【TL】くだらない痛快の憂

破局END/ルッキズムヒロイン/かわいい系幼馴染美青年/ルッキズム(外見差別)的描写あり/身体・体質的特徴を差別的に扱う描写あり

1

 容姿端麗ではない女は、恋愛から身を退くべきだ。

 彼女は酒に酔った勢いで大体そのようなことを口にした。叫んでから、顔を伏せる。いくらか後ろめたさもあったようだ。
 共に酒を飲んでいた藤掛(ふじかけ)未散(みちる)はぎょっとしながら幼馴染を見遣った。
 伊豆井(いずい)信深(のぞみ)は埋めた腕の少し上から酒気を帯びた瞳でどこか凝らしていた。
「すごいことを言うな、のぞちゃん……」
 色の白い、線の細い美男子だが、どこか気の弱そうな空気感を漂わせている。酔った女の往なし方も分かっていないようだった。
「恋してる女がかわいいなんて、嘘」
 説教する矛先を見つけ、彼女は活き活きとしはじめた。
「う……うん……?」
「どうして、あのブスなの……」
 信深は行儀の良い女ではなかった。純真無垢な女ではなかった。可愛げのある女ではなかった。
「よく分からないけど……性格が良かったんじゃないかな。一緒にいて楽しかった、とか……」
 未散はやはり見た目どおり、気の弱い男だった。幼馴染の悪辣な主義を諌めもしない。
「かわいくない女、好きだもんね、男って」
 彼女は穏和な幼馴染を睨むこともしなかった。
「じゃ、あたしだってモテていいのかもね……」
 ときに信深は困惑するのだ。外見について言及された過去がある。小学時代はそうだった。中学時代まで続いたかも知れない。いじめられていたという認識はない。ただ外見について言及された。親から、同級生から。地味だと。色黒だと。厚ぼったいと。天パで芋っぽいと。第二次性徴を機に徐々に変わってきた。だが自己に対する評価には大きな影を落としたまま。現在の彼女は色白で、華奢だった。顔から肉が落ち、スレンダーな感じだった。化粧や髪の加工を覚え、流行を追う。煌めいた青春はもう過ぎ去って、戻ることはないけれど。いいや、体質ごと元に戻るのなら、無い方がましだ。
「どうして?じゃあ、のぞちゃんは可愛いから、モテないよ」
 故意か否か、けろりとした顔をして未散は言った。この幼馴染は幼馴染であるが、信深の前に人格はなかった。共に酒を飲み、主義主張をぶつけられる相手がいればそれで良かった。つまり彼の意見など聞いていないのである。耳には入っていた。だが事勿れ主義の幼馴染の社交辞令に意味はなかった。彼女は己が美しくあることを望み、また信じたかったが、だが過去に何度も受けた言葉がひとつひとつ打ち砕いていく。世間の自身を美人と勘違いした女たちのようにはなりたくない、そういう自尊心も彼女の耳に栓をする。受け取り方を知らない。
「なんであのブスなの……?ブス好きなんだ?胸が大きいから?お尻が大きくてさ。股開いたんだ」
「のぞちゃん。口が悪いよ」
 未散の語気がわずかに強くなる。
「いいなぁ……あたしも静風(しずか)くんと付き合いたかった………」
 握っていた酒缶が潰れる。
「のぞちゃん」
「静風くんと付き合えたのもムカつくケドね、大して可愛くもないクセに静風くんみたいなハイスペ男を恥ずかしげもなく狙ってるのが一番、ムカつく」
 幼馴染は無だった。ただ独り言が苦手な彼女には、そこに人が必要だった。それも、何を言おうが差し支えのない相手が。
 未散は明らかに不快な顔をした。ウサギやシマエナガやエゾモモンガみたいな可愛らしさの残ってしまう童顔が歪んでいる。
 剣持(けんもつ)静風(しずか)は信深の狙っていた男だった。高学歴で容姿端麗、一流企業勤務で、ちょっとした有名人だ。大学時代の友人に招待されたパーティーで知り合った。そのときから人気で、"競争率"は非常に高かった。
「でものぞちゃん、本当にその人のこと好きだったの?」
「あんなB専!誰しもが完全無欠とは言えないのね。よく分かった。あっはっは。あのブスがヒロインの映画に、あたしゃ巻き込まれてたのね。エキストラでね!あの2人を盛り上げる……」
 世の中は気に入らないことばかりだ。信深は高らかに笑い始めたはいいが、徐々に勢いを失していった。
 大して美人でもない、どこか醜さすらある、愛嬌と雰囲気、肉感のある女の恥知らずな勘違いぶりに腹が立っている。たとえば剣持静風の選んだ女が絶世の美女であったなら?腑に落ちただろう。美女では仕方がないのだ。美男美女の生活にドラマティックな夢想を馳せることもできた。だが相手が顔の美しくない女では残ったのは薄気味悪さだった。気持ち悪さだった。腹立たしさだった。
「あんなB専、もうどうでもいいや。女のシュミが悪いんじゃ、全然、ハイスペックなんかじゃない。あーあ……ハイスペ男と結婚したいな……」
 酒を呷った。解決しようのない欲望が助長される。焦りが湧いた。込み上げる所在地不明の惨めな気持ちは、一体どうすれば満たされるのだろう。
「それでそのあと、どうするの?」
 未散の問いには答えなかった。聞こえていないわけではない。答える必要がなかった。考えてみるつもりもなかった。
「なんで俺のこと、誘ったの」
「男だから。別の生き物だから。女ってのは、横の繋がりが入り組んでて面倒臭いの。アンタには分からないでしょうケドね!」
 悪態を吐ける問いについては彼女は饒舌になった。
「女の友達に、嫉妬してるって、思われたくなかったんでしょ。別に俺ならよかったけど」
 何かがちくりと、縫針のようなものが刺さった心地がした。鋭くも小さな痛み。驚き。痒みがあれば掻くように、熱湯をかけてしまったら冷やすように、それを誤魔化したくなった。
「何よ、アンタ」
 酔いが一気に覚めていく。
「そうでしょ。ムカついてるんじゃないよ、のぞちゃんは嫉妬してるんだ。自分より下って決めた人が自分よりシアワセニなってるのが許せないってコトでしょ。自分の醜さに気付かないでさ。全部をブスかそうじゃないかってコトにして。嫉妬してるって認めたら、負けたってことになっちゃうから、精一杯、ムカついてるってことにしてるんじゃないの。剣持くんだってバカじゃないんでしょ。そういうところ、見抜いてたんでしょ。全然、ハイスペックだよ」
 情けない、頼りない、居ても居なくても大して変わりのない幼馴染は淡々と並べ立てた。
「なんなの、なんなの、アンタ……」
「いつもみたいに愚痴聞かせてくるのならいいよ。でもなんでもかんでも他人のせい。そんなカッコ悪いのぞちゃん、見たくなかった」
 悪意を楽しく増長していた酔いは覚めた。だが酒気が消え失せたわけではない。信深は新しい酒を開けた。そして急に反抗してきた幼馴染にぶちまけた。
「うわ、」
「見たくなかった?じゃあね!帰りますよ。さようなら!アンタとは金輪際会わないから安心して!」
 多少の後ろめたさがあった。ほんのわずかな罪悪感が、テーブルの上のレジ袋に空缶だの空いた容器だのを突っ込ませた。そして屠殺したニワトリみたいに持って彼の部屋を出た。
 幼馴染の家は近所だった。外へ出ると、妙に蒸し暑い空気に包まれる。
 周りに人がいないことが分かると、彼女は数歩は平然としていたが、突如咽び泣き始めた。
 他責に走りたいときこそ自責に追いやられている。後ろめたさがあれば向き合いきれない。彼女は己がろくでもなさ、器の小ささを認めきれずとも多少なりとも自覚していないわけではなかった。だが認めたら最後である。おそらくすべての意義を無くすことが分かっている。髪のケア、加工、流行のメイクを追うこと、料理の研究、ダイエット、トレーニング。すべて無駄と気付いたとき、変えようのない性分と付き合っていかなければならなくなる。
 ありのままで生きるよう呼びかける歌が流行っていた。けれどありのまま生きてはいけない類いの人間もいるのである。そうしたら挫ける人間が。
 この世はいかに溜飲を下げていくかである。そうすることでしか、プラスアルファの幸せを得られないこともある。プラスアルファ、これが幸せの実態だ。食うに困る、着るものに貧する、金がない、家がない、頼れるあてがない。それらが満たされている退屈な日々を幸せとはいわない。人は欲深いのだ。
 そして彼女は今ある感情を冷ますために、藤掛未散の連絡先を消すのである。ついでに着信も拒否するのである。保育園から高校、大学は違えど交流は続き、社会人になって数年。長い付き合いだったが、別れは突然来るものであるから仕方がない。相手は生きているのだから死別の悲しみもない。比較的楽な離別ではなかろうか。長年共にいた相手でも、分かり合えないことはある。
 明日の朝辺り、覚えていたなら訪れる虚しさ、空虚感が楽しみだった。ろくでもない自身をろくでもない自身が正当化に走って慰められる。これが癖になっていた。それ自体は誰の迷惑にもなっていないはずだった。それ自体については、部外者に責められる謂れはないはずだった。薄気味悪さは理解できるけれど。
 帰って風呂に入り寝るだけである。化粧が崩れるのも構わず彼女は涙を拭った。
 心がブス、性格がブスだのは、顔面の醜い者たちが各々溜飲を下げて納得するために作り上げたまやかしだ。あの幼馴染が言いたかったのはつまりそういうことだ。容姿について散々揶揄われたことを、彼も実際目にし、耳にしていたはずだ。長い付き合いである。いくら垢抜け、瀟洒(しょうしゃ)になったところで彼の認識も中学生辺りまでの人物像で止まっているのだろう。色黒く、下膨れで、がっちりとして太ましく、縮れ毛で、野暮ったい。彼女はそれが嫌になった。嫌になってしまった。気にすべき事柄だと知らされた。
 見た目が良ければすべて許されるのだ。性格がブスなどということはない。性格にブスというものはない。
 彼女は少しの間、家の前で蹲(うずくま)って落ち着くことにした。
 剣持静風についても、ブスの姫川美佳についても、もうどうでもよかった。確かに顔の可愛くなさがどこかいやらしい、好色的な感じがした。間延びした喋り方、どんなつまらない話にも笑い、ところどころ同意を求め、勘違いさせるような思わせぶりなことを言う。圧倒的に、プライドが邪魔をした。自身が自身に評した「そうではなさ」が邪魔をした。気に入りの男を得るには折れねばならないこともあるだろう。しかしそうまでして……
 否、ハイスペックの容姿端麗な男性と交際し、結婚に至ったとき、すべてが解決する。惨めさは雲散霧消する。些細なことで溜飲を下げる必要のない暮らしがあるはずなのだ。止まり方を知らぬ。
 己の容貌に気付かないでいられたうちは幸せだった。それが悪しきことなどと知らずにいたうちは。色白でなければいけなかったし、そうでなければ日焼けを避けなければならなかった。脂肪は敵であり、細くなければ女ではなかった。目は大きいか、二重目蓋でなければ醜い。唇は薄く、小さく、顎は短く、顔は小さく、髪は直毛でなければ。
 藤掛未散には分からないことだ。何しろ性別が違う。求められるものが。けれど彼は容姿がよかった。剣持静風のようなテストステロンを強く感じさせながらも微かな嫋(たお)やかさでバランスをとっているような感じではないが、色白でスリムで、颯々(さつさつ)と靡く色素の薄い直毛を持っていたし、麗らかな二重目蓋には霜柱みたいな睫毛を携えていた。艶福家だった彼には分かるまい。学級委員気質で実際に学級委員だの部長だの生徒会をやってきた善人には、所詮理解の及ばぬ感情である。
 だとすると猛烈な寂しさを覚えた。何も通じることはなかった。だが同時に安堵した。己の恥部を理解されていないのなら、この絶縁によってすべてを無かったことにできるのだ。
 人の感情は複合的で然る。虚しさがまったく無いというわけではなかったけれど……


 数日後、インターホンが鳴った。両親は出掛けているため、信深はチェーンを掛けたまま玄関扉を開ける。時間的に、配達員や新聞屋などでは無さそうだった。近所の人だろうか。しかしそこにいるのは未散だった。迫ってくる素振(そぶ)りが見え、信深は閉めてしまった。絶交を求めたのは彼のほうのはずだ。信深の認識ではそうだった。確かな言葉にしたのは自身であるけれど。文句でも言いに来たに違いない。けれど関係を絶ってからわざわざ言いに来るのは、いくらなんでも都合が良すぎはしまいか。それならば絶交など求めなければ良かったし、文句を言い終えてから絶縁を宣言すれば良い。すでに断ち切れた仲なのであるから、今更の不平不満不服は黙すべきだ。彼女は口元を「へ」の字に曲げた。第一、化粧もしていない顔を見せたく誰かに見せたくなかった。彼女はすでに風呂に入っていた。マスクでもしてくればよかった。
『開けてよ、のぞちゃん。開けて』
 玄関扉が叩かれる。
『のぞちゃんと話したいことがあるんだ。のぞちゃん。ケータイ、繋がらないし。ごめん。謝るから、のぞちゃん』
 信深は面倒臭くなった。2階へと上がる。所詮未散には分からないことである。それがよく分かった。持たざる者と持った者の仕方のない分断だった。未散に話したところで、理解はしないのだろう。それを求めてもいたが、だがあの反発を見ると、求めていたものとは異質のものを抱いていたらしいようである。つまり今まで易々と共に酒を飲み、悪態を聞いては、優越感に浸っていたに違いない。侮蔑して、嘲笑していたのだ。可憐な顔をして恐ろしい話だ。優等生の善者、成人君子を装って。いやいや、それは本当なのかも知れないが、本当であるがゆえに、着飾ることしかできない卑しい醜女の惨めな悪態を酒の肴にしていたのだ。赦せない。
 また陰鬱な気分になった。未散が来るまではまったく忘れていた。彼のことも忘れていたし、己の恥ずしさについても忘れていた。恥知らずでいたかったが、恥を知っていることは弱みだ。恥知らずを装うほうが賢いのだ。彼女はつらくなってしまった。そこから抜け出すには美貌が必要だった。美貌があれば優秀な男が手に入る。優秀な男の承認こそが、惨めで恥ずかしい己からの脱却なのだ。そのためには痩せねばならなかったし身体を引き締めなければならなかった。肌が荒れてはいけないし、浮腫んではならない。乾燥などは大敵だ。髪も潤いと艶を保たせ、癖をつけてはいけない。縁を切った幼馴染に構っていられやしないのだ。
 けれど手につかなくなってしまった。未散さえ来なければ思い出さなかった大敗。三十路の手前だ。剣持静風はチャンスだった。
 泣けば浮腫む。美の敵だ。けれど彼女はまた咽び泣きはじめた。未散さえ来なければ。あの日は無駄だった。酒なんぞ飲むのではなかった。美を害す。
「信深」
 母親が部屋の扉を叩いて、中へ入ってきた。母親の前ですら、彼女は素顔を晒すのを嫌がる。マスクを探すところだった。
「家族の前なんだからいいじゃない。誰もアンタの顔なんか見てないよ」
 そうは言われても気になるのだった。
「そんななら、整形でもすれば?」
 美容整形について考えなくもなかった。貯金はしているし、SNSでは情報を集めてもいる。けれど自身としては今の顔だも満足はしていた。だがハイスペックな男は手に入らない。ということは努力の方向が間違っているのだ。美容整形はおそらく必要なのかも知れなかった。
「で、用はなに」
「そうそう。未散くん来てたんじゃないの。ちゃんと応対しなきゃダメじゃない。書置きポストに入ってたけど」
「そこに置いておいて」
 信深は母親に背中を向けていた。顔を見せないようにしていた。顔の造形について何か言われるのが怖かった。己のこだわりについてバカにされるのを恐れた。
「親に顔も見せられないなんてね!」
「ブスなんだから、仕方がないでしょ」
 そうすると母親は用を済ませて出ていった。マスクをしなくて良いのならそれがいい。肌が擦れてしまう。
 信深は未散がよこしたという書置きを一瞥した。だが読まずに引き裂いて捨てた。絶縁とはそういうものだ。言い出したのは相手である。考えが甘すぎやしないか。軽んじられているのだ。なるほど、彼は確かにつらがよかった。軽んじられている。美しくないから。美しいつもりでいる。けれど長い付き合いは、信深と言えばブスであるという印象を十分に植え付けていた。ばかにされているのだ。だから簡単に、絶交を言い渡せるのである。
 紙を引き裂いた音が耳に残った。破いているあいだ、何かの機(はず)みで指を切ってしまっていたらしい。紙による切り傷は治るのも早く痕にもなりにくいことは知っている。しかし、痕になったら醜い。いくらネイルを綺麗にしたところで、傷痕があれば意識はそこにいく。
 かわいくなりたかった。美しく。それが当然のように。けれどその星のもとには生まれなかった。下を見て、足蹴にして、相対的な幸せを噛み締めて、なけなしの優越感を味わうしかない。それがあの幼馴染の嘲笑するところなのかも知れないけれど。



 未散は、母親がいるときに来た。話がややこしいことになる。信深は部屋に通すしかなかった。すでに部屋の前には来ているのだから。母親は出掛けると言うから、すぐに帰すこともできるだろう。
 未散は小さく座って黙っていまし、信深も自ら離別を望んだ幼馴染に話しかけることなどなかった。何しに来たのだろう。
 母親が玄関を出ていく音がした。
「あたしも出掛けるんだけど」
 だから帰れと言う意味を、この聡い幼馴染が分からないはずもない。
「のぞちゃん」
 大きな目が上目遣いに信深を捉える。
「あたしも出掛けるからさっさと帰れって言ってるんだケド、分からない?お留守番でもしててくれるってワケ?」
「のぞちゃん……ごめん。この前は、本当にごめんなさい」
 頭を下げる未散を、彼女は一瞥もしてやらなかった。
「のぞちゃ……」
「あれがアンタの本音じゃん?いいんじゃないの。別に媚びる必要なくない?」
 彼女はネイルを眺めていた。次は何色にしようかと迷っていられたときはよかった。だが血色から似合う色味とそうでない色味があるらしかった。そうなると選択肢は狭まる。迷わないのはいいことか。
「怒ってるよね……」
「怒ってるとか怒ってないとかカンケーないでしょ。アンタは本音を言った。それだけ」
 未散がどういう顔で何をしているか、彼女はまったく見ていなかった。SNSで整形についての投稿を眺めている。
「本音だったとしても、のぞちゃんの傷付けるコト、言うべきじゃなかった」
「傷付けることを言うべきじゃなかった?でも本音なら仕方ないよね。本音を言った結果がこうなった。それは仕方がないでしょ」
「仕方なくない」
「仕方なくない?傷付けないためなら嘘八百でも並べられるって?まだ優等生みたいなコトやってんの?大変ね」
 婚活アプリを開いて、ハイスペックな男を探す。高学歴で、一流企業勤め。こういう出会い方では嘘も見抜かないとならなかった。
「そんなこと言ってない」
「あたしが怒ってるとしたら、本音がどうこうの話より、アンタがわざわざ来たことよ。カッコ悪いあたしを見たくないって言ったのはアンタなの。でも、あたしはそういう女なワケ。つまり絶交するのが折衷案として最適ってコト。分かってる?つまりあれは絶交の宣言だった。なのに会い来たりして、考えが甘くない?バカにしてんだね、あたしのこと。アンタは見た目が良くて、昔からモテて、あたしが非モテのブスだから?別にいいけど。確かにそのとおりだし。それもまたアンタの本音だとしても、否定するのがバカらしい明白なんだし」
 信深は戯けて見せた。口にして苦しくなることに酔っていた。自分の機嫌は自分で取れという言葉があるが、それなら自身の広げた傷で自身が気持ち良くなってもいいはずだ。
「のぞちゃんはブスじゃない!」
「だからいいって。ブスって言われるのも癪に障るケド、本音言うとあたしが怒るから嘘吐くコトにしたんでしょ?それじゃ同じ意味じゃない。傷付けるから怒らせるからで無難なこと言うのやめときなさいよ、アンタが軽く見られるから」
 ふと思い出して、彼女は指の傷を見た。だが本当に切ったのかと疑うほど、痕はない。そして可愛いらしいネイルに意識が向く。だが指だけ綺麗で可愛いくても仕方がない。
「のぞちゃん、変だよ」
「顔が?」
「顔が、顔が、って顔ってそんな大事なの……?」
 信深は未散を真正面から捉えた。そして力強い眼差しで放さなかった。幼さの残る美貌に怯えが浮かぶ。
「顔のいいアンタが言ってもね。顔面焼いてから言いなさいよ。ぎたぎたに切り刻んでからさ!」
 そして笑った。ハイスペック男も怖気付いて逃げ出すような笑いを声を上げた。

2

 分かり合うことはなかろう。家が近所でさえなければ、言葉を交わすことすらなかったに違いない。信深(のぞみ)は未散(みちる)に背を向けた。
「帰って、未散。顔が大事じゃないなら、アンタは心の美しいドブスと付き合えばいいじゃない。心がヘドロみたいなあたしは、顔がかっこいいハイスペ男を見つけるから。さよなら、未散。これで誤解はすっかり解けたでしょ」
「のぞちゃん……俺は、のぞちゃんがブスだなんて思わないし、のぞちゃんがブスだったとしても、俺は……」
「アンタはね。アンタの物差しはそれでいいかも知れないケド、あたしはそうじゃない。顔のいい人には分からないよ。顔が良いのがデフォルトなんだもんね、気付くワケないか。アンタにこの顔を貼り付けてあげたいくらい。ブスって言われたコトないでしょ。羨ましい。顔が良いのが普通だから、ブスにコクられても気にならないんでしょ?顔が大事ってことに気付かないから」
 同年代の男性と比べても未散は肌艶がよかった。髭は薄く、毛穴は見当たらず、白玉団子みたいな肌理(きめ)細やかさだった。抓っていじめたくなる。
「のぞちゃんの問題は、もっと違うところにあると思うな」
 未散には何も分からないのだ。太りやすい体質も、服の形によっては恰幅がよく見える体格も、簡単に日に焼け、荒れ果てる肌も。そのためにどれだけの手間をかけるのかも分かるはずがない。それでいて容易に一刀のもと両断しようとする。ここまで無理解な人物だったろうか。長年の不毛で悪辣な愚痴に、とうとう堪忍袋の緒が切れたというわけだ。ならば解放するしかあるまい。
「……ご忠告ありがとう。だから帰って、未散。もう二度とその整いきったかわいいツラ見せなくていいし、呼び出したりしないから。さ、帰って。あたしは顔も心もドブスだからね。同族嫌悪のブス嫌いなの」
 未散は帰ろうとしなかった。立とうとすらしない。信深は彼に近付いた。腕を取ろうとする。小さい、小さいと思っていた幼馴染は、いつのまにか大きくなっていたし、腕も逞しくなっていた。
「未散!いい加減になさいよ」
「のぞちゃんが、好き……なんだよ。このまま帰れるわけ、ない……のぞちゃんのこと、好き、だから……」
 シマエナガみたいな顔が真っ赤に染まっていく。信深はそれを冷ややかに見ていた。
「はいはい、ありがとう、ありがとう。ブスに気を遣ってくれて。でもこれは罰ゲームじゃないのよ、未散。気を遣わないで。余計に惨めになるからね。アンタはやられたことないでしょうケドね。ほら、帰って。静風(しずか)くんと同じB専さん」
 適当に受け流し、信深は未散の腕を引っ張った。早くこの幼馴染を叩き出して、彼女は一人、泣きたくなっていた。自身をブスと評するにもダメージを負う。口にしなければいいのだろう。だがこの偽善者なのか愚鈍な善者なのか分からぬ人畜無害な幼馴染には、強い言葉を使ってやっと伝わるか伝わらないかというところなのである。
「のぞちゃん……!俺は本当にのぞちゃんが好きなんだよ」
「ありがとね。でもだから、それで何が解決するっていうの?嫌いだったらわざわざ来ないものね。でも恨んだりするつもりもなかったし、アンタのコト忘れてるくらいだったんだから、善い人キャンペーンなんか別にしなくても平気だったんじゃない」
 未散は、ぽけ、と少しの間呆けているように見えた。呆気にとられている。いやいや、何かショックを受けているような。それから信深の腕を掴み返す。
「未散?」
 ブスが気安く触るな、とでも怒鳴ってくれたなら話が早かった。傷付き、傷付いた分だけ己を癒す。性格がさらに捻り曲がっていくのと引き換えに。
「のぞちゃんのこと、俺は女の子として、好きなんだ」
 反射的に、信深は後退ってしまった。だがすぐに慣れる。驚いてしまった。あまりにも縁遠い単語だった。
「嘘は言わなくていいって……」
「嘘じゃない。気休め言いたいとか慰めたいとか、そんなんじゃない」
「いいって……いいって、そういうの……余計に惨めになるだけだし、帰ってよ」
 幼馴染が怖くなった。知ってる人ではなくなってしまった気がした。
「いい人やりたいからお酒付き合ってたと思ってるの?違うよ。のぞちゃんが好きだから。ハイスペックが好きなんでしょう?だから秘めておこうと思ったけど……」
 信深は未散が一気に成長してしまったように見えた。
「のぞちゃんはブスじゃないし、別に俺だってブスか可愛い子かって言われたら可愛い子のほうが好きだよ」
 シマエナガみたいだったのが、急にオオワシみたいなのになっていたら驚く。
「いいって!慰めのヘタクソ!顔が良いのに、だからモテないんだ」
 掴まれた腕を取り戻そうとするが、未散は放さない。
「俺も、顔のかわいい子がいい、性格の良さなんて顔がかわいくなきゃ興味もないって言ったら、のぞちゃん、余計に変な方向行っちゃうでしょ。のぞちゃんが見てるのは過去だけじゃん。ずっと、足踏みしてるんだ」
「帰って、未散。アンタなんか嫌い」
「嫌だよ、のぞちゃん。俺はのぞちゃんが好きなんだよ。俺はハイスペックじゃないけど……のぞちゃんのこと好きな人はきっといるから……」
 信深は薄気味悪くなった。告白されたことがないわけではなかった。だが関わったこともないような男たちであった。ただ輝かしく気の強い女子たちと違い、邪険にしなかった、という点にのみだ好意を抱かれた。関わりもない、華もない、情けない、弱さに甘んじた怠惰で内気、手前を無害と信じて疑わない向上心のない輩。それは侮辱だ。大量生産、大量消費された陳腐なアイドルたちの安い歌に踊らされている。好意を告げることは必ずしも高尚で清いことではないのだ。加害だ。侮辱だ。脅迫なのだ。汚染である。襲撃と何が違う?
「あたしを好きな人がきっといるって?雑魚モテしても意味ないし、それってあたしをナメてるの。アンタ、口開くのやめたら?黙ってたらモテるかもね。おかしいと思ってた。なんでアンタみたいな顔のいいのがカノジョできないんだろって。実はゲイなのかなって。でもカレシいる感じでもないし。でも今分かった。アンタって野暮。顔が良いだけじゃダメなんだ。よく分かった。だから静風くんも、あんなブス選んだんだ。ありがとう、未散。またひとつ賢くなった」
 未散は可愛らしい目を吊り上げた。
「ブスブス言うの、やめなよ、のぞちゃん。気持ち良くなってるつもりで傷付いてるんでしょ。本当は自分が言われてる気分になって、怯えてるんでしょ。のぞちゃん、ブスって言う時にちょっと躊躇ってるの、自分で気付いてた?俺が言う時だって怯えてる!」
「怯えてない!未散は綺麗事が大好きだね。良い子ぶりっ子のクセに、あたしに近付くな!」
 この幼馴染が、昔そういうふうに揶揄われていた。彼は一瞬止まった。傷付いたふうだった。
「のぞちゃん……」
「帰りなさいよ」
「のぞちゃんの好みのハイスペ男性が見つかるまで、付き合ってよ。俺はブスじゃないんでしょ?付き合ってよ。のぞちゃんのコト好きなんだもん。次の人が見つかるまででいいから……」
 信深は聞かないことにした。とんだ聖者である。何かしらの宗教的信者を疑ってしまった。己の身を差し出して、救いようのない捻くれた女を啓蒙しようというのである。おそろしくなった。
「俺に本当に興味ないんだね。カノジョいなかったわけじゃないよ。いたけど、興味ないの分かってたから言わなかった。でも顔のことは褒めてくれるから……少しくらいチャンスあるのかもって思ったけど……本当に俺に興味ないんだ」
「あたしはハイスペ男が好きなの。あたしのコト知らないハイスペ男がね。アンタはあたしのコト知りすぎてる。あたしが惨めで、くだらない、さもしい女ってコト知ってる男と付き合って、何が楽しいの?アンタだってね、ずんぐりむっくりした下膨れの地味なたぬ顔ボブのチビ女と付き合ってたほうが楽しいでしょ」
 もはやこの幼馴染に虚勢は不要だった。彼女は己の恥部について自覚があることを隠さなくなった。
「俺は小学校のときからのぞちゃんのコト、好きだよ。惨めだなんて思わなかった……のぞちゃんは、自分を偽ってでもハイスペ男性と結婚したいの?」
「そうだけど」
 まだこの幼馴染は居座る気のようだ。
「カノジョいたんでしょ。取ってつけたみたいに。欲求不満なの?他当たって」
 人の好い幼馴染だが、善意の方向性を間違えている。
 信深は陰険に口角を上げる。
「付き合って、のぞちゃん。好きなんだよ。のぞちゃんのコト。恋愛感情で、好きなんだ。どうして信じてくれないの?」
 顔を覗き込み、がっしりと瞳孔が瞳孔を捕まえる様はあざとかった。頬が一気に熱くなった。顔を背ける。
「女の子みたいだとか、優等生だとか、いい子ぶるなとか言われてた俺を、のぞちゃんは助けてくれたよね。泣き虫な俺の傍に居てくれた。すごく嬉しかったんだよ。のぞちゃんが大事なんだ。心配で……今度は俺が、のぞちゃんのコト守るからさ……」
「守るって、何から?戦争なんて起きてないし、命狙われてるワケじゃないし、何から守ってくれるの?どうやって守ってくれるの、未散。お金?守るっていうのは、養うってコトなの。いい暮らしをさせてくれるってコトなの。惨めな思いさせないってコトなの。恥かかせないってコト。分かる?恋愛は正義のヒーローごっこじゃないワケ。アンタはくそ真面目だから、それを昔の恩だと捉えてるだけで、そんなので人は人を好きになったりしない。アンタがくそ真面目なだけ。それはね、好きって言わないの。あたしは全然覚えてないし、忘れて平気」
 棘を持たせて彼女は背を向けたまま言った。かわいい顔をした幼馴染は、庇護する側になろうとしながら、庇護されることを求めているのだ。そのために、守られた記憶に執着する。未散は、求める男性像とはかけ離れている。
「のぞちゃん」
 いくらか改まった調子で呼ばれて振り返った。すると幼馴染が迫ってくる。腕を取られて引き寄せられた。唇が塞がれる。気付かずにいた。まったく知ろうともしなかった。未散に背丈を追い抜かれていることについて。中学生の段階では彼は小柄だった。信深は大柄だった。高校の時点ではどうだったのだろう。関わり合いが薄れたのは、彼は地味で控えめな優等生であったのに対し、信深は化粧を覚え、髪の加工を覚え、小学時代、中学時代を知らぬ高校からの友人等と華々しくやっていたからだ。未散はいつの間にか、成長していた。この一瞬で10年近く止まっていた時間が急激に動き出したみたいに。
 幼馴染は大人になっていた。力は強くなり、背も高くなっていたし、声も低くなっていた。やり方も狡賢くなっている。
 触れただけの唇が離れた。悪怯れた様子もなく愛想笑いを仄かに浮かべているのがあざとい。信深は驚き、固まっていた。
「信じてくれた?」
「ヘンタイ!」
 信深は幼馴染を押しやろうとした。けれど身体を、細いと思っていた腕に囲い込まれている。
「のぞちゃんが信じてくれないから。ごめんなさい。でも、俺はのぞちゃんのこと、素敵な人だと思ってる」
「男って好きでもない女とデキるもんね」
 彼女は邪険に未散を突っ撥ねる。だが彼はまだ放さない。
「そんなので、自分は上手く慰められてるとか思わないでよ。ヘタクソ!」
「思ってないよ。思えない。のぞちゃんのこと深手の傷を、埋められないんだもんな、俺じゃ」
「そうなの!アンタじゃ埋まらないの!あたしはハイスペ男と結婚して、お金持ちになって、子供産んで、幸せになるの……」
 それが、惨めで虚しい愚かな自身、惨めでさもしく愚かだった自身への脱却、過去との訣別だった。そうでないならば死ぬまで引き摺ることになるのだろう。恥を。悔しさを。あらゆるものの帰結をそこにするのだろう。そしてそれが不幸であることを理解している。
「俺は今までそれを全肯定してた。でも間違ってた。ハイスペックな男が全部拭ってくれるわけないよ。そんな他人に依存した生活、のぞちゃんできる?自分を偽りきれる?きっと対等じゃいられなくなる。そのとき困るのは誰?子供だと思うな。そこに幸せって本当にあるの。のぞちゃんには何があるの?美しさなんて限度があって、絶対じゃない、不安定なものでしょ。自分のこと偽ってたら、それこそのぞちゃんには何も無いじゃないか。子供が欲しいハイスペックな男性は、生まれも大学も、今の就職先からだって、調べて選ぶよ。見た目だけの従順な相手選んでる時代は、もう終わったんだよ」
 さすがの幼馴染だった。ただ適当に相槌を打っていたように見えて、酒を入れながらもよく話を聞いていたのだ。観察していたのだ。何が劣等感を抉り、どうすれば現実から逃げる出口を塞げるのか。
 信深は優秀な方面で有名な大学の出ではなかったし、勤務先についても誰もが思い当たる会社の子会社ですらもなかった。容貌についても、彼女が自身で思うほど醜く野暮ったいわけではなかったし、そうとうの努力を窺わせるプロポーションではあったが、特別華がある目を惹くほどの美人というわけでもなかった。
「だからアンタは、自分で妥協しておけって言いたいワケ?」
 彼女は卑屈に口の片側を引き上げる。矯正し漂白した歯並びを見せる。この幼馴染は歯並びがよかったことを思い出した。すぐさま口を閉じて隠す。八重歯が外向きに生えていた。嫌いではなかったが、世間的に定められた美には反するものらしかった。
「俺を好きになってとは言わないから……」
 気の弱さを見せたところに彼女はつけ込んだ。不意打ちのキスが癪に障ったと見える。
「昔本で読んだなぁ……そうやって自分を犠牲にしてまで、間違った方向に行く他人を正そうとする聖職者の話。素敵だと思ったケド、いざ自分がされてみるとこんなにウザいんだ。アンタはアンタの人生があるじゃない。男の顔が良いのって人生のほんの一瞬だけなんだから。無駄遣いしちゃもったいないんじゃない?幼馴染だからって、変な柵(しがらみ)を感じる必要ないよ」
 長々と、陰険に喋っていたのが、途中から同情を帯びはじめた。幼馴染と結ばれる恋愛ドラマや映画は多い。未散を付き合わせて観せた覚えもある。生真面目なこの幼馴染も、それに従わなければならない気がしているのだろうか。清く美しくあれば王子様が救い出してくれるかのような。だが清さも、求めるほどの圧倒的な美しさ華やかさも手に入らなかった。
「のぞちゃん。あんまり顔にこだわるなよ。好きじゃない男の顔褒めるのもやめたほうがいいし……あんまり人の顔面にどうこう言うのは行儀がよくないな」
 未散は怒っていた。近寄れば拒む信深の腕を捉え、そして力一杯に彼女を押し倒す。幸いなのか否か、後ろにはベッドがあった。怪我はしなかった。だがそれが不幸中の不幸であった可能性も否定はできない。
「退いて、未散」
 まだ信深のなかでは、この幼馴染はかわいい白兎であった。愛玩動物であった。三十手前でも老け知らずの嫋やかな美少年だった。羨望だ。だがそれが嫉妬に移ろわないのは性別のせいだった。男女平等といくら綺麗事をいえど、備わった性的役割、肉体的差異がある以上、本能的に求められるものが違う。本能的に選択する生存戦略も変わってくる。確かに個人差はある。そこには主義も関わってくるだろう。しかし同じ種族でありながら、他人という境界以上に分かり合えぬ異人なのだ。そして、だからこそ信深はこの幼馴染に己が恥部を曝すことを躊躇わなかった。
「のぞちゃん、俺のこと、男として見られないんだ?」
「……うん」
 目と目を合わせたまま、信深は頷いた。未散の眉間に皺が寄る。
「ハイスペ男じゃないから?」
 彼女は目を逸らした。
「それもある」
 この幼馴染がハイスペック男性なのか否か、見定めてみる気も今まで起きなかった。はなから除外された存在だ。
「ごめん、のぞちゃん」
 意外にも逞しくなっていた腕が信深の頭を抱き、意外にも大きな節くれだった手が頬に添わる。そして長い睫毛を生やした薄い皮の薄い目蓋を伏せて、彼は唇を吸った。
 信深は幼馴染の強い親愛に惻隠の情を催した。救わせた気にさせなければ、この哀れなほど救いたがりの幼馴染を救うことはできないのだろう。彼もまたある種の劣等感に苛まれているに違いなかった。それはおそらく、信深自身の問題と似ているのだろう。揶揄われ、冷やかされ、嘲笑された過去を斬り捨て払拭しきるには、何者かを救ったという自負が要るのだろう。この幼馴染が哀れに映った。そこに付き合う気が起こったのは、やはり彼が美貌の持ち主であるからなのだろう。そして己を理解し、また傷を負ってもいる幼馴染であるからなのだろう。
 信深は幼馴染の甘く柔らかな唇を受け入れた。彼女はマヌカンのようになっていた。高校のときに、流れで付き合った同級生と初めて身体を重ねたときのように。結局、小柄でふんわりとした派手で威勢のいい女子グループにいた子が良いと言って去っていったけれど。
「のぞちゃん……」
 角度を変え、唇を合わせるだけ合わせて、彼は顔を上げた。切なげな眼差しがやはりあざとかった。
「もう終わり?」
 彼女は意地を張った。幼馴染のコンプレックスの解消に付き合ってやらないわけではなかった。だが素直にそれに従う性分でもない。
「え……?」
「これが童貞くんの限界か。元カノもかわいそ」
 可愛らしい幼馴染の大きな目に闘志が燃えていた。同年代の美男子に、怒りにも似た激情をぶつけるように求められるのも、悪くないのかも知れなかった。剣持静風のような生まれも育ちもいい上品な男は持ち合わせていないものだ。それでいうと、いくら生真面目な優等生気質でも未散は違った。やはり生まれと育ちなのだろう。貴族の血は青いのだ。
 未散はもう一度、信深にキスをした。舌が入り込む。生温かく湿った器官同士がぶつかった。信深は目を瞑った。このように促したのは自身であった。だが怖くもあった。清らかな幼馴染としての付き合いが破綻してしまった。男女の友情など存在しなかったのだ。未散は異性であったし、隠れたところではオスであった。世間には時間が流れている。同じく止まっていると信じていた相手にも時間が流れていた。寂しさである。孤独である。受け入れがたかった。気に入らなかった。だが幼馴染が悪いのではなかった。後悔を後悔と認められない難儀な性質だった。幼馴染のことは人として嫌いではない。だが番いとして相応しい相手ではなかった。理性によるものか肉体によるものか分からない嫌悪が湧いている。それでいてその口付けは甘かった。
「は………ぁ、」
 手が、未散の肩を押し返す。口腔を弄(まさぐ)っていた舌が引き抜かれる。唾液の糸が伸びていく。
「のぞちゃん……」
「満足した?」
 果たしてこれで彼に、救えた実感を与えられたかといえば疑問が残る。
「そういうのぞちゃんは、信じてくれたの、俺の気持ち」
 こてん、と首を倒すように傾げる様はあざとさに大して何の後ろめたさも、もう持ち合わせてはいないようだった。
「ヤりたいだけなんじゃないのかなって……まだ」
「だとしたら、幼馴染ののぞちゃんを選ばないよ。のぞちゃんの言ってたとおり、俺、ちょっとはモテるんだよ、のぞちゃん。だから別に、モテなくて困ってて、のぞちゃんに迫ってるわけじゃないんだ」
 未散の顔がまた近付き、今度は唇には触れなかった。首筋へ滑っていく。
「くすぐ、ったい、よ」
「気持ち良くする……のぞちゃん……」
 割り入れた腕を剥がすのを思いきや、彼は剥がしながらも掌を合わせ、指を絡める。それが最も信深を動揺させた。言い逃れさせてはくれない直情的な希求を受け取ってしまったのだ。
「みちる………っ今ならなかったことにしてあげるから……!」
 指の絡め方に惑う。そこに味覚はないはずだった。だが甘酸っぱいのだ。割った柑橘類に舌を突っ込んだみたいな感覚が、指先で起こる。
「なかったことにされたら困るよ」
 首筋にしっとりした肉感が当たった。痛いことはなかった。恐怖心もなかった。ただほんの不安があった。幼馴染という形について、変わってしまうことに。
「み、ち………る………」
 信深は怖くなった。未散そのものが、この行動が、この状況が恐ろしくなったのではない。後戻りできなくなることに。怯えた。彼女は自身を小心者だと知っていた。臆病者だと。

【TL】くだらない痛快の憂

【TL】くだらない痛快の憂

ルッキズムに囚われたヒロインと偽善的幼馴染の気休めか本音か。

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更新日
登録日
2023-07-06

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