俗人抄

一 ある知り合いに宛てた手紙を書くこと
 花粉が舞っているようです。父も妹も、一様に目の痒みを訴えています。痒みの他にも症状があった筈ですが覚えていません。というのも私は花粉症ではないからです。ただ花粉光環が見えるばかりです。いや、花粉光環というのは太陽の周りに見えるらしいですから、私が先日見たのはそうではなかったのかもしれません。街灯の周りに見えたのです。あれは眼鏡をかけていた所為かも知れませんし、或いはその時泣いていた所為かも知れません。泣いていた、などと言うと紛らわしいですが特段悲しくて泣いていたのでも、ましてや花粉症がひどくて泣いていたのでもありません。ここ二か月にもなりましょうか、私の目は絶えず涙と目脂を溜めるようになってしまったのです。欠伸ばかりしているからでしょうか。それとも不衛生だからでしょうか。詳しいことは調べていませんが、あまり気分が良くはありません。かといって、一々それで気分を害すわけでもありません。慣れてしまったというのも大きいでしょう。慣れというよりも諦めに近いかもしれません。取り立ててお医者様の厄介になることに抵抗があるわけではないのですが、わざわざ診察の予約をしたりそのために予約を空けたりという一連の作業は億劫に感じます。何も著しく億劫だとは思いませんが、意味もなく涙と目脂が溜まる分には痛くもかゆくもないので、それで怠ってしまいます。それこそ私が父や妹と同じようにひどい花粉症を患っていたら、そのときは生活に支障を来す度合いが大きいでしょうし、何処かにかかるのだろうと思われます。実際、私の家族は一様にお医者様に薬を貰ってなんとかこの季節を凌いでいます。時候の挨拶をするつもりが思いのほか長引いてしまいました。さして急いで伝えるようなことはありませんが、こうして手紙を出しているのに何の理由もないわけではありません。一つ頼みごとがあってのことです。富士山の地図が欲しいのです。突拍子もないことを言って困惑させてはいないかと不安ですが、日本一の標高を誇るというあの富士です。日本一などという文句は些か馬鹿馬鹿しく子どもじみている風にも聞こえますが、現に日本一の標高なのですからそういう他ないでしょうし、下手に誤解を招く言い方をする道理もないでしょう。富士そのものに就いてはさておき、等高線の描いてあるようなのですから、地形図とでも言った方が正しいかも知れませんが、なるべく古い物の方が肌馴染みしていいようです。いいようです、などと書いたのは私自身が欲しているからではなく父の要望だからで、どうも父は最近山に凝っているようなのです。見つかりそうもなければ父にそう伝えますし、その際も同封した寸志は取っておいてください。何卒よろしくお願います。また、最後にはなりますがこちらに遊びに来た際には是非寄って行ってください。大したもてなしはできませんが、近くの滝には少し驚かれるかもしれません。

二 森の家の近くで新生活をおくること
 私は手紙とはこんなものだっただろうかと首をひねりながら封筒をポストに投函した。ここにきてから携帯電話を解約したので生活が俄かに隠者じみてきた。それでも中身はそうそう変わらないようで、俗人らしく近所同士の噂話の輪に混ざってみもする。むしろお互いの顔が見え一応今聞いている人間が分かる分露骨にもなり、余計に俗っぽくなったとも感じる。まあ何にせよ何か変わったような何も変わっていないような感覚は新生活にはつきものだということだ。ただ、新生活と言ったときにそれだけで何もかも変わったように聞こえるのは何故だろう。それとも何もかも変わったときにのみ新生活という言葉を使うことが許されるのだろうか。私の場合住む土地こそ変わったが職は相変わらず無く希薄な交友関係はどこでも似たようなものだった。それでも普段見る人や風景が変われば多少なりとも考えることは変わる。徒歩圏に老いた父が住んでいるともなれば尚更だ。つい昨日も会いに行ったが慣れない。今となっては取り立てて仲が悪いのでもないが、それは仲が良いということ意味するわけではなく、最早お互いに言い尽くせぬものを逐一言う気がなくなり、表面上の平穏という分厚い空気の壁を通しての時折り息の詰まりそうになる会話をせねばならなくなったということだ。会話はその空気の壁を見て行われ、決して相手の顔は見ないし相手も見せようとはしない。そんな相手が森と呼んでも良さそうな木々の密集した場所に僅かに切り開かれた坂道をひたすら上った先にいる。徒歩三十分かけてそんな場所へ行かねばならない状況とは何だろう。それこそ父の家に行った昨日はどんな状況であったろう。思い起こしてみると、そこで食べた御新香や頼まれた山の地図のことが上手く纏まらずに浮かんできた。そこに切迫したものはなかった筈だが、では果たして精神的余裕や悠長な心持があったのか甚だ疑わしいものである。森の中に狭い屋敷を構えて日がな「日記文学」だとか「私小説」を読んでいる偏屈な老爺、それが私の父である。いくら森の中と言ってもちゃんと番地はあるし、隣近所とは行かぬまでも近隣に知り合いだっている。人との交流がすっかりないわけでもないのだ。だから名もなき世捨て人などと思われては困る。白銀色の表札には筆で描いたような文字で「岩舘靖男」と彫られている。彼の妻つまり私の母が六年前に長患いして亡くなくなり、まもなく表札を建て替えたのだ。今になってみれば、わざわざ古い馴染みのある「岩舘」を捨てて新しい「岩舘靖男」へと替えたのは象徴的な出来事とも捉えられる。婚姻する前のもとの男に戻ったのだ。そして、そのもとの男というのは私からすれば正しく新しく出会う人物と言って差し支えなかった。ただ妹もそう思っているかは分からない。妹は私とは違う人間なであるがために私からすればありえないような考え方をする人間でもあり、そのためにか父との衝突はなかったのだから、今の父に対する思いも私とは異なるものである可能性が高い。私の最寄駅から乗り換えなしで行けるところにその妹は妹の夫と住んでいるのだが、私をここへ住まわせた張本人でありながら大して会う機会も多くない。妹は父が発作でも起こったときに誰も傍にいない状況を恐れている。しかし自分が結婚しているからとはいえその責務を私に負わせるつもりだとすればなんとも虫のいい話ではないか。

三 父との不和を思い起こし弁明すること
 私の父は暴力的ではなかったと思う。厳格というのでもなかった筈だ。怒ることがことが全くなかったとは言わないが、比較的温厚な父親に分類されると思う。普通は厳しい父よりも優しい父の方が親しみやすいだろう。実際、私も幼い頃は父のことをよく思っていた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うが、その頃の私から見た父はまったくその反対だった。父が見ている世界遺産のドキュメンタリーまで、幼いながらに楽しいんでいた。それに些細な気に障る点は見て見ぬふりをして忘れることにしていた。そう心がけたのではなく反射的な行いだった。憧れの的などではなかったが少なくとも理想的な父だとは思っていたのだ。そして父親もまた私をある種の理想的な子どもと思ったいたに違いない。何故なら、私はそう思われるように振舞い続けていたからだ。とすると、父も私の顔色を窺っていたのかも知れない。だが果たして子が思う理想的な父と父が思う理想的な子の間に結ばれる関係は常に理想的なものだろうか。我々の場合はそうではなかった。それはどちらかがもう一方の理想から外れてしまったためかも知れないし、理想というものが強固に育ち過ぎた所為かも知れなかった。無論、だからといって致命的な決裂が起こるのでもなかった。或いは恋人関係ならばそう言った場合に決裂しうるのだろうが、我々はあくまでも親子であった。だからと言って親子関係の方が簡単な関係だとは言えない。ただ別な困難があるだけだ。しかしながら、振り返ってみてもそれが親子関係によってもたらされた不和だったのか、そうでないのかは分からない。たとえば理想というもののもたらした不和とも考えられる。尤も親子関係やら理想やらのことばかりを考えても仕方ないという気もする。その原因は私が抽象概念で上手く現実を捉えるのが不得手だからというだけでもないだろう。現実とは何かの要素一つで論じられるものではないからだ。いや、これは私が安々とこの問題を一蹴させたくない言い訳に過ぎない。私が当事者だから主観的にしかこの物事を考えられないのもある。些か感傷的になってしまう。こうやって煙に巻くやり方は父親譲りなのかもしれない。それともここに移り住んで、父のことを以前よりも考えるようになったからだろうか。私が決着が着けるのが先か、父が死ぬのが先か。この様では後者になる気配の方が濃いと思わざるをえない。

四 突然の来訪者に戸惑いもてなすこと
 先日送った手紙にはまだ返事がこない。郵便ポストには水道修理の広告チラシしか入っていなかったため私はがっかりした。送る前は返事など来ても来なくても良いと思っていたのに今では何故か心待ちにしている。郵便ポストを開ける音にも敏感になった。そのためポストの開く音の直後にインターホンが鳴った時、有体に言って私は喜んだ。喜んだがやってきたのは手紙でも地図でも郵便配達員でもなかった。妹が妹の夫をやってきたのだ。思いがけないことだった。妹夫婦が私に何の用だろうと頭に疑問符が浮かんだ。がっかりしたわけではなかったが、特に喜びもなかった。戸惑いながら中に招き入れるとどうやら妹夫婦の家に虫が出たらしかった。最初はゴキブリが出たのか勘違いしたが、どうやら蜂らしい。バルサンを焚いているのではなく、業者に任せて私の家に退散しに来たらしい。「古新聞を煽いで蜂を部屋の外にだすのが精一杯だった」とのことである。蜂の巣はどれくらい発達しているのだろうか。また、業者の傍にいなくていいのだろうか。そのようなことを聞いた。その場の沈黙を凌ぐ便宜的な質問というよりも、災難に遭った人を慰撫し寄り添うための質問だった。妹も妹の夫も慌てて家を出たらしい。家を出てから携帯電話で駆除業者を呼んだというから妹らしいと思った。妹はいつも自堕落で行き当たりばったりで横着なのだ。とはいえ、蜂がいるのは緊急事態だから横着とばかりも言えないかもしれない。「いつ気付いたの」「そりゃ二週間くらいは裏庭にあったけど」「その間ずっと放って置いたのか」「あの人も別にいいんじゃないって」というのが私と妹の会話の一部始終なのだが、尻に火がついてやっと動くのはやはり自堕落のなせる業だろう。あの人と呼ばれた妹の夫は我関せずといった風で私の本棚を眺めていた。大して気になるものがないのか遠慮しているのか何も手には取らなかったが、それでも飽きずに眺めていた。私は牛蒡茶を人数分出し一応もてなした気になっていたが、各々が勝手に寛いでいただけな気もする。まあ何せよ妹夫婦は三時間程して帰った。業者から連絡があったのかどこか寄るところが出来たのかは分からない。私は妹夫婦と何を喋ったのかさえすっかり忘れてしまった。夕方になって手紙が来たのだ。

五 友人からの手紙を読み涙すること
 友人からの手紙は手短なものだった。しかし手短だからと言って愛想のないものだったわけではない。明瞭簡潔な手紙と言うべきだろう。それには「家に会った地図をそのまま同封します。そちらの方が花粉は多いのでしょうか。折をみて行きます。それでは」とだけ書いてあった。これは手紙の文面というよりメールの文面に近いのではないか。少なくとも冗長さを省いた文面ではあると思った。などと感服しているとはらりと地図が落ちた。四つ折りにされた地図は正に父が欲していたものだった。それは同時に私が欲していたものでもあった。地図を開きながら、父が良い思いをするのを私も望んでいたのだと気づいた。私は未だに父の顔色を気にしているのかもしれない。きっとそうだろう。地図に描かれた富士の地形を眺めながら、私の目はだらだらと透明な体液を流した。勝手に流れる涙が今はいつも以上に鬱陶しい気がした。だが一先ずは安心だった。安心して湯船に浸かり安心して眠れる。そこから先は分からなかった。父に会う時も安心していられるだろうか。地図を渡した後はどうなるのだろう。私は今手にしている地図が父との最後の結びつきのように思えた。父は本当に私が無邪気に地図を運んでくるのを望んでいるのだろうか。第一こんな古ぼけた地図がなんだというのか。私は眠りの中で業火に焼き尽くされていた。起きると布団を深く被り過ぎて汗が噴き出していた。業火に焼かれる夢を思い返し、あれは富士の火口の中だったのではないかなどと賢しらなことまでを考えた。すると富士の地図を手にしたものが富士に行くのは至極当然に思えた。こうして手にした地図によって富士をさまよい歩いたすえに火口へ身を投げるのも当然の結末かのように思われて仕方なかった。もはやこれは私の地図だった。たかが地図であることに変わりはないが誰かに渡すのは惜しい。年輪のような等高線をみつめていると、それがじらじら動き出す錯覚に襲われた。深みへ深みへと沈んでいく錯覚だった。

六 坂の上を目指して歩くこと
 私は坂の上にある父の家へと歩き始めた。子どもの頃「お前は思案ばかりしていないで手を動かせ」と言われた記憶がある。誰に言われたのだろう。父かもしれない。そう思うと父だという気がした。そして今何故か父の方へと歩いている。はっと気づいたその事実に薄気味の悪さを覚え、私は坂をかけ下りていった。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-03-24

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