鬼が出るか蛇が出るか

 いつも通り帰路についていると、ふと道を外れることがある。気まぐれに見知らぬ路地に入ってみたり、立ち寄る店があるなどといったわけではない。迷い込むというべきか、つい先程まで見知った通りを歩いていたはずなのに、気が付くとまったく知らない場所にいるのだ。実に奇怪な話であるが、今まさに見知らぬ町を歩く多田にとって、最早これは馴染みの現象になりつつあった。

「いやはや慣れとは恐ろしいものだ」

 この町の霞がかった秘色の空は、いつ来ても眠気を催す眩しさである。眩しいとはいえ空の半分が瑠璃色に染まっている今は、もしかしたら夕暮れなのかもしれない。独り言を呟きながら多田はそんなことを考えた。

 多田が歩いている場所は、何の変哲もない住宅地といった雰囲気である。ただ、彼の住んでいる地域と比べるといくらか建物が低く、電信柱や鉄塔などの建造物は見られない。また建物同様、遠くに霞む山も低かった。

多田が歩を進めるたび、革靴の下で細かい砂利が音を立てた。聞こえる音といえばそれだけで、人の姿はおろか立ち並ぶ家々からの生活音も聞こえてこない。目の前には所々舗装の古びたアスファルトの道路が続くばかりである。

 ひょっとしたら道が長いのではなく、同じところを何度も周っているのかもしれない。そう思い改めて辺りを見るものの、どの住宅も似たような見た目をしているせいで確信は得られなかった。どちらにせよ、帰り道がわからないことに変わりはないのだ。いっそのこと今日は色々と調べてみようか。多田はこれまで数回この町を訪れているが、それについて知っていることなど何ひとつなかった。

「また来てんの、多田さん」

それは背後から聞こえる声の主により、詳細を知るより早く馴染みの帰路に戻ることができているからだった。

「こんばんは。今回も君のお世話になるみたいだね」

 多田はのんびり振り返ると、声の主に柔和に笑いかけた。背後にいたのはやや華奢な身体つきの青年で、彼は多田に劣らぬのんびりとした調子で右手を上げる。挨拶代わりだろうか、そう思い多田もそれを真似た。その様子を見た青年は呆れたように眉を寄せる。

「アンタって本当、ぼんやりしてるんだな。物怖じしないのはいいことだが、もう少し慌ててもいいときだってあるぞ」

「私がこうなるのも、君なら頷けるはずさ。まあ、持って生まれた性分というのもあるんだろうけど」

「それもそーね」

 青年は赤銅色の瞳を持つ目を細めた。その表情は笑っているように見えたが、彼はフェイスベールで顔の半分を覆っているので実際のところはわからない。多田はこれまで青年の素顔を見たことがなかった。とはいえ、特別気になったこともないのだが。

「慣れというのは恐ろしいものだよ。あれ、さっきも同じことを言ったっけ」

からから笑っている多田の横を、青年は黙って通り過ぎていく。多田はすぐさまその背に追いつくと、彼と肩を並べて歩き出した。狭い肩幅や小さな背中、頼りなさげな白い腕を見ると青年は小柄に思えたが、背丈は多田とほとんど変わらない。

 自身の目線と同じ高さにある多田の目を、青年は一瞥する。すると、瞼が厚いせいか眠たげな印象の多田の目もこちらを見ていた。視線が合うと多田は首を傾げて微笑む。言いたいことでもあるのかといった様子だが、特に話すことのない青年はそのまま視線をそらした。

「ここはなんていう町」

真っ直ぐ前を見つめる青年の目をいまだ見つめながら、多田が口を開いた。

「どうした藪から棒に」

「今日はね、いっそ調べてみようと思っていたんだ。この町のこと」

「へえ。多田さん、ここに興味があんの」

 青年は相変わらず多田を見ないまま、どこか上の空といった感じの返事をした。その様子を気にすることなく、多田は話を続ける。

「無関心でいるほうが難しいよ。人間、生きていれば説明の付かない事に遭遇するものだけど」

「アンタの場合、頻度が高すぎるけどね」

「ふふ、まあね。でもね、そんな私でもこういう体験は珍しいんだよ。同じ場所に何度も迷い込んで、しかも必ず君に会うなんて」

そこまで言うと、青年はちらりと多田を見る。

「君は興味ないかい。それとも、知っているのかな。私がここに招かれる理由」

 多田がそう問うと、二人の間には沈黙が流れた。しばらく足音だけが響いて、まるでその音が町中に聞こえているかのような錯覚を起こす。空を覆う瑠璃色は先程より面積と濃さを増し、瑠璃紺と紺青のグラデーションを作っていた。そろそろ奴らの時間だ。夜に差し掛かる空を見上げ、青年はぼんやりと思った。

「知らない方がいいことも、この世にはごまんとあるんだよ」

 視線を空から多田の顔へ移し、青年は彼に言い聞かせるように頷いた。多田はぽかんとした顔でそちらを見つめ返す。その最中、彼の顔にはフェイスベールの下から右目の付近にかけて、切り傷の跡が数本あるのを知った。

「君みたいな若い子に諭されるとは」

驚いたような表情を作ったのも束の間、多田は見る見るうちに顔を緩ませ、ついには声を上げて笑い出した。一体何がそんなにおかしいのか、その様子を見た青年はひとつため息をつく。腹を抱えながら肩を揺らし、それでも多田はよろよろと青年について歩いた。

「いいや、うん。年は関係ないか。君の言葉は正しいよ」

「物分りが良くてなにより」

「うん。この場所について詮索するのはよそう」

 そう言って頷くと、多田は笑いすぎて潤んだ目元を指先で拭った。そして一瞬落とした視線を再び上げたとき、いつの間にか自分たちが三叉路に突き当たっていることに気付いた。青年と共に行くこの町の記憶は、いつもこの三叉路を右に曲がったところで終わっている。

「あの家の椿の木を超えたら、振り向いちゃいけないよ。誰がアンタを呼んでも」

「うん、いつもありがとう」

 青年は三叉路の右側、青磁色の屋根の家を指差して言った。その家を囲う石壁からは、美しく花をつけた椿の木が覗いている。多田は青年の傍らを離れると、右の通りに差し掛かる手前で彼を振り返った。

「ねえ、せめて君の名前を教えてくれないかな」

多田の言葉に青年は不機嫌そうに眉を寄せた。しかし、その様子を見た多田は笑みを返すだけだった。ダメ元で言ったにすぎない言葉だ。青年が答えないことを、多田は最初から知っている。

「みと」

 再び歩き出した多田の背後で、青年の声がした。多田は思わず歩を止めたが、それは今まさに椿の木の前を通り過ぎようというときだった。そのため振り返ることはせず、視界の端から消えかけている木を一瞥するに留めた。そのまま立ち止まっている多田に向かって、青年は続けた。

「川とか海に流れてる水に、戸締まりの戸で水戸。俺の名前」

「そっか。水戸くん、最後に教えてくれてありがとう」

それきり青年は何も言わなかった。

 多田は背を向けたまま手を振ると、ゆったりとした足取りで通りを行く。自分に語りかけた声が本当にあの青年なのか、確証はないが今はそれでいい。

 遠くから午後6時のサイレンが響いてくる。帰路につく多田の身体を、真っ赤な夕日が真正面から照らしていた。

鬼が出るか蛇が出るか

鬼が出るか蛇が出るか

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-04-05

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