よめば、声

よめば、声

劇化の候補となり、落選した作品です。
一部方言が有ります。
(8/5 一部加筆修正しました)

余目駅

私が先生と出会ったのは、高二の始業式ではなくて、もっと早い春の日だったのかもしれない。


その日は雲一つない晴天で、春らしく東から強い風が吹いていた。とはいえその風はまだまだ冷たくて遠くの山は裾まで真っ白だ。高い山から吹きつけてくる風は頬を切るようにして、私をぎゅっと縮こまらせる。やっぱり東北の春は遠いと思った。辺り一面に広がる乾いた田んぼにもところどころ雪が残って、鳥達が「冷たい冷たい」とその上をぴょんぴょん跳ね回っている。
「…は、そうだ。」
ぼうっとしてる場合じゃない。私はふと外に出た理由を思い出した。そのために何枚も重ね着をして、お腹にはカイロを三枚も貼ってきたんだ。毛糸の帽子にマフラーに革のブーツという春らしくない重装備。そして右のポケットに手を入れると、確かに薄くて固い図書カードの感触がある。
「大丈夫…落としてない。」

私が住むこの町は、人口二万。県内ではかなり人のいる方だと後から聞いた。「後から」というのは、私がこの町に越してきてから、という意味だ。ここは私の生まれ故郷ではなく、父のふるさと。この町に私は小学生の頃に引っ越してきたのだった。それでも私はここを気に入っている。緑しかなくて、何も無くて、人は疎らで気車も一時間に一本しか来ない。だけどそれがとても落ち着く。強いて言えば、本屋さんが町に一つしかないのが欠点かもしれなかった。

その本屋こそ、今日の目的だった。結局辿り着いたのはあれから一時間ほど経った昼下がり。余目の駅にはちょうど下りのディーゼル車が来ていて、ぱらぱらとお客さんが降りるのが見えた。
「売り切れてないといいな…」
この町で売り切れるなんてことは有り得ないのに、目の前を横切っていくその人達に変に焦り始めてしまう。もっと早く着く予定だったことがより一層私を心配させた。
「あ、ほのちゃん。待ってたよ」
それから繰り出した精一杯の早足で店に駆け込むと、店主のおじいさんに声を掛けられた。よれた紺色のエプロンから覗かせる柔らかな顔に私は軽く会釈をする。「こんにちは」とは言えないから、私はもう一度頭を下げた。
「あれ、奥の棚だよー?」
おじいさんにそう言われて、弾かれるようにお店の奥へ向かう。そそくさと雑誌の棚の前を抜けて、マンガのコーナーを通過して、小説の山のさらに向こうへと私は駆けていた。
「ここら辺に…」
そう、多分ここら辺にあるはずで…
「!」
埃を被った本たちの上に、お目当てのものは…あった…。
「うわあ…」
好きな作家さんの最新作。手袋を外して卸し立てつやつやのカバーに触れると、キュキュッと小気味いい音がする。
「…よかった、ちゃんと残ってて…」
思わず嬉しくなって、胸にぎゅっと抱いてみる。気持ち、かかとが軽くなって、思わずその場でぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「ほのちゃんに頼まれて、街の大きな本屋から昨日仕入れたんだよー?」
「!」
「いがった(良かった)ねえ、誰にも取られなくて。ま、お客さんそもそも来ねえけどな!あはは」
こんな姿を見られて、恥ずかしい。瞬間体が真っ赤になって熱くなる。どうにもこうにも出来なくて、私は本を抱いたままじーっと下にうつむいていた。
「お代はどうする…?」
「…」
「あ、おばあちゃんのツケにするかい?」
おばあちゃんのツケなんて、とんでもない! はっとした私は右ポケットに温めた図書カードをすぐに出して、本を抱えたまま、より先にレジに向かった。


今開けて少し読んでしまうか、家に帰ってからじっくり眺めるか…どっちもいい。ちらっとページを捲ってみると新しい本の香りがして、さらに気分が上がった。この香りが私はとても好きだ。でも、無事に本を買えた私は少し有頂天になっていたのだろう。前をあまり見ずに、読むか読まないかなんてことを悩みながら駅前を歩いていた。その時だった。
目の前に不意に人影が見えた。そして次の瞬間、
「痛っ」
という女の人の声が聞こえた。
刹那、頭が真っ白になる。すみません、の一言が出来ない。
「…」
「あー痛っ…」
「…」
その人は残雪で湿った地面によろけながら、すぐ睨むように私を見た。一瞬映ったシルエットは若くて、私よりも少し年上の人に見えた。そして恐る恐る目を向けた先に、切れ長の鋭い目が見えた気がした。彼女はその目で睨みながら、何も言葉を発さない私に「何なの」と言った。私は何も返せない。足元に転がったスマホを真っ先に拾い、倒れたキャリーケースを起こしながら
「もう…最悪…」
とその人は溢した。この辺では見ないお洒落な服に、微かに土が付いていた。彼女はそれに気付くとため息をついて払いながら、固まったままの私を無視して、途中だった電話を続けるべく去っていった。
「だから大丈夫だって。忙しいけど、休み取れたらそっち帰るから!」
彼女はより大きな声で、そう話していた。その人からは嗅いだことのない、甘い、街の匂いがした。



私は、くちなしの子。そう言われて生きてきた。
言葉に、できない。

別にずっと話せないとかそういう訳ではない。人が多いところ、初めての人がいるところ、落ち着かないところ。そういう場所で声が出なくなる。

だからずっと自分の事を話せなくて、気持ちが言えなくて、自分というのが何なのか分からなかった。言ってみれば、影が薄くて、透明人間みたいな存在だと思っていた。


そう、「先生」に出会うまでは。

始まりの日

学校がまた始まるのは、私にとっては嬉しいことじゃない。学校は、自分が急に自分で居られなくなるところだ。色々な人がいて、喋ってて、笑ってて。私もそう出来たらきっと楽しいんだろうなと思っても、そんな事は出来ない。不安になって声が出なくなって、頭が真っ白になる。変な汗が出て、辛い時には体が固まってしまう。
「うー! わあっ!」
布団に向かってなら、いくらでも叫べるのに。
新学期。クラスも替わってしまうし、知らない人もいっぱいいるだろうし、私は言葉以上に本当に嫌だった。
穂花(ほのか)!起きたの?ばあちゃん、畑行ってきでしまうがら」
階下からおばあちゃんの声がした。起き上がりワイシャツのボタンを留めていた私は、返事の代わりに壁を二回優しく叩く。すると「はいはい」と聞こえて玄関の戸が閉まる音がした。…それに、なぜかほっとしてしまう。緊張の糸がひとつ綻んだのは私の弱さゆえだ。残りのボタンはゆっくりと留めて、最後にハイソックスを履いた。
私は、実の祖母とも話せなかった。


「ねえ、穂花今日はポニーテールにしたの!めっこい!」
「似合ってる…?」
「んだ!すんげ似合ってるよ」
「ありがとう」
登校して一つ安心したのは、理子(りこ)が同じクラスだったことだった。理子は小学校の頃からずっと一緒で、一番仲の良い友達だ。家は近所で商店をやっている。おばあちゃんがそこのお得意さんで、買い物についていくうちに彼女とも仲良くなったのだが、理子は私と違ってはつらつとしていて、元気で、ショートの黒髪がよく似合う。男勝りなところもあって、小さな頃は男子と取っ組み合いのケンカまでしていたけど、そういうところも含めて私は好きだった。そして私は、理子とは話すことが出来る。
「おい理子、スカートそんな捲ってたらパンツ見えるべ」
「は?元の変態!あんたなんかに見せる訳ないでしょ!」
そしてもう一つ安心したことは、(はじめ)も同じクラスだったこと。元も小学校からの付き合いでよく知っているし、理子と私と元の三人はいつもおなじみの組み合わせだった。それに元のお父さんは裏の田んぼでお米を作っていて、ほとんど毎日うちにお茶を飲みにやって来る。それに私のお父さんとは小中高の同級生らしい。…でも、私はなぜか、元と声を交わす事は昔から出来なかった。
「いやー聞いてよ。俺、春休み一日しか休みなかったんだよ?全部、来週の試合の為の稽古でさあ。先生も師範も次こそは鶴岡第一に勝てって。無理だべや」
「無理だべって言ったらそりゃ無理でしょうよ。まあ、鶴一は私立だし?あそこの剣道部、強化指定もされてるんでしょー?」
「そう。俺、先鋒なんだよ?鶴一の一年生相手でも負けそう…」
「ほら、後輩も入ってくるし、もう先輩なんだから頑張りなよ?」
「まあ…」
三人で横に並んで、二年生の廊下を歩いていた。私はいつも一番左で、真ん中は理子で、右に元。私に話が振られた時は、理子に耳打ちをして伝えてもらう。私はいつも、横の二人のじゃれ合いを聞いてにっこりと微笑んでいた。話の尽きない二人を横にしていると、楽しい。
「で、お前らは観に来てくれんの?」
「え?」
「え、じゃねえべよ!俺の、試合!」
「え?」
「理子お前なあ。今話してたべ?超緊張する俺の試合が来週あるって。」
「うーん、どうしようかなあ。私そんなに暇じゃないし、それに多分部活あるわ」
理子が素っ気なく答えると、元は少し寂しそうにした。
「まあ陸上部あるよなー。じゃあ…穂花は?」
「?」
元が右奥からぐいっと首を突き出して私を見る。両手を拝んで私をじーっと見ているけれど… 「ごめん、って元に伝えて」と理子に耳打ちする。そして理子が「無理だってー」と元に伝えると、彼はまた残念そうにした。
「そっかーそうだよなあ…。ま、お前らよりもめっっこい後輩を入部させて、全力で応援してもらうからな!」
「私はともかく、穂花はそこら辺に居る子よりもめっこいよー?」
「んなことねえべよ」
私が苦笑いをしていると、理子が「あんた虚勢張り過ぎ」と元をつついて、元は「くうぅ」と悔しそうにした。
「行けなくてごめんね」と言う代わりに、私は咄嗟に右の握り拳を突き出す。周りの人から見れば何の事だろうと思うだろう。でも、二人は一瞬驚きつつも立ち止まって、それから私に微笑んだ。
「ほら元、穂花が『さすけねえ』って。」
「お、おう」
このサインは私たち三人しか分からないサイン。東北の言葉で『さすけねえ』は大丈夫、何とかなる、大したことない、っていう意味だ。私の右拳には今この意味が乗っている。これを三人の誰がいつ始めたのかは分からないし、正直あまりカッコよくないけれど、喋れない私にとっては大切な意思表示のためのサインだった。
「ありがとな、穂花」
私のサインを見た元は、私の右拳に彼の右拳をくっつけた。これだけでも彼にファイトと伝わればいい。いつもちゃんと伝わっているのか少し不安だったけど、この時元はしっかりと私の意思を汲み取ってくれているようだった。そして自分の拳に意識がふと移った。私の頼りない小さな拳に、元の大きくて、ごつごつしている拳が突き合っている。そう思った矢先、
「はいお時間でーす!ほら元!いつまでも穂花を触らない!」
と理子が遮った。一瞬のことで、私は宙に浮いた拳とともに後ろに下がり「わっ」と声にならない声が漏れた。一方の元は「ちぇっ」と言って拳を投げやりにしまった。理子は相変わらずだ。まるで私のお母さんのように、私を守ってくれる。別に、元は敵でも悪い人でも何でもないんだけどな。今日はまるでアイドルの握手会のようだと呑気に考えていた私も、不意に自分が十六歳だったことを思い出すと、今まで勢い良く突き出していた拳も、何だか気恥ずかしくなってきてしまった。


教室には去年同じクラスだった子も何人かいて、違うクラスだったか中学も違う知らない人もかなりいた。新学年でざわざわがより大きい教室の中を静かに通り抜けていくと、黒板に貼られた座席表がある。それは名前順で「さわい ほのか」と「たまみや りこ」は案の定離れてしまっていた。その表の通りに席に座ると、周りはより知らない人だらけだった。遠くから理子がこちらに手を振ってくれているけれど、どこか心細い。前の方には「いかり はじめ」がいるけれど、それはそれで頼りなかった。
近くになった優しそうな女の子に不意に話しかけられても、
「澤井さん、だよね?」
と聞かれれば、こくりと頷き、
「去年一組だった?」
と聞かれれば、ううんと首を振った。
きっと「なんでこの子何も話さないんだろう」とか「無口だな」とか思われているんだろう。それでも、話しかけてくれる人がいるだけ、それはありがたいのかもしれない。
「担任の先生、新任らしいよ。女の先生なんだって」
彼女が私にそう教えてくれた時、チャイムが鳴った。ざわざわとしたまま、クラスメイト達は素直に席に着き始める。そうすると廊下の方からコツコツと音がして、誰かが「担任じゃね?」と呟いた。そのヒールの音は甲高くて、廊下中に響いているのがよく分かるほどだった。そして音が大きくなり「おはようございます」という声がした時、教室には甘い香りが抜けて、一番前に座っている元が思わず鼻をくんくんとさせたのが分かった。
その匂いの主はざわざわし続けるクラスを見渡してため息をついたかと思うと、「んんッ」と高く咳払いをする。少しずつ静かになったクラスを前にして、小さな息をついた。その時、「先生」は話し始めた。
「今年、この二年二組の担任になりました、水田レナです。よろしくお願いします。」
先生は細い字で黒板に「水田レナ」と自分の名前を書いて、また生徒たちの方を向いた。先生が板書する様子をちらちらと見ていた私は、カタカナでレナというのは珍しいな…という事をぼんやり考えていた。けれどまたさっきの咳払いが聞こえて、反射的に私は背筋を伸ばした。
「出欠を取ります。」
そして先生はそそくさと出欠を取り始めた。グレーのパンツスーツで決めたスタイルは細くて、少し巻いた黒髪がより目立つ。さらに白いバレッタでその長い髪は高く留められていた。
「澤井穂花さん」
私は自分の名前を呼ばれて我に返った。驚いて、手だけ真っ直ぐ挙げる。そんな私を先生は一瞥して、「ちゃんと声出して」と言いながら次の人に移っていった。
出欠を取り終わると、先生は「始業式遅れずに体育館に集合してください。体育館履き、忘れないように」とだけ言い残して教室を去っていった。とてもあっさりとしたホームルーム。去年の担任はもう少し「高校生なりに規則正しい生活を送りなさい」とか「悩み事があったら周りの人に相談しなさい」とか、色々話していた気がする。だからこの水田先生は何というかクールで、ちょっと冷たい人なのかなと私は思っていた。


「水田先生、元々こっちの方の出身なんだけど、大学は東京の大学に行ってたんだって。何でこんな田舎の高校に来たんだろうねー」
理子は情報通だ。実家の商店は町の噂が飛び交うから、らしい。始業式の静まり返った体育館の空気に耐えられない生徒は、周りの友達とひそひそ話をしている。だから理子もご多分に漏れず、列の隣の女の子と噂話をしていた。
「にしても、私たちみたいに訛ってないし、やっぱ綺麗だよね。私も東京行ったらああなれるのかなあー」
「いやーそんな簡単じゃないでしょ」
二つ後ろの私にもその話し声は聞こえてきていた。こういうのはよくないと分かりながらも、分かりやすく耳を塞いでみるなんてことは恥ずかしくて私には出来ない。
「ですから、皆さんは、えー、この庄内高校の生徒としてね、相応しい行動をしてもらわにゃいかんのですよ」
「水田先生美人だよね。彼氏とかいるのかな」
「分かる、いそうだよね」
「田んぼにゴミを捨てない。これは当たり前のことです」
始業式は、校長先生が変わって話が短くなった。でも、白見教頭の生活指導は相変わらずの独壇場で、通称「白見時間」は健在だった。けれどちゃんと話を聞いている人は私から見える限り、あまりいなさそうだ。体育館の脇に並んで立っている先生方でさえも、生欠伸を噛み殺しているように私には見えた。その長い話の途中、だいぶ前の方に居る元の頭がこくりこくりと舟を漕いでいるのが見えた。するとすぐに、同じく脇に立っていた水田先生がやって来るのが目に入った。そして「井刈君、ちゃんと聞きなさい」みたいな声が聞こえる。「元、早速怒られてるな…」と、少し気になって私はその様子を後ろから伺っていた。元は「はい!すみません!」と言わんばかりに背筋を正して、直立不動になっていた。先生もその様子に納得したのか、それから二組の他の生徒たちの方へ顔を向けるようにした。その時、私は先生と目が合ってしまった。そして先生は私に顔を向けたかと思うと、キッと睨むように私を見た。

不意に私は、数週間前の駅前を思い出した。

睨むように、と思ってしまったのは先生の、その切れ長の目のせいだったと思う。切れ長の目。見覚えがあった。
あの時の女の人だ…と気付いた後は、色々な記憶が思い起こされて、とても教頭先生の話も頭に入って来ず、ぼうっと前の女の子のソックスだけを見つめていた。恥ずかしさや申し訳なさや、もう忘れておきたかったものがどんどん心の中に溢れてくる。

私の新しい担任の先生は、数週間前に駅前でぶつかった、その女の人だった。

父のこと

私の父は雑貨の貿易商をしている。「雑貨の貿易商」なんて聞いただけで怪しい仕事だと思う。保育園の頃、父の日にそれぞれの父親の仕事を発表するということがあったけれど、私は「サラリーマンです」と頬を赤く染めながら嘘をついた。あの頃はその小さな嘘がちくちく痛んで、何日も夜は泣き腫らした気がする。そういえばその時はまだ、私は「話せた」。くちなしの子、になってしまったのはいつからだっただろう。
お父さんは世界中を飛び回る。日本に帰って来るのはお盆とお正月だけ。だから、ある時はフィリピンから入学祝いが届いて、ある時はアルゼンチンから卒業祝いが届いた。粋だなと思ったのは、クリスマスにフィンランドからサンタクロースとのツーショット写真が送られてきた時。こんな自由奔放な父は、実はバツが一回ついているらしい。今は何処かで新しい家庭を築いている母が、昔私に教えてくれた。
父とは土曜の夜十時に、国際電話で話すのが澤井家唯一のルール、というか掟だ。「そっちから掛けるとお金が掛かるから」と言っていつも向こうから掛けてくれるけれど、ロサンゼルスにいる時は朝の四時になってニュージーランドにいる時は夜中の一時になるのに、変わらぬ声で「穂花!元気かい?」と言ってくるから、私は半分呆れていた。


「穂花、もうおらは寝っからね。あどは自分でやんなよ」
「…」
おばあちゃんにこくりと頷いて、私は机の上に残った食器を台所に持って行く。お漬物の入ったタッパーは念入りに蓋をして、他のおかずにはラップを掛けた。この中からいくつか明日のお弁当用にもらおうと思いつつ、それらを綺麗に冷蔵庫へとしまう。もうお風呂にも入ったし、髪も乾かした。あとは十時を待つだけだった。
新学年になって約一か月が経ち、もうすぐゴールデンウィークだった。今日の帰りに理子は「米沢のおじさんちに行って、蛍見るんだ!」とはしゃいでいたし、一方の元は剣道部がずっとあるみたいで「羨ましい羨ましい」と繰り返していた。私は何をしよう。特に何処か行くところもないし、用事もない。多分、積ん読状態になっている本を何冊か読破するか、理子に前薦められたアニメを密かに見るか…。夏が来るし、街まで出て洋服を見に行きたいな…と思ったけれど、店員さんと話すとかそういう事を考えると、すぐに難しいなと諦めてしまった。


後片付けを一通り終えて、電話の前で体育座りをしていた。向こうのガラス戸に映る歪んだ自分の姿が可笑しくて、左に右にゆらゆらと揺れてみる。十時きっかり。棚上のからくり時計から小鳥が出てきて、そろそろ掛かってきてもいい頃なんだけどなーとぼうっと待っていると、プルルルルと家電が鳴った。
「もしもし」
「お、穂花!元気かい?」
「うん」
お父さんはいつも通りの元気な声ですぐに、今はカナダに居ること、向こうは朝の六時で朝日が美しいこと、日本の春よりも寒くてハワイに行きたいなんてことを嬉々と私に伝えてきた。
「カナダか。ナイアガラの滝は見たの?」
「ああもちろん!凄かったぞー?水がばっしゃばしゃ落ちていくんだから。しぶきも凄い凄い。お父さんそれから商談だってのにスーツびしょ濡れにしちゃったからな!ハハハハハ」
「もう、ちゃんとお仕事頑張ってよ?」
「そりゃそりゃ。穂花ちゃんに言われなくても、お父さん頑張ってるからな。」
「はいはい」
お父さんは私の事をまだまだ可愛い子どもだと思っている。私、もう今年で十七なんだけどなという言葉は、まさに馬の耳に念仏だった。
「穂花も勉強頑張ったら、お父さんみたいになれるからな!世界を自由に飛び回れるんだぞー?」
「私、お父さんみたいにはならないよ?パートナーに愛想尽かされたくないし」
「えーそんなこと言わないでよー。お父さん悲しいぃ。というか!お前のお婿さんは俺が選ぶからな?愛想尽かすような事があったら、お父さんそいつのことぶん殴ってやる!」
「お父さん、喩えだよ喩え。それにお婿さんとかずっと先のことだし」
「いや分からないぞー?父さんは二十歳でママと出会ったんだから」
「今はもう振られてるけど?」
「まあまあ、それは触れてくれるなよー。でもな、彼氏出来たらお父さんに紹介するんだぞ?」
「お父さん、分かってるでしょ?そんな人出来る訳ないよ。」
「じゃあお父さんにしなさい」
「私、椎名誠の話に出てきそうな人は選ばないから。」
「シイナマコトー?誰だそれ」
「そういうところだよ、お父さん。」
父の日に「将来パパとけっこんする」なんて書いた手紙を書いたこともあったっけ。今となっては全く考えられないけど…。


…そもそも、私みたいな人を好きになってくれる人なんているんだろうか。


無口で地味で目立たない私を見つけてくれる、物好きな人はいるのだろうか。青春小説でよく見かける、高二の夏の淡い恋。小さな女の子がお姫様に憧れるように、私の心の中にも憧憬の気持ちがあるのかもしれない。


でも、第一、私に好きな人が出来ても、その人と話せるのだろうか。私の口から「好き」って伝えられるのだろうか…。


「うー! わあっ!」
「ど、どうした穂花!泥棒か⁈」
変なことを考えていたら、いつの間にか恥ずかしくなって電話口で叫んでしまった。つい。
「いや、ごめん。何でもない。」
「もうーお父さん耳無くなるかと思ったよー」
「ごめんね、ごめん」
私に恋なんて、出来るわけがない。何か馬鹿馬鹿しい妄想をしてしまったと思った。ごめんお父さんと心の中で何度も謝りながら、「でもやっぱりどうしたんだ?」「本当に大丈夫か?」と聞いてくる父を私は適当にはぐらかした。
「それで、どうだ?学校は。楽しいか?」
「ありきたりな質問だね」
「大事なことだぞ?…何とか、上手くやってるか…?」
「え?」
急に声のトーンが落ちた父の言いたいことは、何となく分かった。クラスで何も喋れない私を案じて、「いじめられていないか」「独りぼっちになっていないか」と心配しているのだろう。でもありがとう、大丈夫。クラス替えで私のもろもろを知らない人も沢山クラスメイトになったけど、今のところは変な目で見られていないと私は思っていた。
「理子も一緒だし、大丈夫だよ」
「そうか。それなら安心だな。でも、理子ちゃんに頼りきりになるのもダメだぞ。」
「うん、分かってる。」
分かってるけど、分かってるんだけどな…と言い訳をした。お父さんのその言葉は、少し引っかかってしまったのだ。この間も、初めて同じクラスになった女の子たちに話しかけられて、「澤井さんって物静かだよね。それ、何の本読んでるの?」みたいに聞かれた時、理子が間に入って代わりに私のことを説明してくれた。ドキドキして真っ赤になりそうだった私もほっとして、隣に立つ理子のスカートの裾をつんつんと引いたのを思い出す。すると理子がキメ顔で、「へっへーん」と私に笑みを返したのだった。
「お前は無口でも十分可愛いからな。まあ、上手くやりなさい。辛いことがあったらすぐ言うんだぞ?」
「うん。大丈夫。」
「新しい担任の先生はいい人なのか?信用できるか?俺は生まれてこの方、教師という教師を信じてないからなあ」
「水田先生は…まあ、いい人だよ。多分」
「多分?」
「ああ、ううん、いい人だよ。」
水田先生は不思議な先生だった。教科は国語で、私たちのクラスの現代文を担当している。あまり雑談もしないし、いつもすらっとしていて、甘い香りがして、笑わない。授業中に騒ぐ男子には冷たく「静かにしなさい。それか、出てく?」と言い放つ。ホームルームの時も、教卓の横で何かを書いたり打ったりして、いつも忙しそうにしていた。だから、先生はいい人だよと言葉に出してみることで、私はどこか自分を納得させようとしている気がした。
「そうか。まあ、また来週掛けるからな。日本はこれからうんと暑くなりそうだし、熱中症にならないように気を付けるんだぞ」
「うん、そっちも気を付けてね」
「ああ。」
「おばあちゃんに代わる…?」
お父さんはそれまでの調子を少し無くして、「うん、まあいいよ。寝てるだろうし」と言った。お父さんとおばあちゃんはあまり仲が良くない、というか、いがみ合っている。これにはまた長い因縁の歴史があるようで、変に首を突っ込まない方がいいというのも私は知っていた。
そして私は父にさよならとおやすみを言った。もう時計は十一時を指していて、私が立てる物音以外にもう何も聞こえなくなっていた。まず電話を切って思い浮かんできたのは「明日は日曜日か…。学校がなくて安心だな…」ということだった。こんな気持ちには少しばかりの罪悪感を覚える。ずる休みをしたいなどとは思わなかったけれど、それでも私には、学校は居るだけでとても勇気のいる、そんな場所である事に変わりはなかった。

羅生門

「だから、お母さんには言わないでね。うん、お願い。また連絡するから」
それから私は「じゃあ」と電話を切って、職員室に戻った。新人の私の机は学年の島の一番端で、他の先生の物置きにもされている。自分の仕事に使えるスペースはA4二枚くらい。教員なんて、正直もっと楽だと思っていた。
大学時代の教育実習で授業をした時は、当時の指導教員にそこそこ褒められたし、生徒からの評価も高かった。学部の授業でも周りの学生よりも成績は良かったし、将来有望と言われて誇らしかった。


なのに、何で私はこんな片田舎の高校で働いている、のか。


不意にスマホの通知が鳴って「卓也(たくや)」の文字が見えた。東京で出会った彼氏とは最近連絡を取っていない。未読の件数が日に日に増えていくのを無視しながら、食らいついて「先生」の仕事に没頭することが今の私にとっての逃避だった。それだけが私を失意から救ってくれるような、そんな気がした。
「水田先生、ちょっとこっち来てくれる」
「はい」
白見教頭に呼ばれて、私は小走りで向かった。きっとまた何かお小言を言われるのだろうと踏んで、口角を少し上げてみる。白見教頭は正直私の苦手な男だ。ザ・昭和の思考、発言、みてくれ。虫の居所が悪い時は声を荒げるし、ハラスメントまがいの事を平気でする。だから万が一病みでもしたらすぐに教育委員会に訴えてやろうと内心思っていた。
「昨日、地域の方からクレームの電話がありました。」
教頭は開口一番、私にそう言った。
「はあ」
「はあ…?返事は、はい、でしょうが」
「はい」
白見教頭はどっしりと腰を据えた事務椅子から、ねっとりとした目で私のことを見上げる。この目が私には生理的に受け付けられなかった。
「まあそれで、おたくのクラスの生徒が下校中に騒いでいたと。」
「…?」
「複数で、大声で喋っていたそうだよ。」
「本当にうちのクラスですか?」
「さあ。まあ恐らくそうだろうがね」
「…」
「注意しても終始聞かなくて、挙句の果てにはスマホのカメラを向けられたと」
「本当に、うちのクラスなんですか?」
「きっとねえ。酒々井(しすい)みたいなのが混じってたらしいからねえ」
「…酒々井君ですか」
言葉に出してしまった通り、私は酒々井君か…と嘆息していた。彼は二年二組の中でも問題行動が多い。不良という訳では無いのだが、落ち着きがなく勉学に対する意志もあまり感じられない、いわば要注意人物だった。
「うちの学校はこの地域で愛されて創立九十五年です。県でも伝統ある学校ですよ?生徒の指導はきちんとしてもらいたい」
「はい…」
「まあ若い女の先生は、ああいう奴にはよく舐められますからねえ。それで終いには辞めていくんですよ」
「…」
これだ。教頭のにやりと曲がった厚い唇が私の目に焼き付く。嫌な言葉に嫌な顔。普通に軽い殺意が湧いた。
「水田先生、元々東京の学校に就職を目指してたんだって?」
「…」
「親御さんは何て言ってるの?」
「…」
今日の教頭はこれでは終わらなかった。最悪だと思った。だがここで何かを言い返したら、私の負けだ。言わせておけばいい。自分で自分にそう言い聞かせる。けれど自ずと握っていた拳はきりきりと痛み始めた。熱く、熱くなっていた。教頭は「水田センセイ?」と私の顔を覗き込むようにもう一度声を掛けた。その時事務の職員が「教頭!PTA会長がお見えになってますよ」と話を遮った。
だから、私は拳を上げずに済んだ。
「あーはいはい。応接室にご案内しといて」
事務の女性に呼ばれた白見教頭は「よっこらせ」とわざとらしく声を出して、私の横でため息をついた。
「酒々井にはよく言っておくように」
「分かりました」
「それと、君、もう少し、しおらしくなさい。若さゆえの尖りは悪くないけど、鼻に付くからね」
「あー忙しい忙しい」と言いながら、教頭は奥へ捌けていく。「わかりました」と小声で言ってみても、奥底に怒りと悔しさが残った。


 *


私はその光景を見てしまった。チャイムが鳴っても水田先生が教室に現れないから、日直の私は職員室に先生を呼びに行く。すると、そこには悔しそうに右手を握る先生が立っていて、教頭先生がその様子を嫌な感じで見下していた。見てはいけないものを見てしまったと思い、私はドアの陰に隠れた。廊下を歩く用務員さんに怪訝な目で見られて気まずくなったけれど、それ以上に見たものは気まずい。じっと隠れるように息を潜めていると、水田先生はドアのところに立っていた私を見つけて「あ」と咄嗟によれたスカートの裾を直した。「見つかった」「やばい、どうしよう」と思った次の瞬間には先生はドアまで近づいて「ごめん、授業だったよね」と静かに言い、廊下をそそくさと歩き教室に向かった。呆気に取られていた私は、その後を急いで追いかけた。


「羅生門は芥川が無名作家時代に手がけた作品です。同時期には有名な『鼻』も発表しています。生きるために悪事を働くという人間のエゴイズムを描いていて、黒澤明監督の映画のモチーフにもなっています。」
水田先生は羅生門についての知識の板書をひと通り終えて、後ろを振り返った。そして「鼻ってあれだべ⁈鼻がすんげ長い男の話だよな?」と私のすぐ後で騒ぐ酒々井君の方をキッと見たかと思うと、細い人差し指で彼を指し「うるさい」と言い放った。教室は瞬間しんとして、前の元も背筋をびくりとさせたのが見える。注意をされた酒々井君は「レナセン、こえーよー」とまた騒ぎながら、ようやく黙っていった。
先生に、さっきの名残はひとつもない。いつも通りのクールで綺麗な出で立ちで、静かに授業は進んでいく。先生にとってはさっきのねちねちとした教頭先生のお説教も何ともないのか、どれだけ強い人なんだろうかと思い、この時私は畏敬の念すら抱いていた。
「芥川から影響を受けた昭和初期の作家に、太宰治という人がいます。『走れメロス』『人間失格』『斜陽』なんかは、有名だから名前くらいは聞いたことがあるんじゃないでしょうか。」
「メロスは激怒した!」
「酒々井君、静かにしなさい。」
このクラスになってすぐ分かったのは、この酒々井君という子は、何というか、私があまり得意ではないタイプの男の子だということだ。休み時間も授業中も誰彼構わず話し続けている、まるで歩くラジオみたいだ。ここ最近の理子は「ほんっとにああいう男子嫌い。ガキ。わらす。」と彼のせいで機嫌が悪い。私が「あれだけひとりで喋れるなんて凄いと思っちゃうけどな」と理子に言うと、「いや穂花はその、ね?自分が物静か…だからそう思うのかもしんないけどさ!」と愚痴を続けていた。
「酒々井君、それだけお喋り出来るってことはこの範囲はとっくに分かっているということよね?」
「え?」
「なら、私の質問に答えて」
「はい?」
騒ぐのをやめない酒々井君にしびれを切らしたのか、水田先生はヒールの音をカツカツと鳴らしながら教壇から降りて、私の座る列へと近づいてきた。後ろで「ひっ」という悲鳴が聞こえたかと思うと、すぐ隣に先生は居て、後ろの酒々井君を見下げている。
「芥川同様に太宰に影響を与えた、同時期の作家。代表作は『山椒魚』。」
「…へ?」
「誰?」
「いや…その…」
「分からない?」
「えーっと…あの…」
教室が異様な空気に包まれる。隅の方から「おいおい、レナセンやり過ぎじゃね」「うっわ酒々井かわいそ笑」という声がひそひそと聞こえてきて、私はとても居たたまれない気持ちになった。気まずくて、苦しい。だから私は思わず両手を膝の上に乗せ、体を縮こまらせていた。
「分からない?」
唾をごくりと飲む音が聞こえ、酒々井君は「…はい」と声を絞り出した。
「そう。じゃあ真面目に授業受けなさい」
「…はい」
まあ当たり前だよな…酒々井君に非があるよな…と私は思いつつ、居心地の悪い緊張感が少しずつ解けていって内心安心していた。さっき机の上に放ってしまったシャーペンのグリップをまた握り直して、「よし授業に集中しよう」と気分を変えたその時、教壇に戻りかけた水田先生が不意に私のところで立ち止まった。
「あ、さっきの質問、誰か分かる人いる?」とクラスに呼び掛ける。また空気が止まった。誰か答えるのだろうかと気になったけれど、もちろん、誰も手を挙げないし答えなかった。やはりこの空気の中で発言できる人はなかなかいないだろう。すると、先生は私に顔を向けて、
「澤井さん、あなた分かる?」
と問いかけた。


…え?


頭が真っ白になって、握り直したシャーペンが机の上にかたっと落ちた。皆が、自分じゃなくて良かったと安堵の表情を浮かべて、今度は一斉に私の方を見てくる。


見ないで。


考えていた事も何もかもが止まった。背筋が凍り付いたのを感じる。


お願い、見ないで。


私が何も言えないでいると、より一層、皆が私に注目を向けた。その目ひとつひとつが私を貫いて、私の口をぱくぱくとさせた。
「澤井さん、答えられる?」
そう、井伏鱒二だ。井伏鱒二。いぶせますじの六文字を口にすればいいだけなのに、口を動かそうとしても音が出てこない。これが、私だった。次第に皆の視線がじとっと重くなって、体温がどんどん上がる。熱い。胸の鼓動が痛いくらいに早くなる。いや、痛い。
「澤井さんって、頭良さそうだけどね」
「何か、口を金魚みたいにぱくぱくさせてるよ?」
「レナセン、今度は澤井にロックオンかよー」
周囲の声がわんわんと大きくなって、頭の中で響いた。そういえば、二年生になってから授業で当てられたのは初めてだった。去年は担任の先生に事情を伝えて、何とかやり過ごせたのに。よく考えれば、ひと月たまたま当てられなかっただけで、ただただ運が良かった。こんなことをぐるぐると考えているうちに腕が固くなって、動かなくなった。首も、肩も……動かなくなった。
「澤井さん?」
と水田先生が伺ってきた時、私の固まった目は前に座る男子のつむじだけを見ていた。周りの光景はぼやけて頭に入ってこない。膝上で堅く結んだ手の中で、爪が掌に食い込んだ。その痛みだけは分かった。


声も、声も、何も分からないよ。届いてこないよ。


ぐわんぐわんと音はうねりになって、私に押し寄せる。ぱくぱくが止まらない口からは何の言葉も出てこず、ただ分かったのは理子の「先生!もうやめてください!」という声だけ。それを意に介さず、
「澤井さん、黙ってないで、分からないなら分からないって言いなさい」
という先生の注意が聞こえた時、私ははっと胸のすくむ感じを覚えた。それから真っ直ぐ前を見据えていたはずなのに、視界が唐突に暗くなった。見えない。聞こえない。何か、落ちる。私は限界に達し、右側の通路にそのまま崩れ落ちた。


そう、気を失った。



目を開けると、あまり見慣れない天井が見えた。銀色のレールが縦横に走っていて、その下に青色のカーテンがぶら下がる。そして清潔感のあるアルコールみたいな匂いがした。これはきっと…保健室のベッドの上だ。
「先生、穂花は大丈夫?」
「うん、今は寝てるわ。」
「そっか…よかった…」
向こうの方から、保健の先生と、理子と元が話す声が聞こえた。その声が私をほっと安心させる。今自分に何があったのかを思い出す事は最善ではないと思った。だから二人の声を聞いていたかった。ただ、今すぐに顔を見せる気分にはならなくて、悪いと思いながら私は目をつむって寝ているふりをした。


そっか…限界までやっちゃったんだ…


私がこんな緊張しいの「くちなし」になってから、何回かこういうことはあったと思う。小学校の書初め展で入賞して、表彰状を校長先生から貰って振り返った時、全校生徒の目線に貫かれて私は体育館の壇上から落っこちた。ただし体は強かったみたいでたんこぶ一つで済んだけれど、お父さんは確か相当心配していた。その頃は…お母さんもまだいたかもしれない。
「これ、穂花の荷物です」
「こっちはブレザー」
「二人ともありがとうね」
その時も、あの二人がこうして心配して駆けつけてくれたんだっけ…。何年も前の記憶なのに、私の重いランドセルを持って走ってきた理子の姿を、私は鮮明に覚えていた。
「先生こないだ美味しいお紅茶貰ったんだけど、二人とも飲んでく?」
「はい!」
「元!うるさい!穂花寝てるんだから」
「あ、ごめん」
カーテンの向こうでは三人の賑やかな様子がうかがえる。変わらぬ調子の元に吹き出しそうになって、思わず布団の中で私は息をぐっと飲んだ。もうだいぶ夕方に近づいているようで、窓の外の校庭からは野球部の片付けの音が聞こえた。その窓から差す西日のおかげで布団の中は相当温まっていた。「じゃあ今淹れるわね」と先生が言うと、ぐつぐつとやかんでお湯が沸く音が聞こえて、そのうちにカチャカチャと陶器のカップが鳴る音もした。
「二人は澤井さんのお友達なの?」
「え?」
「ほら、こうして保健室まで来てくれて」
「あー。」
「まあ俺たち、友達っていうか、」
「幼なじみです」
「んだな」
「そうなの」
カーテンを越えて紅茶の良い香りが漂ってくる。元は高い紅茶なんてちゃんと飲めるのかなと思いながら、三人の会話をこっそり私は聞いていた。
「小学校からずっと一緒なんですよ。あ、穂花は三年生か四年生に東京から引っ越してきたんですけど。」
「だから、正真正銘の幼なじみは俺とお前って感じだな」
「は?」
「だって、保育所から一緒だろ?」
「いや、まあ、そうかもしんないけどさ…」
「でも三人とも、仲良いのね。高校生になってもこうしてお互いを思い合えるなんて」
理子が「いや、別に思い合ってなんかないですよ!」と椅子をガタンと言わせて立ち上がったのを、先生がふふふと楽しげになだめた。
「まあいいじゃない。いつまでもそうして居られる訳じゃないかもしれないんだから」
ベッドの中で聞き耳を立てていた私は、先生の言葉に「いつまでもこうして居たいけどな…」と勝手に思ってしまっていた。今日みたいに二人が心配して来てくれることはとても心強くて、安心する。ただこれって、甘えすぎなのかな…という思いも同時に浮かんできて、自分を責める思いで私は少し悲しくなった。教室で先生の質問に答えようとしただけで倒れてしまう自分の情けなさが、非力さが、弱さが悲しかった。
「失礼します。澤井さんの様子は?」
「あ、水田先生」
右眼から出かけた涙が不意に引っ込んだ。カーテン越しに細いシルエットが見えて、私は少し怯えてしまう。水田先生をまた怖がっている自分がいた。悪いのは私なのに。
「大丈夫。向こうで寝てますよ。」
「そうですか。」
水田先生は安心したのか、ふっと息を吐いたようだった。けれどその時私は胸が詰まるような思いに駆られていた。
「保護者の方には?」
「おばあさまが迎えに来られるそうです。」
「そう、よかった。」
おばあちゃんに連絡したんだ。それを聞いて新たなモヤモヤが胸中に生まれた。多分、農作業の最中だっただろう。そんな時に高校まで迎えに来てくださいなんて電話がいったら、きっとすごい迷惑なはずだ。だからあとでこっぴどく叱られるに、そう決まっていた。
「あなたたちは、何してるの?」
「いや、穂花の荷物とか持ってきただけで。」
「そうです。」
「最終下校も近いから、用事が済んだなら早く帰りなさい」
「え、でも」
「何、玉宮さん」
「いやだから」
「もうこれ以上手間取らせないで」
言い返そうとする理子を遮って、水田先生が言葉を刺した。その一瞬で紅茶の香りに染まった暖かな空気が張りつめて、緊張が走る。
「レナ先生、ほらほら顔怖いよ?そんな顔してたら私みたいに皺だらけになっちゃうからー」
「すみません」
「じゃあ…そろそろ時間だし、玉宮さんも井刈くんも帰る支度しようか。澤井さんには、おばあさまがいらっしゃるまで私がきちんとついてるからね」
「…はい」
保健の先生が間をとりなしてくれたおかげで、緊張感と私の不安は次第に収まった。そして理子と元の二人が立ち上がって影が揺れた。私はぱっちり開いた眼で、四つの影がそれぞれ動くのを恐る恐る見ていた。
「あの」
「何?」
その時、一番背の高い影が細い影の方を向いたのが分かった。元が、水田先生の方に向き直ったのだった。
「穂花は、いや澤井さんは、皆の前で話すのが苦手なんです。」
私はその言葉に「え?」と戸惑った。元の声のトーンは低く、誰が聞いても真剣そのものだった。
「そんなの、誰だってそうじゃない。」
また緊張が走るのを予感して、思わず動いた右足で音を立ててしまった。きっとそれはカーテンの向こうにも聞こえていたと思うし、私が起きていることに皆気付いただろう。それでも、聞こえていたのかいないのか、元は話し続けた。
「いや、だから、話せないんですよ。穂花の声を聞けるのはコイツとお父さんぐらいで、ずっと一緒にいる俺でも聞けないんです…。」
「…?」


…元、どうしたの?何言ってるの…?


私はますます分からなくなった。まるであの元じゃないような、そんな声だった。そして細い影がたじろいだのが見えた。それは元の真剣な態度に先生が気圧されたという事だった。
「知ってました?」
「…」
「小さい頃からずっとそうで、俺たちが手助けしたり、何とかして、今まで頑張ってきたんです。」
「…」
「俺たちの助けがないところでも、穂花は穂花自身で何とか乗り越えようとしてきたんです。」
「…」
「だから、」
「…何?」
「だから、」
「?」
「穂花を、俺の大事な友達を、あんな目に遭わせるようなこと、二度としないでください!」
「ちょっと元!」と理子が制するのが見えた。今にも細い影を食ってしまいそうな元の影は、大きく揺らぎに揺れた。他の二人が止めに入ったようだった。元はそれに素直に応じ、そして肩で息をしているようだった。彼は抑えられて、次第に小さくなった。


元は…、元って…、こんな人だったっけ…。


いつも明るくてお調子者の元がここまで声を荒げた場面を、私は見たことがなかった。今の状況なら、むしろ理子が一言くらい反抗するのがほとんどだ。でも、今カーテンの向こうで怒りを全身に表していたのは元で、その熱気は布越しにこちらにも伝わってくるほどだった。
「ほら井刈くん、水田先生もきっと今回の事は反省してらっしゃると思うから、ね?」
「…」
「とりあえず、一回先生に謝ろうか?」
「…」
「ほら、元」
「…すみません、言い過ぎました。すみません。」
「いや、…分かった。」
「…」
「…わざわざ教えてくれて、ありがとう」
そう言って水田先生は少しだけ頭を下げた。ただ、私にはそれは心からの謝罪には思えなかった。その場をとりなそうとする大人の謝罪に聞こえてしまった。すると、「私からも一言だけ、いいですか?」と言って理子が先生に近づいた。
「生徒を傷つけるのが、教師なんですか?」
「…」
「先生って、なんで先生になったの?」
水田先生は、何も答えなかった。その時私は先生に申し訳なさを覚え始めていた。悪いのは私だ。責められるべきは私なのに、二人はきっと私を思って先生を非難している。その事は変に「嬉しい」と思ってはいけないように思えた。そして先生は暫く黙った後、「すみません見回りあるので、あとお願いします。」とだけ言い残して保健室を去った。


理子と元は促されて、先に下校した。保健の先生とふたりになった私は、ゆっくりとベッドから下りてカーテンを開け、先生に「もう、大丈夫になりました」と言った。すると先生は何事もなかったかのように優しい顔で「そう、よかった。おばあさまが迎えに来るまで待っていましょうね」と返し、私にも熱い紅茶を淹れてくれた。


その後、おばあちゃんが迎えに来たのはすっかり日が暮れた夜の頃だった。そしておばあちゃんは、やはり怒っていた。
「種蒔きの途中だっだってのに、本当にいつもいつもおめは。」
「…」
「頼むがら、学校さ迷惑かげねで。人様さ迷惑かげねで。」
「…」
ここまでは予想通りだったから、私は謝るために頭を何回も下げた。でも、
「本当に、仁(ひとし)ももっと良い女と巡り合っでればねえ」
と言われた時、私は文字通り何も言えなくて、それからの帰り道はひたすら黙っていた。暗くなった畦道は、蛙の鳴き声がよく響く。私はその音を聞きながらじっと足元を見つめて、ひたすら歩くしかなかった。
もし私に声があったら、「でもそうだったら、私は生まれなかったんだよ?」とおばあちゃんに問いかけていたかもしれない。


そう聞いたら、おばあちゃんは何て返すの?


 *


「もしもし、卓也?」
「ずっと連絡してなくてごめん。仕事忙しくて。」
「また今日も怒られちゃったよ。教頭に二回も。」
「…でも、私、ちょっとやり過ぎちゃった…」
「…生徒ってあんまり可愛くないのかもしれない。現実は」
「実習の時と、背負う責任が違うっていうか…さ、分かるでしょ?」
「言われちゃったよ。何で先生になったの?って。…何でだろうね」
「分かんないよ。何か、分からなくなっちゃった。」
「怖い。…怖いよ。」
「…ごめん、留守電にこんなに残されたら困るよね。」
「また、連絡するから」
「体に気を付けてね。そっちも頑張って」
真っ暗な部屋で、スマホの明かりだけが光っていた。彼に帰った勢いで電話を掛けてみたものの、はなから出るとは思っていない。予想通りの録音案内が流れて、私は独りの部屋で喋り続けていた。

そして、気付いたら泣いていた。何が何だか分からなくなって、涙が溢れていた。私らしくない。
この一か月、何もかも上手くいかない。いや、そもそももっと前から上手くいっていない。
怖い。怖い。
明日が土曜で良かったと心の底から思った。ふらふらする足でキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。すかさず冷えた缶チューハイをあるだけ出して、端から全て飲んでいった。

家のベランダから見える田んぼでは蛙が鳴いていた。遠くの空には緑と赤の光が飛んでいて、そのまま右に消えていく。

しんとした夜の空気に触れた頬には、いくつも滴が零れていた。

セブンティーン

結局ゴールデンウィークはどこに行くこともなく、家で課題と読書をしていた。息抜きにと理子に薦められたアニメを二話まで観てみたものの、私にはあまり合わなくてそれも途中でやめてしまった。

部屋の窓を全開にして山から吹いてくる涼しい風を取り込むと、青い匂いがした。その窓から下を覗き込むと、裏の田んぼで元のお父さんや親戚が田植えをしている。田植え日和の雲一つない空。羽黒山もすっきり見えて、私は微かに夏の訪れを感じた。初夏のこの感じが私は一年の中でも一番好きだ。部屋の床に目をつぶって横になると、風が私の体を撫でるようにして、裏から聞こえる耕運機の音が耳によく響いた。
「穂花、寝でるぐらいなら田んぼ手伝いな」
おばあちゃんの声で目覚めると、もう夕方だった。どうやらずっと寝てしまっていたらしい。もう耕運機の音も止んで、田植えの声もしなくなっていた。
「それかちょっと神社ば行って来な」
「?」
「ほら、今年の大祭、若え人少なぐって人手足んねんだって。それで手伝いが要るらしいんだよ」
大祭、庄内大祭とは町の神社で七月初めに行われる祭りのことだ。祭りといっても花火とかが上がる訳ではなく、お盆に先立ってご先祖様を迎える準備をするとかいう、この地域の神聖なお祭りだった。
私がこくりと頷くと、おばあちゃんは「おらは色々忙しいがらね。元と理子と一緒に行ぎな」と言って、「よっこらせ」「あー膝が痛い」と言いながら一階に下りていった。するとその時スマホが鳴って、理子から「穂花も手伝い呼ばれた?」とメッセージが来た。


「全くさあ、若い人が居ないっていっても、ゴールデンウィークを満喫中の高校生を呼び出すかなー」
「しゃあねえべよ。昔から関わってるのは俺たちくらいなんだし。」
「だけどさあ」
「じゃあ理子おめ、今日何してた?」
「…」
「どうせスマホ見てたか、寝てたか、マンガ読んでたんだろ?」
「…」
「俺はなあ?部活から帰ったら即、母ちゃんが『元、神社行って来て?』だぞ?俺今日、酒田まで練習稽古行ってたんだぞ?もうたまんないよ」
私は理子と元と合流して、三人で神社へと歩いた。横の二人はいつも通り半分ケンカをしながらずっと喋っている。そういえば私たち三人は、小さい頃からこの大祭に何かと関わっていた。小学生の時は「紙流し」に使う和紙の短冊をひたすら切ったし、中学生になると、火を焚くための薪を割らされた。町の大人たちに色々と揉まれながらも、当日の夜に神社に灯る火と幻想的な「紙流し」の光景をまた見たいがために、結局は手伝いを進んで引き受けていたのだ。
「ていうか穂花、もう大丈夫なの?」
「?」
「ほら、レナセンにいじめられたやつ!」
「…」
あ、あの事か、と私は思った。休みに入る前、水田先生の質問に答えられずに倒れてしまった時のこと。数日は何だか気分が晴れなくてじっとしていたけれど今は体調も回復していたし、それにもう二人に心配をかけたくなかったから、私は理子に大きく「うん」と頷いた。
「そっかーよかった。」
「本当だよなあ」
本当のことを言えば、理子に言われるまで正直そのことは忘れていた。それに、水田先生は私をいじめた訳ではない。皆の前で声を出せない私が悪いだけで、それを知らなかった水田先生は何も悪くない。でも二人は先生にまだかなり怒っているようで、それを上手く否定できない私は心の中で先生に謝った。
「にしても知ってる?穂花」
「?」
「コイツ、レナセンにキレたんだよ」
「…」
「元、いつもぜんっぜん怒らないじゃん。バカだし。でも穂花が倒れた時、保健室でレナセンに怒ったんだよ」
「え?」という顔をして、私は知らないふりをする。まさか本当は聞いていたなんて、とてもじゃないけど言えない。だから理子はその調子で話を続けていた。
「意外だよね。ねえ、元、真似してあげようか?」
「いや俺、別に怒ってないし」
「あれは誰がどう見ても怒ってたよ」
「つい、ちょっと、先生に言いたいことが出てきて言っちゃっただけだって」
「ふーん、つい、ね」
元は耳まで真っ赤にして「理子おめ、穂花には絶対言うなって言っただろ…?」と理子に怒った。
「だって、このジャガイモ君があんなイケメンみたいな事言うなんて、私思わず吹き出しそうになっちゃったんだから」
「いや俺ジャガイモでもいいから、もう穂花の前でこれ以上言うなって」
「えー」
それでも続けようとする理子の口を元が塞ぐと、理子は「女の子の口を塞ぐなんてあんたバカー?」ともごもごさせながら抵抗した。
元は珍しく本気で言っているようだった。珍しく、っていうのはちょっと失礼だったかもしれない。でも、本当に恥ずかしかったんだろう。虫の居所が悪くなってしまったのか、気づけば私たち二人を置いて少し先を歩いている。だから私は理子のジャージの裾をつんつんと引いて、「元にありがとうって伝えて」と耳打ちした。すると理子は「いつか、自分で言いなよ?」と返して、「はーじめー!ほのかがあー!」と急に大声で叫んだ。
「え?っていうか理子、うっさいわー!」
「ほのかがあー!」
「ねえ」とまた裾を引っ張る私をよそに、理子は
「ありがとう、だってー!」
と畦道の真ん中で真っ直ぐ叫んだ。「え?何が?」と理解できていない元に向かって理子は駆け出す。理子はそのまま元の直前で跳び上がり、大きな元の背中をバシッと叩いた。私は遅い足でその後を必死に追いかける。
こんな時間が、私は好きだった。



神社には神主さんの他に、毎年お馴染みのおじさんおばさん達が集まっていた。私たちは社務所の広間の隅で仲良く正座をしている。今年の大祭の日程、準備のスケジュールなんかが話し合われて、ちんぷんかんぷんな「子ども枠」の三人は、おじいさんおばあさんがくれたお菓子をこっそり食べながらそれを聞いていた。
「それでー今年の火焚き役なんだげんと、」
「おーう、んだんだ」
そんな中で広間が一層と騒がしくなった。そっか、火焚き役の発表だ。火焚き役、それはこの祭りの最後に、神社の参道の灯籠ひとつひとつに火を灯す大役のこと。その火を頼りにご先祖様があの世からこちらに帰ってくると、この地域ではそう言われていた。
「酒屋の息子が、ちょうど大学の試験が何がでこっち戻ってこれねえっていうんだわ」
「あいつ?そっか、そりゃしゃあねえべなあ」
火焚き役は代々、若い男の人がすることになっている。女の人は薪には触れても、その火には一切触れない。今の時代にそぐわない伝統かもしれないけれど、それに則って、大体は大学生になったお兄さん達が毎年やってきていた。小学生だった私は、松明を汗だくになりながら運んでいく白い作務衣のお兄さんに憧れていたっけ。
「んだがら、今年は元、おめだ」
そして唐突に、今年の火焚き役は発表された。

そっか…

…え⁈

理子の隣で煎餅を食べていた元は「え⁈」と驚いて、直後にゴホゴホとむせている。
「え、じゃねえべよ。おめだ。」
「え、俺ですか?」

元が、あの火焚き役⁈

「んだ。だってちょっと若えかもすんねえだげんと、おめももう十七だべ?親父さんも良いって言ってんだがら」
ふと前を見ると、つなぎのまま広間に座った元のお父さんがこちらを向いてニヤニヤと笑っていた。
「え、親父…」
「おい元、男だべ?親父に恥ががすんじゃねえ」
理子と私は目を合わせて、笑い出しそうになってしまうのを必死にこらえた。あの元が火焚き役だなんて、とても信じられない。
「えー」
「えーじゃねえよ。はいだ、はい。」
「いやでも…」
「何だおめ、往生際悪りいなあ。」
広間のあちらこちらから「だいじだいじ」「はじめー!さすけねえって!」「今年はおめの年だんべや」とおじさんおばさんたちの声が上がる。
「ほらな?皆、おめに期待しでんだ」
「…はあ」
元を一目見ると、どことなく不服そうな顔をしていた。それはそうだろう、まさか自分に白羽の矢が立つなんて思ってもいなかったのだろうから。しかし皆からやいのやいのと言われてとうとう元は諦めたのか、おもむろに広間の皆に向かってすくっと立ち上がった。私と理子が「え、受けるのかな」と喋っている時、彼は深くお辞儀をしていた。
「…分不相応ですけど、お願いします」
すると、「おー」「今年は元かあー」と一斉に歓声が上がる。その歓声に混ざって、
「え、元が⁈いやいやいや、絶対失敗するって!」
「何か…面白いよね」
と私は理子と笑い合った。その声が聞こえてしまったのか元はこちらを見下げて、「お前ら、馬鹿にしたこと絶対後悔させてやっからな」と鼻を鳴らした。


会はその後も続いた。すっかり日が暮れて暗くなった頃には、婦人会のおばさん達が作ってくれたいなり寿司や太巻が出てきて、大人たちはお酒を飲み始める。元は「作務衣の採寸すっから」と神主さんに呼ばれて、奥に連れていかれていた。
「まさか元が、ねえ」
「うん、ちょっと私びっくりしちゃった」
「あとで、『松明は竹刀とは違うんだよ?』ってアイツに教えてあげなくちゃ」
「(笑)」
私は思わず口に入れていたいなり寿司を吹き出しそうになる。ぐっと我慢したら今度はお米粒が変なところに入って、咳が止まらなくなってしまった。
「あーもう、穂花笑いすぎだって!おばちゃん、お水ちょうだい!」
理子が背中をさすってくれる。勢いで何度か咳き込んでいると、つっかえが取れて楽になった気がした。食べ物を食べている時に笑うものじゃない。
「穂花ちゃん、ほらこれお水」
また理子が代わりに「ありがと」と言って、私にコップを渡してくれた。その水を少しずつ飲んで、深呼吸をする。
「理子ちゃん、そんなに面白いこと言ったの?おばちゃんにも聞かせてちょうだいよ」
「いや別にあれですよ?元のやつ、剣道と間違えて松明振りかざしちゃうんじゃないかって」
「あはははは。さすがの元くんでもそれはないでしょー。もう大人なんだから」
「アイツなんか、まだまだ子どもですってー」
おばちゃんは割烹着で濡れた手をばっばと拭いて、私たちの前にどしっと座った。
「あなたたちも、もう子どもじゃないよ?立派な大人だよー?」
「えー?」
「だって、理子ちゃん、もうおしめ履いてねえべ?」
「おばちゃん、そりゃ当たり前でしょ」
「覚えてない?昔、わたし理子ちゃんのおしめ替えてたんだよー?」
「えー嘘」
そんな昔話に理子は照れ臭くなったのか、短かな前髪を触ってくるくるとした。
大人か…とふと考えてしまう。確かに元が、あの作務衣のお兄さんになるんだもんな…と思ったら、すごく変な感じがした。でも、私たちはまだ大人になんてなれやしない。あのおじさん達みたいにお酒も飲めないし、いられるものならまだ子どもでいたいと思ってしまう。
そんなことをぼうっと考えていた時、前に座るおばちゃんが「そういや、あんたたち知ってる?」と身をこちらに乗り出してきた。
「え?」
「え、じゃないわよ。いい話、いい話。」
おばちゃんはそう言ってぐいぐい近づいてきて、「ほら、紙流しあるでしょ?」と二人の耳元で囁いた。
「え、うん」
「あれに願い事を書くのはご法度なんだけど、十七の夏に書いた願い事は、叶うって言われでんの!」
おばちゃんはまるで少女のように頬を赤らめながら、うふふと微笑んだ。
紙流しは、大祭の最中に行われる、灯籠への火付けと同じくらい大事な神事だ。和紙で出来た短冊に、この夏はこちらに帰ってこれなかったご先祖様への感謝を書いて、それを神社の中を流れる川に流す。その時に、短冊に男の人が火を付ける。「導きの火」という火を短冊に付けて、来年はこちらに帰ってきてくださいとお祈りするのだった。
「おばちゃん、そんなの迷信じゃないのー?」
「理子ちゃん、本当よー?私もねえ、もう、うん十年前だけど…書いたんだよ、うふふふふ」
「え、おばちゃんが⁈」
おばちゃんは「ねえ、紀彰さん!」と旦那さんを呼んで、もう既に酔った当の紀彰さんはこちらの方を見て「え?あ、そうだなあ!あはははは」とご機嫌に笑った。
「おばちゃん、絶対紀彰さん話通じてないって」
「まあまあ、なんにせよ、穂花ちゃんも理子ちゃんも、もしいい男いるんだったら、今年はこっそり書いちゃいな?きっと叶うからー。」
「いやいや、そんな人まず居ないって!」
理子は私の方を見て、「ねえ?」と聞いた。私は素直にうんと頷く。
「もう、二人ともいけずなんだからあ。まあいいべ。あ!書くのは、その人の名前だけじゃなくて、歌も詠むんだよ?」
「歌?」
私も理子と同じように「歌?」と内心はてなマークを掲げる。
「そう歌。ほらあっぺ?百人一首とか、ああいう和歌?短歌?そう、五七五七七の。」
「ああ…」
「この神社は元々歌占が有名で、巫女さんが神様からのお告げを歌で皆に知らせたの。だから、その名残なんじゃないかなあ」
「へえ…」
その話は聞いたことがある。今も神社の本殿には、その占いに使った道具が残されていると前に神主さんが話していたっけ。
「ま、それより大事なのは誰にも知られずこっそり書くことよ?周りに見られないようにね!」
「いやいや、別に私たちしないから」
「えーいいべや、乙女でいられるのは案外短いんだから」
「はいはい、分かったから!」
自分でも恥ずかしかったのか、顔が真っ赤になったおばちゃんは、理子に追い払われて大人たちの盛り場に戻っていった。残された二人は顔を見合わせて
「…穂花、信じる?」
「いや、ううん」
「…だよね」
「うん」
と言葉を交わした。


元はそのまま戻ってこなかったから、日を跨がないうちに理子と二人で帰ることにした。採寸以外にも作法の説明とか何とかが色々あるらしい。そしてその帰りがけ、あのおばちゃんがまた念押しに来て「頑張ってね」と私たちの肩を叩いたのだった。
「何を、頑張るんだろうね…」
「さあね?」
もう暗いから、と渡された社務所の懐中電灯をぶんぶん回しながら、理子は「なんだかなあーー」とあくびをした。
「私は普通にご先祖様に『いつもありがとうございます』って書こう…」
「んだねー」
「それにしても、元が火焚き役なんて、なんか、すごいね…!」
「うん」
私はその後も、理子に祭りの話をし続けた。自分でも少し興奮していて、「元、すごいじゃん」という気持ちと「でも、失敗しないかな…心配だな」という気持ちでいっぱいだった。そのせいで話している最中は気づかなかったけれど、今思えば既にこの時、理子はどこかうわの空だったのかもしれない。

「確かにね」
「でも大丈夫じゃない?」
「それはウケる」

私の話に対して理子はちゃんと返してくれていたのだけど、どこか芯が無いように感じられたのだ。それは長い付き合いだからこそ分かる微妙な違いで、一方で気のせいという可能性も十分にあった。いつも通りの理子を見せたのは、同じクラスの二人が付き合い始めたらしいよという話の時だけで、「彼氏かあー。まあ私は要らないかな」と言ってはまた空返事に戻った。
多分、眠かったんだろうと私は結論付けた。別れ際、理子は元気に「おやすみー」と言い、私に手を振って駆けて行ったから、私は変に安心した。何も変わっていないと、その様子を見て杞憂だったと、私はひとり家までの道を歩いた。

でもこの時、私は本当に何も考えていなかった。
私たちの関係性が密かにズレ始めたのは、この時だった。


 *


理子は自室の布団に寝転んで、大の字になった。「はあーっ」と大きなため息をつく。
「あーあ、もう…」
「私らしくないじゃん…」
天井の明かりを見つめて、もう一度ため息をついた。うつ伏せになり枕元のスマホを掴むと、時計はもう十二時を回っている。その下にメッセージの通知が来ていて、それはちょうど元からのものだった。
『ごめん、先帰っていいよ』
「タイミング悪っ」と呟く。理子が『もう帰ったよ、おつかれ』と返すと、すぐさま『あ、そっか。ごめんごめん』と返事が返ってきた。
「本当にタイミング悪っ!」
足をじたばたとさせて、掛け布団を蹴る。なんて返事を返そうか考えた挙句「OK」という吹き出しの付いた猫のスタンプを送ると、またすぐに既読がついた。


今、このまま聞いてみようかな…。


理子は逡巡した。今、元に聞いてみたいことがある。でもまずそれ自体が変な質問かもしれないし、またその答えによっては、理子自身にも心の準備が必要だった。
『ねさ』
『ん?』
そう元からの返事が返ってきてから、暫くラグを作った。それは意図的ではなく自然にそうなってしまったものだ。タッチパネルの上を震える指が彷徨って、そのまま時間が過ぎていく。変に胸がドキドキしてきて、理子は布団の上で何度も寝返りを打った。


もう、いいや。


『ねさ、穂花のこと、好きなの?』



あーあ…送っちゃった、と理子は諦めた。画面を見たくなくなって、理子はスマホを床に伏せた。自分自身も枕に頭をうずめて、じっとする。数分後、恐る恐る点けた画面には「?」という吹き出しのついたスタンプだけが返ってきていて、彼女は
『ごめん、冗談。ふざけてみただけ』
とすぐさまそう送り返した。


『火焚き役、頑張ってね』
『さすけねっ✊』


とその上に書き足して、無理やり理子は眠りについた。

頭の中は、明日元に会った時に言う言い訳でいっぱいで、もう何も考えられなかった。そこに穂花の顔が不意に浮かんだ時、何かが彼女の心の中に生まれていた。

それは罪悪感と、チクチクとした棘のような感情だった。

うたかた

連休は、年長の先生に頼まれてテニス部の試合の引率をした他は、特に何もしなかった。実家に帰ることもなかったし、卓也とは相当連絡をとっていない。

…また始まるのか。

澤井さんとの一件があってから、私は学年主任にも、教頭にも、最終的には校長にもきつく怒られた。確かに私が悪い。白見教頭の「教員はもはやサービス業なんですよ」という言葉はやけに響いて、理想と現実の狭間で私はさらに揺れていた。


辞めたい。


なんて言っても、何の救いにもならないのに。意気地なしの私はどうせ辞めることはできない。玉宮さんが私に放った「先生って、なんで先生になったの?」という問いは自分でも意外に刺さって、何日も私を悩ませた。でも、結局納得のいく答えは見つからない。小さな頃に、そして学生時代に抱いていたキラキラしたものはどこにいってしまったんだろう。

…澤井さんと…私は、これからどう接すればいいんだろうか…

一度失った信頼関係は取り戻せないということは、二十年そこらしか生きていない私でもよく知っていた。大学の授業で何回も聞いた「生徒との信頼関係の構築」「相談してもらえるような教師像」。私はもうそんなのを踏み壊して、何を目指しているのかすら分からなかった。
でも、私が悪い。思い通りにならない最近、日々の叱責、隠し事、卓也との冷え切った関係。そんなことに揉まれて、機嫌を悪くして、自分の質問にずっと黙っている澤井さんを問い詰めてしまった。保健室で私に怒ってきた井刈君の事も、最初は理解出来なかった。「話せない」? それが何? 誰だって大勢の前で喋る時は緊張するし、喋りたくなくなる。自己責任ではないかと、思っていた。
でも、時が経ってふと考えてみれば、「それ」が澤井さんにとってはきっと苦しいものなのだと気付いた。

生徒は…厄介だ。

そんなことを思ってしまった自分が憎らしくて、情けなかった。自分のした事は言わば八つ当たりみたいなもので、なんて子どもだったんだろうと恥ずかしくなる。考えが子どもだった。何をやっていたんだろうと後悔する。玉宮さんの問いかけが、もう一度私の奥に深く刺さった。

生徒を知らなかったから…、あんなことになったんだ…。

でも、いつまでもこのままではいられなくて、社会人として動き続けなくてはならなかった。
大丈夫、何とかなる、こんな失敗大したことない。そう考えて「先生」でいることしか、私には出来なかった。目の前の仕事をこなすことしか、出来なかった。


 *


「斎藤茂吉は明治期の歌人です。上山に記念館もありますが、彼はここ山形の出身で、風土の歌も多く詠んでいます。」
連休が明けた教室は、皆のけだるさが溜まって心なしか暑かった。でもきっと私のけだるさは皆以上だっただろう。学校が始まる苦しみは、休みが長いほど大きくなる。
明けて最初の登校日は、教室のあちらこちらで旅行の話なんかが聞こえてきた。その話を密かに聞きながら、私は「また学校頑張ろう」と自分で自分を奮起させていた。連休明けという非日常感も数日が過ぎてしまうとそれはもはや普通の日々で、休み時間には「夏休みまで二ヶ月もあるよー」と女の子たちが嘆いていた。
「教科書の次のページを開いてください。」
水田先生はそんな空気におもねること無く、淡々と授業を始めた。他の教科の先生は「連休は山登りしてきました」とか「うちのバドミントン部がねー」などと余談をたっぷり話すのに、やはり水田先生は水田先生だと思った。ただ、気のせいか、先生は少し変わったような気がした。分からないけれど、冷たい感じが少し溶けて、人を寄せ付けない雰囲気も和らいだ気がする。ほんの、少しだけ。これは先生を未だ怖がる私の希望かもしれないし、今日たまたまなのかもしれない。でも何か張り詰めていたものが消えて、どこか柔らかくなったように私には見えた。

 ながらへて あれば涙の いづるまで 
 最上の川の 春ををしまむ

「これは、皆も知っている最上川を詠んだ歌です。戦争も病も乗り越えたからこそ、最上川の美しい春を涙の出るまで慈しもう。そんな茂吉の思いが乗せられています。」
「教科書に載るなんて、案外すげえな最上川」と、酒々井君が後でぼそりと呟いた。最近の彼は先生のお灸が効いたのか、授業中に大声で喋ったりすることは少なくなった。このままだと良いなと思ってしまう私がいるのは、やっぱり彼のことが苦手なのだろう。
「今日は短歌を扱います。皆、知っていると思うけど、五七五七七の歌のことで、万葉の時代には既に成立していた日本古来の文芸です。」
さっきの余計な思考を別に、へえ…短歌って万葉の頃には詠まれてたんだ…と私は素直に関心して、ひとり静かに頷いていた。そんな折、前の元がこっくりこっくりと舟を漕いでいるのが目に入る。
「古典の方でやってると思うけど、源氏物語のような平安貴族は歌詠みの上手さをステータスとし、それは異性を惹きつける要素にもなっていました。」
先生の言葉に「へー」とクラスのあちこちから声が上がる。それを聞きながら、確か歌で愛を伝えて、当時の男女は巡り合ってたんだよなとうろ覚えの知識を私は思い出していた。

それにしてもすごいよな……歌で恋も地位も決まっちゃうなんて。

きっと今の私たち高校生には考えられないことだろう。理子なら「え⁈無理無理。ありえない」とか言って一蹴してしまいそうだ。

…あ、と私は不意に思い出す。おばちゃんが言ってた、大祭の願い事。歌占の話。あれもそういえば和歌だった。詠めば叶うという十七の恋。あのおばちゃんも十七歳だった時に恋の歌を短冊に書いたのだろうか。そう考えたら失礼だけど面白くて、私は変に想像をしてしまった。
「はい二組、聞いて。」
先生は突然教卓を叩いて、皆を静かにさせた。連休の思い出を回想していた私も思わずびくっとする。
「万葉集とか古今和歌集は私の担当じゃありません。」
「え…はい」「…それで?」と誰かの呟きが聞こえる。何か、今日の先生は掴めない。
「正岡子規、石川啄木、与謝野晶子。この教科書に載っているのはいずれも近代の有名な歌人の歌ですが、小難しいので、皆あまり関心が持てないと思います。」
「…」
「今日は現代の歌をやります。これプリント、後ろに回して」
そう言って先生は列ごとにプリントを配った。さっきよりもクラスがざわざわとして、急に飛んだ赤裸々な先生の言葉に皆して驚いていた。そして、そのプリントを先頭で受け取った元は「え、何これ」と何やら笑っている。

何で笑ってるんだろ…と思いながら受け取ったプリントを見ると、そこには三つの歌が載っていて、それぞれの歌に作者の名前も付けられていた。


 もう最後 もう最後 
 この言葉こそ最後にしたい                 
  笹井サササ

 ふたり手の 間に揺れる レジ袋 
 ゆくりと溶かそ 中のアイスを      
  環幸子

 あいしてる 理由もなしに かわいいよ 
 遠くへ往っても うちはうちだよ  
  虻田はるひ


「最初のは、最早短歌なのかと思ってしまうかと思います。でも、誰でも経験があるような感覚をストレートに表していますよね」
先生の言葉に私は深く頷いた。うん、私もそう思っていた。短歌とか和歌って、すごくルールに厳しい印象があったから、こんなに自由なのもありなんだ…。それで元も笑っていたのかと妙に納得した。
「二つ目はどうですか。写実的で、その温かな光景が目に浮かぶと思います。こういうの、良いですよね。」
先生はその瞬間、確かに笑った。今、笑った…よね? 頬を緩ませ、それまで一文字に結んでいた唇も解けていた。理子の席を振り向くと、「いまのみた?」と私に口パクで伝えている。
「先生! 今、先生笑いましたよね!」
ひゃっとびっくりした。酒々井君が立ち上がって、後ろから大きな声で先生に呼び掛ける。「酒々井君、座りなさい」とすぐに注意されて、彼は従順に席に座った。もう一度先生の顔を覗くと、束の間の笑顔はすっかり消えていた。でも、水田先生もあんな表情を見せるんだという意外な気持ちと、本当はああいう人なんじゃないかという仄かな期待が膨らんで、私は少し嬉しかった。
「授業を続けます。ちなみに、三つ目の歌は詠み手の遊び心が込められた歌です。分かる人いますか。」
恋人に向けた歌だろうか。こんなに素直な表現で、少し照れ臭い。呼びかけている相手は遠くに引っ越すのかな…。でも、遊び心って何だろう…。
「まあこれはちょっと難しいと思います。折句、って言ったら分かりますか。それぞれの句の頭文字に注目してみてください。」
頭文字…? あ、り、か、と、う……ありがとう…?
「そう、ありがとう、と読めますね。この折句で有名なのは在原業平の『かきつばた』です。」
水田先生は再び緩んだ表情を見せた。クラスメイトたちもそれに気づいて、今度は静かに、互いに顔を見合ってニヤニヤしている。
「この歌は恋心というより、親心でしょうか。就職や進学で引っ越すのか、お嫁にでも行くのか。たった三十一文字でも、それ以上のものが伝わるのが短歌の素敵なところです。」
確かに、これだけ少ない文字が大きな世界を読み手に見せてくれる。私はいつの間にか感心していた。文字が持つ以上の意味が自分の中に生まれて温かな気持ちになる。小説とはまた違うこの感じ。今までどうして気づかなかったんだろう。
「…ということで、今日は皆にも詠んでもらいます。」

え……?

皆も口々に「いや…出来るの?」とか戸惑いの感情を顕わにしていた。短歌なんてもちろん作ったことがないし、最初に何を考えればいいのかも分からない。周りの皆も同じなようで後ろの酒々井君は「うーん…無理!」と既に匙を投げている。
水田先生は「自分に関する歌」「好きな物でも、悩みでも何でも」というお題をクラスに与えてから、教卓の後ろに座って別の作業を始めた。「先生、何書いたらいいか分かんないです」と言う元に「別に五七五の形式を守らなくてもいいのよ。自分の言いたいことを言ってみればいい。」と先生は伝えていた。それが聞こえてからより一層、私は何を歌うべきのか真面目に悩み始めてしまった。

自分に関する…好きな物…

先生は「別に私しか見ないから、好きなように詠んでいいですよ。出席番号だけ隅に書いてください」と言う。好きなようにと言われてもな…。
でも先生しか見ないのなら、周りに私だとバレないのなら、私の素直な気持ちを詠んでもいいのかもしれない。そう思って私はチャイムが鳴るまで考え続け、休み時間になってすぐに教卓の先生にそれを提出した。


 *


今日の授業は、充足感があった。俯瞰して見れば、それはきっと自分の好きな単元をやったからだ。けれど、教師になって初めて、教卓と教室の生徒との間に緩い繋がりを感じられたような気がする。この感覚は下向きだった自分を少し上げてくれるような、そんな期待を含んでいた。
二組の四十人分の歌を順番に見ていくと、趣味や部活の事を詠んだ歌、思春期の悩みを詠んだ歌、中には甘酸っぱいものもあって、あの子がこういう事を思い感じているのだと私は初めて知った。
「やっぱ、歌はいいな…」
「水田先生、どうかしました?」
「あ、いや、独り言です」
隣に座る学年主任は「水田先生、今日はトゲトゲしていなくて良いですね」と言って部活を見に出て行った。それを愛想笑いで誤魔化して、周りに誰も居なくなったところで、続きの歌を一つずつ私は見始めた。

 歌のちから 冷たなほほも ほとゆるむ 
 それ見た私の 心嬉しさ

「…歌のちから…」
これは、さっきの授業のことだろうか。唐突な字余りだけど、「ちから」のインパクトがそれを超えて全体を響かせている。ほほ、に続く「ほ」もリズムが付いていて面白い。「冷たなほほ」とは…誰の事だろう。私? もしこれが授業の事を詠んでいるのならば、ああ、酒々井君に「笑いましたよね!」と指摘された時のことか…? これでもし自分ではなかったら、相当な自意識過剰なのだけど。
そして、それを見ている「私」は、誰だろう…。
「出席番号、十五か。」
えーっと、十五って誰だったっけ…。
「…澤井穂花…?」
これはどうやら、あの澤井さんが詠んだようだ。意外と軽やかな歌を詠むんだな…と独りでに感心してしまう。普通に面白い歌だと思ったし、何よりも彼女の声なき声が聞こえる。…そう、彼女の声が聞こえた気がしたのだった。
私は、少し嬉しくなった。一度も言葉を発さなかった澤井さんの歌には、確かに彼女の気持ちや世界が込められていて、それが伝わってくる。
「歌って…やっぱりいいな」
別に、生徒の素性を知りたくてこの課題を出した訳じゃない。でも結果的に、色々なものが見えてきていた。彼ら、彼女らの文字には、三十一文字を超えたものが詰まっていた。


もしかしたら歌は、声を出せない彼女との繋がりを作ってくれるかもしれない…。


そう思った私は、ふと机の上に積まれた中から一冊の本を取り出していた。上手くいくかは分からないけど、もしかしたら、上手くいくかもしれない。


翌日の六限はホームルームだった。体育会の種目決めが終わると、特にやることはなかった。「あとはチャイム鳴るまで自由にしていてください。教室からは出ないように」とクラスに伝えて、日誌や他の様々な書類を私は片付けようとする。でも、まだもう一つ用事が残っていた。『歌集―つじ雲  虻田はるひ』。書類に紛れていた一冊の本を携えて、私は「澤井さん、ちょっといい?」と彼女を廊下に呼び出した。


 *


「ごめんなさい、別に大したことじゃないんだけど」
水田先生はなぜか私を廊下に呼び出した。ホームルームが早く終わった六限の途中。もちろん廊下には誰もいなくて、隣の教室の声がよく聞こえる。

…私、何かしてしまったんだろうか…。

悪い妄想しか浮かばない。強ばる体でゆっくり廊下に出た時には、既に先生がすっと立っていた。先生に呼び出されるだなんて、きっとまた何か怒られるのだろうとしか思えない。それか、誰か家族が倒れた?おばあちゃん?…お父さん? ぐるぐると頭の中は色々な想像が膨らむ。そして、先生を目の前にすると、やっぱりまだ怖かった。その整った表情からは何も読めないうえ、何を言われるのかも全く分からなかった。
「まず、あの時は…ごめんなさい。」

……へ?

先生は唐突に私に頭を下げた。何のことか分からない私は「?」が頭いっぱいに広がって、あわあわしてしまう。先生が言う「あの時」を頭の中で必死に探した。それは私が倒れてしまった時のことを指しているのだろうか。それとも…? そして、私が怒られるわけではないのかもしれないと、早くも安心してしまった自分がいた。
「ちゃんと謝れてなかったから。」
「…」
「私、その、あなたが人前で話すの苦手?っていうの知らなくて。問い詰めるようなことを。」
「…」
「まさかあんな事になるとは思わなくて。素直に、申し訳なかった」
「いや、先生、それはもういいんです」と言いたくても、私の口はぱくぱくとするだけで何も返せなかった。でも何とかそれを伝えたくて、固まりかけた腕を持ち上げて「大丈夫」と広げた手を微かに振った。でも先生はなかなかそれに気づかない。それからなぜか私も変に緊張してしまって、まるで「あの時」に戻ってしまいそうだった。
「あなたのこと、玉宮さんと井刈君に聞いたの。だから、これからは…気を付けようと思う。」
理子と元…? それは、保健室のことかもしれない。確かにあの二人は先生に私の事情を教えてくれていた。でもそんな、謝る必要はないと私は思った。悪いのは、声も出せない私だから。こうして人と接する時も体が固まってしまう私だから。続けて手を振っているけれど、先生には伝わっているのだろうか、私の内側の言葉が。でもきっと、先生から見たところでも、私はずっと下をうつむいて黙っているだけの人だった。

さすけねえ。

ふと、その言葉が思い浮かんだ。「大丈夫」。先生にそう言いたい。その意思が私を強く突き動かした。だから、私は先生に右拳を突き出していた。
「…何? どうかした?」
「…」
もちろん、先生には伝わらないと思う。でも伝えたい。先生に伝えなくちゃいけないと必死だった。
「言いたいことがあるなら…、あ、ごめんなさい。」
「…」
「えーと…」
「…」
「とりあえず…、この話はこれで終わりということで。」
私の頑張りも虚しく、やっぱり先生には伝わらなかった。これがいつも通りの私だ。仕方ない…とぐっと握った拳を下ろして、私は所在なく上靴の先を見つめていた。
「それで、別の事なんだけど、ちょっと聞いていい?」
 ? と私の頭は再び固まる。上靴から目線を上げると、目の前にはいつもの無表情な先生が、戻っていた。
「今まで、歌、詠んだことある?」

…へ? 

先生の突拍子もない質問に私は困惑していた。歌…? よむって…詠む? 和歌とかのこと…? 先生は何を言っているのだろうか。何て答えればいいのか分からなくて、とりあえず「ううん」と私は横に首を振った。すると先生は「そう」とだけ呟いて一度教室に戻り、何かを手に再び廊下に出てきた。
「センス、あると思う。」
「…?」
センスって、和歌のセンスってこと…? 私はますます訳が分からなくなった。先生は一体何を言っているのだろうと、思考回路が止まる。そこでふと、私はこの間の授業の事を思い出した。提出した私の歌を見たのだと、そう確信した。それできっとこの話になったんだ。でも、私をわざわざ呼び出したという事は…絶対にあれだ。先生を題材に詠んでしまったことを怒っているに違いない。今は褒められてるけどこれから怒られるんじゃ…と私はまた怖くなった。きっとこれから「私の事を詠むなんて、馬鹿にしているの?」とか言われるのだろうと、悪い想像ばかりが私の脳内を占める。そんな私を怪訝そうに先生は見ていた。
「これ」
「…?」
そして、怖くなって縮み上がっていた私の前に差し出されたのは、淡い空色をした本だった。
「はい」
先生に手渡されて、まじまじと見る。
ざらざらとした和紙のような手触りの背表紙を撫でて、それから表紙を見た。

『歌集―つじ雲  虻田はるひ』

擦れて色の剥げた帯には『歌壇称賛、虻田はるひの繊細な歌詠みが詰まった一冊』と書かれている。
「…?」
先生の意図が掴めなくて、顔を伺う。でも変わらない表情からは何も読めない。
「案外、面白いから」
「…」
「あ、他の生徒にはあまり口外しないでもらえる?一人だけに肩入れしてると思われると厄介だから。」
そう言うと先生は、廊下に私を残して教室に戻っていった。
廊下にぽつり、一人私は立っていた。その私が今手に持っているのは、少しくたびれた歌集。状況が段々飲み込めてから、私はその本をぱらぱらと覗き見た。大体一ページに一つ歌が書かれていて、その脇に挿絵が入っているページもあった。小説しか読んだことがないから、歌集なんて見るのも触れるのも初めてだ。

そのまま最後の方までぱらぱらと捲っていると、最後の見開きに付箋が挟まっているのを見つけた。

『何かひとつくらい光るもの見つけたら?』

多分これは水田先生の字だ。光る、もの…?
チャイムが鳴って、教室から早速運動部のメンバーが荷物を背負って出てくる。咄嗟に私は歌集を背中に回し隠した。そのクラスメイトたちが「一体何をしていたのか」と問いかけるように私を見てくる。次第に何人ものその視線に耐えられなくなった私は、結局自分の席に小走りで戻っていた。


先生は私にどうして歌集を渡したんだろう…?


変な心配や不安が湧いてきて、ただすぐに真っ直ぐ帰りたくなって、教室でこっそりと鞄に歌集を詰めた。そして家路を急いだ。「どしたの穂花?」と呼びかける理子に「ごめん」と言って、私は教室を抜け出す。小走りだった。期待されているのか、目を付けられてしまったのか。その頃の私にはまだ先生がよく分からなくて、何も見えていなかった。怒っているのか、褒めているのか、何を考えているのかよく分からない水田先生は、ただ唐突に私に歌集を渡した。その事実だけが私を取り巻いていた。


でも、そうだ。これが私と歌との出会いだったんだと、今は分かる。

父の母

「それでね、その先生が歌集を貸してくれたんだけどね」
「へえー、それは良かったね穂花ちゃん。」
その週末の夜、私は父との電話で最近あったことを話していた。今、お父さんはキューバにいるという。カリブの島は日本よりもうんと暑いらしい。
最近あったこと。怖いと思っていた先生が、私に歌集を貸してくれた。最初は怪訝に思う気持ちの方が強くて恐る恐る読んでいたけれど、今はどこか嬉しかった。だから父へ話す声はいつもよりも大きくなって、語り口もいつもより流暢になっている。
先生の本は、少し古びていた。カバーも帯も角が丸くなって取れて何ページかは端が折れている。多分、先生が大切にしているものなんだ。それを私に貸してくれた。自惚れかもしれないけど、駅前で私に「何なの」と言い放った冷たい先生がそれを貸してくれたことだけでも、私には十分嬉しかった。
「穂花は本当に本が好きだったよなあ。お父さん何冊小説買ってあげたか。」
「うん、今でも本は好きだよ」
「それが今度は短歌かあ。お父さんバカだから、俳句も短歌もよく分からないんだけど、どこが好きなんだ?」
どこが好きかと言われると、言葉にするのが難しい。授業で触れた後も先生の歌集を読んで一層惹きつけられてしまったのだ。なんか一目惚れみたいな感じで、心が弾けて、揺れた。そう、出会ったんだ。だから…
「うーん…、あんなに少ない文字で、もっと広い世界が見えて…、何か、心が動いた。楽しい。」
「ほう、そうかあ。うん。お父さんも嬉しいよ、正直心配してたからさ。」
「え?」
お父さんは急に落ち着いた声になって、「ほら、お前のその…さ? 人によって喋れないこととか、な?」とゆっくりと語った。
「やっぱり、人と上手く関わるのには、その…ハンデ?があると思うからさ。実の父親がこんな事言っちゃいけないんだろうけどな。」
「…うん、そうだね。」
「お前が大人になるにつれて、そういうのはやっぱり大きな壁になるのかなって勝手に思ってたんだよ。話したい時に話せない、とか。ああ、もちろんお前が悪いって言ってる訳じゃないよ?」
「わかってる」
「だけどお前がそういう風に楽しみを見つけて、話してくれたのが、お父さんは嬉しかったんだよ。ほっとした(笑)」
「…そっか」
ハンデじゃないって言ったら、嘘になるんだろう。努力してもなかなか乗り越えられない壁。人前で話せないということはそれだけ大きなことだった。私はふと、去年のことを思い出す。入学直後の自己紹介で何も話せずに泣き出してしまった自分。目の前で驚く担任の先生の顔が鮮明に思い出された。あの時も体が動かなくなって、自分の席に戻ることすら出来ないまま、ずっと教壇の横に立ち尽くしていた。
「ごめんごめん、何か、違うよな。湿っぽい湿っぽい!」
「いや、大丈夫だよ」
「そうか」
「うん」
「まあ、ちゃんと勉強もするんだぞ? そればっかりに夢中になったらお父さんも出るとこ出るからな」
「わかってる」
大丈夫、ちゃんと勉強もしてるよ。お父さんはその後、キューバの話をたくさん聞かせてくれた。昔の車がまだ街中を走り回っていること、「キューバンサンドイッチ」というハムとチーズのサンドイッチが美味しいこと、ビーチに行ったらグラマーな美人がそこら中にいて嬉しかったこと。最後のはあんまり聞きたくなかったかもな。
「お父さんもそろそろ次の恋に行こうかなって、思わず思っちゃったよ(笑)」
「はいはい」
「まあ、もうお母さんとのことは時効だしな」
「時効って…」
「すまんすまん」
「お母さん、最近どうしてるの?」
「さあ。もう七年くらい経つだろ? 俺も知らないなあ」
「そっか。」
不意にお母さんの話を出すと、いつもお父さんは悲しそうにする。考えずにお母さんのことを話に出してしまったことを心の中で謝りながら、お父さんの胸の中にはキューバの女の人じゃなくてお母さんとの思い出が疼いているんだろうなと察した。大人の世界は想像するよりも、多分もっと複雑なんだろう。
「あ、話変わるけど、ばあちゃんには歌、隠した方がいいぞ」
「うん、そうしてる」
「あの人、芸事は本当に嫌いだからな」
「…そうだよね」
おばあちゃんには、歌集を隠した。読んでいるのが見つかったら、何を言われるか分からない。お父さんから、昔バンドにハマっていた頃「農家に芸事はいらねえべ」と言われて、大切にしていたベースを捨てられたという話を聞いたことがある。私も、昔はアニメや漫画を禁止されていた。
「俺のベースが用水路に、八つ墓村みたいにひっくり返ってた時はショックだったなあ(笑)」
「見つかったら、私のもそうなっちゃうのかな…。」
「まあ、それは分かんないけどな。おおっぴろげにしないことだ。」
「…うん」
本当はおばあちゃんにも、「先生が貸してくれたんだ」って言いたかった。実は面白いんだよって伝えたかったなと思う。でも正直なところ、おばあちゃんとの関係は微妙だ。私がここに住むようになってからずっと。うん…。
「じゃあもうそろそろ朝飯食いに行くからな。」
「あ、そっか。キューバは朝なんだ。」
「そうだよ。じゃあまた来週。そっちはおやすみ、だな。」
「うん、おやすみ。」
「じゃあな」
「うん」

電話の子機を居間に戻しに下りると、珍しくおばあちゃんが晩酌をしていた。自分で漬けた梅酒を飲んでいる。今日はどこか機嫌もいいようで、鼻歌を歌いながら新聞を読んでいた。
「ああ、穂花。(ひとし)は今どごだって?」
「…」
おばあちゃんに聞かれて、私は近くの紙に『キューバ』と書いて見せる。
「はあ。あの子は本当に…。おらはキューバなんて国、知らないね」
「…」
その後もぶつぶつ言いながらおばあちゃんは梅酒を飲んだ。今年は雨が少なくて困るとか、虫が多いとか、元の家の田植えは全て終わったとか。それを何も返事が出来ない私に聞かせる。
「そういえば、元んちの親父さんが言ってだんだげど、今年の火焚ぎ、元になったんだって?」
「(うんと頷く)」
「あの子も昔は芋っ子だったんだげんと、最近はすらっとすて男前になったねえ。ほら剣道も頑張ってるんだべ。結局親父さんの跡継ぐのがは、しらねげど。」
「…」
確かに元はぐんぐん背も伸びて、男の子から男の人みたいになった。私がそんなこと言うのは違うかもしれないけど。ああ見えて元は後輩に慕われていると、理子が最近教えてくれた。元「先輩」は剣道部の後輩の女の子から、意外と人気があるらしい。
「火焚ぎ役になるってごどは、一人前の大人どして認められるってごどだ。神主さんと、練習重ねでるんだって?元。」
「…」
「それに比べでおめはねえ。喋らねす、無口だす。暗えすねえ。ほだなんじゃ男には見向ぎもされねよ?」
唐突にきつい言葉が降ってきて、私はたじろいだ。おばあちゃんはたまにこういう事を言う。いや、たまに、よりは多いかもしれないけど。まさか自分に話が飛ぶとは思わなくて、私は何も反応できなかった。
「ほら、聞いでる? 人の話はちゃんと聞ぎな。おめは口なしの子なんだがら。」
「…」
何か、久しぶりに言われたな、それ。…うん、そうだよね…。でもね、ちゃんと聞いてるよ、おばあちゃん。分かってる。分かってるよ、だから…。
「そういや穂花」
「?」
「おめ、おらに何か隠してないかい?」
思わずぎくりとした。さっきの言葉を引きずりながら平静を装って、頭の中では歌集をどこに置いておいたかを必死で思い出した。そう、鞄の奥に入れてあるはず。だから多分、バレてないはずだ…。
「ん?」
その時おばあちゃんと目が合って、ドキドキが高鳴った。首を振って、分からないふりをした。するとおばあちゃんは「そう」と言い、再び梅酒に口をつけそれをごくりと飲み干した。

やっぱり、おばあちゃんにバレたら取り上げられるんだろうな…。


それから自分の部屋で布団にくるまって、懐中電灯をつけた。しおりを挟んだページを見つけて再び読んでいく。何か、歌集を「読む」っていうのは表現が変なのかもしれないけど、先生が貸してくれた虻田はるひさんの歌はどれもが素敵な日常のひとこまを詠んだもので、いつの間にか私はひとつひとつの歌の場面を想像して、小説のようにをじっくりとそれを読んでいたのだった。

虻田さんの歌、いいなあ…。

先生が授業で紹介していた歌も素敵だったけど、この虻田先生の歌はとても微笑ましくてすごく心に染みるものだった。誰もが経験していそうな日常の中に散らばるきっかけを拾って、それをどこかファンタジーを感じさせる歌に仕上げているのがすごい。私もこんなのを詠んでみたいと思うほどだった。
「えっと、ここまで読んだから…」
次の歌を見て、そっと考えてみる。


 はつこひは 檸檬の味と 聞いたから 
 ポッカレモンをくちびるに塗る


冷蔵庫の前に佇む少女の姿が思い浮かんだ。初めて誰かを好きになる頃、「檸檬の味」と聞いて素直にレモン汁を口につけたのだろうか。本当はそんなことをしても分からないはずなのに、どうしても知りたくなって。そんな少女が可愛らしい。でも、これはもしかしたら少女の歌じゃないのかもしれない。もう少し大人になって、そう、私と同じくらいの年で、周りの子は恋人が出来たりする中でまだ恋を知らない女の子。それで咄嗟にレモン汁を口に塗った。知りたくて、焦って。いや、もしかしたらもしかしたら、大人の女性で、初恋を思い出したくなったのかもしれない。こんなのは馬鹿馬鹿しいと思いながらも、レモン汁を舐めた。
きっと、この答えは虻田さんしか知らないのだろう。でも私の頭の中には想像がたくさん膨らんで、どれも答えに思える。
「穂花、まだ起ぎでるの?ちゃっちゃど寝なさい」
廊下からのおばあちゃんの声にはっとして、私は懐中電灯を消した。歌集を胸に抱いて体を丸める。ぎゅーっと目をつぶって、おばあちゃんの足音が聞こえなくなるまで布団の中で静かに寝ているふりをした。
「…」
…暑い。明日、布団をしまおう。そのうちおばあちゃんの部屋の襖が閉まる音がして、私はようやく布団を剥いだ。
仰向けになって、もう一度目を閉じた。耳を澄ませば色々な音がする。風で稲が揺れる音、遠くのクラクション、蛙の鳴き声。微かに梅酒の匂いもする。あと、先週張り替えた畳の残り香。

…私も、歌、詠めるかな。

ふと、私も歌を詠みたいと思った。絶対虻田さんみたいな歌は詠めないだろうけど、あんな歌を詠んでみたい。身の回りに目を向けてみればきっと何かきっかけが隠れているはず。
閉じた目をさらにぎゅーっとつぶって、考えてみる。今のこの気持ちを歌にするならどんなだろう。言葉を頭の中で並べて、組み合わせて、比べて。わくわくする。すごく、わくわくする。
そうして考えた「一首」を近くにあったノートに書き留めた。授業の時よりは上手くいった気がするけど、何か、もっと違う表現があるような気がして一度消してみる。もう一度。うん、これだ。

私は別に学校は好きじゃない。だから土曜の夜は今まで幸せだった。でも今は月曜日を待ち望む自分がいて、胸がドキドキしている。いい意味で。この高鳴りを抱いて眠るのは今夜は難しいかもしれない。

手直し

『何かひとつくらい光るもの見つけたら?』なんて、偉そうなことを書いてしまったと思う。光るものを見つけたのは、むしろ私だ。無口な彼女の中に。
「東北高校生文芸コンクール2022」と書かれたチラシを持って、私は廊下に立っていた。澤井さんはもしかしたら、歌をきっかけに私に心を開いてくれるかもしれない…、いやそんな簡単な訳ないか。私とした事が、こんな楽観的な考えが浮かんでくるなんて嫌気が差す。まるで、罪滅ぼしみたいだ。
「ねえ?お姉ちゃん聞いてる?」
「え、あ、ごめん。何だっけ?」
「もう…」
妹との電話の最中にふと澤井さんの事を考えていた。最近の私はクラスの事がふとした隙間によぎるようになってしまっている。逃避としての仕事への没入。やるべき事はなかなか無くならないから変な心配が胸を占めることもない。楽だ。
でも、…こんなので、いいのだろうか。生徒には見栄を張って、管理職には優秀ぶって。これが私のなりたかった教師なんだろうか…。そう考えることも最近増えた気がする。
「卓也さんとは最近どうなの?」
「別に、どうもこうも無いよ。あんまり話せてないし。」
「ふーん。やっぱ大人の恋は難しいんだね」
「そんな事言う為だけなら、わざわざ掛けてこないでよ。」
「はいはい。」
「で、何?」
「いやそれでさ、お姉ちゃん、お盆はこっち来るの?」
「いや…」
「仕事? それとも帰りづらいだけ?」
「仕事」
「嘘だ」
「千咲さ…」
「いつまでお父さんお母さんに隠し通すの?」
「…」
妹の言葉は鋭かった。仕事に没頭することで、しているふりをすることで抑えていた自分の心配事がふっと湧いてきて、鳥肌が立つ。
「早めに言った方がいいんじゃないの?だってこの先も県立で先生続けるんでしょ?」
「…さあ、ね。」
「そのうち私の高校にも来たりして(笑) あ、その頃には私卒業してるか。」
「もう、いい?仕事中だから」
部活動に向かう生徒たちが廊下の片隅で電話を掛ける私の事をちらちらと見てくる。時折職員室から出てきた他の教師にも見られて、そろそろ電話を切りたいというのが本音だった。
「あ、うん。とにかく、いつまでも嘘をつくのは良くないよ?じゃあ、私これから部活だから」
「うん。頑張って」
電話を切ったその時、後ろから誰かに声を掛けられた。
「水田先生、勤務中に私的なお電話ですか?」
「え」
声に驚いて後ろを振り向くと、そこには白見教頭が立っていた。瞬間、顔に嫌な表情を出してしまった気がする。一方教頭の無機質な表情からは、何の用なのか全く読めない。
「最近の若い人は、いいですね。スマホでどこでもいつでも話せて。」
「すみません、仕事に戻ります。」
「水田先生にお客さんですよ。」
「はい?」
「先生のクラスの、喋らない子。」


 *


放課後に職員室を訪ねた時、水田先生はいなかった。そもそも声が出せない私がどうやって先生を呼べばいいのか。でも、そんなことを考える前に私は職員室のドアを開けていた。
「…」
ドアの前で何も言わずに立っている私のことを色々な先生たちがちらちら見てくる。この時初めて、もっと段取りを考えてくればよかったと後悔した。右手に抱えた歌集とノートに手汗がにじむ。
「何か用ですか?」
はっとうつむいていた顔を上げると、教頭先生が私の目の前に立っていた。ちらりと目を見るけど、笑っていない顔が怖くてますます手汗がにじんだ。
「水田先生に用ですか?」
「!」
どうにでもなれ。はい、と即答せんばかりに私は大きく頷いた。



「それで、澤井さんどうしたの?」
先生は少しやきもきしているように見えた。まだ、少し怖い。
「…!」
私は先生に歌集を返しに来たのだ。だから、先生の邪魔をしてはいけないとすぐに歌集を差し出す。すると先生は「ああ、これ」と言って、それを片手で受け取った。
「…」
「別にそんなに急がなくても良かったのに」
「…」
喋れない私と先生の間に変な間合いが生まれる。ちょっと気まずくなって私はまっすぐ立ち直した。右手には、まだ一冊のノートが残っている。これがもう一つの目的なのに、先生の目がちらっとそれを見た時、私は意に反して思わず後ろ手に隠した。
「…えーっと、他にもう用がないなら、早く帰ったら…?」
「…」
そうだよね…先生も忙しいんだ。ノートは他の時に…。先生に今ここでノートを渡す勇気が私には無かった。

まして、自分の詠んだ歌を見てほしいなんて…

今考えたらすごく恥ずかしい。
「…!!」
ありがとうございました、と伝えたくて大きなお辞儀をして、逃げるように出口に向かった。ノートは胸に抱いて誰からも見られないように…とした時、
「ねえ、面白かった?」
と先生が聞いた。
「?」
「貸した歌集。」
「…」
「…虻田さんって、すごく温かな歌を詠むの。ほら、誰にでもありそうな日常を描くじゃない。私はあれが好きなのよ。」
「…」
「それ、あなたも感化されて、自分の歌、詠んだんじゃないの?」
はっと振り向いて先生を見ると私の方を向いてまっすぐノートを指さしている。
「…」
「嫌ならいいけど、あなたの歌、見てみたい。」
「…」
そう言われて、私はもはやノートを差し出す他なかった。細くて白い腕が私の方に伸びたから、恐る恐る近づいて両手で先生の前に出す。先生は表紙をじっと見つめてから、一枚ずつページをめくっていった。
「え、これ全部澤井さんが詠んだ…の?」
「(はい)」
「…そっか、こんなに沢山…」
もともと先生に見てもらおうと持ってきたはずなのに、いざ目の前でじろじろと見られるとまるで裸にされているような気分だった。変に心臓がドキドキしてしまって、さっきよりも本当に恥ずかしい。穴があったら入りたいとはまさにこのことだった。
「ふっ」
「?」
え?と思って、先生を見た。確かに、その瞬間先生は笑った。口角が上がっていた。私の歌がそんなに下手だったんだろうか。それとも、私の歌を見て笑ったんだろうか。でもすぐに「ああ、別にあなたの歌を笑った訳じゃないから」と言ってもとの無表情に戻る。私は先生のしっかりとした笑顔を、この時初めて見た気がした。
「いつになるか分からないけど、ちょっと私の思うところはコメントして、来週にでも返す。それでいい?」
「(え、あ、はい)」
「じゃあ預かっとく」
先生は私のノートを引き出しの中に入れた。一瞬見えた引き出しの中はとても整理されていて、ほとんど物も無かった。先生らしいと思った。
「…」
今度こそ、早くおいとましなければと思って私は先生に一礼した。これで大丈夫。用事は全て済んだ。我ながら頑張ったと思う。
「あ、澤井さん、いい?」
「?」
「これ、あげる。」
帰りかけた私を再び引き留めた先生が差し出したのは、一枚のビラだった。

『東北高校生文芸コンクール2022』…?

オモテにはそう大きく書かれていて、説明書きが下にあった。

小説部門、俳句部門、詩部門…「短歌部門」…。

よく見ると、その上に赤いサインペンで大きな丸が描かれている。先生がつけたのだろうか。
「やってみたら?」
「…?」
「ああ、別に強制じゃないけど、折角だったらやってみたらいいと思って。」
「…」
「東北の、それも高校生だけだから応募数も少ないだろうし。」
「…」
「それに、裏」
そう言われてビラをひっくり返すと、「各部門の審査員」の紹介があった。「ほら」と先生の指さす先に…『虻田はるひ』……⁈
「虻田先生に自分の歌を見てもらえるなんて、なかなか無いだろうし。私が応募したいくらい。」
「…」
確かに、虻田先生が審査員をしてくれるなんてめったにない巡り合わせだと思う。でも、ほんの興味で短歌を詠み始めたような私がそんなコンクールに出せるのだろうか…。自信がない…。
「私、今年は大事な年なの。」
「…?」
急に先生の話すトーンが変わった。まるで脅されているような、そんな風にも感じた。先生の切れ長の目が、私を見据える。まだこの目には慣れず私はすっと目を逸らしてしまった。
「落ちこぼれ、一人でも出したら終わりなの。」
落ちこぼれ…? 皮肉なのか本当の話なのかは私には分からない。けれど、それは先生の照れ隠しにも思えた。多分そんなのは勝手な想像なんだろうけれど、先生に背中を押された気がする。私はそう思うことにした。今は歌を詠むということが何よりも安らぎだった。


 *


澤井さんにビラを渡せて、良かったと思った。澄ました顔をしていても自分は内心緊張していたのだと思う。これが、何かの一歩になればいい。そんな思いは青春ドラマに出てくる先生のようで、どこかむず痒い。ただ、そういう純粋な思いが全てかと言われればそうではなかった。ふと放ってしまった「落ちこぼれ」という言葉は嘘、ではない…。自分のプライドや虚栄心が、問題のないクラスを作ろうとさせていた。それはひとえに、教頭やら目上の先生に「威勢だけは良いくせに」などと思われたくなかったからだ。

…あとは、酒々井君か…

「水田先生、ちょっといいですか?」
「え、はい。」
白見教頭が気付くと隣に立っていた。また何か小言を言われるような気がしてすぐに身構える。それと同時に、無意識に机の上に散らかっていた資料を私は整えていた。
「澤井さん、でしたか? さっきの」
「はい、そうですが」
「教員を何十年もやってる身としてアドバイスをしてあげましょう。」
「は?」
「特定の生徒と深く関わり合いにはならない方がいいですよ?」
「いや、私はそんなつもりは」
「皆、最初はそう言うんです」
「?」
「いつまでも学生気分が抜けないようじゃ困りますねえ。学生同士の戯れの場じゃないんです、ここは。」
「いや」
「先生、と呼ばれて逆に勘違いしてしまう新任教師もいますからねえ。」
「私はそんなつもりは…」
「水田センセイもお気を付けて、」
「…」
教頭の後ろ姿を見て思わずその背中を蹴りたくなった。私は、そんなことはしていない。だけど、自信を持って自分が全部正しいとは言えなかった。歌を、自分の好きな歌を利用しているのだから。
はぁとため息をついて、椅子に座る。澤井さんが返してきた「つじ雲」。私がこれに出会ったのも、彼女と同じくらいの年頃だっただろうか。そう…、よく考えれば私とあの子達は五歳くらいしか変わらない。ならば教頭の言うことも、いくらか的を射ているのかもしれない。自分も、何を偉そうに。

「先生」って…何なんだろう…。

またこんな事を考え始めたら気分が下がるだけだ。考えるのをやめて机の上に積み上がった仕事に取り掛かる。そろそろ考査だから試験問題も作らなくてはいけないし、夏休みの三者面談の予定もまだ組めていない。他にも各家庭の諸々や事務やなんやらで最近は家に帰るのがかなり遅くなっていた。最悪、日を跨ぐギリギリに着くことも多い。


それから暫く仕事を片付けて、すっかり最終下校時刻も過ぎていた。校内の騒がしさも無くなり、職員室には若手の先生何人かが残っている。周りに聞こえないように静かに背伸びをして首を回した。授業中はずっと立っているし、放課後はデスクワークで足がよく浮腫む。
「ふぅ…」
少し休もうと、机上の歌集を再び手に取った。パラパラとページを繰ると、ところどころ皺になっていたり染みがついていたりして、こんなのを貸してしまった澤井さんにどこか申し訳なくなった。何度この本を開いたのだろう。私にとっては最早お守りのようなものかもしれない。
「あ…」
ざーっと最後のページまで辿り着いた時、自分が差し込んだ付箋を見つけた。澤井さんに『何かひとつくらい光るもの見つけたら?』と書いた付箋。そこに、彼女の字で『→見つけました』と書き足されている。
「ふっ」
「ん、水田先生、どうかしたの?」
「あ、いや、何でもないです」
私は、自惚れかもしれないけど、澤井穂花という女の子とどこか少し繋がれたような気がした。罪悪感を上書きするように、その嬉しさが私の心を覆い隠した。


 *


「元は今日も部活なの…?」
「え、ああ、そうみたいだよ。夏の新人戦に向けて後輩に稽古つけてるんだってさ。」
「そっか…」
「…何?アイツがどうかしたの…?」
「いや、最近なかなか会えてないなと思っただけで」
「あ、そっか、ごめん」
その日の帰り道は理子と二人だった。元は剣道部と火焚きの練習が忙しいらしく、私は暫く教室以外で会えていない。だから最近は陸上部終わりの理子と二人で登下校することが多かった。
「火焚き役もかなり大変らしいよ。軽々しくOKするんじゃなかったってアイツ言ってた。」
「そうなんだ…」
「やっぱ、歴史ある神事だし失敗できないしね。こんな時は、あー女に生まれてよかったって思うよ。」
「まあ」
「平日は部活、休みの日は神社で練習だってさ。アイツもよくやるよね」
「ちょっと心配だね」
「…たしかに。でもアイツ! 剣道部の後輩に告白されたらしいよ?」
「え?」
「アイツのどこがいいんだか。その女の子の見る目疑っちゃうよねー」
「そう?ちょっとそそっかしいけど、優しくて、面白いよ?」
「…」
「…ん?」
弾むように進んでいた会話が、急に歯切れが悪くなった。隣を歩く理子はなぜか少し黙っている。そういえば、最近の理子は何か変な感じがした。持ち前の明るさが時々ふっと無くなって、消える瞬間がある。
「あ、いや、何でもない。にしても、穂花もアイツを買い被り過ぎだって。」
「そうかな…」
「あ!そういや穂花、何かいいことでもあったの?最近、なんか明るい、というか」
「え、そう…?」
理子に言われるまで正直何も気づいていなかった。私、ちょっと明るくなったのだろうか。自分ではまったくその気はないけれど、明るく見えてるんだと思うと妙な気持ちになって恥ずかしい。
「うん。ちょっと垢抜けた感じというかさ、楽しそう。」
「楽しそう?」
「うん。クラスの女の子も話してたよ?澤井さん、最初はちょっと暗い子かと思ってたけど、意外と明るいんだねって。」
「へ?」
「正直、一番びっくりしてるのはそれを聞いてる私だけどね。穂花にしては珍しいっていうか、ほら今までとちょっと違うっていうか。」
「そっか…そんなつもりはなかったんだけど」
「だから、何かいいことでもあったの?(笑)」
「いいことっていうか、楽しい…こと?」
「え、何?」
「別に、大したことじゃないんだけどね…」
「えー何?ちょっと、幼なじみに隠し事は無しだよ?」
理子に歌のことを隠すつもりはない。ただ、先生に「口外しないように」と言われたのと、おばあちゃんには知られたくないという思いが私を逡巡させた。いつも無口で暗い私の心が、初めてこんなにも動いた。それは楽しくて、面白くて、奥が深いもの。リズム。言葉。だから、もしこれがおばあちゃんに知られたら「ほだなものはやめで勉強すろ」と言われるのが目に見えていたから。私は理子に話すのを一瞬躊躇した。でも、幼なじみで親友の理子に隠しごとをするのも何か違うような気がして。そして私は思い切って、それを打ち明けることにした。
「う…なの」
「へ?」
「歌、なの」
「…歌?」
「うん…」
「…」
「…」
「歌手に…なりたい、とか?」
「…?」
「歌って、ほら、カエルの歌とか、その歌じゃないの?」
「あ、いや、だから…短歌」
「短歌?」
「…うん」
「あの、前に授業でやった、サラダ記念日みたいなやつ?」
「うん」
「へえ…」
理子は「鳩が豆鉄砲」の鳩のようだった。目をまんまるにして、こちらを見ている。
「どこが…いいの…?」
「?」
「あ、ごめん。私頭悪いから、ああいうのよく分かんなくてさ」
「うーん…どこが、か…」
「でもきっと、穂花の心にはズドンと来たわけっしょ?」
「うん。」
「どういうところが?」
「うーん…、あのリズム感とか音とか、限られた文字数で作る世界観とか、言葉選びとか、あえての字余りとか…」
「穂花…滅茶苦茶しゃべるね…」
「あ、ごめん」
「ううん。本当に好きなんだな、ハマってるんだなって、すごく伝わってきた」
「…そう、だね」
思わず短歌の魅力が口から溢れた。喋れない私なんてそこにはいなくて、自分が自分でないようだ…。
「穂花もとうとう、親離れかあー。私は悲しいよ」
「親って、もう。あ、でもね、先生も短歌好きみたいでね、歌集貸してくれたりとか、私の詠んだ歌見てくれたりとか…」
「先生って、水田先生?」
「うん。このコンクールも先生が紹介してくれて」
「えー、あの雪女みたいな先生が?嘘だべや。信じられないわ」
「正直…私もだったけどね」
理子はそのあと、水田先生のことを私に聞いてきた。でも私も特別先生のことを知っているわけじゃないから、ほとんどの質問には答えられなかった。逆に私が気になるくらいだ。
あとは…話している間、やはり理子の様子が晴れない感じがした。私の話を笑って聞いててくれていたけど、わからない、わからないけど、何となくそんな気がした。私の気のせいかもしれない。そして、分かれ道まで辿り着いた時、私は理子に念押しをした。
「歌のこと、なんだけど…」
「え、うん」
「おばあちゃんには絶対に言わないで…?」
「?」
「ほら…」
「あ…そっか…」
「うん、うちのおばあちゃん、そういうの、嫌いだから、さ」
「うん…」
「だから…」
「わかった、秘密にしとく」
「…ありがとう」
理子と別れて、家へ急いだ。つい話し過ぎて十八時のチャイムが鳴ったのに気づいていなかった。夕飯づくりの手伝いもしないといけないし、ただでさえ遅い帰宅は怒られる。
「また理子と話してたんだべ」
「…」
「水菜、裏さ置いであっから取ってぎで」
「(うん)」
案の定おばあちゃんには、夕飯が終わるまでお小言を言われ続けた。「おめは声出しぇねんだがら、夜道で誰がに襲われだらどうすんのさ」と言われて、確かにそうかもしれないと納得したけれど、胸の中には反発するチクチクした思いも湧いていた。こんな思いも、初めてだったのかもしれない。私は今、おばあちゃんに秘密を隠している。

夏檸檬

別れは予期せずやってくる。昔飼っていた犬もそうだった。急にぱたりといなくなって、そのまま帰ってこなかった。…彼氏を犬と同等に喩えるのは、少し聞こえが悪いかもしれない。

『俺、レナにとって、必要…?』

彼の最後の言葉はこれだった。寂しいなら寂しいと言ってくれれば良かったのに、というのは傲慢だろうか。でも、時折見せるそんな女々しさが、私には鬱陶しく思えてしまった。


彼と出会ったのは私が東京の大学に入学した直後だ。親元を飛び出して上京し、初めての東京で右も左も分からない私。彼は東京の出身で、同じ教育学部の一回生だった。たまたま少なかった同期の男子の一人で、きっと他の女子の中にはそんな彼を狙っている人もいたと思う。それが、何をきっかけにしてか、彼に告白された。クリスマスの近づいた頃で、浮かれていたのかもしれない。
最初、私は冷やかしだと思った。数の少ない男子からしたら、女子は選び放題、ハーレムみたいなものだ。ただ、彼は純粋に私のことを好いてくれていた。だから、私は彼と付き合い始めた。ちょうど今日は、それから四年と半年が過ぎた頃、な気がする。
高校の時、彼氏がいたこともあったが、色々な初めては全て彼だった。三回生の春からは、荒川の彼のアパートに半同棲もした。何度も一緒にお酒を飲んで、夜も共にして、時々旅行にも行った。スマホのメッセージをスクロールしてみれば嫌でも色々な思い出が蘇る。

『急で悪いんだけど、別れたい。』

いつか、終わりはくる。何事にも。


 *


「理子、どこ行くの?」
「え、あ、神社!」
「そう、気を付けなよ?夕飯までには帰ってきな」
「はい!行ってきます」
理子は店の裏から自転車を引き出して、それに跨った。梅雨も明けて、夏本番の暑さが体に照りつける。ノースリーブにショートパンツを履いた彼女は、元が火焚きの練習をしている神社に向かって田んぼの畦道を漕ぎ出した。今日は陸上部も休みだ。
むくむくと膨らみ、もやもやと広がるもの。理子は、自分の心に巣食い始めたそのチクチクしたモノに気付いていた。私らしくないと押し込めてもそれはどんどん大きくなっている気がする。

穂花のこと、そして…元のこと…

大切な二人に向かう、棘の先。醜い感情を内に宿し始めたそんな自分が…大嫌いだ。
「元っ!」
「お?理子じゃん」
理子が神社の境内に入った時、それは元がちょうど社務所から出てきたところだった。
「練習終わったの?」
「んだ。これから帰るとこ」
「そっか、もう終わっちゃったんだ」
「ん?」
「いや、練習してるとこ、見てやろうかと思ったのに」
「相変わらず性格悪いな。ていうか、女人禁制だぞ?」
「あ、私のコト、女として見てるんだ。」
「は⁈別にそういう事じゃねえって」
「慌てすぎ(笑)」
練習を終えた元は作務衣から剣道部のジャージに着替えていた。中部活のくせにこんがり焼けた感じが憎らしいと理子は思う。彼女はこんなやり取りが好きだった。ずっと幼少の頃から続いている、このやり合いが。
「ていうか、おめどうした?今日部活ねえの?」
「え、うん」
「せっかくの休みにわざわざ神社に来るなんて、物好きだな」
「は?おつかいのついでに寄っただけだって」
「おつかい?何も持ってねえけど?」
「こ、これから行くんだって。いちいちうるさいわバカ」
「バカって…おめ本当に口悪いなあ?それじゃあ一生彼氏出来ないぞ?」
「いいですー別に、彼氏なんて。いてもいなくても変わらないって」
「そうか?俺は居たら居たで、楽しいと思うけどな。」
元の思わぬ言葉に理子はぎくりとした。別にそんな義理はないのに、つい彼の言葉が気になってしまう。
「…何?彼女欲しいの?」
「いや、別にそういう訳じゃないけど、居たら居たでいいよなってこと」
「ふーん」
「一組の金井さんとか、可愛いよな」
「うっわ、やっぱ外見重視かあー?おバカ男子の典型」
「いや、お前が言う?おめに比べたら、月とスッポンだっぺよ。金井さんはおめとは大違い」
「は、普通に傷つくんだけど」
「じゃあまずその口悪いの直せ」
「はいはい」
「あとは…」
元は視線を下ろして、目の前に立つ理子の胸元をちらりと見た。理子もすぐにそれに気付く。
「は⁈ あんたセクハラで訴えるよ?」
「口ばっか育っちまったな」
「うるせええ!」
「わりいわりい」


「金井さんみたいに可愛くて、胸もあったら、私のこと女として見てくれた?」


なんて言えただろうか。理子は言葉を飲み込んだ。鳥居の横に停めた自転車を引いて、先を歩く元のもとに駆け寄る。
「で!火焚きの練習は順調なの?」
「え、ああ。でもやっぱ大事な神事だけあって、所作とかも細かく決まっててさ。覚えるのが大変だよ」
「そうなんだ」
「うん。今まで見てきた兄さん達が裏ではこんなに苦労してたんだって初めて知ったわ」
「そっか」
「本番までもう時間無いし、ヤバいよ」
「もうすぐ、だもんね」
「んだな」
「失敗できないもんね」
「できねえな」
「失敗しろ」
「は?」
「さっき私を貧乳呼ばわりしたバチだよ。」
「おめ、縁起悪いこと言うなって。ていうか引きずり過ぎだわ。」
引きずるわ、と理子は思った。隣を歩く元は何も気づかず、遠くの空を見ている。
「ていうか、新人戦も近いんじゃないの?」
「んだ。それは来週末。」
「すぐじゃん。一年生勝てそう?」
「まあこの俺が稽古つけてるからな。大丈夫だって」
「あんた忙しいんだね。」
「本当だよなあ。体が二つ欲しいくらいだよ」
「元が二人も居たら気持ち悪いわ」
「えー、そんな言う?」
「…でも今年は、三人で大祭ってのも、無理だもんね」
「?」
「ほら私たち、毎年一緒に行ってたじゃん」
「まあ、俺は出る側になっちゃったしな」
「うん…」
「来年はあれか、受験とかでそれどころじゃないか」
「…」
理子は暫く黙っていた。元は隣を歩く彼女の方をちらちらと見て伺ったが、彼女が口を開くまでじっと黙っていた。そして、先に口を開いたのは元だった。
「そういえばさ!穂花、最近変わったよな?」
「え?」
思わぬ話題に、理子の胸中は少しざわめく。
「ほら、何か明るくなったっていうか、根暗ムードがなくなったっていうか」
「ああ」
歌、なんだって。そう言えば元はきっと「は?」と言うだろう。でも理子は黙っていた。きっと元のことだから、「穂花が短歌にハマってるんだってー!」と言いふらして、ゆくゆくは穂花のおばあちゃんに知られる。
「俺、ちょっと意外だったな。」
「?」
「小中と見てきて、初めてな気がする。あいつがあんなに楽しそうにしてるの。」
「うん…」
「穂花は、ああいう方がいいな」
「え?」
「楽しそうにしている方が」
「うん、そうだね」
二人の歩みがまたゆっくりとなる。どこかぎこちない間が二人の間に生まれるのは珍しくて、もしかしたら初めてだったかもしれない。
「ねさ」
「ん?」
「穂花って、彼氏いんの?」
「?」
「…」
「え、なんで?(笑)」
「あ、いや、ちょっと見ちゃって、というか」
「は?」
元は何を見たのか…?少なくとも私は、穂花から彼氏が出来たなんて話は聞いていないと理子は疑問に思う。
「…ノート」
「ノート?」
「あれ…、交換ノートだべ?」
「は?」
穂花とノートを繋ぎ合わせて、頭を一回転させた。理子は、答えを知っている。きっと元が言っているのは、穂花が短歌を書き留めているノートのことで、その交換相手は水田先生だ。それもあって、穂花は最近機嫌がいい。そのことをきっと元は知らないのだろう。
「おめ、何か知ってんの…?」
「彼氏、出来たんじゃない?」
「え」
「知らないけど」
「なんだよ」
「…」
「ね!」
「ん?」
「…おちおちしてると、穂花取られるよ?」
元は、その言葉を聞いて少し動揺しているように見えた。そして同時に、何かを心に決めたようにも見えた。
意地悪だ。元に対しても、穂花に対しても、最近の私は意地悪だ。



理子はいつもの分かれ道で元と別れ、そのまま自転車を押して歩いていた。もうじき夕飯だから本当は乗って走った方がいい。でも、そうできない心のつっかえが胸中にあった。
「…あ」
商店がいくつか並ぶ大通りを歩いていた時、理子は酒屋の前の自販機に細身の女性の影を見た。夕暮れ時で顔はしっかり見えないがあの後ろ姿には確かな見覚えがある。
「水田先生…?」
理子が呼び掛けると、その若い女の人は肩をびくっとさせて振り返った。
「あ…玉宮、さん…?」
「はい…」
「…」
レナは右手に持ったストロング缶を咄嗟に隠した。左手のビニール袋には他にも何本か缶が入っている。
「先生、おうち、近くなんですか?」
「え。ああ…、まあ…。」
「あ、そうなんですね。」
「…」
レナは目を逸らして何も話さなかった。理子も気まずくなって目を逸らす。
「…えーと、じゃあ私はこれで」
見てはいけない先生のプライベートを覗いてしまったような気がして、理子はすぐにお暇しなければと思った。そそくさと礼をして先生の横を自転車ですり抜けようとした時、意図せず「ちょっと、付き合ってもらっていい?」と声がした。
「え?」
「ちょっと、だけ」
理子は状況が読み込めない。でもここで断るのも何か違うような気がして、無意識に「あ…はい」とレナに答えた。

先生の秘密

最上川の堤防に二人はいた。夕日が差す川原に山風がそよぐ。この辺りだけ夕立が降ったのか、地面はいくらか濡れていた。
「お酒って、美味しいんですか?」
レナは飲みかけた缶を下げて、少し答えを考えていた。そして「辛ければ辛いほど美味しく感じる、変な飲み物。」と答えた。
「そうなんですか…」
「大人になれば分かるわ」
「?」
「なんて自分が言うようになるとは思わなかった。」
理子は普段と違う先生の様子が不思議だった。酔ってはいないけれど人間味のあるその様子が新鮮で、怖ささえ感じてしまう。
「あなた、前、私に聞いたわよね」
「え?」
「何で先生になったか、って」
「あ…、はい…。」
「…」
「その時は、すみませんでした。」
「いや」
「?」
「別に咎めるつもりはない。色々考えさせられたから。」
「…そうですか」
学校では先生と生徒という間柄の二人が休日に河原で隣り合っているという奇妙な状況が、二人を沈黙させた。自分の失礼を咎めるのでないのなら一体なぜ付き合わせたのだろうと思いながら、理子は気を利かせて「先生って休みの日はそんな恰好してるんですね」と聞いた。
「変?」
「あ、いや。先生、スーツかブラウス姿しか見たことがなかったので」
「私もデニムを履きたくなる日はある、それだけ。」
「…なるほど」
先生は二本目の缶を片指で開けた。袋の中で揺られていたせいで炭酸が噴き出して、直下の土が黒く湿る。
「五歳くらいしか違わないのに、私は先生、なんだもんね…」
「え?」
「玉宮さんは陸上部だっけ?」
「はい、まあ全然ダメなんですけど」
「そう」
「あの…」
「?」
「なんで、私を…」
「ああ。そうよね。」
「はい…」
「一人だと、誰かに話したくなる時があるのよ」
「…」
「こんなこと生徒に話すなんて、私もまだまだ学生気分が抜けないって言われそうだけど。」
「え?」
「こっちの話」
「はい…」
レナはそれでも酔ってはいないようだった。ストロング缶を二本開けても、彼女の綺麗な横顔は赤に染まることなく何も変わらない。
「地元の川に似てる」
「へ?」
レナは右手を突いて、目の前の川を指さした。夕日に照らされて彼女の肌の白さが際立つ。
「まあ、そりゃそうよね。同じ山形だし」
「?」
「私、地元米沢なの」
「あ、そうだったんですか」
「どうせ知ってたんじゃないの?」
「え?」
「小さな町の噂は早いから」
「あ、いや…実は山形の人だってことは聞いてたんですけど…」
「そう」
「でも、東京の大学行ってたんですよね?」
「やっぱ知ってるんじゃない」
「あ、すみません」
「反対する親を押し切って、東京に飛び出した。」
「え」
「嫌になっちゃったのよ。このまま山形にいるのが」
「ああ…」
「良くも悪くも、何もないしね」
「…でも、」
「何で今、戻って県立の教師をやってるか?」
「まあ…」
「私が一番聞きたい」
理子は、先生の機微に触れた気がしてドキリとした。東京の大学に行くなんて自分達からしても優秀で洗練したイメージを持つ。同級生の中でも、ひと握りの存在だろう。
「結局戻ってくるなんてね。イタいわ」
「いや、そんな…」
「その上、東京で就職したって嘘をついている。」
「え?」
「振り切って上京したゆえの変なプライド、虚栄心、そして罪悪感。」
「…」
「だから親も親戚も、東京で就職してると思ってるわ」
「そうなんですか…」
「本当に信じているのかは知らないけど。そもそも実家は畜産だし、女の私が継ぐこともない。」
「…」
「何か、話し過ぎたわ。それも生徒に。今の話、忘れて。」
「でも、」
「私が引き留めて勝手に話し始めたのに、悪いわね」
「いや」
「あ、今日の事は他の先生には言わないでね。水田が河原で缶チューハイ飲んでたなんて教頭にでも知られたら、大目玉だから。」
「分かってます。大丈夫です。」
「ありがとう」
日も暮れて、辺りはしんと暗くなった。対岸の田んぼに蛍の光がちらちらとちらつく。理子は母親に夕飯までには帰るように言われていたのを思い出して、「そろそろ帰ります」とレナに言った。
「夜道は危ないから気を付けなさい。引き留めた私が言えることじゃないけど」
「はい」
「先生も、早めに帰った方がいいですよ?」
「うん、ありがとう。」
そう言いながら、レナは四本目をノールックで開けた。それを見て、先生にもきっと何かあったのだと理子は察した。
「玉宮さん」
「え、はい」
「あなたも、何か抱えてることが有るんじゃない?」
理子は思わず先生を見た。少し虚ろになった切れ長の目が、彼女を見据える。
「いや…、特にないですけど…」。」
「そう…。ならいいけど」
「はい」
「さようなら」と言い、理子は自転車に乗った。水田先生に何かを見透かされたような気がして、胸がすーっと寒くなる。私に何かがあるように、先生にも何かがあるのだ。理子はそう思った。

「抱えてる、か…」

誰もいない河原を走る自転車の上で、理子はひとり呟いた。誰も聞いていないはずなのに、変に恥ずかしくなった。
自分の気持ち、元の滲む想い、穂花の楽しげな様子。
全てがない交ぜになって、ぐっと喉まで押し寄せた。酸っぱくて、重くて、苦い。もやもやなんて可愛いものじゃない、この気持ち。自分を穏やかでいられなくする今。自分の毒づく思いも、全て吐き出してしまいたい。
でも、でも…

紙流し

庄内大祭は古くから続く厳かなお祭りだ。町中の人々が集まり、境内の燈火を前に先祖の安穏を願う。七月に入ると段々町中が騒がしくなって毎年この頃は浮足立っていた。
「穂花、これ、着るんだべ?」
「…」
「汚さねように」
「…」
高二の夏も私はおばあちゃんの浴衣を着た。藍の布地に、橙の帯。何十年も前のものだから年季が入っている。きっと昔はおばあちゃんも袖を通したのだろう。中学に上がって初めて着せてもらった時、とても嬉しかったのを覚えている。大事なものを譲ってもらったような気がして。昔は折っていた袖も裾も今は全て直して目いっぱい。私も少しは背が伸びた。
「理子が来だよ」
「(うん)」
今年は理子と二人での大祭。元は今頃きっと緊張しきりだろう。町中の人々が見守る前で儀式をする。大事な役目。それがもし私だったら…。想像しただけでも気を失いそうになる。
「あ、穂花!めっこいじゃんかー」
「え、そう…?」
「んだんだ!髪もばあちゃんに結ってもらったの?」
「ああ、これは自分で…」
この浴衣に合う髪型にしてみたくて、初めて自分で調べてみたのだった。おばあちゃんの(かんざし)も借りて巻いた髪は、少し…自分でも似合ってると、思う。
「本当に穂花は綺麗だよねー、羨ましい!」
そう言う理子も、紅帯に山吹色の浴衣がよく似合っている。ショートヘアーに差した髪飾りが赤く映えて、普段とは全く印象が違っていた。
「理子も、似合ってるよ」
「またまたー。どうせ元が見たら『つんつるてんじゃねえか』って言うよ」
「穂花!理子!喋ってねで、ちゃっちゃど行ぎな!」
「はーい!じゃあばあちゃん、穂花お借りしまーす。じゃ、穂花いこ」
「うん」
鼻緒を新しいのに替えた下駄を履いて、二人で道に出た。夏になって日が長くなったからか、まだ夜という感じはしなかった。淡い空色の下を、浴衣や甚平を着た近所の人たちが揃って神社の方へ歩いていく。
「いつもの道なのに、祭りの日は何か不思議な感じだな…」
「へ?」
「静かで、幻想的で、儚いなあって…」
「なんか、穂花、文学的だねえ」
歌詠みを始めてからだろうか、つい周りの景色をそんな目で見てしまうようになった。でも、本当に身の回りには小さなきっかけがたくさん溢れている。そのきっかけを拾って、歌にしてみる。それをノートに書き留めて先生に出した。先生は「まだコンクールには出せないわね」と厳しいコメントをしてくれる。それでも私はその繰り返しが楽しかった。普段気にせず見落としている素敵なものは、そこら中に隠れているんだ。



神社の参道は、まだ灯篭に火が灯されていないから薄暗かった。前の人が辛うじて見えるくらいで、皆一歩ずつゆっくりと歩く。山風がそよぐと、頭上の楠の木が清々しく揺れた。
「毎年思うけどさ、金魚すくいとかたこ焼きとか、出店があればいいのにね」
「もっと真面目で、大事なお祭りなんだよ。きっと」
「でも、ちょっと堅いんだよなあー」
「まあね。ほら、もうすぐ川だよ」
「いたっ」
走り出そうとした理子が、慣れない下駄でつまづいた。私も理子もやはり浮足立ってしまっているらしい。それから少し歩くと川が見えた。神社の中を流れるその川の前には、既に町の人たちがたくさん集まっていて、色とりどりの服を数本のろうそくの火たちが照らしていた。
「もう、火、点いてんね!」
「うん。元が点けたのかな…」
このろうそくの火も、元が点ける「導きの火」から分けられたものだ。慣わしで男の人しか触れない火。本殿では今きっと、元がその火を守っている。
「今年は薪割り手伝わされなくてよかったよねー」
「まあ…あれは大変だもんね…」
「懐かしいよねー。毎年毎年、三人で割ってさ。」
「元よりも、理子の方が得意だったよね」
「アイツ、剣道部なのにな。斧ぶん回してて怖かったわ」
「(笑)」
私たちは石畳の段々を一段一段、転ばないように下りた。川辺の人から順番に、既にお祈りを書いた和紙の短冊に火を点けて川面に流してゆく。水の上でちりちりと焼かれる短冊が橙色の炎を発して、川下に進み出すのが見えた。日はすっかり沈んで辺りはもう暗い。夕闇の中で燃える短冊は、本殿から聞こえる雅楽の音がその光景をさらに神々しくさせて、幻想的だった。そして、遠くに見える短冊の炎は次第に小さくなった。淡い灯火となって、ゆらゆらと揺れていた。
「たくさん、流れてるね」
「うん…」
「こんなに届いたら、ご先祖様も喜ぶわ」
「たしかに」
「…来年も、来れるかな」
「?」
「ほら、穂花はきっと大学行くべ?んなら、受験生じゃん」
「ああ…」
「ならさ、」
「来年は、三人でまた来たい」
「え?」
珍しく言葉が口を衝いた。思うよりも先に声が出た。良いことなのかは分からないけど、私の願いは、理子と、元とこれからも仲良くいることだった。だから、来年も二人と一緒に来れたら嬉しいと思っていた。
「まあでも、そうだね!」
「うん…」
「あ、あれ元じゃない?おーい、元っ!」
自分らしくないことを言った気がして恥ずかしくなった私の横で、理子が大手を振った。その先には白装束の男の人がいた。顔まではよく見えないけれど、そのなじみのあるシルエットは元だ。思わず私も理子につられて手を振った。
「はーじーめーっ!」
「お前ら、静かにしろってー」
「え、アンタそのまんまの恰好で来たの?」
「んだよ。もうすぐ出番だからさ」
元があの作務衣を着ている…。火焚き役になった男の人しか着れない、白い作務衣。その白も夕闇の中でよく映えていた。これ元か、と一瞬分からなくなる。ただ、すらりとした長身から出る焼けた腕は変なコントラストになっていて、かっこいいけどちょっとおかしかった。
「(笑)」
「穂花、何笑ってんの?」
「(だって、白と黒でパンダみたい…)」
「え、理子、穂花何だって?」
「アンタ、パンダみたいだって」
「へ⁈」
「(笑)」
元は「そりゃねえべよー」と言って悔しそうにした。どうやら神主さんに無理を言って、わざわざ十分だけ抜け出してきたらしい。せっかく来てくれたのに、パンダみたいなんて言ってごめんねと心の中で謝った。
「お前ら、もう流したの?」
「ううん、これから」
「そっか」
「ていうか、アンタ何か言うことないの?」
「は?」
「ないの?」
「…へ?」
「ゆ・か・た! ふつー褒めるでしょう?」
「あー、浴衣ね。おめはつんつるてんだな、相変わらず」
元と理子は本当に相変わらずだ。つくづく元もデリカシーが無いなと私は呆れていた。
「うっわ、ねえ穂花聞いた?ホントに言ったよコイツ」
「(笑)」
「穂花は、可愛いでしょ?」
「…可愛いかは分かんねえけど、似合ってるんじゃ、ない?」
元は照れながら私の浴衣を褒めた。理子に言われて初めてこういうことを言うのが、やっぱり元らしい。
「ていうか、んなことどうでも良いから、さっさとやるべ」
「どうでも良い⁈ だからアンタは彼女がいないんだよ」
「うるせー」
「ねえ、穂花」
「(うん)」
「はいはい! なあ俺、時間無いから早く頼むよ」
すぐに戻らなくてはいけない元に急かされて、川脇の木台に載せられた短冊を取った。既に皆がたくさん流しているから、残りわずか。三人で一枚ずつ、墨字でご先祖さまへの言葉を書いた。


『 これからも家族を見守っていてください 澤井穂花 』


火焚きの時間も近くなって、川辺の人は疎らだ。石段のろうそくも燃え尽きて、いくつか消えてしまっているのもあった。三人で水面に近づくと川の暗さがより際立って、灯りの無いところはこんなに暗いのかと自分でも少し驚いた。その闇夜に流れる短冊は、まるで宙に浮かぶ火の玉のようだった。
「ほら、お前らのも点けるぞ」
「はーい」
理子と私は、元にそれぞれの短冊を渡した。元が先をたらりと垂らして小さなろうそくの先に当てると、炎がゆっくりと短冊を昇っていく。
「はい」
「ありがと。にしても、なんでこの時代に女子NGなんだろうねー」
「しょうがねえべよ、決まりは決まりなんだから。」
「ほら、穂花も受け取って」
「(うん)」
元の点けた火が短冊をゆっくりゆっくりと昇ってくる。灰になってしまう前にと、理子と一緒に急いで川に浮かべた。じゅっと音を立てて火の勢いが弱くなる。それから尾を川下に向けて、二つの短冊はすーっと流れて行った。
火が段々小さくなるのを見守るように、三人が横に並ぶ。それから元も自分の短冊を遅れながら流して、「やっぱ、綺麗だな。」とそっと呟いた。
「何もない町でも、これだけは誇れるな(笑)」
「そうだね」
「(うん)」
私の隣には理子がいて、理子の隣には元が立っている。来年も、また。ここで、こうしていられたら。
「ん?どうしたの穂花」
「(何でもないよ?)」
「理子、穂花がどうかしたのか?」
「なんか感傷に浸ってるからさーこの子」
「(綺麗だなーって思ってただけだって)」
「ごめんごめん、ちょっかい出しただけだよー」
「(もう…)」
理子と私がじゃれ合う隣で、元がぽつりと切り出す。その声はどこか儚げだった。
「なあ、お前らは何て書いたんだ…?」
「へ?」
「ほら、短冊だよ」
「へ?」
「いや、へじゃなくてさ…その…な?」
「何よ急に畏まっちゃって。」
「わりい」
「そりゃ、ご先祖様へのお礼でしょ…?(笑)」
「ああ…、」
「ああって…なに?」
「やっぱ、そうだよな!」
「は?」
「いや。」
「どうしたのさっきから、」
「…穂花は?」
「?」
「は?」
「だから、その…」
元が今度は私に問いかけた。なんで元はそんなことを聞くのだろうと思って、理子に「なんで?」と耳打ちする。でも、理子はなぜか黙っていた。何も言葉を返さないまま、うつむいている。そして小さく「やっぱ、そっか…」と呟いたのが聞こえた。
「(理子…?)」
「あー!」
「(⁈)」
「なんだよ、いきなりデカい声出して」
「いやごめんごめん、約束忘れてたんだったー。」
「は?」
「ちょっとお母さんに渡さなきゃいけないものあってさ、待ち合わせしてたんだよねー」
「おう…そうなのか」
「んだ!だから、私ちょっと行ってくるわ。」
「おお」
「本殿でまたあとでね!二人で楽しんで。」
約束を突然思い出したのか、理子は浴衣の裾を掴んで石段を走って上がっていく。そんなに焦る用事なのだろうか。石段に並ぶろうそくの火を越えるとその姿はすっと見えなくなり、川辺にはあ然とする私と元の二人だけが残された。
「おう…」
「…」
理子、最後に何か言ってた…? チクチクした何かを私は感じた気がした。理子から向けられたことのない感情の欠片を…。
「あいつ、相変わらずガサツだな…?」
「?」
「せっかくの浴衣なのに、あいつガニ股で上がってたべ? ああいうとこだよなあ…」
「…」
「にしても、あいつ本当に合流出来るんかな! 絶対迷いそうだよな!」
「(うん…)」
「ああ、スマホ持ってるから何とかなるか。穂花、理子のこと捕まえろよ?」
「(うん)」
「…」
「…」
二人の間に沈黙が流れて、どこかぎこちなくなる。
「二人で話すの、なんか久々だなーそういや。…まあ話してるのは俺だけだけどな(笑)」
「(そう…?)」
「なんか、変に緊張するな(笑)」
「…」


あれ…、元、いつもこんなにぎこちなさそうにしてたっけ…?


私が言葉を何も返せないからだろうか、元が一人で話してくれる。でも何かいつもより口数が多い気がして、違和感…。元の顔を伺って、右上を覗いた。すると彼は顔を背ける。え?と思う。特に私が何か元を怒らせるようなことをした覚えはない…やっぱり、何かが変だ。どうしたの…、元。
「穂花さ…、聞いたことある?」
「?」
「短冊の話」
「(短冊…?)」
「十七の夏の、短冊の話…」
「…」
そう聞いて、私は数か月前の記憶を思い出した。元が話しているのはきっと、社務所でおばちゃんが話していたおまじないみたいなやつだ。十七歳になる年の短冊に云々、みたいな話のこと。先祖へのお礼じゃなくて恋歌を詠むと何か…みたいな話…?一体それがどうかしたのか…。
「あれ、変な言い伝えっていうか、まやかしだよな…」
「…」
「俺は、神主さんから聞いたんだけどな」
「…」
「穂花って、ああいうの信じる?」
「?」
「俺は…、」
「…」
「いや、何でもない」

何でもないって…何…?

理子に向けられていた「?」が今度は元の方を向いた。

ねえ元、やっぱりどうしたの…?変だよ…?

「…」
「…」
「いやさ!」
「?」
「もう、ストレートに聞くわ!」
「(え?)」
「彼氏、いんの?」
「?」
「その…穂花、彼氏いるのか…?」
「…?」
「だから、ノート…」
「(ノート…?)」
私は縦にも横にも首を振らなかった。それは、特に深い意味があったわけじゃない。ただ、わからなかったから。急にそんなことを聞かれて、わけがわからなくなった。そういえば…、元とこんな話をしたことはなかった気がする。大体、こういう話が好きなのは理子で、私は聞き流すような性格の人で、元と恋の話をしたことはない。そんな元が私に彼氏の話をしてくるのは珍しい、というか今までになかったことで…。それに、ノート?ノートって何のこと?
「ごめん!いや、なんか変な空気だな!出番前に何か縁起悪りいな…。ごめんな!」
「(え?)」
「やべっ、もう時間。神主さんに怒られるから行くな!」
理子も元も、私にお茶を濁して何か隠し事をしていると私は確信した。でも、今それを問い詰めることは出来なかった。声が出ないことだけじゃない。そこを突いたら、何かがどわっと溢れ出してきそうな予感がした。私が経験したことの無い何かが、どっと溢れてきてしまうんじゃないかと思った。だから、怖かった。
「じゃあ…、頑張ってくるわ」
「(うん…)」
気にせぬ素振りをして、私は元を見送るんだ。今は頑張れって意味で、右拳を突き出す。さすけねえ。とにかく、大役なんだから頑張ってきて。失敗しないように。これで全てを打ち消せる気がしたから。
「おう、ありがとな」
元は彼の拳を私の先に当てた。擦れた拳は少し震えていた。彼の緊張なのか何なのかはわからない。当てた拳をすっと戻して、元は石段を上がっていく。その背中は私よりもうんと大きくて、たくましいと思った。白装束が闇夜に映えて、まるで彼はこれから戦いに出る戦士のように見えた。
「あのさ!」
すると、その戦士は突然振り返った。そして、私の方を見て、こう言った。

「こんなこと言ったらヘンなのかもしれないけどさ!」

「俺、短冊にお前のこと書いた!」

……?

「ごめん、お前からしたらただの幼なじみだってのは分かってる!」

……!

「でも…、俺……、」

………

「穂花のことが好きなんだの!」


時が止まった。そう、止まった。止まった中で、駆け出す元が見える。白い影が消えて、残像が強く私の目に焼き付いた。彼の白と、ろうそくの炎。それがじっと焼き付いて、目の前でじりじりとした。


私は元の放った言葉を反芻した。何度も繰り返して、頭の中で反響する。


…すき…?


何が起きたのかさっぱりわからない。わからない。今、私はまやかしを見せられているのか、それともこれは夢?夢だとしても良い方じゃないはず。元は、私のことを短冊に書いたと言った。それはつまり、その…私のことを想っているということ…?いや、でもそんなはずない。元は、幼なじみで、今までずっと一緒にいて、友達で、大事な存在で。


それに、それに…、元は理子のことが好きなんだと思っていた。二人は、私が引っ越してくる前から仲良しで、三人でいる時もいじり合って、やり合っていて。


…好きって……


私の中にその意味が見つからない。元が言った「好き」はどういう意味…?



ぼんやりとした頭で本殿に向かって歩いた。もう火焚きの儀式は始まっていて、その火の周りには大勢の人が集まっている。ざわざわとする中でバチバチ音を鳴らしながら火は燃えた。煤が飛んでそのつんとした煙が眼を刺してくる。そしてそこには、元がいた。

彼は松明を持って、その火にかざした。火が移って松明が燃えて、歓声が上がる。元の頬に汗が光った。流れた汗は作務衣の中に消えていく。元が持つ松明が高く掲げられた時、私はその炎を見て苦しいほど綺麗だと思った。なんで、なんでそんなに綺麗なんだろう。
元はそのまま参道へと下っていった。脇の灯篭がひとつずつ明かりを取り戻す。真っ暗だった道が照らされるようになり、ぼんやりと影が出来た。

ひとつ、またひとつ、火が灯されていく。参道の半分まで辿り着いた頃には、松明の炎がだいぶ小さくなっていた。周りの人と一緒に、元のその背中を見守る。遠くでめらめら燃える火が静かな夜を際立たせて、さっきまで口々に話していた皆も息を飲んで口を結んでいた。

元が最後の灯篭に掛かった時、大きな風が吹いて参道を駆け抜けた。端で見守っていた私の浴衣も強く抑えられる。心配になって松明の方を見上げた。大丈夫、消えていないようだ。消え入りそうな炎でも、確かに燃えていた。そして、彼は最後の灯篭にゆっくりと火を灯した。二列の灯し火がまっすぐ繋がる。

「おかえりなさーい!」
「おけえりー!」
「帰ってこーい」

最後の灯火が点いた瞬間、周りの人たちが思い思いに叫び出す。何十年、何百年も前の先祖を思う人もいれば、ついこの頃亡くなった家族を偲ぶ人もいる。ずっと前におばあちゃんと来たことを思い出した。おじいちゃんが亡くなったすぐ後で、その頃の私はこの儀式が持つ意味を何も理解していなかった。ご先祖様を迎える、神聖な火。皆が思いをのせている。元はその大役を失敗もすることなく、やり遂げた。あそこにいるのは、私の幼なじみの元だ。皆の先祖を迎える手助けをしたのは、元だ…。


私に声があったら、元に、なんて返せたの…?


 *


理子は、境内に暗がりの中にいた。「おかえりなさーい!」と聞こえた。きっと、火焚きの儀式が全て終わったんだ。元…。アイツも、無事に火焚き役を終えたんだ…。皆が参道へと移ってしまったから、そこには誰もおらず、提灯の明かりだけが灯っていた…。本当なら、元の晴れ舞台をこの目で見たかった。せっかくの火焚きを、見てみたかった…。


でも、今、そんなこと出来るわけないじゃん…。


理子は、川辺での出来事を見てしまっていた。川辺で、石畳の階段の上で、元が穂花に想いを打ち明けたその瞬間を。


やっぱり…、そうだったんだ…


これが理子の胸中に最初に浮かんできた言葉だった。分かっていたはずだった。そんな気がしていた。なのに、なのに、その場面を目の当たりにすると涙が溢れてきた。なぜかは分からない。というか、分からないことにしないといけない気がして。

理子と元はずっと一緒だった。生まれた時から一緒にいて、野山を駆け回っては泥だらけになった。変な話、お風呂も一緒に入ったことがある。七五三も、入学式も、二人で写真を撮った。周りの大人は皆、「将来のお嫁さんとお婿さんだんべなあ」と二人の事をからかった。


でも、元が好きだったのは…穂花で…、穂花だった。


三人の中にそんな感情があるはずなかった。穂花が引っ越して来た時も小学生だったから、純粋に三人は仲良くなった友達だった。幼なじみになった。
それが今、変わろうとしている…。このままじゃ、居られないんだ…と現実を見つめた。胸がすっと冷えて、足元から落ちていく感覚がする。バラバラ。バラバラになる。ひとり。ひとり。ひとり。
理子が抱く思いはそれだけではなかった。罪悪感が底から湧き上がる。これがもし、自分に全く遠いところに好きな人がいて、穂花や元とはただの仲の良い友達で居られたならきっと違ったんだ。でも、遠くない…。

そこに、いるんだ……。

それをはっきりと確信した時、理子の心に声が溢れて、嗚咽となって吐き出される。

なんで…なんで、なんでなんでなんで! 

なんで私は元が好きなの…?

それで…なんで元は穂花なの…?

なんで穂花は……

なんで穂花は好かれて、それに楽しそうで…

…自分は…?

陸上も伸びないで、そもそも異性として見られてなくて!

楽しくないし…

本当の私は…?

…なに、この気持ち…

辛い、辛いよ…!

なんで穂花のこと妬まなきゃいけないの…? ねえ、なんで⁈

でも、バラバラは…嫌だ。

絶対にイヤ!

イヤだ………‼

溢れる涙が砂利に触れて、下に付けた掌に泥がついた。どんどん涙はこぼれて、収まらない。母親に借りた山吹色の浴衣。土のついたそれを見て、理子は虚しくなった。お祭りの日に張り切って着てきた浴衣も、うす汚れて涙でしみになっている。


……どうしたらいいの…?


遠くで人の声がした。そうだ、もうお祭りも終わるんだ。足音と声が少しずつ近づいてくる。こんな姿を誰かに見られたら…。

理子は走った。その場から逃げ出してしまいたかった。裏の社から抜ける道は真っ暗で何も見えない。それでも遠くの明かりを見て、ひたすら走った。
そして道途で落木につまづいて、赤い鼻緒の下駄が脱げた。左足の親指と人差し指の間を触ると血が出ている。
「痛っ…」
赤い鼻緒、穂花とお揃いのもの…。このお祭りの前に穂花と一緒に新しく替えたものだ。
「痛いなあっ‼もう‼」
足がチクチクとした。チクチクと痛んだ。傷口と鼻緒が擦れて、そこからはまだ血が滲んでいた。

そして、胸がチクリとした。
この痛みは、きっと誰にも分からない。誰かに針で何度も刺されているような痛み。
理子は、胸に巣食っていた「チクチクしたモノ」が(うごめ)いたのを感じた。
黒くて、どろどろした感情が胸の底を這うように流れ始める。

それは、妬み。

…妬き心だった。

妬き心

私は夢を見ていた。遠い、遠い日の記憶によく似ている。母の記憶、そして転校してきたその日のこと…。

小学四年生の春、私の誕生日が少し過ぎた後に、お母さんは家から居なくなった。

『 さよなら、穂花。元気でね 』

その時はまだ東京に住んでいて、私は赤いランドセルを背負っていた。ちょうど学童から帰ってマンションのドアを開けた時、その日、薄暗い中に机の上の置き書きを見つけた。最初は夕ご飯の事か洗濯物の言付けだと思った。だから何のお手紙だろうとウキウキしてリビングの机に駆け寄ったことを覚えている。

古く、消えかかっていた…この光景…

すっきり綺麗にされた机の上にそれはあった。今思い返すと不自然なほどに部屋が整えられていたから、そういうことだったのだと思う。私はじっとそれを見て、「さよなら…?」と呟いた。

手紙の意味が分かった時、私は自分がこれからどうなるのかを心配した。いつもなら怖くてすぐに点ける電気も消したまま、机の前で数時間立っていた。

私の生活が変わったのはこのすぐ後だった。お父さんはこの時も確か、日本にはいなかった。だから誰にその事実を伝えることも出来ず、相談することも出来ず、私はひとりで数日を過ごした。
大人の話は裏で進んで、お母さんには四年生の冬の調停の時まで会わなかった。そしてそれが最後に母を見た時だった。

なんで今…この記憶が湧き上がるんだろう…

次に見えたのは庄内の小学校…。余目小の校舎、まだ改修される前の古い校舎だ。私が転校してきた時のまま。おばあちゃんに連れられて、校庭から中に入る。
校長室に通されると、そこには恰幅の良い校長先生が待っていて転校の案内をされた。実はその人はおばあちゃんの知り合いだったことは、後から知った。だからおばあちゃんはどこか具合が悪かったのだろう。離婚した息子夫婦の娘を引き取る。それがこの山形の片田舎でどう見られるのか、大きくなって初めてよく分かった。

東京の小学校と違うことばかりで戸惑うことは多かった。一学年は一クラス。学校で飼っているのは鶏じゃなくて牛。担任の先生に促されて通された教室は私が知っていたのよりもうんと小さくて、机の数も数えるほどだった。
「今日から皆の仲間になる、澤井穂花さんです。東京から来ました。じゃあ澤井さん、自己紹介して」
夏休みが終わって二学期を迎えた教室。後ろのロッカーの上には皆の自由研究の作品が見える。研究ノート、ポスター、ストローで作った船…。本当にこんなことまで人は覚えているんだろうか。クラスメイトは十人もいなかった気がする。だからこんなに机が少ないんだ。
「n、あ、え、…」
自己紹介というものが私は苦手だった。今もそれは変わらない。聞く人の視線がいっぺんに自分に集まって、心拍数が一気に上がる。この時もそうだった。担任の先生におばあちゃんは説明してくれなかった。離婚して引き取られた上言葉も喋れないと知れたら、ますます都合が悪かったのだろう。
「…」
「澤井さん?どうしたの?」
「……」
「ねえ、ほのかちゃん、東京から来たの?すんげえね!」
「?」
「おいリコ!ほのかちゃん、ちじこまってるべよ!」
「うるせえーはじめ。アンタはいちいち! ねえ、ほのかちゃん」
「…」
「コイツの言うこと、きかなくていいからな?」
「はあ⁈ ほのかちゃん、このはじめのことこそ、きかなくていいからね?」
理子と元はこの頃からこうだった。緊張して何も喋れなくなった私を一番に助けてくれたのも理子で、そのうち理子には私も言葉を発せられるようになる。理子が何かを言えば、元が口を出して。元が喋れば、理子が噛みついて。幼心に「こっちの子って、こんなに気が強いんだ…」と正直怯えていたのも思い出した。

元のお父さんがおばあちゃんに裏の田んぼを借りていたこと、そのおばあちゃんは理子の店の常連だったことから、二人との仲はより深まっていった。放課後は二人に連れられて学校の裏の山でかくれんぼや鬼ごっこをした。夏の終わりの頃には川に入って鮎を手掴みし、秋に入ると野草や木の実を取った。ずっと東京で過ごしていた私にとっては、どれもが新鮮で、楽しい遊びだった。私はここで初めて本当の子どもになった。

東京での私は、他人の顔色を伺うような子どもだったと思う。友達の独特なグループ、誰かが嫌いと言ったら自分も嫌いと言わなければならないような雰囲気。そして友達関係に限らず、両親の仲。声を失う前から、私はとっくに「くちなし」だった。自分の意志も思いも持たないような、ただ揺られている綿毛みたいな存在。それが、庄内に来てからは少し変わった気がする。

元と理子はずっと仲が良かった。口喧嘩をしているように見えても実はほとんどおふざけのようなもので、本当の喧嘩はめったにしない。特に理子は、女の子なのに男の子みたいで、年上でも大人でもどんな男の人とも真っ正面から向かっていく。私はそんな姿に、理子そのものに憧れすら抱いていた。
理子に比べたら、元は少し頼りなかったかもしれない。ひょろひょろで、長くて、球技は得意じゃなくて。その頃から剣道はやっていたのに竹刀みたいな体つきで。おばあちゃんもよく「あの子は農家向きじゃないねえ」と溢していた。中学に上がって、ようやく元も男の子っぽくなったなと私は思う。それまで少しだけ背の高かった理子を追い抜かして、元が三人の中で一番背が高くなった。可愛らしかった声も聞けなくなって、理子はその事を散々いじっていたっけ。

…あ…

また、場面が変わった。その竹刀みたいな男の子が大きくなって、白装束の似合うたくましい青年になった。その青年は町の男の人の通過儀礼である火焚き役を引き受けて、無事それをやり遂げた。彼は失敗すらせずに、迎え火を灯した……。

…あれ、これは…昔の記憶じゃない…

今見ているのは、昨日の夜の記憶だ…。燃える短冊が流れ漂う裏の川。松明に火がつけられるのを見守る町の人。元が火を点け、段々明るくなっていく長い参道…。
昨日見た光景が急に目の前をぐるぐると駆け巡った。眩暈のように自分の頭が、目が、回っているような感覚になった。

火だ。火が燃える音が聞こえてくる。ばちばちと爆ぜる音。そしてそこに見えてくるのは…元…? 
元だ。
元が松明を持ってゆっくりと近づいてきたと思うと

「穂花のことが好きなんだの!」

と彼は叫んだ。そして元は背中を見せて遠ざかっていく…

「イヤだ………‼」

後ろを振り向くと、反対側に山吹色の浴衣が見えた。

あれは…理子…?
理子だよね… 

二人の背は、全く違う方向にゆっくりと進む。離れていく。追いかけようと、私は手を伸ばしてみた。でも、水の中のように思うように動けない。足が進まない。手も届かない。そして二人の姿は段々小さくなって、やがて見えなくなった。闇の中に、消えた。

そして、私は闇の中でひとりぼっちになった。暗い闇の中で、ひとりだけ。

怖くなって叫ぼうとした。でも、声が出ない。別に誰かが見ているわけじゃないのに、誰もいないのに、声は出なかった…。



「穂花、穂花っ」
「…」
「穂花、ちゃっちゃど起ぎな!」
「…?」
そこは、私の部屋で、窓からは夏の熱い風が吹き込んでいた。蝉の声が聞こえる。カーテンも閉めずに、窓を開けたまま私は寝ていた。
「おめ、うなされでだげど、だいじか?」
「…」
「まあいい。ちょっと来な」
目を開けるとそこに居たのはおばあちゃんだった。私を揺すり起こして、まだはっきりしない視界の中をすっと去っていく。

…なんだろう

さっきの夢の中に私はまだいるんだろうか。いや、でもこれがきっと現実で、そこにいたのは本当のおばあちゃんなのだろう。胸の奥にはまだ気味悪さが残っている。母の記憶、小学校の頃の記憶、そして昨晩の記憶。なんでこんなものを見せられて、それらが絡み合って。そして理子と元の二人は消えていった。
「穂花、はやぐ来な!」
「…」
おばあちゃんは何か怒っているようだった。私が窓を開けたまま寝てしまったから?いやそれでここまで不機嫌になるとは思えない。なら、浴衣を汚してしまった?ちゃんと昨日帰った後に確認をした。汚していないはず。私は何のことで怒られるのか分からないまま、急いで階段を下りた。
「穂花、これはなに?」
「…⁈」
おばあちゃんが居間の机に差し出したのは、…私の短歌ノートだった…。何が起きているのか分からないまま、私は促されて対面に座る。なんで…、それが…
「どだなづもりなんだい?」
「…?」
「隠れでごそごそど。おらがこだなの嫌いだって知ってるんだべ?」
「…」
「またなんも喋らねのがい」
「…」


なんで、なんで、おばあちゃんが知ってるの……?

そして、ノートを持ってるの……? 


状況が飲み込めない。私は歌のことも、そのノートのことも、悪いことをしているとは思いながらおばあちゃんには隠し続けていた…。一度問い詰められた時も、しらを切り通せたと思っていた…。…だから、おばあちゃんは気づいていないと思っていた…。でも、今おばあちゃんは知っている…。隠していたことも気づいていたんだろうか…。
「今度は歌がい」
「…」
「ふん、生意気だね。百姓の家に、歌詠みの能なんて要らねよ」
「…」
「口もきげねえのに芸事なんて」
「…」
「それにこれ、学校のせんせいも巻ぎ込んでだんだね。迷惑がげねでどあれほど言ったべ?」
「…」
「おめが来てがら、おらは肩身狭えんだよ」


…ああ…また、私の光が消えていくんだ。


その事実を…、私は冷静に受け止めていた…。さっきまで見ていた悪い夢が正夢になったような気分になった。

歌は、久々に見つけた楽しいことだった。唯一許されていた本を読むことも十分に楽しんでいたけど、歌は新しい世界を私に与えてくれるものだった、そうなりかけていた…。それが、今また消えるんだ…。中学生の頃に好きになったのはJポップの音楽だった。でもそれも「けったいねえ」と言われて取り上げられ、結局私は諦めた。漫画とアニメは「理子が貸してくれたから」と頑張って伝えて、ようやく最近になって許されたもの。それが、ここに来て短歌だと知れたら…おばあちゃんの反対は当然予想できたことだった…。
「この子は本当に、次がら次へど…」
「…」
「穂花。おらが何で芸事が大嫌いか知ってっけ?」
「…?」
「芸事ってのは、人ば怠惰にさせんだ。怠げ者にすちまう。」
「…」
「おめの父親もそうだ。ヘンな音楽さハマって、ずさまと無理すて作った金で行った大学も辞めで、結局は今もどごが放浪すてっぺや。平和なおづむだよ」
「…」
「母親だってそうだ。あいづはね、踊り子だったんだよ。不埒な、踊り子さ。」
「…」
「こごさ結婚の挨拶さ来だ時がら、どごがいげすかねえど思ってだんだよ」
「……」
「それでおめが産まれだ。そすて、放られた。」
「……」
「何が言いでえが分がるね?」
「…」
「芸は身を滅ぼすんだよ。」
「…」
私は捨てられたんじゃない…ただ、お父さんとお母さんが一緒に居られなかっただけ…。お母さんが何の仕事だろうと…関係ない…。絶望の中に、ふつふつと怒りを感じた。それはおばあちゃんに対して感じる、初めての怒りだった…。
「そうど知ったら、もうおめもやめな。これは忠告だよ」

嫌だ…。やめたくない…。

私の光が消えるのは、もう嫌だ。ここまで心を動かされたものを、失いたくない…。私はおばあちゃんの顔を見上げた。「なんだね、その目は」とおばあちゃんは言う。でも、私は目で訴えかけた。それしか伝える方法が無いなら、物怖じせずにおばあちゃんを見据えるしかなかった。
「おめのだめを思って、理子が教えでけだんだ。友達の親切反故にするんでね!」


…え?…


「おめは良い友達ば持っだよ」



……
…理子が?
…理子が…? おばあちゃんに告げ口した……?

いや、そんなのあり得ない。理子がおばあちゃんに言うわけがない…! 理子は私の一番の友達で、秘密をばらすような人なんかじゃない。約束を破るような人じゃない……。

「だがら、わがったね?」

…でも、ノートのことを知っていたのは水田先生と…理子だけ…。

元は…? 

いや…元は多分、これが何のノートなのかは知らないはずで……

なら、

もしおばあちゃんの言うことが本当だとしたら……

本当なら何で…? 

何のために…?

「穂花、きいてんのかい!」

私の湧き上がる怒りは、行き場を失った。信じたくない気持ちがそれを超えてこみ上げてくる。

理子なら、理子なのなら、何のために告げ口をしたのかも分からない。


でも、ノートのことは理子しか知らない………。



私は立ち上がって、玄関から飛び出した。後ろで「こら!穂花、どごいぐんだい!」とおばあちゃんが引き留める声がした。それを振り切って、私は走った。理子に、理子から、直接聞く。本当なのか、嘘なのか、本当なら何でこんなことをしたのか。
「あれ、穂花ちゃん、どうした…」
「理子‼」
「…え?」
「理子‼」
理子の家の店先で私は大声で叫んだ。理子が今いるなら、店の奥にいるはず。理子のお母さんが「どうしたの…?」と心配そうに私に聞いてきた。でも私には答えられない。
「理子‼」
「…なに、穂花。どうしたの?」
何度もその名を呼んで、呼び続けて、ようやく出てきた理子は、心なしか少し疲れているように見えた。目の下が薄黒くなっていて、あまり元気そうな表情ではなかった。
「ちょっと、来て」
「え、なに」
私は理子の手首を引いて、店の裏に出た。私は、少しおかしくなっていたと思う。傍から見たら血相が変わったように見えていただろう。
「ちょっと、穂花、どうしたの?」
「どうしたもない‼」
「…え?」
「理子なんでしょ?おばあちゃんに言ったの」
「は?何の話?」
「しら切らないでよ!」
「…」
「さっき、おばあちゃんにバレた。歌のこと、バレたの!」
「…」
「おばあちゃん、全部知ってた。私が、作った歌を水田先生に見てもらってることも、あのノートのこともっ」
「…」
「ねえ!何か言ってよ!」
「…」
理子はずっと私から目を逸らしたまま、うつむいていた…。涙でぼやける私の眼に、ずっと動かないまま映っていた…。
「ねえ…穂花、私がそんなことするわけないじゃん…」
「…え?」
「だって、私がそんなことして何になるの?私にとって得になる?」
「…」
「人をそんな疑うなら、ちゃんと証拠出しなよ‼」
理子は涙目になって、初めて私の顔を見た。真っ赤に腫らしたその顔は、いつもの理子とは違った。少し、怖い。いつもの理子じゃない…。
「私だって…私だって…、親友を疑いたいわけじゃないよ。信じたいよ。でも…でも…!」
「何?でも何なの⁈言えばいいじゃんはっきりさあ!」
「…おばあちゃんが、理子から聞いたって言ってたんだよ……‼」
「!」
「おばあちゃんが嘘をついてるって言うの?ねえ、理子。本当のこと言ってよ。ねえ!」
「…」
「本当なら、なんで?ねえ、なんで?教えてよ。私に怒ってたの?私のこと、嫌いだったの…?ねえ、理子…」
「…」
「なんで…、なんで、私の楽しみを奪うの…?」
理子の顔を見て、本当に理子が告げ口したんだろうなと、…何となくわかった。苦しそうな、苦そうな顔をしている。普段は見せないそんな表情を目の当たりにして、私は悲しみしか感じなかった…。
「なんで、か…。」
「…?」
「なんでだろうね…」
「…」
「…ごめん。」
「?」
「穂花…私だよ…、おばあちゃんに言ったの」
「…‼」
さっきの表情でもう覚悟をしていたはずなのに、理子の口からその言葉を聞くまでは信じる気持ちも残っていた。でも、理子の告白を聞いて、私の中で何かがガラガラと音を立てて崩れていった。急に底が抜けて、私は墜ちていった。そう、そこは暗闇だ。真っ暗で何も見えない。そこに、ひとり、私がいる。胸がすくような思いがして、寒気もした。

…あ…、あの時と同じだ…

四年生の冬。私は父に引き取られた。久々に会った母は雰囲気が変わって、派手な宝飾と高い香水を身にまとっていた。最初、父に聞いていたのは「お母さんと仲良く出来なくなったから、離れて暮らすんだ」ということだった。でもその日、母に、母のお腹に、赤ちゃんが居ることを知った。母は、私に「もうあなたのお母さんはいないよ」と言った。この世に、私のお母さんは居なくなった…。

「穂花…何か言いたいことがあるなら言ってよ」
「…」
「非難でも何でも、嫌いとか死ねとか言えばいいじゃん‼」
「…」
「ねえ…、なんか言ってよ…」

…私は、何を言えばいいの?

聞きたいことはいっぱいある。でも、もう…私の心が限界だった。元のこと、おばあちゃんのこと、そして理子のこと…。

もう、わからないわからないわからないわからないわからない‼

皆、私の信じる人だった…。家族だった…。その人が、今何を考えているのか…、私にはわからない…。

理子は、理子は、私の親友だった!
一番信じている人だった!
それがなぜ?
ねえ、なんでなの?
理子、どうしたの?
私はもうわからないよ。わからないんだよ…

「黙ってないで何か言ってよ‼」
「…」
「なんで、告げ口したの…?」私はそう聞こうとした。私が一番知りたかったことだから。

…でも、私の口も喉も、言うことを聞かなかった。

NA

なn

「…なに?…穂花、喋れないの…?」
私は口を金魚のようにぱくぱくさせていた。なんで?なんで…? 顔に血が上って、真っ赤になるのを感じた。腕が、動かない…。体が、動かなかった…。
「ねえ、冗談やめてよ…」
「n…」
「言いたいことあるならはっきり言えばいいじゃん!」
「ん…」
「穂花!ずるいって‼」
「…⁈」
「そういうところだよ…そういうところなんだよ‼」
「n…」
「私をバカにしないでよ!」
「…?」
「なに?ずるいじゃん!喋れないからって大目に見てもらって!またどうせそうなんでしょ?」
「…」
「そうなんでしょ⁈」
「…」
「…私がいないと何も出来ないくせに‼」
絶句する私を横目に、理子は立ち去ろうとした。
その言葉はあまりに強くて、痛くて、鋭くて、そして理子が放った言葉だということを受け入れられなくて、私は何も出来なかった…。
「よかったね」
「?」
「元に好かれてさ」
去り際に理子はそう言って、家に戻っていった。その台詞を聞いて、私の中のもやもやの全てが繋がったような気がした…。

だから、だから、理子は告げ口したの…? 

私に…あんなことを言ったの…?

私は、ひとりになった。紛れもなくひとりで、言葉も喋れない。何の力もないひとりぼっち。
自分の事も、気持ちも言えない。自分というのが何なのかも分からない。

私は…透明人間。


もう、誰からも気づかれない。

落ち窪

私はそれから暫く、体調を崩して学校を休みがちになった。一番悪い時は、朝目覚めても体が動かなくなって、一日中部屋で過ごすこともあった。誰とも口を訊かず、誰とも連絡を取らず。学校に行けない日は適当に理由を付けておばあちゃんに代わりに電話をしてもらった。その度におばあちゃんは不機嫌になり、「おらの頃は、ずる休みば勘当物だったのに」と嫌味が尽きなかった。

私に起きたこと。それは…自分でもよくわからない。今まで当たり前だと思っていたものが急に目の前から姿を消した。大祭の日までは何一つ変わらない日々が流れていて、むしろ上向きになっていくのを感じていて、私は楽しかった。

大祭の日、元に告白をされた。そして次の日、起きたらおばあちゃんに歌を取り上げられていた。それを告げ口したのは、理子で、理子とはあれ以来もう何も話していない。
辛いことって、一度にこんなに降りかかってくるものなんだろうか。私は神様をあまり頼ったことはない。でも、神様も理不尽なことをするんだなと少し恨んだ。
何が起きたのか、わからない。


そう感じていた時も、ゆっくりと流れた。そうすると次第に自分の足元が見えてきて、自分はどうするべきなのか、どうしていけばいいのかを考えられるようになってきた。でも、考えれば考えるほど、目の前には何も再起の「きっかけ」が転がっていないことに気づかされて、…何も希望が湧いてこなくなった。
そしてそのまま、学校は夏休みに入っていた。


 *


「ごめんください」
「はいはい!今いぎますからね」
私は、終業式を終えた足でそのまま澤井さんの家に来ていた。校用の自転車で畦道を駆けて少しばかり。一面に稲が揺れる田んぼの脇にその家はあった。
「はーいー。」
「どうもすみません、私…水田、と申しますが」
「え。保険の勧誘だら間に合ってっず」
「あ、いや。澤井穂花さんのお宅ですよね…?」
「はあ、んだっす。そづらは?」
「庄内高校の、水田レナと申します。穂花さんの担任でして…」
老婆は若い女が昼間に訪ねてくるのは保険屋に違いない、と思ったのだろう。最初は警戒していたようだったが、私が高校の教師だと聞くと急に柔らかな態度になって家に招き入れようとした。
「はあ…こだな若ぐで綺麗な女の人、せんせいとは思わねぐで。どうもすまね。」
「いえ。それで、穂花さんは…?」
「穂花?多分、上さ居るですよ。最近は部屋がらも出でこねで、おらも困ってるんだよ」
「そうなんですね…」
「ほら、立ぢ話もなんだがら、あがってけらっしゃい。」
「はい、失礼します」
彼女の住む家は昔ながらの農家の家だった。周りを松の木で囲われていて、裏には小さな蔵もあるようだ。前は土間として使われていたのか、家の床は私の腰ほどに高く、スカートで来ていた私はそれを這い登るようにして家に上がった。彼女はここに祖母と二人で住んでいるのだろうか。
「これ、穂花さんの通知表で…」
「せんせい、お茶っこでも飲む?」
「あ、いえ、お気遣いなく…」
「お昼はもう召す上がったの?」
「まだ…」
「昨日煮た芋汁あっから、け!」
「ああ、すみません。それで、ほのか…」
「玉ごんにゃぐと、ぺそら漬げも食うべ?」
「あの、その、」
老婆は久々の客人だったのか、私の事を厚遇した。私は彼女の勢いに押されるがまま、本来の目的には進めずに芋汁をご馳走になる。
「どう、うめが?」
「はい、とても…」
最初は社交辞令として飲み干そうと思っていた芋汁だったが、一口飲むとその気持ちが変わった。…懐かしい。自分の祖母も昔芋汁を炊いてくれたことを思い出す。ごろごろと入った里芋に、小間切れの肉。そして焼き豆腐。醤油味とも味噌味とも似つかないその優しい味がした。
「…懐かしいです」
「へ?せんせいもこっちの人なんだが?」
「ええ、まあ…。米沢の生まれです」
「そうけえ。米沢けえ」
「ええ。それで、小さい頃に祖母がよく作ってくれました。」
「んだんだ。おがわりすんだら、まだいっぺーあるげんども?」
「あ、いえ、大丈夫です。ご馳走さまでした」
そろそろ本題を切り出さなければと私は思った。今日ここに来たのは他でもない澤井さんの様子を聞いて、可能ならば彼女に会って話すことだ。何故そこまでして?と問われれば、「学年主任に言われて」が素直な理由になる。それに白見教頭からも「やっぱり水田先生のクラスの問題児は片付かない?評価に関わりますよ?」とプレッシャーを掛けられていたのだった。
でも私自身も、彼女が急に学校を休むようになった事を気にしていなかった訳ではない。何かがあったのだろうとは思っていたし、三週間も来たり休んだりを繰り返すと、担任としても流石に心配になる。
「それで、穂花さんの事なんですが…」
「穂花?あの子はもう、こごんとごずっとあだな調子だよ。ほでえ体の調子悪いんだら、医者にでも行げって言ってるんだげどね」
「そうですか…」
本当に体の調子が悪いならすぐに医者に掛かった方がいいと思った。ただ、私は体の調子が原因ではないのではないかと思っていた。なぜなら、歌を書き留めていたあのノートもずっと、異変が起きたちょうどその頃から止まっていたからだ。
澤井さんは「コンクールに挑戦する」とノートの端に書いていた。それを決めてから、私は彼女の歌の添削を繰り返していた。歌人ほどの能はないが、幼少期からずっと歌詠みの会に参加して大学でもかじっていたから、私にも彼女の歌を批評するくらいはできる。
彼女の歌は、日に日に磨かれていった。最初はごろごろとしていまひとつの歌も多かったのに、調子のいい時は伸びやかな歌を何首も詠んだ。これなら本当にコンクールでも入賞を目指せるのではないか、私はそう考えるようになっていた。そこには確かに、彼女の思いや声が溢れていた…。
「せんせいも知ってるどは思うだげんと、あの子は何ひとづ話さね。おらにもだ。んだがら、おらも何だがさっぱりわがらねんだよ。」
「そう、なんですか…。てっきり、おばあ様には…」
「ふっ、おらがあの子の声聞いだのは、もうずっと前のごどだ。あの子がうぢに来だ頃だよ。」
「うちに来た…?」
「しゃねの?せんせいはでっきり知ってるもんだど。」
私は…何も知らなかった。そして、実の祖母とも言葉を交わさないというのも初めて知る事実だった。澤井さんのご両親についてはそういえば、生徒票の付記にそんな記述があったかもしれない。でも、そこまで目を通していなかった…。
「あの子は片親だ。父親は自分では貿易商で言ってっけど、プータローみだいなもんだよ。」
「…ああ」
「母親は踊り子ですた。まあ、穂花が小学生の時に居ねぐなったげどな。」
「そうだったんですか…。」
「ああ、別に両方生ぎでっず?父親、ていうがおらの息子が、あの子の面倒はみでますから。ぼんきり外国にいで、あの子どは電話で話す程度だげどね。」
「外国に…」
「それで穂花はこっちに来だんだ。今はおらと二人で暮らすてる。」
「お二人、だったんですね」
「せんせい、なんもしゃねんだね」
「すみません、新任で…」
「そう、どうりで若えど思ったよ。せんせい。」
おばあさんは下からじろじろと私の事を見上げた。そして再度一瞥して「お茶っこ、注ぎますかいね」と急須にお湯を注ぎに立った。老婆に「お構いなく」と声を掛けても、彼女はお茶を淹れて戻ってきた。
「はいどうも、おまっとしました。」
「すみません」
「芋汁やっぱ食うけ?」
「あ、いえ」
「んだ。せんせい、おら、ひとづ聞ぎだぇごどがある」
「…はい?」
「歌(うだ)ば、あの子さ教えだのはせんせいがい?」
「え?」
「歌(うだ)だよ、歌(うだ)」
「…」
私は一瞬たじろいだ。澤井さんの様子を見に来ただけの私にとっては、予期しない話題が彼女の口から出てきたからだ。
「あの子が迷惑がげで悪いね。歌、見でくれでるんだべ?」
「まあ…はい…」
「…もうやめでぐださらねが。」
「はい?」
老婆は私に敵意を抱いている。この時初めて、私はそれを知ったのだった。
「穂花のだめにね。」
「…え?」
「あの子には、親どは違って、全うに生ぎで欲しいんですよ。勉強をしでほしい。」
「…あの、なぜ…?」
「いぐらせんせいでも、うぢのごどには首突っ込んでほすくね」
「すみません…」
「んだがら、お願いするっすよ、せんせい。」
「…」
老婆の言葉には微かに孫娘への愛も感じられる。ただそれが全てかと言われればそうではないように思えた。メンツ、体面、私が嫌いな田舎の堅苦しさが、確かに彼女の言葉を取り巻いていた。


老婆に案内されて、私は澤井さんがいるという二階に上がった。階段のすぐ横にある障子戸の奥からは人が動く音がして、その障子に影が揺れた。
「澤井さん、水田です」
私は戸の前に静かに立った。鞄の中に手を入れて、真新しいカバーの付いた本を取り出す。

『第三歌集―さわらぎ 虻田はるひ』

背後から老婆の視線を感じて、私はすっとそれを鞄に戻した。ここで変な真似をしない方が良いのかもしれないと、そう思った。
「澤井さん、入るわね」
襖を開けるとむっとした空気が流れてきた。クーラーは回っているようだが、夏の外気が部屋に入り込んできている。そしてそこに、布団にくるまって座っている澤井さんがいた。じっと足の先を見ていたが、私の顔を見上げると小さく会釈をした。
「思ったより元気そうね」
「…」
「すぐに帰るから」
彼女は私の言葉に頷いた。相変わらず何も話せないのは仕方がない。顔色を見る限り、発熱なり風邪をひいているようには見えなかった。私はまだ背中に老婆の気配を感じながら、本来の話を進めた。
「何があったのかは知らないけど、これ。通知表と生活指導の手紙。あと課題ね。」
手に提げてきた紙袋から渡すものをひと通り出して、彼女の横に置いた。彼女は「ありがとうございます」と言わんばかりにもう一度こくりとする。
「残酷な話だけど、あんまり休むと単位に関わるわよ。留年はお勧めしない。」
「…」
酷い話題だが、これは事実だ。何か救済措置を講じられるほど私には力が無い。だからあとは澤井さん次第だという事になる。そして私はふと、彼女の部屋を見回した。綺麗に整えられた本棚には和書から洋書まで色々な種類が詰められている。そして、棚の上には何枚かの写真が飾られていた。友人、親子と撮ったものだろう。これ以上詮索するのは気が咎められて、私は再び彼女の方を向いた。
「辛いことでもあったの?」
「…」
彼女は何も言わなかった。もちろん、それが澤井さんの普通なのだということは知っている。それから暫く沈黙の時間が流れた。澤井さんはまた足元を見て、微動だにしなかった。
私は何か、話の糸口はないかと考えていた。ガーッと音を立てながら冷気を出しているクーラーを見やりながら、時折澤井さんの顔を見つめる。その表情から、何かを読み取ろうとする。ただ、不意にその思考の中を教頭の言葉が過った。

『特定の生徒と深く関わり合いにはならない方がいいですよ?』

これから私がしようとしていることは、することは、教師として中立的でないのではないか…?ここで一歩踏み出せば、それは一線を越えた深入りと同義なのかもしれない…。そう思った。…でも、その頭と裏腹に、口は動いていた。
「…辛いことがあった時は、私は缶チューハイを三本空ける」
「⁇」
「あなたは?」
「…」
「誰かに話したいこと、聞いてほしいこと、あなたにも有るんじゃない…?」
「…」
「ごめんなさい、変な意味じゃない。ただ、あなたの歌を見ていて思ったの。」
「?」
「あなたの歌に惹かれた理由。それはあなたの、誰にも話していないような思いが込められてるから。」
「…」
「純な思いや気持ちが詰められてるから、私はあなたが素敵な歌い手に見えた。」
「…‼」
「本当は、誰かに聞いてほしいことが有るんでしょう? 別に、恥ずかしいことじゃない。大人だって、辛い時は誰かに話をしたくなる。」
「…」
「何が言いたいのか分からないわよね。」
思わず口を開いて話してみれば支離滅裂で、自分でも何を言っているのか恥ずかしくなった。それでも、最初は格好つけていた台詞の中に自分の素直な感情が滲み出てきているのを感じた。それを止めずに、私は続けた。
「私は、あなたとおばあ様との関係をよく知らない。それに、偉い先生からは『生徒に深入りするな』って言われてる。」
「…」
「でもね、あなたは、歌を詠めばいいと思う。」
「……」
「私もたまに歌人ぶって、詠んでみるの。そうすると、不思議なんだけど何か悩みがふっと軽くなった気がして楽になる。まあ、逃避、ってやつなんでしょうけど。」
「…」
「悶々と考えていても、結局何も変わらないものよ。なら、吐き出しちゃえばいい。」
「…」
「歌は、あなたの声になる。」
澤井さんはすっと顔を上げて、私の目を見据えた。真っ直ぐな目で、私を見つめていた。その目は、少し潤んでいるように見えたが、私は何も触れなかった。
「…」
「じゃあ、私はこれで。何かあったら学校に電話…ああ、手紙でも書いて。夏休み中もどうせ私はいるから。」
「n…」
「…?」
「nn…」
澤井さんは手を伸ばして、近くにあった紙を取った。そして手近のペンで何かをそこに書いた。
『聞いても、いいですか?』
「…何?」
彼女は私に何か言いたいことがあるのだと私は感じた。そして彼女はそのままペンを続けて、新たに文字を書いた。

『友達って、なんですか?』

「…あなたも、随分哲学的な質問するのね。」

『すみません』

「家族の次に、大切なもの、じゃない?」
「…?」
「こんなこと言ったら今は辛い?」
「…」
「多過ぎるのもあれだけど、居ないなら居ないで寂しい。時には家族よりも自分を分かってくれたりする。」
「…」
「誰かが言ってたわ。友達は世界で三人いれば十分だって。」
「?」
「裏を返せば、この世界には三人も、自分の事を分かってくれる他人が存在してるって事なんだと思う。」
「…」
「まあ、これも受け売りよ。この人が言ってたの。」
私が彼女に差し出したのは、歌人虻田はるひの新刊だった。つい最近出版された真新しい装丁で、ページの角はどこも折られていない。これを澤井さんに差し出すということは、私は教師としての中立さを捨てたということ。個人的には失格だろう。
「貸してあげる」
「…」
「だから、留年とかはやめてよ。私の評価に響くから。」
「…?」
「…冗談。九月にまた、顔見せなさい」
捨て台詞を吐いて私は立ち上がり、入口の襖に手を掛けた。私はまた「何を格好つけているんだろう」と自分を嘲って、去り際にコンクールの話を切り出した。
「コンクール。」
「?」
「やっぱ歌は、見るもの聞くものを自分の感じるままに表すのが良い。」
「…」
「秀歌を詠もうなんて忘れて、自分の好きなようにしたらいいと思う。」
「…?」
「でも、夏休み明け。あなたの新作が沢山詰まったノートを、私は楽しみにしてるわ」
「コンクール、頑張りなさい」という言葉を掛けるか私は一瞬迷った。けれどそれは必要ないと分かった。もう彼女に思いは伝わっていると、そう信じられた。


 *


『ありがとう、ございました』

私は先生の居なくなった後にサインペンでそう書いていた。何もかもわからなくなって、何も見えなくなった私に、再び光が差した気がして、心がじんわり温かくなった。その言葉は、どこまでも深く、私の中に入り込んでいく…。

「歌は…、私の声。」

一人になった部屋で、誰にも聞こえないようにそっと呟いた。すると不思議に、涙が落ちて頬を伝った。今までの冷たい涙じゃなくて、温もりのあるしずくだった。私は鏡の前にそっと立つ。鏡に映る私の顔は、なぜか笑っていた。泣いているのに、笑っていて、その表情にまた笑みがこぼれてしまう。

正直、もやもやは何も片付いていない。理子とのことも、元とのことも、何も変わっていない。
でも、今の私には歌が必要で、そこに在ることが光そのものだった。

みちのく

気づいたら、私は駅に来ていた。まだ陽の上がる前、鳥のさえずりと山風しか感じない。昨日のニュースで今日は真夏日になると言っていたから、水筒にはたっぷりと氷を詰め、おばあちゃんの紫蘇ジュースを注いだ。
おばあちゃんは、私が今余目駅に居るなんて知らないだろう。何も知らないはずだ。初めて、何も言わずに家を出てきたのだから。何も言伝ても残さず、私は家を飛び出した。

何かに対するささやかな反抗と言われたら、そうなのかもしれない。あれから数週間が経って、私は少しずつ元気を取り戻した。食欲も戻ってきてほとんど前と同じくらい食べられるようになった。ただ、まだあまり部屋から出たいとは思えなくて課題をやって日々を過ごしていた。けれど、たまに風に当たりたくなって外にも出た。普段は起きたら確認するスマホの通知も見ず、お父さんとも電話をせずに、私は先生が貸してくれた虻田先生の新刊にひたすら耽った。
たまに、今自分が何をしているのかよくわからなくなった。でも何も考えない時間が安心できて、そんな時間を過ごしていれば時折、「理子と仲直りしたい」という気持ちも湧いてきた。一方、同時に怒りも思い出す。ごしゃごしゃと混ざった胸の内。ただ、いくら考えてもあの夜の「好き」という気持ちは私にはまだ分からない。考えるだけ無駄なような、そんな気もする。

そして私は、歌を詠みたいと思った。逃げだってことは重々承知だ。けど、歌を詠むことが一番の気持ちの整理になったから。コンクールの締め切りは一か月後。
もっと広い世界を見てみたいという一心で、私は今ひとり、どこへ行くかもわからない列車に乗る。
私の好きな小説家の先生も、「行き詰った時は旅に出る。目に映る景色全てが心に飛び込んできて、頭の中でどんどん溢れていく。そして、新しいイメージが浮かぶのだ。」と言っていた。それを真似して、またあの有名な松尾芭蕉も俳句のために旅をしていたのだからと私は気取って、うんと遠いところに行ってみようと思った。それが行く当てもなくただ列車に乗ってみる、というのはその二人からしたら「子どもの考えね」と笑われてしまいそうだけど。


列車は走り出した。一本のレールの上をエンジンをうんと鳴らして駆けていく。稲刈りを待ちわびるまだ青い稲たちが風に吹かれて、さざ波のように隣から隣へとうねっていった。そんな光景を見ながら、私は歌のことを考えていた。

青、風、稲…………

でも、
途中で私は眠ってしまっていた。気付くと窓の外には田んぼではなく宅地が広がっていて、そこはもう庄内とは違う全く別の場所だった。車内のアナウンスを聞くと、次は終点の仙台だという。つまり、隣の県まで来てしまった…。後でここからちゃんと戻れるのかなという不安と、本当に遠くまで来てしまったという達成感がぐるぐる胸の中で回り始める。確かに周りのお客さんは乗った時と雰囲気が違って、私ひとりだけが浮いている気もした。でも私の中には、変な高揚感があった。
仙台には何回か来たことがあるから大丈夫、と自分に言い聞かせる。記憶はおぼろげだけど、大体はお父さんの見送りで。ある時は駅、ある時は空港から父の背中に手を振った。理子に言わせたら「仙台なんて山形さ比べだら、うんと都会だよ!」らしい。
…理子は今、関係ない。


 *


理子はその日、隣町の体育館に来ていた。県大会の予選、これに元を始めとする庄高剣道部の面々が出場する。元は何があったのかも知らないままいつも通り理子と穂花を誘ったが、穂花は返事も来なかった。終業式までほとんど学校に来なかったから予想はしていたものの、穂花が休んでいるのはひょっとしたら自分が原因なのではないかと元は思っていた。穂花の交換ノートに触発されてしまったとはいえ、今思えば馬鹿馬鹿しい事をしたと、後悔が繰り返し胸に湧く。

火焚きの本番前で気持ちが昂って、つい…言ってしまったのか…? そこで何か言い訳が出来たら…、いや、それは男として情けないよな…。

「めーんっ‼」
「一本!」
庄総一年の女子が個人戦で一本勝ちをし、会場がどよめいた。ふっと胸をなでおろした元は、外で見守る理子と目が合って、反射的にニカっとはにかんだ。それを見て理子は「あの子、アンタにお熱なんでしょっ?」と睨み返す。

そもそも元はいつから穂花の事を…。もしかして、あのノートの事がきっかけだったのかな…。

二人の視線が交差して、お互いがお互いを察する。十何年も一緒にいるからこそ、目を見ただけで相手の心は大体読めるようになっていた。そして理子は、元が試合に全く集中できていないことを感じた。今、彼の頭の中には全く別の事が占めている…。

…次、アンタでしょ? 集中しなさいよ、バカ。

「まもなく、二年男子の部を始めます。出場者は本部前まで集合してください」
試合に立つ元は、もう一度理子の方を向き、竹刀を上に突き上げた。竹刀を握る手はしっかりグーに結ばれている。理子はそれを見て、ふいに穂花の事が思い浮かんだ。穂花と大喧嘩をして、どれだけの時間が経ってしまったのだろう。胸の奥に渦巻くやきもちと、罪の意識。あの夜もし元の告白を聞かなかったら、あの場に居合わせなかったら、今はもっと楽しくしていられたのかもしれない。ふっと湧いたチクチクした心に突き動かされて取り返しのつかないことをしてしまった。穂花が家に現れたその日、理子は自分の部屋でさんざん泣いた。自分の恋心が妬き心に変わり、ついには親友を傷つけ、突き放した。

そして穂花は、自分と口がきけなくなった。

その事実が彼女を深く傷つけ、また気持ちを混沌なものにした。もう、子どもじゃないんだから、握手をして仲直りなんて……出来ない。


 *


「お客さま、どうなさいましたか?」
「…‼」
私は仙台駅の改札で縮こまっていた。最初は勢いよく出てきたのに、仙台の大勢の人を前にしてその勇気は一瞬で消え去った。怖い。庄内でこんなに大勢の人を一度に見たことはない。それに、初めてではないはずなのに、初めて来たような感覚がするほどの都会で、何もかもが違う。駅を歩く人の声が互いに反響して、わんわんと騒がしく聞こえてくる。改札に切符を入れたら目の前でゲートが拒んだ。金額不足の切符を持って後ろを振り向くと、全然知らない人が私のことをじろじろと見てくる。震える足で窓口まで駆け抜けても駅員さんは「どうされましたか?」と私に答えることを求めた。

思えば、私がこんな街にひとりで出てくるなんて、身の程知らずだった。自分の怖いものと避けたいものしかないのに、なんでこんなところに飛び込んでしまったのだろう…。ここは、庄内じゃない。おばあちゃんもいない、元もいない、…理子もいない。駅員さんが困った顔をして私の顔を覗き込む。ひゅっと目を逸らして。手には汗が溢れた。ダメだ、段々腕が動かなくなってきてる…。後ろには他のお客さんが少しずつ溜まっていった。「何なのあの子」「どうしたのかね」とざわざわ聞こえてくる。
「あのー、これ使われます…?」
駅員さんが再び私に声を掛けた。ふっと顔を上げると、『筆談ボード』と黄色いテープの貼られたホワイトボードが掲げられている。
「…」
駅員さんは、震える手で『せいさん』と書く私を覗き込む。するとその文字を見た途端に「あ、はい。切符出してもらえます?」と素っ気なくなって、そのまま流れ作業のように精算は終わった。

ささやかな反抗だと胸を張っていた私が恥ずかしかった。新しい切符を入れて無事改札の外に出ると、そこにもたくさんの人がいる。右から左へ、左からの右へ、ついには上の階から降りてくる人もいる。売店の周りには人だかりが出来ていて、駅の外にもそれぞれに闊歩する人々の姿があった。気持ち悪い…。ポスターの貼られた大きな柱の近くで眩暈がして私はうずくまってしまった。

やっぱり、自分ひとりじゃ何もできないんだな、私…。

「私がいないと何も出来ないくせに‼」と理子の言ったことは正しかった。それなのに背伸びをして、ひとりで何でも出来ると思って、誰も知らない街に来た。本当はそんなことが一番苦手だって分かってたはずなのに、自分が一番知っているはずなのに。それに遠くに行ったら良い歌が詠めるかもしれないなんて、なんて歌人気取りだったんだろう。うずくまっている私を見て「大丈夫かなあの子」「具合悪いのかな」と横切っていく人たちは、誰一人として、私の知らない人だ。
「姉ちゃん、どうしたの?迷子?(笑)」
「⁈」
「お兄さんが、案内してあげようか?」
「y…‼」
急に上から男の人が覆い被さるように声を掛けてきて、私は全力で逃げた。こんなところに来るんじゃなかった、本気でそう思った。

 
 *


「おめでと、元」
「ああ、ありがとな」
元は県予選の地区大会で、意外にも準優勝をした。ほんの一瞬の隙を突いて強豪鶴岡第一の二年生を胴で下し、その後の決勝では善戦するも惜敗した。庄高の部員もまさか元が個人で二位にこぎつけるとは思ってはいなかったらしく、皆して大騒ぎだった。とうの元は「いやーまぐれまぐれだべ」と照れていたが、その様子を遠くから見ていた理子は、この勝利はきっと元の真面目な努力の賜物なのだろうとそっと感心していた。
「アンタがまさか勝つとはね」
「本当だよ。火焚きも成功したし、今年は俺ツイてるんかもしれないな」
「バカ。そんなこと言ってると、足掬われるよ?」
「んだな」
二人は会場の裏で、無料で配られていたスポーツ飲料をごくごくと飲み干した。まだ七月末とはいえかなり暑い日で夕方になってもアスファルトの地面には陽炎が移ろう。遠くの方で、庄内の後輩たちがキャッキャッと騒ぐ声がした。

「ねえ、やっぱり元先輩、理子さんと付き合ってるんだよ」
「えー」
「今日も二人できっと帰るんだって」

理子は思わずその声のする方へ「ねえ」と肩を動かした。それを「いいから」と元が止める。
「ああいうのは言わせとけばいいんだよ。うそ八百。」
「…ごめん」
理子は自分の思いで勝手に体が動いてしまった事に後から気付いた。なんで、あんな言葉も気にしてしまうのか…。自分の弱さがまた見えた気がして、元の隣で理子は自分の頬をぱちんと叩いた。
「なあ…」
「ん?」
「穂花、夏休み明けたら学校、来るよな…」
「…」
元はおもむろに穂花の事を口にした。彼はなんでこうも無神経なのかと理子は思ったが、見上げた元の顔は、どこか寂しげな表情をしている。それは穂花に対する好意ゆえなのか否か。ただ何かを悔やんでいるようにも見えたから、何も言えなかった。
「お前も、連絡取れないの?」
「うん、ていうか…」
「…?」
「もう、私とは話せないよ。」
「へ?」
「文字通りだよ。あの子、私と話せなくなったの」
「え…本気?」
「うん」
元は驚いた表情で、握っていたペットボトルのキャップを地面に落とした。
「お前、よっぽど穂花を怒らせたのか?」
「…違うよ」
「?」
「私が穂花にとって、信じられる人じゃなくなったってことだよ」
穂花が口を開くのは、あの子が信じられる人にだけだ。それは元も一番痛く分かっていたことだった。何年も一緒にいるのに、最初は話してくれていたのに、穂花は理子とお父さんとしか話せなくなった。そして、元とは言葉を交わせなくなった。だから元は、理子が穂花の一番信じている人なのだという事も知っていた。
「私、意地悪しちゃったんだ、穂花に。」
「は…?」
「取り返しのつかない、ひどい意地悪。」
「…」
「穂花に、彼氏なんて居ないんだよ」
「え?」
「私、悪い子だよね」
そう言って理子は元の方を振り向いた。くしゃっと笑った顔は誰でも分かる程にぎこちなく、その目は潤んでいた。理子の、初めて見る表情だった。
「んじゃっ、剣道部の人と帰りな!準優勝、おめでとう!」
と言い残して理子は去っていく。その後ろ姿はいつもよりも小さくて、弱々しささえ感じられた。理子のこんな姿を元は見たことがなかった。


 *


私は本来の目的を忘れて、本屋に入り浸ってしまっていた。男の人のナンパから逃げる先にあったビルに本屋が入っていたから、そこに無我夢中で逃げ込んだ。
大きく息を吸って、息を吐く。紙の香りがゆっくりと体に吹き込んで、私の中に消えた。これを何回か繰り返して、気分が落ち着くまでそこで待った。
「…」
赤く熱くなった頬が冷めて、冷房の風を感じられるほどになった。よし…、大丈夫。もう震えていない足で再度店の中を見渡すと、そこには本しかなかった。全く見たこともない本、噂だけ聞いていたヒット作、知らないけど「書店員おススメ」とポップの付いたベストセラー候補。天井が高くて、シックなダークブラウンの棚に所狭しと文庫、新書、雑誌、辞典までもが並んでいる。山形とは比べ物にならない本の数。駅前の本屋のおじさんには悪いけど、品揃えも全然違った。それに綺麗な駅ビルの高い所にあって、人々が立ち読みをしている向こうの窓からは杜の都の欅並木が綺麗に見えた。

…いや、違う。歌を詠みにここまで来たんだ。

本当だったらお小遣いで、読みたかった/読みたい本をすぐに買っていただろう。でも、私は本を買いに仙台まで来たんじゃない。手に取りかけた人気作家の新刊も置いて、私は角の文芸コーナーへうつむきながら小走りで進んだ。「佐々木幸綱」「俵万智」「穂村弘」。そこには、有名な歌人の歌集が何冊か短歌コーナーに入っていた。ただ背表紙は少し埃が付いていて、暫く誰にも触れられていないみたいだった。
「(あ…!)」
穂村先生の数冊隣に、私は『虻田はるひ』の文字を見つけた。それは虻田先生の歌集ではなく、見たことのないエッセイだ。題名は「夏、檸檬」。私は考えずにその本を手に取って、すぐにページを繰った。

『人って、考えようとすると思いつかず、考えないようにすると頭に浮かんできてしまうものだと思う。考えたい、歌。考えたくない、諸々のこと。』

虻田先生の歌詠みの試みを明かしたエッセイはその言葉選びも先生に抱いていたイメージそのもので、引き込まれるままじっくりじっくりと私はページを捲っていた。



外に出ると、やはり十分暑かった。日差しが高い所から容赦なく私を刺して。肌をひりひりとさせる。その陽から逃げるように入った欅並木はいくらか涼しくて、小風が夏の青い匂いを運んでいた。
並木の下のベンチに座って、人の流れと車の流れを見つめている。軽トラなんて走っていなくて、もんぺを着ている人もいない。当たり前だけど。

 けやき並木の下にひとり ひとりでも私はここにいる

五七五の型を崩した、気取った歌をひとつ詠んでみた。仙台という都会の中で、たくさんの人の中に紛れても、今私はこの欅の木の下にいる。でも、いくらか暗い印象の歌になってしまった。

私は、どんな歌を詠みたいんだろう…

ふと、そんなことが頭に浮かんだ。とにかく歌を詠みたいという衝動、コンクールに挑戦してみたいという気持ち、そして悩みごと。色々なものが綯い交ぜになる中にいる私。どんな歌を詠んだらいいのかなんて前は考えたことがなかった。思うままに、感じたことを歌にする。それが楽しかったんだ。

『やっぱ歌は、見るもの聞くものを自分の感じるままに表すのが良い。』

水田先生の声が聞こえた気がした。見るもの聞くものを、感じるままに。
私はそっと目を閉じた。
人も、車も、見えなくなって、そこにあるのは…風と、青い匂いと、暑さと…段々周りの騒がしさも耳に入って、人々の話し声が聞こえる。仕事の電話をしている人、彼氏の話をしている人、独り言を言っている人。それぞれの声が聞こえてくる。車も、速く通り過ぎれば高い音がして、赤信号で止まるとエンジンの音が低くした。

…あれ、甘い匂いがする。

目を閉じた私の鼻元に、甘い香りがふわりと漂った。それはお菓子の匂いではなくて、もっと…花のような匂い。そう、蜜のような自然の香り…。とても印象的だった。
ぱっと目を開けて、私は辺りを見渡した。さっき買った虻田先生のエッセイを忘れそうになりながらベンチを立って、通りを早足で進む。その匂いを追って、人と人の間を縫って、場所は駅から段々遠ざかっていく。けれど、ひとりでも恐れることなく私は進んだ。

そのまま暫く歩いた先は、ビルもお店も何もない住宅街だった。路地の両側に綺麗な一軒家が建ち並び、真っ直ぐな一本道になっている。匂いは、まだ先だ。静かな道を進んでいくにつれてその匂いはどんどん強くなった。甘くて、心地よい香り。誰もこの匂いに気づかないのか、通りすがる人たちは何も気にしていないようだった。
「リカーおめでとー!」
不意に鐘の音が響き、大勢の人の歓声が聞こえた。匂いのする先は、どうやらその声がする先。白い壁と黒い門が見えるところまで私は駆け寄り、その門の前で思いっきり息を吸った。胸の中たっぷりに爽やかな甘い香りが入ってくる。そう、ここだ。
「ごめんねー私が次は幸せになりまーす」
門の向こうにはたくさんの人が正装をして立っていた。その更に奥には、白いドレスに身を包んだ女性がいて、幸せそうに笑っている。

ここ、教会だ…。

私が辿り着いた先は、小さな白壁の教会だった。こじんまりした庭で新婦さんが囲まれて、ちょうどブーケが投げられたところで。花嫁のドレスはまるでワンピースのような軽やかさで、風がそよぐと裾がふわりと揺れた。頭には白い花の冠を差して、とても映えている。
「リカ、そのブーケは特別なんだよ?その花は、夏のふた月しか、花をつけないの。」
「へえー、そうなんだー」
「それに、すごく可愛いでしょ?」
「うん!」
こっちのお姉さんは全然訛っていなくてお洒落だなと余計なことを考えていた時、花嫁が投げたブーケの話をしているのが門の外にも聞こえてきた。少し背伸びをしてそのブーケの方を見てみると、ふんわりと甘い香りがした。

あの花の匂いだったんだ…。

何層も重なる白い花びらに、真ん中が薄い黄色。緑の葉は少し先がとがっていて、三角形のようだ。花嫁のトスを受け取った女性は嬉しそうにそのブーケを携えていた。「いい香りだね」「二ヶ月しか咲かないんだ」と女性たちが口々に話している。
「あのー」
「⁈」
そんな風に外から眺めていた時、後ろから誰かの声がした。
「失礼ですが、お知り合いの方ですか…?」
「‼」
ちょうど私の後ろに立っていたのは、黒いパンツスーツを着た女の人だった。困った表情をして、私に恐る恐る話しかけている。
「今日はハレの日ですので…」
「(あ、ごめんなさい、すみません!)」
あ、この人、ここの教会の人だ。他人の結婚式を外から覗いていたのを咎められるのが急に恥ずかしくなってその場から逃げようとした時、
「あ、お姉さん‼」
とスーツの女性は私のことを引き留めた。
「もしかして、あのブーケの事ですか…?」
「?」
「実は多いんですよ、この時期。とてもいい香りがするので、外から覗かれる方。」
「…」
最初は逃げてしまおうと思った私も、今度は素直に「(はい)」と頷いた。この人は自分を怒ったりしないような気がして、私は上目遣いでその人の言葉を聞いた。
「お姉さんも?」
「(はい…))
「いい香りですよね、あの花。」
「…」
「甘いジャスミンティーみたいな、薔薇みたいにはくどくなくて。」
「…」
「私も好きなんですよ、クチナシって言うんですけどね」
「(くちなし…?)」
「実が熟しても割れないから、口が無いって意味でクチナシっていうらしいです。」
「(口が、無い…)」
「沈丁花や金木犀と一緒に、世界三大香木に数えられているんですよ」
「…」
「良かったら一輪、お持ちしましょうか?」
「…」
その女性が持って来てくれた花は、私が跡を追いかけてきたその匂いをふんわりと漂わせた。言われてみれば確かにジャスミン茶みたいな香りがするかもしれない。
「お姉さんも良かったら、ここで式を挙げてくださいね」
教会の女の人に一輪の花を貰って、私は夕暮れの欅並木を再び歩いた。右手に握ったクチナシの花から漂う甘い匂いと通りの青い風が混ざって、それは爽やかな香りとなった。前から歩いてきた女の子が「あのはな、いいにおいだねー」とお母さんに言っているのが聞こえてくる。

この花、クチナシって言うんだよ?

と心の中で呟く。クチナシの花。小さくて、たった二ヶ月しか咲かなくても、皆を幸せにする香りを届ける。変な名前でも、綺麗な姿をしていて。花言葉は「幸せを運ぶ」、そう聞いた。
私はくちなし、あなたもクチナシ。おんなじなのに、何かが違う。私に足りないものを、あなたは持ってるんだ。ずるいほどに。

 物言わぬ ただそれだけで かがやいて 我もならばや くちなしの花

私はその日のノートにそう書きつけた。往復八時間の私のひとり旅は、おばあちゃんの
「こだな遅ぐまでどご行ってだ!勘当もんだよ!」
という叱りで終わったのだけど。
結局おばあちゃんには仙台に行っていたということを隠したまま、「(ごめんなさい)」と何度も頭を下げた。最終的には許してくれて、おばあちゃんは「くれぐれも親父みたいにはならないこっだよ」と言い、温かな芋煮を出してくれた。それは新しい味噌の香りがして、まだ具がくたくたになっていない芋煮だった。



今となっては、思い切って飛び出したことをよかったと思った。弱々しくて街に押されていた私がこんなことを言うのは、終わり良ければ、みたいで生意気な気もする。さすらいの旅人みたいなお父さんは、この話を聞いたらなんて言うだろう。

そして私は、今日のことを誰かに話したいと思っている自分の存在に気づいた。ひとりで列車に乗れたこと、ナンパから逃げられたこと、クチナシの花を見つけたこと。それを、話したい人。でもそれはお父さんではなくて、最初に思い浮かんだのは…理子だった。

でも、理子。私には歌が必要なんだよ。

私にとっては、元のことよりも理子の方が…揺れるところが大きかったのかもしれない。だから、私は理子のことを思っていた…。そして、あの子の元への想いも、何となく察していた。でも、約束を破ったことはまだ受け入れられていない…。許せていないところもあった。いくら親友でも、という部分が大きかった…。

積み上げ

澤井さんから手紙が届いたのは、夏休みがもうすぐ明ける八月の半ばだった。職業が教員だと言うと、大体の人は「えー夏休みも春休みもあって、いいですねー」と言う。…どこが休みなのか。新任一年目の私が生意気を言える立場にはないが、部活の指導・遠征の付き添い・秋の修学旅行の打ち合わせ・県の新任研修…と散々だ。ただ毎日生かされるように生きていた。
「あれ水田先生、今日も居るの?」
「お疲れ様です」
「あれ、今日は部活?」
「はい。田辺先生の代わりに女バレを」
「け。今度田辺に奢って貰いなよ?あいつ絶対デートだわ」
そう言う一組の主任も、一昨日位から毎日顔を合わせている気がする。直属の先輩が出勤し続けているのだからと、気軽に休めない自分もいた。
「何それ」
「あ、生徒からの手紙で…」
「手紙?えー、あ、澤井さんかあ。」
「はい」
「あの子、来れるようになると良いね。やっぱり、夏休み明けってのは落ち込む子が多いからなあ」
「そうですね…」
「自殺が多いのも始業式前だからな。俺も昔いた学校であったんだよ。男子生徒が飛び降りちゃってー」
「あの、」
「ん?」
「澤井さんは、大丈夫だと思います。」
「…」
「私は、信じてます。」
「おう…」
気まずい感じになって、主任は隣のデスクで静かに仕事を始めた。また私の悪い所が出た。思ったままに鋭い言葉を発してしまう。でも、死ぬなんて軽々しく口にするものじゃないだろう。まして教員がそんな事を言っていいのか。また私は理想を見ていた。それに、彼女を信じているのは最早嘘では無かった。



 水田先生
 
 突然のお手紙失礼します。澤井穂花です。先日は自宅まで来ていただき、ありがとうございました。
 私は元気になりました。ご心配をおかけしました。
 本日、お手紙を差し上げたのはコンクールについてです。
 作品の提出締め切りが近づいてきたので、候補の三首を選びました。
 提出には学校の先生のサインも必要ということで、それもお願い出来たらと思います。
 忌憚のない添削をお願いいたします。
                                          
 澤井穂花



「忌憚のない、か。」
澤井さんからの手紙には、併せてコンクールの応募用紙も同封されていた。私は正直早いなと思ったし、そもそも本当に彼女から手紙が来たのが意外だった。彼女と今までやり取りした歌の手直しは、何回になったのだろう。夏前に彼女との添削ノートが止まってからも、彼女は書き留め続けたのだろうか。私は内心少し喜んでいる自分を感じながら、A4大の紙を開いた。
「なるほどね…」
三首の歌が並べられた紙を一読して、私は天井を見た。
一首目、田んぼで泥だらけになりながら田植えを手伝う小さな男の子を詠んだ歌。青空と苗の緑が映えて、小さな手で頑張って苗を植えている様子が思い浮かぶ。
「お手本、みたいだな…」
二首目、カレーライスと食卓の歌。昔よりも食の細くなった祖母が、ご飯にカレーを少ししか掛けなかった。これは彼女の実体験なのだろうか。だが余計な詮索はやめた。
「うーん…」
三首目、恋の歌。目の前を歩くカップルが人知れず手を繋いだ。その二人と同じ帰り道、後ろを歩く自分の方が変に緊張してしまった。これも…実体験? 読んでいる私が逆に恥ずかしくなる。
「これで出すのか…。」
澤井さんが虻田はるひのような歌を詠みたいのだという事だけはよく伝わってきた。だから多分、虻田の詠むような題材を自分も詠み込むようにしたのだろう。でも…何か、面白くない。面白みに欠けるというか、優等生過ぎる気がして、澤井さんの歌の良さがぼやけてしまっている。そう、私には思えた。
「主任、ちょっと外線使っていいですか?」
「ん?いいよ」
隣の机から電話を借りて、私はクラスの連絡網から彼女の名前を探した。夏休みの昼間、家にいるだろうか。何回か呼び出し音が鳴っている間、私は何をどういう順番で話せばいいのかと変に緊張し始める。そしてふと、おばあさんが電話に出たら何と言えば良いのかという事に気付いた。でも、五回目の呼び出し音が鳴るとすぐに通話が繋がった音がした。
「もしもし。私、庄内高校の水田と申しますが」
「…」
「…澤井さんのお宅でしょうか?」
「…」
「えーと、穂花さんは、ご在宅でしょうか」
「…」
受話器の向こうからは何も聞こえてこない。ただ小さな息遣いだけが感じられた。きっと、これはあの老婆ではない。という事は、この相手は…
「…穂花さん?」
「…」
「水田です。体調はどう?」
私がゆっくり話しかけるようにしても、答えが返ってこないのは変わらなかった。電話なのだからそうだろう。それでも、私は話し続けた。
「手紙、受け取ったわ。歌も見た。」
「…」
「それで、話したい事がある。今から学校来れる?」
「…」
「ノートも、持ってきて」
「…」
「じゃあ、待ってるから」
少し間合いを取ってから、私は電話を切った。そして後から、やや食い気味に誘ってしまった事を反省した。正直まだ彼女と意思疎通をするのには慣れていない。筆談ならばその場で分かるけれど、電話はやはり難易度が上がった。そんな私を目にした主任が「え、どしたの?」と聞いてきたが、私は「ちょっと、指導です。」と流して受話器を下ろす。そしてもう一度応募用紙を開き、今度は赤ペンをその上に走らせた。澤井さんが来てくれたらいいが、本当に来るかどうかは確信がまだ持てなかった。


 *


先生から電話が来た時、私はお昼ご飯の椀を流しで洗っているところだった。電話に出ても何も話せないから、普段は着信があってもそのまま無視をしている。けれど、その電話にはなぜか出ないといけないような気がして、私は塗れた手で受話器を取っていた。
「もしもし。私、庄内高校の水田と申しますが」
先生だ、と思った。そして先生から今呼び出されるということは、手紙に書いたコンクールの添削に関する事なのではないかと考えた。そしてその予想は当たった。何も答えられない私は何とか声を出そうと努力した。けれど音もやはり出せない。先生はそんな私を気遣って、ゆっくり話しかけてくれているのが分かった。電話を切った後、私はすぐにノートをリュックに詰めて畑に出ているおばあちゃんに置き手紙を残した。ちゃんとこうしておけば、今度は怒られないはずだ。



「ごめんね、休みなのに呼び出して。」
「…」
「見たわ、あなたの候補作。」
「…」
先生は職員室に来た私を手招きして、隣の小部屋へと呼び寄せた。机の上には私の応募用紙が置かれ、早速赤で添削が入っているのが見えた。
「どれもいい歌だと思う」
「…!」
「だけど、」
「…?」
「良くも悪くも虻田はるひの真似って感じがする。」
先生の批評は相変わらず鋭かった。虻田はるひの真似、そう言われて核心を突かれた気がした。先生が言うことは、あながち間違っていない。むしろ正しかった。私は確かに、それらしい歌を候補に残した。そう、それらしい歌を。それは自分のことばかり詠んだ歌が恥ずかしかったから。そんなのは他人に見せるものじゃないと私が勝手に思っていたからだった。
「ああ、ごめんなさい。忌憚なく、と言われたから。」
「(いや)」
「私はこれで出すのはちょっと勿体無いんじゃないかって思った。それであなたを呼んだ。」
「…?」
「もし良かったらそのノート、貸してくれない?」
「…」
ノートを差し出すと、先生はじっくり一ページずつ捲りながら「そっか…」などと時折呟いた。順番に私のメモ書き程度の歌を見ていく。先生が家に来たあの日以来先生に見せていなかった歌、というか歌にもなってない言葉がそこにはたくさん書き留められていたはずだ。
「やっぱり」
「…?」
先生はノートを閉じて、私の方に向き直した。私は「やっぱり」の意味をよくわかっていなかった。だから首を傾げて先生の顔を覗いた。すると先生は微かに笑みを浮かべて、「いい歌、沢山あるじゃない」と私に言った。
「…!」
「変に背伸びするよりも、等身大の自分を描いた歌をひとつくらい出してみたら?」
「…」
「私は、このクチナシの歌がいいと思う。」
「?」
「何回か手直ししたんでしょ、この歌。消し跡が沢山残ってる。」
そう言って先生はノートの一ページを指差した。あの日の歌だ。ひとりで町を抜け出して、街に出た日。仙台にひとりで行って、色々な経験をした日。家に帰ってから何度も書き直したくちなしの歌。先生はそれを何度も口にして、「ばや、ってちょっと古語的よね…」とぶつぶつと呟いていた。
「これって、あなた自身を詠んだ歌、よね?」
「…?」
「クチナシと、 口無し を掛けたってことでしょう?」
「…」
「あなたも、なかなかやるのね。掛詞か…。」
先生はノートに赤ペンを入れて、またぶつぶつと呟いた。
「ばや、と、かがやいて、を直すと、多分変わる…。」
「…」
私は先生にそっと近づいて、その赤入れの様子を上から覗いた。すると先生は「あ、勝手に赤入れてよかった?」と聞いてきた。私が頷くと、先生は再び独り言を言いながら添削を続けた。
「というか、そうよね。あなたの出品なんだから出す作品は自分で決めていいのよ。」
「?」
「私が今直してるのも無視していいし、あの三首で出してもいいってこと。あくまで私個人の感想に過ぎないんだから」
「…」
そう言われても、私は先生を信じていた。私よりも先生の方が短歌に詳しいから、というだけではない。この人の言うことなら、信じてみたいと思う自分がいた。
「ひとつ聞いても良い?」
「…?」
「ここ、どうして『かがやいて』にしたの?」

 物言わぬ ただそれだけで かがやいて 我もならばや くちなしの花

そう言われて私はあの日のことを思い出していた。ひとりで行った仙台、人の波に揉まれて自分の無力さを知って。ようやく自分の力で立てた欅並木の下で、その匂いに出会った。漂う香りは私を誘って小さな教会へと導く。その匂いの主は、クチナシの花。白くて可憐で、甘い香りを漂わせる。ほんの少しの間しか花をつけないけれど、その落ち着く香りで人々を幸せな気持ちにさせる。
私は…私も、誰かを笑顔にさせたり、誰かのためになりたいと思った。自分ひとりでは何も出来なくて、声も出せなくて、皆に迷惑を掛けた。でも、だからこそ、周りの人を喜ばせたいと思った。同じ「くちなし」の私は、あなたのような存在になりたいと思ったから…。私には、あなたが輝いて見えた。

「そっか…」

先生は私がそうノートに書き込んだのをじっくりと見た。そして頷いて、「なら、そのままにしておきましょう」と言った。
それから先生はじっくりと考えていた。何分が経ったのだろう。目を閉じて、先生は考えていた。そして目を開けたかと思うと、
「どうせなら、このくらい大きく出てもいいんじゃない?」
と先生は私に言った。
「?」


 物言わぬ ただそれだけで かがやいて 
[我もならばや] くちなしの花
 わたしも蕾 

「なりたい、も良いけど、決まってる未来の方が、光が差して見える気がする。」
「…!」
先生は、花に対して蕾を置いたんだ。蕾が、そこから花を咲かせていく様子が想像された。今はまだ蕾だけど、いつかはきっと花になる。そして、あなたと同じように輝く…。
「自分の事をつぼみ呼ばわりするのが恥ずかしかったら、元のままでも良いと思うけどね」
「…」
「まあ、蕾っていうのは、内に色々なもの、可能性を秘めてる意味でも使われるし」
「…」
「あなたに、ぴったりだと思う。」
先生はそう言った後、まるで照れ隠しのように髪を耳にかけた。その姿をじっと見つめる私を「何?」と冷たくあしらいながらも、それはきっと本心ではないことを私は悟った。



私は三首の歌を応募した。綺麗に封をして、何度も住所を確認して、駅のポストに投函する。その入れる瞬間に「虻田先生に見てもらえますように」と目をつぶってお祈りをした。ポストに背を向けて周囲を見渡すと、私は誰も見ていないことを確認してスキップをした。右左と下手に跳ね過ぎて体が飛び上がる。その時本屋のおじちゃんと目が合って、手を振られた。私は顔を真っ赤にして一礼するともとの歩き方で帰り道を辿った。コンクールの発表は、ちょうど二か月後だ。

笑わば笑え

夏休みが明けて、九月になった。
私は再び学校に行き始めた。そのせいか、おばあちゃんの機嫌もこの頃良くなったような気がする。
でも私はひとりで登校し、ひとりで下校していた。クラスでももちろん話さず、昼休みもひとりでお弁当を食べる。家ではおばあちゃんを気にして歌には触れないようにしていたから、そのひとりで過ごす時間は歌のことばかりを考えていた。しばらく理子とは顔を合わせてもいない。お互い始業式の日に道で出くわしても、私が五歩くらい理子の後ろを歩くような感じになり、それ以来は理子が時間をずらしたのかぱたりと会わなくなった。

まだお互い、本音を言えてない。何も気持ちを伝えられていない。どちらから切り出すのか、理子から謝ってくれればいいのにと自分勝手に思いながら、じれったい日々が続いた。私は、理子と「話せる」のかさえわからなかった。

元は、告白を無かった事にしたいのか、全くそんな素振りは見せずいつものままでいた。むしろ元とは時々一緒に登校していた。剣道の試合の応援に誘われたり、今度穂花の父ちゃんが帰ってきたら世界の話を聞きたいから教えてくれとかいつもの元らしかったけど、どこか無理をしているのも私には分かった。そして一番は、私と理子の不仲、というか微妙な距離感を気にしているのだろうとも感じた。


「じゃあこれでこの時間は終わります。試験範囲は掲示の通りなので、後で確認しておいてください。」
「起立、礼」
「ありがとうございました」
四限が終わると皆が一斉に動き出した。購買に行ったり、部活の昼練に出たり。私は自分で詰めたお弁当を鞄から出して、静かに机の上に広げた。昼休みの半分が終わる前にこれを食べ終えるのが二学期の新たな習慣だった。
「…」
いつも昨日のおかずの残りを詰めて、米は元の家のお裾分け。おばあちゃんの年金とお父さんからの仕送りで生活している私には、贅沢は言えない。野菜は余るほど家のがあるから大体はそれを漬けたのと、あとはたまに卵で巻いたりもしていた。
「…」
元はいつも昼練でいなかった。だからこの時間は理子と一緒だった。前までは。斜め後ろを少し覗くと、理子がクラスの女の子と購買のパンを食べているのが見える。新学期になってから、理子は周りの席の子と仲良くし始めた。人当たりが良くて誰とも仲良くできるからそれには納得する。男女分け隔てなく接するし、よく考えれば私とあの子は真反対だ。私が月なら、理子は太陽で。いや、私は月にもなれない。
「ねえ理子、穂花ちゃんってずっとあんな感じなの?」
「え?」
「ずっとその…喋れないの?」
後ろの机から、私の話をするのが聞こえた。自分のことを他人に言われるのは慣れている。だから、そういうのは嫌でも耳に入ってしまう。
「うーん、まあ、そうかな」
「可哀想だね。」
「え?」
「だって私喋らないと死んじゃうもん(笑)」
「あー」
「理子、いつもお世話してきたんでしょ?偉いねー」
「いや…そんなことないよー」
漬物と白米と卵とじを食べ終えて、昼休みは残り半分と三分余った。この時間で新しい歌を詠む。コンクールに出品した後も先生とのノートは密かに続け、一日一首は考えるようになっていた。歌集とノートを鞄から出して机に広げると、お気に入りのシャーペンもその横に据えた。そしてスマホを出してアプリのアイコンをタップする。何も詠む「きっかけ」に出会わなかった日は、そのアプリでランダムに歌詠みのお題を出していたのだった。

『笑い』

笑い、良い方と悪い方どっちだろう…、どっちにしよう。笑顔は良い方、ほくそ笑むは悪い方。お笑い芸人は良い感じ、笑い者は悪い感じ。言葉は不思議で、裏に返せば意味も変わる。捉え方次第。でも私は悪い歌はあまり詠まなかった。

笑い…、笑い…か…。

誰も見ていないのを確認して、静かに上を向いたり首を捻ってみる。得意の歌人気取り。こんな風に毎日を過ごしていたら、きっと今年の終わりにはまたクラスで浮くんだろうなと思うこともあった。その時まで、理子と仲直り出来ていないなら。

題、「笑い」で私はあれこれと考えた。浮かんだ小さなアイデアはとりあえず書き留めて、枝葉を伸ばしていく。
「ねえ!何書いてるの⁉」
「?」
首を傾げて考えていた私の上から、突然誰かが声を掛けてきた。ふっと上を向くと、その声の主は酒々井君だった。彼もまた、私と同じひとりぼっちで…
「え、何これ、詩?澤井、ポエマーだったの⁈」
「!」
「この本も!詩集?へー、変なのが好きなんだねー」
酒々井君は最初、悪気があるようには見えなかった。単純な興味でその本を手に取ったのだと思った。でも、怖い。
「あれ、詩じゃない。これ、あれか、短歌か。面白いの?これ」
「…」
「相変わらず何も言わないんだな。で、何書いてたのー?」
「…‼」
酒々井君が私のノートに手を伸ばした時、私は思わずノートを押さえた。それはダメだと、直感的に体が動いた。それは先生との大事なノートだから、それに私のこともたくさん書いたノートだから、他人には見られたくない。その一心でぐっと押さえた。
「n‼」
「え?」
私の周りでざわつく声がした。「え、澤井が喋った?」「今何か言ったよね」「澤井ってあんな声なんだ」「てか酒々井、絡む相手考えろよ」、そんな声が私の前からも後ろからも聞こえてくる。
「ちょっと澤井い、別に見せてくれても良くないー?」
「‼」
「ほら、ちょっとだけ、ちょっとだけだからさ!」

男の子って…、強い…。

「!」
私の抵抗はあっけなく、彼のひと引きで砕け散った。ノートが彼の手に渡って、高く持ち上げられた。酒々井君は「へー」とか「うわ、なにこれー」とか言いながら中身を見て、ついにはそれを皆に見せびらかそうとした。周りの男子や女子も集まってきて一斉に私のノートを覗いた。
「え、澤井さん、やば…」
「澤井、こんな事普段考えてたのか」
「へえー」
「ちょっと気味悪いー」
皆が口々にそう言うのが聞こえた。そして酒々井君は荒く、勢いよくページをどんどん捲った。


私の、ノートが…皆に、見られてる…


私はそれをただ見ているしか出来なかった。「返して」も「やめて」も言えない。ただ、呆然と立ち尽くすしか出来なかった。


私の思いや、気持ちも全部書いたノートが……‼

やだやだやだやだやだやだ。

だめ……

ねえ、やめて……!

お願いだから、やめて!

やめてよっ……‼


「おい、澤井が何か言ってるぞー」
「y、m、t…!」
「どうした酒々井」
「澤井がまた得意の金魚やってるぞー」
私は出ない声で必死に訴えかけた。何度も何度も声を出そうとした。顔が真っ赤になって、どんどん熱くなっていく。体中から汗が噴き出して、背中を伝っていくのを感じた。
「y、m、t…‼」
「おい酒々井、お前やり過ぎだべ。また澤井ぶっ倒れるぞ」
「いやこの金魚、面白くない?」
「n…y…‼」
周囲の声がわんわんと大きくなって、頭の中で響いた。腕が固くなって、動かなくなった。首も、肩も、動かなくなった。周りの光景がぼやけていく。堅く結んだ手の中で、爪が掌に食い込んだ。


声も、声も、何も分からないよ。届いてこないよ。


ぐわんぐわんと音はうねりになって、私に押し寄せる。ぱくぱくが止まらない口からは何の言葉も出てこず、私は次の瞬間、教室を飛び出した。もう、逃げ出したかった。
「おーいー、酒々井やり過ぎだってー!」
教室を飛び出して、行く先はどこでもよかった。一刻も早く、ひとりになりたかった。廊下に出た時、昼練から戻ってきた元とすれ違った。「え、穂花どうした?」と声を掛ける彼を無視して、私はひたすら逃げた。


 *


「なあ、理子、ほのk…、え?」
教室に戻った元は、すぐさま理子に何があったのかを聞こうとした。でも教室の様子はいつもと違っていて、穂花の席の周りには人だかりが出来ている。何かがあったのには違いなかった。
そして再度理子を呼ぼうとした次の瞬間、彼女は立ち上がり、元のその目に飛び込んできたのは理子が酒々井に殴りかかろうとする様だった。
「酒々井!」
「え?」
「てめえ‼」
「⁈」
自分よりも背の高い酒々井の胸ぐらに掴みかかって、理子は酒々井のワイシャツを強く引いた。
「おい!理子!」
「ねえっ! 返しなさいよ‼ 返してよ!」
「痛いっ、痛いって玉宮!」
理子は酒々井のワイシャツを破ろうとせんばかりに引っ張って、酒々井はその痛みに顔を歪ませた。元がその間に入っても、理子の精一杯の力は彼にも止められないほど強い。
「うるさい! ねえ! 早く返して!」
「やめろよっ!」
「返せ! 返せ!」
「わかった、わかったから」
「穂花のなんだから! 返せ!」
周囲のクラスメイトも何が起きているのか理解できていない様子で、理子を止めることも酒々井を助けることもしない。元は未だ酒々井を殴ろうとする理子を抱えるようにして、それを止めようとした。けれど体格が一回りも違う元でも、全力で殴りかかろうとする理子を止めるのは難しかった。腕を強く掴まなければとても無理で、腕を掴まれた理子は「痛いっ」と後ろの元の脛を蹴った。
「ねえ、離してよっ!」
「理子、やめろって!お前正気か?」
「正気だよ! ねえ酒々井! 返しなさいよ!」
「おいお前、とりあえず落ち着けって!なあ、落ち着けよ!」
「井刈、早く玉宮のこと止めてくれよ!」
「酒々井も黙ってろって」
「離して!ねえ離して!」
「だから理子やめろって!」
「知らない‼」
何度止めようとしても理子は諦めなかった。元がどんなに押さえつけても、決して止めようとはしなかった。そして酒々井が穂花のノートを「そんなに言うなら返すよ」と床に投げつけた時、
「お前っ、ふざけんな‼」
と元の手を振り解いた理子の右手が宙に飛び、酒々井の左頬に掌が入った。

パーンッ
「あの子の大切なものなんだから! あの子の声なんだから! 返せ――――‼」

理子は…泣いていた。大粒の涙を流して、鼻水も垂らしていた。酒々井の頬は真っ赤になって理子の手跡がくっきりと付いている。クラス中がざわついて誰かが「先生呼んだ方がいいんじゃない?」と言った。そしてその直後に、「おい!君たち何をしているんだね!」と白見教頭が教室に入ってくるのが見えた。酒々井も理子も興奮が冷めやらぬまま教頭に引き剥がされ、互いに肩で息をした。
学年主任も隣のクラスの担任も集まり「おい!何があったんだ!」と口々に怒号を発した。そして教頭から、「君たちは居残りだ。放課後に話を聞く」と三人はそう言い渡された。


 *


「水田先生、クラスで喧嘩が!」
そう聞いた時、私は何が起きたのかさっぱり分からなかった。午前の授業を終えて、午後の授業準備に取り掛かろうとした時だった。私を呼びに来た先生が言うには、女子が男子に殴りかかっているという事で、ますます訳が分からない。そして二年二組に辿り着いて見えたのは、腕を振り回している玉宮さんと、彼女を羽交い締めにしている井刈君。そして床に転がった澤井さんのノートの横に立つ酒々井君だった。玉宮さんは泣いていて、酒々井君は怯えているようにも見えた。井刈君は暴れる玉宮さんを押さえていたらしく息が切れている。既に駆け付けていた他の先生が玉宮さんを宥めようとしても、彼女は変わらなかった。「何があったのか」と白見教頭が聞いた時、酒々井君がそっとノートを隅に蹴った。それを見て、私は何が起きたのかを何となく察した。そして、その主である澤井さんの姿を咄嗟に探した。

でも、居ない。
どこにも居ない。
澤井さんは、何処へ…?

玉宮さんがようやく落ち着いて教室が元に戻りかけるとすぐ、私は学校から居なくなった澤井さんを探しに出た。午後の授業は臨時休講にして、彼女の自宅に電話を掛け、地域の大人にも女子高生を見かけていないか聞き回った。もし、澤井さんに何かあったら…。もう、自分の保身の事は全く頭に無かった。


 *


私はそのまま全力で逃げた。何もかもから逃げてしまおうと、一瞬死ぬことさえも頭を過った。私は駅に続く道を南にずっと走った。道往く人が「あれ穂花ちゃん、どうしたの!」と声を掛けてきても、全く応えずに気にせず逃げ続けた。また仙台に逃げてしまいたい、そう思う自分もいた。
駅のところまで来た時、本屋のおじいさんが「あれほのちゃん、マラソン大会がい?」と私を引き留めた。息を切らして何も言わない私を見ておじいさんは「ま、お茶っこ飲んできな」と言い、私を店の奥へと促した。私は、静かにそれに従った。


店奥の畳の上で、また取り返しのつかないことをしてしまったとひどく後悔した。私が私自身にもっと自信を持てたら、もっと私が強かったら、あんなの見られても平気でいられたのかもしれない…。私が喋れたら、「お願いだから返してください」と言えたのかもしれない…
これじゃ私は…、笑い者だ…。
心の底から、悔しかった。


 *


彼女が見つかったと連絡を受けた時、私は安心して職員室の床に座り込んだ。駅前の本屋に急に飛び込んで、店主の方が落ち着くまで面倒を見てくれていたという。ちょうどその近くを探していた養護の先生が澤井さんを連れて帰ってくると聞いた時、心の底から安心した。
「水田先生、放課後の聴き取りは貴女が仕切ってください」
「え」
「貴女のクラスで起きた事件でしょう。私も同席しますがね」
「はい…、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。」
これは、教頭の嫌味を真摯に受け止めなければならない事態だろう。私は、四人を集めて話を聞かなければならなかった。あのノートがこんな事を引き起こすとは全く予想すらしていなかった。だから教頭が正しかったのかもしれない。言われるままに中立でいれば…。こんな後悔をしてしまう自分を、私は理不尽ながら憎んだ。


 *


何時間かが経った後、保健の先生が来たとおじいさんが言った。じっと体育座りをして隠れていた間、私は目をつぶって耳も塞いで、誰からも見つからないようにと祈っていた。だからそれを聞いた時私は驚いて、また怒られるのだと思って、「いないと言ってください!」と示すように首を何度も横に振った。でも流石におじいさんも、先生に嘘はつけなかった。先生は「澤井さん、大丈夫?」と店の奥に入ってきて、私の横に座った。そして「水田先生たちも探してるわ。ちょっと連絡してくるわね」と一度外に出て、「辛いかもしれないけど、一旦学校に戻ろうか」と私に手を差し伸べた。怒ることもせず、震える私の肩を抱きながらゆっくりと、駅前の道を一緒に歩いてくれた。私は肩に添えられた先生の手を握り、一歩ずつ、ゆっくりと歩いた。


学校に着くと、校長室の隣の応接間に私は連れていかれた。そこには、…酒々井君と、なぜか理子と元もいて、教頭先生も隅の方で腕を組んで座っていた。「私も、外で待ってるからね」と養護の先生が私を残して立ち去ると、教頭先生が「澤井さん、ちょっと話を聞くからそこ、座ってくれる?」と口を開いた。どうして二人が呼び出されているのか、私にはよく分からない。平行に並んだ机の両側に理子と元、そして…彼が分かれて座る。私はその間の机へと促された。そして最後に入ってきた水田先生が私に向かい合うように座り、張り詰めた空気が部屋に流れた。先生がバインダーから紙を取り出す間も漂う、居心地のよくない雰囲気。水田先生の斜め後ろに座る教頭先生も、私たちをじろじろと周期的に見ては「ふう」とわざとらしくため息をついた。
「それで、今日の昼休みに二組の教室内であった事について、それぞれから話を聞きます。いいですね。」
他の三人は口々に「はい」と言い、そのまま水田先生が聞き取りを始めた。先生は私に話は振らず、なぜか理子と彼の方を交互に向いた。
「じゃあまず、何があったのか、双方の主張を聞きたいので、玉宮さんから説明してくれる?」
「え、私からですか?」
「早くして」
「…はい」
理子がどうして説明するのか、私にはよくわからない。理子は何もあの場ではしていなかったはずで、何も関係ないはずだ。これは私と彼の間に起きたことで…。私が話せないから、先生は理子から聞き取りをしようとしているの…?そんなことも思い浮かんだが、先生なら私から紙とペンで直接聞くはずだと私は思い直した。
そして理子が話し始めたことは、どれも私の知らないことだった。きっと、私が教室を飛び出した後のことだった。
「コイツが、」
「玉宮さん」
「すみません、酒々井が、ほのk…澤井さんにちょっかいを出して、歌集やノートを取り上げました。」
「続けて」
「澤井さんが返してと言っても、酒々井は返そうとせずに、他のクラスの連中にも見せびらかしました。なので、私は取り返そうとしました。それだけです。」
理子は、下を向いたまま低い声で言葉を並び立てた。一瞬私の方を見て「澤井さん」と言い直し、その後は私の方とは真逆の方向を見て話し続けた。
「他の先生の話だと、あなた酒々井君に平手打ちをしたと聞いてるけど、それは本当?」
「(え…?)」
「…はい」


理子があの人に平手打ち…⁈ 

なんでそんなことを…?


私はますます状況を理解出来なくなった。今水田先生が言ったことは、理子が…あの人を、叩いた、ということ?あの理子がそんなことをするとは、私には思えない。
「ムカついたので、一発殴っただけです。」
「ムカついた」
「はい」
「玉宮さん、それは世間では暴力と言うのよ。あなたも知ってるでしょう?」
「まあ」
「えっへん。」
わざとらしく咳払いをして、教頭先生も割り込んで話し始めた。
「水田先生、ちょっといいですかね」
「どうぞ」
「玉宮さん、とか言いましたか?」
「はい」
教頭先生は理子の方に近づき、首を突き出して粘っこい口調でそのまま続ける。
「貴女のした事は、れっきとした校内暴力ですよ。」
「…」
「こちらとしては、相応の処分も考えなければなりません」


え、嘘…。理子が、処分……


「いや教頭先生、理子のしたことは!そんな暴力というほどのものじゃ。事実、俺も抑えてました。」
「私が話しているんだが」
「…はい」
「水田先生、この件については後で話し合うことにしましょうか。どうぞ続けて」
教頭先生は一度上げた腰をまた下ろして、腕を大仰に組んだ。私はようやく、この場で起きていることを理解し始めた。そしてそれと同時に後悔の念が押し寄せてきて、居たたまれない気持ちになった。理子への今までの怒りが、虚しい気持ちへと変わりつつあった…。
「続けます…。それで、今度は酒々井君の方だけど」
「はい…」
「今玉宮さんが話した事について、反論はある?」
「特に…ないです」
「じゃあ、あなたが澤井さんの本とノートを取って、皆に見せびらかしたのは間違いない?」
「…はい」
「玉宮さんに殴られたのは、一回だけ?」
「…はい」
「そう。井刈君はその様子を見ていただけ?」
「はい、俺が教室戻った時にはもう何かあった後で。それから暴れるコイツ押さえて、そしたら最後に酒々井のこと殴って。自分、正直何があったのか、今の話で初めて知ったくらいで…」
「あなた自身は澤井さんが本やノートを取られている場面を見ていないのね」
「…はい。見てたら、絶対に酒々井の事、止めてました。殴ってでも。」
「井刈君、そういう冗談はやめて。」
「いや、冗談じゃなくて…。そのノートも穂花にとってすごく大切なものだったって、さっき理子から聞いたんです。何のノートかは知らないですけど、他人の大切なもの奪う奴は許せなくて当然じゃないですか?」
「気持ちは分かったわ。ありがとう。でも、あなたは手を出してないのね」
「はい…。手は出してません。」
「分かりました。」
「はい…」
「次は、澤井さん、あなたです。」
私は名前を呼ばれて、すっと頭を上げた。真っ直ぐ見据えた先にある先生の目は、出会った頃の切れ長の冷たい目をしていた。その表情からは何も読み取れない。
「今までの話を聞いてましたか?」
「(…はい)」
「特にあなたの身に起きたことについて、事実と違う部分はあった?」
「(…いいえ)」
「じゃあ、酒々井君に取られたというのは、間違いないのね」
「(はい…)」
「あなたからすれば、この場で何が起きているのかいまいち理解出来ていないかもしれないけど。我慢してください。」
「(はい…)」
「澤井さん、他にあなたから特別何か言いたいことはありますか?」

言いたい、こと……?

そう言われて私は、少し考えた。そしてそれは、心の中にすぐに浮かんできた。近くにあった紙の裏にペンで文字を書いた。途中、手が震えて、文字が揺れた。そこに私の思ったことを素直に書いた。そしてそれを近くに座る元に渡し、元が水田先生に渡してくれた。
「澤井さん、読み上げてもいい?」
「(はい…)」
「…玉宮さんも、酒々井君も、悪くありません…。 私のせいです、ごめんなさい…」
「何だねそれは。あの澤井さん?が言ってるの?」
私が書いた言葉を覗き込むように教頭先生が立って、水田先生の後ろで「へえ」と呟いた。そして水田先生と教頭先生の二人が、私を見つめた。
「これは、あなたの本心?」
「(…はい)」
「そう…」
水田先生はその紙を半分に折って、バインダーに仕舞った。そしてその後ろで教頭先生が左右に行ったり来たりをしたかと思うと、「あのー、ちょっといいですかね。」と私をもう一度見て、話を新たに切り出した。
「澤井さん、でしたかね」
「…」
「自分で責任を負おうとするその姿勢は良いと思いますよ。大人になっても大事なことです。」
教頭先生は、あのねっとりした声で、私に語りかけた。私はその目を見れずに、下へうつむく。何か、怖い。
「でもね、私は思うんですよ」
「?」
「今回の事のきっかけは、この水田先生にもあると。」
「はい…?」
「ノート、見ました。もちろん、全部ではないですよ?生徒にもプライバシー、がありますからねえ。」
水田先生が立ち上がろうとするのを制して、教頭先生は私の方に近づいてきた。私は離れるように身体を屈めて、椅子の端に寄った。
「それで、あれ、水田先生に色々添削してもらってたんですね。和歌、ですか?ああ、短歌か。」
「…」
「水田先生、」
「…はい?」
「私、貴女に言いましたよね?生徒に深入りするなと。」
「…はい…」
「ですから、今回の事は貴女にも責任の一端が有りますよ」
「え、なんで?」と酒々井君が教頭先生に食いついた。それも意に介さず、先生は「問題児は黙っていなさい」と一蹴する。その鋭い言葉に酒々井君は怯んで、すぐに椅子に戻った。
「それと、…澤井さん。」
「……?」
「貴女も、嫌な時は嫌だと言わないから悪いんですよ」
「…」
「ああ、申し訳ない。喋れないんでしたね。」
「…………」
「ならそれはそれで、何かされても大人しくしていればいいものを。」
「ちょっと教頭先生!」
理子が立ち上がり、教頭先生に反論しようとする。それも制して、先生は「人に手を上げるような人間は黙っていなさい」と言い放つ。
「近頃はいいですね、ハンデがあっても皆が優しくしなければならない世の中ですから。」
「…」
「でもね、皆からそれで優しくしてもらえると思ったら大間違いですよ」
「…」
「今回の事も、言ってみれば、貴女が『やめて』と一言言えれば、こんな大事にはならなかった。貴女の責任も有ります」
「教頭先生、」
「いつまでもぬるま湯に使っていないで、喋る練習でも頑張ったらどうですか?」
「白見教頭、」
「口無しは、口無しなりに頑張らなきゃいけんのですよ」
畳み掛けるように私の心を抉る先生の声。白見教頭の言葉は、自分を責めても責めきれないほどに重い。胸を絞られるような思いがした。背負いきれない痛み、この重さ…。その場にいる誰もが口を挟もうとした。けれど先生はそれを遮ってでも続けた。

喋る練習……

おばあちゃんの記憶が重なって、頭の中で弾けた。口無しは、口無しなりに……
「…教頭、今の発言は撤回してください。」

……?

「…は?」
その時、水田先生が立ち上がり、教頭先生に対峙したのが見えた。その手は、いや肩も震えていて、ジャケットも小刻みに揺れていた。でも先生は強く拳を握った。
「発言を撤回してくださいと言いました」
「え…」
「先生…」
「き、君、上司に向かって何を」
三人が目を丸くしているのも見えた。水田先生は白見教頭のすぐ近くまでにじり寄り、聞いたことがないほどに強い声で訴えかけた。
「白見先生、先生は何十年も先輩で、確かに私の上司です。先輩として、その豊富なご経験は尊敬に値するものだと心得ています。」
「水田君、何を急に」
「ただ」
「?」
「今のお言葉で、人としては尊敬に値しない方なのだと分かりました。」
「はあ⁈」
「この子にも、…澤井さんにも、声はあるんです。」
「…?」
「私は知っています」
「…」
「言いたいこと、思うこと、そういう気持ちはあるんです。」
「君は何を言っているのかね」
「それを口に表せないだけで、きっと今、先生の言葉を聞いて、彼女は傷ついているんです。」
「はあ、それは…」
「それでも彼女に、お前が喋れないから悪い、やられる側に問題がある、と仰るんですか。」
「まあそれは、言葉のあやというか」
「黙ってるのが悪いと、仰るんですか。」
「いや、私はそんな事までは」
「喋る練習をしろと仰るんですか?」
「水田先生、まあ落ち着いて」
「私は一年目の、どうしようもないペーペーです。」
「は?」
「先生のような方に疑義を呈するなど、百年早い。でも、失礼承知で申し上げます。」
「……!」

「ほだなごど言うあんだが、ちょどしてろ!(そんなこと言うあんたが、静かにしてなさい!)」

…………

…………

…………

…えっ…

部屋に静寂が流れた。私も、理子も、元も、皆固まって口を開けていた。
「先生が…訛ってる…」
「いや元、そこじゃないって…」
誰もが驚いて、身体が固まっていた。それくらいの、衝撃だった。


 * 


「自分のクラスでこんな騒動が起きてその上教頭にあんなこと言ったから、次の異動は多分進学校じゃなくて、底辺校でしょうね」
「そうなんですか?」
「さあ。ペーペーの私には分からない世界よ」
聞き取りが終わって、それぞれは下校となった。酒々井は理子にビビったのかレナにビビったのか、平手打ちの件を何も無かった事にして欲しいと言い、結果、理子が処分を受けることもなくなった。そしてレナは、ひとり帰ろうとする理子を「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」と引き留めた。
「…はい?」
気丈な理子も、内心レナにビビっていたのは言うまでもない。クールビューティーで物静かな先生が見せたギャップは、何よりも怖い。
「あなたは、なんで酒々井君のことを殴ったの?」
「へ?」
「人を殴るなんて大したことよ。それだけの覚悟と、思いがなきゃ出来ない」
「…」
「あなた、男兄弟はいる?」
「年の離れた兄はいますけど」
「そう」
「…何か?」
「いや、自分で聞いといてステレオタイプだと思ったわ。」
「はあ…」
「まあ、あなたにとって澤井さんがとても大事な友達だという事はよく分かった」
「…」
「酒々井君のした事は、あなたにとっては本当に許せない事で、澤井さんを心底傷つけるような事でもあったんでしょう。」
「…」
「でも、それを表す手段としての暴力は褒められたものじゃない。見ず知らずの他人に同じ事をしたら警察沙汰よ。」
「はい…」
「そして、言わなくても伝わるも、大間違い。」
「え?」
理子は突然何を言い出すのかと素直に思った。
「殴るほどの原動力になった思い、澤井さんにちゃんと伝えたの?」
「…」
「以心伝心、相思相愛なんて、私は都合が良すぎると思ってる。」
「…?」
「あなたにも言葉がある、澤井さんにも同じく。なら、それを使うべきだと私は思う、」
「…」
「なんて、ドラマの良い教師みたいな台詞よね」
「そうですか?」
「そう思わない?」
「まあ」
「現実の世界じゃ、お偉い先生に楯突いた時点で、良い教師、じゃなくなるのよ」
「さっきのことですか?」
「まあね」
理子を向いて、レナは微笑んだ。その表情には何とも言えない感情も混ざって、複雑な笑みだった。
「でも、」
「?」
「あの時、先生は、先生だったと思う。」
「…」
「それだけは分かります。私、どうしようもない馬鹿ですけど、それは分かります。」
「え?」
「間違ってることを間違ってると言える人も、いや、その方が」
「……」
「私は良い先生だと思います。」
レナはその言葉を含んで、心の中で繰り返した。そして「あなたは口が上手ね」と言い、「引き留めて悪かったわ。早く帰りなさい」とまた職員室へ戻っていく。
「私には大人の世界はよくわからないけど、」
「?」
「先生、」
理子はレナの前に拳を突き出した。振り向いたレナはきょとんとして、その拳を見つめる。
「玉宮さん、どうしたの?」
その意味が伝わらなかった理子は恥ずかしくなって、拳を下ろした。
「いや、内輪のやつで。忘れてください」
「…?」
レナは、背を返して廊下を走っていく理子を一瞥して職員室のドアに手を掛けた。
そして「良い先生、か」と呟いて、その背中が消えるまでずっとそこで見守っていた。

帰郷

「え、良い先生?」
「そう。千咲(ちさき)にとってはどんな人?」
休みの日、妹に電話を掛けると色々な話題に話が飛んだ。特に向こうはこちらの話を聞く気も無いのだが。
今日は部活の指導も、残業もない。純粋な休みは久しぶりで、季節はすっかり秋めいている。
「うーん、課題が少ないか、出さない人かなあ」
「ごめん、聞いた私が馬鹿だった。」
「えー。あ、それで、本当にお彼岸、帰ってくるんでしょ?」
「うん、まあ。」
「お母さんたちには言ったの?」
「昨日、お母さんには電話したよ。東京から帰ります、って」
「あー、まだ言ってないんだ。いい加減言いなよ、良いタイミングなんだし。」
「まあ、色々片付いたらね。」
「色々?」
「そう、色々。」
「そうやっていつも先延ばしにするんだから。」
「そういうことだから。また来週。」
「東京ばな奈、買ってきてね。」
「さくらんぼ、直売所で買っていくよ。」
「もう旬じゃないでしょ」
私は来週の彼岸に、実家に初めて帰ることにした。大学四年の頃に帰ったきり、それ以来一度も帰っていない。庄内で社会人を始めて半年が経ち、建前上は東京から山形に帰るという心積もりでいる。まだ本当の事を言えないのは私の無駄なプライドのせいだ。両親からしたら、反対を振り切って東京の大学に入学して以来、私は東京にいることになっている。


在来線と新幹線を乗り継いで三時間。その日、私はおよそ一年振りに米沢の駅に降り立った。同じ県内でも、県北の庄内から県南の米沢まで片道三時間。新幹線移動も入るというのは、米沢にしか住んだことのない私には些か新鮮な体験だった。
スーツケースを引いて駅前からバスに乗ろうとした時、「あれ、レナぢゃんでねの?」と誰かに声を掛けられた。
「んだ、レナぢゃんだよな!おら、覚えでる?お母ぢゃんの友達の厚子!」
「あ、厚子さん…。ご無沙汰しています。」
「いやー東京で頑張ってるんだって?なんだって、先生になったんだべ?」
「ああ、はい…」
「はい、だなんて、すっかり東京の言葉話すようになってすまってー。もう都会のお洒落さんねえ。」
「まあ…」
「実家さ帰って来だんだべ?お母ぢゃんには言ってあるの?」
「ええ」
「ならいげね、早く帰ってあげな。きっと首長ぐすて待ってっからね。」
「はい。じゃあ、失礼します」
「あどで卵いっぺー持ってってあげっからね―!」
地元、というのは顔見知りがいるから安心できるという人もいる。でも、顔見知りがいるからこそおちおちしていられない、というのもあると思う。私はこんな狭いムラ社会が嫌だった。数歩家の外に出れば誰かに話しかけられて、テストで悪い点を取れば近所にも広まって、恋人が出来ればお祭り騒ぎ。東京の大学で会った都会育ちの同期は、「えー東北?憧れるよー、人が温かそうじゃん」と言っていた。結局、隣の芝生は青く見えるだけなのだと私は思ったが、敢えてその時は何も言わなかった。


バスで小一時間。山間の集落に私の生家はあった。バス停からも、坂を、いや山道を登っていかなければならない。スーツケースがこの道と何ともアンマッチで、恥ずかしいほどに音を立てる。思えば私も高校生の頃、この坂を自転車で下っていた。ほんの数年前のことなのに遠い昔の事のように思えてしまうのは、私もちゃんと大人になった証なのだろうか。
「おーい!お姉ちゃん!」
「あ、千咲」
坂の上から妹の千咲が駆け下りてくる。千咲と会うのも一年振りだ。その姿は、遠目で見ても少し背が伸びたように感じた。
「おかえり!東京ばな奈は⁈」
「ただいま。はい、さくらんぼはもちろん無いから梨ね。」
「えー」
「今時、東京のお土産も通販で買えるでしょうよ」
「確かにそうだけどー」
「ほら、荷物重いんだから早く先上がって」
「スーツケースなんかで来るからだよ」
「本当に失敗した」
重いスーツケースを引っ張る私を残して、千咲は坂の上の家に向かってまた駆け出していく。その後を追って砂利道に嵌まる車輪を持ち上げながら、私はようやく実家の玄関に辿り着いた。
「ねえーお母さんー、お姉ちゃん来たよー」
「ただいま…」
「おがえりー、遠かったでしょうー?」
久しぶりに見た母の姿は、以前よりも少し老けて見えた。頭に白髪が増えて、体も縮こまった気がする。裏の鶏舎に行っていたのかエプロンに長靴姿で、その髪からは懐かしい飼料の匂いが少しした。
「あ、駅前で厚子さんに会った。」
「そうー、あっちゃん?ママさんバレー、あの子辞めちゃっでから、最近会ってなかったのよ。元気だった?」
「うん。後で卵持ってくるって」
「そうけそうけ。あ、千咲!手洗ったの?」
「今するー」
母は私が渡した梨を見て、「なんで梨なんか買ってきたのー。浅野さんから沢山貰ったげんど」と文句を言った。せっかく娘が買ってきたのだから有難く受け取ればいいものを。
「今日、お父さんは?」
「農協行ってるよ?ほら、去年鳥インフル大変だったから。それで講習会があるんだって。多分夕方には帰ってくるんじゃない?」
「そっか」
「お父さんに何か用事?」
「ううん。別に」
「そう。そういやあんた、ちょっと顔付き変わったね」
「え?」
「太った?」
「は」
「冗談冗談。」
母は私の事を茶化すのが好きだった。いつもそれを冷たくあしらって、何年も過ごしてきたことを思い出す。
「でも本当よ?何か、仕事する人の顔になったっていうか」
「え?」
「先生の仕事はどうなの?」
私は手を洗いながら、片手間に母の質問に答える。ふと鏡の前に並んだ歯ブラシを見て、スーツケースに歯ブラシを詰めるのを忘れたことに気付いた。
「まあ、楽ではないけどね」
「楽しい?」
「まだそこまで至れてないかも」
「そっか。」
親相手に平気な顔して嘘をつくなんて、人として外れている…。生徒に道徳を説いておいて自分がそんな事をしていいのか。そんな事を言われても私は何も言い返せないだろう。
「にしてもすごいねえ。本当に夢叶えちゃっでさあ」
「え?」
「学校の先生になるっていう夢。」
「ああ」
「小さい頃からずっと言ってだもんねー。」
「そうだったっけ?」
「そうよ。それがあんた、本当に先生になったのね」
私が教師を志したのはいつからだったのだろうか。母の言葉を聞いても、私はよく思い出せなかった。


「それでレナ、お前はいつまでいるんだ?」
夕飯の食卓には父も加わり、机の上は沢山の山の幸で埋め尽くされた。こういう時に頑なに寿司とかを置かないのが山に住む水田家らしい。
「もう明日帰るよ」
「け。明日帰るのか。もっと休んでけばいいのに」
「お父さん、一年目なんだから、まだそんな休めないのよ?ねえ、レナ」
「まあ」
「そうか、大変だな。勤め人は。」
父は缶ビールをぐびぐびと飲んで、枝豆を太い指で器用に取り出した。隣の母は「お父さん、もう一本持ってくる?」と席を立つ。千咲が筍ご飯に醤油を掛けると、父が「お前、高血圧になるぞ」とそれを制した。
「やっぱり東京は人がいっぱい居るんだべ?」
「え、まあ」
「生徒も洒落てんのか、生意気に」
「そうだね」
この人はきっと、私が東京の高校生を相手に仕事をしていると思っている。それを思うと自ずと罪悪感が湧いて、私の返事は心なしか空ろになった。
「ふーん。俺が高校生だった頃は先公に楯突いて、バイクを乗り回してたもんだけどなあ。」
「それは昔のことでしょ」
「昔って、レナお前なあ」
「ごめん」
「ま、元気そうで何よりだよ。お母さんも心配してたんだからな?田舎もんが都会で先生になんかなれるのかって」
「そう…」
「なあ?千咲」
「そうだったねー」
「にしても最近のは何か弱っちくてなあ。組合の新卒も、なよなよしてて覇気がないんだ、覇気が」
「お父さん、時代遅れだよそういうの」
「千咲、お前もだぞ」
「なに?」
「あれだよ、あれ」
「はいはい。ごちそうさまでしたー!」
「あら千咲、もういいのー?」
「うん」
「おい、千咲っ。…レナ、あいつ最近ずっとあんな感じなんだぞ?」
千咲は早々に椀を片付けると二階の自室へと上がっていく。まああの位の歳だと、家族団らんの時間よりもひとりでいる方が楽しいのだろう。そして父はその後も仕事の愚痴や何かを延々と語り続け、気が済むと野球中継を観るべく缶とつまみを手に居なくなった。だから、居間の机には私と、台所から戻った母だけが残ったのだった。
「ねえ」
「んー?なに?」
「お母さん、心配してたの?」
「えー?」
「いや、さっきお父さんが」
「そうー。まあ、細くてか弱い娘が東京で食われないか、そりゃ心配よねえ」
「食われるって」
「家族みんな応援してるけど、心配でもあるのよ?千咲だって、何回もあんたに電話掛けでたんでしょう?」
「まあ」
「あんたが東京の大学に行った後とはまた違う心配、なのかなあ。」
「え?」
「社会人っていうのは学生とは違うからねえ」
「そうだね」
母は珍しく、卓上に残った父の余ったビールを自分のグラスへと注いだ。「私もちょっと飲みたくなっちゃった」と言って、お茶目に舌を出しながらちびちびと口につける。
「そういえば、卓也君とはどうなの?」
「え」
「もう二・三年もすれば、プロポーズ、されたりして」
「ああ、そうだね」
母はもちろん、私が卓也と別れたという事も知らない。何回か親に会わせた事もあったし、両親ともに卓也の事を気に入っていたのも、まだ記憶に新しかった。
「あら、もしかして何かあった……?」
「え?」
「だってレナ、目を逸らしたから」
「いや…」
この時私は、きっと母には全てお見通しなのだろうと悟った。この人に嘘をつき続けることは、無駄な抵抗。
「まあ…、別れた。」
「へえ」
「へえって」
「…そんな事だろうと思った!いい人だったのに残念ね」
「そうだね」
そして不思議に、固く結び続けた口が緩んでいく。胸の奥に閉じ込めていたものが、外へふわりと流れ出ていくのを感じた。

隠し事は…もう、いい。

不意にそう思った。そもそもいつかは絶対にバレる事で、それをいつ切り出すかという問題でもあった。変なプライドが邪魔をして、それを延々と遅らせて、半年も引きずった。人が秘密をバラす時、それは自分が楽になりたい時。結局は嘘をついておいて、なんて自分勝手なのだろうと思う。私はこの人には、強いままではいられない。

「それとさ、私、」

「ん?」
母の前で小さく息を吸った。
「今…、庄内に居る」
「?」
「だから、庄内に…」
「彼氏?」
「いや。私…、庄内の高校で働いてる。」
母は一瞬目を丸くして、そして急に何故か笑い出した。グラスのビールが気管に流れ込んで、咳き込むほどに笑っている。
「……?」
「あんた、本当に嘘をつくのが下手ねー」
この人はどうして笑っているのだろう。さっぱり訳の分からない私は呆然として、彼女の笑う様を見ているしかなかった。
「知ってる。」
「?」
「知ってるわ。」
「え?」
「私を誰だと思ってるの?あんたを産んだ母親だよ?」
母はニヤリと笑って、ビールをぐびっと飲み干した。
「やっぱ、嘘を貫けなくなっちゃったんでしょう。結局優しい子ね、あんたは。」
そこからまたひと通り笑って「お父さんは知らないけどね」とウィンクをしたかと思うと、母はグラスを流しに置きに行った。
「千咲から聞いたのよ」
「え、千咲?」
「そう。あんた達が電話してるのをたまたま聞いちゃっでさ。「いつまで隠すの?」ってあの子が話してるの。それで千咲を問い詰めたら、あの子、すぐに教えてくれるんだもん。」
「あいつ…」
「あの子も素直な子で、お母さんは幸せもんだわ。子育て大成功ね」
本当に素直で優しい子なら、そもそも親に嘘はつかない。ぼそりとそう呟いても、母には聞こえていないようだった。
「なんで、嘘ついてたの?」
「え?」
「素直に庄内の高校で働いてるって、言えばよかったじゃない」
「それは…」

それは、私があなたの反対を押し切って東京の大学に行ったから。
そして、変なプライドを持って、東京で働くことを熱望して、あっけなくその計画は砕け散ったから。
挙句の果てに地元に出戻りなんて、私には死ぬほど恥ずかしかったから。

…なんてやっぱり、言えなかった…。

そう、変なプライドだ。大学時代もそうだった。同期の誰よりも優秀な教師になろうとした。模擬授業の時も、教育実習の時も、採用試験の時も、優秀なふりをして本当の自分を隠した。それで周りから「水田はやっぱり凄いな」と言われる事が、ひとり上京した私の拠り所だった…。
「いいわ」
「…え?」
「大体わかるから。わざわざ聞かなくてもね」
「…」
「千咲も大変だったんだよー?自分でバラシておいて、「絶対にお姉ちゃんには言わないでね!」ってもう懇願してきたんだから」
「そう…」
「明日は何時の新幹線なの?」と聞いてくる母に、「三時」と私は答える。すると「なら墓参りくらいは行ってきなさい」と母は言って、そのまま寝室に去っていく。
「レナ、」
「え?」
「どこであれ、あんたのすべき事は変わらないんじゃない?」
「…」
「もう先生、なんだから、ちゃんと気張りなさいよ」


変なプライド、優秀さへの固執が小さく静かに崩れ解けていく。ゆっくりと消え去るそれ。今まで気を張って、張りつめていた胸のつかえがほろほろと消えて行った。
温かな気持ちでそれを感じて、私は小鉢に残った枝豆を口に含んだ。

それはとても、しょっぱく感じられた。

日差し

「おいばあさん!これ腐ってんじゃないのー?」
「うっだでごと!仁、おめさっさど外国さ帰れ!」
「いやだって、これ腐ってるじゃーんー」
澤井家に久しぶりの客が来たのは、文化祭も体育祭も終わった一年で一番何もない時期だった。お客、といっても「父」なのだけど。
「仁!文句言うんだったら、おめに食わしぇるものはなんもねえよ」
お父さんが日本に帰ってきてから、家の中ではおばあちゃんとの小競り合いが毎日のように繰り広げられている。家に着いたその瞬間から、お父さんはお土産だと言っておばあちゃんにゴキブリの唐揚げを渡し、腰を抜かしたおばあちゃんは近くの棚に打ち付けて数日間は歩くのもままならなかった。直前にいた東南アジアの国ではおやつとしてかっぱえびせんのように食べているらしいけど、正直これには私も引いていた。
「本当にばあさんうるさいなあ、ねえ穂花ちゃん」
「お父さんも十分うるさいよ」
「もうー。お父さんそんな事言われたら傷ついちゃう」
「はいはい」
今朝もまた、家のあちこちで争う声が聞こえる。実の母子でもどうしてこんなに噛み合わないのか不思議でしかない。
「穂花、もうそろそろ学校行くんだろう?」
「うん」
「あ、元君によろしくな。旅の話聞きたいならお父さんはいつでも空いてるぞって言っておいてくれ」
「…わかった」
「ん?」
「ああ、別に大丈夫。じゃあ行ってくる」
「ほい、いってらー」

衣替えで昨日出した冬服は腕の先がつんつるてんになって、その隙間から冷たい風が入り込んでくる。秋の山風は本当に冷たい。タイツに靴下を重ねても指の先がかじかんだ。
酒々井君との一件から、ひと月ほどが経った。理子はお咎めなしになったと水田先生から後に聞いて、私は本当に安心した。元とも、何も無かったように静かに関係が続いている。正直言って二人と完璧に元通りになったかと言われたら、そうじゃない。まだ二人との距離は前よりも遠くて、そこには微妙な隔たりが残っていた。
「おーい穂花あ」
「はじめっ、朝からうるさいわ」
「あーわりい」
道の先にその二人の姿が見える。元は「秋なのに暑苦しい」とクラスの女子から煙たがられていたのにも関わらず、未だに夏服の半袖だ。水田先生に注意もされたのに「俺は暑いんでー」と全く刺さっていないようだった。
「おはよう穂花」
「おはよ」
「…」
二人に追いついた私は、挨拶の代わりに軽く手を上げて見せる。すると元が「んじゃ、行くべ」と三人は横に並んで歩き始めた。
「おい理子、お前来週末大会だべ?」
「え?ああ、まあ。」
「お前まさか、ずる休みしようと思ってた?」
「文句ある?」
「あるわ。そんなに嫌いなら陸上部やめろって。青春の無駄遣いだぞ」
「はいはい、有難いお言葉どうも」
理子は今、私の隣にはいない。私の隣には元がいる。前は理子が真ん中で元と私との通訳をしてくれていたけれど、こういう風に三人がまた集まるようになってからは自然と並び方が変わっていた。いきなり元が真ん中に割り込んできたのは、天然なのか気遣いなのかは分からない。まだぎこちない理子との関係を考えればそれに救われている部分もあった。
「ほんと、理子はああ言えばこう言うだよなー。なあ、穂花」
「…」
「ほら、穂花も『うん、理子は性悪だよ』って言ってるぞ」
「言ってないって。殺すぞ、元」
「おう…」
三人で横並びになって校門まで歩いていく。前と同じではないけれど、十分だ。私が蒔いた種でもあるのだから、それ以上の高望みはわがままだ。
「あ、先生、おはようございま、」
「おい井刈、ちょっと来い」
元は下駄箱のところで剣道部の顧問に捕まって、職員室までそのまま連れていかれた。連れていかれながら「ちょっと待っててー」と叫んでいたけれど、もうすぐ一限だからと理子は「待つかバーカ」と言って返す。始業十分前のチャイムが鳴ると後ろからクラスメイトがどんどん押し寄せてきて、自分の靴を入れるのも大変だった。私は背の高い男子たちに揉まれて、手に持っていたもう片方を落としてしまう。すると、理子が
「はい、」
と言ってそれを拾ってくれた。スニーカーのかかとを持って私の方に差し出すと、「もっと強くなりなよ」と言って私にそれを押し付けた。
「…」
「行くよ?一限始まる」
「…」
理子も、私も、お互いを探り合うようにして数か月を過ごしてしまった。その時間が長引くほど元通りになるのは難しくなるのに、まだ二人は糸口を見つけられていない。進歩したのは、理子が私に話しかけてくれるようになったこと。でも私の声が出ないのは変わらないままで、もう無視をするつもりはなかったからハンドサインで私はそれに応えようとしていた。
今日もまた、何気ない一日が始まる。きっと二人の距離は縮まらないまま、また今日が終わるんだろう。そう思えば思うほど、今の状況に私は危機感を覚えた。


 *


審査の結果は、正午にホームページで発表…。
同時に各県の教育委員会のホームページにも掲示…。
どっちが速いんだろう…。
「ん、水田先生どうしたの、朝からそわそわして」
「あっ」
「え?」
「あ、いや、すみません」
まだ、十時半だ。正午まで一時間以上あるのに、私はそのページを何回もリロードしてしまう。
『東北高校生文芸コンクール2022 審査結果はこちら』
昨日の晩からスマホのブラウザでページを開いている。出勤したら次は、PCのブラウザでもページを固定しておいた。別に自分が直木賞の候補に選ばれた訳でもない、まして教採の合格発表な訳でもない。それなのに自分がこんなに緊張してしまうのは何故だろう。母数の少ない小さな地区コンクールだ。そんな心配しなくても、澤井さんは佳作くらい貰えているんじゃないだろうか。
でも、もし何も入選していなかったら…。あの子はまた自信を無くしてしまうんじゃないか…。二学期は目立った欠席もなく、ほとんど毎日学校に来れている。酒々井君との一件があった後も何とか登校できていた。そんな中で、失敗経験をさせてしまったら…。
何を今更と思われるかもしれない。教頭にも楯突いて澤井さんの歌詠みを応援していたのに、最近の私は「コンクールを勧めたことは、むしろリスクだったのではないか」という悪い考えに頭が振れていた。もしこれで彼女が挫折感を覚えてしまったら、もう私のことを信じてくれないかもしれない。もしかしたらまた学校に来なくなってしまうかもしれない。そうなったら…。
正直自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。冷静沈着が取り柄の私がこんな誇大妄想に苛まれるなんて。
「なにそれ、コンクール?」
「え、」
「いや、それ」
主任が私のPCの画面を指差すと、私は我に返って「あ、はい」とぶっきらぼうに返してしまった。
「二組の誰かが出したの?」
「まあ…」
「へーだれだれ?」
「それは…。」
「水田先生、なに勿体ぶってー。らしくないなあ」
「その…、」
主任は回転椅子を私の方に寄せて、「うん?」と聞いてきた。
「澤井さんが…」
「え、澤井ってあの?ほら、その、喋らない?」
「はい」
主任は驚いたような顔で「へー喋れないのに、そういうの出来るんだね」と小声で私に聞いてきた。その天然でも失礼な態度に私は一瞬苛立ったが、「出来るんです」と大見得を切って普通の大きさで返事を返した。
「発表が、へー今日の正午なんだー。あれ、水田先生次授業でしょ?」
「ええ、まあ。」
「俺、代わりに見といてあげようか?」
いや、私が見るに決まっている。素っ気なくなり過ぎないように「大丈夫です」と言って、私はデスクを立った。次は一年三組か…。この授業が終わった時には、もう結果が出ている。


 *


「澤井さん、ちょっといい?」と先生に言われるまで、何のことか私はさっぱり分からなかった。ちょうど四限の化学が終わってすぐ、ワークの課題のページに付箋を貼って、私はいつものようにお弁当を出すところだった。今朝焼いた卵焼きに箸を刺そうとしたその時、不意に視界に水田先生が入ってきた…かと思うと、先生は私を呼んだ。
「ちょっと来て」
「…」
何のことだろうか。廊下に出ると周りの生徒の視線がどんどん私に注がれるのを感じた。こんなところでまたお説教されたら、私はきっと持たない。
「結果、出たわよ」
結果?先生がそう告げても、私はピンと来ない。

テスト?
模試?
健康診断? 

先生の顔を見て首を傾げていると、先生は呆れた顔で「コンクール」と私に言った。

…ああ…‼

コンクールのことを完全に忘れていたわけじゃない。もちろんこの数か月の間も毎日毎日歌を詠んでは先生に添削をしてもらい、何故かそれに元も便乗してきて、私も彼の歌を批評するようになっていた。そんな、そこそこ充実した日々を過ごしていたからコンクールのコの字もちらついていなかっただけで…。
きょろきょろ挙動不審になる私を見て、先生は
「よく、頑張ったと思う」
と言い放った。それは良い意味なのか、悪い意味なのか。先生の表情からは何も読めないどころか、何もその続きを言わないからますます私は首を傾げた。すると「あ、そっか」と先生がバインダーからA4の紙を私に見せてきた。
「(審査結果…)」
短歌部門とゴシック体で書かれた下には、たくさん人の名前が並んでいる…。一番上は知事の大賞…、次に歌人の大賞…と続く中に、私の名前は見当たらなかった。

…やっぱり、だめだったのか…。

まあ仕方ない、私はそう思った。歌詠みを始めて間もない頃の応募だったし、ひょっとしたらビギナーズラックもあるかもなんて思ったけれど、そんな簡単な世界ではないはずだ。考えたらきっと今の歌の方が練度が高いし、幅も広がっている。だからこのコンクールは仕方ないのかも…
「裏、見てみなさい」
自分で自分に言い訳をして切り替えようと思ったその時、先生は私を促して、マーカーの引かれた部分を指差した。


『 優秀 山形県立庄内高等学校二年澤井穂花 』


……………

……?……

「…良かったわね」
先生はそう言うと、私の肩にそっと手を置いた。私は何度もその文字を見返す。


庄内高等学校……澤井穂花………私の歌が…、入選した…?


「私もこれでひと安心よ。」
「…?」 
「ちなみに、どの歌が選ばれたと思う?」
「?」
でもでもでも、まだ状況が飲み込めない。私はコンクールに三首を応募した。どれも先生に赤を入れてもらいながら自分で必死に考えた歌。今はそれ以前に紙に載っている事実で頭がいっぱいで、何を出したのかさえも思い出せない。
「その顔だと、自分が何を出したかも覚えてなさそうね」
「…」
先生は少し微笑んで、「くちなしの歌よ」と私にそう言った。
「…⁈」
「意外だった?」
「…」
「私はそうでもなかったけど」
「…?」
「あなた自身の事を詠んだ歌が、秀歌として認められた。」
「…」
「大賞や特選ではなかったけど、三番手でもいいじゃない。十分よ」
「…」
「自信、持ちなさい?」
「…」
私は驚きと、意外な気持ちと、裏切られたような喜びでいっぱいだった。覚えている、くちなしの歌。あの仙台での出会いも、先生の手直しも。祈るようにして封筒をポストに入れたその時のことも。全て、覚えている。
「で、感傷に浸っているところ申し訳ないんだけど、」
「!」
「三番手以上の人は来週末、仙台での表彰式に出てもらうことになってるらしいの。」
「…?」
「だから澤井さんも、行ける?」
先生はバインダーからまた別の紙を出すと、そこには式の案内や概要が事細かに書かれていた。仙台…、来週…、受賞者は出来る限りご出席ください…。
「仙台、遠いけど、大丈夫そう?」
「…」
「ああ、お金は心配しないで、学校から交通費は出るから。」
「…」
「…澤井さん?」
そして私は、その紙の上に「あの人」の名前を見つけた。

『撰者 虻田はるひ先生 ご登壇』

…あの虻田先生が仙台に来て、私の前に現れる…?いや、虻田先生が撰者なのは知ってたけど、会えるの……?私は夢を見ているのだろうか。夢ならなんて嬉しい夢なんだろう………!
「ああ。虻田先生も実際にいらっしゃるそうよ。ま、そういうことだから。」
「…」
「で、ちょっとこれは心配事なんだけど……」
「?」
喜びで心ここに在らずの私を遮るようにして、水田先生は突然私に告げた。
「表彰式、だから、実際に受賞者は壇上に上がって、直接賞状や何かを受け取るらしいの…、それで……」
「…?」
「その時に、一言話さないといけないらしくて…」

一言…………

ああ…そうか、そうなんだ……。

賞状を貰って、ぐるりと回って、一言喋ったら、礼をするんだ…。

思い出す、小学校の書初め展。朝礼で表彰されて、体育館のステージから倒れ落ちたこと。きっと、会場には何十人もの高校生が集まる。その人たちが私のことを見て、私の…声を、聞く…………
「澤井さん…、できる?」
「…!」
「どう…?」
「…」
無理だ、私には出来ない。そんなの絶対に無理だ。きっとあの体育館よりもとてつもなく大きなホールで、そこには知らない人ばかり、というか知らない人しかいない。その中で私がひとり立って、それを皆が見る…?そんなの出来るわけがない。…でも、ここで逃げたら虻田先生に会えない…。この先、あの虻田先生に直接会える機会なんてあるのだろうか。もしかしたら一生無いかもしれない。先生は人気の歌人だから、そもそも東北に来てくれることも本当に貴重な機会なのかもしれない。でも、会場に行くということは、賞状を壇上で貰わないといけないし、そのうえ一言喋らないといけないということ。もしかしたら、ステージに上がることは出来るかもしれない、でもやっぱり喋るのは無理だ。無理だ………!
「先生、」
「?」
「私手伝おうか?」
振り向くと、そこに立っていたのは…理子だった。「ごめん、立ち聞きしちゃって」と呟いて、水田先生の元に近づいていく。
「私、手伝いたい。」
「え、玉宮さんが?」
力強い言葉を発する理子は、少し震えていた。顔が真っ赤になって頬もひきつっている。そして理子は水田先生を見上げると、「穂花を晴れ舞台に立たせてあげたいです…」と、そう言った。
「…」
「うん…でも、澤井さん本人が決めることだから…」
「でも!」
「玉宮さん」
「はい…、そうですよね…。すみません」
私は、理子の顔を見た。理子も、私の目を見た。私は、その目を見て、何かを感じた。理子の目には、あの仲違いをした時とは違う、悔しさが滲んでいた。そして私は、強さを受け取った。純な思いが心に届いた。別に罪滅ぼしでもいい。それで私を登壇させようとしていても、私は何も嫌じゃない。理子が傍にいてくれるだけで、支えてくれるだけで、私なら大丈夫。…そう思える気がした。喋れるかなんて、ちゃんとステージに立っていられるかなんて…後でよかった。
「澤井さん、…どうする?」
「…」
「私は、無理はしない方がいいと思う。遠いし、慣れない所だし、予想以上に大変だと思うわ。」
「…」
先生の言うことも確かに正しい。というかむしろそれが普通で、私にとっての常識だった。でも………
「(…先生に、行きますって伝えて…)」
「えっ」
私は理子に耳打ちをした。微かな声を絞り出して、確かに彼女に耳元で言葉を発した。理子の肩は震えていた。さっきよりも大きく震えていた。
「玉宮さん…?」
「あ、いや…、何でもないです。」
「そう」
「穂花、出るって」
「え?」
「出るって、言ってます」
「本当に?」
「はい」
「そうなの?澤井さん」
私は水田先生の目をまっすぐ見て、静かに頷いた。先生はとても驚いた表情をしていたけれど、私の心は決まった。本当は、すごく怖い。こんなこと、今までにしたことがない。考えただけでも逃げたくなるし、足もすくむ。大勢の人がいて、それも初めての人ばかりがいるところで、落ち着かないところで。そういう場所で、私が喋る。本当に出来るかはわからない。
そしてじっと黙り込む私を見て、「別に話さなくてもいいから。壇上に上がるだけでもいいから」と先生は言った。でも初めて私は、それを乗り越えてみたいと思った…。そうしたら…、今までの私と決別出来る気がしたのだ。自信もない、声も出ない、影が薄くていつも人に迷惑をかけてばかりの透明人間に、そんなこと出来るわけがない。…なんて、もう思いたくなかった。そんな自分に、さよならが言える気がした。そうしないと、いけない気がした。いつまでも、「くちなしの子」ではいられない気がした。
「…本気なのね、澤井さん」
「(はい)」
「…分かった。」
「?」
「私もサポートする。なら、やってみましょう…。」
「…!」
「先生!」
「その代わり、無理は絶対にしないと約束して。」
「…?」
「今年に入ってから何回あなたの校内保険の書類書いたと思ってるの。教頭先生に怒られるのもこりごりよ」
「…」
「それに、あなたの事を大事に思っている人は沢山いる。だから、無理はしないと約束してほしい」
そう言って先生は、私の手をその綺麗な手で取って、優しく握った。


私は仙台に行く。もう一度。今度はひとりじゃない。自分を超えるために行く。自分で、決めた。心を変えたのも、この自分。私の意思を確認して、先生は事務手続きをしに職員室へ戻っていった。私の手に残るその温もりは、じんわり心の芯まで染みていった。
「穂花…さ」
「?」
隣の理子が不意に私に話しかけた。伏し目がちにして何かを伝えようとしている。
「ちょっといい?」
「…」
予鈴が鳴って、廊下が一段と騒がしくなった。次は体育だ。着替えもまだ済ませていない。二人は互いに目を見合わせると、理子は「ごめん、やっぱあとで」と言って先に教室に入っていってしまった。私もその後を追って、皆がそれぞれに動く教室の中に駆け込んだ。


理子とはその後の体育の間も何回か目が合った。私が休みで向こうがハンドボールの試合に出ている時も、ちらりと理子は私のことを見る。多分、理子は私に何かを伝えたがっているんだ。私はそう直感した。


五限が終わり、放課になる。元が私の机にやって来て、「俺、今日部活だからー。先帰ってて!」とわざわざ言うと、後ろから「穂花は私と帰りますー。早く部活行け」と理子が横槍を入れた。
「穂花、帰ろ」
「…」
「行くよ」
理子はそこから暫く何も言葉を発さなかった。いつもの通学路を二人は黙って進んでいく。つい最近までのように、私は彼女の五歩後ろで。理子が私に何かを伝えようとしているのなら、私も理子に言うべきことがあるはずで。何か月も言えてなかったこと、胸の奥に押し込めていたこと…。


…私は、あなたのおかげでここまで来れた…


「ねえ、穂花!」
「…?」
二人の行き先が(たが)う分かれ道に差し掛かって、理子は初めて私の方を振り向いた。
「私、元のことが好きだった!」
「!」
理子の声が大きく道に響く。その言葉は想像していた理子の想いそのままで、でも、それを正面から言われた私は受け止めきれないほどに、彼女の気持ちに偽りはなかった。いつも冗談ばかり言う理子が…本気を見せていた。
「笑うよね!幼なじみのくせになに恋愛感情抱いてんのって感じでしょ?」
「…」
「ねえ、穂花!何か言ってよ!」
「…」
「私がすごくバカみたいじゃん‼」
理子は言いよどむことなく言葉を吐き続けた。私が受け止める間も無く。もう、理子の言葉はどんどん私の両耳すぐ横を擦り走っていく。私は、彼女の言葉を必死で受け止めようとした。理子がようやく自分の口で話してくれた思いを、何一つ無駄にしてはいけないと思った。
「…でね、」
「?」
「…あの大祭の日、私、見ちゃったの…」
「…?」
「元が穂花に告白するところ!」
「…!」
理子が、あれを見ていた…。それは私も初めて知ったことだった。あの日、火焚きの時も理子はいなくて、私は一人で帰った…。だから………
「でもね…、だから…、穂花に意地悪したくなっちゃったのっ‼」
「…」
「間違ったことをしたのは分かってる!どう考えても私が悪い‼」
「…」
「穂花は何も悪くないのに、夢中になれるものを見つけた穂花に勝手に嫉妬して、自分が陸上も何も楽しくないからって穂花のくせに生意気だなんて思って、それに…それに…」
「…」
「元が穂花のこと好きなんだもん‼何、何なの⁈何でこんなに上手くいかないの?私は、何なの⁈」
「………」
「だから、だから私………」
「理子っ!」
「⁈」
理子が嗚咽で言葉を詰まらせた時、私は五歩を瞬間で超えて、理子を抱きしめていた。
強く、固く、抱きしめていた。
「もう…、もう、いいよ」
「え…?」
「もう、いいから………」
「でも…、でも…」
「もう、だいじょうぶ…」
「ほのか…」
「…言ってくれて……、ありがとう…」
温かかった。私の肩にうずまるあの子は、温かかった。私は彼女を抱いた。私の出せる一番強い力で、理子をぎゅーっと抱きしめた。そこに、言葉は要らなかった。言葉にしなくても、もう理子の思いは私に伝わった…。
「ねえ、だからもう、泣かないで?」
「泣いてない!泣いてないってば」
「泣いてるよ。私の肩、ハンカチじゃないんだけどな」
「泣いてないよ!」
「はいはい、赤ちゃん、いい子だねー」
「ねえ、穂花殺す」
「はいはーい」
「もう、もう、穂花嫌い‼」
「(笑)」
私に、もう理子を咎める気持ちはなかった。ずっと胸にチクチク巣食っていた嫌な気持ちも悪い思いも、もう私の中にはなかった。そして、今度は私が謝る番だ。私が理子に伝えないといけない番だ。
「理子、ごめんね」
「え?」
「私、理子にいつも迷惑かけてばっかりで…。二人がいないと何も出来ないなんて、絶対だめなのに…。」
「穂花」
「…私、思ったの」
「?」
「もっと。いや、もう少しだけ、強くなりたい。」
「強く?」
「うん…」
理子の頭を撫でると、久しぶりの理子の匂いがした。まるで男の子みたいな爽やかな匂い。少し汗をかいているけれど、それが理子だった。
「理子、だからもう、泣かないで?」
「泣いてるよ!もう泣いてるってば!」
「よーしよーし」
「こんな女の子のブレザーで涙が拭けるなんて、私は幸せ者だよ」
「ヘンタイ」
「変態って…、ああっ‼」
え?急に大声を上げるから、私は思わず理子を突き飛ばす。
「え、なに?」
「はなみず‼」
「へ?」
理子の指差す先は私の右肩…そこに何かしみがついている。
「ごべん、はなみず、つげちゃっだ」
「え⁈もう!バカ!」


こんな理子と、そして水田先生と、私の特訓が始まった…。あと一週間。まずは舞台に立てるようになること、そして喋れるようになること。二つ目はたとえ無理でも、一つ目は叶えたいと思った。

そう。私が、変わるために。

さすけねえ

初冬の仙台はあの夏の日よりも冷えて、体の芯から私は凍えた。でも、雪は降っていない。最近の庄内は雪に雨にと晴れない天気が続いている。日本海側の冬は湿っぽくて嫌になるほど水気が多い。それに比べて、山を越えたこっちはからっとした冬空がどこまでも澄み渡っていた。

理子と、先生との特訓はあれから毎日行われた。

まずは、大勢の前に立つこと。理子が「人の頭をみんなおにぎりかカボチャに見立てればいいんだよ!」と言ったから試してみたけど、私にはその方法は向いていないようだった。先生が次に言ったのは、人の顔じゃなくて、おでこを見る方法。これは少し練習すればいけそうだったけど、やっぱりおでこのすぐ下の目に視線が向いてしまって、途中で「無理!やっぱり無理です」とやめになる。ならばと理子が「まずは少人数の前に立って、段々数を増やしていけば?」と提案してくれたのは、比較的上手くいった。
そしてその実践として、私は毎日朝礼で配布物を配る係を始めた。先生の計らいだ。最初は「え、レナセン、澤井をとうとうパシリにしたのかよ」「澤井さん、かわいそー」というクラスメイトの声がこそこそ聞こえてきたけれど、理子が「みんな、穂花は人前苦手なのを克服しようとしてるの!協力してあげてよ?」と声を上げてくれたから、皆は無言のうちにそれに付き合ってくれるようになった。

最初は一人で、声を出してみる。私は今、ホールにいて、そのステージの上に立っていることを想像する。そしてそれをイメージしながら、もう一度声を出す。私はお父さんの前でも、理子と元の二人の前でも声を出そうと練習した。理子と先生が考えてくれたこのステップを順番に、私は何とかクリアしていった。けれど、やっぱり声を出せるのは理子とお父さんの前で、そこからの壁が私にとってはかなり高いものとなっていて…。
「澤井さん、やっぱり、一礼するだけで終わりにしない?」
表彰式も翌日に迫ったその日、水田先生は私にそう言った。
「…」
「それだけでも、もう十分よ?スタートから見れば、あなたはすごく頑張ってる。」
「…」
「もうクラスの皆の前でしっかり立てるようにはなったんだから」
「…」
「分かる。一度決めた事を途中で投げ出すのはとても辛い事だわ。でも、私はあなたに無理をさせられない」
「…」
「だから、今回は、壇上で話す事は諦めましょう?」
「…」
先生の言う通り、今の状況を考えればそうするのが絶対にいい。大人しく、人前に立てるようになったことだけを認めて、諦めた方が楽だ。でもそれじゃ、私は変われない。無口な私のまま…。乗り越えたい。乗り越えたいんだ。弱くて、人に頼ることしか出来ない自分を、乗り越えたい………‼
「先生、それは穂花のため?」
「え?」
私の隣で話を聞いていた理子が唐突に口を挟んだ。立ち上がり、先生の前に歩み寄る。
「玉宮さん、それはどういう意味?」
「いや、そういう意味。」
「?」
「無理はさせられない、って誰のために言ってるの?」
「それは澤井さんのためでしょう」
「まさかこの期に及んで、自分のためじゃないよね?もうそんな先生はここにはいないんだよね?」
「玉宮さん、いい加減にして」
二人はどちらも真剣だった。私は何も言うことが出来ず、そっと見ているしか出来なかった。
「じゃあこのまま明日澤井さんを無理やり喋らせて、それで澤井さんに何かあったらあなたは責任取れるの?」
「いや、」
「それと、自分のためとかそんな事、嘘でも言わないで欲しい」
「…すみません」
「ごめんなさい、私も言い過ぎたわ」
「…」
「だとしても、私は現時点ではやっぱり反対。明日一気に変われるっていうのは、分からないけど、私は無理をしないと出来ないと思う。」
先生はそう言って私を見た。確かに先生の言う事は正しい。今日の明日で一気に変われるなんて奇跡だ。だけど認めたくない。まだその思いが残っていた。その時理子が、
「なら、穂花が最終的に自分で決めればいいんじゃないですか。」
と言った。
「明日、穂花がステージに立った時に決める。いいじゃん、別にステージ立ってビビっちゃったらそこでやめても。」
「まあ…」
「これで何か不都合ってあります、先生」
「いや…まあ、特に無いとは思うけど…」
「ま、結局はこの選択自体も穂花が決めることだけど。どうする、穂花?」
「⁈」
「だから、どうするの?」
「…」



そして今、私は仙台のホール前にいる。あの欅並木の先に佇む、全面ガラス張りの大きな建物がその会場だった。
「おい、穂花。緊張するなあ」
「お父さんは出ないでしょ?」
「いや、だって愛娘の晴れ舞台だぞー?緊張するよー」
「まあ、そうだけど…」
そのまま庄内に居座っていたお父さんが私を仙台まで送ってくれたのだけど、お父さんは私の晴れ舞台を見ることはできない。この後、仙台の空港からタイに飛び立たなければならないのだという。つくづく、こういうところはお父さんらしいなと私は思った。
「あの穂花が、こんな大きなホールでひとり立つなんて……。もう、お父さん泣きそうだよ」
「ちょっと、やめてよ」
「だって、か弱い一人娘が…成長して…」
「お父さん!本当に泣かないでよ!」
「お父さんも見たかったなー。あー、本当に見たかった‼」
「気持ちだけでいいから…」
「まあ、お父さんはタイでお仕事頑張ってくるからな。お土産にゾウのステーキ買ってきてやる」
「えーいいよ…。」
「じゃあドリアンは?」
「もっといらない」
私も緊張でカチカチだけど、お父さんも気が気でないのだろう。だって、私のことを一番長く見ているのは、紛れもなくこの人なのだから。私が「くちなし」になってしまった時も、あらゆる病院に連れて行っては「どうか!治してあげてください!お願いします!」とお医者さんに頼み込んでいた。どの先生も「原因が今の医学では解っていないので、根治は無理なんですよ」と言ったけれど、お父さんは諦めず、ついには祈祷師や占い師、変な研究者のところにも私を連れて行った。何はともあれ、お父さんからしたら私が大勢の前で表彰されるなんてことは一大事なんだ。まだ親心なんてわからないけど、背伸びをして考えればその思いに重ねられる気がする。
「んじゃ、穂花。頑張るんだぞ」
「うん」
お父さんは大きなリュックサックを背負って、私の前に日に焼けた手を出した。昔よりも皺の増えた手に私の掌を重ねて、パチンとハイタッチをした。お父さんは地下鉄の駅の方に歩いて行く。なのに何度も後ろを振り向いて私に手を振ってくる。手を振りながらそのまま歩くものだから、通行人にぶつかりそうになっては平謝りをしていた。

もう、恥ずかしいって…。

お父さんが豆粒みたいに見えなくなって、ようやく私はガラスの建物の中に入った。今日ここに水田先生もいるはずだ。「表彰式の前に、他の高校の先生に挨拶をしてくるわね」と言っていたから、姿が見当たらないのはまだ時間がかかっているのかもしれない。


時間が近づくにつれて、ホールの前にたくさんの高校生が集まり始めた。見たこともない制服、聞きなじみのない訛りも飛び交っている。前の私ならこれだけで逃げたり、隠れたりしていた。最悪、失神していた。でも今は、今は…大丈夫。
「ごめん、澤井さん。遅くなった」
「…!」
水田先生はいつものパンツスーツで、いつものあの匂いがした。庄高からは唯一の受賞者らしく、うちの高校から参加しているのは私と先生の二人しかいない。
「大丈夫?」
「(はい)」
「にしても、制服の陳列ショーみたいね。本当に色々なのがあるわ」
「…」
「私の母校のもさっき見かけたけど、ネクタイだけ変わってた。あ、今関係無いよね…。」
「…」
「ごめんなさい、私も変に緊張しちゃって。そろそろ時間だし行きましょうか」
「(頷く)」
先生に促されてホールの中に入ると、あまりの大きさに私は「うわあ」と声を出した。下から上へと黒の客席が延々と終わりなく並び、その周りを木目調の高い壁が囲んでいる。照明でより明るくなっている舞台には『東北高校生文芸コンクール2022 表彰式』と大きな横断幕が掲げられ、各県の県章がその横を固めていた。
「やっぱり…仙台はすごいわね」
「…」
「山形で表彰式じゃなくて良かったわ」
「…」
「あ、そういえば、もうお父様は行かれたの?」
「(あ、はい)」
「そっか。見たかったでしょうね、娘さんの晴れ姿。」
「(そうですね…)」
「玉宮さんとかは?」
『部活、みたいです』と私は式次第の端にそっと書いて見せる。直前まで特訓に付き合ってくれていた理子も、今日は珍しく陸上の大会に出場するらしい。どういう風の吹き回しかはわからないけれど、申し訳なさそうに「ごめんね、行けなくて。私も陸上、頑張ってくるから」と言っていた。
「なら、私しかいないのね…。まあ、皆の分もちゃんと見ておくから、安心して」
「(はい)」
元も剣道部の練習試合が酒田であると言っていた。滅多に戦えない強豪校相手だから、休むわけにはいかないのだという。
「大丈夫。一瞬で終わるから。」
着席を促すアナウンスがされて、会場内の他の人たちもぞろぞろと動き始めた。先生は「じゃあ、私も席に行くわね。」と言って、去り際に「澤井さん、」ともう一度私の名前を呼んだ。
「…!」
「練習通り。」
「…?」
「でも、無理そうだったらそこはきっぱり諦めなさい。今日大事なのは、大勢の前で声を出せる事よりも自分の歌への評価をきちんと受ける事、なんだから。」
「(はい…)」
「まあ、カボチャでもおにぎりでも、何でも好きなようにしなさい」
「(笑)」
「じゃ」
「(…はい!)」
始まる。いよいよ始まろうとしている。今までに経験の無いこと。舞台に上がって、賞状を貰って、出来たら話す。それを頭の中で何回も繰り返して、指定された席についた。ひとり仙台に来た時も挫折している私が、殻を破ろうとしている。これを乗り越えることは、挑戦。出来るところまで、ちゃんと頑張るんだ…。


「それでは続いて、短歌部門の表彰に移ります。」
小説、俳句、詩と続いて、いよいよ出番が来る…。先に立った受賞者の人は、皆誰もがちゃんとしていた。同じ高校生とは思えない…。ただ「ありがとうございます」なんて言う人はほとんどいなかった。緊張の色なんて少しも見せないで、自信に溢れた様子で賞状を受け取っていた。中には顔を真っ赤にしてがくがく震えていた人もいたから、その時に私は少しほっとしつつ、「がんばれ」と心の底から応援した。
「ここで、審査員の方をご紹介します。歌人、虻田はるひさん…」
「(…虻田先生…‼)」
私は緊張のあまり、そのことをすっかり忘れていた。そうだ、虻田先生と同じステージに私は立つんだ…。頭が真っ白になる。特訓の時、それどころではなくて完全に忘れていた。虻田先生が、虻田先生が目の前に来る…
「審査員の先生が上がられます。拍手でお迎えください」
会場全体から拍手が湧く。今までの他部門の時以上の拍手が会場を包んだ。そして舞台の奥から、その人は現れた。

あれが…虻田先生…!

理子のお母さんくらいの年齢で、優しそうな顔立ちをしていて、歩く姿ものんびりとしている。ゆったりとしたワンピースも、イメージ通りの虻田先生だ…。にこにこしながら客席を見て、「虻田です。よろしくお願いします」と会釈をした。私はその出で立ちに目を奪われて、周りの声は何も入ってこない。
「受賞者は名前を呼ばれたら壇上に上がってください。」
「まず知事大賞です。秋田県立八潟高等学校二年、篠山朱音さん…」
一番の賞から名前を呼ばれて、舞台に受賞者が上がっていく。名前を呼ばれたら、返事をしてステージへ。審査員の先生が順番に賞状と記念品か何かを渡してくださる。そしてそれを受け取ると、マイクに向かって一言話す…。私よりもすごい賞を獲った人たちがどんどん呼ばれていく。男の子も、女の子も。礼をして、賞状をもらって、もう一度礼。そして皆の方を向いて、礼。話す。
あと九人、あと八人…私は指折り数えていた。順番が近づいてくる度にその指が震えてくる。逆の手でそれを包んで、乾布摩擦のように必死に擦った。
「優秀賞、宮城県私立星玲学園高校一年、輪島研一郎くん…」

…次だ。

次が、私の番。呼ばれる。もう、呼ばれてしまう。顔が熱くなって、手汗が滲んだ。
「これからも、色々な歌を詠んで、自分の表現力を広げたいです。ありがとうございました」
前の子が賞状を受け取って、マイクの前で話した。もう、逃げられない、逃げちゃいけない…
「同じく優秀賞、山形県立庄内高等学校二年、澤井穂花さん」
「(…はい…‼)」
すくっと立って、ただ前を見て、舞台に向かった。周りの人の顔は見ない。見るのはあのカラフルな県章だけ。震える足で、階段を一歩ずつ上がっていく。壇上は照明が焚かれているからか、すごく暑かった。じりじりと私を焼いてくるようだった。虻田先生の顔がちらりと目に入る。心配そうに、私を見ていた。そして右をふと見ると、会場を埋め尽くすかのように隙間無くたくさんの顔が見えた。

がんばれ…自分…

「それでは、虻田先生から賞状の授与をお願い致します。」
「はい」
虻田先生が、虻田先生が私に向かって近づいてくる。賞状を持って、ちょうど私の目の前に先生は立った。
「優秀賞、澤井穂花殿…」
真上から、そして客席からじりじりと焼かれながら、私は「先生、やっぱりいい匂いなんだな…」と考えていた。それ以外のことを考えたら、もう「無理」になってしまいそうで、ギリギリのところを踏ん張っていた。
「おめでとうございます」
先生の手が伸びて、私に賞状が差し出される。右、左、受け取れた…。手を思いっきり震わせながら、そして伏し目がちに先生の顔をしっかりと見ながら、私は礼をした。下を向くと吐きそうなほど、私は緊張している。
「それでは、澤井さん、受賞について一言、マイクのところでお願いします」
司会者の人が私を促した。私は言われるがままに、斜め前にあるマイクへと向かって歩いた。おぼつかない足で、ぶるぶる震わせながら歩く。
「…‼」」
マイクの真ん前に立つと、たくさんの顔が一度に私の視界に入ってきた。一斉に私を見て、何を言うのかと私の声を聞いている…。

無理だ

直感的に私は思った。心じゃなくて、体が無理だとそう感じていた。

見ないで。お願い、見ないで。

その目ひとつひとつが私を貫いて、私の口をぱくぱくとさせた。
「澤井さん、大丈夫ですか…?」
そう、何か言えばいいんだ。何でもいい。たった一言を口にすればいいだけなのに、口を動かそうとしても音が出てこない。次第に皆の視線がじとっと重くなって、体温がどんどん上がる。熱い。胸の鼓動が痛いくらいに早くなる。いや、痛い。

「あの子、大丈夫かな」
「緊張して上がっちゃってるんじゃない?」
「口パクパクさせてるよ」

周囲の声がわんわんと大きくなって、頭の中で響いた。その時私は不思議に、水田先生のことを思い出していた。初めて授業で当てられた時。先生に質問されて、答えはわかるのに、やっぱり答えられなくて…。そういえば、庄内に転校してきた時もそうだったかもしれない。新しい担任の先生に事情をうまく伝えられなくて、何とかやり過ごそうとしたけど自己紹介をさせられて。クラスの皆に笑われた。よく考えれば、私はその時悔しかったんだ。馬鹿にされて、本当は喋れるのにって、悔しかったんだ…。こんなことをぐるぐると考えているうちに、腕が固くなって、動かなくなった。首も、肩も、動かなくなった。
「澤井さん?」
と虻田先生が聞いてくれたけど、私の固まった目は、遠い天井に吊るされた黒い箱だけを見ていた。周りの光景はぼやけて頭に入ってこない。堅く結んだ手の中で、爪が掌に食い込んだ。

声も、声も、何も分からないよ。届いてこないよ。

ぐわんぐわんと音はうねりになって、私に押し寄せる。ぱくぱくが止まらない口からは何の言葉も出てこず、ただ分かったのは誰かの「澤井穂花!」という声だけ……。……え?

「澤井穂花―‼」

私は我に返って、声の主を探した。舞台の上で、辺りを一生懸命見回した。

「あなた、それでいいの⁈」

この声は……、水田先生…………⁈

客席の奥の方に、まっすぐ立っている人の影が見えた。その人は、細くて、華奢で、すらっとしている…。

「練習通り‼」

…………‼

「ほら、さすけねえー‼」

その影は、舞台の私に向かって真っ直ぐ何かを突き付けた。それは、右拳。ピンと伸びた腕の先で握られた拳は、そしてその言葉は……私のハンドサイン…………!
「会場の皆様、静粛に願います。」
司会の人がそう制して、会場は少しずつ騒ぎが収まっていった。少しずつ静かに戻っていく。するとその司会の人がマイクの前に立ちすくむ私の所に寄って来て、「もう、捌けてもらっても大丈夫ですよ」と言った。

捌ける……、今………

私は、だめだと思った。それはだめだと思った。今逃げたら、もうこれからも、この先もずっと、私は「くちなしの子」だ。それじゃだめだ。だめだだめだだめだだめだ…………‼

「あの‼」

マイクを通して、私の声がぼうんと会場にこだました。キーンと嫌な音がして、耳を塞いでいる人もいる。

「あの…………」

私はその瞬間、確かに話していた。言葉を、発していた。私の声は、確かに皆に届いていた。

え、えっと、あ、何を言えば、わかんない、え、あ、あの

話し始めておいてあたふたしている私を笑う声が聞こえる。でも、後ろで水田先生の姿がもう一度くっきり見えた。拳を突き上げるその姿が、私にははっきりと見えた。

「あ、ありがとうございました‼」

私の声が、会場を突き抜けた。

天井まで、もっと外まで。

私の声が、届いた。

終 くちなしの歌

「澤井さん!」
終わった。無事に、いや、何とか終わった。へろへろになって、もう歩く気力すらない。
「澤井さん!」
私は叫んだ。叫んでしまった、と言うのが正しいのかもしれない。何を言ったのかも覚えていないけれど、虻田先生の驚いた顔だけははっきり覚えている。それを見て私は「やってしまった」と確信した。司会の人が気まずそうに「えーと、じゃあ、お席の方にお願いします…」とフォローしてくれたからよかったものの、あのまま何かもっと求められていたら…………
でも私は、後悔していない。恥だなんて、もう思っていなかった。これが私、それでいいと、そう思えた。
「澤井さん‼」
「⁈」
いきなり誰かに右肩をがしっと掴まれて、そのまま裏にひっくり返される。「え」と反応する間もなく、その人は「ちょっと、早く来て」と私に言った。
「(…せんせい?)」
「いいから、早く」
先生は私の手を引いて、人でごった返すホワイエの中をどんどん進んだ。往く人誰もが私たちを見返して「どうしたの?」と言わんばかりに目を丸くしている。
「ごめんね、急ぎなの」
「…?」
「だから、早く…」
そのまま先生はものすごい勢いで私を引いて行った。ホールとは真逆の方向に進んでいく先生は、私をどこに連れて行く気なのか。私は全くわからないままそれに付いていく。
「はい、お待たせしましたっ。連れて来ました!」
「先生、すみません。ありがとうございます。ではこちらにどうぞ」
先生は誰か知らないスーツの男性と何やら話していた。その男の人が私を見て、「こちらに」と手招きをしている。
「澤井さん、時間無いから早くして」
「!」
急かされるまま通された部屋に入ると、…そこには見覚えのあるワンピースの女性が座っていた…………

「あら、ごめんなさいね、お呼び立てしちゃって」

…………‼

「虻田先生、こちらが澤井穂花さんです」
「ああー澤井さん!」
スーツの男の人が私をすっと促して、彼女の前に案内する。そう、今私の前にいるのは、紛れもない虻田はるひだ。さっきの、ままだ…。
「本当にごめんなさいね。次の仕事があって、もうすぐここを出ないといけないの。でもちょっと、直接お話ししたくて」
「…!」
「初めまして、ってさっき会ったわよね(笑) 歌人の、虻田はるひといいます」
「…」
虻田先生は私の前にすっと右手を差し出すと、私の右手を優しく握った。
「あら、なんてやわい肌。若いってやっぱりいいわね」
「先生、お時間が」
「ああ、そうだ!」
男の人が時計を気にしながら、私たち二人を見ていた。その隣には水田先生もいる。何が起きているのか分からない、とても変な光景。
「それでね、澤井さん」
「(…はい!)」
「さっきは、大丈夫だった?」
虻田先生は優しい目で、首を傾げながら私を気遣ってくれた。私は思わず「(はい!)」と瞬間で頷いてしまい、水田先生がそれを見て笑っていた。
「それはよかった。もう、心配で心配で。あんな繊細な歌を詠むのだから、きっとガラス細工みたいな子なんだろうと思ってたの。そしたら本当で」
「…」
「あとから、澤井さんは、人前でお話ししたりするのが苦手なのだと伺いました。それを聞いて、あの歌がより深みを増して感じられたわ。」
「…!」
「そう。クチナシには、こういう花言葉があるんですよ。」
そう言って先生は、私に一枚のメモを渡した。

『 秘めた思い 』

「(秘めた、思い…)」
「あなたにぴったりの花を見つけたのね。秘めた思いをいっぱいに孕んだ蕾。きっといつかあなたも、大きな花を咲かせる」
「…」
「また、どこかでお会いしましょう。」
「…!」
「約束ですよ?」
虻田先生とお会いした時間はほんの僅かだったけれど、私にとっては何十分にも、何時間にも感じられた。まるで、栗木京子の観覧車の歌のように。
先生はスーツの男性に促されて、風のように消えていった。控え室には私と水田先生の二人だけが残り、ほっと息をついた後に、先生と目を見合わせて「すごいわね!」「(はい!)」と冷めやらぬ興奮を分かち合った。
「私も最初はびっくりしたのよ?男の人が声かけて来た時はナンパかと思って。それで『こんな学生も沢山も居る中でナンパなんて、大した根性ですね』って言ったら、『あの、虻田はるひのマネージャーなんですが』って言われて。恥ずかしいやら、驚くやら」
「(うんうん)」
「それにしても、本当に羨ましい。羨ましいわ。あの虻田はるひ直々に言葉を頂戴するなんて」
「(はい)」
本気で悔しがる先生を横目に、有頂天になった私は、虻田先生のメモをひらひらくるくるさせて夢見心地になっていた。すると、「あれ?」とその紙の裏に何かが書かれているのを見つけて…

 『 物言わずとも おもい秘め 
   よめば声なり くちなしの花 』

「(よめば、声…)」
「澤井さん…これ…」

先生の、書き下ろし、いや詠み下ろし…?

「本当に…あなた、すごいわね…。もう、言葉が出ないわ…。」
「…」
「本歌取りだし、先生お得意の上の句での型崩しだし…」
「(はい…)」
「きっと、これはあなたへの応援歌ね。短歌、だけど」
「…」
「これからも、賞と先生に恥じぬように、歌詠みを続けなさい?」
「(はい!)」
先生はそう言って私に微笑みかけた。その顔は確かに笑っている。そして私は確かに先生と繋がっている感覚を得た。言葉を発さずとも、もう先生に伝わっている。私の内なる思いも、言葉も。心の底からそう思えた。だから水田先生の笑顔はとても美しかった。綺麗だった。



会場の外に出ると雲の切れ間から陽が出てきて、ぽかぽかと微かに暖かくなっていた。虻田先生のくださった歌は右のポケットに、大事に大事にしまってある。
「おーい!ほのかあー!」
「おーい!」
「⁈」

理子⁈ 元⁈

欅並木の向こうから、駆け寄ってくる二人の影が見えた。赤信号に足止めされて憤慨してその場で足踏みをしている。それにしても、あれ…、ここ庄内じゃないよね?仙台だよね?と不思議な気持ちに私は駆られていた。
「ほのかあー」
「やっほー」
「(うわっ!)」
私に倒れかかるように走ってきた理子と元に押されて、会場の前で私はどてんと後ろに転んでしまった。皆が見てるのに、いったい何をしてるのこの二人は!と思いながら理子に起こしてもらうと、
「どうしたのそんな地べた寝そべって」
と彼女はけろっとして私に言った。
「(いや、どうしたのはこっちの台詞でしょ?なんで、なんでここにいるの?)」
「ん、理子、穂花なんて言ってる?」
「なんでここに居るの?だって」
「おーう。」
理子経由で私の疑問を汲み取った元は「それはだなー」と呑気に話し始めた。
「穂花の晴れ舞台を見るためだよ」
「んだねー」
「?」
「いやさ、二人とも部活あったんだけどさ、やっぱり見たいねって元が言い出してさ。」
「いや違うべ、理子が、言い出したんだよ」
「は?あんたでしょ⁈」
「(…それで?)」
「ああ、ごめん。で、庄内から来たと。」
「…?」
「でも、コイツの決断が遅かったせいで到着も遅れるし、仙台着いてもコイツが迷って地下鉄乗れないしでさー」
「は?元、お前が地図読めないのが悪いんだろ?」
「うるせえ読めるわ。」
「(…で?)」
「そう、何とかこのガラスのいかにも都会っぽい建物には辿り着いたものの、時すでに遅し。途中入場は出来ませんって断られちゃってさ。」
「そしたら理子が『私の大事な妹が中にいるんです‼開けてください‼』ってくせえ芝居したんだけどさ」
「?」
「うん、あれはハリウッド並だったよ」
「B級映画だっぺよー。んで、外に放り出されて、穂花が出てくるのをずっと待ってたと。それで今に至る感じ?」
「(そうだったんだ…)」
「で、穂花、上手く出来た…?」
理子がぐいと顔を近づけて、私にそう聞いてきた。そうだ、二人は見れなかったから、知らないんだ。
「(うーん…、うん?)」
「え、ちゃんと出来たの⁈」
「(ちゃんと、かはわからないけど、一応、喋った。)」
「け‼まじけ‼」
「(うん…)」
理子は驚いて大声を出した。また周りの人がこっちを見てくる。やめてよ…恥ずかしい…。
「え、おい理子、穂花なんだって?」
「あーはいはい、こっちの話」
「おいおめ、そりゃねえべよ」
「(ちょっと、元にも教えてあげて?)」
「わかったよー。元、穂花ね、ゴミのような大量の人間の前で声を出したんだって」
「(理子、言い方!)」
「そう…、え、そうかー‼え、おめ本当に喋ったの⁈」
「(うん)」
「うわあ…」
元もなぜかその場で何度も飛び上がって、挙句の果てには私と理子に抱きついてきた。
「ちょ、元キモい」
「あ、ごめん。にしてもすんげな!それ!俺信じられないわ」
「穂花が、本当に頑張ったってことだよ」
「(これからも同じように出来るかは分からないけどね…)」
「ん?穂花なんて?」
「ああ、これからも頑張ります、だって」
「そうかー」
「(ちょっと理子!)」
三人は、仙台のど真ん中で笑い合った。その時間は、その瞬間は、私にとってかけがえのない、何よりも大切なものだった。ずっと重ねてきたはずなのに、その尊さを私は見失っていた。当たり前だなんて思ってた。本当はそんなわけないのに。


「穂花さ、」
「?」
「ごめんね。」
三人で喜び合った後、理子は急に真剣な面持ちになって、私の方を向いた。
「前、喧嘩した時に、『私がいないと何も出来ないくせに』って言っちゃって」
「え、おめ穂花にそんなこと言ったの?」
「うるせえ、お前は黙れ」
理子が元のつま先を思いっきり踏んづけて、元は可哀想にも口をつぐんだ。
「(もう、いいよ?)」
「え?」
「(もう、大丈夫。)」
「…でも、さ。」
「…」
「やっぱり、穂花は弱くなんかないんだなって!本当は誰よりも強いんだなって、私、そう思ったよ」
「(理子…)」
「それで、誤解してたら嫌だから言おうと思ったんだけどさ…」
「?」
「私が穂花の特訓を手伝ったのは、罪滅ぼしなんかじゃないよ。」
「…」
「いや、それは嘘かも。半分は、罪滅ぼしだったかもしれない。」
「(うん…)」
「でも、私が手伝ったのは、そうじゃないと穂花が喋れるようにならないから、じゃなくて、穂花の晴れ舞台を応援したかったから。」
「…!」
「だから、そこは誤解してほしくない」
少し怖い顔になっていた理子は最後にニっと笑って、私の顔をまっすぐ見据えた。二人は、温かに視線を交わした。
「じゃあ、この後は元くんから聞きたいことがあるようなので」
「(え?)」
「ちょ、おい、理子!」
「私はそこら辺のお店ぶらぶら見てるから、終わったら連絡してー?じゃねー」
「お前、まじ、ふざけんな!」
唐突に理子は切り出して、欅並木を駆けていってしまった。陸上部仕込みの俊足でその背中はすぐに見えなくなる。そして私と元の二人が残った後、元が急に畏まって変な空気が流れた。
「えーと、」
「?」
「なんか、変な感じだな」
「…?」
「いや、別に大したことじゃないんだけど、」
「…」
元は歯切れ悪く、そのターンを何回も繰り返した。この状況に私も、彼が言おうとしているのが何なのかは少し察していた気がした。
「それでさ!」
ようやく決意したのか、元は真面目な表情になって私の前に一歩踏み出す。
「あの時の、返事なんだけどさ!」
「…」
やっぱ、そうだよね。あの時の返事、と言われたら、それしかない。ずっと考えないようにしていたから、返事も何も、全く頭に浮かばない。元には悪いけど…、それくらい色々なことがありすぎて…
「あーやっぱ、やめにするか!そうだよな!やめにしよ!」
照れを隠すかのように遮る元の声。私は左のポケットからメモ帳を取り出して、さらさらと書いて彼に渡した。

 想ふほど 私の心は  彼のモノ 
 私は「歌」に恋しています  

「ん?」
「…」
「これ、どういうこと?」
訝しげにメモを見つめる元を見て、思わず私は笑い出してしまった。
「え、どういう意味?」
『あれ、元も祭りの時、短冊に「歌」、詠んだんじゃないの? あれ、恋の歌を詠まないと叶わないんだよ?』
「え、うそ。」
『やっぱりその意味が分かるまで、そういうのはおあずけだね』
「え、ちょっ」
「(笑)」



私は、くちなしの子。そう言われて生きてきた。
言葉に、できない。

別にずっと話せないとかそういう訳ではない。人が多いところ、初めての人がいるところ、落ち着かないところ。そういう場所で声が出なくなる。

だからずっと自分の事を話せなくて、気持ちが言えなくて、自分というのが何なのか分からなかった。言ってみれば、影が薄くて、透明人間みたいな存在だと思っていた。


そう、「先生」と、「歌」に出会うまでは。


そしてその日、私は確かに変わったんだ。



よめば、声

※この作品はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

よめば、声

山形の片田舎に暮らす澤井穂花(さわいほのか)は高校二年生、祖母と二人で暮らしていた。高一の春休みも終わりに差し掛かる頃、出かけた駅前で穂花はある女性とぶつかってしまう。緊張しいで緘黙症の穂花は親しい人の前でしか声を出せない。だからその女性に謝ることも出来ず立ち尽くし、ついには怒りを向けられてしまった。しかしその女性は、東京からやって来た穂花の新しい担任だった。 穂花の親友・理子(りこ)は、その女性「水田レナ」についての情報を穂花に話す。それによると、先生は一度上京し東京の大学を出たものの、またこの山形へ何故か戻ってきたらしかった…。 孤高のレナと、「くちなしの子」穂花。その二人が「短歌」を通して繋がり合う時、それぞれは、それぞれの壁を乗り越えてゆく。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-04-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 余目駅
  2. 始まりの日
  3. 父のこと
  4. 羅生門
  5. セブンティーン
  6. うたかた
  7. 父の母
  8. 手直し
  9. 夏檸檬
  10. 先生の秘密
  11. 紙流し
  12. 妬き心
  13. 落ち窪
  14. みちのく
  15. 積み上げ
  16. 笑わば笑え
  17. 帰郷
  18. 日差し
  19. さすけねえ
  20. 終 くちなしの歌