椿の花が落ちる時

1

 担任の若い教師が死んだ。夏場に放置された遺体は文字通り最悪の有様で、当初は親もまともに対面できなかったそうだ。お葬式に出席したクラス委員は、さして勉強ができるタイプでもなく、特段イケメンで運動が得意というわけでもなく、でもノリだけは一級品で、クラスメイトに悪ふざけで選出されたような奴だった。
「ほんとにさ、なんで自殺なんかしたんだろうな」
 流されやすく感情豊かなそいつは体育祭や文化祭でも何かと泣き、お葬式翌日のホームルームでそう言ってまた泣いた。臨時で担任となった四十超えの教師も目を押さえていた。学年全体の副主任兼生徒指導課のベテランで、去年の入学式では校長に続いて祝辞を述べていた。
「自殺なんかする前にさ、誰かに相談できなかったのか? そりゃ俺たちじゃ、子供すぎてダメかもしんないけどさ」
「そうだよ、おかしいよ」
 みんなが口々にクラス委員に賛同する中、俺の隣で、小さくそう呟いた。
 頬杖をつき、ちょっと長めの前髪をくるくると指に巻きつけながら、Mは言った。誰にも聞こえないような、聞いてもいないような、俺にだけ聞こえるようにとさえも思えた。Mが横目で一瞬俺を見たからだ。
「急に担任が死んでるのに、休校にならないんだね」
 周りの年を重ねた大人たちを尺度にすれば、10代半ばを少し過ぎただけの俺たちが、物事を醒めた目で見るのは珍しいことでもないのかもしれない。いや、ただ実感がないだけなのかもしれない。俺だって、お棺を前にするその瞬間までは信じられなかった。人は死ぬのだと、わかりきっていることを唐突に知らしめられたような心地だった。
 聞こえてきたクラスメイトたちの言を借りれば、実感がいつ湧き出てくるかは人それぞれだ。だから未だにMには信じられないのかもしれない。それとも、Mはあまり学校に来ていないから、先生と親しかった認識がないのか。それはそれで冷たい気もする。興味なさげなMの口調からはなんとも判断できない。
 無反応の――というよりもどう反応していいのかわからず固まっていた俺を、Mはもう見なかった。

2?

『今日のご飯は?』
 絵文字ひとつなく送ったその文面に、返事はすぐ届いた。
『カレーだよ♡』
 愛想のない俺のメッセージに、恵美(えみ)は赤いハートをつけてきた。下には饅頭のような、よくわからないけど可愛い感じのまるっこいキャラクターの笑顔のスタンプが続いていく。俺は苦笑した。他愛ない画面越しの会話。傍から見るとカップルのような。スマホを見つめて笑う俺自身のことだって、町にありふれた構図のひとつだ。
 なんのこともない。兄や姉を名前で呼ぶ弟や妹なんて、今や珍しくもない。恵美は俺の七歳上の姉だった。名前で呼び始めたきっかけはとてもくだらないものだったが、決して姉を見下した結果の呼称でもないことから、恵美は許してくれた。古風気味で厳しい親の前では、今まで通りの呼び方をする約束をして。
 そのうちに両親が離婚し、俺と恵美は離れて暮らすようになった。親子は親子、家族は家族ということで、俺は母に、恵美は父に、定期的に会っていた。年が離れていてよりべったりだったこともあり、なかなか会えないことがとても寂しかったが、さすがに中学生にもなるといろんな事情がわかってくる。俺は電車に乗って勝手に姉に会いに行っていた。ただ、そのことはなんとなく父には内緒にしていた。姉弟で過ごしてはいけない約束なんてなかったはずだが、そこに母が絡んでいるだなんて思われたくない。実際関係ないし、両親の離婚はどうしようもないことだとしても、お互いに、いや一方的にだとしても、できるだけ悪い感情を持って欲しくなかった。
 そんなふうに日々を重ね、あるときのことだった。家を出ようとした俺を、父が呼び止めた。バイトもしていたし、高校生が夜に少しいないことくらい、父はなんとも思っていなかった。帰ってこいよ、と言うだけで振り向きさえしない父が、珍しく「待て」と新聞を置いたのだ。
「ちゃんと会ってるし、連絡先も知ってるだろ。なんでそんなに恵美に会ってるんだ」
 咎めた様子はなかった。だけど息が詰まった。なんで知ってるんだろう。恵美がうっかり口を滑らせたのか。そう考えた一瞬が命取りだった。父は「やっぱりな」とばかりに再び新聞に視線を落とし始めた。
 次の瞬間、耳を疑う言葉を聞くことになる。
「恵美に誘われてるのか?」
「は?」
 姉弟で会うのがそんなにいけないことなのか。うちのクラス委員は、未だに大学生の兄に宿題見てもらってんだぞ。と、いっそ開き直って反論しようとした矢先だったので、変な声が出た。あまりにも想定外なことを問われると、疚しいことなんてないのにボロが出たみたいになってしまう。なんの弁明も、という言い方も変だが、俺はこの日ほど自分のとろい頭を呪ったことはなかった。
 誘う? 恵美が? 俺を? なんで? 父の放った「誘う」のニュアンスは、自分の娘に向ける愛情を帯びていなかった。映画やドラマで見る下品な女に眉を顰めるような、まさにそんな不快感を露わにしていた。
 ということは、俺も。俺のことも。そんなふうに見られていることが、俺はシンプルにショックだった。
「座りなさい」
 座らなかった。教科書とノートを出し、財布とスマホだけが入ったスカスカの学生鞄を肩に担いだまま、俺は俯いていた。
 その状態のまま、父は話し始めた。実は両親はバツイチ同士の再婚で、俺たちはそれぞれの連れ子だったこと。バツイチと言っても父の場合は死別だったこと。ふたりとも身寄りはなかったから、父はひとり取り残された男親となり、情けないが不安で仕方なかったこと。そこにシングル子育ての先輩の女性が現れ、赤ちゃんの俺はやはり母が恋しかったのか、抱かれるとすぐに泣き止み眠ったこと。恵美は恵美で、よく懐いてくれたこと。
 でもその女性――俺が実の母だと疑っていなかったその人が、父を裏切った。俺は両親の離婚の本当の理由を知らなかった。考えないようにもしていた。教えられた通り、考え方の違いを埋め合わせることが難しくなったからだと信じていた。
 俺がもう話を理解できる年齢だから。今日になって打ち明けた理由を、父はそう語った。
「父さんがそうさせたのかもしれない。でも、自分では自分なりに、母さんにも恵美にも向き合ってきたつもりだったんだ。ちゃんと家族になれたと思ってたし、父さんのほうがちょっと年下ではあったけど、絶対守っていくつもりだった」
 対象を母に限定した言い方が、ちくりと胸を刺した。
 父はそれきり口を閉じてしまった。俺にはその理由がわかる気がしたし、仕方ない気もした。要するに父は突き落とされたのだ。たぶん、俺が受けたショックと同じか、それ以上の衝撃に襲われた。母親だと思っていた人が母親ではなかったこととか、本当の母親はとっくに死んでいることとか、姉とは血の繋がりがないこととか、比べるのはおかしいとさすがにわかるけど。
 俺の場合はショックを受けて終わりだが、父のそれには続きがある。そういうことをする女性の娘、恵美はどうなのか。実はまったくもって他人の恵美と息子との関係は、これからも続くのに。
 きっと父は、今でも恵美を本当の娘だと思っている。でもそれは心の話だ。血や遺伝子の話ではない。そんなことを考えてしまう自分がきっと、嫌で嫌で仕方なくて、でも俺のことが心配で、声をかけてくれたのだろう。
「大丈夫だよ。父さんが考えてるようなことは起こらない」
 巻き起こり渦巻く思考を抑えこみ、俺はやっと声を捻り出した。気丈を装っているが、変な抑揚で自分でも上手い演技とは思えなかった。心なしか、視界の横側にちらつく父さんの目元は滲んでいるようだった。
「俺はずっと、姉ちゃんと仲の良い家族でいたいと思ってるだけなんだから」
 
 ――赤いハートの絵文字を撫でると、鬱屈とした気持ちが少しだけましになった。意味のないハート。例えば意中の男相手で、楽しく連絡し合っていたとしても、ここぞというときに隠し手的に出すんじゃないか。他意のない家族だからこそ、意味ありげな絵文字を使って遊ぶのだ。恵美は俺を信用してくれているのだから、俺も恵美を信用する。父も母も関係ない。血だのなんだの知ったことか。
『楽しみだな♡』
 同じ絵文字を使い、そう返信した。メッセージはすぐに既読がついた。再び饅頭スタンプが送られてくる。
 七歳なんてとっくに物心ついている。俺たちが本当の姉弟ではないことを、恵美は知っている。軽くなっていた気持ちがまたしても沈んだ。秘密がないなんてもちろん言わないが、言って困る秘密もないと思っていた。異常だろうか。いや、異常とは思わない。ただの仲の良い姉弟のはず。大人でも子供でも、前提は同じでいいはずだ。
「いらっしゃい」
 いつも通り、恵美はそう言って俺を迎え入れてくれた。美味しそうなカレーの匂いが漂ってくる。誘われてるんじゃないのか、と父の声が耳に蘇る。
 鬱屈。鬱屈。鬱屈。頭の中を埋め尽くす。恵美が俺にバカなことをするわけがないのに、父が俺を信じてくれない。
「なあ」
 恵美は俺の変化に気付いていなかった。いつも通りの時間。テレビのしょうもないバラエティ、味の濃い麦茶、恵美の家の食器棚に常駐している、今日は使っていない俺の茶碗。事実を知った上で冷静に考えてみる。普通の姉弟と言えたときが、一度でもあったのだろうか?
 面白そうにテレビを見ていた恵美が振り向いた。呼びかけたくせに何も言わない俺に、少し首を傾げていた。
 なんとなく気まずい沈黙が流れた。やがて恵美は小さく息を吐いた。ついにこのときが来たか、という表情に、俺には見えた。
「もしかして、わかっちゃったの?」
 恵美の問いの意味は明らかだった。俺は黙っていた。恵美の顔も見られなくなった。恵美は俺を安心させるように微笑んだ。
「聞いて、ツバキ。私ね――」

 上の空のような日々が過ぎた。担任が死んだというのに休校にならなかったということは、事件性はなかったからだと思う。警察によると、遺書の類はなかったが、自殺と断定して差し支えない状況だったらしい。俺たちクラスメイトを含む学校関係者の証言を合わせて改めて考えてみても、目立ったトラブルもなく、恋愛に関連するような何某かの背景も見えず、その代わり、これと言った趣味や興味のあることなども出てこなかった。
 なんとなく生きていけない、なんとなく希望を見いだせない、なんとなく死にたくなった。意味がわからないように思えるだろうが、昨今、意味のない自殺が増えてきている。でもそんなことはしちゃいけないよ。クラスメイトたちは順に呼ばれて話を聞かれたが、全員そう言われたようだった。
 意味のない自殺なんてあるか。警察の人が話している途中、気付かれないように拳を握りしめた。恵美の自殺は無意味なんかじゃないのだ。俺が。俺が、俺が――。
「ツバキ君」
 呼ばれてはっとした。気付けば教室は赤みがかっており、目の前のM以外誰もいなかった。
 Mは指先で鍵リングを回しながら、俺を呼んだりつついたりしていたらしい。全然気付かなかった。
「そろそろ下校時間だよ。教室閉めたいんだけど」
「ああ……悪い」
 クラスの雑事(と言っては聞こえが悪いが)は基本的にクラス委員が受け持つが、教室の施錠は日直の仕事だった。授業が終わってから下校時間までは結構あるから、Mは待っていてくれたらしい。素直に申しわけないと思いつつ、荷物をまとめて席を立った。
「叩き起こしてくれたらよかったのに。ごめんな」
「謝んないで。俺もあんまり学校来てないからさ、用事がわりとあってね。補習とか」
「補習ね。そんなに成績悪いわけでもなさそうなのにな。そういえば、なんでお前この学校にいるんだよ。仕事とかあるんだろ」
「芸能科だと誤魔化せないでしょ? たまに一日ゲームとかしてさぼってんだよね」
「嘘吐きかよ。ひでえな」
 本当に酷いと思ったわけではなかった。会話のノリとか言葉のアヤとか。Mのような生徒が同じ教室にいることを嬉しく思う奴も複数いるようだが、俺はそうではなかった。どちらかというとどうでもいい。どうでもいいから、どうでもいい会話しかできない。
「嘘吐きはツバキ君だってそうじゃない?」
 だからそんなふうに返された瞬間、心臓を掴まれたみたいだった。
思わずMを見た。Mはじっと俺の目を見ていた。
「ツバキ君さあ、もしかして、知ってるんじゃない? 先生がなんで死んじゃったのか」
「自殺なんだろ」
「だから、なんでそうしたのか。警察の人が言う『最近よくある意味ない自殺』なんかじゃないこと」
「知ってたら言うに決まってるだろ」
「じゃ、これは言った? 先生が死んだその日、先生と一緒にいましたって」
 どきりとした。Mは飄々と、なんでもないことのように核心をついてくる。なんでこいつ、そんなこと知ってるんだ?
 焦ったが、落ち着くよう自分に言い聞かせた。調べに来ていた警察たちの中には、見るからに若くて経験の浅そうな人もいた。あるまじきことだが、あの人がうっかり口を滑らせたのかもしれない。
「家族が一緒にいて、何が不思議なんだよ」
 生徒としても家族としても話を聞かれた。他のクラスメイトからは何も言われてないし、声も聞こえてこなかったから、知っているのはMだけと思ってよさそうだ。
「それともなんだよ。なんで秘密にしてたか気になるってか? 言わないほうがいろいろ良いだろって、そういう結論だっただけだ」
「違うよ。先生と生徒が実は家族ですっていうのは、内緒にしといたほうが無難なのは俺でもわかる。先生は独身だったけど、事情があるらしく苗字も違うしね。俺が言ってるのはそういうことじゃなくてさ」
 Mは冷静だった。言い淀むことひとつなかった。まるで全部最初から知っているような口ぶりだった。
「先生の自殺を後押ししたのが、ツバキ君なんじゃないのってこと」

△▲

「私ね、ツバキと血が繋がってなくて、本当によかったと思ってるのよ」
 恵美の表情は穏やかだった。やっぱり恵美は察していた。俺がもう知ってしまっていたこと。黙っていてごめんね、と言った後の恵美の言葉だった。
「よくあるでしょ。何か問題があったり、上手くいかなくても、家族だから離れられない、逃げられないみたいなの。私、ああいうの嫌なの。義務感だけで嫌々繋がってるみたい。そういう人たちに愛情が存在しないなんて思わないし、複雑な事情があることだってわかるけど」
 恵美は僅かに目を伏せ、再び視線を持ち上げた。
「私たちには、そういう鎖みたいなものは一切ない。お互い嫌だと思ったら、すぐに離れてもいい。でもそうならず、こうして会いに来てくれる。本当に良い関係でいたいと思ってくれてるからできることでしょ」
 まるで、俺と恵美に本当に血の繋がりがあったとしたら、成立しない絆だとでも言うような論法だった。少なくとも俺にはそう思えた。
 ふと恵美の――俺が実の母だと思っていた人のことを思い出した。もともとバツイチで父と知り合った。そのときのバツの原因はどちらにあったのだろう。日本の親権争いでは母親有利なことくらい、俺も知っている。別れる原因が母親側にあったとしてもだ。恵美は母親を嫌いになれないと言っているのではないか。母への感情がトラウマみたいになっていて、だからこそ、縛りのない他人との良好な関係が心休まるのではないか。だから俺に、家族ごっこのできる他人でいて欲しいと言っているのだ。
 バカなんじゃないのか? 思っただけなのか口に出たのか、自分でもわからなかった。

繝。繝シ繝ォ

 はっきりと思い出せる次のシーンでは、恵美は泣いていた。つけっぱなしのテレビ、食べかけたままの食卓、冷たいフローリングに敷いた薄いルームマット。若い女教師でしかない恵美がそんなに良い部屋に住んでいるはずもなく、狭いワンルームマンションだった。小さなベッドに無理矢理連れ込み、手首を抑えつけた。急いで鞄を掴み、部屋を飛び出したこと以外あまり覚えていなかった。
 恵美が泣いていたあの場面は、最初だったのか最後だったか真ん中だったのか。でも一線だけは超えなかったように思う。だから恵美の自殺は『意味のない自殺』だなんてバカげた結論付けられてしまったのだ。間違いなく俺のせいなのに。俺が乱暴したから、しようとしたから、そのショックで恵美は死んでしまったのに。
 恵美とはまったく血の繋がりがないことに、快哉を叫びたかった。知っている母親が実の母親でなかったことはショックだったにしろ、もしかしたら恵美と一緒になれるかもしれないと、そんな未来を思い描けたことが嬉しかった。恵美からしても、俺なら少しくらいは気心が知れているだろうし、来年には卒業する。進学ではなく就職して、すぐには無理だろうが、恵美を守れるようになる。恵美の周りの同年代や年上の男たちなんかより、俺のほうがよっぽど恵美のことをわかっていて、それを恵美もわかってくれれば、きっと。
 家族ごっこのできる他人でいてほしいと暗に示されたとき、本気で考えていた未来が消し飛んだ。当たり前だろ、と醒めている自分も確かにいた。恵美にとっての俺はただの弟なのだから。恵美と呼び始めたきっかけだって、本当にただ友達に影響されたとしか思っていないのだから。
 弟じゃなくて男がいい。恵美が選んでくれる男になりたい。でもそれが無理なら、弟のままでもよかった。近くにいていい正当な理由があれば、それ以上望むことなんてなかったはずなのに。

6?

「お前さ、何が言いたいの」
 ていうか、何をどこまで知ってんの。そう言いたかったのを飲み込んだ。
 Mは相変わらず掴みどころのない雰囲気で、単に興味で俺を攻めているようにも思える。ときどき教室で見かけるときも、スマホやテレビを通して見かけるときも、今だってMはいつでも明るかった。
仮にも家族が死んだ人間に、その家族の話題で、普通そんな調子で接するだろうか。
「先生が死んじゃうなんて、そんなにあることじゃないし、悲しいけどさ。俺は弟としても辛いんだぜ。頼むから俺のせいみたいに言わないでくれよ」
 違う。俺のせいだということを、何故かわからないが、Mは知っている。言わせようとしている。恵美の自殺は現代社会の闇そのものであり、意味のないものと片づけられている今、俺は逃げ遂せることができる。Mはそれが許せないのだ。
 でも。唇を噛むと血の味がした。拳を握ると爪が食い込んだ。俺だって俺が許せない。結局は恵美の弟でしかいられないことを、ずっと前から納得していたつもりだった。なのに、恵美の気持ちに触れると頭が真っ白になった。わかっていたふりをしていただけで、やっぱり納得なんてしていなかった。信頼していた弟に押し倒された恵美のショックは、恐怖は如何ほどだっただろう。
 謝りたい。欲を出した。最後の一線を超える前に踏み止まった、そんなことは取り返しのつかない事態を招いた自分への無意味な慰めでしかない。恵美とはもう話せないし、話す資格もない。
 Mと話しているとおかしくなりそうだった。早く帰らないと。
「待ってよ。もうちょっと話したいんだけど」
「話したくない」
「俺はツバキ君を責めてるんじゃないよ。俺たち同じとは言わないけど、似た者同士じゃん」
「なんも似てねえよ」
「ねえ、ツバキ君」
 意味ありげに、突如名前を呼ばれた。ありそうでないこの名前が珍しいのか、少し話すとツバキと呼ばれることが多かった。声の大きなクラス委員がそう呼ぶから、自然と他のクラスメイトや先生たちにも伝染していった。
「先生はさ、ツバキ君のこと苗字で呼んでたよね」
 恵美はその波には乗らなかった。先生と生徒の関係を意識していたからだ。下の名前や愛称で呼ぶことが悪いことだなんて言わないが、すべての生徒に平等に接したいから、苗字被りがいない限りは同じ呼び方をしたいと言っていた。MのこともMとは呼ばなかった。
「おかしいと思ってたんだよね。先生、ツバキ君を見るときだけ、ちょっとだけ違う顔するから。ずっと見てないとわかんないくらいの変化だったけど、敢えて距離を置いてるみたいな雰囲気が」
 ずっと見てないと?
「ああ、勘違いしないでね。別にストーカーしてたとかじゃなくて、年上の女の人に憧れたってくらいのもんだからさ。でも、好きは好きだったよ。だから俺とツバキ君は似てるってわけ」
 あまりにも軽く語られると、却って理解できなかった。Mも恵美が好きだった? いや、大事なのはそこじゃない。なんで俺が恵美のことを好きなのを知ってるんだ? 否定も忘れてMを凝視してしまう。Mは薄く笑った。
「そんな驚かないでよ。先生をずっと見てて、ああ、ツバキ君にだけなんだか違う視線だなって気付いたらさ。今度はそっちを観察するようになるでしょ。そしたらツバキ君のほうも、先生にだけ違う目をしてるって思った。で、そういうことだなって」
「ちょっと待てよ。俺と恵美はそうじゃない」
 そうなりたかった――そうなりたくて暴走して、あんなことになった。Mと話す度に精神が削ぎ落とされていく。あんなことをしたいわけではなかった。
「お前なんで俺と恵美が姉弟なの知ってんだよ。ひとりひとり警察から話聞かれたよな。内緒にしてるから、学校関係者の人たちには漏らさないでくれって頼んでたのに。まさか恵美から聞いたとでも言うのか?」
「理由はあるけど、たぶんツバキ君に話してもわかんないと思うな。でもこれだけは言っとこうかな。警察の人たちは守秘義務は守ってるし、先生が何か言ってたわけでもない」
「は?」
 意味がわからない。なんか笑えてきた。口元が上がってしまうのを懸命に堪えた。
「じゃあ結局お前は何を知ってるわけ? 何をもって、俺が恵美の自殺を後押ししたなんて言ってんだよ」
「ツバキ君さ、親しい人が自殺しちゃった人の反応じゃないんだよね。学校では関係性を隠してるから、そんなふうに振る舞ってるのかもしれないけどさ。それにしたって随分あっさりしてるから」
 淡々と語るMに息を呑んだ。なんだよこいつ。普段あんまり学校にいないくせに。親しい人が自殺した反応じゃない? こいつの周りにはいたのか? そのときの記憶を俺に重ねて違和感を抱いていて、カマをかけているだけなのか? 好奇心なのか正義感なのかもわからない。それに、誰にも聞いていないなら、どうして俺と恵美が家族であることを知っているのか。俺が恵美に恋心を抱き続けていたことを知っているのか。
「片想いの俺にできることはなかっただろうけど、家族は違うだろうからね。どうして助けてやれなかったのか、自分のせいなんじゃないかって後悔してるんだよ。それがずっと、本人の踏ん切りがつくまで、全身から滲み出てる」
 わざとなのか偶然なのか、Mは一度話を区切った。視線が教室の時計に向く。つられて俺も見上げると、午後6時を回ろうとしていた。
「ツバキ君はなんか違う。自分のせいなのわかってるのに、知らないふりしてるみたい」
 耐え切れず床を蹴った。頭がおかしくなる。とにかくMから離れたかった。
 そこからどうしたのか、今でもよく思い出せていない。

椿の花が落ちる時

椿の花が落ちる時

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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