明暗

 青年が水中へ沈んでいった。必死でもがくが、口から空気が漏れるばかりで何にもならない。その刹那、青年の腹を瓦礫のようなものが突き刺した。青年の口から呻きが漏れた。ような気がした。彼はいよいよ動かない。どこまでも暗い水底へ消えてゆく____

 画面がじんわりと暗転して、エンドロールが流れ出した。観客たちはのんびりと見守っている。隣の席を見ると、弟が静かに涙を流してスクリーンを見上げていた。弟に、映画を見て泣くようなうつくしい感性があるなんて知らなかった。僕は傍にあるジュースを手にとって、ストローに口をつけていた。氷が溶けて、ほとんど薄くなっていた。それでも構わずに飲んだ。冷たい感触が喉を通り過ぎた。
 エンドロールに、順繰りに演者の名前が流れていった。知ってる名前もあったし、知らない名前もあった。弟の好きな女優の名前は、こういう字で書くのか。時折り、ぽうっと明るんだり暗くなるスクリーンを見つめている。

「あー、終わった」
 映画が完全に終わるなり、弟は勢い良く椅子から立ち上がった。「早く出ようぜ」
 シアターから出ると、急に夢から醒めた心地がする。トイレに行っている弟を待ちながら、祖母に連絡を入れた。
 僕と弟は、ちょうど祖父母の家に来ていた。東京に住んでいる祖父母の家を訪ねるのは毎年の恒例で、関東に来れるとあって僕も弟も乗り気だ。祖父に連れられて墓参りや大掃除を済ませ、残る日程は自由にして良いと言われた。帰る一日前、映画が観たい、と弟が言うので、今日はこの映画館に来たのだった。映画なんて地元でも観れるのにと言うと、弟は少し機嫌を損ねた。東京で観る映画が良いらしい。
 弟が戻ってきた。さっき泣いたせいで、目元が少し腫れている。
「兄貴、俺腹減ったんだけど、どっかで食って帰る?」
 弟が一つ大きなあくびをしながら言った。
「あ、ばあちゃんにもう帰るからご飯作ってって連絡しちゃった。どこか行きたいところあった?」
「あ、そうなの。じゃあいいや、疲れたから帰る」
 弟が歩き出したので、その背中を追いかけた。来たことのない場所なのに、弟は躊躇いなく進んでいく。エレベーターホールは混んでいたので、引き返してエスカレーターで少しずつ降ることにした。
「映画館ってなんで高いところにあるんだろう」
「人がわあって来て迷惑になるからじゃない?」
 そっかー、と呟く弟の視線の先を辿ると、壁が鏡になっていて、エスカレーターに乗る僕たちの姿が写っていた。弟がピースをしたので、慌ててカメラを起動して写真に収める。「俺、変な顔してない?」「大丈夫だよ」
 電車に乗って家を目指している間も、弟はふわふわと楽しそうにしていた。電車の椅子に並んで座ってぽつぽつと話しながら、僕はさっき見た映画の内容を思い出していた。良い、映画だった。愛する女性を庇って、ダムに沈みゆく青年の死に顔が思い出された。しっとりと余韻の残るような、映画的な終わり方だった。トートバッグの中には、駅の本屋で買った原作の小説が眠っている。
 最寄駅から数十分歩いて家に辿り着いた時、あたりはもうすっかり暗くなっていた。祖母の作った夕食を食べて、あたたかい風呂に入って、帰るための荷造りをした。ほとんどの荷物はここにおいたまま帰ることになるので、そう大変な量ではないはずだが、祖母のくれたお土産で行きよりもずいぶん増えた。どうにかリュックの口を閉めた後には、疲れて眠たくなっていた。隣にいる弟の目は冴えているようで、深夜のよくわからないテレビ番組をひたすら回している。もう寝る、というと弟はうん、と言った。あまり聞こえてないようだった。布団に横たって目を閉じると、ドライヤーの風力が弱くてうまく乾かなかった髪が、まだ湿っているような気がした。明日には、東京を発つ。名残惜しい気持ちが、なおさら自分を深い眠りに誘うようだった。

 次の日の朝、朝食に呼ばれて一階に降りると、祖父が難しそうな顔をしてテレビを見ていた。食卓に食器を並べている祖母が「君たち、今日は帰れないかもしれないよ」と言う。
 テレビを見ると、ニュースが流れていた。焼いてもらったトーストを齧りながら、画面の中の文字をぼうっと追って行く。西日本を襲う豪雨の影響で、新幹線が運転を見合わせているらしい。画面の中の映像が次々切り替わり、そこかしこで横殴りの雨が降っている映像が流れた。あらゆる電車や新幹線が運転を見合わせているとアナウンサーが告げた。
「夏休みが終わるまでまだあるんでしょう、今日はとりあえず泊まりなさい。お母さんには連絡しておくから」
「わかった」
 中継映像を見る限り、帰れないのも無理はない。もう少し東京にいることになりそうだと言うことを知ったら、まだ二階で眠っている弟はなんと言うだろうか。喜ぶかもしれない、それとも、この家にはゲーム機がないので、文句を言ったりするだろうか。

 残された一日は、することもなく、弟は寝ているばかりで話し相手もいないので退屈だった。散歩に行く、とリビングでぼうっと時代劇を見ている祖母に言うと、気をつけてね、とだけ言われた。東京の空は少し曇りつつあるが、テレビで見たような雨の気配はまだ来ていないみたいだった。東京にやってきた最初の日、祖父に買ってもらったスニーカーを履いて外に出た。祖父母の家の周辺の道は、だいたいわかる。それでもたまに地図アプリを確認しながら、だらだらと歩いた。
 児童公園の中を通り抜けようとした時、何かが目に止まった。日はまだ出ているのに、不思議なことに子供は誰一人いない。閑散とした公園の、ブランコの前に、人が一人倒れている。近づいて見れば、それは自分と同じくらいの女の子だった。ショートボブの黒い髪が顔にすこしだけかかっている。ちらりと覗く耳に、金色のピアスが光っていた。

 彼女に息があるのかないのか、素人の僕にはよくわからなかった。何か声をかけようとすると同時に、少女の体が強く光った。反射的に目を閉じる。ほんのりとした熱を肌で感じた。瞼越しに光がなくなった後、そうっと目を開く。すると、目の前に横たわる少女の容姿はすっかり変化していた。髪は長く伸び、ツインテールになっている。ボーイッシュだった服装は、魔法少女のコスチュームみたいになっていた。ピンク色のドレスは、チュールや布のフリルが何重にも重なってふんわりと広がっている。
 少女の目は相変わらず開かない。あの、と口に出そうとするのと、少女の目が開いたのが同時だった。二人の視線がかち合った。
「あ」
「あれ、あたしのこと、見てました?」
 少女がニヤッと笑った。服についた砂を払いながら立ち上がると、高いヒールも合わさって背丈はちょうど僕と同じくらいだった。
「なんか……すみません、人が倒れてて、びっくりしたから」
「べつにいいよ、もうあたしにはあんまり関係ないから」
 驚いた?と訊く少女に、頷くことしかできない。よく見ると、髪もさっきより短いショートボブだった。どんな手品だろう、と考えてみる。僕が目を閉じているうちに、人ごと入れ替わっだんだろうか。何のために?
「えっと……」
「えへ、あたし、魔法少女なんだ」
「え?」
「だって、見てたでしょ?魔法少女なんだって。東京の平和はあたしの努力の上に成り立ってるんだから」
 僕の訝しげな視線を、少女が笑った。赤いくちびるから八重歯が覗く。丸い瞳がこっくりと黒くて、水晶みたいだった。
「ねえ、きみいま暇?少しここで、時間潰すの付き合ってよ」
「暇だけど、魔法少女は急を要さないの?戦いに行ったりとかするんじゃないの?敵、とかと」
「うーん……まあそうなんだけど、でもあんまり行きたくないから」
 東京の平和を維持するほどの責任を負うにしては、彼女の態度はあまりに無責任だ。あいさつ運動をサボるような軽率さで平和を投げ出されても困るな、と思う。彼女の話をまるきり信じられるわけではないけど。
 魔法少女がベンチに座ろうとするので、僕もそれに続くと、魔法少女が突然立ち止まった。 「ねえ、あたしパン食べたい。きみ買ってきてよ」「はい?」
 近くのコンビニでパンを買っている間も、あの少女は幻覚か何かで、すっかりまやかされているのではないかと気が気でなかった。一般人を巻き込むタイプの、テレビ番組のドッキリなんじゃないか、と疑いさえもした。しかし公園に戻ると、魔法少女は確かに元のベンチに座っていた。パンを渡すと、ありがと、と言って袋を開けて食べ始める。
「あたし、あんドーナツ好き」
 くちびるに砂糖をつけながら、少女はあんドーナツを平らげると、袋を折りたたんでポケットにしまった。すぐ食べ終わっちゃった、と残念そうに指で砂糖を拭っている。僕はその間ずっと黙っていた。居心地悪くしている僕に対し、少女は至ってリラックスしている。
「ねえ、これなんの時間?」
「だから、時間を潰してるの」
「そんなことしたってしょうがないでしょ。怪異が迫ってるんじゃないの」
「だって、戦い行ったらあたし死んじゃうんだもの」
「死んじゃう?」
「魔法少女は17歳の誕生日にみんな死ぬの。だいたい、そういうふうに相場が決まってるのよ。あたし今日誕生日だから」
「それは……おめでとうって言っていいやつ?」
 目の前にいる魔法少女も、死んじゃう、という言葉も、何もかもが奇怪に思えた。僕はこぶしをぎゅっと握りしめる。彼女の空気に呑まれている自分がいる。
「なんか、気遣わせた?別に同情してほしかったわけじゃないからいいよ」
「もっとケーキっぽいやつ買ってきた方が良かったかなって思って」
 あは、と魔法少女が笑った。笑ったあと、うっとりと目を細めた。その眼差しが、少し寂しそうに見えて、でも何も言えなかった。それは僕のエゴのような気がした。
 その時、ピンク色の光が視界の隅で生じた。光源を辿ると、魔法少女の胸元のペンダントが光っているようだった。
「あ、そろそろ行かないといけないみたい。結構道草食っちゃったから」
 光が少女をゆっくりと包んでいく。僕は口を開けたまま見つめることしかできない。
「あんドーナツありがとう。お金、返せなかったのが申し訳ないけど」
「それは別に、いいよ。プレゼントにする」
「本当?嬉しい。付き合ってくれてありがとね……ばいばい」
 光がいよいよ強くなって、僕は薄目で見ることしかできなくなった。風はそこまで吹いていないのに、魔法少女のツインテールが強く靡いた。魔法少女が目を閉じる。本当にもう二度と会わないのだ、と強く感じた。
「あ、誕生日、おめでとう」
 僕の言葉に、魔法少女は確かに笑った。そして、ピンク色の光に包まれて姿を消した。最後に鱗粉のようなものがチラリと舞ったきり、本当に跡形もなくなってしまった。僕の頬に一筋の滴が流れた。空を見る。東京の空に、少しずつ雨が降り出している。夕立が始まった。

 翌日は大雨だった。ちょっとした注意報は出ているが、帰宅に支障はない。
 新幹線の中での読書は、あまり捗らなかった。映画の内容が記憶に新しすぎるから、もう少し忘れかけてから読んだほうがいいかもしれない。車窓から見える景色がしずくで曇っていることも、ぜんぶ嘘の景色みたいだった。魔法少女は、もう死んだだろうか。最後に彼女が見せた笑顔が、うまく思い出せなかった。
「なあ、冬休みもばあちゃん家来れるかな」隣に座っている弟が言った。
「時間が合えばね」僕は少し笑った。

明暗

明暗

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-09

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