A side street

A side street

A side street

1 細い肩
 玲奈は、スマホいじりながら、足でリズム取って、音楽聞いてる。白いスカートの裾がリズムに合わせて揺れる。
 僕はっていうと、じつは、ある感触を思い出していたんだ。

 玲奈の細い肩が、僕の上腕筋の辺りに寄り掛かって来て、首を傾け虚ろな目で、下から僕を見上げた。玲奈の僅かな重みを心地良く感じた。小さな、柔らかい肩の肉塊の奥に骨の感触があった。
「ね、いつも、女、そう言う口説き方する分け?」
と悪戯っぽく笑う。
「口説いてなんかねえよ」
と、僕はわざと不機嫌そうな顔をして見せる。
「じゃ、”川辺美波”って嫌いなの?」
と聞いてきた。僕の“推し”と知ってのことだ。からかってる。
「嫌いじゃないよ」
 仕方無く、僕はそう答えた。
「好き、な方?」
と玲奈は更に突っ込んで来た。
「どっちかって言うとね」
 ムキにもなれないから、そう答えた。
「……で、私が”川辺美波”に似てるって言ったんだよ。口説いてるじゃん」
と笑って、僕の太腿を平手で叩く。結構痛かった。そして、“ツッコミどころはそこか”と思った。
 その無邪気さで玲奈は、“自惚れてんじゃないの?” という僕の毒口を出させない。
「そういうの自意識過剰って言うんじゃないの?」
 僕は自制して、言い返す言葉を、そのくらいにとどめた。
「……つまんない男」と、今度は玲奈はそっぽを向く。
『これが、世に言うツンデレってヤツか』
と僕は思う。

 派遣で行っている、或るコールセンターの飲み会の席、居酒屋の座敷でのことだった。
 始まってから、一時間半を過ぎていたので、こっちに三人、あっちに五人と固まって、それぞれの話題で盛り上がっている状態だった。
 偶然、そうなってしまったのか、皆、気を効かした積りなのか、気が付くと、ぼくと玲奈の側には、誰も居なくなっていた。
 玲奈も僕も、壁に背をもたせ掛けていた。顔だけでなく、耳から白目まで赤くなっていて玲奈は、もう大分出来上がってしまっていた。とろんとした目を見ていると、そのままどこかへ連れて行ってしまいたいような衝動に駆られてくる。 
「あの子、この頃ケバくなってない?」
 急に振り向いて、玲奈が言った。”川辺美波”の話題だ。そう言えば、無邪気そうな川辺美波が、何故か大人っぽく化粧したCMが有ったような気がした。
「うん、そう言うCMも有ったよね、確かに」
と僕は適当に相槌を打つ。
「ね! そうだよ。……うん、そう」
と玲奈は一人で納得。
「でも、戻ったんじゃない、元に」
 グリーンの妖精のような服装で、こどもたちの先頭に立ち、バトンを振る川辺の別のCMを念頭に置いて、僕は言った。そして、
「何だっけ、梨村架純と姉妹設定でやってた何とか共済のCM、あれ好きなんだよね」
と続ける。
「うん。あれあたしも好き。そんなことより飲もう! 雄介」
 CMの話題では一応同意したが、玲奈の関心はもうそこから離れていた。また、一気飲みをしようとする。
「もうよせよ。いい加減に」
と、僕は玲奈のグラスを取り上げた。
「飲むの! 今日は。だって、久しぶりの懇親会でしょ。……飲んで、話して、懇親を深めないと、ねっ。そうでしょ」 
 玲奈がグラスに手を伸ばして来る。とその時、
「皆さん、ちょっと聞いてください。こちらの席は、十時までに空けなければなりません。まだ、もう少し時間がありますから、楽しんで頂いて、但し、身の回りの物とか確認しておいて頂きましてですね。十時前には、忘れ物することなく、速やかに退席出来るようお願いします。ただ、夜はまだまだ、と言うかこれからですから、カラオケに場所を変えて、盛り上がりたいと思います。電車がなくなってしまう人、明日は、朝からシフトが入っていて、遅くなると起きる自信がないと言う人以外は、是非積極的にご参加をお願いします」

 幹事役SVの、中締めの挨拶が入った。
「玲奈大丈夫?」
 リーダーの細井由紀子が声を掛けて来た。
「じゃーん! 細井さーん。飲んでますかー?」
 その辺にあった、誰かの飲みかけのグラスを、細井の方に差し出しながら、玲奈は陽気だ。
「私、今日、帰ってから用があるから、車で来たの。だから、一滴も飲んでません」
 細井は、ことさら事務的な口調でそう言った。そして、僕の方に向いて
「 ……出来上がっちゃってるね。大分」
と言った。
「そう、大分出来上がっちゃってますよ。…… しょうがないな」
 僕は、何か保護者にでもなった気分になっている。
「大丈夫。方向同じだから、私送って行くから」
と細井が笑顔を見せて言った。僕にしてみれば“えっ?” っていう感じ。
「あっ、そう。そりゃ、安心だ。良かった」
と言うしかない。”お節介め”と思った。
「カラオケ行こうよ。細井さんも雄介もーっ」
と玲奈は愚図る。”そうだ、玲奈。もっと愚図って、細井さんをギブアップさせてしまえ” 僕は、そう思っていた。ところが、
「ほら、帰るよ。バッグ持って。ほかに、忘れ物ない?」
と細井は強引だ。玲奈の言ってることなど、頭から無視している。玲奈の方が、あっさりとギブアップして、もそもそと帰り仕度を始めた。
「斉藤君、ありがとう。明日は、出?」
と細井が聞いて来た。
「明日はゼミがあるから、シフト入ってません」
と答えたが、“あんた、玲奈のママでも姉ちゃんでもないんでしょうよ。大きなお世話はやめてくれ” 腹の中で僕は、未練がましくそう言っていた。
「じゃ、あさって。お疲れさん」と細井。
 玲奈はにこっと笑って、肘から上に曲げた手の掌を小さく、僕に振った。
「お疲れさんです」
 玲奈には、ちょっと手を挙げて、細井には挨拶を返した。

 そんな訳で、妄想とはかけ離れたところで、その日の、僕と玲奈とのコンタクトは、あっさりと終わってしまい、玲奈と特別に親密になる最初の機会を、僕は逃した。もちろん、カラオケには行かずに帰った。面白いはずもないし……。
 やりきれない思いが、頭の中でぐるぐる回っていた。そして、押しつけられた、玲奈の肩の感触だけが、妙に生々しく残っていた。 

2 眠りにつくまで
『でも、あれで、単なる同僚から、いわゆる”トモダチ” くらいにはなったのかな』と、僕は勝手にそう思っていた。
 コールセンターでは、空いていれば、隣の席に座ることが多くなり、やがて、隣がいつも空いていて、必ず隣に座れるようになった。コンビニで弁当買って来て、昼休みには、一緒に、休憩室で食べた。でも、それだけだった。たとえば、玲奈が、僕のために弁当を作って来るなんてことは、まったく、考えられもしないことだった。それに、玲奈には彼氏がいた。皆そう言っていたし、本人も否定はしなかった。でも、僕は、彼氏のことについて、玲奈に尋ねたことは一度もなかった。玲奈もまた、自分から、あれこれ言って来ることはなかった。"別にいいじゃないか。彼氏が居ようと居まいと。聞いてどうなるもんでもない。嫌なら、玲奈の方から僕を避けるだろうし、そうでないなら、僕は少しでも近づくだけだ。自然にこっちに寄って来ることだってあるさ。そう思うようにした。
 ……でも、寄って来なかったら、しんどいな。”いいオトモダチ”とか言われたら、やっぱ最悪だ。”ダイッキライ !って言われる方が百倍まし”なんて思っていた。だから、玲奈から言いださない限り、こっちから彼氏の事に付いて聞いたりはしなかった。

 ところが、飲み会から二週間ほど経った或る日、僕は、玲奈の彼氏の存在を確認させられることとなった。
 遅番の仕事が終わり、エレベーターで薄暗いロビーに降りて、通用口に回って外に出たとき、いつも、最寄りのJR駅まで行くメンバー五、六人と一緒だった。いつもの通り、喋りながら路地から表通りに出た。
「じゃ、お疲れでーす」
と突然言って、玲奈が、駅とは反対方向に歩き出した。少し戻ったところに、白っぽいプリウスが止まっていた。リアウィンドウの右下に何かのステッカーが貼ってあるが、何かは分からない。
 玲奈は小走りに走って、車の側へ行き、開いた助手席側のドアから乗り込んだ。
 皆は、玲奈に「お疲れーっ」とそれぞれ言ったあとは、すぐ、元の話題に戻って、話を続けていた。そして、唖然として振り返ったに違いない僕の行動には、気が付かない振りをしてくれていた。
 運転席には男が乗っていたと思う。良くは分からなかったが、乗り込む時の玲奈の態度から、少なくとも、親兄弟ではないことは確かだと思った。

 空々しく皆と会話しながら、駅までは行った。だが、ホームで別れた後、もう一度戻って、改札を出た。
 さっきの場所に戻っても、まだ、ふたりの乗った車がある分けではない。僕が皆と歩き始めるまでには、既に走り去っていた。戻ってみても、何にもならない。ただ、どうしても、そのまま電車に乗る気にならなかった。
 飲みたいと思ったが、ひとりで洒落た店に入る気も起こらない。繁華街の方に回り込んで、ラーメン屋に入った。餃子をつまみに、ビールの大ジョッキを開けようと思い、注文した。だが、大ジョッキを飲み干しても餃子が出て来ないので、二杯目を頼んだ。餃子を食べながら、二杯目のビールを飲み干すまでに、そんなに時間はかからなかった。

 店を出ると、早くも酔いが回って来た。スマホをいじった記憶がある。パチンコ屋の前を通った時、丁度、客がひとり出て来て、開いた自動ドアの奥から騒音とBGMがひときわ大きく湧き出して来た。一年以上もやっていなかったが、誘われるように入り、そのまま、閉店まで三十分ほど負け続けた。

 帰ってPCを立ち上げ、オンラインゲームを始めたが、まったく集中出来ないので、すぐやめた。動画をあれこれ流しながら見たが、どれも楽しめない。色々覗いては、結局やめた。その間に玲奈のインスタをチラチラと除くが、更新されてはいないし、DMは無い。ラインしたい衝動を抑えて僕は、冷蔵庫からハイボールの缶を取り出して、一本飲んだ。
 ベッドに潜り込んだが頭が冴え、体が熱くなって眠れない。飲んだせいか、気が落ち着かないせいか、何度もトイレに行く。
 色々なことが思い出された。”いつも、何を話していたろう”と思った。大学でのこと。玲奈の就活のこと。知り合った当初は、そんな話題が多かった。
「もう、大変。最初は超一流企業狙ってたけど、レベル下げても下げても、門前払いで見込なし。いっそ、自分で会社でも作るしかないのかって思うくらい」 
「それ、いいんじゃないの。女性活躍社会作るなんて、総理大臣か誰か言ってたよな」
 玲奈は頭頂部に手をやり、整っている髪を掌で掻き乱した。
「ほんと、お金と商才あったら、そうしたいわ」

 玲奈は渋谷にある赤川学院大の三年生。解禁前とは言っても、実際就活は大変そうだった。サイトで見ると、就活開始のお勧めは三年生の五月とある。就職まったく考えていない僕は、玲奈にとって、その点では、決して頼りになる相談相手じゃなかったろう。ファッションのこと。音楽のこと。お気に入りの洒落た店のこと。そう言う、有り勝ちな話題が多かった。業務の不満や誰彼の噂話もあった。
 あるSVから、”リーダーにならないか”と盛んに言われるが、そんなつもりないので断っていると玲奈は言った。
「身近に置いて口説こうとでも思ってるんじゃないのかね。この業界そういうの多いから」
 物凄く気になったのだが、モロ食いついて行く事には気が引けたので、サラッと言ってみた。
「うん。そんな雰囲気。だから、断ってる」
 正直、その言葉でホッとした。
「でも、うざくない? それ」
と聞いてみる。
「う~ん。あんまりぃ、……気にしない」
と玲奈は言ったが、僕はかなり気になった。僕と親しげに話すのも、ひょっとしてそのSVに対する対策じゃなかったのかと、少し勘ぐりもした。
 真面目な話をしたことは、あったろうか? 勉強の話も、恋愛論も、まして、人生についての話なんか、まったくと言っていいほどしたことはない。だから、当然、深刻な相談を持ちかけられたことなど、一度もない。シリアスになることが、カッコ悪いと思っていたのか、踏み込んで行くことが怖かったのか。
 僕がそんな風だった以上、玲奈にとって僕は、友達でさえもなく、派遣現場で知り合った、少し気の合う同僚でしかなかったのだろうかと思った。考えれば、それは当然のことだった。”告ってしまおうか。“と思い、すぐ”……でも、もう、遅いか?”と思った。

 あれこれ考えているうちに、窓の外は、もう、明るくなって来ていた。 
 急に、”何をうだうだと考えているんだろう。”と言う思いが頭をもたげてきて、興奮がすーっと引いて行った。”起きて、熱いシャワーを浴びよう”と思ったのを最後に眠りに落ちた。

3 なんとなく
 翌日は一時限目から講義に出る予定だったが、目が覚めたのは昼前だった。
「くそっ! やっちまったよ!」
と独り言を言っただけで、直ぐに切り替えた。出席日数が足りない訳でも無いし、中身はなんとかなるので、別に後悔はしない。コールセンターのバイトは入っていない日だったので、大学も休んで、午後、カラーリングとカットのために、美容院に行った。

 翌々日は、五時からバイトが入っていたので、コールセンターに。玲奈も来ていて、それまでと何も変わらない時間を過ごした。
 玲奈も僕も、今は週四で入っている。最初玲奈は、三日だけのシフトで、そのうち二日は同じ曜日だったのだが、いつか四日とも同じ日に入るようになっていた。就職はやめ、専門学校に行くことにしたらしい。

 気持ちはともかく、表面上は、いつもとまったく変わらない日だったが、ひとつだけ、状況が変わった。皆、休憩時間には、すぐ、ロッカーを開けてスマホのチェックをする。ブース内はスマホ持ち込み禁止になっているからだ。玲奈からラインが入っていた。それ以外の時間でのラインのやりとりは結構していたが、一緒にシフト入っている時にラインを入れて来るのは初めてだった。しかも、玲奈は僕の隣に立っている。ロッカーも隣同士だったのだ。

“今日、ちょっと話さない?”
と入っていた。(放置少女スタンプ第一号)が付いている。
           “なんか話あるの?”
と僕は返した。
”帰り、マック寄る?”
と、玲奈は聞いて来た。
            “OK”と返す。
“じゃ、ア・ト・デ”
その後に(仕事猫のスタンプ)が付いている。
            “うん、アトデ”
と返して、僕も(とらろうのスタンプ)を付けた。
 僕と玲奈は隣のロッカー同士で、ロッカーの中を覗くようにして、スマホをいじっている。玲奈がこっちを向いて、にこっと笑った。時間も無いし、簡単な遣り取りだった。

 その日の帰り、駅近くまで皆と一緒に歩き、マクドナルドの近くでふたりで皆に「お疲れ」を言って別れた。

 玲奈の髪は、ブルベ系のラベンダーピンクで、サーモンピンクのブラウスを合わせている。そしてボトムスはグレーのデニム。自然で飾らないコーデだった。
「持って行く。場所取っといて。……何にする?」
と僕は玲奈に言った。
「有難う。じゃ、オーレがいい」
 そんな時の玲奈の笑顔が、僕はとても好きだ。玲奈を先に二階に行かせて、オーダー・カウンターに向かった。
 順番を二人待って、アイスコーヒーとカフェオレ。それにフライドポテトの(L)ひとつを買ってから、二階に上がった。
 玲奈は、四人掛けのテーブル席に座り、スマホをいじっている。こっちを見てはいなかったのに、トレーを持った僕が近づくと、スマホに目をやったまま、向かい側の席に置いてあったバッグを、自分の脇に移した。
「お待ちどう」
と僕が席に着くと、
「ワリカンPayPayでいい?」
と聞いて来た。別に奢る謂れもないのだが、
「いいよ、今日は」
と僕は言った。
「じゃ、今回ご馳走になるね」
 玲奈は、こんな時堅苦しく払うと言い張るタイプでは無い。少し経って、
「今日、三十分くらい捕まった!」
と玲奈がスマホをいじりながら言った。
 玲奈がクレームに捕まっているのを、僕は気が付いていたし気にもなっていた。
「そう。相手、オバサン?」
 でも、対して気にもしていないような素振りで、わざとスマホをいじりながら聞いた。
「ううん? そこまで行かない。三十前後かな?」
と玲奈が答える。
「何言われたの?」
 それが知りたかった。
「要は、忙しいところに架けて来て、非常識だって、さんざん言われた」
「そっか。可哀想」
「何それ、いじってんの?」
 玲奈はスマホの手を止めて、僕を睨む。何故かその目を僕は可愛いと思ってしまう。
「そんな事無いよ。ホントは気付いてた。心配してました。大丈夫かな? って」
「ほんと? じゃぁ聞いてくれる?」
「もちろん」
 玲奈は、ちょっと僕の方に顔を近づけて、声を落としてた。周りに聞かれないためだ。例え会社の有るビル内であっても、ブース以外で仕事のことを喋ってはいけないことになっている。
 もちろん、外では、社名や商品名は一切口にしない。大勢働いているセンターだ。知らない人もいる。こんな店では、誰が聞いていないとも限らないのだ。情報管理に厳しい時代になっているから、誰かに聞かれて、それが伝わったら、派遣など即クビ。例え、そこまで行かなくても、思いっきり絞られる。
「忙しいと言いながら、三十分も同じ文句繰り返してるのよ。“どういう事? 忙しいって言いながら、あんた、じゅうぶん暇じゃん”と思いながら聞いてた」
「まあ、相手にしてみれば、迷惑には違いないよな。テレコールなんて」
「でもさ、迷惑なら、そう言ってくれれば ”また、改めます”ってあっさり引こうと思ってたのよ、こっちは。それを、最初からいきなり怒鳴り始めるんだもの、機関銃みたいに。 ……あとは、”申し訳ございません” 繰り返してるだけよ。しょうがないから」
「多分、相当しつこい勧誘が何度も掛かって来て頭に来ていて、タイミング悪くそこへ掛けてしまったとか。そんなとこじゃないかな。災難だったね」
 玲奈は作り笑顔で、
「ま、それも仕事のうちだから……ね」 
と言った。
「そう考えてれば、気が楽。いちいち落ち込んでてもつまんないからさ。テレマーケッティングなんてそんなもん。でもあそこなんて、かなり上品な方だよ」
 僕は玲奈を励まそうとして、そう言った。
「そう?」
と玲奈は怪訝な表情を浮かべる。。
「俺、前居たとこなんてさ、悪徳とは言えないまでも、迷惑商法もいいとこだったよ。スパルタでさ。いくら、しつこいと言われても、オーダーになるか、着拒になるか、クレームになるまで掛け続けるからね。クレームになったって、それを逆手に取って、SVが謝りの電話を掛けながらオーダーにしてしまうなんてことも結構ある。成績上がれば天国、上がらなければ地獄の世界さ」
 そう言いながら僕はアイスコーヒーのグラスを持ってまわし、クラッシュアイスの音を聞いた。
「それ、もろブラック企業じゃン」
「やっぱ、そうかな。アポ電やオレオレとは違うから、そこまでとは思ってなかったけど」
「大企業だって、オリンピック利用してデタラメやってたんだから、世の中、みんなそんなものなのかな? でも、雄介、それ一年くらいやってたんだよね」
とマジ顔で僕を見て、玲奈が言った。
「うん、言われて見れば十分ブラックなのかな? 中に居るとそう思わなくなっちゃうんだよね。オレオレでもアポ電でもないからいいかなって思っちゃって。グレーくらいかと思ってたけど、やっぱ、ブラックだったのかなぁ?」
「世の中、グレーだらけなんだから、気にするほどのことでも無いでしょ」
「要は、法律にひっかかるかどうかなんだよな。でも、長くやってるのはさすがに精神的にしんどくなって来たんで辞めた。目的も達成したしね」
「留学資金、溜まったから?」
「うん。いい時は四十万くらいにはなったから、資金は貯まった。使わなかったし」
「バイトで四十万か? それって凄くない? 時給千三百円では、どうやっても無理よね。仕方無かったんじゃない」
「歩合だったからね。でも、売れなかったら悲惨だよ。固定給の保障はほとんど無いし、朝から晩まで詰められる。三十代四十代のおっさんでも、俺みたいなガキの前に正座させられて、反省と翌日の目標達成の誓約をさせられるんだよ。辞めちゃうよね、普通。だから、会社は一年中求人出してる。応募者はいくらでも来るよ。求人には、凄い金稼げるみたいに書いてるから……。実際は稼いでるのはほんの一部の人だけ」
「でも雄介、そこで、成績優秀で一年も頑張ったんでしょ。SVにも成って」
「うん、わりと直ぐSVになった」
「想像出来ないね。雄介が他の人に怒鳴ってるなんて」
「いや、俺は、そんなには怒鳴らなかった。でもたまには……。しょうがなくね。そんな仕事嫌だったけど、お金貯めるにはこれしかないって思ったんだよね。正直、少しでも早く貯めて、すこしでも早く辞めたかった。お金が入ると派手に使う奴多かったけど、俺は極力使わなかった。だから、あまり好かれてはいなかった。付き合い悪いしね。でも、いい恰好してたら、あの世界から抜けられなくなってしまう。その点、女の子の水商売と似てるよ。自分の性格が変わって行くようで、なんて言うか……。だから、今はこの仕事で、すごく気持ちが楽だ。……」
”玲奈にも会えたし”と心の中で付け加えた。
「ふ~ん、そうなんだ」
と玲奈は一瞬暗い表情をして、意味不明の反応をした。そして、何故か急に元気良く、
「そっかあ。アメリカ行くんだもんね。ロス…… いつ頃?」
と聞いて来た。
「年明けてからかな。卒業は出来るから。お金使っちゃわないうちに手続きしたよ。まずはホームステイしながら、語学学校行って、早めにバイト探す。実はバイトどの程度出来るか調べてはいないんだけど……」
「雄介、テキトー」
と玲奈が笑う。そして、
「でも、いつ頃帰って来るの?」
と真顔で聞いて来た。そう聞かれて、僕は返事に困った。
「分からない。行ってみて、どうなるか」
とは言ったが、じつは、アメリカ行きが億劫になって来ていた。真剣な目的意識を持って行く訳じゃない。なんとなく、日本でこのまま就職してしまうのが嫌だったから、周りには、アメリカ行く積りなので就活はしないと宣言した。何しに行くのと聞かれれば、芝居の勉強と答えた。
「芝居ならニューヨークじゃないの?」
と良く聞かれたが、ニューヨークは寒そうだから西海岸にした。要は敵前逃亡みたいなもん。

4 赤い花
 芝居を本気でやろうなんて思っていない。そんな甘い世界じゃないということくらいは分かっていた。芝居の勉強というのは、恰好付けて答えただけで、まずは行ってみようと思っていただけだ。でも、段取りの方は本気でやった。行きたいと言う気持ちだけは、どんどん強くなったので、|(かね)を作るため|鬱陶(うっとお)しい仕事もやり遂げた。ただ、今のセンターに移り、玲奈と知り合ってから、行くのが億劫になって来ていた。手続きは進めているので、年明けには行くことになるだろう。だが、手続きが進むのと反比例して、どんどん気が重くなって来ていた。思い切って
「明日、|(ひま)?」
と聞くと、玲奈は黙って頷いた。
「どっか、出ようか」
と言ってみる。
「うん、いいよ」
と嬉しい返事が返って来た。
「渋谷、それとも、六本木がいい?」
 玲奈が首を振る。
「……う~ん。どっちもパス」
 知り合いと顔を合わせる確率が高いからかなと思った。
「じゃ、新宿か?」
「そうね。うん、いいわね」
と玲奈のOKが出た。

 十一時半に、新宿駅西口で待ち合わせた。僕は、五分前に着いたが、玲奈は、ほぼ時間通りに現れた。これは、僕にとって或る意味驚きだった。何故なら、その前に付き合っていた子が、何故か、絶対に十五分遅れる事を信念にしているとしか思えないような女だったからだ。それ以外の女性も含めて、デートの時に限って言えば、女と言うものは、時間に極端にルーズなものだと言う思い込みが、僕の中に出来上がっていた。
 白地に薄紫の小さな花の付いた草をストライプのようにあしらったノースリーブのワンピ。|鳩尾(みぞおち)の辺りに花のと同色の細いリボンが付いている。編みカゴ状のバッグの持ち手の付け根には赤い大きめなリボンがあしらわれている。単純に僕は『いいな』と思う。
「早かったね」と言うと、「Just on timeよ」と親指を立てた。
「Good。 ……フレンチでいいかな?」
「Why not. Here we go.」
「オー・ケ~イ」
 ビルのテナントで入っている店で、フレンチとは言っても別に高級店ではない、老夫婦がやっている個人経営のレストラン。雰囲気はまあまあ。食事しながら話した。

 食後映画を見に行った。僕は、本当は『インディー・ジョーンズ』見たかったけど、『交換嘘日記』になった。映画が目的じゃなく、玲奈とのデートを楽しみたかっただけだから、それで良かった。
「交換日記ってなんか昭和っぽくない?」
 僕は、玲奈にそう言った。
「ラインやメールより、逆に新鮮だった。原作は十年前の投稿携帯小説?」
「うん。立派に平成だったはずだけど、なんでかな?」
 僕が、そんな事を言っている時、突然玲奈が言った。
「ねえ、あの花知ってる?」
 指差している先は、蕎麦屋の窓の外側に沿って作られた細長い植え込み。植え込まれた笹の間に、たまたま紛れ込んだとしか思えないような、赤い頼りなげな花が一輪。本当に頼りなげで、大きくも、鮮やかでもない。
「彼岸花ってやつ?」
と僕が答えると、
「そう、|曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、マンジュシャカとも読むの。お彼岸の頃咲くから、彼岸花とも言う」
と何か得意気に説明してくれた。
「本当は、もっと大きくて、鮮やかだよね。前、多摩川で見た」
 僕はそう言った。以前に付き合っていた子の記憶と重なる。綺麗な花だと思って摘んでやると、『やだ、彼岸花じゃない。縁起悪い!』と言ってその女は遮った。『馬鹿か、こいつは』と思ったのを意味もなく思い出した。
「毒があるの」と玲奈。
「|毒饅頭(どくまんじゅう)のマンジュウなの?」
と僕は聞いた。
「“まんじゅう"じゃなくて“マンジュ”」
「まさか、食べるとあの世に行ってしまうから、お釈迦様のシャカって訳じゃないよね」
などと、下らない冗談を僕はヘラヘラと喋っていた。我ながら軽い。
「君はデーブ・スペクターか?」
 玲奈が僕を指差した人差し指を上下に揺らし、笑いながら言った。そして、真顔になって、
「サンスクリット語。”赤い花・天上の花”の意味で、おめでたい|(きざ)しとされていますーっ。お|(きょう)にそう書いてあるわ。韓国ではサンチョ、相思華、とも呼ぶらしいの。相思相愛の”相思”に華道の”華”。ただ花言葉の中には”あきらめ”とか、”悲しい思い出”というのもあるのよね」
と玲奈は得意気に説明している。しかし、僕は別の事に驚いていた。 
「えっ!お|(きょう)なんて読むの?」
と本当にびっくりして、玲奈に聞いた。
「お婆ちゃんから聞いたの!」 
 玲奈はムッとしたように僕を睨んで答えた。僕は、|(まず)いことを言ったと気付き、
「あ? そう。そんな、|(にら)むなよ」
と|(なだ)めに掛かる。

 その後、小洒落たラウンジを見付けて入った。酒が入ったせいもあって、それなりに盛り上がってはいたが、そのうち、玲奈が”帰る”と言い出した。玲奈の肩に掛けていた手に少し力が入った。
「今日は楽しかった。ありがとう」
と玲奈は交わして、僕の手から肩を外した。
「まだ、大丈夫だろう?」
 不機嫌そうに僕が言うと、 
「ごめん。また……。ねっ」
と玲奈は笑顔を作る。
 諦めた。
「OK。……送るよ」
と仕方無く、僕は言った。
 終電にはまだ、随分時間があった。東急東横線の学芸大学駅まで一緒に行き、ホームに降りて、改札口を出てゆく玲奈を見送った。
 満足感と|(わび)しさが微妙に同居した気持ちを抱いて、僕は帰りの電車に乗った。
 独り相撲をしているような|(むな)しさが、僕の心の何処かに潜んでいる。『楽しかった』僕は、そう思おうとしていた。

5 玲奈が消えた
 それから一週間ほどして、玲奈とは連絡不能になった。バイトには来ないし、ラインを打ってもずっと既読が付かない。電話は留守電。連絡が欲しいと二、三度録音し、別にメールもしたが、何のリターンも無かった。インスタのメッセージ設定もオフになっているのか? どう言うことなのか、その状況をどう理解したら良いのか分からなかった。心配な反面、僕はひどく嫌な気分になった。あれこれと憶測するばかりで、何の進展も無い事に|苛立(いらだ)っていた。

 玲奈と連絡が取れなくなってから三日目に、出来るだけ何気なさを装って、リーダーの細井に玲奈の事を聞いてみた。
「橋本さん。ここんとこ休んでますね」
と探りを入れてみた。
「お婆ちゃんが入院したんで、実家に行くって届け、出てるよ。……あれ、斉藤君知らなかった?」
 安心した一方、気まずかった。
「ええ。まあ。……連絡取れてないんで」
“突っ込むなよ”と思う。どうも、この人は苦手だ。
「そうなの。そう言えば、あたしも連絡取ってない」
 休憩時間だったので、細井はすぐ電話を架けた。
「あ、留守電。病院に居るのかな?……あ、もしもし、細井です。お婆ちゃんの具合どうですか? 一度、電話かメールください。お疲れ様、じゃ、ね」
「留守電?」
「そう」
 三度、留守電に吹き込んだが、未だに折電も何も無いことまでは、細井に言わなかった。言ったら何言われるかと思ってね。

 その日、ロッカールームで帰り支度をしている時、細井が通りかかり、
「斉藤君。玲奈連絡来ないね」
と言って来た。
「メールも?」と僕。
「うん。まだ、メールも来てないし、留守電も入ってない。きみたちラインしてるでしょ、そっちは?」
と細井は逆に聞いて来た。
「既読なし。無視されてんのかなって思っちゃって、それで細井さんに聞いてみたんです」
 僕は、そう白状した。
「私も……全然連絡取れて無くって」
 僕らの会話を聞いて、玲奈と仲の良い明日香がそう言葉を挟んで来た。明日香も連絡が取れていないと言う事は、少なくとも、僕が玲奈に拒絶されている訳では無い。正直、それに付いてはほっと出来た。
「うーん。どうしたんだろうね。お母さんが病気って分けじゃなく、具合が悪いのはお婆ちゃんだって言うから、電話も出来ないような状況は想像出来ないしね。……どうしたんだろう?」
 独り言のように言いながら、細井はブースに戻って行った。
「斉藤君にも連絡ないんだ……」と明日香。
「スマホ壊したとか……」
 何故か意味も無く、僕はそんな事を言ってしまった。
「壊した?……そしたら、留守電入れられる?」
 明日香は納得していない。
「伝言メモじゃなくて、センターのサービスだから、大丈夫じゃないの? 分かんないけど」
 僕は何故か適当な事を言っている。
「失くしたのなら、心配だから、まずスマホ止めるものね。やっぱ、壊したのかなぁ、水没?」
と明日香は考え込む。僕が”壊したとか……”と言ったのは、思い付きで言葉が口を突いて出ただけで、本当はそう思っていなかった。
『実家に居るなら、電話はイエデンからでも掛けられるし、家族のスマホだってあるだろう。こっちから、連絡入れようと入れまいと、向こうから掛けて来るのが普通じゃないか。休んでるんだから。誰も連絡取れていないのは、連絡する気がない、連絡したくないと言うことだ』
 そう思った。好意的に考えれば、メモリーもパアになっていて、データが分からなくなってしまったということも考えられるのだが……。
 でも、派遣会社からの連絡は、絶対に取れるようにしておかなければならないはずだ。そんな状況なら、自分からすぐ派遣会社に連絡して事情を説明しているはず。もし、それをしていないとすれば、このまま辞めてしまうつもりということになる。

 通用口を出てすぐ、退勤報告のラインを打った後派遣会社に電話した。
 玲奈以外の、いつものメンバーと一緒だ。
 担当の、武者小路と言うだいそれた名前の社員が出た。
「S一一六四斉藤雄介です。お疲れ様です」
 こちらは、まるで囚人のように、登録番号から言わなければならない。これは、僕個人の感情としては、余り気分の良いものでは無い。
「あ、斉藤君。お疲れ様です。どうしました?」
「あ、いや、退勤ライン今打ちました」
「ちょっと待って、……あ、はい。入ってますよ。ありがとうございます。明日は早番ですよね。明日も宜しくお願いします」
「あのぅ、橋本玲奈さん。休んでますよね」
 思い切って、そう聞いてみた。
「ああ、はい。十日くらい休むって、連絡ありましたよ。個人情報だけど、斉藤君だから、そのくらいはいいかな。その後は特に何も聞いてないけど。どうかした?」 
「いえ、別に……。ありがとうございました。お疲れさまです」

「何か分かった?」
 一緒に歩いていた田中翔太が聞いて来た。翔太は、同じ大学で前のバイトも一緒、長い付き合いだ。前のバイト、『俺、そろそろやめるわ』と伝えたとき、『じゃ、俺もやめる、厭きたしな』と一緒に辞めた。今、明日香と付き合っている。
「十日くらい休むって、ことくらいかな」
と、武者小路に聞いた事を伝える。
「おまえさ。玲奈ちゃんのこと、どう思ってんの?」
と翔太が、また聞いて来た。
「……どうって、彼氏居るしな」
と口籠り気味に僕は答えた。その時、
「玲奈は雄介君のこと好きだよ、きっと」
と明日香が言った。
「だったら、こんなことしないだろう」
 照れ隠しなのか、ムッとしたのか、自分でも分からなかった。
「彼氏って、私も良く分かんないのよね。居ることは確かなんだけど、なんにも言わない。……うまく行ってないんじゃないの?」
と言って、明日香は、結んだ口を少し曲げる。
「そんな奴どうでもいいんだけどさ。問題は雄介、お前だよ。アメリカ行っていつ帰って来るんだか分かんなかったらさ、玲奈ちゃんだって、気持ちの持って行きようがないだろう。お前、まじで、ハリウッドスターにでもなろうと思ってんの?」
「まさか。そんな分けねえだろう」
「だったら、語学学校、一年か? それ終わったら帰って来る。それぐらい言ってやれよ」
と翔太は、何故か玲奈が俺を好きと言う前提でものを言ってくる。こっちの思考は、とてもそんな段階では無い。
「今、そういうシュチュエーションじゃないよ。このまま辞めちゃうんじゃないの? 俺らに何も言わないでさ」
「きっと何かあったのよ」と明日香。
「そうだよ。仮に、仮にだよ。おまえの事大っ嫌いになって、それでやめるとしても、明日香や細井さんにも挨拶しないでやめる分けないだろう。なあ」
と翔太は明日香に同意を求める。二人協力して、僕を慰めようとでもしているのか?
「そう。そうだよ」
 明日香が言った。
「あと一週間経てば、分かるよ。どう言うことか」
と僕は冷静さを装う。でも、本当は、今すぐにでも、玲奈の実家に行き、理由をはっきりさせたいと言う気持ちでいっぱいだった。

 玲奈の実家は福島だ。下の兄が東京に居て、最初はそこに居候していたと言う。三歳の姪が居て、とても可愛いと言っていた。一年でそこを出て、今のワンルーム・マンションに移ったそうだ。駅は知っているが、詳しい住所までは知らない。
 実家は資産家らしい。不自由無いくらいの金額は送ってもらっているようだ。しかし、兄が応援してくれて父親を説得し一人住まいが出来るようになったので、家賃ぐらいは自分で払いたいと、アルバイトをしていると言っていた。また、東京での就職が大変そうなら地元で就職するよう父親から再三言って来ていたので、専門学校に行くことにして、それを|(かわ)したとも言っていた。
「大学出て、専門学校なんかに何で行かなきゃならないんだ」
と父親は言っているようだが、今のところ、強硬に”卒業したら帰ってこい!”とまでは言っていないと言う。専門学校は、アナウンス学院を考えているようだ。”人前できちんと話せるようになるので、無駄にはならない”と父親に対しては説明している。
「雄介。今日は二人で気晴らしに行こうか?」
 翔太が言った。
「待ってよ。”二人で”って何?」と明日香。 
「いや、こういう時は、やっぱ男同士でないとな」
「へえ~。雄介君|出汁(だし)にして、ナンパにでも行こうと思ってんじゃないの?」
と明日香が翔太を|(にら)んだ。
「ばれた?」
と翔太は|(とぼ)ける。    。
「当然ばれるわ! 馬鹿め」
 明日香は、そう言って笑っている。
「いや、今日ちょっと調べものがあるんで、帰るわ」
と僕は言った。翔太達と話していても、気が落ち着かなかったので、そう言ったんだ。独りになりたかった。

6 ふたたび
 最初のデートの日。楽しかったと言う思いはあったが、やはり物足りなかった。
 玲奈と別れて部屋に戻ってからは、配信動画を観て過ごしていた。「アバター」の初回作品を観た。それなりに面白いとは思ったが、特に感動はなかった。肌がグリーンなのがなんとなく気持ち悪い。 
 二時過ぎに”ブーッ、ブッ”とだけ、スマホが振動した。マナーモードを解除していなかった。見ると玲奈からだった。
”寝てるっかなー?”
と待ち受け画面には表示されている。開けると、
“送ってくれてありがとう。楽しかった。まったねー。お休みなさい”
と入っていた。
 なぜか僕は、それに返信をしなかった。それ以来、今日までまったく連絡がつかない。『あの時連絡していれば』、と自分のアホさ加減に腹が立っている。

 翌日の夜七時過ぎ、スマホが鳴ったので、玲奈ではないかとの想いが先に立ち、相手を確かめもせず慌てて「はい」と出ると、すぐ切れた。着信記録を見ると、”非通知”だった。非通知拒否設定にはしていなかったのだ。"玲奈ではない”それだけは分かった。非通知と気付かず返事をしてしまった僕は、相手の思惑にしっかりと|()まったことになる。切れたタイミングは、この番号に掛けると誰がでるのか? それを確かめた。いかにもそんな感じの切れ方だった。”プリウスの男か? ……それとも、単なる間違いか?” 妙に|(いら)ついた。

 それが、昨日までに起こったことのすべてだった。しかし、玲奈のことで、何故僕は、こんなになってしまっているのだろうかと思った。これじゃあ、まるで中学生の初恋じゃないか。そう自分を笑った。
 特に女の子に縁が薄いと言う分けでもない。それなりに、色んな子と付き合っても来た。なのに玲奈に対してだけは、僕の対応は明らかに違う。『何故か? そんなに玲奈はいい女なんだろうか?』とも思ってみた。確かに、顔は整っているし、スタイルも悪くない。服装や持ち物も派手過ぎず、センスがある。連れて歩くには、充分どころか、僕にはもったいないくらいだ。でも、そういう風にしか思えないと言うことは、やっぱり、僕の方が一方的に好きになってるってことか。 
 ただ、どれも外見のことばかりで、玲奈の内面のどこが好きか? と聞かれたら”良く分からない”と答えるしかないのだ。要は、まだ、それくらいの付き合いでしかない。

 玲奈から連絡があったのは、それから三日後、最後に会ってから六日後のことだった。大学に顔を出すつもりで向かった大塚駅の改札口の近くに、玲奈は立っていた。もちろん、僕の乗車駅を知ってはいた。だが、そこに来たのは、初めてだったろう。
 玲奈は、まったく普通に、ちょっと手を挙げて、少し笑いながら、僕に近づいて来た。
「おはよう」
 僕は、どう受けて良いのか分からず、不機嫌そうに、
「おはよう。……どうしたの?」
とだけ言った。
「急ぐ?」と玲奈。
「いや、大丈夫」
と、僕は答える。その時の僕に取っては、大学に顔を出すことよりも、玲奈を今捕まえることの方がはるかに大事だった。
 何時から、そこに居たのだろうか、と思った。いつ来るか、いや、来るか来ないかさえも分からない僕を、そこで、ずっと待っていてくれたのか? 来なかったら、どうするつもりだったのだろうか? そう思うと、追求する気持ちは失せた。
「少し、その辺歩かない?」
と玲奈が言って来た。僕は、
「うん」
と答えて、向き直って一緒に歩き出す。

 並んで駅を出た。大塚駅北口のイメージはずっと、ホープ軒本舗と都電荒川線だった。そのホープ軒も二月には閉店し、今は別のラーメン屋になっている。店のビジュアルも黄色から黒に替わっている。
 都電荒川線の線路を渡って、広い通り二つを横切り、左折して少し行くと住宅街となる。少し坂を登って右に折れ、百メートルほど行くと、先に小さな公園がある。そこに向かって歩きながら、僕らは無言だった。本当は矢継ぎ早に質問をしたかったが、逆に無口になった。
 玲奈も、途中から、イヤフォンを両耳に入れて、音楽を聴き始めた。だから、話しかけては来ない。
 何も話さないまま、小さな公園に入った。奥のぶらんこの脇の砂場では、若いふたりの母親が、三才くらいの子供を遊ばせながら、話している。子供は、男の子と女の子ひとりずつ。
 僕らはベンチに腰を降ろした。僕は玲奈の左側に座った。玲奈が僕を見た。
「一緒に聞く?」
と、自分の右耳からイヤフォンを外し、僕に差し出した。受け取って、僕はそれを右耳に入れた。
 何故か笑顔がすっと引いたように見えた。玲奈はバッグからスマホを取り出してそちらに視線を移した。やっぱり、スマホ壊れてはいなかった。
 僕は、話し掛けるタイミングを計るのはやめにした。いずれ、玲奈の方から話し始めるだろうと思った。それよりも今、玲奈が側に居る。それを、まず感じていよう。そう思った。|何気(なにげ)無い雰囲気を作りたかった。僕もスマホを取り出して、ゲームを呼び出した。十分ほど|()つと、大分気持ちが安らいで来て、周りを感じる余裕が出て来た。

 くそ暑い夏がやっと終わって、やっとこさ、公園のベンチに座っていてもうっとうしさを感じない季節になった。晴れているし、ほんの少し風もあるから、ま、ご機嫌と言っていい感じで居られる。気持ちいいのは、季節のせいばかりではなく、隣に玲奈が座っているせいかも知れない。

 僕はゲームやってて、玲奈はスマホをいじってる。玲奈は、スマホいじりながら、足でリズム取って、音楽聞いてる。白いスカートの裾がリズムに合わせて揺れる。
 僕は、懇親会の席での酔っ払った玲奈の姿を思い出していて、|(いと)おしさと|苛立(いらだ)ちの入り交じった感情を胸の奥に押し込もうとしていた。
 何をしているのか分からないけど、玲奈はずっと指を動かしている。宛先が男か女か気になったけど、まさか|(のぞ)く分けにも行かないしね。
 気にはなってたけど、僕は僕でゲームに夢中って感じを作ってる。ほんとは、とっくにクリアしたステージで、機械的に指動かしてるだけなんだけど。
 風に乗って、玲奈のいい香りが漂ってくる。肩と肩は十センチくらい離れていて、流れている歌だけが、今ふたりを繋いでいる。曲は、米津玄師の「月を見ていた」。ボリューム大き目。

 さらに五分くらい経ち、我に帰った時、「みんなには、連絡した?」
と、僕はさりげなく言うことが出来た。玲奈の指が止まり、こちらを見た。一旦視線を落として、玲奈はスマホをバッグにしまい、自分の左耳に入っているイヤフォンを外し、もう一度僕を見た。僕もイヤフォンを外し、玲奈に渡した。玲奈は、無言でじっと僕を見ていた。
 三秒ほど、玲奈の瞳は動かなかった。そして、
「そうよね。……みんなに、心配かけちゃった」
 僕から視線を外し、玲奈はそう言った。
「おばあちゃん。……やっぱり悪いの?」
と聞いた。差し障りの無い質問のはずだった。
「後で話す。……みんなへの連絡も、もう少し待って。今、こうして居たいから……」
 玲奈が僕の右腕の肘の辺りを掴んで来た。少し驚き、僕は。妄想が現実となって行くのを感じた。
 見ると、玲奈も僕を見詰めている。連絡が取れずにいた|苛立(いらだ)ち、その間の事情を確かめたいと言う考えは、既に霧消してしまった。僕も玲奈を見詰めた。その時、玲奈の心のなかでどんな葛藤が渦巻いていたのか。僕にはそんな事を思う余裕など無かった。ただ、抱きたいと思った。“手が届くところに玲奈が居る”そう言う感覚だけが、僕を支配していた。

7 かすかな悔い
『女の子』ではなく、玲奈が『女』に見えた。肘を|(つか)んで来た玲奈の手を取って、僕は無言で立ち上がった。腰に手を回すと、玲奈も自然に歩き始める。玲奈も了承している。そう感じた。
 向かったのは僕のアパートだ。公園から数分の距離に有る。歩きながら、自分の心臓の鼓動を感じた。そして、玲奈の息遣いも聞こえて来るような気がした。
 アパートまで行く間に、僕たちは何を話したのかと思う。天候の話だったり、知り合いの他愛のない噂話だったりなのだが、自分で何をどう話したのか、殆ど記憶が無い。要するにどうでも良いような話ばかりを口から出るままに話していた。
 僕の部屋に向かっていることは玲奈も十分分かっているらしく『何処へいくの?』などとは聞いて来ない。
 アパートに近づくと、何の|躊躇(ためら)いも無く玲奈が僕の部屋に入ってくれるだろうか? と不安になった。また、部屋に入ってから何をどう話そうかとか考えたり、こんな事になるんならもう少し念入りに、部屋を掃除しておけば良かったなどと|()いてみたり、僕は、明らかに舞い上がっていた。|(しゃべ)っている事とは無関係の思惑が、頭の中をぐるぐると回っていた。
 
 鍵を開けドアを開き、先に入るよう玲奈を|(うなが)してみる。玲奈は|(こだわ)りもなく入ってくれた。
 ワンルームの部屋を見渡して、
『意外と綺麗にしてるのね』
と言った。
『もっと汚いと思ってた?』
『うん。正直、そう思ってた』
『なんにも無いから散らかしようがないんだよ。流石に、ラーメンのカップや飲みかけのドリンクのボトルを放置するってのは、俺、性格的に出来ないんだ』
「女の子でも、結構居るのよ。外に出る時は綺麗にしてるけど、部屋の中はゴミ屋敷みたいな子」
「それ、早い段階で見抜かないと、男、悲惨だな。……えっ? まさか玲奈……」
「違います。でも、なんか知らないけど、そう言う子に限って、マメな男の子つかまえるのよねぇ」
 僕は吹き出すような素振りを演じて、
「そうなんだ!」
と話を合わせる。そして、
「適当に座って……って言っても、ベッドに腰掛けるか、その辺に座るしか無いけど……」
と言った。
「ここの方が楽ね」
 玲奈はそう言って、|躊躇(ためら)いも無くベッドに腰掛けた。
「臭く無い?」
 臭いが気になって、僕はそう聞いた。
「男臭く無いかって?」
「うん」
「女臭かったら、逆にモンダイでしょ」
 玲奈はそう言って屈託無さそうに笑うが、何処か、下手な女優が演じているようなぎごち無さが有った。
「ここに入った女性は、君が初めてだよ」
 そう言って、僕は玲奈の隣に腰掛け、左手を肩に回した。そして、
「なんか飲む?」
と何故か余計なことを聞いでしまった。
『何が有るの?』とでも聞かれたり、希望を言われれば、一旦、玲奈の側を離れなければならない。
「後でいい」
と玲奈は答えた。意地悪く『なんの後?』と聞きたい衝動に駆られたが、僕は、そのまま玲奈を押し倒してキスを求めた。
 僕の右手は玲奈の乳房を包んで、それを|()んでいた。意識は、その柔らかい感触と互いの口の中で絡まる舌の動きに引き込まれて行く。
 一旦唇を離し、目を閉じて玲奈が大きく息を吐いた時、コスメに彩られた香りではなく、初めて玲奈自身の匂いを僕は感じた。

 時間が経って、裸で毛布に|(くる)まりながら、何があったかを何度か聞こうとしたが、玲奈は、その度に僕の口を|(ふさ)ぐように、指で唇に触れて来た。そして、動かない瞳で僕を見た。
 その日、結局玲奈は、この六日間のことに付いて何も話さなかったし、明日香や細井にも連絡を取りもしなかった。

 翌朝早く、
「送らないでいい」
と言って、玲奈は僕の部屋を出た。別れ際に
「必ず連絡取れるようにしておいてよ」
と僕が言うと、
「ごめんね。必ず話すから、少しだけ待って」
 不自然に笑ってそれだけ言った。そしてまた、玲奈は僕の前から姿を消した。

 翌日、コールセンターで翔太と明日香に、玲奈から連絡があったかどうか聞かれた。昨日直接会ったが、何も聞いていないとだけ簡単に告げた。
「これだけで、返しても、もう既読も付かない。どういう事?」
と、翔太が自分のスマホを僕に見せた。玲奈からのラインメッセージだ。
”ご無沙汰してすいません。なんやかや、ばたばたしてたもんで連絡できず、ご心配かけたかも? また、会ったら話します。じゃあね”
 発信時間は、僕のアパートを出て間もなくの頃だった。僕もそれは確認している。
「それ一度だけ。どうなってるの?」
 翔太は|(いきどお)っていた。
「雄介君が会ったんなら、それでいいんじゃない」
と明日香は玲奈を弁護した。
「でも、雄介、お前、ほんと、何も聞いてないの?」
と翔太が僕に迫る。まさか『やっただけで、何も聞けなかった』なんて言えるはずもない。
「うん。直接話はしたけど、そのラインと同じレベルの話しかしていない」
と誤魔化した。
「信じられねぇ、こいつ。何で聞かないの」
 |(あき)れたと言う風に、翔太が言った。
「あのね。雄介君は、君みたいにデリカシーの無い人とは違うの」
と明日香が僕を|(かば)う。
「明日香。お前、ひょっとして、俺より雄介の方がいいの?」
と|()かさず翔太が突っ込んで来た。
「ばーか」
と、明日香が返す。言葉とは裏腹に、僕には、仲の良い二人が|(じや)れている風にしか見えなかった。このふたりは本当に仲が良いと思い、翔太が少し羨ましかった。
 翔太が僕に静かに言った。
「何か有ってお前に相談したいけど、言い出せないってことだってあるだろう。お前、そういうの少し鈍いからな」
 そう言われて、少し心が痛かった。返す言葉が出ない。時計を見ると始業八分前だった。五分前には全体周知が始まる。
「時間だ。行こうか」
 言葉を探せなかった僕は、翔太と明日香に告げて、これ幸いと休憩室を出てブースに向かった。

 終業後、玲奈のスマホを呼んだが、圏外もしくはスイッチoffで、留守電にさえ繋がらなかった。翔太も明日香も架けてみたが、同じだった。メッセージだけを送る。
 やはり、無理やりにでも、話を聞くべきだったと後悔した。
 まったく、翔太の言う通りだった。何で聞かなかったんだろうと|()いた。確かに理由を聞こうとはしたのだ。しかし、玲奈に|(さえぎ)られると、あっさり引き下がった。或る意味、玲奈を抱いたことによって、僕の心は満たされてしまっていたのだ。だから、根掘り葉掘り聞き出そうと言う欲求は消失していた。
 もし、あの時公園で少し話した後、玲奈が僕を拒んだり、すぐ帰ろうとしていたらどうなっていただろうか。僕は、必ず聞き出そうとしていたに違いない。……例え玲奈が多少嫌がったとしても。
 玲奈が、少し強く僕の肘を掴んで来た瞬間から、何故連絡を寄越さなかったのかと言う|苛立(いらだ)ちは消えてしまい、その後の展開への期待だけが、僕の心を|()めてしまっていたのだ。その様子から、玲奈が何か大きな問題を抱えているのではないかと憶測することすら、僕はしなかった。

8 五本木にて
 届けを出していた十日目を過ぎても、玲奈からの連絡はなかった。
 十一日目に、派遣会社から明日香に、玲奈と連絡が取れないかと問い合わせて来たという。明日香が僕に玲奈の住所を聞いて来たので、誰も玲奈の住まいを知らないことが分かった。リーダーの細井も、あの日玲奈を送ったのは学芸大の駅までだったと言う。
「派遣会社に聞いても、住所は教えてくれないだろうな」
と僕は明日香に言った。
「そっか」
と、明日香が、何かに思い当たったように言った。
「心配なので行ってみて結果報告するって言ったら、私なら教えてくれるかも」
「聞いて貰える?」
 僕は明日香に期待した。
「うん。分かったら、すぐ連絡する」

 五分ほどで、明日香はまた架けて来た。
「まともに聞いても無理だろうってことで、マンション名度忘れしたってことにしたの。そしたら教えてくれた。"フィレール五本木” 六本木じゃ無いよ。ついでに部屋番号も“うろ覚えなんで、部屋番号三〇二で良かったんでした?”って鎌掛けたら、二〇三だって教えてくれたのよ。凄いでしょ。偶然逆だったのよね、言った番号の。ぜーんぶ翔太の悪知恵よ。そう言う頭は回るからね」
 明日香は思惑が図星だった事を得意気に話している。
「へえー、五本木なんて地名有るんだ。ありがとう。『フィレール五本木』二〇三だね。『フィレール』は台東建設系の賃貸ワンルーム・マンションだから、台東建設のホームページ見ればすぐ分かるよ」
 僕は礼を言ってからそう伝えた。
「あ、もしもし、俺」
と、いきなり代わって翔太が出た。
「俺らも一緒に行く。今からでいいか?」
と言う。一人より心強い。
「ありがとう。悪いな。じゃ、三十分後に渋谷駅の改札で」
 電話を切った後調べた。台東建設のホームページには番地の表示は無かったが、場所はGoogle mapですぐ分かった。
『フィレール五本木』は、学芸大学駅から四百メートルほど北東の五本木二丁目、バス通り沿いにあった。
 
 渋谷の東急改札口の前で、二人は待っていた。学芸大学駅に着くと、西口を出て、線路沿いに祐天寺方向に戻り、五本木の交差点から北へ。一方通行を左折し、|下馬(しもうま)との境の道路を右折した右側にそのマンションはあった。
 薄いパープル系の一部五階建ての建物で、道路側が通路になっており、丸い小さな穴が一面にあいた同色の鉄板が目隠し状にフェンスに取り付けられている。フェンスの高さは人の肩くらいだろうか。建物の左側に入口があり、奥にエレベーターホールという構造のようだ。

 その時僕は、道路の反対側のすこし先に止まっている白い車に気付いた。プリウスのようだ。
「翔太。この前、玲奈を迎えに来た車、覚えてるか?」
「ちらっとは見たけど」
「あれ、違うか?」
と僕はプリウスの方を指差した。
「うん。そう言えば……」と翔太。
「明日香ちゃん。頼みがある」
と僕は言った。
「何?」
「あの車、誰か乗ってるか、乗ってたらどんな奴か、見て来て貰えないかな」
「俺が見て来るよ」
と翔太が割り込んで来た。
「いや、多分バックミラーで見てるから、お前や俺が近づいて行ったら逃げるかも知れない。それじゃ、何も分からなくなる」
と、僕は翔太の申し出を断った。
「いい? 明日香ちゃん。まっすぐ行って次の信号を渡る。道の反対側を戻ってくれば運転手の顔を正面から見られる。……いいかな」
と指で示しながら明日香に説明する。
「で、どうする気だ?」
と翔太が聞いて来た。
「実は、非通知で無言電話が一回有った。何か気になる」
 僕の疑いの理由を、ふたりは理解したようだ。
「分かった。私、行って見て来る」
と明日香。
「頼むよ」
と、僕が言った時には、明日香は、もう速足で歩き始めていた。僕と翔太は、プリウスのバックミラーに映らない位置に入るため、隣の建物の陰に移動した。
 明日香は、頼んだ通り次の信号を渡り、通りの反対側を戻って来た。僕と翔太は、明日香を待つため、後ろの信号に向かって通りを戻る。

「あれ、やっぱ、違うよ」
 戻って来た明日香は、まずそう言った。
「誰も乗ってなかった?」
と僕が聞くと、
「乗ってたけど、三十か四十くらいのリーマンの叔父さんだよ。まさか、あれが玲奈の彼氏ってこと無いでしょ。確かにマンションの方見てたけど、仕事か、誰か他の人待ってんじゃないの?」
と説明してくれた。
「あ、そう。ありがとう。余分な手間掛けちゃってごめんね」
 明日香にはそう言ったが、僕はまだ何か引っ掛かる気がしていた。”玲奈の彼氏が中年おやじ…… そんなことあるのか? それじゃ、彼氏じゃなくて、まるで援交じゃないか!”そんな事を思っていた。
 二分ほどして突然、”試してみよう!” と思い立った。僕は、自分で言ったことも忘れて、いきなり走って道路を横断した。そして、プリウスに向かって駆け寄ろうとした。そのプリウスは急発進をして走り去った。リアウィンドウの右下に貼ってあったステッカーは、あの時のものに似ている気がした。
”あいつも玲奈を探している。多分何日も……。何故か、そう確信した。そして、玲奈は部屋に戻っていないと思った。
 翔太があわてて追って来た。
「おい、なんだ。どうなってんだ?」
 翔太は、僕の行動を理解できないで|苛立(いらだ)っている。
「多分、……あれはこの間の車だ。間違い無い」
 僕はそう断言した。
「……兄貴じゃないのか? この間迎えに来たのも」
 遅番の帰りに、玲奈が車に乗り込んだ一件を、翔太も気にしていたのだ。
「あの車のナンバーは、大宮ナンバーだった。兄貴が住んでいるのは東京だって言ってたろ」
「う~ん。|()に角マンションへ行ってみよう」

 明日香のところへ、二人で戻った。
「びっくりしたぁ。いきなり飛び出して行くんだもん」
と明日香が僕に言った。
「あんなに、ダーッと行かなければ、捕まえて話聞けたかも知れないじゃないか。自分で言った通り、あんな勢いで行ったら逃げるに決まってるじゃないか」
と翔太は僕を責めた。
「いや、静かに行っても、結局逃げたよ。向こうは運転席に座ってバックミラー見てたんだからな。もっとも、本当の彼氏なら、堂々と降りて来るかも知れないけど」
 僕は、そんな風に、後出しジャンケンみたいな言い訳をした。瞬間的に思って体が動いたのだから、合理的な説明など付くはずも無い。
「何それ、どう言う意味?」と明日香。

 マンションのオート・ロックで、”二〇三”を何度呼び出しても、やはり、反応はなかった。明日香が派遣会社に電話し、玲奈は留守だったことを伝えた。

9 綾香
 ふたりと居酒屋で飲んで十二時過ぎに部屋に戻った。
 少しして、スマホが鳴った。非通知なのを確認して、繋がると同時に、僕は一方的に言った。
「逃げることはないじゃないですか。怖かったんですか」
 わざと挑発したのだ。“逃げた” とか“怖かったのか?” とか言われて、反論したくならない男はほとんどいない。
 少し間があって、
「逃げてなんかいないよ。君と二人の時話した方がいいと思っただけだ」
と、やはり言い訳して来た。
「この間、無言電話しましたよね」
と僕は畳み掛ける。
「済まない。彼女の居所を君が知っているかと思って架けたんだが、いきなり、どう説明すれば良いか分からなくて……切った」
 気の弱い男だと思った。
「“彼女”って、誰の事ですか? それと、なんで僕の番号知ってるんですか? そして、まず名乗ってください」
僕は、そう突っ込む。
「尋問されているようで、あんまりいい気分じゃないが、確かに、先に名乗るべきだね。河原崎といいます」
 意外と素直に答えた。大した男では無いと思った。
「じゃ河原崎さん、申し訳ないんですが、一旦切って、番号を通知して、架け直して頂けますか。あなたが、逃げるような人ではないと言うことは分かりましたので、お願いします」
 そう。“あなたが、逃げるような人ではないと言うことは分かりました” という一言が効果を発揮するはずだ。
「分かりました」
と河原崎は応じた。やはり、こういう手法の通じる相手に間違い無いと思った。
 架け直して来れば、完全に主導権が握れると思った。もし僕が荒っぽい言葉で怒鳴ったら、河原崎は切って、二度と掛けて来ないだろう。僕が敬語で話したので、彼は僕に恐怖心を持たなかったはずだ。そう判断した。こういうタイプの人間は、プライドを|(くすぐ)られると、そう無茶なことが出来なくなる。どう言う事かと言うと、切ってしまって二度と架けて来ないとか、一方的に自分の言いたいことを言い募る事が難しくなると言う事だ。多分、プライドを|(くすぐ)ってやれば、物分りの良い、良識的な人間を演じたくなる。そう考えた。そう言うことは、テレマーケッティングなどをやっていると、客の人間観察から自然に分かって来る。クレームに捕まり難くなるコツは、人間観察と状況判断だから。

 読み通り、河原崎は番号通知で架け直して来た。単純な奴だと思った。僕は、
「あ、斉藤です。さっきは失礼しました。お話伺います」
と至って低姿勢で対応してみる。
「河原崎です。こちらこそ、失礼しました。他でも無い。綾香……いや、橋本玲奈さんのことです」
「”アヤカ” って何ですか?」
「彼女、三ヵ月ほど前まで、綾織の”綾” に”香り”。綾香と言う名前で渋谷の『バージン・ロードロード』と言うキャバクラに勤めていたんですよ」
『そんな馬鹿な』と思ったが、その気持ちをぐっと飲み込んで、僕は、河原崎の言葉の続きを聞いた。
「僕は客として|(かよ)っていました。いや、いい子なので、すっかり気に入ってしまって、正直通い詰めました」
『なんだ。この親父!』と不快感が湧き上がった。
「単なる客と言うより、何か妹のような気がして、色々相談にも乗ってやるようになりました。ところが、ある日、体調が悪くて休んでいると言われ、その後何度行っても、まだ休んでいるというのが続いて……ひと月くらい経ってから、実は辞めていたと分かったと言う分けです。居ないと言われてそのまま帰るのも気が引けたので、二回に一回はちょっと飲んでから帰りましたから、そんな風にして繋ぎ止められていたんでしょうね、店の思惑で……」
『アホかこいつは!』と僕は腹の中で思った。それにしても、僕にしてみれば有り得ない話だ。
「その綾香の本名が橋本玲奈だって、何で分かったんですか?」
「それは、以前本人が教えてくれました」
『なんで?』と僕は思う。
「この前、玲奈と会ってますよね」
と話題を変えた。
「ええ。偶然見掛けて一度話そうと言うことになって、あの日……。その時、君の事は聞いた。”気の合う、すごくいい人がいる”ってね」
『うるせえ、大きなお世話だ』と思ったが、実際には、
「……で、僕にどんな用が?」
としらばっくれて聞いた。
 話しているうちにだんだん不愉快になって来ていた。玲奈に付いての有り得ないような話。しかし、『嘘をつけ!』と切り捨ててしまえないような話だ。
 このまま話し続けていては、気持ちの落着き場所がなくなってしまうように思えた。河原崎の言うことは鵜呑みには出来ない。相当自分に都合良く言っているはずだと思った。
 少し馴れ馴れしい口調になって、河原崎は続けた。
「その後、綾香とはまた連絡が取れなくなってしまったんだ。それは、君も同じだろう。お互い心配だよね。情報交換したら、彼女を少しでも早く見付ける役に立つんじゃないかと思って……。協力してくれないかな」
『何を虫の良い事をいってやがるんだ!』と思った。
「もし、玲奈だとして、姿を消したのは、あんたのストーカー行為が原因ということも考えられますよね。”綾香”なんてキャバ嬢のことは俺には何の関係もない。但し、玲奈に付き纏ったら、俺が承知しないからな!」
 突然ブチ切れた僕は、それだけ言って電話を切った。早まったと思った。もっと色々と聞き出すべきだった。 
「協力してくれないか」
 なんて言われて腹が立ったのだ。
『やめたキャバ嬢追い掛け回しているような奴と、何で協力しなくちゃいけないんだ。しかも、そのキャバ嬢が玲奈だなんて、ふざけるな』
 そう思って切ってしまった。僕の知っている玲奈の情報に付いて、たったひとつの事でも、あんな奴に教えてたまるかと思った。
 だけど、河原崎の方が情報は持っているのではないか? と、ふと思った。考えてみれば、僕は玲奈についてほとんど何も知らないのだ。それと、もうひとつ。河原崎は何故、僕のスマホ番号を知っていたのか? それを聞き出せていなかったのだ。玲奈のスマホを盗み見たと言うこと以外には考えられない。それなら、どんな状況で、盗み見ることが可能だったのだろうか? スマホやバッグを置いたままで、玲奈が席を離れることなんか有るだろうか? 考えたくはなかったが、”ホテルの部屋” と言う可能性が僕の頭を|(かす)めた。そして、そんなはずは無いと直ぐに否定した。

10 キャンパスから
 四日ほどして、話が有ると翔太に誘われ、バイトの帰りマクドナルドに寄った。明日香も一緒だ。座ったのは、いつか玲奈と話した席だった。
「話って何?」
 席に着くなり、僕は翔太に聞いた。向かい側の席の翔太は、横の席に座った明日香の方を一度見てから、
「明日香の友達が赤学の文学部に居るんだよ。英米文学科。玲奈ちゃんと同じ学科だ。……それで、サークルとか色んな関係辿って聞いて貰ったんだけど、玲奈ちゃんのこと知ってる奴、あんまり居なくてさ」
と話し始めた。明日香が続ける。
「二年の時、相模原で少し付き合いがあったって子は居たのね。でも、渋谷のキャンパスに移ってからは、会ってないって……」
と、何か言いにくそうに言う。
「いや、余計なことして悪いんだけど、明日香にとっても友達だからさ……、心配してるんだよ」と翔太。
 僕は、河原崎のことについては、ふたりに何も話していない。ふたりは二人なりに調べようとしてくれていたのだ。
「で、学生課で聞いて貰ったの」
と明日香が続ける。
「そしたら、……辞めてた、大学。三ヵ月くらいも前らしいよ」
『どうして……?』と僕は思う。
「えっ? それほんと?」
と言葉に出した。
 訳の分からない想像が、僕の頭の中を駆け巡っていた。三ヵ月前と言うと、河原崎が言っていた綾香が、店を辞めたのと同じ頃だ。と言うことは、玲奈はそれまではキャバクラでバイトしながら、大学に|(かよ)っていたと言うことになる。また”なんで?” という言葉が、僕の頭の中を駆け巡る。
「今のコールセンターでバイト始めた時は、もう、大学辞めてたのよね」
と明日香が確認するかのように言った。
「分からねえよな。どう言う事なんだか」
と翔太も僕と同じ疑問を持っている。僕は『オトコか!』と思った。
「あのさ、話別なんだけど、彼氏が居るっていうのはどう言う話だったの?」
と僕は明日香に聞いた。
「うん、最初の頃、聞いたら”居る” ってはっきり言ったのよ、自分で。その後、女子会誘ったとき用があるって言うんで、”デート?” って聞いたら、嬉しそうに『そう』って言ったの。……その日女子会の席で、飲みながらみんなで、玲奈の彼氏どんな人かな? って盛り上がっちゃってさ。それから、玲奈には彼氏がいるってことになったんだ。私も、翔とまだ付き合ってなかった頃だから、『いいな』なんて思ってた」
「写真とか、見てないのか?」
 翔太が明日香に聞いた。
「うん、そのあと私が、玲奈とは一番仲良くなったんだけど、『彼の写真、スマホに入ってんでしょ、見せてよ』って言ったら、入ってないっていうの。自分から話そうとしないから、あんまり聞いても悪いかなって思って、それから聞かなくなっちゃった。ただ、玲奈は、彼氏居ないのに居るなんて見栄を張らなくちゃならないようなタイプじゃないでしょ。本人、居るって言うんだから、当然居るだろうって、みんな思ってた。でもあたし、翔と付き合うようになってからは、玲奈が雄介君と付き合ったらいいなって、ずっと思ってたのよ」
「そう言うことか、なるほど。でも、あのプリウス野郎が彼氏ってことはないよな。中年だったんだろ?」
と翔太が明日香に確かめた。
「うん。無関係な人だったと思うよ。もし、あいつが玲奈を待ってたんだとしたら、……ストーカーってとこよね。カッコいい訳でもないし、イケメンとは程遠いタイプだったもん」
 河原崎と話した僕としては、河原崎の行動が気になった。
「でも、少なくとも一度は玲奈を迎えに来て、玲奈はあの車に乗って行った」
 そう言ってみる。
「だからさ。……なんか、話が有ったんだよ。多分」
 翔太は僕を安心させたくてか、根拠の無い気休めを言った。
「夜待ち合わせて、車に乗ってか?」
と、僕は正論で突っ込む。
「あんな親父に焼餅焼いてどうすんだよ! 関係無いよ。なぁ!」
と翔太は明日香に同意を求めた。
「あ、分かった。多分、玲奈が前にバイトしてたとこの社員なんじゃない? 上司かも知れない。で、しつこく誘って来るんで、玲奈はうざくなって辞めた。ところが、今のところへ来てるのバレちゃって、跡付けて、話したいとか言って電話して来たんじゃない? 社員なら、履歴書見れば携帯番号分かるじゃない。で、玲奈は、一度ちゃんと話して、付き|(まと)わないで欲しいって言っといた方がいいと思ったのよ。それで、あの日待ち合わせた。元の上司だし、ちゃんとした会社の社員だから、変なことはしないだろうってことで、車にも乗った。そう言うことじゃないかな」
「お前の想像力ってすっごいね。小説でも書いたら? それとも、それ自分の体験か何かなの?」
「茶化さないで!」
と明日香は翔太を睨んで、肩を突いた。気まずかった。勤め先の社員なんかじゃなくて、本当はキャバクラの客だとは言えない。
「でも、それだけのことで、大学まで辞めるかな?」
 僕は、独り言のように、ぽつっと言った。しかし、口に出した言葉とは別のことを考えていた。
 勤め先の社員なら、なるほど住所は分かるだろうが、普通、ただの客に住所教えるホステスなんていない。『なのにあいつは知っていた』その『なぜなのか?』と|(いら)つく想いが僕の心を支配していた。
「うん。確かに、大学にまで押し掛けて来るようなら、 大学辞めるよりも警察に相談する方が先だわな。それに、玲奈ちゃんに本当に彼氏が居るのなら、その彼氏に相談して、彼氏がなんかアクション起こしてるんじゃないの?」
翔太がそう言った。
「雄介君、本当に、玲奈から何も相談されてないの?」
と明日香の目が真剣になった。
「ああ、何も聞いてない」
 僕は少しばつが悪くなっていた。河原崎とは、客とホステス以上の関係が何か有ったのか? それとも、ほかに彼氏が居るのか?” いずれにしても、僕に取っては愉快な話では無い。
『あれこれ憶測するより、いっそ、キャバクラ”バージン・ロード” へ行ってみよう』
 突然、僕はそう思った。

11 キャバクラ バージン・ロード
 翌日五時過ぎに、コンビニのATMで念の為五万円引き出した。”バージン・ロード”はキャバクラとしては高級店の部類でVIPルームは一万円以上掛かる。流石にそれは出来ないので一般席にした。予算はワンセット六十分で七千円~八千円。それは、Netで調べた。早い時間の方が安いので、七時前に入ることにした。

 道玄坂近くのビルの五階にその店は有った。入口はクラブと違ってオープンで、周りはクリスタル調に装飾されている。床は大理石風のタイル。
「いらっしゃいませ。ご案内致します」
 黒服は、ガラが悪くはない。照明は明るい方で、内装はと言うと、壁はアイボリーが基調で、腰板にオークをあしらってある。フロアーは結構広く、入って左側の奥がステージになっている。ステージとは言ってもフラットで段差は無い。グランドピアノが一台置かれている。
 席は壁際とフロアーに配置されているが、区切りやブラインドのようなものは一切ないので、すべての席が見渡せるようになっている。
「本日は、ご指名はございますでしょうか?」
 ボーイが聞いて来た。
「いや、はじめてなんで、特に……」
と、僕は落ち着かない対応をする。
「では、こちらへどうぞ」
 壁沿いの席に案内された。前金制なので一万円渡すと、
「ありがとうございます。一万円からお預かり致します。少々お待ち下さい」
とボーイが下がり、すぐに、二人の女の子が現れた。金髪盛り上げヘアーやびっくりメイクではない。ふたりとも清楚で、むしろ、大人しい感じの子だ。そして、とびっきりではないが、まあまあ綺麗と言える。玲奈がここに加わっていても違和感は無いなと感じた。ドレスは制服で、赤のワンピース。タイトなミニだ。
「いらっしゃいませ。失礼しまーす」
 ひとりが、向かい側、もう一人が隣の席に座り、隣に座った方が、おしぼりを開いて僕の|(てのひら)に載せ、向かい側に座った子が、
「水割りでいいですかぁ?」
とギャル口調で聞いて来た。
「はい。お願いします」
と、僕はギゴチナク答える。女の子は二人とも、きちんと膝を揃えてミニから出た太腿の合わせ目にハンカチを置いている。
「由佳でーす。宜しくお願いしまーす」
「瀬里菜でーす。宜しくお願いしまーす」
 二人が名刺を出して挨拶を済ませたころ、さっきのボーイがお釣りの入った封筒を持って来て、由佳に渡した。
「ありがとうございます。こちら、お釣りです。落とさないようにしまって下さいね」
 店名やロゴが入った封筒の裏には、明細や税、お釣りの金額が記載されている。僕は、封を切らずに、それをポケットにねじ込んだ。
「はじめてですかぁ? お客さんみたいな若い人が、おひとりで見えるのは珍しいんですよ」
 瀬里菜がそう言った。
「あんま、来ない? 若い人」
と僕は聞いてみた。
「上司のひととかぁ、先輩に連れられて来られる方多いですけど、たまに、お若い方だけ四~五人で見えられることも有りますね」
とギャル口調と敬語が入り混じる由佳。
「でも、今日は、最初のお客様がイケメン。うれしいわね」
と由佳は瀬里菜に言った。
「ありがとうございます。イケメンなんて言われたことないんで」
 当然お世辞なのだが、僕は素直に本音を述べる。
「そんなことないでしょ。背高いし。……何センチですかぁ?」
 瀬里菜がそう聞いて来た。
「百八十三かな。今時普通でしょ。そんな高いってほどじゃ……」
 お世辞とは分かっていても、悪い気はしなかった。彼女らと話すうち、この店の”キャスト” と呼ばれるホステスは、バイトの大学生が多いこと。中でも音大生が多く、クラッシックやポップスの演奏を、ショーとしてやっていることが分かった。
「どのくらい? ここに勤めて」
と聞いてみた。
「私はもう一年くらい。瀬里菜さんはまだひと月くらいよね」と由佳。
「綾香って子知らないかな」
 そう思い切って聞いてみた。
「綾香さんなら、あそこ」
と瀬里菜が指差した先には、知らない女が居た。
「いや、本当の事を言うと、三~四か月前に人に連れられて一回だけ来たことが有るんだ。大勢で来たんで、覚えてはいないだろうけどね。その時居た綾香って子は、あの子じゃなかったような気がするんだけど」
「ああ、前居た綾香ちゃん? 辞めたんですよ。何ヵ月か前に」
と由佳が答える。
「ああ、そう」
『そうか、こういう店では源氏名と言うか、店で使う名前は使い回しするのだ』と理解した。
「あれ、お客さん、あの綾香ちゃん目当てだったんですかぁ?」
と聞かれ、慌てた。
「いや、そう言う分けじゃない。そう思ってたら、指名するでしょ」
と、言い訳する。その時、
「由佳さん。三番テーブルお願いします」
とアナウンスが入り、由佳は席を立った。
「ごめんなさーい。また戻って来ますから、待っててね」
 そう言って、いつかの玲奈のように手を振って由佳は席を立ち、代わって瀬里菜が隣に来た。
 少しして、瀬里菜も指名が入り、また別の子が付いたが、その子はもっと新しく、先週入ったばかりの子だったので、何も聞くことは出来なかった。
 しばらくしてショーが始まったが、由佳もその中に加わってフルートを吹いていた。タイムアウト五分前に、由佳は僕の席に戻って来た。
「お待たせーっ。戻って来ちゃいましたぁ」
と打ち解けた感じで言ったあと、
「今日、お時間大丈夫ですか? 延長してくれたらうれしいんだけど」
と可愛さを強調して首を傾ける。
「いやごめん、今日は帰る。またっ……」
 玲奈の事を知っているだろう由佳と話したかった。心地よい雰囲気だったが、何かペースに乗せられてしまいそうな気がして、帰ることにした。”河原崎は、こんな風にしてずるずる|(かよ)うようになったのだろうか?” ふと、そんなことを思った。

 三日後に、もう一度”バージン・ロード”に行った。今度は由佳を指名したので、指名料三千円がプラスされた。
「ご指名ありがとうございます。うわーっ。超うれしいっ、こんなに早く来てくれるなんて。ありがとうございますぅ」 
 席に付き、少しの間何気ない話題で話した後、
「実は、前に居た綾香って子のことを聞きたいんだ」
と、僕は率直に打ち明けた。
「やっぱりね。この前そうじゃないかなって思ったのよね。うーん。綾香さん、特に親しい子は居なかったんだけど、いっしょうけんめい稼いでたって感じだったわね。ほんとに一所懸命。指名は多かったし、お客さんの評判も良かった。だからって、ひとのお客さん取ったり、仲間に嫌がられるようなことしてた分けじゃないんですよ。ただ、学校や何かで忙し過ぎて、お店終わった後みんなで食事行ったりとか、そう言う時来られなかったみたいで、それで、そんなに親しい子も居なかったみたいなんですよね。大学も真面目に行ってたんじゃないかな。凄い子よね。……ひょっとして、あなた彼氏?」
と聞かれて、また慌てた。
「いや、違う違う」
とムキになって否定する。
「そうよね。彼氏って多分、あなたみたいないい人じゃない気がする」
と由佳は気になることを言った。
「何で?」
と僕は聞いた。今度は、由佳が慌てた。
「あっ、すいません。……貴方が、なんかすごくいい人みたいだったから。へへ」
と取り繕う。
『綾香は、本当に玲奈だったのだろうか? 由佳の言う綾香は、玲奈とはちょっとイメージが違う』僕はそう思った。

 河原崎と由佳の話を整理すると、玲奈は、夏休みの前くらいまでは講義には出ていたことになる。渋谷キャンパスでは会わなかったと友達が言っていたそうだけど、英米文学科は学生が一番多いというから、会わないことだってあるかも知れない。 
「特に入れ込んで|(かよ)って来る客は、居なかったの?」
と僕は由佳に聞いてみた。
「入れ込んでって言うか、熱心なお客さん、もちろん、何人か居ましたよ。……ただ、いつも来る時一人で来て、熱心なお客さんの中には、勘違いしている人が、たまに居るから、そのお客さんのためにも気を付けないといけない場合ありますけどね」
 一般論めかして言っているが、何かあったのだなと、僕は思った。
「そう、そう言うお客さん居たんだね」
「ええ、……まあ」
と、由佳は|曖昧(あいまい)に答えた。
「河原崎って人じゃない?」
 思い切って、僕はカマを掛けてみた。
「ごめんなさい。お客さんのことは、色々言えないんです」
 由佳がうろたえているのが分かった。そりゃ、客のことを色々言うのはまずいだろうと思った。つい、余計なことを話してしまったと気付いたのだろう。それから間も無く、掛け持ち指名が入って、由佳は席を離れた。
 タイムアップ五分前には戻って来たが、延長して下さいとは言わず、「お時間ですが、どうされますか?」と敬語で聞いた。
「帰ります。色々ありがとう」
 僕は、そう答えた。
「ありがとうございました。また、気が向いたらお寄り下さい」
 就職のことは別として、何の苦労もなく学生生活をエンジョイしていると思っていた玲奈の、まったく別の姿が見えて来ていた。
 本当だろうか? と言う気持ちは相変わらず有ったが、河原崎、明日香、由佳の話を総合すると、やはり僕は、本当の玲奈を知らなかったのだと悟った。

12 河原崎
 店のあるビルを出て、通りを歩き始めた時、スマホの着信音が鳴った。見ると河原崎だった。繋いで無言で耳に当てた。
「河原崎です」
と奴は言った。
「分かってます。なんか用ですか」
 僕は不機嫌そうに答える。
「やっぱり、あの店に行ってみたんですね」
 僕は、思わず辺りを見回していた。『見張られている!』そう気付いた。
「隣りのビルの玄関です」
 見ると、四十代と思えるサラリーマン風の男が、スマホを耳に当てながら、こちらに向かって歩いて来る。背は百七十センチ前後。中肉中背で眼鏡を掛けている。
 僕はカッとなった。足早に河原崎に近づくと、|(にら)んだままぐっと顔を近づけた。
「俺を見張ってたのかよ! それとも店を見張ってたのか?」
 そう語気強く言ったが、街なかなので流石に大声は出さない。
「店です」
 少し顔を引いて、河原崎が答えた。
「何で!」
と、僕は河原崎との間合いを更に詰めた。何か起こりそうと察してか、通行人の多くは、僕達を避けるようにして通り過ぎて行く。
「君は誤解している。少し話したい」
 河原崎は困ったような表情になって、|(てのひら)で僕がそれ以上近付くのを止めようとする。
「ああ、説明しろよ。ここで」
 僕は既に切れていた。
「君は俺をストーカーと思っているようだけど、違う。綾香に付き|(まと)ってた訳じゃない」
「ああそうですか。でも残念ながら、あの店の女の子も、玲奈にストーカーが付き|(まと)ってたってことは認めてるんだよ。流石に商売だから、あんたの名前までは言わなかったけど、俺が『河原崎って人か?』って聞いた時、『いえ、河原崎さんじゃありません』とまでは言わなかったよ。違うならそう否定したはずだ。積極的に否定しなかったってことは、認めたも同然ってことだ。一応客だから、モロ言うことは出来ないだろうからな」
 河原崎は渋い表情となったが、
「”由佳”って子か”すみれ”って子じゃないのか、そう言ったのは」
と逆に聞いて来た。
「誰だっていいだろう。彼女らに迷惑掛ける訳には行かない」 
 河原崎はふーっと一つ息を吐いた。そして、何故か落ち着きを取り戻したように見えた。
「ある団体が絡んでる。綾香の失踪には」
 突然、そう言った。
「はあっ? 頭大丈夫か? 何適当なこと言ってんだよ! そんなんなら、家族がほっとく分けないだろう。兄貴だって東京に居るんだし……。失踪なんて、大げさなことでも無いわ!」
 そう言いながら、僕はふと思った。
『そうか、兄さんのところへ、行ってるのかも知れない。そう言う可能性が有るじゃないか』と自分に言い聞かせた。
「お兄さんがどこに住んでるか、知ってるのか?」
と河原崎が聞いて来た。
「知らないけど。もし、知ってても、あんたには言わないよ」 
 そう言い返す。
「話しておきたいことがある。少し時間|(もら)えないかな?」
と言って来た。『ふざけるな』とは思ったが、河原崎が何を知っているのか知りたいという気持ちが湧いた。
「俺は、俺の知ってることについて何も言わない。それで良ければ、聞こう」 
 そう言った。
「それでいいよ」
 河原崎も承知したので、井の頭通りに回りプロントに入った。
「確かに、俺は綾香が気に入り、通い詰めていた。あくまで客としてだ。ストーカーなんかしていない。同伴は何度もした。知っているかどうか分からないが、”同伴”というのは、開店前に外で待ち合わせて、食事をしたりお茶を飲んだりしてから、一緒に入店するシステムだ。女の子に取っては、ポイントにもなるし、アピールにもなる。俺は、不動産の営業やってるんで、時間つくることは出来るんだ。早い時間でも。月単位で結果を出せばいいから、毎日の売上で勝負してる分けじゃないんでね」
 でも、そんなことしていれば、成績はどんどん下がって行ったろうなと思った。
「同伴した或る日、綾香が、これ読んでみて下さいって、薄っぺらなパンフレットみたいなもの出したんだ。前にも見たことあったんで、すぐ、それが或るカルト教団のものだって分かった。普通なら、この女やばいなと思って、あの店に足を向けなくなると思う。でも、俺、助けてやらなければと思ってしまったんだ」
『勝手な思い込みばかりしやがって』と思った。
「俺は、そんなパンフレット見せられたことは無いよ。第一、話が変だ。そんな話して、客がひと言でも店の人に|(しやべ)ったら、即クビでしょう。店で宗教の勧誘やってるなんて噂が立ったら、それで店は終わってしまうからね」
 河原崎がいい加減なことを言っていると、僕は思った。
「あの教団の信者たちは、そう、滅多やたらに声を掛けたりはしない。親近感を作って、或る意味、自分を裏切らないと目算立ててから話を持ち出すんだよ。つまり、俺は店に言い付けたりしないと判断されたって分けだ」 
 ムカつく奴だと思った。
「じゃ、俺はまだ、会社に言い付けると玲奈に思われてるから勧誘されないって言いたいのか? それで、あんたは、可哀相な玲奈、いや綾香を助けてやる為に探し回ってるだけで、ストーカーなんかじゃないって、そう言いたい分けだ。ふざけてんのか!」
 皮肉たっぷりに、そう言った。
「信用できないかな?」
「当たり前じゃないか。信用なんて出来る訳無い。……じゃ聞くが、あんたは、なんで、玲奈の住所知ってるんだ。キャストっていうのか? 要は、ホステスが客に住所教える分け無いだろうが」
「……う~ん。調べた」
「どうやって?」
「興信所」
 もし、路上での立ち話のままだったら、僕は、河原崎を殴っていたろう。さすがに、店内だからこらえた。
「やっぱりな。それは立派なストーカー行為だろう。違うか?」
 そう、低い声で言って、左手で河原崎の胸倉を掴み、|(にら)み付けていた。河原崎の目に、少し恐怖の色が浮かんでいた。
「俺の携帯番号を何故知ってた。それも調べたのか?」
 胸倉から手を放してから、声の調子を落として聞いた。
「いや、違うよ。君の番号を知ったのは偶然だ。食事してる時、スマホが鳴ったんだ。きっと、マナーモードにするの忘れていたんだな。彼女は、相手を確かめるように画面を見たけど、すぐ切った。その時、もうひとつのスマホが振動したんだ。それは、マナーモードになっていた。そっちには出た。電話を取るとドアの外へ出て行った。最初に鳴ったスマホは、テーブルの上に置いたままだった。急いだんで置き忘れたんだろう。悪いと思ったが、気になってつい着信履歴を見てしまった。速読法やってるんで、電話番号くらいは一瞬で記憶出来るんだ」
『玲奈はスマホを二つ持っているのか?』
 僕は|(いら)付いた。
「速読法だかなんだか知らないが、下らない自慢するんじゃないよ。品性下劣だって言ってるようなもんじゃないか。それに、偶然じゃ無くて、それは盗み見た分けだろう。盗み見たんだよ、それは」
 その時、初めて思い出した。玲奈が河原崎の車に乗って行った夜、ビール大ジョッキ二杯を一気飲み同然に飲み干したあと、ラーメン屋から出て繁華街をふらふらと歩いている時、僕は確かに玲奈に電話した。そして、二コールで切られた。
「あの日だよね。夜、玲奈を迎えに来た」
「店を辞めてしばらくして、偶然あの通りで見かけたんだ。話をしたいと言ったけど、その時は、バイトに行くところだからって言うんで、帰りでいいから少し話したいって頼んだ」
「偶然じゃないだろう。玲奈の住所知ってた分けだから、後をつけたんだろ」
 僕は、そう突っ込む。
「誓って、後を付けたりはしていない。五本木のマンションに何度か行ってみたことは確かだが、そこでも、帰りを待ち伏せしたりはしていない」
 河原崎は盛んに言い訳をした。
「何、分かんねえこと言ってんだよ。それで玲奈は、夜に会って話すことをOKしたんだ。そうなのか?」
「ああそうだ」
 もし、本当にホステス、いやキャストをやっていたのなら、夜、男の車に乗ることに、或いは、玲奈はそんなに神経質にはならないのかも知れないと思った。それとも、やはり河原崎が付け回していたので、付き|(まと)わないよう、はっきり言おうとしただけなのか? 

 あの翌日には玲奈は、自分から僕と話す時間を作って来た。何を話そうとしていたのか? それなのに、何で結果として何も話さなかったのか? と思った。そして、何で気付いてやれなかったのかと言う深い後悔の念が湧き出して来た。河原崎と言うより、自分を殴りたくなった。

13 影
 だが、あの日、そんな雰囲気はなかったと思った。ただ、河原崎が僕の携帯番号を入手したいきさつについては、僕の心配した最悪の事態にだけはなっていなかった事が分かったので、少し、気持ちが落ち着いてきた。
「ところで、宗教の話はその後どうなったんですか?」
と、僕の河原崎に対する問い掛けが、何故か敬語になっていた。
「『悪いけど、宗教には興味ないから』って断ったよ」
 河原崎が話始めた。
「そしたら、『宗教ってよりも、生き方についてみんなで話すサークルって感じなんですよ』って言うんで、『このパンフレットは前にも見せられたことがある。言っちゃ悪いが、Netなんかでも、色々悪い噂のある団体だよね』って言ったんだ。彼女は、『Netの書き込みって、自分の名前出さないで無責任な噂を流し、何の責任も取らないものでしょう。そんなものに振り回されてる人、多過ぎると思いません? 無責任な中傷です』って言う。一回、話を全部聞いてやった上で、矛盾しているところを説明してあげて、その上で、そんな宗教に入るのはやめた方がいいと言ってやるしかないかなって思ったんだ」
 先が気になった。
「それで……?」
と、僕は河原崎を急かせた。
「『お客さんとしてでなく、河原崎さん個人に知って欲しいことなので、お店に来て下さる日以外の日に、どこかでお話出来ませんか? その代り、お店や同伴の時には、今後この話は一切しません。あくまで、プライベートでお話したいんです。だから、河原崎さんもそのつもりでいて頂けますか?』って言うんだな。つまり、俺にも、店ではこの事を喋るなってことだ」
『“プライベートで”とか言われて、やに下がったってことか』と思った。でも、玲奈がカルト教団に関わってたなんて、|(にわか)には信じられなかった。
「で……?」
と僕は、河原崎をせっついた。
「それで、店に行かない日に喫茶店で待ち合わせた。ところが、二人で話そうと思ってたのに、女がもう二人居たんだ。ひとりは、綾香と同じくらいだったが、もうひとりは二十五、六」
「その若い方のひとりが、由佳かすみれ』って子だったって分けか?」
と、僕は口を挟んだ。
「違う。あの教団は、色んな職場や団体に信者を送り込んで勧誘やらせてるけど、複数居ても、お互い知らないのが普通なんだ。つまり、勧誘失敗してトラブルになり一人がクビになっても、|芋蔓式(いもづるしき)に全員がそこから追い出されると言うことが無いようにしている。一緒に来たのは、綾香を勧誘して入会させた先輩と末端の責任者だったんだと思う。組織はすべて縦の繋がりだけで、横の繋がりはないんだ。つまり綾香は、営業に例えれば単なるアポ取りで、営業で言うなら、実際に契約を締結するクローザーとクローザー見習いが一緒に来てたって分けだ」
「で、どうしたんですか」
「俺も営業マンだよ。負けてはいない。クローザーのクロージングを、切り替えし切り替えしって言うより、揚げ足取ってたって感じかな。矛盾を突いて、側で聞いている綾香に分からせてやろうとしたんだ。クローザーは、しまいに怒り出した。『あなたのような人は地獄に落ちるでしょう!』って捨て台詞吐いて、席を立って出て行っちまった。コーヒー代も払わずにね。見習いの方も慌てて後を追った。綾香は残ったんだが、すぐ若い方が戻って来て、入口から手招きして綾香を呼んだんだ。それで、綾香が伝票持って立ち上がったんで、『それはいいよ』って俺は伝票を取り戻した。綾香は黙ってお辞儀して出て行った。緊張した顔していた。翌日店に行ったが、風邪をひいて休んでるってことだった。三日目、五日目、一週間目に行ったが、やっぱり、休んでいると言われた。前にも言ったが、結局、辞めたと店が認めたのが、ひと月近く経ってからだった。休んでるって聞いて、『じゃ、帰る』ってのも、いかにもって感じで嫌だったんで、二回に一回は入った。店とすれば、その間に、他の子が気に入ってくれれば、当面客を逃さずに済むってことだからな。それはある程度分かっていたが、俺とすれば、他の子から、綾香のことが何か聞ければと言うことだったんだ。もちろん、宗教の勧誘の件は何も言わなかった。だけど話していて、由佳とすみれもひょっとしたら信者なんじゃないかと言う気がしたんだ。裏付けはないんだけど、なんとなくって感じだ。なんとなく、そう言う匂いがするんだ。だけど不思議なことに、綾香にはそう言う匂いがまったくなかった。そうだろう。な!」
 そんな同意を求められても、|相槌(あいづち)を打つ気にもならなかった。河原崎の話そのものが、どこまで信用出来る話なのか。僕は、それすら判断出来なくなっていた。
「あんたの言う綾香と玲奈が同一人物かどうか、正直まだ百パーセント、そうは思えない部分も有る。状況から見たらそうなんだろうけど。……興信所に頼んだのはその後なのか?」
 腹立たしい事ではあったが、手順として確認して置く必要が有ると思った。
「ああ、もう他に手は無かった」
 河原崎は頷いて、コーヒーを口にした。
「へえ、興信所ってそういうの調べてくれるんだ。場合によっては、ストーカーの共犯ってことになったりしないのかね?」
 河原崎に対する皮肉である。
「ストーカー、ストーカーって言うなよ。違うんだから。……興信所だけど、一応、不法な目的や迷惑行為が目的でないことは、確認することになってるらしい。でも、俺が頼んだのは、企業が採用時の身元確認で使うくらいの一番簡単なコースだったし、『知り合いがカルト教団に関わっているんじゃないかと心配だ』と言ったら、それ以上は理由を追及しなかった。向こうも商売だからね」
「で、何が分かったんですか」
 知りたい情報を引き出せるのではないかと思って、僕は聞いた。
「出身は、福島県会津若松市。父親は地方スーパーを経営している。景気はそんなに良くはないらしいけど、ま、今の時代そんなとこってことで、倒産の危機があるとか、そう言うレベルの話じゃなさそうだ。そこそこってとこかな。彼女は、赤川学院へ行っていて一人暮らしをしているが、その|(かね)を送るくらいは問題なさそうだと言うこと。ただ、君の言う、東京に住んでる兄というのは居ない」
「えっ!」
と思わず声が出た。そこまでの情報は、大方僕の知っている玲奈の情報と矛盾していなかったのだが、『兄が東京に住んでいて、当初、そこに同居していた』と言うのが嘘とすれば、それこそが、玲奈の行動の謎を解明する鍵になるかも知れないと思った。
「兄弟は、実家で父親の仕事を手伝っている兄がひとり居るだけだ。あと、兄嫁と兄夫婦の子、小学生の男の子と中学生の女の子だ。それと、お婆ちゃんが居る」 
「玲奈が俺に嘘をついたっていうのか。一年の時は、兄貴の家に居候してたって聞いている」 
「どうして君にそう言ったのかは分からないけど、一年の時は、相模原でひとり暮らしをしていた。二年の夏休みに|故郷(くに)に帰った時中学の同窓会が有って、その時再会した同級生の男が、やはり東京で大学に行っていた。そいつは八王子に住んでいて、玲奈の住まいと近かったせいも有って、東京に戻ってから会うようになったようだ。当然、そのうち半同棲みたいになってたらしい。高校は女子高だったんで、多分、初めて大人の付き合いをした相手だったんだろう。ところが、結果は最悪。そいつが、とんでもない遊び人だったってことに、しばらく気付かなかったって分けだ」
『カルト教団に、遊び人で|(ひも)のような彼氏? 何だそれ。キャバクラでバイトした|(かね)どっちか、或いは両方に貢いでたってのか? |(ひど)過ぎるだろう』
 ショックを受けた僕は、口を挟んだ。
「ちょっと待ってくれ、企業の採用調査レベルのコースで、そんなことまで調べるか?」
と突っ込んでみる。
「ああ、追加料金払うはめになった」
と河原崎が答える。そして、
「言い方は巧妙だ。住所、家族構成、出身高校、在学中の大学、おおまかな経済状況あたりを説明した後、『実は、男性についての情報も|若干(じゃっかん)|(つか)めたんですが、どうも評判の悪い男のようで、実費頂ければ、それも報告書に記載出来ますよ。どうされますか?』って言って来やがった。こっちが、知りたい情報だって分かっていやがるんだ。その時点じゃまだ、教団についてどの程度分かったか聞いて無かったんで、追加断って手抜きされちゃ困ると言う気持ちも有った」
『こいつ、インチキ調査会社に踊らされたんじゃないのか?』と思った。
「もう、そのことは、そのぐらいでいいよ」
と、河原崎の言葉を遮って、僕は言った。もう、それ以上聞きたくは無くなった。
「いや、分かってることは、大体そんな程度さ。あとは、その男に、他の女が何人か居て、結局綾香は、その男とは別れたってことと。その後。三年になって今の住所に引越し、キャバクラ“バージン・ロード”に勤め始めたってこと。男と別れたのが一月の末頃。それから二か月くらいの間に何があったのか、実は良く分からないらしい。カルトの方は、同級生の誰かに勧誘されたんじゃないかって程度だ。『もっと詳しく調べてみましょうか』って言われたが、どうせ別料金。それも、今度は大分取られそうだから、やめた」
『キャバクラに勤め始めたのが男と別れた後なら、そいつに貢いでいたって訳では無いだろう。河原崎の言う事は支離滅裂ではないかと思うと、真面目に聞いていたのが馬鹿馬鹿しくなった。
「結局、教団のことは何も分からないってことじゃないか。その興信所に、いい加減な情報でぼられたんじゃないのか?」
と、河原崎に言った。
「教団の本部のある場所は分かっている。一度あたってみたいんだ。一緒に行かないか」
と、河原崎は意外な誘いを掛けて来た。
「なるほど、そう言う訳ですか、俺に用があるというのは。情報を確かめたいが、ひとりで行くのが不安だった。だから、俺を巻き込もうと思った。そういうことか」
 河原崎を|嘲笑(あざわら)うような調子で僕は言った。
「君は探したくないのか?」
と、河原崎は切り替えして来た。
「探したいさ。特に今のような話聞いたあとじゃね。でも、怪しげな話ばっかりじゃないか。しかもあんたが、ボランティアみたいな気持ちで、あんたの言う綾香を教団から救出しようとしているなんて、素直に信じられると思いますか?」
「どう思おうといいが、目的は一緒だろう。協力してくれないか? その彼氏って奴はとんでもない奴らしいが、俺は君には悪感情は持ってない。君はいい奴だと、俺は思ってる」
 どういうつもりなのか、河原崎は僕を取り込みに掛かって来た。
「よく言うよ、こいつ!」
と僕は思った。

14 理由(わけ)
 妙な事になってしまった。なんと、よりによって、世の中で一番ムカつく奴と共同行動を取る羽目になってしまったのだ。
 政治に例えて言うなら、政策協定ってやつかな? 玲奈を探すと言う目的の為に、僕は河原崎と妥協した。虫が好かないことは確かだし、河原崎の本心が純粋なものなんかじゃないと思っていた。しかし、協定することで好都合な面もいくつか有ると判断したのだ。
 まず、河原崎は車を持っているから、機動力が有る。当面、カルト教団の事について真偽を確かめて置く必要が有ると思った。僕が知らない情報も、河原崎はまだ持っているかも知れない。そして何よりも、僕の知らないところで河原崎に動き回られるよりも、奴の動きが分かっていた方が良いと思ったのだ。

 大塚駅北口で待ち合わせた。ぎごちない挨拶を交わして、河原崎のプリウスの助手席に乗り込む。しばらくは、お互い無言が続いた。
 行先は分かっていた。河原崎が言うには、教団の施設は多摩地区の西京市に有ると言う。車で一時間ほど掛かるようだ。河原崎と同行するのも止む得ないと思った理由の一つはそれだ。電車で行くには面倒臭い所だったから、車の方が遥かに楽だと思ったのだ。
 着くまで無言のままでも別に良かったのだが、間が持てずに、つい、僕の方から話し掛けてしまった。
「どんな教団なんですかね?」
と聞いてみた。
「思いっきり簡単に言えば、終末思想。ハルマゲドンでもいいが、要は、人間の行いが悪いから、世界はもうすぐ終わってしまう。助かるには、あいつらの言う神を信じて祈るしかない。信じない奴は地獄に落ちるってとこかな」
と、河原崎はその教団になかなか詳しいような様子だった。|(しゃべ)りながらも、流石に慣れたハンドル捌きで車を走らせる。
「アルマゲドン? ばっか馬鹿しい。|中坊(ちゅうぼう)の書くラノベでも、もうちょっとマシなストーリー考えるよ」
 なんでそんな教団に入る奴が居るのか、本当に不思議だと思った。
「人間って、案外馬鹿馬鹿しいこと好きなんだよ。ハリー・ポッターだの呪術廻戦だの結構好きじゃないか」
「エンタメとしてはね」
 何、|(とぼ)けた事言っているのかと思った。
「もちろんエンタメは、有り得ないこと承知で楽しんでる訳だけど、どっかで、そういうのを信じたいって気持ちが有るから好きなんじゃないかな、理屈じゃ無くて。だから、詐欺に引っ掛かったり、インチキ占い師を信じたり、カルト宗教に入ったりする人、現実には結構大勢居るだろう」
「まあね。確かにそう言う人も居る。そういう人達、何考えてんのか、俺には想像付かないけど」
「いや、条件さえ整えば誰でも引っ掛かる。要は、その時の心理状態だ」
「それは、あんたの考えだろう」
 僕は頭から馬鹿にするかのように言った。すると河原崎は、
「大体、何でキリストはユダヤ人の顔してて、釈迦はインド人の顔してるか分かるか?」
と聞いて来た。『何を訳の分からない事を……』と僕は思う。
「そりゃ、その地方で生まれた宗教だからだろう」
「そうだ。神も仏も、その時代のその地域の人々が知っていた情報の範囲で、人がイメージして作ったから、そうなった。神が人を作ったんじゃなく、人が神を作ったという何よりの証拠じゃないか。カルトに限らず、俺は宗教なんてもの信じない。全知全能の神が居るんなら、瞬時に世界中の人間を信者にすることだって出来るはずじゃないか。でも、宗教は人間の布教活動でしか広がらない。それだって、神なんか居ないという立派な証拠だろう。良い事が有れば神のお陰と言い、悪い事が起これば、信心が足りない、或いは神がお与えになった試練だなんて言う。何から何まで、ご都合主義的な説明でしか無い。だから、俺は宗教は大嫌いなんだよ」 
『こいつ、なんか宗教に恨みでも有るのかな』と僕は思った。
「へえ、なるほどね。でも、そんな見え透いたご都合主義的な説明、なんで大勢の人が信じているんだと思う?」
と聞いてみる。
「人間って、自分じゃ理知的と思ってるんだろうが、案外単純なのさ。例えば、生年月日占い。生年月日が同じ人が同じ運命辿っているか? 星座が同じ人が同じ運命辿るか? 金持ちに成り上がった人は、みんなおんなじ手相、顔相してるか? 神がじゃ無いが、そう言う馬鹿みたいに単純なこと、なんでみんな疑わないんだ?」 
 河原崎が妙に入れ込んでいるのが、何か不思議だった。  
「本気じゃ無いからだろう。占いなんて遊びさ」
「本気な奴も居るさ。遊びじゃなく、信じて成功する奴も居れば、ドツボにはまる奴も居る。でも、ドツボにはまったとしても占い師は責任取らないし、罪にもならない。信じた奴が馬鹿ってだけの話だ」
『或る意味正論だが、占い師には占い師の言い分が有るだろう。こりゃ何かの怨念だな』と僕は思った。
「まあ、信じてる人には色々反論も有るだろうけど、あんたの考えは分かったよ」
 どっちでも良いことだから、軽く|(かわ)すつもりで、僕はそう言った。
「だけど、そう言う事って、信じさせようと思ってどれだけ一所懸命説明したって、人間、そう簡単には信じないって事も有る。と言うより、普通の精神状態で居れば、むしろ、その方が普通だ」
 どうやら、河原崎の|(しゃべ)りたがりに火を点けてしまったようだ。
「ポイントは論理や理屈じゃない。別の所に有る」
と河原崎は|得意気(とくいげ)に話し続ける。
「良く分かんねえ……なに、それ?」
と僕はひやかし半分に口を挟んだ。何が言いたいのかと思った。
「モノじゃ無い。人だ。何を信じるかってことは、つまり、誰を信じるかってことだ。営業だって、商品じゃなく、営業マンを信じるかどうかだ」
 河原崎が営業に付いての持論を語ろうとしているなら、そんな事に興味は無い。
「悪いが、あんたの営業論に興味は無いね」
と遮った。
「営業論じゃ無い。カルトの教義なんかどうでも良くて、綾香も人を信じたんじゃないかなってことだ。何か不安が有ったんだ。或いは苦しいことが有ったんだ。それで、人に|(すが)り、人を信じた」
「誰を?」
「ただただ聞いてくれる人、決して責めない人、ひたすら共感してくれる人だ。勧誘の決め手は、教義を理解させることじゃ無い。ひたすら寄り添ってくれる人だと思わせることだ。何が言いたいか分かるか?」
「何となくはね。でも、だから、何?」
と、僕は不機嫌に返した。
「心当たりは無いのかと聞きたいんだ。つまり、綾香、いや玲奈ちゃんか。彼女が何に悩んでいたのか、気が付かなかったのかって聞いてるんだよ」
 どうやら、玲奈の行動の原因を僕が作ったのではないかと、河原崎は言いたいらしい。
「なんか悩みが有って、周りの人間の中に、誰もそれを聞いてくれる人が居なかった。それが玲奈がカルトを信じた理由だって言いたい訳? こじつけだよ。なんか悩みがあったとしても、それがカルト宗教を信じる理由になる? それとも、悩みを聞いてやれなかった俺を責めてる訳?」
 どうでもいいような気持ちで聞いていた話が意外な方向に発展し、それが、まんざら見当外れとも言えない事だったので、正直、僕は|(あせ)った。
「入信する理由は、あいつらが他の誰よりも優しいから。そう思わせるからだよ」
 河原崎はそう繰り返した。河原崎の言いたい事は分かったが、僕は、それに対する答を持っていなかった。
「普通の社会ってさ、付き合いも表面的だし、親しい相手だからって、そう何もかもさらけ出せるものじゃ無い。仲間だの友達だのって言ったって、同時にライバルだったり、そうでなかったとしても、親しき中にも礼儀有りじゃ無いけど、相手の立場も考えも有る。どんなに親しい人でも、無条件に何でも頼れる訳じゃ無い。結果として誰でも、孤独を感じたり、他人に言えない悩みを抱えていたりする訳だ。もし、何かで気持ちが弱ってる時に、反論したり馬鹿にしたりしないで、すべてを受け入れてくれる人間、何でも聞いてくれる仲間が出来たと思ったら、理屈なんか関係無く、心理的にその人に依存してしまうんだよ。そういう風に持って行くのが、カルト教団の勧誘だ。奴らはそれを巧妙にやる」 
「玲奈は、はっきり信者になってしまっているのか?」
と聞いた。内心、河原崎の意外に真面目な物言いに驚いていた。僕は茶化すのをやめようと思った。

15 キャッチ
「行ってどうしようと思っている?」
と河原崎が言った。
「どうって、玲奈がいるかどうか確認しに行くんでしょ」
「『はい、居ます』なんて言うと思う? まともに聞いて……」
「いや、言わないだろうね」
と答えたが、『自分で誘って置いて、今更、どう言うつもりでそんな事を聞くんだ』と思った。
「だったら、無駄なことしても仕方がない。教団相手に、いくら言い合いしてみてもしょうがない分けだ」
「じゃ、どうするの?」
 河原崎の意図が分からなかった。何が言いたいのかと思っていると、
「勧誘されよう」
 そう言って来た。不意を突かれた感じだった。
「マジーっ?」
とつい言ってしまった。
「他にもっといい方法でも有るか?」
 そう聞かれても、僕に答は無い。
 
 色々話しながらだと時間はあっという間に過ぎて行く。出発して一時間ほど経った頃、
「もう、そろそろ着くよ」
と河原崎が言った。教団は西京市の住宅街の外れに有ると言うが、西京駅前の公園で布教活動が盛んに行われていると言う。下調べをしていたのか、河原崎は、駅から少し離れたところに有るパチンコ屋の駐車場にうまく車を止め、僕らは駅前の公園に向かった。
「男ふたりってのも、勧誘する方にしてみればちょっとやり|(にく)いだろうから、離れていた方がいいな。丁度昼前だから、コンビニ寄って弁当買って行こう。……それから、あんまり素直すぎるのも怪しくなるから、普通するだろうくらいの切り替えしや断りはした方が自然だ」
 河原崎は歩きながら、そんなことを言った。
「ご心配なく、その辺はうまくやるから」
 河原崎に指図がましく言われるのは、余り|(うれ)しくはなかった。

 ロータリーの真ん中が公園になっていると言う感じだったが、郊外の駅なので、そこそこの広さはあった。多少の緑があり、外周にはところどころ四人掛けのベンチが配されている。ホームレスが寝るのを|()けるためか、それは、一人分ずつ枠で仕切られている。
 中ほどには、色々と高さを変えた石の一人掛けの腰掛|(よう)のものが、数個ずつ配されている。灰皿はないので、ベンチや腰掛の周りには、たばこの吸い殻が散乱している。公園はどこもそうだが、やたらに鳩が居る。
 群れの真ん中に向かって歩いて行っても、容易に飛び立とうとはせず、最小のエネルギーを使って、とことこと歩き、少し避けるだけだ。
 河原崎が入ってすぐの木製ベンチに掛けたので、僕は中ほどまで入って行って、石の腰掛のひとつに腰を掛けた。まだ昼前だったので、労働者風の中年男がひとり、奥のベンチに居ただけで、通行する人の他には、ひと気は無かった

 他にすることも無いので、コンビニで買って来た唐揚げ弁当を膝の上で広げた。
 食べ始めて五分もしないうちに魚は寄って来た。外の道路に五、六人固まって歩いて来るのが見えたと思ったら、そのうちの一人が僕の方に、もう一人が河原崎の方に近寄って来た。僕は気が付かない振りをして弁当を食べ続ける。
「すいません。お食事中失礼します」
 若い声だ。見ると、二十二、三歳の地味な感じの女だった。身長は百五十五センチほどか。ナチュラルなセミロングの髪に、ベージュのハーフコート。コートの下からは、黒のタイトスカートが見える。左手にはキルトの布製バッグを提げて、もう片方の手にはバインダーを抱えている。
『そうだよ。新興宗教の信者って、こう言う感じでなきゃしっくり来ないんだよな』
 僕は、内心、妙な感心の仕方をしていた。
「なんですか?」
 わざと|(いぶか)しげに答えてみる。
「皆さんの幸せを祈らせて頂いてます。あなたの幸せを祈らせて頂いて宜しいですか?」
 普段なら、こんなのは無視する。でも、釣られに来たのだ。
「どうぞ」
 相手を見ないで、そうぶっきらぼうに答えて下を向いて弁当を食べ続けていると、
「あのぉ、申し訳ありませんが、お祈りする間、ちょっとだけ、食べるのをやめて頂いて宜しいですか?」
『じゃ、いいです』
と答えたら、さぞかし慌てたことだろう。
「食べてちゃいけませんか?」
と意地悪く聞き返す。
「申し訳有りません。感謝の気持ちと幸せになりたいと言う気持ちを持って祈って頂きたいんですね。ご本人がそう言う気持ちで無いと、私がいくら祈っても届きません。貴方に幸せが来るようにお祈りしたいので……」
「あの、僕、今でも結構幸せなんですけど」
 どう切り替えして来るのかと思って、そう言ってみた。
「そうですか。結構なことです。感謝の気持ちを持つと、その幸せが続きます。でも、感謝を忘れると、いつ不幸になっても不思議じゃありません」
『|下手(したて)に出ながら脅しも混じってるじゃないか』と僕は思った。
「誰に感謝するんですか?」
と聞いてみる。
「すべてにです。生きとし生けるものすべてにです。私たちは、生きとし生けるもののなかで生かされているちっぽけな命ですから」
『いきなり、神様は持ち出して来ないんだな』と思った。
「あの、宗教なんですか?」
と鎌を掛けてみる。
「もし、神様と言う言葉がお嫌いなら、先祖にでも、お父様お母様にでも、運命にでもいいんです。感謝の気持ちって大切ですよね」
『なるほど、ここは、宗教かどうかをまともに答えずはぐらかす。ロープレ研修で散々やらされてるんだろうな』
 コールセンターの研修に重ねて、そんな想像をした。
「ま、感謝するってことは悪いことじゃ無いけど」
 女はホッとしたように、小さく息を吐いた。
「じゃ、こう指を組んで下さい」
 女は、布制バッグとバインダーを石の上に置いてから、クリスチャンがするように指を組んだ。
「やっぱり、やらないとまずいですかね?」
 わざとちゃちゃを入れてみた。
「お願いします」
 女は真剣な目をして、そう言った。
「分かりました」
と言って、僕は、弁当を隣の石の上に置き、女を|真似(まね)て指を組んで見せた。
「ありがとうございます。では、私が感謝の言葉を述べますので、続いて同じように仰ってください」
『いや、やっぱりいいですよ。やめましょう』と言ってみたくなった。恐らく、土壇場でそんな風に逃げられる事はしょっちゅうなのだと思った。そんな時は、少し離れてこちらを見ているベテランの誰かが飛んで来て助け舟を出すのだろうか。
「分かりました」
 僕は、少し笑いを浮かべてそう言った。相手はここで『やった』と思ったはずだ。

 少しの間、言う通りにしてやってから、僕の方から、彼女に質問を始めた。向こうも答えない訳には行かない。
「何処かに地区の会員が集まって、曜日を決めて勉強会をやってるんですか?」
と水を向けると、これ幸いと思ったのだろう。
「ええ、実は今日も勉強会が有るんです。宜しかったら、ちょっと覗いてみませんか?」
と食い付いて来た。
「へえ、何処で?」
「この先に本部が有ります。そこで勉強会もやりますので、これから、一緒に行きませんか?」
 テレマーケッティングでも、話していて『売れた!』と感じる瞬間が有るが、この女、今、それに近い感覚を味わっているんだろうなと思った。
「その勉強会はどのくらいの人が出てるんですか?」
と聞いた。
「……ええ、決まっていませんが、他の方も見えてますよ」
 数を答えられないと言う事は、集会なんかやっていないと言う事だ。一本釣りなのだろう。その場に連れて逝きさえすれば、集会なんかやってない事の矛盾を誤魔化してくれる人間はいくらでも居る。
「定例会ではないんですか?」
と意地悪く突っ込んでみる。
「定例というのではありませんが、その都度勉強会はやってますので、お出でになってみてください」
 質問に対する答は|曖昧(あいまい)になり、連れて行きたいと言う気持ちが先に立って来たようだ。
「今日来ているのはどこの支部の人たち、あるいは、何期の人とか、そう言うことでは無いんですか?」
と更に詰める。
「ええ、そう言うことではありませんけど、今日は幸い、会長秘書の本庄先生がいらっしゃるので、貴方の疑問については、何でも答えて下さいますから」
『よし、その本庄とやらは幹部なのだろうから、そいつを詰めてやる』と僕は決意した。
「ちょっと、違和感ありますね。まだ、会員でもない、つまり部外者の僕に向かって、あなた方の身内である本庄先生? ですか。その人に敬語を使うのはおかしくないですか?」
 自分でも|可笑(おか)しく思ったが、僕は、河原崎を真似て、揚げ足取りを始めた。
「失礼しました。|何分(なにぶん)、普段私たちが尊敬している師ですから、そう言う言い方になってしまいました」
 相手は必死に言い|(つくろ)おうとしている。
「あの、多分僕の知り合いも会員になってると思うんですけど、今日来てるかどうか、調べてもらえますか?」
 それだけが僕の目的だ。 実際の話、後の事はどうでもいいのだ。
「はいっ。……では、これから参りましょう」
 女は、上機嫌になって立ち上がった。すると、どこかで様子を見ていた女がもうひとり近寄って来た。最初の女は田中、後から来た女は吉川と名乗った。

16 衝撃
 住宅街を抜けて、駅から十分ほども歩くと、高さ二メートルほどの白い塀に囲まれた建物が見えて来た。僕の気が変わって、行くのをやめると言いださないか心配なのだろう。田中とそして吉川もさかんに話し掛けて来る。
 宗教の話ではなく、時候の話や世間話なのだが、何処かピントが外れていて、取って付けたような話題ばかりだ。こちらも適当に相槌を打っているが、うざくなってきて、『逃げないから、黙っててくれ』と言いたくなる。
 白い塀に沿って角を曲がると、そこが、教団の正門のある通りらしかった。門の辺りで、青いブレザーを着た三人の男たちとサラリーマン風の男が、何やら|()めているように見えた。
 河原崎だ。遠目でも分かった。『勧誘されに行く』と言ったくせに何を|()めているんだろうと思った。田中と吉川も気になっているようだ。
「あ、あの、私ちょっと先に行って、話しておきます」
 そう言い残して吉川が、速足で門の方に向かった。見ていると、吉川が三人のうちのひとりに話し掛けようとした時、 
「だから、さっきから言ってるだろう!」
 河原崎が、そう大声を出した。
「名簿見せてくれって言ってんだよ!」
 河原崎は、|(つか)み掛からんばかりの勢いだ。
「ですから、それは出来ません。個人情報ですから」
とブレザーのひとりが答える。こちらも、声が大きくなっている。
「何言ってるんだ、|拉致(らち)でもしてんじゃないのか?」
「そう言う、根も葉もない言い掛かりはやめてください」
とブレザーの男は河原崎を追い返そうとしている。
「根も葉もあるから言ってんだよ!」
 つい手を出してしまうことを恐れてか、河原崎は手を後ろに組んで、顔だけ相手に近付けて行く。
「貴方、何なんですか? ご家族でも何でもないんでしょ」
 こちらも、手が相手に触れてしまうことを恐れて後ろに引いている。

 河原崎らが|()めているところへ近付くのはまずいと判断したのだろう。
「ちょっと通用口の方へ回りましょうか」
と田中が僕に言った。
「何か揉めてるみたいですね」
と僕が言うと、
「勘違いか何かだと思います」
と田中は必死で誤魔化そうとする。その時、吉川に気付いた河原崎が振り向いた。そして、その視線の先に居る僕にも気付き、なんのつもりか、
「お~っ! 斉藤君。こっちだ」
と叫んだ。
 僕にしてみれば、『馬鹿野郎!』と言う感じ。『こっちは、無視して中に入ろうと思っていたのに、ぶち壊しやがった。おまけに、僕の本名まで大声で言う奴が有るか!』と頭に血が上った。
『ただ聞いたって答える分けが無い。入り込むしかないんだ。勧誘されに行こう』と提案したのは一体誰なんだ! と腹が立った。仮に自分が失敗したとしても、知らん顔をして、僕が入れる可能性を残すのが当たり前だろう。何を考えてるんだ。そう思った。
 車でこの街に向かう途中、見下していた河原崎が、意外にモノを考えていると感心したことを後悔した。『言う事とやることがまるで違う人間なんだ、こいつは』と思った。
 僕と河原崎の関係に気付いた田中は逃げてしまった。せっかく中に入ろうと努力していたのに、河原崎はそれを一瞬でパアにしてくれたのだ。中に入って幹部に詰め寄ろうと思っていた僕の思惑は水の泡となってしまった。
 河原崎に対する怒りが湧き上がって来た。僕は走り出し、気が付くと、河原崎に殴り掛かっていた。河原崎の眼鏡が跳んだ。

 河原崎とは殴り合いになり、警察でも来たらやっかいと思ったのか、教団の連中は一人残らず中に入って、通用口のドアも閉めてしまった。
 確かに、何時までやっていると警察を呼ばれかねないという自覚が僕らにも有った。僕は、走ってその場を離れ、結局ひとり、電車で帰路に着く事になった。
 腹に二発、顔面に一発入れてやったのだが、こちらも、鳩尾に蹴りを一発受けていた。土台、河原崎とつるんで行動している方が居心地悪かったのだ。記憶は無いが、何か顎の辺りも少し痛いのは、河原崎の肘か何かが入ったのかも知れない。何れにしろ、教団に入り込んで玲奈の行方を探すことは、不可能となってしまった。その日半日やった事が、すべて無駄となったという事だった。

 電車の中では、イライラする気持ちを抑え付けているしかなかったが、顔の筋肉は硬直し、目だけをぎょろつかせていたはずだ。マナーモードにしていたスマホが震えた。
 見ると翔太からだった。電車の中なのでスマホを|(てのひら)で覆い、
「もしもし」 
と小声で出た。
「おー。今大丈夫?」
「電車ん中」
と僕は小声で言う。
「あ、そ。ちょっと話したいことがある。降りたら架け直して」
「分かった。あと十五分後くらいになる」
「分かった。じゃ、後で」
と、翔太は電話を切った。

 新宿駅のホームから折り返し電話した。
「今、何処?」 
と翔太が、聞いて来た。
「新宿駅のホーム」
「じゃ、南口出て待ってて」
「OK.分かった」

 珍しく、翔太は一人だった。新宿駅の南口と東南口は渡線橋となっている甲州街道と同じ高さに有り、東南は極端に低くなっている。向かい側の新南口バスタ新宿方向に渡る為に信号を待つのが面倒だったので、東南口の急な階段を降り、甲州街道の下を潜って高島屋に向かった。丁度、ハンズで買うものが有ったから、タイムズ・スクエアーで話すことにした。

 ベンチに腰を降ろすと、
「言い|(にく)いんだけどさ……」
と翔太が話し始めた。 
「彼氏って言うか、やっぱ男居るな、玲奈ちゃん」
 翔太は、そう言って僕を見た。
「中学の同級生のことか?」 
と山を掛けてみた。
 翔太が、少し驚いたように僕を見て、
「知ってんのか?」
と聞いた。
「ああ、実は話して無い事が有る」
 僕は、玲奈のマンションに行った後起こった事をすべて翔太に話した。キャバクラに勤めていたのではないかと言う事や、河原崎とのこと、宗教の事、中学の同級生の男のことも、河原崎に聞いた限りの事を全部話した。
「そうだったんか。……結論から言うと、その同棲してた男と、一旦は別れたが、完全に切れてはいなかったって噂が有るんだ。大体そう言う奴は天才的に謝るのがうまいんだな。普通考えたら、絶対に別れるだろうと思うようなケースでも、いつの間にか|()りを戻してしまう。プライドなんてないから、機嫌取るためには何でも言うし、何でもやる。そのうち、女の方が根負けしてしまうんだ。女の方にも、そういうのにひっかかり易いタイプってのが有る」
 翔太の言葉に引っ掛かるものが有った。
「玲奈がそのタイプだって言いたいのか?」
とストレートに聞いた。
「悪いがそうかも知れない。明日香は絶対そんな事ないって言い張っている。それに、噂話の段階で何も確認出来てないのに、こんなことお前に言うべきじゃないって、ムキになって言い張るんで、実はその事で大喧嘩してしまったんだ」
 二人、それぞれの気持ちは分かった。
「そうか…… 悪いな。とんだとばっちりを食わしてしまったと言う事だな」
と僕はため息をつく。翔太はふっと息を吹いてから、苦笑いした。
「あいつも、複数の知り合いから聞いた結果だから、本当かも知れないとは思ってるはずなんだ。ただ、そう思いたくないし、お前にそんな事を知らせたくもなかったんだな。|(かね)稼いでたのも、その何とかって宗教のせいじゃなくて、男の為だった可能性がある。何しろ、遊びまわる|(かね)を女にせびったり、下らん連中との付き合いもある奴らしいからな」
「いや、キャバやったのは、別れた後だって俺は聞いてる」
「その後、|()りを戻した可能性だって有るさ」
「翔太。お前何を知ってるんだ。俺はそんな事認めたく無いと言いたいところだが、単なる噂で、お前がそこまで言うとは思えない。相当確かな根拠でも有るのか?」
 翔太は、鼻から大きく息を吐き、思い切ったように話し始めた。 
「昨日、赤川に行ってる友達から明日香に電話が有った。……玲奈ちゃん、今、病院に居る」
 翔太は、そう言って、僕の反応を窺っている。僕は、事態が把握出来ないでいた。そこに、更に衝撃的な言葉が、翔大の口を突いて出た。
「睡眠薬飲んだそうだ。大量に」
 聞き返す事も出来ず、僕の頭の中は真っ白になった。

17 僕は、サイド・ストリートを歩いていた。
「睡眠薬飲んだそうだ。大量に」
 翔太にそう言われた時、僕の思考は停止してしまった。ごくたまに、人の噂として聞いたり、一般のニュースとして目にする事は有ったが、自分の身近に起こり得る事と思ったことは無い。
 翔太は続けて、
「大丈夫、命に別状は無い。飲む前に親友に電話して来たらしい。前、玲奈ちゃんの事に付いて話を聞いた明日香の友達の知り合いだ。実はその子、男のことで玲奈ちゃんに注意したけど、その時、玲奈ちゃんがアドバイスに全く耳を貸さなかったことから、仲が悪くなってしまったんだそうだ。だけど、その前にはかなりの親友だったらしい。明日香の友達が最初聞いた時には、まだ気持ちの上でひっかかってる部分があったんで、あんまり親しくないようなこと言ったと後悔してたって事だ」
と言ってくれていたのだが、殆ど僕の耳には入っていなかった。ただ、玲奈が生きていてくれたと言うことだけが、意識に残った。
「おい、聞いてんのか!」
と翔太に言われて我に返った。恐らく聞いていなかったであろう僕の|様子(ようす)を見て、翔太は同じ事をもう一度説明してくれた。

 僕に取って玲奈とは何なのかと改めて思う。僕は玲奈とどう向き合っていたのかと考えた。『ビジュアル的にバエる玲奈を、彼女にしたかっただけなのか。もっと露骨に言えば、やりたかっただけなのか』と自問してみたが、それがほぼ当たっているとしか思えなかった。『いや、違う。僕は深く玲奈を愛していたんだ』などと言える材料は何も無い。
 一方、玲奈に取って僕はどんな存在だったのだろうかとも考えてみた。確かに僕は、玲奈を抱いた。しかし、そんな事は、僕が玲奈を愛していたという証明にも、玲奈が僕を愛していたという証明にもならないばかりか、僕が玲奈を大事に思っていたと言う証明にすらならない。玲奈だって、僕を愛していたから抱かれた訳では無いだろう。
 今度の出来事から逆に推論すれば、一瞬でも苦しみから逃れようと、僕に体を与えただけだ。或いは、僕に苦しみを打ち明けようとしたのかも知れない。しかし、僕に打ち明ける事によって救われるとは思えなかったと言う事だ。或いは、玲奈の体に満足した僕に、玲奈は、その時点で見切りを付けたのかも知れない。
 僕の今までの行動は、見当外れのギャグでしかなかった。玲奈が主人公のストーリーが有るとすれば、その中での僕の役割は、ワンシーンかツー・シーンに顔を出すだけのバイプレーヤーに過ぎなかったのだ。玲奈の、喜びも悲しみも、苦しみさえも、僕とは無関係なところで起きる出来事の中で語られていた。
 玲奈が歩くメイン・ストリートの横を平行に走るサイド・ストリート。そんなものを想像してみると、それこそが僕が歩いていた|(みち)だった。玲奈の置かれた状況も分からず、その|(みち)を能天気に歩いていただけの僕は、相談相手でも、SOSを伝える相手でさえもなかったと言う事だ。そう思った。

「病院は?」
と、翔太に聞いた。地の底へ引きずり込まれるように、気持ちが重くなっていた。
「聖地八王子病院。駅から近いそうだ。多分、明日香が確かめに、今行ってる。ひょっとしたら、お前に直接電話が来るかも知れない。明日香に取ってもショックだったろうし、事実を確かめてからお前に話した方がいいって言い張ってたからな。直接聞いた分けじゃなくて友達からのまた聞きだから、間違いだと思いたいんだろう。でも、病院の名前も具体的じゃ、噂話で片付ける訳にも行かないからな。まず、間違い無いだろう。だから、すぐ話した方がいいと、俺は思ったんだ」 
 思わず『ふーっ』とため息が出た。
「これから、八王子行ってみるか?」
と翔太が言った。
「…… 家族も来てるだろう。明日香ちゃんが行ってるなら、連絡待つよ」
 僕は、そう答えた。
「うん。明日香は、間違いなく行ってると思う」 
 男の事が気になった。突然、|苛立(いらだ)ちを覚えて、
「そいつはどこに居るんだ? 今」
と、僕は翔太に聞いた。
「うん? 男のことか? …… 分かんねえよ。お前、そいつに何かしようと思ってんのか?」
 翔太は、|心配気(しんぱいげ)に言った。
「そう言う分けじゃない。何となく聞いただけだ」
 翔太の心配を打ち消そうと、僕は、そう言った。
「だよな。今、まずは玲奈ちゃんの事だろう」
「ああ……」


 行かないと翔太には言ったが、僕は、八王子に行った。しかし、家族が来ているだろう病室を訪ねる勇気はなく、ただ、病院のロビーをうろうろしただけだった。そうしているうちに明日香から電話が有り、彼女も玲奈には会えなかったと聞いた。しかし、明日香は、彼女の友達と一緒に玲奈の親友だった黒田遥に会い、話を聞けたと言う。
 黒田遥に玲奈から連絡が有ったのは、一昨日の午後三時頃だったと言う。黒田が電話に出ると、いきなり玲奈は謝り始めたそうだ。くどくどと謝るので、
「もう、気にしていない」
と言ってやると、今度はやたらに感激して、泣き始めたと言う。感情の起伏が激しく、精神的に不安定な|様子(ようす)から、『普通ではない』と感じた黒田は、
「今、|何処(どこ)に居るの!」
と何度も聞いたそうだ。なかなか言わなかったが、話の流れで『あの男の部屋だ』と察しが付いたので、話を引き伸ばしながら、黒田は聞いていた男のマンションに向かったと言う。電話は十分ほどで切れた。話の内容は過去のあれこれの出来事について謝ったり、友情に感謝したりと玲奈が一方的に話して、会話としては噛み合っていなかったと言う。
 男の部屋に着くとドアが細目に開いていたので飛び込むと、玲奈が倒れていた。男は居なかった。すぐ、救急車を呼んで一緒に病院に行った。幸い措置が早かったので、命に別状はなかったと言う次第だ。
 胃を洗浄して、意識が回復するのを待って連絡先を聞き出し、玲奈の実家に知らせたのだそうだ。その日の晩には両親とも駆け付け、出来るだけ早く実家に連れて帰ると言う話になった。黒田遥以外の面会は、すべて断っていると言う。
 もちろん、男も現れていない。男の名は広田和樹、玲奈の中学時代の同級生で、八王子大学の三年。一度別れたが、また時々会うようになり、今ではまた半同棲の状態になっていたと言う話だった。
 妙に冷静な気持ちで、僕は明日香の話を聞いた。明日香と翔太があっさりと仲直りしたと聞いた時だけ『良かった』と心が動いた。
『玲奈はどうしようもない馬鹿女なのか? 男への当てつけで薬を飲んだのか?』そんな風に考える自分も居たが、なぜか玲奈が可哀そうで、心が凍りついたように動かない時間が過ぎた。 

18 小春日和
 それからの僕は、ひどい自己嫌悪に陥っていた。どうにもならないくらい好きだと自分では思っていたのだが、本当の意味では、玲奈を愛してなんかいなかったことに気が付いた。僕は玲奈のために何ひとつ大事な物を賭けてはいないし、真剣に向かい合ったことさえなかった。単に雄が雌に、男が女に必然的に持つ感情を持ったに過ぎなかったのか? 人間として心の触れ合いはなかったのか? そう自分に問うが、過ぎてしまった事を書き換えることは出来ない。
『うかつな日々を過ごしてしまった』
 その後悔だけだった。
 玲奈とその男が|()りを戻したいきさつに付いて、その後明日香から聞かされた。別れてしばらくしてから、男は玲奈を呼び出したと言う。なんと言って呼び出したのかは知らないが、それに応じた時点で既に、玲奈の方に、男に対する未練が有ったと言う事、つけ込まれる隙が有ったと言うことが言える。男が白々しく|()びを入れ、再交際を迫った事は想像出来る。玲奈は、少なくとも言葉の上では拒否し続けていた。その話し合いは、車を降りて、二人で河川敷を歩きながらお行われていたらしい。この時点で既に、|()く迄拒否し続けている女が取る態度では無い。玲奈が、少なくとも口では拒否し続けているのを見て、男は玲奈から離れ、水の中へザブザブと入って行ったと言う。もう少し行けば深みと言う辺りで立ち止まって、『おまえを失うくらいなら、俺は死ぬ!』と叫んだと明日香は黒田遥から聞かされたと言うのだ。
『安もんのラブ・ストーリーパクってんじゃ無いよ』と腹では思ったが、口には出さなかった。『気を引く為の芝居よね』と明日香が言った。今回の玲奈の自殺未遂の原因が又もや男の浮気であった事を考えると、そう言う臭い芝居が玲奈に届いてしまうという、ドラマとは違う現実が有ることを認めざるを得ない。玲奈の自殺未遂に付いても、|躊躇(ためら)いが有ったためかも知れないが、事前に黒田遥に電話している事を考えると、男に対するポーズ、アピール的な要素が無かったとは言い切れない。或る意味、|(だま)し合いながらもお互いを必要とする関係というのが有るのかも知れない。
「そもそも、玲奈が呼び出しに応じて出て行った時点で、そうなる事は決まっていた。後は、お互いの気持ちを納得させる為のお芝居ごっこさ」
 僕は、吐き出すように言ったかも知れない。
「…… 雄介君……」
 その時明日香は、僕の名前だけ読んだが、後の言葉は出さなかった。

 今まで生きてきた中で、最悪の気分で迎える年末となってしまい、実家に帰る気分にもならなかった。ただ、ひょっとして玲奈から連絡が来ないかと言う思いが有った。後から考えれば有り得ないことではあったのだが、僕がそう言う気持ちを未練がましく、まだ引きずっていたと言うことも確かだった。当然、玲奈から連絡は来なかった。

 広田和樹と言う男には本当に腹が立っていたが、かと言って、そいつに何か言える立場でもないと思った。『玲奈はお前でなく俺を愛していたんだ』なんて言えるか? 俺が憎んだとしても、玲奈は広田を憎んではいないのだ。広田とどんな結末を迎えるのかは分からないが、それが玲奈の望む方向であることは、残念ながら間違いない。僕は、第三者でしか無いと自覚した。

 ところが、そんな風には思わない奴が居たのだ。
 年が明け、アメリカへ出発の準備も忙しくなってきた或る日、僕は、部屋で、荷物の整理をしていた。渡航費用を貯める為に、僕が住んでいたのは、エアコンも無い、古いワンルームのアパートだった。PCを開くと、
『八王子で大学生が刺され重体』
と言う、トピックスの見出しが目に入った。『八王子』と言うワードが気になって開いた。
『警察の発表によると、今朝、十時過ぎ八王子市内のマンション前で、マンションから出て来た男性が男に背後から背中を刺された。刺された男性は、このマンションの住人で、八王子大学三年生の広田和樹さん二十一歳とみられている。近くの救急病院に運ばれたが、重態とのこと。
 犯人の男は、埼玉県に住む、自称会社員の河原崎光則、四十二歳と名乗っており、動機については八王子警察署が取り調べ中で、現時点では詳細は不明』とあった。
 調べなければならない事が有って、荷造り途中でPCを開いたのだが、僕は荷造りを放り出したまま何時間も、ただ窓の外に視線を向けていた。色々な事が頭を|(よぎ)ったが、意識にまで結び付かず、乾いた映像として繰り返し通り過ぎる。

『寒い! 』
 暖房をつけていない部屋の寒さを突然感じた。石油ストーブに点火する。油量計が赤くなっていて、残油量がほとんど無い。黒い油煙が上がり我慢出来なかった。ストーブを消して、|炬燵(こたつ)の電源コードを繋ぎ、潜り込む。体が温まってくると、思考も巡り始めた。特に大きな事件でも起きない限り一週間から二週間、この事件は繰り返し報道されるだろう。
 ワイドショーや週刊誌で、河原崎の過去や現在が、これでもかと言うほど暴き立てられるに違いない。生死の境を|彷徨(さまよ)っている被害者である広田については、最初はごく遠慮がちに、同情的に報じられるだろう。広田が助かるかどうかにも依るが、TVのワイドショーが飽きて来た頃になって『被害者の意外な行状』を週刊誌が報じ始める。
 例え、河原崎が、動機について黙秘を貫いたとしても(僕には、何故かそう思えた)、『A子さん』とか『Rさん』と言う表現で、玲奈の存在が、好奇の|(まと)になり始める。
 睡眠薬を飲んだ時点での玲奈は、無意識に助かりたいと思っていたはずだ。だから、親友である黒田遥にSOSを発した。何かに頼りたくて入った宗教も、多分何の役にも立たなかったのだろう。
 だが、河原崎の起こした事件によって、玲奈はもっと苦しいところに追い込まれてしまうだろう。家族のサポートで乗り切ってくれれば良い。或いは、黒田遥が手助けをしてくれるかも知れない。
 自分が何か出来ればとは思ったが、最早、何を出来る立場でも無かった。このまま玲奈とは、もう会うことは無いのかも知れないとも思った。ただ、結局僕には何も出来なくて、このまま一生会うことが無いとしても、僕は、日本に居ようと思った。
 頭では、玲奈との関わりは終わったと理解したはずだった。しかし、それに反し僕の中には、玲奈がいつか僕に連絡して来て、彼女のために何か出来る可能性はゼロでは無いと言う想いが有ったことも事実で、大した目的もないアメリカに行くよりここに居ようと決心するに至った。矛盾する二つの心理ではある。それは、僕の勝手な思い込みであり、現実には起こり得ない事ではあるのだが、僕はそう思うことで、心のバランスを取っていた。その後、広田和樹が一命を取り留めたとNEW-Sで知った。喧嘩別れした経緯は有るが、河原崎が殺人犯とならなかったことにはほっとする思いが有った。

 突然、明日香から電話が入った。事件を知って驚いたと言うことを暫く語った後、
「玲奈には、すごく好きだったお兄ちゃんが居たの」 
といきなり言った。
「十三のとき交通事故で死んじゃったんだけど、あいつ、刺された人のことだけど、そのお兄ちゃんに似てたんだって。それで、玲奈、好きんなちゃって。でも、ひどい。キャバ嬢と浮気してた。ひとりじゃなくて、二人も三人も。そんなら、自分がキャバやってやるって、なんだか分かんないけど、玲奈、そう思っちゃったらしいのよ」
 僕は、無言のまま明日香の話を聞いていた。いつもの明日香とは違う何かを、僕は感じていた。玲奈がキャバクラに勤めた理由が判明した訳だが、今更と言う感じで、誰に聞いた話かを確かめる気も起きなかった。興奮した明日香と冷めた僕がそこに居た。
 一つだけ思い当る事が有った。関連は分からないが、或いは、十三の時交通事故で死んだ兄。玲奈は僕についた嘘の中で、好きだったその兄と一緒に暮らすイメージを描いていたのかも知れない。兄夫婦の娘は、幼い頃の玲奈自身を投影したものだったのかも知れない。現実の苦しさと、|(ひと)り描く幻想。そんなものが玲奈の中に有り、玲奈はそれを僕に語っていたのだ。そう思った。

「どうして、気が付いてあげなかったの! あの子、|(ゆう)くんにSOS出してたはずだよ。まだ、あいつを好きだったからじゃなくて、悔しくて、自分を壊して、あいつに復讐したかったのよ。分かんない? ねえ。分かんないの?! それ、止めて欲しかったに決まってる、雄介君に……」
 明日香は興奮して、そんなことを言い始めた。明日香の態度に違和感を感じたのと、今更そんな事を言われてもなんの意味も無いだろうと言う気持ちも有った。
「分からない」
 僕は、明日香のテンションの高さに|面食(めんく)らい、無機質な声でそう言った。
「馬鹿……」
 明日香は泣いていた。どう言うことか分からなかったが、|(しず)めるには翔太に任せた方が良いだろうと思った。
「翔太は? 居るの、そこに」
と聞いた。
「居ない。出て行った」
『出て行った』と言う言い方が引っかかった。
「何で! どういう事?」
と問い詰めた。
「あいつも浮気した。…… 多分わざと……」
 明日香の言っている意味が良く分からなかった。
「何それ? 明日香ちゃんがあいつの浮気を疑って、それで喧嘩になって翔太が出て行ったってこと? 分かった。俺、電話してみるから、|(まか)しといて」
 事態を了解したつもりの僕は、なんとか二人の力になろうと思って言った。
「違う。あいつ、すっごくいい奴だから。私がそんなの許さないって知ってて…… わざと……。雄介みたいなカンニブじゃないんだよ、翔太は」
 明日香が何を言っているのか、僕にはまるで分からなくなった。明日香を落ち着かせて納得させた上で電話を切り、翔太に架けて聞く方が早いと思った。しかし、その時明日香は、簡単に電話を切らせてはくれなかった。

 後になってから、明日香が本当は僕のことをずっと好きだったことを知った。それを察した翔太がわざと浮気をして、明日香の前から去ったことを知った。
 翔太に比べて、自分の人間としての小ささ、自分のことしか考えてない身勝手さを突き付けられた想いに押し潰されそうになった。翔太は消え、連絡も付かなくなった。意識すると、逆に明日香とも疎遠になってしまい、しばらく連絡が途絶えた。

 それから色々有った。本当に色々有ったんだ。でも、それに付いては又の機会でのこととして、今回は、僕が玲奈に片想いをしていた話。そして、親友だった翔太の、僕には理解出来なかった行動に付いての話だった。玲奈に付いては忘れた。

 僕は今、三十一歳になる。今日は十一月の穏やかな休日。二歳になる息子を膝の上であやしながら、妻の明日香がベランダで洗濯物を干しているのを、僕は穏やかな気持ちでただ眺めている。明日香に不満は無い。僕達は上手くやっている。ただ、翔太に付いて二人で話した事は無い。

A side street

A side street

大学生の雄介と玲奈は、コールセンターでアルバイトをしている。 組んだ足でリズムを取りながら音楽を聞いている玲奈の姿を見詰めながら、雄介は、飲み会のとき、酔っ払って身体をもたせかけて来た、玲奈の肩の感触を思い出していた。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-27

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