この家には亡霊がいる 24

この家には亡霊がいる 24

階段

 母は強い女だった。なにかひっかかる。この間から……
 亜紀がグラスを叩き付けた。あの光景は以前にも見た。僕の消えた記憶……
 母が突然出て行った……前後の記憶が曖昧だ。父の暴力、夏生に負わせた傷、忘れたいから記憶が抜け落ちているのだろう。

 4人に話を聞いた。
 芙美子おばさん、彼女は父の援助で大学に通っていた。父の会社は業績を上げていた。家にはデパートの外商が出入りし、父の妹たちもしょっちゅう来ていた。
 祖父の介護は母に押し付け、取り戻した贅沢な生活を謳歌していた。
 周りは皆、祖母を大奥様、大奥様とおだてていた。若いと褒められると喜んでいた。
 新しい担当が若奥様、と間違えると気に入り言われるままに買ってあげていた。
 きれいな介護士さんですね…… きれいな方ですね……それくらいなら祖母は笑っていた。
 祖母は母に着物をあつらえた。バッグも宝石も。介護士に間違えられた三沢家の若奥様に。 
 祖母は祖父にねだった。大きなダイヤ……
 パパに買ってもらいなさいって、親子に見えるって、あなた……

 祖父は妻が若く見えるのが嬉しかったようだ。
 しかし、誰もが欲しがったダイヤは母にプレゼントされた。祖父の会社を救った功労者だ。
 大きなダイヤは苦労のない華奢な手には似合わない……大きな手が合うんだ……
 母は欲しがりもしなかった。母は値切った。
 祖父は笑っていた。
 では加工しないでおこう。会社はいつどうなるかわからないからな……
「大奥様はきれいな人だった。でもね、あの人は……自分が1番。自分の娘たちもライバル。皆、扱いがうまかった。リア王ね。愛しています、おかあさま……大変なときには近寄りもしなかったくせに。姉は苦手だから。媚びるのは」
 デパートの男が母を褒めた。褒め過ぎて感嘆したものは次からは担当を外された。
 祖母は母に嫉妬していた?

 祖父が亡くなると母はふさぎこんだ。空を見上げてため息をついた。
「田舎に帰りたい」
 ママはひとりで帰ってしまう。僕を置いて。ママは僕が嫌いなんだ……
 僕は祖母に育てられた。母は祖父の介護に忙しかった。祖母は僕を甘やかした。僕は泣き虫で弱かった。祖母はなんでも買ってくれた。ブランドの子供服、高価なおもちゃ、有名店のおやつ。
「治ちゃんちなんて、いつもふかし芋だよ」
 母の目が怒った。あの目は生涯忘れない。手が尻を打った。祖母が怒ったが母の剣幕はすごかった。
「忘れたんですか? 会社なんて、いつどうなるかわからない」
 祖母は黙ったがあとで僕に聞いた。
「ママとどっちが好き?」
 ママだよ。ママだ。

 僕は走って転んで泣いた。母は助け起こしはしなかった。いつもそうだ。僕は自分で起き上がった。褒めてもらいたかったのに、母はもう僕を見なかった。怒りもしない。

 泣かないよ。ママ、もう泣かない。強くなるから、強くなるから置いていかないで……

「それにね……」
 芙美子おばさんと島崎が付き合うようになると祖母は不機嫌になった……
「クリスティにあるでしょ? 姪の婚約者に恋慕して嫉妬する……」

 島崎に夢中だったのは祖母だった? まさか? 60歳の祖母が?
 
 夏生の母親に聞いた。当時のことを。
 もう話してもいいわね……
 祖母は気に入っていた。島崎を。彼は夏生一家が住むアパートの隣の部屋に越してきた。人懐こそうな小学校の音楽の教師。
 夏生の母親もよく差し入れした。夏生にはピアノを教えてくれた。
 島崎は家賃を払いに来た。祖母が応対していた。祖母もよく面倒をみていた。食べきれない中元の菓子や果物を渡していた。
 しだいに食事に招きピアノの演奏をしてもらうようになった。若返っていた。美容院に行き、化粧が濃くなった。
 年甲斐もなく……と父にからかわれていた。母は祖母の気持ちを知り呆れていた。祖父が亡くなったばかりだった。
 音楽好きの母が島崎には無関心だった。ほとんどそばにはいなかった。年甲斐もなく恋をしている祖母の邪魔はしなかった……
 島崎を愛したのは祖母だった?

 思い出せ……祖母は毎朝おにぎりやサンドイッチを作り、学校へ行く島崎に門のところで待ち渡していた。朝食を取る時間のない男に。
 60歳の祖母は年よりずっと若く見えた。しかし、島崎は芙美子おばさんではなく母を慕っていた。
 祖母は気づいた。嫉妬? 息子の嫁に? 祖父の介護をやり遂げた母に嫉妬した? 祖父の下の世話までやらせておきながら? 
 祖父は母を自分の娘たちより信頼し愛した。大きなダイヤを母に残した。
 離婚させたのは祖母だ。なにがあったのだ? 母と祖母と島崎の間に?

 島崎は祖母の気持ちが重荷になり引っ越していった。母への思慕を断ち切るためにも。病気になり、夏生の母親に手紙を書いた。母のことが心配だったのだろう。様子が知りたかった。祖母と気まずくなってしまったのでは? と。
 夏生母娘は見舞いに……夏生が僕に話し、僕は母と祖母に話した。
 和ちゃん、死んじゃうんだ……

「居ても立ってもいられなくなり看病しにいったのは大奥様よ。毎日のようにタクシー呼んで」
 連日見舞いに行き、島崎にもう来ないでくれと言われたら? 祖母は母を憎んだろうか? 
 思い出せ。よく言い争いをしていた。いや、母は一方的になじられていた。
 息子を奪い主人にも色目を使っていたと……中卒の田舎娘……
 母はためいきをついた。

 誰もがありえないことだと言った。夏生も夏生の母親も、芙美子おばさんも大先生も……なにより父が……
 ありえないことだ。母が不倫?
 しかし、春樹がいる。間違いではない。

 祖母はグラスを投げつけた。母は顔色ひとつ変えなかった。祖母は余計興奮した。汚い言葉でののしった。
「英輔をたぶらかした女」
 僕を見ると母はにっこり笑った。
「ちょっと喧嘩しただけ。仲がいい証拠よ」

「夏生は和樹とできてた……」
 誤解だ。一笑に付した。
「幸子はあの男と……あのピアノを弾く男と……」
 誤解だ。祖母の話を父も一笑に付したはずだ。 
 しかし不安はあった。余命宣告された男……
 母は弱いものを放ってはおけない……
 祖母は何度も言った。
「幸子はあの男と……」
 母は聞き流していた。
 
 治に確かめた。
 覚えてないのか? おまえのトラウマだろ? 
 母が階段から落ちた。犬が吠えた。病気で弱っていた犬が必死に吠えた。階段の上に祖母がいた。
 治は夏生の家に走って行き、おばさんが救急車を呼んだ。母は足を滑らせたと、自分で落ちたと説明した。
 母は妊娠していた……
 ずっと欲しがっていたのにできなかった……
 母は身体中打って、出血していた。

 母の子が死んだ。
「天罰が当たったんだ。あの男の子どもよ。英輔は裏切られた。離婚しなさい」
 父が駆けつけてくると祖母は半狂乱だった。天罰だ、天罰だ、と。

 父は調べたのだろう。島崎が入院している病院に三沢幸子は連日通っていた。面会表に祖母は母の名を書いたのだ。
 連日見舞いに訪れた女は若い格好をしスタイルも良かった。祖母はサングラスをしていた。ブランド物のサングラスに帽子を自慢していた。

 妊娠したことは父には言っていなかった。祖母に知られたらどうなるかはわかっていたのだろう。

 母の辛抱と献身は終わった。父が疑ったのだ。母の怒りの目に父はひるんだ。すぐ謝ったのか? 
 母は聖女ではない。優しいだけの女ではない。すがりつくような女ではない。
 母は信じてくれとは言わなかった。否定も弁解もしなかった。母は家に戻ると荷物をまとめ僕の手を引っ張った。
 祖母が叫んだ。
「英幸は置いていきなさい」
「選びなさい。ママかおばあちゃんか」
 僕は即答できなかった。母の手は離れた。
 ひどい母親だ。普通の精神状態ではなかったとはいえ…… とっさに選べず母は僕の手を離した。 
 ひどいよ。子供だったんだ。しかたないじゃないか……
 父が追いかけた。父は無理やり車に乗せた。ふたりは数日別荘で過ごした。別荘でなにがあったのだろうか? 安静にしていなければならないときに。
 母は全身傷だらけで待望の子を失い、夫には不貞を疑われた。
 母は否定しなかった。それだけであの弱い男は……
 パパ、バカだよ。疑うなんて。ママは強情過ぎる。
 祖母が管理人に電話をした。母は衰弱していたが父を許さなかった。2度とこの家には戻らなかった。

 祖母は後悔しただろう。この家は崩壊した。
 あなたの息子は酒に逃げ、孫に暴力を振るい、あなたのかわいがっていた犬を投げつけ、あなたを突き飛ばしたのだ。
 僕はかばった。あなたを。僕はあなたに懐いていた。あなたはかわいがってくれた。英輔そっくりだと。あなたが言えばそうなのだ。誰も母親似だとは言わなかった。
 あなたは僕に謝った。心の病気だと。あれは父のことではなかったのか? 自分のことを謝ったのか? 嫉妬と妄想……

 天罰……違う。天罰なんかじゃない。
「三沢君、なにやってるの? やめなさいよ」
 靖を階段から突き落とした。靖は受け身が取れていた。
 祖母は暴力を振るった……母は階段から突き落とされた……? 
 妊娠していた母が階段から落ちるだろうか? 母は祖母をかばった?

 母は本当のことを言ったのだろうか? 父に、あなたの母親におなかの子を殺された、と。いや、母は言うまい。父を絶望させるようなことは決して言わなかった。その代わりに言ったのだろう。もっと打ちのめすことを。いや母は嘘はつかない。

 記憶はつぎつぎに蘇る。

「やっぱり大学出た人は違うわね」
 母は父に話していた。
「こんな近くに住んでて知らなかったの? 亜紀さんを?」

 母は亜紀を知っていた。毎年犬に注射を受けさせに行っていた。犬の具合が悪くなれば亜紀にみせにいった。

 祖母が飼っていたヨークシャーテリア、祖母は長い毛をカットさせなかった。家が大変なときに、母は祖母のために犬の手入れまでしていた。 
 もう余裕が出てきたのだ。毎週シャンプーに連れて行く。名前は桃太郎。祖父が付けた。名前に似合わず桃太郎は長い毛を手入れされ、金をかけられた。
「あなたはしみったれすぎるわ」
 母のおかげで会社は持ち直したのに、祖母は贅沢だった。
 その犬が脳腫瘍になった。嘔吐しソファーにも飛び乗れなくなった。
 母は犬を大先生の動物病院に連れていった。遠くの病院まで検査に付き添ってくれたのが娘の亜紀だった。
 ふたりは同じ年だった。亜紀は父を知っていた。町内では誰もが憧れた存在だった。
 

階段 続き

 大先生はもうすぐ80歳になるが当時のことは覚えていた。
 母から動物病院に電話がきた。頼まれた亜紀は様子を見にきた。毎週診察し薬を出していた。大きな邸の噂、醜聞。
 亜紀は桃太郎の往診に来た。
「薬飲ませている?」
 僕はうなずいた。もう、桃太郎を守れるのは僕だけだ。
 亜紀は僕の目の上のアザに気づいた。僕は自分で転んだ、と父を庇った。亜紀にはお見通しだったろうが。亜紀は祖母と話していた。

 この家に亜紀が出入りするようになった。亜紀は僕の心配だけでなく父と祖母の心配もした。
 亜紀はこの家に必要な人間になった。
 
 母は誰になにを言われようが、感情をなくす訓練はできていた。母は潔白だった。しかし、祖母の嫉妬はひどくなっていった。自分がいれば余計に……
 父に本当のことは言えない。母親が若い男に夢中になり、嫁に嫉妬しているなどとは言えなかった。しかし、母の誤算だ。父は弱くて情けない男だった。

 僕が夏生にしたことは母には伝えなかったのだろう。傷心の母のために。それがよかったのか? 伝えていたら傷心の母は飛んできてくれただろう。僕のために。

 父は橘家に謝りに行った。息子が夏生を傷つけた晩に。土下座した。全部自分が悪いのだと。夏生は自分でやったと言い張った。
「痛くないもん、こんな怪我……えーちゃんじゃないよ。自分で転んだの……」
 けなげな娘の言葉に大人たちは涙した。大人たちは僕のことを心配した。僕のそばにはいつも夏生がいた。大きな怪我を負わせたのに夏生は僕を慕った。ふさぎ込む僕の心配をして笑わせた。
 両親は慰謝料は受け取らなかった。その代わり、アパートを壊し家を建てるとき、破格の値段で売ってもらったと……内装も他の棟よりずっといいのよ……

 祖母は母がいなくなると穏やかな祖母に戻った。家政婦を雇い家の中を仕切った。
 自分が1番の祖母の1番大事な息子を奪っていったのは母だった。祖父は母を褒め祖母を非難した。あのダイヤを祖母にではなく母に与えた。 
 皆、母を褒めた。よくできた嫁だと。容姿も褒めた。化粧しなくても飾らなくてもきれいな人だと。叔母たちも母に媚びた。年下の中卒の見下していた母に。母は会社の功労者で株主だ。
 島崎のことが決定的だった。祖母の最後の恋を母は奪った。息子を奪っていった女がまた……祖母は母が憎くてたまらなかった。
 亜紀は嫁いでも仕事を続けた。祖母に逆らわず祖母に従順に。亜紀の肌は日に焼けていた。色白ではない。それだけで祖母は安心した。
 
 祖母は明け方、救急車で運ばれた。桃太郎と同じ病気だった。
 親戚が皆見守る中で祖母は息子を捜した。唯一自分より大事な息子……
 父はそばにいたのに息子を捜した。亜紀が僕の手を引っ張りあなたの手を握らせた。あなたは僕を父と間違えた。母そっくりの顔を……そして逝った。
 いや、あなたが捜したのは母だったのか? 謝ろうとしたのではないのか? あなたは母にしたことを覚えていたのか、忘れたのか?
 亡くなったとき、父は謝っていた。寿命を縮めたのは自分のせいだと。
 
 故郷の海が母を癒した。母は父が来るのを待っていたのではないか? 再びすべてを捨てて戻ってくるのを待っていた。
 いや、思い込みだ。そうであって欲しい……

 亜紀は母が戻ってくることを望んだ。
 英輔さんに迎えに行かせようか? おかあさんは……
 祖母は病気だったのではないか? 桃太郎と同じ……嫉妬と妄想であれほど人格が変わるだろうか?
 亜紀はすぐに気がついた。母は気が付かなかった。桃太郎をみていながら。そもそも原因は母だったのでは? すべてを母に奪われていくストレス……

 母は大変なときに逃げ出した。強い母が逃げ出した。祖母の病気を見逃した。初期症状はあったはずだ。頭痛に嘔吐。辛かったはずだ。それを見逃しあの悲劇が起きるまで気が付かなかった。それでもわからなかった。自分を責めただろう。自分が原因なのに……
 今さら祖母のそばにはいられない。真実を知れば父は苦しむだろう。この家に祖母とは暮らせない。祖母から息子を再び奪うことはできなかった。かわいがっている孫も……
 亜紀の気持ちはわかっていた。なぜ三沢家のために親身になり尽くしてくれるのか。母にはわかっていたのだ。
 この家には戻れない。

 母が愛したのは故郷だけ。母は金持ちが嫌いだった。金に媚びなかった。金に媚びるのを嫌っていた。 
 僕も父もこの家も、もう母が愛する価値はなくなったのか?

 待っていた男はついに来なかった。代わりに島崎が来た。自分が原因で離婚させられた女に会いに。死ぬ前にもう1度会いたかったのだろう。母は自分をずっと慕っている、死にいく男を放っておけなかった……
 母にも好意はあったのだろう。芙美子おばさんはすでに結婚していた。音楽好きなふたりだ。愛はひとつではない。

「島崎と暮らしているの。元気よ。愛は奇跡を生むのね。島崎の子供が欲しい。愛の結晶」

 そんなようなことを母は亜紀に言ったのではないか? 亜紀は再婚した。 

 母の汚名を返上してやりたい。しかし、母は望まないだろう。あの弱い元夫は耐えられない……
 母は父の子を祖母に殺されたのだ。
 さすがの母も辛かったろう……

「かあさんか?」
 パパは疑っていた? 僕に聞いた。階段の上で。
 見ていたと思っているのか? 
 祖母は階段の上にいた。腰を痛めていたのに。見ていたのは桃太郎だけだった。
 疑い、確信したときには彩がいた。春樹もいた……
 パパとママの子はもうひとりいたんだよ。
 僕たちが強かったら……
 辛かっただろうね、パパ。だから望を育てたのか? ママの助けた娘を。

 母が愛したのは、なにもかも捨てた父、残された命のすべてで母を愛した島崎……

 母は田舎に帰るとずっと海を見ていた。東京に戻る日はため息をついた。母が愛したのは故郷の海だけ、その海が母を奪った。
 僕を残して……大丈夫だったの? 心配じゃなかったの?
 母は僕より幼い頃に父親を亡くした。
「弱い子は嫌いです」

「弱くて情けない男を好きな女もいるのよ……」

 今となってはわからない。都合のいい思い込みだ。僕の願望だ。僕は母に捨てられたのではないと思いたい。なにが真実でなにが嘘なのか? 
 春樹がいる。愛の結晶。
 しかし……裏切られたのは母のほうだ。父は再婚した。僕は亜紀に懐いた。捨てられたのはママのほうだ。僕はママを憎み亜紀を慕った。
 
 亡霊が庭をさまよっている。窓を叩く。
「Cruel Heathcliff」残酷なヒースクリフ
 ママが怒る。亜紀をおかあさんと呼ぶと……
 
 ママ、パパは愛してたよ。狂うほどママを愛していた。
 僕のせいだ。僕のために再婚したんだ。僕が弱かったから。
 治だったら、パパの力になってママを迎えに行ってた……
 
 さすがの亜紀もこの真実には気づかなかった。 
 いや、ドクター亜紀は気づいただろうか? 不倫が祖母の妄想だと。死んだのが父の子だと。
 
 パパのノートを返したときだ。

「……どうして、……愛は永遠じゃないの? ひとつじゃダメなんだ? ひどいよ。ママは。こんなに愛したパパを裏切るなんて」
「……裏切ったのはパパのほうかも。再婚したパパのほうかも……」
「そんな……バカなこと」
「なんとなく、そう思うことがある……あなたも?」
「絶対違う」

「あの人が死んだときホッとした。あの人は島崎が死ぬと待っていたのよ。パパと暮らしてた故郷の部屋で。パパが帰るのを待っていた。いつパパが私と彩を捨てて、出ていくんじゃないかとびくびくしてた。会社は三島に譲って、なにもかも捨てて……あなたは渡さないわよ。あなたは私が育てた私の息子……
 パパが弱いからダメなのよ。離婚なんかしないで待っていれば幸子さんは帰ってきた。私と再婚なんかしなければ、今この家にいるのはあなたのママだったのよ」

 亜紀はずっと罪悪感を感じている。自分さえいなかったら……と。
 亜紀、僕はあなたの息子だよ。

 不思議だ。愛し合っていたと思いたい。母は島崎を愛した……春樹は愛の結晶……そう思いたい……

 治、治は気が付いていた? 
 祖母の嫉妬、島崎の思慕……
 母は褒めていた。治は人の気持ちがわかる子だと。
 僕は大人たちにおだてられていた。坊ちゃん、坊ちゃんと。祖母は僕の言うことを聞くから。
 若い女が僕の機嫌を取った。祖母に高価な宝石を買わせるために、僕の言うことを聞いた。母は宝石に詳しかった。原価の何倍もの金額で売りつけているのを知っていた。支払いは母がした。たぶん母の金で。値切って正当な価格で祖母のために支払ったのだろう。
 僕は母の大嫌いな人種になっていた。
 僕は治にも尊大になっていた。あいつは親友だった。
「友達なくすぞ。ママが見てるぞ。ママに捨てられるぞ」
 治が教えた。恥ずかしかった。

 ママ、僕は恥ずかしさのために死にそうです。ママ、ごめんなさい。治みたいになるから治みたいにひとの気持ちがわかる子に……

「治がママの子ならよかった? 僕も人の気持ちがわかる子になるよ」
 ママは両手を広げた。
「弟と妹どっちが欲しい?」
「弟だよ。妹は夏生がいるから」

 僕のせいだ。僕が祖母に喋った。
「僕、おにいちゃんになるんだ」
 すべての不幸は僕が原因だった。母が階段から落ちたのはすぐあとだ。

 風が窓を叩いた。絶望か希望か?
「弱い子は嫌いです」
 強くなるよ。強くなりたいけど……
 窓が震えている。
「英幸、ごめんね……」
 春樹が聞いた最後の言葉が僕の耳にも聞こえた。

 春樹と望の兄貴になるよ。
 ママ、もうすぐ孫が生まれるんだよ。

 おばあちゃん、あなたは病気だった。そう思うよ。僕には優しかった。
 僕を愛してくれたね。あなただけだった。僕はパパにそっくりだと……
 彩のいい兄貴になるからね。あなたのひ孫が生まれます。

 早夕里、君との約束は守れそうだ。

この家には亡霊がいる 24

この家には亡霊がいる 24

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-06-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 階段
  2. 階段 続き