月が綺麗な夜にでも
02.18 お互いのしがらみを笑い飛ばせる日が来るといいね
06.21 もう見てないと思うけど完成させたよ
臆病者
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東京に降る雪が僕の肩に乗って、それが溶けるまでのわずかな時間、僕ができることはただ暖かい場所を求めてコンビニエンスストアを目指すことだけだった。
どっかの漫画の主人公はその間に、一体いくつの人を救えたんだろう。
硬くなった雪の上を、ロボットのように機械的に踏み進める。誰かのアウトソールの模様がくっきり残った硬い雪、きっと君は僕よりもずっと強かなんだな。
僕はこんなに誰かに踏まれても自分の形を保っていられる気がしないもの。
まだ新しく柔らかい雪を踏んだ時、周りの人たちの目が僕に向いていることに気づいて路地裏に忍び込んだ。彼らの視線に居心地が悪くなって下を向くと、真っ赤な僕の足が哀しげに震えていた。
しかし都会は路地裏も、一人になんてしてくれない。誰かの気配を感じ取ってスマートフォンの電源を入れると、ほんの数メートル先に体育座りをしている背の低い女の子が見えた。僕に気づいてるのか、気づいていないのか、膝を抱えたまま微動だにしない。
僅かな光を頼りに、暗い路地裏へとのそのそ歩みを進める。ビルの隙間にさえ入り込む東京の雪が、女の子の頭に積もっていく。濡れた僕の肩に雪が溶けるように、僕の影は路地裏の暗闇に溶けていった。
先程まで数メートル先だった女の子が、もう目の前だった。
「あの」
「・・・」
「失礼とは存じますが、大丈夫ですか?」
「・・・」
「今日はとても冷えるので、そんな格好でいると危ないと思うのですが」
「・・・」
「あの」
「・・・」
「失礼とは存じますが、」
「大丈夫です」
こんな真冬にこんな場所で座り込んでいるだなんて、息をしているのかさえ怪しかったが、ようやく顔を上げた彼女に生きていた、と安堵した。
こんな格好で病院や交番に行って事情聴取をされてしまったら困るので、通報はできない。しかし死体を見て見ぬふりするのもなんだか気分が悪い。
上下がお揃いのいちご柄のパジャマに、地面まで届いてしまうほどの長髪、ボロボロのピンクのサンダル、それだけ。彼女の身を包むものはそれだけだった。
「寒くないのですか」
「あなたこそ、そんな格好だと数時間で死んでしまうよ」
「数時間も真冬の夜を出歩く馬鹿なんて早々いないです」
「身寄りがあったら靴ぐらい履くでしょう」
ピンと伸ばした彼女の人差し指は、その指の名前の通り僕を指している。厳密に言えば、僕の足下だ。そういえば僕は裸足だった。靴を履いていないことを忘れてしまうくらい、足の感覚がなかった。
心做しか僕の足の先は、青紫色になっている。
「そんな色だともう腐ってきていそうだね」
「ご冗談を」
「死にたいならなにも言わないよ」
「そういえば青色って、昔は着色料などを作るのがとても難しかったらしいですよ。青色を認識していなかったとどこかで聞きました。でも人間の血管は緑や紫、青なので不思議ですよね」
余計なことを喋らないように、気をつけながら世間話を語ると彼女は黙ってしまった。僕の話に耳を傾けてくれているのだろうか。
「というかおかしいですよね、最近は死にたい人ばかりなのに昔の人たちって生きるために命をかけていたのですから。命をかけて、死んだらそこまで。運良く生きれたらそれを糧にまた生きようとする。僕たちは、命をかけずとも生きられるほど便利な世の中になってきているから、生きるか死ぬかを選べるんですよね。僕たちのような死にたい人が昔の時代に混じっていたら、死にたいと願うより先に殺されていたに違いないです」
「・・・」
「日本語って本当に面白くて、順番を変えても意味は変わらないのに一文字変えるだけで意味がとても変わってしまうことがあるんです。『そう思うよ、僕も』と『僕もそう思う』は同じ意味ですが『僕はそう思う』に変えるだけでぜんぜん違った意味になりますよね。こんな難しい文章のつくりを、学校で習うより前に僕たちは深く知っている。初めて会話ができるようになった日、僕たちはどこで覚えたんでしょう。ジャンケンの仕方は誰に学んだんでしょう。僕の名前って一体僕”の”名前なんでしょうかね」
「お兄さん、一旦喋るのやめよう」
「どうして?」
「この極寒の中、そんなに喋っていると中途半端に体力を使うよ。体を動かした方がいいんじゃないかな」
「まあ、とても賢い判断です」
ああ、と声を漏らした彼女が興味無さそうに「死にたいんだっけ」と呟いて下を向いた。彼女のサンダルから露呈している足が、青紫色だ。
「勘違いさせてしまったなら申し訳ないが、僕は死ぬ気なんかない」
「そう。じゃあ早くお家に帰らないと」
「少し散歩してから帰ろうかなと」
「裸足で散歩するんだ」
「君のように寒い中薄着だった浮浪者に、靴と上着をあげたんだよ」
面食らったように顔を上げて、そのまま固まってしまった。絵に描いたように、口を少しだけ開けて僕の方を向いている。初めて目が合ったような、しかしどこか僕のことを見ていないような、不思議な感覚に陥る。
そうだ、僕はここへ来るちょうど20分前くらいに、ダンボールに囲まれて凍えている浮浪者を見つけて、上着と靴と、靴下をあげたのだ。東京じゃあ珍しくない浮浪者にわざわざ声を掛ける者なんて少ないのか、彼の感受性が豊かなのか、泣いて喜ばれた。二十代半ばくらいの、頬が痩けた男性だった。
僕は彼にホッカイロを買ってあげようと思って、コンビニエンスストアを探していたのだった。
「僕の話はどうでもいいよ。帰るところがないの?」
「家に帰るくらいならここで死んだ方がマシ」
「東京だと少なくないよね、でも場所を選んだ方がいい」
「私は東京に住んでるわけじゃない」
「遠くからここまで、どうやって来たの?」
再び下を向く彼女の正面にしゃがんで、目線を合わせる。生憎明かりがスマートフォンしかないので、彼女の表情がうまく読み取れない。というか、彼女の顔自体が未だに認識できていないのだ。
東京じゃあ私みたいなのが少ないって知ってるからわざわざ来たんだよ。本当は北陸の方に住んでいて、お金だけ持って最寄り駅に駆け込んで、電車やバスを乗り継いでここに来たの。
凍えているのか震えた彼女の肩がひどく華奢で、僕は咄嗟に抱きかかえると小さなきゃあという悲鳴を無視して、走った。誘拐だと思われないか、と心配したが物騒な東京で浮浪者に見える二人が問題を起こしたとしても、通報する者はまあいないだろう。
僕の鉛のような足を動かして向かった先は、あの場から徒歩30分程度の古いアパートだ。クリーム色の塗装に白い屋根の、メゾネットタイプ。
105号室の玄関扉に手をかけると、鍵をかけられていないその扉は簡単に開いた。なんと不用心な。
そのまま迷わず入ると家主の靴はなくて、濡れた足で玄関を上がる。廊下を進むと右側と正面に扉があり、僕は迷わず正面の扉を開けて居間へと進んだ。僕が抱きかかえている間、最初こそ戸惑って暴れたものの、スルーをしていたらなにも言わなくなった彼女を優しく下ろす。
居間には大した家具が置かれていなくて、まるで生活感がなかった。居間に入って正面には大きな窓があり、右側には2階へ通じる階段と左側にはキッチンがある。肝心な居間の家具はマットレスだけだった。床はカーペットも敷かれていなくて、しかし雪の中裸足だった僕の足よりは暖かかった。
「ごめんね。靴、脱いでおいで」
「本当にお家があったんだね」
「ああ、わざわざ嘘はつかないよ」
そう、ここは僕の家だった。フローリングに直に座らせるのも申し訳ないので、マットレスにタオルケットを敷いて座ってもらった。
マグカップに注いだお湯を二つ用意して、僕も腰をかける。
彼女のパジャマから見える足首は、今にも折れそうなほど細かった。ロクなものを食べていないと明確なほど、だ。
「ところで質問なのだけれど」
「はい」
「間違えた、まず電気をつけてからだね」
仄見える彼女の存在に目を凝らして話をしよう、と彼女に向き合おうとしたが、普通の人間はここら辺で、というかもっと前、部屋に入ったタイミングで電気をつけるということをすっかり忘れていた。ここ数ヶ月僕はこの家で暮らしていなかったものだから、電気をつける習慣とやらが全くと言っていいほどなかったのだ。
ようやく暗い部屋に明かりが灯り、彼女の存在がよりくっきりと見えるようになる。そこで、彼女の足首の異様な白さに気づいた。
下を向く彼女の顔を覗き込んで確認する。先ほどの路地裏と同じように、しゃがんで目線を合わせた。
「な、なんですか」
「顔を確認しようと思って」
「顔・・・」
あからさまに嫌そうな反応をする彼女にかまわず、顔を覗き込む。
伏せられた睫毛に部屋の照明が当たり、きらりと光った。長く伏せた睫毛に瞳孔が隠れていて、目が合っているのかわからなかった。血色の悪そうな陶磁器のような肌が、寒さで赤く色づいていた。ほのかに赤い唇は口角まで綺麗に、きゅっと噤まれている。
格好からは想像がつかないほど、綺麗な顔をしていた。僕は思わず変な顔をしてしまって、それに気づいた彼女は眉を顰める。
「私、変な顔してる?」
「いや、顔が綺麗だなって思って」
「馬鹿にしてるのかと思っちゃった」
「そんなことしないよ」
「同級生に魚みたいって言われたことを思い出した」
「失礼な人だね、ちゃんと可愛い顔してるのに」
その言葉に、今度は彼女が変な顔をした。
魚と肉だったら魚派だとか、魚派なのにもう随分魚を食べていないだとか、そんな他愛もない話が続いた。彼女はすっかり緊張がほぐれたのか、僕が渡したお湯をなんの躊躇いもなく口にする。
そんな危機感のなさが、心を許されているのか、自分自身に無関心なのか、わからない。きっと後者に近い。
「ところで、名前を伺ってもいいかな」
「つきって呼んで」
「つき?」
「ニックネームだけどね。本名はひみつ」
「じゃあ、こうって呼んで」
「こうさん」
「ちゃん付けで構わないよ」
「ちゃん?」
「なにかおかしい?」
「男の子だと思ってたから」
「東京に女で一人暮らしだと危ないから、男のフリをするのが癖になっているんだよね」
そうなんだ、と返事をしたけれど余程衝撃的だったのか、こちらをじいっと凝視する。見つめられると不思議と照れくさく感じるもので、顔を背ける。
たしかに可愛い声しているなと思ったんだよ、と我に返った彼女が呟いた。
「つきちゃん」
「はい」
「呼んでみただけ」
「こうちゃん」
「ん?」
「呼んでみただけだよ」
ふふ、と真似をした彼女は笑った。
名前を呼びあって、お互いの名前の響きに小さな笑みをこぼし合い、沈黙が訪れた頃、わたしは彼女の肩が震えていることにようやく気づいた。
「ごめんね、寒かったよね?」
「私、元の体温が低いから寒いのに強いよ」
「体温が低いからこそ、寒いでしょ」
「寒さに溶け込める」
毛布を押し入れから引っ張りだそうとするわたしを、彼女はとめた。体温が低いからこそ、平熱以上に体温を下げてしまう方が危ないだろう。
最後に使ったのはいつだったか、押し入れの中で眠っていた毛布を彼女の肩にかける。マグカップを支える彼女の手を握ってみると、数時間前に踏みしめた雪ほど冷たかった。
フローリングにぴたりと置かれた彼女の足が、青紫色だ。そういえばこの子は、雪の中、サンダルだった。
暖房器具のないこの部屋で、どう暖めたらよいのだろう。
考えたわたしは、湯船にお湯を溜める準備をすると、彼女を持ち上げて膝の上に座らせた。想像以上に体が冷えていて思わず一度身を引いてしまったが、小刻みに体中震えていることに気づいて、毛布ごと抱きしめた。
「寒いね」
「もう暖かいよ」
「まだ体冷えたままでしょう。お風呂が沸くまでこのままでいようね」
「うん、この体勢落ち着くね」
ひと回りくらい小さい彼女の肩に顔を置いて、耳元で聞こえるか細い声に耳を傾ける。語尾が涙ぐんでいるように聞こえて、そっと頭を撫でた。路地裏で抱きかかえた時にも感じた異様な軽さと、細さと、白さが、雪のようだった。わたしの体温で溶けてしまうんじゃないかと心配になるほどに、雪に似ていた。
鼻をすする音が聞こえて、小動物に触れた時のように、胸のあたりが暖かくなる。久しぶりに愛おしいという感情になったのだ。
「なんかご飯作ろうか」
「・・・」
首を横に振った。
「じゃあ音楽でも流そうか」
「・・・」
これにも首を横に振った。
「このまま抱きしめておく?」
「うん」
彼女はそう涙声で返事をくれて、お風呂が沸くまでの間は彼女を抱きしめ続けた。時々もそもそと動くので頭を撫でる手を止めて、また動かなくなるとさらさらな長髪の毛流れにそって、撫で始める。
寝てしまったのではないか、というくらい動かなくなった時、お風呂が沸いた音がした。お風呂が沸きました、と機械的な音声が響く。
その声をなんだか久しぶりに聞いた気がするし、そういえばわたしは湯船に入らないタイプだったので本当に久しぶりなのだった。
眠りについたのか、お風呂が沸いても彼女は動かない。まるで死んでいるかのように、微動だにしなかった。このまま寝かせようと思って、彼女の肩に顔を埋め直す。ああ、なんだかいい匂いがする。
体つきがわかるくらい身を寄せて、これって犯罪なのかと一瞬考える。彼女はいくつなのか、わからないけれど見るからに学生だ。しかし、自分が犯罪者と咎められるよりも今彼女から離れる方が酷な気がしたし、彼女から香るベリーの匂いが鼻を抜けて心地よいと思った頃には、わたしの意識ももう半分なかった。そばに感じる人の温もりが眠気を誘い、数分後にはすっかり夢の中だった。
そしてお互い身を預けあい、数時間後、目が覚めてしまっていた彼女に起こされて、のそのそと起きる。変な体勢で寝たおかげで、体がミシミシと言っている。
さながら長年使われていなかったロボットが動き出す時のように、関節をゴキッと鳴らして起きると、わたしの体重で身動きが取れなくなってる彼女が困ったようにわたしを見つめていた。
「ごめん、私すぐ起きちゃって」
「そうだったんだ、たくさん寝てしまったごめんね」
「でも暖かかったから嬉しい」
「もう大丈夫?」
「うん、ありがとう」
そんなふうに感謝の言葉を述べて微笑んだつきちゃんは、わたしの腕から逃れて隣に座る。伸びきった髪の毛が彼女の動きに合わせて揺れたのち、彼女の唇に引っかかっる。血色の悪さは変わらず、むしろ暖まったことで寒さによる赤みも引いて、顔が真っ青だ。
彼女の頬に手を伸ばして髪の毛を整えながら、ご飯を最後に食べたのはいつか、と聞いた。
「東京に向かう前に食べた」
「それっていったいいつ・・・」
と言いかけた時、彼女のおでこに大きな傷跡があることに気づいてギョッとする。ふと、いちご柄のパジャマから覗く左腕にあった自傷行為の跡のようなものを思い出した。抱き上げた時、見間違いかと思って見て見ぬふりをしたつもりだったが、しっかりと覚えていた。
「そこ、おでこの傷見えるでしょ」
「うん」
「もう治りかけだけど、いつも前髪で隠してる」
「どこで怪我したの」
あ、と声を漏らしたつきちゃんにとって、この質問は痛かったのだろう。本当のことを言うか迷っているのか、少ししどろもどろに、「正気じゃない時に、窓から飛び降りた時にできた傷」と話してくれた。
「そうなんだ」
上手く言葉が出てこなくて、一瞬だけ間を空けてしまう。
「わたしも、死のうとして腕を切った傷があるよ」
情けなく自分の過去の話しかできないわたしは、それまで長袖とアームウォーマーで隠していた左腕を見せる。初対面の人間と話す時、わたしは大抵こうやって自分の弱みを見せることでしか、場を繋げない。
見せたと同時に後悔するも、彼女との不幸話には火がついてしまい、赤裸々に全てを話してしまった。
とは言っても曖昧に濁して、何故かいつも話してしまうようなわたしの過去について、しっかりと話すことはできなかった。父親が統合失調症なこと、母親がひとりで子供三人を育てたこと、自傷行為は昔からしていたこと、兄が家出をしたこと、母親には今彼氏がいること。
そして彼女もまた、肝心な死にたい理由がわからない程度の人生のしがらみしか話さなかった。
一番盛り上がったのは彼女がオーバードーズをした時に飲んだ炭酸飲料が未だに苦手だという話だった。
こんな不幸話で盛り上がってしまうほど幸せな話もできなくて、その後の彼女との会話も、なんだか幸せな話題より不幸話の方が話が続いてしまうことも多かった。
きっと、不幸な話で共感してしまうとお互いにそういった認識をしてしまうからだろう。どこか心に引っかかるものがあるものの、それで彼女が救われるならと思い自分の過去の醜態について晒していた。
それは、彼女をこの家でしばらく預かると決めてからの生活でも続いてしまった。
それが独り善がりだったということに気づくのは、彼女から離れた今、ようやくわかった。
わたしは時々仕事に出て、彼女は家で家事をするということが決まった。というより、自然とそういう流れになっていた。
北陸にいた時、母親のお弁当を毎日作っていたから料理は得意だそうだ。わたしも洗濯物や洗い物を手伝い、さながら新婚夫婦のように、二人きりで生活をしている。わたしは元々職場の交友関係などが広かったので、彼女は家に帰って来ないかと冗談めかして言うので、職場の人との関わりを減らした。
職場は少し遠く、近くの漫画喫茶で寝泊まりしていたわたしは、自宅から通勤するのがなんだか新鮮だった。
「明日は休みだから、一緒にオムライス作ろ」
「オムライス好きだから嬉しい」
「つきちゃんロクにご飯食べてないから、起きたら一緒に作って一緒に食べようね」
「こうちゃんもロクな食事してないくせに」
仕事から帰ってきた夜、そんな約束を決めて寝床に入る。彼女と少し距離を開けて眠るわたしを、彼女は寂しがった。わたしは人と眠ることが得意ではないので、何故だか意地を張って、あまり近くで眠ることはしなかった。
生活をし始めて数ヶ月、わたしの価値観と彼女の価値観が少しばかり衝突し始めていたのだった。
約束をした翌朝、わたしはすっかり寝坊してしまい、先に起きたつきちゃんは一人でオムライスを作って、一人で食べてしまっていたらしい。
「ごめんね、めっちゃ寝てたよ」
「かなしい」
「オムライス美味しくできた?」
「なんかまずかった。いつも作ってるご飯も美味しくないのかな」
「そんなことないよ」
わたしの悪い所は、一人で生活することに慣れすぎて、人と生活リズムが合わない所だった。誰かのために規則正しい生活をする、というのがどうしてもできなかったし、それをしようとするとなんだか息苦しくて続かないのだ。
彼女は彼女でしっかりとした生活リズムがあるので、その日その場でマイペースに生きているわたしと睡眠のリズムなどが合わなかった。
つきちゃんは夜眠れなくて、朝は調子が悪く起きられないみたいで、薬を飲んで調子を整えている。わたしは不眠症気味なので夜眠れてもすぐ起きてしまうし、毎日寝る時間がズレていくので彼女と同じ時間に起きることはあまりない。
それがなんだか居心地悪くて、職場の近くの漫画喫茶から通勤する生活に逃げてしまった。つきちゃんはスマホも持たず、片道切符でこちらに来たのである程度のお金以外なにも持っていない。連絡手段はないので、わたしが漫画喫茶から通った三日間は彼女との接触はなかった。
あの家に帰らないのが後ろめたくて三日目の夜、ようやく家に帰ると、彼女はいつも通り出迎えてくれた。
何事もなかったかのような態度でいてくれたので、わたしも何事もなかったかのように「ただいま」と言う。
しかし何事もなかったはずがないと、心のどこかでずっと思っていた。それが実際にそうだったと知るのは、彼女がご飯を食べても吐いてしまうようになったと知ってからだった。彼女の陶磁器のような白い肌がどんどんと不健康な色になっていき、元々細かった身体がさらに痩せ細っていった。
無力で、彼女をあの日連れて帰ったのはわたしなのにこうして傷つけてしまったという責任感のなさが嫌になる。こうして思い返している間にも、後悔の念が押し寄せて、わたしの行動が正解だったとは到底思えずにいる。
それからの生活は、今まで通り続いていたものの、突然漫画喫茶に逃げてしまうということも時々あり、どこかでわたしはこの中途半端な生活を有耶無耶にしてはいけないと思っていた。
出会ってから3ヶ月と少したった日、気分転換に大阪に旅行へ行った。いつもより浮かれて、お揃いのものをいくつか買い、同じホテルで三日過ごした。お揃いのパジャマを来たり、手を繋いで夜道を歩いたり、過去のことも仕事のことも生活のことも忘れて、ひたすらはしゃいだ。なんだか久しぶりに、わたしは自由に外で遊んだような気分だった。
大阪旅行二日目の朝、寝ぼけてわたしが彼女に抱きつくと、彼女は笑いながらその様子を動画におさめていた。とても平和で、とても幸せな三日間だったのだ。
わたしはその大阪旅行で改めてつきちゃんとの生活を大切にしよう、と心に決めたのだった。
「つきちゃん」
「どうしたのこうちゃん」
「今日も好きだよ」
というようなやりとりを何度もした。眠たくなると何度もこういったやりとりをして、あとあと恥ずかしくなる。それを可愛いと彼女は言ってくれる。
つきちゃんが望むなら二人きりの世界にだって行っても構わないし、わたしもきっとそれが幸せだ。本気でそう思っていた。
彼女は女の子らしさのある美意識の高い子で、彼女と過ごす時間は、わたしが叶えられなかった女の子らしさのあるワクワクがたくさんあり、なにも考えずに可愛いマスコットキャラクターをお揃いで買ったり、高い洋服を買ったり、新しい経験というものが多かった。わたしは昔から少女漫画より少年漫画の方が読む機会が多く、男兄弟に囲まれ、女の子らしさが欠けていたので、素直に女の子になれる環境が少しばかり楽しかった。
そうして幸せな生活を続けられていたはずだったのに、わたしは心のわだかまりがずっと解けないままでいる。
一度絡んだ糸は複雑で、簡単には解けないように。さらにそれがきっかけとなり、より複雑に絡んでしまうように。わたしの心のわだかまりは解消されることなく、ずっとなにかが引っかかり続けている。
彼女を大切にしようと思ってはや二週間、わたしは彼女にバレないようにオーバードーズをした。彼女に対する色々な罪悪感と劣等感で、食べても吐く日が数日続いた。
それは必然的な、意図的な、運命的な、そうするしかなかった気もするしそうしたかった気もする未来だった。バレていなかったのかもしれないが、わたしの様子がおかしかったのできっと何か起きていたことは知っていたと思う。わたしのこういったどうしようもない所を、可もなく不可もなくといった感じであまり触れても来ないので、どう思っていたかはわからない。
きっと一人の世界に入るのが好きなわたしを、彼女は少し遠目から見ていたのかもしれない。すごく近いようで、とても遠く感じていたのかもしれないね。
その頃からだった。わたしがようやく別れを意識し始めたのは。
ちゃんと愛せていたのかわからない
境界性パーソナリティ障害というものだと自覚したのは、二年ほど前だった。わたしは当時、彼女と似た状況に陥っていて、二歳上の女の子に依存していた。彼女がわたしに依存していたのかはあまりわからないけれど、依存しているという状況には似ている。
たびたび姿を消す素振りや、消した理由を話して来ない所、どこか言葉が嘘に思えて素直に受け止めきれない所、しかし相手に対する自信を失くしても優しくしてくれるので困惑し、気づいたらどこかに行ってしまいそうな相手を繋ぎ止めるために必死だった。その頃、母との喧嘩が絶えず、母がわたしの口をきかなくなる度にヒステリックを起こしていた。調べたところ、境界性パーソナリティ障害に一番近く、現在も治療はしていない。厳密に言うと、診断ははっきりとはされていない。
依存していた相手からの連絡が途絶えることも、ヒステリックの原因だった。そして、だんだんと相手からのアクションに対して敏感になり、相手がわたしから離れていくつもりなんだと判断するとリストカットや自殺未遂にまで至ることも少なくはなかった。
つきちゃんと過ごしている今も尚、その症状はあったのだ。
わたしが彼女を大切にしよう、と思っていたところで、彼女は突然どこかへ行き、一日ほど帰って来ない日があった。生活をし始めて最初の頃はそんなこともなかったので、わたしはとうとう彼女から離れようと決意し始めた。
それからの日々は散々なものだった。仕事へ出て、漫画喫茶に泊まり、はやく帰っても彼女が寝る直前や朝帰りで、一緒に過ごす時間は減った。寂しがっていたら、彼女に対する罪悪感が増して一緒に過ごす時間を少し増やすものの、また元通りになる。
我慢の限界になったのか、彼女が漫画喫茶へ来た日があった。そんな日は漫画喫茶を出て家へ帰り、甘やかすなどしていた____つもりだった____が、やはりどこかで本音とは到底言えない言葉ばかり吐いている気がした。このままだと本当にわたし達だめだろう。
わたしの労力も持たず、彼女の精神的安定の見込みもなさそうだったが、わたしは決定的な別れを告げるのがとても苦手だった。
いつも黙って姿を消してばかりで、それはもしかしたら二年前依存していたあの子の真似しかできないってだけなのかもしれない。
あからさまに彼女との時間を減らして1ヶ月、彼女が耐えきれず漫画喫茶に来たその日、ようやく別れを告げることができたのだった。それは、彼女と出会ってちょうど何ヶ月目かになる前日のことだった。
「お久しぶりです」
「そうだね、お久しぶりです」
「こんな時間にどうしたの?まぁ、わたしが言えたことじゃないだろうけど」
「そうだよ、こうちゃんの最近の様子の方がどうしたの?だよ」
「そっかそうだよね、ごめんね。母親との関係性で落ち込んでいたりすると人といれなくなるんだよね」
これは半分本当であり、半分嘘である。
母親との関係性が悪化すると人と上手く話せなくなる部分はあったが、彼女に対する今の接し方はそれが原因なんかじゃあなかった。
彼女といると自分を大切にできないところ、彼女といると自分を嫌わなきゃいけない気がするところ、彼女といると自分が歳上な上にマイペースな生き方をしていたのでわたしがもっとちゃんとして合わせないとと思うところ、どこかで彼女の方がわたしに真摯に向き合ってくれていないのではないかと思ってしまうところ、わたしは彼女といる時の自分すべて好きになれなかった。自分が嫌で仕方がなくて、そんなことすらすべて嫌だった。幸せだと叫んでも良いタイミングで、幸せでいることすら、ずっと不幸そうな顔をしている彼女の前だとできなかった。
なんて、すべて伝えられたら良かったのかもしれないが、もう別れるのに無駄に傷つけるなんていうのもわたしが苦しかった。彼女の前だと、相手の悪い所すらわたしの落ち度に思えて、すべてわたしが重荷を背負おうとしてしまうし、それはどこか彼女が普段言っていた女友達の悪口の対象になりたくないという意識もあった。余程のことがない限り悪口を言っていないような気もするので、わたしの思い込みだったのかもしれない。そして、この小説でもそんな悪い所が出ている。わたしははやく書き終えて、こんな自分でいる時間を終わらせたい。
君が悪かったとは思わない、すべては否定しない。君が君らしく生きていて愛してくれる人だっているのだろう、わたしはその対象から外れていたってだけだから悪口はあまり言いたくない。だけれど、君とお互いに不幸話をした時間はわたしにとって傷の舐め合いにしか見えなかったし、位置情報やログイン時間などを見て確認するのはとても不健全だと思ってしまうし、常に自分の不調だけを呟く通話は楽しそうだとは思えないし、自堕落な生活を許し合うのは恋人と言えなかったとわたしは思う。わたしはそういう価値観の人間なので、心中なんて言葉とは程遠いし、しかし流されやすいので共依存的な状況に陥ることも簡単なわかりづらい人種なのだ。一緒に過ごした5ヶ月間、楽しませられた自信はみじんもないのに、わたしが幸せって言葉を連想させられないような予期せぬところで幸せって感じてくれてありがとう。わたしのことを引きずっているのは、単に共に過ごした時間が長かっただけだからだよ。
大丈夫だよ、こんなに長文の小説を書き終えられるくらいわたしは君に対して責任を感じているから、君に興味なかったわけでもないし価値観が違う人間でもちゃんと好きになれる所はあったんだよ。わたしがTwitterを切った理由は色々あるけれど、別に例の約束を放棄しようとした訳でもないしね。もう前を向き始めている頃か、まだ次の道へ行く最中か、行く先がわからず自暴自棄になっている頃か、わからないけれど、わたしが想像できないほど遠い未来まで君が生きていることを願うよ。
月が綺麗な夜にでも
ちなみにぶっ続けで書いたりして読み返してないから変なところもあるよ、直接言えなかったことが多かった元カノへの話。まぁたぶん、わたしを嫌いになった頃にこれを読むと思うからどうだっていい