ナポレオン以来の戦術巧者と言われ、又の名「砂漠のキツネ」ロンメルの記事と、文豪作品でお終い。

ナポレオン以来の戦術巧者と言われ、又の名「砂漠のキツネ」ロンメルの記事と、文豪作品でお終い。


 <span style="font-size:1.96em;">Ĝi finiĝas per artikolo pri Rommel, kiu laŭdire estas la plej lerta taktikisto ekde Napoleono, ankaŭ konata kiel la "Vulpo de la Dezerto", kaj verkoj de grandaj verkistoj.
ナポレオン以来の戦術巧者と言われ、又の名「砂漠のキツネ」ロンメルの記事と、文豪作品でお終い。

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大阪市を中心とした関西・南港周辺は阪神震災以来の大災害が予測される地域なので、まだ少し先の災いだが・・一年半後から二年後以降の東京・関東に端を発する震災・経済恐慌と重なるとすれば、大きな懸念材料と言わざるを得ないだろう。


 エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル[# 1](ドイツ語: Erwin Johannes Eugen Rommel De-Erwin Rommel-pronunciation.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]、1891年11月15日 - 1944年10月14日)は、ドイツの軍人。最終階級は陸軍元帥。

第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。広大な砂漠に展開された北アフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめ、アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名もあり一般的には名将として知られる[1]。

貴族(ユンカー)出身ではない、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。数々の武功・戦功だけでなく、騎士道精神を守った軍人として尊敬を集めた。
 エルヴィン・ロンメルは、1891年11月15日の日曜日の正午、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ(ドイツ語版)において生まれた[3][4][5][6]。この町はウルム郊外の町である[4][6][7]。

父エルヴィンは、ハイデンハイムの実科ギムナジウム(Realgymnasium)の数学教師であり(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)[4][6][8]。また、祖父も教師だった[6][9]。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり[4][6]、地元ハイデンハイムでは、かなり尊敬されていた人物であった[10]。
母ヘレーネは、ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である[4][8][9][10]。
父母ともにプロテスタントだった[11]。
兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた[4][8][10][12]。兄のマンフレートは幼いころに死去した[4][8][10]。
父が若いころに砲兵隊にいたことを除いて、ロンメル家は軍隊とほとんど関係しておらず、軍部への有力な縁故もなかった[13]。また、教養市民階級出身という彼の出自は、貴族主義的なドイツ陸軍において、決して有利であったとはいえない[14]。
 第一次世界大戦で敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結されたヴェルサイユ条約によって天文学的賠償金が課せられた。また国境付近のドイツ領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツ領土は大きく縮小した。軍については陸軍兵力を小国並みの10万人(将校4000人)に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有を全て禁止された[92][93][94]。
 だが、第二次世界大戦は起きた。
 1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって第二次世界大戦が開戦した。
 1940年2月15日にロンメルは新編成された第7装甲師団の師団長に任命されることとなった[136][137]。ちなみにフランス戦においてはドイツ軍136個師団のうち装甲師団は10個師団しかなく[153]、そのうちの一つである第7装甲師団が有する戦車の数は225両だった[154][# 3]。I号戦車(機関銃のみ)34両、II号戦車(2センチ砲)68両、III号指揮戦車(火砲の代わりに指揮用の大型無線機が付いた車両)8両、IV号戦車(短砲身7.5センチ砲)24両、ドイツがチェコを併合した後に獲得したチェコスロバキア製の38(t)戦車(3.7センチ砲)91両である[156][157][要文献特定詳細情報]。師団の多数を占める38(t)戦車は装甲が薄いが、重量は9トン足らずであったので速度が速く、対フランス戦のような機動戦に非常に向いていた[158][159]。普通のドイツ軍装甲師団は2個装甲連隊と2個狙撃兵連隊で編成されたが、第7装甲師団は、狙撃兵連隊は通常通り2個連隊あったが、装甲連隊は第25機甲連隊が1個だけで(この装甲連隊は2個装甲大隊で編成された)、他に装甲連隊に属さない1個装甲大隊があるだけだった[154][155]。

積極的な歩兵攻撃論者だったロンメルだったが、彼は驚くべき早さで戦車の運用知識を身に付けてゆき[155][158]、2月27日にベルリンへ飛び、ヒトラーに師団長就任の報告をした。ヒトラーより「楽しい思い出と共にロンメル将軍に贈る」と書き添えた『我が闘争』を贈られた[159][160]。

参謀本部はヒトラーにフランス侵攻作戦案を提出したが、一次大戦のシュリーフェン・プランと大差ないことからヒトラーが却下し、紆余曲折の末、A軍集団参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将の立案による「マンシュタイン・プラン」が採択された[161]。これは装甲師団を中央のA軍集団に集中させ、ベルギー南部のアルデンヌの森(この森は道がないため、戦車の機動は困難と考えられており、フランス軍はここを手薄にして「アルデンヌの間隙」を作っていた)を突破し、英仏海峡まで一気に進軍させ、ベルギー・北フランスに展開する連合国主力を孤立させるというものだった[153][162][163]。

ロンメルの第7装甲師団は、A軍集団(司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)隷下の第4軍(司令官ギュンター・フォン・クルーゲ上級大将)隷下の第15装甲軍団(軍団長ヘルマン・ホト大将)の隷下となった。同じ第15装甲軍団隷下に第5装甲師団があった[158][164][165]。

第7装甲師団の任務は先頭に立ってアルデンヌの森を通過し、エヴァルト・フォン・クライスト大将率いる「クライスト装甲集団」(5個装甲師団から成る)を北の連合国主力の攻撃から守り、英仏海峡までの西進を邪魔されないようにすることにあった[164][165]。しかしロンメルは自分の師団も英仏海峡まで一気に進軍させようと思っていた[165]。

西方電撃戦
1940年5月9日午後1時45分にフランス侵攻作戦「黄色作戦(Fall Gelb)[166]」の暗号「ドルトムント」がロンメルに伝達された[158][164]。これを受けてロンメルの第7装甲師団は同日午後11時40分に所定の位置に付いた[167]。

戦局はドイツ軍に不利と思われた。ドイツ軍の戦車は2800両だったが、対する連合軍の戦車は4000両だった。戦車の装甲や火力も連合軍が勝っていた。ただ戦車の速度においてのみドイツ軍が勝っていた[153]。そして西方電撃戦では速さが一番重要だった。ロンメルの第7装甲師団は特に素早く進軍し、しばしば師団の主力が師団の先頭に置き去りにされた。ロンメルの搭乗する戦車は常に師団の先頭に立って前進した[168]。通常交戦が始まると身を隠すためや敵の規模・装備を確認するためにその場に停止するが、ロンメルは交戦中も常に前進を命じた。それによって敵に第7装甲師団がどこにいるのか分からなくし、敵に自ら拠点を放棄させることに繋げようとした[169]。

ドイツ本国ではロンメルの師団は「全ドイツ軍師団のうち、最も西にいる師団」として評判だった[170]。必要とあれば航空機に乗って後続の砲兵部隊や自動車化歩兵部隊の下に駆けつけて指示を与えたり、叱咤激励をした[165]。部下の将兵たちの間で「不死身のロンメル」伝説が広まり、絶大な信頼を寄せられた[165]。

第7装甲師団は、この戦争において主要な役割を割り当てられていたわけではない[165]。しかしその進軍スピードの速さから連合国は「いつの間にか防衛線をすり抜けている」という意味で「幽霊師団(英:Ghost Division、仏:Division Fantôme、独:Gespensterdivision)」と呼んで恐れた[170][171]。

アルデンヌの森通過
1940年5月10日午前4時35分にロンメルの第7装甲師団は国境を超えてベルギー領へ侵攻を開始した[172]。

第7装甲師団の進路にベルギー軍が配置していたのは障害物(バリケードと橋の爆破)と軽装備のアルデンヌ猟兵第3連隊だけだった[172]。第7装甲師団はこれらを排除しつつ急ピッチで前進した。

ドイツ軍第7装甲師団がアルデンヌの森を通過しようとしていることを察知したフランス軍は第1・第4軽騎兵師団を差し向けたが(この両軽騎兵師団は騎兵旅団と機甲旅団で編成されていた)、第7装甲師団の奇襲を受けるとすぐに西に撤収していった[173]。

ムーズ川渡河

2004年のディナン。
5月10日から5月12日の3日間で第7装甲師団はアルデンヌの森を横断し、5月12日の夜遅くに一次大戦の頃にも悩まされた天然の要塞ムーズ川に面した町ディナンに到達した[168]。ロンメルはできれば撤退するフランス軍第1・第4軽騎兵師団の後に続いて一気に橋を渡りたかったが、ちょうど第7装甲師団が川に到着した頃にディナンにかかっていた橋が爆破されたため、ゴムボートと舟橋を使っての渡河作戦を実施せざるを得なくなった[174]。

ロンメルはまだ暗いうちに第7装甲師団の歩兵をゴムボートで西岸に渡し、明け方までに1個中隊ほどの歩兵を西岸に渡した。工兵たちに戦車を渡らせるための舟橋の建設を急がせた[175]。しかしやがてフランス軍に発見され、西岸の切立った堤防上のフランス軍陣地から激しい銃撃と砲撃に晒され、渡河作戦は停滞した[168][175][176]。ロンメルは河川にある民家に火を放って川に煙幕を張り[168][176]、また戦車や対戦車砲に西岸のフランス軍陣地があると思わしき場所に向けて絨毯砲撃を加えるよう命じた。その砲撃支援の下にディナンとその少し北方のレフェ(フランス語版)で渡河作戦を再開させた[175][177]。ロンメルは工兵たちに叱咤激励しながら自らも川の中に飛び込んで角材やロープを運んで舟橋建設を手伝った[137][178]。架橋材料を使い果たすとロンメルは同じ第15装甲軍団に属する第5装甲師団から資材を盗んでいる。第5装甲師団長はロンメルに返却を求めたが、ロンメルは「我々が最初に渡河するのだ」と言って聞かなかったという[165][179]

第7装甲師団は多くの死傷者を出しながらも5月13日中にはレフェに架橋することに成功し、戦車のムーズ川渡河を成功させた[180][181]。

オナイユで負傷
5月14日早朝、すでに渡河していた30両の戦車だけでディナンの西約5キロのオナイユ(フランス語版)へ進撃を開始した[182]。これによりフランス軍が対応を決定するより早く部隊を浸透させることに成功した[165]。

ところがオナイユ近くでロンメルの搭乗するIII号指揮戦車が対戦車砲を食らって坂から転がり落ちた。ロンメルは何とか脱出したが、顔を負傷した[180][183][184]。フランス植民地から連れてこられた有色人兵士たちが、ロンメルを捕虜にしようと接近してきたが、隷下のカール・ローテンブルク(英語版)大佐率いる第25装甲連隊がこれを蹴散らしてロンメルを救出した[180]。ロンメルは自分の戦車がやられたのは移動しながら攻撃をしなかったためだと考え、改めて師団の各戦車に「敵と遭遇しても停止せずに砲弾を撃ちながら強行突破せよ」と命じた[184]。転倒したIII号指揮戦車は動かなくなったため、ロンメルはローテンブルク大佐の搭乗するIV号戦車に同乗するようになった[185]。

フランス軍第9軍(フランス語版)司令官アンドレ・ジョルジュ・コラー中将はロンメルの第7装甲師団のこのオナイユへの進軍とハインツ・グデーリアンの装甲軍団のスダンでの渡河成功を恐れ、ムーズ川の防衛線を放棄してさらに西へ退却する事を命じた[186]。

停止命令を無視して進軍
ロンメルの師団はフラヴィオン(フランス語版)で重戦車ルノーB1の燃料切れで停止していたフランス軍第1機甲師団と戦闘した後、ここを後続の第5装甲師団に任せて、フィリップヴィルへ進撃した[168][187]。

しかし5月16日にA軍集団司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将は先頭に立って進軍する装甲師団が突出しすぎていると判断して装甲師団に進軍停止を命じた。ヒトラーもそれに同意し、5月17日の総統命令で装甲師団の進軍停止を命じた。しかしロンメルはそれでは心理戦である電撃戦の効果が薄れると考え、ヒトラーやルントシュテットの命令を無視して進軍を続けた[188]。命令無視は本来は軍法会議にかけられるべきであるが、ヒトラーはロンメルを目覚ましい活躍をした装甲師団長として英雄化することを考えていたのでロンメルがこの命令無視によって何か処分を受けることはなかった[171]。

ロンメルはクルト・ヘッセ大佐に「この戦争では指揮官の位置は第一線だ。私は椅子に腰かけている連中が出す戦略など信じない。今はザイトリッツやツィーテンの時代と同じだ。我々は戦車をかつての騎兵とおなじように考えねばならない。かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、今は移動する戦車の上で命令を下さねばならない。」と語っている[189]。

マジノ線延長部分突破

点線の部分がマジノ線延長部分
ロンメルの師団は5月16日午後6時頃にベルギーとフランスの国境を超えて、フランス領へ突入した[190]。

その30分後、フランスの国境要塞地帯マジノ線延長部分と遭遇した[191]。これはマジノ線そのものではなく、フランスが防衛線を西方にも延長しようとしてマジノ線から分離して作った物である[192]。ただロンメルを含めてドイツ軍側は区別せず、まとめて「マジノ線」と呼んでいた[192]。マジノ線延長部分はマジノ線と比べれば貧弱な防衛線であった。それでも頑強なトーチカと砲台と有刺鉄線と地雷原で固められていた[190]。

ロンメルは砲兵に激しい砲火を撃たせてマジノ線延長部分の各所に煙幕を張り、フランス軍を攪乱している間に工兵の火炎放射器や爆薬でトーチカを破壊していった。火に照らされる明るい隙間となったその部分に戦車が砲撃しながら前進して強引に突破した[193][194]。ソール・ル・シャトー(フランス語版)、サール・ポトリ(フランス語版)、スムージー(フランス語版)を一気に通過してマジノ線延長部分を突破した[193]。

マジノ線延長部分がロンメルの師団の攻撃で受けた損害は微々たるものだったが、凄まじい勢いで進軍するロンメルの師団にフランス軍はパニックを起こして、戦わずして次々と投降した[195]。マジノ線延長部分の突破で第7装甲師団が被った損害は戦死者35名、負傷者59名だけだった。戦果はフランス兵捕虜約1万人、戦車約100両、装甲車30両、大砲20門の鹵獲であった[196]。

進軍の一時停止
ロンメルの師団は5月17日午前0時にアヴェーヌに到着、ついで午前6時にはサンブル川沿いのランドルシー(フランス語版)に到着、さらに午前6時30分にはル・カトー東部の高地へ進軍した[191]。途中避難民と西へ撤退するフランス兵で道が大混雑していた[197]。フランス兵の大半はロンメルの師団が横を通過しても抵抗することはなく、おとなしく捕虜となった[198]。ロンメルは捕虜にしたフランス兵に対しては武装解除だけして自分で東の捕虜収容所に向かうよう指示した[198]。

進軍中ロンメルは、第7装甲師団の全部隊が後ろから続いていると思っていたが[197]、ロンメルはじめ師団の先鋒がル・カトー東部の高地に到着した時、師団の主力はまだベルギーにいた[199][200]。師団主力はロンメル初め師団先頭部隊と連絡が取れなくなっており、師団参謀オットー・ハイドケンパー少佐がロンメル少将もローテンブルク大佐も戦死したとみなしたためだった。ロンメルは後に手紙の中で「私はできる限り早く奴を追い出してやる。この若い少佐参謀は第一線から32キロも後方にいながら自分と参謀本部要員が危険な目に合うのではと恐れていた」と激怒している[199]。ロンメルの手元にいたのは二個装甲大隊とオートバイ狙撃兵数個小隊だけだった[200][201]。これらの部隊はすでに弾薬や燃料を使い果たしていた[200]。軍司令部から「アヴェーヌで進軍を停止せよ」との命令が届いたこともあり(すでにアヴェーヌを超えてル・カトー東部にいたが)、ロンメルはやむなくル・カトー東部でしばらく停止することにした[200][201][202][203]。

ル・カトーのフランス軍から攻撃を受けたが、ローテンブルク大佐に防衛を任せて、ロンメルは装甲車に搭乗して後続の部隊を誘導するために一度アヴェーヌまで戻った[201][204]。午後4時頃にアヴェーヌで第7装甲師団の主力と合流し、さらにフランス軍から40両のトラックを鹵獲した[196][205]。

翌5月18日昼に前線のローテンブルク大佐たちと合流した[206]。補給と修理を済ませて午後3時に進軍が再開された[171][206][207]。抵抗を受けることなくカンブレーを占領したが、ここで再び進軍停止を命じられた。西方へ向けて進撃するハインツ・グデーリアンとゲオルク=ハンス・ラインハルトの装甲軍団の側面を歩兵部隊の到着まで右翼のホト第15装甲軍団(ロンメルの師団はこの隷下)がベルギー・北フランスの連合国主力の攻撃から守ることになったのである[208]。ロンメルの師団はこの時間を補給と兵の休息に利用した[208]。

アラスの戦い
詳細は「アラスの戦い (1940年)」を参照
ヒトラーは5月19日に進軍停止命令を解除し、グデーリアンとラインハルトの装甲軍団以外の装甲部隊も西方進撃を再開することになった[171]。

第7装甲師団は5月20日にアラスへの攻撃を開始した[209]。しかし先陣の装甲部隊と後続の歩兵部隊の間にフランス軍が介入したため、まずその対処にあたらねばならなかった[209]。同日にグデーリアンの装甲軍団が英仏海峡に面するアブヴィルに到達し、ベルギー・北フランスにいる連合国主力を孤立させることに成功した[210]。イギリス海外派遣軍司令官第6代ゴート子爵ジョン・ヴェレカー大将はこの封鎖の突破を図るため、5月21日午後にロンメルの師団や武装親衛隊の髑髏師団が展開するアラス方面に攻勢をかけさせた[210][211]。

この時、第7装甲師団は髑髏師団と共にアラス南西を北へ旋回して進軍していたところだったため、イギリス軍に右側面をつかれる形となった[210]。イギリス軍の戦力の中で最も厄介だったのはマチルダII歩兵戦車だった。マチルダの重装甲はロンメルの師団の3.7センチ対戦車砲をことごとく弾き返し、砲兵の砲弾さえもはね返した[212][213][214]。師団は88ミリ高射砲を対戦車砲として使用することでマチルダに対抗した[214][215][216]。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機シュトゥーカによる攻撃を受けてイギリス軍はようやく攻勢を諦めて撤退した[215]。

しかしこの戦いで師団はかなりの損害を受けた。戦死と捕虜で250名を失い[217]、ロンメルの副官モスト中尉もこの戦いで戦死した[212][218]。IV号戦車3両、38(t)戦車6両[# 4]、軽戦車多数を失った[215][219]。

ダンケルク包囲

1940年5月。部下たちと共に地図を見る第7装甲師団長ロンメル少将。
5月22日と5月23日にアラス西郊を迂回してベテューヌまで前進し、同地のイギリス軍をその先にある運河線の向こうまで後退させた[220]。

しかしながらこの直後の5月23日に第4軍司令官クルーゲより全装甲師団に対して歩兵師団が追いつくまで進軍を停止するよう命令があった。ヒトラーもこの判断を妥当として、5月24日に全装甲師団に対してダンケルクへの進軍停止命令を下した[221]。北部で孤立している連合国への攻撃はドイツ空軍の爆撃によって行うこととなった[222]。

これはすでにベルギー・北フランスの連合国主力に対する包囲は完成していたので、来る南フランスへの進撃に備えて装甲師団を温存した方がいいという判断であったと思われる[219]。またドイツ空軍司令官ヘルマン・ゲーリングに花を持たせる判断もあったかもしれない[223]。さらにアラスの戦いがクルーゲやクライストに深い衝撃を与え、彼らを慎重にさせており、その意見を容れたルントシュテットがヒトラーに進言した結果でもあると思われる[213]。その意味においてはロンメルにも責任があった。ロンメルは自分の戦功を大きく見せかけるためか、アラスの戦いのイギリス軍の戦力を実際の2倍以上の「5個師団・戦車100両」などと報告しているからである[221]。

いずれにしてもこの装甲師団停止命令によってロンメルの師団は5月26日まで停止してダンケルクの包囲の一翼を担った。しかしこの装甲師団の停止命令によって、5月26日から6月3日にかけて英仏軍30万人以上にダンケルクから大ブリテン島・ドーヴァーへの撤退(ダンケルクの撤退)を許した[213][224]。5月24日からの2日間で英仏軍はダンケルクを防衛する配備を整え、5月26日の段階ではすでにダンケルクの撤退を阻止することは不可能となっていたのである[213]。

ロンメルはこの停止期間中、師団の受けた損害の回復や補給にあたった[220][225]。5月26日にヒトラーの意向でロンメルは騎士鉄十字章を受章した[219]。ロンメルは対フランス戦で最初に騎士鉄十字章を授与された師団長となった[226]。

また同日ヒトラーが進軍停止命令を解除した[219][226]。連合国主力の包囲の一翼を担うため第7装甲師団はリールへ向けて北進するよう命じられた[227]。進軍停止命令が解除されると第7装甲師団はキャンシー(フランス語版)から運河を渡河し、激しい抵抗を退けながらリールとその西方エンヌティエール(フランス語版)間の道路を抑えることに成功した[228]。これにより海の方へ向かう退路を断ち、フランス第一軍の半分近くの将兵を補足することに寄与した[229][230][231]。その後歩兵師団が到着し、リールを占領した[229]。
 
 6月4日にダンケルクの撤退が完了し、ベルギー・北フランスの英仏軍は消えたのでドイツ軍にとって後は南へ向けて進軍するのみとなった[231]。
 セーヌ川まで南進

草原に座り込んで即席の会議を行う第7装甲師団長ロンメル少将。左から二人目が第7装甲師団の主力である第25装甲連隊の隊長カール・ローテンブルク大佐。
6月5日朝に敵が爆破し損ねた橋を渡ってソンム川を渡河した[232][236]。川の渡河を妨害する敵砲兵隊の陣地を慎重に落としていき、同地に配備されていた大量のフランス植民地兵を捕虜にした[232]。

ソンム川を突破した後、ロンメルは彼が「フレーヒェンマルシュ(広域進撃)」と名付けた陣形で前進した。これは全師団を幅1.5キロ、長さ20キロに及ぶ箱形陣形にし、正面と両脇に装甲大隊を置き、後方に装甲大隊と偵察大隊を置き、中央には歩兵連隊を置くという陣形である[232][237]。この陣形は外側にいる装甲大隊がいつでも全兵種の支援を受けられるため攻撃を受けた時に反撃しやすい利点があった[238]。欠点は進軍スピードが落ちることだが、ソンム川南方・西方のようにゆるやかな起伏が続く平坦な地形においてはそちらの方が有効であった[232][239]。

ロンメルの師団は順調に快進撃を続け、6月7日には48キロ以上進軍し、アミアンから海岸に至る地域を防衛していたフランス第10軍を分断した[240]。6月8日にはさらに72キロも進撃した[241]。

この頃には連合軍は至るところで崩壊していた[236]。ロンメルの師団も、大ブリテン島へ逃げ帰るために英仏海峡の方へ逃れようとするイギリス軍としばしば遭遇したが、すでに彼らの指揮系統は崩壊状態であったので大した戦闘にもならなかった[242]。テュロワで捕虜にしたイギリス軍のトラックからはテニスのラケットやゴルフクラブまで出てきたのでロンメルは「イギリス軍はこの戦争がまさかこんな結果になるとは思ってもいなかったのだな」と言って笑ったという[243]。

6月8日真夜中にルーアン南方のセーヌ川に到達した[243][244]。セーヌ川への到達は全ドイツ軍でロンメルの師団が一番乗りだった[243]。エルブフ(フランス語版)の橋から一気にセーヌ川を渡河しようとしたが、フランス軍がひと足早くセーヌ川にかかる全ての橋を爆破したために失敗した。ロンメルの師団は突出しすぎており、背後にはまだ敵が残っている都市がたくさんあった。またルーアン上空に観測用気球があげられたため、ロンメルの師団はエルブフ付近の川がくねって半島のようになっている地域から一時撤退することにした[243][245]。

英仏海峡沿岸での戦い
セーヌ川渡河に失敗した直後、ロンメルの師団は国防軍最高司令部より英仏海峡に面する港町サン・バレリー(フランス語版)を占領してイギリス軍第51歩兵師団「ハイランド」(英語版)が大ブリテン島に撤収するのを阻止する任務を与えられた[224]。

進路を変えて北上し、イヴト(フランス語版)を通過して6月10日には英仏海峡に到達した。ロンメルの師団が英仏海峡に到達したのはこれが初めてだったので兵士たちは感動した様子で海水に足をいれて歩き回って楽しんだ。ローテンブルク大佐は搭乗する戦車を海水に乗り入れたという。ロンメルも軍靴を海岸の海水に付けてしばし余韻に浸った[245]。

6月11日にサン・バレリーに接近して同市を包囲した。同市では英仏軍が大ブリテン島へ撤収するための船舶を待っていた。ロンメルは無駄な流血を避けるため、ドイツ語を話せる捕虜を使者に立てて同市の守備隊に21時までに降伏すべきことを勧告した[246][247][248]。守備隊のうちフランス軍将校は降伏したがっていたが、イギリス軍将校は降伏に反対する者が多く、結局この勧告を拒否することになった[246]。やむなくロンメルは21時から同市の北部や港に集中砲火を浴びせた[238][248]。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機が激しい爆撃を行った[246]。

英仏兵は次々と投降し、ついに英軍将校たちも抵抗を諦めた。ロンメルの師団は将官12人と1万2000人(他の師団の捕虜も含めるとサン・バレリーの捕虜数は4万6000人)の捕虜を獲得した[242][249][250]。その中にはイギリス軍ハイランド師団長ヴィクター・フォーチューン(英語版)少将とフランス軍の軍団長と3個師団の師団長たちが含まれていた[250][251]。フォーチューン少将はロンメルのような若造に捕虜にされてしまったことに屈辱を感じていたようで露骨に態度でそれを示した[246]。フランス軍の将軍たちはもう少し好意的だった。彼らはロンメルに「お若いの、君はあまりに速すぎました」「私たちは貴方たちの事を幽霊師団と呼んでいたんですよ」などと声をかけたという[252]。

ロンメルの師団は英仏海峡沿いにさらに西進して6月14日にはル・アーブルを占領した。同市のフランス軍はすぐにも降伏している[242]。ちなみに同日には「無防備都市宣言」をしていたパリがドイツ軍第218歩兵師団によって無血占領されている[242][253]。

シェルブールへ進撃
ヒトラーからシェルブール占領の命令を受けたロンメルの師団は6月16日にルーアンにドイツ軍が架橋した橋を通過してセーヌ川を超えて進軍を開始した[252]。一方同日にフランス大統領アルベール・ルブランはフィリップ・ペタン元帥をフランス首相に任命し、ペタンは中立国スペインを通じてヒトラーに休戦要請を行っている[254][255]。

これを聞いたロンメルはフランス軍の戦意はもはやガタ落ちであろうからほとんど抵抗もあるまいと考え、「フレーヒェンマルシュ」陣形を解除して再び全速力で進軍できる縦列の陣形に戻した[255]。予想通り、抵抗はほとんどなかったため、ロンメルの師団は6月16日には160キロ、6月17日には320キロ以上も駆け抜けた[252][256]。戦車がこれだけの走行に耐えたことが不思議なぐらいの前代未聞の大進軍であった[252]。

フレール(フランス語版)、クータンスを経て、そこから北上して6月17日真夜中にはラ・アイユ=デュ=ピュイ(フランス語版)に到着[257]。しかしそこからシェルブールへ向かおうとした時に道路要塞から激しい砲火を浴びた[257]。長距離の進軍に師団は疲れ切っていたので、ロンメルは砲兵や戦車の支援も無しに夜間に無理な進軍を行うのは止めた方がいいと判断し、ラ・アイユ=デュ=ピュイへ後退した[258]。6月18日朝から要塞への攻撃を開始し、午前8時頃には早々に敵を後退させてシェルブールへの進撃を再開した[259][260]。

6月18日午後1時頃にはシェルブール南西4.8キロほどのところのシェルブールを防衛する道路要塞から激しい砲撃を受けたが、午後5時頃にはシェルブール西のケルクヴィル(フランス語版)南部の高地を占領し、歩兵連隊と二個装甲中隊がシェルブール郊外に突入した[260]。その日の夜のうちに師団の砲兵連隊が到着したので、翌6月19日朝にシェルブール要塞や海軍ドックに砲撃を加え、要塞の中で最も厄介だった中央要塞を沈黙させた[261]。歩兵部隊は更に郊外深くに侵入した[260]。

激しい砲撃に耐えかねたシェルブールのフランス軍はついに午後5時に降伏した[262][263][264]。シェルブールの3万のフランス将兵を捕虜にした[263][264]。シェルブール戦終了を以って西方電撃戦におけるロンメルの師団の戦闘は終わった。

フランス降伏
ヒトラーは一次大戦におけるドイツの雪辱を果たすため、独仏の休戦交渉の場を、一次大戦でドイツが屈辱的な休戦協定に調印させられた場所であるコンピエーニュの森の列車(この列車はフランスの一次大戦戦勝記念としてパリに飾られていた。ドイツ軍パリ占領後にドイツに鹵獲された)の中とした。6月21日からここで独仏の休戦交渉が開始された。ドイツ側の過酷な要求にフランス側が調印を渋り、その日はまとまらなかったが、翌6月22日にドイツ側から「調印しないならば戦争続行」と脅迫されたため、フランス側はついに要求を受諾して独仏休戦協定を締結した[265]。

しかし休戦協定調印の前後、ロンメルの師団はどんどん南進していた。6月21日にはレンヌを通過し、6月25日にはボルドーを占領した。更に師団の先遣隊はスペイン国境付近まで進んだ。とはいってもこの進軍に戦闘は発生しなかった。単に占領の既成事実化を図るための進軍であった[266]。

ロンメルの師団の戦果と損害、またその評価

1940年6月、ドイツ軍占領下フランス・パリで行われた戦勝パレードに出席したロンメル少将。
西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団の戦果は、捕虜9万7000人の他、鹵獲兵器として戦車・装甲車458両、各種砲277門、対戦車砲64門、トラック4000両から5000両、乗用車1500両から2000両、馬車1500両から2000両、バス300両から400両、オートバイ300台から400台がある[267]。また敵航空機を52機撃墜し、うち12機を地上で鹵獲している[268]。師団の進軍スピードが速すぎたため、正確に数えられていないが、鹵獲兵器についてはこの数字よりもっと多かったといわれる[268]。

一方で西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団が出した損害は、628名の戦死、296名の行方不明、戦車42両の喪失であった[256]。

第7機甲師団の人的損害は他の師団より多い。ドイツ軍は西方電撃戦で4万9000人の戦死者・行方不明者を出しており、これを単純にドイツ軍135師団で割ると1個師団の平均の戦死者・行方不明者は363人になるが[269]、ロンメルの師団は戦死・行方不明者が924人も出ている。ただしこれについてはロンメルの師団は常に電撃戦の先陣を切って戦っていたことを考慮せねばならない[256]。戦果と比較すれば損害は少なかったといえる[268][269]。

ロンメルの評価は賛否両論だった。概してナチ党政権からの評価は高かったが、軍部からの評価は低かった[270][271]。

西方電撃戦中、ロンメルは何度も命令を無視して独断行動を取った。それらはすべて成功したとはいえ、上官たちからは当然不興を買っていた[270]。参謀本部総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを「命令無視ばかりの気が狂った将軍」と酷評した[270]。ロンメルの上官である第15軍団長ヘルマン・ホト大将はロンメルについて「機甲師団に新たな道を開いた。特に前線に立とうという意欲とテンポの速い戦闘でも決定的なポイントを察知する彼の天性の素質は称賛に値する」と評価。

フランス戦後、しばしの平穏
1940年夏を通じてロンメルの師団は来る(と思われていた)イギリス本土上陸作戦に備えた訓練にあたっていた[274]。とはいえ英本土上陸にはまずドイツ空軍が英本土の制空権を握る必要があり、陸軍はそれまでは出番無しなので比較的のんびり過ごすことになった。ロンメルは勤務時間外には狩猟をしたり、戦後に出版しようと考えていた第7装甲師団の戦史書の草稿の執筆にあたっていた[275]。

またこの頃、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスから映画『西方における勝利』の撮影に協力してほしいと要請された。ロンメルは承諾して1940年8月中に数日を費やしてこの撮影に参加した[276]。その際にロンメルは事実上の映画監督となり、部下やフランス植民地黒人兵たち(捕虜収容所から連れて来られた)に演技指導をしていた。ずいぶん楽しかったらしく、こだわりの演技指導をしていた。ロンメルの戦車部隊が敵陣に突入するシーンの撮影で、ロンメルは黒人たちに両手をあげて怯えた表情で戦車に向かってくるよう指示したが、黒人たちはオーバーな演技をして白目をむいて悲鳴をあげた。これに不満を感じたロンメルはカメラを止めさせ、通訳を通して黒人たちに「感情を表現するにはもっと微妙な表現方法を取らなければならない」などと説教していたという[274]。

1941年1月1日には中将に昇進した[22][277]。さらに2月には映画『西方における勝利』が公開された[277][278]。この映画の公開によりロンメルは銀幕のスターになった[270]。

北アフリカ戦線
ドイツアフリカ軍団長に就任
「北アフリカ戦線」も参照

1942年春のロンメル上級大将
1941年2月にロンメルはドイツアフリカ軍団の軍団長となり、以降1943年3月まで北アフリカで戦い続けることになる。北アフリカにおける砂漠戦は厳しい環境の中で行われた。

まず北アフリカの気候は温暖な気候に慣れているヨーロッパ人には極めて過酷である。日中は酷暑であり、夜は厳寒である(真夏の日中には気温が60度近くになるが[279]、逆に夜は零度近くにまで気温が下がる[280])。しかも夏だけ長く、他の季節は短い[280]。長期に干ばつが続くかと思えば、突然に豪雨が来る[279]。脱水症状、熱中症、赤痢、皮膚病などになる者が多く、また砂塵で眼病になる者も多い(防護眼鏡を付けていても小さい粒子が入り込んでくる)[281]。加えて砂は兵器類や通信機器類の機能低下や故障も招く。砂嵐の場合はより地獄である。砂嵐にはジャミングに似た効果があり、通信機能がマヒする[280]。

砂漠には遮蔽物がほとんどないので見晴らしがよい。すなわち遠方からでもすぐに敵に発見されるので遠距離の戦闘になる事が多く、射程が極めて重要な要素である[282]。したがって歩兵は力を発揮しにくく、戦車が砂漠戦の主兵器である[283]。また自然障害物がほとんどないので大量の地雷と障害物資材が必要となる[279]。また目印になる物が無いために部隊移動の際に方向維持が難しく、しばしば推測航法に頼らねばならなかった[279]。

砂漠戦において補給・兵站は非常に重要である。特に水の補給は最優先課題であり、オアシスの争奪戦によって命運が決することもある[279]。広大な砂漠を戦車が走り回るために燃料の補給も重要である。兵站拠点となる場所が少ない砂漠戦は海上戦と似ており、兵站拠点をひとつ取られただけで広範な地域に穴があき、一気に後退しなければならなくなる[284]。砂漠戦では補給がままならないので敵からの鹵獲兵器が重要である。1942年6月にロンメルは「我が軍の非常に多くの車両が英軍からの鹵獲品である。すでに遠くからは英軍と見分けがつかなくなってしまった」と書いている[285]。ロンメルと彼の幕僚も北アフリカ戦において英軍のドチェスター装甲車に搭乗して指揮を執っていた[285]。もちろん英米側もドイツ軍の兵器を鹵獲して使用している[285]。

しかし一番厳しかったのはなんといっても独軍と英米軍では物量に差がありすぎるということだった。ドイツ軍はその分戦術でカバーしなければならなかった。戦術面では当時の英米軍は杜撰な面が多く、歴戦のドイツ軍の方が明らかに勝っていた[286]。ロンメルは迂回戦術[# 5]と一翼包囲戦術[# 6]を駆使して優位に立つ英軍をたびたび壊滅させ、「砂漠の狐」(英: Desert Fox)の異名をとった。とはいえ戦術などではもはやどうにもならないほど物量と兵站補給能力に差が付いてしまった時、ロンメル軍団は敗北を重ね、ついには北アフリカを放棄することとなる[287]。

しかし北アフリカの戦場に従軍した者はそこを「騎士道の残った戦場」として記憶している者が多い[288]。戦場となった場所が広大な砂漠であったので巻き込まれた民間人は少なかった[289]。アフリカにはSSが来なかったので、アインザッツグルッペンが付随してきてユダヤ人虐殺を行うといったことも無かった。そしてなんといってもロンメルが騎士道を重んじる人物だったことが大きかった[289]。ロンメルの指揮の下、この戦域のドイツ軍は騎士道精神を貫いて誇り高く戦った[288][290]。ロンメルは交戦の国際条約を遵守して捕虜を丁重に取り扱った。これを感じ取った英軍もこの戦域では比較的国際条約を遵守したのである[290][291]。ただし英軍側は必ずしも常に騎士道精神を貫かなかったようである。ガザラの戦いの際に英軍の文書から「ドイツ軍捕虜を従順にさせる方法」などという文書が発見されており、それを読んだロンメルは捕虜に対する英軍の非人道的取り扱いに激怒している[289]。

イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗
イタリアは19世紀末から地中海の覇者を目指していたが、その要所となる島や町、アフリカの領土などはすべて英仏に奪われた過去があった[292]。イタリア統領ベニート・ムッソリーニはイギリスが本土防衛で手いっぱいな今こそ、エジプト王国(名目上独立国だったが、事実上イギリスの軍事支配下にあった)をイギリスから奪うチャンスと見た[292]。

1940年9月12日にイタリア領リビアのキレナイカ地方からロドルフォ・グラツィアーニ元帥率いるイタリア軍がエジプトへ侵攻した[293]。ヒトラーはドイツ軍一個機甲師団を応援に送ると申し出たが、ムッソリーニはこれを拒否した[293]。ムッソリーニは「ドイツには頼らない。これはドイツのための戦いではない。ドイツと肩を並べるイタリアのための戦いだ」と豪語した[294]。さらにムッソリーニは軍部の反対を押し切り、ドイツにも独断で10月28日にアルバニア(1939年にイタリアが占領しイタリア王がアルバニア王に即位して同君連合を結んでいた)からギリシャに侵攻を開始した[295]。しかし侵攻に動員されたアルバニア駐留軍では兵力が不足していることから本国で召集して急編成された部隊の錬度は低く、また険しい山岳地帯の多いギリシャの地形を考慮した準備も十分になされていないなど、侵攻計画は杜撰なものであり、ゲリラ戦法を採るギリシャ軍の前に進軍は遅々として進まなかった。さらに、イタリア軍部隊の兵力不足から編成したアルバニア人部隊の質は劣悪であり、侵攻部隊は不足する兵力を割いてアルバニア軍の監督や不良部隊の武装解除にまで当たらなければならず、侵攻は頓挫することになる。こうして侵攻から半月後の11月15日にはギリシャ軍が全戦線で攻勢に転じ、12月4日には逆にギリシャ軍がアルバニア領へ侵攻を開始した[296]。ムッソリーニは、セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ将軍を罷免し、軍の増派を決定するが、その後数ヶ月に渡って泥沼の山岳戦を継続する結果を招き、その間に本来得られた増援戦力を得られなかったエジプト侵攻軍は壊滅することになる。

エジプトの英軍は、イタリアのギリシャ侵攻までは守勢に立っていたが[297]、ギリシャに増援を送ってイタリア軍をギリシャ戦に釘付けにするとともに、12月9日には「コンパス作戦」を発動し、大英帝国植民地から集めた部隊を含む3個師団(9万人)でもってイタリア軍3個軍団(25万人)を壊滅に近い状態に追いやった。この結果、イタリア領であったリビアにまで英軍の侵攻を許すことになり、ついにはキレナイカ地方全域が英軍に占領されてしまった[298]。こうしてムッソリーニは、同盟国ドイツに対して北アフリカおよびギリシャにおける支援を要請することとなる[294][299]。

ドイツ・アフリカ軍団長に就任
ヒトラーはイタリアの身勝手さや無能ぶりに呆れながらも、イタリアを支援することを決めた。ヒトラーは「北アフリカの喪失は軍事的には耐えられるが、イタリアに強い精神的影響を及ぼす。イギリスはイタリアに拳銃を突きつけて講和を結ばせることも、単に空爆することも可能となる。我々に不利なのはこの点である」と述べている[298][300]。1940年12月13日にヒトラーはギリシャのイタリア軍を救出するための「マリータ作戦」を発令し[301]、ついで1941年1月11日には地中海のイタリア軍支援のための「ゾネンブルーメ作戦(ひまわり作戦)」を発動した[302]。

これによりハンス・フォン・フンク(ドイツ語版)少将を指揮官とする「リビア阻止隊」(まもなく増強を受けて「第5軽師団」と改名された)が創設された。まず彼らが北アフリカに派遣されたが、フンクは1月25日のヒトラーへの報告書の中で今の戦力では北アフリカの戦況は変えられないと断言した[303]。またフンクはその1週間後にヒトラーの下に参じてイタリア軍の深刻な域に達しているデタラメぶりを報告した[303][304]。ヒトラーは更に1個機甲師団を北アフリカに派遣することを決定し、その2つの師団を統括する軍団の指揮官としてロンメルを選んだ[305][306][307]。

1941年2月5日にヴィーナー・ノイシュタットの自宅にいたロンメルはヒトラーの召集を受けて2月6日にベルリンに飛び、「リビア駐屯ドイツ軍部隊」司令官に任じられた[308]。この部隊は2月25日付けで「ドイツ・アフリカ軍団」(Deutsches Afrikakorps、略称:DAK)という戦史に名を残す名前に改名された[309][310]。

アフリカ軍団は第5軽師団(のちに第21装甲師団(ドイツ語版)に改組)と第15装甲師団(ドイツ語版)の2個師団から成る[311]。両師団とも戦車の数は150台程度にすぎない[311]。あとはイタリア軍から一部の部隊の指揮を任されているというだけだった[312]。後の戦果が信じられぬほどアフリカ軍団は貧弱な戦力であった[311]。

なおアフリカ軍団は名目上イタリア軍北アフリカ派遣軍の指揮下に入ることとなっていたが、ロンメルは国防軍最高司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル元帥から「ドイツ軍は(ドイツにとって)無意味な戦闘には投入されないものとする」との命令書を受けていたので自分に一定の裁量権があるものと理解していた[305][313]。

北アフリカ到着

1941年2月、イタリア植民地リビア・トリポリ。イタリア軍将校に挨拶するドイツアフリカ軍団長ロンメル中将。ロンメルの左にいる同伴者はイタリア北アフリカ派遣軍司令官イータロ・ガリボルディ大将。
1941年2月12日昼にロンメルは北アフリカ・リビアのトリポリ空港に降り立った[311][314][315]。しかし戦車の輸送は困難であり、アフリカ軍団の戦車部隊が最初に到着したのは3月11日、第15装甲師団は5月にならねば到着しなかった[311]。

ロンメルはただちにイタリア北アフリカ派遣軍司令官イータロ・ガリボルディ大将(解任されたグラツィアーニ元帥の後任)と会談した。この時英軍はエル・アゲイラ(英語版)で停止していたが、更に西進してくると思われた[311]。ガリボルディ将軍はトリポリ近くに防衛線を築く事を希望したが、ロンメルはエル・アゲイラ西方300キロのシルテに陣を置いて英軍に攻勢をかけることを希望した。ロンメルはベルリンとローマにシルテへの進軍を認めさせた[315]。シルテにイタリア軍2個歩兵師団と戦車師団を派遣し、ここに陣地を作らせた[311]。2月14日にドイツ軍の偵察大隊と砲兵部隊がトリポリに到着した。トラック、装甲車、大砲など6000トンの揚げ降ろしを夜通しで行わせ、彼らもシルテへ急行させた。とはいえ戦車はまだ到着しなかったので、ロンメルはフォルクスワーゲンの車に細工して偽装戦車を作らせている[316][317][318]。

2月17日には英軍の動きが活発になり、エル・アゲイラから若干の西進を開始した。独伊軍も活発になったと見せかけるため、ロンメルはシルテの独伊軍に若干の東進を命じた。2月24日になって初めて英独で小規模な小競り合いが発生したが英軍はすぐに撤退した[319]。ロンメルが感じたのは英軍は予想より脆弱で前進の意思がないということだった[311][320]。実はエル・アゲイラの英軍はウィンストン・チャーチルの要望でギリシャに兵力を割かれていたため、弱体化していた[321][322]。加えてリチャード・オコーナー中将がエジプト司令官に栄転し、砂漠戦に不慣れなフィリップ・ニーム(英語版)中将がキレナイカ駐留英軍の司令官に就任していた[311]。また英軍側の北アフリカ戦線責任者である英軍中東軍司令官アーチボルド・ウェーヴェル大将はドイツ軍の集中状況から見て5月以前にドイツ軍が攻勢に出てくることはなかろうと判断していた[311]。

進軍を禁じられる
1941年3月11日から第5装甲連隊(第5軽師団隷下の唯一の機甲連隊)の戦車が徐々にトリポリに揚陸され始めた[323]。ロンメルはエル・アゲイラを攻撃する準備を命じてから3月19日にベルリンへ飛び、翌20日にヒトラーに報告を行った。ヒトラーはまずロンメルがかねてから欲しがっていた騎士鉄十字章の柏葉章を授与した[324]。この柏葉章を授与されるのはロンメルで10人目だった[325]。

しかしロンメルが求めたエル・アゲイラ攻略やアフリカ軍団増強は認められなかった。参謀総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを嫌っていたのでロンメルの甘言に乗らぬようヒトラーに強く進言していた。またそもそも独ソ戦の準備を進めていたヒトラーや軍部にアフリカに余分な戦力を裂く余裕はなかった[326]。ヒトラーや軍部にとって北アフリカ戦線は主戦場ではなく、イタリア軍を元気づけて英軍を「軽くいなしておく」だけの場所だった[325]。結局エル・アゲイラ攻撃は5月に第15装甲師団が到着するまで待てと命じられた[311]。

命令無視の進軍でキレナイカ地方奪還

1941年の北アフリカ戦線の地図。

1941年4月、砂漠を前進するロンメル軍団のIII号戦車。
しかしロンメルはそのような命令に従う気にはなれなかった。英軍の戦力が分散して弱体化している今こそキレナイカ地方奪還の好機だった。1941年3月24日早朝にロンメルは「攻撃ではなく偵察」として戦車や装甲車を率いてエル・アゲイラに進軍した[311][327]。驚いたエル・アゲイラの英軍は、ほとんど戦闘すること無く約50キロ後方のメルサ・エル・ブレガヘ撤退した[328]。ロンメルはそのままエル・アゲイラを占領したが、総統命令もあり、さすがにこれ以上の進軍はためらった。ロンメルは1週間ほどエル・アゲイラに留まったが、その間、英軍の無線を傍受し、英軍が陣地の強化や兵力の増強を開始した事を知った。ロンメルはやはり5月まで待つことはできないと確信した[329][330]。

3月31日にロンメルは独断で第5軽師団主力を率いてメルサ・エル・ブレガに攻撃を開始し、イギリス軍の第3機甲旅団と第2機械化旅団と交戦した。夕方まで続く激戦の末、英軍はメルサ・エル・ブレガを放棄して撤退していった[329][331][332]。ロンメルは更に進撃を続け、4月1日にはメルサ・エル・ブレガの東80キロにあるキレナイカの交通の要衝アジェダビア村を英軍から奪取した[329][331][333]。

4月2日、ロンメルの独断行動に激怒したガリボルディ将軍は進軍停止を命じたが、ロンメルはこれを無視して4月3日に兵力を3つに分けて3ルートから英軍の追撃を開始させた[331][334]。同日ガリボルディはアジェダビアの司令部にいるロンメルの下に怒鳴りこみに来たが、ロンメルはのらりくらりとかわした。その時、部下が国防軍最高司令部総長カイテル元帥からの電報の命令書をロンメルに届けた。そこには「ただちに進軍を停止しろ」と書いてあったが、ロンメルはガリボルディに向き直ると「総統が私に完全な行動の自由を認めた電報です」と大ぼらを吹いて話を打ち切った[335][336]。ロンメルは同日の妻への手紙で「トリポリやローマの上官もベルリンの面々も頭を抱えているに違いない。しかし私は敢えて全ての命令を無視して進軍する。チャンスは活かしきる必要がある。恐らく私の行動は(後になって)承認されるだろう」と書いている[337]。4月3日のうちに北ルートを向かった第3装甲偵察大隊が戦略的要衝である港町ベンガジを占領した。ロンメルも装甲車に乗って北ルート軍を追い、4月4日早朝にベンガジを通過した[338]。

一方、4月3日にエジプト・カイロではキレナイカ英軍の不甲斐なさに激昂した英軍中東軍司令官ウェーヴェル大将がニーム中将を解任してオコーナー中将をキレナイカ英軍司令官に復帰させると命じていたが、オコーナーはこのような流動的戦況において司令官を挿げ替えるのは危険であるとして自分とニームの二人で当たるべきであると主張した。ウェーヴェルも了承して二人にキレナイカ防衛を任せた[337]。しかしあまりに電撃的に侵攻してくるロンメルの軍団を前にキレナイカの英軍司令官は次々と捕虜になっており[337]、オコーナー中将とニーム中将を乗せた車も4月6日夜に道に迷っていたところをロンメル軍団のオートバイ部隊に発見されて捕虜になってしまった[339]。キレナイカ英軍はいきなり総司令官を失い、指揮系統が滅茶苦茶になった[340]。

ロンメルは英軍の補給拠点となっている「キレナイカの心臓」と呼ばれるメキリ(英語版)の占領を狙い[341]、三手に分けて進軍させている三部隊をメキリに結集させることにした[342]。4月7日にメキリは完全包囲された。ロンメルはメキリの英軍に降伏を勧告したが、英軍は降伏を拒否した。英軍は暗くなったのを見計らって強引な包囲突破を図ろうとしたがドイツ軍に阻まれて失敗し、英軍第2機甲師団長ギャムビエ・ペリー准将以下英軍将兵2000人が捕虜となった[343]。また英軍の物資や各種車両を大量に鹵獲した。ロンメルはその中に英軍の対ガス用ゴーグル(アイシールド)を見つけた。これをやたら気に入った彼は自分の将官帽に取り付けた。以降このゴーグルはロンメルのトレードマークとなった[344]。

メキリを失った英軍は総崩れになり、トブルクを除くキレナイカ地方からの撤退を余儀なくされた[345]。英軍中東軍司令官ウェーヴェルが二カ月かかって占領したキレナイカをロンメルは10日間で奪い返した。英軍が進軍ルートに立てていた「ウェーヴェルの道(ウェーヴェルズ・ウェイ)」の看板はドイツ兵によって「ロンメルの道(ロンメルス・ヴェーク)」と書き替えられた[346]。

トブルク包囲戦
詳細は「トブルク包囲戦」を参照

トブルク防衛にあたるイギリス軍オーストラリア兵たち。
トブルクはキレナイカ東部の港町であり、戦略的要衝だった。ロンメルももちろんトブルク陥落を狙ったが、チャーチルはトブルクからの撤退は認めないとして同市の英軍に死守命令を下していた[347][348]。チャーチルの命令通り英軍は決死の覚悟で抵抗したため、ロンメル軍団の攻撃はことごとく失敗した[330]。ロンメル軍団は多くの損害を出し、北アフリカに到着したばかりだった第15装甲師団長ハインリヒ・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン(ドイツ語版)少将もこの戦いで戦死した[349]。

ロンメルは「イタリア軍が全く当てにならない。イタリア人はイギリス戦車を極度に恐れている。イギリス戦車をみると逃げだしてしまうのだ。まるで1917年の時を見ているようだ。」「私は師団長からも本当に共同作戦らしい協力を得ていないのだ。だから彼らのうち何人かを解任してほしいと要請しているところだ」と妻への手紙に書いている[350]。

独断で進攻作戦を起こしておいてトブルク攻略に失敗して多くの損害を出したロンメルに参謀総長ハルダー上級大将は警戒を強めた。1941年4月25日に参謀次長フリードリヒ・パウルス中将を現地に派遣している[330]。ロンメルはパウルスを説得してトブルク再攻撃の許可を得た[351]。4月30日から5月1日にかけてパウルスの監視の下にトブルク攻撃が行われたが、この頃には英軍はトブルクを地雷原で固めきっており、ドイツ軍の進軍は阻止された[330]。パウルスは5月早々にはベルリンへ戻った。彼は「ドイツアフリカ軍団は補給に問題があり、エジプトが占領できるかは極めて疑問だ」「トブルク攻撃は陸軍総司令部の許可なしにやってはならないと命じるべきだ」と報告している[351]。その後もロンメルの軍団はトブルクに包囲だけを続け、その間ドイツ空軍が1000回にも及ぶという空爆を加えたが、1941年のうちには占領はできなかった。

ロンメルは険悪な関係になっていた第5軽師団師団長ヨハネス・シュトライヒ(英語版)少将を更迭し、代わりに5月20日よりヨハン・フォン・ラーフェンシュタイン(ドイツ語版)少将が師団長に着任した[352]。

エジプトのハルファヤ峠占領と防衛
トブルク陥落は困難と判断したロンメルはトブルクを包囲させたまま、マクシミリアン・フォン・ヘルフ大佐を指揮官とするドイツ軍第5軽師団の先遣部隊「ヘルフ戦闘団」を東進させた。1941年4月末にヘルフ戦闘団はエジプト国境の戦略的要衝(戦車が通過できる場所だった)であるハルファヤ峠(英語版)とサルーム(英語版)の英軍を撃退して占領し[353]、英軍の防衛ラインをブク=ブクとソファフィの線まで後退させた[330]。これにより英軍がトブルク救援に向かおうと思えばまずハルファヤ峠とサルームを攻略せねばならなくなった[354]。

この後ヘルフ戦闘団は英軍からハルファヤ峠を防衛するのに活躍した。5月15日に英軍中東軍司令官ウェーヴェルは「ブレヴィティ作戦(簡潔作戦)」を発動して攻勢をかけ、ハルファヤ峠を取り戻したが、ヘルフ戦闘団は英軍のそれ以上の進撃は阻止した。そして5月27日にヘルフ戦闘団が反撃に転じ、ハルファヤ峠の英軍を掃討して再占領している[355][356][357]。

「バトルアクス作戦」を撃退

リビア・エジプト国境付近の地図
詳細は「バトルアクス作戦」を参照
その後、エジプトの英軍は英本土からマチルダ歩兵戦車やクルセーダー巡航戦車など238両の戦車の増援を受けて強化された[344]。チャーチルはウェーヴェルにこの戦力を使ってトブルクの包囲を解くための反撃作戦「バトルアクス作戦(戦斧作戦)」を開始するよう命じた。イギリス側はパウルスの報告書を傍受してエジプト国境のドイツ軍部隊が軽装備であることを掴んでいた[354][358]。しかしドイツ側も無線の傍受で英軍が攻勢をかけようとしている事を察知した。ロンメルはエジプト国境付近の防備を整えさせた[344][359]。

英軍は第4機甲旅団と第7機甲旅団の南北二手に分かれて進軍し、1941年6月15日早朝からハルファヤ峠に攻撃を開始した[360]。アラスの戦いでも悩まされた重装甲戦車マチルダII歩兵戦車も動員されていたが、アラスの戦いの時と同様に88ミリ高射砲を対戦車砲として使うことでこれに対抗した[361]。88ミリ高射砲の存在を悟られぬように隠し、また指揮官ヴィルヘルム・バッハ少佐の88ミリ高射砲の適切な運用によりマチルダII歩兵戦車を午前中の戦闘で11両、午後の戦闘で17両も破壊することに成功した[362][363][364]。その後もハルファヤ峠のドイツ軍は88ミリ高射砲を最大の武器として峠を死守した。88ミリ高射砲の恐るべき火力に英軍はハルファヤ峠を「ヘルファイヤ(地獄の業火)峠」と呼んで恐れた[365]。

英軍は頑強なハルファヤ峠を迂回し、サルーム西方カプッツォ砦(英語版)に40両のマチルダII歩兵戦車でもって襲撃をかけてきた。オートバイ部隊が早々に潰走させられたが、ヨハネス・キュンメル大尉(Johannes Kümmel)の指揮の下にIV号戦車2両と88ミリ高射砲1門だけでマチルダII歩兵戦車を9両も破壊し、英軍を敗走させている。キュンメル大尉はこの活躍で騎士鉄十字章柏葉章を受け、また「カプッツォの獅子」の異名を得た[366][367]。

ロンメルは英軍の第4機甲旅団と第7機甲旅団がほとんど連携が取れていないことを見抜き、第5軽師団と第8装甲連隊を並行して進軍させ、英軍の二つの旅団の間隙を突破するよう命じた。第5軽師団と第8装甲連隊は10キロも離れていたため、まず両部隊は目前の敵と交戦を続けたが、徐々に移動を開始し、6月16日夕刻にはシジ・オマール東に到着した。そして6月17日の夕方にはハルファヤ峠に展開する英軍の背後に回り込むことに成功した[368][369]。突然背後に敵部隊が出現したことで英軍はパニックを起こして総崩れとなった。6月17日午後にウェーヴェル大将が戦況視察に訪れたが、その時にはすでに英軍は敗走中であり、それを知った彼は愕然とした[369]。

物量的には英軍が圧倒していたはずであった。またこの戦域は英空軍が制空権を握っており、英軍は航空支援をたくさん受けていた。にもかかわらず、3日間に及んだ英軍の反撃作戦「バトルアクス作戦」は完全なる失敗に終わった[358][369][370]。この作戦で英軍戦車は100両以上大破した。対してドイツ軍戦車はわずか12両が大破しただけだった[371]。

ロンメルの評価高まる
ベルリンのヒトラーはロンメルの活躍を高く評価した。ヒトラーは1941年7月1日付けでロンメルを装甲大将に昇進させた[22][370][372]。一方ロンドンのチャーチルはウェーヴェルの無能を呪った。チャーチルは6月21日付けでウェーヴェルを中東方面軍司令官から解任し、代わって7月5日付けでクロード・オーキンレック大将を就任させた[373][374]。

ロンメルは8月6日にローマに赴き、ムッソリーニやイタリア軍参謀総長ウーゴ・カヴァッレーロ元帥と会談し、彼らの同意を得てイタリア軍の「アリエテ」戦車師団と「トリエステ」自動車化師団の指揮を認められた。このイタリア軍二個師団とドイツ・アフリカ軍団でもって「アフリカ装甲集団」が組織され、ロンメルはその司令官に就任した[312]。ドイツ・アフリカ軍団の軍団長の座はルートヴィッヒ・クリューヴェル中将に譲った[312][375][376]。

この頃になるとイタリア軍の間でもロンメル人気が高まっていた。グラツィアーニやガリボルディなど自国の無能な将軍の指揮の下で戦うより、有能な外国人将軍ロンメルの指揮の下で戦いたがった。ガリボルディもロンメルの要求を色々認めるようになり、イタリア軍兵士の訓練をドイツ軍将校が行う事も許可された。ドイツ軍将校の指導の下、半年もしないうちに異常に低かったイタリア兵の練度が一気に向上して、イタリア兵たちの間に自分たちも北アフリカ戦の勝利に貢献できるという自信が付き始めた[377]。

 その後、ロンメルは自軍の補給状態を改善するため、英軍から物資を鹵獲しようと1941年9月14日から15日にかけて「ゾマーナハトラウム作戦(真夏の夜の夢作戦)」を行い、エジプト領へ侵攻したが、英空軍の空襲を受けて戦車が打撃を受けたため、作戦はすぐに中止され、物資もほとんど鹵獲できなかった。いくつかの英軍の軍事文書を入手したが、それらに攻勢に関する記述がなかったため、ロンメルは英軍は当面攻勢に出る気はないと誤認した[378]。

イギリスはクルセーダー作戦の前にロンメルの誘拐・暗殺を計画したフリッパー作戦を実行するも失敗に終わっている[379]。

しかし英軍は攻勢の準備を進めていた。英軍司令官オーキンレック大将は「ブレヴィティ作戦」と「バトルアクス作戦」の失敗を踏まえて地中海沿岸の狭い地域からではなく、内陸部の砂漠からキレナイカに侵攻する決意をしていた。11月18日午前に土砂降りの雨の中、英軍は「クルセーダー作戦(十字軍作戦)」を開始した。この日ロンメルはローマから司令部に戻ったばかりで午後になって初めて英軍の攻勢を知った[380]。また攻勢を知らされても初めは本格的な攻勢ではあるまいと思っていたという[381]。

アラン・カニンガム(英語版)中将率いる英軍第8軍の第30軍団(第4機甲旅団、第7機甲旅団、第22機甲旅団)が内陸部砂漠からトブルク目指して進軍を開始した。英第13軍団は囮としてエジプト国境のドイツ軍部隊と対峙した。英第4機甲旅団と英第22機甲旅団の進軍は伊アリエテ師団と独第21装甲師団が阻止したが、英第7機甲旅団は阻止する部隊が進路上に無く、19日までにトブルク包囲のため伊第21軍団や独第90軽師団が展開するシディ・レゼグまで一気に進軍されてしまった[382]。トブルク守備隊も前進を開始し、独伊軍は挟み撃ちにあってしまった[383]。独第15装甲師団と独第21装甲師団をこの戦域に応援に駆け付けさせたが、英第4機甲旅団と英第22機甲旅団もこの戦域に増援に駆け付け、シディ・レゼグ南方で英独の激しい戦車戦が展開された。しかし英第7機甲旅団は戦力を二つに裂くという愚を犯し、ドイツ軍の対戦車砲の格好の餌食となり、141両の戦車のうち113両を撃破されるという壊滅的打撃をこうむった[381][383]。また「アリエテ師団」がシディ・レゼグに到着したことでシディ・レゼグの戦いの形勢はドイツ軍側に傾いた[380]。

ドイツ軍の戦力は常に英軍より圧倒的に貧弱であったので、防御だけに徹していればやがてやられてしまうと判断したロンメルはここでまた敵の背後に浸透して攻勢に転じ、それによって敵に攻勢を諦めさせる方針を取ることにした。独第15装甲師団と独第21装甲師団がガブル・サレーから英第13軍団が展開するエジプト領へ突入した。しかしオーキンレックはウェーヴェルの二の舞にはならなかった。ドイツ軍のエジプト突入に恐れをなしてトブルクへの攻勢を中止すべきと提案したカニンガム中将を第8軍司令官から解任し、自らの参謀長で44歳の最年少イギリス将官であるニール・リッチー少将を第8軍司令官に任じ、攻勢の続行を命じた[383][384]。

英軍が予想通りに動いてくれず、戦局はロンメルとオーキンレックの「我慢比べ」となり始めたが、補給状況や兵力配置から考えて独第21装甲師団の方が先に壊滅する可能性が高かった[384]。ロンメルが前線視察で不在の間、ロンメルの作戦主任参謀ジークフリート・ヴェストフェル中佐(de)が独断で独第21装甲師団の撤収を命令した[384][385]。はじめロンメルはこれに激怒したが、司令部に戻って再検討した結果、ヴェストフェルの判断は正しいと判断して攻勢中止を決意した[386]。

12月4日にトブルク包囲を解き、ガザラへ撤退[387]。さらに12月26日にはアジェダビアまで後退。さらに12月31日にはエル・アゲイラまで後退した。再びキレナイカ地方は英軍の手に落ちた[383]。ハルファヤ峠を勇敢に死守していたヴィルヘルム・バッハ少佐以下守備隊は英軍への投降を余儀なくされた[388]。

だが独伊軍に以前ほどの悲壮感はなかった。英軍は何の戦略もなく単に物量差で強引に押しただけであり、しかも受けた損害は両軍痛み分けという感じだった。独伊軍は戦車300両を失ったが、英軍も270両以上失っていた[383]。また独伊軍は3万8000人の将兵を失っているが、その大部分はイタリア兵であり行方不明者だった(イタリア逃亡兵が多いと思われる)。一方英軍は1万8000人の将兵を失っているが、その大部分は戦死だった[389]。そのため独伊軍の将兵は戦略次第で巻き返しは十分可能と考えていた[388]。そして実際に独伊軍は今一度キレナイカ地方を奪還してエジプト領に攻め込むことになる。

キレナイカ地方東部を再奪還
ロンメルは将兵たちを激励して回り士気を高めつつ、部隊の再編成を進めた。1942年1月5日にはヒトラーから新年の贈り物として戦車55両と装甲車20両の増援を受けた[390][391][392]。またロンメルのアフリカ装甲集団は南方戦域総司令官アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥の指揮下に入ることとなった[393]。

戦力をある程度回復したロンメルのアフリカ装甲集団は、1月20日夜から英軍に対する攻勢を開始した[392][394]。当面はドイツ軍は反撃に出られないだろうと踏んでいた英軍は不意を突かれ、次々と敗走した。ドイツ軍は1月22日にはアジェダビア、1月25日にムススを奪還した[395][396]。さらにロンメルはそこからメキリに攻撃すると見せかけて英軍を陽動しつつ、1月29日にベンガジを攻略した[395][397]。英第8軍司令官リッチー中将は1941年3月から4月にかけてのロンメルのキレナイカへの攻勢の時と同様にメキリに攻撃をかけてくると思い、ここに英第1機甲師団の主力を置いていたので英軍はまんまと裏をかかれる形となった[398][399]。1月30日にリッチーはキレナイカの英軍にガザラの防衛線まで撤退を命じた[397][399]。ロンメルはただちに英軍を追撃し、2月6日までにキレナイカの大半の地域を取り戻した。しかしムッソリーニやカヴァッレーロ元帥らイタリア軍上層部は追撃に不同意でイタリア軍は追撃に協力しないと通達してきたので追撃は不十分に終わった[399]。英軍はその合間にガザラに防衛線を固めてしまった。やむなくロンメルの装甲集団もトミミとメキリの線に防衛線を築き、機動防御の構えを取り、両軍はそこで睨み合って停止した[399]。

ヒトラーはロンメルの功績に報い、1月20日付けでロンメルに騎士鉄十字章の柏葉・剣章を授与し(全軍で6番目)、ついで1月30日付けで上級大将に昇進させた[22][400]。また2月21日付けでロンメルのアフリカ装甲集団はアフリカ装甲軍( Panzerarmee "Afrika")に昇格した[22][397]。

ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還
詳細は「ガザラの戦い」を参照

1942年6月のアフリカ装甲軍司令官ロンメル上級大将。

1942年6月、トブルク攻略戦の指揮を執るロンメル上級大将

英軍捕虜の様子を視察するロンメルと参謀長バイエルライン大佐(1942年6月、トブルク)
これまでイタリアから北アフリカの独伊軍への物資輸送はマルタ島の英海軍・空軍によってかなり妨害されていた(1941年11月にはイタリアからの輸送船の44%が沈められている)。英軍がこれほどイタリアから北アフリカへの物資輸送を妨害できたのはドイツ軍のエニグマ暗号を解読していたからだった。英軍は北アフリカへの物資輸送船の発着地、出港時刻、積載物まで正確に掴んでいた。それを知らなかったロンメルはイタリア軍上層部に裏切り者がいるのではと疑っていた[401]。そこでケッセルリンク元帥の指揮の下にマルタ島に独伊空軍による大空襲が行われ、結果北アフリカの独伊軍の補給状況はだいぶよくなった[402]。

これによりアフリカの独伊軍の戦力が整い、ロンメルは再び攻勢に出られると判断した。一方英軍はガザラから内陸部ビル・ハケイムにかけて「ボックス陣地」と呼ばれる地雷原と鉄条網の防衛線を作っていた[403]。ロンメルはこの陣地を南から迂回して陣地の東側を北上して海まで突っ走り、ボックス陣地を陣取る英軍戦力を後方の英軍機甲戦力と切り離して孤立させることを狙った[404][405]。

ロンメルのアフリカ装甲軍は1942年5月26日午後2時にクリューヴェル中将率いる囮の部隊にボックス陣地に攻撃を正面からかけさせつつ、午後9時から「ヴェネツィア作戦」と名付けた迂回部隊の本攻勢を開始した。英軍第8軍司令官リッチー少将はロンメルがボックス陣地を迂回するであろうことは予想していたが、その対応は杜撰であり、戦車の数は英軍の方が独伊軍より勝っていたにもかかわらず、前任者たちと同様に戦車を集中させずに各旅団に分散させて運用した[406]。結果ビル・ハケイム付近の戦闘で英軍第3インド自動車化旅団は早々に伊軍アリエテ戦車師団と独軍第21装甲師団によって粉砕された[407]。ついで英軍第4機甲旅団も独軍第15装甲師団によって粉砕された[407]。

しかし圧倒的工業力を有するアメリカ合衆国の援助を受けていた英軍はグラント戦車や新対戦車砲6ポンド砲などを動員し、これらがドイツ軍戦車に大打撃を与えていた[408]。また英空軍がドイツ軍兵站線を的確に空爆した[409]。

5月27日夕方にはドイツ軍にとって事態は深刻となった。迂回部隊の海岸へ向けた進軍は行き詰まり、東では独第90軽師団が包囲されていた(第90軽師団は囮のつもりで東部から向かわせたのだが、ロンメル自身も後に認めたようにこれは失敗であった)[410]。ドイツ軍は補給が途絶えて水がなくなり全軍崩壊の危機にさらされた[411]。

ロンメルはガザラからビル・ハケイムに伸びるボックス陣地の中間部分を西から突破して東側に広がる地雷原を掃討して補給路を作る事を決意した[412]。5月29日にロンメルは迂回部隊の主力をシディ・ムフタ周辺に集め、円形陣地を形成させた。彼はこの陣地を「大釜(ケッセル)」と名付けた。その地域には英第150旅団が円形陣地を構えていたが、6月1日にはこの円形陣地を攻略に成功した[286]。

この後の戦いの焦点は大釜陣地の南方にあるビル・ハケイムだった。ここから補給路を攻撃されないように抑える必要があった。同地を守備していた第1自由フランス旅団(フランス語版)は激しく独伊軍に抵抗した。伊トリエステ師団や独第90装甲軽師団が猛攻を加え、またドイツ空軍はここに爆撃を集中した。しかし第1自由フランス旅団は簡単に屈せず、ここでの戦闘は6月10日まで続いた[286]。

その間の6月5日には英軍第8軍司令官リッチー少将が大釜陣地への総攻撃を命じた。英軍は砲撃に続いて植民地インドから連れてきたインド人歩兵部隊を前進させたが、ロンメルは対峙するアリエテ師団を後退させて誘い込み、包囲攻撃をかけてこれを撃退した[286]。またこの英軍の攻勢中にロンメルは大釜陣地の南部の地雷原に間隙があるとの報告を受け、ここから独第15装甲師団を出撃させ、大釜陣地に攻撃をかけてきている英軍の左側面に回り込むことに成功した。この動きに連携して大釜陣地からもゲオルク・フォン・ビスマルク(ドイツ語版)大佐率いる独第21装甲師団が英軍を攻撃。これによって大釜陣地に攻撃をかけていた英軍3個旅団は壊滅的な打撃を受けた[413][414]。

さらにロンメルは南の地雷原の隙間から戦闘団を派遣し、6月10日にはビル・ハケイムの北方の防衛線を突破。勇敢に戦った第1自由フランス旅団もついにビル・ハケイムを放棄して撤退を余儀なくされた[286]。しかしロンメルはビル・ハケイムにこだわり過ぎたという批判がある。陥落に近づくにつれてビル・ハケイムは戦略的重要性が下がってきていたのだが、そのような場所を陥落させるためにドイツ空軍の急降下爆撃機シュトゥーカに甚大な損害を出したためである[415]。とはいえこれにより独伊軍の補給線が南側から襲われる恐れは完全になくなり、独伊軍が英軍の退路遮断のための海岸への北進に安心して邁進できるようになった事は間違いない[415]。なお第1自由フランス旅団はナチスの迫害から逃れてきた人々で編成されており、ユダヤ人が多かった。そのためヒトラーは第1自由フランス旅団について「戦闘において仮借なき戦いを遂行して殲滅しろ。殲滅しきれず捕虜にしてしまった場合は秘密裏に射殺しろ」という非情の命令をロンメルに下していたが、ロンメルはこの命令を握りつぶして部下に伝達しなかった[416]。

ロンメルはビル・ハケイムを陥落させると直ちに全軍にトブルクへの攻勢を命じて北進させた[417]。ビスマルクの独第21装甲師団は6月11日に大釜陣地を出撃し、6月13日までに英第4機甲旅団と英第22機甲旅団をほぼ壊滅させた。壊滅的打撃をこうむった英軍はガザラ防衛線「ボックス陣地」を放棄して敗走を開始したが、そのほとんどはドイツ軍の捕虜となり、また英国戦車はほとんどが鹵獲されるか破壊された[413][418][419]。

英軍は生き残り兵を集めて部隊と陣地を作り、独伊軍のトブルク包囲を阻止しようとしたが、すでに英軍にまともな戦力は残っておらず無駄な抵抗に終わった[413]。6月18日には独伊軍はトブルク包囲を完了。ドイツ空軍の空爆と砲兵の砲撃によってトブルク守備隊の戦意は崩壊し、6月22日にはトブルク守備隊は独伊軍に降伏した[420]。トブルクの物資は破壊されることなく残っており、ドイツ軍がまんまと5000トンの物資と2000台の車両を鹵獲できた[421]。

ガザラの戦いによる英軍の損害は甚大であった。英軍は9万8000人の将兵と540両の戦車を失ったあげく、キレナイカ地方全域を独伊軍に奪われ、更にエジプト領へ侵攻されることとなる。特に英軍の「抵抗のシンボル」だったトブルクが陥落したことは英独双方に精神的衝撃が大きかった[421][422]。トブルク陥落によりチャーチルは庶民院から問責決議案を突きつけられている。ドイツではロンメルのトブルク入城が盛んに報道された[421]。

世界的な英雄に

1942年のロンメル元帥
ヒトラーは、ロンメルの戦いに感動し、6月22日付けで彼を元帥に昇進させた[423]。それにより、ロンメルは、史上最年少のドイツ陸軍元帥となった。ロンメルは、戦争が始まる前は少将に過ぎなかったが、戦争が始まって3年足らずで中将、大将、上級大将、元帥と4階級も昇進するという前例のない出世をしていた。元帥昇進の電報を受けた時のロンメルの反応については、複数の証言がある。副官の証言によると、ロンメルは、子供のようにはしゃぎ、普段は酒などをほとんど飲まなかったにもかかわらず、ウィスキーとパイナップルで祝宴をあげたという[424]。一方、別の証言によると、ロンメルは冷めた様子で「一個師団の増援を送ってくれる方がありがたかったのだが」と述べたという[425]。

ロンメルは、今やドイツに留まらず、世界的な英雄になっていた。連合国は、畏敬の念を込めてロンメルを「砂漠の狐」と呼んでいた。アメリカの世論調査によると、当時のアメリカでロンメルは、ヒトラーに次いで有名なドイツ人だったという[426]。また、エジプト人の間には、イギリスの長きに渡る冷酷非情な植民地支配から、ロンメルが解放してくれるという期待感が広がっていた[427]。ロンメルに散々戦力を壊滅させられた英国からも高い評価を寄せていた。チャーチルは、「ロンメル!ロンメル!ロンメル!奴を倒すこと以上に重要なことなど存在しない!」と語り、また庶民院における演説では、ロンメルを「天才的な能力を持った男」と評した[428]。英軍将兵の間にも、ロンメルへの尊敬の念が広まっていた。英軍中東方面軍司令官オーキンレック大将は「ドイツは勇猛で優れた将軍を数多く生み出してきた国だ。だが、ロンメルは別格だ。彼は、ずば抜けている」と評した[429]。一方、オーキンレックは、部下の指揮官たちに対して「我が部隊の兵士たちがロンメルを過剰に話題にすることで、我らの友人であるロンメルが我らにとって魔術師か化け物のようになってしまっている。リビアにいる敵軍を呼ぶ時に『ロンメル』という言葉を使わないようにすることは精神的に極めて重要である。追伸、私はロンメルに嫉妬しているわけではない」という命令書を伝達している[430][431]。

 戦中の行為、また敗戦国であることからナチス指導者や他の多くのドイツ軍人が非難される中、ロンメルだけは、ドイツのみならず敵国だったイギリスやフランスでも智将(彼は捕虜を丁寧に扱っていたため)として、あるいは人格者として、肯定的に評価されることが多かった。例えば、イギリスのチャーチル首相は、アフリカ北部でロンメルの手痛い打撃にさらされたとき、【ロンメルは神に愛されている】と皮肉にも似た賞賛を残している。
1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着していたといわれている[2]。戦後のドイツでも評価は高く、リュッチェンス級駆逐艦のロンメルにその名が冠されている。
また、ロンメルは、エジプトでも人気が高い。シワ・オアシスの町では、ロンメルが訪れた際、丁重なもてなしへの謝礼として紅茶を渡すなどしたことがあり、戦後からロンメルの写真が飾られている。このようなエジプト人からの好感には、イギリスによる過酷なエジプト植民地支配への反発もあるが、軍人としての規律と誇りを貫いたこともある。
 
 軍人として

部下に鉄十字勲章を授与するロンメル
騎士道溢れる軍人でもあり、火力で敵を押し込むハード・キルより、相手を撹乱することで降伏に追い込むソフト・キルを好んだ。また、捕虜に対しては、国際法を遵守して非常に丁重に扱った。また、1941年には、ロンメル暗殺を企図してドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国コマンド部隊の死者を丁重に扱っている。以後も英国コマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたヒトラーの命令を無視していた。ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部から全員を虐殺せよとの命令が下ったが、ロンメルはその命令書を焼き捨てた。彼は、最後までナチス党に入党することはなく、あくまで一人の軍人として戦い続けた[513]。

また、大隊長である第一次世界大戦の頃から、自ら進んで前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解することに努めた。本来、通信手段が発達した近代戦では、高級将校は前線に出ず、後方で全般的な指揮を行うのが普通であった。しかし、ロンメルは、瞬時に変遷する電撃戦では「前線で何が起きているか、兵士にさえわからない」と陣頭指揮を旨とした。このため、ロンメル自身も幾度となく危険に晒されており、また、最高司令官の所在が不明となることがよくあった。北アフリカ戦線において、イタリア軍は度々ドイツ軍の足を引っ張ったが、ロンメルはそのようなイタリア軍兵士を労わった。規律に厳しく兵員を直接に叱責することもあったが、兵士からは「Unser Vater(我らが親父)」と慕われていた[513]。 ただし、陣頭にばかり立つあまり、後方の事務や補給などの裏方には疎かったと言われている。

大衆文化への影響
音楽
前述のようにロンメルは国民的英雄として人気があったため1941年には『Unser Rommel』(我らがロンメル)が作られ、アフリカ軍団の歌として愛唱された。
オランダのデスメタルバンド、ヘイル・オブ・ブレッツは、ロンメルの一生をテーマにしたコンセプト・アルバム『III: The Rommel Chronicles』を2013年にリリースしている。
映画
『砂漠の鬼将軍』(原題:The Desert Fox: The Story of Rommel、米国映画、ヘンリー・ハサウェイ監督、1951年) - 捕虜となったデズモンド・ヤング准将によるロンメル伝記の映画化。ジェームズ・メイソンがロンメルを演じる。劇中でメイソンが着ている軍服は、ロンメル家から借りた実物だった。
『砂漠の鼠=北アフリカのイギリス軍のこと。』(原題:The Desert Rats、米国映画、ロバート・ワイズ監督、1953年)- トブルク包囲戦とそれを戦う豪州軍兵士を描いた戦争映画。ロンメル役は、『砂漠の鬼将軍』と同じジェームズ・メイソン。
『パットン大戦車軍団』(原題:Patton、米国映画、フランクリン・J・シャフナー監督、1970年)- カール・ミヒャエル・フォーグラー(de:Karl-Michael Vogler)がロンメルを演じた。
『ロンメル 第3帝国最後の英雄』(原題:Rommel、ドイツ・テレビ映画、ニキ・スティン(ドイツ語版)監督 2012年) - 晩年のロンメル元帥を描いた作品。ロンメル役はウルリッヒ・トゥクル。

 語録
「汗を流せ、血は流すな」
「指揮官は部下のなかに入っていき、彼らとともに感じ、ともに考えなければならない」
訳書『ロンメル語録 諦めなかった将軍』ジョン・ピムロット、岩崎俊夫訳(中央公論新社、2000年)


 何れにしても、今言える事は、【あのNazis】にあって、これ程称賛を浴びた軍人でありヒューマンは彼だけだったという事。
 現在のGermanyはUSA隷属の基地となっており、前メルケル首相までは移民政策に於いても、又、独立志向における施策が国民の支持を受けていたのは事実である。




 其れでは文豪の作品から・・。


 「画の悲み」

 国木田独歩



 画えを好かぬ小供こどもは先まず少ないとしてその中うちにも自分は小供の時、何よりも画が好きであった。(と岡本某が語りだした)。
 好きこそ物の上手じょうずとやらで、自分も他の学課の中うち画では同級生の中自分に及ぶものがない。画と数学となら、憚はばかりながら誰たれでも来いなんて、自分も大おおいに得意がっていたのである。しかし得意ということは多少競争を意味する。自分の画の好きなことは全く天性といっても可よかろう、自分を独ひとりで置けば画ばかり書いていたものだ。
 独で画を書いているといえば至極温順おとなしく聞えるが、そのくせ自分ほど腕白者わんぱくものは同級生の中うちにないばかりか、校長が持て余して数々しばしば退校を以もって嚇おどしたのでも全校第一ということが分る。
 全校第一腕白でも数学でも。しかるに天性好きな画では全校第一の名誉を志村しむらという少年に奪われていた。この少年は数学は勿論もちろん、その他の学力も全校生徒中、第二流以下であるが、画の天才に至っては全く並ぶものがないので、僅わずかに塁を摩そうかとも言われる者は自分一人、その他は、悉ことごとく志村の天才を崇あがめ奉っているばかりであった。ところが自分は志村を崇拝しない、今に見ろという意気込ごみで頻しきりと励はげんでいた。
 元来志村は自分よりか歳としも兄、級も一年上であったが、自分は学力優等というので自分のいる級クラスと志村のいる級とを同時にやるべく校長から特別の処置をせられるので自然志村は自分の競争者となっていた。
 然しかるに全校の人気、校長教員を始め何百の生徒の人気は、温順おとなしい志村に傾いている、志村は色の白い柔和な、女にして見たいような少年、自分は美少年ではあったが、乱暴な傲慢ごうまんな、喧嘩けんか好きの少年、おまけに何時いつも級の一番を占めていて、試験の時は必らず最優等の成績を得る処から教員は自分の高慢が癪しゃくに触さわり、生徒は自分の圧制が癪に触り、自分にはどうしても人気が薄い。そこで衆人みんなの心持は、せめて画でなりと志村を第一として、岡本の鼻柱を挫くだいてやれというつもりであった。自分はよくこの消息を解していた。そして心中ひそかに不平でならぬのは志村の画必ずしも能よく出来ていない時でも校長をはじめ衆人みんながこれを激賞し、自分の画は確かに上出来であっても、さまで賞ほめてくれ手のないことである。少年こどもながらも自分は人気というものを悪にくんでいた。
 或日学校で生徒の製作物の展覧会が開かれた。その出品は重に習字、図画、女子は仕立物したてもの等で、生徒の父兄姉妹は朝からぞろぞろと押かける。取りどりの評判。製作物を出した生徒は気が気でない、皆みなそわそわして展覧室を出たり入ったりしている。自分もこの展覧会に出品するつもりで画紙えがみ一枚に大きく馬の頭を書いた。馬の顔を斜はすに見た処で、無論少年の手には余る画題であるのを、自分はこの一挙に由よって是非志村に打勝うちかとうという意気込だから一生懸命、学校から宅に帰ると一室に籠こもって書く、手本を本もとにして生意気にも実物の写生を試み、幸い自分の宅から一丁ばかり離れた桑園くわばたけの中に借馬屋しゃくばやがあるので、幾度いくたびとなく其処そこの厩うまやに通かよった。輪廓といい、陰影といい、運筆といい、自分は確たしかにこれまで自分の書いたものは勿論、志村が書いたものの中うちでこれに比ぶべき出来はないと自信して、これならば必ず志村に勝つ、いかに不公平な教員や生徒でも、今度こそ自分の実力に圧倒さるるだろうと、大勝利を予期して出品した。
 出品の製作は皆みんな自宅で書くのだから、何人なんぴとも誰が何を書くのか知らない、また互に秘密にしていた。殊ことに志村と自分は互の画題を最も秘密にして知らさないようにしていた。であるから自分は馬を書きながらも志村は何を書いているかという問といを常に懐いだいていたのである。
 さて展覧会の当日、恐らく全校数百の生徒中尤もっとも胸を轟とどろかして、展覧室に入った者は自分であろう。図画室は既に生徒及び生徒の父兄姉妹で充満いっぱいになっている。そして二枚の大画(今日のいわゆる大作)が並べて掲げてある前は最も見物人が集たかっている。二枚の大画は言わずとも志村の作と自分の作。
 一見自分は先ず荒胆あらぎもを抜かれてしまった。志村の画題はコロンブスの肖像ならんとは! しかもチョークで書いてある。元来学校では鉛筆画ばかりで、チョーク画は教えない。自分もチョークで画くなど思いもつかんことであるから、画の善悪よしあしはともかく、先ずこの一事で自分は驚いてしまった。その上ならず、馬の頭と髭髯しぜん面めんを被おおう堂々たるコロンブスの肖像とは、一見まるで比べ者にならんのである。かつ鉛筆の色はどんなに巧みに書いても到底チョークの色には及ばない。画題といい色彩といい、自分のは要するに少年が書いた画、志村のは本物である。技術の巧拙は問う処でない、掲げて以て衆人の展覧に供すべき製作としては、いかに我慢強い自分も自分の方が佳いいとは言えなかった。さなきだに志村崇拝の連中は、これを見て歓呼している。「馬も佳いがコロンブスは如何どうだ!」などいう声があっちでもこっちでもする。
 自分は学校の門を走り出た。そして家うちには帰らず、直ぐ田甫たんぼへ出た。止めようと思うても涙が止まらない。口惜くやしいやら情けないやら、前後夢中で川の岸まで走って、川原かわらの草の中に打倒ぶったおれてしまった。
 足をばたばたやって大声を上げて泣いて、それで飽き足らず起上って其処そこらの石を拾い、四方八方に投げ付けていた。
 こう暴あばれているうちにも自分は、彼奴きゃつ何時いつの間まにチョーク画を習ったろう、何人だれが彼奴に教えたろうとそればかり思い続けた。
 泣いたのと暴れたので幾干いくらか胸がすくと共に、次第に疲れて来たので、いつか其処に臥ねてしまい、自分は蒼々そうそうたる大空を見上げていると、川瀬の音が淙々そうそうとして聞える。若草を薙ないで来る風が、得ならぬ春の香かを送って面かおを掠かすめる。佳いい心持になって、自分は暫時しばらくじっとしていたが、突然、そうだ自分もチョークで画いて見よう、そうだという一念に打たれたので、そのまま飛び起き急いで宅うちに帰えり、父の許ゆるしを得て、直ぐチョークを買い整え画板がばんを提ひっさげ直ぐまた外に飛び出した。
 この時まで自分はチョークを持ったことがない。どういう風に書くものやら全然まるで不案内であったがチョークで書いた画を見たことは度々たびたびあり、ただこれまで自分で書かないのは到底まだ自分どもの力に及ばぬものとあきらめていたからなので、志村があの位い書けるなら自分も幾干いくらか出来るだろうと思ったのである。
 再び先の川辺かわばたへ出た。そして先ず自分の思いついた画題は水車みずぐるま、この水車はその以前鉛筆で書いたことがあるので、チョークの手始めに今一度これを写生してやろうと、堤を辿たどって上流の方へと、足を向けた。
 水車は川向かわむこうにあってその古めかしい処、木立こだちの繁しげみに半ば被おおわれている案排あんばい、蔦葛つたかずらが這はい纏まとうている具合、少年心こどもごころにも面白い画題と心得ていたのである。これを対岸から写すので、自分は堤を下おりて川原の草原くさはらに出ると、今まで川柳の蔭かげで見えなかったが、一人の少年が草の中に坐って頻しきりに水車を写生しているのを見つけた。自分と少年とは四、五十間けん隔たっていたが自分は一見して志村であることを知った。彼は一心になっているので自分の近ちかづいたのに気もつかぬらしかった。
 おやおや、彼奴きゃつが来ている、どうして彼奴は自分の先へ先へと廻まわるだろう、忌いま忌いましい奴だと大おおいに癪しゃくに触さわったが、さりとて引返えすのはなお慊いやだし、如何どうしてくれようと、そのまま突立つったって志村の方を見ていた。
 彼は熱心に書いている。草の上に腰から上が出て、その立てた膝ひざに画板が寄掛よせかけてある、そして川柳の影が後うしろから彼の全身を被い、ただその白い顔の辺あたりから肩先へかけて楊やなぎを洩もれた薄い光が穏かに落ちている。これは面白ろい、彼奴きゃつを写してやろうと、自分はそのまま其処そこに腰を下して、志村その人の写生に取りかかった。それでも感心なことには、画板に向うと最早志村もいまいましい奴など思う心は消えて書く方に全く心を奪とられてしまった。
 彼は頭かしらを上げては水車を見、また画板に向う、そして折り折りさも愉快らしい微笑を頬ほおに浮べていた。彼が微笑するごとに、自分も我知らず微笑せざるを得なかった。
 そうする中うちに、志村は突然起たち上がって、その拍子に自分の方を向いた、そして何にも言いがたき柔和な顔をして、にっこりと笑った。自分も思わず笑った。
「君きみは何を書いているのだ、」と聞くから、
「君を写生していたのだ。」
「僕は最早水車を書いてしまったよ。」
「そうか、僕はまだ出来ないのだ。」
「そうか、」と言って志村はそのまま再び腰を下ろし、もとの姿勢になって、
「書き給え、僕はその間まにこれを直すから。」
 自分は画き初めたが、画いているうち、彼を忌ま忌ましいと思った心は全く消えてしまい、かえって彼が可愛くなって来た。そのうちに書き終ったので、
「出来た、出来た!」と叫ぶと、志村は自分の傍そばに来り、
「おや君はチョークで書いたね。」
「初めてだから全然まるで画にならん、君はチョーク画を誰に習った。」
「そら先達せんだって東京から帰って来た奥野さんに習った。しかしまだ習いたてだから何にも書けない。」
「コロンブスは佳よく出来ていたね、僕は驚いちゃッた。」
 それから二人は連立つれだって学校へ行った。この以後自分と志村は全く仲が善よくなり、自分は心から志村の天才に服し、志村もまた元来が温順おとなしい少年であるから、自分をまたなき朋友ほうゆうとして親しんでくれた。二人で画板を携え野山を写生して歩いたことも幾度か知れない。
 間もなく自分も志村も中学校に入ることとなり、故郷の村落を離れて、県の中央なる某町に寄留することとなった。中学に入っても二人は画を書くことを何よりの楽たのしみにして、以前と同じく相伴うて写生に出掛けていた。
 この某町から我村落まで七里、もし車道をゆけば十三里の大迂廻おおまわりになるので我々は中学校の寄宿舎から村落に帰る時、決して車に乗らず、夏と冬の定期休業ごとに必ず、この七里の途みちを草鞋わらじがけで歩いたものである。
 七里の途はただ山ばかり、坂あり、谷あり、渓流けいりゅうあり、淵ふちあり、滝あり、村落あり、児童あり、林あり、森あり、寄宿舎の門を朝早く出て日の暮に家うちに着くまでの間、自分はこれらの形、色、光、趣きを如何どういう風に画いたら、自分の心を夢のように鎖とざしている謎なぞを解くことが出来るかと、それのみに心を奪とられて歩いた。志村も同じ心、後あとになり先になり、二人で歩いていると、時々は路傍に腰を下ろして鉛筆の写生を試み、彼が起たたずば我も起たず、我筆をやめずんば彼もやめないという風で、思わず時が経たち、驚ろいて二人とも、次の一里を駆足かけあしで飛んだこともあった。
 爾来じらい数年すねん、志村は故ゆえありて中学校を退いて村落に帰り、自分は国を去って東京に遊学することとなり、いつしか二人の間には音信もなくなって、忽たちまちまた四、五年経ってしまった。東京に出てから、自分は画を思いつつも画を自ら書かなくなり、ただ都会の大家の名作を見て、僅わずかに自分の画心えごころを満足さしていたのである。
 ところが自分の二十の時であった、久しぶりで故郷の村落に帰った。宅の物置にかつて自分が持もちあるいた画板があったのを見つけ、同時に志村のことを思いだしたので、早速人に聞いて見ると、驚くまいことか、彼は十七の歳とし病死したとのことである。
 自分は久しぶりで画板と鉛筆を提ひっさげて家を出た。故郷の風景は旧もとの通りである、しかし自分は最早以前の少年ではない、自分はただ幾歳いくつかの年を増ましたばかりでなく、幸か不幸か、人生の問題になやまされ、生死の問題に深入りし、等しく自然に対しても以前の心には全く趣を変えていたのである。言いがたき暗愁は暫時しばらくも自分を安めない。
 時は夏の最中もなか自分はただ画板を提げたというばかり、何を書いて見る気にもならん、独ひとりぶらぶらと野末に出た。かつて志村と共に能よく写生に出た野末に。
 闇やみにも歓よろこびあり、光にも悲かなしみあり、麦藁帽むぎわらぼうの廂ひさしを傾けて、彼方かなたの丘、此方こなたの林を望めば、まじまじと照る日に輝いて眩まばゆきばかりの景色。自分は思わず泣いた。


「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず。夏目漱石」

「好人物は何よりも先に、天上の神に似たものである。第一に、歓喜を語るに良い。第二に、不平を訴えるのに良い。第三に、いてもいなくても良い。芥川竜之介」

「金は食っていけさえすればいい程度にとり、喜びを自分の仕事の中に求めるようにすべきだ。志賀直哉」

「われ志を得ざるとき忍耐この二字を守れり。
われ志を得んとするとき大胆不敵この四字を守れり。
われ志を得てのち油断大敵この四字を守れり。徳川家康」

「治世は大徳を以ってし、小恵を以ってせず。軍師諸葛亮孔明」




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ナポレオン以来の戦術巧者と言われ、又の名「砂漠のキツネ」ロンメルの記事と、文豪作品でお終い。

ナポレオン以来の戦術巧者と言われ、又の名「砂漠のキツネ」ロンメルの記事と、文豪作品でお終い。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-26

Copyrighted
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