ポチさん、寅さんになる

 優しい音が耳朶を微かに震わせました。
徐々に近付いて来ます。
ゆっくり、ゆっくり、まるで落語かコントに登場する昔ながらの泥棒さんがご披露するような抜き足差し足、できる限り音を立てないために、柔らかい脚捌きでこちら側に歩みを進めてきます。
しかし、僭越ではございますが、それは無駄な努力というモノですよ、お嬢様。
私を驚かそうとして、慎重の上にも慎重を重ねて歩いてくるカナコさんのお姿が、眼を閉じていても鮮明に脳裏に浮び上がります。その忍ばせるような足音とカナコさんが生得的に身にまとう芳香だけで全てを察することが、私にはできるのですから。
 さてさて、私の推測が正しいのかどうかを確かめるためにお嬢様が気付かれない程度の薄さで目蓋を持ち上げました。鋭い刃物で切り取ったような一筋の視界の中には・・・
 正解です。
私に接近しつつある人物は、このミヤウチ家の次女であるカナコさんでした。
 彼女の計画に乗っかってあげるべく、私は素知らぬ顔で再び眼を閉じたのでした。
カナコさんは、一体どのような方法で私をビックリさせるおつもりなのでしょうか?
 あ、申し遅れました。
私、ポチでございます。
ミヤウチ家でお世話頂いております、しがない雑種の老犬でございます。
私の記憶が確かならば、こうしてお会いするのは1年振りですね。
お久しゅうございます。
お見受けするに息災であられるようで、とても幸いです。
 あなた様と同様に私も齢を1つだけ重ねまして、当年とって14歳となりました。
人間に換算すると、そうですね、80歳は軽く超えているのでしょうか?
しかしながら、まだまだ元気でございまして、彼岸からのお呼びが掛かってくる気配など微塵もありませぬ。吻に白いモノが増えましたが、足腰の方は未だ弱ることもなく、散歩も全く苦になりませぬ。まぁ、若かった頃のように散歩にお連れ下さるミヤウチ家の方々を引っ張り回して翻弄する事こそ無くなりましたが。
 おっと、カナコさんがすぐ傍に。
一体何を為さるお積もりなのでしょうか?
まさか無邪気な子供のように『ワッ!!!』とか言いながら私の身体を揺さぶって驚かそうなどとお考えなのではありますまいな。そんなことでは子供は子供でも、昭和の子供でございますぞ、カナコさん。今はもう既に、平成を通り越して令和の時代なのですから。
「わっ!!!」
・・・・・・
 私の想定が見事に当たってしまいました。
本当にやらかすとは・・・
「ねっ、驚いた?」
 ここはひとつ、素朴な対応で驚いた素振りを装うことにしましょうかね。
いえいえ、これは決して阿諛追従(=おべっかのこと)ではございません。
飼い主の精神を労わるメンタルケアの一角でございます。
 カナコさんを見上げながら、抗議に聞こえないように出来るだけ静かな口調で告げます。
と、言っても口蓋から漏れるのは『ハフハフ』という空気の噴出音だけなのですが。
「おぉ、お嬢様。私、非常に驚きましてございます。心臓が止まるのかと思いました」
「なぁに、ポチさん、その話し方は?
『わたくし』だなんて。
まるで山の手のおジイさんみたいな言葉遣いじゃない。
いつもはさ、もっと下町っぽくて『あっし』とか『おいら』とか言ってるのに。
こういうの、何て言うんだっけ?
あぁ、そうそう、べらんめぇ口調のクセに。
どうしたの?
変なもの、食べた?
だいじょぶ?」
 !
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 えっ!?!
「お嬢様、私の言葉が分かるのですか?」
「分かるよ。
いつもお散歩の時とか、いっぱい喋ってるじゃん。
何、おかしなこと言ってるの?
ホントに変なもの、食べた?」カナコさんは『ん?』と小首を傾げました。

 一人と一匹でお馴染みの公園へとやってきました。
私たちはこれも定席である、四角い敷地の西側の柵沿いにポツンと1つ設置されている木製のベンチへと歩み寄りました。
 腰を下ろすとカナコさんはスコップやウンチ容れなどの散歩用具が入ったバッグを自分の傍らに置きました。
 私は、というと、これも常々やるように、彼女と向き合う格好でお座りします。
「あー、凄っくっ、いい天気っ!」
天を衝くような勢いで両腕をグウッと伸ばしながらカナコさんが言いました。
彼女が背伸びをすると、その伸びやかな肢体がより一層延長されたような錯覚に陥ります。
「チョット寒いけど、今日はよく晴れたよね」
「そうでございますな。結構なことと存じます」
 カクッと軽くずっこけながら「ねぇ、その話し方、止めない?
何か、調子狂っちゃうんだけど?」とカナコさんが当方に訊いてきました。
「そう申されましても、私の喋り方はこう、なんでしょうか、生まれつきのモノでして。
今更、江戸っ子口調に変更しろ、と仰いましても、そこは如何ともし難いと申すほかございません」
「えぇ? でもいつもは『てやんでぇ』とか『おう、聞きな、嬢ちゃん』とか、じゃん。
チャキチャキっな下町言葉、って言うんだったっけ?
何で今日に限って超馬鹿丁寧な『お嬢様』な訳?」
「いえいえ、私、その様な伝法な口のきき方はこれまでの生涯においてただの一度も使ったことはございませんが・・・」
「嘘っ!」
「申し訳ありません。嘘ではございません。お嬢様、何か勘違いを為さっておいでなのではありませんか?」
「・・・うーん・・・」カナコさんは数秒間、私の顔をジッと見詰めた後『フッ』と息を1つ吐き出すと「ま、いっか」と呟きました。
彼女の端整な相貌には一切『納得した』という文字は浮んで来てはおりませんでしたが。
 しかし相変わらず壮麗なお顔をしておりますな。
ま、お顔だけではありません。
頭の天辺から足の爪先まで、神様が全力でタクトを振ったかの如くの容貌を為さっておいでです。毎日拝見いたしておりますが、会うたびに新鮮な驚きに襲われる私でございます。
 今日のカナコさんは秋めいてきた気候に合わせたコーデをお召しになっております。
栗色のフード付きフィールドジャケット、亜麻色のロングスリーブ起毛クルーネックのTシャツ、身体にピッタリと密着した白い細身のコットンパンツ、そして足許は白鼠(シルバーグレイ)のナイキのスニーカー、といった、ほぼ完璧な秋の出で立ちでございます。
「今日も素敵な装いですね、お嬢様。本当によくお似合いでございますよ」
「まだ慣れないな、その山の手口調には」カナコさんは『ふふっ』と微笑みました。
 いえいえ、この状況に未だに慣れていないのはコチラの方でございます。
私の言葉がカナコさんに通じるなど、夢にも思わなかったこと、まさに驚天動地の悸々瞠若でございます。本当に夢なのではありますまいか?
「ね、あそこ、綺麗だね」
カナコさんが公園の北西部、つまり裏鬼門に当たる場所を指差しました。
 その一角には色とりどりの花々が植えられています。
秋桜(コスモス)に彼岸花、姫女苑、マルバルコウ、そして矢車菊など。
誰か、園芸好きのご近所の方が世話を焼いておられるのでしょうか、非常にキッチリと整備されております。園芸品種だけではなく、雑草と呼ばれてしまう種も植えられていて、丁寧に育てられておるように見受けられます。都会の片隅などでヒッソリと咲く雑草を、このように手厚く扱うその姿勢に私、好感を抱きます。
ま、斯く言う私も雑種の野良犬上がりでございますからな。
しかしながら『粗にして野だが卑ではない』を念頭に、毎日を過ごしておる心算用です。
「ね、ポチさん」
「何でございましょう、お嬢様?」
「イヤだなぁ、その口調はまだ良いとしても、お嬢様は止めて」
「承知つかまりました。しかし、それではどのような呼び方をすれば?」
「カナコ、で十分」
「それでは、何でございましょうか、カナコ様?」
「うーん・・・『様』禁止!」
「判りました、カナコ・・・さん」
「うーん」カナコさんは首を捻って右斜め上を見ながら「ま、いっか、それで」
「それで、何のお話でしょうか?」
「ね、ポチさん」
「はい」
「あのさ『green thumb』って知ってる?」
「緑の親指、でございますか?」
「そう」
「緑の親指『green thumb』とは、別の言い方を『green fingers』
どのような植物でも繁茂、立派に育ててしまう、植物栽培の天才でございましょう」
 カナコさんは『何だ、知ってるのか』という表情を浮かべ「つまんない」とポツリ。
そして「昨夜、英語の勉強してたら、その単語を発見したんだ。
あそこの花壇を見てたら、ポッと記憶が蘇ってきたから、訊いただけ」
「なるほど。
米国留学の為のお勉強でございますか」
「うん。
TOEFLはフルスコア、もう獲れたし、
SATもこの前2350ポイント獲ったから、今度は願書と小論文を送らないと。
推薦状は、パパのお知り合いの東工大の先生と、ロックフェラー大学で准教授をされてる海部さん、ポチさん憶えてる?
海部さんのこと?」
「カナコ様・・・さんのお父様であられるアキヒコ様のご友人ですね」
「そう、海部さんが推薦状を書いてくださったんだ」
「書類審査に通れば、次は面接ですな」
「・・・通れば、ね」
「通りますとも、カナコ・・・さんならば」
「だと、いいけど」カナコさんは祈るような顔付きで抜けるように澄み渡った秋の碧空を見上げて「ね、英語の単語で一番長いヤツって知らないでしょ?」
「確か『pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis』でしたか、塵肺症のことですね」
 『えっ?』という表情を浮かべながらカナコさんは私をマジマジと見詰め、そして
「ポチさん、何でも知ってるんだ、まるで」チコちゃんみたい、と吐息を漏らしました。
 いけません。
これは些か不味い事態に陥りつつあるようです。
ご主人様の精神状態を掻き乱すような行為は飼い犬としてあるまじき失態でございます。
「カナコさん」
「なに?」
「あそこをご覧ください。お花が綺麗ですよ」
 何たる姑息な手段!
しかしカナコさんの気を逸らさなければなりません。
「そうね・・・やっぱり、誰かがお手入れしてるのかな?」
「緑の親指の持ち主かも知れませんな」
「ホントに親指が緑色だったら、面白いね」カナコさんの口角が上がります。
 ふぅ、作戦成功。
「何だか、夏の頃に比べて、花の色が物凄く綺麗に思うんだけど」理由とか知ってる?
とカナコさんがお尋ねになられましたので、彼女の精神を傷付けないように細心の注意を払いながら答えます。
「一般的に言うと、花の色は温度が高過ぎると淡くなってしまうのだそうです。
適度な温度帯で昼夜の温度差が大きい時により色濃く、そしてより鮮やかになるのだとか」
「ふーん」
「ここ最近、季節が進んで寒さが忍び寄ってきましたから、それで綺麗になって来ているのかも知れませんな」
 フーンとカナコさんは一応感心した態で息を吐き、私に質問を1つ投げ掛けました。
「ね、『人の創る芸術は、すべて自然の模倣だ』
コレって誰が残した言葉だか、知ってる?」
「さぁ、トンと見当も付きません。
詩人の言葉のようですから、ランボウか中原中也、辺りでしょうか?」
「さぁ、私も知らない」
カナコさんはそう告白なされた後、私の顔をジッと凝視し、突然『ぷっ』と噴き出すように笑い始めました。
 よかった。
ご気分を害する事から回避できました。
だから、私も安堵の微笑を浮かべることが出来たのです。
 本当に、よかった。

 カナコさんはジャケットのポケットからiPhoneを取り出し、白く細長い人差し指に優雅な舞をそのタッチパネルの上で踊らせると、すぐに軽やかなメロディーが流れ始めました。
「ジュピター、ですな」
 私がそう尋ねるとカナコさんは「うん」と頷きました。
「昨日ね、カナエちゃんに会ったの。
憶えてる、カナエちゃんのこと?」
「勿論でございます。
お嬢・・・カナコさんの同級生であられましたな」
「そう。
中一から高校の途中までずっと一緒だった、友達。
昨日ね、バイトから帰って来る途中でバッタリ会ったの。
昔みたいに普通に喋り掛けてきたから、私も、昔そうだったように、普通に喋れたんだ。
で、いっぱい、ホントに一杯、色々お喋りした後で、カナエちゃんがポツッと、言ったの。
『ゴメンなさい』って。
『本当にごめんなさい』って。
『あの時、高校でイジメがあった時に、全然助けられなくて・・・ゴメンなさい』って。
『私、ビビッてたの』って。
『もし私がカナコちゃんを庇ったら、私もイジメられるようになるかもって』って。
『怖くて、怖くて、身体が竦んじゃって、動けなくなっちゃったの』って。
『でも、私・・・卑怯だった。自分のことしか、考えてなかった』って。
『私は・・・今、あの時の自分のことをクズ以下だったって、思ってる』って。
『だって、カナコちゃんを見捨てたんだから』って。
『友達を・・・裏切って・・・大切な友達を見殺しにしたんだから』って。
『何もしなくて・・・傍観してたって事は・・・それはカナコちゃんを・・・いじめてたのと・・・同じなんだって・・・それに気付いたの・・・』って。
『私・・・ホントにクズ以下だった・・・バカ・・・だった』って。
『だって、ホントに大切な人が誰だか、分からなかったんだから』って。
『赦して下さいっては、私からは絶対に言えない』って。
『でも、もし、いつか将来、このバカな私を赦しても良いって日が来たら、カナコちゃんの方から話し掛けて欲しい』って。
カナエちゃん、泣いてた。
物凄く、泣いてた。
話してる途中でしゃくり上げちゃって、そっから何言ってるのかサッパリ分かんなかったくらいに、泣いてた」
 カナコさんは私の顔をジッと見詰めながら喋っていました。しかしその視線は私の顔の上に焦点を結んでいるのではなく、もっと違う、遠くにある場所に跳躍しているように、私には思えたのです。
「カナエさん、慟哭なさっておいでだったのですね」
 カナコさんはコクッと1つ首肯して「私、カナエちゃんを赦そうと思うの。
ううん、違う。
赦すとかじゃない。
だって私、もし私が反対に彼女の立場だとしたら、もしかしたら同じ事、してたかも知れないし。
赦すとか赦さないとか、そういう問題じゃないんだと、思うの。
私、カナエちゃんともう一遍、ホントの友達として付き合いたいの。
私がカナエちゃんと仲良くしたいから・・・だから・・・」と、最後は言葉を飲み込んでおしまいになりました。カナコさんの両頬を、空知らぬ雨が伝い、流れ落ちていきます。
 私は無力でした。
カナコさんを慰撫するための何の言葉も持ち合わせていませんでした。
 私の心に浮んでいたのは、フランスの詩人の一遍・・・

『Il pleure dans mon coeur 巷に雨の降る如く
comme il pleut sur la ville; 我が心にも涙降る
Quelle est cette langueur かくも心ににじみ入る
qui pénètre mon coeur?』 この悲しみは何やらん
(Il pleure dans mon coeur. 巷に雨の降る如く:Paul Verlaine作:堀口大學訳)

 ・・・無力でした。
これほどすぐ近くに密接しているのに、私とカナコさんの間には仄暗い太平洋を横断するくらいの距離があるようでした。しかし、この重量級の沈黙を散逸させるために、危険を冒して私は井戸に誘い水を注ぐことにしました。
「カナエさんとはどのようなお話をしたのでしょうか?」
 カナコさんは『クシュッ』と鼻を啜ってから「あのね、カナエちゃんってバイオリンを小さい頃からずっと習ってるじゃん。
で、私にこのモーツァルトのジュピターの秘密を教えてくれたの」
 第4楽章に散りばめられたジュピター音型と4つの旋律のことでしょうか?
しかし私は何も言わず、ただ黙って彼女の言葉の先を待ちました
「ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの交響曲第41番K.551、第4楽章にはジュピター音型って小さな音節が使われてるんだって、教えてくれた。
サルファ法でいうと『ド・レ・ファ・ミ』
コードでいうと『C・D・F・E』って音型。
モーツァルトの発明でもなくって、モーツァルトだけが用いたモノでもないらしいんだけど。ハイドンとかも意識してこの音型を使ってるんだって、教えてくれた。
なんか、ヨーロッパで昔から使われた音型なんだって。
で、カナエちゃんが言うには、結局モーツァルトの交響曲41番ジュピター第4楽章で、モーツァルトがこの音型を、上下逆さまにしたり、前後を反転させたり、そこからまた上下を引っ繰り返したりして、物凄く複雑に組み合わせて曲を完成させたんだって。
それでその作品の出来栄えが物凄く良かったから、ロンドンかどっかの街で誰ともなく、この音型のことを『ジュピター音型』って呼ぶようになったんだって。
私、この曲は知ってたけど、そういうのは知らなかった。
でもカナエちゃんが教えてくれて、2人で一緒にiPhoneで聴いたら、ソッから私、凄く、物凄く好きな曲になったの。
前はブラームスとかベートーヴェンとか、ビーフシチューみたいな重たい曲が好きだったんだけど、今は透き通ったお吸い物みたいに軽い、スッキリした作品が好き」
 なるほど、そういう経緯でしたか。
では、今度カナエ様と再会なさる時には第4楽章に秘められたもう1つの仕掛けである、4つの、あぁ、音楽研究者によっては5つと見做すそうですが、それらの旋律等についてご教授下されるとよろしいですね。
因みに、ブラームスの交響曲は全部で4つですが、これら4つの調性を順番通りに並べてみると『C・D・F・E』とジュピター音型になることも教えて頂けると良いですな。
 しかし私は微笑むだけで、自分の考えていることを口に出すなどは全くしませんでした。
口許に微笑を携えながらただ静黙し、彼女の告白を1つ残らず聞き逃すまいと両の耳たぶをそばだてているだけでした。
 iPhoneからウィーンフィルの、バイオリンの弦の優しい響きが流れていました。
スピーカーから音符たちが飛び出して空中でジュピターの舞踊をダンスしているのが眼に見えるようでした。

 第41番は淵叢へと集結した音たちが非常に複雑な混成を為しながら一点へと収斂していき、身を翻すようにサッと終了しました。
誰でしたかねぇ、モーツァルトの作品を『疾走する悲しみ』とか『透明な悲しみ』と形容したのは?
しかしジュピターは彼の最後の交響曲に相応しく華やかで濃密、豊艶で絢爛豪華、きらびやかで祝祭的、まるで南方の壮麗でオーケストラ的な夕暮れのような輝きでした。
ウィーンフィル管弦楽団、流石でございます。
全く、後味がよろしい。
 カナコさんはiPhoneをポケットに仕舞うと再び私に話しかけました。
「今日の晩御飯はね、新居の伯父様が送って下さった浜名湖の車海老がメインなんだって。
凄っく楽しみ!
伯父様からのお魚って全部美味しくて、今まで一度も外れが無いんだもん」
「そうですか。
それは何よりでございます」
「でも、ポチさん甲殻類はダメなんだっけ?」
「はぁ、イヌは甲殻類、食べない方がよろしいのです。
甲殻類や魚介類にはビタミンB1を分解する酵素が含まれておりますので。
そのまま生で食しますとビタミンB1欠乏症に罹ってしまうのです。
適切な加熱処理が施されておれば大丈夫なのですが、やはりカチコチになるまで火を通されたエビは本っ当に美味しゅうございませんからね。
因みにネギもチョコレートもNGなのでございます」
 カナコさんは「ふーん、何か可哀想」と囁くように仰いました。
「いえいえ、サチエ奥様がいつも腕を振るって下さるお料理、大変美味しゅうございます。
毎日毎日、感謝しながら頂いております」
「ママが作る料理、美味しいし、栄養豊富だけど、そんな大層な料理でもないと思うけど」
「そう思えることは、カナコさんの意に反するかも知れませんが、何にも代えがたい幸せ、難しい言葉を使うのなら『僥倖』でございます。
幼少期に与えて貰った食べ物がどういうモノだったのか、
また、どういうシチュエーションでその食べ物を頂いたのか、
会話はあったのか、またあったとしたら交わされた会話はどのような内容だったのか、
毎回、満足のいく質、そして量は十分だったのか、
食べ物は、温かいモノは温かく、冷たいモノは冷たい、
そういう食べ物に関する事柄が、子供の人格形成に大きく関わってくるのは否定できない事実でございます。
あぁ・・・
よろしゅうございましたね、カナコさん」
「?」
「カナコさんが、そしてサナコさんも、ミヤウチ家の子供としてお産まれになって、非常に幸運でした」
 カナコさんは、口を開きませんでした。
ただ1つ、コクンと首肯した、だけでした。
「私も、ミヤウチ家に引き取って頂けることになりまして、本当に幸運でした。
このように老犬になるまで命を紡ぐ事ができました。
あの時、カナコさんと出会わなかったら、もしカナコさんが私を見付けて下さらなかったら、当の昔に野垂れ死にをしていた事でしょう。
本当に有難うございました。
カナコさんは、私の命の恩人です」
「やだなぁ、大げさだよ、ポチさん」
「いえいえ、決して大袈裟ではありません」
 改めるようにもう一度、真正面から私の顔を見据えようと、カナコさんはクイッと首を引きました。黒鹿毛色の髪がサラッと肩口を舐めます。
「時々、考えても仕方のないこと、考えちゃうんだ」
「どのようなことでございましょうか?」
「人は、産まれる時に、どうして産まれてくる家族を選べないのかなぁ? って」
「そうですな」私は左斜め下の、黒々とした地面に視線を落としながら暫くの間、何をお話ししようか迷い、再び顔を上げて「オーストラリアの先住民、アボリジニの伝説にこうあります。
この世界の至る所に、いずれ生まれ出る子供の精霊が住んでいて、お目当ての女性の体内に入り込むと、その女性は妊娠、つまり子供を宿します。そして出産の後、2~3年の準備期間を経てからようやく赤ん坊は精霊から人間へと変身するのだそうです。
また、人は死ぬと精霊に戻り、死霊『メルレ』として森や林の中に住むようになるのだ、と彼等は、アボリジニは考えているようです」
「ふーん」カナコさんは一瞬だけ物思いに耽溺するような表情を浮かべましたが「じゃ、さ、私もママを『この人だ!』って選んで、産まれてきたのかな?」
「アボリジニによれば、そうでしょうね」
「だとしたら、精霊の時の私って相当に選択眼が優れてた、って事になるね」
「そうでございますな、非常にお眼が高かったことと私、存じ上げます」
「ふふっ」
「ハハッ」
「ふふふっ」
「ハハハッ」
 そして2人の間で何かが爆ぜたのでしょうか、その後しばらくの間、私たちは顔を見合せながら静かに笑い続けました。

 ひとしきりの朗笑の後、カナコさんが「あ、忘れてた」とジャケットのポケットを軽くまさぐって中からプックリと膨らんだ白い紙袋を1つ取り出しました。
 結わえてあった赤いリボンをほどいて口を開けると美味しそうなクッキーの登場です。
「はい、これ。今日のお土産」
「何でございましょう?」
「パンプキン・クッキーだって。工藤さんが『持ってって』って」
 おお、出ました。
工藤さんとはカナコさんがアルバイトを為さっているパティスリーのオーナーパティシエでございます。毎日のように賞味期限切れ間近のイヌ用のクッキーなどを私にご下賜くださいます。誠に有難いことです。それでは、失礼をば・・・
「あ、ダメだよ、ポチさん。
もっとよく噛まないと消化に悪いよ」
 そんなの無理でございます。
私はイヌ。
どうしたって犬食いになるのは必然。
ハグハグ、食べるのはイヌの宿命、そういう星周りの許に生まれ落ちたのでございます。
「もう、仕方無いんだから」
カナコさんが諦念を全く含まない口調で愚痴りました。
 するとカナコさんはもう片方のポケットから極小のサーモス製保温ボトルを取りだし、ハグハグしている私と呼応するようにクピッと一口、何やらを飲み下しました。
 咀嚼をしながらカナコさんに注目する私に気付くと、彼女は、
「ん? これ? アールグレイ。さっき淹れたヤツ。ポチさんも飲む?」
「いえいえ、イヌにカフェインは御法度でございますゆえに」
「そっか。色々厳しいな、イヌって」
「Here’s looking at you, kid.」
「何て意味?」
「直訳は『あなたを見詰めながら、乾杯』です。
ですが有名な映画の字幕では『君の瞳に乾杯』と訳されています。
実に名訳ですな」
「何てタイトルの映画なの?」
「Casablanca、日本でのタイトル名も同じ『カサブランカ』でした。
Humphrey Bogart(ハンフリー・ボガート)がIngrid Bergman(イングリッド・バーグマン)に言う台詞でございます」
「その映画、おもしろい?」
「さぁ」
「さぁ?」
「現代の感覚では当時のあの雰囲気を感じ取るのは、特にカナコさんのようなお若い女性では少しだけ難しいのかも知れませんゆえに。ただ私は大変面白う拝見いたしましたけど」
「んー、後でググってみるよ。でもさ・・・」
「でも? と申されますと?」
「シチュエーション的に立場が逆だよね」
「?」
「その台詞は私がポチさんに言わなきゃいけない、そういう立ち位置じゃん、私たち今」
「立ち位置を考慮に入れますと、カナコさんが言われました通りでございますが・・・」
「が?」
「この台詞は何時の世においても常に男性が女性に対して使うモノでして、ハイ」
「それって、とっても性差別的な発言」
「誠に申し訳ございません。
しかし、こういう事柄にまで『差別』を持ち出してこられては、些か息苦しく存じます」
 カナコさんはサーモスを傾け、もう一口をクピッと飲むと、ニヤっと産毛ほどの邪気を含んだ小悪魔的な微笑を口許に浮かべて「冗談」と言ってからスッと真顔に戻って「ね、差別って何だと思う?」とお尋ねになられました。
 これは些か答えるのに困難なご質問でございますな、お嬢様。
「誰かが『差別』をこのように定義しております。
差別とは、その人自身の本質を見極めることを放棄し、その人の努力によって変えることが不可能な物事、例えば出自、性別や肌の色などの属性、事故や遺伝的要因による身体的特徴などを材料として類型化そして分類化すること。そして同時に精神的または物理的若しくはその両面においてその人を排除、隔離、迫害、疎外、侮蔑の対象とする事、である。
尚、この概念において憎悪や不快等の感情が伴う事は必要条件ではなく、付随しなくても差別は成立する、と」
「うーん・・・じゃ、その人の考えだと・・・
例えば『不快だな』って感じただけじゃ『差別』にはならないってこと?」
「その通りでございます」
「いまいち納得が行かない・・・腑に落ちないってか、理解に未だ十分及んでないな」
「では、どうでしょう。
次のようなシーンをご想像くださいませ。
カナコさんが横浜駅の通路を高島屋側から水上バスの乗り場の方へと歩いていると、通路脇に1人のホームレスの方がドデーンと横臥して午睡を愉しんでいらっしゃる場面を思い描いてください」
 カナコさんは『ん?』という何か難しい表情を浮かべ「別にホームレスのおじさんは、昼寝を決して楽しんではない、と思うけど」とその場面を脳裏に浮かべた様子でした。
「その時、カナコさんはどのようなお気持ちを抱かれるのでしょうか?」
 小首を傾げ、数十秒思考を巡らせた後、カナコさんは「おじさんに悪いな、って思うんだけど、やっぱり不快に感じちゃうかも、知れない」と正直に心情を吐露いたしました。
「そうでしょう。
それがホームレスの方々に対して人々が示す、極めて普通の反応です。
しかし、この状況下では『不快である』と感じている人の方が差別者で、微睡の中にいるホームレスのおじさんが被差別者に相当します。
逆なのです、通常とは」
「・・・なるほど、そういうことなんだ」
「そうです。
この例のように立場的な状況が逆の場合でも成立するのです。
そして、憎悪や不快などの情動が伴わなくて立派に『差別』は成立します。
状況次第では、何もしない、ということも『差別』足り得ます。
逆に『不快』は『差別』に対する必要条件ですらなく、ゆえにその十分条件足りません。
だから『不快だな』と思っても、ソレが即座に『差別』に繋がると見做すのは非常に短絡的な行為だと言えるのでしょう」
「そっか」
やっぱり、よく考えなくちゃダメだな、とカナコさんは自分に言い聞かすように独りごちました。ベンチに座ったまま沈思黙考に入るその怜悧なお顔立ち、非常に魅力的でございます。

「すっかり暗くなってきちゃったね」さ、帰ろ、とカナコさんは腰を上げました。
「そうですな。
秋の日は釣瓶落とし、と申す事ですし」
「ね、ポチさん」
「何でしょうか?」
「その『つるべ落とし』の『つるべ』って笑福亭鶴瓶の『つるべ』のことかな?」
「!」
 また、ですか?
何か毎年同じ会話を交わしているような気がしてならないのですけど・・・
「いえ、違います。
井戸の水をくみ上げる為に縄を結わえ付けた桶、または竿を付けた桶のことでございます。
秋の日の入りの早さを、手を離すや否や井戸底めがけてピューッと急速落下していく釣瓶の速さに喩えた諺(ことわざ)です。
大体、あのハゲ散らかした鶴瓶師匠が『アーッ!』とダミ声で断末魔の絶叫を上げながら井戸底へと真っ逆さまに転落していく光景を脳裏に浮かべれば、そんな事が諺になるなど思わないと、私は思うのですが・・・」
「・・・そりゃ、そうだ」カナコさんはククッと小鳥のような笑いを漏らしました。
 今、鶴瓶師匠の井戸への転落事故、想像なさったのでしょう?
 蒼穹を仰ぎ見ると、セルリアンブルーの一碧だったのが東に向うに連れて浅縹色、濃縹色、群青色、そして搗色(かちいろ)と黒さが増すグラデーション。西の方角は蜜柑色、バーミリオン、緋色、そして真紅へと赤の濃厚さが増す勾配がきらびやかでした。
 美しい。
自然は美の宝庫です。
「さ、行こ」
「はい、お嬢さ・・・カナコさん」

 ポタポタと1人と1匹でのんびり、帰宅の途に就きました。
所々の決まった場所に私はマーキングを施しながら、ですが。これはもう習い性(?)でございますね、イヌという生物の。
 カナコさんが、生得的行動を終えた私を見降ろしながら声を掛けてきます。
「ね、ポチさん」
「何でしょうか?」
「引き籠もってた時からずっと考えてたことがあるんだけど・・・」
 私は先を促すように軽く頷きました。
 カナコさんは「あのさ、人は死んだらどうなるのかな?」とこれまた返答に窮する問いを投げ掛けてきます。
 私は道端に残された他のイヌたちや野良猫の匂いなどを嗅ぎつつ、彼女の、人間としての根源的な問いの答えを探しました。それはまるで輝ける闇の中で陰翳を見つけ出そうとする児戯に等しい行為でした。結局『どう答えたモノか?』と手探りで最適解と思われるモノを提示しようとしました。
「カナコさん。
『私たちは皆、終身、独りぼっちでこの皮膚の中に閉じ込められるという禁固刑の判決を受けている』と誰かが言っておりました。
また別の人はこのように表現しております。
『人生は水の流れであって海へ向かう。
海は死で、そこで終わる。
最も権力を持つ者よ。
お前もそれを受け入れ、消えて行かなければならない』
人に限らず、生物は一旦生まれ落ちたならば必ず死ぬ時を迎えます。
どんなに権力を持っていたとしても、
どんなに巨万の富を掌中に収めていたとしても、
人には必ず最後の審判の時が訪れるのです。
誰もその運命には抗えない。
出産という始まりの中に死という終わりが内包されているのです。
終わりがあるからこそ、人生は光輝いて見える。とても価値のあるモノとして受け止めることができる。永遠の命、それは秦の始皇帝も追い求めたモノですけれど、少し考えればそれは地獄のような状況です。最初に申し上げた言葉を借りれば『独りぼっちでこの皮膚の中に閉じ込められるという禁固刑の判決』が永遠に続くのです、永遠に。
そのような状況に誰が耐えられるというのでしょうか?
『死』という非常事態に直接対峙した時にこそ、その人自身に備わった『本質』が立ち現れてくるのです。死に直面した時の立ち居振る舞いに全てが体現化されるのです。
もう一度言います。
終わりがあるからこそ、人生は素晴らしいのです。
いえ、自分の力で素晴らしいモノへと仕立て上げなければならないのです」
「そっか」カナコさんはポツッと漏らすように囁きました。
「誰も注視する事無く流してしまった碇ゲンドウの、こんな言葉があります。
『自分の願望はあらゆる犠牲を払い自分の力で実現させるモノだ。
他人から与えられるモノでは、無い』
もちろん人は独りでは生きてはいけません。
生きていくには仲間が必要です。
しかし自分の願望に気付き、どうすればソレを実現できるのかを熟慮して、現実世界での対応を実行していくのは、自分自身の他ありませんから」
「そっか」カナコさんが軽く頷きました。
 我々2人の足取りは変わりませんでした。
ゆっくりポタポタと歩き続けます。
 今度は私からカナコさんへと質問を致します。
「カナコさん」
「何?」
「カナコさんは『運命』というモノを信じていますか?」
 私の質問に不意を衝かれたのか、カナコさんは『んー』と小首を傾げて「あるのかも知れないし、無いのかも知れない。もし、あったとしても証明する方法が無いと思うし」とお答えになりました。
「ある哲学者の言葉ですが、
『運命というモノは、ある。
誰もが運命を持っている。
あなたが運命を見出せるか否か、が問題となる。
問題は、あなたが運命を感じているか否か、だ。
あなたの人生で深く意味のあること、出来事により深い意味があると思えた時、
あなたは自分自身に近付いているのだ。
運命は、必然を意味しない。
運命とは、自由を意味する
自分が自由になった時、初めて運命を見出せる』
自分が心の底から『したい』と思うモノを発見できた時、人は自分自身の目標を見付けるのです。自分の渇望するモノを見出せた時、人は真の自由を得ます。
その願望を実現するために必要な行為が分かるからです。
それ以外の、願望とは関係ない些末な行為たちを選り分けて投企、いえ投棄できるから、なのです。もしそのような状態を得られたのなら、それが自由です」
「自由、か」
「先程されましたカナコさんの質問に対する、私のもう1つの答えですが・・・」
「聴かせて」
「平均的な体重の人間、そうですね、60kgと仮定しますと、その人間の体内中に存在する炭素の重量は約7kgになります。その人が亡くなって火葬されると化学反応の結果として炭素から二酸化炭素が生成されます。その個数はおよそ350兆の1兆倍です。
地球の大気の厚さを10kmと仮定して、その大量の二酸化炭素を全大気中に均等に拡散したとします。その時、地球上のどの場所においても空気1L当たり、その火葬された人間由来の二酸化炭素が約6万6000個含まれる計算になります」
「じゃ、私が死んだ後でも、私の大切な人たちとは会えるってこと、なんだ」
「理論上は、そうなります。
人は死んだらどうなるのか、その問いの答えは誰にも分からないでしょう。
純粋であることは滅多に無く、単純であることは絶対に無い、真実というモノは。
世界は人間無しに始まったのだし、人間無しに終わるのでしょう。
とまぁ、私がお伝えできることは、精々コレくらいに過ぎません。
誠に申し訳ございません、お嬢様」
「ううん。
ありがとう、ポチさん。
何か、何となく、何かが分かった気がするから。
あとは自分で考えなきゃ、いけない。
自分で考えて行かなきゃいけない事だって、思うから。
ありがとう、ポチさん」
「どういたしまして」
 良かったです。
何となくでも、納得して頂けて。
カナコさんの表情も壁紺の秋空のようにスッキリしていますから。
しかし私的には取り分け、つい『お嬢様』とお呼びしてしまったのに気付かれなかったのが、一番良かったです。
すると、カナコさんは我が子が悪戯した現場を見付けた母親の眼付きで「でもポチさん、あのね、やっぱり『お嬢様』は禁止」と柔らかな笑い声を立てました。

「いい匂い。澤口さん家、今日はサンマだね、いいなぁ」
「今年はサンマが異常過ぎるくらいなまでの高値でございますからな」
 澤口さん宅を過ぎるとミヤウチ家まで後ほんの少しです。
「ポチさん」
「はい、何でございましょう?」
「食べちゃ危険とかアレルギーは別にして、ポチさんは何か嫌いな食べ物ってあるの?」
「ま、その、納豆が嫌いでございます」
「納豆かぁ、美味しいのになぁ・・・」
「あの、納豆とはサンスクリット語で『悪魔の食べ物』という意味合いになります」
「ホント?!?」カナコさんはビックリした顔で私を見降ろしました。
「・・・嘘です」
 カナコさんは玉響、私の顔を凝視した後、全く悪意の含まれない語気で「嘘吐き」と抗議なさりました。ですから私は言い訳の代わりとして、
「嘘、つまり偽物は素晴らしい。
嘘は人生の芸術。
真実はつまらないし、欲望を掻き立てないし、夢さえ見せてくれない。
真実を貴ぶのは金持ち、賢い者、健康な奴、精神にトラブルを抱えていない人たち。
嘘の面白さ。
C’est le jeu de la vie, le mensonge.」と申しました。
「詩?」
「みたいなモノです。詠み人知らず、ですけれど」
「最後はフランス語でしょ? 何て意味?」
「人生の遊びさ、嘘は」
 カナコさんは『ふーん』と音にならない声を漏らすと、誰にでもなく、自分に向けて
「確かに、遊びが無いとダメなことって多いよね」と呟きました。
 私も、自分の発言を確かめるように「クルマのステアリングも遊びが無いと運転が物凄く難しくなるそうですし」と、ソッと言い添えました。
「そっか、そうだよね」
「そうだ、と思います」
「All work and no play makes Jack a dull boy.
って言うもんね。
アレッ?
意味的にちょっとズレてるかな?」
「でもベクトルは同じでございます」
「なら、いっか」
 その『ま、いっか』という事が『遊び』に通ずるのですよ、お嬢様。
 我が家の前まで来た所で、東の空の低い位置に妖しく緋色に輝く星1つ。
アレは・・・
「あ、ポチさん。
火星だ。
綺麗ぇ・・・
赤いっていうよりも、黄色がかった感じがする。
何て色だろ?」
「そうですね、私にはよく分からないのですが・・・」
「あ、イヌは赤色を識別しにくい色覚、だったっけ」
「そのはずなのですが・・・
おかしいですね・・・
今日に限って赤系統の色が非常によく視認できるのでございます。
不思議なことも起こるものなのですね。
まぁ、観えるのだから良しとしましょうか。
あの色は黄みがかっているので矢張り緋色が近いのではないでしょうか」
「緋色か」後で色見本をググってみる、とカナコさんは火星を見詰めながら言いました。
「今年は11月初めまで-2等の明るさで輝き続けるそうですよ」
「そっか」
 その時、地面が揺れ動き始めました。
「何、地震?」
「まぁ、地球は常に振動しておりますからな」
「地震で?」
「いえ、大気の運動によって、です。
つまり風の仕業ですな」
「風、ってあの風?」
「といっても非常に微細な振動ですが。
東京と大阪の間の地面を例に採ると、5分間に1回のペースで0.01マイクロメートルの揺れ幅で波のように振動している計算になります」
「ちょっと、ポチさん。
コレってそんなレベルの揺れじゃないよ。
地震だよ、コレッ!
どうしよ?」
「大丈夫でございます、お嬢・・・カナコさん。
突き上げるような縦揺れがありませんので、それほど強いモノではないかと思われます」
「嘘っ!?!
物凄っく揺れてるって、ポチさん!!!」
「大丈夫ですよったら、大丈夫です。何故なら私がお傍にいるからでございます。
いざとなったら、このポチが命を懸けてカナコさんをお守りします。
だから・・・・・」

 仄暗い湖底に沈んでいるような感覚を覚えました。
遠く、非常に遠い場所、湖面でしょうか、遠く上の方から懐かしくそして優しい声が聴こえてきます。湖水が風で撹拌されているのでしょうか、柔らかな水のうねりも感じます。
「・・・ポチ・・・て・・・ポチさ・・・きて・・・ポチさん、起きて」
 ?
 何なのでしょうか?
「ポチさん、起きてってばっ!」
 『ハッ!』と我に返りました。
首を持ち上げるとソコには心配そうにこちらを覗き込むカナコさんのお顔が。
「よかったぁ。近付いても起きないし、呼び掛けてもウンともスンともしないんだもん。
身体、揺すっても起きないし、死んじゃったのかと思っちゃったじゃん。
よかったぁ」
 あぁ、私、迂闊にもカナコさんが近付いてくることも気付かず、怠惰な午睡に耽溺していたのですね。仮にもミヤウチ家の番犬として有るまじき失態、恥じ入ることこの上無し、でございます。
 起こして下さって有難うございました、お嬢・・・カナコさん。
しかし私の口蓋から出るのは『ハフハフ』という空気の漏れ出る噴出音だけでした。
 !
 あぁ、あれは全て夢、だったのですね。
カナコさんとの会話は全て、夢の中、だったのですね。
あぁ・・・・・
 秋のよく晴れた日特有の爽やかな陽気、午後の柔らかな日差しが辺り一面に降り注いでおります。
カナコさんの装いも先程とは異なり、生成り色のコットンフーディ、榛色のメリノウール・タートルネックセーター、ピッタリしたデニムパンツに足許は白いナイキ。
 夢、だったのですね。
「ポチさん、散歩、今行っちゃおうよ。
ヒロさんが来ない内にさ」
 !
そうでした。
今日はサナコさんの彼氏であるヒロさんが初めて我がミヤウチ家を訪問、アキヒコさんとサチエさんにご挨拶にいらっしゃる、とても大切な日でした。
 その事をサナコさんに告げられてから丁度1週間、心配で心配でその間ずうっと眠れぬ日々を過ごしておりまして睡眠負債が山積してしまったゆえにか、この一番大事な当日に、なんたる不覚を!
「さ、お散歩、行こ」
 そうですね、ヒロさんが来ない内に、さっさと済ませてしまいましょう。
私はカナコさんがリードを首輪に結わえ付け易いように起き上がってお座りの姿勢を取りました。カナコさんがリードの接合部を開いて私に着けようと屈み込んだ直後でした。
 その時、東の方角から独特のエンジン音が響いてきました。
空冷時代の特徴は幾分か薄れてはきましたが、それでも他のクルマとは一線を画す水平対向6気筒が醸し出す、この世界に唯一無二のエンジン音でございます。
「あ、来ちゃった」
 カナコさんが『どしよっか?』という表情を浮かべながら私を見降ろします。
これから悪戯を仕掛けようとする子供のような、若干の稚気を孕んだ微笑を携えています。
その相貌は、夢の中と全く同じで、いつもと変わらず玲瓏たる美しさ、でした。
 またいつか、夢の中でお話しをいたしましょう、お嬢様。
必ず、

<了>

ポチさん、寅さんになる

ポチさん、寅さんになる

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-19

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