ。
 僕はみっちゃんの泣き顔を確認することで、自分は涙を頬に流しながらも、彼に向けて微笑むことができた。そして僕は彼の腕の中にいること、彼が自分を心配してくれていることに対する二つの幸福を感じて、「ずっと、ずっと、愛している。」と口にしようとした。しかしその言葉を言おうとしたとき、僕の瞼に真っ黒なカーテンが覆い被さってきて、その黒くて大きな幕が、僕の視界からみっちゃんを隠してしまったのだった。

白と赤

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更新日
登録日
2023-08-08

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