タイムマインド(②愛美編)

平成四年 二月

 白い息とともに歓声があふれた。味方がボールを持ったのだ。あたりは一気に反撃ムード。
 私は両手を胸にあてて、目の前の試合の行方を見守っていた。ニットの手袋を通しても、心臓の音が聞こえる。サッカーを見ると、どうしても自分自身がプレーヤーのような感覚になってしまう。
 フォワードの近野君にボールが渡った。いっそうの歓声が沸き上がった。大半が女の子たちの黄色い声援だ。そんな人気者の近野君は敵チームのディフェンスを軽やかなドリブルで抜くと、ペナルティエリアのあたりから強烈なシュートを放った。即座に相手キーパーが反応したが、手に届かない。しかし、ボールは惜しくもゴールポストの横にそれていった。歓声がため息に変わった。近野君も悔しそうに膝をたたいた。
 私はとめていた息を空に向かって吐き出した。朝はすっきりしない空模様だったが、今は晴れ間がのぞいている。冷たい日差しが校庭に差し込んでいる。
 今日は近隣の中学校との毎年恒例の試合が行われている。今年は我が校のホームグラウンドなので、日曜日だが在校生──主に私たちサッカー部の女子と近野君のファン──は呼び出され応援にまわっているのである。
 現在、我が桜ヶ丘中学校のチームは二対一で負けている。が、まだまだ後半の十分すぎなので、逆転の可能性は残されていた。高校入試を控えた三年生も、今日だけは勉強を忘れてこの試合に挑んでいる。
 ひとまず決定的な場面が終わったところで、私は、すぐそばにあるベンチに目を向けた。そこには顧問の教師を筆頭に控えの選手たちが座っている。各々が試合を食い入るように見つめているが、一人だけうつむいたまま、じれったそうに両手を握りしめている男の子がいた。初瀬惣次──惣ちゃんだ。
 ──つらいよね、惣ちゃん。
 私は下唇を噛んだ。惣ちゃんとは小学校からの友だちだ。だから彼がどれほどサッカーが好きかもよく知っている。ただ、我が校のサッカー部員は六十名もいるし、市の大会では上位に食い込むくらい強いので、大半の部員には滅多に出場機会が与えられない。それに、惣ちゃんは飛び抜けてうまいと言うわけでもなかった。
 自分の出番を切々と待ち望んでいる惣ちゃんを見ていると、痛々しさを覚えた。私は、惣ちゃんに出番がまわってきますように、と心の中で願った。彼の努力が報われますように。
「まぁた、惣次君ばっかり見てる。ホント、愛美ってわかりやすいよね」
 となりにいる美歩がひょこっと顔を出してきた。
 私は慌てて惣ちゃんから視線をはずした。顔が熱いのはマフラーのせいではない。
「そんなことないよ。ただ……」
「ただぁ?」
 美歩は意地悪な目つきになった。
 わかってるくせに、と内心でつぶやいた。でも、友だちが予想しているとおりに答えたくない私は、ささやかな抵抗を試みる。
「ただ、惣ちゃんは一度も試合に出たことないから、かわいそうだなぁって思って、ね」
「ふっふっふ。もうこの美歩様はお見通しだから、ごまかそうとしたってむだだよーん」
「……参りました」
 私ががっくりとうなだれると、美歩は愉快そうに笑った。
「ここ最近、愛美ったら惣次君に目がいくとなかなか離れないんだもん。すぐわかるよ」
「美歩様、どうかこのことは内密に……」
「しかしねぇ、クラスでもぱっとしない惣次君のどこがいいのか、あたしにはさっぱりだわさ」
「わかってもらえなくても結構」
 私はつんとした態度をとる。そりゃあ、惣ちゃんは誰が見たって冴えない感じだし、実際に何をやっても人並みだけれど、私には魅力的に見えるのだ。
「愛美は母性本能が旺盛なんだよ」
「どういう意味よ」
「凡庸な人を見ると、健気に思えてしかたないってこと」
 最近国語の授業に出てきたからって、「凡庸」なんて言葉をわざとらしく使わないでほしい。だいいち、外見で判断するような人にあれこれと言われたくなかった。私は、美歩みたいにころころと好きな人を変えられる性格ではないのだ。
「ま、あたしには関係ないもんね」
 と言って彼女は目を輝かせた。
「惣次君なんかほっといて、近野君のことだけ考えよ」
「そうしてくださいな」
 などと私たちが囁き合っていると、校庭に悲鳴が起こった。顔を上げると、敵チームがガッツポーズをしている。味方のゴールにボールが入っていた。ジャージ姿のマネージャーがスコアボードに行き、「3」の数字に書き替えた。これで、三対一。時間的にもいよいよきびしくなった。
「あーあ、負けちゃった」
 美歩がため息をついた。
「まだ決めつけちゃだめだよ」
「じゃあ、賭ける? 勝ったほうは、パフェをおごる」
「……うーん」
 私は言い渋った。
「ほぉら、愛美だってそう思ってんじゃん」
「いいよ。勝った方が、おごりね」
「やった!」
 美歩はすでにパフェを獲得したとでもいうように、ぴょんと飛び跳ねた。スカートの裾が少しだけ揺らいだ。
 そこでホイッスルが鳴り響いた。もしかしてもう終わっちゃったの、と思ってどきっとしたが、どうやら交代のようだ。
 ──惣ちゃんが出てる!
 ディフェンダーの人とタッチを交わして、惣ちゃんが定位置につこうとしていた。ほかにも二人交代している。惣ちゃんを入れて三人とも二年生だ。たぶん、この際だからなかなか出場できない選手を使ってやろうという、監督の配慮かもしれない。要するに、顧問の先生は負け試合だと見限ったのだ。
 それでも、私の胸はわくわくした。どんな状況にしろ、惣ちゃんが出るのだ。うれしくないはずがない。
「愛美の愛しき人は、果たしてボール持つことができるんかねぇ。心配、心配」
 美歩の投げやりな言葉を聞き流して、私は声を張り上げた。
「がんばって!」
「今さらがんばっても時間には勝てませんけどね」
 同じサッカー部の部員だとは思えない友だちの台詞に、私はむっとなった。が、すぐにため息に変わる。目当ての近野君に少しでも近づこうとして部に入った美歩には、何を言ったってむだだ。
 そんなことよりも、試合に集中、集中。私は気を取り直してフィールドに目を向けた。
 ボールは敵が持っていた。二点差のビハインドに、近野君ですら諦めの雰囲気を漂わせていた。相手はボールをゆっくりと仲間内でまわしはじめた。審判も腕時計で残り時間を確認している。ロスタイムを入れても、もうわずかだろう。点を入れられるまでは元気に声援を送っていた女の子たちは、ほぼ全員、雑談に興じていた。
 敵のミッドフィルダーが右のスペースにロングパスを出した。それにフォワードが反応して追いかけ、勢いのついたボールをうまくおなかでトラップした。逆サイドに相手チームの十番が走り込んできている。フリーだった。センタリングを上げられたら万事休すである。ボールを持っているフォワードはいったん止まり、大きく足を振り上げた。
 そのとき、後ろから惣ちゃんがくらいついてきた。必死に足を伸ばす。相手はぎょっとして、振り上げていた足は中途半端な振り子となった。ボールは高く上がらず、惣ちゃんの足首にあたった。こぼれたボールを幸運にも味方が拾った。
「おい、こっちだ!」
 近野君のまだそんなに声変わりしていない声が聞こえた。
 味方から近野君に長いグランダー気味のパスが渡った。カウンターだ。虚を衝かれた敵チームのディフェンダーが大慌てで下がっていく。雑談にふけっていた女子たちは、いつの間にか黙ってフィールドに視線を向けていた。
「近野君、行っちゃえー!」
 美歩は片手を上げて叫んだ。それに端を発して周囲から声援が送り出される。ここ一番の盛り上がりとなった。
 近野君はペナルティエリアまで独走していった。彼の独壇場だ。相手キーパーが前に出てきた。すぐ後ろにはディフェンダーも帰ってきている。近野君はボールをちょこんと横に転がすと、狙いすまして踵を振り上げた。と、そこに相手ディフェンダーが足を出しながら、近野君のユニフォームを引っ張る。近野君はややぐらついたが、ボールをしっかりと蹴った。目の前に迫っていたキーパーの太ももにあたり、軌道をはずれたボールはゴールラインを出た。
 審判はコーナーキックを告げた。するとブーイングが巻き起こった。私も、ユニフォームを引っ張ったところはファールでもいいではないか、と思う。「ピーケー、ピーケー」とみんなは手拍子して反論した。五十人近い応援席からのヤジにも、小柄な審判は動揺しない。近野君は悔しそうな表情でコーナーアークまで行った。
 ゴール前には敵味方が渾然と入り乱れている。笛が鳴り、近野君が手を上げる。お願い、誰か決めて、と得点を願う女の子の声がした。雲が動き、グラウンドがいっそうの光に照らされた。
 ボールが弧を描いてゴール前に落ちる。何人かの選手が肩で競り合いながら飛び上がった。私の両手にも力がこもった。
 ボールは選手たちの頭上を越えて後方にそれていく。諦めの雰囲気が漂ったそのときだった。ごった返しているゴール前から誰かが抜け出してきた。
 惣ちゃんだ。ボールが地面に落ちてバウンドした。惣ちゃんはそのボール目がけて頭から飛び込んだ。敵の一人が、くいとめようと横から惣ちゃんにぶつかってくる。
 ふいに音が聞こえなくなった。私には目の前の光景がスローモーションのように見えた。相手に突き飛ばされながらもヘディングする惣ちゃん。懸命に片手を伸ばすキーパー。ほかの選手たちは状況を見守っている。まるで映画のワンシーンだった。
 ボールがゴールポストにはじかれたところで、私ははっとなった。あちこちから落胆の声が漏れた。試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
「あーあ、惣次君、せっかく英雄になれるチャンスだったのに……」
 美歩は残念がるというよりもバカだなぁと言いたそうな口調だった。
「そうそう、帰りにパフェおごってよね」
「はいはい、わかりました。おごらせていただきます」
「素直でよろしい。ほっほっほ」
 ちょっと……だいじょうぶかな。かすれた声が近くから聞こえた。その女の子は心配そうに眉を下げ、グラウンドを見つめていた。ゴール前に選手が集まっている。教師たちも慌てて駆けつけている。人垣のせいで何が起こっているのか、よくわからない。次第にまわりがざわざわとしてきた。
 私は不安になった。悪い予感がする。
「おーい、誰か。職員室に行って伝えてくれ! 至急、救急車を呼んでくれってな!」
 顧問の先生がそう叫んだ。
「早く! 早くしろ!」
 みんなが互いに顔を見合わせている。私も体が硬くなって、動こうにも動けない。何人かがうろたえながら校舎に向かっていった。
「たしか、惣次君と相手チームの人が、ぶつかったよね」
 美歩も今ばかりは不安な表情をしていた。
 人垣が割れて、一人の選手が先生に支えられて出てきた。惣ちゃんと激しく接触した人だ。頭を押さえて痛みに顔をゆがめていた。
 ──惣ちゃんは?
 惣ちゃんは、どうしたのだろう。私はカチカチの体を無理やり動かして、駆け足でゴールのところに向かった。愛美! 美歩が呼び止めようとするが、無視した。
 地面に横たわった惣ちゃんが見えた。審判が何やら話しかけている。しかし、惣ちゃんは揺さぶられるまま、ぐったりとしている。
 私は信じたくなかった。幼児のように首を振って、現実にイヤイヤをした。血相を変えて怒鳴り散らす先生も、絶句して身動きとれない選手たちも、遠くでざわつく女の子たちも、何もかも、嘘だ。すべてが空々しい。
 ぴくりともしない惣ちゃんに、私は恐怖を感じた。
 ──息してるの? まったくもう、ふざけないでよ。目を開けてよ。ねぇ、惣ちゃん。怒るよ、私。
 心臓が早鐘を打つ。全身が小刻みにふるえ立っていられなくなり、膝から崩れた。でも、どういうわけか、頭の中はひんやりとしていて冷静だった。こんな思いがけない事態だというのに、私が救急車に付き添ってはだめだろうか? 先生を押しのけてでも救急車に乗ってやろうか? などと考えていた。
 とにかく惣ちゃんのそばにいたい、惣ちゃんから離れたくなかった。

       一

 あれから二ヶ月が経った。私は頬杖をついて、はす向かいの惣ちゃんの席を見る。そこに惣ちゃんの姿はない。まだ入院中だと聞かされているだけで、先生は何も言ってくれない。
 せっかく二年連続で同じクラスになれたというのに、せっかく最後の中学生活を楽しもうと思っているのに、惣ちゃんは、髪型も顔つきも背丈も何もかも普通の惣ちゃんは、なぜかここにいない。みんなが同じように授業を受けて同じように給食を食べて同じように笑い合う場所に、惣ちゃんだけは病院にいる。クラスのみんなは平然と過ごしているけど、私にはパズルのピースが欠けているように思える。早く帰ってこいよとぶっきらぼうにつぶやいてみても悲しくなるし、会いたいなと願ってみても空しくなる、そんな毎日を私は送っていた。
 新学期から新しく転任してきた国語の教師が、鼻にかかった声で朗読している。男子好みの、色気むんむんの女教師だ。近野君をまどわしたらただじゃおかないから、と美歩は敵視していた。
 私は一番後ろの窓辺の席にいるから、ここから校庭の桜の木を眺めることができる。惣ちゃんがいない今、私は、ちらちら舞い落ちる桜の観賞だけのために学校に通っているといってもいい。
 ──惣ちゃん、今ごろ何をしてるのかな。
 急激に涙腺がゆるくなった。惣ちゃんのことを考えるとどうもだめだ。私は確実に惣ちゃんに弱い。惣ちゃんは私の弱点だ。昨日は、こんなにも入院が長引くのはおかしくないかと思い、思ったら最後、一日中不安で不安でしょうがなかった。
「早川さん。早川愛美さん」
 突然に先生の声。
「は?」
「『は?』じゃありません」
「なんのご用でしょうか?」
 教室にどっと笑いが沸き起こった。私は恥ずかしくなってうつむいた。何も考えずに口をすべらしてしまったからだ。
「ぼうっとしてちゃだめよ」
 先生はやさしい口調で私を叱り、
「じゃあ、つづきをお願いね」
 願われても、ぼうっとしていたのだから、どこがつづきなのかさっぱりわからない。私がおろおろしていると、前の席にいる美歩が、教科書をシャープペンシルでたたいた。肩越しにのぞき込んで確認すると、私は「山椒魚」の朗読をはじめた。
 先生の「はい、よろしい」に、私はほっと安心した。ノートの切れ端に「助け船、センキュー」と書いて美歩に渡す。すぐに「恋する乙女はつらいねぇ」と返ってきた。
 もう恥をかきたくなかったので、午後はちゃんと勉強に集中した。でも、ときどき、惣ちゃんのことが頭の中を行ったり来たりしたが、どうにかやりすごした。そのことを美歩に言うと、彼女はあきれたように、「そんなに気になるんだったら、直接病院に行ったら?」と答えた。
「なんで私が見舞いに来るのか、惣ちゃんが怪しむじゃん」
「じゃあ、授業のプリントや給食のデザートやパンを口実に行けば?」
 さすが我が友よ、と私はお礼を言った。
 ホームルームが終わると、さっそく私は担任の先生を捕まえてそのことを告げた。
「プリントを持っていきたい?」
「はい。惣次君も学校のことがわからなくなると、何かと不安だと思うし」
「プリントなら、僕が見舞いに行ったときに届けているからだいじょうぶだよ」
「やっぱり、毎日持っていった方がいいと思うんです」
 うーん、と先生は腕を組んでうなった。
 ここで私の個人的な感情に気づかれてはまずい、と思い、私は慌てて手を振る。
「私、けっこうお節介なんです。惣ちゃ……初瀬君が、学校に来たときに何もわからなかったら困るだろうなって考えると、やっぱり、クラスの仲間としては心配になります。あと、給食もできれば届けたいんです。パンとか牛乳とか。学校の雰囲気を忘れてしまったら、また馴染むのに時間がかかりますもん」
 先生はしばらくの間考え込んでいたが、こめかみを小指でかくと、
「ついてきなさい」
 と言って、私を職員室の前に案内した。
「これからちょっと連絡を取ってみるから、ここで待ってなさい」
「はい」
 近くの本棚に「あすなろ白書」が置かれていたので、暇つぶしにぱらぱらと読んだ。その間私の背後を、数人の生徒が通り過ぎていった。
 ガラッと引き戸が開いて担任の先生が出てきた。眉間にしわを寄せて浮かない顔をしている。
 私は漫画を本棚に戻し、
「どうでした?」
「うん」
 先生は目をしばしばさせた。
「今、自宅に電話したんだがね、初瀬のお母さんとしては、明日からにしてほしいとのことだ。明日病院に来てくれれば、待っているからって」
「直接初瀬君に渡せないんですか?」
「まあ……」
 はっきりしない言い方だ。と、そこにあの色気むんむんの女教師が現れた。
「先生、少しよろしいですか。生徒会のことで相談が」
「ああ、わかりました」
 先生は、助かったと言わんばかりの表情に変わった。
「じゃあ、早川。そういうことだから、明日から頼むわ」
 何が「そういうことだから」、だ。私は肩を大げさに落とし深いため息をついた。

 放課後は部活に出た。部活と言っても男子だけが真剣に練習して、女子たちはその姿を顔を上気させて眺めているだけだ。私と二、三人の子しか真面目に取り組んでいない。サッカーが好きな女子なんてめずらしいからしかたがないと言えばしかたがないのだが、せめて試合ができるぐらい集まらないかな、と私はひそかに切望している。惣ちゃんがいたときはちっとも苦にならなかったが、今は究極につまらない。
 まだ一年生も入っていなくて、部活は早めに終わった。生徒のにぎやかな声が飛び交う校門を抜け、大きな通りに出て、春の西日を浴びながら自転車を走らせる。左右に広がる田園風景にさよならして国道に入ると、建ち並ぶ家屋に沿っていく。薄く棚引いた雲が金色に染まっていた。三叉路に差しかかると──本来ならばまっすぐニュータウンの方に向かうのだが──右に折れた。
 惣ちゃんに会えるかもしれない、と思っていた気持ちは、なかなか消えてくれるものではない。私はひさしぶりに思い出の公園に行ってみようと思った。惣ちゃんと話すようになったきっかけの場所に。
 橋の前まで来ると、公園が見えてきた。入り口に自転車を置いて中に入った。
 木製のベンチや砂場、ジャングルジム、象の滑り台、鉄棒、ブランコというささやかな遊具しかない。
 ボールを蹴る音がする。私だけに聞こえる音だ。柾の植えられたところに、幼いころの惣ちゃんの幻影がぼんやりと浮かび上がっている。ボールを蹴って遊んでいる。その後ろ姿はなんだか寂しそうだ。すると、少女も現れた。三つ編みでワンピースを着た──過去の私だ。惣ちゃんと私の幻は、一つのボールをめぐって遊んでいる。
 思えば、いつも私と惣ちゃんはひとりぼっちだった。
 小学校低学年のころ、私はクラスにとけ込めずにいた。今でこそみんなと冗談を交わし合ったりしているが、当時は内気な少女だった。クラスメイトに話しかけられても、おどおどして何を言ったらいいのかわからなくなるくらいだった。でも、心の底から友だちを欲していた。
 休憩時間はたいてい廊下の窓辺に立っていた。校庭を駆けまわる同級生をうらやましく見つめていた。まるで芸能人にでもあこがれるように見ていた。
 毎日毎日そうして過ごしていたが、ある日、向こう側の廊下に一人の男の子が立っていることに気づいた。私と同じく窓から外を見ていた。となりのクラスの子だったから見覚えがあった。
 初瀬惣次、という名前がわかったのは、体育の時間だった。惣ちゃんは体操服を忘れたらしく、先生にひどく叱られていた。マラソンのタイムを計る日だったのだ。あのときの惣ちゃんは、首が落っこちてしまいそうなほどうつむいていた。私は、私と一緒の系統だなと感じた。
 はじめて惣ちゃんの笑顔を見たのは、下校のときだった。彼は下駄箱で靴を履くと一気に走り出したのである。笑顔の惣ちゃんを目にした瞬間、私は、無意識のうちに彼を追っていた。はずむ黄色いランドセルを無我夢中で追いかけた。
 行き着いたところは、この公園だった。そのころ、私の家はこのあたりにあったので、この公園はよく知っていた。
 惣ちゃんは柾の小陰からサッカーボールを取り出した。どうやら隠していたようだ。彼は心底うれしそうにボールを蹴りはじめた。私は、ここまで来たんだからと決心して、おそるおそる惣ちゃんに近づいた。
「サッカー、楽しそうだね」
 たしかそんなことを口にしたと思う。
 惣ちゃんはにこっと笑って、
「一緒にやろうか」
 と言ってくれた。
 彼は私に向かってボールを蹴った。私は、わっと声を出して反射的に蹴り返した。
 それからしばらくの間、私たちは学校が終わると公園にやって来て、日が暮れるまで遊んだ。ボールを蹴るだけの遊びなのに飽きることはなかった。毎日が楽しくなり、輝いて見えた。
 やがて私たちにも友だちができ、公園で落ち合うこともなくなった。小学校を卒業する手前には私はニュータウンへ引っ越してしまった。だけど、中学校に行ってからも、私は惣ちゃんの存在を忘れたことはない。あの日、「一緒にやろうか」って言ってくれた惣ちゃんの笑顔は、私の中で今もどんどんふくらんでいっている。
 私と惣ちゃんの幻影が、すっと消えた。
 私は回想をやめ、感傷を胸に仕舞った。ここに来てよかった、と思った。あのころの自分の気持ちが、あざやかに染み込んでくる。
 私はジャングルジムまで行き足をかけてよじ登った。冷たい風が流れている。遠くで烏が鳴いている。小川を隔てて、団地がうかがえる。かつて私が住んでいた団地だ。今は一軒家で自室もあてがわれているが、お父さんとお母さん、私の三人家族でのアパート暮らしも悪くなかった。
 ジャングルジムの上から見渡す景色は格別だった。

       二

 あくる日、一時限目は体育だった。となりの三年五組との対抗リレーをするらしく、ほとんどの生徒が顔をしかめた。私もかけっこは苦手な方だから、あまりよろこばしいことではない。
 リレーの順番を決め、校庭に整列する。体育教師がおもちゃのピストルを鳴らした。一列目の二人が走り出した。私は列の真ん中にいるが、すでに心臓がどきどきしている。プレッシャーにめっぽう弱いのである。
 前列にいる美歩が振り返って、私にさまざまなジェスチャーを送ってくる。私も送り返す。走りたくないよ、とか、いやだな、とか。
 すぐ後ろから笑い声が聞こえた。
「そんなに恐いんだ」
 近野君だった。
「だって私、足がのろいし」
 私は答えた。
「相手のクラスだって早川級の亀はいるし、そんなに変わらないって」
「亀だなんて、ひどい」
 もちろん冗談だとわかっていたので、私はわざとらしく眉根を寄せた。
 近野君は体を大きくのけぞらせ、
「早川が広げた距離は、俺がちゃんと縮めてやるから」
「じゃあ、任せた」
 私も調子に乗って彼の肩をぽんとたたいた。近野君のおかげでいくぶん気がまぎれて身軽になれた。
 いよいよ順番がまわってきた。白線の前に立ち、後方を見る。男の子同士が一進一退の攻防を繰り広げている。近野君がいるんだからだいじょうぶ、と自分に言い聞かせた。
 バトンを受け取り、私は全力で走った。横を見ると陸上部の女子だった。不運を恨みながら目一杯手足を振るが、さすが陸上部、ぐんぐん離されていく。
 校庭を半周し近野君が近づいてきた。私はいち早く渡そうと思ってバトンを前に突き出した。そのとき、額の汗が目に入って反射的に目をつぶってしまった。感覚でバトンを振り下ろしたが、近野君の手には当たらなかった。まぶたをこじ開けると、手を出したまま立ち止まっている近野君がいた。
 一瞬、いやな間ができた。私は慌ててバトンを彼の手に差し出した。近野君は口をゆがめて駆け出した。
 走り終わって休憩している美歩のところに行くと、「こういうこともあるよ」という慰めの言葉をもらった。私は首をガクッと落とした。私が作った距離は巻き返せず、五組が楽々と勝利した。盛り上がらないリレーになってしまったのだ。
 授業が終わるとすぐに近野君に謝った。
「いいよいいよ。たかがリレーなんだし」
 近野君はさわやかに言って話題を変えた。
「そういえば、早川とははじめて同じクラスになるよな。小学校も同じだったのに、俺たちは今まで一度も一緒になったことがなかった」
 私は相槌を打ち、校舎に向かった。彼もついてくる。視界の端に、ちらちらとこっちを見ている美歩が映った。近野君と肩を並べて歩いているのが気にくわないのだろう。
「……火傷」
「え?」
 私は首をかしげて聞き返す。
「その火傷、どうしたのかな、って……」
 近野君は言ったあとで、決まり悪そうにした。
「ごめん、変なこと聞いちゃって」
 ああ、と言って、私は自分の左の太ももを見た。そこには人差し指と親指で円を作ったくらいの、赤い広がりがある。
「これは火傷じゃないの。生まれつきの痣。こんな外側にあるから目立っていやなんだ」
 近野君は首を振った。
「別に俺は、ただ、なんていうか、火傷かなって思って──料理のときとかに油が飛んだりしたのかなって──心配になっただけ」
「心配してくれてありがとう」
 皮肉ではなく、彼の誠実さが伝わってきたからそう言った。
 今はもう痣のことなんか気にしていない。小学生のころはなんでこんな人目につくところにあるんだろうって悩んだけど、悩んで解決するものでもないし、ほかの人だってコンプレックスを抱えていることを知っている。
 近野君は口走ったことをまだ反省しているようだ。私はにこにこ顔で、傷ついていないことをアピールした。
「……早川と話をしたくて、何か言わないとって、焦っていたら……ごめん」
 彼はぼそっととつぶやいた。
 私のにこにこはどこかに飛んでいった。

 学校が終わると、さっそく自転車に乗って病院へと向かった。部活は休むことにした。鞄の中にはプリントとパン、牛乳が詰め込まれている。
 高架になったバイパスの下を抜けて十字路に差しかかると左に折れた。なだらかな坂道を上がって、そのまままっすぐに進むと市立病院が見える。自宅とは反対の方角に来てしまったので帰りはかなり時間がかかるだろう。空は一面雲に覆われ、今にも雨が降りそうな気配をにおわせていた。
 ──惣ちゃんに会えるだろうか。
 不安がよぎる。担任の先生は、惣ちゃんのお母さんに手渡したらいいと言った。だけど、それだけでは私は満足しない。実際に惣ちゃんの顔が見たい。惣ちゃんと話がしたい。なんで会ってはだめなのかずっと考えたけれど、いまだにわからない。
 お母さんに直接聞いてみよう。私が出した答えはそれだった。
 病院のだだっ広い駐車場を横切っていく。
 一階の受付前待合所で惣ちゃんの病室をたずね、エレベーターに乗った。ひさしぶりの病院だったので、独特のにおいがしつこく鼻についた。ナースステーションを曲がったところで、早川さん? と呼び止められた。いきなり自分の名前を呼ばれ、私はびっくりした。後ろを振り返ると、休憩所から中年の女性が歩いてきていた。
 私はすぐに惣ちゃんのお母さんだとわかった。直接話したことはないが、参観日や運動会とかで知っている。
 惣ちゃんのお母さんは私の名札に視線を向けてから、口を開いた。
「どうもありがとう。わざわざ惣次のために」
 近くで見ると、惣ちゃんのお母さんはひどくやつれていた。目は落ちくぼみ、肌の肌理が荒い。白地の開襟ブラウスにカーディガン、尾錠のついた丈の長いスカート。服装には清楚な印象を受けるが、どうも表情と結びつかない。参観日に来ていたときはきれいな人だと感じていただけに、私はこのギャップをうまくのみ込めなかった。
 私はここに来る前の気持ちを思い出した。
「あの……惣次君に会ったら、だめですか」
 惣ちゃんのお母さんは微苦笑して首を落とした。
 私は後方に連なる病室郡をちらっと見て、
「せっかくだから、会いたいんです。クラスのみんなも惣次君の状態が気になっていると思いますし」
「ごめんなさい。今はまだそっとしておいてほしいの」
「でも……」
 鼓舞していた気持ちがしぼんでいく。惣ちゃんのお母さんの弱々しい声を聞いていると、心身ともに疲れていることがうかがえる。そこまで重い容体なのだろうか。真実を知りたいようなこのまま黙って帰りたいような……。
「じゃあ、先生によろしく言ってくださいね。今日はありがとう」
 惣ちゃんのお母さんは軽く頭を下げると、私の返事を待たず歩き出した。
 強制的に話を切り上げられた私は慌てて、
「また明日も来ます!」
 と言った。
 今にも倒れてしまいそうな彼女は振り返らなかった。

       三

 つぎの日もそのつぎの日も、私は病院へと通いつづけたが惣ちゃんに会わせてもらえなかった。そこまで跳ね返されてしまうと、次第に惣ちゃんの身に何が起こっているのか気になってしかたがない。担任の先生はときどき会っているようだが、どうして私はだめなのだろう。病室の前まで行くのに、私の思いは毎回、スライド式の扉にあっけなく遮られてしまう。
 今日は日曜日だ。私は朝から気力がなくごろごろ過ごしていた。部活に行く気にもならない。友だちからショッピングに誘われたが断った。私は「うー、うー」とうなりながら本棚に這っていっては、中学校の総合誌を取り出して写真に収められた惣ちゃんを見つめ、また「うー、うー」とうなりながらベッドまで這って戻る。見ようによってはホラー映画よりもおぞましい光景だろう。
 昼になり、台所からお母さんに呼ばれた。私はご飯を食べたい気分ではなかった。けれど、あまりにもくどくど言われるので、したがうことにした。お父さんは朝から友人の引っ越しの手伝いに駆り出されていていない。
 テレビでは歌番組がはじまっていて、チャゲ&飛鳥が「余計なものなど、ないよねぇ」と歌っている。昨年大ヒットした名曲だ。
 私はコロッケを細かく割ってちょっとずつ食べた。
「今日は暇なの?」
 とお母さんがたずねてくる。
 私は生返事を返した。
「じゃあ、部屋を掃除しなさい。もう暖かくなってきているんだから、部屋にあるストーブを片づけたら? いつまでも片づけをしないんだから、早めに催促しておかないとね」
 たしかに私の部屋は他人に見せられるものではない。出したものをもとに戻さない癖がたたって、──決して顔をそむけたくなるほどではないが──床にものが散乱している。
 予定がない今日ぐらいは掃除するか、と、私はひさしぶりに従順な娘を演じてあげることにした。でも、このまま母の言いなりにはなりたくなかったので、「余計なものなど、ないよねぇ~」と口ずさんだ。
 さっそく自分の部屋に戻るとセーターの袖をまくり上げた。が、どこから手をつければいいのか迷う。とりあえず隅っこに山積した冬服をクローゼットに押し込み、カーペットの上に散らばった雑誌や小物をもとの場所に戻した。腰に手をあてて一息入れた。それだけでも六畳の空間が見違えるほどすっきりした。調子づいてきた私は掃除機で埃を吸い取り、雑巾を濡らして窓の汚れを拭き、さらにいらないものはすべてゴミ箱に捨てた。私は、はまればとことんやってしまうタイプなのだろう。
 最後にストーブが残った。重いので後回しにしていたのだ。私は気合いを入れ直しストーブを持ち上げると、さいわいにもとなり部屋が物置代わりなので、そこまで運んだ。
 空いたところにストーブを置くと、額にじんわりと汗がにじみ出ていた。私は手で顔をあおぎながら埃っぽい室内を見まわした。古めかしい家具が置かれている。私が生まれる前に死んだお祖母ちゃんの嫁入り道具だろうか。お母さんのも交じっているかもしれない。
 私は高そうな紫檀のタンスになんとなく惹きつけられて、引き出しを開けてみた。子どものころに家の中を探検してめずらしいものを探しまわったりしていた、あのわくわく感がよみがえってきて、私の胸は躍った。
 引き出しにはカンザシが入っていた。飾り気のないが上品なデザインだった。
 ほかにも探してみよう。私は舌で唇を湿らせ、どんどん引き出しを開けていった。裁縫道具や大量の封筒、優雅な飾り文字が施されたハンカチ、ほかにもぼろぼろの小説やアクセサリーを見つけた。
 最後に一番下の引き出しを開けたところで、私の手はとまった。
 ──なんだろう。
 一冊のノートが入っている。私は首をかしげながらそれを取り、ぱらぱらとめくってみた。褪色したインクの文字が数ページ、びっしりと埋められていた。
 私はあらためて表紙をめくり、最初の行に視線を持っていった。
 愛しの愛子さんへ。
 その一節に、私は驚いた。愛子──母方の、お祖母ちゃんの名前だ。私は部屋に戻り、ベッドに腰かけて読んだ。
 内容は、愛子さんへの思いがつらつらと書かれていた。思い出のような文章もある。たとえば、花が好きな愛子さんに影響されて自分も花が好きになったこととか、山に咲き乱れた花々を眺めながら歩いたときの気持ちとか、つき合う前はよく愛子さんが店番する雑貨屋に通ったことだとか――名無しの権兵衛さんは思い思いに語っている。読んでいるこちらまでもが赤面してしまうような文章だ。本当にこの人は愛子さんのことが好きだったんだな、と思った。
 でも、「愛子さん」とはお祖母ちゃんのことなのだろうか。タンスに入っていたのだから断定していいと思うが──すると誰がこのノートをお祖母ちゃんに渡したのだろう。一番に考えられるのは、お祖父ちゃん、つまりお祖母ちゃんの夫だ。ただ、いつごろかは聞いていないが、お祖母ちゃんは離婚している。
 私が母から聞かされたお祖母ちゃんの話は、そんなに多くない。十九、二十歳のころ島根県の呉服屋のところに嫁入りして、その後離婚して鳥取の実家に帰り、私が生まれる前に死んでしまった、ということだけだ。死因すら聞かされていないし、そもそも母はお祖母ちゃんの話をしてくれない。そのくせ、お祖母ちゃんの嫁入り道具がこの家にあるのはおかしい。
 私は、いい機会だからお母さんに聞いてみようと思い、一階に降りた。ノートはもしかしたら取り上げられるかもしれないので、まだ教えないことにした。
 お母さんは台所でせんべいを食べながらのんきにサスペンスを観ていた。お母さんは大のサスペンス好きだ。十中八九、開始三十分以内で犯人を当てられると豪語するほどだった。
 台所は西側に位置しているので、今の時間帯は薄暗い。テレビの青白い光に照らされたお母さんが振り向く。
「掃除は終わったの?」
「あとから来てみてよ。きっと驚くから」
 お母さんは目だけで笑って、わかったわと言った。
 私はお祖母ちゃんのことをどう切り出そうか困ったが、結局、単刀直入に聞いてみることにした。
「あのさ」
「何?」
「お祖母ちゃんのこと、知りたいんだけど」
「お祖母ちゃんって、私の?」
 私はうなずく。
 お母さんは一瞬動きをとめてから、
「急に何よ」
「別に。ただ、私って、お祖母ちゃんのことをあまり知らないなって、ふと思ったから」
「いったい何が聞きたいの」
「なんで物置にお祖母ちゃんの嫁入り道具があるのかなって。前に言われたときは、ふうん、これはお祖母ちゃんのものなんだなって思っただけだけど、よく考えてみれば、なんで生まれた家じゃなくて、私のうちにあるのか、ふしぎでしょうがない」
「いいじゃない、お祖母ちゃんのものがどこにあろうが」
「よくない。私の気がおさまらないの」
 お母さんは食べかけの袋の口を折りたたみ、口の端にしわを作った。
「まったく、おかしなことに興味を持つんだから」
 私は黙って、お母さんが言い出してくれるのを待った。テレビでは犯人らしき人が泣き崩れ身の上話を暴露している。まわりには刑事もいて、いよいよ大詰めのようだ。
「やっぱり、言いたくないわ」
 お母さんはそっぽ向いた。
 私は詰め寄る。
「あの嫁入り道具がなんでこの家にあるかぐらい、話してくれたっていいでしょう」
「私の母の兄──つまり私から見れば伯父さんね。その伯父さんが、母を嫌っていたのよ」
「なんで?」
「まあ……いろいろと事情があるの」
 お母さんは煮え切らない答えを返し、テレビを消した。
「それで、伯父さんは母の嫁入り道具をすべて捨ててしまおうとしていたわけ。私はいくらなんでもあんまりだと思ったから、母の持ち物を引き取ったの」
「もうそのころには、お祖母ちゃんは、その……死んでいたの?」
「伯父さんは、母が亡くなってから腹を立てはじめたのよ」
「どうして!」
「さぁねぇ──よくわからないわ」
 母はすっとぼけた。私はお母さんが何から何まで、愛子お祖母ちゃんのことを──その身のまわりで起きたことを知っていると確信した。一緒に暮らしてきて一番私に近い人なのだ、感覚的に見抜ける。
「教えてよ」
「わからないって言ってるでしょ」
 母はため息交じりに言った。そして冷蔵庫から野菜を取り出しまな板や包丁の用意をしはじめた。もう夕飯をこしらえるつもりらしい。こういうときは、何を言ったってむだだ。母には、追い込まれると知らんぷりをする癖があった。
 私は諦めて二階に戻った。ふたたび愛子さん宛てにつづられた文章に目を通す。その中に、桜並木が出てくる。お祖母ちゃんの実家の近くにあると言ったら、あそこしかない。
 私はいてもたってもいられなくなって、その桜並木を見に行こうと思った。
 さっそく自転車に乗ってニュータウンを離れる。ゆるやかな傾斜の国道をすいすい下っていくと、スーパーのはす向かいにたたずむ母の実家が見えてきた。大伯父さんに会ってみようかなと考えたが、すぐに、愛子お祖母ちゃんを嫌っているのならだめだろうと考え直した。
 私は十字路を左に折れ母の実家を通り過ぎた。
 桜並木が見えてきた。コンビナートの工業地帯に沿って、桜の木はひっそりと整列していた。私は自転車から降りて遊歩道に上がった。たくさんの花びらが地面に落ちていた。それもそのはず、桜はもう三分の一は散ってしまっている。私はそれでもここに来たかった。愛子お祖母ちゃんとノートの彼が一緒に歩いたこの場所に、私も触れたかったのだ。
 欄干に両腕をのせ身を預けた。目の前には小川を隔てて肉屋が建っている。揚げ立てのコロッケのにおいが漂っていた。
 昭和のころ、ここは田園に囲まれていたらしい。ずっとつづく緑、透き通った空気、清らかな川のせせらぎ。私の心は遙か昔にタイムスリップしていく。
 ノートの彼はどのような顔をしているのだろう。あまり恰好よくない方がいいな。惣ちゃんのような平凡で目立たない人、だけど、なんとなく気になってしまうような人がいい。
 もの思いから覚めると、少し距離を置いておばさんが立っていた。私と同じように欄干に寄りかかり小川を眺めていた。どこか寂しそうな表情だった。髪は耳にかかる程度のショートカットで、西日に照らされてつやつやしている。カシミヤのセーターに黒のズボン。
 私のまなざしに気づいたのか、おばさんは振り返った。私はどうしようか困ったが、とりあえず会釈した。
 おばさんもゆっくりと頭を下げた。
「桜、散ってしまったわね」
 私は無数の枝を見た。
「……切ないですね」
「桜は好き?」
「はい、今日から」
 おばさんは声を上げて笑った。
「今日から。そう」
 しばらく私たちは桜の木を慈しむように見た。西日が少しずつ山の陰に隠れていく。
「あら、もうこんな時間」
 おばさんは慌てて近くにとめてあった自転車にまたがった。
「じゃあ、またどこかで会えるといいわね」
 私は手を振って応えた。おばさんの自転車は──かごに入っている買い物袋が重いのか──ふらふらとふらついていた。
 なんだか風のような人だったなと思いながら、私も自転車に乗った。

       四

 朝のホームルームが終わると、担任の先生が私のところに来て、
「今日は、初瀬の見舞いに行かなくてもいいから」
 と言った。
 一時限目に行われる理科の教科書を机から取り出していた手が、とまった。私はしかめっ面をつくって聞いた。
「どうしてですか」
「初瀬のお母さんから、親戚の人が亡くなられたので、病院に行くことができないと電話が入ったんだ。だから今日は来なくてもいいって、な」
「だったら、直接初瀬君に渡しときます」
「いや……そういうわけにもいかんだろ」
「そういうわけとは、どういうわけですか?」
 私は聞き返した。先生が言っていることは理不尽だ。ちゃんと納得できる説明をしてほしい。
「いろいろと、複雑なんだよ。ひと言では、言えん」
「ひと言じゃなくていいので、どんどん言ってください。私、一限目は休んで、先生の話を聞きます」
 周囲のみんなが理科室に向かう足をとめ、注目している。先生は眉をひそめ後頭部をぼりぼりとかいた。
「だいたいなぁ、早川。なんでそこまで初瀬を気づかっているんだ」
「クラスメイトだからです」
「……それだけとは思えんが」
 まわりがざわつきはじめた。私は怯まない。
「とにかく、なんでいちいち初瀬君のお母さんを通さないといけないんですか?」
 だからなぁ、と、先生は語気を強めて言った。
「家庭の事情というものがあるんだよ。わかるだろそれぐらい」
 堂々めぐりだった。私は、わかりました、とだけつぶやいた。先生は鼻を鳴らして早足に教室を出ていった。
 ──わかりました。わかりましたけど、今日も病院に行ってみます。
 私は内心でもう一度つぶやいた。

 放課後のチャイムが鳴ると同時に、私は急いで教科書や文房具を鞄につめ込んだ。部活に向かう生徒たちをかき分け、駐輪場に直行した。昼下がりに降っていた雨は上がっていて、アスファルトがきらきらと日差しを受けていた。
「早川!」
 正門に向かっているとき、聞き覚えのある声がした。
 自転車をとめて振り返ると、近野君が玄関から走ってきていた。なぜか慌てた様子で、上靴のままだった。
 近野君は息せき切ったまま、
「今日も、部活には来ないの?」
「うん。ちょっと用事があるから」
「最近、来てないよな」
 私は、ごめんと謝った。サッカーは好きだけど、今はそれどころではない。惣ちゃんのことで頭の中はいっぱいだった。
「もしかしてさ、俺が言った、あのひと言に怒ってんの」
 近野君は遠慮がちに質問した。渡り廊下から生徒たちの喧噪が聞こえる。
「あのひと言、って?」
「だから……俺が無神経にも、早川の痣のことを聞いちゃったこと」
 近野君はうつむいて、上目づかいのままぼそぼそと言った。
 ああ、と、私は間延びした声を出してしまった。近野君は、私が部活に来なくなったのは、あの日、痣のことで傷つけてしまったからだと思い込んでいるのだ。
「別に気にしてないよ。それで部活に出ないんじゃなくて、本当に用事があるの」
「初瀬の見舞いだろ」
 私は一瞬ためらったが、正直にうなずいた。
「今日はいいって先生が言ってたじゃん。それでも、行くんだ?」
「心配だから」
「そりゃあ、俺だって心配だよ。同じサッカー部だし。だけど……」
 近野君は唇を突き出して子どもっぽい表情になった。ボールを持ったときの精悍な顔つきは鳴りをひそめ、幼い部分がうっかり出てきてしまったようだ。近野君の新たな一面を発見できた私は思わず噴き出した。
「なにがおかしいんだよ」
「ごめんごめん」
 私が笑っている間、近野君は疑わしそうにこちらを見ていた。
「じゃあ、行くね。ばいばい」
 手を振って、私はペダルを踏み込んだ。振り返ることなく、校門を抜けた。
「近いうちに部活に顔を出せよぉ!」
 背中に彼の声が飛んできた。
「おー!」
 私は左の拳を突き上げて応えた。
 風を切り裂きながら立ち漕ぎで病院に行った。七階のエレベーターの前で、ある看護婦さんに、毎日大変ね、と話しかけられた。いつも看護帽が絶妙の角度で頭に載っている人だ。私は愛想笑いして通り過ぎたが、そのあとで、惣ちゃんの容体を聞けばよかったな、と後悔した。
 惣ちゃんに直接聞けばいいことだが、わざわざ暗い話題にしたくない。私は惣ちゃんが明るくなってくれるように振る舞おうと、来る前から決めていた。
 表札で確認してから病室に入った。そこはごく普通の六人部屋で、若い人は惣ちゃんしかいない。彼のスペースは右の窓際。今は分厚いスライド式のカーテンで遮られていた。来るものを拒絶する、そんな力をカーテンは放っていた。
 私はとたんに尻込みした。惣ちゃんに会いたい気持ちと、会ったところで自分に何ができるのかという不安が同居していて、私を凍りつかせた。
 躊躇は長引けば長引くほど途方に暮れさせるものだ。私は私に、ここまで来たんだからとゲキを飛ばした。一歩踏み出し、二歩、三歩とおそるおそる窓辺に近づいていく。やっと会えるというのに、なんでこんなにも動揺するのだろう。
 カーテンの端に手をかける。ここでためらったらだめだ。私は開け放った。顔は笑みをつくっている――つもりだ。自信はないけれど。
 テレビを観ていた惣ちゃんと目が合った。正真正銘の本物。何百回と思い描いても、空想にふけっても触れられなかった彼に、やっと会えた。
 うれしくてうれしくて、私は涙ぐみそうになった。同時に、鼻の奥がつんとなった。
 惣ちゃんは目を見開いたまま、耳からイヤホンを外し、テレビの電源を切った。腕の力のみで上半身を起こし、
「早川……」
 と口ごもった。驚くほどかすれた声だった。
 そこで私は、疲れはてている惣ちゃんに気づいた。浮かれすぎてまともに見ていなかったのだ。
 惣ちゃんは目の下に隈をつくっていて、唇にはうるおいがなかった。全体的にくすんでいた。精神的な疲労が体にまでくっきりと表れていた。
 浮かれていた自分が恥ずかしくなった。本当によろこぶのは彼が退院してからだ。
「……お見舞いに、来ました」
 自分でもびっくりするほど、声がふるえていた。少し前までの冷静な私は羽根をつけてどこかに飛んでいったようだ。えへへ、と私は無理やり笑ったが、実際には顔をゆがませているだけかもしれない。
「元気……じゃないよね」
 惣ちゃんは目を伏せた。
「毎日プリントやパンを届けてくれてありがとう」
「そんな、お礼を言われるほど大したことはしてないよ」
「うれしいんだけど……でも」
 惣ちゃんは脱力して上体をベッドに沈ませた。
「会いたくは、なかった、かな」
「え?」
 声が上擦ってしまった。
「こんな姿、見られたくなかった」
 私は惣ちゃんから視線をそらした。
 気まずい静寂のあと、ごめん、と惣ちゃんは言った。
「ううん。私の方こそ、ごめんね」
 今日は帰ろうと思った。私が長居すればするほど彼を傷つけてしまう。私は鞄からプリントとパン、牛乳を取り出して、棚の空いているスペースに置いた。ここに置いておくねと言ったけれど、惣ちゃんは返事をしてくれなかった。
「それと、ね」
 私は鞄の中から一冊のノートを取り出した。渡そうかどうかためらったものの、せっかく会えたのだからと考えて、思いきってノートを差し出した。
「もしよかったら、交換日記、しない?」
 あの、愛子お祖母ちゃんが名無しの権兵衛さんからもらったノートを見てから、私も惣ちゃんに思いを伝えようと考えていた。でも、こちらの一方的な押しつけだと彼も困惑するだろうなと思って、交換日記にしたのだ。
「交換日記……」
「うん、病院だと退屈するだろうなと思って……。暇なときに書いてよ」
 惣ちゃんは横になったまま、ノートを開いた。一ページ目には「惣ちゃんがまたサッカーできますように!」という言葉を添え、ボールを蹴る、かわいらしい惣ちゃんの絵も描いた。
 それを見た惣ちゃんは顔をくしゃくしゃにした。思いがけない反応に、私はどうとらえていいのかわからなかった。
「……惣ちゃん?」
「ごめん」
 惣ちゃんは泣き声で言った。
 私はますますわけがわからなくなる。惣ちゃんはなんで泣いているのだろう、なんで謝るのだろう、なんで……なんで?
 彼はもう一度、「ごめん」と言った。なんだか「帰れ」って言われているみたいだった。
「また、来るね」
 私はカーテンを閉め、ゆっくりと廊下に向かい、部屋を出た瞬間――走り出す。何者かが私を責め立てていた。看護婦や患者にぶつかりそうになりながらもエレベーターホールまで行った。
 ──どうしちゃったんだろう、惣ちゃん。
 ちょうど上がってきたエレベーターから、若い男性が出てきた。私は乗り込み、昇降ボタンを押した。ほかに人はいなかった。
 パネルにはめ込まれた各階の表示が横に点灯していく。
 扉が開き、一階に出た。あら、という調子はずれの声が聞こえた。
「あなた、あの桜のところにいた子よね」
 はっとして振り返ると、見覚えのあるおばさんが目の前に立っていた。昨日、桜並木で会った、ショートカットのおばさんだった。今日もカシミヤのセーターを着ている。
「偶然ね。お見舞い?」
「あ、はい。同級生が入院しているので」
「そう」
 おばさんはほほえんだ。包み込むようなやさしい表情だった。
「これから帰るところなら、一緒に帰らない? うちも自転車だから」
 私たちは病院を出て、駐輪場に向かった。日が長くなってきているのだろう、まだまだ太陽の光は衰えていなかった。
 私は自転車に鍵を差し込みながら、おばさんに質問した。
「どこか、悪いところがあるんですか?」
「いいえ。うちもお見舞いだったの」
「そうなんですか」
「その、同級生の人は、どこが悪いの?」
 私は自転車にまたがって、おばさんの横に並んだ。
「わからないんです」
「どういうこと?」
 二人並んで遊歩道をゆるやかに走る。来たときは向かい風だったが、今は追い風だ。
「その子のお母さんも、担任の先生も、教えてくれないんです」
「余計に心配になるわね」
 おばさんはしっかりと前を見ながら、言った。
「何か言えない事情でもあるのかしら」
 ふいに、さきほどの惣ちゃんの顔が浮かんだ。「ごめん」という声が体内で何度も反響する。私は泣きたくなった。
 やがて桜の並木道に差しかかった。私はまっすぐで、おばさんは右に曲がらなければならない。私は名残惜しいまま、それじゃあ、と言った。
 おばさんはいったん自転車をとめてから、
「うちに来ない?」
 と言った。
 私は意外な言葉に驚きつつも、いいんですか、と声を出した。
「家に帰りたくないでしょ」
「わかります?」
「うん、顔に書いてある」
 私は首を傾けた。
「ものすごく、冴えない顔をしているわよ。こっちまで不安になっちゃうような、そんな雰囲気」
 おばさんはにこやかに笑った。
「だからね、お節介させてよ。このままじゃ、心配でほっとけないから。熱いお茶でも飲みながら話をしましょう。少しぐらい気分がほぐれると思うわ」
 私は、おばさんに甘えることにした。
「はい、実は家に帰りたくないんです。おばさんって察しがいいですね」
「ただ、老婆心が強いだけよ」
 私は自転車の向きを変えて、ペダルを踏み込んだ。

 おばさんの家は山のふもと近くにひっそりとたたずんでいた。ささやかな庭付き一戸建てだ。築十数年は経っているようであるが、玄関を開けると立て付けのよさがわかった。花瓶に生けられたフリージアは瑞々しく春の呼吸をしていた。やわらかい、感じのいいにおいをかいでいると、おばさんに「さあ、上がって上がって」とうながされた。
 広々とした客間に通され、私はわずかに緊張した。
 おばさんはお茶を淹れてくると、それを私に差し出し、テーブルを挟んで真向かいに座った。掛け軸がかけられていて、違い棚には立派そうな骨董品が並んでいた。障子は開け放たれていて庭が見渡せる。そこには数々の盆栽と木があり、椿の花はすでにほとんど落ちていた。
 人の気配はしない。子どもはいないのだろうか。旦那さんはまだ仕事から帰っていないのだろうか。
「うちね、なんていうか、あなたに妙な親近感を持ってるの。あなたに失礼かもしれないけれど、似たもの同士というか、旧知の間柄というか、そういう感情があるの。こんなに歳が離れているにもかかわらず、ね」
 おばさんは快活に言った。
「ふしぎなことに、桜並木ではじめて会ったときから」
「私もです」
 そう、私も同じだった。このおばさんにはなんでも話せるような気持ちになれる。
「よかったわ。変なおばさんだと思われなくて」
 おばさんはおどけた顔をして、
「この歳で運命論なんか言ったら、一蹴されると覚悟してたわ」
 私たちは笑い合った。ひとしきり笑ってお茶をすすると、私は口を開いた。
「私、今入院している同級生のことが気になっているんです。というか、はっきり言って、好きなんです」
「うんうん」
 おばさんは真顔になって相槌を打った。
 私は、惣ちゃんとの出会いのことを──つまり小学校のころから今までのことを、洗いざらいしゃべった。学校が終わると公園でサッカーをしたことや、中学生になりだんだん気になりはじめたこと、いつの間にか惣ちゃんに心を奪われるようになっていたこと、試合中に惣ちゃんが怪我をして、今はあまり会えないから寂しいということ――私は思いを言葉に変えた。おばさんはすべてを受け止めてくれるような、広く構えた態度で聞いてくれた。
 話し終えて、安堵のせいか、私はむせび泣いた。外の闇が家の中にまで侵入してきていて、あたりをしんみりとさせている。切ない夜だ。
「惣ちゃん、『ごめん』なんて言うんだよ。私、どうしたらいいかわからなかった。いまだにあの『ごめん』にはどんな意味が込められてるのか、わからない。もしかして、もう二度と来ないでくれって言ってるのかもしれない」
「そんなことないわよ」
 おばさんはやんわりと言った。
「その子には、まだ怪我をしたショックが残ってるのよ。またサッカーができるようになるか、もとどおりに完治するか、不安なのよ。あなたのことを嫌っているわけではないと思うわ。これ以上お節介すると迷惑がられるかな、と思ったらブレーキをかけて、この気持ちはわかってほしいなと思ったら、まっしぐらに突っ走るべきよ。迷っちゃだめ。迷いは人をにぶらせるだけだわ。自分の直感と考え方を信じて行動したらいいじゃない。好きだったら、好きだからこそまた明日もお見舞いに行くべきよ。その子のお母さんが邪魔をするんだったら、そこは大人しく引き下がって、つぎのチャンスをねらえばいいの。いつかきっとあなたの思いは届くから。ひたむきな人は、強くて、運命をも変えてしまうくらいのパワーを持っているものよ」
 やっぱり、このおばさんは特殊な人だ。私の躊躇を吹き飛ばしてしまう。
「私、自分の素直な気持ちに従ってみます」
「うん。あなたの恋が成就するかしないか、それも問題だけど、それ以前に、その惣ちゃんって子にしてあげられることを考えたらいいんじゃない?」
 私は目もとをぬぐって、首を大きく縦に振った。
「泣くとすっきりするでしょ。うちもね、小さいころは感情的になりがちな性格だったのよ。まあ、今もあまり変わってないけど。だから、泣くときは思いっきり泣いてた。泣くっていうのは精神的にもいいの。だから、惣ちゃんを思って思って、これでもかっていうぐらい思って、苦しくなったら、今日みたいに泣きなさい。人前でもどこでもいいから。どうせ人の噂も七十五日よ」
 おばさんはそう言って、目尻にしわを寄せた。
「そろそろ帰らないと、ご両親が心配するわね」
「あの、また来ていいですか」
「もちろん、大歓迎よ」
 私はまだ帰りたくなかったけれど、しかたなく時間と折り合いをつけた。おばさんにお礼を告げて玄関に行った。
「諦めないで。好きなんだったら、とことんやらなきゃ」
 おばさんは胸の前で手を握り締めて小さくガッツポーズをした。
 私は、はい、と元気な返事を返した。
 私は立ち漕ぎで自転車を走らせた。途中で、名前を聞くのを忘れていたなと思ったけど、また今度会ったときに聞けばいいやと思い直した。だって、おばさんとはもう友だちだ、いつでも会えるのだ。
 風は凪いでいて、しんとした夜空に無数の星が散りばめられていた。
 ひさしぶりに門限を破ってお母さんに怒られたけれど、私の気分はとても晴れやかだった。

       五

 私はゴールデンウィークが明けてからもプリントや給食の残りを病院に届けた。惣ちゃんのお母さんに何度も「つらいでしょうから、やめていいわよ」と言われた。私は、やめるもんか! と胸のうちで反発した。惣ちゃんにやめろと言われたら考えるけど、お母さんに言われたぐらいでは怯まない。
 だから今日も、学校が終わると病院に直行した。すっかり見慣れた院内を早足で進み、休憩所まで行くと、惣ちゃんのお母さんを見つけた。観葉植物の置かれてあるところで医師と話し込んでいた。
 ――お母さん、やっぱり今日もいる……。
 私は落胆しつつのろのろと近づいていった。が、惣ちゃんのお母さんはなかなか私の気配に気づいてくれない。
 私は、しめた、と思った。このままここを通り過ぎれば、惣ちゃんに会える。
 惣ちゃんのお母さんは医師に向かって頭を下げている。見つかったら見つかったときのことだ。気づきませんでした、とか言って、とぼけたふりをすればいい。私はなかば楽観的に構えて惣ちゃんの病室に行った。
 惣ちゃんは私を見たとたん、漫画雑誌を広げたまま、まるでこの世に存在していないものを見るかのように目を丸くした。
 私は口もとをゆるめて、
「お母さんの目を盗んで来ちゃった」
 と言った。
 惣ちゃんは、そっか、と言って、雑誌をマガジンラックに戻した。心なしか彼の表情がおだやかに感じられた。
 なんだか私はうれしくなった。
『……あのさ』
 惣ちゃんと私の、二つの声。一瞬、間ができて、それから私たちは噴き出した。
 私は笑いながら、
「なに?」
「いや、早川が先に言ってよ」
「惣ちゃんが先に言いなよ」
「言わない」
「じゃあ、私も、言わない」
 他愛ないやりとりがまたおかしくて、私はくつくつと笑った。
「僕から言うけど……」
 惣ちゃんは長く伸びた前髪をうっとうしそうに揺らしてから、
「交換日記、書いたから……つぎは早川な」
 私は跳び上がりそうになった。私が「あのさ」のつづきに言いたかったことは、「交換日記、ちゃんと書いてくれた?」である。
 惣ちゃんはベッドの敷きパットをめくって、一冊のノートを取り出した。はい、と言って私に差し出す。返事を返してくれるかどうか、半信半疑に思ったこともあった。だから今、私の手にこうやって返ってきたことが、非現実的に感じられた。
「ありがとう」
 私はノートを胸に押しつけ感触をたしかめた。中におさめられた文章の温かみまで伝わってくるようだ。
 顔を上げると、惣ちゃんの視線は私の肩越しに向かっていた。私はそれにつられて、首をひねった。
 惣ちゃんのお母さんがいた――目の前に。彼女は頬を紅潮させて、じっとこちらをにらんでいる。
 体内の血がさっと引いていくのがわかった。
「……どうしてここまで来たの?」
 弱々しい声だったけど、そこには敵意がふくまれていた。
「私、どうしても初瀬君と会いたかったんです。クラスのみんなも、何も聞かされていないから心配しているんですよ」
「だからって、断りもなしに──」
「母さん、別にいいって」
 惣ちゃんが咎める口調で言った。
「いいえ、よくないわ」
 惣ちゃんのお母さんは一言でそれを蹴散らした。さっきからまばたきを一度も行っていないせいか目が充血している。
「惣次は、情緒不安定なの。かき乱すようなことはしないで」
「どこが不安定なんです?」
 私は反射的に言い返した。彼女は息子のどこを見て言っているのだろう。誰が見たって惣ちゃんは元気じゃない。
「あなた、何も聞かされていないでしょ」
「ええ」
「まだ何も言わないでほしいって、担任の先生にお願いしているのよ」
 ──どういうこと?
 ぱさっと音がした。床にノートが落ちたのだ。なぜだろう、手に力が入らない。
 惣ちゃんのお母さんはゆるやかな動作でそれを拾った。彼女はノートを開いてまじまじと見た。顔色が変わった。
「なんてことを書いているのよ!」
 悲鳴に近い声だった。私は肩をびくつかせた。
 惣ちゃんのお母さんは、能面がはがれたように表情をあらわにした。怒りの表情だった。
 私は釈然としない声を出した。
「いきなり……なんですか」
「これを見なさいよ、これを!」
 彼女はノートの一ページ目を私に指し示した。「惣ちゃんがまたサッカーできますように!」と書かれていて、デフォルメされた惣ちゃんの絵が載っているだけだ。これがどうしたというのだろう。私は首をかしげた。
「あなた、これを惣次に見せたの?」
「あ、はい」
「もぉ、何、勝手なことをやってんのよ」
 惣ちゃんのお母さんは涙声で言いながら髪をかきむしり、ノートを床に捨てた。惣ちゃんはうつむき加減に掛け布団を見つめている。
 ふと、室内が暗いことに気づいた。外の雨がどしゃぶりに変わったからだ。耳障りな雨音が聞こえはじめた。
 惣ちゃんのお母さんは声にならない声でうめいた。私は状況がわからないまま、ノートを拾い上げた。
「あの……このノートは、ただ、惣次君の足が治るまで暇つぶしにと思って──」
 パンッ、と、雨にも負けない音が鳴った。一瞬目の前がぼやけた。
 やがて左の頬がぼうっと熱くなった。私はそこに手を添えてたしかめた。ひりひりする。頬を張られたことに気がついた。
 とうとつすぎて、怒りすら忘れてしまった。どんな感情もわき起こらない。
 惣ちゃんのお母さんは大粒の涙をこぼしていた。眉毛は垂れ下がって、口はゆがみ、全身をふるわせていた。
「惣次はねぇ、私の息子はねぇ──歩けないのよ」
 ――え?
「一生、歩けないの。わかる? 一生よ、一生。死ぬまで歩けないの」
 彼女は叫びにも似た声で、一言ひとこと強調しながらしゃべった。
「あなたなんかに、惣次の苦しみがわかりっこないわよね。親の私ですらわからないんだもの。惣次はね、病状を宣告された日に、手に負えないほど暴れたのよ。手もとにあるものは全部投げて壁にぶつけて……私や夫、看護婦さんらが一日中押さえつけておかなければいけなかった。泣きじゃくって泣きじゃくって、そりゃあもう、痛々しいってもんじゃなかった。……お願いだから、惣次を、そっとして上げて。二度と、あの日のような狂った惣次を見たくないの。足が治るといいね、なんて、軽はずみに言わないで!」
 ──私は、私は惣ちゃんに、なんてことをしてしまったのだろう。
 惣ちゃんの足は治るものだと思い込んでいた私は、そこまで深刻にとらえていなかった。惣ちゃんに会いたいために病院を訪ね、惣ちゃんと会話したいために交換日記を渡した。だけどそれは、彼に負担をかけているだけだったのだ。
 立てなくなったショックは、私のちっぽけな想像力では到底わからないだろう。私は邪魔者──私は最低──私は馬鹿だった。
「ご、めんね……惣ちゃん」
 私は涙を制服の袖でぬぐいながら、謝った。
「何がごめん、よ」
 惣ちゃんのお母さんに襟もとをつかまれた。私のふにゃふにゃになった体は、激しく前後に揺さぶられた。
「だから会わせたくなかったのに──」
「やめろ!」
 惣ちゃんの怒りと悲しみがこもった声に、私たちは静止した。
「やめてくれよ。母さん、早川は悪くないんだ。ぜんぜん悪くないから……」
「惣、ちゃん」
 私はぎこちなく惣ちゃんを見た。視界は涙でにじんでいるけど、彼が両手で頭を押さえていることはわかった。
「ごめんな、早川。ほんと、ごめん」
「なんで? なんで謝るの? 無神経だった私が悪いんだよ」
「早川には言おうと思ってたんだ。だけど言えなかった。ごめん」
 私が交換日記を渡した日、あの日に惣ちゃんは「ごめん」と言った。それを聞いた私は恐くなってエレベーターまで走って逃げた。
 今なら理解できる。あの「ごめん」は、彼の足が治ると信じて疑わない私に対しての謝罪だったのだ。惣ちゃんは私を苦しめないために押し黙り、「ごめん」としか言えなくなったのだ。
 たくさんのものを失ったような気がした。
 ――私って、最悪。

       六

 あの対校試合の日、惣ちゃんはゴールポストに背中を強打し、すぐに救急車で運ばれた。医者が下した病名は脊髄損傷――圧迫脱臼骨折によって脊髄が損傷したのだ。脊髄の回復力はきわめて低く、傷を受けると恒久的な障害を残すことが多い。惣ちゃんの下半身は麻痺し、車椅子なしでは移動できなくなった。
 私たち三年六組の生徒は、ようやく担任の先生から惣ちゃんの容体を聞かされた。私が最後に惣ちゃんに会った日──惣ちゃんのお母さんから惣ちゃんの足のことを聞かされた日──から一週間が経っていた。惣ちゃんのお母さんに、まだみんなに知られたくないということで口止めされていたらしい。私だって、もう歩けなくなったと宣告されれば、それが噂になったりしているのを想像するだけで気分が沈んでしまう。言えなくて当然だ。
 クラスのみんなは視線を机に落としている。ひそひそ話や貧乏揺すりをするような不謹慎なやつは一人もいない。教室中が惣ちゃんのつらさを、悔しさを噛みしめていた。
 先生は話し終わるとパイプ椅子に座った。先生はここ最近でかなり老けた。いつもは整髪剤で整えられた髪もところどころほつれ、なんだか抜け殻みたいだった。
 校内に間延びしたチャイムが鳴り響いた。が、みんな席を立とうとしない。となりの教室から椅子を動かす音や廊下を走る音が聞こえてくる。
「早く、部活に行きなさい」
 先生はぼそぼそと言い、しばらくして、
「いや、今日は帰ってもいいぞ」
 みんな重い腰を浮かして帰り支度をする。私も立ち上がり、掃除道具入れに向かった。今日は私と近野君が日直だった。
「愛美」
 美歩が駆け寄ってきて、私が持っているほうきをつかんだ。
「代わろうか、日直」
 私はほほえんで首を横に振った。
 美歩はまばたきをして頭を下げた。そこで私は彼女が涙ぐんでいることに気づいた。
「このごろ愛美が元気なかったのは、そういうことだったんだね。あたし親友なのに、愛美が苦しんでいるのに気づかなくて、よくからかったりして……」
「いいよ」
 私はまた首を振った。
 こんなにも沈んでいる彼女を見るのははじめてだった。美歩もつらいのだなと思ったら、私まで泣きたくなった。いやだな、もう……毎日泣いてばかりだ。
 今日は近野君を一人占めしちゃうけど許してよね、と美歩の肩をたたいた。私は少しだけ上を向いて涙をこらえた。
 先生もみんなも、教室から遠ざかっていく。吹奏楽部の練習がはじまったようだ。打楽器や金管楽器、ピアノの調律が聞こえる。野太い音。甲高い音。曲名は知らないが、パレードとかに使われる聞き慣れたメロディーだ。
「いつまでそこを掃いてるんだよ」
 振り返ると、黒板消しを持った近野君がいた。制服を脱いでカッターシャツの袖をまくり上げている。
 近野君は私の前に来て、ぱんぱんと黒板消し同士をたたいた。チョークの粉が飛び散り、私は咳き込んだ。
「ぼうっとしていたって掃除は進まない」
 彼はそう言って軽く笑った。
「よく笑えるよね、こんなときに」
 私は彼の態度が気にさわった。
 近野君は窓を乗り越えベランダからも黒板消しをはたいた。窓が開いたせいで、吹奏楽部の演奏がいっそう大きく聞こえた。
「こんなとき?」
「惣ちゃ……惣次君の、足のことを、なんとも思ってないの?」
「そりゃ、俺だって悲しいよ。しかも同じサッカー部なんだぜ、ボールを蹴れなくなる悲しみもわかってる。ほかのやつらより何倍も」
「だったら、笑うなんてできない」
「泣けばいいのかよ」
 私の言葉を制して、近野君は声を張り上げた。ちょっと前までは幼いなと感じていた彼の声も、今は低く、男性を思わせる響きに変わっていて、私は内心びっくりした。
「つらい顔をすればいいのかよ。俺は違うと思う。初瀬はもっと苦しくなるだけだと思うんだ」
「どういうこと?」
「俺たちが同情すればするほど、初瀬は学校に来たくなくなる」
「別に同情なんてしてないよ」
「いや、同情だよ。いくら初瀬の苦しみをわかろうと思ったって、結局はわからない。だって俺たちは走れるしサッカーもできる。……怒ったときは人の腹を蹴ったりもできるんだ」
「でも、それでも、惣次君のことをわかろうとしないよりはマシだよ」
「俺は、わかろうとしていないわけじゃない。ただ、同情はしないって言っているだけ」
 近野君はこちらに向き直って、ベランダの手すりにもたれかかった。
「俺は普通にしておきたいんだ。いつでも初瀬の顔を見られるように、いつもどおり話しかけられるようにな」
 彼の言っていることが少しだけ理解できたような気がした。
「みんなが初瀬を不憫な目で見ていたら、あいつは学校に戻って来ないと思うんだ」
 近野君はつづける。
「考えてみたら、そりゃあいやだろうな。クラスのみんなどころか、ほかのクラスのやつらまで、不憫な目で見てくるんだぞ。絶対にいやだよ、腹が立つよ」
「でも……普通になんて、できるかな」
 私はぽつりと弱音を吐いた。
「できるさ」
 近野君は軽やかに窓枠を飛び越えると教室に戻ってきた。
「初瀬は俺たちのクラスメイトだ。テストの点数が悪かったら思いっきり笑ってやるし、消しゴムを忘れたら貸してやる」
 私は噴き出してしまった。同時に、うれしくなった。私も、近野君も、惣ちゃんが戻ってくるのを待ってるよ、待ち望んでいるよ、と、心の中でつぶやいた。
「まあ、フェアに戦いたいっていうのも、あるんだけどな」
 近野君は教壇に行って黒板消しを置いた。
「正々堂々と、な」
「サッカーでもするの?」
 言っている意味がわからなかったから、私は聞き返した。
「バカ。初瀬はもう、サッカーできないだろ」
 近野君は顔をしかめた。
「それに、サッカーでは、俺の勝ちだよ。あいつ、下手だもん」
「じゃあ、戦いって何?」
「知らない、言わない、教えない」
 彼は肩に制服を引っかけ鞄を持ったまま教室を出ていった。
 私は、自分の顔がほころんでいることに気づいた。近野君があんなに格好いいやつだとは思わなかった。美歩が好きになるのもうなずける。
 私はずっと一人で悩んでいた。めそめそ泣いていた。惣ちゃんの足のことを聞かされた日から、惣ちゃんのことばっかり考えて、でも、いくら考えても答えなんて出なくて──堂々めぐりだった。
 だけど今日、私は近野朋泰という頼りになる仲間を見つけた。一人ではなかったのだ。

 学校帰り、偶然あのおばさんに会った。スーパーの前の十字路で信号待ちの彼女を見かけたのだ。ベージュのブラウスに紺のズボンという服装だった。向こうは「あら」と気さくに声をかけてくれた。
 実を言うと、私はおばさんの前で泣きに泣いた日以来、顔を合わせるのにためらいがあった。人前であんなに泣いたのははじめてだったから、冷静になればなるほど恥ずかしくなって、なかば後悔していた。だから、家に行こうと思ってもなかなか行けなかった。
 でも、おばさんの笑顔を見た瞬間に、ああ、やっぱり泣いてよかったな、と、妙に納得してしまった。
「おひさしぶりです」
「こんなところで会うなんてね。学校帰り?」
 私は、はい、と返事をした。
 歩行用の信号が青になり、私たちは自転車を押しながら渡った。
「そうだわ、お茶しましょう。おいしいコーヒーが飲めるところがあるのよ。もう中学生だもの、コーヒーぐらい飲めるわよね」
 おばさんは歩道の三十メートルほど向こうを見た。
 こぢんまりとした雑貨店があり、その上に喫茶店が載っかっている。一階も二階も全体的に細長い造りになっていて、地味な看板や外壁がかえって洒落っけをかもし出している。そこのすぐとなりは、私の母の実家である。
「あ、私もあそこのコーヒーは好きです。ミックスジュースは異常にまずいですけど」
 ふふふ、と、おばさんは口もとに手を持ってきて上品に笑った。私は、きれいだな、と見とれてしまった。
「じゃあ、行きましょ」
 背筋のぴんと伸びたおばさんはどんどん進んでいった。
 重い樫材の扉を引くと、小気味いい鈴の音。鼻の下に髭をたくわえたマスターが、いらっしゃい、とほほえんで言った。店内は、カウンターに二人、テーブルに一組のカップルがいるだけで、ゆったりとくつろげそうだった。
 おばさんに誘導され、私は窓辺のテーブルに座った。私はコーヒーに決め、おばさんはソファーの横に買い物袋を置きながら、ミックスジュースにしようかな、と言った。どれほどまずいのか挑戦するつもりらしい。私はマスターに声をかけ、注文した。
 近くに「幸福の木」と記された観葉植物がしつらえられていて、中央の天井には二本のファンがまるでそよ風に吹かれるようにまわっていた。目の前にカップが置かれ、その金属的な音で、私は我に返った。
 おばさんはにこにこしたまま、ストローに口をつけた。私は角砂糖を一個だけ入れて、コーヒーを飲んだ。香りからしてインスタント物とは比べるまでもなく、おいしい。
「なるほど。うちの負けだわ」
 おばさんは言った。まずかったのだろう。
「鉄っぽい味がするんですよね」
 マスターが向こうのカップルのところに行っているのを確認してから、私は小声で言った。
「この店、ゆいいつの欠点ね」
 おばさんは口直しに紅茶を注文した。
 琥珀色の紅茶が届けられたあとに、
「聞いてもらえますか。前にお話しした、惣ちゃんのことなんですけど」
 と私は話しかけた。
「そうそう、うちも心配していたの。あれからどうなったんだろうって」
 おばさんはテーブルの上に両手を組んだ。さんざん悪口をたたかれた肌色のミックスジュースは脇にどけられている。
 実は……、と言いよどんでから、
「惣ちゃんのお母さんに嫌われてしまいました。たぶん、惣ちゃんにも」
「どうして……」
「惣ちゃんを、お母さんを、混乱させてしまったからです。私は無神経にも毎日お見舞いに行って、プリントや給食を渡して、そうすることで惣ちゃんがよろこんでくれると勘違いしていたんです」
 私は舌を噛んで、喉に突っかかる嗚咽を我慢した。惣ちゃんのお母さんに責められたときのことを思い出すたびに悲しくなる。だけど、もう、泣くのはやめようと思っていた。近野君に勇気をもらってから、泣いていたって何もはじまらない、それよりも今を、明日を、ちゃんと見据えようと考えられるようになった。
「惣ちゃんの足は、二度と治らないんです。立てなくなったんです。私はそんなこととは知らずに、毎日通っていました」
「まあ……」
 おばさんは顔中にしわを深く刻んだ。
「惣ちゃんはつらい毎日を送っていたと思います。治るものだと勝手に思い込んでいた私は、惣ちゃんを元気づけようとして、それがかえって彼を苦しませることになって……。今はもう病院に行ってません。でも私、ちゃんと惣ちゃんやお母さんに謝ろうと思っています。だけど、今謝りに行って迷惑じゃないかどうかわからないんです。本当は今すぐにでも会いに行きたい、許してもらいたい……」
「そこまで、惣ちゃんって子が好きなの?」
「はい」
 私にとって惣ちゃんは支柱だった。支柱がなくなれば、私という存在は崩壊してしまう。
「あなたって、強いのね」
 おばさんは目を細めた。
「え?」
「あなたのそのひたむきさは、何よりも強い武器だわ」
「違います。私は弱いんです」
「いいえ」
 きっぱりと言われた。
「あなたは逃げていない。好きな人が立てなくなって、しかも、その子のお母さんにまで嫌われちゃったら、たいていは逃げるわ。目をそむけるわ」
 私はなんて答えたらいいのかわからなくて、膝もとに視線を下ろした。
「惣ちゃんは、今は黎明期なのよ」
 れいめいき、と私は繰り返した。
「そう、今はまだ何も見えなくて不安なだけ。絶対にこれからまばゆいくらいの朝日に包まれると思うわ。その光があなただといいわね。いや、あなたが朝の光になるべきかもしれないわ」
「なれ……るかな」
「もちろんよ。あなたは朝にふさわしいわ。すてきな一日を予感させてくれる朝に」
 たった一人に向けられる朝日、はじまりの朝、か。私は、おばさんのぬくもりがこもったまなざしにまどろんだ。迷ったり悩んだりするよりは、私は自分に素直に行動すべきだと思った。それが私なのだから。
「どうなるかわかりませんが、今度の休みの日にでも、惣ちゃんのお母さんに会いに行って、謝ろうと思います。私の気持ちを伝えます」
「うん」
「私、頭が悪いから思い立ったらすぐにやらないとだめなんです」
「ふふっ。うちと似ているわね」
「見たときから、おばさんは私側の人だと思いましたよ」
「類は友を呼ぶ」
 おばさんは身を乗り出して、そう囁いた。
 ですよね、と私は噴き出した。軽口を言い合っていると、くよくよした自分が消えていくのを感じた。
 窓の向こうは、もう茜色ではなく、いつの間にか薄暗くなっていた。
「そろそろ帰ろうかしら」
 私は「払います」と言ったが、おばさんに「それだとうちの体裁が悪いじゃない」と制されたので、お言葉に甘えることにした。
 外に出ると額で弱めの風を受けた。私たちは自転車を押しながら歩いた。
「それで、土日のどちらかに謝りに行くの?」
「惣ちゃんの家は知らないから、土曜日にでも病院に行こうと思っています」
「その惣ちゃんって子の名前はなんて言うの?」
 青々とした葉っぱを揺らす桜の木を見ながら、おばさんは言った。
「初瀬──初瀬惣次君です」
「そうなの?」
 おばさんはにわかに声を上擦らせた。
「うちと同じ村の子だわ」
「本当ですか!」
 私は驚いた。
「家はどこらへんですか?」
「うちの家に行く前に大きな十字路があるでしょ。そこから一つ先の別れ道を右に曲がって、突き当たりの家よ。カナメモチを植えた生け垣があるし、初瀬っていう名字は一軒だけだから、わかると思うわ」
「たぶん、わかると思います」
 惣ちゃんの家を聞けたことに心が浮き立った。
 道路の舗装が途切れ、農道に入った。ずっと先まで田園だ。おばさんの村はまだまだ遠い。田んぼには最近までレンゲ草や菜の花があったが、今はほとんど刈り取られている。私は裏作の行われている時期が好きだった。
 道はでこぼこ。昨日の雨が水たまりをこしらえていた。自転車の振動がハンドルまで伝わってくる。
「ああ、そういえば、私、まだおばさんの名前、知らない……」
「当ててみて」
 私は視線をさまよわせてから、彼女に似合いそうな名前を言った。
「陽子さん、ですか」
 おばさんは、ふふふ、と笑って、
「静子って言うのよ。ぜんぜん静かな性格じゃなく、しゃべりたがりだけど。まあ、昔に比べれば大人しくなった方よ」
「静子さん……。静子さんって呼んでもいいですか」
「いいわよ。ちなみに、あなたの名前は?」
「当ててみてください」
「そうねぇ」
 静子さんはこちらをじっと見つめてから、
「愛子さん、かな」
 え? と、お祖母ちゃんの名前が出てきたので、驚いた。
「違うかしら」
「あ、……惜しいです」
 私はぱちんと指を鳴らした。
「発音は違うけれど、『愛』だけ正解です。私は早川愛美って言うんです」
「愛美ちゃんかぁ、いい名前ね。これからは愛美ちゃんって呼ぼうかな」
「なんか友だちみたいでうれしいです」
 しばらくして別れ道に差しかかった。
「私、ニュータウンに住んでいるんです。だからこのへんで」
「うん、気をつけてね」
 私は自転車にまたがった。
「愛美ちゃん」
 少し進んだところで静子さんの声が聞こえ、私は慌ただしくブレーキをかけて止まった。振り返ると、彼女は片手を口もとに添えて言った。
「しあわせな方向にものごとが変わればいいわね。あなたも、惣次君も!」

       七

 今日は第四土曜なので学校は休みだ。いつも休みの日はだらだらとして、ひどいときは昼まで眠っている私だが、昨夜は寝つけずに何度も寝返りを打ち、結局、一睡もしないで朝を迎えた。洗面所で顔をたしかめると、思ったほど様変わりしていなかったので、とりあえず胸をなで下ろした。まあ、一日ぐらい寝なくても平気と言えば平気だった。
 二階の自室に戻ると、パジャマを脱いで私服に着替えた。半袖シャツの上に明るい紫色のカーディガン、チェック柄のスカート。気に入っている組み合わせだ。
 気合いが入ったところで、私はふたたび階下に降り、黒電話の前に立った。廊下の柱時計を見ると針は十時五分前を示していた。呼吸を整えてから受話器を取った。思いのほか重みがあった。
 惣ちゃんのうちの電話番号はハローページで調べてある。
 コール音が響き、数回目で「もしもし」と声がした。惣ちゃんのお母さんだとわかった。
「もしもし。早川と言いますが……」
「ああ」
 惣ちゃんのお母さんはため息にも似た声を出した。
「あの……私、ちゃんと謝りたいと思って、電話したんです。気まずくなったままは、いやだから」
「そう、ね」
「厚かましいかもしれませんが、今からそちらにうかがってもよろしいですか?」
 しばしの沈黙のあと、ちょっと待ってて、と言われた。夫とかと話し合っているのだろうか。ただ考え込んでいるだけかもしれない。私はそわそわしながら返事を待った。
「もしもし?」
「あ、はい」
「じゃあ、悪いけど来てくださいます?」
「はい、わかりました」
 意外にもあっけなく決まり、私は拍子抜けした。
 電話を切ると、台所からお母さんが顔を出してきた。エプロンの裾で手を拭きながら、
「どこに行くのよ」
「ちょっとね」
 両親は、私と惣ちゃんのことなんてぜんぜん知らない。
「もしかして」
 お母さんは不敵な笑みをのぞかせた。
「恋人でしょ」
「は?」
「敬語を使っていたから、相手は年上と見た。そして、あの口振りからすると、喧嘩でもして気まずくなっている、だからあんたは謝りたい、と。どう?」
 私は肩をすくめた。
「サスペンスの見すぎだよ。なんでもかんでも推理すればいいってもんじゃない。たいがい、はずれているし」
「そうなの」
 母は口を丸くすぼめた。今年で四十の母親がする仕種か、と私は突っ込みたくなったが、これ以上つき合っていると惣ちゃんのうちに行く前に疲れてしまう。私は無視して玄関に向かった。
 戸を開けると、外のまぶしさに目を細めた。車庫から自転車を出して、私はさっそく立ちこぎで家の前の坂道を下っていった。あらゆるものがつぎつぎと後ろに流れていった。電線には二羽のツバメがとまっていて、日光浴を楽しんでいた。犬を散歩させている老人、ジョギングする青年、何やら話し込んでいるおばさんたち。
 昨日静子さんに教えてもらったとおり行くとカナメモチの生け垣が見えてきた。近づくにつれて長屋や車庫、蔵なども見えてくる。この村は立派な家が多いけど、惣ちゃんの家も負けていない。
 車庫に自転車を入れて、玄関に行った。心臓の鼓動が大きくなった。私はおそるおそるチャイムを鳴らした。
 足音と同時に、はぁい、開いてますよ、と声が聞こえた。
 私は引き戸を開けた。廊下には惣ちゃんのお母さんがいた。彼女はぎこちなく、どうぞ、上がってくださいと言い、奥の方に引っ込んでいった。ばつが悪いのはお互い様だなと思った。
 家の中は外と違い、一段と温度が低く感じられる。私は台所を通り過ぎて、解放感のある客間に入った。
 そこで、来客が一人いることに気づいた。後ろ姿しかうかがえないが、グレーのジャケットを着た女性がテーブルに座っていた。その向かい側には惣ちゃんのお母さんがいる。
「……お邪魔します」
 声をかけると、女性が振り向いた。
「どうも、こんにちは」
 すずしい顔で静子さんは言った。
「どうして、ここに」
 私は声がひっくり返ってしまった。
「この家は、うちの生家なの」
「知り合いなんですか?」
 惣ちゃんのお母さんは静子さんにたずねた。
「ええ」
 静子さんは座布団を一枚、自分の横に置き、こっちにいらっしゃい、と手招きした。私はのろのろと彼女のとなりに座った。
「この人はね、うちから見たら、兄の息子の妻なの。つまり義理の姪」
 静子さんの説明は私の左耳から右耳へと抜けていく。
「そんなにびっくりした顔をして」
「だって……まさか静子さんがここにいるとは思いも寄らなかったんで」
 ふふふ、と、彼女はいつもどおりにほほえんだ。
「そうだわ。お茶をお出ししなきゃ」
 惣ちゃんのお母さんは立ち上がった。私はすぐに、お構いなく、と手を振ったが、せっかく来てもらったんだから、と制された。
 しばらくは庭をぼんやり眺めたり掛け軸をまじまじ見つめたりと、落ち着かなかった。
「緊張する必要はない──って言っても、無理よねぇ」
 そう言って静子さんはお茶をすすった。
「それに……どう謝ればいいのか、いまだにわからないんです」
「素直に、ありのままの気持ちを言えばいいのよ。心に浮かぶ言葉を、そのまま、ね」
 惣ちゃんのお母さんが戻ってきて、テーブルに湯飲みが置かれた。はす向かいに惣ちゃんのお母さんが座ったのを見てから、私は、あの……、と声を絞り出した。
「ごめんなさい」
 ──え?
 その「ごめんなさい」は、自分の声ではなかった。心の中でずっと唱えていた台詞が外から聞こえたので、私は手品を目の当たりにしたような気分になった。
 あのときはごめんなさい、と、惣ちゃんのお母さんは言った。
「気が動転していたの。惣次のことばかり考えていて、あなたをいとわしく感じていたの。なるべく足のことに触れさせまいと思って、あなたを惣次と会わせなかった。あなたが、『きっと治るよ』とか『がんばろう』とか、希薄な言葉を言わないだろうかと、不安だったから……」
 彼女は深いため息をついて、そして私の方に顔を向けた。
「考えてみれば、何も聞かされていないあなたに、惣次の足の状態なんてわかるはずないわよね。それなのに私は、あなたを一方的に責めた。……たぶん、溜まっていたものをどこかにぶつけないと気がおさまらなかったんだと思うわ。私の勝手で、あなたにつらい思いをさせてしまって──本当にごめんなさい」
 頭を下げられたので、私は慌てて、やめてください、と言った。
「悪いのは私なんです。あんなに何ヶ月も入院しているのに、そのことに疑問を抱かなかった。惣次君は病室で退屈しているだろうなと決めつけて、毎日通っていた私が悪いんです」
「まあまあ。お互い自分を責めるのはよしましょ」
 静子さんがなだめる口調で言った。
「二人とも惣次君を思っての行動だったんだから、ちょっとした齟齬がここまで大きくなっただけで、何も問題ないわよ。それに、惣次君は二人に仲直りしてほしいって言っていることだし」
「あの子、私にも早川さんはぜんぜん悪くないからって、言いました。前向きな彼女を見ていると元気をもらえる、とも」
 惣ちゃんのお母さんの表情は心持ち和やかになったようだ。
「惣次君がそんなことを……」
 私はつぶやいた。
「そうそう」
 何かを思い出したのか、彼女はせわしなくどこかに行ってしまった。しばらくして一冊のノートを持ってきた。
「これ、惣次から預かっているの。一昨日、静子おばさんから、あなたが家に来るかもしれないと聞いて、私、そのことをあの子にも言ったのよ。そうしたら、これを早川さんに渡してくれって頼まれて──返事を書いているらしいから」
 交換日記を私は手に取った。だけど、ためらった。
「でも、これはやめた方がいいですよね。……一ページ目にはあんな言葉が、あるし」
「これは惣次君とあなたの問題なんですから、お見舞いに行ったときに、じっくりと話し合えばいいわ」
 静子さんが言い、惣ちゃんのお母さんもうなずいた。
「また病院に行ってもいいんですか?」
 もちろん、と、二人の大人が同時に声を出して、顔を見合わせた。私は思わず噴き出してしまった。

 お昼は惣ちゃんのお母さんがお寿司を頼んでくれて、三人で雑談しながら食べた。ここを訪れる前は、いったいどうなるものやらと不安で不安でしかたなかった私も、今はにこにことお寿司をほおばっている。こんなにもいい方向に転がるとは思ってもいなかった。
 惣ちゃんに会えるようになった。彼が一生立てないという事実は静かに、ちくり、ちくりと私を苛んでいたが、しかし、近野君や静子さんのおかげで、前向きに受け止められるようになった。とにかく、くよくよしていても何もはじまらない。惣ちゃんの苦痛が消えるわけでもない。私は彼にしてあげられることに全力を注げばいいのだ。惣ちゃんの笑顔が見られれば、それだけでいいのだ。
「あら、奥田さんのうちの?」
 静子さんが素っ頓狂な声を出した。
 いろいろと考え込んでいた私は会話を聞いていなかった。どうやら私の話になっているみたいだ。
 惣ちゃんのお母さんは口をもぐもぐさせながら、
「ご存じなかったんですか? 奥田愛子さんのお孫さんでしょう。ねえ、早川さん」
「あ、はい」
 突然お祖母ちゃんの名前が出てきて、私はとまどった。
「そうなの? 愛子さんちの」
 静子さんは目を見張った。
「もしかして──お祖母ちゃんのことを知っているんですか」
「まあ、昔、愛子さんの雑貨屋に買い物に行ったりしていたから……」
「お祖母ちゃんは、どんな人だったんですか」
 私は割り箸を置いて、居住まいを正した。
「そうねぇ」
 静子さんは過去に遡っていくような顔つきに変わった。
「一言でいえば、憧れの人だったわ。おしとやかで、だけど、芯はしっかりした人で、器量もよくて……でも、弱点がないところが、弱点だったわ」
「そうなんですか」
 私のお祖母ちゃんは、静子さんでさえうらやむほど素敵な人だったのか。ますます興味がわく。
「あの、お母さんは教えてくれないんですけど、お祖母ちゃんがなんで亡くなったのか知っていますか」
 えっ、と静子さんも惣ちゃんのお母さんも、間の抜けた声を出した。
「聞かされていないの?」
 惣ちゃんのお母さんは眉をひそめた。
 はい、と私は答え、首をかしげた。目の前の二人はとっさに口をつぐんだ。
 ──なんでお祖母ちゃんの話になると黙ってしまうのだろう。
「教えてください、お祖母ちゃんのことを」
 愛美ちゃん、と、静子さんは言った。
「これから話すことは、落ち着いて聞いてちょうだい」
 私はゆっくりとうなずいた。
 ちょっと! と、惣ちゃんのお母さんが間に入ってきた。
「早川さんは、まだ中学生ですよ」
「……来年は高校生ですけど」
 私は言い返す。
「いいえ、まだ早いわ。私は反対ですよ、あのことを言うなんて」
 ──あのことって?
 彼女は口がすべったとでもいうふうに視線をそらした。
「愛美ちゃんは、だいじょうぶ。賢い女の子だから」
 静子さんは大きくうなずいた。そして体の向きを私の方に変えた。
 私は反射的に身構えた。
「よく聞いてちょうだいね。愛子さん──奥田愛子さんと」
 ──愛子さんと。
 私は頭の中で静子さんの言葉を繰り返した。
 ──と?
 引っかかるものを感じた。と、って、何?
 そのとき、玄関の扉ががらがらと開く音がした。
「ごめんください」
 立ち込めていた重い空気がさっと消えた。惣ちゃんのお母さんは立ち上がると、はいはいと言いながら玄関に向かった。
 ご苦労様です、どうぞ上がってください、と、惣ちゃんのお母さんの声が聞こえた。
「たぶん、果樹園の日雇いの人だわ」
 静子さんは言った。
「この家の旦那さんは、電気製品を扱う工場に勤めながら果樹園もやっているのよ。代々受け継がれているから簡単にはやめられないっていうのもあるんでしょうけど。それで、今は袋掛けの時期だから、日雇いさんを頼んでいるの。午前中の作業が一段落ついて、休憩しに帰ってきたんじゃないかしら」
 私は唇をとがらして不満をあらわにした。せっかくお祖母ちゃんの話を聞けるチャンスだったのに。
 静子さんは私の心中を察したのか、
「またの機会に、ね」
 と穏やかに言った。私はしかたなく肩を落とした。
「お客さんが来てらっしゃるだかぁ」
 絣のもんぺをはいた日雇いさんが客間に入ってきた。いかにもひと仕事終わらせてきたといった満足感がにじみ出ていた。声は若いが、静子さんと比べると、どうしてもおばあちゃんっぽく感じられる。
 どうですか、袋掛けの方は、と、静子さんはおばさんに話しかけた。
「この家の果樹園はゆるやかな起伏をしとるから、足に負担がかからんで、えらい楽です」
「見晴らしのよいところにありますものねぇ」
 おばさんは顔をほころばせて、そうですそうです、と言った。惣ちゃんのお母さんも愛想笑いをしている。
「にぎやかだなと思ったら、お客さんがおるだか?」
 廊下側から声がしたので振り返ると、タオルを肩にかけた野良着姿のおじさんがやってきた。顔は浅黒いがきびしそうではなく、どちらかというと無口そうな人だった。すぐに惣ちゃんのお父さんだとわかった。やさしさのこもった目もとがそっくりだからだ。
 彼は私を見てから、まわりの人にたずねた。
「こちらは?」
「早川愛美さんですよ。惣次のクラスメイトの」
 惣ちゃんのお母さんが答えた。
「ああ、いつもプリントを届けてくれとった子かぁ」
「そうなの。今日は、私が謝りたくて、お呼びしたのよ」
 惣ちゃんのお父さんはどれほど事情を知っているのかわからないが、いちおう納得したのか首を縦に振った。
 私は頭を下げてから、ノートを片手に腰を上げた。
「そろそろ、おいとまします」
「お寿司、もういいの?」
 静子さんがのぞき込むようにして言った。
「はい。あまり長居しても迷惑なので」
「そんなことないわよ」
「でも、これから用事があるので、失礼します」
 私はもう一度お辞儀をし、玄関に向かった。
 惣ちゃんのお母さんが慌てて出てきて、
「また惣次と会ってやってね」
「はい」
「あの子ね、あなたに気があるかもしれないわよ」
 私はきょとんとした。惣ちゃんのお母さんはくすっと笑った。
 ──ホント、愛美ってわかりやすいよね。
 いつだったか美歩に言われた言葉が浮かんだ。耳たぶが熱くなる。恥ずかしくなった私はせかせかと家を出た。
 外はすべてが五月のやわらかい日差しに包み込まれていた。綿雲が心地よさそうに泳いでいる。実直な空だった。

       八

 夏休みはほとんど惣ちゃんの病室に入り浸った。惣ちゃんが笑ってくれる回数が増えるにつれて、病院に行くことが苦ではなくなった。リノリウム張りの廊下の感触も心なしか足の裏に合ってきた。
 また惣ちゃんも前を向いてくれるようになった。近ごろは学校から入れ替わりに教師が来てコンファレンス室で勉強会が行われている。治療の段階は終わり機能回復訓練に励んでいるらしく、がんばれる目標があることは決して本当の苦痛ではない、と日記に書かれていた。
 私たちの交換日記は、充実している。いつも病室で長話しているから書くことがつきるかなと思っていたけれど、全然そんなことはなかった。惣ちゃんに伝えたいことはたくさんあった。なかなか外に出られない惣ちゃんに代わって、私がリポートするのだ。蝉の鳴き声や夏草のにおい――どんなにささいなことでもノートに書き残した。
 道端に咲いている花を見かけたら摘んで、惣ちゃんのところに持っていったりした。ケイトウや春菊、サルビアにダリア、蓮、向日葵、ラベンダー、と、言い出したらきりがないほどプレゼントした。とりわけキキョウを持っていくときはどきどきした。だって、花言葉は「変わらない愛」である。
 お盆が近づくころには、惣ちゃんは車椅子に乗れるようになった。私が病院の中庭で惣ちゃんの車椅子を押して散歩しているとき、彼はとうとつに、ありがとう、と言ってくれた。意外や意外、あまりにもとうとつすぎて、私は頭の中が真っ白になった。あらかじめタイミングを見はからっていたのか、惣ちゃんは平然と空を見上げていた。私はひさしぶりに泣きたくなった。心配かけやがってー、と、私は惣ちゃんのぼさぼさ頭をかきむしってやった。
 私たちは花火大会の日もいっしょに過ごした。病院の廊下から眺める花火はどこか特別だった。そばに惣ちゃんがいるからなのかもしれない。ほかの患者は中庭の方に集まっていたので、ほとんど私たち二人だけの世界だった。惣ちゃんの横顔を見ていたら抱き締めたくなった。
 連日うだるような暑さがつづいた。新聞のテレビ欄には夏の特番が増え、熱中症で倒れる人の記事をよく見かけた。
 私は部活にも精を出した。さんさんと輝く太陽に照らされ、肌は赤みを帯びて、お風呂に入るときなんか泣きたくなるくらいひりひりした。
 ただ、ボールを蹴っていると、ときどき惣ちゃんの影がちらついて、罪悪感に苛まれることがあった。そのことを静子さんに言うと、叱られた。あなたの欠点はなんでもかんでも自分のせいにしすぎるところだわ、もうちょっと図太くならなくちゃ、と。静子さんとの会話は、多くのことを学べた。そしていつもほっとさせられた。
 日々はあっという間に過ぎていき、二学期がはじまった。

       九

『この間は、ごめん。せっかくお見舞いに来てくれたのに、母さんが君を責めたりして。
 でも、早川は全然悪くないよ。ほんとだよ。実際、元気をもらっているし、感謝してる。
 早川を見ていると、このままだとだめだなって思えてきて、自分が情けなくなった。最初はリハビリを拒否していたんだけど、がんばって前進しようって決心したよ。何もやらずに寝転がっているよりはマシだよね』

『機能回復訓練っていっても、足が治る見込みはない……らしい。近ごろはリハビリ室に行くのが億劫。プッシュアップ運動をしたり、座っている状態からよつんばいになったり、そんなことをえんえん繰り返してるだけ。一つ一つにはちゃんと意味があるんだろうけど、どうしても無意味に感じられてしまう。でも、何もしていないときはもっと空しい。毎日同じような食事にも飽きたし。
 ごめん、愚痴ばっかりで……』

『あらかじめ言っておくけど、今日は愚痴ではありません。今の僕は、すごく前向きになれているから、もう弱音は吐かないつもり。
 最近は車椅子に関する訓練をしている。ベッドに腰かけて、車椅子の肘掛けを持ち、片手はベッドにつけたまま、上半身を持ち上げて移乗する。ほかにも、ベッドから車椅子への後方移動とか、まあ、いろいろとやってるよ。早く車椅子で移動できるようになって、外に出たい!
 僕がそういう気持ちになれたのも、全部、早川のおかげです。
 早川が花を持ってきてくれるたびに、外に出て、花を見たいなって思っていた。だから、最近リハビリは苦痛じゃなくて、希望だってわかってきた。つらいし、とてつもない困難だけど、今は歯を食いしばるときだって自分に言い聞かせている。
 きれいな花が一面に咲いている場所を知っていたら、教えてください。車椅子をマスターしたら真っ先にそこに行くから』

「何、にやにやしてるのよ」
 惣ちゃんの文章を飛び飛びに読んでいると、美歩が話しかけてきた。
 別になんでもないよ、と私は意味深に答えて、ノートを閉じた。夏の名残を思わせるゆるやかな風が髪をなで上げた。
 私と美歩は屋上に来ていた。ときどき昼休みに来る絶好の場所だ。私は学校内で一番ここが好きだった。ただ、難を言えば不良たちの溜まり場にもなっているので注意しなければならない。
 フェンス越しに校庭を見下ろす。男子はサッカーやドッヂボールに、女子はバドミントンやバレーボールに夢中になっている。
 美歩は大きく伸びをして、
「惣次君、もうすぐ退院できるんだって?」
 うん、と私は快活に言った。惣ちゃんが学校に戻ってくる。考えるだけで、胸のあたりがほくほく温かくなった。
「でも、だいじょうぶかな。車椅子で移動するのは難しいんじゃない?」
 その点は私も心配していた。だから、惣ちゃんの退院を知ったあくる日、校長のもとに聞きにいったのだ。すると校長は真剣に取り合ってくれた。
「だいじょうぶだよ。校長先生が言ってたけど、不便なところがあったらすぐに対処するって、惣ちゃんが帰ってきてもいいようにしてくれるって。それに、ほかにも車椅子の生徒がいるし、そりゃあ困ることがいろいろと出てくるかもしれないけどさ、とりあえずはだいじょうぶ、きっと」
「愛美──なんか、成長したね」
「いきなり、何よ」
「愛美のことだから、どうせうじうじするだろうって思ってた」
 美歩は、そこでわざと声色を変えて言った。
「惣ちゃん、だいじょうぶかなぁ。学校生活には慣れるかなぁ、やっていけるかなぁ、って悩んで、あげくの果てには泣くと思ってた。愛美は明るいけど、その反面、ものすごく悲観的なところがあるから」
 私はふくれっ面をしてみせる。
「私は図太くなったんです」
「そうそう、その調子で、もっと神経をにぶらせた方がいいよ」
 いやぁまったく、成長したねぇ、と、彼女に頭をなでられた。
 美歩は私よりもしっかりしていて、実はたくましい。人を茶化したり、幼稚なことを言ったりするけれど、芯はぴんと張っていて、強固だ。お調子者に見られがちな彼女だが、故意に人を傷つけたりはしない。
 私はあらためて、いい親友を持ったものだと感じた。くすぐったいから口には出さないけれど。
 屋上の入り口の扉が開く音がした。私と美歩はじゃれるのをやめた。反射的に不良たちが来たのではないかと思ったからだ。一年生でも、恐いやつは恐い。
 と、こちらに歩いてくる人影には見覚えがあった。美歩の肩がびくっと跳ねた。
 近野君は後頭部をかきながら、私の前に来た。カッターシャツの、上から一つ目と二つ目のボタンがはずされていて、襟もとが風にあおられていた。
「……あのさ」
 私と美歩は顔を見合わせた。どちらに向けて発された言葉かわからなかったからだ。
「早川は、どの委員をするの?」
「へ?」
 私は間が抜けた返事を返した。
「だからさ」
 近野君は視線をそらし、じれったそうに言った。
「五時限目は、二学期の各委員を決めるだろ。早川は何にするのか聞いてるんだよ」
 彼が言いたいことはわかったが、意味していることはわからなかった。
「別に……なんでもいいよ。狙ってる委員とかないし」
「とりあえず何か決めろよ」
「じゃあ、美化委員……あたりかな」
「美化だな。絶対、だぞ」
 近野君は念を押し、あとずさるように入り口に向かっていった。私は苦笑いして、どうしちゃったんだろうね、と美歩に言った。
 そこでチャイムが校内外に鳴り渡った。妙に静けさを感じた。
 美歩はおそろしいほどの剣幕を顔に張りつかせていた。
「あの態度、いったい何? 愛美に気があるってこと?」
 さっきまでじゃれついていたのが嘘のように、美歩は私を敵視していた。
「違うよ。たぶん、私と同じ委員になったら、楽できると思ったんじゃないかな。要するに、近野君は、私を利用しようと考えているだけだよ。知らない人といっしょになったら、気をつかわなくちゃいけないから」
 美歩は何度か深呼吸をした。必死に怒りを抑えているようだった。
「ちょっと、どうしたの」
 私がおろおろしていると、美歩は、先に行くねと言って、駆け足で去っていった。
 美歩……。口からつぶやきが漏れた。彼女がどれほど近野君のことを好きか知っている私には、その嫉妬を理解できた。私だって、惣ちゃんがほかの女の子と話しているところを見たらいやになる。
 私は今後どうすればいいのだろう。

 五時限目には予定どおり各委員を決める話し合いが設けられた。生活委員、給食委員、図書委員と、室長が順々に上げていき、その委員になりたい生徒は立候補し、──もしも立候補者が多数の場合はジャンケンで決め──男女一組で成立する。広報委員、保健委員……つぎつぎに決まっていき、とうとう美化委員が来た。
 近野君が手を上げた。すんなりと近野君に決まり、黒板に名前が書かれた。
「女子は、いませんか」
 室長は教室全体を見渡しながら言った。
 私は手を上げようか上げまいか迷ったが、前列にいる近野君が振り向いて無言の圧力をかけてくるので、しかたなく、遠慮気味に立候補した。すると私に端を発して、三人の女の子──その中には美歩もいる──が手を上げた。目の前に美歩の背中があり、私は手を下ろしたくなった。堪えきれなくて、視線を窓の外に向けた。うらやましいほどの鮮やかな青色が広がっていた。晴れた空に乗じて、私の心も晴れてくれないかな。私は机の脚をこつんと蹴った。
 結局ジャンケンをすることになり、私たち四人は壇上で向かい合った。美歩も、ほかの子も目をぎらつかせていた。私は早く負けて席に戻ろうと決めていたのだが、こんなときにかぎってどんどん勝っていき、美歩との一騎打ちになり、それにも勝ってしまった。あっという間のできごとだった。
 六時限目は初顔合わせである。各委員が各教室に散らばっていく。
 早川、と、廊下で近野君に呼びとめられた。
「あんなに立候補者がいるとは思わなかったから、ジャンケンになったときは焦ったよ」
 私はあいまいに笑って、歩みを早めた。
「ところで今日は部活に来るだろ?」
 私は首を横に振った。階段を駆け下りると、踊り場のところで近野君に肩をつかまれた。
「なんで? 夏休みはよく来てたじゃん。二学期に入ってからはまだ一度も来てないよな」
 用事があるから、と、私は答えた。自分でもびっくりするくらい消え入りそうな声だった。
 近野君は顔をくもらした。
「初瀬のとこに行くの?」
「だって、プリントを届けなきゃ」
「一日ぐらい遅れたっていいだろ」
「そうもいかないよ。秋季運動会のお知らせもあるし」
「そんな知らせなら、かえってしない方がいい。悲しくなるだけだよ、足が悪いんだし……」
 言ったあとで、近野君はばつが悪そうに顔をしかめた。
「なんであいつにそこまでしてやるんだよ」
 私はむっとした。
「近野君は惣次君のことを気にかけてくれていると思っていたのに……」
「もちろん初瀬のことは心配だよ」
 だけど……、と、彼は黙りこくった。
 早く行かないと遅れちゃうよ、と言って、私は伏し目がちに階段を駆け降りた。

 委員会は二学期の方針がなかなか決まらなくて長引いてしまった。私は駆け足で自転車置き場に行き、自転車に乗ると急いで校門を出た。いつもどおり病院を目指した。
 片側二車線の国道沿いを走っていると、向こうに桜ヶ丘中学校の生徒らしき人影が見えた。自転車にまたがったまま立ち止まっている。
 けげんに思いながら近づいていくと、近野君だった。今ごろ部活に出ているだろうなと思い込んでいた私は、突然の彼の姿に驚いた。反射的にブレーキをかけた。
 よっ、と、近野君は片手を軽く上げた。
「部活に行かなくていいの?」
「一日ぐらいどうってことはないよ。だいいち、あまり来ない人には言われたくないね」
 彼は冗談めかした口調で言った。
 私は愛想笑いをした。
「初瀬のところに行く前に、ちょっとだけ、つき合ってよ。病院の面会時間は、八時までだろ」
「でも、私のうち、門限があるから、早く惣次君に届けて帰らないと……」
「残念だな、おいしいコーヒーが飲めるところを知ってるんだけど」
 彼は首をひねった。
「そこの十字路を右に曲がったら、すぐに着くんだ。店内にはジャズがかかっていて、狭いけど洒落ていて──早川もきっと気に入ると思うよ」
「お気に入りの喫茶店があるって、いいよね」
 私は明るく言った。
「私もそういうお店、知ってるんだ。音楽はかかってないし、ミックスジュースは死ぬほどまずいけどね」
 ばいばい、と手を振って、私はすぐさまペダルを漕ぎ出した。
 近野君はどんな顔をしているだろう。でも、これでいい。これ以上美歩を傷つけたくないし、そもそも私は惣ちゃん一筋である。
 病院に行くと自転車置き場で静子さんと出くわした。
 私が自転車の鍵をかけるのに苦戦していると、上品な笑い声が聞こえた。静子さんがそばにいたのだ。麻のベストにブラウンのズボンといった服装はとても彼女に似合っていた。
 静子さんも今来たばかりみたいで、自転車のかごから買い物袋を取り出した。小ぶりのメロンやパックに入った葡萄が透けて見えた。
「鍵、錆びているの?」
「はい……そろそろ買い替えなきゃ」
 私は力ずくで鍵をかけた。
「自転車ってね、ボロボロになるまで使わないと本当の愛着がわかない、うちはそう思っているわ。ガチャガチャ、音が鳴るまで」
「そんなので学校に行くのは恥ずかしいですよ」
 私たちは肩を並べて病院に入っていく。
「漕いでいるとガチャガチャ、音を出す自転車。いいと思わない?」
「まわりの人の目が気になってしょうがないです」
 ふふふ、と、静子さんは笑った。なんだか楽しそうだ。
 近野君との会話に喫茶店が出てきたことを思い出し、私は静子さんを誘ってみた。
「お見舞いのあと、またあの喫茶店に行きません?」
「そうね、いいわよ」
 静子さんと約束を交わして、私は惣ちゃんの病室に行った。
 窓際のカーテンの隙間から顔を出すと、漫画を読んでいた惣ちゃんが笑って迎えてくれた。私は鞄から届け物を取り出し、それを台の上に置いた。そして交換日記を彼に手渡した。
 どれどれ、と、私は惣ちゃんに顔を近づけた。
「顔色、よくなってきてるんじゃない?」
「こんなに近づいて見なくても、わかるだろ」
 惣ちゃんは恥ずかしそうに、しっ、しっ、と手首をしならせた。
「そういえばさ、最近お母さんを見かけないけど、どうかしたの」
「この時間帯は、早川が来てくれるから遠慮してるんだよ」
「遠慮?」
「……まあ」
 とたんに顔が熱くなり、私は目を伏せた。惣ちゃんのお母さんは、気づいている。たぶん惣ちゃんも、私の気持ちに──。
「漫画、増えたね」
 私はどもりながらも懸命に話をつないだ。惣ちゃんは棚に並べられた本を見やった。
「暇だからね。でも、はじめのころは漫画を読む気分なんてなれなかった。音楽を聴きたいとも、テレビを観たいとも思わなかったけど、今はバラエティでもなんでも観るよ」
「そう、よかった……」
 私は心から言った。
「読みたい本があったら持って帰ってもいいよ」
「本当?」
 私はよろこんで棚に歩み寄っていった。「スラムダンク」があったら貸してもらおう。
 と、パイプ椅子の脚につまずいてバランスを崩してしまった。そのままベッドに倒れた。
 惣ちゃんの顔が、目の前だった。さっき顔を近づけたときよりも――唇が触れてしまいそうになるくらいの距離だった。彼の吐息が鼻の頭に感じられた。一瞬混乱してから、慌ただしく離れた。
「何やってんだよ」
 惣ちゃんも顔が真っ赤になっていた。
 そのあと私たちはしどろもどろになって、会話はまったくはずまなかった。でも、決して気まずくはなかった。
 三十分ぐらい経って、静子さんがやって来た。惣ちゃんと静子さんは他愛ない挨拶を交わした。
 私たちが出入り口に向かおうとしたら、惣ちゃんに呼び止められた。
「あのさ」
 私は笑顔で、
「何?」
 と聞き返した。
 惣ちゃんは乏しくなった花瓶を見て、言った。
「花……」
 その一言で、彼の言いたいことはわかった。私は、今度持ってくるよ、と言った。胸には照れくささやらうれしさやらが同居して、私をうんと満たしてくれた。

 私たちは馴染みの喫茶店に行った。客は三人と、少なかった。私たちは窓際のテーブルに座った。革張りのソファーに体重を預けると、なんだか帰るべきところに帰ってきたような心地になった。マスターが「幸福の木」の横を通り過ぎ、その常緑樹は瑞々しい葉を揺らした。
 コーヒーを一口飲んでから、静子さんは言った。
「あなたたち二人は相思相愛と見た」
「何言ってるんですか」
 私もコーヒーをすすり、そして笑った。
「惣ちゃんは私のことなんて、ただの同級生としか見てないですよ」
「いいえ、まんざらでもないわよ」
「からかわないでください」
「……ありがとう、ね」
 急激に静子さんの声のトーンが落ちた。私は首をかしげた。
「あなたがいなかったら、惣次君は今も相当打ちひしがれていると思うわ」
「そんなことないですよ。惣ちゃんは強いから」
 私は慌てて手を振ったが、静子さんはゆっくりと頭を下げた。
「本当にありがとう」
「顔を上げてください。私なんかに頭を下げないでください」
 静子さんはほほえんで、
「惣次君をいつまでも見守ってあげてね」
「そんな大それたこと……」
 私はうつむき加減になった。
「すごく好きなんだね。うらやましいわ」
 私は照れていたが、ふと真顔に戻った。
「でも、ときどき不安になるのも事実です。私なんかが惣ちゃんの心を満たしてあげられるのだろうかって。だけど、お祖母ちゃんが持っていたノートを見ると、元気や勇気、いろんなものをもらえるんです。それに励まされています」
「愛子さんのノート?」
「物置部屋にあったお祖母ちゃんの嫁入り道具の──タンスの一番下の段に、一冊のノートがあって……」
 私は鞄の中をあさって、古ぼけたノートを取り出した。惣ちゃんとの交換日記といっしょにいつも持ち歩いているのだ。そのノートを静子さんに渡した。
「お祖母ちゃんが誰かからもらったものなんです。文章は堅苦しいけど、お祖母ちゃんのことが心の底から好きなんだなって感じられて、私も、これぐらい気持ちを惣ちゃんに伝えたいって思ったんです」
 静子さんはぱらぱらとページを繰った。みるみるうちに表情が固まっていく。どうしたんだろうと、私は内心で首をひねった。
 静子さんは少し上体を後ろにそらし、ノートの端をふるわせた。心底驚いている様子だった。
「静子さん?」
 私は聞いた。
 彼女は肩で息をしながら、うめき声を漏らした。過呼吸を起こしているかのように苦しそうだった。
「静子さん!」
 怖くなって、私は叫んだ。テーブルをまわって彼女の横に行った。店内の人が全員こちらを見ているのがわかった。
 顔を蒼白にした静子さんは、口をわななかせながら、
「……だいじょうぶだから」
「だいじょうぶじゃないよ!」
 私は泣き声を出した。
「どうされました?」
 マスターが駆け寄ってきた。
「あの、いきなり、苦しそうになって。あの……とにかく助けてください」
 私は祈るような気持ちでマスターを見つめた。
 彼は私が座っていたソファーを通路に出すと、静子さんが座っているソファーにくっつけた。
「ここに寝転がってください」
 私は静子さんの背中を支えながら、慎重に彼女を寝かせた。さいわい、二つのソファーには肘掛けがなかった。
 救急車を呼びますとマスターが言った。静子さんは、だいじょうぶですと弱々しく返事をしたものの、誰かが、早く呼んだ方がいいと怒鳴った。
 マスターは小刻みにうなずいて、カウンターの端っこに置かれている黒電話の受話器を持ち上げた。
 私は静子さんの両手を握り締め、祈った。どうか静子さんの苦痛をやわらげてください──。
 どのくらい時間が経ったろう。ようやく救急車のサイレンが聞こえてきた。長かったようにも思えるし意外に早かったようにも思えた。
「もうすぐですからね」
 私は安心させるために言ったが、彼女は目をつむり、顔をゆがめたままだった。

 その日の夜、静子さんから電話がかかってきた。勉強も手つかずの状態でぼんやりとベッドの上で胡座を組んでいた私は、母からの呼びかけに慌てて階段を駆け下りた。受話器を渡す前に母は「静子さんって誰よ」という目つきをしたが、私はかまわず電話に出た。
 救急隊員が来て静子さんの眼球を見たり脈を計ったりしていた数時間前の光景が、頭に浮かんだ。ストレッチャーに載せられて救急車の後部に入れられるとき、私もついていこうとしたけれど、子どもは家に帰りなさい、ここは私が同乗するから、とマスターに止められたのだ。
「もしもし、静子さん?」
「ごめんなさいねぇ、心配をおかけして」
 抑揚のきいた、奥ゆかしい声だった。いつもの彼女の声に、私は胸をなで下ろした。
「心配したんですからぁ、もう」
 張り詰めていた糸が切れたのか、体はマシュマロみたいにふにゃふにゃだった。
「驚きのあまり、発作的に、呼吸困難になってしまっただけだから。お医者さんに、何か刺激的なものでも見られたんですか? って笑われちゃったわ」
 そこで、ふしぎに思った。
「あの、お祖母ちゃんのノートにびっくりしたんですか?」
 私は電話越しというもどかしさにいらいらした。
「教えてください。お祖母ちゃんのことについて何を知っているんですか?」
 静子さんのくぐもったため息が聞こえた。
「隠し通そうとしても、むだのようね」
「お願いですから教えてください」
「また今度でいいかしら。ちゃんと顔を合わせて話したいし、うち、今は疲れているから」
 そうだった。私は反省した。
「ごめんなさい、自分勝手にいろいろと言ってしまって──」
「いいのいいの。愛子さんのことを、心の底から知りたいって思っているんだもの、しょうがないわ」
 また今度ね、と、静子さんは電話を切った。
「いったい誰なの?」
 台所の引き戸が開いて、母が出てきた。盗み聞きをしていたのだろうか。母の肩越しには父の姿も見えた。ビールをあおり、スナック菓子を摘みに野球中継を観ている。
「ただの知り合い」
 そっけなく答えて、私は二階に上がろうとした。
「ただ、って。結構なお年の人とどうやって知り合うのよ」
 母が階段を駆け上がってきた。
 私はうんざりした気分で自分の部屋に入り、ベッドの縁に腰かけた。大げさに深くため息をついた。親だからといっていちいち詮索をしないでほしい。
「怪しい人なんじゃないの? その、静子さんっていう人は」
 私は、何もわかってないなぁという感じに首を振った。
「静子さんは惣ちゃん──クラスメイトの初瀬惣次君の、親戚なの」
 お母さんは一拍置いてから、ああ、と声を上擦らせた。
「津ノ井の、初瀬さんのうちの」
 その言葉に含みが感じられて、私は聞いた。
「知っているの?」
「知っているも何も……」
 敷居に立ったまま、母は目を泳がせた。あきらかに動揺していた。
 私は心の中で首をひねった。お母さんは、惣ちゃんのうちのことで何か知っているような気がする。それはいったいなんだろうか。静子さんが私に言い渋っていることと関係があるのだろうか。今まで惣ちゃんのことなんて口にしなかったのに、どうしてそんなに慌てるのだろう。
 とりあえず水を向けてみた。
「お母さんの実家は津ノ井だから、考えてみれば、惣次君のうちのことを知っていてもふしぎじゃないよね」
「でも、地区は違うから……」
 母は言って、階段を降りようとした。
「逃げるのはずるいよ」
「逃げるって?」
「惣次君の名前が出てから、お母さん、とまどってる」
「別にとまどってなんかいないわよ」
 母はおどけて言った。だけど顔がこわばっている。
 私がじっとにらみつけていると、母は開き直ったような口調に変わった。
「初瀬さんのうちとは金輪際、関わっちゃだめよ。その、静子さんという親戚の方とも」
 私は絶句した。やっぱりお母さんは惣ちゃんのうちのことを知っているのだ。知らないふりをしていただけだった。
「なんで……なんでいけないの?」
「あまりよくないのよ、あのうちは」
「よくないって?」
 母はいら立たしげに鼻息を漏らした。
「愛美は知らなくてもいいこと。それよりも、勉強はしたの?」
「私、もう中三なんだよ。教えてくれたっていいじゃん」
 私は勢いよく立ち上がった。
「まだ中三じゃないの。教えられないわ」
 母は悲しそうな目をして、そしてゆっくりと引き戸を閉めた。
 足音が消えると、私はベッドに背中から倒れ込んだ。しばらく天井の染みを眺めた。子ども扱いされたことが不満だった。私はまだ子どもなのだろうか。救急車に乗り込もうとするとマスターに止められ、母は秘密を明かそうとしない。子ども子どもって、成人式を迎えるまで、まだ五年間も言われつづけなければならないのだろうか。いやになる。大人のふりをした子どもだって、世の中にはあふれるほどいるじゃない。年だけで私を見ないでよ。決めつけないでよ。
 私は枕を壁に向けて投げた。

       十

 あれから三日が経った。美化委員である私と近野君は、その日、放課後に校内のゴミ拾いをする番だった。
 私たちは体育館の裏側を見てまわった。ガムやお菓子の包装紙、煙草の吸い殻、わいせつな雑誌などが捨てられていて、この学校の秩序が乱れていることを思い知らされた。私と近野君は手袋をはめ、バケツを持ってゴミを拾っていった。バスケットボールのはずむ音が外にまで響いていた。
 私はゴミ拾いをしながら三日前のことを――とくに母のことを思い返した。
 惣ちゃんのうちとは関わるな、と母は言った。どういう意味かずっと考えたけれど、わからない。もしかすると、静子さんがためらっていることと関係があるのだろうか。静子さんと惣ちゃんのお母さんは、愛子お祖母ちゃんの過去を知っている。それと同様に、私の母も、惣ちゃんのうちのことで何かを知っているようだ。それらが別々の事柄だとは思えない。頑丈な鎖でつながっているような気がする。
 いくら考えたところで解決するはずはない。今日まで静子さんの体調を気にして我慢していたが、もういいだろう、と思った。帰りに静子さんの家に寄ろう、そしてすべてを聞こう。
「早川は、煙草は嫌い?」
 近野君はうっすらと笑って言った。
「え?」
「吸い殻をいやそうに拾っているから」
「そりゃ嫌いだよ。こんなものを吸う人も嫌い」
「でも、香りがいいやつもあるから」
「煙たいし、体に悪いし、いいことなんて一つもないじゃん」
 私は断固否定する。
「もし彼氏が吸ってたら?」
「即刻、別れます」
 きびしいなぁ、と近野君は苦笑いした。
「もしかして、吸ってるの?」
 私は信じられない思いで聞いてみた。
 近野君はバケツを置いて手袋を取ると、無言で歩み寄ってきた。私は怖くなってあとずさり、背中を体育館の壁にぶつけた。壁を隔てて部活動に専念する生徒たちのかけ声が聞こえる。
「吸ってるよ」
 近野君は私の前まで来て、壁に手を添えた。顔は逆光になっていて、それがかえって彼じゃないように感じられた。まるで別人のようだった。私は身がすくんでしまい、動けなくなった。
 ──何、何?
 吸いすぎると試合中にばてるよ、と私はかろうじて言った。
「どうってことないよ」
 近野君の唇がどんどん迫ってくる。彼の制服に煙草のにおいが染みついているのがわかった。
「ちょっと……やめて」
「俺じゃあ、だめかな」
 心臓が跳び上がり、バケツがコンクリートの上に落ちた。
 近野君は、打って変わって泣き笑いの表情を浮かべた。
「初瀬より俺を好きになってよ」
 顔がぼうっと熱を帯びた。私は視線をそらした。近野君が私のことを気にかけてくれているのは勘づいていた。だからなるべく顔を合わしたくなかったし、話もしたくなかった。まだ美歩との仲も修復できていない。
「なんか……近野君らしくないね」
 私は乾いた唇でそう言った。
「情けないことを言うやつだって思ってるだろ? 俺さぁ、早川のことになるとどうしても弱くなるんだ。好きで好きでたまらないから、弱くなるんだ。痣のことを聞いたときだって、そうだよ。早川を傷つけたかもしれないって思ってしまって、早川が部活に来なくなったのは俺のせいだ、俺は嫌われたんだって、何日も悩んでた」
 私は口をつぐんだ。突然の告白に取り乱しているものの、決して迷っているわけではない。私には惣ちゃんがいる──惣ちゃんだけしかいないのだから。
 私は目を伏せたまま、告げた。
「ごめんなさい」
「俺は一生、早川の恋人になれないのかな?」
「ごめん……」
 私は繰り返した。それしか言えなかった。
「早川って、結構頑固なところがあるからな」
 近野君は苦い顔つきで眉のあたりを掻いた。
「俺が執念深く待ってても、だめだよな」
「たぶん、私は惣ちゃんが好きなままだと思う。惣ちゃんが振り向いてくれなくても、ずっと」
 すんなりと言えた。彼だからこそ、純粋に真正面から来てくれた彼だからこそ、私も素直に言えたのだ。
「もし初瀬と結ばれなかったときは、俺たち、片想い同士、なぐさめ合おうな」
「近野君はだいじょうぶだよ。これからも好きな人ができると思うし、ファンがいっぱいいるし」
 自然に笑みがこぼれた。
「でも、みんな希薄だよ。心の底から好きになってくれている人って、一人もいないんじゃないかな」
「いるよ」
 私は美歩の顔を思い浮かべた。
「近野君のことを好きで好きで、だけどなかなか近づけなくて、どうしようもなくて、いつも遠くから見ている子が、いるよ。その子の気持ちに気づいてあげて」
 彼は空を仰ぎながら、
「そっか……そんな子もいるんだ」
「普段は明るいんだけどね、近野君のことになると夢中になって、その夢中になっている姿が、はたから見れば希薄に映るんだけど……実は、ものすごく近野君を思っている子なんだ」
 このしあわせ者、と私は彼の肩を小突いた。
 近野君はくつくつと笑った。
「断られたときは、もう関係が壊れちゃうかなって思ってたけど、もとに戻れてよかった。これからも普通に会話してくれよな」
 うん、と私はうなずき、自分の手袋を見つめた。告白の場面に不似合いな物だなと、今さらながらに気づいて、私は笑った。彼が言うように、気まずくならなくて本当によかった。
「あー、緊張した」
 近野君は大げさに伸びをしてゴミ拾いの作業に戻った。
 私は煙草の吸い殻を拾ってバケツの中に捨てると、わくわくした気分で言った。
「ねぇ、煙草を吸ってみてよ」
「嫌いじゃなかったっけ?」
「嫌いだよ。だけど、近野君が吸ってるところを見てみたいの。全然イメージできないんだもん」
 近野君は苦笑して、ズボンのポケットから煙草を取り出した。私の知らない銘柄だった。まあ、煙草の銘柄なんて、お父さんが吸っているセブンスターぐらいしか知らないけど。
 彼は一本、口の端にくわえ、百円ライターで火をつけた。なんだか不良というよりは大人に見える。
 そうだ、と近野君は紫煙をくゆらしながら冗談まじりに言った。
「初瀬のやつに、煙草をすすめてみようかな」
「私が許しません。阻止します」
 私は──できているかどうかわからないが──精悍な表情をつくった。
「やっぱり早川は頑固だ」
 近野君はまた笑って言った。
 私は思わず噴き出した。時間がのんびりと流れているように感じられた。

 ゴミ拾いが終わると、自転車を漕いで静子さんの家に向かった。今日こそはお祖母ちゃんの真実を聞き出そうと固く決めていた。
 静子さんは玄関前につり下げられた小さな鉢植えに水を上げていた。庭に植えられたノムラカエデと同じ暗赤色のTシャツを着ている。
「こんにちは」
 私が挨拶すると、彼女はにっこりとほほえんだ。
「そろそろ来るかなって思っていたわ」
「体調の方はどうですか?」
「もう平気よ。本当に一過性のものだったみたいだから。さあ、上がってちょうだい」
 奥の間に通され、お茶を供された。室内には目立った埃や汚れがどこにもない。
 さっそくですが、と、私は話を切り出した。
 静子さんはほほえみを浮かべたまま、
「そうねぇ、どこから話しましょうね」
 私はお茶をすすり、彼女の言葉を待った。
「まずは順序を追って、あなたの母方の祖母──奥田愛子さんと、惣次君の祖父でもあり、うちの兄──初瀬惣一との関係について、話した方がいいわね」
 私は息をのんだ。やっぱり、惣ちゃんのうちと私のうちとは関係があったんだ。
「二人はつき合っていたのよ」
 静子さんは遠くを見据えた目で、さらりと言った。私は反射的に体に力が入った。
「うちから見たら、とてもお似合いのカップルだったわ。兄は内気な性格だったけれど、愛子さんのことになると、能動的になるの。まるでこの人しか見えていないとでもいうように。愛子さんはおしとやかで、だけど芯がしっかりしていて、自分を持っている人だった。眉目秀麗で、真似をしたいほどの存在だったわ」
 静子さんはいったんお茶で口をうるおしてから、つづけた。
「二人はいつも親の目を盗み、つかの間の逢瀬を楽しんでいた。うち、学校帰りに二人を見かけたときがあったけれど、本当に楽しそうだった。ほかにも何人か知っている人がいただろうけど、たぶん、つつましく交際する二人の姿を見たら、両親に告げ口する気にはなれなかったと思うわ」
「親には知られたらいけなかったんですか?」
「都会と違って、片田舎だと噂なんてすぐに立ってしまっていたわ。それに、お互いの父親が土地争いの真っ只中で、いわゆる犬猿の仲だったのよ。結局、愛子さんの父親が勝手に縁談を進めてしまって──兄と愛子さんは別れざるを得なくなってしまった」
「ひどい……」
 私はつぶやかずにはいられなかった。
「愛子さんが島根の呉服屋のところに嫁いでからは、兄は腑抜けになってしまったわ。果樹園の仕事に手がつけられないくらいに。うち、見ていて腹立たしいやら痛々しいやら……、なんといっていいのかわからなかった」
 当時の情景がよみがえってきたのか、静子さんの顔にかげりがさした。
「そんなだらしない兄を見かねて、やがて父がお見合いの話を持ちかけてくるようになったの。愛子さんのことが忘れられない兄は、仲人の夫婦に頭を下げて断っていたけれど、父の方は一切、妥協しなかった。愛子さんのうちの父親と同様、勝手に縁談を進めていった。うちと母は、兄の味方だったけれども、父は一歩も退かなかった。『嫁をもらやぁ、奥田のバカタレの娘のことなんて、忘れられるだけぇ』の一点張りで、どうしようもなかったわ。
 そして兄は結婚した。愛子さんと別れて二年ほど経っていたし、観念したようだった。相手の女の人は特徴がなく、内気で、兄と同じような性質の持ち主だった。ただ、どこか違和感があった。父は『似合っとる、似合っとる』とよろこんでいたけれど、かえって気味が悪いくらい似すぎていて、お互いがなんとなく反発しているように見えた。一年後には長男が生まれ――それからは、もう本当に家庭が殺伐としていたわ。
 ……昔はよくあったのよ、こういうことが。親がすすめるからしかたない、という結婚が。うちは四年ぐらいあの家にいて、二人を見ていたけれど、正直、悲しかった。好きな者同士が結ばれず、ほかの人と紋切り型の結婚をする、そんな状況が、時代が、憎かった」
「惣ちゃんのお祖父ちゃん──惣一さんと、愛子お祖母ちゃんは、再会しないんですか?」
 私の気持ちは先を急いでしまい、身を乗り出した。
「兄と愛子さんは、再会するわ」
 本当ですか、と私は心からよろこんだ。
 しかし、静子さんの表情は暗いままだった。
「別れてから二十六年後にね……。二人とも、四十五のときに」
「でも、会えたんですよね。素敵じゃないですか──」
「再会した翌日、兄と愛子さんは、心中したのよ」
 静子さんは弱々しくつぶやいた。
「うそ……」
 とうとつに甘い気持ちがしぼんだ。
 ──心中。
 心のグラデーションがすべて消え、暗色に染まった。私はうずくまってしまいそうだった。母が言わないはずだ。静子さんが、惣ちゃんのお母さんが、押し黙るはずだ。
 惣ちゃんの祖父──惣一さんと、愛子お祖母ちゃんが心中したなんて信じられない。もちろん私は二人のことを何も知らない。全然わからない。だけど、心中なんて……簡単には認めたくなかった。
「そりゃ驚くわね。ごめんなさいね」
 静子さんは申し訳なさそうに言った。
「いや、その」
 私はどうにか平静を装うとする。
「話してほしいって、しつこくお願いしたのはこっちですから」
 室内の温度がいくぶん下がったように感じられた。
 私は聞くべきだったのだろうか、となかば後悔しているが、しかし、ずっとお祖母ちゃんのことが知りたかったのだ。やはり聞くべきだったのだろう、と自分に言い聞かせた。もやもやしているよりはよっぽどましだ。
 ただ、一つだけたしかめたいことがあった。
「お祖母ちゃんが持っていた、あのノートは……」
「兄のよ。うち、見たことがあるから」
 やっぱり。だから、静子さんはあんなに驚いたのだ。突然、兄のノートを見せられたのだから無理もない。
「もういいわよね、この話は」
 静子さんは空になった湯飲みを見つめながら言った。私は二、三回うなずいた。

       十一

 私たち三年生は受験勉強に追われながら、九月には秋季大運動会、十月には高校説明会や中間テスト、と、慌ただしく月日を消化していった。みんなは最後の中学校生活を満喫しているようでもあり、その反面、別れという切なさもあった。私の目には平凡だった日常が急激に輝いて見えはじめていた。
 くじ運の強い私は、前期とまったく同じ窓際の席に選ばれていて、土曜日の国語の授業を聞き流していた。色気むんむんの女教師の、鼻にかかった声が教室中に響いていた。
 どのクラスかわからないけど、校庭では体育の授業が行われているようだ。何組かのグループに分かれてミニサッカーをやっている。
「早川さん。早川愛美さん」
 突然、先生の声。
「は?」
「『は?』じゃありません」
「はあ……?」
 どっと笑いが起こった。私は恥ずかしくなってうつむいた。何も考えずに口をすべらしてしまった。
「ぼうっとしてちゃいけませんよ」
 先生はやさしい口調で叱り、
「じゃあ、つづきをお願いね」
 ぼうっとしていたのだから、どこが「つづき」なのかさっぱりわからない。私がおろおろしていると、真ん中あたりの席にいる美歩が教科書を掲げ、その一部分をシャープペンシルでたたいた。彼女が指し示しているところは、志賀直哉の「赤西蠣太」の冒頭だった。なるほど、そこを朗読しろということらしい。私は立ち上がり、緊張しながら読んだ。
 先生の「はい、よろしい」という声に、ほっと一安心した。ノートに「助け船、センキュー」と書いて美歩に見せた。美歩は「恋する乙女はつらいねぇ」と書かれたノートを軽く持ち上げた。
 彼女は、一学期のはじめごろに同じようなやりとりがあったのを思い出して、そのときの台詞をわざと書いたのだろう。私はなんだかふしぎな気分になった。
 近野君が屋上にやってきて、私にどの委員になるか聞いたとき、あれ以来、美歩との関係はぎくしゃくしたままだった。長い長い不和がつづいていたのだ。私は何度か話しかけたりもしたけれど、彼女は生返事ばかりでまともに受け答えしてくれなかった。私は必死に近野君とは何もないと主張したが、信用してもらえなかった。
 だけど、たった今、私は彼女との友情の復活を確信した。
「国語の時間は、助けてくれてありがとね」
 放課後、自転車置き場から自転車を引き出している美歩に、私は明るく声をかけた。彼女は少し恥ずかしそうにうつむいてから、こくりとうなずいた。
「あれぇ、美歩らしくないなぁ」
 私はがんばってもう一押しした。
「さては、美歩の体を乗っ取った宇宙人だな」
「そんなわけないじゃん。くだらなさすぎだよ」
 彼女はからからと笑った。目の端に光るものが見えた。じょじょに涙ぐんでいくのがわかり、私までもらい泣きした。
 ひとしきり笑い、泣き合った私たちは自転車に乗って、いっしょに帰ることにした。何年ぶりかと思うほど、なつかしい気分になった。一人で通う通学路は空しく、かといって前方に美歩がいたりすると、距離を保つのに苦労した。
「仲直りできて、よかったよ」
 国道沿いを走りながら、私は本音を言った。
「ごめんね。あたし、あんがい嫉妬深いから」
 美歩が苦笑いを浮かべた。
「本当に私と近野君はそんな仲じゃないから」
「うん、わかってる。わかってるんだけど、どうしても許せなかった。なかなか近野君に近づけない悔しさを、愛美に向けてしまったんだと思う」
「私も応援するからさ、これからがんばろう!」
 彼女は、うん、と力強くつぶやいた。
 私は、がんばれー、と片手を高く突き上げた。
 スカートの裾が風にあおられる。最近オープンしたうどん屋の駐車場には多くの車が停まっていた。昼前のこの時間帯、私のおなかがグウと空腹を知らせた。
「来週は文化祭だね。惣次君はまだ退院できないの?」
 ずっと気になってたんだよ、と美歩は言った。
 そうなのだ。もうすぐ退院できると聞いてから、二ヶ月も経っている。足のほかにも、何か悪い病気にかかっているのだろうか。
 ここ三週間ほど、私は病院に行っていない。ちょっと待ってて、と惣ちゃんに言われたからだ――早川の目の前で車椅子を自在に操って驚かせたいから待ってて、と。あの言葉は本当だろうか。もしかすると、私に心配をかけさせたくないために言った、嘘なのではないか。
 ──惣ちゃん、早く元気な姿を見せてよ。
「愛美!」
 と、美歩が大声で叫んだ。
 私ははっとして、反射的にブレーキをかけた。クラクションが鳴らされた。重層的な走行音が間近に迫り、瞬間、目の前をトラックが通り過ぎた。
 ぼうぜんとしていた私は、しばらくして体がふるえていることに気づいた。
「だいじょうぶ?」
 美歩がとなりに来て自転車を止めた。
「ぼけーとしたまま、車道に飛び出しちゃうんだから、びっくりしたよ」
「ちょっと……考えごとをしてて」
「惣次君のことでしょ?」
「……うん」
 私は答えた。
 呆れたのか、美歩がため息を漏らす。
 ──惣ちゃん。
 君は今、何をしているの? 何を見てる? 触っているものは? そんなものなんか捨てて、私のところに来てよ。私を呼んでよ。必要だと言ってよ。その手で捕まえてよ。離さないでよ。ひとりぼっちにしないでよ!

 帰宅すると電話が鳴っていた。私は鞄を廊下に投げ捨てて向かったが、受話器を取る寸前で鳴りやんだ。私はぼんやりと黒電話を見つめていたが、おなかが鳴ったので台所に行った。
 ひさしぶりに会う友人と食事するので遅くまで帰らない、と母は言っていた。父は仕事だ。真っ昼間だというのに日が差し込まない台所で、私はテーブルの上のお皿のラップを外し、テレビの電源を入れた。ニュースを聞きながら、私は冷めたコロッケに箸を突き刺した。
 いやー、今年も残すところ、ひと月となりましたねぇ。どうですか、振り返ってみて。アナウンサーが評論家然とした中年の男性に話を振っている。中年男性は無愛想なもの言いで、ジブリの「紅の豚」がヒットしたことや縫いぐるみをクレーンでつり上げるゲーム「UFOキャッチャー」がブームになったこと、交通事故による死者が五年連続で一万人の大台を突破しそうだということなど――バラエティに富んだ評論を披露した。
 ついさきほど交通事故に遭いそうになった私は、もう少しで記録更新の一端を担っていたんだな、と自分を皮肉った。
 と、電話が鳴った。いつも以上にけたたましく感じられる。何かの勧誘だろうか。私は無視を決めた。コールは二十回くらいしてから切れた。
 あれほど空腹を感じていたのに、コロッケを平らげるとおなかいっぱいになった。午後は何をしようかと考えた。漫画を読むか昼寝するか、友だちから借りているCDをラジカセに録音するか……。なんだか乏しい選択肢だなと私は自嘲気味に笑った。
 ふたたび電話のベルが鳴った。
「しつこいぞ!」
 私はびしっと忠告するが、黒い物体は鳴りやまない。
 聞いているうちにいら立ちがつのった。ここは憂さ晴らしに文句の一つでも言ってやろう。
 私は受話器を耳にあてがい、やつぎばやに言い放った。
「ちょっと、迷惑って言葉はご存じですか? 知らないようなので教えてあげます。つまり、その人のせいでまわりの人がとばっちり受けたり、いやーな気分になったりすることなの。ついでに迷惑千万って四字熟語も憶えておいた方がいいですよ。わかりました?」
 以前この方法で押し売りを撃退したことがある。
「……ごめん、またかけ直すよ」
 聞き覚えのある声に、私は固まった。
「待って!」
 私は即座に呼びかけた。
「惣ちゃん?」
「うん。今、忙しいの?」
「ううん。ぜんぜん忙しくないよ。暇中の暇。ものすごく暇人です」
 なにそれ、と、惣ちゃんは軽く笑った。
「病院からかけているの?」
「ブー、不正解」
「どこにいるの?」
 私は耳が痛くなるくらい受話器を押しつけた。
「自宅から」
「退院できたんだ!」
「もう一週間経つけどね」
「なんで、教えてくれなかったの。退院日、長引いてたから、心配してたんだよ」
「交換日記に書いたと思うけど、ちょっとリハビリをなまけていた時期があったじゃん。こんなことやってても足は治らないんだから、って悲観的になってて。だから、ちょっと長くなっちゃったんだ。あとね、早川に車椅子をマスターしたところを見せるって宣言してしまったから、家に帰ってからも練習してたし……」
 私が泣いていることに気づいたのか、惣ちゃんは押し黙った。が、やがて少しどもりながら口を開けた。
「これからさ、会えないかな。あの公園に来てほしいんだ。ほら、小学生のとき、放課後によく寄り道したじゃん」
「いいけど……惣ちゃん、出られるの? あの公園までは結構遠いよ」
「だいじょうぶ。お父さんがワゴン車を買ったんだ。それに車椅子を積んで送ってもらうから」
 惣ちゃんの返事は力強かった。
「じゃあこれから三十分後に、あの公園で!」
 うん、と、私はうなずき、電話を終えた。涙をぬぐって目もとを引き締めると、これから惣ちゃんに会えるんだ、という思いが込み上げてきた。
 こうしちゃいられない。私は階段を駆け上がり、急いでセーラー服を脱ぎ捨てた。タンスの引き出しから「あーでもない、こーでもない」といった感じで服を取り出しては床に投げ捨てていく。惣ちゃんはどんな子が好みだろうか。ここは無難に白地のブラウスにしようか。パーカだと体が太く見られるかな。寒いけどミニスカートにしようか。
 時計を見ると、選んでいるだけで十五分も経っていた。しかも私は下着姿のままだった。こんな姿で十五分も何をやっていたのだと、急に恥ずかしくなった。
 セーターの上にニットのカーディガン、襞つきのロングスカート。その組み合わせに妥協して、私はあたふたと着替えた。女の勉強はこれからだ。今は惣ちゃんのところに行かなくちゃ。慌ただしく家を出た。
 自転車を漕ぎながら、私はまたうれしくなった。顔が自然にほころんでしまう。
 惣ちゃんは再会の場所に、あの公園を指定してきた。二人でサッカーをした思い出の場所。あそこを特別に思ってくれていることが、純粋にうれしかったのだ。

 土手に沿っていくと公園が見えてきた。人影がある。惣ちゃんだった。
 公園の入り口に自転車を置いて、惣ちゃんのところに駆け寄った。車椅子に座っている惣ちゃんは、大事そうにサッカーボールを持っていた。黒のパーカに青いジーンズ、髪はやや長めだ。
『あの』
 二つの声が重なった。私も惣ちゃんもびっくりした。私はくすっと笑い、彼も笑った。
「あのさ……ありがとう、な」
 惣ちゃんはぼそりとつぶやいた。
「何よ、いきなり」
 私は彼をまともに見られず、靴の先で地面をこすったりした。
「早川のおかげで、なんていうか、目の前が真っ暗闇だったのに、明るくなったような気がする。足がもとに戻らないって聞かされたときはショックで、足が燃えている夢ばかり見てたんだ。だけど、早川が来てくれるようになってからは、漫画を読める余裕ができた。ごはんも食べられるようになった。いつの間にか……早川が来る時間を楽しみにしてた」
「私、別に何もしてないよ。それに、クラスのみんなも心配しているよ。近野君や、美歩も」
「……近野っていいやつだよな」
 惣ちゃんは空を見上げて言った。
「うん、いいやつだよ」
 私も空を見上げた。うすっぺらな霧のような雲が流れていた。こうやって空を見据えていると、吸い込まれそうな、地球がひっくり返って真っ逆さまに落ちていきそうな、そんな錯覚が生まれる。
「運動神経抜群、顔も頭もいい。無敵だよ、あいつ」
「でも、未成年なのに煙草吸ってるよ」
「女子にもてる、一つのアイテムだな」
「不良なんか格好悪いよ」
 公園脇の狭い道を一台の車が通っていく。少し間をおいて、惣ちゃんは言った。
「早川」
「うん?」
「なんで近野より、こんな僕を選んでくれたの?」
 どきっとした。私は惣ちゃんを見た。彼はまだ空を眺めているが、あきらかに顔が赤かった。
「どういう……意味?」
「二週間前ぐらいかな……病院に、近野が来たんだ。近野とはサッカーのことで話するだけの仲だったから、正直、驚いた」
 惣ちゃんの視線がようやく地面に着地した。
「あいつ、なんて言ったと思う? 『俺が早川に振られたって言ったらどうする?』って聞いてきたんだ」
 なんてことを言ってんのよ、と、私は心の中で近野君に向けて怒鳴った。
「そして、『おまえがもし早川のことが好きだったら、相思相愛だぞ。……これだけは伝えなくちゃって思ったから来たんだ。まあ、気にするな。じゃあな』と言って、帰っていった。何が気にするな、だよ」
 惣ちゃんはうっすらとはにかんだ。
「あいつ、興奮しているのか、やけに声がでかくてさ、まわりのおばあちゃんや看護婦さんに聞こえてさ、すごく恥ずかしかった」
 私は早くここから立ち去りたくなった。発狂して死んでしまいそうだった。
「早川」
「うん?」
 声がふるえた。私は固まった首をググッと動かして、惣ちゃんを見た。はじめてまともに見つめ合う。この世界には私たち二人だけしか存在していないように思えた。
「恥ずかしかったけどさ、でも、うれしかった」
 惣ちゃんの一言に、私は慌てて返事を返した。
「──好きだよ。私、惣ちゃんを好き」
「僕なんかで、いいの」
「うん」
 私は素直にうなずく。
「立てないんだよ。どこにも行けないんだよ」
「行けるよ、どこにでも」
「だってさ……見てよこの足、ぜんぜん言うことを聞いてくれないんだ」
 惣ちゃんは言った。鼻の頭が赤くなっていて、涙が頬をつたっていた。
 彼は車椅子のアームレストを握り、腰を浮かせた。懸命に立ち上がろうとする。膝もとからボールが落ち、ジャングルジムの方に転がっていった。
 私はとっさに駆け寄り、惣ちゃんをぎゅっと抱き締めた。惣ちゃんは子どものような泣き声を出した。
「もう、ボール蹴れないよ……」
 私は、惣ちゃんのそばにずっといようと決心した。二人で困難に立ち向かおう、と。
 ──ずっとずっといっしょだよ、惣ちゃん。

       十二

 月曜日、校門をくぐると週番が並んで立っていた。我が校には「おはよう週間」という校則が設けられていて、一年のクラスとおぼしき週番たちは、眠気まじりのあいさつを寄越してくる。教師以外はあきらかにやる気がなかった。
 自転車置き場に自転車を置き正面玄関に向かって歩いていくと、一台のワゴン車が停まっていた。中年の男性がワゴン車の後部を開け、そこから車椅子を出している。惣ちゃんのお父さんだった。
 私はそばに駆け寄った。ちょうど助手席から、惣ちゃんがお父さんに抱えられて降りてきた。惣ちゃんは動作を一つ一つ慎重にこなして車椅子におさまる。私と目が合うと、彼は照れ笑いに似た表情を浮かべた。
 と、玄関から担任の先生が駆け足でやってきた。
 惣ちゃんのお父さんは先生に軽く頭を下げた。
「惣次をよろしくお願いします。迷惑をおかけすると思いますが」
「いえいえ、これでうちのクラスが全員そろうので、うれしいかぎりです」
 先生はいったん惣ちゃんに笑顔を向けてから、真顔に戻った。
「では惣次君をお預かりします」
「それで、教室にはどうやって……」
「ああ、ご心配なく。私が手伝いますので」
 惣ちゃんのお父さんはまだ心配そうな目つきをしていたが、よろしくお願いします、ともう一度頭を下げた。彼の不安を表しているかのように、ワゴン車はゆっくりと校門を抜けていった。
 私と先生で惣ちゃんを教室まで運ぶと、近野君が、「初瀬が帰ってきたぞ!」と声を上げた。教室中が歓喜に包まれた。惣ちゃんのまわりに、とりわけサッカー部のみんなが集まった。ようこそ三年六組へ。惣次君、おかえり。寂しかったぞぉ。看護婦さんはかわいかったか。やっと卒業式を迎えられる準備ができたな。惣次、危うく卒業写真は右上に載るところだったぞ。
 勉強でわからないところがあったら俺に言えよ、とお調子者の声が飛び、すかさず、おまえが言うなよな、と全員のつっこみが入った。どっと笑いが起こった。惣ちゃんが照れくさそうにしながらも涙ぐんでいるのがわかった。私も目に涙が溜まりはじめた。数人の女子はすでにすすり泣いている。
 思えば、惣ちゃんのためにクラスが一丸となって千羽鶴を折ったり、メッセージカードをつくったりしてきた。それは先生が言い出したものではなく、誰かが言い出してみんなが賛成したものだった。
 午前中はみんながみんな落ち着かない様子だった。先生も惣ちゃんを少なからず意識しているみたいだった。惣ちゃんがいるという光景が、心から望んでいたにもかかわらず、少しだけ夢のように感じられるのだろう。私も同じで、ちらちらと惣ちゃんの横顔を盗み見たりした。普通に授業を聞いている惣ちゃんを見ていると、なんだかおかしかった。今や私たちは恋人同士なのだ。
 私と惣ちゃんはつき合っているんだよね、と考えるたびに、心がぴょんぴょんとはずんだ。
 昼休みは惣ちゃんのまわりに何人か友だちが集まって──中にはいつも体育館で遊んでいる男子も、今日は教室にいる──カードゲームで盛り上がった。惣ちゃんの笑顔は絶えなかった。みんなもずっと笑っていた。他愛ない冗談でもおなかの底から笑えた。結局、ゲームの勝敗はうやむやに終わった。
 午後は文化祭の下準備。パンフレットや飾りの制作に取りかかった。惣ちゃんとは違う班だったが、私はときおり彼の班を偵察しに行った。惣ちゃんは不器用だから、絵心というものを持ち合わせていない。彼の絵を見て私が笑うと、早川も人のことを言えないよ、と指摘されてしまった。私の描いた「ドラえもん」はみんなにまでけなされて、とても心外だった。
 ――でもクラスが明るいんだからまあいいか。
 受験勉強や将来の不安でばらばらだったクラスが、ようやく一つにまとまったようだった。

 勤労感謝の日――文化祭が間近に迫った日に、静子さんから電話がかかってきた。会えるかしら、と言われた。のんびり昼ご飯を食べていた私は驚いたけれど、滅多にない静子さんからの誘いがうれしかった。
 受話器を置いて三十分後、静子さんはハイヤーに乗ってやってきた。彼女は茶褐色のセーターの上にカーディガンという簡素な服装だった。染めるのを怠っていたのか、ショートカットの髪には白いものが交じっている。あれ? と私は思った。静子さんはいつも若々しさをみなぎらせていたのだが、今はどことなく老いが感じられる。疲れもあるようだ。
「ちょっといっしょに来てもらいたいんだけど、いいかしら?」
 私はよくわからないままハイヤーに乗せられた。
 静子さんは運転手に行き先を告げた。惣ちゃんが入院していた病院だった。
 窓外の景色がどんどん後方へと逸れていく。何かあるな、という予感がした。
「そういえば、静子さんも、よく市立病院にお見舞いに行ってましたよね」
 私は言った。
「実は……そこに入院している人と、あなたを会わせたいの」
「私が知っている人ですか?」
「ううん。知ってはいないと思うわ」
 はっきりしない返事に、私は眉をひそめた。いったいどういうことだろう。
 ハイヤーは病院のロータリーで私たちを降ろした。外は風が吹きすさんでいた。寒さに耐えきれず、ジャケットの襟をかきあわせた。
 院内に入り、エレベーターで五階に向かった。私はひさしぶりに病院のにおいをかぎ、感傷と、できればここには来たくなかったという嫌悪感が同居していた。
 ここよ、と、静子さんは控えめな口調で言い、六人部屋の扉を開けた。私は一瞬ためらったが、でも何に躊躇しているのかわからなくなり、わからないんだったら入ってみればいいだけのことだと自分に言い聞かせながら、病室に足を踏み入れた。むっと柑橘系のにおいが鼻をついた。
 静子さんは右側の窓際に近づいていった。一人のおじいさんが眠っていた。静子さんよりもいくらか年上だろう。坊主頭で、口もとや首筋にいくつものしわが刻まれている。かなり衰弱していることがうかがえた。あきらかに重度の患者だった。
 静子さんはおじいさんの耳もとで囁いた。
「あなた、愛美さんが来てくださったわよ」
 私はびっくりして、おじいさんをまじまじと見つめた。この人が静子さんの夫なのだろうか。私は──こう言っては失礼だが──もっと紳士的で、ゆったりとした男性を思い描いていた。目の前にいる「あなた」と呼ばれたおじいさんは──決して悪い印象ではないが──厳格そうな顔つきをしている。近所で悪さをしたらすっ飛んできて殴られそうな、そんな頑固親父のイメージ。
「この様子だとしばらくは起きないわね」
 と静子さんは苦笑した。
 私は窓の外を見渡した。そこは秋の色だった。植樹されたケヤキも銀杏も、遠くの山も、紅葉が鮮やかだった。
「わしは、寝とらんぞ」
 しわがれた声。
「あら、起きているんだったら起きていると言ってくださいな」
 静子さんは微笑を浮かべた。
「奥田、愛子さんかね」
 おじいさんは頭を少し持ち上げた。いきなりお祖母ちゃんの名前が出てきたので、私はどきっとした。静子さんは私に目で「こちらに来て」と合図した。
 私はおそるおそる寝台の横に行った。おじいさんの枕もとには扇子が置かれていた。大切なものなのだろうか──教科書か何かで見たことのある戦陣訓の書かれた扇子は、ところどころ染みがついていて、古い。
「奥田愛子さんの孫娘の、愛美さんですよ。早川愛美さん。もう、しっかりしてください」
 静子さんは声を張って言った。
「やめろ、わしを老人扱いするのは。まだまだ耄碌しとらん」
 おじいさんは弱々しく言い捨てた。そして私に目を向けると顔をほころばせた。
「よう来てくんさったなあ」
 私はあいまいに返事を返しつつも、困惑して、静子さんを見た。
「ああ、ごめんなさいね。紹介、まだだったわね」
 静子さんは言った。
「この人はうちの夫で、大竹勝彦。兄の惣一とは親友だったの。あなたのことを話したら、どうしても会いたいって言って……」
「はい……」
 私はひとまず納得したが、別の疑問がわいた。
「でも、なんで私なんかに?」
「それは、あんたが奥田愛子の生まれ変わりだからじゃよ」
「え?」
 私は大竹さんの言葉が理解できず、素っ頓狂な声を出してしまった。
「あなた!」
 静子さんはとがめるような口調で言ってから、
「気にしないでね、愛美ちゃん。ときどきおかしなことを言うのよ」
「だから、ボケとらんと、なんべんも言っとるだろ」
 大竹さんは打って変わって厳然とした目つきをした。
「……当時は、わしも、惣一があんなことを言い出すとは思わんかった。今も半信半疑じゃ。だからこそ、この、愛美さんを見てから、判断しようと思ったんじゃ」
「判断するも何も、愛美ちゃんは愛美ちゃんで、愛子さんは愛子さんよ。どう違うというのですか?」
 静子さんは呆れ気味に言った。
「じゃあ、おまえは、惣次も、惣一の生まれ変わりだとは、思わんのかね?」
「あの二人は似てませんよ」
「いいや、よう似とる。内気なところや、顔つきがな」
「それはただの遺伝ですよ。子が父親よりも祖父に似ることだって、あるじゃありませんか」
「しかしな、物理的なもんじゃなく、なんちゅうか……見えないもの、魂からにじみ出とる雰囲気が、まったくおんなじだと思うんだがなぁ」
「あの……」
 私は二人を交互に見た。頭はまだ混乱している。
「どういうことですか? その……生まれ変わり、とか」
「愛美さんは、どこまで知っとるだ? 惣一と愛子さんのことを」
 私は一瞬言いよどんだものの、
「──心中、したんですよね」
「ああ、そうじゃ。あのばかは、愛子さんと心中しよった」
 大竹さんは顔をしかめた。目尻や口もとのしわがよりいっそう深まった。
「……静子に聞いたけど、愛子さんは、離婚を経験しとるそうだな」
 はい、と私はうなずいた。
「彼女も、惣一を忘れれんかったんだろうな。島根と鳥取に分かれとっても、盈々一水の恋はつづいておったんじゃなぁ。健気というか残酷というか、これ以上とないカップルだわ。お互いが求め合いすぎて、だから、寄り添ったまま身を投げ出した……」
 大竹さんの手が小刻みにふるえていた。
「ばかじゃ、あの二人は大馬鹿者だわい! むしろ出会わん方がよかったんじゃ……でも、また出会っとる。惣一の魂と、愛子さんの魂が──」
「少しお休みになられた方が……」
 静子さんは心配そうだったが、大竹さんは、おまえは黙っとれ、と一喝する。
「愛美さん、惣次をどう思っとる? 運命的な何かを感じんか?」
 お昼の薄い日差しが病床を照らしていた。
「……私と惣ちゃんがこの土地で出会ったのも、私が惣ちゃんに魅力を感じるのも、運命的と言えばそうかもしれません。でも、よくわかりません」
 私は遠慮気味に話した。
「今はっきりしていることは、私たちはつき合っていて――私はとても惣ちゃんを好きだということです」
 静子さんは一拍置いてから、
「つき合っているの?」
「はい」
 大竹さんは天井を向いたまま、
「おお、そうかそうか。それなら、ええ」
「あなた、もうそろそろお休みになってくださいな。疲れたでしょう」
 静子さんは皮革のバッグからハンカチを取り出し、そっと、大竹さんの目もとをぬぐった。
 最後に一つだけ言わせてくれ、と大竹さんは言って、ゆっくりと私を見た。
「運命とか生まれ変わりとか、あんたらにとっては、どうでもええわな。愛美さんは愛美さんだし、惣次は惣次。勝手に愛子さんや惣一と照らし合わせてしまって、すまんかった。あの二人の未練を考えると、どうにもやるせなくてな、あんたらと結びつけてしまったんじゃ」
 私はほほえんで首を横に振った。内心では、愛子さんの生まれ変わりだという仮説に反発している自分と、何かに乗り移られているような違和感が交錯していた。
「あの世に行ったら、惣一たちに、おまえらの孫は青春を謳歌しとるぞ、と、伝えてやろうかな」
 大竹さんは穏やかな笑みを浮かべて眠りについた。

「本当は頭の固い人なんだけどねぇ。あんな生まれ変わりだなんて、非現実的なことを信じてるのよ」
 病院を出てから、静子さんはそう言って笑った。私はうまく返事を返せなかった。私たちの足取りは重かった。
「ごめんなさいね。気まずい思いをさせてしまって」
「いえ……」
 話が切れ切れになる。明るい話題に変えたいけれど、こういうときにかぎって、私の脳みそは働いてくれない。頭の中がやけにパンパンにふくれている。
 タクシーに乗り込む。静子さんは私を見た。困惑した表情だった。
「行きたいところ、ある?」
「とくに……」
 私は首をひねったが、ただ、一つだけはっきりしていることがある。
「でも、なんだか家に帰りたくないです」
 うちも、と、静子さんは言った。
 そうなのだ。このまま家に帰っても、どうすればいいのかわからない。
 運転手はいらいらしているのかハンドルを指でしきりにたたいている。
「静子さんって、行きつけの店とかないんですか?」
「……そうねぇ」
 彼女はぼんやりと言った。
「ひいきにしているお店はこれといってないけど、行ってみたいところはあるわ」
「どこですか?」
「カラオケボックス」
 静子さんはどこか照れくさそうだった。
「こんなおばあさんが行くところじゃないわよね、やっぱり」
 そんなことないですよ、と私は慌てて言った。
「行きましょう、カラオケ」
 私は運転手に最寄りのカラオケ店──美歩とよく行く店だ──を告げた。
「前から気になっていたのよ」
 静子さんは言いわけするように言う。
「この間、カラオケ人口が五千万人以上いるってニュースで言ってたから、歌が好きなうちとしては、行ってみたかったの」
 中心街に行くと、私はさっそく静子さんを引っ張りカラオケ店に入った。受付で機材をもらい、ボックスの扉を開けた。自分が静子さんを牽引していることがおかしかった。
 私はソファーにドンと腰を下ろしジャケットを脱いだ。カラオケに一人で行こうとは思わないが、この薄暗い雰囲気は好きだった。まるで隠れ家にいるような、秘密の空間。
「それじゃあ愛美ちゃん、歌ってみて」
「私、あんまり得意じゃないですよ」
「歌は心。喉じゃないわ」
 私が終わったらつぎは静子さんですからね、と、私は言いながら、リモコンを使って曲を選んだ。大画面に「愛は勝つ」と表示され、軽快なイントロが流れはじめる。静子さんの拍手に、私はうつむいてしまう。
 しーんぱーいないからね。きーみーの思いが……。
 昨年流行った曲なので知っているのだろう、静子さんはリズムに合わせて手をたたいている。私はだんだん気持ちよくなり、最後に愛は勝つぅ、と、拳を突き上げて締めくくった。
「はい、バトンタッチ」
 私は静子さんにマイクを渡した。
「照れるわねぇ」
「一曲でも多く歌わないと損ですよ」
「じゃあ、曲を入れてくれるかしら。どうも機械を操作するのは苦手で」
「はい、お安いご用です」
 曲は山口百恵の「いい日旅立ち」。ゆったりとしたメロディーが流れ、静子さんの透き通った声が響く。私はうっとりした。「ああ、日本のどこかに」の上り坂の部分では、鳥肌が立った。
 曲が終わると、静子さんはかわいらしくガッツポーズをした。
 緊張のほぐれた私たちはつぎつぎに歌を歌った。私はB・Bクイーンズの「おどるポンポコリン」でふざけたり、チューリップの「青春の影」に挑戦してみたり、静子さんはバンバンの「『いちご白書』をもう一度」や中島みゆきの「シーサイド・コーポラス」。
 ――今度惣ちゃんを連れてこよう。いやがるかもしれないけれど。

       十三

 文化祭の日がやってきた。天気は良好、体を動かせば暖かさを感じられる。申し分ない文化祭日和だった──というのも、キャンプファイアのごとく火柱を上げ、そのまわりで「マイムマイム」の曲に合わせて踊る、最後の締めがあるからだ。しかし、惣ちゃんは踊ることができないので、惣ちゃんが取り残された気分にならないかどうか、私は気になっていた。もちろん私は彼のそばにいるつもりだけれど。
 私と惣ちゃん──ほかに二年生の男子と女子が二人いる──は「映画鑑賞」の係だ。一階の教室を借りてだらだらと映画を流しておくという、退屈極まりない係だけど、ビデオテープを入れ替える単純な作業と動員数の記録だけしておけばいいので楽なものだった。美歩は別の教室で数人の女子と喫茶店を開き、近野君は友だちとバンドを組んでライブを行うらしい。たしか「RCサクセション」のコピーバンドだと言っていた。高校みたいに一般客が訪れるわけでもなく──学校側は稼業を身につける授業の一環としてとらえているみたいだけど──ただ自分たちがしたいことをするだけなので、張り合いがないといえばない。
 午前の部では、「風の谷のナウシカ」と「天空の城ラピュタ」を放映した。ここ最近では「ダイ・ハード」や「櫻の国」、「ターミネーター2」がヒット作だけど、わざわざお店でレンタルしなくても、テレビで流れた映画を録画している人に借りればいいので、それでジブリ映画にしたのだ。それに、なんといってもジブリは大衆向けだし、教師からも顔をしかめられるようなことはない。
「天空の城ラピュタ」のエンドロールが終わり、私はビデオを止めた。ちょうどお昼のチャイムが鳴ったところだった。生徒たちは椅子から立ち上がり、大きく伸びをしたり雑談したりしながら教室を出ていった。観客の入りは──途中にも出入りがあって細かくはわからないが──まあまあだった。
「惣ちゃん、お昼にしよっか」
 私は後方に片づけられた机の一つを引っ張り出して、弁当を置いた。二年生の男女は先輩の私たちに遠慮してか、隅っこに座ってぼそぼそとおしゃべりしながら食べている。
「何度観てもおもしろいね」
 惣ちゃんは私の向かいに来て、弁当のふたをはずした。一年生の机なので、車椅子でも負担にならない高さだった。
「世界観もキャラクターもすべていい。私も、あんな物語の主役になりたいなぁ」
 私は興奮冷めやらぬ状態だった。
「早川の性格を考慮したら、命知らずの無鉄砲なキャラクターに設定されるだろうな、きっと。宮崎駿も、早川をアニメの主役にするとき、『街が爆撃に遭っても、勇敢に立ち向かっていく謎の少女』って台本に書くだろうさ」
 惣ちゃんはタコ型のウィンナーを口に放った。
「何よ、それ」
 私はわざと唇をとがらしてみた。でも、内心ではぶっきらぼうに言われてうれしかった。
 じゃあさ、と、私は話題を発展させる。
「惣ちゃんはどんな物語に出たい?」
 うーん、と惣ちゃんはうなった。
「恋愛物、かな。有名な女優と競演できるし」
 女優と聞いて、むっとした。私といっしょに出たいとか、気をきかせたことを言えよと思った。しかし、気持ちとは裏腹に、「恋愛物かぁ、いいねぇ」と相槌を打ってしまう。つくづく、私は惣ちゃんに甘い。
「なんにしても、早川が主人公だとおもしろいかもな」
 惣ちゃんは映画監督然として言う。
「だってさ、行動力があるし、がむしゃらだし」
 褒められているのかけなされているのか、よくわからない。
 しばらくして、教室の入り口から手招きしている美歩に気づいた。私は惣ちゃんに断ってから廊下に出た。
「どうかした?」
「相談したいんだけど……いいかな」
 彼女は、彼女にふさわしくない態度で言った。周囲の目を気にしているようでもあった。
 なかなか話を切り出さないので、人目につかない場所──屋上へと、私は美歩を誘った。
「誰も聞いてないから、思う存分言ってよ」
「実はさ……」
 私はフェンスにもたれ、彼女の言葉を待った。
 街が秋の日差しに照らされている。にょきにょきと伸びているビルは、なんだか今にも折れてしまいそうだ。風は凪いでいた。時計の針が止まっているような景色だった。
「……告白しようかどうか」
 美歩の、弱々しく切実な声。
「いまだに迷ってて」
 私は美歩に向き直り、惣ちゃんに告白したときのことを思い返した。
「自分の胸に手をあてて、自分の気持ちに聞いてみればいいんだよ。もしもし、私は近野君にこの思いを言いたいですか、言いたくないですか? ってね」
「もう! 真面目に聞いてよ」
「大真面目だよ。大親友が悩んでるんだから、真面目に決まってるじゃん」
 美歩は口をつぐんだ。私の真剣さが伝わったのだろう。
「そりゃあ、私も告白するときは怖かったし、緊張したよ」
 私は明るく言った。
「でもね、好きって言えてすっきりした」
「それは、成功したからでしょ?」
「たとえ失敗したって、それで関係がなくなるわけじゃないよ。また挑戦すればいいと思うよ、何度でも――近野君が振り向いてくれるまで、何度でも好きって言えばいいじゃん。たぶん私は、惣ちゃんに断られたからって、また告白すると思うな。好きっていう気持ちは、断られて、はいそうですかで終わるものじゃないから、下手したら何年も消えてくれないかもしれないから、だから、いっぱい相手に伝えた方がいいと思う」
 静子さんが私を励ましてくれたように、私も美歩を励まして元気づけてやろうと思った。それに、美歩がいてくれたから、今の私がいるのだ。
 美歩はしきりにうなずき、顔を上げた。緊張はいくらかやわらいでいるようだ。
「まずは一回目の『好き』を言ってみることにするよ」
 私は、がんばれよーと、美歩の肩をもんでやる。私なりのエールの送り方だ。友情って最高に、いい。
「ちょっと、タンマ」
 美歩はいきなり片手を上げ、私を止めた。
「ねぇ、逆転してない?」
「逆転?」
 私は首をかしげた。
「そうよ、いつの間にかあたしと愛美の立場が、逆転しているじゃない」
 ああ、なんてことかしら、と美歩は額に手をあてた。
「よりによって愛美なんかに励まされるなんて、あたしとしたことが──一生の不覚だわ。いつもはあたしの方がからかっているのに」
 私はふくれてみせる。
「失礼ね。せっかく応援してあげてるのに」
「本来は――こういう関係なのよ」
 美歩が私に襲いかかってきた。
「ちょっと――」
 美歩に脇をくすぐられ、私は思わず噴き出した。
 美歩はなおも意地悪な顔つきで、攻撃の手をゆるめない。いつもの彼女だった。
 やっぱり美歩はこうじゃなくては、と、私は心の中でつぶやいた。

 教室に戻ると午後の部がはじまっていた。カーテンの閉められた暗い教室にはまだあまり人が来ていない。私は窓際にいる惣ちゃんのところへ行き、遅れてごめんと謝った。
 これから盛り上がろうぜー、というマイク越しの声がかすかに聞こえる。近野君の声だった。つづいて女子たちの歓声も聞こえた。体育館でライブがはじまったようだ。軽妙なイントロが流れ出す。トランジスタ・ラジオ、いくぜー、と近野君は叫んだ。
「となりのトトロ」を観ながら、美歩のことを思った。彼女は文化祭のラスト、「マイムマイム」が流れはじめたら、近野君を踊りに誘ってみると言った。踊りの最中に告白するらしい。私も惣ちゃんに何かしてあげたいな。
 私はそれとなくまわりを見まわした。みんな映画に夢中になっている。
 心臓がどくどく音を立てている。あたりが暗いというのもあったのだろう──私は左手で、車椅子のアームレストに置かれた惣ちゃんの右手を、そっと包んだ。
 惣ちゃんは瞬間的にびくっとして、手を引っ込めた。私もはっと正気に戻った。
 ──どうしちゃったんだろう、私。
 その後も、「火垂るの墓」や「魔女の宅急便」を観た。「おもひでぽろぽろ」の途中で校内放送が入った。フォークダンスに参加したい方は校庭に集まってください、と。たちまちみんな椅子から立ち上がり教室を出ていった。待ちに待ったメインイベントが訪れたのだ。
「机をもとの位置に戻すのは私がやっておくから」
 私は後輩に気をきかせて言った。
 カーテンを開けると、外は思いのほか暗くなっていた。校庭の中央では火柱が上がっていて、生徒たちが吸い込まれるように向かっている。美歩も近野君もその中にいるのだろう。人が多いので見当たらない。
 惣ちゃんが私の横に来た。
 準備が整ったところで、定番の「マイムマイム」が流れはじめた。
「憶えてる?」
 惣ちゃんが口を開いた。
「去年の、この時間」
 うん、と私は答えた。
「いっしょに踊ったよね」
「……早川が目の前に来たとき、正直、困った」
「私も困ったよ。でも、あれね、惣ちゃんと当たるにはどのポジションを確保すればいいのか、ずいぶんと計算したんだよ」
 そうだったんだ、と彼はつぶやいた。
「早川って大胆だよな。最近はみんなの前でも、僕のことを平気で、ちゃん付けで呼ぶし」
「だって、惣ちゃんは惣ちゃんだもん」
 そう言って、私は胸を張った。
 みんなが曲に合わせて楽しそうに踊っている。手をたたいてくるっとまわったり、足を上げステップを踏んだり。
 もう、踊れないんだな、と、惣ちゃんは言った。
「試してみる?」
 私は車椅子を押して、惣ちゃんを教室の真ん中に連れていった。
「ちょ、ちょっと」
 惣ちゃんは慌てていた。
「私が相手役じゃあ、不満?」
 廊下の電気はともされていない。ここだけが蛍光灯の光に照らされている。私と惣ちゃん、二人だけのステージ。
 私はパンッと手をたたいた。一回転して、惣ちゃんにタッチする。最初はとまどっていた惣ちゃんだけれど、だんだん乗ってきてくれた。笑みもこぼれた。
 ターラーラーラ、ターラーラーラ、ターラーラーラ、タタタ。リズムが怪しいかもしれないけれど、私は一生懸命、踊った。
「ターターターター、タララ、タタタ。はい、惣ちゃんもごいっしょに!」
 惣ちゃんの頬が赤かった。たぶん、私も。二人の鼻歌が教室に響く。
 ――これからも惣ちゃんとの思い出をたくさんつくっていきたい。溺れてしまうくらいの思い出をつくりたい。
 曲が終わると、私たちはひとしきり笑い合った。確実な鎖でつながっているような気がした。
 ふっと、沈黙が降りた。
 私と惣ちゃんはキスをした。どちらからともなく。

タイムマインド(②愛美編)

タイムマインド(②愛美編)

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更新日
登録日
2013-01-03

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