正道の小説 ──坂口安吾文学論──

 わたしには「純文学小説とはなんぞや」という難問に、明確な信念を込めてこたえることはできない、するすると糸を引くように口からそれらしい理論を引き出せる人間のそれに、わたしはむしろ疑いをもつであろう。もっとドモれ。ドモれ。ともいいたくなる。然るに「小説の正道とは」という問いをもしみずからに突きつけるのならば、何故かしら亮とした言葉が思い浮ぶのもふしぎである。
 正道の小説。
 わたしはとりわけ文学はアウトサイダーの所有物という考えではない、坂口安吾は純文学を病人のオモチャだといい、読み物を健康人のオモチャだといったが、社会に適合し且たいして病んでいない人間(しかしわたしには現代の秩序で生きていれば何らかのかたちで病んでいるのではと想われる)が読み心を揺さぶらせる文学が、わたしのような病人共に佳いと思われず、その独占欲から「それは文学ではない」と吐き捨てられるいわれはあるまい。
 わたしは人間追究の散文や病的な芸術をとりわけ偏愛しているからそういう例を出すには余りに勉強不足だが、安吾のきらった志賀直哉だと「和解」なんぞがそういう印象。高校の時に読んだ「生れいずる悩み」は芸道の険しさをえがいているものだが、感動しつつもなんだか普通の小説の感じがした。これ等の文章に、異常人のアウトサイドな凄味はないように想う。やや例が少ないので、映画が話題になった「レ・ミゼラブル」とか、「シラノ・ド・ベルジュラック」とか、そういうのも入れてみようか(シラノは然し自己犠牲の発露の仕方が頗る古いので、はや平成・令和だと完全に外れているか)。
 現代小説だと、むしろそういうもののほうが多いのではないか。わたしはそれ等もふつうに好きだ。いわゆる、多くのひとに好いと思われ、十万部程度以上売れる純文学である。
 わたしは最も散文作家で影響を受けた坂口安吾の主張に、反対しているつもりなのだ。

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 良識への反逆、時代への超越或いは逆行、不在した観念的なものへの身を滅ぼすほどの熱情、社会不適合などうしようもなくアンスリウムと脹れた衝動の打ち据えるサンドバッグの疵痕、たしかにそういった文学は多いのだけれど、それ等たしかに、知的なプライドの肥るも社会で巧くいかず、世間で違和感を抱える人間(たとえばわたしだ)にある種の自尊心、佳い影響ならば勇気や生の方法論の素材となるけれども、わたしは外れた人間の外れた言葉による異常にして才煌く小説が純文学的であるとは思わないし、またそれが正道の小説の条件とは見なさない。たとえ外れ者の文学であっても、読者にとって読んで終わりなら、かれにとりまさにオモチャだ。行為・実践の素材となる文学をわたしは愛し、実際に行為し実践した作家をわたしは愛する。
 むしろわたしにとっての文学の正道を構成づける要素は、大衆に聞えのいい、不変の平凡ともいえそうな、面白みも癖も全くない、しかも、明るく健全なものかもしれない。

 良心によって書かれ、悪を悪としてみつめ、善をみすえているもの。

 これが「小説の正道」ではないかと、不才・無教養ながらも、わたしはブンとなげだしてみせる。
 これさえ満たしていれば、どんなに残酷と暴力とエロスに満ちていようと、どんなに人間の悪を抉りえぐり純化させた眸で真正面からみすえ作者本人が滅びようとも(カポーティの最後の仕事を、わたしは大尊敬する)、どんなに前衛的・実験的な手法を使っていようとも、ありとある世間的なものに劇しい罵詈雑言を吐いていようと、正道だ。
 それ故にジャン・ジュネの如き詩人は法的悪・道徳的悪を美と高貴へ化学変化させ善を押しやっているから邪道ではある、然しわたしはそれ故にこそかれの文学をこのむのであり、むろん小説は邪道であってもいいものだ。文学であるのだから。芸術であるのだから。
 小説に正道、邪道があるなんて時代はたしかに終わっているし、わたしにもそんなものがあるとは想えない、然し、もし文学をやるのなら、みずからの文学において(限定して)「わが正道」を追究し、文学の道を狭くせまく削ぎ落していって、終点で光と音楽の閃光と突き刺し砕くものなのではないか。なにを砕く? それは各々の書き手の個性が決定するであろう。自分にとっての正道を考えるという作業は、書く人間にとって、時代を関与せず必要な手続であるとわたしは考える。ジュネの正道が、わたしの邪道であるだけかも知れぬ。所詮、そういうものだ。
 善とは各々が抱くべきであり、他者のそれが自分のそれと異なろうと尊重し、受け容れはしなくてよいが手前で受けとめるというのがいまの時代性で、わたしもまたそうでありたいとうごいている者である。然し、絶対的なそれだってあると仮定して注意ぶかく生き失墜しつづけるといううごきも亦好いものだと感じる。わたしはそういう生き方が好きだし我を賭けてしてみたいとも想っているのだ。小説中で、各々の善をみすえ、悪を突き詰め、より善くあろうと月へむかい歩行して、登場人物或いは物語或いは構成をうごかす。こんな性格の人間がこういう影響を環境から受けてこの状況に立てば、こう考え感じおそらくやこううごくであろうと注意ぶかく思慮を重ね、こうだと決めて展開を決定する。そこに善を欲するうごきがみられるものであり、然し、そもそも小説そのものをうごかす原動力がそういうものであってほしいのだ。
 先ずかれの善がある。或いは悪がある。そして書く。書いて、書いて、書きまくる。して、相対的に理論して善悪の貌を追究する。善はさらに明るめられ、そのシルエットがぼんやりと映されるかもしれぬ。世界の。社会の(これはやはり時代特有の病を見抜く社会的な小説になりやすいため、幾分レトロなものとして残りがちだ)。或いは、自己の。より潜れば、人間の。
 あらゆる小説はどうしようもなく私小説であるからして、小説上にみられる人間の悪はすべて自己批判・内省戦争によって発見されたわが罪である必要があり、それを何処までもどこまでも凝視し抉り恐るおそるメスでひらき怪物に覗きこまれながら外気とべつの現象で科学実験し、それはまるで外科医がわが身を手術し、治すのではなく病気を子細に研究しているような努力である。病が酷くなったり拗らせたり別の深刻なそれに変容するのも、けっして少なくはない現象だ。この点でまさしくレイモン・ラディゲ、コンスタン、ドストエフスキー等の強すぎる自意識による自己解剖心理小説がわたしの正道をまっすぐに徹っていたことが解る、そして貴方だ。坂口安吾。貴方こそ日本を代表する、自己解剖手術報告書の達人であった。この点において、貴方はまさに鬼であった。
 太宰や久坂葉子も自己解剖は卓越している、然し、どこか自分個人的な感情の領域では自分に都合のいい解釈が散見されるように想う。自分或いはわが眸に映る自画像を大切に想う気持がつよかったんだろうか。それはむろん否定されてはならないが(というか自己欺瞞は全くないとたいてい自殺しちゃうんじゃないか、かれ等は自殺したのでここで書くと話が錯綜するけれど)、然し、文学をやるという作業は神経をズタズタに轢き殺してしまうもので、やはり破滅を宿命づけられる仕事に傑れたものが多いように想う。太宰も久坂も小説が卓越して傑れているのは、これと別の尺度によってすれば語れるだろう(かれ等はたとえば人間・女というさがに自己批判を通じて専門家となっているところが凄まじい、安吾いわく「人間通」というそれだ)。
 わたしはかなり自罰的な行為による破滅的な仕事を誉め語ったが、もっと魂の筋力のこもっていない、読み物としてさらりとしている小説にも正道は見つかり、そして傑作もたくさんあると考えている。才ある者の力の抜けた作品は、それはそれで佳いものである。然し、それはきっと良心によって書かれている。
 良心。小説家のそれではない、「小説の良心」である。つまりはそれ、小説家の良心でもある。どんなに悪に染まった自己を鬼のように追究しようと、どんなにたいした悩みでないのに莫迦のように自己批判してようと、たとい全員悪い奴であろうと、良心は、小説の良心は、きっと観念として善を投影する、うっすらとした月影として浮ぶ。わたしはここに、書くのも読むのも読解も疲弊する文学なるものに一条だけ宿る、人間らしい憩いを感じる。作者と読者に共通する、格闘の果ての一握の作物の光をみる。

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 既に書いたが、正道の文学とは、善をみすえる。そして、小説をうごかす。右往左往しガタガタと揺れ退行し気付くと悪の城にあるときもあるが(だいたいそうではないか)、根の衝動は善をみすえており、其方へ往こうとしている。小説が、である。
 善への希求とはある種「他より善でありたい」という優越感への欲望であるように想い、おおく道徳が低劣だとみなされた人間へ軽蔑等を向けるためにわたしはたいして評価をしないのだが、然し、「より善くありたい」という善の努力がけっきょくは他の欲望と並んでもおかしくないものであるという人間の人間らしい卑俗な宿命を、慈しむ者だ。可憐を見いだすものだ。だから美しいのだ、とすら想う。
 善の自分を尊敬してほしくないのだ。それはそうでないひとびとへ暴力を必ずや振るうから。唯、善を尊敬してほしい。月へ憧れるように。
 たかが人間が、善くあろうとする。より善き生き方・社会を求めて、一握の良心を握り、書き、綴り、悶え、考え、批判亦批判、これと想って人間や感情や思想を褒めれば前言撤回、なにが善いのだと捜し狂ったように書き殴り、これだこれだと独り善がりに喝采泣きじゃくり、それインチキだと気づき泣き喚いて、自分なんかには書けない領域にさめざめと泣き臥し、それでも書く、むしろ斯くして書く、さればだれか、何処かのだれかの為になればいいと切なる祈りを込めて、投げだすように言葉を抛る──だから好いのだ、正道の小説は。

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 小説とは、二行で書けばいいことを引き延ばしているだけだ。そうもいわれる。実に、しばしば。然り。そうだ。そうとも、いえよう。
 然し、だからなんだっていうんだ?
 小説の価値とは、モチーフのエッセンス、メッセージ性の命題化になぞにあるわけがない。あるわけがない。あるならば、誰が小説を書くんだ。わざわざ登場人物の性格を設定し、かれ等をうごかし綾なす人間関係を描写し、人物の心理や感情の変化をとらえ描写し、人物としてかれが変わって往く様子を出来事と絡めながらうごかし、そこまで頑張る理由が、わたしにはみいだせない。
 小説のうごき、登場人物のうごき、物語のうごき、うごきだ。うごきなんだ。多重のそれ、綾織り或いはズタズタに解れ破けうごめくそれ、終点へ向かう幾重のうごきの過程。
 たとえば坂口の小説は観念的で読みにくくズタズタなそれ、結論でいえばむしろ無惨な或いは懐疑のみ示し空無と虚無へ投げだしたような、実にじつに無責任(しかし作品の悪影響に責任をとらないと書きつづけられない誠実な人間が、文学なんてやれるのだろうか。文学とは、ある種人生を苦しみに導き一種悪性なものにするものではないか)、一種全我の火花散る偉大なる失敗作というべく、イノチの籠った惨たらしい仕事が少なくない。かれは仮の絶対を設定しわが善へ向い理詰めで行為するうごきの過程を描いているのだ。書き終えるまで、どんな終点に往き着くか解らないタイプの執筆をしていたのだ。それだからかれの小説は陰惨な結末が多い、失墜を宿命づけられているからだ。坂口の小説は、うごきの文学だ。城をみすえる永遠の過程だ。観念的な余りに観念的な生の方法論を極めて現実的なやり方で対峙・対応して、実践的・実験的に理詰めとうごきと作者の実際の行為で追究、その生のうごき・思考のうごきをリアリティ込めて書き殴り書き殴り、まるで自己を投げ放つようにして験しているのだ。坂口の仕事は前述したように強い自意識によって書かれた自己解剖の小説だが、然し、どこかかれ自分のこと何も大切に想っていないかのような、自己を空無へ投げ飛ばすような、きんと撥ねかえし横臥す自己を冷然と執拗に病状経過を眺めまわすような態度があり、読者も亦「我」がブンと柔道のやり方でがらんどうへ投げ飛ばれたような感覚を獲得しえる。
 坂口が評論ばかり読まれ「評論のほうがいいよね」としばしばいわれるのは、その過程でえた結論めく箴言を鏤められているために読み物として解りやすいからであるとわたしなんかには疑われる。何処までもMade in Japanの西洋剣をブンブン振りまわし切先が花と降らせたかれの評論、その飛び散る欺瞞を見抜いた真実の破片が、ひとびとにとってすかっと爽快な気持にさせるのも亦理由であるように想う。むろんかれの作品は多くアッパー系ドラッグであるから元気にはなる、前向きになるというような効能もあるが、然し小説に潜り潜り自己を沈めて一途に堕ちてかれの生を実感するならば、かれの文学がどんなに気合のこもる破滅的なそれであるかが解るだろう、ごくごく普通にビビって逃げ出してたくもなるであろう。わたしは現役でびびりながら地下水に足先を浸しヒイと悲鳴を上げている者だ。
 いやいや。坂口さん。大丈夫。小説の方が、もっともっといいよ(安吾、存命中から評論の方がいいといわれることを気にしていたらしい)。
 わたしは、坂口安吾は小説家でしかなかったと想う。かれの小説は、絶世の正道の小説だ。小説の純粋な領域を他の芸術では出来ぬ方法論で透した、人間にしかできない生き方を人間らしく純化した路を通らせた、然り「書く」と「生きる」はかれにとりシノニムであった、まさに書くように生き、生きるように書き、昇る筋力を鍛えあげながらズリ堕ちて往った。
 小説のうごきを自己の生のように辿り追体験することで、懐疑・共感・非共感・好き嫌いの感情がワンワンと起こりえる、そして、時々で起こることであるけれども、作者の抱く深みと読者のそれが寄せ波の翳のように重なった時、それが、胸が張り裂けるように切なる激情を引き起こす。世界が違って見えてくる。生き方が変わる。肉が剥かれ、或いは、新たな装飾を衣装するのも亦素敵だ。小説を書き、小説を読む。たかが人間同士による人間くさい営みにすぎないが、然し、人間同士にしか絶対に起きえない感動がある。
 わたしはわたしにとっての正道が前述のものであるだけで、そのほかの考え方の人間の正道も尊重していたい。しかし試しにではあるが、どうか次の言葉に、あなた自身の正道を代入して読んでくれないだろうか。そして、あなた自身にめざめ或いは睡る、ほんとうの意欲がこれにより見つかれば、わたしは、なによりもうれしい。

 小説のうごきは、人間のうごきだ。従って、あなたにとって正道な小説のうごきとは、あなたが正道だと感じる人間の生き方のそれである。

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 蛇足。
 わたしは小説を読むような暇人がつまりは好きなんだ。実利的・生産的な努力は社会を回す上で必要・善なるものであるから大切ではありその努力も亦尊いもの、然し、それだけで終わらず無駄を愉しみ努力するひとびとが趣味的に好きだ。小説を読むという行為はたしかに遊びであり、小説は玩具であるかもしれず、それを使い全我を掛けてどう転ぶかも判らぬ人生を全力で遊ぶのが文学を愛するいとしきひとびとの生き方なのかもしれない。その徒なる遊びに涙し喜び心を揺り動かされたひとたちは、他者の気持を想像できないと知るからこそ注意ぶかく思慮するという素敵な心のうごきがあるひとが多いし、話も面白いし、なにか小説読みには魅力的な欠点を素敵に伸ばしたような好い癖を感じることが多いように想う。小説を読むのが好きなら是非読みつづけてほしいし、「大人が読むものではない」というような言説突き飛ばしてほしい。
 小説を読むという営みは愛すべき遊びで、全力で生きる予行研究だ。小説を書くとはある種読者を遊ばせるということであり従って小説に娯楽性を込めるのは何も文学というものを汚しやしない、高尚ぶる文学青年はここを排除したがるが、然し全力で無我夢中に泥遊びをするように小説的に生きられたら、とってもロマンチックじゃないですか。一度きりの人生である。敢えて平凡な比喩をつかえるのがわたしなんかには嬉しくてたまらないのだが、ロマネスクな生き方の主人公は、他でもないあなたなんだ。
 身も蓋もなくこのエッセイの根本をひっくり返すことをいうが、生き方に全く正道なんてない。小説にも一切合切ない。人間の正道なんてあるわけもない(そういう考えは危ない)。然し小説読みの多くには、その人間固有のロマネスクな憧れというものがある。趣味的でキラキラとしたそれがある。わたしはわたしのそれに正道という胡散臭い言葉を使ったのだけれども、然し、要はそういうことを言っただけだ。
 小説は仏蘭西語でロマンという。それは人間の、ラテン語でいう憧憬へのうごきの物語ということではないか。くるしいうごきだ。切ない心・信念をもちつづけよう、もちたいという悲願が宿る。幾夜も幾夜も手放し諦めようとしたかもしれぬ。所詮、小説を読みロマネスクを信じることは、徒なナンセンスな遊びかもしれぬ。然し、それにより負う瑕こそ人間の生を耀かせ、傷を負ってでもうごくことに、人間のなかの人間らしい清んだ領域が一途にうごくように想う。うごく。さながら小説のように。ここで、人間の営みとしての文学に、余りに人間らしいが故に人間固有の領域を徹すが如く「純」粋だという意味において、芸術という真剣な遊びを散文の物語だけで表現しうごかすという他の芸術にはできない「純」粋な路を通るという意味において、もしや「純」粋といいえる"roman"が宿る。
 嗚。純文学。
 得体のしれない言葉かもしれないけれど、然し、悪い言葉ではない。間違ってはいない。文学なんかを信じるが故にそう名付けて了わせる無垢な感受性が、青春の風と光が、わたしなんかには愛しく想われてならないのだ。

正道の小説 ──坂口安吾文学論──

正道の小説 ──坂口安吾文学論──

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-03-29

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