新聞死

新聞死

奇妙なお話しです。


 「おりゃあ、木の家にすんでいるんだぜ」
 少しばかり酒の回った男の後に付いていった。
 この男、銀座の裏通りで、小さいが高そうなバーの前のゴミ箱の中からウイスキーの瓶を拾い出し、残っていた酒をラッパ飲みにしていた。
 僕はたまたま通りかかったのだが、ついつい、男がうまそうに酒を飲んでいたので、立ち止まって見てしまった。くずれた白いシャツに、よれよれになった背広を着て、しわしわのズボンをはいて、中腰になってウイスキーの瓶のラベルを見ている。だがな、僕の着ている背広やズボンより数段上等な仕立てのものだ。
そんなことを思っていると、いきなり彼が振り向いた。
 「お兄ちゃん、どんなとこにすんでいる」と、声をかけられてしまった。
 悪さをするような顔立ちではない。どちらかというと、年取ったインテリという顔だ。年がわからない。編集をやっていてもそういう作家や著者にたまにあう。四十代かと思った人が七十すぎていたりする。きっと頭の年齢があらわれるのだろう。
 自分の働いている社会はどちらかというと、年より若く見える男が多いかもしれない。女はどうかというと、顔に現れるよりも、立ち居振る舞いが若い人が多い。どうしても化粧というものは、一見若くみせているようだが、むしろ年をとらせているのじゃないかと思う。もちろんどんなものでも例外はある。
 僕は大手の出版社にいて、作家、著述業の先生と呼ばれる人との付き合いが多い。彼ら彼女たちはまさにそういった風貌を持っている。今も原稿のことで、そのたぐいの人とレストランで話をしてきたところだ。夜の十時近くだ。ビールをちょっと飲んだのだが、ちょっと物足りない気分だ。
 「マンションに」
 放っておけばいいのに、そう言ってしまった。
 そうしたら「おりゃあ、木の家に住んでいるんだ」
と言われたわけである。木の家に住んでいる人はいくらでも居るのだが、どういう家なのだろう。
「どうだ、見に来ないか」とその老人は僕を誘った。
 またまた無視すればいいものを、その男の風貌もあるが、今話をしてきたノンフィクション作家の原稿が「木はうごく」というタイトルの、ノンフィクションではなく、小説仕立てのものだったので、「木の家」というところに興味をもってしまったのだ。
 その男はこちらの目の奥を読んでいた。
 興味を持ったことを悟られている。
 「なあ、兄ちゃん、ことばは楽しいな」
 わからないことを言って手招きをした。木の家に連れて行ってくれるつもりなのだろうか。
 なんだか銀座のバーのゴミ箱の中にあった、ウイスキーの残りを飲んでいた男の木の家に興味がわいてきた。
 「このウイスキー知ってるかい、アルドベック、アルドボックだぜ」
 ウイスキーは嫌いじゃないが、飲むのは前にだされる日本のウイスキーぐらいの受け身で、銘柄についてはよく知らない。
 「まあ、いいや、おいでよ」
 男は、空になった瓶をまたゴミ箱にもどすと、きちんと蓋を閉めた。
 律儀なところがある。
 男はよろよろと、晴海通りにでると、東銀座の方に歩き始めた。
 横に並ぶのはちょっと気色も悪い。ぼさぼさの頭をみながら、後ろについた。
 ふらつきながらも倒れるわけでもなく、ただの酔っぱらいと同じように歩いていく。まだ十時前だ。彼はずいぶん早い時期から飲んでいたのだろう。
 東銀座の地下鉄の駅に降りていく。
 浅草線と日比谷線が通っているが、他の出口につながる通路に行った。酔っ払いの男は壁側におかれているコインロッカーの脇にいくと指さした。
 「ほら」
 そこには大きな段ボール箱が畳まれて壁に立てかけてある。男は酔っているとは思えない迅速さで、段ボールを器用に裁き、家のようにしてしまった。脇に積まれていた新聞紙を段ボールで囲んだ床に敷き詰め、そこに入り込むと、新聞紙を体にかぶせ、さらに新聞紙を丸めてまくらにして、「いいぐあいだ」
 と、横をむいてしまった。
 僕は呆気にとられ、ついてきたことをいささか、バカなことをしたと、もどろうとしたら、男が上向きになって、
「段ボールも新聞紙もパルプだからな、木の家だろう、いひひひ」
 と言った。
 まったく、ホームレスにつきあうとはと思っていると、
「日本の初めての新聞は明治三年、横浜毎日新聞からだされたんだ、それは洋式の新聞だが、日本にゃ、江戸時代から、瓦版ちゅう、独自の号外新聞がだされてたんだぞ、木の国だからな、木版刷りだ」
 男が帰ろうとしている僕に言った。
 インテリホームレスはどこにでもいる。というより、僕は哲学者ほどホームレスになる可能性は高いと思っている。既存の哲学とやらをつきつめていくと、哲学というのは自分でつくるものということにいきつく。すると、経済社会に翻弄されたくなくなる。それはホームレスへの道だ。
 ちょっとからかってやれ。
 「確かに暖かな木の家で、家賃もないし、うらやましい」
 「ほほ、兄ちゃん、からかっているつもりだな、あんたも、仲間にならんか、かあちゃん、こどもの顔が目に浮かぶからだめかね」
 「一人だ」
 また余計な口答えをしてしまった。
 「そんじゃ、仲間になれよ、コンクリートの家じゃなくて、木の家にすんだらいい、新聞にくるまれば、世の中のこと、みーんな教えてくれるんだぜ」
 言っていることはまともだが。
 「今の新聞はテレビで言っていることとほとんど同じで、新しく聞くのだから、テレビのニュースの方が新聞だと思うけど」
 「お、兄ちゃんたしかにそうだよ、中国語だと、本来は風聞だが、中国でイギリス人のつくったニュースペーパーを新聞と中国語に訳しちまってこうなった、それを日本も使っているわけだ」
 やけに物知りだ。
 「だがな、名前はどうでもいいし、今じゃスポーツニュースぐらいで、たいして役に立っていないが、こうやって、くるまると、新聞はいろいろなことを頭の中にたたき込んでくれるものでな、暖かいばかりじゃない」
 たしかに新聞をかぶってねると暖かい。ホームレスが段ボールで囲んだ中で新聞紙をしいて寝泊まりするのはよくわかる。新聞紙を重ねると間に暖かい空気を温存してくれる。プロのホームレスは新聞紙をみつけると必ず持って帰る。食物を探すのも重要だが、自分の身体の為には寒さから、場合によっては暑さから守るような方策をたてなければならない。
 子供の頃、小学校で、新聞紙を水と糊で練って、紙粘土を作った。今じゃ、粘土の工作セットを買ってやっているようだが、新聞紙の紙粘土で作ったゴジラを思い出すと、なかなか迫力があったなと思う。絵の具で目を赤く塗ったて大喜びだった。
 新聞紙はいろいろなものに使われる。そう、焼き芋を包んでもらった。八百屋さんで、泥の付いた野菜を包んでくれた。どうしても靴のままあがらなければならないときに、そこに新聞紙をひいたことがあった。
 川の水があふれて、玄関にはいってしまい、水が引いた後に、両親が新聞紙で水を吸い取っていたのも覚えている。
 おばあちゃんは、服の型紙を新聞紙で作っていた。鶴の折り方も最初は新聞紙で教えてもらった気がする。
 そこへ駅員がきた。
 「先生、またこんなところに家建てている、まだ10時前ですよ」
 駅員は男に声をかけた。
 「へへ、今日は勘弁してよ、明日日曜だろ、泊まらせてよ」
 「だめですよ、警察から怒られてしまう。火事にでもなったらどうします、それにこんなとこ、これから家に帰る人でにぎわいますよ」
 「俺、たばこ吸わないから」
 「この方お知り合いですか、もしかすると出版社の方」
 駅員は僕の方を見て男に聞いている。どうして出版社とわかったのだろう。
 「うん、長いつきあい、ついさっき、ウイスキーをいっぱいやっているときからだ」
 また、あのバーですか。 
 「うん」
 どこのバーのことだろう。ゴミ箱のウイスキー瓶の残りを飲んでいた、あの高そうなバーじゃあるまいとおもうのだが。それよりも、駅員が知っているということは、いつもこのあたりで飲んでいるのか。しかも先生と呼ばれていた。
 駅員が僕の方を向いた。
 「出版社の方ですね、先生をご自宅に送っていただけますか、新聞紙をかたずけるのはこちらでやりますから」
 駅員は僕に向かっていった。
 大変なことに巻き込まれそうだ。だが、この男何者なのだ。興味の方が大きくなってきた。
 「家を知らないのですが」
 「いつも、タクシーに乗せちゃうんですよ、それでいいでしょう」
 だがタクシー代をもってるのだろうか。
 駅員が男を立たせた。
 「それじゃよろしく」
 僕に言った。僕はうなずいて、男に「タクシーひろいますから」と言って、上に上がることをうながした。駅員はダンボールを片付け始めた。
 男は素直に改札口の前のエレベーターの前に行くと自分でボタンを押した。
 「そいじゃ、もう一つの木の家にいくか」
 エレベーターが降りてくると、男は逆に僕を押し込むようにして中に入った。
 「木の家はどこにあるのです」
 「内緒だーに」
 男は駅をでて、晴海通りにでると、すぐにタクシーを拾った。
 タクシーがとまると、男は「兄ちゃん、足がもつれる、のせてくれ」とせがんだので、肩を貸して、タクシーのなかにいれると、腕を引っ張られ、乗せられてしまった。
 男は運転手に、住所を書いた紙を渡した。用意がいいもんだ。運転手は住所さえわかれば、カーナビで家の前まで送ってくれる。
 「木の家見せるからよ、そんで、兄ちゃん、やっぱり出版社なのかい」
 ときいた。僕は「ええ」とこたえると、「編集、校正大変だね、そういう人がいないと本が作れないからな」としみじみという。
 「専門はなんだい」
 ときかれたので、「科学系です」と答えると、「そりゃいい、物理かい、化学かい、生物かい」ときくので、「生物」というと、
 「いいねえ、作家になる気はないのかい」と問われた。
 大学時代は生命科学を専攻したが、SFばかり読んでいて、出版社にはいってしまったのだ。当然のこと、科学系の本の制作にまわされ、ノンフィクション作家とのつきあいが多くなった。環境問題がクローズアップされている現在、そういったたぐいの本がよく読まれるからだ。今日あってきた植物学者は植物が自分たち仲間にいろいろなシグナルを送っていること研究している。筆も立つ人で、人間が環境をかえたことで、植物が周りにどのようなシグナルを送り、かつ防御機構を働かせるようになったかというストーリーだ。もちろん動物と植物の対話もある。
 「どうだい、作家になる気はないかい」
 男はそう聞いた。
 「あ、いや、小説なんぞを書きたいと思ったことはないかね」といい直した。
 学生時代は生物学をやっていたが、趣味としては小説に大いに興味があった。それで出版社にはいったわけだが、大きな間違いをしていた。小説なんぞを書きたければ、むしろ大学院に行って、専門を深めた方がよかっただろうと、今は思う。深く掘り下げる力を付けておいた方が、小説を書く力が付く。それは文系でも理系でもどちらでもいいのだ。
 それを逃した今は、本を作る専門家になって、経験を積んで、それを土台に何かかければいいと思っていた。
 「ありましたよ、SFばかり読んでたから、書いてみたいとは思いました」
 「そうかね、そいじゃ決まりだ」
 男はそういうと、フネをこぎだした。
 ところでどこに向かっているのだ。横浜をすぎ、鎌倉方面に行っていることはわかった。窓の外を見ても暗いし、こちら方面の地理は詳しくない。山の中のような道にさしかかると男は目を覚ました。
 車が木の茂った登り道にはいると、大きな家が見えてきた。車はその前で止まった。
 これでね、と男は無造作にズボンのポケットから万札を三枚取り出すと、運転手に渡した。運転手が計算をしているのを見て、足りるだろ釣いいよというと、運転手は驚いた様子で男をみて、すみません、とドアを開けた。この男ホームレスじゃない。
 「さ、兄ちゃん、ここが木の家」と門の前にいくと、女性が「おかえりなさいませ」と、中年の女性が戸をあけた。彼女は一緒に僕がいることが不思議にも思わないようなそぶりで、「いらっしゃいませ」と、まるで男が僕を連れてくるのを知っているような口振りである。
 ずいぶん美しい人だ。
 この男は何者、今頃、僕はなぜ自分をここにつれてきたのかその魂胆がきになりはじめた。
 女性は玄関の扉を開けて、男と僕を中に入れた。
 落ち着いた屋敷である。古そうな感じもあるが、家の作りからそう見えるだけで、実際は新しく建てたもののようだ。ただ外見からはわからないが、高価な木材がつかわれている。
 「まあ、はいってよ」
 男は僕にてまねきをして、広い廊下の途中の一室にはいると、床と天井はもちろん、壁にもふんだんに木を使った部屋だ。変にてらっておらず、しっとりとした色塗りの、地味な木製の小型の本棚の上に一輪ざしがおいてあり、赤い花がいけてある。それだけで、一つの絵になっている。
 「兄ちゃん飲むんだろ」
 今日は喫茶店で作家とコーヒーを飲んだだけなので、酒っ気はない。家の近くでちょっと飲むかと考えていたところである。
 うなずくと、手をたたいた。
 先ほどの女性が戸を開けてはいってきた。
 「はい」
 「いつもの用意してくれ」
 「ウイスキーですか」
 「うん、あ、兄ちゃんウイスキー飲むだろ」
 うなずいたのだが、ウイスキーはいつも角ばかりである。
 「そいじゃ、おとなしくハイランドでいこう」
 男がそういうと、女性ははいと返事をしてもどっていった。
 「あいつはうちのメイド、なあ、兄ちゃん、新聞はなにかとってるか」
 男はきいた。新聞は出版社に出勤してから読む。情報はテレビだけで十分だ。首を横にふった。
 「会社で読めますので」
 「さっきもいったが、新聞は別の使い方があるんだよ、活字というのは目からはいる、耳から入ったものとは違う。活字と活字の間にたくさん情報が挟まっている、それを取り出すと、膨大な知識になる」
 この男、やけに新聞にこだわっている。
 先ほどの女性がウイスキーの用意をしてもってきた。つまみに、チーズとチョコレートがのっている。
 「ずいぶん昔のSFだがな、イヤホーンをつけて寝ると一晩で、大学者の知識に等しい情報が頭の中にはいる機械のことが書かれているのがあったな、なんだったかな、ヴォークトの宇宙船ビーグル号だったかな、忘れたな」
 男は僕にロックをつくってくれ、自分はショットグラスでそのまま飲んでいる。
 「飲んでくれよ、兄ちゃん、作家になるのに知識はいるがな、やっぱり発想だよな、今の作家は資料をそろえ、あらすじを作り、資料を利用して組み立てていくが、資料を読む時間なんてもったいないだろ、直接の経験ならいいけどな、もっと感覚で書いたらいいのにな」
 この男の言っていることは日頃感じているところではある。いったい何者なんだろう。評論家だとか。
 「すごい感覚で書いている作家はいますね、知識も豊富だし、そういう人は日本人の作家では珍しい」
 「あんたさんの会社から出している作家なんかね、そいつは」
 「いえ、まだ出してもらってないんです、マイナーな出版社からしかでていないんです」
 あの作家のことを知らないと言うことは、評論家だとか作家ではない。
 「誰かね」
 「艾咲藻っていう作家です、短編しか書きませんが、玄人好みの作家で、ことごとく有名な文学賞の受賞をことわっています」
 「新人かね」
 「といえなくもありません、ずいぶん昔から本をだしています、それがおかしいんです、すべて違う出版社からです、その作家の本はだいたい一万部ほど出され、出版社がなくなって絶版になります、しばらくすると、新しい出版社からでます、それを繰り返して、5年、すでに10冊近い短編集がでています」
 「そうかね、お兄ちゃんそいつの本読んでどうおもったかね」
 「知識もありますけど、ともかく意外な展開の不思議な小説が多いです、よく読みます」
 「覆面作家だな」
 「そうなんです、もぐささくも、って単純な回文のペンネームです」
 「なんだ詰まらん名前だ」
 「ただ、感覚もすごいのですけど、あんなに幅広い知識をどのように得ているのかわかりません、よほどたくさんの助手を使って調べさせるか、多くの専門家の助力を得ているものと思います」
 「学者さんが趣味で書いておるんじゃろか」
 「かもしれませんが、学者さんは自分の領域に偏りますが、艾の小説はあらゆるジャンルにまたがります」
 「兄ちゃんはそういった知識を覚える方法があったらやってみたいかね」
 「イヤホーンから寝ている間に頭にはいるとかですか」
 「うーん、あのSFの方法もいいかもしれんが、わしの見つけた方法を試してみんかね、一晩でワールドワイドな知識がいつの間にか頭にはいるんだがな、どうかね、明日は日曜日だし、うちに泊まってためさんかね」
 男の言っているのはどういうことなのだろう。
 「それをやると、その知識を使って、何か書きたくなる、どうだい兄ちゃん」
 男はウイスキーをくっと飲んだ。
 僕もロックを口に流し込み、うなずいた。
 男が手をたたいた。さっきの女性がノックしてはいっていきた。
 「はい」
 「二階は今日何人だったんだっけな」
 「三人です」
 「それじゃ部屋は二つ空いているんだな」
 「はい、ただ、薬湯は一部屋分しかありません」
 「いいよ、今日、お兄ちゃんが感染室に泊まるよ」
 「はい、準備します」
 「他の連中はもう寝ているのかい」
 「はい、感染中です」
 「薬は効いているな」
 「はい」
 僕にはこの会話の意味はわからなかった。
 「兄ちゃん、三人ばかり知識の感染をやってるからのぞいてみようや」 
 部屋からでて、男は立派な木の階段を上って二階にいった。広い廊下の両脇に部屋がある。
 「左側に5つほど感染室があってな、今日は兄ちゃん一番奥のEの部屋をつかってもらうよ、向かいの部屋は食堂とメイドのいる部屋だ」
 泊めてもらう部屋のようだ。それにしても感染室とは奇妙な名だ。
 男は一番手前の金属でできたAの字が埋め込まれているドアをあけた。
 「ここにいるのは一月いる男でな、かなりの知識が感染しているはずだ」
 人がいるところにノックもせずに勝手に入っていいのだろうか。
 中はずいぶん広い。別室とトイレと風呂がある。高級ホテルの一室だ。
 男はずかずかと入ると、大きなベッドの上で新聞紙に包まれて転がっているもののわきにきた。
 「うまくいってるようだな」
 僕はそばによってその物体を見たとき、ドキッとしたどころではない。
 若い男性のからだぴったりと新聞紙が何十にも張り付けてある。死んでいるのかと思ったら、男はかすかな寝息をたてている。ちょっとほっとした。
 「今、新聞紙の活字が男の皮膚から浸透して、知識が感染しているところだ、ほら新聞紙は何十にもなっている、イギリス、フランス、あらゆる国の新聞を体に巻き付けているんだよ、お兄ちゃんも明日までだけどやってごらんよ、こいつは、一月、ここでこうやってるんだ」
 「ただ新聞紙にくるまって寝るだけで新聞の知識が浸透するわけですか」
 マンガのようだ。
 「いやいや、単に新聞紙を巻いただけじゃない、それだけでよけりゃホームレスの連中はみな知識人になっちまう、薬湯に浸かってからそのまま新聞紙にくるまるんだよ、一日だって、かなりの知識が浸みこむ、わしゃあ毎日そうやって寝ているのでな、知識だらけだ」
 「この人は自分から希望してやってるんですか」
 「そうだよ、最初は一日だけと言ってたんだが、こうやった次の日、頭の中に今まで知らなかったことがいっぱい詰まっていたんで、もっと長くいたいというので、半年いていいよって、言ってやった、哲学者になるんだとよ」
 男はAの部屋から出ると、Bの部屋を開けた。
 「ここにいる女の子はな、作家になりたいそうだ、十日ほど新聞紙にくるまる予定でな、今日で5日目だ」
 部屋にはいると、ベッドの上にやはり新聞紙にくるまったものが転がっている。
 男はそばによって、「こりゃいかん、知識過剰だ、この子には多すぎた、死んでる」
 と、声を上げた。
 「おーいきてくれ」
 ベッドの上では青白い顔をした女性が新聞にくるまれていた。
 メイドの女性が走ってきた。彼女はベッドの上の新聞紙を急いではがした。ずいぶんたくさんの新聞紙だ。はがし終わると、真っ裸の女性があらわれた。ずいぶん豊満なきれいな女性だ。どきっとした。
 「人工呼吸だ」
 メイドの女性は女の乳の間に手を当てて押した。
 やがて、女がふーっと息をした。
 「よかった、ちょっと手伝ってやってくれんか、この女をバスに連れていくんじゃ」
 メイドの女性が女の両腕をもった。仕方がないので、僕は女性の両足を抱えた。目のやり場に困る。
 男がバスルームを開けた。中はずいぶん広い。一部屋分もある。
 メイドとともに、女をバスルームに運び込むと、バスの中に浸けた。紫色の湯がたっぷり入っている。
 メイドが女性のからだを手でこすった。
 「お兄ちゃんもやってくれんか」
 そう言われて、女性の足をこすった。
 女性に赤みが差してきた。
 「新聞の量を減らさなけりゃな」
 女性が「あ、わたし」
と顔を上げた。
 「死んじまった、新聞紙の量が多すぎたんだよ、欲ばるな、自分にあった量があると言っただろう」
 「すみません」
 女はバスの中で立ち上がった。
 メイドが新聞紙をもってきた。
「朝日の一週間聞です、それに科学新聞も」
 「すみません」
 女はうけとると、一枚ずつ濡れたからにまきつけた。ぴったりと張り付けていく。はがれそうになると、風呂の湯をかけた。そうやってほとんどを貼り付けると、紫色の湯を手ですくって一口飲んだ。
 メイドがバスルームの隣の戸を開けた。女はそのなかにはいると、木のイスに腰掛けた。サウナ室だ。ここで身体に張った新聞紙を乾かすのだろう。
 メイドが出てきて、ドアのガラス窓から様子をみると、入り口にあるスイッチを押した。
 中を見ると、風が吹き出したようで。女はおとなしく腰掛けている。数分立つと女が歩いて出て来た。
 「かわいたようね」
 身体にまとわりついている新聞紙はぴったりと女の体の形になって張り付いていた。
 女はベッドの脇で残りの新聞を足先までつつみ、横になった。我々が見ているのにもかかわらず、目を瞑るとそのまま寝息を立て始めてしまった。
 「あの湯を飲むとすぐ寝ちまう、さ、兄ちゃんもどるか」
 我々は部屋を出た。
 「まったく、欲張るとああなるんじゃ、死んじまったら、死体の処理に困るじゃないか」
 男はちょっとばかり怒っていた。
 「でも、兄ちゃん、やり方がわかっただろう、最初は湯でよくからだを洗ったほうが、感染しやすくなる、メイドに手伝わせてやろう」
 僕はなにがなんだかわからなくなった。
 「Cの男も見てみるか」
 メイドがCの戸を開けて中に入った。男のあとをついて僕も入った。
 ベッドの新聞紙にくるまれたものは同じ状態で転がっている。
 「亡くなっています」
 ベッドの脇にいったメイドが言った。
 「またかい、みんな脳が弱いからな」
 ベッドの上では青黒い男の死に顔が見えた。
 「こりゃ無理だな、この男は7日目だ、そんなにたくさんの新聞紙を使ったわけじゃないがな、知識がはいりすぎるとパンクするんだ、詰め込み義務教育を受けた日本人は新聞紙に弱いんだな」
 「どういたしましょう」
 「すてといで、東京湾あたりがいいだろう」
 「はい、手はずをしておきます」
 我々はC部屋をでて、Dの部屋に入った。Dの男もベッドの上で新聞紙にくるまれ、青白くなっていた。
 「全くしょうがない、こいつは科学者になりたかったんだ。世界の科学新聞に毎日包まれていたんだがな、少しは期待してたんだこいつには、やっぱりだめだったんだな、遊ばなければいけない時期、それに青春、そういう時は自然に過ごさないとこうなるのだなあ、きっと小学校のときから塾に通って、最高の予備校に行って、あの有名な大学にいったという男なのだよ、そういう人間の中にはらくらくその間違った教育を吸収したやつも居て、そういうやつだと思ったのだが」
 我々は廊下にでた。なにも言えない僕に男が言った。
 「もう寝るかい、そうだな一晩だけだからこんなにはならんよ、どんな知識がほしいかい」
 「上手に編集する方法」
 僕がいつも悩んでいることだ。
 「ずいぶん欲がないね、まあ一晩だけだからな、それじゃ、図書新聞にするか、だがあれは小さい版だから、朝日と毎日と読売も使ったらいい、そうだ、猫新聞なんてのもあったな、面白いからみな使いよ」
 男は一番はじのEという部屋の戸を開けた。
 「そいじゃ、ごゆっくり、今メイドが新聞をもってくるからね、からだも洗ってもらいなさいな」
 男は後ろも見ずに、さっさと行ってしまった。
 僕はどうしようと、鞄をテーブルに載せて、ソファに腰掛けた。
 すぐに、メイドの女性が新聞紙をカートに乗せて持ってきた。
 「お客様、洗わせてていただきます、それに新聞をお張りします、ご用意くださいません」
 女性がバスルームの戸を開け手中に入った。どうしろというのだろう、ともかく中にはいった。
 メイドは出て行こうとしない。
 なにもしない僕を見て、メイドさんは僕の服を脱がし始めた。どうしよう。あっという間にシャツ姿にされた。それもメイドさんの手で脱がされた。パンツもだ。すると、メイドさんもみんなとっちゃった。
 ひゃ、どうしたらいい。メイドさんはずいぶんきれいなからだをしている。
 「どうぞ」
 メイドさんが、洗い場を指さした。イスに腰掛けると、メイドさんが僕の体を洗い始めた。自分の手に石鹸を着けて、からだじゅうに塗った。きっとソープランドとやらに行くとこうやってくれるのだろうか。まだ行ったことがない。どうも前がつっぱってしまう。メイドさんなれた手つきでそこにも石鹸を塗った。ついついあっと声が出てしまった。
 シャワーをかけられた。からだの石鹸がみな流れていく。バスタブに入ってくださいと紫色の湯を指さした。
 僕が細長いバスタブで上向きになり顔だけ出すと、メイドさんは洗い場をきれいにながし、タオルでタイルの壁をふいている。
 紫色の湯がとろとろと皮膚にふれる。からだがとろけるような気分になってきた。
 メイドさんが新聞紙をもってきた。
 「タブの中に立ってください」僕を促した。
 恥ずかしいなと思いながら僕が立つと、「猫新聞からはりますね」とからだ中に猫新聞を張り付けた。「次は図書新聞です」足の間に貼り付けられた。あれに触られて新聞紙が破けそうだ。メイドさんは朝日、毎日、読売と、どんどん貼っていく。
 水分が足りなくてくっつきにくくなった。
 メイドさんがお湯を桶で救って僕の肩からかけた。また新聞を張った。
 全部張り終えると、「乾燥室にどうぞ」と戸を開けてくれた。
 眠い。
 いすに腰掛けると熱い風が周りをうずまいた。
 それでも、意識はあり、「終わりました、どうぞベッドでお休みください」
 というメイドの声を聞いた。
 僕はベッドの上に横になった。
 それからのことは覚えていない。

 朝日がカーテン越しに刺してきた。
 目が覚める。
 頭はすっきりしている。きのう変な男につれられて、男の家に泊まったんだ。
 周りを見た。
 なんだ、自分のマンションの自分の部屋だ。
 夢、と思ったが、そんなはずはない。
 掛け布団をのけようとした。布団がない。
 新聞紙にくるまっている。やっぱり夢じゃない。だが、あの男の家の二階のEという部屋で、紫色の湯に入り、メイドに新聞紙を巻き付けられたのだ。
 何故自分の部屋に居るんだ。
 新聞紙を一枚一枚はがしていった。朝日、毎日、読売新聞、図書新聞、最後は猫新聞だ。
 まっぱだかになった。
 あわてて、パジャマを着た。
 ベッドの脇のテーブルに、自分の着ていた洋服が、クリーニングされてのっている。
 鞄もベッドの脇においてある。
 記憶は間違いじゃない。男の家に行って、メイドに風呂に入れられ、新聞紙を巻かれたんだ。とすると、あそこで二人の死人を見た。東京湾に捨てろといっていた。
 だが、自分はあれからどうなったんだ。眠ったまま、自分のマンションに運ばれたというのが一番筋が通っている。あの男が自分の住まいの住所を知っているわけはない。名詞は持っているが会社の住所しか書いてない。あ、いや、スマホだ。スマホには住所録がある。自分の住所も入れてある。
 上着のポケットをさぐると、スマホがあった。きっとそこから住所を知り、僕をマンションまで運んで、ポケットに入れてあった鍵でこの部屋に入ったのだろう。
 それにしてもあまりにも不思議すぎる。何でそんなことをするのだろう。こんなことを誰かに言っても信じてもらえない。
 覚悟を決めて、洋服を着て、朝食の用意をした。体のどこにも異常はない。
 今日は日曜日だが、なにをしても手に付かないのはわかっている。
 思ったとおり、その日は漫然と一日をすごして、月曜日の朝になってしまった。
 気持ちの晴れないままに、いつもの格好をして、出勤した。
 会社では仲間が新しく出す本のことや、雑誌のことでわさわさしている。
 「半年先に特集を組むのよ、なんにしようか悩んでいるんだ」
 隣の席の女性のチーフがボーっとしている僕に言った。
 「ねえ、今日はどうしたの、いつものようにすっきりした顔で、いい返事があると思ったら、なにかあったの」
 「うん、ちょっと複雑な経験をしちまって、今日は頭が駄目かもしれない」
 「そうなの、でも考えてよ、特集はネタがなくなってきたからこまってんの」
 「そうだよね」
 「三十年続く雑誌だもの、もちろん繰り返しでもいいんだけど、矢っ張り新しいこと考えたいものね」
 「1970年の後半頃、幻影状という探偵小説雑誌がでましたね、あのころ、それ以降活躍した新人がたくさんでましたよね、連城三紀彦、泡坂妻夫なんか、そのころのちょっと変わった探偵小説がでてきたし、赤江瀑はホモセクシャルを堂々とあつかうようになったし、それに翻訳物ではニューヨーカーなんてしゃれた小説もはやりましたね」」
 「あら、ずいぶんよく知っているわね、その辺好きなの」
 それらの作家に関しては、特に興味を持っていなかった。なぜ口から出てきたのかも不思議である。自分が生まれる前だし、SFに関しては古いものも好きで読んだが、探偵小説はあまり読まなかった。
 「探偵小説は特に好きじゃないんですが、妖精文庫や文学のおくりものなどという、ちょっと新しい感覚の翻訳シリーズもでてましたね、SF作家の例ブラッドベリーなんかもはいっていたので、少しは読みました」
 「いいじゃない、そのアイデアもらおう、新感覚小説の今昔なんていいかな、今はまっとうな推理小説作家の方が少ないかな、その中でも変わった人にかいてもらおう」
 僕はそちらの雑誌にはかかわっていない。
 「艾咲藻なんておもしろいですね」
 しかし、彼女は首を横に振った。「あの人、誰も居所知らないのよ、いきなり本を出すでしょ、雑誌に書いたことはないのよ、ほんとは書いてほしいんだけどね」
 彼女は編集会議にでかけた。
 僕は環境問題の「木はうごく」の校正に集中した。といっても、頭の隅に土曜日の、新聞紙にくるまれたことがうずいていて、もやもやの中での作業となった。
 金曜日の朝だった。
 編集部の自分の席に着くと、部長秘書が呼びにきた。部長室にきてほしいと言うことだった。
 部長とはあまり話す機会はない。部長になる前は文芸雑誌の編集長として名をはせた人である。それは僕が入社前のことだ。引退して、作家生活にはいるのかと思っていたら、部長職に引き留められた人だ。 
 「なんでしょう」
 「今日、持ち込み原稿の依頼がくる」
 持ち込み原稿というと、若い人が編集部に連絡して読んでほしいと言ってくるものだ。それがいきなり部長に話が行くというのはどういうことなんだろう。
 「それで、僕はなにを」
 「原稿を受け取って、雑誌の編集会議にかけてほしい」
 「いきなりですか、それに部長が直接会議に持って行かないのですか」
 「いや、君を名指しで依頼がきている」
 「誰なんですか」
 「それがな、社長からの話で、俺もその人の名前を聞いて驚いているんだ、艾咲藻だ」
 驚いたときには声がでないものだ。
 「君の知り合いかい」
 僕は首を振った。
 「まったく知りません、それで原稿を受け取って、雑誌に載せることをうけあっていいのですか」
 「そこなんだ、社長はそうやってくれといっているが、本人がもってくるわけはない、ということは代理が来るのだろうが、それが本物の艾の文かどうかわからない、君は艾の小説は読んでいるだろう」
 「はい、ほとんどの本はもっています」
 「なぜ、君を名指しできたのかわからないのだけど、ある意味ではよかった、君に本当の艾の文かどうか、その場で読んでほしい、短編だということだ」
 艾咲藻は変わった小説を書く。SFだか幻想だか、奇抜なアイデアで結末は予測したこととまったく違う、そんなところも受けていた。文体は余計な飾りはせず平易だが、言い回しは独特のものがある。
 「今日、1時に来るそうだ、採用するかどうかは君に任せる」
 大変な役割を仰せつかったものだ。
 「もし偽物だったらどうします」
 「おいかえすか、もし面白いもののようだったら、艾咲藻の名でのせる、偽物なら本物の艾から抗議の連絡がくるだろう、そうなったら逆に面白いと思わないかね」
 艾という作家の顔がわかるかもしれない、部長はさすがにやり手である。
 「宣伝にもなりますね」
 「うん、ただ、偽物でも、艾なみに評判をとれるような内容の小説じゃなきゃだめだけどな」
 部長室から編集室にもどった。
 どのような人がくるのだろう。午前中は仕事が手につかなかった。
 予定の1時に会議室で待っていると、鞄を持った女と、背広姿の男が受付嬢に案内されて入ってきた。
 僕は入ってきた男と女を見て、あっと声をだしてしまった。
 「はじめまして艾です、秘書の方から原稿を渡しますので、よろしくお願いします」 
 木の家の新聞紙の男がメイドを秘書と紹介した。男とメイドは初めてあったような顔でおじぎをした。
 自分の前に腰掛けた二人に、接待係のような顔で、編集室の女性のチーフが、「いらっしゃいませ」といって、日本茶を我々の前に置いた。
 部長に言われて、艾の代理人の顔を見に来たのだろう。
 男とメイドは何もいわずチーフにちょっとお辞儀をした。
 「編集部のチーフの方にお茶を運ばせてしまってすまんことですな」
 男が笑いながらお茶の湯飲みのふたをとった。
 「お、茶柱が立っておる」
 男はそういいながら飲んだ。
 チーフのことを知っている。うちのスタッフのことを全部知っているのかもしれない。
 「ふむ、知覧茶か、ぜいたくだな」
 そんなこともつぶやいた。
 メイドが鞄から原稿をだした。
 「49枚です」
 僕は受け取ると、「部長から、僕を名指しで見えたということですが、どうしてでしょう」
 「なにいっとるのかね」
 男が笑った。
 「唯一の知り合いだからだよ、兄ちゃん」
 男はこのために僕を木の家に連れて行ったのだろうか。気味が悪くなってきた。
 「お読みになってください」
 メイドが僕に催促した。
 四百字詰の原稿用紙に万年筆で丁寧に書かれている。
 タイトルは「新聞死」
 とあった。内容は新聞から情報を体に沁み込ませる薬品を発明し、その液にはいって新聞にくるまると、一晩で知識が脳にはいるという、SF幻想怪奇小説だった。まさにあそこで見た、いや自分も新聞にくるまるという経験までしたことだ。
 話はその薬の開発の課程に何人もの人間が死んでいく。新聞の知識の量に、その人間の脳の容量が小さすぎて、脳が溶けてしまうからだ。
 最後は、新聞に包まった中の数人が、世界に散っていき、世界をひっぱっていく科学、政治、経済、様々な分野のリーダーとなるが、一人だけ、悪の道にはいり、新聞で人殺しを重ねていく、といったストーリーだ。
 HGウエルズの透明人間と発想が似ている。
 話は面白い。
 読み終わった僕はたずねた。
 「艾先生はなぜ雑誌に作品を乗せる気になったのですか」
 男ではなくメイドが答えた。
 「先生はご自分で本を作るのが飽きたのです、出版社、装丁者がどのように、自分の本を装丁するか興味をお持ちになったのです」
 男はうなずいている。
 「あの、大変面白い作品で、是非うちの雑誌に載せていただきたいのですが、原稿料支払いなどのため、本名とご住所をお聞きすることになりますがいいのでしょうか」
 それに対してメイドが答えた。
 「原稿料、印税はいりません、といっても出版社が困るでしょうから、規定の額を全部ユニセフなどに寄付すれば問題はないのではないでしょうか」
 僕にそういったことの知識はない。
 「経理と相談してみます、ただ、艾先生がそう提案されたという証拠がないと、あとで問題が起きると思いますが」
 「それではこうします、その旨書いた文をお送りします、ユニセフのほうから、艾から原稿料印税の寄付がよせられたという連絡をさせます、それでお宅には迷惑はかからないでしょう」
 「はい、部長にもそう伝えてみます」
 男がぼくをみた。
 「おもしろかったかい」
 「はい、評判になると思います、今度、特集号をだしますが、その目玉にしてもいいのではと、僕は思います」
 「あ、そりゃありがたいが、わしがきいたのは、どうだい、新聞紙にくるまれて、どうだったい」
 「いつの間にか自宅で寝ていました」
 「ああ、こちらではこんだ、勝手に鍵を使って悪かったな、それでどうだい効果は」
 なんのことだろう。
 メイドがかばんから、写真を何枚か取り出して、僕の目の前においた。
 全部猫の写真だった。始めてみる猫だ。だが僕は猫たちの種類を言っていた。
 「左から、バーミーズ、マンクス、スフインクス、ベンガル、ノルウェジャンフォレストキャット、サイベリアン、ラガマフィン」
 「その通りです」
 どうして、僕はこんな外国産の珍しい猫の名前知っているのだろう。今まで見たことがない。
 不思議そうな顔をしていたのだろう。
 「猫新聞の知識はみんはいっています」
 そうだった、僕は猫新聞や図書新聞をからだに貼り付けられたのだ。
 「そうだよ、あの薬によって新聞の活字があんたのからだに浸みこんだんだ」
 もらった原稿の主題もそれだった。
 「まあ、よろしくたのむよ」
 男、いや艾がたちあがった。
 「こちらこそよろしくお願いします」
 二人はさっさと出ていった。
 なんてことなのだ。手元にある原稿は僕自身も経験したことだ。ほんとに猫のことが頭に入っている。子供の頃から当然知っていると言った感じで、猫の写真を見たら、名前がうかんできた。
 艾が書いた小説は、現実のことなのだろうか。
 「どうだった、ぼーっとしていて、うまくいかなかったか」
 部長がじきじきに会議室にきた。
 僕は艾との面談のことを詳しく話した。
 「ともかく原稿がもらえたのだな」
 「ええ、内容も面白いものです」
 「よかった、おまえはいったいどこで艾と知り合ったのだ」
 あの木の家のことをはなしても信じてもらえないだろう。
 「銀座の飲み屋です、ぐうぜんに」
 「そうなのか、艾と名乗ったのか」
 「いえ、艾だとは知らずに付き合いました、名詞をわたしたかもしれません」
 申し訳ないと思いながら適当なことを言った。
 「気にいられたのだな、それじゃ、編集長と話しておくよ、編集長もきっと特集号の冒頭にのせるだろうな、君のお手柄ってとこだ」
 「はあ」
 お手柄と言われてもすっきりしない。
 そのあと、艾のメイド、いや秘書の女性から僕宛のメイルがきた。連絡や校正はそのアドレスにおくるようにとのことだった。住所はいっさいかかれていない。僕が連れて行かれたところがどこだか、タクシーで都心から三時間くらいのところしかわからなかった。鎌倉あたりではないかとは見当をつけていた。
 それから、三ヶ月後、昔の推理小説、変格小説の特集号がでた。
 隣の席の編集チーフの女性は「部数が延びているわよ、いつもの倍以上にはいきそうね」
 とよろこんだ。
 「印税の問題はどうなりました」
 「艾咲藻の名前で寄付をしたそうよ、住所はなしで、うちの出版社が代理でね」
 「どういう人なんでしょうね」
 「私も会議室でちらっとみたけど、よくある顔ね、特徴がないので、外で会ってもわからないわね」
 艾を見たのはそのチーフと案内してきた受付嬢だけである。
 「秘書さんはずいぶんきれいな人だったわね、おぼえているわよ」
 そういわれて、彼女の裸体が目に浮かんだ。きれいな体をしていた。あれは現実にあったことなのだろうか
 「なにぼーっとしてるの、その後、連絡あるの」
 「いえ、雑誌がでたので、送りたいとメイルしたのですが、買うからいい、との返事でした、その後はまったく連絡ありません。こちらが、出版数や読者の反応を送っても、返事がありません」
 
 そのまま、艾とは連絡がとだえ、もっと書いてほしいと連絡をしたりしたのだが、新たな原稿はもらえなかった。
 年が明け、艾の家に行ってから一年がたった。
 朝刊を開くと、小さな記事だったが、鎌倉の移築される予定の古い西洋住宅内で新聞にくるまれた死体が発見されたことが報じられていた。顔写真がのっていた。
 身元不明で病死の可能性があることがかかれていた。明治中頃の家であることがかかれていて、昔、イギリスからきていた建築技術者の為の家で、今は市の管理になっていた。
 死んだ男は浮浪者扱いをされていたが明らかに艾だ。身につけていた新聞は日本の物ではなく、フィンランド新聞だと書かれていた。
 僕しかわからないだろう。申し出るべきかどうか迷った。
 しばらくして、また新聞に溺死体が鎌倉の海に浮かんでいたことが報じられていた。ボートを楽しんでいたカップルがみつけた。浮いていたのは女性だった。顔写真がないが、きっとあのメイドだろうと思った。
 フランスの新聞紙が一緒に漂っていたことが書かれていた。
 その日だった。会社の僕宛に分厚い封書がとどいた。あけると小説原稿だった。
 タイトルは「活字による脳死」と題されたSFとも推理小説とも、幻想小説ともとれるものだった。
 第一章は「新聞紙」である。
 雑誌に載せたものだ。
 僕のPCにメイルがはいった。艾からである。アドレスは前の物と違っている。
 本にしてほしいとの依頼文であった。
 僕はそのことを部長に伝えた。
 そこで、必ず艾が誰か突き止めてやる。と心の中で思った。艾は僕に挑戦してきたのだ。あの死んだ男は艾ではなかった。男もメイドも本物の艾の犠牲になったのだ。いや、原稿を送ってきたのが偽者で、艾から原稿を奪い、メイドとともに殺害したのか。
 警視庁にいって、東京湾で見つかった死体について話を聞いたところ、一年で何体もの溺死体があるが、男二人、女一人の死体が一度にみつかった日があるとのことだった。1年前のことだった。海の流れと風の関係で一カ所に吹き寄せられていたそうである。周りには新聞紙が浮いていたとのことだった。ボートの事故で、ボートは海の底にきえたのだろうという。改めてそのころの新聞を調べてみると、海難事故かという見出しで三名なくなったことが書いてあった。僕が木の家にいった次の日である。新聞紙にくるまれて家で目を覚ました日だ。
 艾を探し出すことは殺人者を探し出すことにもなるのである。

新聞死

新聞死

銀座で出会った酔っ払いに誘われ、タクシーで自宅に行った。そこでは何人かの人が新聞紙にくるまって寝ていた。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-19

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