海の底で見る夢

海の底に沈む貝殻を贈ろう。
陽射しが真上から照りつける僅かな時間しか光の届かない深海。
波に揺られた光を溜め込んだ貝の表面は、虹色に輝くという。
彼女の喜ぶ顔を想像すると、深い鈍色をした夜の海の不気味さも、いくらか和らいでいくようだ。
空には無造作に宝石をばら撒いたような星たちが、夜を彩っている。
足元からは、早く飛び込めと波の音が私を急かした。

私は大きく何度か深呼吸すると、肺に八割程度の空気を吸い込んで息を止める。
海にせり出した岩の上から、数メートル下の海へ飛び込んだ。
爪先が海の表面を突き破ると、凍える程の冷たさが身体の芯を打った。
私は全身の筋肉を弛緩させ、波のリズムに鼓動をあわせていく。
身体の隅々を海と同化させていく感じだ。
次第に海の体温と私の体温が等しくなり、冷たさは遠くなっていく。
思考は回転をやめ、 細胞に眠る海の記憶が脳裏に浮かぶ。
足の先、指の先にまで十分に意識が行き届くと、私は潮の流れに乗るようにして海底をめざす。
海面近くは、それでも月の明かりが僅かに海中を照らし、自分の輪郭くらいは感じることができた。
しかし、少し潜るだけで頼りない月光は海に飲まれ、真っ暗な闇が訪れる。
私は流れに手を引かれるようにして、深く深く潜っていく。
普通の人間にはここまで長い間、息を止めていられるものはいない。
私は普通ではなかった。

私の一族は昔から海との繋がりが深く、先祖は人ではなく海人という妖であった、とさえ伝えられている。
その海人が人間の女性と結ばれ、私たちの一族が生まれたというわけだ。
もちろん信憑性も根拠もないデタラメに違いないが、私たちが海に対して特別な能力を有する点では、無視することが出来ないのも事実だ。
私たちはそれを海と同調すると表現している。
波の揺れに鼓動を合わせることで海とひとつになり、長く海中に潜ったり、遠くの音を聞き分けたり、潮の流れに乗って早く泳いだりすることが出来る。
丸一日潜ることの出来る者も、かつてはいたそうだ。
今では一族の生き残りは、私と身体の不自由な父親の二人だけ。
滅びを待つだけの種だ。

どれだけ深くもぐったのだろう。
視界はとうに暗闇に閉ざされている。
私にしても、ここまで海の深くにまで潜ったのは始めての経験だった。
息はまだ十分余裕があったが、水圧が身体中を締め上げてくる。
まだ底は見えない。
視界の隅で一瞬、強い光が揺れたような気がした。
私は視線を落ちていく海の底へと向けた。
少し先では、赤や青、紫に緑、色とりどりの明かりを灯した何かが漂っている。
「いけない」
思った時にはすでに遅く、光は急速に近づき、私は光の中へ入り込んでいた。
密度の濃い液体のような身体をくねらせ、あちこちで鮮やかな色彩が暗闇を彩っている。
「クラゲだ」
幻想的な光景とは裏腹に、背筋に緊張が走る。

光の中心からは、ユラユラと細い触手がいく本も伸びている。
触手は四方から私を取り囲み、手や足に絡まりついてきた。
無理に動こうものなら、全身に絡まりついた触手が、一斉に私を攻撃してくるだろう。
私は思わず肺に溜めた息を吐き出してしまった。
海の中では、思考の揺れは天敵だ。
何かに囚われれば、海の声は途端に遠ざかる。
息苦しさと不安が私の心の端に手をかけようとしていた。
私は目を固く閉じると、海の音に意識を集中する。
コポン、コポンと気泡の昇る音が何処からか響いてきた。

気泡の音はすぐ側から聞こえるようでもあり、どこか遠くから聞こえてくるようでもあった。
目を閉じた暗闇の中、脳裏にはユラユラと形を変えながら昇っていく気泡が、鮮明に映っていた。
私の意識は再び海と一つになり、かつてない程、海の気配を濃く感じていた。
身体にまとわりついていたクラゲの触手は、私に興味を無くしたのか、ゆるゆると解けた。
更に奥へと落ちていく私を相変わらず波揺られながら見送っているようでもあった。
息苦しさは全くなく、水圧も気にならない。
いつまでも、どこまででも潜っていけそうな気がした。
海はますます深く、蒼くなっていく。
ふいに、冷んやりとした恐怖が音もなく私の背筋をつたっていった。

「海に呼ばれても、決して応えるんじゃない」
聞き覚えのある声が耳の奥で響く。
今ではほとんど声を聞くことのなくなった父の声だ。
幼い頃、海のことはすべて父から教わった。
海の恵もその深さも。
「いいか、覚えておけ。
俺たちは海の声を聞き、海から恩恵を貰って生きている。
だが、海は俺たちにとって味方ではない。
俺たちの身体は海に近い。
だから時に、海は俺たちを取り込んで海の一部にしたがる。
そこに善悪はない。
いわば本能のようなもんだ。
だから海から呼ばれても決して応えるんじゃあないぞ」
何度も何度も繰り返し聞かされたため、記憶の底に深く刻まれた言葉だ。
この話をするとき、父はいつも険しい表情をし、苦しんでいるようでもあり、何かを思い浮かべているようでもあった。

「これがそうなのだろうか」
私は不思議な高揚感に包まれながら、真っ暗な海の底へと視線を向ける。
視界はまったく閉ざされているが、私には深海を泳ぎ回る生き物の気配を、自分

の皮膚の上を歩き回っているように感じていた。
私と海は、今ひとつになっている。
進めという声と、止まれという声が同時に頭の奥で響く。
海の底はまだ見えない。
私はどうしても、海の底に沈むという虹色の貝を持って帰らなければならない。


コポン、コポン。
暗闇の中を、小さな音が響いている。
気泡の立ち昇る音は、海が漏らす吐息のようでもあった。
胸の奥にため込んだ何かを、一息には解放せず、少しずつ少しずつ吐き出していく。
その息はやがて海面へとたどり着き、空へ溶ける。
いくつかは雲の一部となり、いくつかは風に乗って海を渡るのだろう。
私の意識は暗い海の底近くにあって、空の色をありありと感じとっていた。

視界の淵に薄らとした明かりが滲んでいる。
一瞬、青空の残像かとも思ったが、明かりは潮の流れに合わせて、頼りなく揺れていた。
私は視線を明かりの方へと移した。
真っ暗な深海の奥、ところどころで頼りない明かりが揺れている。
潮の加減に合わせて、その小さな光は赤や青、紫、緑、それらが混じり合って虹色に輝いていた。
人の心を惹きつける、幻想の色をしていた。
私は無意識に手を伸ばし、足で水圧の壁を蹴っていた。
明かりはみるみるうちに近づいてくる。
気づいた時には私の両足は、海の底の地面をとらえていた。
私は地上を歩くようにして海底を歩いた。
足元では、虹色の明かりを灯す貝殻が、星空のように広がっている。
私は夢中でそれを拾い集めた。
手の中には、 数十個の貝が乗せらている。
「海の恵みは両手で少し余るくらいにしておくものだ。
それ以上は荷が勝ち過ぎる」
耳の奥でまた父の掠れた声が聞こえてきた。
私は頭を振って声を振り払うと、勢いよく海底を蹴って浮かび上がった。
私にはこの貝が必要なのだ。

粒子の細かい砂の粒が煙のように広がっていく。
両手に抱えた虹色の光は、私が水を掻き分ける度、広がり、滲み、消えていった。
早く早く。
目的の物を手に入れた私の心は、先へ先へと意識を走らせた。
しかし、どれだけ昇っても海面が見えてくる気配は見えない。
底へ辿り着いたのと同じだけ昇ったようでもあり、まだ半分もきていないようでもあった。
心が急いているだけ、身体の感覚が曖昧になっていた。
ふと、自分が海面へ向かって昇っているのか、海底へ向かって潜っているのか、分からなくなった。

何時の間にか海の声も聞こえない。
あれ程の高揚感は消え失せ、潮が音もなく満ちるように、深海そのもののような恐怖が心の隙間に滑り込んできた。
途端に息苦しさが私に牙を剥く。
海面はまだ遠く、影さえ見ることは出来ない。
視界は徐々に狭まり、意識は遠のいていく。
意識が私に向って閉じてくる。
海の水が一粒一粒の雫となり、私の脳裏に染み込んできた。
僅かに残された意識が泡立つ。
父が見た光景はこれだったのだろうか、そして母も。
思考の尾ひれを捕まえる前に、私の意識は暗い海へと沈んでいく。
私の意識を追いかけるように、虹色の光が海底へ向かって、後から後から落ちていった。

海の底で見る夢

海の底で見る夢

海の底に沈む貝殻を贈ろう。陽射しが真上から照りつける僅かな時間しか光の届かない深海。波に揺られた光を溜め込んだ貝の表面は、虹色に輝くという。・・・

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-06

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