タイムマインド(③潤一編)

平成十七年 七月

「生まれ変わり?」
 僕は調子はずれの声を上げた。
「そうだよ、そんなことも知らねぇのかよ。まだまだお子ちゃまだな、久野潤一君は」
 翔ちゃんこと──長谷川翔太はそう言って、外国人ばりに肩をすくめた。自分だってまだ小学生じゃん、と、僕は内心つぶやいた。
「つまり、輪廻転生のことだよ」
 四字熟語だかなんだかわからない、小難しい言葉に僕はぐうの音も出ない。
 窓の外から夏の日差しと、昼休み特有の陽気な気配が入り込む。風にカーテンがあおられている。教室には、僕と翔ちゃんのほかに、数人の生徒がいる。ノートに絵を描いたり、隅っこで雑談したり、ケータイをいじったりと、さまざまだ。僕はケータイを見せびらかしている友だちのところに行きたかったけど、翔ちゃんの話を聞かないと怒られそうなので我慢しているのだ。
 思うんだけどさ、と翔ちゃんはつづける。
「俺たちって、ソウルメイトかもしれないぜ」
「だから、まず先に、その意味のわからない言葉を説明してよ」
 僕はうんざりして机に視線を落とした。
 わかったよ、と、翔ちゃんは舌打ちして浅黒い顔をしかめた。
「ソウルメイトっちゅうのはな、簡単に言うとだな……なんだっけ?」
 僕はガクッと机に額を打ちそうになった。やっぱり付け焼き刃だったんだなと思った。
 翔ちゃんはよく自慢したがる。自分を大きく見せたいのだ。だから、みんなが知らない情報を仕入れると、あたかも自分が発見したかのような口振りでまくし立てる。その被害者はいつも決まって、僕だった。おもしろい蘊蓄だったらまだ許せるし、興味がわくかもしれないけれど、たいてい「トリビアの泉」で放送されたものばかりだ。今回の前世にまつわるエピソードも、テレビからの情報ではないかと、僕は思った。
「ああ、そうだそうだ」
 翔ちゃんの切れ長の目がおもむろに見開かれた。そしてジーンズの尻ポケットから扇子を取り出す。彼の、気に入りのアイテムだ。
「ソウルメイトとはな、前世で会っていた人と現世でも出会う――その出会う人のことを指してるんだよ。肉体が滅びても魂は永久に不滅ってこと」
「へぇ~、へぇ~、へぇ~」
 僕は「ビビる大木」のごとく「へぇ~」を連発した。別に驚いたわけではなく、ただたんに言ってみたかっただけだ。魂とか生まれ変わりとか、はっきり言ってどうでもよかった。
「なっ、なっ、おもしれぇだろ。すげぇだろ」
 何が? と言い返したかったけど、翔ちゃんは物知りだね、と僕は謙虚に相槌を打っておいた。彼はケンカも強いから、むやみに神経を逆なでさせるようなことはできない。
「おまえさ、前世療法を受けてみろよ。俺の親父に頼んでやるから」
 机の上に座っている翔ちゃんは足をぶらぶらさせながら言った。
「翔ちゃんのお父さんって、たしかセラピストだよね。前世とか見れるの?」
 僕はセラピストという職業がどんなものか知らない。
「まあ、厳密に言えば『見れる』んじゃなくて、患者に『見させてあげる』んだけどな。それに、前世療法が専門じゃなくて──要するに前世に興味を持って、独学で学んでいるだけで──普段は精神的に困っている患者を診察してるだけなんだ。でもさ、前世療法もできるようになったら、患者が増えて儲かるだろ。だから躍起になって、その分野を勉強してるんだよ」
 彼のお父さんは「長谷川クリニック」の主治医だ。商店街の雑居ビルの一部を開業して、一人の助手──奥さんだ──とともにやっている。
「まだ研究している段階なんでしょ? 僕が受ける意味ないじゃん」
「いや、親父はそろそろいけるかもしれないって言ってるんだよ」
「だったら、はじめに翔ちゃんが受けてみれば?」
 翔ちゃんは短髪の頭を激しく振った。
「だって、怖いだろ」
「は?」
「一度も成功してないことや、お墨付きがないものって、チョー怖いじゃん。自分の前世は見たいけど、失敗して脳みそがいかれたら、どうするんだよ。親父、けっこう適当なところがあるし。前世療法を受けるとしたら、そうだな、インターネットとかで検索したらぱっと出てくるような、有名なとこに行くな、絶対」
「要するに、今後の長谷川クリニックのために、僕を実験台にしたいってこと?」
「そんなに悪くとらえるなよ。俺の親父が勉強してきた前世療法を試すに値する、絶好の生け贄──あ、いや……絶好の、犠牲者……違うな」
「とにかく、いいよ。遠慮しとく」
 僕はため息をついた。前世だかなんだかしらないけど、オカルトじみたことに関心はない。
 と、教室内が騒がしくなりはじめた。休憩時間が終わりに近づいて、みんなが戻ってきたのだ。
「別に前世療法だけを勧めているわけじゃないぞ。うちのクリニックは本来まじめなカウンセリングをしてんだから」
 翔ちゃんは──このままだと長谷川クリニックのイメージが悪くなるとでも思ったのか──急に言いわけを口にする。
「それに、おまえの精神状態を心配しているからだからな。前世療法によって悩みや不安が──ふ、ふ……なんだっけな」
「払拭?」
「そう、払拭。さすが読書家」
「それで、払拭が、何?」
 僕は頬杖をついて催促した。翔ちゃんの知らない言葉を言ったものだから、少しだけ優越感がわいた。
「悩みや不安が払拭されるってことだよ。自分の前世を知ることで、な」
「なんで自分の前世を知ったら悩みが消えるの?」
「知るかよ。とにかくトラウマとかコンプレックスとかが消えるんだよ」
 もうちょっと知識をたくわえてから自慢してほしいものだ。
 翔ちゃんは閉じられた扇子の先っちょを、ビシッと僕の目の前に突きつけ、
「久野潤一よ、おまえの悩みはなんだ? いい診療所を紹介してやるぞ」
「あのねー、たとえ悩みがあっても長谷川クリニックには行かないよ」
「野暮なことをいうなよ」
「だいたい、なんでそんなに宣伝するのさ」
 うっ、と翔ちゃんは口ごもってから、
「うち、やばいんだよ」
「何が」
「経営難、赤字、借金。俺んち、金に関しては三冠王なんだって」
 なるほど、と僕は納得した。これで、翔ちゃんのお父さんが新しい分野に手を伸ばしていることや、翔ちゃんまで躍起になって長谷川クリニックを紹介している理由がわかった。と同時に、いきなり現実的な話になったので、僕は反応に困った。
「まあ、トラウマがあるにはあるからさ、お年玉とかもらったら診察してもらおうかな」
 確実にお年玉はゲームソフトに使ってしまうだろうけど、しょんぼりした友だちを気づかって言った。
「ああ、よろしく頼むぜ」
 そこまで生活が困難になりかけているのだろうか。お金の話が子どもにまで伝わるとは、かなりの状況なのだろう。
 校内に間の抜けたチャイムが鳴り渡った。みんな教科書を持ってぞろぞろと教室を出ている。五時間目は理科室に移動しなければならない。翔ちゃんは慌てて自分の席に戻ると、物がごちゃごちゃにつまった机から教科書を探し出した。
 僕も文房具と教科書を取り出す。久野君、と舌足らずな女子の声がした。
 顔を上げると、近くに河名愛と橋本梨恵が立っていた。僕を呼んだのは、橋本の方だった。二人とも──色違いではあるが──レースのカーディガンとハーフパンツという、お洒落な格好だ。渋谷か原宿あたりにでも行って買ったのだろう。最近の小学生はませてるなぁと、昨夜テレビを観ながら言っていたお父さんの横顔を思い出した。別に最近の子どもがませているとは感じないけど、目の前のお洒落を追及する女子二人は、比較的大人びていた。
 橋本が肩で河名をこづいた。顔はなぜかにやにやしている。
 変な沈黙にたえかねて、僕は言った。
「どうしたの? なんか用?」
 河名はびくっとした。眼鏡の奥にあるまなざしが、きょろきょろとせわしなく動いている。橋本は含み笑いをしてから、僕を上目づかいで見た。
「愛がねぇ、久野君に言いたいことがあるんだって」
 河名は一歩前に出て、手に持っていたチケットを突き出した。
 僕はそれを受け取り、しげしげと見る。
「プール?」
「うん。タダ券が手に入ったから……」
 僕は首をかしげた。彼女が何を言いたいのか、よくわからなかった。これまでも河名が橋本に引っ張られて僕のところに来ることがあった。でも、いつも最終的には橋本が用件を言ってしまうので、河名とはまともに話をしたことがなかった。だから、印象もかなり薄い。橋本に振りまわされている子――僕が河名に抱いている印象は、それだけだった。
 もう! と橋本は手を腰にあてて、
「愛が、勇気をふりしぼって誘ってるんだから、返事ぐらいしなよ」
「返事って?」
「はあ? この状況を見て何もわからないなんて──まだまだお子ちゃまよね」
 お子ちゃま。本日二回目の台詞に、僕はむっとした。
「あの……」
 河名が消え入りそうな声で言った。
「タダ券が手に入ったから……だから、プールに行かない?」
 そこで、僕はチケットの意味に気づき、気づいたとたん顔が熱くなった。河名に好意的に思われているのは、純粋にうれしかった。
 いいよ、と僕は答えた。河名ははにかむように笑った。
「何、何? 何話してんだよ」
 翔ちゃんが嬉々として駆け寄ってくる。
 翔太には関係ないもん、と橋本は言い、自分の机に行くと教科書を取り出した。
「愛、早く行かないと授業に遅れちゃうよ」
 翔ちゃんは、ちょっと待てよと言いながら橋本たちを追いかけた。仲間はずれにされたことが心外らしい。
 僕たち四人は歩調をそろえて階段を降りていく。
「え? プール? なんで潤だけ誘うんだよ」
 翔ちゃんは橋本に詰め寄っている。
「別に。タダ券はもうないし、それに愛のためなんだから」
「河名のためって、なんだよ」
「翔太は知らなくていいことだもん」
 橋本はつんとした態度に出る。
 二人のやりとりに、僕はひそかに笑った。
 いつからか、似たもの同士の二人は張り合うようになっていた。橋本は翔ちゃんにテストの結果を自慢したり、逆に、翔ちゃんは橋本に体育の成績表を見せびらかしたりといった感じで、いつもささやかに争っているのだ。
 河名が遠慮気味に橋本をつついた。
「本当は……もう一枚持ってるよね? 長谷川君にあげるつもりじゃなかったの?」
「──バカ」
 橋本は鼻白んだ。
「なんだよ、チケット、あるんだったらくれよ」
 翔ちゃんは脳天気に言った。
 橋本は渋々といった、しかし、どことなく渡せてよかったというような顔つきで、翔ちゃんにチケットを差し出した。
 サンキュー。翔ちゃんは相手の様子などおかまいなく、やっぱり、脳天気だった。
 橋本は伏し目がちに早足で歩いていく。待ってよ、と河名が追いかけていった。
 なんか平和だな、と、平和ボケしたこの国で僕は思った。
「そういえばさ」
 翔ちゃんはプールのチケットをひらひらさせながら、思い出したように言った。
「おまえ、水が苦手だったよな?」
 ああ。僕はのんきな声を出した。
「苦手っていうか、あの日からしばらくの間は、水が怖かった」
「俺、めちゃくちゃびっくりしたよ。おまえが落ちたときは」
 小学四年生のとき──二年前のことだ。夏休みに、僕は翔ちゃんといっしょに海に行った。保護者は僕の両親だった。
 太陽が激しく照りつける日で、浜辺には多くの人がいた。水着姿の僕と翔ちゃんは、波打ち際で遊んだ。菓子の包装紙や錆びついたキーホルダーを波がさらっていった。両親はパラソルの下でほほえんでいた。大きな波を待つサーファーやビーチバレーをやっている学生らしき人たち、女性に声をかけているお兄さんたち。
 昼下がりの周辺は海を満喫する人々の声にあふれていて、すべてが夏っぽかった。
 しばらくして翔ちゃんが崖の方に行こうと言い出した。僕は何も考えないままうなずいた。大勢の人が行き交っていたので、僕たちを見失ったのだろう、両親に引き留められはしなかった。
 防潮林として利用されている──細い枝のかたちが特徴的な木麻黄の間を抜け、僕と翔ちゃんは崖に向かった。
 海辺にいるときよりも潮騒がよく聞こえた。カモメの鳴き声も。風が海藻などのにおいを運んできてくれた。僕は崖から身を乗り出して青々とした海を眺めた。どこまでもつづいていそうな青色だった。テレビや写真で美しい海を見たことはあるが、それに匹敵するくらいきれいだった。
 数メートル先の海に、僕は吸い込まれそうになった。
「おい、危ないぞ!」
 翔ちゃんの焦りと困惑が混じった声が聞こえた。
 僕の意識は現実に戻ったけど、もう、遅かった。体が空中に投げ出させていた。全身にしびれのような恐怖が走ったのを、おしっこがちびったのを、今でも憶えている。何も考えられないまま、僕は海に向かって落ちていった。空がどんどん離れていった。そのうち、どっちが空で海なのかよくわからなくなり、気絶した。
 夢を見た。ふしぎなことに、僕は一切出てこなかった。僕ではない男性――その男性と、その人の恋人らしい女性が、手をつないでいる夢だった。
 二人が手をつないでいるという状況と、山に向かっているということだけは、ぼんやりと記憶している。ただ二人が歩いているだけの内容。女性の横顔は悲しそうで――だけど、悲しみを通り越してやすらいでいるようにも見えた。
 やがて男性は口を開いた。
 愛──。
 そこで、僕は深い眠りから覚めたのだ。
「だいじょうぶか!」
 目の前の知らないお兄ちゃんが叫んだ。レスキュー隊の人だったか、通りすがりの人だったかは、今もわからない。
 僕は喉に溜まっていた水を吐き出し、咳き込んだ。すぐそばにはお父さんもお母さんもいた。人も何人か集まっていた。よかった、と誰かが言った。翔ちゃんもいて、すすり泣いていた。僕は翔ちゃんの泣き顔を見て、なぜか安心した。幼稚園からのつき合いだけれど、一度も見たことがなかったからだ。僕はいつも泣かされる側だったから。
 あとから聞いた話だけど、僕が海に落ちるのを目撃していた女性がいたらしく、その女性の悲鳴で、周囲に知れ渡ったらしい。翔ちゃんはあわてふためきながらも僕の両親のところにすっ飛んでいってくれたらしい。そんなこんなで、僕は今も生きていて、普通に小学校に通い、普通に授業に勤しんでいるというわけだった。今となっては、大して特別でも何でもない平凡な臨死体験だったと思う。
 かといって、恐怖心は簡単に消えてくれず、何週間かは水が怖かった。水道から流れる水を見るだけで、喉が圧迫され、溺れそうな感覚に襲われた。お風呂も、だめだった。浸かっていると、そのうち、浴槽の中で溺死している自分の姿を想像してしまうからだ。落ちる夢も頻繁に見た。崖から海まで真っ逆さまのストレートな夢、その夢を見ると、かならずと言っていいほど全身に浮遊の感覚が襲ってきて、目が覚めた。両親は精神科医に診てもらおうかどうしようか、深刻そうに相談していた。
 しかし、結局は時間が解決してくれた。僕は知らず知らずのうちに水を見ても平気な体に戻った。いわく付きの墓地で肝試しするより怖いひと夏の体験、と割り切れば、話のネタになるから、まあいいか、などと気楽に考えられるようになったのだ。僕はあんがい、翔ちゃんより図太い性格かもしれない。

「今となっては武勇伝っていう感じだよ」
 僕は余裕を見せて言った。
「何が武勇伝だよ。おまえが落ちるところを思い出すだけで、俺の方が冷や冷やするっていうのによぉ」
 翔ちゃんはあきれたような表情だった。
「まあ、トラウマにならなくてよかったな」
 僕は、ふと立ち止まった。どうしたんだよ? と翔ちゃん。
 理科室はもう廊下の突き当たりに見えている。
「トラウマっていうほどのものでもないんだけど……一つだけ気になることがあるんだ」
 僕は言った。
「バスが、嫌いなんだよね」
 ああ、そうだったな、と翔ちゃんは相槌を打つ。
「就学旅行のとき――バスに乗った時点で、おまえ、異常にふるえはじめたもんな。顔は女みたいに白かったし。俺さぁ、おまえがバスの中で凍え死ぬかと思ってビビッた」
 そうなのだ、僕はバスが嫌いだった。乗ると、体が極度に拒絶するのだ。低学年のとき、就学旅行中のバスの中で、僕ははじめてバスに恐怖した。いきなりひどい寒気が全身に走ったのだ。先生は、酔い止めの薬に何か問題があったのでは? と言っていたが、原因はわからずじまいだった。結局、僕だけが先生の車に乗せてもらって移動した。
 それ以来、就学旅行では先生の車に乗り、バスを避けるようになった。あいにく肺炎にかかって行けなかったこともあった。今年も、五月に就学旅行があったけど、いっしょに暮らしていた父方のお祖母ちゃんの葬式と重なったせいで参加できなかった。
 海に落ちたことは説明がつくけど、なぜバスが嫌いなのかはわからない。子どものころにバスの中で何かあったかと、お母さんに聞いたこともあったけれど、憶えていないらしい。
「たんなる体質だと思うけど、今でも気にはなるんだ」
 僕は言った。
「……バスかぁ」
 翔ちゃんは真剣な顔つきでつぶやいたけど、すぐににやりと笑った。
「俺の親父に頼むか」
「やだね」
 僕はわざと苦い顔をつくった。
「嘘だよ、嘘。真に受けるなって」
 僕は、わかってるよと返事をして笑った。
「久野君、長谷川君、何しているの。早く教室に入りなさい」
 先月誕生日を迎えて「三十路、三十路」とヤジられている──でも、僕はまだまだ若いと思っている──女の先生が、理科室の引き戸越しににらみをきかせていた。
「やべっ、早く行こうぜ!」
 翔ちゃんが慌てて走り出す。
 各教室から先生の声が響いている。ゆるやかに午後の授業がはじまった。
 やっぱり平和だ、と、僕は内心苦笑した。

       一

 ここ二週間はなんのへんてつもなく過ごした。ゆいいつ変わったことといえば、折り畳み式のケータイを買ってもらったこと。ほしいほしいと前々からねだっていたし、このたびのテストの点もよかったからだ。だけど不満もあった。ありとあらゆるロックがかかっていて、メールすらできないのだ。お母さんの言い分は、「塾の帰りに連絡を取り合うぐらいだし、そもそも学校には持っていけないでしょう? メールなんてしなくても、電話という必要最低限の機能さえあればいいじゃない」。僕は何度も交渉に挑んだ。主張はひっくり返らなかった。今の時代、ケータイを持っていない子の方がめずらしいし、みんな学校に持ってきている。頭の固いお母さんとは口をきいてやらないつもりだったけど、「ごはんを食べられなくてもいいの?」の一言に、僕の信念はあっけなく撃沈してしまった。
 ネット機能を失ったケータイは──購入当初はよろこんでボタンをたたいていたけれど──すぐに飽きた。ゲームも写真機能も、ひととおりやり終えると、こんなものかという感じ。ゲームだったらプレイステーション2の方が楽しいし、写真に関してはそもそも撮りたいものがなかった。
 やがて夏が本領を発揮し、ボリュームをひねるように暑さを強めていった。

 その日、一学期の終業式が行われた。教頭先生が長々と夏休みに向けての注意事項を述べ、カマキリのように痩せ細った校長が、小学生を狙った犯罪が増えていることと、それに対処するための心構えをぼそぼそ言っていた。体育館は終始ざわついていた。頻繁に「静粛に!」という一喝が飛んだが、夏休みを目前にして浮かれ気分の生徒たちは何を言われてもうわの空だった。
 教室に戻ると通信簿を渡され、はい、明日から楽しい楽しい夏休みです、となった。みんな遊びの計画を立てながら、どこどこに旅行に行くとか自慢しながら、散らばっていった。
 僕は翔ちゃんといっしょに校門を抜けた。さんさんとした太陽が、午後からはもっとがんばりますよと言わんばかりに輝いている。
「おい、半分持ってくれよ」
 翔ちゃんは、ランドセルにつめきれなかった教材や図工用具などをスポーツバッグに入れているせいで、重たそうだ。
 やだね、と僕はつんとした態度で拒否してみせる。
「今日のために少しずつ持って帰らなかった翔ちゃんが悪い」
 ちぇ、と翔ちゃんは舌打ちしてから、そうそう、と話題を変えた。さすが、細かいことは気にしない。
「何時に集合だったっけ?」
 僕たちは昼から、河名と橋本の二人と市民プールで待ち合わせしている。やっとあのタダ券を使う日が来たのだ。
「一時半だよ。それに、遅れてもいいって言ってたよ。先に泳いでおくから、って」
「ふーん」
 翔ちゃんはナイロン制のスポーツバッグを引きずりながら言った。
 横断歩道を渡り住宅地に入る。あたりは静かで、犬を連れているお年寄りや道端で話し込んでいるおばさんしか見かけない。車もそんなに通らない。
「河名ってさぁ、絶対におまえのことが好きだよなぁ」
 翔ちゃんはだしぬけに口を開いた。
 僕はどきっとした。えっ、な、なんで? と、しどろもどろになる。
「俺ってそういうのにはあまり勘づかない方なんだけど、さすがに、河名の態度を見ていたらわかるって。おまえと話すときは、おかしいもん」
「そ、そうかなぁ」
「おまえ、河名愛のことをどう思ってんだよ」
「別に……どうも思ってないよ」
 嘘つけぇ、と翔ちゃんは目を細めた。
 赤くなったほっぺたを見られたくなかった。僕はうつむいて、アスファルトをにらんだ。
 図星だな、と言ってから、翔ちゃんの声は沈む。
「……いいよなぁ。告白すれば、河名はイチコロだぜ。誰か俺にも来ないかな」
「翔ちゃんには橋本がいるじゃん」
「はあ?」
 彼は鼻の穴と口を大きく開いて、バカみたいに驚いた。
「なんで、橋本が出てくるんだよ」
「だって、仲がいいじゃん」
「よくねぇって。見ててわかんねぇの? なんちゅうか、犬……えっと、犬……なんだっけ」
「もしかして、犬猿の仲?」
「そう、それ。俺と橋本は、犬猿の仲なんだよ」
「そんなこと言ってるわりには、顔が赤いよ」
 僕は指摘した。本当に翔ちゃんの顔が沸騰しているのだ。
 赤くねぇって。そう言いながらも、翔ちゃんは左手に扇子を持ち、ぱたぱたと顔をあおぎはじめた。
「お、おまえだってなぁ、河名のことが好きじゃん」
 反撃をくらった僕はまたしてもどきっとした。
「どうも思ってないって言ってるじゃん。翔ちゃんこそ橋本が好きなくせに。だから、からかったりしてるんだ」
「嫌いだから、からかってんだよ。だいたい、誰があんなうるさくてギャル志望の女を好きになるんだよ。三十歳になっても彼女ができなくて、彼女がほしいよぉ誰かつき合ってよぉ、ってなことになったとしても、橋本だけはぜーったいに、いやだ。勘弁」
「こっちだって、翔太なんかお断りよ」
 翔ちゃんはびくっとした。もちろん、僕も。
 後ろを振り向くと、仁王立ちの橋本がいた。横には河名もいて、僕の背中に電流が走った。どこまで聞かれたのだろう、不安になった。これでもかというくらい顔が熱を発する。今にも倒れてしまいそうだ。
「いやぁお嬢様、今日も一段とお美しいですね」
 何を思ったのか、翔ちゃんは畳まれた扇子の先端で、ぺしっと自分の額を打った。ギャグで切り抜ける気だ。
「翔~太ぁ!」
 橋本が低く叫び、翔ちゃんは奇声を上げて逃げ出した。しばらくの間、二人は追いかけっこをつづけていたが、スポーツバッグを携えたまま逃げきるには無理があったようで、翔ちゃんは橋本に捕まった。
 やっぱり仲がいいじゃん、と僕は言った。河名がくつくつと笑った。僕たちは目が合い、一瞬だけ止まってしまったけれど、すぐに視線をそらした。
 翔ちゃんは地面にうずくまり、橋本の攻撃に耐えていた。

 一旦みんなと別れて、マンションに帰った。玄関のドアを開けると、三和土にお父さんの革靴が置いてあった。今朝、数日前から風邪をこじらせているお父さんが会社に電話していたのを思い出した。たぶん、あれは休暇を取るための電話だったのだろう。
 おかえり、とエプロン姿のお母さんが出てきた。今日は肩まである髪に軽くウエーブをかけている。出かける予定がない日でも、お母さんは身だしなみに余念がない。
「ねぇ、お父さん、だいじょうぶ?」
「うん……まだ熱が下がらないみたいよ。でもちゃんとお薬を飲んだし、だいじょうぶ」
 なんとなくお父さんが子ども扱いされているようで、僕は笑ってしまった。
 両親はすごく仲がいい。口喧嘩はするけど、翌朝には仲直りしている。二人とも四十を越えているくせに、新婚ほやほやのようだ。
 僕はリビングに行き、教科書やプリント類でぱんぱんにふくれたランドセルをテーブルに置いた。
「さてと、拝見いたしましょうか」
 お母さんは意地悪な目を僕に向けた。通信簿を見せろと言っているのだろう。別に恥ずかしい成績ではないので、僕は胸を張って差し出した。今ごろ翔ちゃんはいやいや見せてるんだろうな。
 お母さんが満足げな表情で通信簿を見ているのを横目に、僕は洋室に向かった。
 ドアノブを引くと、お父さんがベッドの上でぐったりしていた。額にはおしぼりが載っている。見るからに顔が熱そうだった。冷房がきいているが、効果はたいしてないみたい。
「おう、おかえり」
 お父さんは弱々しく笑った。健康そうにふっくらしていた顎のラインも、ひどくやつれて見える。体格のいいお父さんだけど、今なら腕相撲をしても勝てそうだった。
「心配してくれているのか」
 と聞かれ、僕はうんうんとうなずく。早くよくなってねと言いたいが、照れくさくて口には出せない。親がうざったいと言うやつもいるけれど、僕はお母さんもお父さんも大好きだった。
 お父さんの大きな手が僕の頭に載った。そんなことをすると余計心配になるじゃん、と僕は悲しくなった。大げさだけど――お父さんが死んじゃったらどうしようと不安になった。風邪が悪化して死んでしまうケースだってあるはずだ。
「なんでもっと早くお医者さんに行かなかったの?」
 風邪気味でも仕事をつづけていたお父さんに、僕は非難めいた口調で言った。
「いつもの洟垂れだと思って、油断してたんだよ」
 洟垂れとは、アレルギー性鼻炎のことだ。僕にはよくわからないが、ときどき鼻水が出てしかたがない日があるらしい。昔お父さんには、洟垂れ小僧というあだ名がつけられていたそうだ。授業中や彼女とデートしているときに鼻水が垂れて垂れて格好悪かったと、いつだったか話してくれたことがあった。ちなみに、映画館でずーずー音を立てて鼻をすすっていたのが原因で、最初の彼女とは別れてしまったらしい。でも、そんなお父さんのことを、──三番目の彼女である──お母さんは、「鼻の赤いトナカイさんみたいだった」と言っていた。
 その会話を聞いてからというもの、この夫婦は仲がいいのだなと、僕はますます思うようになった。
 しばらくの間とりとめもなくお父さんと話していると、お母さんに呼ばれた。昼ご飯ができたのだ。
 リビングに行き、ダイニングテーブルについた。目の前にはカレーライスとにこにこ顔のお母さん。僕は甘口のカレーを口につめ込みながら、これから翔ちゃんたちと市民プールに行くということを告げた。とりわけ河名と橋本の名前を出すと、お母さんの顔がよろこびに広がった。恥ずかしかったけれど、隠し事は禁物だという我が家の決まりにしたがって、僕は言ったのだ。以前、お母さんのネックレスを壊してしまったことがあって、黙っていたらずいぶんと叱られた。それ以来、僕は秘密を隠しとおす勇気も気力もなくなった。
「で、愛ちゃんと梨恵ちゃん、どっちがいいの」
 お母さんは直球のもの言いだ。
「別に」
 僕は首をかしげて答えた。河名愛の方が好みだし、彼女の姿を思い浮かべるだけで心臓が乱れる。だけど、好きかどうかと聞かれると、微妙だった。いまいち「好き」がわからない。
「あのね、今ね、お父さんと旅行の計画をしているの。潤君はどこか行きたいところある?」
 毎年夏休みになると我が家は旅行に出かける。まだ海外には行ったことがないけど、最近では、北海道で札幌ラーメンを食べたり奈良で鹿を見たりした。たいてい両親が話し合って決めるのだが、今回は僕に選ばせてくれるのだという。
「じゃあ、考えておくよ」
 自然に笑みが浮かぶ。自分の知らない場所を思うだけで心がはずむ。今年も楽しい夏休みになりそうな予感がした。
 カレーライスを平らげ食後にバニラアイスを食べた。新製品なのか、食べたことのないアイスだった。僕はもう一つ食べたくなり、食器を流しに持っていったついでに冷蔵庫を開けると、お母さんに止められた。
「だめ。これはお父さんの分だから」
 ホームドラマに登場する、やさしいお母さんそのものの口振りだった。
 前に、親戚の伯母ちゃんが遊びに来たとき、お父さんとお母さんを見てこう言った。ドラマを観ているみたいだわ、と。僕もそう思う。
 でもその反面、ふいに、ここはつくられた世界じゃないのかなと疑ってしまうこともある。お父さんとお母さん、二人とも「役者」に見えるのだ。
 自分の部屋に行くと汗ばんだ半袖シャツを脱ぎ捨てて、新しい服に着替えた。お気に入りのチェック柄の上着をはおるとケータイをジーンズのポケットに突っ込んで、水着の入った手提げ袋を持ってマンションを出た。お父さんより高熱を発する太陽に、肌がじりじりと焼かれる。
 自転車置き場で自転車を取り出し、さっそく待ち合わせ場所である市民プールに向かった。
 小川沿いの歩道を走る。横手には大きな運動場が見える。整列している常緑樹が木の葉をかさかさ揺らしていた。
 東京都調布市──この街で僕は暮らしている。ここは都心と違って比較的緑が多い。都心に行ったことはそんなにないけど、住みやすさは断然、ここの方がいい。都会の中心に行けば行くほど、人も雰囲気も乏しくなり、けがれていくような気がする。
 だけどここも、商店街には人が絶え間なく行き交っているし、深夜になるとホームレス同然の人たちがどこからかわいてきて、肩を並べて眠る。ごみごみしたところが嫌いな僕は、いっそ田舎に行ってみたい、のどかなところですごしたい──いつだったか、翔ちゃんに言ったら、精神年齢、高過ぎと笑われたことがある。
 野球場やテニスコートが設けられた公園の一角に市民プールはあった。はじめての場所だ。僕はケータイのアドレス帳を開いて、橋本を呼んだ。本当は河名と連絡を取り合いたかったのだけれど、彼女はケータイを持っていないらしい。
 数回のコール音のあと、明るい声が響いた。はいはーい、梨恵でぇす。
「今どこにいるの」
『休憩所にいるよ。あたしたち、もう水着に着替えてるから、久野君も早く来なよ。翔太のばかもいるからさ』
 ばかとはなんだよ。翔ちゃんの声が聞こえた。
 僕はわかったと言って電話を切ると、市民プールのエントランスを抜け、案内板にしたがって更衣室に行った。シャワー室も設置されていて、まばらに人が使っていた。僕はロッカーに荷物を預けると、体育の授業で使っているパンツをはいた。
 通路から室内プールに足を踏み入れると、人々の喚声がすごかった。平日にもかかわらず──すでに夏休みに突入している人たちもいるのかもしれないが──賑わっていた。小さな子どもが走りまわっているし、水中ウォーキングをしているおばさん団体もいる。色とりどりの水着が目にまぶしい。
 久野君、こっちこっち。向こうのプールサイドで橋本が手を振っている。学校の水着ではなく市販の、ピンク色のそれを着ている。その横には翔ちゃんもいる。河名も──眼鏡をはずした彼女を見た瞬間、僕は胸がむずむずした。
「遅かったじゃん」
 と翔ちゃんがキャップをかぶりながら言った。
「こんなに早く集まってるとは思わなかったから」
 僕は彼の方に視線を固めて、河名を見ないよう心がけた。
「じゃあ、泳ごうぜ」
 僕と翔ちゃんは、勢いよくプールに飛び込んだ。温水が気持ちいい。ちらっと河名を見ると、目が合った。僕はすぐにそらして水に顔を浸けた。
 しばらくは翔ちゃんと遊んだ。水中で鬼ごっこをしたりパンツをずらし合ったり、とことんふざけあった。
 消毒液のにおいが鼻をくすぐった。僕は泳ぎが苦手だけど、クロールでどこまでもいけたら、もっと心地いいだろうなと思った。泳ぎのうまい人を見ると、うらやましい。河名たちは浮き輪をつけて楽しそうにはしゃいでいる。
 なあ、と翔ちゃんに呼びかけられた。
「根性試ししねぇ?」
「どういうこと?」
「あそこにでっかい飛び込み台があるだろ。どっちが早く飛び込めるか、勝負しようぜ」
 僕は飛び込み台を見た。けっこう、高い。今は誰も使用していないようだ。
 行こうぜ、と翔ちゃんはプールサイドに上がった。しかたなく僕も飛び込み台に向かった。
「ねぇ、何やるの?」
 橋本が駆け寄ってきた。アヒルの子みたいに河名もついてくる。
「どっちが勇敢に飛び込めるか、勝負するんだよ」
 翔ちゃんは自信満々に言った。
「そんなの、久野君が勝つに決まってるじゃん」
 橋本が発破をかける。翔ちゃんはむっとした。僕はもう、あとに退けなくなった。
 長い梯子をのぼると、下は青一色だった。じっと見つめていると、あんがい近くに感じられた。僕たちが飛び込もうとしているのがわかったのか、着地点にいる人々は遠ざかっていった。
「ひぇー、高けぇな」
 翔ちゃんは体がふるえている。
 僕には恐怖がなかった。いける、と確信した。下で見守ってくれている河名に、いいところが見せられる。僕は進んで台の先端に立った。
 すげぇな、という翔ちゃんの声が聞こえた。優越感が芽生えた。
 が、突然、ある映像が頭の片隅をよぎった。以前崖から落ちてしまったときの映像。
 たちまち恐怖に縛られて、一歩も動けなくなった。背中が異常なまでに冷えている。怖い、落ちたくない。口から弱音がこぼれた。
 崖から落ちたときの恐怖心はなくなったと思っていた。僕は高所恐怖症ではない、と。でも……。
 知らないうちに、あとずさりしていた。
「おいおい、いまさらやめるなんて言うなよな」
 翔ちゃんに肩を押さえられた。
「いやだ、いやだよ」
 僕は自分の泣き声を聞いた。
「弱虫」
 なんと言われようが、もうどうでもよかった。早くこの台から逃げたい。早く地上に降りたい。板一枚に支えられているだけのこの状況は――死に直結した。全身の融通がきかなくなった。僕はすぐさま振り向いて、翔ちゃんの顎を殴った。
 痛ってぇ。翔ちゃんの声には怒りがふくまれていた。
「何するんだよ!」
 僕の顔に手のひらが飛んできた。一瞬、意識が薄れた。女の子の短い悲鳴が聞こえた。すぐに河名の声だとわかった。
 気づけば、空中に投げ出されていた。天井には梁や桁といったものが交差している。スローモーションで飛び込み台の先っちょが遠くに離れていく。ふしぎと、落ちる前に感じた恐怖はなかった。感覚は完全に麻痺していた。最大の恐怖は無感覚なのかもしれない。視界は白んでいき、あの、崖から落ちるときとダブった。ああ、あのときも、こんなふうに落ちたんだな。ぼんやりと、まるで他人事のように思った。
 背中全体に痛みが走った。同時に耳が圧迫された。鼻の奥に水が押し寄せてきた。もがこうにも手足が反応してくれない。死ぬ、と思った。
 そのとき、誰かの手が僕をつかんでくれた。幻ではない。たしかに人の手だ。がっしりした腕だった。水の中でもぬくもりがあった。
 ──よかった。
 安心した僕は、青い水に浸かったまま目を閉じた。

 頬に軽く痛みが生じた。
 おい、おい、と、僕を呼ぶ声がする。翔ちゃんではなく、大人の声だった。背中がひんやりとしている。たぶん、プールサイドのタイルの上に寝転がっているのだろう。
 久野君、と河名の声も耳に入った。心配してくれているみたいだった。格好悪いところを見せちゃったな、このまま目を覚まさない方がいいかな、と内心苦笑する。僕は夢心地だった。
 また頬をたたかれた。今度は目の前の暗闇が赤く光るほど強かった。僕は学校に遅刻しそうになるときのような素早さで、上体を起こした。おお、と数人の声がした。まわりを見渡すと、僕は何人もの大人に囲まれていた。
「どうだ、つらくはないか?」
 すぐそばにひざまずいているお兄ちゃんが言った。トランクス・タイプのパンツをはいている。短髪で整った顔だち。輪郭はほっそりとしている。何かスポーツをしているのか体つきがいい。
 僕は彼にうなずいてみせる。
「そうか、よかった」
 お兄ちゃんは口の両端にしわをつくって笑った。
「助けてくれたんですか」
「まあ、近くにいたから」
「ありがとうございます」
 素直に言えた。
「これからは危険な飛び込みなんかするなよ。君の友だちにも、ちゃんと注意しておいたからな」
 お兄ちゃんは後ろの方を見た。そこには肩をすぼめた翔ちゃんが突っ立っていた。怒られたせいか、ただ水で痛くなったせいか、目が赤い。となりには橋本や河名もいる。みんなしょんぼりしていた。
「ほんとにこの人が言うとおりだよ。なんであんな危険なことをしたんだ?」
 近くにいるジャージ姿の男性が声を張り上げた。険しい顔つきだった。首に笛をぶら下げているので、たぶん、ここの監視員だろう。
「命を落としかねない事故になっていたかもしれないじゃないか」
 すみません、と僕は頭を下げた。
「まったく、無事だからよかったものの──もう少しここのマナーを守ってもらわないとね」
「あのね」
 とお兄ちゃんが割って入った。
「あなたこそ、何やってたんですか」
「は?」
 監視員は間抜けな表情に変わった。
「あなたの役目はマナーを守っていない人を注意することでしょう? 事故を未然に防ぐことでしょう? この子と、もう一人の子とが、飛び込み台の上でじゃれ合っていたのを見なかったんですか? いったいどこを見ていたんですか? まあ、女性ばかり見ていたんでしょうけどね」
 監視員はみるみるうちに顔を紅潮させたけど、反論はなかった。これでは、はい、そうですと白状しているようなものだ。周囲から失笑が漏れた。
「今度からは、十分に気をつけろよ」
 お兄ちゃんは僕の頭をぽんぽんとたたいて立ち上がった。
 僕は去っていく彼に、名残惜しさを感じた。このまま名前を聞かずに別れたくはなかった。なぜだろう、お兄ちゃんになつかしい感情を抱いていた。
「待って!」
 僕はお兄ちゃんに駆け寄った。
「あの、お礼がしたいから、電話番号を教えてください」
「いいよ、気をつかわなくても」
「いや、ぜひお礼をさせてください」
 僕はむきになってくいさがった。自分ですら把握できない気持ちが、胸をつついたり蹴ったりしていた。
 わかった、とお兄ちゃんは諦めたように言った。更衣室に行き、肩掛け鞄からシャーペンとメモ帳を取り出した。はい、と、紙切れを渡してくれた。
「別に、お礼とかしなくてもいいよ」
 お兄ちゃんはシャワー室に入っていった。
 僕は紙切れに書かれたケータイの番号を見つめた。名前は書かれてなかった。
 シャワーの音が響く。彼が出てくるまで待っておこうかと考えたけど、結局僕は服に着替えた。
 更衣室を出る前に、ふと思いとどまり、お兄ちゃんのロッカーを覗いてみた。少しでも彼のことが知りたかったからだ。
 鞄の口から何枚ものプリント類が見えた。その一枚に、「サッカー部顧問 近野朋泰」と印刷されていた。彼の名前だろうか。そのプリントを手に取って、まじまじと見つめた。サッカー部の、夏合宿の日程と練習メニューが載っていた。どうやらお兄ちゃんは高校の教師のようだ。
 人が入ってくる気配がした。僕は慌ててプリントを鞄に戻すと、入ってきたおじさんとすれ違いに更衣室をあとにした。
 翔ちゃんと顔を合わせるのがつらかったけど、何も言わずに帰るのも気が引けたので、自転車置き場で彼が来るのを待った。自転車のサドルに腰かけて、空を眺めた。まだ太陽はてっぺんに位置していて、街を明るすぎるくらいに照らしている。入道雲がもくもくとわき上がっている。
 サンダルの底が地面にこすれる音がした。振り向くと、髪を濡らした翔ちゃんが立っていた。
「帰ったかと思った」
「んなわけないじゃん」
 僕は努めて明るく言った。
 翔ちゃんはしばらく黙り込んでいたけど、口を開けた。
「落ちたとき、痛かった?」
「ぜんぜん」
「ごめんな」
「だから、ぜんぜん痛くなかったっていってるじゃん」
「でも……ごめん」
「もう、わかったから」
 俺さぁ。翔ちゃんは唇をゆがめて、涙声を出した。
「二度も潤を落としちゃったよな」
「何言ってんの。崖のときは悪くないじゃん。僕が勝手に落ちただけなんだから」
「でも、俺が誘わなかったら、落ちることはなかっただろ」
 僕は腹が立った。弱気な翔ちゃんなんか見たくない。僕が知っている翔ちゃんは、ばかでやんちゃで、じめじめしないやつだ。
「これ以上ごめんって言ったら、殴るよ」
 翔ちゃんは顔を上げた。泣き笑いの表情だった。
「久野くーん」
 遠くから甘ったるい声が聞こえた。橋本と河名が走ってきていた。眼鏡をかけた河名を見て、僕は、残念、と心の中でつぶやいた。

 その日の夜、僕はひさしぶりに悪夢にうなされた。

       二

 一週間後、翔ちゃんが僕のうちに遊びに来た。なんでこんなに難しいのかなあ、と文句を言いながらも、彼は僕の答えをまるまる写している。
 お母さんがおやつをお盆に載せ部屋に入ってきた。
「どう? お勉強、はかどってる?」
「いやあ、めちゃくちゃはかどってます。簡単すぎて困っちゃいます」
 翔ちゃんは即座に丸テーブルの下に僕のノートを隠した。
 僕は苦笑した。僕はとにかく、いつもどおりの彼に戻ってくれてうれしかった。プールの日、目に涙を溜めて「ごめん」と謝っていたのが嘘のようだ。
 がんばってね、と言い残してお母さんが出ていくと、翔ちゃんは僕のノートを取り出し、また模写に励む。宿題をひととおり終えてやることがなくなった僕は、本棚から小説を取り出しぱらぱらとめくった。
「よくそんなに本が読めるよな。頭が痛くならねぇの?」
 翔ちゃんはシャーペンをせわしなく動かしながら言った。
「僕は翔ちゃんじゃないからね」
「ちぇっ、なんだよ」
 僕は小説を閉じて床の上に投げた。どうも集中できない。翔ちゃんに相談したいことがあるけど、どう切り出せばいいのかわからなかった。笑われるかもしれない内容なのだから。
「……おまえさぁ、言いたいことがあるんだったら、言えよ」
「え?」
 驚いた。僕はテーブルに身を乗り出して聞いた。
「わかるの?」
「あたり前田のクラッカー」
「何、それ」
「俺の親父がよく言ってる鉄板ギャグ。もっとも、おかしくもなんともねぇけどな」
「ふぅん」
 翔ちゃんはシャーペンを置いて、伸びをした。
「おまえ、ずっと浮かない顔してるじゃん。それに、何年親友をやってると思ってんだよ。わかって当然」
 でも、僕の親はわからないよ、と言おうとして、やめた。平和ボケしている両親にはわかるはずもないか、と考え直したからだ。僕のうちは問題らしい問題が起きたことがないから、たぶん、問題に気づく能力が低下しているのだ。それに、問題が発生すれば免疫力のない両親はあわてふためくだろう。
「河名のことだろ」
 翔ちゃんはオレンジジュースを飲み干しながら言った。
「違う。もっと深刻なこと」
「深刻?」
 僕はうなずいた。
「笑わないでよね」
「もちろん」
 とたんに網戸から強めの風が進入してきた。壁に貼られた「オレンジレンジ」のポスターが少しだけ揺れた。今日も気が滅入るくらい暑く、気象庁の予想ではこんな日がまだまだつづくらしい。やってられねぇ、とつぶやきたくなる。
 翔ちゃんはハーフズボンのポケットから扇子を取り出し、ぱたぱたとあおぎはじめた。僕が口を開くまで待ってくれているようだ。こういうところは常識を持っているので、正直助かる。
 僕はローチェストの上に置かれた地球儀をぼんやり眺めながらつぶやいた。
「実は……水が怖いんだ」
「は?」
 飛び込み台から落ちた日から、水に悩まされていた。あの日以来、海やプールに落ちる夢を見るようになった。それに風呂にも入れなくなって、最近はシャワーだけですましているし、便座に溜まった水を見るだけで恐怖を感じたりもする。昨日など、お母さんが水を出しっぱなしにしていたせいで、流れる水道の水を目にした瞬間、くらくらした。
 要するに、水に怯えるようになったのだ。今だって、目の前のジュースを見ていると溺れてしまいそうな圧迫感を憶える。だからなるべく見ないようにしている。
 僕はそんなふうに翔ちゃんに話した。
 翔ちゃんは扇子を畳みオレンジジュースを一気にあおった。僕はちょっとうれしくなった。
「水恐怖症なんて、はじめて聞いたぜ。やっぱ、あの落ちたのが原因だよな」
「あれだけで恐怖症になるかな。ほかに原因があるのかも」
 きっと自分のせいだと思ったのだろう──彼が暗い顔をしたので、僕は慌てた。
「……とにかくこのままじゃいけないから、親父に話してみるよ」
「いいよ。ほっとけば治るかもしれないし」
「だったら、なんで俺に話したんだ? 不安でしょうがないからだろ?」
 僕は口をつぐんだ。さすがセラピストの息子だ、観察眼が冴えている──普段は脳天気なくせに。
「まかせとけって。タダで診てやるからさ」
 家計の心配をしている翔ちゃんは、それでも、親父さんに「タダで診てくれ」と本気で頼むかもしれない。
 僕は翔ちゃんに面倒をかけたくなかった。
「自分で原因を探すから、もし、わからなかったときには長谷川クリニックに行くよ」
「探すって、どうやって探すんだよ」
 それは……。僕はうつむいた。
「あのなぁ、原因は前世にあるかもしれないんだぜ」
「……どういうこと?」
 いきなり前世の話が飛び出してきて、びっくりした。
 翔ちゃんは扇子で手のひらをたたきながら得意そうに言った。
「何百年も昔、つまり前世にできた傷が、根強く今も──生まれ変わっても、残っている可能性があるってことだよ」
「……前世で、水に関する恐怖体験があって、それが僕に引き継がれているってこと?」
「そうだよ。とすると、現世の過去を振り返ったって意味ないだろ? だって、問題は潤じゃない、潤の前世で起こっているんだから、わかるはずがねぇじゃん」
 翔ちゃんは指で鼻をこすってから、
「親父から聞いた話なんだけどな──ある男が、見ず知らずの他人に、あそこを触ってほしいという衝動に悩まされていたんだ」
「あそこ、って?」
 だからぁ、と翔ちゃんは目を泳がせた。
「男性だけについてるもんだよ」
 僕は理解して、その瞬間、恥ずかしくなった。へんなたとえをするなよと思った。
「それで?」
「それで、男は新しい女を見つけては、強引にあそこをつかませていたんだよ。当然、何回も逮捕された。だけど、反省はしても、やっぱり強迫観念に駆られて、またやってしまう。そしてどうしようもなくなった男は、友だちの紹介でセラピストに診てもらうことにした」
 うんうん、と、深い興味を持った僕は真剣に聞いた。
「セラピストは、退行催眠でその男の過去にさかのぼることにした。すると、男がまだ幼かったころ、母親との間にいざこざがあったことがわかったんだ。母親は男を──つまり自分の息子のあそこを、もてあそんでいた。何もわからなくてされるがままになっていた男も、次第に、そうされることに快感を覚えた。まあ、そのときに芽生えた感情が、大人になってからも願望として残っていた」
「それだと、前世とか関係ないよね」
「まだつづきがあるんだよ」
 翔ちゃんは眉間をせばめて、
「セラピストが幼かったころの原因を発見しても、男にはまったく効果がなくて、またあそこを触ってほしいという衝動に駆られ出したんだよ。男は恥ずかしさを感じながらも、わいせつな行為を繰り返さずにはいられなかった。
 そこでセラピストは、男のトラウマが前世にあるのではないかと考えた。前世で起きたトラウマを意識にのぼらせる必要がある、と思ったわけだ。そういう病気ってのはな、根本的な原因がわかったとき、本人が自覚したとき、はじめて薄れていくんだ」
「翔ちゃん……すごい。本物のセラピストみたいだね」
「まあ、ぜんぶ親父のうけ……うけ──」
「請け売り?」
「そうそう、請け売りだからな」
「成績が悪いのに、よく難しい話ができるね」
「ほっとけ。興味あるものや自慢できることは憶えやすいんだよ」
 その努力、少しでも勉強に役立てたら? と、あきれ気味に思ったけど、言わないことにした。考えてみれば、立派な才能だ。平凡な僕より、翔ちゃんには才能がある。
「とにかく、話をつづけさせろよ。どこまで話したかこんがらがるじゃん」
「ごめんごめん」
 翔ちゃんはせき払いを一つして、言葉をつむいだ。
「それで、男は前世への退行催眠を受けたんだ。……あっ、そうだ。ここで説明しておくことがあったな。患者が前世を思い出すパターンはふたとおりある。男はそのうちの一つ、『物語形式』で前世を思い出したんだ。物語形式とは、前世の人生を、まるで物語を見ているかのように、詳しく思い出せるんだ。前世で、生まれてから死ぬまで、な。中には、その前世の人生で死んでから……要するに、あの世みたいなところでさまよっているとき、神様の──マスターっていうらしいけどな──声を聞く患者もいるんだってよ。
 それでだな、男の話に戻るけど──男は、その物語形式で前世の人生のほとんどを思い出したんだ。男の抱えている悩み、強迫観念は、前世にもあったことがわかった。ずっと繰り返されていたことだったんだ。前世の男は事故で死に、神様に会った」
 ──神様、かぁ。
 いつの間にか僕はテーブルに両肘をつき身を乗り出して聞いていた。
 翔ちゃんは熱心にしゃべりつづける。
「神様は男にこう言ったらしい。『魂は永遠になくなりはしない。だから前世で起こしたあやまちを、現世でじっくり、一つ一つ消化していきなさい。死とは、魂が肉体から抜けるだけ。あなたは永遠に生きられるのです。本当の死はないのですから、急ぐことなく、まいしんしなさい』とな。
 退行催眠によってその言葉を思い出してからは、男は、自分の強迫観念と向き合えるようになった。それまでは、治さなければならない、と切羽詰まっていたんだろうな。それが逆効果となって、なかなか症状が改善されなかった。でも、神様に時間は永遠にあると言われて、安心した。心にも生活にもゆとりが生まれて、男のへんてこな衝動も薄れていったんだとよ」
「へぇー、へぇー、へぇー」
 心の底から感心した。
「退行催眠、受けてみようかなぁ」
「俺は、おまえが水に悩まされているから勧めているだけだからな。興味本位で受けてもらっちゃあ困る」
「うん、わかってる。水恐怖症を早く治したいから言ってるんだよ」
「じゃあ、親父に診てくれって頼んでやる」
 翔ちゃんはドンと胸をたたいた。
 日が傾き、真っ赤な空が濁っていくまで、僕と翔ちゃんは前世療法というものについてしゃべった。翔ちゃんは催眠に際しての──これもお父さんからの請け売りだそうだが──説明をしてくれた。
 催眠と聞いても、いまいちぴんとこない、もしくは怪しげに思う人が大半だ。しかし、マスメディアで報道されているような暗いものではない。実際の催眠とは、単純に言うと、意識が一点に集中した状態に誘導するだけだと、翔ちゃんは言った。考えごとをしているとまわりの音が聞こえなくなったり、何時間も過ぎていたり、という体験は誰にでもある。催眠とは、意図的にそういう状態に持っていく方法であって、決して魔法でもなんでもないらしい。
 僕は、もし催眠状態から抜け出せなくなったらどうすのか、とか、催眠状態に入ったら意識はないのか、と聞いた。翔ちゃんは「そんなこともわからねぇの」と眉をひそめて言った。車に撥ねられて昏睡状態に入るわけじゃないんだから、催眠から出られなくなるなんてありえない、催眠を受けている最中でも意識はしっかりしている――らしい。
 僕は信じやすいタイプなのだろうか。あるいは翔ちゃんが親友だからか、彼の言う言葉には説得力があった。
 突然、僕のケータイが軽快に鳴った。
『もしもし。……長谷川ですけど、翔太はまだ潤一君のところにいる?』
 翔ちゃんのお母さんだった。翔ちゃんは顔をしかめ決まり悪そうにした。
『ごめんなさいねぇ、長いことお邪魔させてもらって……お母さんにもよろしくお伝えください。ちょっと、翔太に代わってもらえますか』
 僕は、はいと言って、翔ちゃんにケータイを渡した。
 何時だと思ってるの。夕ご飯、冷めちゃうわよ。受話口からきびしい声が聞こえた。まだ七時じゃん、と翔ちゃんは唇をとがらせて反論したけど、結局、折れた。
 翔ちゃんは苦笑して、
「じゃあ帰るわ」
 と言った。渋々といった感じだった。
 僕も苦笑した。僕のうちもそうだから、気持ちはわかる。休みの日に出かけていると、お母さんは過剰に心配する。いつだったか学校で友だちとサッカーをしているとき、お母さんが血相を変えてやってきて、恥ずかしかったことがあった。そのとき僕はひどく腹が立った。小学六年生を見下しすぎだと思ったのだ。僕たちは大抵のことをやれるんだ、お父さんお母さんが気づいていないだけなんだ、と。
 お母さんのルールは、僕を窮屈にさせる。
 翔ちゃんを見送ってから、リビングに行った。お母さんは台所のテーブル越しにこう言った。
「翔太君がいつまでいるのかと思って、心配していたわ。どういう躾をしたら、あんなに長居するようになるのかしらねぇ。潤は他人様のおうちにいつまでもいたらだめよ。迷惑なんだから」

 夕食を終えたあと、自分の部屋に戻って勉強をした。が、翔ちゃんから教えてもらった前世療法の話が頭から離れず、うまく気流に乗れない。
 しばらくして僕はリビングの脇の和室に行った。四畳半の部屋はお父さんのためにあるが、パソコンを使いたいのでときどき僕も利用する。
「どうした?」
 お父さんは手もとの書類から顔を上げて言った。
「うん、ちょっと、インターネットやりたくて」
「何を調べるんだ」
「夏休みの宿題で本の感想を書かないといけないんだけど、どんな本を読もうかまだ決まってなくて。だから、おもしろそうな本を探そうと思って」
 ああ、そういうことか、とお父さんは納得して立ち上がった。
「風呂に行くから使っていいぞ」
 引き戸の閉まる音を聞いてから、僕はパソコンの前に座った。そばには大量の書類が積み重なっている。仕事に関係したものだろう。
 僕は座布団の上に胡座をかきマウスをクリックした。ほどなくして、前世療法に関する検索結果が画面にずらりと並んだ。ヒット数は優に六百万件をこえている。その中から適当に選び、サイトに飛んだ。
 文字だらけのページが画面に表れた。どこかのクリニックのホームページだ。僕はとりあえず、目についた個所を読んでいった。前世療法の解説、セラピストの紹介、料金案内が詳細に記されていた。とても子どもの僕には払えない金額だった。
 つぎに「体験者から寄せられた手紙」の欄をクリックした。そこには前世療法を受けた人たちからの感謝の言葉がつづられていた。

『「このたびはありがとうございました」 ヒロコ(仮名) 女性 三十代
 正直、前世というものを疑っていました。夫の同僚にここを紹介してもらい、本当によかったと思っております。
 以前の私と同じように前世療法にためらいを感じている人もいるかと思うので、助けられた一人として、掲示板に書き込ませていただきます。
 まず――前世療法の説明を受けてから、リラックスしたまま、催眠の中に溶け込んでいきました。ぬるい湯に浸かっているような、穏やかな気持ちで前世に意識を持っていくことができました。痛みなどありませんでした。
 気がつくと、長春郊外の万宝山付近に私はいました。私と言っても、私はその時代では髭を生やした中年の男性でした。農民たちの間で、水田用水路工事をめぐる、武力衝突の渦中にいました。私はこん棒を振りまわしていました。無我夢中で、自分が狂っていることさえ、判然としませんでした。まわりのみんなも頭に手ぬぐいを巻き激昂を振りまいていました。
 そんな惨憺たる前世を思い出し、私は催眠から覚めると泣いていました。
 私は結婚しています。夫は日本人ではありません。前世療法を受ける前までは、どこか夫に罪悪感のようなものを抱いていましたが、今はまったくありません。夫に何でもはっきりと言えるようになりました。喧嘩もよくします。どれも極普通の夫婦がする、極普通の喧嘩ばかりです。私にとって信じられないほどの進歩です。
 そして夫をもっと好きになりました。国の違いなど、もう関係ありません。正面から向き合い、彼の意見を聞き、私の意見も聞いてもらう。子どもも授かりました。
 このような普通の家庭に近づけたのも、前世療法のおかげです。』

 僕はスクロールしていった。

『「前世で父と……」 うさぎ(仮名) 女性 二十代
 私は二千年以上も前、北アフリカでの前世を体験しました。
 そのときの私は男で、歳は二十代前半。近隣の部族との戦いの真っ最中でした。
 私の部族は、川に油を流し、火を放つという戦法を得意としていました。数万人もの敵が剣や斧を振りかざしながら、川にロープを張り、渡ってこようとしていました。私たちはその、川に油を流すやり方で、敵がこちらにたどり着く前に仕掛けようと考えていました。女子どもは舟に乗せ逃がしました。やがて作戦通り、火の点いた油は燃え広がっていきました。
 しかし予想外のできごとに見舞われました。火が、女子どもが乗ったその舟までのみ込んでしまったのです。
 この悲劇は私たちの戦意を萎えさせ戦いに敗れてしまいました。私はなんとか生き延びましたが、心は空しく、ひたすら寺院に向かって逃げました。脇腹から血が流れていました。寺院にはもう一人、生き延びた人がいました。王様でした。
 どのくらい時が経ったでしょう。ひどく空腹を感じました。目の前がかすんできました。血もだいぶ流れていました。すると、どこかに出かけていた王が帰ってきました。王は服の内側から水と食料を取り出し、食え、と、私に命令しました。私は泣きながら食べ物にくらいつきました。数日後、王は飢えで死に、私はひとりぼっちになりました。私は何日も泣きじゃくり、王と同じ飢えによって息絶えてしまいました。
 そんな残酷な前世を思い出しても、私は悲しくはありませんでした。なぜなら、その前世に登場する王様は、私の父だったからです!
 話は前後しますが――私は父の顔を知りませんでした。というのも、私が生まれる前に父は蒸発したのです。何年も行方不明になっていました。理由はわかりません。母は何も話してくれませんでした。私は子どもながらに、姿をくらました父親を憎んでいました。
 でも、ある日突然、父から電話が来たのです。私が大学を卒業し小さな出版社に勤めはじめて間もないころでした。会いたい、という内容でした。父は父なりに考え悩み、だから電話をかけてきたのだと思いました。しかし、捨てられた身としては、そうやすやすと許すわけにもいきませんでした。それからも父はときおり連絡をくれましたが、私は冷ややかに応対していました。
 このままでいいのだろうか……。逡巡していた私は、インターネットで前世療法という言葉に目を奪われました。
 このような経緯で前世療法を受けるに到ったのです。前述したとおり前世の記憶を思い出し、私は前世で父と出会っていたことを知りました。父とは、いわゆるソウルメイトだったのです。私は父との再会を望むようになりました。
 そしてつい先日、父と会いました。休日の公園のベンチに、父は背中を曲げて座っていました。父は顎を髭で隠していて、数少ない写真の中にいる彼とはまったく別人でした。しかし私にはすぐにわかりました。
 私は父のもとに駆け寄りました。ふしぎと気まずさはありませんでした。父に、懐かしさも感じました。はじめての再会。文法的にはおかしいけど、私はそう思いました。
 今は父の住むアパートに行って料理をつくって上げたりしています。前世療法を受けなかったら、父からの電話を受け流したままだったかもしれません。会っても、父を憎んでいたままだったかもしれません。』

 読み終わると、僕は長いため息をついた。自分も体験してみたいと思った。もちろん水に対する恐怖心をなくすのが先だけど──それにしても、自分の前世を見られるのだ、関心はますますふくれあがっていった。
 ヒロコさんとうさぎさんはあんな残酷な映像を見たのに、心が豊かになっている。ほかにもいろいろな人たちが書き込んでいたけど、結果的に病気や心配ごとが解消されている。
 今、誰かに話して聞かせたいけれど、親はまず無理だ。親にはこのことを話すつもりはない。絶対に、やめろと言われるのが目に見えている。
 引き戸が開く音がした。
「いい湯だったぞ。潤も入ってこい」
 パジャマ姿のお父さんがタオルで濡れた髪を拭いている。
「うん」
 僕はとっさにホームページを閉じた。
「調べたのか?」
 お父さんの言葉にどきっとした。お父さんの目はパソコンを見つめていた。
「何を?」
「だから、本の感想文を書かなくちゃいけないんだろ」
 ああ、そのことか。僕はほっと胸をなで下ろした。
「うーん……これっていう本が見つからなかった」
 僕はぶっきらぼうに答えて部屋を出た。
 リビングにはお母さんがいた。洗い物をすませ一息ついているのだろう、ソファーに座ってテレビを見ていた。
 体がうずうずした。お母さんもお父さんも、前世療法を知らない。僕がそれに関心を持っていることすら知っていない。
 今まで僕は親に秘密なんてしなかった。だけど、これだけは言えない。

       三

 今日は午前中に河名から電話があった。勉強を教えてほしいと言われたのだ。僕は少し緊張しながらもいいよと答えた。跳び上がりたいほどうれしかった。実際、一メートルくらい跳び上がっていたかもしれない。
 お父さんは仕事だけど、お母さんは家にいる。クラスメイトがうちに来ると伝えると──女の子だと聞いた瞬間、お母さんの目がキラキラ輝いた。潤君はもてるのねー、とか、ケーキを買ってこなくちゃ、とか言いながら出かけていった。
 マンションの前で待っていると、河名が自転車に乗ってやって来た。河名は白いタンクトップに裾の広いジーンズ、手には缶バッチのついたトートバッグ、という格好だった。橋本に鍛えられたのか、夏休みに入ってから、地味だった河名の印象がずいぶんと変わった。
「ここ、来たことないからわかりづらかった」
 と河名はぎこちなく言った。
「このへんは入り組んでるから」
 と僕もぎこちなく答えた。本当は「どうしていきなり電話してきたの? 橋本とはいっしょじゃないの?」とたずねたかったのだけれど。
 部屋に招待し、この間、翔ちゃんと勉強したように──勉強というよりも彼が勝手に僕のノートを写しただけだったが──丸テーブルをはさんで僕たちは向き合った。
 二人きりの状況に、僕はそわそわしていた。河名も同じだと思う。彼女は橋本と違って頭がいい。それなのに、簡単な問題に悪戦苦闘している。たぶん、気がそれているのだ。
 お母さんがケーキとジュースを持ってくると、河名はテーブルにおでこをぶつけた。お邪魔しています、と、頭を下げたときに。
 いったんプリントを脇にどかし、ケーキを食べることにした。河名は、甘いものには目がないといった様子で、つぎつぎに口の中に運んでいく。僕はあらためて女の子はケーキが好きなんだなと思った。
「あっ、そうだ」
 河名はフォークを持ったまま、バッグから雑誌を取り出した。それは女の子向けのファッション誌だった。
「久野君もやってみて。けっこうおもしろいから」
 僕は開かれたページを見た。「あなたの恋愛観は?」という見出し。「イエス」と「ノー」、ふたとおりの選択肢と、さまざまな質問が用意されている。質問に答えていき、行き着いたところに自分の性格が書かれている──そういう手軽な心理テストのようだ。
 河名はケーキを食べながらも、真剣な目つきで僕を見ていた。僕は苦笑しながら、雑誌の質問に答えていった。イエス、イエス、ノー、イエス……。
 すると、「あなたは、暴走タイプです」という結果が出た。解説を読んでみると、僕は恋に一途で、好きな人ができたら一直線に突き進むタイプらしい。ときにはその子どものような純真さが、悪に変貌することもしばしば、とも書かれていた。河名が笑った。僕はむっとして唇をとがらした。
「近野君って、一途すぎて暴走しちゃうんだ!」
「ほんとに当たってるのかな」
「……当たっててほしいな」
 河名は笑いすぎて目尻に溜まった涙を指でぬぐった。
「暴走タイプの久野君と癒しタイプの私」
「え?」
 僕の声はひっくり返ってしまった。
 河名ははっとした顔つきに変わった。思わず口をすべらせてしまった、そんな感じだった。
 僕は雑誌に目を落としたまま、
「占い、好きなの?」
「……うん」
「あ……あのさ」
 静寂が怖くて、しかたなく、思いつきを口にした。
「じゃあ、ネットで占いのサイト、見てみようか」
 河名はこくりとうなずいた。
 昼食の準備をしているお母さんに断りを入れてから、和室に移動して、パソコンの前に座った。河名は、僕から少し距離を置いて座っている。カチカチとマウスをたたき、お手軽そうな占いサイトに行った。
 姓名判断、やってみる? と聞くと、河名はまたこくりとうなずいた。彼女の頬が赤かった。
 僕は耳たぶが熱かった。ああもう恥ずかしくなっちゃうじゃん、と、内心でぶつぶつ言いながら、画面に「河名愛」と入力した。すぐに彼女の運勢が表示された。着々と成果を上げていく人、と書かれていた。大しておもしろくもない結果だった。
 つぎは僕の名前を入力した。
「……なんだよ、同じような結果じゃん」
 僕は顔をしかめて、河名に同意を求めた。
 しばらく占いのサイトをめぐり歩いていたら、お母さんが入ってきた。
「お昼ご飯できたから、食べてね」
 河名は遠慮したけど、お母さんは退かなかった。
 台所で河名ととなり合わせに座った。お母さんはベランダで洗濯物をかごの中に入れている。気をつかってくれているのだろう。
 河名はふと冷やしうどんをすする手を止め、
「自分の名前の由来って、知ってる?」
「うん、前に、お父さんに聞いたことがある」
 国語の授業か何かで宿題として出されたことがあった。自分の名前がどういう意味でつけられたか親に聞いてきなさい、と。
「『潤』の字には、水分を持つ、とか、つやがあって外見がよく見えるとか、そういう意味があるんだって」
「『潤』っていう字は格好いいよね」
「河名はなんで、『愛』って、つけられたの?」
 言った瞬間、胸に突っかかるものを感じた。愛、と、内心でつぶやいてみた。なぜか体が硬くなった。
「私の名前なんてめずしくもないし、理由も単純だよ」
 彼女は眼鏡の奥にある目を細めさらりと言った。
「みんなに愛される人、愛を分け与えられる人になってほしい、そういう思いでつけたの」
 僕の顔はこわばっていて、ちゃんと笑えているかどうか怪しい。へんな気持ちだった。嫌じゃないけど、へん。
「子どものときはねぇ」
 河名は両手を上に突き出した。
「よく、『みんなの愛よ愛さんよ、この指と~まれ!』って、歌ってたらしいよ、私」
 彼女の声が遠のいていき、僕の意識は知らない世界に入り込む。
 ──愛。
 その名を呼んだ。
 ──愛。
 二年前、崖から海に落ちたとき、気絶して夢を見た。その夢の中で、僕は──本当は僕ではないかもしれないが──恋人と手をつないで山の頂へと向かっていた。
 僕はつぶやく。愛──。
 その先、「愛──」の先に、僕はなんと言おうとしていたのだろう。そのことをとうとつに思い出した。
「久野君、どうかした?」
 僕は我に返った。
「いや、別に……」

 河名は昼過ぎには帰った。別れ際に「また来ていい?」と聞かれ、僕はうなずいた。彼女は満面の笑みをたたえたまま自転車に乗り、さっそうと去っていったのだ。
 マンションの七階に戻るなり、ケータイが青く発光していることがわかった。着信履歴を見る。翔ちゃんのうちからだった。
 僕は通話ボタンを押した。
『おう、潤か?』
 翔ちゃんの威勢のいい声が聞こえた。
「どうしたの」
『何が、どうしたの、だよ。前世療法を受けさせてやるって言ってたじゃん。だから、これからうちに来いよ』
「今から?」
 びっくりした。
「明日はだめなの?」
『急に予約がキャンセルになってさ、親父の手があいたんだ。うちのクリニックはあまりうまくいってないけど──でも、暇じゃないからな』
 僕は黙り込んだ。
『なんだよ、これから用事でもあるのか?』
「別にないけど……」
『じゃあ、診療所に集合な。待ってるから来いよ』
「え? ちょっと──」
 自己完結型の翔ちゃんは一方的に約束を取り決め、電話を切った。
 ケータイのディスプレイを見つめながら、どうしようか、考えた。答えは簡単には見つからない。しょうがない――長谷川クリニックに行ってみることにした。どうしても受けたくなかったら、そのときに断ればいいのだ。
 僕はケータイをジーンズのポケットに突っ込み、また出かけようとした。
「どこに行くのよ?」
 リビングからお母さんの声が飛んできた。
「……翔ちゃんのうち」
「もしかして、ゲームセンターとか、いかがわしいところに行くんじゃないでしょうね。翔太君に悪い遊びを習っちゃだめよ」
「行かないよ。新しいゲームを買ったらしいから……ゲームはゲームでも、家でやるゲームだから」
 僕は靴を履いて、後ろを振り向いた。お母さんが廊下の突き当たりに立っていた。
「塾には遅れないようにね」
 うん、わかってる。僕は従順な息子を演じてみせる。これはさわやかなホームドラマなのだから、設定を壊すことはできない。
 マンションを出て自転車置き場から自転車を出し、多摩川の住宅地を駆け抜けた。こぢんまりとした畑で野菜を収穫しているおばあさん、コンビニから出てくるカップル、杖をついて立ち止まっているおじいさん――いろいろな人たちの横を通り過ぎ、商店街に入った。
 そして商店街の一角にある雑居ビルへと向かった。自転車に鍵をかけ、薄暗い階段を上がる。長谷川クリニックは三階にあった。全面ガラス張りのドアを引き中に入ると、手前のスツールに翔ちゃんが座っていた。僕を見るなり、よお、と彼は手を上げた。
「親父、診察室にいるから行って来いよ」
「もうはじめるの?」
「なんだよ、茶ぐらい出せって言いたいのか」
「そうじゃないけど、心の準備というか……」
「ただ前世を見るだけだろ。そんなに構えるなって」
 翔ちゃんは砕けた口調で言った。
「前世を見るだけ、って。すごいことじゃん」
「うん、すごいよ。でも、俺は親父に、『余裕を持たせるためにすごくないと言っておけ』って言われてるからさ。だから、すごい、とは言えないんだ」
「言ってるじゃん」
 なんだか頭が痛くなってきた。翔ちゃんのお気楽さにはうんざりする。
 翔太。背後から野太い声が聞こえた。
「久野君が来られたのか?」
 振り向くと、そこには大柄な──というか、肥満体のおじさんが立っていた。ぼさぼさの髪、頬の肉に押し上げられてしまった目、つぶれた鼻、肉厚な唇、顎を覆う髭、白衣からはみ出たお腹。翔ちゃんのお父さんだ。以前見かけたときより、もっと太って、もっと髭が伸びているようだった。まるで熊みたいな人なのに、名前は意外にも優太という。僕は、ひそかに「クマ先生」と呼んでいる。
「どうも、おひさしぶりです」
 僕は軽く頭を下げた。
「最近はうちに来てないね。この間は翔太がお邪魔したから、今度はうちに遊びに来なさい」
「はい」
「じゃあ、はじめようか」
 クマ先生は身をひるがえし診療室に入っていった。後ろ手に組んでいたと思っていたのに、彼の両手が届いていなかったので、僕は噴き出しそうになった。クマ先生はどことなくおもしろい。外見はまったく似ていないけど、天然の部分は翔ちゃんに引き継がれているのかもしれない。
 狭い通路を進んで、診療室に入った。がんばれよ、と翔ちゃんが言った。何をがんばればいいのかわからなかったけれど、とりあえずうなずいて、厚手のカーテンを閉めた。
 スツールに腰かけ、クマ先生と向き合った。
「市民プールでのできごと、聞いたよ。うちの息子が迷惑をおかけして、本当にすまなかった。そのせいで水が怖くなったんだって?」
「翔ちゃんのせいではないと思うんですけど……水を見ると恐怖を感じるんです」
 クマ先生は、なるほどと言った。カルテに何か書いている。そして、どういうときに症状が出るかとか質問され、僕は答えていった。
「本格的にはじめる前に、まずこうやって、時間をかけて患者の病歴を調査し、重要な事柄についてはきっちりと知っておかないといけないんだよ。それが退行催眠の成功率を高める秘訣なんだ」
 クマ先生は言った。
「……それじゃあ、今日のところは前世療法を受けられないんですか?」
 僕は聞いた。
「ああ、残念だが。これでもセラピストの端くれなのでね。しかも……君の水への恐怖観念は、ちょっとわからない部分もあるから」
「もしかして、夏休みの間ずっと通わなければいけないんですか?」
「まあ、そういうことだね。すまないが、水恐怖症を取り除くためだと思って、我慢してくれ。翔太が何を言ったかはわからないが、今日は退行催眠なんてやらない。辛抱強くつき合っていこう」
 なんだか拍子抜けだ。
 しばらく話し合ったあと、僕は塾のために家に帰った。

       四

 家族旅行で東京ディズニーランドに行った。両親はいつでも行けるじゃないかと言っていたけれど、僕は遠出をする気分ではなかった。それに、いつ長谷川クリニックから電話がかかってくるかもわからなかった。というのも、僕は正規の患者ではないので、あちらが暇になったときだけ診察を受けることになっていたのだ。
 僕は、「愛」という名前を意識しはじめてから、より前世を知りたい欲求に駆られるようになった。そのことは、クマ先生には話していない。なぜか口に出すのがためらわれた。自分だけの秘密にしておきたかった。
 クマ先生とはたくさん話をした。家族構成から学校生活のあれこれまで。質問にはしっかりと答えた。
 しかし、水への恐怖感は薄れなかった。ひどくはならないが軽減もされなかった。
 クマ先生は我慢強く原因を探っている様子だった。精神安定剤はあまり処方したくないというのが彼のモットーらしく、僕はいつも手ぶらで行き手ぶらで帰らされた。なんでもかんでも薬に頼ってはいけない、とクマ先生は言っていた。薬は一時的なものであり──ときには必要な場合もあるが──問題の根幹をやっつけるには到らない、と。
 診察のない日は河名や橋本、翔ちゃんと会い、夕方になると塾に行った。多摩川の花火大会を見て、スイカをたらふく食べ、クーラーをガンガンきかせた部屋で本を読みあさった。それなりに充実していた。

 夏休みが終わりに差しかかったころ、クマ先生は「さあ、今日はいよいよ退行催眠だぞ」と言った。待ちに待った日が、とうとう訪れたのだ。
 僕は思わずスツールから立ち上がって、
「本当ですか!」
 と声を上げた。翔ちゃんに知らせたいけど──今日はほかの友だちと遊ぶらしく──ここにはいない。
 僕はベッドに寝転がり、右の手のひらを上にして、と言われ、それにしたがった。まずは、子どものころに楽しかったことを、印象的な情景を、思い出してください。クマ先生のおだやかな声が聞こえた。普段は野太いのに、こういうときはやさしさがこもっている。
 僕はまるで物語の世界に入り込むように、クマ先生の誘導にしたがって、意識を遠くの過去に持っていった。楽しかったこと……ああ、そうだ。まぶたの裏側に当時の映像がよみがえってきた。小学校に入学する日、僕はお母さんといっしょに校門をくぐった。幼稚園から知っている子、まったく面識のない子、鼻水を垂らした男の子、泣いている女の子――僕はこれからみんなと学校生活を送るのだ。僕はにっこりと笑った。
 するとクマ先生が、つぎはつらかったことを思い出してくださいと言った。
 つらかったこと。すぐに思い浮かんだ。幼稚園のとき、僕は翔ちゃんのほかにも仲がよかった友だちがいた。女の子だった。いつ知り合ったのかはわからない。気がつけばともに行動する仲になっていた。その女の子が、ある日死んだのだ。車に撥ねられて。野球のボールを拾ってこいと上の子たちに命令され、道路に飛び出したところ、運悪く車がやって来た。僕はあとからそのことを聞かされ、とっさには状況がつかめなかった。死とはいったいなんだろう、と思った。どこかに行っちゃうことだろうか。だとしたら、また帰ってくるのだろうか。
 幼稚園に行っても、その女の子がいないことに気づき、いっしょに遊ぶことができなくなった。そして、ようやく死とは「怖いもの」なんだとわかった。あの子は、もうどこにもいない。あの子の姿はもう、見られない。手を握れない。声も聞こえない。
 今――僕は涙を流している。過去を思い出しながら泣いている。あの子の死に、僕はずっと目をそむけていたのだ。
 そのとき、どんな気持ちでしたか? その女の子にはどういう気持ちを持っていましたか? クマ先生がそんなことを囁いている。
 だんだん気持ちが落ち着いてきた。温かい。僕は何かやさしいものに包まれているみたいだった。羊水──そう、ここはまるで胎内だった。僕は守られている。すやすやと眠っている。お母さんを感じている。
 その暗闇の中に、ぽつんと扉があります。ゆっくりとドアノブをひねり、引っ張ってください。そう、ゆっくりと、少しずつ。扉を開けると、タイムマシンがあります。過去にあなたをつれていってくれます。さあ、乗ってください。
 僕は言われたとおり、タイムマシンに乗った。車のかたちをしている。タイヤはない。ハンドルをつかむと、自動的にエンジンがかかった。メーターの針が大きくふるえる。強烈な震動が起こった。
 発進。タイムマシンは急スピードで闇の中を駆け抜けた。前方にはかすかな光があった。その光に向かって疾走する。光がひと筋、またひと筋と流れてくる。闇が切り裂かれていく。どんどんどんどん光が支配していった。どんどんどんどん闇がなくなっていった。まるで太陽に突入するかのようだ。僕は思わず目の上に手をかざした。

       五

 収まったのだろうか。僕はゆっくりと目を開けた。
 農道が一直線にずっと向こうまでつづいている。遠くに集落と山が見え、田んぼもあった。片田舎だった。
 僕は自転車を漕いでいた。ガチャガチャと音が鳴っている。腹のあたりに白くほっそりとした腕が巻きついている。荷台には愛子さん──そう、僕の恋人が乗っているのだ。
 僕は初瀬惣一という青年だった。時代は昭和二十五年、四月。今は夜明け前、あたりは薄暗い。
 僕たちは小高い山に向かっていた。肌寒いが体はほてっていた。愛子さんに緊張しているからだ。
 ガチャガチャ……ガチャガチャ……
 山の頂上で徐々に明るくなっていく景色を眺めた。となりに座っている愛子さんが、『線』の話を聞かせてくれた。
 ──うち、最近思うんです、うちと惣一さんは、点ではなく、線なのだと。

 記憶は走馬燈のように時の空間を駆けめぐっていく。

 僕は、愛子さんに前世の話をした。彼女は僕が言うことをすべて信じてくれた。雑貨屋でのしあわせなひとときだった。
 その日の夜、僕の父が衝撃的な一言を口にした。そういやぁ、奥田のバカタレの娘が嫁ぐらしいじゃねぇか、と。
 頭の中が真っ白になった。否定したかった。そんなこと、あるはずはない。だって、愛子さんは僕とつき合っているのだから。
 急いで彼女の家に向かった。家の裏にまわり、台所の網戸から中を覗き込んだ。愛子さんと両親が話し合っていた。その話を聞いて、僕は絶望的になった。彼女は呉服屋のところに行ってしまう。僕が夢見ていた将来は、あっけなく、がらがらと音を立てて崩れていった。人生でもっとも最悪な夜だった。
 友人の勝ちゃんが酒を携えて我が家にやって来た。僕が帳面に愛子さんへの思いをつづっていたときだった。
 興奮した勝ちゃんは大声でまくし立てる。何がいいだいや。愛子さんをごっつう好いとるくせに。そんなに好いとるんなら、とことん尾を引きずって別れろ。
 翌日、妹の静子が僕の部屋に入ってきた。所在なさそうに片足をぶらぶらさせながら、言った。お兄ちゃん。うちな、応援しとるけぇ。
 ありがとうな、と僕は素直に礼を述べた。
 なんなら駆け落ちでもしたらええが。
 あほ。僕はそう言って、呆れる。
 ──泥棒!
 叫び声が聞こえた。雑貨屋から勝ちゃんが飛び出してきた。つづいて、愛子さんの両親が血相を変えて出てくる。勝ちゃんは菓子をたくさん抱えて逃げていった。
 愛子さんの家に行ったものの、なぜか呉服屋がいた。相変わらず無礼なやつだった。百姓の分際で、と彼に言われた瞬間、はらわたが煮えくり返ったのだ。
 愛子さんは言った。お引き取りください、と。
 呉服屋につかまれて家の外に投げ出された。悔しくてもどかしかった。僕はすすり泣きながら何度もこぶしを地面にたたきつけた。
 惣一……。誰かが僕を呼んでいる。惣一、惣一、と――勝ちゃんだった。左の頬を青く腫らしていた。奥田のバカタレに捕まったそうだ。僕のために。申しわけなかった。
 静子と勝ちゃんには、たくさん助けられてしまったな。
 気にすんな。勝ちゃんは照れくさそうに言った。
 僕は桜の木の下に座り、ひらひらと舞い落ちる淡紅色のそれを見つめた。儚い恋だった。
 僕は愛子さんからたくさん学んだ。共有を学んだ。恋愛の楽しさを学んだ。奥田愛子だったからこそ、僕は学べたのだ。
 大切な人がそばにいてくれる──それだけで、何よりも幸福だった。
 おーい、お兄ちゃん。馴染みのある声が聞こえた。静子だった。
 僕は唖然とした。妹に促されながらこちらに向かってきている人を見て、心臓が跳ね上がった。愛子さん。
 まわりには僕と愛子さんしかいない。桜の花びらがきらきら輝いている。たぶん彼女とは、もう二度と会えないだろう。だけど──この時代では会えなくても、またいつか、別のかたちで邂逅できるに違いない、と信じていた。時間という絶対的なものをこえて、彼女とふたたび手をつなぐことができるだろう、と思っていた。
 名前をつけよう。僕は言った。自分が死ぬ前に、生まれてくる子に、孫でもいい、とにかく名前をつけるんだ。僕たちはきっと未来で再会する。生まれ変わって。そのときに、証拠がほしい。本当に僕たちの生まれ変わりで、魂は同じものかどうか、という証拠が。
 愛子さんはこう言ってくれた。もし初瀬惣一さんといっしょになれる可能性があるのなら、それに賭けてみようと思います。
 別れ際、僕は蛇の目傘を彼女に手渡した。瞬間、体内で強烈な波が打った。さまざまな感情が一気に込み上げてきた。僕は愛子さんの肩を引っ張り、口づけを交わした。

 そして時はぐんぐん進んでいく。

 愛子さんと離れ離れになってからというもの、僕は気力をすべて失った。毎日がうとましかった。いっそのこと死んでしまいたかった。果樹園の仕事にも精が出ず、父に叱られた。母は何も言わなかった。妹の静子は励ましてくれたが、その声ですら僕の耳には届かなかった。
 ある日、父に見合いを勧められた。僕は一度断ったが、あれよあれよと話は進行していった。もう反発する気力すらなかった。なるようになれという心境だった。相手は素朴な人だった。美人でもなく、不細工でもない。印象が薄い。相手の親は僕との結婚に賛成していた。早く娘を嫁がせたい、その気持ちが全面に表れていた。何度も頭を下げて断ったが、一向に引き下がる様子はなかった。
 結婚生活は穏やかなものだった。僕も妻も、お互いがお互いに関心がなかったからだ。ひとかけらの愛情すら、なかった。子が生まれ、僕は役目を果たした、と思った。やがて静子は勝ちゃんの家に嫁いでいった。僕は毎日果樹園に通った。梨作りくらいしか興味が持てなかった。父は意外にもぽっくりと逝ってしまった。脳卒中だった。
 いつの間にか──そう、いつの間にか、僕は四十五歳になっていた。昭和五十一年の四月に愛子さんと別れてから、二十六回目の春だった。鏡を見れば白髪としわが目立つようになっていた。二月に一人息子の忠人が嫁をもらい、家族は増えたが、変化と言えばそれぐらいで、平坦な日々を消化していた。いや、消化というよりは消耗だろうか。自分には得るものなどないのだから。
 僕が求める本当のしあわせは、やはり、あの人と手をつなぐことだった。

 今日も僕は昼食を食べ終えると果樹園に行った。花芽を取る作業に没頭した。何も考えない方がいい。考えたって、空しいだけだから。
 ──惣一さん。
 やわらかな声が聞こえた。すぐにそら耳だと思い直し、僕は頭を振った。枝から枝へと手をはわせ花芽を落としていった。
 四月の暖かい日だった。梨の花の隙間から見える、陽気な日差しがまぶしい。仕事が終われば桜並木を散歩しようと思った。楽しみなどそれぐらいしかないのだ。
 惣一さん、と、また声が聞こえた。近くから、鮮明に聞こえた。
 僕は後ろを振り向いた。
 目の前には、奥田愛子がたたずんでいた。水玉のワンピースを着た愛子さんが、そこにはいた。おかっぱ頭ではないが肩まで伸びたつややかな髪、大きな目、かたちのいい鼻、薄い唇。雰囲気はあのころとまったく変わっていなかった。まぎれもなく、僕がずっと求めていた人だった。
 ──信じられない。もう会えないと諦めていたのに。
 おひさしぶりです。愛子さんは伏し目がちに言った。
 どうしただ? 僕は驚きを隠せず、口を開いた。なんで、ここに?
『夫とは離婚しました。離婚して、ここにやって来ました』
『嘘……だろ』
『本当です。どうしても我慢ができず、離婚届に判を押してもらいました』
 僕は金魚のように口をぱくぱくさせた。言葉が出てこない。
 沈黙にたえられないのだろう、愛子さんは勝手にしゃべった。家の窓から開花前の桜の木を見ていたある日、別れよう、と、決心したのだそうだ。そしてすぐに旦那に離婚届を突き出した。当然、反対された。世間の目を意識すれば、たとえ夫婦の仲が悪くても離婚などできない。だが、愛子さんは折れなかった。
『昨日、実家に帰りました。兄はひどく怒っていて、食器棚の皿をすべて割ってしまいました』
 だけど、と愛子さんは顔を上げた。苦しそうな表情だった。
『うちは後悔してません。あなたのいない人生に堪えられなくなったんです。どんなに忘れようと思い込んでも、無理だった。何度もあなたと手をつないでいる夢を見ました。うちの心には、いつもあなたがいた。夫ではなく、あなたが……。夫には本当に申しわけないことをしました。それについては反省しています。でも、やっぱり、後悔はしていません』
『これから、どうするつもりだ? 村の者に噂されるで』
 愛子さんは口をきゅっと結んだ。
 僕には──たずねておきながらも──答えが一つだけあった。彼女と別れる前、静子に言われた一言を思い出したのだ。なんなら駆け落ちでもしたらええが。そう、妹は言った。
 僕は彼女の手を取った。
『どこかに行こう、今すぐ』
 愛子さんの目には涙が浮かんでいた。しばらくして、首を横に振った。
『……惣一さんには迷惑をかけられません。あなたの家には、待っている人がいるのですから。それに、うちにも子どもがいるんです。たった一人の、愛娘が』
『だったらなんでここに来ただいや。会いとうて会いとうて仕方がなかったからじゃないんか? 頼むけぇ、正直に言ってくれえや。会いたかったんだ、と』
 彼女は小刻みに首を縦に振った。今度は力強いうなずきだった。
『僕はいつもあんたのことを思っとった。本当だで』
 言いながら、涙声になった。目頭が熱かった。
『毎日毎日、あんたは今、何を見とるか気になってしょうがなかった。きれいなものを見とるんだろうか、それとも遠い僕たちの思い出を見てくれとるんか、気になっていた。あんたが今、触れているものはなんだろうか。やわらかいものだろうか、それとも硬くて重いものだろうか。あんたは今しあわせだろうか、それとも不幸せだろうか。そういうことを知りたくて知りたくて……』
 うちも、あなたといっしょの気持ちでした。愛子さんはそう言って、飛び込んできた。僕は強く深く抱き締めた。今までため込んでいた思いをありったけ腕に込めて彼女を抱き締めた。
 まるで子どものように、大の大人が泣きじゃくった。体内の時計はあの十九のころから進んでいなかったのだ。
 梨の花の香りが鼻先をかすめた。

 僕は作業着姿のまま汽車に乗った。財布を持っていなかったので、切符代は愛子さんに出してもらった。僕たちの持ち物は、彼女のワンピースのポケットにある財布、ただ一つだけだった。
『……出かけようとすると、兄が、おまえは出るな、と言ったんです。帰ってきていることが知られたらどうするんだ、離婚をするなんて一家の恥だ、そう言ったんです』
 僕の真向かいに座っている愛子さんは窓の外を眺めながらしゃべった。
『電話で離婚する旨を伝えたときは、やめてくれ、やめてくれと懇願されていたのに、帰ってくると怒鳴られてばっかり』
『まあ、お兄さんの気持ちもわからなくもないが、それにしたって、ひどい言いようだな。かわいい妹が決断したことだけぇ、許してくれたっていいものなのに』
『しかたがないです。全部うちのせいですから。うちが何もかもを壊してしまったんですから』
 車内にはまばらに乗客がいる。いったいみんなどこに向かっているのだろうか。一人一人に聞いてみたかった。
 また兄を、家族を裏切ってしまう。愛子さんはぽつりと言った。僕は聞かなかったふりをした。
 汽車はどこまでも走った。もう山口県まで来ているかもしれない。窓の外は少しずつ表情を変えていった。古い乗客が降り、新しい乗客がやって来た。時間の経過がわからないほど揺られつづけた。
 しばらくして僕たちはどちらからともなく立ち上がり、手を取り合って下乗した。
 駅舎を出ると日本家屋が立ち並んでいる。案内板を見ると歩いて十分程度のところに旅館の名前が記されていた。どうする? と僕は愛子さんに問うた。彼女は緩慢な動作でうなずいた。
 看板に「商店街」と書かれているが人気はなく、道幅も狭い。奇妙なほど静かだ。僕たちにとっては都合のいい町だった。
 でこぼこ道を歩いていくとやがて旅館が見えてきた。木造二階建てのそこは、どこか一本柱を切られでもしたら、たちまち崩れてしまうかもしれない、というような印象だった。僕たちは石橋を渡り、旅館の格子戸を引いた。立てつけが悪く、力を込めないと容易には開かなかった。
 玄関で声をかけてみる。帳場の奥から一人の老婆が出てきた。いらっしゃい。タンがのどにからまったような声だった。
『ひと晩、泊めていただけますか』
 空き部屋だらけだとはわかっていたが、僕は念のために伺った。
 歯のない老婆はにっこりと笑って帳簿を出した。僕はそこに偽名を書いた。勘定をすますと、僕たちは靴を下駄箱にしまった。そこで、僕は自分が地下足袋を履いていることに気がついた。老婆は地下足袋を見ても顔色一つ変えることなく、僕たちを部屋に案内してくれた。ほかに泊まっている人はいないのかと聞くと、老婆は指を二つ立てた。
 僕はどんな人がここに泊まっているのか気になった。こんなさびれたところに投宿しているのだ、自分たちと同じ境遇の人たちなのでは? と思えてしかたがない。
 二階の、掛け軸があるだけの和室に入った。障子を開けると、先ほど通ってきた町が見渡せた。夕飯になっても、愛子さんはしゃべらなかった。僕も同様に黙々と箸を進めた。話すことはたくさんあった。長い空白の時を過ごしてきたのだ、何もないはずはなかった。だが言葉が出てこなかった。自分たちがこれからすることを思えば、なかなか会話する気にはなれなかった。
 愛子さんが風呂に入っているとき、ふいに勝ちゃんの顔が浮かんだ。酔いが大分まわってきていた。
 階段を駆け下りて、玄関脇の黒電話に飛びついた。
『……もしもし、大竹ですが』
 男らしい、太い声。
『もしもし、勝ちゃんか』
『おう、惣一か。いったいどうしただいや、こんな遅くに。このごろ会っとらんけぇ、寂しくなったんか』
『ちょっとな、勝ちゃんには言っとこうと思って』
『……なんだいや、急にあらたまって』
『今、愛子さんといっしょだ』
『なんだって! 本当かいな?』
 僕はしばし言いよどんでから、
『彼女と、死ぬつもりだ』
 勝ちゃんの声が消えた。僕は少し、笑った。彼の暗い顔つきが想像できたからだ。
『静子は、元気か』
『あ……ああ。四十を越えても、なんも病気にかからず、ぴんぴんしとる』
『よろしく言っといてぇや』
『そんなこと、言えるか、あほ。これから死ぬ者のことなんか……』
 勝ちゃんの声はふるえていた。
『なあ、おまえらはそんな道しか選べんだか? どうやって再会したか見当もつかんけど……いっしょになればええがな』
『いっしょになるために、選んだ道なんだ』
『なんでだいや。心中じゃあいっしょになれんわ。いっしょだと感じるのは落ちとる間だけで、死んだらお陀仏だがな。なーんも、わからんようになるわ』
『それは違う』
『……どういうことだ?』
『勝ちゃんは、生まれ変わりを信じるか』
 生まれ変わり。勝ちゃんはぼそっと言った。
『そう、僕と愛子さんは生まれ変わって、また来世で会うんじゃ』
『何、寝ぼけたことを抜かしとるだ。気はたしかか? おいっ!』
『僕は正気だで』
『だいたいなぁ、生まれ変わりなんてあるわけなかろう』
『ある。あるから、言ってるんだ』
 そう、あるのだ。生まれ変わり──前世と来世は存在するのだ。勝ちゃん、と、僕は力強く呼びかけた。
『今から言うことを、黙って聞いてくれ』
 勝ちゃんのため息が聞こえた。
『……言うてみい』
 僕は見えない友人に向かってうなずいた。
『愛子さんと約束していることがある。それは、孫に名前をつけること。
 彼女には、娘がいるらしい。勝ちゃんも知っているように、僕にも息子がいる──僕は、息子の忠人に、こう頼むつもりだ。「孫ができたら、孫の名前に、惣、の文字を入れてくれ。必ず」と。そして、愛子さんには孫娘の名前に、「愛」の文字を入れてもらう』
『何か意味があるんか?』
『ある、と言えばあるが、ない、と言えば、ない。要するに気持ちの問題なんだ。僕は、まったくの他人には生まれ変わりたくない。前世のできごとを憶えているとしても、顔も違う名前も違うとなると、違和感がある。自分じゃない気がする。だから、自分の孫に生まれ変わるつもりなんだ。僕も愛子さんも。同じ家系だから、別人というわけではない。僕は、僕に似た人物に生まれ変わって、愛子さんとやり直すつもりだ』
『おまえには罪悪感ちゅうもんはないんか。簡単に家族を見捨てて……』
『たしかに、悪いと思っとる』
『思っとらんっちゃ! おまえらは自分のことしか考えとらんがな!』
 勝ちゃんは怒鳴った。
 しかし、と僕は思った。しかし、もう引き返せない、引き返すことなんてできない。愛子さんと再会し、抱き合った瞬間に、得体の知れない何かが動き出してしまったのだ。
『すまん、勝ちゃん』
 なぁ、惣一。勝ちゃんは懇願するように言った。
『考え直してみいや。時間をおいて、じっくり考えてからでも遅くはない。今すぐ俺のうちに来い。酒でも飲みながら話し合おうや』
『もう鳥取には戻れん』
 愛子さんは離婚しているのだ。彼女が戻れないのだから、僕も戻ることはできない。そう言おうとしたが、僕はぐっと気持ちを抑えた。たとえ親友でも、離婚の話は言わない方がいいと考えたからだ。
 勝ちゃんは嗚咽まじりにまくし立てた。
『おまえら、二人とも子どもだわ。幼稚すぎるわ。十九のときからぜんぜん成長しとらん。どうしようもないばかだ。俺は……俺は、知らん! どこにでも行けぇ! 勝手にせぇ!』
『堪忍してくれ』
 僕は涙がこぼれ落ちる前に受話器を置いた。
 勝ちゃんが泣くとは信じられなかった。心の底から心配してくれているのだろう。僕は目頭を押さえた。すまんなぁ、本当にすまん、と、何度も謝った。
 しかし、まだやらなければならないことがあった。僕は鼻水をすすり、涙をぬぐい、奥歯を噛みしめた。パンと頬をたたき、再度黒電話のダイヤルをまわした。呼び出し音が数回鳴った。
『もしもし……親父か?』
 忠人が電話に出たようだ。妻でなくてよかった。ああ、と、僕は短く返事をした。
『どこにおるだいや。みんな心配しとるで』
『ちょっとな、人のうちで、ご馳走をよばれとるだっちゃ。今日は帰れんわ』
 卑怯だと思ったが嘘をついた。本当のことを言えば、頼みを断られる可能性があったからだ。
『なんだいや、そういうことか。出かけるんだったら、ちゃんと前もって言ってくれんと』
『ああ、すまんすまん』
 そして僕は本題を切り出した。
『あのなぁ、頼みがあるけど、いいか』
『なんだぁ、急にあらたまって。気持ち悪いなぁ』
 忠人は砕けた口調で言った。
『……早く子を産んでほしいだが。今なぁ、連れの話を聞いとったら、自分にも早く孫がほしいと思って』
『そんなことかいな。言われんでもわかっとるっちゃ』
『それでな、孫には、惣一の「惣」の字を入れてほしいんだが』
『どうして?』
『自分の名前の一部を孫につけてやりたいんだよ。おまえには悪いと思う。だけどな、自分が死んでも、「惣」という字には生きていてほしいだっちゃ』
 笑い声が聞こえた。
『親父はまだまだ若いがな。死んでからのことなんか考えんでいいが。年寄りくさいことを言っとるけど、もしかして、酒がまわっとるんか?』
『人間、いつ死ぬかわからんぞ』
『まぁな。あんなに元気だった祖父ちゃんが、ぽっくり死んでしまったもんなぁ』
 忠人は感慨深げに言って、また噴き出した。
『それにしても、親父は妙に名前に執着しとるでなぁ。俺が小さいころ、友だちに「ちゅう、ちゅう」とばかにされとったら、親父、すぐに駆けつけてきて、その友だちを殴っただろ。俺、あれには驚いたで』
 忠人の「忠」を取って、「ちゅう」と呼んでいたやつがいた。僕はそいつを叱り飛ばしたことがある。
『名前は大事だ。肉体がなくなっても、名前だけは永久に残っていくけぇ。結局のところ、その人を表すものは名前だけぇ』
 親父、と、忠人は言った。
『「惣」の文字、孫につけてもいいで。そのかわり、「惣太郎」にするか、「惣次郎」にするかは、俺が考える』
『太郎や次郎は、もう、この先流行らんだろ』
『じゃあ、「つぎ」と言う字を後ろに入れて、「惣次」はどうだ? 親父の「惣」を受け継いどるという意味でも、「惣次」はいいだろう』
『……ああ、いい名だ』
『じゃあ、明日には帰ってこいよ』
『なぁ、忠人』
『うん?』
 僕は電話台に肘をつき、片手で顔を覆いながら言った。
『もう、帰れんかもしれん』
『何、言っとるだ? だいぶ酒がまわっとるなぁ』
『忠人。孫に「惣」をつけるという約束は守ってくれ。絶対に。このとおりだけぇ』
 僕は頭を下げた。
『じゃあ、元気でな』
 おい、親父! ただならぬ気配を察したのか、忠人は大声で呼びかけてくる。僕は思いきって受話器を下ろした。
 ──申しわけない。
 僕はもう一度、頭を下げた。
 廊下の板のきしむ音がした。振り向くと風呂場の方から愛子さんが出てきた。浴衣を着て、服の畳まれたかごを持っていた。
『家に電話をしていたんだ』
 僕は言った。
『息子に、孫が産まれたら、「惣」の文字をつけてくれとお願いした』
 そうですか……。愛子さんはそう言い、階段を上がろうとした。
『愛子さんも、言わんだか? その……孫に「愛」をつけてほしい、と』
 彼女は薄く笑って、もう伝えてありますと言った。
『娘のかおりには、前々から言ってるんです。孫ができたら、お母さんの「愛」をつけてほしい、と。言うたびに苦しくなって、何度もやめようと思いました。だけど……気づけば呪いのように、言っていました。うちは最低な母親です』
 僕は何も言い返せず、ただ彼女を見つめた。愛子さんは、いい湯かげんでしたよと言い残し、二階の部屋に行ってしまった。

 湯船に浸かり、出された浴衣に着替えて戻ってくると、愛子さんは布団にくるまっていた。暗い部屋にどこからか隙間風が忍び込み足もとが冷たかった。
 惣一さん、と愛子さんが言った。背中を向けられているので、顔は見えない。
『うん?』
『ここまでついてきてくださって、ありがとう。でも、死ぬのはうちだけです。あなたは家庭へ戻ってください……そう言おうと思っていました。汽車に揺られているときから──でも、言えなかった。結局ここまで来てしまった』
 愛子さんはこちらに身をひるがえした。そしてしなやかな腕が伸びてきた。
『うちは弱い人間です』
 僕は彼女の手に触り、握り締め、絡めた。
『いや、愛子さんは強い』
 愛子さんは小さく首を横に振った。
『うちは弱いんです。こうして惣一さんに触れていると、ますます家に帰らせたくなくなる。いっしょにいてほしいと思ってしまう。……いっしょに死んでほしいと、願ってしまう』
『どこへでもついていく。僕たちは真実の筏に乗ってしまったんだ、降りることはできない。終点もわからない。漂っていくことしかできない』
『でも、どこで筏が壊れるか、わからない。いつ離れ離れになるかは、わかりません。たとえ生まれ変わっても、ズレが生じて、お互いが別々の道に進むことになるかもしれません』
『そうなろうが、このままずっとこの時代をさまようよりは、いい。今度は、よい時代に生まれよう。親にしたがうことなく、好いとる者同士が添い遂げられる世界で、自由に恋愛をやり直すんだ』
 僕は愛子さんに口づけをし、襟の中に手を入れた。長い間こうしたいと思っていた。彼女の吐息、やわらかな胸、躍動する太もも──想像でしかなかったものが、今ここにある。

 いつの間にか眠っていたようだ。朝のまぶしさに目を覚ました。窓からきらきらと輝く日が差し込んでいた。一日のはじまりに胸が詰まった。
 おはようございます。愛子さんが横座りの姿勢で壁にもたれていた。とてもきれいだった。まわりくどい文句はいらない。本当にきれいだと思った。彼女が若返っていくのが目に見えてわかった。
 朝食を食べ、旅館を出た。愛子さんと手をつなぎ山に歩いていった。僕は愛子さんに伝えたいことが腐るほどあったが、実際は一言もしゃべらなかった。恋人の手の感触、そこから感じとれる温度を何度もたしかめた。
 また未来で会おう。僕はつぶやいた。
 愛子さんは口もとに微笑をたたえて、はい、と答えた。
 山の小径を登っていった。いろいろな山野草を見つけた。アズマギク、イチリンソウ、ニリンソウ、オオミスミソウ……。不安定な吊り橋を渡り道なき道を突き進む。汗がにじみ出てくる。枯れ枝を踏みつけるたび、乾いた音が鳴った。木漏れ日が地面にまだら模様をつくっていた。
 やがて崖に出た。崖の下には悠然とした海が広がっていた。
 座りませんか? と愛子さんは言った。飽きるまで眺めましょう。それからでも遅くはないわ。
 僕は目をつむり、耳をすませた。ふしぎとおだやかな気持ちになれた。僕はこれから死ぬのだろうか──恐怖はない。困惑も、今はない。透明な感情がゆったりと体の中を泳いでいる。
 愛子さん。僕は呼びかけた。
 はい。彼女は前髪を耳に引っかけながら、答えた。
『「線」の話、憶えとる?』
『はい。うちらは一本の線で結ばれている』
 僕はうなずいた。
『点と点ではなく、一本の線。来世に行っても必ずあなたと会える──僕がそう確信したのは、線の話を聞いてからだ。道が蛇行しとろうが、絡み合っとろうが、つながっていることには変わりない……』
 どちらからともなく立ち上がった。手を取り合い、ゆっくりと崖の先端まで歩いていった。海を見下ろしても足がすくむことはなかった。
 ここから飛び降りた人はいるのだろうか、と、ふと思った。それは夜だろうか、昼間だろうか。たぶん、いるとしたら前者だろう。闇が深まれば深まるほど、人は憂鬱に陥る生きものだから。
 しかし、僕たちはあえて朝を選んだ。なぜなら、僕たちの死は絶望ではなく希望なのだ。
『愛子さん……また、会いましょう』
 僕は言葉に体温を込めて告げた。彼女は強く握り返してくれた。
 ──線の関係でずっといられればいいでな――
 ──離れていても、うちらは線で結ばれています――
 以前交わしたやりとりを思い返しながら、僕たちは飛び降りた。

       六

 初瀬惣一の人生が終わった。退行催眠を受けている状況でも、自分が泣いていることがわかった。死を選んでまで愛する人といっしょになる――小学生の僕には、重く、つらく、目をそむけたいほどだった。
 また頭に新たな映像が流れ込んできた。感傷に浸る時間を十分に与えられないまま、僕はつぎの人生へと突入した。
 そこは、病室だった。僕は仰向けの状態でぼうぜんと天井を見つめていた。両足の感覚がなかった。
 僕は初瀬惣次という中学三年生だった。サッカーの試合で脊髄を損傷してしまったのだ。
 医者に『二度と歩けない』と宣告されたのはいつだったろう。あの日、この部屋で僕は暴れた。手近にあるコップや小物を投げ捨てた。医者に襲いかかった。でも、足が動かない僕はベッドから落ちて不格好なまま泣きわめくしかなかった。これまで平凡に生きてきて悪いこともしていない、なのに、こんな仕打ちはあるものか──そう思った。なんでよりによって僕なんだ、僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ! と。
 あれから長い月日が経ったように感じる。棚に貼ってあるカレンダーを見ると、まだ四月だった。実際には怪我をしてから二ヶ月ほどしか経っていない。
 今は涙さえも涸れ果ててしまったようで、出ない。感情もわかない。
 やがて母が病室に入ってきた。帰ってくれよ、と僕は弱々しくつぶやいた。父にも母にも、誰にも会いたくなかった。どんな顔をすればいいのかわからないし、だいいち会話する気力がわかない。そっとしておいてほしかった。
『これ、惣次にって。お友だちから』
 母は手に持ったものを示しながら言った。透明なビニール袋にパンや牛乳、プリント類が入っている。
 ──友だち?
 誰だろう、と思った。仲のいいやつは何人かいるけど、みんなほかのクラスだし、届け物を持ってきてくれるほどの関係でもないはずだ。
 僕の気持ちを察してか、母は言った。
『早川さんよ』
 ──早川……早川愛美!
 驚いた。まさか彼女が持ってきてくれるとは。
 僕は中学一年生のころから、彼女のことが気になっていた。理由はわからない。いつの間にか意識するようになっていた。自然に惹きつけられていった。
 その彼女が、届けてくれた。何かが息を吹き返したように感じられた。正体はわからないけれど、とても温かい気持ちになれた。

 つぎの日も、またつぎの日も、早川は病院にやって来た。会いたい、彼女の顔を見たい、話したい。しかし、自分の足のことを考えると……会いたいけれど、会えなかった。
 桜の時期が終わろうとしているころ、早川は目の前に現れた。あまりにも劇的に現れたので、自分の目が幻影を映し出しているのかと一瞬疑ってしまった。僕は耳からイヤホンを外しテレビの電源を切った。腕の力だけで、上体を起こした。
 早川……。僕はそう言ってから、口ごもった。何を言えばいいのかわからなかったからだ。
『お見舞いに来ました』
 早川は言った。表情は笑っているけど、どこかぎこちない。
 早川は鞄から何かを取り出した。それは一冊のノートだった。もしよかったら、交換日記をしない? と言って、僕の目の前に差し出してきた。
 交換日記……。僕はつぶやいた。
『うん、病院だと退屈するだろうと思って。暇なときに書いてよ』
 僕はノートを受け取り、最初のページを開いた。惣ちゃんがまたサッカーできますように! と、書いてあった。その下には、ボールを蹴る僕のイラスト。僕は泣きたくなった。
 ごめん。僕は言った。ごめん。もう一度、言った。
 早川は困った表情を浮かべて、病室から出ていった。
 ごめん。心の中でつぶやいた。ごめん、僕、もうサッカーできないんだ。

 嫌われてしまったかもしれないと思っていたけれど、早川はゴールデンウィークが明けてからもプリントを届けてくれた。彼女がどういう目的で届けにきてくれているのか、考えたけど答えは見つからなかった。
 僕は悲しくなるたびに交換日記を開き、彼女の文章を指でなぞった。文字の感触がはっきりと伝わってきた。早川の顔を見たかった。でも、いつも母が彼女を追い返してしまうため、会えなかった。母は僕に対して、神経質になっていた。僕を刺激するものを一切取り除こうと躍起になっていた。
 今日も母さんが追い返すんだろうなとぼんやり思っていると──しかし、早川はまた僕の目の前に現れた。
 お母さんの目を盗んで来ちゃった。彼女はほほえんで言った。
 僕は照れくささを感じながらも早川に交換日記を渡した。ありがとう、と彼女は言った。交換日記を大切そうに胸に押しつける。
 僕はうれしくなった。彼女は僕をちゃんと見てくれている──医者も母も父も、僕を見ているようで見ていないから。
 そこに母が来た。どうしてここまで来たの、と母は早川に咎める口調で言った。
 母さん、別にいいって。僕は取り繕おうとしたが、母に一蹴された。あたりに険悪な空気が流れはじめた。
 ぱさっとノートが落ちた。母はそれを拾い表紙をめくった。みるみるうちに顔が青ざめていった。
 なんてことを書いているのよ!
 母の金切り声が病室中に響いた。僕は驚いた。母が母じゃないように思えた。早川もびくびくしていた。
 もう何、勝手なことをやってんのよ、と母は涙声で早川を責めた。いつの間にか雨が降っていた。窓の外が灰色に染められていた。
 パンと音がした。早川がたたかれたのだ。気づくまでにかなりの時間がかかった。目の前で起きていることが、どこか遠くのできごとのようだった。
 母は、僕が歩けなくなったことを、だからそっとしておいてくれということを、息継ぎをする間もなくまくし立てた。僕は自分の耳をふさぎたくなった。無性に腹が立った。体が熱かった。
 ごめんね……惣ちゃん。早川は僕に謝った。彼女はぜんぜん悪くないのに泣きながら謝った。
 何がごめん、よ。今までさんざん言っておいて。母は攻撃の手をゆるめなかった。
『やめろ!』
 僕は自分の怒鳴り声を聞いた。母と早川が喧嘩するところなんて見たくなかった。
 早川はうなだれたまま帰っていった。母に、早川は悪くないと言った。そして僕は、足のことをクラスのみんなに話してもいいよと告げた。いつまでも隠しておけるはずはないのだから、この際みんなに知ってもらおう、と。

 第四土曜日の夕方に、母が新しいタオルや歯ブラシを持ってやって来た。母はその日、早川と会って話をしたそうだ。こんなに早く二人が仲直りするとは思ってもいなかったけれど、間に静子さんがいてくれたのだと聞いて、僕は納得した。
 そしてまた早川が見舞いに来てくれるようになった。交換日記も順調だった。夏休みになっても早川は足を運んでくれた。学校からの届け物は何一つないのだが、代わりに花を持ってきてくれた。僕は次第に花に興味を持っていった。名前もかなり憶えた。子猫の尻尾のようにかわいらしいケイトウ、大輪デコラ咲きのダリア、はつらつとした向日葵、いい香りのラベンダー……。

 お盆が近づくころにはある程度車椅子に乗れるようになった。そのことを電話で早川に報告すると、彼女はすぐに駆けつけてくれた。満面の笑みを浮かべ、よかったねと言ってくれた。
 ありがとう。自然にその言葉が口からこぼれた。僕はそのとき、退院したら告白しようと決めた。もう僕には彼女しかいないのだ。

 暦は十一月になり、退院日が間近に迫っていた。夕方にめずらしい人が来た。クラスメイトで同じサッカー部員の近野朋泰だった。まさか彼が見舞いに来るなんて思いも寄らなかった僕はきょとんとした。近野は、よっ、元気? とさわやかに言った。そして、『俺が早川に振られたって言ったらどうする』と、これもまたさわやかに言った。おまえがもし早川のことが好きだったら、相思相愛だぞ。これだけを伝えたくなったから来ただけだ。気にすんな。じゃあな。

 それから二週間近く、自宅で車椅子の練習に励んだ。一日もくじけなかった。

 土曜日、早川の家に電話をかけた。親が出てきたらどうしようとはらはらしたが、二回かけても反応がなかった。少し時間をおいてから、これが最後だと決めて黒電話のダイヤルをまわした。すると受話器の持ち上がる音が聞こえた。ちょっと迷惑って言葉はご存じですか? 彼女の怒りをはらんだ声が響いた。ごめん、またかけ直すよ、と僕は言った。
『待って!』
 早川の口調が変わった。もしかして僕を誰かと間違えていたのだろうか。
 僕は父のワゴン車──僕のために購入した車だ──に乗って、公園まで連れていってもらった。待つこと十分、彼女が自転車に乗ってやって来た。セーターの上にニットのカーディガン、格子柄のロングスカートという服装だった。サッカーの試合よりも僕は緊張していた。早川の顔をまともに見られず、膝もとのサッカーボールを眺めた。沈黙は長くつづいた。
 僕は何か言わなくちゃと焦って、あの、と言った。自分の声と早川の声が重なった。彼女も、あの、と言ったのだ。
 早川はくすっと笑い、つられて僕も笑った。
 好きだよ。私、惣ちゃんを好き。早川は言った。
 だけど、と僕は不安になった。だけど、僕なんかでいいのだろうか、彼女は後悔しないだろうか。僕は怖じ気づいた。素直になれなかった。
『だってさ。見てよこの足、ぜんぜん言うことを聞いてくれないんだ』
 僕は車椅子のアームレストをつかみ、立ち上がろうとした。けれど足に力が入らない。ボールがジャングルジムの方に転がっていった。早川が駆け寄ってきてくれた。そして、ぎゅっと抱き締めてくれた。
 ──もう、ボール蹴れないよ。
 僕は子どものように泣いた。

 その翌週の月曜日、僕は学校に行った。九ヶ月ぶりの登校だった。担任の教師と早川に手を貸してもらい教室まで行くと、クラスのみんながやさしく迎えてくれた。同情を受けるだろうかと考えていたが実際は違った。男子は乱暴に声をかけてきてくれた。その乱暴さがたまらなくうれしかった。怪我をするまでは学校が楽しいところだとは思わなかったけれど、こうして来てみるとすべてが輝いて見えた。授業中はみんなで笑い、給食の時間はデザートを取り合い、昼休みはカードゲームに夢中になる――なんてすてきなことだろう。

 文化祭当日、僕と早川、二人の後輩とで、映画鑑賞の係を務めた。朝からジブリのアニメ映画を上映してそれなりに客が集まった。
 トトロが夜空を飛んでいるとき、右手に温かい手のひらが触れた。僕はびくっとして、手を引っ込めた。早川が握ってくるなんてまったく予想していなかった。
 映画は『火垂るの墓』『魔女の宅急便』と進んでいったけれど、僕の頭は早川のことでいっぱいだった。僕はなぜか叫びたい気分になって胸がむずむずした。
 『おもひでぽろぽろ』を観ていたら、校内放送が入った。どうやらフォークダンスの準備が整ったようだ。みんな校庭へと出ていった。フォークダンスはこの文化祭のメインイベントなのだ。だけど僕は踊れない。踊ることができない。去年はみんなと同じように、火を囲んで、ステップを踏めたのに……。校庭では生徒や教師たちが大きな火のまわりに集まっていた。『マイムマイム』の曲がかかった。
 憶えてる? と、僕は早川を見て言った。去年のこの時間。
 うん。彼女はうなずいた。いっしょに踊ったよね。
『もう、踊れないんだな』
 僕は弱音を吐いた。
 すると早川が、試してみる? と明るく言った。
 蛍光灯の明かりのもと、早川はパンと手をたたいた──

 そばでケータイの着信音が響き、僕は強制的に現実に引き戻された。
 ジーンズのポケットからケータイを取り出しディスプレイを見ると、お母さんからだった。僕はクマ先生に、出てもいいですか? と聞いた。クマ先生は苦い表情で、いいよと答えた。電源を切るのを忘れていた僕は、すみませんと謝ってから電話に出た。
 お母さんの泣き声が聞こえた。
『どうしたの!』
 僕は慌ててたずねた。
 お父さんが、お父さんが……車に、撥ねられたの。
 その瞬間、体がさっと冷え込んだ。
『今、病院にいるの。潤君も、早く来て。場所は──』
 近くの病院だった。僕はわかったと返事をして電話を切った。頭の中がぐるぐるまわっていて、めまいのような感覚に襲われた。だいじょうぶか、とクマ先生が体を支えてくれた。
「お父さんが事故に遭われたのか? 今すぐ車で連れていってあげるから」
 クマ先生は机の引き出しから車のキーを取り、僕を背負って診療所を出た。僕は、揺られながらも、これは何かの間違いだと思った。
 クマ先生の軽自動車に乗って、病院に駆けつけた。休日なので救急用の出入り口から入った。
 長い廊下の先に「手術中」のランプが点灯していた。ベンチにお母さんがうなだれる格好で座っている。クマ先生はお母さんに一礼してから、とりあえず座ろう、と僕をうながした。三人で灰色のベンチに腰かけ、ランプが消えるのを待った。合成皮革でできたそれは、とても硬くて、お尻が痛くなった。でも僕は立たなかった。立つ気力がわかなかった。クマ先生は自販機からジュースを買ってくれたが、口をつけなかった。薄暗い廊下をじっとにらみつけた。
 あたりには窓がなく、外が暗いのかまだ明るいのかわからなかった。それまでに動きらしい動きと言えば、クマ先生が自宅に電話を入れるため外に出ただけだった。お尻の感覚が麻痺していったけど、僕はなおも姿勢を崩さなかった。両膝に手を置いたまま床をにらんでいた。お母さんもマネキン人形のように固まっていた。
 頭の中にお父さんが浮かんできた。やさしいときのお父さん、きびしいときのお父さん──いろんな表情のお父さんがつぎつぎと浮かんだ。僕の前で平気でおならをするお父さん、百点を取ったときに頭をなでてくれるお父さん、真剣な目つきでパソコンのキーボードをたたくお父さん……。
 僕はうめき声を漏らした。悲しくなった。二度とお父さんが帰ってこないような予感がしたからだ。
 お父さんが死んじゃうよぉ。僕は鼻水をぬぐいながら、わめいた。
「縁起でもないことを言わないで!」
 お母さんが怒鳴った。廊下全体に反響するほど声が大きかった。
 僕もクマ先生も驚いて、お母さんを見た。お母さんは全身をふるわせていた。手に握り締めていたハンカチを目もとにあて、いきなり泣きわめいた。
 こんなに取り乱したお母さんを見たのははじめてだった。僕はお母さんと共振して泣きじゃくった。クマ先生は僕を厚い胸の中に入れてくれた。こめかみのあたりに彼の髭があたってちくちくしたけれど、ぜんぜん嫌じゃなかった。
 お願いだから無事でいて。僕は何度も何度も祈った。神様、お願いだからお父さんを助けて!

 数時間後、僕は神様なんて存在していないことを知った。

       七

 葬式を行う意味がよくわからなかった。来る人来る人、みんな同じ顔つきで気味が悪かった。父の職場の人たちも友人知人もロボットのようにあいさつをして、ロボットのように焼香をすます。白黒の垂れ幕や豪華な祭壇が憎たらしかった。こんな儀式のどこに意味があるのだろう。ただ悲しくなるだけだ。それに、これじゃあ、お父さんが本当に死んでしまったと言っているようなものだ。違う。僕は認めたくなかった。信じたくなかった。
 柩という箱に閉じ込められたお父さんがかわいそうだった。火葬場に運ばれるとき、僕は「やめて、やめてよ。お父さんを燃やさないでよ!」と頼んだ。だけど、親戚のおじさんに「ちゃんと供養してあげないと、天国に行かせてあげないと」となだめられた。天国? そんなところはどこにもない。大人は知ってるくせに、こんなときだけ「天国」を口にする。僕はおじさんが嫌いになった。お母さんはずっと泣いているだけだった。
 あの日――事故に遭った日、お父さんは僕の誕生日プレゼントを買いに出かけた。おもちゃ屋に行くと言って家を出たのだ。そして住宅街の曲がり角で車に撥ねられた。ミラーが設置されていない見通しの悪い場所だった。
 掃除機をかけていたお母さんは、突然の報に混乱してしまった。しばらく右往左往したあと、はっとして、病院へ向かった。
 しあわせなホームドラマは、あっけなく壊れた。僕は何年も平凡な日常がつづくと思っていた。なのに、一瞬で大切な人を失ってしまった。僕もお母さんも、お父さんだって、何一つ悪いことなどしていないのに。

 四十九日の法要がすむまで、僕はときどき学校を休んだ。塾には行かなかった。無気力に襲われた。
 父の仕事場だった和室が仏間となり、パソコンは僕の部屋に移された。お母さんは大好きだった料理をつくらなくなり、コンビニの弁当を買うようになった。それに、毎晩お酒を飲むようになったし、掃除も怠るようになり、慣れないパートをはじめた。僕は学校帰りにスーパーマーケットに寄って、働いているお母さんの姿を見た。ほかのレジを打つおばさんたちと変わらないお母さん、艶やかだった髪の毛にうるおいがなくなったお母さん……。
 マンションからアパートへの転落は保険金や祖父母の援助でなんとかまぬがれたものの、いつまでまともな生活がつづくかわからなかった。日常が百八十度変わった。飽き飽きしていた「当たり前」が、もう、はるか昔だった。
 学校に行くと、みんなが僕に無言の視線を向けてきた。教師も、ふざけあっていた友だちたちも。翔ちゃんや河名、橋本はこれまでどおり接してきてくれたが、しかし、僕は少しずつ無視するようになった。
 そして卒業式を迎えるまで、僕は孤立から抜け出せなかった。

 中学生になった。次第に父のいない環境にも慣れていった。
 新しい友だちができた。どれも違う小学校出身のやつらだった。翔ちゃんとは一言もしゃべらなくなっていた。クラスが離れているせいか会う機会もなかった。彼は将棋部、僕はサッカー部に入部した。
 中学校生活はそれなりに充実していた。入学当初はオリエンテーションが連日行われ、憶えなければならないことがたくさんあってとまどったが、日に日に体が適応していった。自宅よりも学校の中の方がかえって落ち着くようになった。酒に溺れていく母を見たくなかった。注意したけれど、だめだ。本人がこのままではいけないと思い直さなければ、絶対に酒からは逃れられないのだ。母の代わりに僕が掃除や料理をした。僕ががんばらなければ、そう自分に言い聞かせた。いつか母が立ち直ってくれるだろうと信じていた。
 あっという間に一年が過ぎ、二年生になるとゆとりが生まれた。塾には行っていないが、成績は平均より上だった。部活は、あまりボールを蹴らせてもらえなかった一年生のころとは違い、練習試合に出られるようになった。まだまだレギュラーとはいかないが、中学からサッカーをはじめたことを考えれば上出来だ。僕にはサッカーの才能があるのかもしれない。初瀬惣次みたいに下手ではないのだ。
 初瀬惣次――小学生のときに見た前世の映像は衝撃的だった。しかし父の死が飛び込んできて、慌ただしく日々が過ぎていったので、ちゃんと振り返ることがなかった。友だちに話してもばかにされるだけだった。だから僕は前世の記憶をどうでもよく思いはじめていた。遠い過去の記憶を思い出して、それがなんだと言うのだ。
 父が車に轢かれた日を最後に、長谷川クリニックには行っていない。暇があれば初瀬惣次の人生のつづきを見に行ってもいいが、ばったり翔ちゃんと会ってしまったらどうしようと考えると、億劫だった。彼は相変わらず扇子をパタパタさせながら笑って声をかけてくれるかもしれないが、きっと僕はうろたえるだろう。学校の廊下ですれ違うときでさえ気まずい感じになるのだ。もう昔みたいに仲よくはできない。
 ただ、河名愛とは関係がつづいていた。いっしょのクラスにはなったことがないが、ときどき彼女に話しかけられるのだ。眼鏡からコンタクトに代えた彼女は見違えるくらいかわいくなっていた。それに性格も明るくなっていた。休日、偶然街で出くわしたとき──僕は告白しようと決めた。ほかにも気になる子はいたけれど、河名が一番だった。
「愛」という名前に敏感になっていたせいかもしれない。前世についてはあまり興味がわかないものの、「愛」という名前を聞くたびに体が反応してしまう。
 前世で奥田愛子と早川愛美に向けられていた気持ちが、いまだに残っているのだろうか。前世の体験が影響しているのだろうか。
 中学校生活三年目に突入する前、春休みに、河名を公園に呼び出して告白した。まだ桜は咲いていなかった。彼女は二つ返事で了承してくれた。僕たちは恋人の関係となった。呼び名が「河名」から「愛」に変わった。
 愛とは三年目もいっしょのクラスにはなれなかった。だけど放課後は喫茶店で待ち合わせしたり、メールのやりとりをしたりした。毎週水曜日には彼女の母親が主婦同士の会合に出かけるため、家は空く。そのことを知ってからというもの、セックスは河名のうちでやるようになった。なんらかの事情で母親が帰ってくるかもしれないと危機感を持ちながら行うのは、快感だった。
 春には韓国に修学旅行、夏にはサッカーの県中総体で上位入賞、秋には文化祭で盛りに盛り上がり、冬は受験勉強に勤しんだ。普通の中学生が経験する日々を、それなりに楽しく消化していった。
 河名愛との時間も充実していた。公園でまったりと過ごしたり、買いものに何時間もつき合わされたり、ゲームセンターに行って騒いだり――幸福だった。しかし卒業式を迎えるころには、彼女に対する熱が冷めていた。会っても会話がはずまなくなった。話す話題がなくなったのだ。デートも単調になっていた。彼女の家に行き、セックスして、終わるとすぐに帰る――そのことに愛は不満を持っているみたいだった。僕は、そろそろ別れて新しい子とつき合いたいなどと思っていた。人はどんなものにも絶対に飽る。特別を特別だと思えなくなる。だから僕が愛に飽きたのも必然だろう。たいして罪悪感はなかった。
 僕はある日、母に頼んで犬を買ってもらった。断られるかなと思って覚悟していたけれど、意外にも母は了承してくれた──というか、酔っ払っていて、どこか投げやりな態度だった。とにかく一匹、家族が増えた。犬種は柴犬で、名前は好きなサッカー選手から取って、「ロッベン」。僕は癒しを欲していたのか、ロッベンを無性にかわいがった。暇さえあれば散歩に連れ出し空き地でボールを使って遊んだ。
 しかし心はどこか空虚だった。自分の居場所がわからないような、体の一部分が何かを追い求めているような──。

       八

 高校の入学式を三日後に控えていた。その日、僕は愛犬ロッベンを連れて多摩川沿いを散歩していた。ロッベンは雑草のにおいをかいだり、道端に落ちている菓子の包装紙に興味を持ったりしながら僕を牽引する。好奇心旺盛なやつだなぁ、と僕は苦笑した。
 午前の日差しが気持ちいい。ずっと向こうまでつづいている土手には、ジョギングする青年や肩を並べて歩く老夫婦の姿があった。僕はのどかなこの場所が好きだった。ときどき夜中に一人で来て川辺をうろついたりもする。
 そろそろ引き返そうかと思っていたとき、ロッベンが土手の石段に向かって軽く吠えた。そこを見ると、同い年くらいの女の子が座っていた。
 その女の子がこちらに振り向いた。ロッベンは早くも興味を失ったのか、道端に戻って綱を引っ張った。
 でも僕は歩き出すことができなかった。
 泣いていたのだ。目の前の女の子は、表情を変えずに泣いていた。細く濃い眉毛に、もの悲しげな目、きつく結ばれた唇。
 女の子は少しけげんそうに眉をひそめた。僕ははっとして我に返った。
「あ、いや……なんで泣いてるのかなって思って……」
 彼女は黙ったままこっちを見ている。
 自分がなぜ動揺しているのか、わからなかった。
「余計なおせっかい……だよね」
 沈黙が風に乗せられてやって来た。彼女の、背中まである長く茶色い髪が、ふわりと躍った。立ち去る機会を逃した僕は、相手の言葉を待ちつづけることしかできない。
 その犬……。射るような目つきのまま、彼女は口を開いた。感情のこもっていない、低い声だった。
 え? 僕はロッベンを一瞥してから、聞き返した。
「人に吠えるなんて、いったいどんな躾をしているのよ?」
 すぐには女の子の言葉がのみ込めなかった。彼女が石段を上がって僕の横を通り過ぎたとき、ようやくばかにされたのだと気づいた。
「人に吠えるのは犬の習性じゃん」
 僕は彼女に向かって言った。内心むっとしていた。
 彼女は無言で涙をぬぐいながら去っていく。
 ──なんだよ、あの女。むかつく。
 マンションに着くまで、今度は僕がロッベンを牽引した。

 多摩川沿いで会った「むかつく女」のことが頭から離れなかった。あの射るようなまなざしをずっと思い浮かべていた。むかつくにはむかつくけれど、なぜか気になってしかたがなかった。よくわからない倦怠感のようなものに見舞われ、僕は友だちの誘いを断ってまでして部屋のベッドから動こうとはしなかった。河名愛からも電話がかかってきたが出なかった。このごろメールでさえうっとうしくて返していない。ひどいかもしれないが──彼女と僕は違う高校なので──このまま連絡を取らず自然消滅になるのを待っていた。もう恋愛感情は無きに等しかった。
 いらいらしたり複雑な気分に陥ったりしているうちに、入学式を迎えた。
 指定された教室に行き窓側の席についた。式がはじまるまで待っていなければならないのだ。同じ中学校出身の者たちは楽しそうに雑談しているし、知り合いのいない者は大人しく席についている。僕は後者だった。中学校からの友だちは、このクラスにはいない。翔ちゃんもこの高校だけど、別のクラスだ。まあその方が気が楽でよかった。翔ちゃんといっしょの教室だったら、いやでも毎日顔を合わせなければならないところだった。またもとどおりの関係になれればいいのだが、関係を修復するまでのことを考えると億劫になってしまう。
「なあ知ってるか?」
 自分に向けられた言葉かと思い、顔を上げた。が、前の席にいる二人が話しているだけだった。
「このクラスに『ヤリマン』がいるんだぜ」
 右側の男がにやにやした顔で言った。髪を整髪料で逆立てた、気取ってそうなやつだった。かすかに香水の──たぶんスウィートフローラル系だ──においが漂っていた。マジかよ、と、僕の目の前の男が反応した。
「当ててみろよ」
「そうだなぁ……」
 ばかばかしいと思いながらも、僕は頬杖をついて聞き耳を立てた。
 あいつか、いや、違うなぁ、あの子かなぁ……。目の前のニキビだらけの男は真剣に女子を吟味している。ヤリマンが誰だかわかったからってどうするんだよ、と僕は笑いをこらえながら思った。
 右側の男子がにやりとして、前方を指さした。
「あいつだよ、あの茶髪の女」
 僕はつられてそこを見た。
 心臓が飛び跳ねた。廊下側の一番前の席にいる女に見覚えがあったからだ。後ろ姿だけでも、一目でわかった。間違いなく、三日前の、あの「むかつく女」だった。
 目の前の男子は中腰になり、
「マジで! 結構かわいいじゃん。……でも、なんか暗い感じがするよな」
 右の男子が微苦笑する。
「あいつすごくじめじめしてんだよ。中学で同じクラスだったときがあるんだけど──あいつ、いつも孤立していて、休み時間なんかずっと本を読んでるんだ。はっきり言って薄気味悪かった」
「それで、なんでヤリマンなんだよ」
「俺、放課後に忘れ物をして教室に戻ったんだ。そのとき、廊下のトイレから、男と手をつないで出てくるところを見たんだ」
「それだけ?」
「……まだつづきがある」
 右の男子が少し語調を強めた。なかばムキになっているようにも見える。
「体育館に後輩を連れて入っていくところを見たし──とにかく、そういうのを、いろんなところで目撃したんだ」
 おまえの方が薄気味悪いって、と、僕は内心で突っ込みを入れた。そいつの名札を見ると、「楠田」と書かれていた。僕はなぜか楠田に反感を持った。殴りたい──そんな衝動に駆られた。
「それじゃあ、体育館に移動します。みんな、廊下に並んで」
 教師がやって来た。まだ三十代前半の、若い教師だった。髪は短く、スーツをきっちりと着こなしていた。僕はなつかしさのようなものを感じたが、その教師に見覚えがあるとは思えない。
 みんな腰を浮かせぞろぞろと廊下に出ていった。僕は楠田の背中をにらみながらも、少しずつ気持ちを落ち着かせた。

 体育館の壇上では校長が新入生に向けて激励の言葉を述べていた。僕はあくびを噛みしめうつむいたまま聞き流した。母は今ごろパートに精を出しているだろう。昨夜、入学式には行かなくてもいい? と聞かれた。父がいたとき──ホームドラマの一役を演じていたときの彼女からすれば、のちに自分がそんなことを言うなどとは思いもしなかっただろう。今の母は底辺まで落ちているのだ、と思った。
 僕たちはまた教室へと戻った。やがてさきほどの教師が入ってきた。ざわざわしていた教室が静かになった。
 教師はホワイトボードに紙を貼りつけて、
「まずは、ここに書かれているとおりに座ってください」
 僕は自分の名前が書かれている席をたしかめ、その席に腰を下ろした。どうやらあいうえお順に並べられているようで、僕は廊下側の一番前になった。あの「むかつく女」が座っていた席だった。
 そこで、あの女はどこだろうと思い、後ろを振り向いた。彼女はこの列の最後尾にいた。目が合った。相変わらず鋭いまなざしだった。僕はとっさに視線をそらした。気づかれたか? と、どきどきした。三日前に会ったことを憶えているだろうか。
 ホワイトボードの紙を見て、彼女の名前を調べた。
 ──宮崎初美。
 僕はその名を反芻し、とたんに恥ずかしくなった。なんであの女のことを気にしてるんだよ、と自分自身に怒鳴った。
 教師のせき払いが聞こえた。
「えー……このクラスの担任を任されることになりました、近野朋泰と言います。よろしくお願いします」
「センセー、ちょっと堅苦しくない?」
 一人の女子が砕けた口調で言った。
「そうだな」
 担任の教師は、打って変わって表情を和らげた。子どもっぽい、無邪気な笑顔だった。
「いつも緊張するんだよ。こういう日は」
 場の空気がゆるやかになった。周囲が少しざわついた。
 僕は今、何かが引っかかっていた。以前どこかであの教師の笑顔を見たような気がする。それに、近野朋泰という名前を、僕は知っていた。
「先生、もてるっしょ?」
 窓際にいる男子が言った。
「よくわかるなぁ。俺、すっごいもてるんだよ」
「謙遜しろよ、って言っても──やっぱ先生、格好いいもんなぁ」
 二人のやりとりに教室中がどっと沸いた。
 あっ! と、僕は無意識のうちに声を上げていた。とたんに静まり返り、みんなの視線が僕に集中した。
 僕は顔に熱を感じつつ、閉口した。
「えーと、久野君、だっけ?」
 教師は少し困惑した様子だった。
 はい、と僕はいちおう返事をした。もしかしたら、「あのときの少年だな」と言われるかもしれないと思い、僕は身構えた。
「そんなに似てるかな」
「は?」
「竹野内豊に!」
「先生、調子に乗りすぎ」
 誰かが突っ込みを入れた。
 ──なんだよ、憶えてないのか。
 小学校六年生のころ、僕は市民プールの踏み台から飛び降りて、危うく溺れ死ぬところだった。そこにたまたまいた、今目の前にいる教師に助けられたのだ。だから彼の顔を見た瞬間なつかしさを感じ、近野朋泰という名前を知っていたのだ。
 人と人はどこでどういうふうに交差するかわからないものだ。僕はそのことを無性に言いたくなったが、結局口をつぐんだ。

 大量のプリントが配られ早くも散開となった。僕は近野先生のところに行こうとしたが、女子たちが彼のまわりに集まってきたので、諦めた。
 僕はふとあたりを見まわした。宮崎初美の姿はどこにもなかった。もう帰ってしまったのだろうか。今から追えば捕まえられるかもしれないが、そこまでして三日前のことを蒸し返す気にもなれない。
 本当はロッベンは賢い犬なんだ、と僕はぶつぶつ言いながら下駄箱に行った。靴の紐がほどけていたので、僕は板張りの床に座って結んだ。生徒たちがドラマやバラエティ番組の話題を言い合いながら去っていく。
 横に靴が置かれた。反射的に顔を上げると、そこには翔ちゃんがいた。僕は、すぐにはリアクションがとれなかった。
 座っているのが僕だと気づかなかったのか、
「よ……よお」
 翔ちゃんはぎくしゃくしていた。
「ひさしぶり」
「ひさしぶり」
 僕も同様の言葉を返した。これでは、別れて数ヶ月後に街角でばったり出くわしたもと恋人同士みたいじゃないか、と思った。
「なんかさぁ」
 翔ちゃんは後頭部をかきながら、
「ひさしぶりに会ったもと恋人同士だよな、この感じ」
 僕は一拍おいてから、噴き出した。
「僕も今そう思った」
 彼も笑った。僕たちは笑い合った。
 こんなものだったんだ、と、僕はほっとした。二度と話せないようないやな感じがつきまとっていたけれど、実際は違った。ちょっとしたきっかけさえつかめればなんてことなかったのだ。
 僕と翔ちゃんは校舎を出ると、三年ぶりに歩調を合わせて歩いた。昼の日差しが、やけにまぶしい。立ち並ぶ常緑樹の影が歩道に落ちていた。
「……翔ちゃん」
 僕は、この機会に謝ってしまおうと決心した。
「ごめんな」
「なんだよ、いきなり」
「親父が死んでからさ、誰とも話したくなくなって。それで、みんなを避けてた。同情されるのがいやだった……」
「わかってるって、今さら言わなくても」
 翔ちゃんは屈託なく笑った。
 僕は押し黙った。
「まあ、こうやって話せるようになったんだし、結果オーライだよな」
 翔ちゃんはズボンのポケットから扇子を取り出した。
 まだ持ってるんだ、それ、と僕は言った。
「おう。なんか、昔から扇子が好きなんだよな。こいつのおかげで将棋の大会でもいい線いったしな」
「扇子と腕前は関係ないじゃん」
「違うんだよなぁ、これが。扇子をぱたぱたさせていると、なんていうか、引き締まるんだよ」
「そんなもんかな」
「そんなもんだよ」
 翔ちゃんは扇子の先で顎をつつきながら、
「つーか、『翔ちゃん』って言われるのは、なんか照れくさいなぁ。今は誰も言わねぇし」
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
「まあ普通に、長谷川とか翔太とかじゃねぇの?」
「うーん……」
 翔ちゃんとの時間の感覚が何年も止まっているままだからか、僕の中では「翔ちゃん」が一番合っていた。
 別れ道に差しかかったけれど、名残惜しかった。しばらく立ち止まって話していたけど、埒があかないと思い、僕は「翔ちゃんちに行っていい?」と聞いた。
「いや、俺んちはだめ。今、おふくろが風邪ひいてるから。潤のうちに行こうぜ」
 僕は慌てて首を振った。
「なんでだよ。ひさしぶりなんだから、いいじゃん」
 翔ちゃんは僕のマンションに向かって歩き出した。

       九

 鍵を開け、玄関に入ると、翔ちゃんが眉をひそめた。僕の鼻は慣れてしまっているが、この部屋に入った者はすぐに異臭に気づくだろう。
「なんか、かすかに変なにおいがしねぇ?」
 翔ちゃんは鼻をひくひくさせた。
「上がってみればわかるよ」
 僕はリビングのドアを開けた。隠し事をしたっていつかはバレるのだから、だったら話しておこう、と思った。ロッベンが尻尾を振りながらやって来た。僕はエサの準備をしつつも翔ちゃんの反応をうかがった。
「なんだよ……これ」
 リビングに足を踏み入れた翔ちゃんは憮然としている。
 カーテンが閉められていて、薄暗く、ごみごみとしていた。ゴミ出しの日を逃した透明なゴミ袋と洗濯していない服が隅に追いやられ、テーブルの上にはウィスキーの瓶が琥珀色の液体を残したまま置かれている。絨毯にはスナック菓子や枝豆が散らばっている。また散らかしたのか、と僕はため息を漏らした。
 全部、母の仕業だ。母は最近、立ち直らないといけないと思ったのか、自分で料理をするようになった。しかし、残り物をうまく処理せず、派手に散らかしてしまうのだ。
 母は、たぶんアルコール中毒に陥っている。僕は思うんだけど、父の死からは立ち直っている――でも、アルコールに犯されているから、こんな生活から抜け出せないのだ。
 僕は翔ちゃんを自分の部屋に招き入れ、父が死んだあとのこと、母が堕ちていったことを包み隠さず話した。
 今までにも誰かに聞いてほしいときがあった。でも言えなかった。友だちはいるにはいるが薄っぺらい関係だ。グラビアアイドルやサッカーの話題で盛り上がったり、誰と誰がつき合っているか予想し合ったりという、空騒ぎを繰り返すだけで、真剣に話し合ったり、熱くなったりする瞬間なんて一度もなかった。しかし──しかし、今は違う。ばかみたいに真面目な態度で僕は翔ちゃんに話していた。
 翔ちゃんはフローリングの床に向けていた視線をゆっくりと上げた。
「お母さんのこと……もしいやじゃなかったら、俺の親父に頼んでみようか?」
「いや、いいよ。うち、そんな金もないしさ」
「金なんて心配すんなって」
「それに、さ。あまり認めたくないんだよ。自分の母親が狂ってるなんて」
 狂ってる。自分で言っておいて、少し目がうるんだ。翔ちゃんから顔をそむけ、言葉を継ぐ。
「母さんは、アル中かもしれない。普通じゃないとも思う。でも、狂ってはいない」
「そりゃそうだよ。狂ってる人間なんて一人もいない。俺の親父も言ってる。うちに来る人たちは、ただたんに、ほかの人よりも少し繊細なんだ、って。だから、潤の母ちゃんは繊細な人なんだよ」
 翔ちゃんは扇子を広げたり閉じたりしながら言った。
「診てもらいたくなったら、いつでも言ってくれよ。まあ、うちの親父じゃなくても、いいクリニックはたくさんあるから、そこに行ってもいいし」
 僕は、ああ、とうなずいた。彼は照れくさそうに笑って、扇子の先っちょで後頭部をかいた。
 湿っぽくなったので、僕は話題を変えた。
「そういえばさ、翔ちゃんのお父さんは前世療法の研究をつづけているの?」
「ああ、もう実践に移してる。退行催眠を受けたいっていう患者はまだまだ少ないけど、それでもけっこう予約が入ってる」
「やっぱり、みんな自分の前世が気になるんだな」
「興味本位で申し込んでくるやつもいるけど、大半は、今の悩みを解決するためにだよ。前世にさかのぼらなければ直らないほど、根強く残っているトラウマを抱えている人がいるからな」
 翔ちゃんはジュースを呷ってから、
「潤はもう受ける気ねぇの?」
「まあ、気にはなってるけど……」
「だったら、もう一度、退行催眠を受けてみろよ。まだ思い出していない人生があるんだろ?」
 思い出していないのは、初瀬惣次の人生だ。文化祭の日、早川愛美とキスをした。あれからどうなったのか、それを知りたい欲求がわいてきた。前世のことなんてどうでもいいと思っていたはずなのに……。
「水に対する恐怖はどうだ? 治った?」
 うん、と、僕は前世の記憶を振り返りながら答えた。
「僕が、初瀬惣一っていう人のとき、恋人の奥田愛子といっしょに崖から飛び降りたんだ。海に向かって真っ逆さまに。たぶん、それが水恐怖症の原因だったと思う。それを思い出してからはよくなったよ」
「なるほどな……。じゃあ、バス恐怖症はどうだ?」
「それはまだ治ってない」
 修学旅行のとき、やはりバスには乗れず、僕だけ教師の車で移動した。あのときは、みんなにさんざんばかにされた。
「もしかしたら、まだ見ていない前世に問題があるかもしれないな」
 翔ちゃんはパンと扇子で膝を打った。
「よし、決まり。もう一度前世を見てみろ。真実を明らかにしようぜ。親父もさあ、適当な性格のくせに、尻切れとんぼのままはいやなんだよ。あれからずっと潤が来るのを待ってるんだぜ」
 クマ先生は本当にいい人だ。勝手に投げ出した僕を待ってくれているなんて──悪いことをしたな、と反省した。
「じゃあ診てもらおうかな。親父さんによろしく伝えといてよ」
「ああ、わかった」
「──でも、軌道に乗ってよかったね」
 僕は、小学校のときの、家計が苦しいと嘆いていた翔ちゃんを思い出した。
「長谷川クリニック、評判、いいじゃん」
「いやー、まだまだだって。……前世療法っていうものを理解していない人、多いし。うちが前世療法をはじめたときだって、変な目で見られたもんよ」
「だったら、ホームページでもつくって紹介してみたら?」
「どういうことだよ」
 翔ちゃんは身を乗り出してきた。
「長谷川クリニックをネットで広めるんだよ。そこに前世療法の解説を入れ、掲示板とかを設ける。患者同士がコミュニケーションするところでもいいし、前世療法を受けてこんなふうに変われました、っていう書き込み場所でもいい。そうしたら、これから長谷川クリニックに行こうかどうかためらっている人たちの不安をいくらか取り除けると思うんだ。だって、前世療法なんて言われたってぴんとこないじゃん」
「へぇー、さすが潤だ。頭いいな。さっそく親父に言ってみるよ」
「まあね」
 僕は胸を張ったが内心では、すでにやっているサイトを言っただけなんだけどな、とつぶやいた。
 翔ちゃんはあたりを見まわした。
「おっ、小説が増えてるな」
「もうサッカーをする気にはなれないし、唯一つづけていることと言ったら、読書ぐらいだよ」
 そこで僕のケータイの着信音が鳴り響いた。尻ポケットから取り出し相手の名前を確認した。河名愛だった。僕はため息をつき、着信を拒否した。せわしなかった音が急に鳴りやんだ。
「なんだよ?」
 翔ちゃんがふしぎそうに言った。
「いや……愛からだったから」
「ああ、おまえらつき合ってるんだよな。なんで切っちまうんだよ。俺にかまわなくていいからさ、出てやれって」
「いや、いいんだ」
 翔ちゃんが眉間にしわを寄せた。
「うまくいってないのか?」
「翔ちゃんって昔から勘が鋭いよね」
「はぐらかすなよ」
 僕はうつむいた。愛はぜんぜん悪くない。関係を壊そうとしているのは僕の方だった。
「……実は、別れようと思ってるんだ。でも、愛に明るい笑顔で来られると、どうしても言えなくって」
「理由はなんだよ。ほかに好きな子でもできたのか?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、どういうわけだよ」
 僕自身、明確な理由がわかっていない。河名愛には何かが欠けている、それしか言えなかった。
「まぁな、俺がなんだかんだ口出ししてもしょうがないよなぁ……」
 翔ちゃんはのんきな声で天井を仰いだ。
「でもよぉ、河名はなかなかいいと思うぜ」
 春のうららかな日差しが窓を透かして部屋を照らしている。また着信音が鳴り響いた。僕は相手を確認しないまま、ケータイの電源を落とした。

       十

 翌日、ひと騒動あった。
 学校に行くと、教室の手前に数人の男子生徒が集まっていたのだ。みんながわいわい騒ぎ立てていた。僕は教室に入るとき、「あいつかよ」とか「俺もやりてぇ」とかいう声を耳にした。みんな宮崎初美を見ながらしゃべっているようだった。当の本人は意に介していない様子で机をにらみつけていた。窓際にいる楠田が仲間とともに笑っていた。入学式の日、宮崎を「ヤリマン」と吹聴していたやつだ。
 僕は、そういうことかと思った。と同時に怒りが込み上げてきた。そして、なぜ? と疑問が浮かんだ。なぜ僕が怒らなければならないのだ?
「何やってんだ」
 と、威厳のある声が飛んできた。廊下の向こうから担任の近野がやって来ていた。
 別になんでもないでーす、と、一人の男子がふざけた感じで言った。まわりのやつらもにやにやしている。近野は状況を把握しようとあたりを見まわした。僕と視線がかち合った。
 近野は教壇へと向かいながら、
「誰か事情を説明してくれないか」
 返事は返ってこなかった。みんな黙ったままだった。重苦しい空気が漂っていた。近野は終始詰問口調だったが、結局誰も口を割らなかった。

 それから三日が経ち、宮崎初美のヤリマン疑惑はとなりからまたとなりのクラスへと広まっていった。とくに男子はいやらしい目で宮崎を見るようになり、女子は彼女を避けるようになった。宮崎は歯牙にもかけないといった感じで平然としていたが――かえって僕の方が静かにいら立っていた。
 宮崎初美の過去も、自然と耳に入ってきた。彼女は小学生のときは明るかったそうだ。誰とでも話をするし、勉強もでき、運動会ではリレーのアンカーを務めたりもしたらしい。しかし小学校の卒業式を迎える日、両親が死んだ。交通事故で。その日を境に、彼女は変わった。誰とも話さなくなったのだ。周囲から孤立し、人を拒絶するようになった。母方か父方かはわからないが、祖父母が彼女の実家に住んでいた。彼女は、その祖父母だけには心を開いていたらしい。
 僕が彼女の境遇について最初に抱いた感想は、似ている、だった。親の死、それから孤立の日々──。
 はじめて会ったとき、あの日、彼女は妙に覚めていた。年齢と表情がちぐはぐで、違和感があった。だけど今ならわかる。僕も一度味わっているからだ。親の死によって歯車がずれて、「当たり前」が遠ざかり、まわりの人たちをいとわしく思い、空っぽの心にときどき黒い液体が流れ込むあのいやな感じ、を。
 その日の放課後、校門の近くで翔ちゃんといっしょになった。
「ひでぇよな。俺のクラスも宮崎の話で持ちきりだぜ」
 翔ちゃんは顔をしかめた。
「ヤリマンなんてデマに決まってるって」
「証拠があるのかよ」
 別に、ないけど……。僕は押し黙った。なんで意地になって否定しているのか、自分でもわからなかった。
 ふーん、と翔ちゃんは含みのある声を出し、意味深なまなざしをこちらに向けてきた。
「それよりさ」
 僕は慌てて話をそらす。
「前世療法は、いつやってくれるの?」
「ああ、来週の日曜日でいいか? 親父、このごろ忙しかったけどさ、休みを返上して潤のためにやってくれるって」
「なんか、悪いね。急がなくても、いつでもいいのに」
「気にすんなって」
 空を見上げると、分厚い雲が漂流している。だらだらした午後にまどろんでしまいそうだ。
 と、前方から気色悪い、引きつった笑い声が聞こえた。おまえって最低だな。嘘だったのかよ。楠田を挟んで、二人の連れが楽しげに声を上げている。狭い道を堂々と横一列に並んで歩いている。
「でも、ヤリマンのエピソードは笑えるだろ?」
 楠田が歯をのぞかせながら言った。
「そりゃ笑えるけどさぁ、本人にとってはいい迷惑だぜ。そのせいでみんなの注目を浴びるはめになったんだから」
 左側の男子生徒が、ナイロン制のバッグを楠田の尻に軽くぶつけた。
「ていうか、がっかりだよ。あの子がヤリマンって聞いたときは、俺、犯してやろうと思ったのに」
 楠田は左右に視線を配ってから、
「おまえら、宮崎初美とやっちゃってもいいぜ。俺が許す。つーか、三人でやっちゃおうぜ。あいつ、チクッたりしねぇし」
 三人はげらげらと笑った。
 どういうことだよ。翔ちゃんは訝しげな声を漏らした。
 たちまち僕の頭の中で糸が何本かぷつりと切れた。自制が利かなくなった。
「おい、潤!」
 翔ちゃんが叫んだ。
 気づけば僕はバッグを投げ捨てて楠田に飛びかかっていた。馬乗りになり相手の顔面を殴った。何発も。楠田は抵抗を見せたものの、次第に体の力がなくなるかのようにぐったりしていった。僕は呻きとも喚きともつかない声を発しながら拳を振り下ろしつづけた。
「やめろって!」
 翔ちゃんに羽交い締めにされた。僕は勢い余って尻餅をついた。右手が痺れていた。とたんに何が起こっていたのか、わからなくなった。僕は空白のまま、目の前に横たわっている楠田を見つめた。彼の口からは血が流れていた。顔の半分をゆがめ、痛みに耐えているようだった。そばにいる楠田の連れは文字通り固まっている。
「何やってんだよ」
 翔ちゃんに激しく肩を揺さぶられた。
 僕は荒々しく呼吸することしかできない。空の青と銀杏の葉の緑色がやけに鮮明で、建物や車や人がぼやけて見えた。腰が抜けたのか、しばらくは立ち上がれなかった。

 僕はおぼつかない足取りでマンションまで帰ってきた。どうやってここまできたのだろう。はっきりとは憶えていない。二人の連れに支えられる楠田、僕をなだめる翔ちゃん──それだけの記憶しかなかった。
 あそこまで感情を露わにした自分がおそろしかった。宮崎初美のことになると理性があやふやになる。
 潤一君。僕を呼ぶ声がした。顔を上げると、郵便受けの整列したエントランスに河名愛が立っていた。学校帰りらしく、制服姿で、スクールバッグを提げている。
 僕はかまわず愛の横を通り過ぎた。かすかにいら立ちが残っていて、それを彼女にぶつけてしまいそうで怖かった。エレベーターに乗り込むと、愛もついてきた。僕はため息をついた。まだ両手がふるえていて、うまく動かせそうになかった。扉が閉まり、長方形の箱が上昇していく。階数表示板の数字がとなりからとなりへと移っていく。
 エレベーターから降り、自宅に向かった。バッグから鍵を取り出しドアを開け、後ろ手に閉めようとしたときだった。潤一君、と、愛はまた僕の名前を呼んだ。ひっぱくした声だった。
「何?」
「……ちょっとお邪魔してもいいかな? いろいろと話したいことがあるから」
 僕は断ろうと思った。一人になりたかったからだ。それに、廃れた家の中を見られたくなかった。
 と、細めに開いたドアの隙間からロッベンが出てきた。ロッベンは舌を垂らしながら愛に向かって無邪気に吠えた。愛は、どうやら歓迎されているみたいだ。
 彼女はロッベンを胸に抱き寄せて、
「なんていう名前?」
 と僕に聞いた。
「ロッベン。サッカー選手の名前なんだ」
 追い返すタイミングを失った僕はしかたなく答えた。
 ロッベンにエサを与えてから、冷蔵庫にある缶ジュースを二つ自分の部屋に持っていった。その一つを愛に差し出す。僕はベッドの縁に座り、プルタブを引き起こしジュースを喉に流し込んだ。愛は床に座ったまま缶ジュースを大事そうに持っている。
「で、用件は?」
 しばらくして僕は話を切り出した。
 机に置かれた卓時計の秒針がひとまわりしたあと、愛はやっとジュースを飲んだ。そしてあからさまに吐息をついた。
「ひどいよね。ひさしぶりに会った彼女に『用件は?』、だって」
 僕はむっとした。
「だから、何?」
「最近電話に出てくれないし、メールさえ返してくれない。私のことを避けてる。その理由を聞きたくて……」
 これを機に別れを告げようと思った。しかしそれを言う気力がどこにもなかった。疲れでもだるさでもなく、うまく表現できないものが、体を縛っていた。卑怯だけど僕は沈黙に身をゆだねた。
「あのさぁ」
 愛は缶ジュースに視線を向けたまま、
「私って、そんなに魅力ない?」
「何、いきなり」
 僕は力なく笑った。頬が痙攣した。彼女がそんなことを言うなんて思ってもみなかった。
「嫌いになったんでしょ? 私のこと」
「違うよ」
 いら立ちが体内で波打った。静まれ、静まれ、と言い聞かせる。
「ほかに好きな人ができたとか」
「違うって」
 ──静まれ、静まれ。
「じゃあ、なんで!」
 愛は決然と立ち上がり、僕の前に歩み寄ってきた。眉毛が垂れ下がり、目は泣きそうだった。
「愛は魅力的だよ。ただ──」
 何かが欠けてるんだ、と言おうとしたが、それは「嫌い」より、「ほかに好きな人ができた」よりも最低な言葉だった。僕はためらった。
「ただ、何? 私のどこが悪いの」
「どこも悪くないよ」
 僕はまた力なく笑い、また頬が痙攣した。
「嘘だ。不満があるから、だから私を避けてるんでしょ」
 僕は本棚の上に缶ジュースを置き、まじまじと彼女を見つめた。丈の短いスカートから健康的な太ももが露出していた。
 僕はそこを見た瞬間──意識した瞬間、どろっとした黒い液体が胸に流れ込んでくるような感覚を味わった。衝動的に愛の腕をつかみ、力ずくで抱き寄せた。彼女は何かを言ったがうまく聞き取れなかった。リビングの方からロッベンの鳴き声がした。僕は彼女の唇に自分の唇を重ねた。
 河名愛にこのいら立ちをぶつけたくなった。ある意味、暴力だった。楠田に向けた憎悪と変わらないような気がしたが、止められなかった。僕は愛の制服の裏側に手をすべり込ませた。彼女は僕の腕をつかんで抵抗したが、弱々しかった。
 いや、弱すぎた。
 僕は愛が本気で拒否していないことを悟った。とたんに、覚めた。
 愛は涙を流していた。泣きながら、ほほえんでいた。
「……してもいいよ」
 僕は罪の意識を感じた。愛の鼻をすする音が聞こえた。
「また会ってくれるよね?」
 ずきずきと胸が痛みはじめた。

       十一

 河名愛は僕の返事を待たずに帰っていった。
 僕はなんであんなにもいら立っていたのかを考えた。楠田に向けた底知れない憎悪に自分自身とまどっているからだろうか? それもあるかもしれない。でも、根本的な原因は宮崎初美だ。彼女の存在が僕を混乱させているのだ。なぜかはわからない。頭を抱えても、困惑は深まるばかりだった。
 いつの間にか窓の外は暗くなっていた。僕はボロボロの財布を尻ポケットに突っ込み、ロッベンに「散歩に行くぞ」と呼びかけ、マンションをあとにした。
 冷蔵庫を見たときに酒とジュースしか置かれていなかった。僕は今夜はコンビニの弁当ですますつもりだ。ついでに母さんの分も買おっておこうかと思ったが、余計なおせっかいだと言われるかもしれない、そう思い直した。
 コンビニの手前の柵に綱をくくり、ロッベンに「大人しく待っとけよ」と命令してから店内に入った。店内には雑誌コーナーで立ち読みをしている若者と、陳列棚を見てまわる女性だけしかいない。ドックフードは買い置きしてあるよな、と僕はひとりごちてから、新発売のジュースと賞味期限間近の安い弁当を買った。
 また外の暗がりに出た。マンションの方向に足を進めていたが、途中で、ふと立ち止まる。ロッベンと目が合う。そうだよなぁ、と、僕は飼い犬に話しかけた。このまま帰ってもしょうがないよなぁ。
 ロッベンは舌を垂らしはずむように息をしている。つぶらな瞳は、もう少し歩こうよ、と訴えていた。飼い主である僕にはそう感じられた。
 僕は方向転換して、馴染みのない路地に入っていった。迷ったら迷ったときのことだ、そうつぶやきながら。
 夜空を仰ぐと、満月にはもう少し足りないかたちの月が出ていた。路地を抜けて多摩川へと向かった。右手にテニスクラブが見える。照明は点いていて、まだテニスに興じている人が何人かいた。
 すると、ロッベンが一声吠えた。土手の石段に女の子が一人、座っていた。既視感というよりも、ああ、まただ、と僕は思った。
 女の子はあの日と同じ――Gジャンにツイードのスカートという出で立ちだった。今日は泣いていないようだ。
「こんばんは。……奇遇だね」
 僕はいちおうあいさつをした。
 宮崎初美はぽかんと口を開けていた。が、すぐに無表情に変わり、ロッベンを見た。
「犬の散歩?」
「まあ、ここで晩ごはんを食べようかなと思って」
 僕はコンビニの袋を掲げて言った。
 彼女はうなずき、じゃあ、と言葉をつづけた。
「じゃあ……ここに座る?」
 うん、と僕は返事を返した。
 ロッベンを連れて彼女の横に座ると、どういうわけか心臓の動きが活性化した。沈黙がいやだったので、僕は袋から弁当とジュースを出しながら宮崎に話しかけた。
「ここにはよく来るの?」
「たまに。気分が安らぐから」
 宮崎は前方の暗澹とした川に目を向けたまま答えた。
「僕もそう、同じ理由でここに来るんだ」
「ふうん」
 予想していたとおり、静寂が流れはじめた。彼女は僕と会話する気がないのだろうか。いったい何を考えているのだろう。僕には理解できなかった。
「右手」
 彼女はとうとつに言った。
「痛くない?」
 口の中にごはんをたんまりつめ込んでいた僕は無言で首を傾ける。
「楠田君をあんなに殴って、痛くない? ってこと」
 どきっとした。慌ててジュースを飲んだ。
「もしかして、見て……た?」
「うん、反対側の歩道から見てた」
 彼女の口調はニュースキャスターのようにたんたんとしている。
「それで、なんでケンカしてたの?」
 僕は言った方がいいのか言わない方がいいのか逡巡した。
「たぶん……」
 宮崎は目を伏せ、あたしに関係あることでしょう? と言った。
 不愉快な話をするのは好きじゃないけど、相手が気づいているのなら言おう、と僕は腹をくくった。
「あの……変な噂が立ってるじゃん。あれ、嘘だろ?」
 彼女は無言でうなずく。入学式の三日前、はじめて会ったときの反発するような態度は、今は感じられない。
「楠田が、あいつが言いふらしたっていうことがわかったから、だから、殴った」
「なんで? 君には関係ないじゃん」
 僕は一瞬言葉につまったけれど、
「あいつ、生理的にむかつくし」
 と、ごまかした。
 ふうん、と彼女は言った。納得しているのかもしれないし、納得していないのかもしれない。
 対岸の道を自動車の赤いテールライトが流れていった。風が土手の雑草を小さく揺らす。しんしんとした夜だった。
 僕は辛抱強く宮崎の言葉を待った。しかし彼女が何かを言いそうな気配はなかったので、その間に弁当を平らげた。ロッベンはうずくまったまま眠たそうに目をとろんとさせている。
 ありがとう、と、聞こえた。僕ははっとして顔を上げた。
 宮崎はこちらを見ていた。意外にもほほえんでいた。
「いちおうお礼を言っておかないとね」
 彼女の笑顔をはじめて目の当たりにした僕は、とてもどきどきした。笑うんだ! と思った。
「あの日、あたし泣いてたよね」
「うん」
 僕はあのときの宮崎と今の宮崎を頭の中で比べてみる。ぜんぜんダブらない。
「あのとき――よく家にいたずら電話がかかってきていたの。だから家を出てここに来てたの」
「いたずら電話って……もしかして、あの噂のせいで?」
「あの噂はね」
 彼女は言った。
「あたしが楠田君を振ったから、それで怒った彼が流しているのよ」
「なんだよ振られたぐらいで……あいつほんとに最低なやつだな」
 僕は顔をしかめた。また楠田を殴ってやりたかった。
「いい断り方をしなかったあたしも悪いんだけど」
「悪くないって。宮崎はぜんぜん悪くない!」
 僕は楠田への怒りを感じながら吐き捨てた。ロッベンの耳がぴくっと動いた。
 宮崎の顔を見ると、彼女は手を口もとに軽く当てくつくつと笑っている。僕は恥ずかしくなって、なんだよ、と聞いた。別に、と含みのある返事が返ってきた。
 雲が流れて月を隠す。素朴な疑問なんだけど、と、僕は言った。
「どうしてクラスのみんなを避けてるの?」
 宮崎は真顔に戻り、少し首をかしげた。長い茶色の髪が肩から落ちた。
「……あたしの両親が死んだこと、知ってる?」
 僕は首肯した。そっか、と彼女はうなずいて話をつづける。
「お父さんもお母さんもいなくなってから、誰とも接したくなくなったの。会話なんてしたくもなかった。そっとしておいてほしかったんだ」
 わかる、僕も同じだから。心の中でそうつぶやいた。
「そんな脱力感みたいなものが中学に上がってからも、しばらくつづいた。でも時が経つに連れて悲しみも薄らいでいって――いつの間にか両親の死が『当たり前』になっていた。家に帰ると、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんもいるし」
 でもね、と言いながら彼女はうつむいた。どこかに沈み込んでいくような顔つきだった。
「そのときには、もう、あたしは完全に孤立していた。誰も近寄ってきてくれなくなっていた。それで、ずるずると今日に来てしまったってわけ」
「自分から話しかければいいじゃん。友だちならわかってくれるって」
「あたし、意地っ張りだから」
 宮崎はくすっと笑い、立ち上がった。ロッベンが目を覚ました。くぅん、と悲しそうに鳴いた。もう少し彼女といたいのだろう。もしかすると、飼い主の僕まで同じ表情をしているかもしれない。
「じゃあね」
 彼女は小さく手を振り、身をひるがえして立ち去っていった。
 宮崎の姿が見えなくなってからも、僕はぼうっと──まるでヒューズの飛んだ家みたいに──立ちつくしていた。できれば、まだまだおしゃべりをつづけていたかった。彼女のことを一つでも多く知りたかった。ほかにどんな表情を見せてくれるのか知りたかった。そして僕のことも知ってほしかった。

       十二

 楠田が学校を休みはじめて一週間が経った。不登校の理由は――みんなに白い目で見られるようになったからだ。
 多摩川沿いで宮崎初美と会話したつぎの日、僕はクラスメイトに楠田の仕出かしたことを話した。楠田は宮崎に振られ、だからデマを流したのだと。そして楠田が陰湿で卑劣なやつだという噂はどんどん学校中に伝播していった。楠田は非難の的となり、教室にいられなくなったのである。自業自得だからしょうがない。
 でも、宮崎初美は友だちをつくろうとはせず、滅多に自分の席から動かない。休憩時間には書店のカバーがつけられた本を読み、僕を見てもあいさつの一つさえしてくれない。まだ意地を貫き通すつもりなのだろうか。多摩川沿いでたくさん話したし笑顔も見せてくれたのに──僕だけには心を許してほしかった。

 学校が終わると、僕は思いきって宮崎のあとをつけてみた。二人だけの空間ができればまた僕に話しかけてくれるかもしれないと考えたからだ。
 宮崎は蛇行した道をゆったりとした歩調で歩いている。画家が雲を描き忘れたような青い空が頭上に広がっている。人通りのない並木道に差しかかり、僕は、ここまで来ればだいじょうぶだろうと思い、おーいと声をかけた。彼女はぴたっと立ち止まり、こちらを向いた。顔は相変わらず無表情だった。
 僕は駆け寄り、
「家はこっちの方?」
 とたずねた。なるべく自然体を装った。
 宮崎は軽くうなずき歩みを再開した。あの日みたいにすんなりとはいかないなと焦りを感じながらも、僕は思いつくままにしゃべった。
「髪、染め直したんだ?」
「お祖母ちゃんがパーマ屋やってるから」
 へぇ、と相槌を打ち、僕は言葉を継ぐ。
「制服の方はお洒落しないの? スカート、かなり長いし」
 ずっと疑問に感じていたことだった。彼女のスカートはいくらなんでも長すぎる。一昔前の女番長みたいだ。今どきそこまで丈を長くしている子はいないから、かえって浮いて見える。どうでもいいと言えばどうでもいいけれど、一所懸命、話題を探している僕はついそんなことまで質問したのだ。
 宮崎はちらっとこちらに視線を配ってから言った。
「……足を出すのは好きじゃないから」
 また会話が途切れた。僕は居心地の悪さと、でも彼女のそばにいたいという感情を同居させたまま歩を進めた。
 そのとき僕を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、翔ちゃんが反対側の歩道からこちらに渡ってきているところだった。
 翔ちゃんはやって来るなり、
「いよいよ、明後日だな。前世療法!」
 と快活に言い放った。
 そうだね、と僕はぶっきらぼうに答えた。宮崎と二人きりになりたいのに、という気持ちが口調に表れてしまった。
 つぎに翔ちゃんは宮崎を見やった。
「おっ、噂の子だな。よかったな、潤のおかげで汚名払拭できてよ」
 宮崎はまったく動じなかった。そして歩き出す。
 並木道を三人が並んで歩く。小鳥の鳴き声がかすかに響いていた。ランニングシャツ一枚でジョギングする、元気のいいおじいさんとすれ違った。
 それでよぉ、と翔ちゃんはいきなり話しはじめた。
「俺も、親父にやってもらったんだ」
「何を?」
「前世療法」
「えっ、マジで!」
 僕は驚いた。
「翔ちゃん、あんなにいやがってたのに」
「ちょっと怖かっただけ。受けてみたら、ぜんぜん怖くなかったわ」
「どんな前世だったの?」
 僕はわくわくした気持ちで聞いた。前の翔ちゃんは、いったいどんな人生を送ったのだろう。
「過去も、潤と友だちだった。いわゆるソウルメイトってやつだな」
 翔ちゃんの声には高揚感があった。僕も胸が高鳴った。興味があるのかないのか、宮崎がこちらをちらちらとうかがっている。
「僕らはいつの時代に会ってたの?」
「えーと、昭和初期で、鳥取県にいて、おまえは初瀬惣一、俺は大竹勝彦っていう人物だった」
 ああ、と僕は声のオクターブを上げた。
「翔ちゃんが、勝ちゃんだったんだ!」
「そうそう、潤もその時代を見たのか?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「うーん、忘れた」
 まあ、それでよ、と翔ちゃんは話の道筋を正しながら、ズボンの裾から扇子を取り出した。調子が乗ってきたようだ。
「遠い昔の俺も、いつもこれを持ち歩いていたよ」
 僕の頭の中に勝ちゃんの顔が浮かんだ。あの人はたしか戦陣訓の書かれた扇子を持っていた。性格は――翔ちゃんと似ているところがある。顔も、とくに切れ長の目とかそっくりだ。
「俺さぁ、初瀬惣一と奥田愛子がどうなるか、ずっと心配していたよ」
 翔ちゃんはしみじみと言う。
「いやー、前世の俺は実にいいやつだったなぁ」
「惣一の人生でも惣次の人生でも、ほんと勝ちゃんには世話になったよ」
「感謝しろよ」
 翔ちゃんは白い歯をのぞかせて冗談交じりに言った。
 僕もつられて笑った。が、ふと疑問を口にした。
「今思ったんだけど……初瀬惣次の人生では、初瀬惣次は中学生で、勝ちゃんはおじいさんだった──かなり年が離れていたのに、翔ちゃんと僕は、どうして現在、同じ時代に生まれているんだろう?」
 彼は扇子の先を顎にあてて、
「ということは、初瀬惣次と勝ちゃん、二人はほとんど同じ時期に死んでるんじゃないのか? 俺たちは今十五歳だろ……で、一九九二年の時点で、初瀬惣次はまだ中学生……」
「僕の誕生日は十月だから、初瀬惣次は九三年のそれまでに死んでるってことだよね?」
「いや、四月中には死んでいると思うな」
「なんで?」
「死んでから生まれ変わるまでの間隔は、短い場合で六ヶ月、長くて四年なんだよ。俺は一九九二年の年の瀬に死んだ。潤もそのころに死んでいないと、俺たちはいっしょにならないだろ? だって、生まれ変わるまでに最低六ヶ月のスパンは必要だから。潤が十月に生まれたのなら、その六ヶ月前に死んでないと、計算が合わねぇって」
「そうか……そうだよね」
 親父さんと前世のことについて話をしているせいか、翔ちゃんは身近なことのように言うけれど、本当はものすごいことを言い合っているんだよなぁ、と僕は思った。前世とか来世とか、そんなものは空想的なものでしかないと思っていたときもあるけど、でも、世界には何百年も前の過去を記憶している人だって存在する。次第にこのことは現実味を帯びて世の中に広まっていくだろう。
 十字路に差しかかると、翔ちゃんは、
「……思うんだけどさ、もしかして、奥田愛子の生まれ変わりは河名愛なんじゃないの?」
 と言った。そして一人で勝手に納得したようにうなずいてから、僕の返事も聞かないまま歩き去っていった。
「前世の話、あれ嘘でしょ?」
 しばらくして宮崎が口を開いた。
「興味持った?」
 僕はにやりとした。
「……別に」
「じゃあ、教えない」
 彼女はにわかに鋭い目つきになった。
 冗談だよ、と僕は苦笑し、長谷川クリニックで前世療法を受けたことを話した。彼女はめずらしく興味深そうな反応を見せた。僕はますます饒舌になり、初瀬惣一と初瀬惣次の、二つの人生をとりとめもなくしゃべった。
「宮崎も受けてみろよ、前世療法。おもしろいからさ」
 僕はそう言って話を締めくくった。
「でも……」
 宮崎は言いよどんでから、
「怖くない?」
「なんで? 催眠っていっても、テレビで見るようなまやかしじゃないよ」
「そうじゃなくて……前世を知ると──いろいろと左右されそうで」
 左右? と、僕は聞き返した。
「前世を知ったがために、自分が自分でなくなるような気がしない? 前世の自分に操られるっていうか……」
「大げさだよ」
 僕は口をゆがめた。

 玄関に母の靴が置かれていた。リビングに行くと案の定母がウィスキーを飲んでいた。飲みはじめたばかりだろう、顔はまだ赤くなかった。
 今日はやけに早いね、と僕は言いながら冷蔵庫の扉を開けた。炭酸飲料水のペットボトルを取り出し、口をつけて飲んだ。
「バイトの子が、日曜日は出られないから、代わりに今日させてくださいって言ってきてね」
「ふぅん」
 僕は生返事をした。酒のにおいが鼻先をかすめた。
 潤君。母はかすれた声で僕を呼び止めた。
「潤君にはさぁ……」
 僕はため息をつき、
「その呼び方、やめろよ。俺、もう高校生なんだから」
「いいでしょう。昔から呼んでるんだし」
「で、何が言いたいの」
「潤君には――大切なものがあるか、って聞きたかったのよ」
 意表をつく質問だった。
「『もの』っていうのは、なんでもいいわけ?」
「そうよ。ロッベンでも親友でも恋人でも、ゲーム機でもいいわ」
 さすがにゲーム機はないだろうと思いつつ、僕は「別にない」と答えた。
「一つも?」
「うん」
 かわいそう、と母は薄い眉毛を下げた。
「じゃあ、母さんには、あるのかよ」
「あるけど、言わない」
「酒と金だろ?」
「言わなーい」
「あっそ」
 僕は自分の部屋に行き、勢いよくベッドに突っ伏した。やわらかい枕に頭を沈めていると、次第に眠気が訪れる。時計の時を刻む音が心地いい。家の電話が鳴っている。もしもし、という母の声が聞こえる。あら、ひさしぶり。どうしたの? え、そうなの? それはひどいわねぇ、ごめんなさいねぇ。酔っているせいか母は陽気だ。友だちからだろうか。でも友だちと呼べる人は、母がこうなってからは一人もいないはずだ。今さら母に電話を寄越す人なんているのだろうか。
 僕はどうでもいいことを思いながら、静かに眠りに入っていった。

       十三

 いよいよ前世療法を受ける日が来た。僕は四年ぶりに前世を思い出す。だから心は朝から浮き立っていた。
 母は朝食をすますとすぐに化粧台に向かった。パートの人に頼まれたらしく、休日を返上して働くそうだ。しきりに「面倒くさい」とつぶやきながら出かけていった。いつもはだらだらとしている母だが、どうやら仕事には逆らえないようだった。
 僕はロッベンを散歩させたり読書したりして午前を過ごすと、コンビニでおにぎりを買い、近くの公園で食べ、そのまま長谷川クリニックに向かった。今日は適度な気温だ。天気予報では夕方から雨が降るとのことだが、今のところ快晴だった。
 雑居ビルの階段を上がり、ケータイの電源を切ってから、長谷川クリニックのドアを開けた。入って左側のスツールに翔ちゃんが座っていた。よう、と手を挙げ、こちらに笑顔を向けてくる。Tシャツにジーンズという僕と大差ない服装だ。翔ちゃんも僕も、昔からファッションにはうといのだ。
「ここで見守っていてやるから、思う存分、前世を見てこいや」
 翔ちゃんはバンバンと僕の肩をたたいた。
「大げさだよ」
「だってよお、おまえのバス恐怖症がわかるかもしれないんだぜ」
「まあそうだけど」
「とにかく親父はもう中にいるからよ」
 僕は苦笑しながら診療室に入った。
 白衣姿のクマ先生は椅子を半回転させ、
「ひさしぶりだね。もう会えないかと思っていたよ」
 と言った。屈託のない、親近感が芽生えるような口調だった。
 僕はかすかに緊張を感じていた。前世療法に対してではなく、クマ先生としっかり向き合えるかどうか不安だった。ちゃんと説明しないままここに来なくなったし、翔ちゃんまでも避けていたから、クマ先生は僕のことを嫌いになっているかもしれない、と思っていたのだ。しかし今、目の前にいる彼は四年前とどこも変わっていないみたいだった。
 おひさしぶりです、と僕はあいさつを返しながらスツールに腰かけた。
「大きくなったね。何より男らしくなった。もてるんじゃない?」
 そんなことないですよ。僕は慌てて否定した。そしてお世辞を言った。
「ここの評判、よく聞きますよ。先生はいい人だって」
 クマ先生は満足そうに目を細めた。
「それは君のおかげでもあるんだよ」
「僕の?」
「翔太から聞いたよ。ホームページをつくるっていう案を」
 ああ、と間の抜けた声が出た。そういえば、以前翔ちゃんに話したことがあった。ホームページをつくって、そこに診療所の紹介や掲示板を設けたらいいんじゃないか、と。
「意外とサイトを見てくれる人が多くてね。他県の人にも知ってもらえて──わざわざ広島から来てくれた人もいたよ」
 クマ先生は胸ポケットから一枚のカードを取り出し、はい、と僕に渡してくれた。
 それはここの診療券だった。裏には診療受付時間や休診日が明記されていて、表には患者の名前を書く欄とここの住所と電話番号、ホームページのアドレスも載っていた。帰ったらサイト、見てみます、と僕は言った。
 クマ先生は、前口上は終わったと言わんばかりにおもむろに立ち上がり、
「じゃあ、そこのベッドに寝転んでくれる? 前世を見たくてうずうずしてるでしょう。たぶん、バスへの恐怖観念も前世に隠されているはずだから、その原因を探し出そう」
 僕は素直に、はいと指示にしたがった。
 右の手のひらをおなかの上に置く。僕は夢心地のまま、クマ先生の言葉に操られていった。
 目の前には暗闇が広がっている。が、それは安らぎを与えてくれる闇だった。怖くなく、むしろ、ずっとここに浸っていたいくらいだ。授業中にうとうとしているような、そんな気持ちよさがあった。
 そこに扉が現れた。どこにでもありそうな長方形の扉だった。僕はドアノブをゆっくりとひねり、手前に引いた。扉の向こうにはスポーツカー型の車が停まっていた。以前見たものと同じだったので、すぐにこれがタイムマシンだとわかった。僕はタイムマシンに乗り込んだ。ハンドルを握ると、自動的に計測器の針がふるえ、エンジンがかかった。アクセルをぐっと踏み込むと、強力なエネルギーを噴出させて、タイムマシンは発進した。闇に包まれた道なき道を疾走する。髪がなびき、車の震動が骨にまで響く。前方から光が漏れてきた。まるで闇を──時空を切り裂いているようだった。次第に横殴りの雨のように光が量を増した。まぶしくなり、僕は目をつむった。来るぞ、と思った。

 左手に誰かのぬくもりを感じる。すぐに僕は、これは初瀬惣次の人生だなと直感した。
 僕はゆっくりとまぶたを上げた。窓からやわらかな日差しが入り込んでいる。前方には座席がずらっと並んでいる。
『寝ていたの?』
 馴染みのある声が聞こえた。そこには早川愛美が座っていた。手を握ってくれているのは、彼女だったのだ。
 ──そうだ。
 僕は今、観光バスの後部座席に座っているのだ。バスはなだらかな勾配の道を走っているようだ。案内標識が見え、この先に『鳥取砂丘』があることを伝えていた。そう、僕たちは砂丘に向かっているのである。

 と、僕の脳裏に、この日にいたるまでの経緯が流れ込んできた。

 前回、退行催眠を施してもらったときは、文化祭で早川とキスをしたところまで見た。だから、そのあとのできごとを思い出さなければならない。
 まず、勝ちゃんが死んだ日のことを思い出す。十二月のはじめ、クリスマスムードが高まってきていた日のことだ。学校は休みで、早川が僕のうちに来ていた。いっしょに読書会を開いていた。僕は漫画、早川は小説を読んでいた。僕たちは黙ったままだったけれど、ささやかな幸福を感じていた。
 電話がかかってきた。母が電話に出て、たちまち緊迫した声に変わった。すぐに向かいます、そう聞こえた。僕は早川と目を合わせ、どうしたの? と、母にたずねた。母は慌てた様子で、勝彦おじさんが亡くなったみたい、と言った。
 僕と早川は母のワゴン車に乗って病院に行った。そこにはすでに静子おばさんや親類の人が四、五人いた。みんな涙を流していた。勝彦おじさんの顔は安らかだった。おじさんは神様がもういいよと言うまで闘った──だから、こんなに安らかなんだな、と僕は思った。僕は、よかったね、もう苦しまなくてもいいんだよね、とつぶやいた。早川は嗚咽を漏らしていた。ただ一人、静子おばさんだけは泣いていなかった。
 僕と早川、二人して勝彦おじさんの葬式に出た。勝彦おじさんと近しかった人々が敬虔な表情で拝んでいく。『あんたみたいな気骨のある人はそうそうおらんかったのに……』『わしらを置き去りにしよって……許さんぞ』『こんなに大勢の人に慕われて、勝さんは幸せ者だなあ』そこここから悲しみの声が漏れた。まわりの人たちにうながされ、僕は切り花を柩の中に置いた。言葉は何も出てこなかった。出棺となり、勝彦おじさんを積んだ霊柩車は霊場へと向かった。
 火葬する直前になって――いよいよ別れがきたのだという空気に変わった。窯に柩が入れられ、とうとう静子おばさんが泣き崩れた。僕と早川はひどく驚いた。今まで毅然としていた彼女が声を上げて、人目を憚らず泣いているなんて、信じられなかった。しばらくの間、静子おばさんの泣き声はつづいた。その悲しみはほかの人たちにも移っていった。

 新しい年を迎えた。僕と早川は受験勉強に励み、同じ高校に受かった。担任の先生は障害者向けの学校をすすめてくれたが、僕はやっぱり普通の高校に行きたかった。なぜなら早川の顔が毎日見られるからだ。彼女のいない場所なんて考えられなかった。
 そして春休みになり――僕の家で、早川はとうとつに、
『鳥取と言えば砂丘だよね』
 と言った。
『どうしたの? 急に』
 僕は聞いた。
『今読んでる本に出てくる恋人たちが、地元の観光名所をめぐり歩いてるの。とても楽しそうに。だから、鳥取の観光名所は砂丘だよなあって思って』
『じゃあ、行ってみようか!』
 僕は言った。
 でも、と早川は憂い顔になった。
『遠出しても、いいの?』
 足のことを心配してくれているのだろう。僕はにっこりと笑って、
『車椅子だから、砂の上には行けないかもしれないけど、近くから砂丘を眺めることはできると思うし──それじゃあ不満?』
 ううん、と早川は首を振り、
『惣ちゃんと砂丘を見られるのなら、それでじゅうぶん』
 その夜、僕は両親と話をした。父さんも母さんもかなり渋っていたけれど、しまいには納得してくれた。
 春が風に運ばれてきてウグイスの声も耳に馴染んできた。その日の朝、僕と早川はバスターミナルへ行き、リフト付き観光バスに乗り込んだ。僕と早川が最後列の席に落ち着くと、バスガイドが手短に自己紹介をすませ、バスは発進した。

 いつの間にかうとうととしていたらしい。
 寝ていたの? という早川の声に、僕はほほえみを浮かべた。
『もうすぐ砂丘に着くね。すごく楽しみ』
『いつでも行けると思っていたせいか、あまり行ったことないんだよな。鳥取人として失格だ』
 僕は冗談まじりに言った。
『身近に感じるものほど、実は遠いんだよ、きっと』
『うん』
 バスガイドが手すりにつかまりながら、もうすぐ着きますよ、と言った。みんなが歓喜の声を上げた。なごやかな雰囲気に包まれる。近くの席から、ちょっと……これ、危ないんじゃない? という声が聞こえたが、それが何を指しているのか僕にはわからなかった。
『惣ちゃん、あのね』
 早川が話しかけてきた。表情が少しだけくもっている。
『何?』
『惣ちゃんのお祖父ちゃん──初瀬惣一さんのこと、知ってる?』
 意外な人の名前が出てきたので、僕は目をぱちぱちさせた。
『知ってる、って?』
『その……お祖父ちゃんの過去──私のお祖母ちゃんとのこと』
『え? 早川のお祖母さんと僕のお祖父さんって、何かつながりがあるの?』
『知らないんだ……じゃあ、いい』
『なんだよ。早川から話しかけてきたくせに』
 僕はわざとらしくふくれっ面をしてみせた。彼女は、ごめん、と、か細い声で言った。
『謝らなくてもいいからさ、教えてよ』
 早川は言い渋っていたが、僕がじっと見つめていると、ため息をついてから口を開いた。
『初瀬惣一さんと奥田愛子──二人はね、心中したんだ』
 たちまち喉もとが圧迫されて言葉が出なかった。僕は『え?』と目でたずねることしかできない。
 ──心中? 僕のお祖父さんと早川のお祖母さんが?
 信じられなかった。惣一お祖父さんは僕が生まれる前に死んだ──そのことは知っていたけれど、死因までは聞いていない。心中。本当だろうか。しかも、早川のお祖母さんと。僕と早川の家にそんなつながりがあったなんて……。
『早川はそのことを誰から聞いたの?』
『……静子さんから』
 あの人がそう言ったの? と、僕は念を押した。
 早川はこくりとうなずいた。見えない恐怖に怯えているような顔つきだった。
『それでね、勝彦おじさんと会ったときに、こう言われたんだ。私は奥田愛子の生まれ変わりで、惣ちゃんは、初瀬惣一の生まれ変わりかもしれないって』
 ──生まれ変わり?
 僕は何がなんだかわからなくなった。頭がぐるぐるぐるぐる回転して、こめかみがずきずきと痛んだ。僕は車椅子の背にもたれかかった。
『惣ちゃん──』
 早川に呼びかけられたとき、バスが右側に急カーブした。遠心力で体が反対側に傾いた。甲高いブレーキ音が鳴り響く。車内のあちこちから悲鳴が上がった。バスがどこかにぶつかったのか、強い衝撃を感じた。大型トラックが轟音とともに窓の外を通り過ぎていった。
 僕は車椅子ごと床に倒れ、側頭部を強打した。口を切った。すべては一瞬のできごとだった。
 早川──早川はどこだろう。僕は両手をふらふらとさまよわせた。が、空振りするばかりで、何もつかめなかった。

       十四

 僕はうっすらと目を開けた。クッションみたいな枕が心地よかった。目の前にはクマ先生のでかい顔があった。どうやら現実に戻ってきたようだ。
 僕は上半身をのろのろと起こし頭が長い眠りから覚めるのを待った。
 コーヒーでもいれようか。クマ先生が言った。僕は無言でうなずいた。
 早川愛美はどうかわからないが――初瀬惣次は死んだ。僕は彼の死に際を体験したのだ。あまりにもとうとつで、あまりにもあっけなかった。僕はそれをどんなふうに受け止めていいのかわからなかった。
 一つだけわかっていることは、僕のバスに対する恐怖観念は、そこからきているということだった。
 クマ先生が裏の方からコップを二つ持ってきて、そのうちの一つを僕に差し出した。僕はコーヒーをすすり、吐息をついた。壁時計を見ると、まだ一時間しか経っていなかった。数ヶ月分の前世を見たからだろう、僕は長い時が経ったような錯覚に陥っている。
「気分はどう?」
 クマ先生は愛嬌たっぷりの顔で言った。
「悪くはないです。なんか、ふしぎな気分です。父が事故にあったときは、前世を振り返る余裕なんてなかったけれど、今はいろいろと考えさせられます」
 僕は自分の気持ちと向き合いながら答えた。
 そしてしばらくの間、僕とクマ先生は前世の内容について話し合った。初瀬惣一と初瀬惣次の人生を語っているうちに、自分の気持ちも整理されていき、今後バスに乗っても怖くないような気がした。クマ先生が言うには――通常の治療法を駆使しても治癒されないトラウマは、過去世を探り、現在と照らし合わせることによって苦痛が減少し、ときには完全に治ってしまうケースもあるのだそうだ。ちなみに、僕は「キー・モーメント・フロー(主要場面想起)」というタイプの思い出し方だったらしい。
「あの、先生」
 僕はコップに落としていた視線を上げて、
「翔ちゃんが、前世でも、僕と会っていたと言っていました。でも、僕にはソウルメイトというのがわかりません。現世で出会っている人の中には、ソウルメイトがいるかもしれないんですよね?」
 クマ先生は机に肘をついたまま、コーヒーを飲み干した。そしてこちらにやさしいまなざしを向けてきた。
「……人の魂は一つのグループとなっているので、現世でも来世でも、何度も再会します。私たちはほとんど同じ人たちといっしょに輪廻転生を繰り返しているからね。だから、今会っている人の中にも、当然、過去からの知り合いがいる、といえるだろうね」
「その知り合いを知る方法はありませんか?」
「前世を見てわからなかったのなら、あとは直感に頼るしかないと思うよ」
 直感? と、僕は首をかしげた。
 クマ先生は眉毛をぴくっと上げてから、
「前世で深い関係にあった人かどうか、魂に判断させるんだよ。一目惚れとか――わかりやすい例だよね。第一印象で好きだと思ったりした場合、前世では恋人同士だった可能性がある。逆に、嫌いなやつだ、こいつとは合わないなと思った場合は、前世ではライバル同士だったかもしれない。久野君には、この人を前から知っているといった感覚や、気が合うなと感じるとき、ないかい?」
「まあ、あります」
 僕はうつむいた。さきほどから頭の中には宮崎初美の顔が浮かんでいた。僕は彼女との関係性を知りたかった。前世で会っていたかどうか、無性に知りたかったのだ。
 僕は、宮崎とは何かあると思い込んでいる。しかしそれを知る手がかりはなく、いら立ちがつのっていった。
 今日はこれくらいにしておこうか、とクマ先生は立ち上がった。
「ありがとうございました」
 僕はカーテンを引いて通路に出た。
 スツールを一列に並べてベッド代わりにし、その上に翔ちゃんが横たわっていた。かすかにいびきが聞こえる。そんな格好でよく眠れるな、と、僕はあきれた。
 久野君。クマ先生に呼びかけられた。
「はい」
「またここに来てくれるかな? 退行催眠が終わったからといっても、君の、バスへの恐怖観念が完全に消えたかと言えばそうでもない。催眠中に学んだ感情を頭に浸透させ、理解して、現在の状況と統合させる必要があるからね」
 わかりましたと答えて、僕は診療所の扉を開けた。
 雑居ビルから出ると遠くの空がくもりはじめていた。

 商店街をぶらぶらしてからマンションに帰ると、家のドアが開いていることに気づいた。僕は訝しげに感じながら玄関に足を踏み入れると、そこには見慣れない黒のブーツがあった。母のものではなさそうだ。リビングのドアの向こうで人影がよぎった。そして、何かが起動しているような音が鳴りはじめた。
 僕は靴を乱暴に脱ぎ捨ててリビングに行った。
「あっ、おかえりなさい」
 バルコニーの近くに河名愛がいた。手際よく掃除機を動かしながら、こちらに微笑を寄越す。ロッベンが片隅で丸くなっている。
「なんでここにいるんだよ。っていうか、どうやって入ってきたんだよ」
 僕は恐怖に駆られつつも声を振り絞った。
「あれ? お母さんから聞いてないの?」
 愛は掃除機のスイッチを切り、僕の横を通り過ぎていった。自分の家にいるかのような態度だった。
 愛はダイニングテーブルに置いてあるトートバッグの中からストライプ地のエプロンを取り出し、それをVニットの上につけながら、
「久野君のケータイにつながらなかったから、家の方にかけちゃったことがあるんだ。そのときにね、お母さんが出てきて――お母さん、『今度、直接うちに来たら』って言ってくれて、だから今日、スーパーに行って鍵を貸してもらったの」
 たしか最近、電話がかかってきたことがある。母が何か言っていたのを憶えている。母に用がある人なんかいただろうかと、僕は疑ったのだ。あの電話は愛からだったんだ──やっとわかった。
 僕は愛に怒りを感じた。
「おまえ、母さんと会ったのかよ」
 愛は僕の質問には答えず、皿の上に被せていた布を外して、
「はい、キャベツとベーコンのパスタ。召し上がれ」
 それは、彼女の得意料理だった。いつだったか、僕はおいしいと絶賛したことがある。しかし今の僕には食欲などない。
「なあ。母さんを見て、どう思った?」
 え? と愛は聞き返す。顔から笑みが消えた。
 あの廃れた母さんを、愛はどんなふうに感じただろう。昔の母と今の母の違いにどんな感想を持っただろう。
 僕はパスタに顎を向けてから言った。
「同情して、こんなものをつくったのかよ」
「何言ってるの?」
「廃れた母さんを見たからだろ? だから、掃除をしたりパスタをつくったりして、僕を慰めようとしてるんだろ? 違うか?」
 帰れよ、と僕は言った。
「ちょっと待って! 私、そんなこと思ってないよ」
 僕はため息を一つついてから早口でまくし立てた。
「帰れって。おまえ、うざいんだよ。だいたい、人んちに来て勝手に料理するなんて、常識がないんじゃねぇの。そういうの、おせっかいって言うんだよ。はっきり言って迷惑なんだよ」
 しんとなった。愛の目に涙が溜まっていく。僕は彼女の腕をつかみ、テーブルに置かれたトートバッグを持ち、玄関まで強引に引っ張っていった。愛とはもう終わりだな、と思った。足音を聞きつけてロッベンが走ってくる。そして悲しげに鳴いた。
 鼻の頭を赤くした愛は玄関のドアを開け、一度も僕を振り返ることなく出ていった。後ろ手に閉められたドアは、いつもより大きく響いた。
 そのあと、僕はリビングに戻り、パスタをゴミ箱に捨てた。

       十五

 愛と別れてからというもの時間は急速に流れていった。修学旅行も春季運動会も空しく、勉学にも集中できなかった。別に愛との別れに未練があるわけではなく、冷静に考えてみると――あそこまでひどく当たらなくてもよかったのではないか、と後悔の波が押し寄せるのだ。二年近くつき合い、楽しい時期だってあったのに、最後の最後で彼女を傷つけてしまった。もう少しじっくりと話し合うべきだったと思う。何度も連絡しようとしたが、結局愛に電話をかけることはなかった。
 変わったことといえば――バスに対する恐怖がなくなった。あんなにもバスをおそれていたのがまるで嘘のようだった。何回か長谷川クリニックに通ったが、異常は見当たらず、精神も安定していると言われた。クマ先生に今の無力感を話したところ、恋人との別れにともなう喪失感だと笑われたが、僕は、それだけではないように思えた。
 宮崎初美の存在を、クマ先生には話してない。たぶん、彼女が僕を悩ませているのだと思う。僕はいつも彼女のことを考え、気になっているが、なぜそんなにも惹かれているのか判然としなかった。

 夏休みに入り、僕はある一つの疑問をたしかめるため、鳥取に行く決意を固めた。もしかしたら、宮崎初美は、奥田愛子と早川愛美の生まれ変わりではないか、と思ったからだ。
 そう思うようになったきっかけは――幻の蝶々だった。深夜、ベッドの上でぼうっとテレビを観ていると、何かが視界をよぎった。なんだろうと部屋中を見まわすと、窓際で、黄金色に輝く蝶が舞っていた。美しく羽を動かしていた。見たことのない蝶だった。僕はそれに近寄り、手を伸ばし、捕まえようとするのだが、ひらり、またひらりとかわされてしまうのである。そしてその蝶は次第に輝きを失っていき、フローリングの床に落ちた。僕は目を二、三度しばたたいた。と、そこにいた蝶がいなくなっていた。ほんの一瞬で姿をくらましてしまったのだった。
 僕にはその蝶をはるか昔、見たような記憶があった。そのとき僕の直感が働いた。
 鳥取に行ってみよう――
 僕の知りたいことは初瀬惣一と初瀬惣次の故郷にあると思った。このまま悶々と過ごしていても解決には到らない。不透明な気持ちはいつまで経っても不透明なままだ。体が「行け!」と命令しているようでもあった。
 鳥取に行くなんて母に言えるはずがない。僕は母に黙ってコンビニでバイトをはじめ、自分の力で金をこしらえることにした。僕は二週間働き、親が病気でお金がいるのだと店長に嘘をついて、給料を前借りした。

 その日の夜、僕は明日の出発に備えてスポーツバッグに必需品をつめ込んでいた。そうしていると、突然部屋に母が入ってきた。予期しないできごとだった。酒を飲んでいるらしく母の頬は紅潮していた。
「なんだよ、いきなり入ってくるなよ」
 僕は内心動揺した。
 母は床に散らばった歯ブラシや洋服、寝袋を見てから、
「どこに行こうとしているの?」
 どこだっていいだろ、と僕は即答する。
 母はため息を漏らした。手には一枚の紙片が握られていた。夜行バスの往復チケットだった。
「鳥取県なんかに用があるの?」
 机の引き出しに入れていたのに──僕の部屋をあさったのかと思うと、怒りが込み上げてきた。僕はとっさに立ち上がり、力任せにチケットを奪い取った。
 母は冷徹なまなざしを向けたまま、微動だにしなかった。
「勝手に部屋に入ったのかよ」
「別にいいでしょう。大事な一人息子を心配してのことなんだから」
 母はしれっとして、
「だいたい、アルバイトをはじめたときから怪しいと思ったのよ。バイト先の店長に連絡したら、給料、前借りしたそうじゃない。親が病気だと嘘をついてまで……。何かほしいものがあるのかなと思ったけど、部屋に物が増えているわけでもない。すると、なぜか鳥取行きの券が出てきた。出発は、明日。ねえ、いったいどういうことよ」
 人の部屋を詮索するなんて、最低だな。僕はそう吐き捨てる。
「人って何よ。親が子どもの部屋に入ったらいけないっていうの?」
 母は金切り声を発した。相当酔いがまわっているようだ。
「もしかして……あなたも私の手から放れていくの? お父さんみたいに?」
「何言ってんだよ」
 僕は右手で額を押さえた。頭が痛くなってきたからだ。
「そうでしょう? この家を出ていこう、私から離れようと思っているんでしょう?」
「酔っぱらってないときに、また話、聞くから」
 僕は閉口し、ベッドに──母に背を向けて──寝転んだ。正気とは思えない母が怖かった。
 しばらくの間母は黙っていたが、
「明日はどこにも出させません」
 と言った。部屋のドアの閉まる音がした。
 ……勘弁してよ。僕はひとりごちた。

 翌朝。ロッベンと散歩に出かけようとしたら、母に止められた。荷物も何も持ってないじゃん、と抗議しても、外に出さしてくれなかった。なぜそんなにも母は神経質になっているのだろう。今になって子煩悩を発揮されても迷惑だった。
 結局、午前中は部屋で大人しく過ごした。夜行バスの時間は、午後八時三十分。まだまだ余裕はある。が、しかしこのまま家から抜け出すすべを見つけられなかったら、当分は鳥取に行けないだろう。
 僕は考えるよりも先に翔ちゃんに電話していた。とにかくうちに来てくれと強引に呼び出した。すると十分も経たないうちに翔ちゃんはやって来た。部屋に招き入れると、彼は開口一番、
「おまえから誘ってくるなんてめずらしいな」
 それはそうだ、緊急事態なのだから。僕は翔ちゃんに事情を説明した。
「潤の母ちゃんの過剰さもすごいけど、前世に住んでいたところへ行こうとするのもすごいな」
 翔ちゃんはのんきに感嘆の声を上げた。
「悠長なことを言ってないで、何かいい方法を考えてよ」
「いきなり言われてもなあ」
 それから僕たちは案を出し合った。が、なかなかいいアイデアは浮かばない。腹痛を起こしたふりをして、病院に駆け込み、母の目から逃れる……翔ちゃんが僕の母を力ずくで押さえつけておく……この七階の部屋の窓から飛び降り、映画のアクションシーンのように車のボンネットの上に落ち、そして品川のバスターミナルに向かう……といった、ばかばかしい意見を出し合っているうちに夕方になり――西日が部屋に入り込んできた。
「……しょうがねぇなあ。ここは強行突破だな。俺が犠牲になってやるよ」
 最終的に――翔ちゃんをおとりにする、というシンプルな作戦に帰結した。

 僕たちは七時過ぎまで待ち、そして作戦を実行に移すことにした。翔ちゃんは「鳥取で何かがつかめればいいな」と言い残してリビングに行った。母と何かを話しはじめた。
 僕は財布とケータイをポケットに突っ込み、スポーツバッグを携えて、そろりそろりと玄関に向かった。慎重に靴を履き、ドアノブをひねった。
 と、ジーンズの裾にやわらかいものが当たった。ロッベンが尻尾を振りながらこちらを見上げていた。
 なんだよ、脅かすなよ、と僕はため息をつき、ロッベンの頭をなでてやる。
「すぐ帰ってくるからな。あと、ドッグフード、買い置きしているからいつでも食べていいぞ」
 じゃあ、行って来ます。僕は玄関のドアを閉めた。

       十六

 夜行バスは翌朝七時に鳥取駅前に着いた。ステップから降りると朝日がまぶしかった。もう後戻りはできない。なにせ来てしまったのだ。
 鳥取の駅は思ったよりでかかった。東京と違って人通りは少ないが、全然田舎臭くない。知らないはずの街並みに、僕はたちまちなつかしさを覚えた。
 僕は伸びをして関節をぽきぽき鳴らすと、ロータリーでタクシーに乗り込んだ。初瀬惣一の家に行く前に寄り道したいところがあった。
 通勤ラッシュのせいで道は渋滞していた。飲食店やコンビニ、スーパーが見えては後方へと消えていく。前世の僕はこの町で暮らしていたのか、と思わずつぶやきが漏れる。ルームミラー越しに運転手がこちらをちらっと見るのがわかった。
 工業地帯を通り過ぎると、やがて農道に入った。初瀬惣一は自転車の荷台に奥田愛子を乗せ、この道を駆け抜けていたのである。
 小さな村が見えはじめる。木造の家。畑で朝仕事をしている老人。どこも時代に振りまわされていない。
 運転手が場所を聞いてきたので、僕は「このまま空山に向かってください」と頼んだ。惣一たちが秘密のデートスポットにしていたあの山へ行こうと決めていたのだ。
 頂上に到着すると、運転手に料金を払い、下乗した。ささやかな石段を上がり、空き地に足を踏み入れた。僕はじっくりと呼吸してから、崖の方──惣一と愛子が日の出を眺めていたところに行った。
 砂利の上に腰を下ろす。何も考えず、ただ見ることに集中した。前世の僕が見ていた景色とはだいぶ違う。だけど、ここでこうやっていたのだ――僕は前世の自分と同化しているような感覚になった。蝉の声が強く、小鳥のさえずりも聞こえる。都会では味わえない清潔さがあった。

 どれくらい時間が経っただろう。肌に汗がにじんでいた。そろそろ行こう。僕はスポーツバッグを持ち、立ち上がった。
 惣次の両親に会ったとき、どんなふうに切り出そうか考えていたが、結局うまい言い方が浮かばなかった。
 のろのろと来た道を下る。途中で、ふとケータイを取り出した。電源を入れ、センターに問い合わせると、メールが五件も来ていた。
『早く電話してくれ!』
 この簡潔な文章は翔ちゃんからだった。五件とも全部同じようなメッセージだった。
 僕は翔ちゃんに電話をかけた。
 数回のコール音のあと、
『潤か! 早く電話してくれって言ったじゃん。今まで何やってたんだよ』
 翔ちゃんの怒鳴り声。
「どうしたの?」
 たぶん母のことだろうとわかるのだが、あえて平静を装った。
『何言ってんだよ。潤が出てから、俺、すごく困ったんだぞ。おまえの母ちゃんに叱られるし、たたかれるし……俺、逃げちゃった。でも、そのあとも、うちに電話がかかってきて怖かったんだぞ。親父が間に入ってくれたから、収拾ついたけど』
 母がそこまでヒステリーを起こすなんて信じられなかった。
『おい、聞いてんのか?』
「ああ、ごめん。そんなことがあったなんて……」
『でも、まぁ、いいさ。そっちは無事に鳥取に着いたんだろ』
 うん、と僕は返事をした。
『だったら母ちゃんに電話ぐらいかけろよな。潤を心配しているからこそ、あんなにも敏感になってるんだから』
「違うって。母さんは別に僕のことなんかどうも思ってない。ただいつも神経がささくれているから、ちょっとしたことでも敏感に反応してしまうんだよ」
 翔ちゃんのため息がノイズとなって聞こえた。
『全然わかってねぇな、潤は。おまえの母ちゃんは息子のことが心配なんだよ。ただそれだけなの。だから今すぐに電話してやれって』
 じゃあな、というと、翔ちゃんは電話を切った。
 ──母さんが僕のことを心配している?
 そんなはずはない。僕はすぐに否定した。酒を飲むことにしか興味がないあの母が……。
 潤君には大切なもの、ある? いつだったか、母は僕にそう言った。たしか僕は大切なものなんて別にないと答えた。もしかして母が思う大切なものとは──いや、考えたくなかった。アルコールに溺れている人になんか言われたくないという反発心があった。
 親父が死んでから何一つとして親らしいことをしてくれなかったじゃないか、と僕はつぶやいた。

 しばらく歩くと、見覚えのある果樹園が見えてきた。黄色い袋を被ったたくさんの梨がぶら下がっていた。それは、惣一の手がけた梨の木が、今もなお受け継がれていることの証明だった。
「何かうちに用ですかな」
 背後から声がした。目の前には野良着姿の男性が立っていた。
「お父さん!」
 僕は衝動的に声を上げたが、すぐに、この人は自分の父ではないと気づいた。
 その人は、惣次の父親──初瀬忠人だった。惣次の記憶の中ではまだ若々しく、精力的に仕事をこなすイメージがあるが、現在の彼は、なんとなく活気に乏しいように感じられた。しわが目立ち、頭髪も薄くなり、ほぼ白髪に変わっていた。惣次が死に、僕が生まれ、十何年もの月日が経っているのだ──もう彼は還暦になるだろう。仕方のないことだった。
 初瀬忠人は首をわずかにかしげ、
「はて、どなたさんですかな?」
 と言った。
 お父さんなどと言ってしまった手前、僕は引っ込みがつかなくなった。この機会に、自分は初瀬惣次の生まれ変わりだと、正直に言ってしまおうかと思った。
 緊張しながら、僕は一歩前に出た。
「あの……驚かずに聞いてください」
 ああ、はい、と間延びした声が返ってきた。
 僕はせき払いをしてから、
「実は……僕は、あなたの息子の──つまり初瀬惣次の生まれ変わりなんです」
 初瀬忠人は口をぽかんと開けたまま動かなくなった。僕は慌てて言葉を継いだ。
「信じられないと思いますが、本当なんです。僕は初瀬惣次の人生を知っているんです」
 初瀬惣一の名も出そうかと思ったが、話がこんがらがるだけだと思い直して、やめた。とりあえずこれまでの経緯を話すことにした。
「僕は小学生のとき、プールの飛び込み台から落っこちて、水恐怖症になりました。風呂に入るのさえ怖かった。そこで、友だちのお父さんがセラピストなので、診てもらうことにしたんです。すると、水に対する恐怖は過去にあることがわかり、退行催眠で前世にさかのぼりトラウマの原因を探る、ということをしたんです。それで僕は初瀬惣次の人生を見て──」
「わからん!」
 初瀬忠人は僕の話を遮った。眉間に険しいしわを刻んでいた。
「何を言っとるのか、ようわからん。早う、どっかに行ってくれ。仕事の邪魔だ」
「ちょ、ちょっと、待ってください。話を最後まで聞いてください」
 僕は彼をすがるように追いかけた。
「本当に僕は初瀬惣次の生まれ変わりなんです。信じてください!」
「よくもまあ、ぬけぬけと……誰かに惣次のことを聞いて、わしにそんなでまかせを言って、楽しんどるんだろ。人をおちょくるのも、ほどほどにせぇ!」
「違いますよ。その証拠に、僕はお父さんのことも知っています。たとえば──子どものころ、友だちに『ちゅう、ちゅう』と言われてばかにされていたことがあるでしょう? あなたはそのあだ名がいやだった。でも、ある日、初瀬惣一──あなたの父親が、その友だちを叱り飛ばした……」
 彼は足をとめた。
「なんで、その話を知っとるだいや」
 僕はにっこりとして、前にお父さんが話してくれたことがあったじゃん、と、言った。自分の声でないような、まるで初瀬惣次の魂が宿ったような声が出た。
 今がチャンスだと思った僕は、お父さんとの思い出を矢継ぎ早にしゃべった。幼いころ僕が深夜に熱を出し、お父さんが最寄りの病院に連れていってくれたこと……そして病院の玄関で声を上げて医者を呼びつけていたこと……学校の運動会の日、会社を休んで来てくれたこと……はじめてサッカーボールを買ってくれたときの、お父さんの笑顔……――初瀬惣次の目を通して見た映像が、つぎつぎに頭に浮かんできた。
「お父さん、これでも僕を疑うの?」
 彼は視線をきょろきょろとさまよわせながらも、
「信じられん……本当に惣次なんか?」
 惣次、惣次、と言いながら、初瀬忠人は僕に抱きついてきた。汗の酸っぱいにおい。
 僕は自分の父親と初瀬忠人を重ね合わせながら、彼の背中をさすりつづけた。

       十七

「たんまりとおかわりしていいからね」
 初瀬惣次の母──慶子さんはうれしそうに炊飯器からごはんをよそってくれた。
 あれからすぐに忠人さんに連れられて僕は初瀬惣次の家に行った。ところどころ立て直してあるようだが、そこはまさしく僕が前世体験で見た場所と同じだった。長屋も車庫もみそ蔵も裏山も、すべてなつかしかった。僕が感傷にふけっていると、忠人さんから事情を聞いた慶子さんが駆け寄ってきた。
 僕はじっくりと時間をかけて、慶子さんにも、自分は初瀬惣次の生まれ変わりだと説明した。最初、慶子さんは僕の話をまったく受け入れてくれなかった。前世や来世なんて迷信に決まっていると言い張った。が、ねばり強く説明しているうちに、彼女は突然泣き出したのだ。僕は慶子さんにも、ただいま、と心から言った。
 そんなこんなで、今は夕食をごちそうになっている。
「潤一君、だったな」
 真向かいに座っている忠人さんが、瓶ビールの栓を抜きながら言った。
「はるばる東京から来てくれて、本当にありがとう。果樹園ではすまんかったな。君の話をろくに聞かんで、あんなにも怒ってしまって」
「いえ、しかたないですよ。いきなり生まれ変わりだなんて言われても、ぴんとこないでしょうから」
 彼はぐいっと酒を呷ってから、
「……実はまだ半信半疑なんじゃ。君には申しわけないけどな」
 僕は悲しい気持ちになったものの、しょうがないか、と納得した。
「でもなぁ、やっぱり君は惣次の生まれ変わりだ。勘違いでもいいけぇ、そう思いたいんじゃ。どんなかたちにしろ、惣次が帰ってきてくれた……それでじゅうぶんだわい」
 彼は笑った。
「前世……療法だっけ。それは東京では流行っているんか」
 まあ、そうですね、と僕は首肯した。そういっておいた方がいいだろうと思ったからだ。
「うちらはあまりテレビを観ないからねぇ」
 と慶子さんが言った。
 僕は二人から視線をはずして、みそ汁をすすり、カボチャの煮つけを頬ばった。惣次の魂がどこかに隠れてしまったのか、僕は、早くも居心地の悪さを感じていた。よく考えてみれば、連絡も入れずに他人のうちに押しかけるとは、非常識にもほどがある。僕は礼儀知らずの自分が恥ずかしくなった。
「何もこしらえてなかったから、こんなものしかお出しできなくてごめんなさいね」
「いえ……すごくおいしいです」
 僕はますますうつむいてしまう。
「あと、食べたら、お風呂に入ってくれてかまわないからね」
「え?」
「今夜は泊まってくれるでしょう。惣次のことはわかったから、今度は、潤一君のことを知りたいし」
「あの……泊まってもいいんですか?」
 僕は遠慮気味にたずねた。
「何言ってるんだ。君は惣次の生まれ変わりなんだから、もはや家族の一員だよ」
 忠人さんは大様に言った。
 今夜は野宿でもしてまた明日来ようか、と考えていた僕にとっては願ってもいない展開だった。いろいろと聞きたいことや調べたいことがあったので、都合がよかった。僕はほころびそうになる顔を引き締めて、お世話になります、と頭を下げた。

 風呂から上がり、台所に行くと、テーブルの上にぶつ切りのスイカが置かれていた。どうぞ、食べて。慶子さんが洗い物を片づけながら言った。
 僕は椅子に座り、真っ赤な果肉にくらいついた。口の中に甘い汁が広がり、ほてった体をすずしくしてくれた。
 忠人さんはたった今、僕と入れ替わりに風呂へ行ったので、しばらく上がってこないだろう。慶子さんの後ろ姿を見つめていると、次第に意識が「日常」に溶け込むようだった。父が死んでから何年も味わっていない「日常」――望んでいたものが手に入りそうだった。ここの家の息子として生きられないだろうか、暮らせないだろうか、と僕は思った。
「あっ、そうだわ」
 慶子さんは手をぱんとたたいて、
「潤一君、惣次のアルバムを見てやってくださいな。ずっとほこりまみれになっているから、たまには出して見てやらないと」
「はい、もちろん」
 僕はスイカを皿に戻し、慶子さんのあとを追ってとなりの部屋に行った。そこはタンスしか置かれていない殺風景な部屋だった。
「ここ、惣次くんの部屋だったところですよね」
「うん……ほとんどのものを捨てちゃったわ。惣次が死んでからしばらくの間は、そのままにしていたんだけど、だんだん苦しくなってきて、ね。今じゃあ後悔してるわ。あの子のものをなんで捨てちゃったのか、って」
 慶子さんは押し入れの中を探しながら言った。そして僕を手招きした。
 僕は慶子さんの横に座り、初瀬家のアルバムを眺めた。
 そこには初瀬惣一の写真があった。果樹園の草の上に座っていて、となりには勝ちゃんがいた。二人とも笑顔をこちらに向けている。つづいて、惣次の写真である。小学生のころだろうか、家の前でサッカーボールを蹴っているところだ。ほかの写真も見てみる。クラス会で歌をうたっている彼、中学校の制服を着て玄関先に立っている彼──。
「……これはサッカーの試合のときよ」
 慶子さんが言った。
 惣次がボールを蹴っている。位置的に見てディフェンスだろうか。
「この試合、五対一で圧勝したのよ。今でもよく憶えているわ」
 彼女は目のまわりに小じわをつくりながら、
「そのころ、『惣次が試合に出ると必ず負ける』っていうジンクスがあったのよ。まるで疫病神扱いだったわ。だから、近野君が五点も入れてくれて、スカッとしたわ」
「近野君?」
 引っかかるものを感じて、僕は聞き返した。
「あら、知らないの? この子よ」
 慶子さんの人差し指が示す男の子を見た。男の子──すぐに近野朋泰だと気づいた。
「この子ねぇ、すごくサッカーが上手だったのよ。顔もいいから女の子に人気があったみたいだし……」
 僕は相槌を打つのも忘れて、写真の中の近野朋泰を見つめた。
 彼のことはよく知っている。初瀬惣次の「視点」を介して知っているのだ。だが、それはあくまでも、一人の登場人物という認識でしかなかった。ほとんど虚構の人物としてとらえていた。惣次の物語の中だけに存在している人物だと――。
 それは間違いだった。考えてみれば、初瀬惣次が生きていた時代から現在に到るまで、そんなに月日は流れていないのだ。
 僕はおそるおそる慶子さんにたずねた。
「その……近野さんは、今、どこで何をしているか、わかりますか?」
 慶子さんはたちまち我が子を自慢するような誇らしげな表情になった。
「それがねぇ、東京で高校の教師をやってるんだって。サッカーの顧問も務めているって、聞いたわ。もしかしたら東京のどこかで、潤一君と会ってるかもしれないわね」
 もしかしたら、じゃない。実際に会っているのだ。
 なんとも言えない心境でいるところに、またある一枚の写真が気になった。
 惣次といっしょに早川愛美が写っているのである。二人とも体操服を着ていて、何やらほほえみ合っている。
「これは、惣次が二年のころ、運動会のときだわ」
「横にいる人は早川愛美さん、ですよね」
「そうね。このときはまだ二人ともつき合ってはいなかったわ」
 僕は早川愛美を見つめた。髪を三つ編みにして、赤い鉢巻きをつけている。まだ十分にあどけなさがあった。今は――体操服といえば――どの学校でもジャージだと思うが、この当時はブルマのようだ。彼女の白くすらっとした足が地面に影をつくり出している。
 そこで――僕はふと写真に顔を近づけた。早川愛美の太ももに痣があるのだ。
 慶子さんがページをめくってからも、僕の脳裏には、早川愛美の痣が残像として揺らめいていた。
 そのあと、忠人さんに誘われて飲むこと――もちろん、僕はジュースである――になった。僕たちは台所で静かに会話をした。話題はもっぱら初瀬惣次のことだった。小学生のころは国語が得意だったこと。リレーは苦手だったけれど障害物競走は決まって三位以内だったこと。惣次の思い出に僕は耳を傾けた。前世の自分をもっと、もっと知りたかった。
「……最初は反対しとったんじゃ。鳥取砂丘を見に行くなんて無理だ、とな。でも、惣次は、あいつは『鳥取砂丘ぐらいどうってことない』とかなんとか言って、折れんかった」
 忠人さんは思いっきりテーブルをたたいた。飲みかけのコップやつまみの入った皿がふるえた。
「そんな判断をしてしまったばかりに、惣次は……」
 彼は、ゆっくりと、初瀬惣次が死んでしまった日の話をはじめた。
 その日、惣次は早川愛美といっしょにマイクロバスに乗り、鳥取砂丘に向かった。そこまではよく知っている。問題はその先のことだ。
 砂丘に行くまでに、何度かヘアピンカーブを迎えるらしい。事故はそのときに起こったのである。対向車線から大型トラックが勢いよく迫ってきたのが、はじまりだった。バスの運転手はそれに動揺し、ハンドルをすべらしてしまった。そして惣次たちを乗せたバスはガードレールにぶつかり、横転したのだ。負傷者よりも死者が多く出た。
 初瀬惣次と早川愛美の人生はいとも簡単に絶たれた。何か一つでも起こらなければ、という事故だった。
 ──だけど……。
 だけど、初瀬惣次が死んだからこそ、今の僕が存在しているのである。僕は複雑な気分だった。
 風呂の引き戸がガラガラと開く音が聞こえた。ほどなく慶子さんが台所に入ってきた。
 慶子さんも晩酌に加わり、あたりはなごやかな雰囲気に包まれた。目の前の夫婦はいろいろとしゃべってくれた。
 まずは初瀬惣一のことだ。彼の心中は知っているので、彼の妻のことを教えてもらった。惣一の妻は、惣一が死んでからというもの、女手一つで息子を――忠人さんを育てたのだそうだ。そして梨の講習会に行くようになり、親しい人に助けてもらいながら、農業を学んだ。
「……おふくろは偉い人間だったわ。親父を憎んでいたけどな、果樹園だけは、見捨てんかった。この家の伝統を断ち切ってはだめだと、一生懸命、寝る間も惜しんで働いた。僕は会社に勤めとったけぇ、果樹園に毎日足を運べんかったから──今の樹木は、おふくろが育ててくれたものだと言ってもいいくらいだわ」
 一昨年の秋に心臓発作で急逝したらしい。
 僕は初瀬惣一の目から見た彼女しか知らなかった。だから、忠人さんの話で、見方がだいぶ変わった。
 ビールを少し飲んだのがいけなかったのか、僕は突然吐き気に見舞われた。急いでトイレに駆け込み、消化されていなかったものを吐き出した。酸味が鼻の奥をついた。
 だいじょうぶか? と忠人さんが背中をさすってくれた。
「奥の間に布団を敷いているから、そこに行って横になるといい」
 僕はその言葉にしたがい、支えてもらいながら寝床に行った。
 忠人さんの声がかすかに聞こえる。すまんなぁ、飲ませてしまって。君は未成年だものな……。

       十八

 朝食の席で、僕は今日にも東京に帰ると告げた。惣次の両親は、まだいいじゃないかと言ってくれたが、僕は決めていた。二人はいい人だが、やはり僕はここの家族にはなれないし、初瀬惣次の代わりも務まらない。結局のところ僕たちは他人同士なのだ。
 昨夜、泥酔の波にのまれながら、母のことを考えた。自ら家を出てきたにもかかわらず、今母さんはどうしているだろう? と思う自分がいた。そして――僕はここに長居してはいけない、母さんを一人にさせてはいけない、と思い、マンションに帰ろう、と決めたのだった。
 忠人さんも慶子さんも悲しげな表情をしていた。が、それ以上は引き止めようとしなかった。わかっているのだ、僕は久野潤一であって、初瀬惣次ではないことを。
 僕は気まずさを感じながらも、梅干し入りのおにぎりをほおばった。
「そうか……たった一日しかいっしょに過ごしとらんけど、惣次が帰ってきたようだったわ。君のおかげだ。ありがとうな」
 忠人さんは頭を下げ、僕の返答を待たずに台所を出ていった。口もとには幾重ものしわが寄っていた。しばらくして、玄関の引き戸が開閉する音が聞こえた。
「……あの人、もう果樹園に行ってしまうつもりかしら。よほど、泣くのを我慢できないみたいね」
 慶子さんはうっすらとほほえんだ。
 僕は薄切りのナスが入ったみそ汁に視線を落とした。
 テレビからは気象予報士の淡々とした声が聞こえる。それによると、今夜は台風が来るそうだ。

 僕が帰り支度をしていると、慶子さんが部屋に入ってきた。
「何時のバスで帰るの?」
「夜の九時半のです」
 じゃあ、まだ時間があるわね、と彼女はつぶやくように言ってから、
「あの……会ってもらいたい人がいるの」
「誰ですか?」
 僕は昨日着た服を押し込むと、スポーツバッグのチャックを閉めた。
「静子おばさん、知ってるよね」
「まだ……生きてらっしゃるんですか?」
 と言った瞬間、僕は、しまったと思った。惣一の妹であり、惣次のおばさんにあたる大竹静子さん──その人がまだ生きているとは思いもしていなかった。
 慶子さんはくすりと笑い、
「もちろん生きていらっしゃるわ。でも、四年前に──七十になったころね──腎臓が悪くなって、周期的に、人工透析で血液の中の老廃物を取り除かなければいけなくなったの。それからというもの、みるみるうちに衰えていって、今じゃあまり家から出なくなっているようなの。だから、惣次の生まれ変わりの潤一君と会えば、少しくらい元気を取り戻してくれるかな、と思って、ね……」
 僕の記憶には華やかで明るい静子さんしかないので、今の彼女を想像することができなかった。
「わかりました、静子さんに会ってみます」
 とにかく静子さんのうちに行ってみるしかない、と僕は思った。

 慶子さんといっしょに家を出た。彼女が直接、静子さんに僕のことを説明してくれるそうだ。
 台風が来る前触れだろうか、風は静まり、空は厚い雲に覆われている。しばらくすると肌が汗ばんできた。僕はゆるやかに蛇行した小道を歩きながら、建ち並ぶ民家とスイカやメロンが育っている畑を見渡した。人気はまったくなく、のどかという言葉がとてもよく似合う村だった。
 大竹静子さんのうちは、「空山」のふもとに、慎ましやかにたたずんでいた。木造二階建てで、歴史を感じさせる外観だった。
 慶子さんはチャイムを押さず、勝手に玄関の引き戸を開けた。
「静子おばさん、私です。お邪魔しますよ」
 数秒ののち、はいはい、どうぞ、と、落ち着いた声が返ってきた。
 僕は靴をそろえて廊下に上がった。
 奥に行っててちょうだい、今、お茶、入れますから。台所の方から静子さんの声が響き、慶子さんは、はあい、と間延びした返事を返した。
 障子が開け放たれている奥の間に座って待っていると、しばらくして静子さんがやって来た。僕が記憶しているとおりの彼女だったが、やはり、老いは否めなかった。髪は黒く染めてあるが、一目でわかるほど薄くなっていて、ところどころ乱れてもいる。顔のしわとしみ。しょんぼりとした肩。少しだけ曲がった腰。レースのブラウスに花柄のスカートといったすずしげな服装だった。
 僕と目が合った。彼女は二人分のお茶をテーブルに置きながら、慶子さんにけげんそうな顔を向けた。
「こちらは久野潤一君。なんと言ったらいいか……とりあえずおばさん、お座りになってください」
「申しわけないけど、足を崩させてもらうわ」
 静子さんはのろのろと横座りの姿勢になった。
 お体の具合はどうですか、と、慶子さんはまず世間話から入った。
「ここ最近は苦しかったんだけどねぇ、今日はすこぶる体調がいいの。暑さなんて気にならないくらいよ。こんなにさわやかなのはひさびさだわ。何かいいことが起きる前触れかしらねぇ」
「それはよかったですね」
 相槌を打ってから、慶子さんは座り直して、
「信じられないかもしれませんが、これからお話することを聞いてください」
「どうしたのよ、急にあらたまって」
 静子さんはほほえんだが、何かを察したようで、すぐ真顔になった。
 慶子さんはまず、前世療法のことを説明し、それから僕が初瀬惣次の生まれ変わりだと言った。彼女の説明が終わると、今度は僕がバトンを引き継いだ。惣次と静子さんとの思い出――二人しか知り得ない記憶を話した。静子さんは驚きやとまどいを表に出すことなく、うんうんとうなずくだけだった。
 話し終えると、僕は、信じてもらえますか? と身を乗り出して、彼女に聞いた。
「慶子さんの話の時点で、もう信じていましたよ」
 あらかじめ用意されていたかのような返答だった。
「それというのもね……」
 静子さんは視線を庭に向けながら、
「勝彦さんが信じていたのよ、生まれ変わりを。だから、影響されちゃったの」
「あの頑固な人が?」
 慶子さんが目を見張る。
「ええ。まあ、だいたい、兄が勝彦さんを焚きつけたのが、はじまりですけどね」
「お義父さんが?」
 初瀬惣一の登場に、僕は硬直した。忠人さんには言いづらかったことを、ここで聞けるかもしれない。心中の件について──そして、そのあとのことを。
「……うちは、直接には聞いていないけれども、勝彦さんが、電話で聞いたらしいのよ。あの、兄が愛子さんと駆け落ちした日の夜、うちの家に電話がかかってきて、兄は勝彦さんに生まれ変わりの話をしたそうよ。勝彦さん、ずいぶんと怒っていたわ。わけのわからんことを抜かしやがって、と言ってね。でも、兄と愛子さんの遺体が見つかってからというもの、勝彦さんは、一転して、生まれ変わりを信じるようになった」
 あの、すみません、と、僕は話に割って入った。どうしても知りたいことがあったのだ。
「惣一さんと愛子さんの遺体は、いつ見つかったんですか?」
「ああ、そうね。まずはあなたにそのことを話さないとね」
 静子さんは大きくうなずいてから、
「昭和五十一年の春に、うちの兄、惣一と、奥田愛子さんは再会したの」
 それは退行催眠で知っているが――僕は、黙って聞き入った。
 彼女はよどみなく、まるで昨日のできごとのようにすらすらとしゃべった。簡単にまとめると、こういうことだった。
 初瀬惣一と奥田愛子は再会した日、そのまま山口県まで逃げた。その日は旅館に泊まり、親友の大竹勝彦や息子の初瀬忠人に連絡した。そして翌日、山の頂上から海へと投身自殺したのだ。
 ここまでは僕も把握しているのだが、問題は「その後」である。静子さんはときどき目をつむり、まぶたの裏側に光る一粒一粒の記憶を拾い集めるかのように、たっぷりと時間をかけて、言葉を選びながら、語ってくれた。
 惣一と愛子の遺体は、それから数ヶ月後に、あるカップルによって発見されたそうだ。その二十代のカップルは、自分たちの死に場所を探して岩場をさまよい歩いているとき、岩と岩の間に挟まっている二つの影──言うまでもなく、初瀬惣一と奥田愛子の遺体である──を見つけ、慌てて警察を呼んだ。身元が判明したのは、その三日後のことだった。決定的な情報は、二人が心中する前の夜に泊まっていたという旅館を経営する老婆からもたらされた。しかも、その老婆は奥田愛子から、一通の手紙をことづかっていたのだ。私のことで何か聞かれたらこれを渡してください、それまで預かっていてもらえますか──その切実な頼みを、老婆は二つ返事で了承していたのである。
 手紙の内容は――深い懺悔の念と、それでも初瀬惣一が好きだという文章だったらしい。
「うちの夫──勝彦は、意外にも大人しかったわ。兄の墓を見つめながら、うち、こう聞いたんよ。『うちは、あなたが怒り狂うと思っていたわ。なんで命を粗末にするだいや。おまえらは大馬鹿者だっちゃ──って、そんなふうに』。すると……勝彦さん、もう知っとったわ、なんて言うのよ。俺は、二人の心中を知っとったわ、前の日の晩に惣一から電話が来たけぇ……。
 そして、あの人は生まれ変わりを、輪廻転生というものを、信じるようになったわ」
 静子さんは一回ため息をついてから、
「うちは前世や来世なんて絵空事だと思っていたわ。人間、産声を上げるのも、荼毘に付されるのも、一度きりだと思っていた。惣一や愛子さん、勝彦さんの信じた生まれ変わりを、うちは信じられなかった。
 でもね、潤一君。あなたが来てくれたことによって、ずいぶんと救われたわ。二人が心中したことは、うちは、墓に入るまで許さない。絶対に。だけど、兄が生きていることを知って、ほっとしたわ。兄の魂は、ちゃんとあなたの中に宿っているのでしょう?」
 はい。僕は口の動きだけで彼女に伝えた。初瀬惣一と奥田愛子を取り巻く人々の気持ちを考えると、胸が熱くなり、声が出せなかった。
 ちょっと待って、と慶子さんは慌てて言った。
「潤一君は、惣次の記憶だけしか知らないんでしょう? だって、惣次の生まれ変わりなんでしょう? 静子おばさんは、まるで潤一君の中に、お義父さんまでいるとでもいうような言い方だけど……」
「実は……惣一さんの記憶もあるんです。前世療法で、思い出したんです」
 しかたなく、僕は本当のことを打ち明けた。
「昨日、惣次君の記憶だけを話したのは、話がややこしくならないようにしたんです。惣一さんの記憶もあるといえば、そのぶん、わかりづらくなるだろうし、こんがらがってしまいそうだったので……」
 そう、と、慶子さんは消え入りそうな声を漏らした。そして静子さんに顔を向けた。
「おばさんは、わかっていたんですか。その、潤一君は、お義父さんの生まれ変わりでもあるって」
 静子さんはやわらかくほほえんで、
「初瀬惣一と奥田愛子は、惣次君と愛美ちゃんに生まれ変わった……。それを踏まえて考えれば、潤一君は、惣一と惣次君の魂を引き継いでいると思うでしょう?」
 慶子さんは、うつむいた。何やら考え込んでいる様子だった。
「……でも、お義父さんの魂が惣次に移っているのは、少し癪です。卑怯だとは思いませんか?」
「卑怯?」
「お義父さんは生まれ変わりを信じていたのでしょう。だからこそ自分の名前の『惣』の文字を取って、孫につけろと命令した。忠人さんからそう言われたとき、私、猛反発したんです。自分たちの子どもなんだから、お義父さんの意見を聞く必要はない、と。それというのも、私は、ひそかに考えていたんです。男の子が産まれた場合は、しゅうじ、まもる、こうじ──いろいろと案を出していたんです」
 場の空気が薄くなったような、そんな息苦しさを僕は感じた。慶子さんの言うことが理解できるからだ。たとえ義理の父だとは言え、我が子の名前を勝手に決められるのはいやだろう。
 僕たち三人はうつむいたまま、時間だけが静かに流れていった。

 昼前になると、慶子さんは立ち上がった。昼ご飯の支度をするために帰るそうだ。静子さんと僕は玄関まで見送りに出た。この気まずいまま慶子さんと別れていいのかと思ったが、でも、どうすることもできなかった。
「潤一君」
 慶子さんは靴を履くと僕をまっすぐに見つめた。
「惣次の分も、しっかりと生きてね」
 惣一の名前を出さないのが、痛い。僕は、また鳥取に来ますと言ったが、彼女は、うなずきもせずに玄関の引き戸を開けた。
 もう会うことはないだろうな。僕は心の中で、ひっそりとつぶやいた。
 静子さんに、出前でもとりましょうか、と聞かれた。僕は首を横に振った。食欲がなかったからだ。
 静子さんはそれでも何か食べなきゃと言い、お茶漬けとみそ汁をつくってくれた。
「……初瀬の家を出たうちが言うのもなんだけれど、慶子さんには、兄のことを、惣一のことを許してもらいたいわ。惣一が死を選んだのは間違っていると思う。でも、人を愛することは――間違っていない」
「その気持ち、わかります」
「あなたも、誰かをそれくらい思っているの?」
 僕は、持っていた茶碗をひっくり返しそうになって、慌ててテーブルに置いた。
 図星ね、と静子さんが上品に笑う。
「もしかして……相手は、愛子さんと愛美ちゃんの生まれ変わり?」
「いや、それはまだわからないんです。だから鳥取に来て、真実をたしかめようとしているんです」
「東京に好きな子がいて、その子が、愛子さんと愛美ちゃんの生まれ変わりかどうかを知りたい、ということかしら」
 はい、そういうことです。そう答えてから、僕の頭の中に宮崎初美が浮かび上がってきた。
「宮崎初美という子なんですけど、なんとなく、はじめて会ったときから惹かれているんです」
「なんとなく、とはどういうこと?」
「あまり話もしたことがないから。でも、彼女のことが好きなんだと思います」
「恋なんてそんなものかもしれないわね」
 それから他愛ない会話をつづけながら、彼女の好きな山口百恵のCDを聴かせてもらったりした。静子さんは昔はよく歌っていたし、カラオケボックスに毎日のように通っていた時期もあったそうだが、しかし、最近は思いどおりの歌声が出なくなって悲しいらしい。
 山口百恵の歌を聴いている静子さんは、うっとりとしていて、まるで子どものようだった。
 ほかにもたくさんの曲を聴いているうちに夕方近くになった。僕はそろそろ鳥取駅に向かうことにした。
 静子さんはメモ帳を破り、電話番号を書いて、それを僕に手渡しながら、
「何かあったら連絡してちょうだい。迷惑かもしれないけど、うち、あなたの今後を知りたいの。惣一と惣次君の生まれ変わりのあなたが、これからどんな恋をして、どんな生き方をするのか興味があるの。でも、あなたにとっては迷惑なだけかもしれないわね」
「そんなことはないですよ」
 僕はケータイを取り出し、自分の電話番号も伝えた。ついでに、翔ちゃんの写真を見せた。勝ちゃんの生まれ変わりである翔ちゃんを見たら、静子さんはどんな反応をするだろうか、気になったからだ。
「見覚えがなくても、何かを感じませんか」
 静子さんは老眼鏡をつけ、それからケータイの画面を見つめた。目を細め、首を何度もひねった。
「……さあ、わからないねぇ。この子がどうかしたの?」
「いえ、なんでもないです」
 僕はケータイをジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。生身の翔ちゃんを見ないとわからないのかなと思った。データとして収められた翔ちゃんではなく、生身の翔ちゃんと静子さんを会わせたかったが、今の時点ではどうすることもできない。翔ちゃんを連れてくればよかったかなと、ちょっぴり後悔した。
 何もなくてごめんなさいね。じゃあ、気をつけてね。静子さんは笑顔で、元気よく手を振ってくれた。
 僕はお辞儀をして、スポーツバッグを持ち、家をあとにした。さっぱりとしたお別れだった。

 タクシーが工場地帯に差しかかると、僕はふと、運転手に行き先の変更を告げた。惣次と愛美の思い出の公園に行ってみようと思ったのだ。
 運転手は愛想がよく、きびきびとハンドルをまわして進路変更に応じてくれた。
 あたりの景色には――今と昔では多少変わっているところもあるが、でも――ほとんど見覚えがあった。デジャビュ。たしかにそのような感覚は鳥取に来たときからあった。どこに行っても、なんとなく、以前ここに来たことがあるような気持ちになるのだ。
 惣次と愛美の思い出の公園が間近に迫ってきた。僕の脳裏にフラッシュバックのように惣次の記憶がよみがえってきた。この公園で愛美とサッカーボールを蹴っていた記憶から、ここで愛美に告白した記憶まで――胸が締めつけられた。
 タクシーが止まり、僕は走って公園に行った。ブランコが風に揺られ、コンビニの袋が宙に舞っている。
 僕の足もとに、ありもしないサッカーボールが転がってきた。目の前には初瀬惣次が立っていた。こちらをじっと見つめていた。
 僕は靴のインサイドでボールを蹴った。ひさびさにボールを蹴ったせいか、思ったとおりの方向に行かなくて少しそれてしまった。でも、惣次は笑顔で、ありがとう、と言ってくれた。
 台風の予感をはらんだ風は依然として無邪気に吹き荒れている。柾の木がそれにぐっと耐えていた。いつの間にか、早川愛美もいた。惣次は白い歯をのぞかせ、楽しそうにボールを蹴っていた。
「おーい、まだ乗らんのかね」
 タクシーの運転手が助手席の窓を開けて叫んでいる。
 いま行きます、と僕は返事をした。ブランコの方を振り向くと、もう、そこには惣次も愛美もいなかった。僕の体内の、然るべき場所に帰ってしまったのかもしれない。
 僕はあたりをぐるっと見まわしてからタクシーに戻った。
「あの場所に何か思い出でもあるんか?」
 運転手は人懐っこい表情で言った。
「僕にとっては特別なところなんです」
 僕は惣次に代わって答えた。彼の鼓動が体中に響いていた。

 鳥取駅で翔ちゃんのお土産──二十世紀梨のゼリーとまんじゅう──を買い、夜行バスに乗り込んだ。車内はほぼ満席で、僕のとなりは厚化粧のおばさんだった。これから十二時間近く、この箱の中にいなきゃならないのかと思うと、辟易する。窓の外では――木の枝が風でしなり、段ボール箱やプラスチックのゴミ箱、赤白のコーンまでもが勢いよく転がっていて、台風の強さがうかがえる。
 読みかけの小説を開いてもうまく集中できない。そこで、僕はメモ帳に初瀬惣一と惣次の軌跡を書き込むことにした。いい暇つぶしになるし、このままだと話がこんがらがりそうなので、要点をしぼってまとめておこうと思ったのだ。
 前世療法でつかんだ情報と、鳥取で聞いた情報を照らし合わせながら、作業を進めた。
 雨が横殴りに窓をたたきはじめた。僕は頼りない電気スタンドの光に照らされたまま記憶を文章にしていった。
 ざっとこんな感じだ。

    「初瀬惣一」
 昭和二十五年 (一九五〇年)    十九歳
 四月、恋人の奥田愛子と別れる。

 昭和二十七年 (一九五二年)    二十一歳
 六月、結婚。
 翌年三月、長男忠人が生まれる。

 昭和三十一年 (一九五六年)    二十五歳
 七月、妹の静子が大竹勝彦の家に嫁ぐ。

 昭和五十一年 (一九七六年)    四十五歳
 二月、初瀬忠人、飯田慶子と結婚。
 四月、惣一、奥田愛子と再会。
 翌日、二人は心中。

    「初瀬惣次」
 昭和五十二年 (一九七七年)
 八月、惣一の魂を受け継いで、忠人と慶子の子として同家に生まれる。

 平成四年   (一九九二年)    十五歳
 二月、サッカーの試合中に脊髄損傷。
 十一月、退院。しかし、二度と歩くことはできない。
 一週間後、同級生の早川愛美に告白。
 十二月、大竹勝彦、死去。享年六十一歳。

 平成五年   (一九九三年)    十六歳
 三月、中学校卒業。
 同月、不慮の事故に巻き込まれ、早川愛美とともに死亡。

 そしてその年の十月には、惣一と惣次の記憶をしたがえて、僕が生まれるというわけだ。
 惣一と惣次の人生は確実に僕の中に存在していて、ときどき僕の体を乗っ取ったり、感情までも支配したりする。そのたびに、僕は僕でなくなる。
 僕は電気スタンドの明かりを消して、シートにもたれた。
 ──もし宮崎初美が、奥田愛子と早川愛美の生まれ変わりだったら……。
 心中してまで来世に賭けた恋。恋を実らせたものの、突然の不運によって死んでしまった二人。僕には、いったいどんな恋愛が待っているのだろう。
 ──うちらは一本の線で結ばれているのだと思うんです。
 ふいに、奥田愛子の言葉を思い出した。
 彼女は惣一との関係を線にたとえた。別々の線ではなく一本の線、蛇行していようと螺旋状だろうと、一つの線。たしかに、惣一の魂と愛子の魂は同じ流れに乗った。そして惣次も愛美も。
 僕の線はどうだろう。どんなかたちを描いていくのだろう。惣一たちのように、お互いの思いが崩れることのない、美しい直線だろうか。あるいは、惣次たちのように、終わりがぷつりと切れている、意地悪な線だろうか。
 僕はメモ帳にあらゆる線を描いた。

       十九

 見覚えのある街並みが目に飛び込んできた。たった一泊二日の旅だったけれど、ひさしぶりに帰ってきたかのような心境だ。台風は一夜にして遠ざかったようだが、名残の風と雨が吹いていた。その中、人々は急ぎ足で駅に吸い込まれていく。スポーツバッグを肩にかけ直し、僕は人の波に逆行して、広場のかたわらに建っているコンビニへと駆け込んだ。
 僕はビニール傘を買い、すぐに店から出ようとしたが、そこでふと、母のパート先をのぞいてみようかと思った。
 ──母さんはどんな感じで働いているのだろう。
 客が店内に入れ代わり立ち代わりやって来た。鳥取にももちろんコンビニがあったが、こんなにもせわしくなかった。見慣れている光景なのに、鳥取と比較すると、都会の人間は何かに追われているように映る。その「何か」とは時間かもしれないし、仕事かもしれない。もしくは悪魔に取り憑かれているのかもしれない。
 僕はどうだろう、と心の中でつぶやきが漏れた。もしかすると、僕もせかせかと歩きまわっている人間の一人ではないだろうか。とくに宮崎初美と出会ってからというもの、時間の流れが急激に早くなったような気がする。僕は冷静さを失っているようでもある。河名愛の気持ちをないがしろにして、宮崎のことばかり考えているのだ──とても正常とは言えない。僕は本当に最低なやつだ。宮崎をどうやって振り向かせるか、どうやったら興味を持ってもらえるのかと、このごろの僕は必死だ。そして、宮崎初美を奥田愛子や早川愛美の生まれ変わりにさせたがっている。
 たとえ彼女が生まれ変わりだとしてどうなるのだ、と自問する。
 すぐに自分の内面から答えが返ってきた。宮崎初美が、彼女らの生まれ変わりならば、それは運命ではないか、と。
 そうなのだ、彼女と僕は結ばれなければならないのだ。じゃないと、惣一や惣次の思い、願いを捨ててしまうことになる。僕と宮崎は運命の恋人であって、今世こそ恋を成就させなければならない。
 僕は甘美な気持ちで外に出た。風はおさまりつつあったが、細かい雨は執拗に降りつづけていた。

 母が働くスーパーは鏡餅みたいにどっしりと腰をおろしていた。中に入ると、主婦とショッピングカートに乗せられた赤ん坊の姿ばかりが目立っていた。四台のレジがあり、そのうちの一番奥に母がいた。チェックのチョッキに濃紺のスカートという格好で、顔見知りなのか、客と親しそうに話している。
 母がこちらを見たような気がして、僕はとっさに陳列棚に隠れた。見られたらばれるなと思った。が、もう少し仕事に励む母の姿を見ていたかった。
 しばらくの間、スナック菓子を吟味する若者を装って、母の方にちらちらと視線を配った。母は客が落とした小銭を、笑いながら拾っている。何度見ても、毎晩酒に執着している母親とは思えなかった。
 やるじゃん。僕はうれしくなって、このまま母の前に立って、驚かしてみたくなった。手近のスナック菓子を取り、足早でレジに向かった。どんな顔をするだろう。
 母と目が合った。いざこうなってみるとなかなか恥ずかしいものだ。僕は伏し目がちにスナック菓子をレジの台に置いた。
「潤君……」
 母は心底驚いている様子だった。
「いつ帰ってきたの?」
 予想以上の母の反応に、僕は愉快な気分になった。どっきりは、大成功だ。
 しかし、今度はこっちがどきりとさせられる番だった。母が目に涙を溜めていく。たちまち大粒のしずくがぽろぽろと落ちはじめる。
 僕はひどくうろたえた。買い物かごを持った肥満体のおばさんが、けげんそうなまなざしで、こちらをうかがっている。
「何、のこのことこんなところに来てるのよ。私は、警察に捜索願を出そうかどうしようか、ずっと悩んでいたっていうのに」
 母はレジを迂回して僕の前に来た。
「お、大げさすぎるって……」
 僕は頬の筋肉をうまくゆるめることができず、おまけに声までこわばってしまった。
「ていうか、早く勘定を──」
 言いかけたところで、母は、「うわぁーん!」と子どものように泣き声を上げた。周囲からどよめきが起こった。ひそひそと話し合っているおばさんたち、ぽかんと口を開けて見ているおじいさん、レジの係さえも、わざわざ体をねじって、僕たちを眺めている。
 こんなことになるのならやめときゃよかった、と、僕は舌打ちしたが、泣きじゃくる母を見つめる以外にどうすることもできない。
 と、精肉売場の方から男性の店員が走ってきた。背が高く、妙にほっそりとしている人だった。色白の顔には冷や汗がにじみ出ていた。
「いったいどうされたんです?」
 母は男性店員の呼びかけに何か答えようとしたが、嗚咽が邪魔をして、なかなか言葉が出てこないみたいだった。
 すみませんが空いているレジに行っていただけますか、と、男性店員は僕の後ろにいるおばさんたちに言った。
 僕は台の上に放ってあるスナック菓子を見てから、ため息をついた。母はしゃくり上げながら、手の甲で目もとをぬぐっている。ざわめきはいまだにやまない。
 どうしたっていうんですか。泣いてちゃわからないですよ。男性店員は母の肩を揺さぶり、懸命になだめる。
「だって……だって潤が……潤が家出して、一昨日の晩から、心配で心配で……夜も、眠れなくて」
 ひどいわぁ。どこからか同情の声が飛んだ。僕ははっとして、まわりに視線を走らせると、みんなが、まるで不良を見るように見ているのがわかった。男性店員も、この親不孝者! と、無言で訴えている──ような気がする。母の説明が乏しいせいで、僕は完全に悪者扱いだ。
「いいんです、いいんです」
 母は手を振って、
「私が悪いんです。潤はぜんぜん悪くない。親である私が、もっとしっかりしなきゃいけないんです……」
 ──おいおい、勘弁してよ。
 僕は、ますます萎縮してしまう。

 そのあと、男性店員のはからいで母は早引けすることになった。
 道を歩きながら、僕は、母に話しかけた。
「別に家出とかじゃないって。勘違いするなよ」
「だって、私を嫌いになったから、出ていったんだと思ったんだもん」
 母は下唇を突き出した。いったい何歳だよ、と、あきれてしまうほど幼稚な仕種だ。
「っていうかさ、あんなに人が見てるところで泣くなよな。もう散々だよ」
「だって、いきなり現れるんだもの、びっくりするじゃない。ずっと帰ってきてって、願っていたけれど、実際に帰ってこられたら、泣くしかないじゃない」
「なんだよ、それ」
「だって……」
「さっきから、『だって』が多い」
 僕はびしっと指摘するが、母はまた「だって」と言い、
「……私、捨てられたんだって思った」
「捨てる」という言葉が出てくるとは思ってもみなかった僕は、少しどきっとした。
「前に、潤には大切なものがあるかどうか聞いたことがあるんだけど、憶えてる?」
 母は泣きはらした目で、
「お母さんの大切なものはねぇ、実はねぇ、潤なのよ」
 スーパーで大泣きされたときよりも、僕は恥ずかしくなり、そして居心地悪くなった。
「よく平気でそんなくさい台詞を言えるよな」
「いいじゃないの、たまには」
 母は鼻歌まじりにスキップをはじめた。
「なんだよ、急に」
 正常とは言いがたいが、しかし、ひさびさに明るい母を見られて、僕はぷっと噴き出した。
 ──母さんの近くにいてやろう。
 僕は心に誓った。

       二十

 夏休みという期間は日増しに時間が加速度を上げていって、はっとしたときには、たいてい終わっているものだ。
 僕は今、ぬるい倦怠感と闘いながら、校長の話を聞いていた。まわりの生徒たちもあくびを噛み殺したり、うつらうつらしていたりして、意識はまだ夏休みの中に沈んでいるようである。背筋をしゃんと伸ばしている教師たちには、感心というよりも、あきれてしまう。額に大粒の汗を光らせながら、平然と、校長のくだらない話に耳を傾けているのだ。ほんと、よくやるよ。僕は、そうつぶやかざるを得ない。
 ただ、一人だけ、あからさまに規律を乱している教師がいた。近野朋泰だ。彼は手で顔をあおいだり、声には出さずに「あっちー」と囁いたりしている。そんな彼の態度に、みんながくすくす笑う。道理で人気があるはずだ、と僕は思った。
「気取りすぎじゃねぇ? 近野のやつ」
 すぐそばで、楠田が、横の生徒に言うのが聞こえた。
 せっかく忘れかけていたのに……。僕は、たちまちいやな気分になった。そして楠田特有の、スウィートフローラル系のにおいが流れてきて、さらにいやな気分にさせられた。
 楠田は今日、ひさしぶりに登校してきたのだ。胸をふんぞり返らしてやって来た。復学の理由は、「バックに不良がついているから」。彼は、夏休み前からゲームセンターとかに入りびたるようになり、そこで仲間の輪を広げていった──らしいが、真相はまだわからない。とにかく嘘つきなやつだから。

 教室に戻り、担任の近野の話を聞き終わると、下校となった。
 宮崎初美は僕の横を通り過ぎ、近野に一礼をして、さっさと教室から出ていった。彼女に用が──というよりは、たずねたいことが──あったので、僕は慌ててあとを追おうとした。
 そのとき誰かに肩をたたかれた。反射的に振り向くと、楠田がいた。なぜか不気味に笑っている。
「なんだよ」
 僕は眉をひそめながら言った。
「あの宮崎が、帰り際に、教師にあいさつするなんておかしいと思わねぇ?」
「……何が言いたいんだよ」
 楠田は額にしわを寄せて、おどけた表情に変わった。
「だからぁ、近野と宮崎初美はつき合ってる、ってこと。驚いたぁ? 久野君って、宮崎に気があるでしょ? それで、儚い恋だなぁって、哀れに思っちゃって──君が失恋する前に教えてあげたわけ。俺、親切でしょ」
「別に、宮崎のことなんかどうも思ってねぇし。勝手に憶測するなよ。また殴られたい?」
 僕は言った。宮崎と近野がつき合っているなんて信じられるわけがない。こちらを動揺させたいだけなんだろ、と内心でせせら笑った。
「あれぇ? 久野君って、宮崎初美のこと、好きじゃなかったんだぁ。夏休みに、宮崎と近野がいっしょに歩いているところを見たものだから、久野君に報告しなきゃ、って思ってたんだけど──ごめんごめん、俺、勘違いしてたわ。
 だって、君さ、宮崎の、あの噂のとき、あんなにも必死でかばってたじゃん。実は彼女に気に入られようとしていたから、なんじゃねぇの?」
「ただおまえを生理的にむかついていただけ――っていうか、今もむかついてるんだけど、かなり」
 じゃあ殴ってみろよ、前みたいに、と、楠田は挑発的な態度に出た。
「言っとくけど、俺に刃向かわない方がいいよ。一度、集団リンチされてみる?」
 ゲーセンで知り合った仲間にでも頼むつもりなのだろう。僕はあきれ気味に思った。やっぱりこいつは「スネ夫」だな。
「おい、潤。帰ろうぜ」
 学生鞄を提げた翔ちゃんが廊下から顔をのぞかせた。
 分が悪くなったと思ったのか、楠田は舌打ちまじりに立ち去っていった。その背中が小心者だと言っているようで、僕は苦笑した。
「……あいつ、潤に殴られたやつだろ」
 校舎を出ると、翔ちゃんが口を開けた。
「なんか、学校に来はじめたみたい」
 僕は周辺を見まわしながら、そう答えた。すぐに宮崎の後ろ姿を見つけて、少し体がこわばった。彼女を目にするだけでひどく心が落ち着かなくなる。
「また懲りずに、変な噂、流したりしてな」
 翔ちゃんは笑いながら言った。
 僕は、ついさっき宮崎と近野がつき合ってるなんて言ってたよ、と言おうとしたけれど、やめた。
 坂を下って並木道に出る。蝉の声が一際大きくなった。宮崎との距離は十メートルほどある。向こうは僕たちに気づいていないようだ。
「……あのさぁ、ちょっとお願いがあるんだけど」
 僕は遠慮気味に話を切り出した。
「なんだよ、あらたまって」
「聞いてくれる?」
「だから、なんだよ」
 僕は、翔ちゃんにそっと、耳打ちした。
「はあ? 宮崎のスカートをめくれ、だと!」
「しっ! 声がでかいって!」
 僕は即座に人差し指を口もとにあてた。
 翔ちゃんは決まりが悪そうな顔で前方の宮崎を見てから、
「なんなんだよ、その変態じみたお願いはよぉ」
「勘違いしないでよ。……あることをたしかめたいだけなんだ」
「宮崎のパンツの色を、か?」
 宮崎初美が愛子さんや愛美の生まれ変わりかどうかを知りたいんだ、と、僕は慌てて言った。
「スカートをめくれば、それがわかるのかよ」
「うーん……確信があるわけでもないんだけど、でも、いちおう見てみたいんだ。体育服はジャージだし、宮崎は、水泳の授業には参加しないし――なかなか見る機会がないんだ。ちなみに、左足が見えるようにめくってほしい」
「見てみたいって、いやらしいな」
 僕がむっとすると、翔ちゃんは、冗談だっつーのと言って、笑った。
「わかったよ、わかった。宮崎のスカートをめくってきてやるよ」
 翔ちゃんは学生鞄を肩にかけ、宮崎初美の方に向かって歩を進める。
 僕は彼を追いかけながら、ふと疑問を口にする。
「なんで俺がやらなきゃいけねぇんだよ、とか言って、いやがると思っていたのに──素直だね」
「だってよ、いつも結局、俺がやるはめになるだろ?」
「よくわかってるね」
「長いつき合いだからな」
 ……長いつき合い、か。初瀬惣一と大竹勝彦のときから、というニュアンスがふくまれているような気がして、僕はうれしかった。
「スカートめくりの天才、長谷川翔太、行きますっ!」
 翔ちゃんは声高に宣言して、駆け出した。
「見たいのは左足だからね!」
 身の危険を感じたのだろう、宮崎は立ち止まり、緩慢な動作でこちらを振り向いた。顔には困惑があった。
 翔ちゃんは「とりゃー」だか「おりゃー」だかよくわからない奇声を発して、腰をかがめた。つぎの瞬間、チェックのスカートがふわりとめくれた。
 僕は目を凝らし、彼女の左太ももを見つめた。
 宮崎は意外にも女の子らしい声を上げて、両手で素早くスカートを押さえた。
「ピンク色、しっかりと拝ませてもらったぜ!」
 翔ちゃんは恥ずかしさを隠すために大げさな口調で言った。
 宮崎は、しばらくの間、翔ちゃんをじっとにらんでいたが、いきなり「最低!」と吐き捨てて、足早に去っていった。
「……なんだよ、ノリが悪いよなぁ」
 翔ちゃんは泣き笑いの顔だった。けっこう傷ついたみたいだ。
「それで、たしかめられたか?」
「うん、信じられないけど──あったよ」
 僕らは歩みを再開した。
「何があったっていうんだよ。俺、がんばったんだから、教えろよ」
「……左の太ももに、痣があるかないか、知りたかったんだ」
「痣?」
 僕はうなずいた。宮崎の足にあった赤いような、黒いような痣を思い浮かべながら。
「鳥取の、初瀬家を訪れたとき、アルバムを見たんだ。そのとき、早川愛美の写真を見て、彼女の太ももに痣があることがわかった」
「ああ、なるほどな」
 翔ちゃんはパチンと指を鳴らした。宮崎に「最低!」と罵られてから、まだ数分も経っていないのに、いつの間にか陽気な表情に戻っている。
「痣とか、受け継がれる場合があるものな」
 そう、と僕は相槌を打った。
「鳥取に行く前に、輪廻に関する本を何冊か読んだんだ。前世の自分と同じところに、同じような痣がついている、というエピソードを知って……だから、早川愛美の痣を見たとき、はっとしたんだ」
「そして今、宮崎初美の足にも同じ痣があった、というわけか」
 翔ちゃんは顎に手をあてて、めずらしく真剣な顔つきになった。まるで名探偵のようだ。
「俺はてっきり、奥田愛子や早川愛美の生まれ変わりは、河名だと思っていたのに……まさか、宮崎初美だったとはな」
 ひさしぶりに以前つき合っていた彼女の名前を聞いて、僕は少し驚いた。
「なんで愛だと思ってたの?」
「だってよぉ、名前に『愛』がついてるじゃん。愛子、愛美、そして河名愛」
 さすが「迷」探偵。
 もしかして、おまえさぁ、と、翔ちゃんは言う。
「宮崎初美のことが好きなのか?」
 僕は軽く首をひねったが、翔ちゃんはそれを肯定だと思ったらしく、長いため息を吐き出した。
「……でもよぉ、河名がかわいそうじゃね? あいつ、まだおまえのことを諦めてないと思うけどなぁ」
「もう何ヶ月も連絡が来ないんだよ。あっちだって、別の恋に走ってるって」
「おまえ……河名の純粋さを嘗めてるな」
 彼は、まるで妥協を許さない政治家のように言った。

 翔ちゃんの予想ははずれていなかった。その日の夜、偶然なのか必然なのか、河名愛からメールが届いたのだ。
『私はずっと待ってます。潤君が誰かを好きになっているとしても、誰かとつき合っているとしても』
 短い文章だったけれど、切実さと祈りに近いものが込められていて、僕は泣きたくなった。何度も愛に謝った。ごめん、もう好きじゃないんだ、と。
 メールを返そうとしたが、言葉がまったく浮かんでこなかった。しかし、このままだと愛に申しわけないと思い、僕は電話をかけることにした。数回のコール音のあと、静かにつながった。
 もしもし、愛? と呼びかけるが、返事はない。向こうの息づかいだけが聞こえる。
「……聞こえてるなら、何か言えよ」
 僕は頭をかきむしって、愛の反応を待った。時計の秒針が二周したところで、
『この電話は、何?』
 と愛は言った。涙をこらえているのが、声の響きでわかった。
『もしかして、私のもとに帰ってきてくれるっていう電話なの? それとも、別れよう、っていうこと?』
「あとの方……かな」
『いや! だったら切る!』
「ちょっと待てよ。話を聞いてくれ」
『私、デートの誘いしか受けないから!』
 電話はプツリと切れた。ツー、ツー、と、空しい音がこだまする。僕はケータイを机の上に放り投げ、ベッドに突っ伏した。
 胸が苦しくなる。自分が醜い生き物のような気にさせられた。いっそのこと、嫌いだと言ってほしいくらいだった。

       二十一

 あれから二ヶ月が経ち、カレンダーは十一月に変わった。ケヤキや銀杏の木の葉を冷たい風が巻き上げていく。雑踏を行き交う人々はコートの襟を掻き合わせ、太陽でさえ冬に向けて準備体操をはじめる。
 そして、僕と宮崎初美はよく話をするようになった。好きな色は? 好きなテレビ番組は? 好きな本は?──僕は少しでも彼女を知りたかったので、たくさん質問した。最初、彼女はただたんに答えるだけだった。が、次第に変化が訪れた。いつの間にかクラスメイトにあいさつするようになり、自然と彼女のまわりに人が寄ってくるようにもなった。
 僕は、しかし日々いら立ちもつのらせていった。宮崎がほかの生徒と楽しそうに話し込んでいるのを見かけるたび、僕もあの生徒たちと同じような扱いなのだろうか? という不安がよぎるのだ。このままだと何も進展しないんじゃないか、「仲のいい友だち」で終わってしまうんじゃないか――。

 その日の五、六時限は文化祭についてクラスで話し合った。係を決めるとき、僕は、宮崎に「映画をいっしょにやろう」と持ちかけた。彼女はこくりとうなずいてくれた。ほかに彼女と親しい女子が二人、入ってきて――僕たち四人は、一階の教室を借りて、映画を放映することになった。
 順調に各担当が決まっていった。やがてチャイムが校内に鳴り渡り、みんなは帰り支度をはじめた。
「宮崎」
 僕は鞄を持って宮崎の机の前に行った。すぐそばを男子が駆け抜けていく。
「何?」
 宮崎は白いマフラーを首に巻きつけながら言った。
「ひさしぶりにいっしょに帰ろうぜ」
 彼女は最近、女友だちと帰っているようだった。僕は今日、思いきって誘ってみたのだ。
「うーん……」
 宮崎は躊躇しながら、僕の背後にちらっと視線を向けた。案の定、お待たせー、と女子が二人、こちらにやって来た。二人とも同じ映画係である。
「初美、カラオケにでも行く?」
 一人が快活に言った。
 宮崎は僕と彼女を交互に見てから、
「ごめん。用事があるんだ」
「えー、つまんない」
「ごめんね」
「罰として今度、奢りね」
 そう言い残すと、二人は教室を出ていった。
 じゃあ、帰ろうか、と僕は言い、宮崎は無言でうなずいた。
 校門を抜けると、耳をつんざくほどの轟音が聞こえた。坂道を大型のバイクが勢いよく上ってきて、学校の前で急停車した。レザージャケットを着た男。ヘルメットで顔はわからない。周囲の生徒たちはひどく困惑している。
 と、校舎から楠田が走ってくるのが見えた。バイクの男が待っているのは、どうやら楠田のようだ。
 僕は、早く行こう、と宮崎を促した。が、それと同時に聞きたくなかった声が飛んできた。
「久野くーん、これからラブホにでもしけこむつもりでしょ。それとも自宅? もしかして大胆に野外プレイ? 今度俺も仲間に入れてよ」
 僕は振り返って、きっとにらみつけたが、楠田はまったく動じない。
「うそうそ、久野君ってジョークが通じないんだね」
 彼は笑いながらバイクの後部にまたがり、黒光りするヘルメットを被った。
 そしてバイクは乱暴に走り去っていった。
「なんだよあいつ」
 僕は吐き捨てるように言った。
「相手にしない方がいいって」
 宮崎は微苦笑し、それから話題を変えた。
「こうやっていっしょに帰るのって、本当にひさしぶりだよね」
 僕は、ああ、と相槌を打ってから、
「……実はさ」
 と言葉をつなげた。楠田に対するざらっとした、砂を噛んだような心地悪さが残っていたが、気持ちを切り替えることにした。これから大事な話をしなければならなかった。
「ちょっと、話したいことがあって」
「うん、何?」
「前に、前世のこと、話したじゃん。僕の前世、初瀬惣一と初瀬惣次の話とか――憶えてる?」
 宮崎はゆっくりとうなずいた。
「興味があったから、憶えてるよ」
「……前世の僕は、奥田愛子と早川愛美っていう子が、好きだったんだけど」
 僕は、ここでせき払いを一つはさんだ。宮崎はじっとこちらを見つめている。つむじ風が並木道を駆け抜けて、落ち葉がそれに巻き込まれる。
「その二人の生まれ変わりが、宮崎──君なんだ」
 予想したとおり、彼女はきょとんとした表情になった。
 僕は、本当なんだ、と、つけ足した。
「……なんで、そう思うの?」
「痣」
 僕は言った。
 彼女は眉間にしわを寄せて、痣? と聞き返す。
 気分を悪くしないでほしいんだけど、そう断ってから、僕は注意深く言葉を選びながら話した。
「翔ちゃんが、宮崎のスカートをめくったことがあっただろ? あれは……つまり、確認したかったからなんだ。翔ちゃんがわざとやったことではなくて、宮崎の足に痣があるかないか、調べたかったんだ」
「あたしの左の太ももには、たしかに痣があるけど。どうしてわかったの?」
「まあ、わかったっていうか──早川愛美に、痣があるんだ。それも、宮崎とまったく同じ場所に」
 彼女は首をかしげた。だから、何? という感じだった。
「前世の痣や病気、性癖とか、現世にも引き継がれるケースがあるんだ」
「へぇー、おもしろいね。もしかしたら、あたしはずっと昔、久野君の恋人だったかもしれないんだ」
 あっさりと受けとられてしまい、僕は落胆した。前世療法を受けていない人にとってはそんなものだろう。だけど、まだ引き下がるつもりはない。もう少しねばってみよう、と思った。
「宮崎も、前世療法、受けてみない? 奥田愛子と早川愛美の人生を思い出せるかもしれないんだからさ。興味、あるんだろ?」
 興味はあるけど……、と、宮崎はどこか不安そうな声だった。
「でも、実際に前世療法を受けたいわけじゃないから……」
 彼女は、しばし口ごもってから、
「前にも言ったけど、自分の前世を見るなんて、怖いよ。生まれる前の自分を知ってしまったら、その人に左右されてしまいそうで……」
「怖くなんかないよ。だって、自分は自分なんだからさ」
 僕は笑って言った。
「前世を見たからって、それは一つのストーリーなんだって割りきったらいいんだ。映画を観ているようなものだってね」
「久野君は?」
 と、宮崎は強めに言い放った。
「久野君なんて、すごく前世に固執しているじゃない」

       二十二

 宮崎はやっぱり信じてくれなかった。説明だけでは無理だった。期待していたわけではないが、しかし、頑なに拒否されるのは、痛かった。惣一や惣次の人生が否定されたようにも感じられたからだ。
 彼女は、僕が前世に左右されていると言った。僕は固まってしまって、何も言えなかったけれど、よくよく考えてみると――しかたないじゃないか、と思う。はじめて会ったときに相手に感じる「一目惚れ」や「第一印象」といったものは、自分の前世と密接な関わりがあるのだ。前世のときの恋人同士がまた現世で再会を果たし、結ばれる──そんなケースも報告されているように、前世のできごとは、なんらかのかたちでずっと、未来永劫つながっているのだ。要するに、誰もが無意識のうちに「左右」されているのではないか。
 もう、文化祭で証明するしかない、と僕は思った。
 僕たちは生まれ変わりなのだということを、結ばれる運命なのだということを、宮崎に気づいてもらうのだ。

 この数日間は、宮崎に前世の話を振ることなく、大人しく過ごした。いつもどおり平凡な会話を交わし、笑い合った。話題はもっぱら文化祭のことだ。
 どの映画を放映するか――僕は、ジブリの映画にしよう、と言った。どうしてもジブリの映画にしたかった。する必要があった。意外にもあっさりと──映画の係は僕を入れて四人しかいないのだが──満場一致となった。流血シーン必至のアクション映画や好みが分かれるホラー映画よりは、大衆向けであるジブリの方が無難だし、教師にクレームをつけられることもない。宮崎もジブリが好きだと言っていた。

 そして文化祭の日がやって来た。天気予報では夕方から雨が降るらしく、みんなで火柱を囲い「マイムマイム」の曲に合わせて踊る、という、文化祭には欠かせない恒例イベントが行われるかどうか、心配だった。小降り程度なら予定どおりだろうが、本降りになるとだめだ。今は晴れているが、これからどう天候が変わっていくかと思うと、僕は内心慌ててしまう。
 映画係の僕たち四人は、午前の部に二人、午後の部に二人、それぞれ分かれて務めようと決めていた。僕は午後の部で、宮崎と組んだ。空の表情が気になるが、とりあえずは順調に事が運んでいった。計画を実行に移す日が来たのだ――僕は、この日に賭けていた。彼女が自分の前世を思い出してくれることを願っていた。
 午前中は校内をまるで放浪者のように当てもなく歩きまわって、時間をつぶした。他校の生徒や一般の人がそこらじゅう行き交っていて、校庭に点在する屋台から活気ある声が上がっていた。
 僕は、翔ちゃんが店主を務めるたこ焼き屋に行った。頭にタオルを巻き、そこに扇子を差し込んだ翔ちゃんは、休む暇もなくたこ焼きを売りさばいていた。青海苔のこうばしい香り。ひとパック買うと、もう一つ、おまけしてくれた。あまりにもたこ焼きがうまかったので、その場でぺろりと平らげてしまった。
 そろそろ午前の部と交代だな、と思いながら、校舎に入った。
 と、下駄箱に張り出された案内図を眺めている女性と目が合った。僕はひどく驚いた。マジかよ、とつぶやかずにはいられない。
 母だった。ニットのセーターの上に黒いジャケットをはおっている。
「なに予告もなく来てんだよ。今日は休みじゃないだろ。仕事はどうしたの」
「時間をずらしてもらったの。三時には行くつもりよ」
 母はにこっと笑い、また案内板に顔を向けた。
「ところでさ、潤君は映画の係なんでしょう? どの教室でやるの? 最近、視力が落ちちゃって、見えづらいのよ。そろそろ老眼鏡を買わなきゃいけないのかしらねぇ」
 僕はため息をつきながらも、こっちだよと言って、母を映画の教室まで連れていった。
 教室にはすでに宮崎の姿があった。前方のスクリーンと向かい合ったかたちで椅子が並んでいて、中央に映写機が置かれている。今はまだ昼休憩だから客は一人もいない。厚手のカーテンが閉められていて、室内は薄暗かった。
 母が廊下側の席に座るのを見ながら、僕は、窓際にいる宮崎のところへ行った。
 彼女は小声で、
「誰?」
 僕は、うちの母親、と答えた。横目でうかがうと、母は楽しそうにあたりを見まわしている。ひさびさの学校の空気を味わっているのだろう。
「久野君んちのお母さん、きれいだね」
 宮崎が囁く。
「お世辞はいいって」
 宮崎は、そんなことないよと言う。彼女の言葉には誠実さがこもっていた。本当に母のことをきれいだと思っているみたいだ。
 僕はもう一度、母の顔を見た。そこで、はっとした。母の髪はつやつやとしていて、目も、前みたいに落ちくぼんでいない。荒れていた肌もなめらかだ。いつの間にこんなに若々しくなったのだろう。今まで気づかなかった。
 たしかに、僕が鳥取から帰ってきた日――あの日から、母は変わりはじめた。酒の量が減り、料理をするようになった。
 あと、母が長谷川クリニックに通っているのも、僕は知っている。ふとしたことがきっかけで診察券を見てしまったのだ。電話でクマ先生にたずねたら、「九月から通院している」とのことだった。
 精神が回復すれば肉体もそれに呼応するものなのだろう、今日の母はきれいだ――僕はなんだかうれしくなって、でも無性に照れくさくて、うつむいた。
 午後の部に入り、客がぞろぞろとやって来た。
 はじめます、と僕は宣言して、映写機を作動させた。大きなスクリーンに映像が映し出された。「となりのトトロ」だ。
 しばらくして外の方からドラムの音がかすかに聞こえはじめた。なんだろう、と僕は顔を上げたけれど、カーテンに遮られて、見ることはできない。みんなも気になっているようだ。
 廊下を何人かの生徒が靴音を立てて走り抜けていった。これから近野先生が歌うんだって、という声が聞こえた。
「これから盛り上がろうぜー」
 マイクを通した近野の声。それに共鳴するかのように女子が歓声を上げる。ジャラーン、とギターの音が鳴り響いた。軽快なイントロが流れ、
「トランジスタ・ラジオ、いくぜ」
 近野が叫ぶ。そして気持ちよさそうに歌い出した。
 たちまち僕の胸に驚きが広がっていった。まさか近野が歌うとは……。
 僕は小さくガッツポーズをした。今のところすべての「ピース」が順調に組み合わさっていっている。なぜなら、「あの日」を再現するためにも、近野の歌は、必要な要素だったから。
 そう、僕は、十七年前の――初瀬惣次と早川愛美の――文化祭と、今日の文化祭をダブらせようとしているのだ。宮崎初美の根底に眠っている魂を呼び起こすために。

       二十三

「火垂るの墓」と「魔女の宅急便」を観て、「おもひでぽろぽろ」の途中に、校内放送が入った。間もなくメインイベント、フォークダンスがはじまります、校庭に集まってください、と。
 みんなが一斉に立ち上がって、伸びをしながら教室を出ていった。仕事に行ったのだろう、母の姿はもう見当たらない。
 いよいよだな、と僕は心の中でつぶやいた。
「久野君、早く片づけないとはじまっちゃうよ」
 宮崎はそう言いながら、机と椅子をもとの位置に戻している。
 僕はカーテンを開け、それから窓も少しだけ開けて、外を眺めた。空には厚い雲が漂っている。雨はまだ降りそうにない。
 校庭の中央では火柱が揺れている。みんながそれを囲んでいた。定番の曲が流れるのを今か今かと待ち望んでいるようだ。
 そのとき、窓から光り輝く何かが入ってきた。目をしばたたいてからよく見ると、一羽の蝶々だった。それは黄金色の光を放っていた。
 僕はゆっくりと蝶に手を伸ばす。捕まえられないのはわかっている。案の定、蝶は光の軌跡を残しながら僕の手をすり抜けていく。
「近野君」
 宮崎に呼びかけられて、僕ははっとした。
「ぼうっとしてないで、机、運んでよ」
 僕は教室中を見渡した。蝶などどこにもいない。やっぱり幻だったのかな、と思った。その瞬間、心臓がどくんと跳ねた。全身に激しい痛みが走った。
「……でもさ、僕たちは教室にいようよ」
 僕はそう言った。なんだか自分の声じゃないみたいだった。
 え? と宮崎が聞き返す。
「この教室の真ん中で、僕と踊ってほしいんだ」
「踊るの? だったら早く校庭に行こうよ」
「いや、この教室じゃないと、意味がないんだ」
「意味がないって、どういうこと?」
 彼女は眉をひそめた。
 僕は彼女のもとに詰め寄った。怯んではいけない、と自分に言い聞かせながら。ここまで順調に来たのだ、このチャンスをみすみす手放すことはできない。
「久野君……なんか、怖い顔してるよ」
「え、そう?」
 僕は笑顔をつくったが、たちまち軽いめまいに襲われた。視界がぼやけて、冷や汗が頬をつたった。立っていられないほど苦しくなった。
「だいじょうぶ? 顔色、悪そうだけど……」
 ガタッと音がした。どうやら宮崎が机の角に腰をぶつけたようだ。
「なんで怖がるの?」
「いつもの、久野君じゃないみたいだから」
 宮崎は伏し目がちに言った。
 そんなことないよ、と僕は笑った。まだめまいはおさまりそうにない。
「それよりさ、何か思い出さない?」
「……別に。思い出すことなんてないけど」
「見覚えない? この光景に」
「ねぇ、保健室に行こうよ。顔、真っ青だよ」
「どうってことないから」
 僕は少し声を荒らげた。彼女があの日のことを思い出す気配がないので、いら立っていた。
 手の甲で額の汗をぬぐい、唇を噛んで痛みに耐えていると、馴染みのある曲が流れはじめた。「マイムマイム」だった。
 これで宮崎は思い出してくれるはずだ、と僕は確信した。
「さあ、踊ろう」
 僕はそっと手を差し伸べた。
 しかし、宮崎は首を横に振って、拒絶した。
「誰?……久野君じゃないみたい」
「何言ってんの? 僕は僕だよ」
「まるで何かに取り憑かれているみたいだよ」
 ふたたび心臓が飛び跳ね、鋭い痛みが走った。
 僕は怒りを覚えた。なんで素直にしたがってくれないんだ、これじゃあいつまで経っても思い出せないじゃん!
 僕は素早く宮崎の肩をつかみ、激しく揺さぶった。彼女は短く呻いた。
 怖がることはないよ、と僕は言った。
「前世を思い出すのは不安かもしれない。でも、君は奥田愛子や早川愛美の魂を宿しているということを、知らなければならない。知る義務がある」
「放して!」
 僕は宮崎に突き飛ばされた。
 どうしたら理解してくれるのだろう。僕は当惑しながらあたりを見まわした。「あの日」と今、違いはどこにあるのだろう。もっと完璧に演出しなければ──。
「何がだめなのかな。もしかして……たしか、あのときは……教室の明かりがついていたよな」
 ──そうだ、惣次と愛美が踊っているとき、教室は蛍光灯の明かりに満ちていた。
 僕は胸の痛みに耐えながら、スイッチを入れた。ぱっと光がともった。これで、よし。
 僕は笑顔で言った。
「今度こそ、踊ってくれるよね?」
 宮崎は反応しない。黙り込んでいる。
「早くしないと、曲が終わっちゃうよ」
 ちらっと外を見た。曲が終わってしまったら、すべてが台なしだ。
「……久野君」
 宮崎がふいに言葉をこぼした。
「もしかして、あたしに、前世を思い出させようとしているの?」
「そうだよ。今、初瀬惣次と早川愛美が踊っていた光景を再現しようとしているんだ」
「そんなことをして、何になるの? もしあたしが、早川愛美っていう人の記憶を思い出したとして、それがなんだっていうの?」
 僕は目に入った汗を指の先でぬぐいながら、
「初瀬惣一と奥田愛子、初瀬惣次と早川愛美のことを話しただろ? 僕と宮崎は、その人たちの生まれ変わりなんだ。だから、ふたたび結ばれる運命なんだ」
「おかしいよ、それ」
 宮崎はぎこちなく笑った。
「そこまで前世の自分に執着しなくてもいいと思うよ」
「何も知りもしないくせによく言えるよな!」
 僕は叫んだ。
「初瀬惣一たちの気持ちがどれほど強いものだったか、僕は知ってるんだ。そして宮崎にも知ってほしいんだ。忘れている感情に気づいてほしいんだ」
「前世を思い出したら、あたしは、久野君を好きにならなくちゃいけないの?」
「別に好きになってくれとは言わない」
 僕は言った。
「初瀬惣一と奥田愛子は、未来でいっしょになるために、心中を選んだ。初瀬惣次と早川愛美は、つき合いはじめて数ヶ月後に、事故で死んでしまった。どちらの人生も満足にいっていないんだ。だから、願いを叶えてやりたいんだ」
 いいじゃん、叶えなくたって……。宮崎はぼそりと言った。
「これは、あたしたちの物語だよ。存在していない人に振りまわされるのもどうかな。前世の人の気持ちを捨てろとまではいわないけど、でも、そこまで過剰にならなくてもいいと思うよ」
 体が熱い。胸が痛い。頭が割れそうだった。
 僕はふと、外を見た。
 なんということだろう――雨が降っていた。窓に点々と水滴がついている。生徒たちが校舎に引き返していた。
 みるみるうちに大降りとなった。「あの日」の面影がなくなっていく。
 ……信じられない。計画は失敗だ。惣次たちの思い出を、つかみそこねてしまった。もう取り返しがつかない。
 どうしてくれるんだよ! 僕は低く醜い声を発した。
「『あの日』は雨なんか降っていなかった!」
 宮崎はうっすらと笑みを浮かべていた。
「過去は過去だよ。再現するなんて、はじめから無理だったんだよ」

 裏切られた、と思った。

「よく平気でそんなことを言えるよな!」
 言うが早いか、僕は宮崎の首を絞めた。彼女は机の上に倒れ込んだ。
 めまいが激しくなった。吐き気もする。視界に映るすべてのものが幾何学模様にゆがむ。頭の中は真っ白だった。
 すると、一瞬、目の前を何かがよぎった。さきほどの蝶が飛んでいるのだ。
 ──もう会えないと思っていたよ。
 僕はそうつぶやいた。ふしぎと穏やかな気分になれた。
 そのとき宮崎が起き上がって、逃げ出した。いつの間にか手の力がゆるんでいたらしい。
 僕は慌てて追いかけた。
 廊下は明かりがともっていない。彼女が突き当たりを折れるのがかすかに見えた。
 と、何者かに右腕をつかまれた。
「あれぇ? 久野君じゃん」
 楠田だった。にやにやしながら煙草を吸っている。すぐ近くにトイレがあった。どうせそこでこそこそと煙草を吸っていたのだろう。
「どしたの? すげー、気分悪そうじゃん」
 楠田は僕の腕をぐいぐい引っ張り、トイレに連れ込もうとする。僕は必死に踏みとどまろうとしたが、結局、中に連れ込まれてしまった。
 友だちを連れてきたよーん、と楠田は誰かに言った。
 そこにはしゃがんで煙草をふかしている男がいた。ニットの帽子を目深に被り、下唇にピアスをつけている。彫りの深い、いかつい顔だった。ここの生徒ではない。もしかしたら、以前バイクで騒音をまき散らしながら学校にやって来た、あの男かもしれない。
 僕は楠田に突き飛ばされ、目地に汚れがこびりついているタイルの上に転がった。頬がひんやりとした。
「こいつ、むかつくんだよね」
 友だちじゃないのか? と男は笑い、立ち上がった。
 いきなり横腹を蹴られた。僕は思わず呻いた。意識が遠のいていきそうだった。
 また革靴で蹴られた。楠田の笑い声が聞こえた。
 ──早く宮崎に謝らないと。
 蹴りをくらいながらも、僕はそんなことを思った。
 心の中で、必死に謝った。宮崎、ごめん。さっきの僕は正気じゃなかった。宮崎が言ったように、誰かに取り憑かれていたんだ。ごめん、本当に──ごめん。
 何度も何度も謝った。
 ふと、光り輝くものが見えたような気がしたが、もう、目を開けていられなかった。

       二十四

 文化祭の日以来、宮崎初美は僕を避けるようになった。それもそうだろう、あんなにもひどいことをしたのだから。
 焦れば焦るほど、何事にも集中できなくなった。彼女の首を絞める夢を見て、慌てて飛び起きる、ということが何度もあった。
 時間が急速に過ぎていった。あっという間に春になり、夏が来た。

 ある日、僕は鳥取の大竹静子さんのうちに電話をした。初瀬惣一、初瀬惣次、そして僕──三人の人生を生で見ている彼女に救いを求めたのだ。
『あら、ずいぶんとご無沙汰だったわね。元気にしてる?』
 彼女の声は、僕の心を落ち着かせてくれた。
「はい。静子さんも元気ですか?」
『今日はあなたの声が聞けて、とてもうれしいわ』
「なんだったら、これから毎日電話しますよ」
 ふふふ、と、彼女の上品な笑い声が響いた。
 しばらくの間、世間話をしてから、僕は宮崎とのことを話した。彼女を早川愛美の生まれ変わりだと確信したところから、文化祭の日に起こったできごとまで話した。
 つらかったでしょうねぇ。静子さんは、そう言った。よく辛抱したわ。そんなに苦しんだら、じゅうぶんよ。
「でも、宮崎はいまだに僕を避けるんです。僕はどうしたらいいのかわからないんです」
『彼女にしたら、まだあなたを許す気にはなれないのかもしれないわね。
 ……うち、久野君は、とてもまっすぐな人だと思うの。文化祭では、そのまっすぐな気持ちが、変な方向に進んじゃったのよ。前世の気持ちに応えようとして。偽れない人ほど、暴走しやすいから。兄が――そのタイプだったわ。
 これからも誠実な気持ちでいなさい。彼女も、いつかほほえんでくれるでしょう。絶対に』
「……宮崎が許してくれたとして、そのあと、僕はどうすれば?」
『そのあと、って?』
 僕は黙り込んだ。
 しばらくしてから静子さんが、
『もしかして……』
 と言った。
『あなたはまだ、惣一や惣次のことを気にしているの?』
 僕は反射的にケータイを強く握りしめた。
 すると彼女は笑った。
『本当に真面目な人ね。愚直と言っていいくらい。もう、忘れてもかまわないと思うわ。惣一たちは怒らないわよ。だって、死んでるんだもの』
 僕は思わず噴き出してしまった。
 そうじゃない? と静子さんはおどけて言う。
『惣一も惣次も、愛子さんも愛美ちゃんも、みんなあの世で仲よくやっているわ。もうあなたの中にはいないから、安心して、自分の人生を歩んでいって。ね、わかった?』
 はい。僕ははっきりと返事を返した。
『あなたは、前世からつづいている出会いを運命だと思っているようだけれど、それだけに縛られないで。
 あの二人のためによくがんばってくれましたね。兄たちの代わりに、うちが言うわ。
 ……ありがとう』
 机の上に、涙が一滴こぼれた。
 ――前世のことばかりにとらわれるのは、やめよう。これからは自分自身の気持ちと向き合っていこう。見逃していたものに気づくかもしれない。わからなかったことがわかるかもしれない。大切なものを見つけられるかもしれない。
 静子さんにお礼を言って電話を切ると、なぜか、じっとしていられなくなった。
 どこに行くの、と、リビングから母が顔を出す。ロッベンがはずむようにやって来た。
「ちょっと走ってくる」
 僕はそう言って、玄関のドアを開けた。
 マンションを出ると、多摩川に向かって走る。全力疾走で。ロッベンも懸命についてくる。
 西日がまぶしい。空が赤く染まっている。
 全身に絡みついていた、重く、頑丈な鎖が、すうっと消えていくようだった。

       二十五



 僕は、前世の記憶を捨てた。過去に左右されるなんてばかげたことだ。



       二十六

 卒業式の前の日の夜、僕がカレーライスを食べていると、藍色のスーツを着た母がリビングに入ってきた。
「明日はこんな感じでいいかしら」
 わざわざ買ったのだろう。張り切りすぎだろと思うが、親にとっては、うれしいイベントの一つかもしれない。
「まあ、それでいいんじゃない。何を着たって変わらないよ」
 皮肉を口にしてみたが、母はおかまいなく、袖や足もとをチェックしている。子どもみたいな仕種に、僕はぷっと噴き出した。
 八時の番組がはじまり、テレビから大げさな笑い声が響く。和洋折衷のセットを背景に、誰もが知っているタレントが司会を務めていた。「みのぽん太」だ。白髪まじりの髪をオールバックにして、丸襟のジャケットに身を包んでいる。今夜はどんなミステリーに迫りましょうか、などと言って、観客を沸かす。
 この番組の趣旨は、「現代の謎を解き明かす」というもので、先週は多重人格を取り上げていた。そこそこ人気のある番組で、僕も暇さえあれば観ていた。
『今夜の謎はこれだ!』
 司会者が叫ぶと、画面に「前世!」のテロップが出された。
 僕はため息を漏らした。
 最近、前世がちょっとしたブームになっていた。前世療法を施してくれるクリニックは予約殺到、前世にまつわる本もベストセラー――近々、前世をテーマにした映画も公開されるらしい。
 実際に前世療法を体験した僕からすれば、本もテレビも、嘘つきだった。番組を盛り上げるために、脚色に脚色を重ねているようだった。
 今日のみのぽん太のもそういう類だろうな。僕はまたため息をついた。
「へえ、おもしろそうね」
 母がソファーに座りながら言った。
 輪廻転生は――アジアでは、とくに経済的にきびしく、教育もままならない村落で発生している、とナレーターが説明する。僕は、おっ、と思ったが、スタジオに「五百年前の記憶を所持している男」が登場してきたあたりから、さすがにうんざりした。残りのカレーを平らげることに集中する。
 しばらくして、母がすっとんきょうな声を上げた。
「長谷川先生が出てるわよ」
 驚いて、テレビを見た。
 ぼさぼさの髪、頬の肉に押し込まれてしまった目、つぶれた鼻、肉厚な唇、顎を覆う髭――画面にクマ先生が映っている。前世の情報のほとんどが間違いだ、と怒鳴っている。
 クマ先生らしいな。僕はそうつぶやきながら、笑った。

 風呂から上がると、パソコンの前に座った。ひさしぶりに長谷川クリニックのホームページを見てみよう、と思ったのだ。
 マウスをクリックさせていると、とことことロッベンがやって来た。
 以前と変わらず装飾はあまり施されていない。が、いやしくも「祝! テレビ出演!」と書き込まれていた。僕は苦笑した。
 ――掲示板でも見てみるか。
 そこではクマ先生にお世話になった人たちが感謝の気持ちを書き込んでいる。どうやら評判はいいようだ。
 画面をスクロールさせていくと、ふいに、ある文章が引っかかった。僕は顔をパソコンに近づける。

『「前世で愛した人へ」 カラス(仮名) 女性 十代
 先生、いろいろとお世話になりました。最初はかなり緊張したけれど、先生のやさしい誘導に、落ち着いて前世療法を受けることができました。ありがとうございました。
 あたしがこの掲示板に書き込んだ理由はほかにもあります。ある人に伝えたいことがあるからです。
 案山子君、見てる?
 あたしは最近、前世療法を受けました。あなたの言葉をたしかめるために、受けたのです。
 二年前──高校一年生のときの文化祭で、あたしはあなたに傷つけられました。案山子君があんなふうになるなんて、信じられなかった……でも、あのときの、あなたの必死さが、あたしを前世療法へと向かわせたのだと思います。
 前世を見終わってから、あたしは、案山子君が言っていたことは本当だったんだなと思いました。
 たしかに前世体験は感動的でした。二人の「愛」は、激しく、案山子君を愛していました。あたしは彼女たちに涙しました。
 だけど、だからといって、あたしは、案山子君に何もしてあげられない。あたしは「愛」じゃないから。「カラス」だから。
 カラスは、案山子が苦手だから、そこには行けません。
 あなたはあたしを好きだって言ってくれている。正直、うれしいよ。でもね、あなたがあたしを気にかけてくれているのは、たぶん、義務感なのだと思う。本当の愛じゃないと思うんだ。
 あたしはあなたの前世の彼女だったから──だから、好きなんでしょう?
 そういうのは、違う。いくら考えても、違うとしか思えない。
 前世のときに恋人だったとして、義務を感じるのは、どうかな。空しいだけじゃないかな。本当に好きだったら、前世とか、そんなの必要なの?
 答えは、「ヒツヨウアリマセン」。
 あたしのことなんか忘れてください。「今」に生きてください。あたしも「今」を大切にします。
 最後に――前世のあたしを愛してくださって、ありがとう。
 でも、あたしはあなたをすっかり忘れていました。ごめんなさい。(笑)』

       二十七

 卒業式が終わり、そして教室に戻って、各々に卒業証書が手渡された。女子のほとんどが泣いていて、男子のほとんどが笑顔だった。
 担任の近野は教壇に立ち、後ろ手に窓の外を眺めながら、言った。
「この三年間、あっと言う間だったな……」
 女子たちは一斉に近野のところに集まった。
 僕は学生鞄を片手に立ち上がり、使い古した席から離れた。廊下の手前で、久野、と、僕を呼び止める声が聞こえた。
 振り向くと、近野が教卓に手を置いて、こちらを見ていた。
「最後まで言ってくれなかったな。もしかして、忘れてる?」
 近野は眉をつり上げて、言った。
「……六年ぐらい前になるかなぁ。俺たち一度、市民プールで会ってるだろ?」
 驚いた。
「知ってたんですか!」
「うん、このクラスの担任になって、はじめて久野を見たとき、すぐわかったよ」
「……そうだったんですか」
「言いたかったことはそれだけ」
 近野は目尻にしわを寄せて、
「卒業おめでとう」
 僕は軽く会釈して、教室を出た。熱く抱き合ったり、ふざけあったりしている生徒たちの脇をするすると抜けていった。
 下駄箱ではちょうど宮崎が靴を履いていた。一瞬どうしようか迷ったけれど、話しかけることにした。
「掲示板、見たよ」
 僕は彼女の横に靴を置きながら、言った。
 宮崎はこちらを見ることなく、
「そう……」
「あれを読んで、はっきりとわかったよ。前世に振りまわされるんじゃなくて、今、自分がどう思うか、どうしたいか──それが一番だってことを」
 うん、と彼女はうなずき、しばらくしてから顔を上げた。
「あたしね、前から、好きな人がいるの」
 数人の生徒が横を通り過ぎていった。
「今日、告白するつもりなんだ」
 僕はほほえんだ。どういうわけか、さっぱりとした気分になった。そのまま校舎を出ようとしが、ふと足を止めて、後ろを振り返った。
 宮崎、と、僕は彼女を呼んだ。
「今度生まれ変わったとき、もし、僕がカラスで、宮崎の方が案山子だったら、どうする?」
 彼女は少し考える素振りをしてから、大声で言った。
「だったら、稲穂を好きになる! カラスなんか大嫌い!」
 鼻にしわを寄せ、舌をちょろっと出す。
 僕は笑いながら踵を返した。外のやわらかい日差しが体を包み込んでくれる。
 あちこちで人が笑い合っている。翔ちゃんとクマ先生、翔ちゃんの母親、そして僕の母の姿があった。クマ先生はカメラを持ち、何やら指示をしている。翔ちゃんは唇をとがらして居心地が悪そうだ。
 さらにその向こうには、楠田がいた。数人の連れと話し込んでいる。
 楠田を見ても怒りは感じなかった。むしろ、すがすがしかった。二年前の文化祭の日、あのとき、楠田が割り込んでこなかったら、僕は、宮崎を捕まえてどうするつもりだったのだろう。最悪の場合、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。だから、楠田には少しだけ感謝している。
「潤一君」
 校門を抜けたところで声をかけられた。僕ははっとして立ち止まった。
 そこには制服姿の河名愛がいた。髪は耳にかかるほどの短さで、顔は以前よりもシャープになっている。フレームの細い眼鏡をかけている。
 どうして、と僕はつぶやいた。
 愛は照れ笑いを浮かべた。
「ひさしぶりだね」
「どうして……ここに?」
「潤一君から連絡が来るまで待っていようって決めていたけど……もう耐えられなくて、会いに、来ちゃった」
 ──え?
 信じられなかった。
「僕のことなんか忘れていると思ってた」
 僕は思わず本音を漏らした。
 愛は目をぱちくりさせて、
「忘れるわけないじゃん」
 胸が締めつけられた。
「自分でもわからない……わからないけど」
 彼女は笑顔を僕に向けて、言った。
「でも、こういうのは理屈じゃないよ」
 理屈じゃない──本当にそうだ。いちいち考える必要などないのだ。
「ねぇ、潤一君。また、何もかももとどおりになるよね? いっしょにいられるよね?」
 愛は両手で僕の手を握り締めた。
 ごめん、と僕はぼそりと言った。今まで……ごめん。
 彼女は上目づかいに、こちらを見つめている。
 僕は視線を上に向け、涙をこらえた。胸が詰まって、なかなか言葉が出てこない。
 長い飛行機雲が消えかかっている。

タイムマインド(③潤一編)

タイムマインド(③潤一編)

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-03

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著作権法内での利用のみを許可します。

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