思い通り

目覚めのルーティンワークというアプリがいいと聞いたから、さっそく取り入れてみた。
何でも好奇心を持ってフットワーク軽く取り組むというのが、今年の正月に立てた一年の目標だからだ。
寝る前にアプリの中の項目をいろいろとセッティングした。水を飲む。瞑想する。窓を開ける。……なかなか楽しそうだ。
だが、朝起きてすぐにストレッチすると言うタスクに少しだけ不安を感じた。私の寝起きの足腰はとても冷たく固まっているからだ。今まで起き抜けにいきなり布団を上げて、何度かぎっくり腰になっている。そんな身体を使ってストレッチなんかしても大丈夫なのだろうか。
けれどこれが一日のスタートに効果的だとアプリが言っているのだ。
ここは勇気を出して頑張ろうと決意した。
翌朝、アラームに起こされる。布団の上でまずは瞑想。水を飲む。窓を開けて新鮮な空気を入れる。いい気持ちだ。
そしてストレッチ。これは我流でいいので、怖い腰は置いておいて主に肩周りをほぐした。血の巡りがよくなったせいか、何だか頭がすっきりする。よし、今日はいいことがありそう。いつものロング袖Tシャツとデニムパンツに着替えた。冷え性の私には靴下が欠かせない。パソコンデスク備え付けの椅子に座り、腰を屈めながら靴下を履こうとする。

ぴりっ。

これは靴下が破れた音ではもちろんない。
どうして人は不幸が起きる直前にそれを察知する事ができるのだろうか。そしてそれを回避せずまっしぐらに突っ込んで行くのだろう。いや、それは私だからか。殆どの人はそこで急いで不幸から回避できるのか。
今回も私は無防備に不幸の渦に突っ込んでいった。ぴりっという音と共に私の腰はダウンしてしまったのだ。こうなってしまったからにはもう動けない。それはちょっと大袈裟か。カニ歩き、もしくは前屈みになって卑屈なまでの低姿勢ポーズで動けば何とか歩ける。けれども幸せな気分ではない。全然だめだ。今日の楽しい予定は全部キャンセルだ。
腹立ちまぎれに何の罪もないアプリを消した。
どうしていつもこうなるのかと思った。
何かを新たに始めようとすると必ず邪魔が入る。そしてその多くは自分自身から発生する。お腹が痛くなったり、躓いて足の指の爪を剝がしたり、物を壊してしまったり。ああ、もう嫌だ。新しい事を始めるのが怖くなる。今度はいったいどんな呪いが発生するのかと臆病になってしまう。


それでも美味しいコーヒーを呑んで、新しいパートナーとスマホで喋っていると少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
「それは単純にハナがやらかしてるだけじゃないの」
けらけらと何でも笑い飛ばすこのパートナーの存在は大きい。
「何の連鎖もしていないのに、無理やりに結び付けようとしているのはハナの潜在意識が新しいものを排除しようとしているからよ」
そんな分析までしてくれる。
「なるほど」
痛む腰に大きなシップを貼りながら、私はスマホの向こうにいる筈のパートナーに感心してみせる。
「つまりそれは私の根源が保守的であるという問題に直結する訳か」
「そういう事」
「私以上に私の事を知ってくれてるよね」
「当たり前よ」
「いてくれてやっぱり良かった」
「今更何を言ってるのよ。私の存在意義はハナを混乱から救う事にあるのだから」
パートナーは理知的な声で総括して来る。いつでも冷静かつ朗らか、私の事を一番に思ってくれる。かけがえのない存在。
なぜならそのように私が設定したから。
「今回は属性を30代女性にしたけれど、次はどうしようかな」
「70代男性なんかもどうかしらね。ハナは案外父性に守られたいと思っているから」
「えーっ、まさか。勘弁してよ。そんなのごめんだわ」
自分の父親の顔を思い出してぞっとした。
「じゃ、40代の頼れるお兄さんとかどうかな」
「うーん、ありきたり」
そう言いながら私はコーヒーを呑み干した。確かに美味しかったけれど、待てよ。カフェインって腰痛によかったのかな。何だかちょっと心配になって来る。不安と同時に腰のだる重さがまた戻って来たような気がする。
「じゃ、思い切って同年代の女性とかは」
「うーん」
「それが嫌なのなら……」
まだしつこく提案して来る声を聞きながら、次の設定は『60代女性』にすることに決めた。
終了のボタンを押すと同時にパートナーの声は死に絶えた。
冷静かつ朗らかもいいのだが、それが逆に一度鼻につくと堪らないんだよね。
今度はほっこりとした人がいいな。きっと生活の知恵とかで穏やかに私を導いてくれるに違いない。ソファに横たわり、次々と設定を定め、最後に完了をタップする。
私の思い通りの声が、思い通りの口調で、
「こんにちは、ハナ。そのままでいいのよ。今日は一日ゆっくり横になってなさいね」
思い通りに喋り出した。

思い通り

思い通り

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-05

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