落下

落下

1 Gさん

 暑い日差しが朝から照りつける。今日も熱中症注意報だ。アパートのゴミ置き場で空き缶を集めていると、住人が声をかけた。
「暑いから気をつけなよ。じいさん」
 耳が聞こえないふりをする。今ではとがめられることもなくなった。これができなければ収入が途絶えるのだ。
 自転車に掛けられるだけのビニール袋に空き缶を集める。道行く人は、軽蔑と哀れみの表情をする。以前は自分もそうだった。
 自転車を漕いで40分、空き缶引き換え場まで日に何度も往復する。日に焼けた顔は余計老けて見える。まだ60になったばかりなのだが、70には見られるだろう。痩せているが、力も体力もある。粗食だから風邪もひかない。抵抗力もある。なによりもストレスがない。血圧が正常値に。尿路結石も十二指腸潰瘍もない。あの頃とは大違いだ。

 妻と息子にストレスをぶつけられなくなると、次郎の体は悲鳴を上げた。十二指腸潰瘍でトイレの前でのたうち回った。妻も息子も冷ややかな目で見ていた。死ねばいい……
「救急車呼びます?」
「いい。みっともない。タクシー呼んでくれ」
 息子を留守番させて妻は付いてきた。支えてくれた。心の中では死ねばいい、と思っていたに違いない。死ねば、家のローンは免除だ。高額の保険にも入っている。母子が困ることはない。死んでやればよかった。
 尿路結石で苦しんだときも冷ややかだった。ついてさえこなかった。

 すべてをなくした。妻も息子も家も。残ったのは仕事だけだった。家庭を崩壊するに至った仕事だけ。養育費のために働いた。できることはそれだけだった。息子が大学を卒業するまでは死んでも働かねば。死ねば保険金でまかなえるが。すべて自分が悪いのだ。妻と子供をひどく傷つけた。あのまま終わらなければ、息子に殺されていたかもしれない。2度と会うことはない。会ってはくれまい。

 エアコンが壊れた。修理はこない。窓と玄関を開け放して扇風機をかけて寝る。暑い。鍛えているはずの肉体が根を上げる。このままだと、朝には死んでいるかもしれない。それもいいか。開け放しだ。誰か、のぞいてくれるだろう。死後の事は契約してある。金は余るはずだ。息子は受け取るだろう。せめてもの償いだ。それも拒否されれば寄付される。

 朝は来た。残念ながら朝は来た。早く行かねば遅れを取る。すぐそばにできた新築のマンション。空き缶を集めていると視線を感じた。文句を言われても聞こえないふりをする。しかし、見つめているのは杖を付いた若い女だった。25歳位だろうか? 麦わら帽子を持っている。それを差し出した。
「帽子被らないと危ないわ」
 くれるというのか? 汚いオレに? 次郎は聞こえないふりをした。
「いらないなら捨てるわ。使わないから」
「いらないならもらうよ」
「やっぱり、聞こえているんじゃない」
 足が悪くなければ無視しただろう。明るい娘だ。骨でも折ったのか?
「ありがとうよ」
 礼を言って被った。風に飛ばされないようにゴムも付けてあった。
「気をつけてね。おじさん」
おじさん……おじいさんだろう。

 足の悪い娘にはよく会った。よく会うはずだ。次郎は日に何度も近辺をうろついて空き缶を集めているのだから。娘はそのたび声をかけてきた。時々はビニールに入った空き缶を寄越した。ただの骨折ではないらしい。生まれつきか? それとも……
「あんたが飲むのか?」
 発泡酒と酎ハイの空き缶がたくさん。
「主人はビール。私は飲めないから私の分まで」
「……?」
「妊娠してるの」
「……それは、おめでとう」
「気をつけてね。おじさん」
「じーさんでいいよ」

 次郎は息子が傷つけた少女のことを考えた。忘れたことはない。夏の日、母親は娘の手を引き乗り込んできた。あの時に、間違いに気づいていればまだ間に合っただろう。息子は嘘をつくしかなかった。金を取った、なんて父親に知られたら半殺しの目に遭わされただろう。
 自分のせいなのだ。息子があの少女を怪我させたのは。取り返しのつかないことになった。家を売り、できる限りの賠償をした。
 その後、妻と息子は出て行った。それきり会っていない。会社だけは辞めるわけにはいかなかった。息子が大学を卒業し、早期退職者を募集したときに、すぐに決めた。条件は良かった。3年分の給料7割りに退職金。
 辞めて暇だからバイトをした。いろいろとした。人と関わりたくなかった。学歴を自慢していた、有名企業に勤める外面の良い男は転落した……
 しかし、転落は苦ではなかった。むしろ、楽しかった。自由だ、ストレスがない。困らないだけの金はある。使いはしないが。

 妊婦が気になった。次郎は待つようになった。
「つわりはないのか?」
「少しね」
「旦那は優しくしてくれるか? つわりは病気じゃない、とか言わないか?」
「優しいわよ。いい旦那。いい父親になるわ」 

 次郎は思い出した。妻のつわりがひどくて食事の支度ができない……次郎は自分でラーメンを作った。
 3度までは我慢した。キッチンに溜まっていた洗い物をした。次郎は几帳面だ。鍋の汚れが我慢できない。磨き出した。なぜ、普段からきれいにしておかないんだ……鍋を叩いた。
 妻は2度と夫をキッチンに立たせることはなかった。やればできるんじゃないか。甘えていただけだ。そう言って妊娠中の妻を怒鳴った。
 膀胱炎になったときも漢方薬しか出してもらえず、妻は辛かった……それを……思い出したくない。3日ゴロゴロしていた妻を怒鳴った。掃除しろと。ひどい夫だった。妻は恨んだだろう。一生忘れないはずだ。子供がいなかったら、帰る実家があったなら、生活力があったなら、とっくに妻は出て行った。出て行く準備をしていたのだ。間に合わなかった。

「気をつけてね。ジーさん」

 足の悪い妊婦は次郎を見かけると声をかけた。
「ジーさん」
 せめて、おじいさんと呼んでくれ。
 じーさんではない? まるでアルファベットのGだ。Gさんと呼ばれている? 郡司のG。まさか。

 妊婦はゴミ出しの日は毎朝出てきた。次郎は待つようになった。土曜日は旦那と出てくる。手を振り見送る。仲が良さそうだ。
「土曜日なのに仕事なのか?」
「忙しいから」
「いいことだ」

 忙し過ぎた。忙し過ぎて心をなくした。

2 靖

 圭吾は甘えん坊だった。遅生まれだから小さくかわいかった。靖とは家が近かった。新築の建て売りに、小学校に入る前にふたりの家族は越してきた。

 圭吾は真希と同じクラスになった。真希は背が高くしっかりした少女だ。父親がいないのだ。ふたりは仲がよかった。甘えん坊の圭吾にしっかり者の真希。真希は圭吾の世話を焼いた。ランドセルを忘れて帰る圭吾を真希は追いかけてきた。軽々と黒いランドセルを持って。
 ふたりははしゃぐ。靖は仲間には入れない。圭吾の家の前で別れる。圭吾の父親は喜んだ。
「もう、ガールフレンドができたのか?」

 圭吾の父親が、事故で亡くなった。線香をあげにいくと真希がきていた。圭吾に小さなぬいぐるみを渡して慰めていた。圭吾は葬式の間それを握りしめていた。
 靖はうらやましかった。父親は早く死ぬべきなのだ。

 靖は100点を取らないと怒られた。95点でも怒られた。口答えすると殴られた。母はかばった。父はかばった母まで殴った。靖は優等生でいなければならない。

 父親の死後、不登校になりがちな圭吾を同じクラスの真希が迎えにいった。姉のような真希は圭吾の世話を焼き、送り迎えした。
 3年になるとふたりは別のクラスになり、同じクラスになった靖は圭吾に頼られた。母親にも頼まれた。甘えん坊の圭吾はからかわれたり、いじわるをされていたが、靖が友達になるとそれはなくなった。

 その頃ある事件が起きた。初めは軽いいたずら……幼い恋心だったのだ。夏休みに、真希がパン屋から出てきた。隣のクラスのしっかりした女子。頭もよく運動神経もいい。圭吾は真希を好きなのだ。靖はからかった。
「腹減ったな。パンもらってこいよ。彼女から」
圭吾ひとりならパンのひとつくらいくれただろう。しかし、後ろにいる靖の性格を真希は見抜いていた。圭吾に付き合うのをやめろ、と話しているのを聞いたことがある。真希はその日もそんな目をした。
 ムカついて、真希の持っていたパンを圭吾に奪わせた。奪って逃げた。圭吾は好きだからからかった。すぐに返すつもりだった。しかし袋には釣り銭も入っていた。大きな金額だった。
 取るつもりはなかったのだ。返してよ、と言われ圭吾は少し意地悪をしただけだ。あとで返しに行けばいいと……

 真希は怒って走って行った。大ごとになった。真希は母親に問い詰められ言わざるをえない。奪われたのは小銭ではない。圭吾が返しにいく前に母親は先生に電話した。その頃、靖はまだ、いい子だと思われていた。間違いでしょう、と言われ母親は靖の家に乗り込んできた。
 大ごとになった。父も母もいた。
「取ったのか?」
父に聞かれ、靖は取ってない、と何度も言った。
「僕、取ってない」
「嘘のつけない子なんですよ」
と母は信じた。
「末恐ろしい子」
母親は靖をにらんで真希の手を引っ張って帰った。父は靖を信じた。助かった。
「あいつは父親がいないんだ。嘘つきなんだ」
うらやましい。父親は早く死ぬべきなんだ。
 圭吾は謝りに行き、靖をかばった。真希は会うたび軽蔑の目で靖を見た。

 6年になり、ついに靖は父親に刃向かった。殴られむかっていった。襖が倒れた。母が止めた。 
 もう1度殴られた。母が腕に噛みついた。父は悲鳴を上げた。
 この家は崩壊寸前だ。父親もわかったのだろう。この息子は自分が寝ている間にバッドで頭を叩き割るかもしれない。妻に包丁で滅多刺しにされるかもしれない。
 嵐のあとの静けさ。父は暴力を振るわなくなった。母は離婚のための準備を始めた。

 靖は優等生だ。勉強はできる。運動神経もいい。顔もいい。女子には人気がある。しかし男子はわかっていた。靖の鬱屈を。時々乱暴に机を叩いた。仲のいい父子を見ると唾を吐いた。男子の大半はおそれたが、ヤッ君、ヤッ君と機嫌を取り、逆らわなかった。
 数人は子分だった。彼らの中では靖は父親と同じだった。気前よく奢り、ふざけているふりをしながら本気で蹴った。気に入らない男子には、給食を配る時に熱いスープを指にかけた。手が滑ったと。階段から突き落とした。

 子分たちは靖のために気に入らない相手をいじめた。上履きを隠した。ノートにいたずらした。女子トイレに押し込んだ。カンニングをしたと言いふらした。靖は見ているだけだ。

 ある朝、教室に行くと靖の机や貼ってある絵が、絵の具で悪戯されていた。ひどい状態だった。先生が皆の前で、
「あなたはこんなことをされるようなことをしたの?」
と聞いた。靖は答えられなかった。それでも女子は同情した。女子には手を出したことはない。靖が妬まれたせいだと思っている。女子は机を拭いてくれた。靖のために喜んで。

 それからしばらくして、先生が皆の前で言った。
「男子が大勢、あなたがいじめをしてるって言いにきたのよ。本当なの?」
 思い当たる。言いつけたのはあいつだ。あいつも。しかし靖は何も言えなかった。もはや孤立した。落書きされた時に悔い改めないから……

 孤立……靖は思い知った。女子もよそよそしくなった。自分は弱い人間だ。父親と同じだ。あとは卒業まで耐えるしかない。中学は皆と違うところに通えばいい。

 真希がいた。真希は靖を軽蔑している。靖は勝てない。真希は勉強もできる。クラスが違うから比べられないが。運動もできる。女だから比較しようがないが。ただスイミングクラブでは完全に負けた。真希は選手コースなのに靖は育成コースだ。才能が違う。根性も。

 圭吾がカラスに突かれているカエルを助けた。あいつは好きなのだ。カエルも蛇も。優しいのだ。圭吾は靖に見せた。小学校に入る前からの友達だ。圭吾だけは離れていかなかった。真希から金を奪ったことになったあとも、圭吾は必死に真希に説明して謝った。靖のことも。

 圭吾は真希を好きだったのだ。ずっと。パンを奪ったのも、好きだったから、からかおうとしただけなのだ。そして今、圭吾は好きな女の子にカエルを見せた。真希は嫌がった。こんなにかわいいのに……嫌がられば余計にかまいたくなる。好きだから。カエルを付けられそうになり真希は走って逃げた。そこに何人かの子分が来た。面白がって追いかけた。真希は走るのは早い。走って道路に飛び出した。表通りではない通学路に運悪く車が来た。

 圭吾は茫然自失。子分たちは圭吾のせいにした。靖はかばっていた。集まってきた大人に言った。
「僕だよ。僕がやらせたんだ」

 学校は大騒ぎになった。真希の母親は責めた。靖の両親と学校を。金を取られた時にうやむやにするから、こんなことに。今度は泣き寝入りしませんからね。

 圭吾は不登校になった。
 靖は転校した。母と家を出ていく前に圭吾に会った。
「学校へ行け。おまえのせいじゃない。授業に出て、しっかりノートを取って、真希に届けるんだ。真希のために頑張れ。好きなんだろう? 真希の力になるんだ」
圭吾は泣きながらうなずいた。
「おまえだけが友達でいてくれた。ありがとう」

 靖は真希が退院する日に病院に行った。謝るつもりだった。しかし、杖をついた真希を見ると会うことはできなかった。
 外に出た。空が落ちてくるような気がした。

3 先輩

 真希はH高に入学した。杖を付いて階段を登る。電車に乗る。周りは心配そうに見るが、助けはいらない。片足が不自由でもあなたたちには負けない。歩く速さも負けてはいない。速いくらいだ。

 同級生に葉月がいた。出席番号がひとつ前の葉月は真希の前に立っていた。
 入学式、来賓の挨拶が終わると、前の葉月の様子がおかしかった。貧血? 真希は支えた。左手で。しかし、全体重を片腕で支えることはできなかった。たった今、来賓の挨拶をした男性が駆けてきて崩れる葉月を抱き上げた。素敵な紳士に絵に描いたような美少女だ。

 教室に遅れて入ってきた葉月は皆の注目を浴びた。男の年配の担任の表情も変わった。息を飲むほどの美少女だ。
 葉月は男子ばかりではなく、女子にも人気があった。助けてあげたくなるような……頼りない美少女だ。その葉月は漢文が苦手だった。当てられてトンチンカンなことを言ったから、後ろからそっと答えを教えた。それ以来真希は葉月に頼られた。足の悪い真希が健常者に頼られたのだ。
 葉月は腕をつかんでくる。手を貸しているつもりか? トイレまで付いてくる。
「ナプキン持ってる?」

 真希がカステラを持ってきた。
「母が、あんたにって。お世話になってるから。仕事でたくさん注文するの」
 世話してるのはこっちだけどね。
 母は喜んでいるのだ。孤高の娘に友達ができたことを。
「わあ……カステラはやっぱりキュウモンドウよね」
「なに? キュウモン? バカ」
 なるほど、崩した書体はそう読めるが。
 
 美少女は美青年に恋をしていた。入学早々告白して振られた、という噂だ。渡したプレゼントを受け取ってもらえなかった。
 窓から三沢先輩を目で追う葉月は可憐だ。しかし、あの先輩は葉月に対してつれなかった。無視している。ということは意識しているのだ。

 とんでもないことが起きた。身体測定と体力測定の日。真希は運動場で葉月が走るのを見ていた。投げるのを見ていた。葉月はテニス部のくせに運動神経の鈍いやつ……しかし、かわいいのだろう。所作がかわいい。スコート姿の葉月は女の真希が見ても抱きしめたくなる……
 用紙を落とした。風で飛んだ。先輩が、三沢先輩が拾った。
「ありがとうございます」
 手を出したがすぐには返してくれなかった。先輩は数字を見ていた。身長、体重、胸囲……
「返してください」
「君は……すごいね、握力。肺活量、男並みだ」
 褒められたのか、呆れられたのか……
「覚えてない? スイミングクラブで一緒だった。僕は育成コースだったけど」
 葉月が走ってくると彼は手を振って去った。やはり美少女を無視した。 

 三沢英幸(えいこう)、聞き覚えがある。スイミングクラブにいた、ひとつ年上の、真希より背の低い、真希より色の白い美少年だった。
 あの子が? あのかわいい男の子が、あんなステキな先輩に? そして、真希に興味を持った。足が悪いから?
 翌日から真希は女生徒に睨まれた。なんであんな子が? 先輩に恋する葉月は喜んでくれた。内心は悔しいのだろうが……
 女生徒の憧れのまとが駅で真希を待つ。かばってくれる。必要ないのに。生徒が見ていようが、先生が見ていようが先輩は真希に優しくした。ナイトのように。真希はお姫様扱いだ。
 葉月は先輩のことを聞いてくる。なにを話したの? どんな人? 趣味はなに? 好きなアイドルは?
「ごめんね。ただ、私に同情してるだけよ」
 そうだ。もしかしたら本命がいて、見せつけているのかもしれない。それは、葉月かもしれない。つれない態度は、好きだからだ。
 それとも、2年の水谷幸子か? 観察していればわかる。幸子だ。ポーカーフェイスを装ってはいても。それでもいい。気分がいい。障害のある真希を皆がうらやましがる。
 音楽室で真希は目の前で先輩のピアノを聴く。リクエストする。先輩が録音してくれた楽曲を。幸子がいる。後ろの席で聴いている。葉月は中に入ってこない。先輩は葉月の顔を見ると不機嫌な顔をする。

 先輩に恋する葉月に悪いと思いながら、部活に入らないふたりは一緒に帰る。女生徒の嫉妬を感じる。優越感に浸る。
 話すのはクラスの話。葉月のことを聞きたいのだ。
「親友なの?」
 先輩も、本当は好きなんでしょ?
 ピアノの話。音楽の話。歌のテストがあるの……
 先輩は曲を録音してくれる。公園のベンチで座って歌った。真希は聞き惚れた。イタリア語のカタリ・カタリ。
 観客が集まってきた。拍手喝采。彼は立ち上がりお辞儀をした。アンコールは流行のアニメソング。幼い女の子が一緒に歌う。
 ごめん、男の子の歌は知らない。弟はいないんだ……変わりに、順番に肩車をした。列ができた。男の子も女の子も。指相撲をした。長い指に小さな指を絡ませた。扱いが慣れていた。
「先輩、幼稚園の先生になれますね」
「そうかな、それもいいね」
ダメだわ。母親が恋をしてしまう。

 プールがはじまると真希はもちろん見学だ。前の時間に終わった先輩が真希に言った。
「また見学か? 泳いでみろよ」
「私に傷だらけの足をさらせって言うの?」
 真希の語気に彼はたじろぎ謝った。
「ごめん、そういう意味で言ったんじゃない。君なら泳げると思ったんだ」
 多勢が見ていた。真希は涙を堪え早足でよろける。彼は支え、拒否されながらまた謝った。
 真希は翌週から水着を着て授業に出た。傷だらけの足をさらして。プールに入るとすぐに気にならなくなった。腕だけで真希は軽々と泳ぎ切った。腕の力は並ではない。先生も生徒も拍手した。彼はプールサイドで見ていた。真希と目が合うと笑って教室に戻っていった。それはすぐ噂になった。
 先輩は、ダンベル ハンドグリッパーなど自分が使っていたものをわざわざ真希のアパートまで届けに来てくれた。自転車で。公園でダンベル体操を教えてくれた。自転車に乗った。久しぶりに漕いでみた。片足だけですぐに漕げるようになった。

 体育祭で真希は走った。スタートはずっと前方だったしゴールしたのも最下位で時間はかかったが皆が応援した。  
 先輩は1年の男子に混じって応援していた。
 1年の菊池君……あの男生徒は?



 
 真希の様子がおかしい。先輩は問い詰めた。答えないでいると、
「靖だな? A組の菊池靖。スイミングクラブで一緒だった」
「……」
「君に大怪我させた。噂は本当だったの?」
 真希はうなずいた。
「ひどい奴なの。小学校のとき、お金を取られた。子分にやらせたの。上履きを隠させたり、教科書を隠したり、カンニングしたと言いふらしたり。
 気に入らない男子には給食を配る時、熱いスープを手にかけたり、階段から落としたり……」

 やがて噂が耳に入ってきた。靖が上履きを隠された。教科書を隠された。試験のあとはカンニングをしたという噂が……
 そしてどんどんエスカレートしていった。靖が腕に火傷した。包帯を巻いていた。真希は先輩を問い詰めた。彼は真希に笑って話した。
「仇は取ってやるよ。学校に来られなくしてやるからね」
「……」
「次は階段から落としてやる」
「やめてよ」
「どうして? 楽しいのに」

 先輩は暴走した。真希は見張っているわけにはいかない。休み時間に靖は階段から落ちた。滑って落ちた。そばにいた先輩が助け起こしたという。
「今に大怪我するぜ。真希みたいに」

 公園で先輩を問い詰めた。彼ははぐらかした。
「胸、また大きくなった?」
「……」
「80のわけないな。何センチ? 女子が話してたよ。真希のおっぱいはかっこいいって」
「嘘っ」
 いやらしい視線だ。
「葉月を好きなくせに。葉月の気を引こうとして、私に気があるふりをしてるくせに」
「葉月? そうだな、彼女のスコート姿もムラムラする」
「水谷さんを好きなくせに」
 ポーカーフェイスが壊れた。
「わかる? やっぱり。ね、彼女はどうだろう? 僕のことどう思ってるかな?」
「自分で聞けばいいでしょ」
「怒るなよ。真希をからかうとおもしろい。君だから言うけど、本命は1年A組の靖。いじめるのが好きなんだ」
「やめてよ。もう」
「怒りっぽいな。生理なの?」
「いやらしい人ね」
「いやらしい? なんで? そういう話、平気な子がいたな。女の子。教えてくれたよ。ハムスターと猫には生理はないんだ。犬はあるけどね。発情期も。ハムスターの腹が膨れて心配したら、睾丸だって……ハッハッハ。女の子が、睾丸だって……」
「笑い上戸!」
「毛、剃ってるの?」
 先輩が真希の腕を撫ぜた。ぞっとした。
「僕はね、体毛が薄くて悩んだ。義母が、セックスするようになれば生えるわよ、なんて。すごい母なんだ。喜びの後には……わかる?」
「?」
「妊娠する。本を貸してやるよ。アポリネール。猥褻な……面白いよ」
 真希は立ち上がった。
「僕はいつでも発情期。真希は? 想像しただろ?  僕と……」
「……想像したわよ。小学生のあんた。女みたいだった」
「やめろよ。思い出したくない」
「上級生にペットにされていたくせに」
「イヤな女」
「みんなに言いふらしてやる」
 彼は声を出して笑っていた。
「真希、杖、忘れてる」
 杖を受け取り言った。
「今度近づいたら、ぶっ叩いてやる」

 翌日の朝、彼は真希のあとをゆっくりついてきた。学校に着くと近づいて来た。真希は身構えた。
「昼休み、屋上に来いよ。終わりにしてやる」
どういう意味?

 靖に何かする気だ。終わりって?
 4時間目が終わると急いだ。屋上に出ると靖は先輩に脅されていた。そばに水谷幸子がいた。必死に止めていた。
「飛び降りろよ。死にはしないって。償うんだろ? 真希に。おまえのやったこと」
「やめなさいよ、三沢君」
「靖、飛び降りろよ」
と先輩にもう1度言われ、靖は柵を越えようとした。
 真希は走った。
「転ぶわ。危ない」
幸子の声で支えにきたのは靖だった。かつて真希をいじめ足を不自由にした男。
「もうやめて」
 真希は叫んだ。
「許すのか? 真希、こいつを許すのか?」
 真希は答えずにもうやめて、と繰り返した。
「行けよ。靖」
 彼のひとことで靖は去った。泣きじゃくる真希を先輩は抱いた。幸子の前で。好きな女の前で。 
 耳元で彼は言った。
「靖は何もしていないんだろ?」
「……」
「かばったんだ。圭吾を」
「そうよ。わかっていた」
「許してやれよ。待ってるぜ。靖は」
「……先輩はわざと? そう。誤解なの。菊池君はなにもしていない。菊池君は女子にはなにもしなかった。私が誤解していたの。他愛ない、いたずらだったの。お金を取られたのも。事故にあったのも。私を好きだった男の子のいたずら。菊池君はその子をかばったの」
「行けよ。靖が見てるよ」
 屋上の入り口に靖が立っていた。
「協力しろよ。水谷がどんな顔するか……真希、殴れよ。彼女が見てる。靖も」
 顔が近づいてきたので、おもわず殴った。演技なのに。彼は頬を叩かれた。叩かれながらよろける真希を支えた。
「本気で殴るなよ。馬鹿力。行けよ。彼女とふたりきりにさせてくれ」
 真希は幸子の隣を泣きながら通っていった。手が痛かった。

 靖が真希の目を見て謝った。
「退院した日に病院に行ったんだ。謝ろうと……できなかった。怖くなって……ごめん。償うよ。一生かけて償う」
「ヤッ君のせいじゃない。圭吾は強くなった……背が伸びたの。レスリング部よ」
「ああ。君の様子を教えてくれた。聞き出してたんだ」
「三沢先輩……演技だったの? 全部? 火傷も、階段から突き落としたのも」
「ああ。包帯は大袈裟に巻いた。僕は柔道やってるから受け身は取れた。
「先輩は似てるんだ」
「……?」

 父親に殴られてた。幼馴染の女の子に傷を負わせた。
 先輩もずっと苦しんでる……

4 息子

 無事に子供が産まれたようだ。里帰りはしないと言っていた。母親が手伝いに来ると。父親は幼い時に亡くなった。自分の母親なら甘えられるだろう。

 次郎の母親は手伝いに来ても文句ばかりだった。空気が冷えていくのがわかった。妻は感謝もしない……
 文句を言う母に交通費と小遣いを渡して帰らせた。その夜、喧嘩した。田舎から出てきた母に渡した金が多すぎる、と。
 来てもらわなければよかった。朝早く起きて、茶が飲みたいって起こされた。ほとんど寝てないのに……余計に大変だった。
 思わず怒鳴った。産後の妻を。妻も限界だったのだろう。何か言い返した。手を挙げていた。産後の妻を殴った。1度ではない。平手だが4回以上。怒りに任せて。
 妻は倒れ、ハーフパンツの足に噛み付いた。肉がちぎれるかと思った。
 噛まれたあとを確認した。妻は子供を置いて出ていった。産後2週間も経っていない。
 次郎はすぐに追いかけ、謝るべきだったのだ。妻に行くところはない。子供を残して戻らないわけがないと、たかをくくっていた。

 息子が泣き出した。それからは大変だった。慣れない手つきでオムツをはずしたら、ちょうど出ているところで手と服を濡らした。なんとか着替えさせたが泣き止まない。ミルクの作り方を読んで作った。時間がかかった。その間息子はずっと泣いていた。
 ようやく飲み終え、寝かせようとしたら吐いた。勢いよく。驚いて怖くなった。育児書を読んだ。げっぷさせなかったからか? 心配はなさそうだ。シーツを変え、もう1度着替えさせた。

 洗濯機を回そうと、もたもたしていたところに妻が帰って来た。買い物をしていた。妻は黙って手を洗うと息子の世話をした。次郎は黙っていた。口を開いて再び怒らせると面倒だ。

 
 母親になった女は2週間もするとゴミ出しに来た。元気そうで安心した。他人を気にかけることなど、なかったことだ。妻や息子のことさえ気にかけなかった。
「ジーさん、変わりない?」
 気にかけられることもなかった。
「無事、生まれたか? どっちだ? 名前は?」
「男の子、健康の健」
「健坊か」

 少しすると、母親は健坊を抱きゴミ出しに来た。杖を付いて。少しずつ外気に慣らしていく。 
 次郎はおもわず頬に触った。母親はとがめなかった。
「かわいいなあ。いろんな顔をするんだな」
「1日中見てても飽きない」
「夜泣きしないか? 旦那にうるさいとか言われないか?」
「オムツ変えてくれるわ。ミルクも作ってくれる」
 母乳は? とは聞けなかった。妻と母はそのことで険悪になった。頑張って母乳飲ませなさいよ……妻も頑張っていてのだ。ストレスで出なくなった。
 夜泣きがひどかった。仕事に差し障る。大声を出した。妻は寒い夜中に息子をおぶって外に出た。泣き止んで眠るまで外を歩いていた。

 次郎は健坊の成長を見守った。息子のことを考えた。息子は結婚はしないだろう。いや、すでに結婚して、自分のようになっているのではないか? 
 暴力を振るい悲惨な家庭を……そして妻に言われているのでは? 嫌ってた父親と同じことをしている、と。

 健坊の成長は次郎の生き甲斐になった。健坊は早起きだ。いつもゴミ出しを手伝った。次郎は買ってきたおもちゃをプレゼントした。消防自動車が好きだと言っていた。毎日歩いて消防署まで見に行くのだと。
 健坊は喜んだ。
「こんな汚いじーさんにもらったら、怒られないか?」
「汚くなんかないですよ。健はおばあちゃんはふたりいるけど、おじいちゃんはいないから。おじいちゃん代わりです」
 涙が出そうになった。孫どころか、息子に見限られた身だ。
 自転車を押して3人で消防車を見に行った。コンビニで菓子を買ってやる。健坊は時間をかけて選んでいた。ひとつだけ、と決められているらしい。
 かわいかった。この子のためならいくつだって買ってやりたい。なんだってしてやりたい。

 こんな小さな息子にも当たった。怒って泣かせ、次の日にはおもちゃを買って帰った。ひどい父親だった。懐くわけがない。

 季節が何度か巡った。母親は行事があると健坊の写真を見せた。幼稚園入園、遠足、運動会、七五三……

 小学校に入る前だ。
「引っ越しするの。家を買ったの」
 ついにきた。もう、このマンションは手狭になった。
「そうか、寂しくなるな。旦那さん、頑張ったな」
「近くだから、3丁目の建て売りだから、寄ってね、缶取っておくから。健に会いに来て」
「あそこの建て売りか? よかった。また会えるな。健坊」
「会いに来てね。おじいちゃん」
「ああ、行くよ」
「1番奥の家よ。いずれ、夫の親に来てもらうから」
「うまくやってるんだな。ところで苗字は?」
「キクチだよ」
 健が教えた。
「菊池?」
 妻の旧姓だがよくある姓だ。
「ママの名前はきくちまき」
「えらいな。健坊。迷子になっても言えるな」
「パパの名前はきくちやすし」
「やすし……」
「僕の名前はきくちけん、だよ。おじいちゃん」


     

  (了)
 

『落下』は『この家には亡霊がいる2』の
『英語の英に不幸の幸 続き』のスピンオフです。
 タイトルはリルケの詩『秋』から取りました。

 ただひとり この落下を 限りなく優しくその両手に支えている者がある

落下

落下

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-06-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 Gさん
  2. 2 靖
  3. 3 先輩
  4. 4 息子