今宵、前夜

 遠くの空から雨のにおいがしてきた。先を急いだほうがいいのかもしれない。登山用リュックのストラップを締め直し、足を速めた。耳障りなほどのセミの鳴き声が止めどもなく繰り返され、暑さに拍車をかけてくる。リュックを背負った背中は、汗でびしょ濡れだ。親父と二人分のテントと食料、それに酒。今夜は心置きなく酒宴を楽しみたくて、こんな山奥まで大きなリュックを担いできた。山奥といっても、自宅の裏山。山間の集落で林業を営む両親と暮らしている。ずっと山と一緒だった。何をするにも山がそこにあった。山で遊び、山に学んできた。山と共に生きてきた。
 額の汗が目に入り、空を見上げるようにして汗を拭うと、八月の青空が広がっていた。濃すぎるほどの青空の下に、入道雲が雪だるまのように転がっていた。一雨きそうかな。やはり先を急いだほうがよさそうだ。
 「親父、ちょっと急ごうか」
 足早に登山道を進み、適当な野営地を捜し歩いた。あまり見晴らしにこだわらなければ、この辺でいいのかもしれない。小川のせせらぎに惹かれながら進んでいくと、ちょっとした河原を見つけた。ここなら木立を利用して雨をしのげそうだ。リュックから二人用のテントを降ろし、手早く設営した。それにタープを張って、今夜の宿が完成した。先ずは駆けつけ一杯、ビールのプルタブを起こし乾いた喉を潤した。
 「ひやぁ、美味いな」
 決して冷えてるとは言えないが、それでもこの一杯よりも美味いものなど存在しないのではないかと思えてしまうほどに美味い。まさに至極な一杯だ。残りのビールは川に沈めて冷やしておいた。それと、この日のために手に入れておいた特別な吟醸酒も、川の流れに沈めておいた。楽しみは、もう少しだけとっておこう。
 まずは酒席の設営に取り掛かった。適当な石を四つ拾ってきて、その上に持参してきた木の板を載せた。それに、平たい石を座卓にして酒席が完成した。そこへリュックの荷物の大半を占めていた食料を並べていく。あれやこれやと、よくもこんなに詰め込んできたものだと感心してしまった。でも、ちょっと欲張りすぎたかなと可笑しくなってしまった。
 うちの庭で今朝とれたばかりの新鮮なトマトやキュウリは、そのままかぶりつくだけで十分に美味い。山菜の酢味噌和えにも旬を感じさせられる。それに、このあいだ親父が釣ってきた岩魚の燻製は、なかなかの美味だった。
 「親父も食えよ」
 親父の前に皿を差し出した。ビールが空になっていたので、川へビールを取りにいった。何かの魚がピシャリと跳ねた。ゴロゴロと地響きのような重低音が、腹の底を鳴らした。歩くたびに、河原の砂利が数珠を鳴らすような音をたてる。何か心が落ち着く気がしてしまう。小川に手を浸すと、ひんやりと冷たくて気持ちよかった。そのまま飛び込みたい衝動に駆られてしまったが、屈んで頭から水をかぶるだけにとどめておいた。それだけで生き返った気がした。清涼飲料水のコマーシャルに出演しているような、爽やかイケメン俳優の真似をして、濡れた髪をサッと手で払ってみたが、同じようには水は弾かなかった。そう上手くはいかないものだ。ほころんだ顔が川面に映っていた。
 残りの四本のビールを抱え、酒席へと着いた。親父と二人で食卓を囲むのなんて、初めてのことかもしれない。いや、おそらく初めてだ。それが、こんな山奥での酒宴とはな。それもまた、山に生きた親父らしいか。
 視界の外で一瞬大きく光るものが見えたかと思うと、タープをを叩くように大粒の雨が落ちてきた。ついに降り出してきたか。急に騒がしくなってきた。一定のリズムで打ち付けてくる雨音を聞かされながら、ぼんやりと遠くの空を見つめてしまった。雨は降っているが、遠くの空からは一直線に白い光が差し込んでいた。思い出したように、川から吟醸酒を引き上げてきた。対のぐい飲みに、並々と吟醸酒を注いだ。ぐい飲みの方に口を近づけ、キュッと飲み干す。染み入るように酒に満たされた。身体から力が抜け落ちていき、目尻だけが熱くなった。
 視線が下を向いてしまい、川の流れに見入ってしまう。川は、絶え間なく流れていた。その流れに、いくつもの木の葉が流されてくる。ある木の葉は、流れの途中で岩に捕まってしまったり、浅瀬に取り残されたりしている。かと思えば、そのまますんなりと、成すがままに流れ過ぎてゆく木の葉もある。それぞれ違うものだ。感慨深げに眺めてしまった。
 「そろそろ親父はテントに入るか」
 親父の位牌を、テントの前室に供えた。
 明日は亡くなった親父の四十九日。今宵は、その前夜。
 キャンドルランタンに灯を燈し、位牌の前に立てた。いつのまにやら日は陰り、薄暗くなり始めていた。雨も知らぬ間に止んでいた。川面に吹く微風が心地よかった。
 「ありがとう、親父」ぐい飲みを、腕一杯に掲げた。
 星の瞬く夜だった。

今宵、前夜

今宵、前夜

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted