【TL】ネイキッドと翼

ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/聡明美少年三男義弟/小生意気臆病四男義弟/その他未定につき地雷注意。

1

 三途賽川(さんずさいかわ)家は格式高い、地元でも有名な家だった。歳の近い養女がその名家に嫁ぐことは喜ばれることのはずである。しかし六道月路(ろくどうがつじ)楓はまったく喜ばしそうではなかった。冷え冷えとした美貌は苦渋に満ち、神経質そうな眉には受難の兆しが色濃く現れている。
 そうとも知らず、あまりにも歳の近い養女の茉世(まつよ)は広々とした敷地に驚きを示しながら腕を引かれていた。一般的な住宅地よりも高台を設けて作られているため、石段を登らねばならなかった。そこに緑陰が重なり、蝉の叫喚が谺(こだま)している。
 彼女は三途賽川を知っていた。知っているどころか、嫁入りすることになる長男とは交際している。だが家を訪れるのは初めてだった。
「茉世」
 石段を登りきる直前になって、優しい養父が足を止めた。振り返り、長身痩躯を屈めた。夏の似合わない、雪女のような涼やかな男だった。まだ人を一人養うには若い。茉世とは10の半分も変わらないかも知れないほどの歳の近さだった。
「おじさま」
 茉世は滑らかな白く冷たい手が頬に触れたのを心地良く思った。目元を眇める。
「すまないね。暑いだろう。早く行こう」
 彼は切の長い目を伏せた。麗らかな二重目蓋が雪解けのようだった。霜柱めいた睫毛がふっさりと重なる。薄い唇が何か言いたそうであった。だが軽やかに腰を上げ、彼はまた背を向ける。




 三途賽川 蘭というのが茉世の夫となる男だった。胡座をかき、横揺れして落ち着きがない。オレンジに近い茶髪に、三角形の耳が生えている。そして尻尾がソテツの葉みたいに何本も生えていた。茉世は蘭と交際していたし、彼のことは知っていた。だが獣の妖怪みたいな仮装が趣味だとは知らなかった。改まった場だというのに、誰もこの珍妙な青年の身形に何も言わなかった。
 この場には蘭の叔父で三途賽川の当主、三途賽川の分家連中、そこには楓の親類でもある六道月路家も幾人かいた。それから街の寺社関係者もいる。この結婚は、ただの結婚ではなかった。
 三途賽川家の風変わりな長男に、この街の命運がかかっているのだから胡散臭い、信用ならない話である。
 結婚式といえば華々しいもののはずだった。煌びやかな衣装を身に纏い、新郎新婦が主役となる、人生で最も輝く日とさえされる催し物のはずだ。だが蘭と茉世の婚姻はそうではなかった。長たらしく小難しい話が続き、重苦しい空気の漂うこの行事こそが彼女たちの結婚だった。この日から彼女の帰る家はここであったし、六道月地の家にはもう帰れなかった。
 茉世は六道月地から三途賽川に嫁ぐ者として、しっかりと役を務めきった。ふざけた風采の蘭は、自身の妻となる女の横顔を見詰めていた。軟派な雰囲気の彼だけがこの場で浮いていた。


 他人となった楓は冷淡で、別れ際、茉世に構うこともなければ、呼び止めても反応すらしなかった。若い養父は優しく、温厚で、気遣いを忘れない人であったけれど、薄々は勘付いていた。何故まだ20代の時分で養父を引き継いだのか。定めであるからだった。使命であるからだった。務めであるからだ。
「茉世ちゃん」
 隣に並んで来訪者たちを見送る間、蘭は彼女の手を握っていた。最後の客人が帰り、玄関が閉まると、彼はそのまま妻を抱き締めた。
「寂しいん?」
 茉世の寂しさの原因には、この夫となった者のことも含まれていた。彼は人間だと思っていた。だが耳も尾も本物らしいのである。恋人は人間だったが、夫はそうではなかった。
「これからはおでが傍にいるからさ……」
 夫の手が無邪気に背中を摩った。
「ありがとうございます」
「お部屋に行こう。頑張って掃除したんだ」
 広大な敷地を贅沢に使った広い家の中を案内される。もっとも北側の日当たりの悪い部屋が彼女の部屋だった。家屋の背を囲う篠林がさらに日差しを絞り暗かった。そのうえ、家自体は文句無しに広いけれども彼女に充てられた部屋は狭かった。だがそのほうが彼女は落ち着くのだった。しかしこの家での嫁の暮らしというものが見えてきた気がした。
「その部屋では少し具合が悪くありませんか?」
 夫と並んで部屋の前に立っていると、後ろから声がかかった。振り向くと、色の白い、可愛らしい男の子が立っている。男の子といっても高校生くらいであろうか。爽やかな微笑みに知性が光っている。
「初めまして。三途賽川三男の霖(りん)と申します」
 彼は恭しく頭を下げた。蘭と兄弟とは思われない、聡明な感じがあった。
「こちらこそ、初めまして……蘭さんの妻になりました、茉世と申します。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません」
「お噂は予々(かねがね)。けれど百聞は一見に如かずですね。こんな綺麗な人が蘭兄さんのお嫁さんだなんて」
「口説かないでね」
 蘭は苦笑する。
「どうでしょう。これからよろしくお願いします、茉世義姉さん。何かあったら僕に訊いてください。蘭兄さんはこんな感じですし、他の人たちは少しおっかないですから。で、その部屋なんですが、日当たりも悪いし、狭いし、お嫁に来てくださった方が使うような部屋じゃないです。他にありますでしょう。そちらにしたら」
 霖と名乗った男の子ははきはきと喋った。最後に少し首を傾げる仕草にわずかばかり、気の強さを感じられる。
「それもそうだな。別の部屋にしようか」
「い、いいえ。気に入りましたから、このお部屋を使わせてください。霖さん、気を遣ってくださってありがとうございます」
「僕はきっと義姉さんのいくつも下ですし、蘭兄さんの弟ですよ。他人行儀なのはやめてください。これからは家族なんですから」
 茉世は困惑し、微苦笑する。まるきり人見知りというわけではなかったが、人とのコミュニケーションが得意なわけでもなかった。
「少しずつ慣れていけばいいね。急には疲れちゃうもん」
 そこに畳を踏む足音がひとつ増えた。隣の空室の長押(なげし)に腕を引っ掛け、3人を眺めている男がいる。蘭にも霖にも似ていない、どこか陰気な青年だった。髪の黒い、顔の青白い、背の高い男だつた。体格も雰囲気も他2人に似ていない。
「夫婦は一部屋でいいだろう。電気代も安く済む」
 睨むような目に捉えられ、茉世は萎縮した。初対面の印象というのは大切である。そういう点で失敗したらしかった。また彼女の中の相手の印象としても良いものではなくなった。
「あ、あの、蘭さんの、」
「知っている」
 蘭と霖が顔を見合わせた。蘭のほうはきょとんとしていたが、霖のほうは呆れたような微笑を湛え、茉世の怯えた視線をぶった切る。
「感じ悪いですよ、兄さん。茉世義姉さんです。こちらは蓮兄さん。蘭と霖と蓮です。ルンはいないんですけれど、禅(ぜん)っていう僕の弟がもう一人います」
 霖というのは気の利いた男の子であった。
「そう、ありがとう、霖さん。茉世です。よろしくお願いします」
 だが彼女が頭を下げるのと同時に、蓮とかいう陰険陰湿陰気な男は踵を返して行ってしまった。
「緊張してんだな」
「義姉さん綺麗ですからね。でも蘭兄さん。ああいうときは蘭兄さんから蓮兄さんにしっかり言ってやらないと、義姉さんが居づらいですよ。蘭兄さんには家族で実家でも、義姉さんにとっては今日が初めてなんですから」
 霖は嫌味なく目配せした。まだ学生だろう。だがしっかりしている。
「そっかぁ……ごめんね、茉世ちゃん」
「いいえ、いいえ。けれど、ありがとう、霖さん」
「霖で大丈夫です。長たらしい話もあったのでしょう?少し休まれてはどうですか。行きましょう、蘭兄さん。今お茶でも淹れます」
 霖がこの家にいるうちは、いくらかまだ大丈夫そうであった。茉世はこの暗く狭い部屋に残った。隣室は空いているが、しかし割り当てられたのがこの隅の部屋なのであるから仕方がない。カーテン代わりの障子を開け、窓辺に寄った。
 夏だが冷房は使わずに済みそうだし、何よりこの部屋にはクーラーというものがついていなかった。厳しい生活が待っているのだとは先ほどの会議めいた結婚式で分かっていたことだった。扇風機もない。
蝉の声が外から聞こえる。閉じ込められた気になった。外は夏だった。だが他人事のように思え始めた。いいや、少しずつ暑くなっていく部屋の温度を思えば、夏の当事者であった。蝉が鳴き止むのと、ここで茹だるのはどちらが先なのだろう。いいや、それよりも彼女を襲うのは未来の不安ではない。兄のように慕っていた養父の去り際の態度である。見目の良さから艶福家であることは間違いなかったし、彼自身、好色的な部分があることは否めなかった。そこに歳の近い養女がいるとなれば、彼もまた禁欲的な生活を強いられたに違いない。
 寂しさはやはり不安だった。それが未来に対するものか、過去に起因するものなのかは分からなかったが、彼女の目には涙が滲む。しかし後戻りはできない。帰るところはもうない。養父もこれから一個人としての生活を送るのだ。たとえ帰れたところで迷惑になるだけだった。ここで暮らすしかないのである。孤児であった我が身を拾い、何不自由なく育てられたのだから、今更になって意を翻すわけにはいかなかった。しかし身が竦む。蘭は人間ではなかった。そして耳を生やし尻尾を生やす姿に誰も何も言わないのだ。
『茉世ちゃん』
 襖の奥で蘭が呼んだ。
「はい……」
『入っていい?』
「どうぞ」
 直後に襖が開き、蘭が入ってきた。手には白いネコが抱かれている。人を小馬鹿にしたような面をして、泰然自若としながら胴体を伸ばしているが、長い尻尾からして機嫌が好いとはいえなかった。
「ここで飼っていらっしゃるんですか」
「うん。ルンちゃん。かわいいでしょ。茉世ちゃんが寂しがってるかもって霖ちゃんが言ってたから」
 赤い首輪を付けて、白いネコは床に下ろされると、そのままぐでりと蘭の身体に凭れ掛かって寝転んだ。その脇腹を撫でる。飼猫だけあって毛並みがよい。何度か撫でていると、ネコは徐ろに立ち上がり、部屋から出ていってしまった。毛を持つ者にこの部屋は少し暑いのかも知れなかった。日当たりは悪いが、外からの温気(うんき)で蒸されている。
 ネコと入れ違いに霖が戻ってきた。盆に茶を乗せている。
「蘭兄さん。扇風機を出すから手伝ってください」
 彼は水出しの茶を置いていって、また出ていった。彼女は開かれたままの襖を見ていた。隣の空き部屋が見えるのみである。来たばかりの嫁が引き籠もっていていいのだろうか。迷いが浮かんだ。彼女はおそるおそる、立ち上がった。そして襖の外を覗いてみた。隣の部屋は、また二間部屋が連続している。茉世に与えられた部屋というのはあまりにも隔離されていた。まだ他人の家という意識があったか彼女には、勝手に出歩くことに躊躇いがあった。しかしこの家の嫁になったのだ。あまり実感はないけれど。
 茉世は廊下へ出る。迷路のように入り組んでいた。宿や旅館みたいに部屋がたくさん並んでいるが、どこも襖が閉まっていた。誰がいるかも分からない。そこを開けてみようなどという気は起きなかった。彼女は襖を開けなかった。だが勝手に開くということもあるのである。しかしそれは怪奇現象ではなかった。自動ドアの如く開いた襖から、人が飛び出してきた。茉世は鉢合わせる。霖よりも幼い感じのする、猫目の人物だった。まろい肌からして髪の短い少女のようにも思えたし、肉感の少なさから幼なげな少年にも思えた。目付きだけでなく反応までネコみたいに、鉢合わせた途端、たまげた様子をみせた。そしてまた襖の奥に逃げてしまった。人に懐かない野良の子猫みたいな人物だった。あの者が霖のいっていた弟だったのかも知れないが、あの短時間の邂逅(かいこう)では、蘭や霖との相似は見つけられなかった。ただ、蓮とかいうらしい次男とは似ているというほどではなかったが、近しいものは感じられた。
 挨拶の時機を逃し、彼女はそこに佇立(ちょりつ)していた。廊下は少し暑かった。
「長男の嫁だろう」
 後ろから、塗壁妖怪みたいにぬっと、声が降ってきた。甘くしっとりした質感でありながら、その調子は殺伐としている。
 茉世は振り返った。気配も足音もなかった。いつのまにかそこに立っていた。
「嫁なら働け。何を旦那にやらせている」
 蓮とかいう次男が、腕を組んで冷ややかな眼差しをくれていた。
「あ……、ご、ごめんなさい。扇風機を出すとかおっしゃっていました。どこでしょうか。すぐ行きます」
「倉庫は外だ」
「ありがとうございます。失礼します」
 茉世は頭を下げ、やたらと広い家の中を歩き回った。やっと玄関に辿り着く。すでに汗が滴り落ちていたが、腕で拭って外へ出る。日差しの強さに、まず腕を頭上に掲げた。蝉の鳴き声が鮮明に聞こえる。玉砂利は太陽に炙られ、かぎろうて見えた。倉庫を探しに行く。色濃い影が足元に落ちて、輪郭がはっきりとしていた。汗が家の周りを沿うように敷かれた石畳に滴った。雨のようだった。そのまま歩いていくとやがて倉庫を見つけるが扉は閉まり、誰かいる様子はなかった。実際、鍵が掛かっていた。
 篠林に埋まるような倉庫は、近付くと蝉の鳴き声が耳鳴りのようだった。白い玉砂利の照り返しに目眩がする。彼女は汗を拭った。蓮という次男にまた怒られるのが怖かった。だが倉庫に人はいない。引き返すほかなかった。玄関に戻り、彼女はそこで少し休んでから、与えられた部屋へと戻る。ところが彼女はこの家の構造を理解していただろうか?いいや、していなかった。出てくるのもやっとだったが、入っていくのもやっとだった。
 左見右見(とみこうみ)、右顧左眄(うこさべん)しながら勘によって廊下を行く。とにかく北側の西側にある部屋だったのだ。
「茉世ちゃん、茉世ちゃん。どした?」
 迷っているところに蘭が向こう側からやって来た。棕櫚(しゅろ)の木の葉みたいな尻尾が、彼女は見ていられなかった。
「お部屋に居ないからびっくりしちゃった。汗かいてるね」
 蘭は己の手の甲で妻の汗を拭っていく。
「何かわたしのやることはありますか。お食事の支度とか……」
「それはお手伝いさんがやってくれると思うな。でも台所に案内するよ」
 彼は妻の腕を引いた。曲がれど曲がれど、景色は変わらないように見えたが、蘭は確かに台所へと彼女を連れていった。そしてそこで家政士数人を紹介された。食事の支度は彼女等の業務らしかった。結局、自室へ戻ることになる。
 部屋には新しく扇風機が置かれていた。霖が胡座をかいて風に当たっている。それでも生まれ持った気品のせいか、まったくだらしない感じがしなかった。
「どちらへ行っていたんです?」
「倉庫のほうへ……」
「外の?」
「はい」
 蘭と霖が目交ぜをするのが、不安になる。
「何かお探しものだったんですか?」
「い、いいえ……そういうわけでは」
 蓮とかいう次男については伏せておくのが賢明であろう。
「何かあったらおっしゃってください。まだ勝手も分からないでしょうし。蓮兄さんも禅も、こんな綺麗なお嫁さんに頼み事をされたら喜んで引き受けてくれますよ」
 彼女は禅と思しき子供に会ったことも言わなかった。ただ霖の世辞に窮屈げな愛想笑いを浮かべるのみである。
「ありがとうございます……」
 所在なく氷の溶けた茶を飲む。まだ冷たさが残っていた。
「そろそろ僕は行きますね。夫婦水入らずでお過ごしください」
 三男は朗らかに笑って去っていった。蘭は落ち着きなく横に揺れ、風が耳の毛を靡かせるたびにぴんぴん跳ねさせていた。茉世は夫の恐ろしい三角の毛尨(けむく)の耳を見ないようにした。知った相手であるが、知らない相手だった。
「茉世ちゃん、疲れちゃった?」
「……少しだけ……」
「アイス食べる?食べよ。汗かいてるし。ちょっと待っててね」
 人当たりの良い、優しく明るい人物であることは変わりない。ただ人ではないのだ。彼は化狐だったのだ。弟たちは今のところヒトであるようだが、まだ油断ならぬ。断定はできぬ。
 身体の外は暑かった。だが冷えていく。この均衡を取ろうと、茶を飲む。
 暫く経っても、蘭は戻ってこなかった。けれど彼女はふたたびあの迷宮に挑もうとは思わなかった。しかし台所へアイスを取りに行って戻ってくるにはあまりにも時間がかかっているような気がした。彼女は逡巡しながらも重い腰を上げた。積極性のない足取りで3つ続く間を抜けていく。廊下に頭を出して、辺りを窺った。夫が戻ってくる様子はない。その床が氷上でもあるかのように、彼女はゆっくり足を踏み出した。まだ他人の家という認識だった。払底される日は来るのであろうか。
 台所への道順はどうにか覚えた。彼女は台所まで行こうとした。そこにまたもや蓮とかいう次男が曲がり角から現れた。スマートフォンを耳に当て、通話中のようだった。兄の嫁には目もくれず、彼女の出てきた襖を開いて、入っていった。何か問題があったのかと、茉世は後ろへ上体を倒し、与えられた小部屋を顧みる。やはり蓮とかいう怕(こわ)い次男は彼女の部屋に用があったらしかった。襖を開け放ち、室内を見渡しながら何か喋っている。嫁が虐げられ、疎外されるのは世の常である。茉世の場合、相手は姑ではなかったけれど。
 夫も霖も今のところは好くはしてくれる心細くなった。だが耐えねばならない。耐えろと言っている。己すら我が身に寄り添うつもりはないようである。だが現実的に考えてもそうなのである。離縁できたとて身寄りがない。六道月地に帰るには、大恩ある者に大きな迷惑で報いることになる。
 この部屋も使わせてはもらえなくなるのかも知れなかった。嫁の居場所は台所であろう。だがこの家は台所も嫁の居場所ではない。つらく厳しい生活が生々しく彼女の目の前に浮かんだ。踏み締めた藺草の感触も分からない。
 背を向けていた通話中の次男坊が暗い面持ちの茉世を顧眄(こべん)する。艶やかな黒髪は目に被さるほど長かったが、それでも意地の悪そうな暗澹とした双眸が分かる。冷淡げな美貌に表情はない。しかし底意地の悪さは伝わるのだった。
「嫁に扇風機は要らん。旦那の部屋に居候でもしていろ」
 首を左右に振っていた扇風機はコンセントごと引き抜かれた。
「……ごめんなさい」
 すれ違いざま、肩がぶつかった。だが彼女の詫びのほうが早かった。
 蘭を探しに行く気は折れてしまった。物言わぬ扇風機の傍で蹲(うずくま)る。時刻は最も暑くなる頃だった。涼しいと思われたこの部屋も段々と蒸してきている。彼女は温くなった茶を飲んだ。夫は帰って来ない。手慰みに凹んだままの扇風機の弱風のボタンを、「切」を押すことで均一にする。
 帰りたい気持ちが溢れた。だがどうにもならぬ。このためだけに育てられた。三途賽川と六道月地を繋ぐために。蒸し暑さが焦らせる。汗か涙か分からないものを拭いて、空のグラスと盆を手に、彼女はまた腰を上げた。
 台所に蘭はいなかった。彼は台所には来ていないらしかった。そして自室に帰るときになって魔が差すのである。咄嗟に爪先が向きを変え、足が玄関を探していた。
『バカじゃないですか、蓮兄さん。あなたはバカじゃないですか、じゃないです。あなたはバカだ、蓮兄さん。脳味噌が茹だってるんですよ!』
 霖と蓮とが言い争っているらしいのが聞こえたが、彼女は構わず通り過ぎた。
『嫁には贅沢だ』
 聞くつもりがなくとも、耳には入ってくるものだ。彼女は1日で嫌になってしまった自身を恥じた。だが到底、やっていけそうにない。特に蓮とかいう次男とは折り合えない。玄関を探し回った。蘭が帰って来なければいいと、今度は意を翻した。行くあてはない。だが行動した先に行くあてが見つかるのではなかろうか。
 蘭を愛していただろうか?嫌いではなかった。憎くはなかった。それだけである。愛していたか、慕っていかでいえば、容易に頷けはしなかった。一生を共にする相手というのはそれくらいのものでいいらしい。だが茉世はそうは思わなかった。
玄関こそが、新たなスタートのように思えた。後ろめたさは大きい。けれど同時に心細い。次男坊が怕い。耐えられるだろうか。耐えねばならぬ。逃げたい。寂しい。あらゆる感情が入り乱れる。
 玄関ホールを見つけたとき、彼女は焦った。急いで靴を履き、飛び出した。玉砂利が小さく軋る。石段を降りる直前に振り返った。誰も気付きはしていないようだった。追手はいない。嫁いできた女がその日に逃げ出すなど、誰も思いつきはしないだろう。
 彼女は階段を駆け下りた。蝉の声が響き渡っている。その延長みたいに後頭部へ衝撃を覚えた。足は地を放し、彼女の身体は緑陰の中を転げ落ちていく。熱風が吹き、きらきらと骸みたいな女の上を淡い枝葉の陰が踊る。

2

 それは死骸のようだった。虫の死骸みたいに何の頓着もなく、また何の頓着もされずそこに転がっていた。アスファルトには乾涸びたケチャップみたいに血が広がっていく。


「大丈夫ですか?」
 肩をつんつんと叩く者があったが、茉世(まつよ)はすぐには起き上がれなかった。前後左右上下、東西南北の感覚がまるで分からなかった。
「救急車を呼びます。いいですね」
 男の声だった。茉世はうっ、と小さく呻いた。救急車と聞いて驚いてしまった。だが身動きを取ると目眩もやってくる。ゆっくりと身体を起こす。手についたぬるつきにまた驚き、見れば赤くなっていた。
「あれ、まっちゃんじゃね」
 彼女は誰のものかも分からぬ血に顔を蒼白くしていたが、どこかで聞き覚えのある愛称に小さな頭痛を伴いながらも懐かしい心地に気を奪われる。眩しさに目蓋を引き攣らせながら見上げる。逆光した中に若い男がこちらを覗き込んでいる。
「マジか。これじゃナンパ野郎みたいじゃん。分かんねぇ?御園生(みそのう)瑠璃(るり)」
 彼女は思い出した。小学校が同じで、何度か同じクラスになったことがあったし、席が近くなったことをきっかけに仲も良かった。
「るりるり?」
 小学校当時の悪ガキという印象が消え、爽やかな黒髪を短くしてある。
「そ。だいじょぶか?頭切ってんぞ。救急車呼んだほうが……」
 茉世は懐かしさに耽る余裕もなかった。頭を負傷しているにもかかわらず、首を振った。
「あ、頭動かすな。それ絶対、救急車呼ぶ案件だから」
 だが彼女の頭にあるのは、救急車が来たことで、さらに三途賽川家での肩身を狭くしはしないかということばかりだった。
「大丈夫!自分でちゃんと病院行くから、お願い」
 御園生瑠璃は彼女から目を逸らし、石段を見上げた。
「この上、墓かなんか?」
「普通のおうち……」
 茉世はぼんやりした。それは頭を強く打ったせいか。御園生瑠璃は彼女の様子をみながら、スマートフォンを手にしていた。
「お、お願い……ここのおうちで働いてて……迷惑かけたくないの……」
「ここの家で働いてんだ?」
 彼女は嘘を吐いた。ここに嫁いだとはとても口にできなかった。まだ嫁いでいないということにもなるかも知れなかった。彼女はそこに賭けてもいた。
「う、うん……」
「言ってきてやるよ。救急車呼んだほうがいいって……」
 茉世はまた首を振った。手が何者かの血で汚れていなければ、スマートフォンを握る手を押さえていたかも知れない。
「大丈夫。ちょっと転んだだけ。ふらふらしちゃって……」
 御園生瑠璃は首を横に倒して茉世を見ていた。
「じゃあ救急車呼ばないから、おれが連れてくわ。乗れよ」
 彼は車だった。促され、茉世はついていきそうになった。だが思い出す。
「平気……大丈夫!平気だから。ね、大丈夫なの。ばいばい、るりるり。久々に会えて嬉しかった」
 彼女は保険証も財布も持っていなかった。持っていたはずだ。だが……三途賽川の家に上がったときに回収されたままだった。御園生瑠璃にはついていけない。
「まっちゃん?」
「大丈夫。戻って、やっぱり、ここの家の人に連れて行ってもらうから」
 せっかく逃げ出せたのである。まさかここで旧友に会うとはまったく想像もしていなかった。怪我をしてしまったのが悔やまれる。彼女は気丈に振る舞い、階段のほうへ身体を向けた。
「おれも行くって」
「平気!平気なの。大丈夫だから。またどこかで会おうね。じゃあ!」
 それで彼は諦めると思った。しかし元悪ガキにも公序良俗というものがある。彼はまだ首を傾げたまま胡散臭そうに茉世を見下ろしていたが、やがて無言のまま彼女を軽々と抱き上げてしまった。
「るりるり……!」
「この後なんかあったら、おれが胸糞悪くなるとか考えないワケ?」
 膝裏と背中を囲む腕が逞しい。心細さがほんのわずかに解れていく。
「……るりるり」
 そしてそれは緊張感の緩みである。涙が堰(せき)を切る。一気に氾濫してしまった。顔を覆った。汗や血も混じっていた。
「どしたん?」
「ごめんなさい。ちょっとだけやらかしちゃって」
「つれぇよなぁ、社会人。また戻りてぇわ、小学時代。あの頃もあの頃で大変は大変だったケドな」
 長く感じられた石段は、人の足だと短く感じられた。いいや、恐ろしいものに立ち向かっていくときは何事も短く感じられるものだろう。
「強いな。道(した)でよく泣かなかった」
 ちゅん、と鳥が鳴いて羽撃(はばた)いた。蝉たちが泣き止む。一瞬の静寂。
「るりるりは優しいな……」
「なんだよ、キモ。おら、もう着くぜ。引き締めてけ」
「ん……」
 茉世は目元を拭った。
「ありがと、るりるり。元気出た。ここで大丈夫」
 御園生瑠璃は渋面を作ってみせたが、慎重に彼女を下ろした。
「じゃあな。ちゃんと頭診てもらえよ」
「うん。るりるりも気を付けてね」
 帰ろうとしない御園生瑠璃へ、彼女は手を振った。彼も重苦しげに手を振って去っていく。石階段で、茉世がそうしたように彼も立ち止まった。そして顧みる。茉世は改めて手を振る。しかし御園生瑠璃は、さっさと家に入れとばかりに手で追っ払う仕草をして、そそくさと階段の下に消えていった。
 玄関に汗と血が落ち滴り落ちる。けれどそれよりも、また戻ってきてしまったことがつらくなった。しかし手ぶらではどこへも行けまい。御園生瑠璃と久々に再会できたことは却ってよかったのかも知れない。
 玄関の引戸を開ける。広いホールに、蓮が腕を組んで立っていた。そしてその横には霖(りん)とはまた違う猫目の男の子が座っていた。彼等は茉世の姿を見て肝を潰した。
「わ……わ、わぁ………」
 猫目の男の子は慌てふためく。蓮のほうはただ気に入らなそうに眉を顰めた。
「長男の嫁が家のこともせずどこをほっつき歩いていたんだ?」
 まだ年若い男の子は頭から血を流しているという状況が恐ろしかったらしい。吊り気味の大きな目が涙で潤んだ。
「申し訳ありません……」
「その怪我は?旦那にはなんて説明する?」
「転んでしまって……」
「転んだ、か。どこへ行くつもりだった」
 蓮の声は質感こそ甘いが、冷たく厳しい。
「少し、家の周りを、散歩したくて……」
「それで怪我をして戻って来たと?呑気なことだ」
 茉世は三和土(たたき)に立ち尽くす。少しずつ、裂傷に痛みが宿ってきた。打ちつけた肘も痛む。足もだった。
 御園生瑠璃を早くに帰したのは正解だった。この惨めな有様を晒せない。小学時代の楽しい思い出だけを共有していたかった。もう会うことがないのなら尚のことだった。人前ならばこの次男坊も丸くなるのだろうか。
「申し訳ありません……」
「その傷は、転んだのだな?自分で?」
「はい……」
「分かった。禅(ぜん)、戻りなさい」
 血が恐ろしくて泣いている男の子が、末弟の禅で間違いないらしい。その子供は涙を乱暴に拭って廊下を走っていった。
「あの……」
 彼女の声は震えていた。
「なんだ」
 睨みつけるような眼差しを喰らって怯む。
「蘭さんはどちらに……?」
「旦那に泣きつくのか。急用ができて出掛けていった。残念だったな」
 蓮は組んでいた腕を解いた。そして踵を返し、ついでに茉世のほうを振り向いた。
「手当てを、―」
「蓮兄さん!」
 同時に、玄関へ霖がやって来た。彼も兄嫁の姿を見てぎょっとした。
「怪我したんですか?手当てします。来てください。蓮兄さん、まさかずっとこのまま説教していたんじゃないでしょうね。とりあえず座ってください、義姉さん。蓮兄さん!頭を怪我してる人をずっと立たせていたなんて!ひとでなしですね」
「救急車は呼ぶな。嫁の分際で。騒ぎすぎだ」
 蓮は不機嫌げな表情すら失せて、そのまま廊下を行ってしまった。
「ごめんなさい、霖くん」
「いいえ、いいえ、いいから座っていてください。救急箱を持ってきます」
 しかし結局、救急車を呼ぶことになった。彼女には吐気があったし、傷は深かった。



 好い顔をしないのは蓮であろう。蘭は運転免許を持っていなかったため、病院まで迎えに来たのは例の次男坊だった。後部座席から蘭が飛び出してきて、茉世を抱き締める。
「だいじょーぶ?」
 こういうとき、尨毛(むくげ)の三角形の耳も、棕櫚の木の葉みたいな尾もなくなっていた。だから茉世は夫の異常性に気付かなかった。
「ご迷惑をおかけしました」
「ううん、ううん。茉世ちゃん」
 霖は兄嫁を兄に任せて、次兄のほうを意味深長に見ている。茉世もまた、聡明な三男が何を言い出すのか気になってしまった。
「おかしいですね、蓮兄さん。後頭部を叩かれた痕があったんですって」
「それは確かにおかしいな」
 霖は窓の開いている助手席に乗り込んでしまった。茉世も蘭に促され、後部座席へと乗り込んだ。
 すでに夜だった。
「禅はどうしているんです」
 走行音と冷房の音ばかり聞こえる静かな車内で三男は突然訊ねた。ウィンカーがかちかち鳴った。
「部屋にいる」
「ひとりですか」
「あいつはいつも一人だろう」
 そこで話はぷっつり途切れる。茉世は夫に抱き寄せられながら、運転席の次男の後姿を見詰めていた。疎まれているどころではない……
 車が三途賽川宅に着く。蓮はさっさと運転席から降り、その場で他3人が降りるのを待っていた。
「すみませんでした」
 茉世は蓮の傍へ行って、頭を下げた。玄関に向かおうとしていた霖も足を止め、蘭も彼女に寄り添っていた。当の本人は、まったく茉世のほうへ顔を向けようとはしなかった。
「兄嫁の尻拭いが俺たちの仕事か」
「ごめんね、蓮くん。おでも免許、取れたらいいんだけどさ」
 だが兄の言葉も彼は聞かなかった。車がロックされ、一瞬光る。そして霖よりも先に玄関へと入っていった。
「茉世義姉さんが綺麗だから照れてるんですよ。行き過ぎてるとは思いますけど、あの人、人見知りですから」
「霖ちゃんめっちゃそれ言うけど、夫のおでとしては複雑なんだからね」
 霖もそれ以上答えず玄関に向かっていってしまった。
「ごめんね、茉世ちゃん。傍に居てやれなくて……」
「急用ができたとお聞きした。蘭さんもお忙しいのでしょう。そんななか、ご迷惑をおかけして……」
「何言ってるの、茉世ちゃん。もうおでたち、家族なんだよ。迷惑なわけないよ」
 蘭は妻の手を取って歩き出した。いつのまにか、夫の頭にはあの三角形の耳が生えていた。写真で見たことのあるマリファナに似た複数本の尻尾も腰に付いていた。
「お空見て、茉世ちゃん。星空!」
 彼女は夫の外貌にばかり気を取られていた。そして空を指差され、その方を向いた。夥しい煌めきが広がっている。
「大好きだからね、茉世ちゃん。ずっと一緒」
 無邪気に笑っている。歳の割りに幼かった。
「蓮くんがおっかないの?霖ちゃんが言ってたけど……」
 しかしそこで肯定したとしても、蘭は蓮の兄弟である。そして肯定したことで、この迂愚な感じの否めない夫が上手く立ち回れるとは思えない。次男坊の報復が怖い。
「嫁としての務めを果たせなかったのは、わたしのほうですから……」
「嫁としての務めって?茉世ちゃんは、おでの傍に居てくれるだけでいいんだよ?」
「そうもいきません。三途賽川のお家に養ってもらうからには……」
 家の中へ戻ると、今日あのやたらと荘厳な集会を行った居間には夕食の支度がしてあった。そして玄関では家政士たちが帰るところだった。茉世は呼び止められる。嫁は別に食事を用意してあるため別室で摂ること、食器は明日の朝洗うため、居間のものも含めて台所に運んでおいてほしいということだった。
 世間の嫁というものと比べればそう大した仕事ではないのだろう。家政士が数人いる。ただ何か、気が滅入るのだった。
「承知しました。お疲れ様でございました」
 茉世は家政士たちを玄関で見送った。居間では兄弟たちが集まっていた。
「茉世ちゃんも、おいでよ」
 蘭は無邪気だった。上座で手招きをしている。
「わたしは別室でいただきます」
 家政士からそう説明を受けたが、蓮の反応が怖かった。
「旦那が食べ終わるのを待ってから……だな」
 案の定、次男は容喙(ようかい)する。
「いいじゃないですか、別に。そんな、古臭いですよ」
 霖は次兄に言い放ってから、茉世のほうを向いた。
「義姉さんも、ぜひ、同席してください」
「ありがとうございます、霖くん。でも……蓮さんのおっしゃるとおりにします」
 霖は眉を下げた。茉世は夫の傍に控えていた。かといってすることはないのだ。彼等は自身で好きに飯を盛り、好きに汁物を注いでいた。ただ彼女は意味も役割もなく、ただただ嫁という立場によってそこにいた。
「ごちそうさまでした。義姉さん、足くらい崩してください。蓮兄さんは意地が悪いんです」
 三男は空いた食器をまとめていく。食べているときの所作といい、彼には気品がある。
「食器はわたしが片付けますから、置いておいてください」
「いいんです。義姉さんは蘭兄さんのお嫁さんであって、僕等の奴隷じゃないんですよ。蓮兄さんには理解できていないようですが!」
 彼は対面に座す蓮を睨んでいた。そして食器を運んでいく。
「ありがとう、霖くん」
「いいえ。当然のことのはずなんです」
 蘭はきょとんと次弟が怒っているのを見ていた。蓮のほうではまったく相手にもしていなかった。霖の隣にいた末弟は対面の兄を気にしているようだった。
「霖くん、今日機嫌悪くない?」
 当の本人は自室に戻っていってしまって不在だ。
「誰かさんにいいかっこうをしたいんだろう」
「誰かさんて?」
「さぁな」
 蘭はきょときょとしながら首を左右に傾げる。
「茉世ちゃんのこと?」
 夫が振り向くのを悟った。咄嗟に彼女のほうも夫を見てしまった。視線が搗(か)ち合う。
「霖くん、茉世ちゃんのこと、綺麗、綺麗って言ってたもんね」
「霖は女を知らない。義姉さん、勘違いだけはさせるなよ」
「はい……」
「勘違いって?」
 蘭が訊ねた。蓮が答えないと知るやいなや、茉世のほうをふたたび振り返った。だが彼女も答えなかった。
「霖くんも茉世ちゃんのことが好きなん?」
 蓮は相変わらずの愛想も愛嬌もない顔をしていた。茉世はぎょっとした。食うのが遅い四男も一瞬首を竦める。
「そうならないようにしろってことだ」
 口元を拭き、食器を重ねながら次男は答えた。
「なんで?霖くんも茉世ちゃんのこと好きならおでは嬉しいよ」
 食器の片付けは嫁の仕事であるらしいが、霖も蓮も空き皿は片付けてしまった。四男はまだ飯を食っている。
「大変だなぁ、みんな。茉世ちゃん、もう大丈夫だよ。ごはん食べてきなよ」
「いいえ。ここで待っています」
「そう?禅も焦っちゃうかなって。ゆっくりでいいよって言ってあげたいところなんだけどさ。食器の片付けくらいおでたちでできるし、蓮くんのことは気にしなくていいよ。茉世ちゃん、ごはん食べてきな」
 四男と目が合った。すぐに逸らされる。鈍臭さが否めなかった。
「待ちます」
 そして四男が飯を食い終わると、彼女は食器を台所へと下げ、冷えた飯を自室で食った。却ってひとりのほうが良かった。誰にも気遣わずに飯を食える。
 部屋は蒸し暑かった。氷を入れた水を飲んで乗り切る。扇風機はコンセントが乾涸びて死んだヘビみたいに畳をのたくっている。彼女はそこに、己を馳せた。暑気中(しょきあた)りを起こす未来が見える。だが扇風機の使用を禁止され、うちわもない。かといって出入りがあれば下着姿でいることもできなかろう。彼女は部屋の隅に身を凭せ掛け、壁と背の狭間を蒸らしていた。
『義姉さん』
 襖の奥で霖が呼ぶ。
「はい……」
 気怠るがに彼女は壁から背を離す。襖を開ける。霖は膝をついて座っていた。それだけでも良家の子息といった気品がある。
「お風呂が沸いてますから、どうぞ入ってください」
「みなさんは入られたんですか」
「いいえ。けれど、お疲れでしょう?それに野郎の残り湯に入らせるのも……」
 色白の美少年の顔が引き攣った。茉世は戸惑った。適度に甘えなければ、この唯一の味方ともいえる三男坊にも見限られてしまうだろう。だが次男が怕(こわ)かった。古き良き嫁というものが現代にも存在すると知らしめたあの義弟が怖い。
「怪我もしていますから、どうぞ、みなさんがお先にお入りください。ありがとうございます」
 霖は眉を下げ、彼女から目を逸らした。そして室内を見ていた。
「扇風機、使わないんですか。暑いですよ」
「肌が乾燥してしまうので……」
 彼の心優しい気質によって、兄弟の仲が悪くなってしまうのは避けたかった。茉世は策略家ではなかった。小心者だった。ここで次男と対立させ、三男を味方につけようも努めるべきだったのかもしれない。だがそうする器量がなかった。
「やっぱり、別の部屋にしませんか。クーラーもありますし、」
「必要ない」
 霖の後ろから、問題の次男が現れた。
「霖。さっさと風呂に入れ。後が詰まる」
 次男に背を向けるかたちで、霖は顔を顰めた。
「お嫁さんが来て早々、倒れでもしたらどうするんですか。蓮兄さん、何事もレディファーストであるべきです」
「彼女はレディじゃない。三途賽川の嫁だ。倒れるのなら躾直す。霖、早く風呂に入れ。子供は寝る時間だ」
 三男は露骨に嫌な顔をして腰を上げた。
「モラハラ野郎」
「風呂に入れ、霖。明日も学校なんだろう」
 霖は茉世へすまなそうに目を伏せ、去っていった。弟がいなくなると、蓮は彼女へカバンを投げつけた。中身が散らばる。財布だの充電切れの携帯電話だの、私物が入っている。
「逃げたらどうだ」
 茉世は蓮を見上げていることしかできなかった。
「逃げるなら今のうちだ」
「……そうですね」
 蓮には表情があった。口の端を吊り上げて嗤っている。
「六道月路(ろくどうがつじ)も哀れなものだな」
 襖は弾かれたように閉まった。茉世は散らかった荷物をカバンにしまった。これがあれば逃げられる。行くあてはないけれど。行くあてはないのだ。六道月路の養父は今頃どうしているのだろうか。新しい生活が始まるとあって、祝い事でもしているだろうか。あの養父は酒が好きだった。帰ったところでどうなるというのだ。恩こそあれ、恨みはないのだ。
 目頭が沁みる。だが堪えた。旧友から何気なく発せられた一言は重荷か戒めか。畳に爪を立てる。だが汗が手の甲へ落ちた。
 やがて蘭がやって来た。彼はすでに風呂上がりだった。少し時間が経っているらしいのが濡れた髪の感じで分かった。
「あれ、まだ茉世ちゃんお風呂入ってなかったんだ」
「みなさんの後に……」
「じゃあもうみんな入ったよ。扇風機使ってい?」
「どうぞ……」
 彼はここに居座る気らしかった。乾涸びたヘビの死骸みたいなコンセントを挿す。
「暑くないの?」
「はい」
 扇風機が動きはじめて、風がやってくる。夫のシャンプーの匂いが乗っていた。
「ではお風呂いただきます」
「ごゆっくり~」
 だが肝心の、風呂場を彼女は知らなかった。また迷宮をぐるぐると回るはめになる。道すがら禅とすれ違った。この子供は義姉の姿に狼狽した。苦手意識をありありと感じる。しかしここで必要以上の愛想を見せてやれるほど、茉世もこの家で好い思いはしなかった。
「禅くん、お風呂場はどちらですか」
 困り顔の猫目が、どこか阿(おもね)るような眼差しをくれた。下唇を浅く噛み、指で方向を差し示す。
「ありがとうございます」
 彼女は小さく頭を下げた。そして教えらたほうへ歩いていく。真っ直ぐ進めばいいらしかったが右手にも通路があった。
「旦那の背中を流すのも嫁の嗜みであるべきだ」
 通り過ぎた時、蓮の声が後方から聞こえた。立ち止まる。
「六道月路も随分と養女(むすめ)が可愛かったみたいだな」
「わたしが特別不出来なだけです。六道月路は関係ありません」
 蓮も髪を濡らし、肩からタオルを掛けていた。昼間と同じく黒い服を身に付けている。
「同じことだ。貴方は六道月路から来た嫁なのだから」
 茉世は拳を握り締めた。掌に爪が刺さる。
「申し訳ありません」
「逃げたらどうだ。返すものは返しただろう」
 彼は知って言っているのだ。
「逃げたところで、他に行くあてなどございません」
「六道月路に帰ればいい」
 これも、彼は分かって言っているようだった。言葉の内容よりも、その悪意を読み取ってしまう。そしてその悪意を軽々と口にできてしまうこれまた悪意に、彼女は傷付いた。
「帰れたら帰っています……」
 声を出すのがやっとだった。ただ力が抜ける。強くはないのだ。再会は望めないであろう旧友に心の中で訂正した。

3


 優しい夢をみた。小学時代、まだ己が立場も理解しきれていなかった頃。無邪気だった。何不自由のない暮らしだった。向けられる視線に込められた哀れみに気付きもせず。


 茉世(まつよ)の布団は夫の部屋に敷かれていた。蓮の差し金である。だが、ほぼほぼ熱帯夜である。扇風機の使用も禁じられ、冷房もない部屋である。夫の部屋はよく冷やされていたし、何よりも初夜であった。しかし、当の夫は寝息をたてていた。寝相が悪い。腰に踵落としを食らって、彼女は目を覚ました。
 だが踵落としを喰らわずとも、茉世は目覚めていたかもしれなかった。クーラーによって喉が痛んでいた。水を欲して部屋を出る。
 台所には小さな明かりが点いていた。水場の蛍光灯だろう。ぼんやりとした光の中で大きな人影が動いた。霖(りん)でも禅でもない。蘭のはずもない。水は諦めようと思った。だが人影が先に動く。戻ろうとしたところにやって来た。
「何の用だ」
 夜のうちにしか活動できない妖怪みたいだった。不機嫌げであっても帯びてしまう甘い質感が暗い中に沁み入っていく。
「あ……その、お水をいただきたくて……」
 やはり台所にいたのは蓮だった。テーブルを前に座っている。茉世は彼がいないもののように、しかし大仰に避けるようにしてグラスを借り、水を飲んだ。素手に洗剤を垂らし、洗ってから水切りに戻す。その間、無遠慮な視線を浴びていた。監視とそう変わらない。
「おやすみなさい……」
 無言のまま立ち去れば、また嫌味を言われそうである。
「旦那はもう寝たのか」
 彼は洋酒を氷の浮かぶグラスに注いでいた。
「は、はあ」
「初夜だろう?契ったのか」
 茉世は俯いた。答えるものなのだろうか。訊かれるのが当然のものなのだろうか。子供はまだかと急かす姑や母の話はよく聞くが、あまりに露骨すぎはしないだろうか。嫁というものはプライバシーを捨てるものなのであろうか?
「答える義理はありません……」
「いいや、ある。貴方には長男の嫁として立派な跡取りを産んでもらわなければならない。何故あれだけ家事代行を雇っているか分かるか?貴方に、長男の子を産む努力をして欲しいからだ」
「……蘭さんは先に寝ましたので、今日は………」
「貴方の色気が足らんのでは」
「申し訳ありません……そういったことには疎いものですから……」
 世間でこの言動を行えばセクシュアルハラスメントであろう。だが嫁に対してならば許されるのであろうか。この男は社会に出たことがないのであろうか。態度といい、言動といい、表情といい、とても今の時代のサラリーマンをやれているようには見えない。
「俺の部屋に来い」
「えっ……」
「指導してやる」
「いや……あの、わたし、」
 蛍光灯に照らされた蒼白い頬は不健康な感じがした。
「困ります……」
「旦那と仲良く子供みたいに寝ていたのではこっちが困る。初夜で契らないだと?何をしている。嫁の自覚はあるのか?貴方の旦那は単純だ。肌を見せて迫ればよかった」
 落ち着いた喋り方である。だが威圧的だった。茉世は自身の認識が間違っているような心地になった。世間はこの男であり、この男こそ世間なのではないか。
「貴方の色気がないから、貴方の旦那は契らなかった。俺の部屋に来なさい」
「夫の部屋に帰ります……」
「やることをやってくれるのならそれでいい」
 彼はグラスを呷った。茉世は夫の部屋に逃げ帰った。
「茉世ちゃん?どしたの……寒い?」
 襖を開けると暗い中で衣擦れの音がした。夫がむくりと起き上がる。
「いいえ……いいえ………」
 あなたの弟がおかしい、とは言えなかった。似ていないが兄弟である。大した深い中でもなく嫁いできた女と長年暮らした弟、どちらを信じ、どちらの味方をするかなど目に見えている。
「おいで、茉世ちゃん。一緒に寝よ」
 夫は自分の掛布団を捲った。
「蘭さん……」
「蓮くんにまたなんか言われたん?気にしなくていいよ」
「あの…………いいえ………」
「嫌なこと訊かれたんでしょ。いいよ、ウソ吐いて。合わせるから」
 布団に座り込み、茉世は震えた。
「おいで、茉世ちゃん。いい子いい子してあげる」
 彼女の腕を掴み、夫は布団の中に誘(いざな)った。彼は妻の髪を撫で梳いた。
「明日蓮くんに、一緒に寝たって言っていいよ。言いなよ。おでから言うの、なんか変だし」
 この夫は、妻と弟との間にどういう会話かあったのか知っているようだった。彼も長弟から口酸っぱく言われているのかもしれない。
「蘭さん、ごめんなさい……」
「茉世ちゃんの謝るとこあった?」
 少し長い爪が頭皮に当たるのが心地良かった。
「怪我もしてるし、暑いし、まだ来たばっかなんだしさ。少しずつで、いいじゃない。蓮くんは器用な子だったからなぁ。人間関係は不器用だけど。おやすみ、茉世ちゃん」
 夫の匂いに包まれ、彼女はすとんと眠りに落ちた。



 朝飯の時間は家事代行が彼等四兄弟と飯を摂っていたため、茉世は自室で朝食を摂っていた。朝とは言え暑かったが、彼女は納涼器具の使用を禁止されていた。氷の浮かぶ水出し緑茶だけで避暑するしかなかった。それでいて汁物も米も熱かった。
 彼女は一人で食っていたこともあって、茶の間の連中より朝食を終えるのも早かった。茶の間の横を通り、外へ出る。日差しからして今日はまた一段と暑くなるようである。車用のアプローチがある裏庭に設けられたポストを開く。新聞と請求書のはがきが入っていた。それらを持って戻る。目的はこうではなかった。ただ外の様子を見ておきたかった。次男も逃げろと言っているではないか。
 戻ろうとしたとき、玄関の引戸がカラカラ軋んだ。黒いシャツの男が出てくる。背丈からして霖でも前でもなかった。日光をよく吸収しそうな黒髪だった。白く炙られた輪が架かっている。
 茉世は息を殺した。昨夜のことは夢ではない。空気と化そうとした。だが簾みたいな前髪に潜む鋭い双眸は敏く彼女を捉えた。
「あ、あの……新聞と、はがきが来ています………」
「ありがとうございます」
 素っ気無く彼は礼を言った。
「玄関に置いておきますね……」
 玄関に入ろうとするが、彼は避けようとしなかった。むしろ引戸が開くことを阻止していた。茉世は顔を強張らせながら相手を見上げた。
「昨夜はよく眠れたか」
「は、はあ……」
 蔑みの眸子が長い睫毛の下からこちらを見下ろしている。
「すぐに抱かれろとは言わん。まずは同衾からでもいい」
「まだ朝ですよ。そんなお話は……」
「業務連絡に朝も夜もあるか」
 彼は言い捨てて出掛けて行ってしまった。茉世は少しの間、そこに佇んでいた。引戸がふたたび、内側から開いた。制服姿の霖だ。アップルデニッシュみたいな黄色のヘルメットのベルトを留めながら出てくる。
「おはようございます、義姉さん」
「おはようございます。学校ですか」
「はい。行ってきます。蓮兄さんに何か言われても、気にしちゃいけません。蘭兄さんは蓮兄さんに甘いので、あまり期待しないほうがいいと思います。でも、気にしちゃダメです。嗤い飛ばして平気ですからね」
「心配をかけてどうもすみません……ありがとうございます。お気を付けて、行ってらっしゃいませ」
 茉世は駐輪場まで霖に連れ添った。自転車の後姿を見送る。彼女は家の中へと戻った。家事代行たちが忙しなくしている。
「茉世ちゃん!」
 茶の間にいた夫が、通りかかった彼女を呼んだ。へらへらと笑っている。複数本も生えた尻尾がぱたぱた上下している。
「お茶飲もう」
 彼が目の前にしているテーブルには2つ丸みのあるグラスが並び、淡いグリーンに大きな氷が透けていた。
 夫は傍の畳を軽く叩き、茉世はそこに腰を下ろした。
「今日は暑いし、おでの部屋にいなよ」
「はあ……けれど、お邪魔になってしまいませんか」
「全然、全然。憧れだったんだ、カノジョがさ、おでの部屋にいるの。蓮くんが羨ましかった。高校生活とかね、青春だなって憧れたな。おで中卒だから」
 頭の上に乗った毛尨(けむく)の三角形の耳がぴこぴこ動く。それが恨めしかった。
「色々すっ飛ばしてカノジョじゃなくて、おヨメさんだけど!おで、嬉しいよ」
 だが天真爛漫な姿は憎むに憎めない。
「お付き合いをなさったことは……?」
「ないよ。茉世ちゃんが初めてのカノジョでおヨメさん」
 彼は身体を傾け、妻に寄りかかった。
「わたしもです」
 小学校高学年になる頃には、以前の養父から口酸っぱく交友関係について言われていた。特に異性との関わり方についてだった。中学生になる頃には明確に、異性との交際を禁じられていた。それでも高校も大学も共学であったし、茉世もこれといって多少の憧れを抱いたりしたことは否めなかったが、異性とどうこうなることもなかった。
「茉世ちゃん可愛いから、モテそうなのにねぇ」
 けれど今となっては、すべてこの夫のためなのだと知る。その本人はまるで能天気だった。
「それを兄さんに言われたら義姉さんの立つ瀬がない。すべては未来の旦那のためだったのだから」
 音もなく蓮は茶の間に踏み入った。テーブルのそばにはつくが、夫婦からは遠めに腰を下ろす。
「そっかー。ありがと、茉世ちゃん。茉世ちゃんがおヨメさんになってくれて、おで、嬉しい!」
 夫はそのまま妻の膝に寝転んでしまった。テーブルに兄が隠れたことで、机上では嫁を虐げるような冷ややかで刺々しく、排他的な睨みを受けた。彼女は俯いて目を逸らした。
「茉世ちゃん、お茶飲んだ?」
「いいえ、まだ……」
 特に今は蓮の目がある。夫よりも先に嫁が口をつけるとは何事だ、とでも言われかねない。
「飲んだら?氷溶けちゃうよ」
「蘭さんがどうぞお先に……」
「そんな昔の運動部みたいに」
 膝の上で、夫はけらけら笑っている。
「お手伝いさんがせっかくの厚意を無駄にしないでいただきたいものだな」
 冷淡な容喙(ようかい)だった。見遣れば、外方を向いている。まるで独り言とでもいいたげだった。
「すみません……そうですね、いただきます。蘭さん、お先に失礼します」
「そんなの、気にしなくていいのに」
 夫がそう言おうとも、彼の長弟はそれを赦さないのだ。だが夫は分からないのであろう。
 茉世はグラスを手にした。そして口をつける。爽やかなほんのりとした苦みが喉を潤していく。ラタン風のコースターにグラスを置き、ふと目を上げたとき、テーブル向こうの次男と視線が搗(か)ち合う。だがすぐに逸らされた。彼の横面を見ていた。まどかな薄い目蓋が伏せられ、どこか考えごとをしているようだった。表情のみを切り取っていえばそれはあまり喜ばしい内容ではないらしかった。いいや、しかし外面とは裏腹に、いかに嫁を、義姉を苛めてやろうかという策略を楽しんでいるのかも知れなかった。
「美味し?」
「はい……冷たくて」
「そっか。んじゃ、おでも飲も」
 妻の膝枕から起き上がり、彼もグラスの茶を呷る。次男はその姿もしげしげと見ていた。夫を盗み見、観察しているかのような義弟を、茉世もまた眺めていた。
「うん、美味し~。茉世ちゃんのも、飲む!」
 夫は妻に充てがわれたものも自分のものだとばかりに、彼女の飲みきっていないグラスを一気に呷った。茉世は茶を飲みたかったわけではないが、違和感を覚えるのだった。同時に、この夫の気質が妙に納得させた。そして、これが嫁ぐということなのだとまた知りもした。
「家政婦さん!茉世ちゃんに麦茶出してあげてほし~!」
 空になったグラスが置くと、彼は近くを通った家事代行へ手を挙げながら呼びかけた。
「自分で入れますから……」
 蓮から何と言われるのか、想像できないわけではなかった。茉世は夫の呼び止めた家事代行へ頭を下げる。恐れている次男のほうを見ると、顔を横に曲げるのが見えた。
「そぉ?」
「はい。飲み過ぎても、あとから困りますから。ありがとうございます」
「ううん。おでが茉世ちゃんのお茶、飲んじゃったから」
 彼は毛に覆われた三角形の耳を寝かせると、ふたたび妻に寄りかかった。数多い尾が畳を叩いている。ひとつひとつ動かせるらしい。ウインドウチャイムみたいに順々に同じ動きをする。
「ちょっと眠くなってきちゃった。もっかい寝よっかな?茉世ちゃん、ここにいなよ。お部屋暑いでしょ」
 しかし彼女は次男の目が怖かった。夫が自室に行きしだい、すぐにでもこの場を去りたい。
「はあ、そうします」
 けれど彼女は往なし方を知らないのだ。
「蓮くん寂しんぼだから、お話の相手してあげてよ」
 名前が出たことで、テーブル向こうの次男は、こちらを見遣る権利を得たとばかりに顔をよこした。
「寝るのか」
「眠くなっちゃって。お茶飲んだら目が覚めるかと思ったんだけど」
 茉世は至近距離で夫を見ていた。だが眠そうだとは思わなかった。顔に出ないのであろうか。
「嫁の膝枕で寝ればいい。新婚なんだからな」
「茉世ちゃんの足が痺れちゃうよ」
「兄さんはもう少し緊張感を持ったほうがいい。義弟たちとはいえ男は男。俺にしろ霖にしろ、話相手になれだなんて口が裂けても言わないことだな」
「じゃあ禅ちゃんならいいんだ」
 蓮は口を引き結んだ。
「あれはまだガキだから」
「でも、茉世ちゃんは自由にしてて。んじゃおやすみなさーい」
 夫が茶の間から出ていった。茉世は蓮を前にして、どう振る舞っていいか分からずにいた。しかし目の前には空いたグラスが2つある。それを持って台所に運ぼうとした。
「旦那のところに行け」
 片膝だけ曲げて怠そうに座っている蓮が、彼女を見上げた。
「邪魔をしては悪いです」
「邪魔にはならん。人避けはしておく。やることは分かるだろう?」
「いいえ」
「本当に分からないのなら俺が教える。本当に分からないのなら、な」
 茉世は目を逸らした。言葉を返す気も起きず、そのまま台所へグラスを運んだ。蘭の部屋に行こうとは思わなかった。彼女は与えられた部屋へと帰るつもりだった。だが義長弟というのはそう潔い気質の人柄ではない。茶の間から出てきて、嫁を捕まえる。
「どこへ行く?」
「自分の部屋に行きます」
「暑かろう」
「構いません!」
 扇風機を禁じた口だ。茉世はいくらか感情的になる。怒りが湧いた。余計に暑くなろう。
「旦那の部屋で涼めばいい」
「寝るとおっしゃっていましたでしょう?お邪魔はできません」
「共に寝ればいい。添い寝すれば」
「しません」
 節くれだった手が、茉世の腕を掴んだ。見てくれだけでは分かりきらない大きな手だった。体温はそう高くなく、乾いている。彼女は己の腕の細さを知った。実感させられてしまった。
「なんですか……」
 旦那だ、嫁だと古風で堅いことを言う割りに、彼は兄(ひと)の妻に対して行儀が悪い。
「旦那の部屋に行け。旦那が寝つく前に胤を搾り取るのが嫁の役割だ」
「行きません!」
「貴方の旦那は寝ていない。寝ていないから……行け」
 茉世は眉根を寄せた。そして掴まれた腕を振り解こうとした。だが放されはしない。
「何故ですか」
 何故蘭が寝ていないと、見もせずに言いきれるのだろう。何故、兄が眠気を訴えていたにもかかわらず、それを妨害しようなどと思えるのだろう。
「行けば分かる。貴方には分からないだろうが、俺と貴方の旦那は兄弟なのでね」
「だとしたら、弟として眠いと言っているお兄さんを寝かせてあげられるくらいの度量を持ったらいかがですか」
「寝ていない。だから行けと言っている。早く甥の顔を見せてくれ」
 茉世は蓮を睨んだ。子を望むまではとにかく、性別まで指定されているのが、心底不愉快であった。叔父の口出すことではない。少なくとも父母の間、或いは祖父母の間の問題である。
「人格を疑います。女性は産む機械ではないんですよ。蘭さんだって種馬じゃないんです!子供はあなたの道具じゃない!」
「あれは種馬だ。種狐……か。そして貴方はそれに嫁いだ。三途賽川の跡取りを産むための女で、跡取りは立派に育てる。勘違いするな。3年子無きは去らせる。それでも貴方は三十路手前。少し遅かったくらいだ。俺が急かすのも分かるだろう?」
 油断している掌から、彼女は腕を引き抜いた。愛想のない顔を強く強く睨む。見下し、蔑むような双眸に動きはない。彼のなかには彼なりの正しさがあり、それを相手に告げたとばかりであった。
「育てる?誰が育てるんですか?蓮さんが?まともに育ちますか」
 だが答えを訊きたいわけではなかった。茉世は背を向けて自室に向かった。北に面していて、他の部屋に比べれば涼しかろうが、冷房に慣れた肌には暑かった。怒りに似た感覚である。彼女は蹲(うずくま)った。子供の話も年齢の話も面倒臭い。厄介なほど意識にこびりつく。冷水で洗う油汚れみたいだ。
 泣きそうになっているところで、外から物音が聞こえた。ばきばき、と何か伐っている。この部屋を翳らせている篠林の中から、ばき、ばき、と聞こえるのだった。茉世は障子と開けた。少し様子をみてから、窓を開けた。確かに篠林のなかに人がいる。頭に手拭いを巻き、白いシャツを着た、よく日に焼けた肌の若い男だった。彼もこちらに気付いた。しかしその拍子によろめいた。土気色の顔をしながら、小さく頭を下げる。茉世も小さく会釈した。唇の色が悪いように見える。褐色の肌をしているが、肉付きはどちらかというと華奢に見えた。外に出て働く者につく肉置(ししおき)に思えなかった。彼は業者なのだろうか。業者には思えなかった。しかし暑い季節の外作業である。会社を示す制服などは着ないのかもしれない。
「少し、お休みになったら」
 土気色の顔と色の悪い唇、立ち眩みが気になった。都合が悪ければ断るであろう。このときばかりは、彼女はこの家の嫁であることに対して強気に出た。
 聞こえていないのか、相手はただへらへら笑っている。垂れていく汗が、茉世をぞっとさせた。彼女は扇風機を点けた。
「顔色が悪いです」
 しかし聞こえていない。そして相手は、ふわりと目を閉じてしまった。そのまま一瞬浮くように倒れていく。茉世はぎょっとして部屋を飛び出した。蘭の部屋に一直線に駆け込もうとした。だが近くにはまだあの男がいた。
「どうした?」
 あれだけ夫妻を同じ部屋に入れたがっていた次男が眉を顰め、襖の引手(ひきて)に掛けた指を剥がしてしまう。今度は夫の部屋に入るのが不都合らしかった。
「庭にいる人が倒れたんです!熱中症みたいなんですが……」
 言ってから、彼女はこの人物に言っても無駄なことのような気がした。家のこと以外、関心のない薄情で残酷げな人間ではないか。協力は仰げない。蓮の手を打ち払って、今度は篠林へ走った。篠を伐っていた人物を探した。場所も位置も分かっているはずだ。しかし……
 伐られた篠さえなかった。森のように茂った篠の狭間に、人の入れる余地はなかった。茉世はたじろぐ。では先程見た人物は?光景は?
 篠の中で、何かが動いた。篠伐りが再開したような、軽快な音だった。やはりいる。彼女は足を踏み出した。靴が小枝を割る。助けなければならなかった。誰かいる。助けなければ。助けなければ。助けて。
 覚束ない足取りが篠の中へ吸い寄せられる。だが、後ろから伸びてきた影に視界を塞がれる。前方に進もうとする足は止まらない。だが目元ごと頭部を押さえられ、茉世の喉は仰け反った。彼女はゾンビみたいに前へ前へ行こうとする。篠林が吸引機みたいに彼女を誘っている。
「見るな」
 薄情者の次男の声だ。
「見ようとするな。中に戻るぞ」
 茉世は眩暈を覚えた。だが頭を後ろにやらせているのだからバランスを崩すのも無理はない。
「誰かがいます……」
 怒るでも嫌がるでもなく、目元を覆われた彼女の声はか細い。
「あれは誰でもない。人だと思うな」
「人が……」
「人はいない。貴方が見たのは夏のまやかしだ。気にしなくていい。部屋に戻るぞ」
 蓮は兄嫁の視界を塞いだまま、彼女の身体を玄関のほうへ回した。
「わたしが見たのは……?」
「気にしなくていい。ここは、忌み地だ。色々起こる」
 篠林を背にしても、蓮の腕は離れなかった。片腕を手綱のように取られ、玄関まで歩かされる。
「忌み地……」
「あまり1人で外に出ないことだな」
 視界が開かれたとき、彼女は耳に、思い出したようなセミの囀りと飛行機か何か、空の唸りを聞いた。そして力が抜けていくように、ふらふらと崩れ落ちる。

4

 林の中を歩いていた。前に進もうとしか思わなかった。拓けた場所で、足元には枯れて乾いた枯草だの枝木だのが薄い色をして堆(うずたか)く、柔らかな踏み心地がした。鬱蒼と茂る木々は空を狭くし、細い葉たちが不気味にそよぐ。
 茉世(まつよ)は林の中に入ろうとしていた。おそらく、相応しい服装はしていなかった。ただ目の前に木々がある。だから理由もなく進んでいくようだった。考えもなく、進んでいた。そこに彼女の意思はあっただろうか?いいや、なかった。彼女の足は勝手に動いていた。
 林の中には色褪せた鳥居や冠木門(かぶきもん)に似たオブジェがあった。鳥居というには朱塗りされておらず、冠木門というには石造りで色や質感も石そのままである。周りは背の低い石の柱で囲われ、敷地の区分が明らかにされていた。
 彼女は神社の作法も守らず、またそういう礼儀作法があることを知ったうえで、鳥居とも門とも言えぬ構(かまえ)を潜っていた。途端、まったく音に対する情報などなかったところに、中年から老年くらいの男のものと思われる野太い読誦(どくしょう)が聞こえはじめた。遠近感のつかめない声量で、それはどこを向いても一定であった。茉世は左見右見(とみこうみ)していた。そしてまた振り返ったとき、殺風景な境内(けいだい)というのか敷地内というのか、そこは一斉に風景を変えていた。まるで祭りのようであった。石を並べて作った道は、灯火を立てて赤く光っていた。石で作られた道の外れ、脇にあった木造の宝物庫と思しきものは、神楽殿のように代わり、そこには人がいた。多くの人がいた。それらは人影に似ていた。茉世は誰ひとりとしてそこに並び、合掌する者たちの顔を捉えることができなかった。顔を見たつもりはある。ただ造形が曖昧なのだ。視覚情報で把握できるものではないらしかった。
 茉世は影のような朧げな輪郭の、かろうじて人々と認識できる者たちが列を作って並んでは、再び並び直していく儀式的なものの先を見た。そこで、距離感のつかめない均された音声(おんじょう)が立体的になる。拝殿に似た建物には巨大なイノシシと思しき獣の頭部が横たわっていた。牙か角か分からぬ部位が見える。頭部のみで牛1頭分の大きさの獣だった。胴体はない。
"うぬも並べ"
 読経のようなことをしながら、同じ声が茉世に語りかける。彼女は得体の知れない恐怖を覚えた。意に沿ったのか叛いたのか、彼女の足は列に加わろうとした。そこに黒い猫が割り入るように横切って阻む。


「起きろ」
 額に触れた冷たさで茉世は目蓋を開いた。寝ているようだが、立ち眩みを起こしたみたいに前後の均衡を保てなかった。転倒の危機に焦り、しかし後ろに倒れようもないことを悟ると、彼女は首を曲げた。嫁に厳しい義長弟が、無防備に顔を覗き込んでいた。彼も本当に嫁の目が開くと思っていなかったのだろう。視線が搗(か)ち合って数秒、互いに停止していたが、目を逸らされてしまった。
「すみません……」
「世話の焼ける嫁だな」
 クーラーのよく効いた部屋は殺風景だった。嫁いびりが生き甲斐みたいな三途賽川(さんずさいかわ)の次男坊・蓮はトレードマークみたいな黒いシャツに、今は薄い上着を羽織っている。設定温度をかなり低くしてあるらしい。茉世も寒さを感じるほどだった。
「わたし……あの、どうして………」
「日射病だろう。自分の体調くらい、自分で把握してくれないか」
 身体を起こすと、厚手の上質なバスタオルがはらりと翻った。掛布団の代わりだったようだ。
「ごめんなさい」
 茉世は思い出せる限りことを思い出そうとした。だが浮かぶのは、横たわる巨大なイノシシの頭部なのである。あれは体調不良のときにありがちな奇妙な夢であろう。意味などないのである。
「旦那の部屋で涼んでいればいい。涼めるかは分からないが。人払いはしてある。嫁としての務めを果たすにはこんな都合の良いことはない。来年の春には元気な子の顔を見られるといいが。来年の今頃には……俺を叔父にしてくれ」
 常に無表情か不機嫌げである冷ややかな美貌には、悪辣な微笑があった。彼は嫁を威圧するのが大好きなのだ。
「ご迷惑をおかけしました」
 掛けられていたバスタオルを畳む。ここにはいたくなかった。会話を終わらせるような調子で彼女は言った。
「義姉さん、貴方はこの家に何をしに来た?」
「嫁いできたのです」
「何のために?何故、兄には妻が必要だった?そもそも結婚というものを世間は甘く考え過ぎだ。何のために結婚する?好き合う2人の関係性を社会が認めて、だから何だというんだ?カップルとして好きにやっていればいい。何故、結婚する?貴方は何のために、嫁がなければならなかった?」
 求めている答えは、言わせたい言葉はひとつなのであろう。茉世はそれを分かっていた。解答は彼との以前の会話にある。問いにするのも愚かなほど、彼は己の望みを明確にしていた。
「蘭さんとわたしのペースで決めることでしょう。蓮さんに口を出されることではありません」
「いいや、俺の口を出すことだ。家督は俺が引き継ぐ。兄じゃない。次の当主は俺だ。義姉さん、貴方は立場を知る必要がある」
 彼は上着を脱いだ。手から放され、落ちて撓(たわ)む瞬間に佳い匂いがふわと薫った。茉世はそれを見ていた。目を合わせぬように。
「俺たち次男以下の務めは、兄が子を遺せるように立ち回ることだ。兄の胤であるのならそれで構わない。義姉さん……つまり貴方を昂らせて、兄を誘惑させればいい。兄の胤でさえあれば、貴方に触れていいんだ、俺も、霖(りん)も禅もな。俺たちは、貴方を兄とその気にさせるためにいる」
 蓮は一気に距離を詰めた。夫もそこまで至近距離に来たことはなかった。鼻先の触れてしまいそうほど迫り、茉世は一度は畳んだが揉みくちゃにしていたバスタオルを胸にしっかと抱いた。威(おどし)かと思った。だが違うらしい。彼の腕は、怯え戦慄く肩を押し倒してしまった。
「蓮さん……こういう冗談は嫌いです。信用を損ねます」
「冗談だと思っているのなら、それこそ冗談じゃない。貴方の務めはなんだ?まだ答えを聞いていなかったな」
 二の腕まで滑り下りてきた手が茉世をそこに封じるようだった。
「蓮さん……」
 ただならぬ雰囲気に、彼女は気圧(けお)される。
「悪いようにはしない。ただ貴方には果たすべき責務がある。その手伝いをするのも、次男以下の同胞(きょうだい)の務めというわけだ」
 茉世は首を振った。しかし蓮は彼女の首筋に顔を埋める。夫婦でも限られた場面での接触であろう。
「大声を、出します……」
「貴方が大声を出して誰が来る?霖は学校だ。禅か?旦那か?」
「こんなのはおかしいです」
「少なくとも三途賽川ではそうじゃない。貴方が嫁として努力義務を果たさないから問題なんだ。旦那に抱かれろ。子を成せ。気が向かないのなら向かせてやるという話なんだが、この話はまた最初からしないとならないのか?二度も三度も言わせるな」
 今は冷えた部屋にいるとはいえ、日射病で倒れたならば汗も流れ落ちたところであろう。神経質げな次男坊は、だがそこへ舌を這わせた。茉世は力が抜け、身体が仰け反った。余計に首を晒すことになる。
「蓮さん……」
「今夜旦那と営め。約束すればやめてやる」
「それ、は………」
 部外者と約束することではないように思われる。
「約束しろ」
 大きな手が腰回りや腹の辺りを撫でていった。夫もそのような触り方はしない。
「しろ」
「やめ……て、ください……」
 寒いほど涼しい空気の中で変な汗が滲み出した。
「貴方の意見は聞いていないよ、義姉さん。旦那と営め。まずは触れ合うだけでいい」
「しません、しません………そんなことを言われている間は、絶対に………」
 茉世も茉世で強情だった。嘘でも合意の姿勢を見せればいいのである。しかし彼女はこの男を見縊っていた。義弟であり、素性の知れた相手であり、外には人がいるのである。まだこの家にも世間と違わぬ公序良俗、倫理、道徳というのがあることを信じていた。威であって、行使の宣言でないと思い込んでいた。ところが蓮は、彼女がどこか油断している隙をついて、服の中に手を入れてしまった。今まで氷水に突っ込んでいたのかと思うほど体温のない掌に茉世の身体が波打つ。
「触らないでください」
「いい心意気だ。貴方は旦那と契ればいい。俺は当て馬なのだから」
 肌を撫でられていくうちに心地良い温もりが生まれていく。茉世は戸惑った。洗濯用洗剤めいたほんのりと甘い花の香りが、いやに彼女を落ち着かせてしまう。相手は怕(こわ)い義長弟だ。相応しくない相手に、人妻として相応しくない触れ方をされている。彼は医者ではないはずだ。触診とは違う。
「蘭さんを、呼びます!」
「呼べばいい」
「蘭さん!助けて!蘭さん……!」
 すると蓮の侵攻は加速した。シャツの裾を捲り上げられ、ブラジャーとキャミソールの一体化した無地の白い下着が露わになる。滑らかな質感で、特に汚れていたり、みすぼらしい様子はなかったが、彼は悪臭を嗅いだネコみたいな顔をした。
「色気がない。下着を買いに行くぞ。それじゃ、旦那もその気にならない」
「嫌です!下着くらい、自分の好きなものを、」
 よりいっそう威圧的な目を向けられて、彼女の語尾は消えてしまった。蓮は彼女の胸元を押さえ、逃げられないようにしてから身体と腕を伸ばして何か手に取った。
「暴れるなよ。怪我するぞ」
 そして視界に現れるのは刃物である。白刃がこれ見よがしに輝いて、真夏の昼間の陽射しよりも眩く見えた。氷柱みたいな指がストラップを浮かせて、手軽な金属は無情にもそれを噛み切ってしまった。鈍色の小さな怪魚は、反対も食ってしまった。
「いや!」
 彼女は止めようとしたのだ。止めようとするあまり、後先も考えず金属のワニに口輪を嵌めようとした。
「手を切る」
 蓮に躊躇いはない。手を放り投げられた直後、繊維の裁たれる音がした。茉世はやっと、この恐ろしい次男坊が本気であることを知った。だがそこには怒りも恨みも欲望も感じないのである。
 留具を失うと、胸を暴かれるのは早かった。無防備に、シロップ漬けの白桃みたいな肌理細かい大きな乳房が、夫ですらない男の前に曝け出される。
「見ないで……」
 咄嗟に胸を隠したが、義長弟はそれを赦しはしない。腕を掴んで力尽くで外させた。そして勃ち上がる先端を的確に摘まれてしまう。
「ああ!」
 突起を捉えた指と指の狭間がやたらと熱く感じられた。
「寒いのか?だからこんなに固くしている?」
 凝りを解(ほぐ)すような手付きに、冷えた身体が温まっていく。律動を持って抓(つね)るような軽い圧迫を加えられると下腹部にまろやかな静電気が起こるようだった。
「ぁ………あ、」
「こんなに硬くしていては、確かに下着が必要だな。けれど、義姉さん。旦那(おとこ)を喜ばすには清楚で貞淑だけじゃダメだ」
 話は聞こえてはいたが、聴いてはいなかった。未知の痺れに思考を奪われ、腰が揺れてしまう。寂しさや悲しみに似た感情が湧き起こり、それはこの状況のせいということは否めなかったが、そのほとんどは物理的に起こっている事象のせいのようであった。
「ぁ………、んっ……ぁ、むね、さわ………」
 蓮を睨んでいた双眸は蕩けていた。閉じられない口腔の中にはさらさらとした水が今にも溢れそうであった。
「感度がいいな。自分で育てたのか」
 小刻みな指の動きが滑稽だった。けれど茉世はそれに気付かない。止めようとして白い腕に巻きついた指は、いつのまにか縋りついているらしき気配を帯びている。
「その声とその貌で旦那を誘惑しろ。最後の一滴まで搾り取って、俺に子供を抱上げさせてくれ」
「は………ぁん」
 上手い具合に指の動きが変わっていく。抓る動きから親指のみで捏ねる動きに変わっていく。茉世の腰がわずかに浮いた。そしてそこで、胸への刺激は潔く終了した。寂しさと悲しみと訳の分からない情動と、下腹部へ継続的に送られていた甘やかな電流がやむ。しかし彼女の臍の下ではまだ艶めいた痺れが滞留しているのである。
「下着のない生活をすれば、少しは色気が出るのか?」
 蓮は無抵抗に四肢を投げ出し、ぽけっとしている茉世のステテコパンツにも手を出した。男が多く履いているようなものが多少女性向けのデザインに変わっている。彼女の服装は機能性を重視したものばかりで、地味で簡素であった。生地や物自体は上質かもしれないが、素朴なあまり貧相に見えるのであった。異性に己の性的価値をアピールする気のない出立(いでた)ちであった。見る者から見れば、健康的な色気はあるかもしれない。だが蘭のような外連味(けれんみ)も分からぬ単純者にそれを解(げ)するだけの情緒があっただろうか。
 蓮は彼女をシームレスショーツのみにしてしまった。ベージュと見紛う淡いピンク色にこれまた気付かないほどの白抜きの水玉模様である。彼は無表情にそれを見下ろした。そして眉のひとつも動かさずに縫目のない薄い布に手を入れた。
「や……め、」
 彼女の知覚は一、二拍遅かった。その腕を止める頃にはすでに触られている。
「ここは、自分で触るのか?」
 下着に手を入れられているというのは触覚のみならず、視覚でもショックなものだった。彼女は持ち上がってしまった布とその狭間を、硬直しながら見詰めていた。
 そこを触るとなると、見た目には節くれだって細かった指が太くしっかりしたものに感じられた。むしろ陋劣(ろうれつ)なくらい野暮ったいほど太く感じた。それは秘裂を破り、襞の窪みへ進んでいく。
「あ………ああ………」
 粘膜と指の間にぬるついた液体があるらしいのが分かった。柔らかなところを傷付けられてしまうかもしれない不安と恐怖に身体も口もまともに働きはしない。
「痛いことはしない。ただ、旦那とすぐ子供を作れるようにするだけだ」
 親指が、ぬるついた箇所の上を押した。そこには厚みと張りのある肉が芽吹いていた。
「あッ!」
 蓮は器用だった。朱裂をぬちぬち抉り、潤んでいく窪みを探りながら、口と片手では胸を甚振るのだった。舌で胸の実粒を轢かれながら脚の間の雛尖を擂られると、全身が融けていく錯覚と、脳天を突き抜けていくような閃きが目蓋の裏で起こるのだった。
「あ、あ、ああ……!」
 冷たい顔と冷たい体表からは想像もつかない熱い舌だった。吸われている。反対の胸では軽く撚(よ)られている。下腹部から上ってくる鋭い感覚が、胸でぼかされて身体中に拡散されていく。
「なんか、ク、る………っあ………」
 茉世は絶頂の兆しを訴えた。途端に蓮は手も口も離してしまった。彼女は惜しげな声を漏らした。彼女の言の通り、何か来そうなものが踵を返してしまったようだ。そしてそれは下腹部に戻って渦巻き、胸の先端まで逃げて解放もされず行き場もない。無意識であったのだろう。茉世は義長弟にグラッセを彷彿とさせる、とろんとした眼を向けた。彼はきっ、と眉を吊り上げて目を逸らす。
「続きは旦那にねだってくれ」
 濡れた指をティッシュペーパーで拭く蓮を、彼女は未知の感覚からまだ抜け出せずに見詰め続けてしまう。性に対する知識はあるつもりだったが、彼女はその点に関して迂愚であった。下腹部で滞る電流みたいな違和感に身動きがとれず、また消し去り方も分からずにいた。
 蓮は一度は兄嫁から目を逸らした。だが名残惜しげにまた視線を戻す。
「早く起きて、旦那に助けを求めろ」
 だが彼女は動かなかった。その眼差しを義長弟に向けるのは適切ではなかった。ところが茉世にどうにかするほどの器量はない。
 やがて無愛想な冷嘲ばかりしていたこの次男坊の昏い双眸に燃えるような欲望がかぎろう。握った拳が震えている。しかし彼はまた、首を軋ませながら兄嫁を視界から外した。
「旦那のところに行け!」
 怒声が部屋に谺(こだま)する。茉世はびくりと跳ねた。眠気に似た、すっきりしない気怠るさを吹き飛ばす。
「それとも俺が呼んできてやろうか?」
 威ではない、本気なのだとばかりに彼は襖へ歩いていった。引手に指が掛かる。夫に見つかったらどうなるのだろう?六道月地(ろくどうがつじ)に戻されるのだろうか。戻りたい。しかし戻ったところで……
 茉世は身を起こした。ここで暮らすのであれば夫に知られるのは愚策だ。蓮の前を通ったとき、彼女は嫌味に備えて身構えていたが、吐き捨てられたのは嫌味ではなかった。さらに恐ろしい要求であった。
「上の下着は置いていけ。必要ない」
「要ります……何を言って……」
「必要ない。二度も言わせるな。脱いでいけ」
 彼女は己の身体を抱いた。ストラップは切られたが、シャツから胸が透けるのを防ぐ働きはまだ残っている。着替えるまで機能するものだった。
「禅は引きこもりで、家事代行も頼まなければここには来ないんだ。義姉さんは、俺を除けば旦那にしか会わない。旦那相手に、何を恥ずかしがる?」
 襖の引手にあった指が落ちていった。彼の要求どおり部屋を出ようとした茉世を、そこから離れさせる。迫れば、彼女が後退るのは無理もない話だった。とはいえそう何歩も退がれはしない。やがて壁に背を打ちつける。
「脱げ」
「い、嫌です」
「脱ぐんだ」
 肩を突き飛ばされる。痛みはない。だが痛みの大小の問題ではなく、その行動に意味を読み取った。彼女は恐ろしくなった。徐々に乱暴になっていくのではあるまいか。段階を踏んだとて、この男は加減を知っているのだろうか。本当に命までとられかねない気がした。震える手でシャツの裾を掴んだ。眩しいくらいに真っ白なシャツからは、まだ六道月地の匂いがして、目頭が熱くなった。楓に会いたい。この状況を楓が知ったら、助け出してくれるのだろうか。いいや、見過ごすしかあるまい。三途賽川のほうが格上らしかった。
 シャツを脱ぎ、畳に落とす。壊れたカップ付きのキャミソールの裾にも手を掛けた。彼女は顔を上げた。蓮を睨んだのか、上目遣いに助けを乞うたのかは定かでない。
「いい子だ」
 薄情げな唇が柔らかく吊り上がった。声は急激に優しく、肩を撥ねた手は頭に置かれる。茉世は蘭と同い年であるから、弟の蓮はいくつか下ということになる。年上の兄嫁を、彼は子供みたいに扱ったのだ。屈辱だった。茉世は泣くまいと必死だった。そして氾濫の兆しがあった。この時間を早く終わらせる術(すべ)を知っていた。彼女は胸元を隠しながら、ストラップの切られたブラジャー付きのキャミソールを脱いだ。
「俺が処分する」
 茉世は落としたシャツを拾い上げて抱いた。膝が戦慄いている。今にもそこに崩れ落ちて、尻までついて座り込んでしまいそうだった。
「退いて」
 すり抜けるつもりが、恐ろしい暴漢の身体にぶつかった。彼女はシャツを着る間も惜しんで襖の奥に逃げた。この家で素肌を晒していることに焦燥する。シャツを被った。胸元には小さな突起が浮いていた。義長弟に散々、捏ね繰り回された……
 だが安心していられない。背後にある恐ろしさに身震いするのだった。はしたないと怒られそうなほど足音を立てて、与えられた部屋へ帰った。蓮の言では末弟の禅は引きこもりであるはずだったし、茉世も他の兄弟と比べていじけたようなあの男児の姿はあまり目にしなかったし、またよく知りもしなかった。だがその子供が彼女に与えられた部屋に通じる大部屋の前をほっつき歩いていた。これは不幸だ。だが不幸中の幸いとでもいうのか、相手は気付いていないようだった。
「何か用?」
 胸元を隠しながら訊ねる。その声は突き放すようだった。この兄弟に愛想を振り撒く価値があるとしたら、それは霖と次点で夫の蘭だ。蘭も、このよく知りもしない可愛げのない子供も憎たらしい。
 禅というのは引きこもりらしいが、小心者である。問いにも答えず、驚かされた子猫みたいに跳び上がる瞬発力とも鈍臭さとも判じられない反応を示した。そして懐かない野良猫みたいにかさかさ逃げていった。長兄みたいに尻尾があれば垂れ下がっていたことだろう。不審な末弟を不愉快げに見送って、彼女は蒸し暑い自室に戻った。着替えるより先に蹲(うずくま)って静かに啜り泣いた。寂しさと屈辱と怒りに、音を殺して喘ぎ、咽ぶ。

5

 夫からみて長弟に弄(まさぐ)られた部分が、夜になって疼きはじめた。茉世は爪先を擦り合わせたり、頻りに寝返りをうったりと落ち着かない様子だった。正体の分からないもどかしさに苛まれている。
「茉世ちゃん……?寒い?」
 隣の布団に入った蘭が身を起こす。
「いいえ……ごめんなさい。うるさくしてしまって……」
「それは大丈夫だけど。なんかあったら言ってね」
 茉世は布団の中で小さく蹲った。胸の先端と下腹部に弱い電流が渦巻いているみたいだった。触れることで誤魔化してみたくなる。けれど人のいる空間でそれは憚られた。いいや、人がいようといなかろうと、彼女は自身でそれをやることも恥じた。
「茉世ちゃんは、今日は何してたの?」
「お部屋におりました」
「そうなんだ。蓮くんといたのかと思ってた」
 茉世は暗い視界の中で目を伏せる。
「少しだけ……ほんの少しだけ、具合を悪くしてしまって、蓮さんに様子を看ていてもらったのです」
 幾許(いくばく)かの沈黙が流れる。
「……今はもう大丈夫なの?」
「はい」
「熱っぽかった……とか?」
「ちょっと、熱中症になりかけてたくらいでしょうか」
 蘭の喋り口はぎこちなかった。
「そうなんだ。ごめんね、傍にいられなくて……あとでおでからも蓮くんにお礼言っておくよ。茉世ちゃんを助けてくれてありがとうって」
 それで会話は終わり、寝入るのかと思ったが、夫はまだ、肘を張って半分ほど上体を起こしていた。
「お茶、飲んだじゃん」
 声がひとつ下がると、しかつめらしく聞こえる。地声を爛漫な性質によって高くして話していたはずだ。
「はい……」
 茶なら飲んだが、どれを指しているのかは分からなかった。だが蘭と共にいたときに飲んだものといえば限られている。今日は朝以外ほとんど離れていた。
「あれ、ちょっと傷んでるから、出されても飲まないほうがいいよ。飲まなくていいからね。逃げてきちゃいなさい。冷蔵庫の麦茶飲みなよ。あの水出しの緑茶は美味しくない」
 よほど眠れず、よほど話題に窮したとみえる。そうでなければ朝に飲んだ茶に悪態を吐こうなどとは思わない
「そ、そうでしたか……?」
「うん。冷蔵庫の麦茶か……ペットボトルのお茶飲みなよ。っていうか名札つけておいてあげる。飲みづらいもんね」
 茉世はその茶に大した思い入れはなかった。横からこの夫が2人分飲んでしまったことに驚いて、かろうじて印象に残っているくらいだった。その後の出来事があまりにも鮮烈であった。だが今放った夫の言を鑑みると、あの行動の意図に思い当たる。彼は今日の大半を自室で過ごしていた。
「傷んでいたということは、お腹を壊されたのでは」
「うーん。でももう平気」
「庇ってくださったんですね。ありがとうございます」
「茉世ちゃんも一口飲んじゃったでしょ。大丈夫だった?」
「はい」
 夫はえへえへと情けなく笑っていた。
「よかった」
 いつのまにか彼の声は高いものに戻っている。そして、身体を起こした。静寂。クーラーが唸っているのはいつものこと。吐き出される冷気は少し寒いが、布団の温かさとちょうど良い。だがそれとは別に空気が急に張り詰めるのを茉世は感じた。夫は上半身を起こしていた。座った体勢にもかかわらず、わずかに背伸びをしているようだった。
「蘭さん……?」
「ごめんね、茉世ちゃん。おでの布団か、茉世ちゃんの布団か、一緒に入ってくれる?」
「え……?」
「寒くなっちゃって。ごめんね。こっち来なよ。おいで」
 夫の腕が布団の中に伸びた。強い力で引き寄せられる。咄嗟のことで、すぐには応じられなかった。
「蘭さん……」
「ごめんね、茉世ちゃん。ごめんね」
 彼はそうとう焦っていた。自身の布団に妻を引き入れるつもりだったらしい。だが彼女はまごついた。何かから逃げて隠れるように、妻の布団に入り込む。腕立て伏せでもするかのように彼女の上へ覆い被さり、布団の中の温かな空気が逃げていく。
 茉世はびっくりして目を見開き、真上にある夫の顔を凝らしていた。だが表情を読み取るには視界不良だ。
 夫と同衾するなど、そう珍しいことではない。だがあまりにも一方的で急であった。しかし嫁の扱いについて古風な家である。妻の身体の自由については夫が握っているのであろう。
「蘭さん……」
 夫の顔が降りてくる。耳元に唇が寄せられた。毛先が頬に触れる。茉世は身を竦めた。
「茉世ちゃん……ごめんね。時々こうしなきゃいけないんだ」
 それはほぼ吐息だった。夫は四つ這いの姿勢で前後に揺れた。
「蘭さ……」
 開いた唇を塞がれる。自身で温めた空気が、夫の律動に合わせて出ていった。冷えていく。大袈裟な衣擦れによって煽られた風はまだほのかに温かかった。
「茉世ちゃん……、茉世ちゃん………好き」
 彼は身体を揺らしたまま突然、天井を仰ぎ、間延びして、媚びた声を出した。茉世は夫の奇行が怖かった。何かしら問題のある人物のもとに嫁いでしまったのでは……
「蘭さん……」
 夫が身を伏せた。上半身同士が重なる。
「ごめん、ちょっと抱き締めさせて」
 声のない声で彼は囁いた。茉世は抱擁される。その体勢で少し経った。やがて、夫が身を剥がす。彼は寝るとき和装であった。襟だの帯だのを整えながら隣の布団に戻っていく。
「茉世ちゃん……ごめんね」
「何か、あったんですか……」
 茉世は夫へ背を向けた。
「……う~ん。おでたちが夫婦なのかなって、見に来たんだと思うな」
 彼女は布団の中で戦慄いた。すぐさま思い当たる人物に辿り着く。蓮だろう。蓮に違いなかった。
「最初に言っておけばよかったよね。ごめん。ショックだったよね」
 しかしそのような状況下を知り、ひとり隠蔽に走ったのはこの夫だ。知らされていれば、彼女は意識するあまり、到底、合わせることはできなかったように思う。
「いいえ……いいんです」
「寝よっか。寝られるかな」
 蘭は軽く笑っている。茉世は暗い視界の中を見回した。
「あの……」
「うん?どしたん」
 彼女は逡巡していた。
「蘭さんは、いいんですか?その……あの、」
 喋っている途中で気付くのである。男とはいつなんどきも女を求め、どのような女でも問わないわけではないということを。夫婦として肉体の契りを求めないのであれば、つまりはそれが夫の意思なのである。互いに好き合い、想い合って結ばれたわけではなかった。この家は古風な価値観の残っているようだ。その家の長男で、主導権を握った夫が求めてこないということは、茉世は好みの女でなかったどころか肉体的に訴えられるところのない相性だったのだ。察することだ。口にさせることではない。
「おでは、平気……その、茉世ちゃんは、したい?その、今日は最後までできないけど、茉世ちゃんに、尽くすよ……」
 一瞬にして彼女は頬を熱くした。夫の声も、平生(へいぜい)より艶っぽい。
「そ、そういうわけではなくて……すみません。出過ぎた真似を」
「出過ぎてないよ……まだ早いかな、とか色々考えちゃって。来たばかりでしょ。もうちょっと慣れてからさ……ね」
 夫は嫌味な人物ではなかった。少しぼんやりしていて変わっているのだ。
「ありがとうございます……」
 長男と次男で足並みが揃っていないのだ。次男は三男のようにはしていられないらしい。
「茉世ちゃん」
 夫婦の営みについての話は一段落ついたらしい。声音があっさりしたものに切り替わる。
「はい」
「ヘビの出てくる夢を見たら、人に言っちゃダメだよ。お金が貯まるらしいからね。じゃあ、おやすみなさい」
 その言葉を聞き終えるか否かというところで、彼女はすとんと眠りに落ちた。エレベーターで降りていくような感覚と共に。



 寒さで目が覚めた。隣ではまだ夫が寝ている。肩で捲れた隣の掛布団を直してから、冷房で痛んだ喉を潤しに台所へと向かった。時刻は6時の少し前だが、夏場となるとすでに明るかった。
 台所にはすでに人がいた。調味料だの常温保管のものだのが置かれた長脚の大きなテーブルに人が突っ伏している。黒い髪に、黒いシャツの袖からは夏だというのに白い腕が伸びている。前には褐色の液体が入った洋酒の瓶と、少量の水が入ったグラスが置かれている。後ろには扇風機が立ち、左右に首を振って嫌がっているように見えた。
 寝ているらしい。神経質な雰囲気とは裏腹に、だらしない人なのかもしれない。茉世は音を殺して冷蔵庫へと近付いた。麦茶をもらうにも肝を冷やさねばならないのか。
「んあ、」
 間抜けな声を漏らして、テーブルと腕を枕にしていたこの家の次男が頭を上げた。茉世はぎくりとした。振り返ると、機嫌が悪いのか、ただ眠いだけなのか分からない昏い双眸と搗(か)ち合う。
「おはようございます……」
 白い手が濡れたように艶やかな黒髪を掻いた。
「昨日は、旦那と寝たのか」
「あなたには関係ありません」
 茉世は構わず冷蔵庫を開けた。すでに下手な字で茉世のものと示す手書きの札が未開栓の麦茶のペットボトルに貼られていた。彼女はそれをもらうことにした。
「何度言っても理解できないか」
 それは挑発だったのか、独り言だったのか。蓮は知っているのではないか。夫婦の寝ている部屋へ探りに来たのではなかったか。あれの正体は蓮ではないというのか。
 茉世は逡巡しないでもなかった。だが夫の健気な隠蔽を思い出す。
「しました」
 蓮は不機嫌そうに彼女を睨み、氷が溶けたらしいグラスの水を飲み干す。そして音をたてて置いた。威圧に聞こえる。
「嘘だな」
「嘘ではありません」
 だが嘘であった。冷淡な唇がいやらしく吊り上がった。嗤っている。
「堂々と、嘘を嘘ではないと言いきる嫁か。恐ろしいな。これだから女は侮れない」
「それこそ、どうして嘘だと、そう言いきれるのです」
 彼は立ち上がった。勢いのあまり丸椅子が倒れそうだったが、どうにか持ち直す。茉世は傍にやってくる義長弟に怯えをみせる。彼はまた嗤った。人を蔑んだ笑みだった。酒臭さを纏っている。
「水を取るだけだ。別に何もしない」
 冷蔵庫が開き、大型のペットボトルが取り出され、グラスに注がれていく。茉世はペットボトルを開けるのも忘れて、握り締めていた。冷蔵庫がまた開いて、すぐに閉まった。彼がグラスを呷る場面を、彼女は見上げていた。それは警戒だった。喉元の浮沈(ふちん)一回、一回を恐れた。とても喉を潤していられそうにない。
「取って食われるとでも思ったのか」
「い、いいえ……」
 茉世は慌ててペットボトルのキャップを捻った。そして茶を飲む。冷たいことだけが分かった。甘い風味を感じているゆとりはなかった。すぐ傍にいる義弟が怖かった。しかし呑気にグラスの水を舐めている男に朝から一体何をされるのだ。ここは台所である。家族共有の場所である。
 茉世はペットボトルのキャップを閉めた。そして冷蔵庫の扉を開ける。ペットボトルをしまい、扉を閉めた。後ろから腕が伸びてきた。左右からだ。気付けば閉じ込められている。真後ろに体温を感じた。冷蔵庫の装甲に映る陰は濃い。
「まだ答えてなかったな、義姉さん」
 何の話だか、彼女はすぐに思い当たらなかった。不気味で不遜なこの男の挙動に意識のほとんどを持っていかれていた。
「男の機能的に、旦那はあんたを抱かなかった……いいや、抱けなかった」
 耳の裏側に息が当たる。茉世は腰骨の辺りがむず痒くなった。首がくすぐったい。背筋が張ってしまう。
「ぅ……っ」
「イかせてはもらえたのか?」
 耳殻に当たるのではない。当てられているらしい。息を吹きかけられたことで彼女は確信した。しかし適当にあしらう術(すべ)を知らなかった。俯いてしまう。頸(うなじ)を無防備に晒した。そこに生温かく濡れたものが這う。茉世はその場で屈み込みたくなってしまった。背筋から腰から、力が抜ける。
「ぁぅぅ……何、して……」
「妻を抱けなくても、イかせることくらいはできたはずだ」
 冷蔵庫についていた腕が、茉世へと絡みつく。そして何もつけていない、就寝用に着ているタンクトップと夏用の寝間着に覆われただけの胸に触れられてしまう。
「蓮さん……酔っていらっしゃるんですか………?」
「いいや。昨晩は、触れてすらもらえなかったのだろう?」
 下から持ち上げるように、彼は掌で脂肪の膨らみを支えていた。
「あ………」
 昨日触られた小さな場所を長く節くれだった指が車のワイパーみたいに左右を行き来した。もどかしい感覚が起こる。訳の分からない焦りだった。
「硬くなってきたぞ」
 ほんの少し2枚の布を押し上げていたものが、明確に張り詰めて天幕を作っている。
「ぁ……う………」
「感度がいいな。旦那も喜ぶんじゃないか」
 指で轢かれようとも、潰れることなく勃ち上がる。
「ふ………ぅう………」
「小さいのに、自己主張の強いやつだ」
 示指が上から突起を捉えて揺さぶった。柔らかな乳房の中に芯があるような気がした。そこに微弱な電流が通っているような痺れが生まれ、脳と下腹部へ分岐しているみたいだった。
 茉世は冷蔵庫に縋りついて、項垂れた。だが晒した白い頸には、赤い濡れ花が這うのだった。彼女はただ首を隠すがために天井を見上げた。
「あぁ……!放し、て……」
「俺が燃やしたことだ。それを旦那は消してくれやしなかった。俺が始末すべきだろう?」
 痛みには及ばない力で、彼は小さな部位を摘んだ。ぼんやりした甘い痺れが全身に広がっていく。
「ん、あ!ぃや……っ」
「胸はこんなに柔らかくて、ここは硬いんだな」
「だ、め………ゃあんっ」
 口を閉じられず、さらさらとした水に近くなった唾液が滴り落ちていく。膝と膝が擦り合わされていく。腰が揺れた。尻に男の身体が当たる。
「俺を誘ってどうする。相手が違うだろう」
「くすぐったい………くすぐったい、から………はなして……………はなして………っ、あぁ、」
 彼の指遣いに、茉世は嬌声を漏らす。硬く凝ってしまっても、弾力を確かめられるたびに、彼女は尻を突き出し、しかし後ろにある義長弟に押し戻される。接したところに熱い膨らみを感じる。
「胸だけでイくか?」
「ふ、ぁあ………っんん………」
 右の耳殻が湿った。温かかった。その瞬間に、彼の指が器用に胸の先端を捕まえて擂(す)った。朦朧とした中に茉世は閃光を見た。身体が痙攣する。
「あああ……!」
 全身が泥になるようだった。足元がふらついた。
「気を付けろ」
 腋の下から腕が回る。涎を垂らした口に、胸の先で暴君みたいに振る舞っていた手が突き入れられた。
「ん、ふぅ……」
 唾液でぬるつく舌を指で挟まれ、引っ張られた。
「旦那を誘え」
「い………ぁ、あ………」
「旦那のほうに、またあの茶を飲ませる。誘え。あれには精力剤が入っている。旦那は断らないだろうさ」
 兄弟で茶の話ばかりしているような気がした。
「は……ぅ、う……」
 すでに彼女には意思がなかった。抱き上げられたみたいに猫みたいに、ぐでりと白い腕に吊り下がっていた。
「いいな」
「い………や、です…………」
「そうか」
 蓮は兄嫁の身体を向き合うように回した。冷蔵庫に押し付ける。
「戻ります……」
「旦那が心配するか?」
 気にした様子もなかった。兄嫁の薄いつくりの寝間着を飛び越え、ショートの中へ手を入れる。
「なんで……っ」
「物足りないだろう。旦那に抱かれる悦びを知ればいい」
「あなたは、蘭さんじゃな………っ、ひ、」
 義長弟の手が秘所を摩った。粘こく潤っているのが彼女は自身で分かった。
「それでも男に抱かれる悦びは、分かるはずだ」
 行動だけでなく、彼の言動、それを露わにできる人格を彼女は侮蔑した。女に自由はなく、男の支配下にあるべきだと考えているらしい。
「やめ、て!最低。最低!」
 彼女は喚いた。白い前腕に走る瘡蓋に、爪が引っ掛かる。
「朝からなんですか。騒々しい」
 台所に霖(りん)がやってくる。品の良い、襟付きのグレーのパジャマがよく似合っていた。まるでファッション雑誌の写真の一枚みたいだ。
「嫁いびりですか。恐ろしいな。おお、怖い。―すみません、茉世義姉さん。冷蔵庫、開けますね」
 霖は物怖じせず、長兄の嫁と次兄の傍へやってきた。
「ごめんなさい……」
 朝だが義次弟は爽やかだった。少し跳ねた寝癖も年相応で可愛らしい。
「朝一番にやることが嫁いびりだなんて、そんなにカリカリしているのはカルシウムが足りないんじゃないんですか。お酒ばかり飲んでいないで、牛乳でも飲めばよろしい」
 そう言って、彼が飲むのも牛乳だった。グラスに半分ほど注いだ。そしてテーブルを回り、冷蔵庫の反対側へ移動してからちびちび飲んでいる。蓮には似ていない丸い目が、兄嫁と次兄のやりとりを観察している。
「ああ、そうだ、茉世義姉さん。使ったコップはわざわざ洗わなくて大丈夫ですよ。水場に置いておいてくれれば。お手伝いさんが洗ってくれますから。遠慮なく水分補給してください。倒れたら大変ですからね」
 昨日のことを揶揄しているものと思った。
「ありがとうございます……」
「うふふ。―なんですか、蓮兄さん。義姉さんと距離が近くないですか。そんなに人懐っこい人でしたっけ」
 霖はシマエナガみたいなかわいい顔に勝ち誇った笑みを添えた。蓮はすんとして、使ったグラスを水場へ戻すと台所を去っていってしまった。
「災難でしたね。あの人、ああ見えてすぐ考え込んじゃうので、台所を寝床にしているんですよ。怒りと後悔と反省の繰り返しが趣味なんですよ。生き甲斐なんです。三度の飯より好きなんだから、巻き込まれたほうは迷惑ですよね。だから飲み物とか、お部屋に持って帰ったほうがいいですよ。あ、水筒買いに行きません?」
「あ……あの、でも……」
「ああ、お金とかの心配ならなさらないでください。義姉さんはもう三途賽川の人ですから。それに夏場に水筒の2、3本買ったからといって、一体何のお咎めがあるというんです。そんなバカ者はいくら身内でも世のために干涸びておくべきだと思います」
 嫌味のない笑みだった。霖は無邪気だ。彼は三男だ。この古風な家で、三男はどれほどの立ち位置なのであろうか。
「それはありがたい話ですが……」
「蓮兄さんのことでしたら無視で大丈夫です。あの人、多分茉世義姉さんじゃなくてもああなんですよ。支配的で保守的なんだな。僕も禅も、結婚するなら婿入りしたほうがいいんですよ。妻が大切ならね。茉世義姉さんは長男のお嫁さんなので大変ですけれど……」
 いくらかの安堵があった。自身の不甲斐なさについて。そしてこれからやって来るのかもしれない義弟たちの嫁について。
「買い物行きましょう。いとこに連絡をしますね。車を出してもらえるので。必要なものをリストアップしておいてください」
 茉世は少し考えた。霖の上目遣いに覗き込まれる。頷いてしまった。


 年若く美しい2番目の小舅に恥はかかせられなかった。久々に化粧をして、六道月地(ろくどうがつじ)に居た頃買ってもらったワンピースを身に纏う。白地に小振りな赤い花と細く入った緑色の柄がある。髪も普段より丁寧に梳かして巻いた。周りの女性に憧れて、養父には秘密で買ったアイロンがある。夏にクーラーもなく、扇風機も使えない環境で使うのは暑かった。だがまだそう日の当たる時間帯ではなかった。
 すぱん、と襖が開いた。何の合図もなかった。着替えているのかいないのか定かでないが、多少袖の感じからかろうじて違うものだと分かる黒いシャツに、下はサンドかカーキー色のカーゴパンツを穿いている男が我が物顔で部屋を覗いた。確かに少し前ならば彼の家の一部屋であったのだからそういう顔をしていてもおかしくはなかった。蓮だ。彼は茉世を視界の真ん中に捉えると、一瞬、目を大きく開けた。だがすぐに眉根を寄せて視界から外す。
「明日この部屋にエアコンを入れる。隣に荷物をやっていい。部屋を開け渡せ」
「え……」
「狭いこの部屋で夫婦よろしくやっていれば、そのうち旦那もその気になるだろうさ」
 茉世は姿勢を正して悄然と身を小さくした。顔もまともに見なかった。鼻で嗤うのが聞こえる。
「どんなに着飾っても下着があれじゃ、な。精々救急車に運ばれないことを祈るよ」
 またすぱんと襖が閉じた。膝の上で拳を握り締めた。怒りを堪える。無駄な汗をかきたくない。これから霖と出掛けるのだった。
 茶の間を覗くと、すでに戻っていた腹立たしい男が紫煙を燻(くゆ)らせ、新聞を眺めていた。あまりそういう匂いはしなかったが、彼は喫煙者らしかった。テーブルの奥に寝転んでいた蘭が飛び起き、讃辞を送る。霖は後ろからやってきた。
「いつにも増して素敵です。隣歩くの、緊張しちゃうな」
 彼もさっぱりとした服装をしていた。
「義姉さんとお出掛けが嬉しくて、ちょっとおめかししちゃいました」
 さらさらとした髪を今日は掻き上げて、形の良い額が晒されている。

6

 霖(りん)は茶の間に首を突っ込んで、二言三言置いていった。すると寝間着とは別の浴衣姿の蘭が玄関までやってきて見送った。
 庭には知らない車が停まっていた。横に日に焼けた青年が立っている。茉世(まつよ)はその顔に見覚えがあった。霖は、兄嫁の異変に敏く気付く。
「どうかしましたか?」
「あの人って……」
 篠を伐(き)っていた若者の顔によく似ている気がした。こちらに朗らかに笑みを向けている。
「いとこです」
 霖のあとを人見知りみたいについていく。
「初めまして。霖さんのいとこの、辜礫築(つみいしづく)永世(えいせい)と申します」
 優等生っぽい感じが、少し霖に似ていた。だが歳は、彼のほうがいくらか上だろう。肉付きからして成人と推せる。
「霖くんの兄嫁の……三途賽川(さんずさいかわ)茉世と申します」
 己の名前も言い慣れなかった。霖は傍で聞きながら、おかしそうだった。
「僕のいとこなので蘭兄さんのいとこですよ。兄嫁って、面白いですね」
「ごめんなさい。わたしったら、不慣れで……」
「うふふ、いいんです。責めたわけではなくて。永にいさんに運転を頼んだんです。暑いですし」
 茉世は霖から、永世とかいうそう歳の離れていなそうな、柔和な雰囲気の美青年に目を遣った。
「そんな……急だったのでは。すみません」
「今日辺り、お伺いする予定だったんです。気にしないでください。三途賽川さんの家には夏休みの間、お世話になりますし」
 どこかアルパカを思わせる人物だった。目元かもしれない。水気を多分に含んだ眼に、睫毛が長かった。伏せ目がちに喋るのも、妙な色気がある。
「そういうわけですから、茉世さんもよろしくお願いしますね」
 季節は夏。しかし風花が散るように永世は微笑んだ。揺れるシャツの袖口から日焼けしていない素肌が見え、元は色が白いようだ。
「はい……」
「乗ってください。今、開けますね」
 眩しいほどの白い車だった。永世が後部座席のドアを開ける。茉世は霖に促され、頭を下げてワンピースの裾を摘んだ。少し車高が高く感じられた。
「お願いします」
 車内には冷気が詰まっていた。ほんの短な時間、外にいただけで噴き出していた汗が引いていく。
 霖も彼女の隣に乗り込んだ頃、永世も運転席のドアを開けた。
「どうぞ、シートは好きに倒してください。あと、飲み物です」
 運転席に座るやいなや、彼は助手席に手を伸ばした。ペットボトルを2つ渡される。
「すみません……何から何まで………」
「いいんですよ。暑いですし。飲み物持ち込んで大丈夫ですから」
 永世はシートベルトを引きながら、いくつかの大型商業施設を挙げ、霖が決める。
 車が発進した。茉世は車窓から、流れていく風景を眺めていた。
「首に掛ける冷たいリングも買いましょう」
 彼女は義弟を振り返った。
「ちょっと外を出るときも、油断なりませんからね」
 小さな音量でかけられていたラジオが歪む。
「霖さん」
 運転手の声が先程より低く、厳かな調子を帯びている。
「はい」
 それは呼ばれたから返事をした、という様子のものではなかった。確信に同意しているかのような物言いだった。茉世は不安になってしまった。2人の雰囲気が剣呑(けんのん)としているのだ。
「茉世義姉さん。驚かずに聞いてください」
 車は走り続けている。運転手と隣の義弟の神妙な空気に意識を奪われていなければ、彼女は市街地にもかかわらず周辺に車の1台も、人の1人も見当たらないことに気付いたかもしれなかった。
「は、はあ……」
 クーラーが鬱陶しいほど寒く感じられる。
「異界に迷い込みました」
 すぐに返答できなかった。何を言っているのか聞き取れたつもりではあるが、意味が分からなかった。となれば聞きこぼしがあったようだった。
「はい……?」
「異界です。ちょっと複雑なお話なのですが……僕等の住んでいる家は、少し、妙な曰くつきでして…………怖がる感じのことじゃないですよ!幽霊が出るとかじゃないです」
 霖は両手を振った。その仕草が愛らしく、強張った彼女の表情がわずかに和らぐ。
「三途賽川が、まぁ……簡単に言えば、ちょっと違うので一緒くたにはできないのですが、大体似たようなものとして…………神社やお寺なんかのお祓いする家、みたいに思ってくださると、手っ取り早いかもしれません」
 茉世の脳裏に、意地悪な義長弟の言葉が甦る。
『―ここは、忌み地だ。色々起こる』
「だからたまに、巻き込まれちゃうんですよ、異界に…………普段生活してるところにそのまま被さってるみたいなんですけど、ちょっと違くて……誰もいないでしょう?」
 指摘されてやっと、彼女はそのことに気付くのだった。
 車は無人の大通りを走り抜けた。機能していない信号機のある大きな交差点を直進し、半分ほど渡った頃にフロントガラスが光に包まれた。そしてそのなかをさらに抜けていくと車窓の外は市街地ではなくなっていた。忽如として林が現れるのである。道はなかった。運転手は車を停める。
「茉世さんは降りないでください。少し辺りを見てきますから」
 永世は霖に目配せをした。霖は頷く。運転席のドアが開き、閉まるときの音は車内に染み渡っていく。
「大丈夫なんですか……?」
 怖くなって、茉世は霖に訊ねた。車の外の林の中を、永世は左見右見(とみこうみ)している。
「大丈夫ですよ。そういう家系なので。すみませんね、茉世義姉さん。怖いことに巻き込んでしまって。掌をお借りしても?」
 霖は落ち着いていた。飄然とすらしていた。その態度によって茉世も焦らずに済んだ。手を差し出す。嫋やかな感じのする細く白い指が、彼女の掌で何かを描く。
「お呪(まじな)いです」
「あの………わたし、蓮さんから………ここは忌み地だって…………聞いたことがあるんですけれど………」
 この話は打ち明けていいものか分からなかった。しかしこの義次弟のいう「異界」と関係がある気がしてならなかった。
「それにわたし…………永世さんと、どこかで会ったような気がしていて……」
「僕等の家が建っているのは確かに忌み地というやつですね。先祖の因果が子孫に報い、とでも言っておきましょうか。異界にいた永にいさんと、茉世義姉さんのいたところが交わっちゃったんですね」
 甲を支える冷たい手は心地良かったが、掌を這う指先はくすぐったかった。
「―か、永にいさんの姿を借りた、人でないもの、かです。うっふっふ。怖がらないでください。事故物件だとか、幽霊云々の話ではないですし、災いが降りかかるとしたら、茉世義姉さんひとりというわけでも、僕等家族一帯というわけでもなく、あの街全体のことですから。赤信号もみんなで渡れば怖くないでしょう?」
「ここからは、出られるんですか」
「出られますよ。安心してください。ちょっと、僕がぬかりました。もう大丈夫です」
 義弟の白い手が離れかと思うと、彼はいつの間にか、朱色の鉛筆を持っていた。小学生が丸付けに持たされるような、ありがちなものだった。彼は自身の掌にもその朱筆を這わせた。そして、茉世は視界を覆われた。朱色の図形が掌にあったのは見えたが、焦点は合わなかった。


「大変でしたね」
 窓の外で、車が夏の昼間の熱風を切っていく。茉世は目蓋を持ち上げた。霖は運転手と喋っているようだった。彼女は背凭れから身を剥がす。
「お目覚めですか」
 可憐な義弟がこれまた可憐さを強調するようは儚げな微笑を持って振り返る。
「す、すみません……寝てしまって……」
「永にいさん、運転上手いからなぁ。蓮兄さんは運転が荒くて」
「そんな、そんな……車種もメーカーも違いますし……」
 茉世は義弟と運転手の機微を探ろうとしていた。だが何も窺い知れそうにない。夢だったのだろう。異界だの忌み地だの痴(おこ)の沙汰だ。気違いの戯言だ。
 そのあとは、難なく大型商業施設へと着いた。必要なものを買い、昼前には混雑する駐車場を抜け出した。
「茉世義姉さん」
 熱された車内が少しずつ冷えてきた頃、ふと霖に呼ばれて車窓から目を放した。
「これ、プレゼントです。お嫁に来てくれたお祝いに」
「えっ……」
 彼女はびっくりした。
「子供の贈り物ってことで、ちょっと安物なのは大目に見てください」
 瑞々しい桃みたいな色の舌をちろりと見せて彼は小さな紙袋を差し出した。
「ううん、ううんありがとう……何から何まで……開けさせてね」
 白地に金色ともベージュともいえない線で大振りなチェック模様の入った紙袋だった。エレガントな印象がある。開くとまたセロファンの袋があった。黒い髪ゴムが入っている。レモンが2つ並んだチャームが付いているが、女児用を思わせる幼さはない。縁(ふち)と裏側が手塗りのような金色で、これもまたエレガントな仕上がりになっていた。
「ワンピースが赤いお花の柄だったので、イチゴのほうがいいかなって思ったんですけど、レモンかなって。永にいさんも、レモンがいいって」
 名前を出されて、運転席からも朗らかな笑みが聞こえた。
「ありがとうございます。でも、いつ……?」
 店内で2人と別れた覚えがなかった。
「茉世義姉さんが水筒選んでるときです」
「そうだったんですね。わたし……そんな長いこと………でも、ありがとう、霖くん。永世さん。ちょっと付けてみます」
 茉世は毛先の巻かれた髪を束ねた。彼女は嬉しかったのだ。安物だと霖は謙遜したけれど、あの家に拒まれているような心地がしてならなかった。まだ慣れずにいたし、蓮は嫌なことばかり言う。挙句の果てには身体に触れて嫌がらせをする。だが霖は、年若いなりに考えていた。
「似合ってますよ。やっぱりレモンにしてよかったな。イチゴだとちょっと甘ったるいし、服装も限られちゃいますもんね」
 車内はすでに冷えていたが、頬は熱くなってしまった。
「大事にします」
 シートベルトがなければ、この義次弟を抱き締めてみたくなるくらい、彼女は嬉しかった。いいや、シートベルトがなかったとて、彼女は遠慮をしただろうけれど、この義次弟に対しては家族でありたいと思えた。
「よかったです」
 嫁いできて初めて、幸福な心地を覚えた。だが家に着くと、気分は重くなった。車が裏庭にある駐車場へと至る坂道の砂利を踏んで軋らせる音が、彼女を憂鬱にした。実際、彼女は憂鬱な目に遭うのだった。
 車を降りるとき、運転手を務めあげた永世に礼を言った。彼からは金魚が2匹泳いでいるゼリーを2つ手渡された。
「おめでとうございます。旦那様とおふたりで召し上がってください」
 白い装甲が反射し、不思議な光沢が彼に加わった。見上げた面構えに、やはり見覚えがある。茉世は不躾に、見詰めてしまった。永世は嫌な様子も見せず、首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
「い、いいえ……すみません。知り合いに似ていたような気がしたものですから……」
 彼女は言えなかった。相手に覚えがない、それは妙な誤解を与えかねなかった。既婚の身でありながら、軟派で口説き屋の女と思われかねなかった。それも嫁ぎ先の庭である。
「茉世義姉さんの周りには、そんないい男がいたんですね」
 霖は永世が荷台を開けるのを待っていたらしかった。ひょっこり顔を出す。
「ああ……ごめんなさい」
 茉世は永世を止めていたこと、そのために霖を待たせていたことを詫びた。彼等は温厚だった。
「今、開けますよ」
 永世が脇を通っていく。
「荷物は運んでおきますから、茉世義姉さんはおうちの中に入っていてください。お嫁さんを炎天下に晒したのかって、僕が怒られちゃいますよ。うっふっふ」
「ですが……」
「軽いですから。暑い中、お疲れ様でございました。茉世義姉さんとデートできて楽しかったです」
 霖の厚意を無下にできず、彼女は小さく頭を下げて、その言葉に甘えることにした。
 茉世は玄関を開けた。玄関ホールには義長弟が腕を組み、仁王立ちになっている。
「た……ただいま、帰りました………」
 彼は相変わらず黒いシャツを着ていたが、肘に至る袖に気付くことができれば、着替えていることが分かった。そしてハーフパンツやカーゴパンツがジーンズに替わっている。どこか出掛ける矢先に、邪魔をしてしまったらしかった。そのために機嫌が悪そうなのだろう。いいや、これは常であった。睥睨(へいげい)しているのも。彼は兄嫁を蛇蝎(だかつ)の如く嫌っている。
「すみません、今、どきますね」
 彼女は脇に避けて、裾を気にしながらサンダルのストラップに手を掛けた。
「下着を買いに行くぞ」
「え……あの、」
「俺と義姉さんの昼食は断った。付き合え」
 そこで引戸が開かれる。
「うっわ……びっくりしたぁ」
 霖はわざとらしかった。
「そんな、白昼堂々、玄関でまさか、兄嫁を口説くなんてことはありませんもんね」
 またもやわざとらしくそう言って、霖は玄関に入ってきた。遅れて永世も頭を下げて入ってくる。
「お邪魔します。蓮さん、こんにちは」
 背を向けて玄関を閉める様が恭(うやうや)しかった。
「禅以外はそこにいる。霖。嫁を借りると兄に伝えておけ」
「それは茉世義姉さんの返事次第ですね。歩き回ってお疲れでしょうし」
 霖は脇に避けて、先に永世を玄関ホールへ通した。
「どうする」
 蓮の目に威圧を感じる。霖は肩を竦めた。
「蓮兄さんのことだから、嫁修行とかいって道端で茉世義姉さんを車から降ろして、この炎天下を歩いて帰ってこいだとか言うんでしょう。ああ、恐ろしい。嫁いびりされるのが分かっていて、大切な兄嫁を売る真似が僕にできますか?大体、蘭兄さんはなんて言っているんです?蘭兄さん!蘭兄さん?蘭兄さん!」
 蓮は忌々しそうに、彼にとっての長弟を見遣る。玄関ホールを抜けてすぐの茶の間から浴衣の蘭がのそりと姿を見せる。
「ん~?あ、おかえり、茉世ちゃんと霖ちゃん。暑かったでしょ、アイス食べれば」
「蘭兄さん。蓮兄さんが茉世義姉さんをデートに誘っていたんですよ。どう思いますか」
 浴衣の上から蘭は泰然として腹を摩っている。
「ん~、茉世ちゃんの好きにしたらいいんじゃない?ここんところおうちにいたしさ」
「蓮兄さんにいじめられます!今日の朝もいじめてました」
 蓮は弟に好き放題言われていたが、容喙(ようかい)することも、弁解することもなく、不機嫌げな眼差しを茉世にくれるのみだった。
「えぇ~?茉世ちゃんのコトいぢめないでね?」
「別にいじめてない」
「いじめてる側は気付きませんものね!」
 蘭は弟たちの意見を右耳から左耳へ、左耳から右耳へ聞き流しているようだった。腹を掻きながら宙を見ながら首を左右に捻っている。
「断れないんですよ?茉世義姉さんは」
「生活用品を買い揃えにいくだけさ。明日は業者が来る。俺の手が空かない」
「業者って?」
「義姉さんの部屋にエアコンを入れる」
「この時期に?よく取れましたね」
 彼は拗ねたのか、弟の追及に応えなかった。
「生活用品って何買うつもりなんですか」
 玄関は取調室と化していた。妻と弟がデートなどという話を聞いても、夫は暇げに大きな欠伸をして目をしょぼつかせ、茶の間からは永世が首を突き出して様子を窺った。
「下着、洗剤、それから部屋着と、いくつか外着も要るだろう。こういうものは旦那は知らないほうがいい。意外性があったほうが、兄さんも楽しいだろう?」
「うん……?うん。行く、行かないは茉世ちゃんが決めなよ。おいで、霖ちゃん。アイス食べよ」
「昼食は断ったから、いずれにしろ外に食べに行く」
 蓮は靴に足を突っ込んだ。茉世の隣に立つ。霖はただ次兄を見上げている。この兄弟の仲が悪くなってしまう。霖にすまなく思った。
「行くぞ」
 少し温かい手に腕を掴まれた。
「ありがとう、霖くん」
 蓮には答えず、その奥にいる可愛い義弟に言って、彼女は引っ張られた。玄関を出ると離される。そして引戸が軋りながら閉まった。
「弟を誑(たら)し込めなんて、俺は一言も言っていない」
「一言言われたとしても、蓮さんの言うことなんてききませんので安心してください」
「好きに言っていろ」
 蓮は腕を引いた。茉世は肩を外されてしまうかのような恐怖を覚え、よく焼けた砂利の上を自らの足で歩いた。
「わたし、下着も服も要りません。ごはんだって、別に今日一日くらい……」
「要る。あんな下着で旦那が喜ぶはずはない」
 艶やかな黒い車が一瞬光った。ロックが外れる。
「洗剤もボディソープも違うものを使ってもらう。同じ匂いがすれば家族だ。家族に発情するわけはない。子も成してない義姉さんたちは、まだまだ男女でいてもらう必要がある」
 後部座席を開き、彼は兄嫁を押し込んだ。
「わたし、そんなお金持ってない」
 この義弟は嫁に対して吝嗇家であったはずだ。光熱費云々と言って、初日に夫婦同室を推していたではないか。
「ふん。嫁に使う金はない。ならばこの話は無しだ。戻るぞ」




―となるはずであった。
「そうだろうな。俺が出す。別に構わない。俺の一方的な要望で、いずれは家に関わることだ」
 兄嫁を後部座席に押し込み、彼は運転席に着くと、車内全体が一斉にロックされた。
「下着を買うって……蓮さんも来るんですか………」
「義姉さんは、信用できる趣味をしているんですか」
「女性用下着のお店に男の人がいるのは、他のお客さんに悪いです」
 シートベルトの音に引かれて、彼女もシートベルトをつける。真っ黒な車体に真っ黒な内装だが、シートベルトだけは赤い。
「下着専門のブティックに予約を入れた」
「ブティックって……」
「日常で使うのならサイズが合っていたほうがいいだろう。旦那と営むときのはまた別のところで買ってやるさ」
「セクハラやめてください……」
 霖と永世と過ごした車内よりも息苦しかった。茉世は顔を伏せ、小さくなっていた。強力な冷風で髪が揺れる。
「何が食べたい」
「何でもいいです……蓮さんと食べると、全部同じ味がしそうですから……」
「嫌いなものは」
 この男と食べるものだと答えれば、霖の言っていたとおり、車から降ろされそうであった。
「別にないです……でもいいんですか。嫁と食べるって、おうちとして良くないことなんじゃ……」
 嫁と飯を食うのは穢れとでも返ってくるのだろう。躊躇いもなく、むしろ正義として口にしそうなものである。
「何故」
「だって、食事は別室で摂っていますし……」
「普段は旦那がいるからな。男女でそんな無防備な姿を晒すのは良くない。互いに品の悪さが見えたら冷めるさ。それを避けるためにな。旦那がいなければ、別に一緒でも構わん。俺や霖や禅となら好きにすればいい」
 彼の運転は、彼の長弟がいうほど荒くはなかった。
「夫と食事を共にしないのに、夫婦生活……ですか」
「長く続くには、深く知り合わないことだ」
「それは、蓮さんのご経験によるものですか?」
 茉世は彼の底意地悪い笑みを真似してみた。
「……知りたいか?」
「いいえ、まったく。けれど、蓮さんがもし結婚するのなら……相手の方がお気の毒だと思って」
 この男に結婚生活というものが営めるのであろうか。
「俺の妻ならあれこれ言わないさ。喜べばいいじゃないか。自分より立場が下の人間ができて」
「もし霖くんや禅くんが結婚するってなったとき……婿入りを勧めます!こんな口煩い小舅がいるなんて可哀想です」
「誤解しているな。弟たちの嫁に興味はない。好きにすればいい。借金持ちでも反社でも不治の病の患者でも、どうぞお好きに。だが兄嫁はだめだ………この説明が要るのか」
 蓮は呆れを露わにした。
「蓮さんはお付き合いしている人はいないんですか。いいんですか、兄嫁の下着なんて見繕っていて。後ろめたい相手はいないんですか……今おっしゃったように深く知り合わないから構わないんですか?」
 この男がもし誰かと交際していたとしたら、裏切りに近いことをしているだろう。いいや、情愛が介在していないのだから裏切りではない。彼ならばそのような屁理屈を捏ねそうである。
「いない。今は俺の恋愛にかかずらっている場合じゃない。早く旦那との子を産んでくれ。そうすれば俺も恋愛をしてみる気が起こる」
「だとしても、おかしいです。わたしは蘭さんの妻なのに………」
「義姉さんは旦那の子を産めばいい。旦那は義姉さんを抱けばいい。義姉さんと旦那の間に愛あるセックスなんてのは要らん。段階を踏むのは構わないが、最終的には生殖をしてくれ。それまでの下準備をするのが弟たちの務めだ。俺たちは当て馬で、旦那は種馬。けれども霖はまだ未成年で、禅は精通もしてないガキ。俺がやるしかあるまい。子供の2、3人を遺してくれたら、義姉さんは好きに浮気でも不倫でもすればいい。出て行ったっていい。子供は俺たちで育てる」
「女の子でもですか。子供というのは男児だけを指すのでしょう」
 茉世の声が厳しくなる。

【TL】ネイキッドと翼

【TL】ネイキッドと翼

化狐長男に嫁いだ先の義弟たちに色々なイミでいぢめられる話。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2023-07-21

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著作権法内での利用のみを許可します。

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