お気に入りの音楽 1〜5

お気に入りの音楽 1〜5

クラシック、昭和歌謡、ロック、フォーク、映画音楽等々。YouTubeを観て聴いていると連想ゲームのように次々貼り付けてしまいます。自分でも知らなかった歌手やエピソードを発見してます。

1 交響曲第7番

 YouTubeで交響曲7番を検索するとびっくり。延々とベートーベン。
 数十年前、最初に買ったレコードはマーラーの5番、(映画の影響)、次はベートーベンとシューベルトの『運命、未完成』。そのあとローンで買ったクラシックの名曲集にもベートーベンの7番は入ってなかった。クラシックの雑学を読んでいると、ブラームス3番の3楽章と、ベートーベン7番の2楽章はよく出てきたが。
 ベートーベンの『交響曲第7番 イ長調』の第2楽章はリヒャルト・ワーグナーが後年、曲の速度記号をとって『不滅のアレグレット』と呼んで賞賛した。

 1812年頃に制作された交響曲第7番は、ベートーベンの交響曲の中では第1番・第2番・第8番に並ぶマイナーな存在であった。ただ、バレエ音楽を思わせる明るい雰囲気を持っているため、それなりに人気がある楽曲ではあったようだ。
 そんな、ちょっとマイナーな交響曲第7番が、ベートーベンの代表曲として再認識されるようになったのは『のだめカンタービレ』の影響だ。いわゆる『月9枠』こと月曜日夜9時に放映されたテレビドラマ版『のだめ』は、上野樹里・玉木宏主演で製作され大変な人気を呼んだ。交響曲第7番はドラマ版『のだめ』の主題曲として使用され、クラシック音楽を、学校の授業でしか聴いていなかった若者層にも強く浸透するきっかけを作った。

『のだめカンタービレ』のテーマともいえる『ベト7』だが、2楽章『不滅のアレグレット』の演奏はなかったような……

 YouTubeでは、ベートーベンの交響曲7番の間に時々、ドボルザーク、そしてシベリウス、ショスタコーヴィッチ、マーラー……
 あれは? あれは? 
 あの有名な、レコードが擦り減る(?)まで聴いた、頭の中で1楽章も2楽章も鳴っていた、あの旋律。3、4楽章はない……あの名曲は?

Wie meine Liebe nie zu Ende gehen wird,
so soll auch diese Musik nie zu Ende gehen

 この五線紙への書き込み、Wikipediaでは
『わが恋の成らざるが如く、この曲もまた未完成なり」
と訳されているが、これだと„soll“が生かされていないので、ここはやはり、
 我が恋の終わらざるごとく
 この曲もまた終わりなかるべし

『交響曲第7番 ロ短調 D 759 』は、フランツ・シューベルトが1822年に作曲した未完の交響曲である。
シューベルトの代表作のひとつであり、一般的に『未完成』(独:Die Unvollendete)の愛称で親しまれ、ベートーヴェンの『運命』やドヴォルザークの『新世界より』などと並んで大衆的な人気がある。かつてのレコード業界では『運命』と『未完成』のカップリングは、いわゆる「ドル箱」として重視されていた。(Wikipediaより)

“ いったい、陽気な音楽というものが本当にあるんだろうか…僕はそんなもの、ちっとも知らない。 ”
(フランツ・シューベルト)

 交響曲第7番ロ短調『未完成』が書かれたのは、1822年のこと。フランツ・シューベルト(1797-1828)が25歳のころだ。彼は31歳で腸チフスによって世を去るので、早すぎる晩年期ともいえる時期だが、この頃から、彼の音楽はおおきく変化して、厭世的な色合いの濃い作品が生まれるようになる。“ 絶望 ”や“ 死 ”というものと向き合わざるを得ない境遇に置かれてしまったためだと推測されている。
 以前は『野ばら』や『ます』のような罪のない音楽、家庭的な音楽のイメージが先行していたシューベルトが、現在ではむしろ、この後期シューベルトの側面のほうが存在感を増しているようだ。
 実際、そうした方向性から作品をほりさげる演奏家が多くなってきていて、シューベルトは以前よりも多層的な作曲家として捉えなおされている。
 このことは、もちろん、シューベルトの研究がすすみ、再評価が高まったという側面もあるが、いっぽうで、私たちがそうした側面に惹かれずにはいられない、“ 神経症の時代 ”を生きているということも強く影響している。

ベートーベン交響曲7番第二楽章
https://youtu.be/2B9zf_rRN_4

シューベルト交響曲第7番『未完成』
https://youtu.be/gwGhB-IAJiM



https://hunt.zespri.com/?utm_source=google&utm_medium=image&utm_campaign=zesprijapan2022&utm_content=GDN_RB01=1200_1200&gclid=EAIaIQobChMI5I7i-ub6-QIVUdGWCh3PRQo5EAEYASAAEgLiWvD_BwE

https://masenoblog.com/symphony-100-schubert-unfinished/

https://inagara.octsky.net/mikansei-koukyougaku
 
https://masenoblog.com/symphony-100-schubert-unfinished/
を参考にしました。

2 娘は天才なのよ

 かつて作家・五木寛之氏に「“演歌”でも“援歌”でもない。“怨歌”である」といわしめた歌手・藤圭子。
 当時毎日のように歌番組に出ていた。私が若い頃は演歌に興味はなかったが、今YouTubeでカバー曲を聴いてみると、うまいなあと思う。

 藤圭子は幼い頃から浪曲師の父母のドサ回りに同行。旅の生活を送り、自らも歌った。勉強好きで成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために、高校進学を断念。
 15歳の時に雪祭り歌謡大会のステージで歌う姿が作曲家・八洲秀章の目に留まり、上京。八洲秀章のレッスンを受けながらいくつかのレコード会社のオーディションを受けるが全て落選。生活のために錦糸町や浅草などで母と流しをする。
 その後、作詞家の石坂まさをと知り合い、石坂まさをの自宅に住み込みでレッスンを受ける。1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。石坂まさをからRCAレコードの当時のディレクター榎本襄(現・音楽プロデューサー)を紹介されこの三人でデビュー曲を練り「藤プロ」という個人事務所でスタートした。
 以後、石坂まさをと組んでヒット曲を連発。オリコンチャートで、ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。なお、内山田洋とクール・ファイブとの共作「演歌の競演 清と圭子」も含めると計42週連続1位となる。シングルにおいても「女のブルース」は8週連続1位、続く「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録し、18週連続1位という同一歌手での連続記録を残す。
 演歌を歌いながらもアイドル歌手としての人気も集め、青少年に大きな影響力を持っていた少年マガジンなど多数の雑誌の表紙を飾った。またその人気からテレビアニメ『さすらいの太陽』のヒロインのモデルにもなった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/藤圭子

 1971年の8月、前川と藤の結婚に世間は沸いた。
「ボクが22才で彼女は19才。お互い、好きだという気持ちは当然あるけれど、実はどうしても夫婦になりたいというわけではなかったんです。ただ彼女は、当時、恩師で事務所の社長でもある作詞家の石坂まさをさん(享年71)の自宅に住み込みをしていたので、隠れて会ったりするのはなんだか嫌だね、と。だったら、一緒になった方がいいかもねっていうのが結婚に至った理由でした」
 当時は歌謡曲全盛期。藤も、前川がボーカルを務める内山田洋とクール・ファイブもオリコンヒットチャートの上位ランキングの常連だった。
「芸能界でも彼女のファンは多くて、婚約発表後に野口五郎くんから“なんで前川さんなんかと~!? ボク、好きだったのに~”って言われて、“いや、ごめん、ごめん”って謝ったこともありました(笑い)」
https://www.news-postseven.com/archives/20190822_1435839.html?DETAIL

 46年のNHK紅白歌合戦には、これまでに例がないだろうと言われた夫婦そろっての出場が決定。本番を前に自然気胸のため緊急入院した前川に代わって、前川が歌う予定だった「港の別れ唄」を藤が歌い、会場とお茶の間を沸かせた。
https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/08/22/2p_0006273106.shtml

 1972年8月12日、おしどり夫婦と呼ばれたふたりの電撃離婚会見。これもまた、「(離婚の理由は)ありません」と、掴みどころのないものだった。
「ボク自身も結婚生活を振り返ってみても“なんだったんだあれは?”って思いますもん。ただね、1年間の結婚生活のなかで、彼女には1円もお金を出させることはなかったですよ」
 それは、九州男児の意地のようなものだろうか? 「いやいや、そうじゃない」と、前川が大きく首を横に振る。
「それぐらいしかボクが彼女にしてあげられることがなかったんです。だから、ずっと後になってのことですが、彼女が“清ちゃんがいちばん優しかった”と言ってくれていると人づてに聞いた時はうれしかった。素直にね。
https://www.news-postseven.com/archives/20190822_1435839.html/4

 1974年、喉のポリープの手術を受けたことで、自身が強みと考えていた声の特徴が失われたと悩むようになり、引退を考え始める。
 1979年10月17日、RCAレコード本社に於いて引退の記者会見を開き、1979年12月26日新宿コマ劇場で引退公演を行った、その後渡米する。
 1981年7月29日に帰国。同年8月1日より「藤 圭似子」の芸名でニュージャパンプロダクションに所属し、RCAレコードからCBSソニーに移籍し、第一弾となるシングル「螢火」を発表した。
 1982年に、宇多田照實と再婚。以降、照實との間で7回の離婚・再婚を繰り返す。
1983年1月19日、ニューヨークにて娘(宇多田ヒカル)を出産。網膜色素変性症を発症し視力が徐々に低下していた頃の出来事だったことから、「我が子から光が失われないように」という願いを込め「光」(ひかる)と命名した。
 その後、光を世界で通用する歌手に育てるため、1990年から照實とともに光を連れて初めて渡米、お金が足りなくなると日本に戻って歌い、お金が貯まるとまた渡米することを繰り返した。その際にはいくつかのテレビ番組にも顔を出しており、複数回出演した『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ)では光とのエピソードを交えつつ、当時のヒット曲を歌唱している。更に1996年11月26日に出演した『徹子の部屋』では当時13歳だったデビュー前の光の歌声を紹介した。光デビュー直前の1997年まではテレビ番組出演を続けており、1月27日放送の『ふたりのビッグショー』では八代亜紀と共演、往年のヒット曲「女のブルース」など多数の曲を歌唱、八代と昔の思い出を語りあうなど健在ぶりを見せていた。
 光が15歳となった1998年に宇多田ヒカルの名で歌手デビューし、これを機に藤も再び注目を浴びた。しかし、光のデビューと入れ替わるように自身は歌手活動を封印、以降ほとんどステージで歌うことはなくなった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/藤圭子

 圧倒的な歌唱力と存在感、儚さと数奇な人生。それらをすべて背負っていたのが、歌手・藤圭子だった。

 別々の道を選択したから、歌姫が誕生した。
「もしも、今の年でお互いに独り身であったなら、もっとわかり合えたかもしれませんね。でも、そういう運命の流れがあったからこそ、宇多田ヒカルさんという歌手がこの世に誕生したわけですよ」
 1998年、宇多田ヒカルのファーストアルバム『First Love』は900万枚突破という日本新記録を打ち立てた。そんなわが娘の類まれな才能を全力で後押ししてきたのが母である藤だった。
「宇多田さんがデビューする前、1度だけ藤さんから電話がかかってきたことがあるんです。“娘は天才なのよ”って。それから間もなくして凄い歌声の若い娘がいるなと思っていたら、それが藤さんのお嬢さんだった。独特な声質がソックリで驚きました。歌っている時というよりも、しゃべっている声が。CMで宇多田さんの声が流れた時、思わず振り返ってしまいますもんね」
 芸能生活50周年を記念したシングル『初恋 Love in fall』を発表した前川。偶然にも宇多田が同月にリリースした新曲のタイトルも『初恋』だったことには心底驚いたらしい。
「こっちは“得した! 誰か間違えて買ってくれないかな?”(笑い)なんて冗談を言ってましたけど、向こうは迷惑しているかも…。でも、これも何かの縁かもしれませんね」
https://www.news-postseven.com/archives/20190822_1435839.html/4

 前川清さんは「クール・ファイブ」時代から多くのファンを持っており、同業者でも「サザンオールスターズ」の桑田佳祐さんや、「ミスターチルドレン」の桜井和寿さんなどを始め、多くのアーティストから尊敬を集めている歌手です。

 クール・ファイブの一員だった時代の初期は、常に澄まし顔で斜に構え、ほとんど喋らないと言う冷たい二枚目キャラクターだった。だが1970年代半ばに萩本欽一がフジテレビ「欽ちゃんのドンとやってみよう!」のレギュラーに起用。二枚目キャラの裏側に隠れていた大ボケな個性を引き出し、お笑いの才能も広く認められるようになった。
https://www.wikiwand.com/ja/前川清

 2013年8月22日午前7時頃、東京都新宿区のマンションの前で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。遺書などは見つかっていないが、衣服の乱れや争ったような跡がないことなどから、新宿警察署は飛び降り自殺を図ったと断定した。照實と光はそれぞれコメントを発表し、藤が1988年頃から精神疾患を患っていたことを公表した。
 喪主を務めた光は「遺言書がある」と表明、葬儀は行わず本人の遺志に沿う形で宇多田父子ら親族関係者の数名が火葬に立ち会う直葬となり、のちに遺灰も海に散骨された。その後、藤の実家の阿部家側によって、ファン有志とともに「しのぶ会」が行われた。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/藤圭子

藤圭子と八代亜紀の共演で。
https://youtu.be/_piIxSY6h7A

前川清の『初恋』
https://youtu.be/RqcjEE-7olU

3 赤色エレジー

 あがた森魚(もりお)さんの『赤色(せきしょく)エレジー』
 レコードを買ったわけでもないのに、何故か覚えている、メロディーと歌詞、歌手の変わった名前。調べてみたらまた発見が……

✳︎
作詞・作曲 あがた森魚、八洲秀章

愛は愛とて何になる
男一郎 まこととて

『赤色エレジー』は、林静一が漫画雑誌『ガロ』に1970年1月号から1971年1月号まで連載した劇画。また、同劇画をモチーフとして1972年4月25日に発売されたあがた森魚のシングル曲。

 漫画があるなんて知らなかった。赤色は赤貧のこと。
 主人公は幸子と一郎。ふたりはアニメ業界の底辺で仕事をしている。小さなアパートの一室でいっしょに暮らしているが、お金も将来の展望もない。一郎は漫画家になりたいのだが、道は開けません。幸子は親に普通の結婚を迫られている。特別な事件はなく、傷つけ合ったり、仲直りしたり……出口が見えない情況の中でふたりのせつない生活が続く。
 このマンガに惚れ込んだあがた森魚が同名の唄を作り大ヒットした。当時の大学生には幸子と一郎の世界に憧れて同棲するカップルもあった。https://gakushumanga.jp/manga/赤色エレジー/

 林静一の同名劇画に、あがたが感銘を受けたことにより作られた。そのため、林がシングル盤のジャケットイラストを描いている。

 曲が八洲の作曲した『あざみの歌』に似ていることからレコード会社側の判断で八洲の作曲と表記したが、実際は作曲もあがたが手掛けている。
 あがたは直接八洲と会っており、その際に八洲から譜面を出されて「一緒じゃないか」と指摘されるも、「別にあなたの曲を聴いてこの曲を作ったわけじゃない」と反論、押し問答をしてそのままになった。
 後日「作曲者は八洲先生になりました」と報告を受け、解せないまま終わりになったという。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E8%89%B2%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%BC

 たまたま車の中で『あざみの歌』を聴き、そのときに似てると思ったから「赤色エレジー』を思い出したのでしょう。
 オマージュだのパクリだの、よくわからないけど……

 メロディーはたった12音階を組み合わせて出来ている。
たった12音階のパズルでも『良いメロディー』と人間が感じられる組み合わせはごく僅か。
 自分が『良いメロディー』だと思って考えだしたメロディーが、既に既存曲で存在していた! なんて事も珍しくない……
 自分の知らない楽曲をパクってた……なんて、防ぎ用がありませんよね。

『無意識な盗作』を防ぐ為に使用するツールがある。
『弾いちゃお検索」はYAMAHAが制作しているツールで、メロディーの音階を打ち込むと、そのメロディーに似ている楽曲を表示してくれるというもの……
https://musicviral.jp/2018/03/11/tousaku


赤色エレジー
https://youtu.be/dKBFWMQHR58

あざみの歌
https://youtu.be/k_0Gy4j1aPU

4 トドを殺すな

 1980年放送の『3年B組金八先生』に友川かずきが出演した。曲目は「トドを殺すな」と「犬」の冒頭部分。
 金八先生が三原じゅん子演じる教え子に「かきむしられるような歌だねぇ」とつぶやいた、秋田なまりの絶叫は視聴者に強烈なインパクトを与えた。
(20世紀秘密基地より)

✳︎

 強烈なインパクトでした。
 何十年も前に『金八先生』の再放送で聴いた。冒頭部分だけなのにすごいインパクト。「トドを殺すな」というフレーズだけ覚えていた。
 検索したら……ありました。YouTubeはありがたい。すごい方なんですね。

 友川カズキ 
 秋田県出身。詩人でありミュージシャンであり画家という、様々な才能を持ち比類なき世界観で根強いファンを持つ。
「上京して飯場にいたとき、居酒屋の有線放送で岡林信康の『山谷ブルース』が流れて。歌詞で『今日の仕事はつらかった、あとは焼酎をあおるだけ』ってのがあって、これ俺のこと言ってる!って思ったんです」 
 岡林信康との出会いから独学で音楽を始めた友川氏は数年後、当時のアルバイト先で知り合ったミュージシャン・宇崎竜童氏に見出され、歌手デビューを果たした。「トドを殺すな」(1976年)

 友川氏の曲が、一躍世間に広まったのが1977年の大晦日。作詞作曲を手がけた『夜へ急ぐ人』を「第28回NHK紅白歌合戦」で、ちあきなおみが歌うことになったのだ。


 昔『11PM』っていうテレビの深夜番組があって、あれに俺何回も出てるのよ。酒飲みながらの番組だからベロンベロンで「生きてるって言ってみろ」を歌ったの。そしたら、ちあきさんがたまたまその番組を見てたらしくて。それで「ああ、この人に曲をつくって欲しい」って思ってくれたみたいで、放送が終わって東京に帰ってきたらすぐ電話が来て。事務所に行ったら郷鍈治さんがいて、ちあきさんに曲をつくって欲しいと。それで決まったのよ。https://realsound.jp/2016/11/post-10107_2.html

「楽曲を依頼されてから、ちあきさんのライブに行ったのですが、歌っている姿がジャニス・ジョプリンに重なって見えてね。とんでもない才気の持ち主でした」と、ちあきなおみから受けた感動を語る。

ネオンの海に目をこらしていたら
波間にうごめく影があった


 1977年の『第28回NHK紅白歌合戦』では本楽曲が歌唱されたが、ちあきの狂気を孕んだ絶唱は和やかだった会場の空気を一変させ、歌が終わるや否や、白組司会の山川静夫は「なんとも気持ちの悪い歌ですねえ」と台本に無いコメントを発した。

トドを殺すな
https://youtu.be/4nRo7N-Abw8

夜へ急ぐ人 ちあきなおみ
https://youtu.be/zCBV9IcSxIk

夜へ急ぐ人 志村けん
https://youtu.be/5ZB6Qlnrcyc

夜へ急ぐ人 友川カズキ
https://youtu.be/pcABag1W12s

5 SF映画の傑作『惑星ソラリス』とバッハ

『惑星ソラリス』(1972)はスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)と比肩されるSF映画の傑作で、アンドレイ・タルコフスキー監督の名を不朽のものにした。
 ポーランドのSF作家スタニスラフ・レムのベストセラー長篇「ソラリスの陽のもとに」の映画化であるが、"未知なるもの"と遭遇して極限状況に置かれた人間の内面に光をあて、「愛」と「良心」をめぐる道徳・哲学的な問題を提起。深い洞察と独特の映画表現によって、映像による思弁ともいうべきタルコフスキーの世界を構築している。そして、これまでのSF映画に見られない新たな地平を拓いた画期的作品として、多くのファンを今なお魅了し続けているのである。

[ストーリー]
 映画はプロローグ(地上の現実)とエピローグ(惑星での未来)を持つ2部作。
 惑星ソラリス、それは宇宙のかなたの謎の星で、生物は存在は確認されないが、理性を持った有機体と推測されるプラズマ状の“海”によって被おおわれていた。世界中の科学者達の注目が集まり、"海"と接触しようとする試みが幾度か繰り返されたが、いずれも失敗に終った。そして、ソラリスの軌道上にある観測ステーションは原因不明の混乱に陥ってしまっていた。

 心理学者クリスが原因究明と打開のために送られることになった。美しい緑に囲まれた我が家を後に宇宙ステーションヘと飛び立つクリス……
 しかし彼を待っていたのは異常な静寂と恐しい程の荒廃だった。物理学者ギバリャンは謎の自殺を遂げ、残った二人の科学者も何者かに怯えている。そんなある日、突然クリスの前に、すでに10年前に自殺した妻ハリーが現われた。

 彼女はソラリスの"海"が送ってよこした幻だった。"海"は人間の潜在意識を探り出してそれを実体化していたのである。妻の自殺に悔恨の思いを抱いていたクリスは、遂には幻のハリーを愛するようになるが、科学者としての使命感と個人的な良心との相剋そうこくに悩まされる……
(アンドレイ・タルコフスキー映画祭より)

✳︎

 当時友人が録音してくれたカセットテープの最後に『ソラリス』が入っていた。映画『惑星ソラリス』の曲だと思っていた。原曲はバッハのシンフォニア2番。
 映画を観たかったが、まだビデオは存在しなかった。ずいぶん経ってから観た『惑星ソラリス』は……
シンフォニアはどこに? 流れているのはバッハのコラール『イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ』
検索してもわからない。記憶違いか? 
……映画は全然理解できなかった。ビデオを借りて観たが、眠った……

 検索して得た情報。
冨田勲(シンセサイザー音楽作家、奏者)の『宇宙幻想』の8曲目は『惑星ソラリス』を観た印象に基づいて作られたという。
『ソラリスの海』(J・S・バッハ)
・シンフォニア第2番(BWV788)
・我汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ(BWV639)

ソラリスの海 冨田勲
https://youtu.be/MVF45Kn_ZYg

コラール前奏曲 『イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ』(BWV 639 )
ホロヴィッツのピアノで。https://youtu.be/cMlgyCb6vfg

 僕たちはピアノを習うとき、鍵盤と手のひらの間に鶏の卵が1個入るように指を軽く曲げて指先で打鍵するということを ピアノ演奏の基本中の基本として徹底的に鍛えられましたが、こうした基本をホロヴィッツは真っ向から無視しています。ホロヴィッツの弾き方は指をまっすぐ伸ばして指の腹で打鍵するものです。 彼の愛用の楽器である古いニューヨーク・スタインウェイの古めかしい音色と相まって、これがホロヴィッツ独特のつややかで艶めかしい音色の要因となっていることは間違いなさそうですが、この奏法で数々の超絶的な難曲で超人的な名演奏を残してきたのは、ホロヴィッツが類まれな天才であったからだということは間違いないと思います。僕たちがこんな弾き方をしようものなら、まともな演奏は1つとしてできないと思いますし、それ以前にピアノの先生からきつく注意されて徹底的に矯正されると思います。
(ピアニストの道より抜粋)

シンフォニア第2番(BWV788) グレン・グールド
https://youtu.be/_xKa1aKW3v8

お気に入りの音楽 1〜5

お気に入りの音楽 1〜5

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-12

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  1. 1 交響曲第7番
  2. 2 娘は天才なのよ
  3. 3 赤色エレジー
  4. 4 トドを殺すな
  5. 5 SF映画の傑作『惑星ソラリス』とバッハ