喪失

 少年だが子供ではない。成長途上の体が革張椅子を持て余している。両腕が頼りなげに、だがふてぶてしく肘掛にかかっている。
「失礼を」
 抑えた声が横合いから聞こえる。少年は敏捷に椅子から立ち上がる。
 壁際に青年が佇んでいる。その胴に、不敵な腕がからみつく。
「エーリッヒ・シュトルツ…君だね」
 ゲオルグ・ヘッケルは目を奪われていた。乏しい記憶の中の義父が、初めて実体を得てそこにいた。
 十三年が経っている。年月は青年の容貌に些かも破壊を加えていない。
 エーリッヒは静かに少年の腕を引き剥がした。
 黒衣に包まれた体躯が、促されるまま先程まで少年のかけていた椅子を占める。背や腰から彼に伝わる少年の体温を思った。
 エーリッヒは小さく「向こうへ」と呟く。少年はヘッケル氏へ粘つく視線を投げると、部屋の外へ駈け出していった。
「いいのかい」
 返答はなかった。
「……君の所在を掴むのに、随分苦労したよ」稍あって口を切った。「今はどうしているんだい」
「ご存知でしょう…」
 ゲオルグ・ヘッケルは居住まいを正した。
「何せ、お父上さえ君が何所にいるかわからないという。君に会うには仕方がなかったのだよ」
 ルドガー・ワーグナーが卓上に書類を置いた。ゲオルグ・ヘッケルはワーグナーに少年を追うよう命じた。
「私も当時のことは知らない。まだ妻と婚約する以前のことだ。その妻は、君と対面するには心の整理がつかないそうでね。代わりに私がこうして話しているわけだが、謂わば私は代理人だ。どうかあまり硬くならないでもらいたい」
「貴方は、博士に似てらっしゃいますよ」
 思いがけない答えに狼狽えた。エーリッヒの口許に苦く蜜のような笑みが滲んだ。

 そのとき、既に故人となったリヒャルト・ケストナー博士がゲオルグ・ヘッケルの隣に腰を下ろした。
「ああ…エーリ、少し痩せてしまったのではないかい? あの少年は未だ君に付きまとっているのだね。君を困らせるなら、追い出してしまっていいのだよ」
「……貴方が、父に捨てられた私を拾ったのと同じですよ」
 怯えと拒絶の籠もった眼差しを、ヘッケル氏はじっと受け止めた。
「シュトルツ君、本題に入ろう」形ばかり書類を取り上げた。「君が贈与された、あの別邸のことだ」
 ケストナー博士は身を乗り出した。
「あの山荘だ、エーリ。私たちが過ごした、あの場所だ。私は遺言状に、あの邸を君に贈ると書いた。しかし君は、この十三年一度たりとも訪れていない。邸も土地も、荒廃するがままだ」
「私たちとしても、ああいったことの起きた場所をそのままにしておくのは辛いのだ。君にそのつもりがないのなら、権利を放棄してもらえないか。もちろん、相応の代価は支払おう」
「処分、なさるのですか」
「そのつもりだ」
 応接間は静まり返り、ゲオルグ・ヘッケルとエーリッヒ・シュトルツの息遣いだけがあった。
「それでは、そのようになさってください。代価は必要ありません」
 エーリッヒは目を伏せ、やがて何もない空間に視線を彷徨わせた。十三年という時間の短さを思った。

 そこでは十九才のエーリッヒがリヒャルト・ケストナー博士に伴われている。
 初夏、博士の旅行鞄の中には未完成の原稿がある。持ち重りのするその荷を、博士は決してエーリッヒに持たせることはない。
 博士の仕事にはエーリッヒが必要だ。青年の父親がそう云って血の繋がらない息子を引き合わせた。
「少しは、お役に立てるかと。それに、中々に器量もいい」
 シュトルツ氏は自分の代わりに息子を雇わせようとした。最低限の生活の保障と、大学をつづけさせてやることだけを条件として。博士は乗り気ではなかった。そもそもシュトルツ氏は平凡な印刷所の経営者。出版の他に書庫の管理や収集の方面でも役立つことはあったが、なくてはならぬ男というわけではない。
 しかし、父親に背を押されてエーリッヒが部屋へ入ってきたとき、全てが決まった。
 中々などというものではない。
 だが「美しい子だ」という初めの印象さえ、次第に後景へ退いた。
 エーリッヒ・シュトルツには「知性」があった。エーリッヒに云えば、どんなに曖昧な内容の記録でも、必ず蔵書の中から見つけ出した。時には云いつけるより先に、書斎の机の上へ必要な資料が用意されていることもあった。
 使いや代筆をさせても、博士の言外の意向を誤ることはなかった。
 この子は「私の」心を読むのかもしれないと、やがて博士は疑い始める。この子とは「会話」が可能だとわかり、片時も手許から離すのが惜しくなる。
 夫人や娘たちが使用人らしく扱うと、博士は不可解に気分を害した。

 それが何に由来するのか、とうとう博士は最期まで気づかなかった。エーリッヒには自己がないのだ。いつも他者の忠実な複製だった。期待するがままの反応を得ると、己の知力を自負する人間ほどエーリッヒを「頭の良い」青年だと評価した。
 博士はその典型だった。
 高名な学者とは異なる眼差しを、いつからエーリッヒへ向けていたのか、わからない。或いは、妻を亡くしたシュトルツ氏が実の子女だけを連れて都市を去っていった、その初めから。
 博士は篤志家のような己の振る舞いに戸惑った。残されたエーリッヒは博士の邸に住み込み、大学へやってもらう以外の時間は博士の仕事の手伝いをした。エーリッヒの使う椅子は、書斎の隅の小卓に備えつけられていたが、やがて博士の書き物机へ移された。出会った秋が過ぎ、最初の冬が訪れる頃に。
 酷く冷静な目でエーリッヒはその日々を視ていた。博士を拒絶して、それで一切を失おうとも支障などないはずだった。懸想をされるのは厭ではないかと、おかしなくらい怯えた声で問いかけられ、エーリッヒは博士の不器用な愛を受け入れた。拒絶するだけの理由がなかったのだ。生きつづける理由がなかったように。

 その夏の初め、博士は都市の喧騒を避けて田舎の別邸へ旅行した。家族も使用人も連れず、村の未亡人が邸内の仕事に雇われてきているときには、主人と年若い助手の姿は邸の何所にもなかった。
 庭の潜戸から小道が丘の裾へ下り、燦爛たる夏の森の川辺へつづいていた。
 草の上に葡萄酒の杯がふたつ。
 そこは低木の繁みや木々の下枝に遮られ、元よりひとの通わない小道からも隠されている。ゆったりと蛇行したせせらぎが砂岩を削り、水温む淵になっていた。
 十九才のエーリッヒは一糸まとわぬ姿で水の中を動いている。川面のうごめきで木洩れ日が更に砕け、流れの先は暗く、光だけがそこにあり、見つめるうち知らずに引き寄せられていった。
「エーリ、あまり深みへ入ってはいけない」
 川辺に腰を下ろし、酒杯を弄んでいた博士が声をかける。エーリッヒは期待されていることを悟って、無言で両腕を博士のほうへ差し伸べた。
 草の上で葡萄酒の杯が倒れる。博士の浅黒く、老いの兆候の顕著な裸体が水の中へ滑り込む。エーリッヒを捕まえると笑みを洩らしたまま口づけをした。
 抱き竦められ、エーリッヒは安堵する。──成功した。思い描いていたのは、シュトルツ氏に向かって両手を伸ばす、幼い異父妹の姿だった。

 ルドガー・ワーグナーは距離を取って少年を観察する。応接間から追いやられた少年は、ヘッケル氏の広大な庭園をうろつき、気まぐれに枝を折り、花を散らしてまわった。
 この少年も美しい部類には入るだろう。少し色の抜けた金の髪をしている。エーリッヒ・シュトルツが身を置いていた町の、中でもあまり日の差さない路地に住む労働者の息子だ。ヨーズア・ウェーバーという名で、十六になるはずだが外見も内面も幼い。
 少年はちらと鋭い視線をワーグナーへよこした。
「凄い花」
 ワーグナーは満面の笑みで歩み寄る。
「ヘッケルさまのお庭ですから。当社の宣伝文句をご覧になったことがおありでしょう。〈世界の花々を食卓へ〉」
 ヨーズアは小馬鹿にしたように口角を上げた。
「ここには我が社の請負人が洋の東西を問わず採集した植物があります。宜しければ温室をご案内しましょうか?」ワーグナーは芝居がかった調子で述べ立てた。「尤も、船荷の大部分はこの国の気候に適応せず枯れていきます。そして原産地の群落は根こそぎにされ、絶滅する」
 少年は口をぽかんと開けた。
「それが私どもの商売です」
「……それで、何の用? 参謀」
「おや、私はヘッケル社の一社員ですよ」
「僕と先生を見張っていたくせに」
 愚かではないようだ、とワーグナーは内心愉快がった。
「どうかご寛恕を。私も勤めの身、社長に命ぜられれば従う他ないのです。しかし、お坊ちゃんは随分勉強熱心なんですね」
「やめてよ、僕の名前ちゃんと調べてあるんでしょ。それに、僕は先生の教え子じゃない。うちにいたって、妹や弟たちがぎゃんぎゃん泣いて煩いんだ。あいつらは酒を飲んで殴って掴みかかって、金切り声を上げる。そのくせどんどん兄弟が増える。先生の部屋なら耳を塞がないでいられる。それだけ」
 エーリッヒ・シュトルツの現状も、少年を取り巻く不遇な市民の生活と大きく異なるわけではない。数年前から老未亡人の住居の一間に間借りしている。玄関を入ると狭い階段があり、酷く軋む。部屋の端は屋根の形状のために天井が傾斜している。最低限の家具の他には積まれた本だけがある日当たりの悪い部屋。それでも身寄のない老未亡人は青年を息子のように頼っている。
 下宿人は社交的ではないが、物静かで、礼儀正しく、忍耐強い。だが誰も彼の経歴や素性を知らない。講師をしている大学では、彼は女優の隠し子だという噂まであるようだ。
「とても信頼しているのですね」
「そうじゃない。先生は僕のこと、何とも思ってない。いなくなっても気にしない」
 路地を隔てた向かいの一室を借り受け、ワーグナーが窓掛の隙から窺っていると、金の髪の少年が案内も乞わずに老未亡人宅の二階へ駈け上がっていく。旺盛な階段の軋みが手に取るように聞こえた。二階の窓硝子の中では日中の乏しい明かりを頼りに本の頁をくっていた青年が、ふと椅子を立ち、扉を開ける。駈け込んできた少年がエーリッヒに抱きつく。そして青年の衿を乱暴に掴み、唇を貪る。
 まるで、今こうして彼がしているように、可憐な花が踏みにじられるのを視るような愉悦を覚えた。
 エーリッヒの胸に頬をすりつけていたヨーズアが、急に顔を上げ、ワーグナーのほうを注視した。ワーグナーは咄嗟に窓から身を退いた。
 尚のこと少年に興味をひかれた。
「ヨーズアさん、先生のお部屋で、向かいから誰かが見ているのに気づいてらしたでしょう。貴方は何を私に期待していたのですか?」
「……期待?」
「貴方の眼差しが、確かに訴えていたのです。私は、自分が期待されていることはわかっても、貴方が求めているのが何なのか、とうとうわかりませんでした。後学のために伺っておきたいのです」
「先生だったら、死んでもそんなこと云わないよ」
 ヨーズアの口調にはエーリッヒへの仄かな蔑みが籠もっていた。
「そうだな、僕は視られていたかったんだ。僕が先生を自分のものにしているところ、自分だけのものにしているところ、誰でもいいから見せつけたい。だって、先生はあんなに綺麗だから。僕の〈勝ち〉でしょう?」

 低く雲の垂れ込めた空。夕刻になり風が出てきた。灰色の空。風が一面の花々を揺さぶり、千切れた花弁が庭園の周遊路を群れなして転げていく。爪先をかすめる。エーリッヒ・シュトルツは足を止める。
 あの日と同じ季節を今も生きている。晩秋の山荘。川辺へつづく小道は枯葉に半ば埋まっている。もつれるような足取り。幾度も地面に膝を突く。ずぶ濡れの衣服。垂れ下がったまま動かない腕。抱きかかえられた体。崩折れるたび男は蒼白な肌に貼りついた髪を除け、息を吹き返しはしていないかと己の顔を近づける。そして再び絶望に打ちひしがれ、覚束ない歩みを再開する。
 ウィルヘルム・ラインハルトという青年。
 大学では素行の悪さで有名だった。或る資産家の子息で、その日はケストナー博士の本邸へ金を借りにきたのだ。酒色の支払いに首が回らず、父親も兄も出来損ないの次男坊にとうに匙を投げていた。博士は上の娘の縁談のために留守だった。エーリッヒが玄関に出、不在だと知るとラインハルトはあっさりと引き下がった。
 帰宅した博士は呆れつつ語った。教え子の一人だが、特別に目をかけているわけではない。それどころか、父親の寄付のお陰で除籍されずに済んでいるようなものだ。大方、他の教授連には相手にされなかったのだろう。
「エーリ、君とは似ても似つかない青年だよ」
 応対に出たエーリッヒに、ラインハルトは侮蔑するでもなく取り入るでもなく、奇妙に打ち解けた話し方をした。見苦しくない程度に着崩した衣装からは煙草の匂いがした。これが同世代の青年なのだとエーリッヒは思った。確かに自分とは大違いだと。
 以来、時折ラインハルトはエーリッヒに声をかけてくるようになった。昼食を共にすることもあった。代金はエーリッヒが払った。
 つまらない返事をするだけの自分と、連れ立っていて何が得られるのだろうと、拭い去ることのできない疑念は、ラインハルトがケストナー博士の経済力を当て込んでいるとすれば打ち消すことができた。
 博士は小遣いをエーリッヒの内隠しへ押し込んでやりながら、君にも年の近い友人が必要だと云った。それでいて、ラインハルトには気をつけるようにとも忠告をした。
「あれは君とは違うのだよ、エーリ」
 よくわかりません、とエーリッヒは独りごちる。
「どうしてだい、君はどんな堅苦しい場へ連れて出ても心配のない立派な青年だった。名にし負う学者連中が君を口々に称賛した。私は誇らしくてならなかったのだ。それに、何所へ行っても君はその場の誰よりも美しかった」
「あの方々が、本当は何を云い合っていたのか、貴方は気にも留めなかった。私は腹立たしかった。誰よりも貴方が」
「エーリ、私は君を心から愛している。俗物どもが下卑た噂をしようと取り合う必要はない。私は、君に父親がしてやれることは全てしてやるつもりだった。しかし、君を息子の代用品にしていたのではない。それでも、君は私に抱かれながら、時折〈お父さん〉と口走ったね」
「……どうして、ご自分でなさらないのですかと尋ねると、貴方は私を汚したくないのだと答えた。ただ、視ているだけで十分なのだと。貴方はいつも独りよがりだ」
 風が花々を吹き散らしていく。経路の先に硝子の温室が見える。内部にひとの動く様子を見て取って、エーリッヒはそちらへ足を向ける。
 扉を押し開けると、ゲオルグ・ヘッケルが振り向いた。
「ああ、構わないよ。入ってくれ」
 温室の中は温気と土の匂いにみちている。エーリッヒはそっと室内へ視線を滑らせる。屋根まで届くほどの高さの棚に、熱帯原産の植物が所狭しと並んでいる。生命力に溢れた葉と花の色、厚み。垂れ下がった根。循環する水の音が鼓膜の底を這う。
 ヘッケル氏は机の上の帳面を脇へ押しやった。
「ここは私の隠れ家のようなものでね。研究の真似事をしている。正確には、大半の時間は何もしていないのだが」
「申し訳ありません…」
「気にしないでくれ。良ければそこに椅子がある。あまり上等な代物ではないが」
 何度も修理され、木材の寄せ集めになった椅子を示した。エーリッヒは背凭れに手をかけ「連れの、子供をご存知でしょうか」腰を下ろすことはない。
「彼なら先程までここにいたようだが。ワーグナーがついているから心配はない。あれは少々喰えない男だが、命ぜられた仕事は必ずやりおおせる。能力のある青年だ。私が引退したなら、彼は現在より社の業績を上向かせるかもしれない」
「あの方が、事業を継がれるのですか」
「云っておくと、親族でも何でもない。しかし、会社の経営などはその才のある人間が引き継げばいい。私には子供もないのでね。第一、私は本来お呼びでないはずだったのだ。だが、父の期待を一身に担っていた優秀な兄が、外来の花の苗ごと海に沈んでしまったのだから仕方がない」
 今一度、ヘッケル氏はエーリッヒに椅子を勧めた。継ぎ接ぎの椅子は、エーリッヒの体の下で微かに軋んだ。
「君ともう少し話をしたかった。何というのか、君はもっと法外な要求をするのではないかと予想していた。君にはその権利がある。当時の君と博士とでは、対等な関係だとはとても云えないからね」
「……私のほうこそ、弾劾されることを覚悟していました。大お嬢さま…奥さまは、私をお許しにはならないでしょうが」
「いや、どちらかというと妻は博士を憎んでいるよ。それも無理のないことだと私は思っている。元々、ケストナー博士は妻たち姉妹にとって良い父親ではなかったらしい。それに…」
 ヘッケル氏は云い淀んだ。
 稍あって話題を転じた。「ところで、この温室をどう思うね」
「……」
「ご覧の通り、ここにあるのは本来この国には自生しない植物だ。温室の外へ出せばたちまち寒さにやられてしまうだろう。何とか売り物にできるよう改良をつづけているが、中々思い通りにはいかない。君は今も、生物学の研究をしているのだろう」
「私には、助言などという大層なことはできません。博士のお手伝いをするうちに、この学問に身を置くようになっただけなのです。初めから、私には学問に目的も理念もなかったのですから」
「博士の存在がなければ、別の道を選んでいたと?」
「医師か、弁護士か、或いは官僚。そういったものに」
 今度はヘッケル氏が沈黙した。
「私について何所までお調べになったかわかりませんが、私には書類上の記載事項の他には何もないのです。町の印刷所の子として生まれ、父を早くに亡くし、母とその再婚相手、父親の異なる三人の弟妹がいた。その地区の他の子供たちや、弟たちと比べても、私は高い水準の教育を受けることができた。しかし、だからといって私には希望するものなどなかったのです」
「亡くなったお母上は、君を立身出世させたかったのだね」
「ええ…けれど母にとっても、具体的な計画などはなかった。母の中には、周囲の子供たちから抜きん出た能力を持つ私と、母がいなくては何一つできない私とが矛盾なく並存していた。私の自慢話を吹聴する同じ口で、冷淡に私を突き放し、嗤った。私は、そんなふたつの虚像に、引き裂かれながら成長したのです」
「ふたつ、かい」
「私には実体などないのですから。ただ他者の期待に応じた虚像が、そこにあるだけ」
 エーリッヒの口許に、再び応接間でみせた笑みが滲んでいる。
「十三年前、博士はあの別邸で、私と無理心中を図った。そして、私だけが生き残った。貴方は、それを聞いて、疑いを抱いたのではありませんか。本当は、私があの方を殺したのではないかと」
 ヘッケル氏は額に手を当て、しばらく苦悶の表情をみせてから答えた。
「仮にそうだったとしても、私はやはり君を責めることはできない」
 ヘッケル氏が顔を上げたとき、エーリッヒは既に斜を向き、その眸には何か哀切な光が宿っていた。
「君は」とヘッケル氏は祈るような調子で問いかけた。「今も博士を愛しているのかい?」

 ラインハルトの入る店は何所も騒がしかった。彼の話し声すら大部分が聞こえない。だがエーリッヒは一度も聞き返さなかった。推測で補った相槌を、ラインハルトが見抜いて咎めることはなかった。
 二人が食卓で向かい合っていると、ラインハルトの馴染みの女たちが寄ってくる。彼女らは飾り立てた体を強引に空いた椅子へ捩じ込ませ、エーリッヒに目配せをした。
 その化粧の匂いと甲高い声、脈絡のない話しぶりは死んだ母親を思い出させた。段々とエーリッヒの呼吸が浅くなる。鼓動が速くなり姿勢を保っていることさえ困難になる。周囲の音ばかりが一層大きくなる。
 ラインハルトが女たちを追い払う。彼は肩で息をするエーリッヒを眺め、しばらく無言のまま煙草をふかした。
 何がエーリッヒを蝕みつづけているのか、ラインハルトは知っていたわけではない。度々こうして発作を起こすのは、母親が死んで義父に厄介払いされたことと、もしかするとケストナー博士の(もと)に身を寄せていることも関係しているかもしれないと、当て推量をしている。だから彼は青年らしい向こう見ずな提案をする。いっそのこと、この都市を離れて一から生活を始めてはどうかと。
 それは死よりも遠くにある選択に思えた。
 エーリッヒは博士の書斎へ、帰宅の挨拶に向かう。主人の気質を映したように、邸内はいつも静まり返っている。重々しい陰鬱がそこかしこに蹲っている。階段の手摺りにも、敷物にも、調度品や窓の光にまでも。ケストナー博士はエーリッヒを認めて眼鏡を卓上に置く。手を取られ、引き寄せられる。
 エーリッヒはそのまま、博士に縋りついた。
「どうしたね、エーリ。外出して疲れてしまったかい」
 耳許に吹きかけられる博士の声には喜びが溢れている。博士はどっしりとした書き物机の椅子にかけたまま、エーリッヒを幼児のように膝の上へ抱き取る。
 エーリッヒは博士の肩に顔を埋め、首にまわした腕に力を込める。博士はそっとエーリッヒの背をさする。
「大丈夫だ、エーリ。ここは安全だ。何も心配はいらない」

 陰鬱な光の中の、時を止めた塑像。
 博士の示す振る舞いが「父親」としてのものだったのか、わからない。実父の記憶はない。幼い日に視た、印刷所で立ち働く姿や、酔った母親の口から迸る亡夫への悪罵は知っていても、エーリッヒの「父親」という場所は空白だった。
 シュトルツ氏は親切なひとだったが、気遣い故に接し方には隔たりがあった。
 普段は娘たちに無関心な博士も、重要な局面では、きちんと父親の役目を果たした。エーリッヒの心には、確かに妬ましさがあった。エーリッヒは博士の、娘や夫人への反応と、自身への扱いを比較して、大丈夫だと云い聞かせた。しかし、それが不在の父を求める心理からきているのか、恋人への愛なのかは区別がつかなかった。
 閨を共にしても、それが「父親」ではないとわからない。
 そう、愛でさえわからないのだ。
 博士はエーリッヒの前に跪き、爪先へ口づけることさえ厭わなかった。その有様はエーリッヒの心の空虚を僅かながら埋めた。しかし、跪いているのは一流の学者であり、名士である博士に過ぎない。歪んだ自己承認の欲求や、依存や諦念を取り除いても、何かが存在するのか、どうしてもわからない。
 だから、自分が何の役にも立たない存在になっても、博士は見捨てないでいてくれるのか、信じ切ることができない。
 自分には人間の持つ受容体が欠落しているのだと気づいていた。深海の魚が、光を感知できないように。初めから、博士に「愛される」ことなど不可能だったのだ。

 残照。それと呼ぶにはあまりに頼りない。厚い雲をとおった仄かな光が、窓辺の椅子にかける青年の白い鼻筋を浮かび上がらせている。客間を包むように繁茂した低木や生垣も、夕露に湿った土と朽葉の匂いだけを残して闇に溶け込み始めている。
 青年は右手を椅子の肘掛に置き、体をややそちらへひねったままじっと動かない。左手は腿の上で、宗教画の中の人物がするように手のひらを力なく開いている。顔は俯き、暗い栗色の髪に隠れて眼差しの向く先はわからない。
 放心しているようでもあり、極度の緊張を示しているようでもあった。
 けたたましい音を立てて客間の扉が開く。皿を片手にヨーズア・ウェーバーが入ってくる。エーリッヒ・シュトルツは微動だにしない。
「先生、お腹空かないの?」
 尋ねつつ、少年は部屋の明かりをひとつ灯す。少年の姿が眩しい光の中に照らし出され、エーリッヒに向かって黒く巨大な影を投げた。
「先生がこないから、僕小さな部屋で一人で食べさせられたんだよ」
 ヨーズアは果物の盛られた皿をエーリッヒの傍らの卓に置く。「食べないの?」
 エーリッヒは殆ど聞き取れない声でそれを断ったようだった。
 少年はエーリッヒの背後からおぶさるように腕を伸ばし、葡萄の一粒を房から千切るとそのまま青年の口許へ持っていく。だがエーリッヒはやはり小さく首を振った。
 つまらない。ヨーズアは葡萄を自身の口に放り込み暴力的な素早さでエーリッヒに覆い被さった。しばし揉み合ったあと、少年の体はエーリッヒに押し退けられる。エーリッヒは激しく()せ、噛み潰された葡萄が床におちる。少年の靴がそれを踏みつける。
「気に入らないよ。参謀がきてから、先生はずっとそうだ」
 乱れた髪の間から覘くエーリッヒの鋼色の眸が、悲哀とも畏怖ともつかない眼差しをヨーズアへ射ている。少年の手首はエーリッヒに押さえられれば振りほどけないほどか弱い。それでも少年は傲慢に美しい青年を見下ろしている。
「気に入らない、僕の知らないところで先生が生きていたこと。僕の知らない誰かに抱かれていたの? どんなふうに? どうして今でも覚えているの」
 エーリッヒはやがて顔を背ける。少年の拘束が弛む。少年は襲いかかり、力任せに青年の首筋に歯を立てる。

「……君の意図がわからない」
 木立の幹に凭れかかりながらゲオルグ・ヘッケルは云った。眩暈を堪えるように顔を覆った。
「あの少年と約束したのです」
 傍らに立ったルドガー・ワーグナーが平然と答えた。「〈視ている〉と」
「それで、あんな光景を私に視せたのか」
「傍観者は一人でも多いほうが良いでしょうから」
 ヘッケル氏は憤りをあらわにした。「彼が気の毒ではないのか」
「社長、随分とエーリッヒ・シュトルツに入れ込んでおいでですね」
 苛立たしげに頭を振り、ヘッケル氏はその場を立ち去る。ワーグナーは付かず離れずの距離を保ち、あとにつづく。
「私だって、あの青年に悪感情などありません。というより、何の思い入れもありませんよ。そうでしょう、何故そんなものを持つ必然性があるのです」
「では、どうして私をここへ連れてきた」
「施しのようなものです、哀れな少年への」
 訝しげな視線を受けて、ワーグナーは苦笑する。「誰しも路上の貧者へ施しをするでしょう。しかし、だからといって彼に自己を重ね合わせているわけではありません」
「君は言辞を弄しすぎるな」
「それほどでも。──ですが、確かなことです。あの少年はいずれ人生を転落する。それは遁れようのないことです。当人は気づいていない。気づいたところで、身の振り方を改めはしないでしょうが。まるで歓喜のうちに断崖へ駈けていくようです。エーリッヒ・シュトルツは気づいているのかもしれない。彼に見捨てられれば、あの少年はすぐにでも破滅する。だのに、まるでわかっていない。賢い子だろうに。私は哀れでならないのですよ」
「ではどうする。君の秘書にでも雇うかい」
「ご冗談を。申し上げたではありませんか、これはただの施しですと。少年が破滅していくさまを、束の間傍観していてやるくらい、罪にはならないでしょう」
 ゲオルグ・ヘッケルは側近の軽口を聞き流すこともできず、小さく「私は御免だ」と呟いた。

 不和は邸内に根を下ろしていた。
 ケストナー博士は長女の縁談を機に、財産分与についての遺言状を作成した。そこには相続人のひとりとして、エーリッヒの名前が記されていた。
 建前上、エーリッヒ・シュトルツは単なる雇人に過ぎない。博士にとっては不本意な田舎の別邸ひとつ。しかしそれまで黙殺を貫いていた夫人は異を唱えた。
 平行線の諍いは永久につづくかに思えた。博士も無理は理解していた。それで、エーリッヒを正式に養子として迎えることを構想し始める。
 その頃、ウィルヘルム・ラインハルトは新聞種になるような不名誉を父親の肩書の上へもたらし、とうとう勘当を云い渡された。手切れ金と称して父と兄からまとまった金額を引き出したラインハルトは、知人を(つて)に都市を離れることになる。何気なく──エーリッヒの現状も深くは知らず、一緒にくるかと問いかけた。
 どうして、何の保証もない行動に身を任せることができたのか、わからない。その夜のうちに荷をまとめ、博士の邸を抜け出した。
 安宿の寝台で体を丸めた。思いがけず訪ねてきたエーリッヒに寝床を譲り、長椅子で寝息を立てるラインハルトの姿を夜の中でみつめていた。
 もし必要があるなら、ラインハルトにどのように扱われてもいいと思い詰めていた。それは仕方のない代償だった。だが、ラインハルトがエーリッヒに触れることはなかった。友人としての扱いでもなかった。
 寂寥(せきりょう)が胸を引き裂いた。
 翌朝、一番の列車を待っているときだった。停車場を荒々しい足取りでやってくるケストナー博士に気づき、エーリッヒは呼吸ができなくなった。膝から崩れ落ちそうな恐怖に駈られた。だいそれたことをしようとしたからだと、後悔と自責の念に押し潰された。
 博士はエーリッヒの、鞄を提げる手首を痛いほど強く掴み、しかしエーリッヒではなくラインハルトを面罵した。エーリッヒの喉が鋭く鳴り、足許がふらつく。博士はエーリッヒの体を抱き留め、これも全てラインハルトのせいだと詰った。
 列車が停車場に入ってきた。ラインハルトは黙って博士の剣幕を受け止めていたが、自身の鞄を取り上げ、エーリッヒのほうを見て「どうするんだ」と尋ねた。エーリッヒは何も答えられなかった。
「そのつもりになったら、いつでもくるといい」
 ラインハルトは最後まで、エーリッヒだけに向いて語りかけていた。列車は行ってしまった。彼とは二度と会うことはなかった。

 硝子の部屋が火明かりを宿している。熱帯植物の呼吸が聞こえる。
 ゲオルグ・ヘッケルは微かな物音に振り向く。暗がりに立つ来訪者の輪郭を視線でなぞり、己の期待がかえっておかしくなった。彼を待っていたのだ。
「──やあ」
 何所か虚ろな眼差しをしたエーリッヒは、無言のまま温室の内部に入ってきた。
 卓上の光の輪の中に青年の美しい容貌が顕れる。神のようだ、とゲオルグ・ヘッケルは陶酔した。
「君も飲むかい」
 酒杯を示したが、エーリッヒは小さく辞退した。促されるより先に、そこへ用意されていた椅子にかけた。
 エーリッヒは斜を向き、闇に塗り込められた硝子の壁を見るともなしに見ている。乏しい明かりが彼の面立ちの怜悧さを際立たせ、一層の憂いを与えている。首筋、匂うような白い肌にまだ生々しい噛み傷が見え隠れする。ゲオルグ・ヘッケルは目を逸らし、再び盗み見る。
 先程、とエーリッヒは切り出した。ヘッケル氏は体を強張らせたが、エーリッヒはあらぬほうを向いたまま、ぽつりぽつりと言葉をつづけた。
「お聞きになりましたね、今も私は、あの方を愛しているのかと。その問いは、初めから成立していないのです。今も──当時も、私にはわからない」
「ケストナー博士は、君を愛していたのだろう?」
「……あの方は気難しくて、周囲の人間を皆、対話が不可能な存在と見做していた。私はあの方に、合わせることができたというだけ。それ以外には、何もない。私には、あの方がより一層、孤立していくのが手に取るようにわかった…しかし、唯一の対話相手としてあることが、私の矜持の支えでもあった。あの方は云った、異性や肉親への愛などは、所詮遺伝子の差配する動物的な本能に過ぎないのだと。だから、種の保存にも反するこの感情こそが、真に理性的な愛なのだと。私たちを遠巻きにして、名だたる人々が囁き交わしている揶揄とまるで同じことを仰るので、おかしかった。けれど私は、切実な心で〈本当に〉と尋ねた。幾度誓われても、私は信じ切ることができなかった。だから私は、心の何所かで、あの方の破滅を願っていた…」
「博士は、君と破滅することを選んだのだね」
 灯影が大きく揺らめいた。温室の戸は閉め切られたままだ。ゲオルグ・ヘッケルは覚えず周囲を見回し、向かい合うエーリッヒの背後の、色濃い闇に目を留める。そこには「気配」があった。エーリッヒだけを視つめつづける「目」だ。
 青年の眼尻に、仄かに笑みが差す。演技的でない、自嘲と安らぎの入り混じった、官能的ともいえる笑み。耳にかかっていた暗い栗色の髪が崩れる。まるで、何者かが美しい青年を指先で愛撫するようだった。
 ゲオルグ・ヘッケルは射竦められていた。

 博士はエーリッヒを責めなかった。邸に連れ帰ると病人であるかのように手厚く寝台へ寝かせ、エーリッヒが持ち出そうとした僅かばかりの荷物は何所かへ隠された。
 憔悴のあらわな目でエーリッヒを覘き込み、このところの邸内の云い争いを詫びた。居心地が悪かったろう。それでラインハルトの口車などに乗せられてしまったのだろう。
 博士はエーリッヒを慈しみ、労っていたが、そこにはエーリッヒの自主性や意志は勘案されていなかった。母親と同じ視点で博士はエーリッヒを捉えていた。周囲に容易く(おだ)てられ、自身では何も決められない無力で怠惰な子供。自分がしてやらなければ、何もできない。
 エーリッヒは反駁しなかった。何もかもが無意味に思えた。
 あれほど強大だった母親が、有り触れた病で呆気なく死んでしまったときに、気づくべきだったのだ。どんな関係を結んでも、結局は同じになる。他者の顔色を窺うことしかできない自分に、それ以外の帰結などありはしない。博士がいけないのではない。だが、他にどんな生き方があるというのだろう。
 遁げ出そうとはしないかわりに、以前にも増して寡黙になったエーリッヒを、博士は案じた。ぼんやりと椅子にかけ、何時間でも窓の外へ目を向けているエーリッヒの頬を、時には涙が伝っていた。博士は全ての仕事を(なげう)ち、旅支度を始める。あの別邸へ、あの何もかもが順調だった、輝かしい日々の思い出の場所へ行けば、このかけちがいは修復可能だと信じていた。
 エーリッヒは力なく博士の体に凭れ、甘い菓子を口に運ばれていればよかった。別邸の寝台の傍にはいつも沢山の花があった。そこは静かで、死に近かった。博士はエーリッヒを覘き込み、髪をなでた。何も云わず、何も考えなければよかった。何もかもを自己から切り離し、虚ろであれば幸福だった。
 既に晩秋だった。
 あるとき、強烈な不安の発作に(おそ)われ、エーリッヒは寝室の露壇(テラス)から屋外へ遁れ出た。裸足の足はもつれ、夢の中でのように先へ進むことができなかった。冬を孕んだ灰色の空が頭上へ落ちかかっていた。枯野の砕ける音が聞こえた。呆然とへたり込んだエーリッヒの冷え切った体を、博士が掻き抱き、室内へ連れ戻した。
 長い時間、博士は懊悩していた。やがて寝台のほうへやってくると、エーリッヒの頬へ手のひらを当て、静かに切り出した。
 ラインハルトを呼び戻そう。そして二人のために住まいを用意し、生活の援助もしよう。シュトルツ氏に手紙を書き、君を正式に引き取りたいと申し入れよう。妻がどう云おうと関係ない。そうすれば、自分がいなくなっても君が困窮することはない。だから都市を離れるには及ばない。それが最も合理的な選択だと。
「私の傍にいてくれ…」
 博士は堪らず部屋を出ていった。
 これほどの孤独を初めて知った。おかしなことだ。ずっと独りきりだったというのに。
 或る決断が、少しずつ形をなしていった。自暴自棄なのではなく、悲観したのとも違う。そこに絶望があったのは確かだが、初めて心から、自身のために選択したと云えることだった。だから、とても平静だった。安らかで、前向きですらあった。

 両腕で抱えるほどの、その季節には高価な花を買って戻った博士は、空の寝台を目にする。エーリッヒの名を呼ばわりながら幾つも室内の扉を開け、虫の知らせに庭の潜戸を出る。小道に散り敷いた枯葉に人間の通った痕跡を認め、胸が騒ぐ。かつて戯れた小川の淵、寒々しい木々の下枝(しずえ)越しに、白い襯衣(シャツ)の肩が水面から突き出ているのが見える。

 博士の滞在期間だけ家事や雑用に雇われる村の未亡人は、戸口に現れた雇用主の姿に驚き悲鳴を上げる。取り落とした籠から麺麭(パン)が床に散らばる。手伝いについてきていた幼い孫娘が聞きつけ、祖母の後ろで棒立ちになる。ずぶ濡れの博士は腕に抱いた青年の体を見下ろし、「死なせてしまった」と呟いた。
 未亡人は孫娘の手を取ると助けを求めて村へ走った。
 博士はエーリッヒを寝室へ運んだ。濡れた体を丹念に拭ってやり、衣服を着替えさせてやろうとするのだが、動揺か寒さのためか、手が思うように動かず、上等の衣装で青年を包むようにしてしばらく抱きしめていた。だが、じきに村の人間が集まってくるだろう。博士は身を起こし、愛撫しながら、何と美しいのだろうとエーリッヒに見入る。
 君は生きてはいないように思えると、かつて博士はエーリッヒに云った。その戯言のとおりに、愛撫する手付きも囁きかける言葉も、生きている青年へ与えたものと何ら変わりはなかった。しかし最期まで、ケストナー博士はその残酷さに気がつかなかった。
「大丈夫だ」と博士は云った。「君を独りにはしない…」
 そして猟銃を引き寄せた。

「……どうして、君がそれを知っているんだい」
「私は〈視ていた〉のです…鳥のような高みから、作家のように…自身と、あの方との姿をみつめていた。自分は仮構の世界を生きているように、私はずっと感じていた。そこに肉体を備えた私はいない、私など何所にもいない。ただ、取りつくろった物語が、そこにあるだけ。だから私は、あのときの光景を覚えている…やがて目を覚ますときまでの、永劫のような時間…」
 温かな血潮が、凍てついた心臓をゆっくりと解かしていった。指先すら動かすことができない。ほんの薄く開いた瞼、それさえ支えることが困難だった。幾度も昏睡に引き戻された。視覚が揺らめきながら蘇ってくる。仮死状態から息を吹き返した脳が、狭隘な視野に映る光景の意味を知ろうともがいている。だが、とうとう理解できない。エーリッヒは再び意識を失う。
 次に目覚めたときには冷たい病室にいた。独りきりだった。脳裡に幻のような記憶が残っていた。
 半ば破壊され、粘土を捏ね上げたような、動かない博士の顔。だが、それはエーリッヒに微笑した顔ではなく、他人の顔だった。余所々々しく、見覚えがない。そこにあるのは博士ではなかった。博士は何所かへ行ってしまったのだ。そして自分は、ひとりになった。ひとりで生きていけるのだと気づいた。
「……けれど、知るひとのない町で日々を送っていても、ふとしたときに私は過去の自分と出会うのです。私には、埋めることのできない欠落がある。何気ない日常の中で、それを痛感する。生きているというただそれだけのことが、私にはうまくできない。他者にとっては瑣末な誤解や困難が、払い除けることもできず、重くのしかかってくる。そのとき、私は今もあの方が私のすぐ後ろにいるのを感じる。私は、私自身から遁れることができない…」
 燃え尽きかけた灯火が明るさを増し、青年の背後の闇を払う。そこには、何者も存在しはしない。エーリッヒの唇が音のない声をつむぐ。ゲオルグ・ヘッケルは思わず身を乗り出し、しかし机の端を強く掴んで衝動を抑えた。エーリッヒは苦笑してヘッケル氏をみつめた。

 客人を送り出すと、ゲオルグ・ヘッケルは列車の手配を命じた。
「直々においでになる必要はないでしょうに」
 ルドガー・ワーグナーはその場から動かず、興奮した様子の雇い主を観察している。
 ゲオルグ・ヘッケルは青年の署名のある書類を手にしたまま、書斎の中央に立ち尽くしている。 
「本当に、これからあの山荘へおいでになるんですか? そろそろ雪も舞いましょうに。社の予定はどうなさいます」
「適当な者を代わりにやればいい。間に合わないなら全て断って構わない」
 側近は愉快で堪らないふうに声を上げ、了解を伝えた。
「どうしても、この目で視てみたいのだ…」
 流麗な署名が紙の上で歪み、一呼吸置いて書類は小さく折り畳まれた。ヘッケル氏は上着の内隠しへそれを収めた。
「なるべく早い列車なら、座席の良し悪しには拘らないでしょうね。全く、とんだことです」
「何だい、君も行くのか」
 ルドガー・ワーグナーは奇妙に人懐こい笑みをみせて答えた。
「ええ、何所へでもお供しますよ」

 駅へ向かう馬車の中で、エーリッヒ・シュトルツは一度も口を開かなかった。座席に力なく体を預け、窓の外を見るともなく見ている。
 ヨーズア・ウェーバーは不満気にその秀麗な横顔を眺めている。ヘッケル氏から提示された代価を、エーリッヒがとうとう受け取らなかったからではない。
 少年の存在がエーリッヒの意識の何所にもなかった。
「先生、町には戻らないんでしょう」
 虚ろな眼差しを縁取る睫毛の先が、微かに(ふる)えた。
「僕のことも捨てるの?」
 曇天からいつしか灰のような雪が散っている。刈入れの済んだ麦畑の上へ、降り積もることもなく吸い込まれていく。未舗装の街路に車輪が鈍く音を立てる。
 やがてエーリッヒは答えた。
「貴方がそうしたいなら、ついていらっしゃい。貴方は、私の空虚さそのものなのですから…」
 少年は身を投げるように黒衣に包まれた体躯にしがみつく。この体から温もりを感じたことは一度もない。既に生きてはいないのだ。
「僕、先生を殺してやりたいよ」
 エーリッヒはそっと少年の頭を撫でた。

喪失

喪失

十三年前の心中事件。生存した青年の所在を突き止めた女婿は、花々に閉ざされた邸で彼と対面する。時を止めたような青年の傍らには悪魔的な少年が立っていた。

  • 小説
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更新日
登録日
2023-04-16

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