サドルの上で過ごした長い一日

 置時計に目をやると、午前四時を少し過ぎていた。辺りはまだ薄く明るいだけで、目を凝らさないとどこかへ足を引っかけてしまいそう。すっぽりと布団にくるまり雪ん子のような妻を起こさぬよう、こっそり布団を抜け出し居間のカーテンを開けると、思いのほか冷たい空気に鳥肌が立つ。街路灯に照らされた桜の木には、緑の葉が生い茂っている。とっくに春はやって来たかに思えるが、朝はまだ寒い。
 カーテンレールに掛けられた青と赤のどんぶくが、冬を思い起こさせる。この間までは常に羽織っていたにもかかわらず、これからの季節には見るだけで鬱陶しく感じてしまう。日中になると注がれる春の陽射しに干され、太陽が香っていた。
 春は明け方がいい。なぜだか不意に駆け出したくなる。
 今日はロードバイクに乗って、ロングライドを走りに行く。
 日の出から日の入りまで黙々と走り続け、どこまで行って、そして帰ってこられるのか。まるで遠足へいく子供のように、はしゃいだ胸が躍りだす。
 視界が覚束ないなかこそこそと着替えていると、台所の方からふっくらと甘い匂いが漂ってきた。
 腹の虫が鳴る。
 炊き立てご飯に梅干しで、大盛ご飯を掻っ込む。それにテーブルの上に横たわっているバナナも二本、腹に入れておく。これだけ食べてもまだまだ足りないくらい。足りない分はサイクルジャージの背中のポケットに背負っていく。
 サイクリング用のジャージには、三つのポケットが腰の上あたりに縫い付けられている。そのポケットに必要なすべてを詰め込んで走る。特にどこにも横寄りしたりせず、ひたすら走り続けるサイクリストにとっては、背中のポケットの活用が肝になってくる。携帯電話は勿論、走りながら食べる補給食や、防寒着から雨具まで。あらゆるものを背負って走る。何が必要で、何が無くても困らないか、その匙加減は経験がものを言う。個々の判断で決めていくしかない。そういったことも踏まえて、ロングライドは奥深い。
 いつもは独りで自由気ままに、地元でもある宮城県内をロードバイクで走り回っている。何かに縛られることもなく、思いのままに事を進めていけるので、それはそれで楽観的に思う存分楽しめる。独りだからこその楽しみを十分に感じられる。そして、いつしか我が芽生え始めてしまい、もっと遠くへ行ってみたい、という怖いもの見たさとも言える欲求を叶えるべく、今日は岩手県まで足を延ばしてみようと腹を膨らませていた。
 それに今回は独りではない、頼れる相棒と一緒だ。
 ひと回りも若く、地元のレースでは優勝経験もある輝人君と一緒に走る。やはりそこは一人より二人。気の合う仲間となら楽しさは倍増、苦しさは半減。それが仲間というもの。信頼のおける脚の合う仲間となら安心安全に、さらに距離も延びることだろう。期待で全身に血が駆け巡り、背筋に一本の真っ直ぐな棒を張り付けられたような思いがした。
 窓の外に目を向けると、おもちゃの兵隊さんのように右手を挙げて輝人君がそこに立って待っていた。やっと昇り始めた太陽が、日焼けの痕を色濃く映し出し元気いっぱいな姿を強調するかのようだった。それに納車されたばかりの淡青なロードバイクが、否応なしに心も体も弾ませていることは言うまでもない。張り切っている様子が手に取るように伝わってくる。
 まだ夢現な妻を起こさないように「行ってきます」と呟き、いざ玄関を踏み出した。
 これからサドルの上で過ごす長い一日が始まる。
 そうして朝五時、多賀城の自宅を出発した。
 まず向かうは利府から抜けた惣の関ダムの登り。まず初めの関門。この登りは、それなりに長い。なるべく体力を消耗しないよう粛々と登る。それでも輝人君の走りは軽やかだ。同じように脱力で登っているように感じるが、明らかに何かが違う。早くも離され始める。それでも気にせず、自分のペースを守って淡々と登り続ける。だいぶ離されてしまったが、やっと頂上にある乗馬クラブが見えてくると、サラブレットに見とれながら輝人君が待っていてくれた。お礼だけ言って、すぐさま下り始める。
 帰りはここをゴールにして、それぞれの帰路に就くことにしていた。帰りのこの登りでは、どれだけ待たせてしまうことになるのだろうか。なけなしの体力で登ってくる姿が、走り始めたばかりの今からでも目に浮かんできてしまう。身体は困憊しきっていても、満面の笑みを浮かべあってゴールを迎えることを望みたい。遥か遠く、まだ見知らぬ世界を目指し、颯爽と駆け出していった。
 なんとか最初の関門をくぐり抜け、大郷から田尻、豊里へと閑静な田園地帯をひた走る。田植えを終えたばかりの瑞々しい稲が姿勢よく立ち並んでいる。今の時期は青々とした香りで満ちているが、稲穂が垂れて収穫時期を迎えると、米のいい香りが涼しげな風に運ばれてくる。それが米どころならではの、秋の香りなのかもしれない。
 今から新米が待ち遠しい。
 田園風景を眺めつつ快調に走り続けていくと、東北最大の河川でもある北上川の雄大な流れが目の前に広がり、しばし呆然と見とれてしまう。前を走っている輝人君も、口を開けたまま目の前に広がる流れに圧倒されているようだ。足並みを揃えなくとも、自ずと揃ってしまっている。こういう場面で相棒感が証明されてくる。補給食をほおばりながら、しばしゆったりしたペースで進んだ。菜の花が土手を黄色に染めていた。春を感じる。妻にも、この景色を見せてやりたいものだ。そろそろ起きたころだろうか。
 それからも流れに身を委ねるように川沿いの土手を気分よく走り進めていく。
 しばらくそうして走り進めていくと、木立から突き出るように岩手県との県境を示す看板が手招きをするように揺れていた。いよいよ宮城県から脱出し、岩手県へと突入する。
 横目に輝人君とサングラス越しに目が合った。強張る表情に緊張感が伝わってくる。意を決するように、人差し指を前へ向けて力強く突き出すと、輝人君は照付ける様な熱い笑顔を浮かべ、親指を立てて返事をしてきた。それに負けない位の笑顔で返事を返し、ギアを上げ勢いを増し、まだ見ぬ世界へと突入していった。これまでと何も変わらない同じ道のはずなのに、これから走る道には全く違うなにかが感じられた。喜びだけが満ちていた。前だけを見て、どこまでも走り続けていった。
 そして、あっという間に一関を通過してしまった。
 さらに北上を続けていき、平泉の文字が目に映りだすと、ある思いが浮かび上がってきた。その昔、源義経や武蔵坊弁慶といった名立たる武将も、この絶え間なく続く流れに魅せられ、成し得た思い、報われなかった思いを船に浮かべ、川に流していたのだろうか。ふと、そんな感傷的な思いに浸ってしまった。
 川はいつでも、川に流れている。
 静かな木立の道を心地よく風が吹き抜け、二台のロードバイクが爽快に走り抜けていく。風も背中を押してくれているようだ。
 そしてこの辺で、これからどうしようかと思案し始めた。時間を確認すると、まだ十時にもなっていない。まだまだ時間に余裕はある。このまま来た道を引き返すよりは、何処かを廻って帰路に就くルートを選択したいところだ。ここから東に折れると、猊鼻渓に出られる。それには、これから一山超えることになりそうだが、敢えて目指してみることにした。これまでの穏やかな川の流れから、これから目指す険しい山並へと目線を移し、その先の清流にハンドルを向け、長く続く坂道を登り始めた。
 空に向かってそびえる山の頂が、どっしりと構えていた。裾野に広がる野山には新緑が芽吹き、春の風にくすぐられて笑いかけている。ウグイスのまだ慣れない鳴き声が聞かずとも聞こえてくる。その合間には、木々の揺らめきに葉の擦れ合う音まで届いてくる。
 自然の音で満ち溢れている。
 物思いに耽りながら、始まったばかりの長い坂道を登っていると、横を走っていた輝人君が高揚してきたのか立ち漕ぎを始め、すいすいと進みだしてしまった。追いすがろうと励むも、あっという間に離れてしまう。そこは仕方がない。相手が相手だし、特に坂道では厳しい。半ば諦めて、景色を眺めつつ脳裏に焼き付けていくことにした。後ろ手に振り向くと、北上川の向こうに平泉の街並みが広がっていた。いつの日か、中尊寺や毛越寺にも訪れてみたいものだ。ゆっくり心ゆくまで奥州藤原の文化を堪能してみたい。また一つ、目的地が出来た。楽しみが、また増えた気がした。
 そんな思いを巡らせながら登り続けていると、畑仕事に精を出されていたお婆さんが
「どこから来たのぉ」と話しかけてきた。
「多賀城から来ました」と返すと、
 ぽかぁんとした表情で近づいてきた。こちらとしては追いつかれることはないだろうと思っていたのだが意外や意外にもお婆さんが歩いてくるほうが速い。そのうち横に並ばれ
「どこまで行くのぉ」と聞かれ、
「取り敢えず猊鼻渓まで行ってみます」
 またしても、ぽかぁんとした表情を浮かべていた。
「この坂はどこまで続いてるんですか」こちらから訪ねてみると、
「わかんないぃ、上まで登ったことないものぉ」
 高らかに笑いながら、畑のほうへ歩き去って行かれてしまった。
 暫し、呆気にとられてしまう。ぼんやり浮かぶ雲を見つめてしまった。
 この坂道はそんなにも長く続くのだろうか。それと、お婆さんが歩くよりもこんなに遅いのか。と、気持ちが二倍に滅入ってしまう。少しは頑張らねば。ボトルから水を飲み、ギアを一段上げてペダルを踏み込んでいく。ひたすら前を向いて進んでいくと、よたよたと走る輝人君の姿が見えてきた。その背中を目掛けて登っていくと、じわじわと差は縮まりだし、こちらに気付いたのか、振り向きざまに顔の前で虫でも払うように手を左右に振ってきた。顔が険しい。かなり辛そうだ。しばらく合わせてゆったり登ることにした。
 こういった長い登りでは焦りは禁物。長時間走り続けるコツはペースを乱さなこと。それに尽きる。年配のサイクリストが淡々とロングライドをこなす様を見かけるのは、そういうことだと思う。速く走ることは年齢を重ねるごとに段々と難しくなってしまうが、長時間走り続けることに関しては、逆に年齢を重ねるごとに時間も距離も増していく。
 自分を飾らなくなってからが、本当にロングライドを楽しめるようになってくるのかもしれない。
 タンポポが咲いていた。蜜蜂が蜜を吸っていた。こんな光景を目にしたのは久しぶりなことだった。以前はよく、二人で肩を並べて走っていたことを思い出していた。
 原風景に懐かしさを重ねながら、しばらくのんびりと登り続けた。輝人君の顔にも、ようやく正気が戻ってきているようだ。これで帰り道も大丈夫そうだ。
 そのまま登り続けていくと、いよいよ綴ら折れの先に頂が見えてきた。長く続いた坂道の終わりが、やっと見えてきた。ずいぶん頑張って登ってきたものだ。深く息を吸い込み、一気に吐いた。もうひと踏ん張りだ。と、すると、またしても輝人君は立ち漕ぎを始め、するすると小気味よく駆け上がって行ってしまった。懲りないやつだ。これが性分なのかもしれない。ゴールが見えると黙ってはいられないのだろう。だからレースでも優勝できるのかもしれない。ただ羨ましくもある。
 突き抜けるような青い空が広がっていた。白い雲がぽっかり浮かんでいる。冷えた空気が美味い。街の喧騒など微塵も感じられない。とても静かだ。耳を澄まさなければ何の音も入ってこない。ずいぶん高いところまで登ってきたものだ。
 トンビが我が物顔で飛んできた。こちらを睨みつけるように旋回し、そのままどこかへ飛び去っていってしまった。とんだ来訪者に見られていたのかもしれない。
 先に登り切った輝人君が、両手を振って呼んでいた。それに応えるべく立ち漕ぎを始め、そしてついに、やっとのことで登り切った。満面の笑みが溢れてしまう。思わず目から喜びが零れてしまいそうだった。互いのボトルをぶつけ合い、健闘を称え合った。
 山は高いほどに登りがいもあるというもの。登っている最中は辛かったが、登り終えてしまえば絶景のご褒美が待っていた。今までに見たことのないような浮世離れした景色を格別な思いで堪能した。こんなにも山々が連なる景色を目の当たりにしてしまうと、よっぽど遠くへ来たんだな、という歓喜の思いと、こんなにも遠くまで来てしまったんだな、という後悔の念。二つの相反する思いに、身が一層引き締まる思いがした。
 見え隠れする心情を抱きつつ、猊鼻渓へ向けて下り始める。あんなにも長く続いた坂道も、下ってしまえば一瞬だった。あっと言う間に麓へと辿り着いてしまった。掻いた汗も、すっかり冷えきってしまった。冷えた汗は、体を熱くして乾かす。単純な発想だが、これの連続だ。それでも走りは熱くなり過ぎないように気を付けながら、下り基調の真っ直ぐな道を放たれた二本の矢のようにぐんぐん進んでいった。
 それも束の間、猊鼻渓の看板が見え始めると、人通りも多くなり、観光バスとも出くわすようになる。さすがは東北でも有数の観光地。抑えめのペースで安全に走り進める。
 何をさて置いても安全が第一。それにロードバイクでは謙虚さも忘れてはならない。
 それからも先へ進めば進むほど人通りも交通量もどんどん多くなり、船着き場までは行かずに猊鼻渓を示す看板のすぐ袂に架かる小さな橋の上で立ち止まり、流れ出る清らかなせせらぎを眺めることにした。ついつい見とれてしまい瞬きをするのも忘れてしまった。
 北上川の雄大な流れにも魅力は十分過ぎるほど溢れているが、この猊鼻渓の清らかなせせらぎにもまた違った魅力が流れている。それは、どっちが良いかとかではなく、それぞれが違った魅力を持ち合わせている。どっちもいい。ただ違うだけだ。
 川の流れに魅せられていると身も心も清められ、新たなる心境で帰路へと走り出した。ここから暫く細かいアップダウンが続く。車ではさほどにも感じられないが、自転車だと決して平坦には感じられない。それなりに頑張らなければ走り通せない。それでも滅多に来ることが出来ないであろう岩手の路を、心ゆくまで楽しんだ。渓流が流れているだけあって、森の中を走っているような感覚が心地よかった。吹き抜けていく風も清々しい。つつじの花が彩を添えていた。道端に並んだ木々のその先に、眩い光が広がっていた。
 並木道を抜け、光の中へ飛び込んでいくと 、突然の風に煽られ、よろめいてしまった。ハンドルにしがみつき、体を屈めて突風に耐えた。往路では風に心地よく押されていたせいか、この風には気付かされなかったのだろう。まさしく今では向かい風が吹いている。
 その後、再び北上川の土手に上がると、遮るものが無くなってしまい強風が情け容赦なく吹きすさんできた。これからはひたすら、向かい風に向かって進むことになってしまいそうだ。気が滅入ってしまう。だが滅入ってばかりもいられない。なんとしてでも自力で走って帰らなければならない。こればかりは誰も助けてはくれない。一緒に誰かがいてくれれば、お互いに励まし合うことは出来る。しかし、実際に身体を動かすのは自分次第。自分で自分の身体を動かさなければ、身体は動いてくれない。
 改めてサドルの上では孤独だということを実感させられてしまう。どっしりとサドルに腰を据え、覚悟を決めるように意を正した。ハンドルを握る手に力を込め、風に抗うようにペダルを踏み続けていく。
 横に並んでいた輝人君も真剣な表情で構えていた。さっきまでとは、なにか違って見える。ついに本気になり始めたようだ。こちらに一瞬目配せしたかと思うと、そのまま前へ出た。すかさず縋り付き、後ろに入る。そうやってロードバイクでは前を走る人の後ろに隠れて空気抵抗を減らし、体力を温存することが出来る。その反対に先頭を走る人は、まともに風を食らい続けることになり、消耗し、疲労してしまう。走る辛さは走ってるみんなで分かち合おうと、先頭を交代しながら走っていく。それにトラブル等の不可抗力で遅れたりする人がいれば、例えレースだろうと、みんなで待つ。それがロードバイクでは大切な暗黙のルールとなっている。ロードバイクとは、紳士協定によって成り立っているスポーツなのである。そんな見た目とは裏腹な人間臭さに、好感を持たずにはいられない。
 変わらず向かい風が吹き付ける中、二人で助け合い、苦しみを分かち合いながら進んでいくと、宮城県を示す看板が目に飛び込んできた。帰ってこられたんだと、心が和らいだ気がした。だが、これからも道中は長く続く。やっと宮城県に入ったばかりだし、まだまだ気は抜けない。それに身体は強張り始めていた。少しの間でも休憩を挿み、身も心も休ませたかった。
 その頃ちょうど宮城県北の街、東和町に差し掛かっていた。ここには、お地蔵様や石碑などが数多く鎮座されている。信仰深い街なのであろうことが、ひしひしと伝わってきた。小さな祠の前で立ち止まり、二人並んで合掌し、安全を祈願した。そしてその先のちょっとした公園で小休憩をとり、補給食を食べた。助けられた思いがした。これでまた頑張れそうだ。水飲み場から水を飲み、ボトルに水を補給し、また吹く風に抗い始めた。
 それからも北上川の土手をひたすら南下していく。往路では一瞬にさえ感じられた土手沿いの道も、今となっては、いつ終わりが見えてくるのか見当もつかない程の、延々と続く道に感じられてしまう。それに同じ景色が繰り返されるばかり。変わっていくのは、ボトルに入った水の量だけ。着々と減っていくのが見て取れる。暑くなってきた。いつの間にか陽射しが強く照りつけ、日焼けの痕を際立たせていた。風を遮るものもなければ、陽射しを遮るものもない。道が進むにつれ、季節外れともいえるぐらいに気温が上昇してきていた。明け方は、あんなにも寒かったのに。春はこの繰り返しなのかもしれない。
 天気がいいといえばそれまでだが、暑さで参ってきた。それに風に向かい続けるのにも、ほとほと滅入ってきた。前を走る輝人君にも勢いが感じられなくなってきていた。
 少しでも気分を変えようと、ちょっとだけ坂を登ることになってしまうが山間の林道に向かうことにした。さほど長くもなく勾配も緩い登りだったので、補給食を食べながらギアを軽くして、回復を促すように登った。風に揺すられる木々のざわめきが波の音のように響いてきた。そしてその木漏れ日が英気を宿してくれた。いい気分転換になった。
 そしてまた、土手に戻った。ここで引き下がるわけにはいかない。ひたすら走り続けるしか道はないのだから。そんな状況で、こんなことを思ってしまうのもどうかと思うが、なんであんな遠いところまで行ってしまったんだろう、と後悔の念が過ることがある。
でもそれが喜びでもあるのも事実であり、後悔を喜びに変える意味でも、無事に帰宅しなければならない。歯を食いしばり前へ出て、風に向かっていく。すると輝人君がボトルを振ってきた。中身が空っぽのようだ。何よりも、水がなければ走れない。もう少し頑張って豊里まで辿り着けば、北上川河川歴史公園が橋のように架かっている。そこの水道から水の補給をすることにした。この公園は文字通り北上川の歴史を学べるうえに、新旧北上川をを一望できる。とてもいい公園だ。
 豊里まで来れば、通常ならば三時間あれば自宅まで到着できる。時刻を確認すると午後二時。予定通りいけば午後五時には帰宅できる。が、辛いのはこれからの様な気がしてならない。これから田尻までの田園地帯は普段でも風が強いのにもかかわらず、どう考えても普段以上の強風が向かい風となって吹いている。それにこの季節にしては強過ぎる程の陽射しが降り注いでいる。それでも行くしかない。ペダルを踏み続けていくしかない。何故こんなにも辛い思いをしなければならないのかと、やはり後悔の念が過ってしまう。
 確かにこの先には辛いことしかないのかもしれない。ここまで九時間も走り続けてきて、当たり前に疲れてきている。それに腹も減ってきた。晩御飯が待ち遠しい。至福の晩餐を思い浮かべながら、最後の力を振り絞って走り出した。予想通り、豊里の街を通過した途端に風が強まってきた。これは厳しい。こまめに先頭を交代しながら、なんとか進み続けていく。
 ツバメが掠め飛んでいった。一緒に飛んでいきたかった。太陽が眩しい。空の青が鮮やかだ。しかし、そんな浮かれ気分に浸っている場合でもない。日が暮れる前には帰宅しなければならない。焦らず、先へ進んでいかなければならない。
 そうこうしていると田尻の運動公園に辿り着き、最後の補給がてら短く休憩を挿むことにした。午後三時を少し過ぎていた。ここからなら、普段だと二時間あれば余裕を持って帰宅できる。背中のポケットに、ぎゅうぎゅうに詰め込んできた補給食も全部食べ切ってしまった。ちょうどよかったのかもしれない。この先からは、体力どうのよりも精神力がものを言う。ここまでトラブルもなく来れたので、これからあと一息、まずは安全第一を心掛けて進めていきたい。冷静な強い心で走り切るしかない。
 輝人君も、よくここまで頑張ってきてくれたものだ。半日も走り続け、それに宮城県を飛び出し岩手県まで突入してしまった。よく走ったものだ。身体には疲労感が滲み出ているが、その表情は真夏の陽射しの様に輝いていた。日焼けの痕が一段と濃くなったようだ。
 交差点の信号が青に変わると同時に、走り出した。
 ここからは多少のアップダウンを織り交ぜながら、平坦基調の道が続く。何度も走った、慣れた道だ。だからと言って気は抜かず、十分に気を付けながら走り進めていく。ちょっとした坂に差し掛かる度に脚が攣りそうになる。それでも何とか堪えながら、こなしていく。本当に身体は悲鳴を上げている。だが、気分は晴れていた。やっとゴールが手の届きそうなところまで見えてきたせいかもしれない。それと、気付かぬうちに風を感じなくなっていた。いつの間にか風に押されていた。顔だけは、自ずとほころんでしまう。こうなってくると、後悔したことや辛かったことが大きければ大きいほどに、もっともっと大きな希望や喜びとなって帰ってくる。辛かったことが全て楽しかったことに変換され、楽しかった記憶だけが残される。だからまた走りたくなってしまうのかもしれない。そしてまた、同じ思いを繰り返していく。つくづく、ロングライドとは不思議なものだ。
 そうして絶え絶えに走り進んでいくと、今日のロングライドのクライマックス、惣の関ダムの登りに差し掛かった。ついにここまで辿り着いた。思いもひとしおだ。噛み締めるように、じっくりと登りたかった。これを登りきってしまうと、終わってしまう。ついさっきまでは、いつになったら終わりが来るのか、本当に終わりは来るのか、などと思っていたにもかかわらず、今となっては名残惜しくて仕方がない。終わってほしくないし、終わらせたくない。矛盾しているようだが、何故だかそう思えてしまう。
 登っていくにつれ、空がどんどん大きく広がってゆく。
 すると輝人君が笑顔でこちらを睨みつけてきたかと思うと、渾身の力を込めて駆け出していった。やはり行ってしまったか。最後は揃ってゴールってわけにはいかないようだ。
 しかし、これで最後かと思うと闘志が搔き立てられてしまう。これまでは置いてけぼりを食らってばかりいたが、最後くらい一花咲かせてやろうと、身体の底から残っている力を掬い上げるようにして縋り付き、そして追い越してやった。それからは、じゃれ合う子犬のように最後の頂を目指して、二台のロードバイクが駆け上がっていった。
 目指す頂の先に、橙色の太陽がぽっかりと浮かんでいた。いよいよゴールが見えてきた。最後は二人でもがき合い、悦びを叫び合いながら、泥んこの様な笑顔を浮かべ合い、互いの握り拳をぶつけ合った。
 それだけで言葉は無用だった。
 また走ろう。今度はもっと頑張って、もっと遠くまで行ってみよう。
 ありがとう、輝人君。
 そう胸の内で誓い合い。そのまま、それぞれの家路へと就いた。
 
 「ただいま」
 サドルの上で過ごした長い一日が終わった。
 「おかえり」
 妻が笑顔で出迎えてくれた。
 「ただいま」と、もう一度繰り返した。安堵のため息が零れた。
 腹の虫が盛大に鳴る。
 これから一風呂浴びて、お待ちかねの晩餐が待っている。まさに至福のひと時だ。
 土産話にも花が咲く。そしてその後には、
 筋肉痛との厳しい戦いが待っている。

サドルの上で過ごした長い一日

サドルの上で過ごした長い一日

仙台短編文学賞応募作品 ロードバイクに乗ってロングライドを走る物語

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-15

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