線路と死貌 ──エドガア・ポオ風の物語──

 わたしは幼少の頃より、冷然硬質な孤独をかかえこんでいた。
 それ故に冷たく硬い水晶、重たく被さった蒼穹の瞼、夜空に燦々と照る死者を反映した星々、わたしに冷酷な美しい少女たちを偏愛していたのだが、殊に愛していたのは「死」という観念であって、それはまさに玲瓏な水晶さながらと想われた、青みがかって透き徹ったそれの曳く蠱惑めいた翳に、頬を擦りつけたいほどに焦がれていたのだった。わたしは「幸福の王子」のツバメのように死んでみたかった。「ナイチンゲールと赤いばら」の小鳥のように身を投げてみたかった。然し、わたしにはオスカア・ワイルドの寓話の如き硬き死なぞは実現できまいという、うじうじとした自分への信頼のなさによって陰鬱な気持にもなり、自分は醜くしぶとく何もできやしない生を全うするであろうと何故かしら信じ込んでいたのだった。こんな意識はわたしの劣等感の種となったのだけれども、劣等感というのはともすれば執着であるからして、その影響もあり日常の風景の様々に死の反芻風景を刹那せつな感覚するようになったのもこの頃であり、むろんこんな感受性は独りぼっちで淋しがりやのわたしを更に孤独にしたようである。
 たとえば花々の散るのはわたしには豪奢なる血飛沫に金が鏤められているかのようであり、夕陽は海という死の核に半ば沈み込む溺死の最中の風景であって海と空にべったりと垂れる橙は荘厳にして古く褪せた血を撒き散らしているようにもみえた。中学に入って三島由紀夫の小説を読みかれが同様の比喩をつかっていることに驚いた記憶があるけれども、わたしはこれに無根拠な自信をえたことすらある。
 殊にわたしが死のオマージュを感受したのは線路上に走る列車の過ぎ去る風景であり、列車が眼前を奔り抜けた刹那わたしはいまわたしの死の可能性が去って了ったというような感慨をえていた、毎度毎度列車が通りすぎる瞬間にわが身を突き落としていたのだから、そんな想像をするのも無理はないだろう。こういった人身事故なる名称の出来事は度々起こり、多くのひとびとは「またか」というような多すぎるといいたげな感想を漏らすのをよく聞くけれども、わたしには何故たいていの人間が線路へ身投しないのかむしろふしぎに想うのである。毎日数百人が身投したとしても、わたしにはそんなものだとしか想えない。
 神経の問題だと推定されるが、わたしはだんだんと線路のうえに染みのような死体を幻視するようになった、それははじめ犬のような形状をしていて、小学生で初めて詩作に挑戦した時道路で横臥す野良犬の死骸への羨望・憧憬を歌ったのだけれども、従ってわたしのなかで何かしらの原因があり無惨な死と犬が結びついていると推定されるであろう、然し、何らかの段階を経てその染みは人間の貌へと変容し、誰かに似ている気がするがいまいち身元不明な三十かもう少し下くらいの男の顔になったのだ。
 それは引き攣り惨たらしくやつれている断末魔に際した顔付であり、或いはその表情で固まった死貌である。幾分己に閉ざされたように内省的な印象の目元は有しているようであるが眼付じたいは荒廃したように乾いた暗みが籠り、口許は恐怖に叫んでいるようにぐわと拡がっていて、全体が絵の具を引掻いてズタと破いたように下方へ肉を曳き垂らしていた。いわばフランシス・ベイコンの絵画に酷似した描写であるがそれに気付いたのはその十年も経ったのち、前述した三島が書いていたように幼少期というのは後年かれを執着させるモティーフが既に名称不明なメニューとして悉くが開示されており、後々になって名前が解って往くというのが往々にしてあるのかもしれない。それにしても名前が解って往くというのは不幸なことであり、もし詩なんぞをやりたいのなら、子供は社会的人間らしくなった後それを剥ぎ落して堕落し詩人へもどるのだというような経緯があるようにも想われる。が、わたしはどうも自分も社会的人間らしくなったという感覚をえた試しがなく、これをだってわたしの淋しさの原因の一つであるように想う。

  *

 わたしは十七歳で酷く神経を壊したのだが、その瘦せ衰えた腹に黒い染みができているのを発見したのだった。それは始め小さくささやかなものにすぎなかったので気にはしなかったけれども、ようようのっぺりと脚を伸ばし四方へ脹れるように、恰も浸食して往くように拡がり遂には腹全体を黒々と蟠るようになった、わたしはこれがコンプレックスで体育をすべて休みもうと企みはじめ、全部は達成できなかったが当然体育教師達から不信を向けられた、己の醜さを信じるが故に少女たちと碌にお話もできないようになり、他様々のわけもあって高校を中退した。
 染みはまるでわたし自身の陰鬱・異常性・暗みを腹に集中して籠らせているようであり、その腹が汗をかく姿は泥々と内より染みる魂の悪臭が垂れ流されているような、世にも気味わるいものとしてわたしの眼に映った。わたしが切腹に憧れを感じるようになったのはこの頃だが、然し未だエロスと結びつかなかったそれはわが醜さ・暗さへの罰と制裁に過ぎなかったのだった。わたしはわたしの内臓の蠢きを怖れきらっていて、所有者の死にたい気持を尻目にかってに生きようとする(はらわた)に代表される肉体のうごきが気持わるくて気持ちわるくて仕方がなく、そこに染みがべったりと内から染みているのが何かを暗示しているようで頗る不快、いまにも腹を引き裂いてぐしゃぐしゃに内部を掻きまわしたいという欲望をもつようになったのだった。然し臆病で人一倍痛みによわいわたしにそんなことできやしない。わたしは唯々腹と腹の裡に隠れる自己を憎しみ、他者に隠そうと四苦八苦ときに赤面或いは逆上、然るに心の何処かでは、その領域を愛していたようにすら想われる。
 曰く切腹の意欲というのは確かに自罰と自己嫌悪があるようで、それがないとあんな異常な自罰行為できるようにも想えない。武家を誇る家系の長男であるわたしは武士道教育の残滓のような教育を受けたために、ありのままの「我」への否定的な感情が腹を切らせうるというのはある程度は解るつもりだ、しかし切腹という行為にはなにか大切な大切な自尊心をわが手で撫でる行為にも似た幼児じみた愛着乃至オナニズムをわたしなんぞは感じて了う。腹を切り命を棄てることで誇りなるものを守護し先人と連なる空へ翔ばそうという意欲があるのかもしれないが、そんな観念的な想念は妄念そのもののように当時想っていた。
 染みはようよう拡がりある時を境に面積を大きくするのが止まり、やや安堵したが今度は精細な陰翳のようなものを形づくるようになった、まさしく魂を驚嘆と戦慄にぞっと揺り動かすことであるが、果ては以前線路で幻視していたかの恐怖に引き攣り口をひらく男の顔に酷似してきたのである。わたしはそれをみとめた刹那断末魔さながらの叫びをあげつづけ壁中を殴りつけ叩き割り、ベッドで息絶え絶えに身悶えし幾たびも獣の声で吠え、衝動的に自殺して了おうとし睡眠薬を大量に飲んでぐったりと横たわったがやがて吐瀉物まみれで発見されて救急車に乗せられ胃の洗浄、そして閉鎖病棟へと搬送され硬質な音立てて鍵をかけられた。

  *

 わたしには精神的な疾患よりもよっぽど腹の染みのほうを気にかかっていたから、医師に幾度もいくども腹の染みを消したいと相談したが、「メラニンの過剰分泌でしょう」というばかり、全体をみせれば息をのんでさっと目を背けたくせして、「まあ、今時オカルトなんて科学に全否定されてますから。顔にみえるのもたまたまでしょう」といった。わたしは腹が立ったがその際に腹の染みがうにょうにょと波うつのを見、死が戯れにニヤニヤしながらその不気味さを見せつけているよう、余りの気持悪さにはや泣きそうな心情であった。
 わたしは二十一歳だった。青春らしいものを殆ど経験しておらず、二回恋人はできたが腹の染みをみせたくないためにセックスを拒みつづけていた。それが原因ではなくおそらくやわたしの性格・思想の問題なのだろう、恋人とは四か月もつづいたことがなかった。わたしはみずからが拒んでいるのも亦原因の一つにも関わらず童貞であることを人一倍コンプレックスに想っていて、もし腹と腹の内が綺麗になればどんなに素敵な恋人ができて、たとえ自己開示してもわたしそのものをすべてそのままで愛してくれて、幸福と愛に裏づけられた映画のように素敵なセックスができるだろうという妄想に耽っていた。恋愛観において、幾分潔癖なところが当時あったように想う。
 自殺未遂から蘇って以来、わたしは死をみすえて生きることにした、これは本のなかに書かれてあることを信じるならば一種殊勝な態度である筈であった。わたしは背に「雪の衣装」を背負うのだという観念的なことをかんがえはじめ、それはエミリ・ディキンソンの”snow costume”から拝借したのだけれども、ゆったりとした白いシャツをこのんで羽織るようになり、しかし腹の染みが透けるのが怖くてこわくて仕方がないのでインナーに黒いカットソーを着込んだ。わたしにはまっしろにして清楚な静謐な死とわたしのくろぐろとしたグロテスクが脂の漏れたような染みの死貌の矛盾にはらわたが挟まれているのが如何にも後ろめたく、そうであるのにひとと話していて「好青年だね」「爽やかだね」という褒め言葉を受けるためその言葉に暴言よりも傷ついていた。殊にわたしを傷つけたのは「優しいね」という言葉であって、聴いた瞬間この醜い腹をびらびら傷口さながらに見せてやろうというような激情に駆られるのが常であった。
 然り。少年期殆ど独りぼっちだったわたしは十五歳くらいで社会に適合する為形式的なコミュニケーションを独学し、二十くらいで漸く恰もふつうの人間らしく振舞えるようになったのだが、自意識の内部では「人間のコスプレ」をしているというような思春期めいた意識が離れず、一見会話はできると想うがわたしの内心では違和感亦違和感、何故こういう状況でこういうと会話がスムーズに進むのだろうと解らないままに頭に知識として叩き込んだコミュニケーションの定石を臨機応変に駆使し、先刻と近未来の会話の流れを理論的に推理しその場に最適な言葉を呈する、そんなやり方はその場その場で与える印象は悪くない程度の評価をわたしに与えるのであるがそれが頗る後ろめたい、やはりというべきか、殆どの人間はやがてわたしから離れてゆくのであるがわたしにはそれが息がくるしくなるほどに切ない反面、心の一領域ではもうあんな苦しい想いをして話さなくていい、グロテスクの露呈への恐怖を感じなくていいと安堵をするのである。腹の内をみせられないという慣用句があるがわたしの場合まさに腹をみせたくない、然し距離が近づくとわたしがイヤな暗みを抱えた人間であることが露呈して往くのでたいていのひとは縁を切る、いわゆる根が病んでいる人間であるのがわたしであるのかもしれず、それはこの文章でも間接的に伝わりえるかもしれない。

  *

 わたしは二十九になり、三年勤めた会社を辞めた。以前の職場も四年で辞めていた。今回の辞職は、女性社会特有の雰囲気のなかで人間のふり、気遣いできるふりをするのに疲弊したというのが当時の一身上の都合というかみずからへの言訳であったが、ほんとうに、人間の集団性というのがわたしには辛いのだと想う。会社に籍を置いていた頃一度また入院したが退院して暫くすれば帰り路いまにも線路に飛び降りそうになる日々に戻って、命の為にも一か月くらいはゆっくり休もうと想ったりもしたのだ。両親は各々優しいところがあるのでかれ等もそのほうがいいと賛成してくれ、わたしは無職生活をしてみたがそれはそれで辛いという贅沢さ、つまりは淋しいのだ、胸が張り裂けそうなくらいに。わたしはさらに顔付がやつれ眼元は荒んでどんよりと目は据わり、働いていない期間の予定は一か月のつもりが二か月亦三か月と引き延ばされた、体調がよくなれば就職活動を始めるつもりだったが調子も情緒不安定もどんどん悪くなっていった。
 然し良いこともあって腹の染みはだんだんに薄くなり、ほとんど見えなくなってきたのである、唯大口の部分が薄い灰色に残ったのみであったのだ。まだひとに見せられるレベルであり、やはり社会不適合なわたしが社会で無理をして適合しようとするからストレスにより染みができたのだろうが、家で休んだことでそれが緩和され、リラックスできているために染みがなくなったのだというような果して医学的なのかオカルト的なのか、てんで判らぬ奇妙な考えで自分を納得させていた、むりにも納得させないと、こんなオカルトめいた現象の不可解を不可解のままでみつめることが怖かったのである。然しわたしは働いていた時のほうがまだ平常な情緒であったのは確かであり、こいつどこまでもおかしな解釈である。
 わたしは病み衰え食事も喉を通らず、とげとげとささくれだったような情緒は自己を破壊してやりたい気持でいっぱいにさせ、躰が重たくベッドから出られずトイレもペットボトルにする時期も頻繁、と想えば時々ではあるが妙なほどに元気いっぱい、異様な笑顔で死のう死のうと独りでぶつぶつ呟いたり、正気ではなかった。栄養不足が大きな原因だろう、本来美容好きであったわたしの髪と肌ははらはらと崩壊するようにくずれ汚くなって往った、それをはじめ憂いていたがやがてどうでもよくなり、死ばかりを想い泣き臥すのが数週間つづくようになった、その際わたしは墜落直前の特攻隊さながらに「お母さん、お母さん」と小声で連呼していた。わたしはマザコンであるかもしれないけれども、死に際に「お母さん」と呼ぶのは母のいる青年ならよくあることではないだろうか。わたしが自殺しなかったのはまさに母を悲しませないためであって、こう想わせてくれる母親をもったのは幸福なことである。そうであるのにわたしはみずからが幸福であると一切合切想えず、それに後ろめたさばかり想い、こんなにも生きるのが巧くいかず社会参加すら脱落ばかりの人生が申し訳なくて、病的な情緒で迷惑ばかりかけていることで自責亦自責、これこそ非常に神経によろしくない自卑の念と自己否定であったが、もはやわたしはそういった想念に完全に支配されていたようだ。
 わたしは悪い仲間に入った。いわゆる暴走族の連中であって、皆子供の頃から衣食住が満たされていたら絶対にならないであろう荒んだ顔付をしていて痛ましかった。全員に不良になった事情があり、然しわたしは事情があるからかれ等の所業が許されるのか否か判断がつかなかったし、わたしはわたし自身を全くもって許してなぞいなかった。わたしは自分を赦したことなんか一瞬だって記憶にない。わたしのいない空間に魂を漂わせるのが唯一の安息であって、わたしの憩いのオアシスは空に浮ぶわが墓のみであった。
 そのグループは全員が十代であったのでわたしは十近く年上であったが、俺は不幸だという意識がわたしたちを結びつけたのだろうか、数少ない嘗ての友人とは全員連絡がとれなくなり、最早わたしを受け容れてくれるのはかれ等だけだと信じ込んでいたので、わたしは愉しくもないのに看板を打ち壊す行為を愉しんでいるふりをし、全くもって面白いと想えないジョークに腹を膨らませゲラゲラと笑い、殴りたいという欲望が全くない中で一度敵対グループの相手をボコボコに殴りつけた、ある種会社や学校と心理的にはそう変わりはなかった。殴りとばしている間わたしには冷然に鼓動する心臓くらいしか描写するものはなく、わたしは少年期映画や小説ですぐ同情に涙を流すところだけが自分の好きなところであったのだが、それは条件次第で消え失せるということを識り尽くした。戦争映画で人殺しをして往く裡に狂暴に狂っていく人間のかなしさを追体験した。わたしはもはや更に人間でなくなった、人間の条件を一つだって満たしてやしない。わたしはわが肉体と魂ががらんどうにスポンと抜けて死の噴く吐息が轟々と吹き抜けるような乾き切った心情であって、何がなんであろうとどうでもいいのだというような虚無の呻き声だけが、わたしから発せられる臭い息であった。

  *

 いつもの通り盗んだバイクに飛び乗ったがきょうは仲間との会合はない、唯破れかぶれな暴走がしたかっただけであり、わたしはなるべくひとを轢かないよう山道を選んだのだが、その時も「お母さん」と幾度もいくども呟きいまにも泣きくずれそうな切なさであった。わたしは母親を喜ばせるために母の勧めた「九州大学医学部」をめざしていたことを久々に想いだし、運動部の体質に幾ら合わせようとしても矯正されなかったわたしの不適合性、不整列性や、進学校の特進クラス特有の妙な選民意識のひしめく在るだけで叫びだしたくなるような疎外感、それを想起したがそれ等を乗り越え母の希望通り医者になっていれば、そうすれば母と良好な関係を築け仲睦まじく暮らせ淋しい気持もいまよりなかったろうと妄想し、現状の現実を視、はや自己をズタズタに傷つけ滅ぼしてやりたいというような激情に苛まれた。
 バイクを急発進させた。むろん無免許であり情緒は不安定の極、亦どぎつく劇しく炎ゆるような情動であったから色々なところにぶつかりそうになったが寸前で回転し事なきをえるのを繰り返す、然しいつ事故を起こすかわからない危険な運転に変わりはない。「死ぬのは俺だけにせねば」と暴走はひとけのないタイミングでするという妙な道徳が屑の形骸のように残っている自己を「貴様の本心にそんな優しさはないだろう」と嗤い眺める、確実にやっていることは殺人寸前といっても誤りにはならない、泣きじゃくり泣きじゃくりしてもはやどうしようもなく、涙で視界はぼやける。救われることすら望めず、どこかで拒みすらし、絶望に躰をうずめるしかうごき方をみいだせぬ、自画像に失望しズタズタにナイフを突き立て切り裂くような毎日、わたしにはわたしが何を求めているかも解りえず、自棄になっていたのだ。
 やがて山道に入るとむっと臭気を放つ風が立った、黒々とした砂のような、然し臭いからして自然界の砂でなく明らかに有害な化学物質のような無数の粒が顔に吹きかかる、なにか山で事件が起こっていたと想像されるがわたしにはそれを知ることはできない、何故といい視界を覆われたわたしはそのままにゴミ溜めに棄てられ横向きに寄っかかっていた硬き鉄の突起に、腹と背をグサと一気に貫かれたのだから。わたしはその時識った、黒き死と白き死は貫かれ徹ることで矛盾なぞ霧消して、一途に真直ぐとした線を曳きえるということを。そういうものでしかなかった、わたしは死の間際にわが想念に失望した。
 わたしは腹を貫かれガンと鉄の塊に頭を打ち付けた、頭蓋骨の砕ける音、意識を喪うまでに数秒かかり鉄の面を眺めるより他なかったが、わたしには死ぬ瞬間よりも何よりもその時間が怖ろしかった。
 というのは鉄の塊に鏡のように映る苦痛に歪む顔付、顔中からダラダラと垂れるドス黒い砂の交じる黒々とした血潮、断末魔の絶叫に大口をあけ真黒で虫歯により夥しく欠けた歯を剥き出しにするわたしの顔は、まさしく線路上で幻視した死貌の翳であったから、亦腹に染みとし蟠り一度は消えたと想っていた男の顔そのものであったから。いわばわたしは、閉ざされて凶暴な筆致のままにドローイングしつづけた自画像に遂に重層一致し、ズタと轢き殺されたのだった。

線路と死貌 ──エドガア・ポオ風の物語──

線路と死貌 ──エドガア・ポオ風の物語──

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-03-09

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