復讐婚〜姉さまは永久に僕のもの〜

01.王都にて

「姉さま、早く!」

 春の王都をヒューが足取りも軽く飛ぶように駆けるので、私はスカートの裾を持ちながら、ついていくのに必死でした。

「ハア、ハア……待って……」

 壁に手をついて立ち止まる私を見かねて、ヒューがだいぶ先から戻って来てくれます。

「大丈夫? 体力なさすぎなんだから」

 ヒューが優しく背を撫でてくれるので、少し息が整いました。

「走るのも早くなったね」

「当たり前だよ、幾つだと思ってるの」

 白い歯を見せて笑う顔には幼い面影も残っているのに、ヒューはもう十七になっていました。

「背も私より高い」

「姉さまが低いのさ」

 ヒューはフフッと笑うと私の頭を撫でました。追い抜かれたのはいくつの時だったでしょう。成長期のヒューの背はまだ伸びそうです。

「今夜は宮廷舞踏会かあ、楽しみだね!」

 ヒューはニコニコ笑うと私の手を取って一緒に駆けてくれました。

「着飾った御令嬢がたくさん来るのかなあ」

「そうね」

 ヒューが心から期待しているように言うので、私はつい微笑んでしまいました。

「素敵な出会いがあるかもしれないわね」

「僕なんていろんな人からダンスを申し込まれて大変だろうなあ! 姉さまみたいに地味で控えめな人は壁の花だろうけど」

 姉さまももっと着飾ればいいのに! とヒューは不満そうに言います。

「ドレスコードは決まっているから……皆同じようなドレスを着ると、差は歴然よね」

 生まれ持った輝きというものは隠すことができません。長身で美形のヒューには華があると私は思いました。ヒューの隣に立ったら、ただでさえ少ない私の存在感はますます霞んでしまうでしょう。でもそれでいいと私は思っていました。この宮廷舞踏会はヒューの社交界デビューになりますから、そんな記念すべき舞台に立ち会えるのは姉としてこの上なく嬉しい事です。

「そろそろ宿に戻って仕度しましょうか」

「えー、まだ早いよ。せっかく王都に来たんだから、一緒にお昼を食べよう!」

 ヒューは私の手を引いたままオシャレなカフェに入ると、手早く注文して私をテラス席に座らせてくれました。見惚れる売り子にウインクを返したりして、どんな所作も羽のように軽く、洗練されています。

「こうして二人きりでデートするのも初めてだね」

 ヒューは私の正面に座って頬杖をつきながら、綺麗な瞳で私を見つめました。

「そう、だったかしら」

 私はヒューの美しい瞳にじっと見つめられて、思わず目をそらすと曖昧に答えました。

「誰かと来たことあるの?」

 ヒューは少し睨むように私を見つめ続けます。決して目をそらしてはくれなくて。

「いいえ。私こういうお店に入るの、初めてよ」

 私は伏し目がちに微笑すると、運ばれてきたお茶でそっと喉を潤しました。

「姉さまは地味だもんね。いっつもお庭の散歩ばっかり。まあ森があって川も流れてるくらいだから、そこそこ運動になるけど」

 初めてレイクロード家に来たときはびっくりしたよ、とヒューは大げさに肩をすくめました。

「お邸というより小さな村かと思った。教会まであるんだもん」

「そんなに……大きいかしら」

「大きいよ」

 ヒューは上品ながらも無造作な様子でサンドイッチをかじると、遠い目をしました。

「こんなデカい家に住む人もいるんだと思った。忘れられないね」

 それから私に視線を戻すと、いつもの優しい笑顔で私を見つめてくれました。

02.ヒューと陛下

 宮廷舞踏会はとても豪華で、大勢の紳士淑女が招待されていました。私は舞踏会というものは苦手でほとんど出席したことはなかったのですが、今回はヒューの社交界デビューですから特別です。流れやマナーなど覚束ないことがたくさんあり、本当は他の人と行ってほしかったのですが……。肝心のヒューが「姉さまが一緒じゃなきゃ行かない」と言ってきかないのです。

「男女ペアで行くのが普通でしょう? 僕に恥をかかせるの?」

 そう言われると申し訳なく感じてしまって、私はヒューのお供としてついていくことになりました。背が高く洗練された身のこなしで大人びた外見を持つヒューですが、内面は意外にワガママで子供っぽいところがあります。そういう全てがヒューの魅力なのかもしれません。

「レオナルド陛下! お久しぶりです!」

「ヒュー! 元気そうだね!」

 ヒューが大理石の大広間をつかつか歩いていきなり国王陛下にご挨拶するので、付き添う私はびっくりしてしまいました。

「すごい……噂には聞いていたけど、本当にソックリね!」

「本当ね! お二人とも素敵だわ」

 周りの御令嬢がヒソヒソ囁く声がしきりにします。確かに、陛下もヒューも流れるような金髪と南の海のような澄んだ瞳を持っていました。年齢や背格好もちょうど同じくらいでしょうか。

「フフフ、双子じゃないよ。でも確かにソックリだよね。僕たちどこかで血がつながっちゃってるのかも!」

 ヒューがあまり恐れ多いことを言うので、私は心臓が止まるかと思いました。国王陛下と血が繋がっているだなんて。でも陛下はヒューの発言をお咎めになることもなく、ニコニコしておられます。二人は旧知の仲のようです。

「陛下、踊りましょう!」

「いいよ!」

 ヒューは壁に飾ってあったレイピアを二本取ると、片方を陛下に投げました。陛下が受け取られ双方構えると、カン、カンと華麗な打ち合いを始めます。それは本当にリズミカルでダンスのようでした。取り巻く御令嬢たちは皆息をのんで見守りながら、半ばうっとりと見惚れています。
 ヒューも陛下も始終笑顔で楽しそうに打ち合っていましたが、ヒューの喉元に陛下の剣が突き付けられて勝負はつきました。ヒューは二本の剣を元の位置に戻すと、サッと髪をかき上げ、襟を正しました。

「お嬢様方を放っておいてごめんなさい! 僕と踊って下さる優しいレディはおられませんか?」

 そう言いながら、並み居る御令嬢方に優雅な物腰で丁寧なお辞儀をします。御令嬢方はヒソヒソ、扇で口元を隠しながら話し合っていましたが、やがて我が家より家柄も位も高い、プリンセスとも言える侯爵令嬢がスッと一歩前に出ました。ヒューはその方のオペラグローブをはめた細い手に優しく口づけして、二人は優雅に踊り始めました。

「大丈夫ですか、サラ?」

 ヒューと侯爵令嬢のダンスを遠くからボンヤリ眺めていた私に国王陛下がそっとお声をかけて下さったので、私は恐縮して深いお辞儀をしました。

「はい、陛下」

「気分が悪くなりそうなら、言って下さいね」

 陛下はどこまでも優しく私を気遣って下さいます。私はめまいを起こしやすい体質で、ダンスは控えるよう医師からも言われていました。この体のこともあり、私は舞踏会にはほとんど行かない非社交的な貴族なのですが、陛下はこんな私のことも覚えていて下さり、「体調が良ければお越し下さい」という旨の招待状を必ず下さいました。

「ありがとうございます」

 私が再度頭を下げると、陛下は優しい微笑を残されたまま、他の方たちとの談笑に戻られました。私は宮殿の冷たい壁にもたれながら、ヒューが楽しそうに代わる代わる若い御令嬢たちと踊るところをそっと眺めていました。

03.世間知らず

 疲れたので少し姿勢を変えようと、背筋を伸ばした時でした。

「おっと、失礼」

 急いで歩いてきた紳士が私にぶつかり、持っていたシャンパンが私のドレスにかかりました。

「すみません、すぐ着替えを用意させましょう」

 端正な顔立ちの紳士は私のドレスを白いハンカチで拭きながら、すまなそうに謝ってくれます。

「いいのです、もう帰りますから」

「いえ、そういうわけにはいきません」

 私は恥ずかしくなってドレスを拭く紳士の手を必死に止めてもらおうとしました。どこから見ていたのでしょう、そこへヒューがスッと現れて

「姉さま、もう帰るの?」

 見下すような視線を紳士に投げながら、あくまでも私にだけ話しかけてきます。

「私が粗相をしたのだ」

「じゃ帰ろう」

 ヒューは紳士の話も聞かず私の手をつかむと、引っ張るように足早に歩きました。人々のざわめきから離れたバルコニーまで着くと、ヒューはようやく私の手を離してくれました。

「あいつ誰? 姉さまの彼氏?」

「まさか。さっき偶然ぶつかった方よ」

 ヒューは星空の下、明らかに不機嫌な顔をして私を睨みました。

「ドレスが汚れましたね替えましょうって小部屋へ連れ込む手口なんだよ。知らないの?」

「……そうなの?」

 私はびっくりして青ざめてしまいました。ヒューが「ハアー」と大きなため息をつきます。

「世間知らずもいい加減にしてほしいな。姉さまもうすぐ二十歳でしょう?」

「ごめんなさい」

 私はしょんぼりして、ヒューの顔をまともに見ることができませんでした。

「どうする? ドレス替えてまた来る?」

「いいえ、今夜はもう帰るわ。ヒューは最後まで楽しんできて」

 私はヒューの大切な日に迷惑をかけてしまったことが悲しくて、何とか笑顔を作りましたが内心泣きたい気持ちでいっぱいでした。

「姉さまが帰るなら僕も帰るよ」

 ヒューは腰に手を当てると当然のように言います。

「でも、舞踏会楽しみだったんでしょう?」

 さっきまであんなに楽しそうに御令嬢たちと踊っていたのにと思って、私はヒューを引き留めました。華のあるヒューはこの舞踏会によく似合っているのに。もう帰るなんて勿体ないと思います。

「馬車で帰るから。一人でも平気よ」

「姉さまに見てもらうために踊ってたんだから。姉さまがいないならもう誰とも踊らないよ」

 ヒューはフッと視線を逸らすと、つまらなそうに言いました。

「ヒュー……」

「陛下にご挨拶してくるから、ちょっと待ってて」

 そう言うが早いか、ヒューは風のように舞踏会のざわめきの中へ戻ってしまいました。

04.結婚しないの?

 レイクロード家は国境伯ですから、領地は文字通り国境沿いにあります。王都にある宮廷舞踏会を訪れるにあたって、ヒューは一人も従者を連れて行かないよう私に頼みました。

「誰もついてこさせないで。僕と姉さまの二人だけで行きたいんだ。大丈夫、必要な手配は全部僕がするよ」

 メイド長のエマなどはついて行きたいと最後まで強く申し出ましたが、ヒューの意志は固く、「いい機会だからみんな休んできなよ」と従者たちに臨時休暇まで出してしまいます。
 ヒューは王都に知り合いが多いのか、執事然とした無口な男性を一人雇ったようでした。舞踏会から宿に戻ると、私が脱いだドレスの処分を命じます。

「新しいの、買ってあげるね」

「捨てるほどではないんじゃない?」

 私はもったいないような気がして控えめに言いました。上質な布地ですから、何かに再利用すればと思ったのです。

「あんな男に触られた服、捨てて当然だよ」

 ヒューは冷たい口調で有無を言わせませんでした。そのいっぽうで

「そのドレス、とてもいいね。やっぱり姉さまには菫色が良く似合う」

 ヒュー自身が見立ててくれた、白地に薄紫のシルクシフォンがあしらわれたナイトドレスを着た私を、ニッコリ笑って褒めます。ヒューは若いのに博識というのか、世故に長けるところがあり、貴族のしきたりはもちろん、庶民の暮らしや制度についても熟知しているようでした。私が何を訊いても「知らない」ということがないのです。

「今日はもう休もうか」

 私とヒューは隣り合ったベッドに腰掛けると、就寝前の温かいお茶を頂きました。ヒューはカップのお茶をグッとほとんど一息に飲んでしまってから

「姉さま、なんで結婚しないの?」

 さりげない口調で私に訊きました。

「見合い話とか来てるんでしょ。全部断ってんの?」

「前は来ていたけど、今は全然よ。七月で二十歳だし、もう完全に行き遅れね」

 私は自嘲気味に苦笑しました。

「自分でも不思議なほど、結婚したいという気持ちがないの。あの家が好きだから、ついずっと居たいと思ってしまって」

「なら婿を取ればいいじゃない」

「そんなことできないわよ。レイクロード家にはヒューがいるのに」

 私は笑って、お茶のカップをソーサーに置きます。

「そろそろ出て行かなきゃいけないわよね。いつまでもいたら、ヒューの未来の奥様にもご迷惑だろうし」

 ヒューはしばらく無言で私を見つめていましたが

「姉さまもしかして、今まで誰とも付き合ったことないの? キスは?」

 慎重な様子ながら、かなりストレートな質問を投げかけてきました。

「まさか……誰とも?」

 私はそこまで言われるとしょんぼりしてしまって

「ごめんなさい」

 この優秀な弟にいつも迷惑をかけてしまう未熟な自分を力なく恥じました。

05.ぴったりの人

「そーなんだ」

 ヒューは「ハアー」とまた大きなため息を一つつくと、

「いるんだよね、姉さまみたいな人」

 自分のベッドから立ち上がって私の隣にドシンと腰掛けると、足を組んで座りました。

「姉さまみたいな、大金持ちで世間知らずで親の後ろ盾もない女って、間違いなく金目当ての悪い男に騙されるんだよね。甘いセリフにコロッとやられて、結婚したら即愛人作られて死ぬまで顧みられない人、腐るほど見たよ」

 ヒューの説明があまりにも的を射ているので、私はさらにしょんぼりして何も言うことができませんでした。まるで私の未来を予言するかのようです。

「可哀想な姉さま! いっそ貧乏な田舎娘だったほうが内面を見てもらえる分良かったのかもね。まあ姉さまみたいにボンヤリした女じゃ、やっぱり悪い男に騙されて捨てられるのがオチだろうけど」

 そう、なんだ……私は恵まれすぎて、何もしてこなかったから。ヒューのような努力家で頭の良い人から見ると、本当にダメなのでしょう。ヒューはすっかり元気をなくした私の肩を抱き寄せると、優しく頭を撫でてくれました。

「大丈夫だよ! 僕が姉さまにぴったりの人、見つけてきてあげるから」

 私の耳元で囁くように、笑って言います。

「その代わり、僕の言うこと何でもきくって約束してね。悪いようにはしないから」

「うん」

 私はいつもの癖でついヒューの提案に頷きました。ヒューは昔から私が何か困るたびに、私にとって最善の解決策を必ず用意してくれます。私の周りはこういう優秀な人ばかりなので、私はつい頼って、自分からは何もしなくなってしまい……こうやっていつまでも周りのせいにしているからダメなのでしょうね。

「さあ、もう寝よ!」

 ヒューは私をギュッと抱きしめると、そのままベッドに横になってくれました。ああ、懐かしい……ヒューがまだレイクロード家に来たばかりの頃、あまりにも不安そうだったのでこうやって私が抱きしめて二人で眠っていたなと思いながら、今は私よりずっと大きく、逞しくなったヒューの胸で私はスヤスヤ眠りました。

06.素敵なデート

 次の日、ヒューは私に綺麗なドレスと帽子を選んでくれると、朝から「お出かけしよう」と私を誘ってくれました。王都の朝市を二人で見て回り、カフェでお茶を頂くと、王国一の高さを誇る荘厳な大聖堂、美術館、劇場と私を連れて行ってくれます。
 途中広場で楽器を奏でる人たちがいて、町の人々が手を叩き、跳ねるように踊っていました。ヒューは私の手を取ると迷わずその輪に入って踊りだします。激しいステップで、私は足がもつれ、何度も息が止まりそうになりました。もうダメ……と倒れかけた時、

「大丈夫?」

 ヒューはすかさず私を抱きしめて、このダンスから救ってくれました。

「お揃いの指輪でも作ろうか。今日の記念に」

 ヒューは私の腰に手を回し支えるように歩きながら、ある宝飾店に入りました。店主に頼み奥からプラチナの指輪を出させると、二人の名を刻んでもらいます。ヒューの行動には常に一瞬の迷いもありませんでした。女性に指輪を贈ることにも慣れているのかなと、買ってもらう身でありながら、私は妙な寂しさを覚えました。
 店主は私たちの見ている前で細い指輪に器用に私たちの名を刻むと、ヒューはそれを私の右手薬指にスッとはめてくれました。

「よく似合うね」

 それから自分の薬指にも同じようにはめて。私たちは馬車を呼び、レストランでゆっくり食事した後宿へ戻りました。

◇◇◇

「今夜は男だけの集まりがあるらしいから行ってくるね。姉さまは疲れたでしょう? 先に休んでて」

 その日の夕暮れ、ヒューは手早く衣装を整えると、私に手を振って流れるように外出してしまいました。疲れたのはヒューも同じでしょうに。私は買ってもらった指輪を撫でながら、ぼんやり今日のことを思い出していました。たった一日だけど、楽しかったな……。もし私にも恋人ができたら。いつかこんな素敵なデートをして下さるのでしょうか。

「ヒューには助けてもらってばかりね」

 何かお返しがしたいけれど、ヒューは一人で何でもできるし、何でも知っているし……などと考えているうちに、まだ夕方だったのに私はソファで眠ってしまっていました。次に起きたときは夜更けで、でもまだヒューは帰っていなくて。
 私はシャワーを浴びて髪を乾かしながら、宮廷へお迎えの馬車を行かせた方がいいかしら、でも今夜はここに戻らないかもしれないし……などと不安な気持ちで待っていると、ドタッドタッと不規則な靴音がして。ガチャッとドアノブを開け、執事役の男性に支えられたヒューが入ってくるのが見えました。かなり酔っているのでしょうか、足取りがフラフラしています。

「ヒュー、大丈夫?」

 私は思わずヒューに駆け寄ると、支えられもしないのにヒューの体に抱き着きました。私の存在はヒューが歩くのにかえって邪魔だったかもしれません。ヒューはしがみつく私ごとベッドに倒れこむと、私の頬から首へ撫でるようにお酒臭いキスをしました。私はヒューにきつく抱きしめられてほとんど身動きが取れませんでしたが、

「ヒュー、あの……誰か他の方と間違えてない?」

 酔ったヒューが気づいてくれるよう必死に祈りながら言いました。

「間違えてないよ、姉さまでしょ」

 ヒューは首のタイを緩めシャツのボタンを外しながら、私へのキスを続けます。

「さあ、姉さまも脱いで。早く寝ようよ」

「脱ぐの?」

「着てやるの?」

 ヒューは目を閉じたまま面倒くさそうに眉をしかめると、「姉さまシャワー浴びてんじゃん。良い匂いする……」と言って私の胸に顔を入れようとします。

「あの、こういうことは、やっぱり恋人同士じゃないと……」

「えっ? 僕たち恋人でしょ?」

「そうなの??」

「二日もデートして、指輪まであげたじゃん」

 ヒューは痛む頭を手で押さえながら薄く目を開けると、私を睨みました。

「まだ何か欲しいの?」

「そんなこと、ないけど……」

 ヒューは完全に興醒めした、といった様子でベッド脇の水差しに手を伸ばし水を汲むと、ベッドに座ってゴクゴク飲みました。それから「ハア―」と大きく息をついて。やっとベッドから半身を起こした私を眠そうな目で見つめながら、驚くべき話を教えてくれました。

07.婿にしてくれるの?

「姉さまは誤解してるみたいだから言っておくけど、僕はレイクロード家の正式な後継者じゃないよ。君の父は僕を引き取るのに、簡単な紙一枚書きはしなかった」

 オレンジ色の淡いランプに照らされて、ヒューの瞳は燃えるように揺れて見えました。

「レイクロード家の正式な当主は姉さま、あなただよ。僕はただあなたの名を借りて行動しているに過ぎない。それでもこの家のために今まで尽くしてきたのは、育ててもらった恩を返したかったからだ」

 私はあまりのことに言葉を失って、ただヒューを見つめていました。その顔がよほど愚かに見えたのでしょう、

「ちょっと調べればわかることなのに。姉さまはホント僕に興味ないんだね」

 ヒューは憐れむような眼で私を見つめます。

「国境伯の仕事はわりと好きだったけど。姉さまがもう僕を必要としていないなら、そろそろこの家から出て行こうかな。明日からは姉さまが当主として頑張ったらいい。婿でも何でも取ってさ」

「ごめんなさい、私、何も知らずに……」

 喉につかえる言葉を絞り出すように、やっとのことで私はそれだけを言いました。

「姉さまは本当に、何も知らないまま幸せに生きていける人だよね。僕にはもう無理だから。今日ここでサヨナラしよう」

 ヒューは眩しそうに目を細めて笑いました。これはヒューが二度と会わない人と別れる時にする仕草です。

「ヒューお願い。どうかこのままうちにいて。お父様が書かなかったという紙は、私が書くから」

 私はすがるような目でヒューを見ました。実際私にはヒューの他にすがる人がいなくて。

「まだタダ働きさせるつもりなの? 強欲だねえ」

「お金のことはわからないけど……今まで通り、全部ヒューに任せたいの。うちにあるものは全て自分の物だと思って、好きに使って」

 私はヒューを心から信頼していました。ほとんど依存していたと言ってもいいくらいです。

「それに姉さまが書くって、陛下のお許しは得てるの?」

 ヒューは可笑しそうに笑うと、

「僕を当主にしたいなら、婿にしてくれないとダメだよ」

 無知な私に優しく教えてくれました。

「僕のこと、婿にしてくれるの?」

「するわ。ヒューさえ嫌じゃなければ……」

「へえ」

 ヒューは頬杖をついて少し思案していましたが

「考えてみたら、僕姉さまのことそんなに知らないや。まずはお互いじっくり付き合ってみないとね。別れるにしても、早い方がいいわけだし」

 そう言うと、ベッドにいる私の真正面によいしょと座り直しました。

「僕と付き合うんだね?」

「はい……」

 私が小さくうなずくと、ヒューは私の顔を両方の手のひらで包むようして、優しいキスをくれました。

 これほど怒らせたのだから何をされても仕方ないのだと私は観念しながらも震えていましたが、ヒューは驚くほどやさしく私に触れてくれました。これほど優しく私に触れる人は他にいないのではないかと思えるほどです。私は不思議な感じがしました。ヒューの瞳は酔っているせいか、少し潤んで見えました。

08.恋人同士

 こういう朝というのはどんな顔をすればいいものなのでしょう。相手の方より早く起きて、身なりくらい整えておかなければ幻滅されてしまうのかもしれませんが……。私はやっぱりスヤスヤ寝ており、ヒューのつぶやく声でボンヤリ目が覚めました。

「頭いって……」

 ヒューは二日酔いなのか、私の隣で眉間にしわを寄せながら頭を抱えていました。私は何も着ていないことに困ってしまって。ヒューがそばにいるうちは布団から出られない気がします。
 昨夜のことは本当に、何度思い返しても不思議な感じがしました。賢くて皮肉屋で何でもハッキリ言うあのヒューが、恋人にはこれほど優しくするのかと、私は有難いような勿体ないような気がして、頭がまだ混乱しているのでした。

 ヒューは下着しか身に着けていないことを意に介する様子もなく、水を飲み、部屋をスタスタ歩きまわりました。それがあまりにも慣れた感じですので、ヒューにとっては昨日のことも一夜限りの、酔った上での口約束で、何も覚えていないのかもしれないと私は悲しくなりました。そんなこんなで私がしょんぼり寝返りを打っていますと、

「姉さまさあ」

 ヒューが私の隣に戻ってきて、おもむろに言いました。私はまた何かしてしまったかしらと不安に思いましたが、

「細いのに胸あるね。ズルいよ……」

 ヒューは熱いため息をつくと私の背中にぎゅっと抱きついてきました。

「ヒュー、あの、昨日のこと、覚えてるの……?」

「えっ? 酔ったくらいで記憶無くしたりしないよ、僕」

 ヒューは可笑しそうに笑うと、昨日とは違う調子で私の体を触ります。私は忘れられていなかったんだという安堵と、これでよかったのかなという不安を同時に覚えました。家族とも慕う人とこのような関係になってしまって、年上の私の責任ではないかと自分を責めたりしたいのですが……。ヒューは私にそのような思考時間を与えてはくれませんでした。


「恋人同士っていうのはね、必ず腕を組むか手を繋いで、寄り添って歩くんだよ。一日三回は抱きしめて、十回はキスするんだ」

 ヒューはまるで先生のように私にいろいろなことを教えてくれました。帰る馬車の中でもウキウキしてとても楽しそうです。指輪をはめた右手をヒューの左手とつなぎながら、私は流れる景色をボンヤリ眺めていました。

「姉さま、僕のこと嫌い?」

 ヒューは何にでもすぐ気が付くので、私の顔を覗き込みながら、心配そうに尋ねてくれました。

「いいえ、好きよ」

「なんか悲しそうな顔してるから。嫌だった?」

 私はゆるく首を振ると、つぶやくように言いました。

「ヒューをうちに縛り付けてしまったような気がして」

 本当にこれで良かったのだろうかと私は悩んでいました。ヒューがそろそろ家を出たいと言うのだから、邪魔してはいけなかったのではないか。私がしっかりすればいいだけのことなのに。どうして私はいつもヒューに頼ってしまうのでしょう。ヒューにはヒューの、開かれた大きな人生があるはずなのに。

「僕はレイクロード家当主の座が欲しいんじゃなく、姉さまが欲しかったんだよ」

 ヒューは私の肩にもたれるように頭を乗せると、優しい口調で言いました。

「姉さまのことがずっとずっと好きだったんだ、言えなかったけどね。家のことは、姉さまを手に入れるための口実に過ぎない」

 つなぐ手をギュッと強くして、私にもたれかかります。

「姉さまとこうして結ばれたということが、正直まだ信じられないよ。無事に家まで帰れるといいけど」

 そう言って私の胸に頬を寄せますので、私はヒューの頭をそっと抱きしめるようにしました。ヒューがこんな弱気なことを言うのは初めての気がして。どこか具合でも悪いのではないかと、私は心配でなりませんでした。

09.帰宅

 私たちは三泊四日、途中宿を取り、馬車に揺られながら旅をして、ついに我が家へ帰ってきました。ヒューは門の前で馬車を降りると、走って邸に入ってしまいます。帰ったらやろうと思っていたことがたくさんあったのでしょうか。
 これほど真面目で優秀なヒューをなぜお父様は正式な後継者にして下さらなかったのか、私は悲しく思いました。ただ「私のことをずっと好きだった」と言ってくれたヒューの言葉が本当なら、たとえ義理であれ姉弟ではない方がよかったのかもしれません。

 私はゆっくり馬車に揺られながら、邸の玄関まで来ました。少し離れていただけですのに、とても長い旅から帰ったかのように思えます。メイドたちと執事がいつものように恭しく礼をして私を迎えてくれました。ヒューは忙しそうにしていたのにわざわざ戻ってきて、私の手を取り、馬車を降りるのを助けてくれます。二人連れ立って玄関ホールに入りかけたとき、ヒューがふと従者たちに振り向き、思い出したように言いました。

「そうそう、僕たち恋人同士になったんだ。気を使ってね」

 私はとても恥ずかしいような申し訳ないような気がして、思わず両手で顔を覆ってしまいました。ヒューと私が幼い頃から仕えてくれている従者たちばかりですから、皆がどう思うかと想像すると胸が苦しく、重い罪を犯したような気持ちになります。

「そんなに恥ずかしがらないでよ、姉さま。誰も笑ったりしないよ。僕たちもう大人なんだから」

 ヒューはポンポンと私の頭を撫でると、立ち尽くす私をギュッと抱き寄せてくれました。

「それに僕、隠し事は嫌いなんだ」

 それだけは譲れないという口調でヒューは付け足すと、私の手を取って、部屋まで送ってくれました。

◇◇◇

 読みかけの本、刺しかけの刺繍、窓辺の小さな花たち……。
 私の部屋は宮廷舞踏会に行く前と何一つ変わらず、変わってしまったのは私自身だけなのだと私は薬指の指輪を見ながら思いました。私が力なく椅子に座っているとコンコンと軽いノックがして、メイド長のエマがそっと入ってきてくれます。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 エマは恭しくお辞儀したあと、心配そうに私を見つめてくれました。

「何か酷い目に遭ったのではないですか? お顔の色が優れませんが」

「いいえ、大丈夫よ。ヒューはとても優しかったわ」

 私はため息をつくように言って、窓の外に目をやりました。エマが淹れてくれたお茶を飲むとホッとして、やっと家に帰ってきたという気持ちになれます。

「長旅でお疲れでしょう。お休み下さい」

 エマが勧めてくれるので、まだ昼間なのに私はベッドで休むことにしました。ヒューとのことは本当に夢のようで。姉弟として無邪気に過ごした時間がむしょうに懐かしく、私は久しぶりに昔の、子供の頃の夢を見ました。

10.逃げられない

 ふと目を覚ますと日暮れでしょうか、沈む太陽の最後の光が見えました。私がぼんやり首をもたげると、私の左手首をつかんで指をあて、懐中時計を見ながらヒューが真剣な面持ちで脈を測っているのが見えました。ヒューは目覚めた私の顔を覗き込むと、一息に言いました。

「姉さま普段からこんなに寝てるの? どこか悪いんじゃない? 医者には診せてる? お茶に何か盛られてるんじゃないの?」

 ヒューがあまり矢継ぎ早に質問しますので、私はぽかんとしてしまって、ただヒューの澄んだ瞳を見つめておりました。

「何か食べない? 食欲ある?」

 私はゆるく首を振ります。

「ダメだよ、食べなきゃ。今持ってこさせるから」

 ヒューはそう言うと、メイドに指示してパンとスープ、サラダ、肉料理をテーブルに並べてくれました。私はパンとスープだけをゆっくり頂きました。

「いつもこんなに食べないの?」

 ヒューはモグモグ食べて自分のお皿を次々空にしながら、母親のように私の体調を心配してくれます。ヒューの食べるさまは見ていて気持ちがいいほどでした。男の子だし、まだまだ成長しているんだと私は嬉しく思いました。

「私はこれ以上育たないから……。ヒューはお腹が空いているのね」

「当たり前だよ」

 ヒューは私の分まで難なく食べてしまって、私たちはお皿を下げてもらいました。

「今度から姉さまの診察には僕も同席させて」

 ヒューはメイドたちにも約束させると、食後のお茶もそこそこに皆を部屋から下がらせました。ヒューは馬車の中ではだいぶ落ち込んでいるようでしたのに、家に着いた途端見違えるほど元気になりましたので、私は無事に帰ってこられて良かったと心から思いました。

◇◇◇

「もう逃げられないだろうから言っておくけど」

 ヒューは私の部屋の鍵を内側からガチャリとかけると、私をベッドに座らせて、見下ろすように言いました。

「僕はそんなに良い人間じゃないから。今まで優しくしてたのは、姉さまを油断させるためだよ」

 ストンと私の隣に座ると、私の右手をつかんで、薬指にはまった指輪を冷たく眺めます。

「姉さまより素敵な女性なんてごまんといるんだろうけど。姉さまほど僕をイラつかせる人って他にいないんだ。姉さまを見てるともっともっと困らせて、泣かせたくなる。でもそれが僕以外の男だなんて絶対に嫌なんだ。姉さまを泣かせるのも喜ばせるのも、僕一人でいい」

 私は何と返したらいいかわからず、困惑した瞳を向けました。

「そう、その顔」

 ヒューはうっとりした目つきで私の顎を撫で、少し上に向けると、長いキスをくれます。

「そうやってウルウルした瞳で泣きそうに困って、僕に赦しを乞うてよ。姉さまはそのために生まれてきたんだから」

 ベッドに押し倒されて両手を掴まれると、私は怖くなって目をつぶりました。ヒューの中にはいろんな気持ちが渦巻いていて、これからおそらくその全てを受け取ることになるのだろうと私は思いました。

11.刹那の愛

 ヒューが言っていた「恋人は一日に三度抱きしめ、十回キスをする」というのは一般的な習慣なのかと私は思っていましたが、どうもヒュー自身が独自に決めたルールのようでした。ヒューはこのマイルールを非常に重視する性格らしく、本当に律儀に、忙しい仕事の合間を縫っては私を抱きしめ、キスをくれます。
 私は嬉しいような申し訳ないような気がして、ヒューのスケジュール調整がしやすいよう毎週似たような生活を心がけ、予定は必ずヒューに伝えるようにしました。これほど一途に何かを守るという経験は、今までにない気がします。

 ヒューはどれほど腹を立てても、私に手を上げることは決してありませんでした。ケガをさせることもありません。どんなに責めても、私が修復不能に傷つくのを恐れているようなところがありました。壊したいのに壊れてほしくないと思っているような、ワガママで矛盾した気持ちでしょうか。

「姉さまは小さくまとまりすぎなんだもの。もっと僕とぐちゃぐちゃになろうね」

 そう言って私にもお酒を飲ませ、朝までご機嫌な時もあれば、

「こんな奴隷みたいな生活から救い出してくれる白馬の騎士が姉さまにも現れたらいいのにね。まあ一人残らず潰すけど」

 鋭い眼光のまま一点を見つめ、ひどく怒っているときもあります。

「姉さま楽しい? 僕は姉さまと恋人同士になれてすごく嬉しいんだ。姉さまは声も可愛いし。姉さま大好き。大好きだよ」

 そう言って私の胸に顔をうずめ甘えたかと思えば、

「何も知らずのほほんと育った君が許せない。一生かけて償ってよ。……なーんて、嘘だよ。僕のそばで笑って」

 心から切なそうに私を抱きしめ「愛してる」と囁くのです。


 ヒューが見せるこうした表情のすべてに本物の感情があるので、私はなんて複雑な人なんだろうと思いました。ヒューは今までどれほどの苦しさや抱えきれない困難を経験してきたことでしょう。
 従者たちに指示するとき、仕事の時、ヒューは本当にいろんな顔を持っていて、私以外の人には感情を抑え適切に対処しているようでした。昨日「良いね」と飾った絵を今日には「もう要らない」と言ったりするヒューですが、私のことは今のところ捨てずにいてくれるようです。しばらくしてから「あの絵はどこに行ったっけ?」と訊くこともあるので、私はヒューの嫌う物は目の届かない所にしまっても、捨てはしないようにしていました。

「君は一生僕の中で生きるんだ。僕を通してしか世界を眺められない。井戸に棲む蛙と同じさ。僕の与える快楽しか知らないまま死ぬんだよ」

 私の隣で満天の星を見上げながら、ヒューは願うように言いました。我が家には地下牢もあるのですが、ヒューは私をそこに閉じ込めておくようなこともしません。
 私たちは二人で海に出かけ、波打ち際を裸足で歩いたり、浅瀬で魚を追ったりしました。厳しい言葉と裏腹に、私に触れるヒューの指先は刹那の愛に溢れていて。私は炎と氷に同時に包まれるような不思議な感覚を持ちました。

「あの……何か私にできることないかしら?」

 ヒューの仕事を何も手伝えない私は、控えめに訊いてみました。

「何もないよ。元気で、笑ってて」

 ヒューはいつもそう言って微笑むと、危険な任務や遠征にも、黙って出かけてしまうのでした。

12.怪しい手紙

 九月になり、ヒューの誕生日が近づいてきました。ヒューは今年十八歳になります。ヒューと私の誕生日はふた月しか違わないので実質二歳差のようなものなのですが、学年では三つ違っていました。ヒューのお仕事も休暇明けで、いつにもまして忙しいようです。

 私は相変わらず申し訳ないほどのんびりした毎日を送っていたのですが、そんな私の元へ差出人不明の不思議な手紙が届くようになりました。その内容が、怖くて……。時候の挨拶もなく内容は唐突で、筆跡もわからないよう活字に似た無機質なアルファベットで書かれています。

「あなたは義弟とずいぶん親・密・な・関係のようですね。あなた方には秘密が多そうだ」

 私は怖くて、思わず白い便せんを取り落としてしまいました。
 どうしましょう……。ヒューといろんな所へ行っていたことが目撃されているのでしょうか。噂好きな人がほとんどの狭い貴族社会ですから、私たちの話が広まるのも時間の問題だったのかもしれません。

 私はメイド長のエマにお茶を淹れてもらうと、何とか飲んで心を落ち着けようとしました。誰かがわざわざ夜中に敷地内へ投げ込んでいくようで、この手紙が誰のものなのか、目撃した人はいないそうです。差出人のない封筒に、私の宛名だけ書かれていて……。
 私は怖くて仕方ありませんでした。ヒューに何かあったらどうしましょう。私とのことで侮辱されたり、お仕事に支障が出たりしたら……。ヒューは普段私に何も言いませんが、既に弊害は出ているのかもしれません。
 次の手紙が来たのは、最初の手紙から一週間後のことでした。

「私はあなた方に関する秘密を全・て・知っています。動かぬ証拠もありますよ。この秘密をばらしたら、国じゅうちょっとした騒・ぎ・になるでしょうね。あなたの愛・す・る・弟君がどんな顔をするか楽しみだ……」

 力強く付された傍点が怖さを助長していました。私たちに関する秘密とは何なのでしょう? それこそ、ヒューが私を恨むことになった原因なのでしょうか? 私はそれを知りたいような、知るのが怖いような気がして震えが止まりませんでした。
 「警察に通報しましょう」とエマは言ってくれるのですが……。そのほうが秘密を(おおやけ)にしてしまう気がして。言ってしまって大丈夫なのでしょうか?
 私はヒューに相談しなきゃしなきゃと思いながら、この程度のことも自分で解決できないのかと呆れられる気がしてなかなか言えませんでした。お仕事の邪魔になっては悪いし……。本当は、真実に向き合うのが怖かったのです。ですが最後の手紙がきて、いよいよこれが自分ひとりでは対処できない問題であることを悟りました。

「話は簡単です。あなたにこの秘密を買い取って頂きたい。額はお・気・持・ち・で構いませんよ。受け渡し方法はまた後日、お知らせしましょう」

 お金……。私は困って途方に暮れてしまいました。私には自由にできるお金がないのです。いえ、あるのかもしれませんが、私は家計を全く把握していないのでわからないのです。これはいよいよヒューに相談しなければならない。私は覚悟を決めて、ある夜ヒューと一緒に食事をとった後、お茶を飲みながらこの話を切り出すことにしました。

13.お金がほしい

 今夜のお茶もいい香りがしました。食後の優雅なお茶の時間におよそ相応しくない単語を放ちながら、私はおずおず切り出しました。

「ヒュー、あの……お金、あるかしら?」

「えっ?」

 ヒューはちょっとびっくりした顔をしながら、私を見つめます。

「何がほしいの? 何か足りなかった?」

 ヒューはどんな催しに何が必要か私より詳しく把握していますので、服でも靴でも私が頼むより先に三種ほどの候補に絞って私に提案してくれるぐらいですから、私が自分から何かを欲しがるということは滅多にありませんでした。私は「お金」という単語を口にしたことすら初めてだったかもしれません。

「何が必要なの?」

「お金が……ほしいんだけど」

「うん」

 ヒューは頷いてお茶をゴクンと飲むと、立ち上がって私の部屋の鍵を内側からガチャリと閉めました。そして私の前の席に戻ると、

「何があったか、説明してくれるかな?」

 テーブルの上で両手を組み優しい先生のように微笑んで、私の話をきいてくれました。

◇◇◇

「えっと……今月のはじめから、こんな手紙が来るようになって」

 私は白い封筒をそっとヒューの前に置きました。ヒューは封筒を裏返し、差出人名がないことに眉をひそめながら、

「見ていい?」

 私に訊きます。私がうなずくと、ヒューは三通の手紙にサッと目を通しました。

「額は気持ちでって書いてあるんだけど……いくらくらい用意すればいいものかしら?」

「姉さまはいくらぐらいならいいと思う?」

 ヒューはクスッと笑いながら逆に私に尋ねました。

「えっ?」

「そもそも、姉さまって物の値段わかるの? 今着てるドレスは? 靴は? さっき食べた夕食は? このお茶は? 値段、わかる?」

「ううん、全然……」

 私はしょんぼりしながら首を振りました。そうなのです。私は物の値段をほとんど知らないのです。必要な物はメイドに頼めばすぐ用意してもらえるので、私は値段を見て支払いをする、ということをしたことがありませんでした。

「大体お金自体見たことないんじゃない? 金貨とか銀貨とかさ」

「そうね」

「凄いね、いかにも貴族って感じ!」

 ヒューはフフフッと嬉しそうに笑うと、

「まあ姉さまほどの貴族なら仕方ないし、そうあるべきだと思うよ、うん。姉さまは正しく育ってる。僕だって現物はあまり見ないしね。モノの値段は知ってるけど」

 ヒューはしゅんとしている私を励ますように、頭を撫でてくれました。

「そう落ち込まないで。額さえわかれば姉さまだって計算できるよ。僕たちが数字を出さないのもいけなかったね。ただ、この邸を維持する費用をローソク一本に至るまで計算して出すと大変だからね。そういう面倒なことは執事に任せてたから」

 ヒューは「さて、と」と話を本題に戻すと、例の手紙を持って軽く振りながら言いました。

「この手紙に支払うべき額は、ゼロだ。こんなもの、何の価値もないよ」

「それで……大丈夫かしら?」

「うん」

 ヒューは大きくうなずいて、美味しそうにお茶を飲みます。

「大体、貴族のお嬢様に『金を出せ』って言ってもすぐ出てくるわけないの、ちょっと考えればわかりそうなものなのにね。相当僕たちに疎い人間の犯行なのかな。あるいは、そう思わせたい誰かか……」

 ヒューはフフッと笑うと、形の良い顎を撫でながらしばらく考えていました。心なしか、この状況を楽しんでいるようです。

「このまま完全無視を決め込んでたら、こいつ次はどう出てくるつもりかな? なんか面白くなってきたよ」

「そんなことして、ヒューは危なくない?」

「僕は銃くらいなら撃てるし。危ないのは姉さまのほうでしょ。メイドだけ連れて外出とか、しないでね」

「うん」

 ヒューは私の両手を握って目を見ると、それだけは固く約束させました。そして笑顔に戻ると、

「僕の誕生日さ、やっぱり湖畔の別荘に行こうよ。デートしてオペラ見て、夜はシェフを呼んでディナー。楽団の生演奏も聴こう」

「そんな派手にして、大丈夫?」

「むしろ挑発してやろうよ。どっからどう見ても恋人同士にしか見えないラブラブデートして、周りに見せつけんの。そもそも僕、姉さまと付き合ってること隠してないし」

「そうなの……?!」

 私はびっくりして、しばらく固まってしまいました。

「うん。血縁でもないんだし、全然問題ないじゃん」

 ヒューは相変わらずあっけらかんとしています。

「それに僕、売られた喧嘩は買う主義なんだよね」

 ヒューはそう言うと不敵に笑いました。私一人どうなることかとハラハラしていましたが、ヒューはもうすぐ来る誕生日を心から楽しみにしているようでした。

14.誕生日デート

 九月の湖畔は真夏の暑さもひと段落して、涼しい風が心地良く吹いていました。私は白いつば広の帽子を押さえながら、水辺をゆっくり歩きます。
 私の腰に腕を回して、ヒューはいつにもましてぴったりくっついて歩きました。どこでもすぐキスしようとするので、私は困ってしまって。

「人のいない所に行かない?」

 私がそう言うとヒューはもっと嬉しそうにするので、結局ヒューの術中にはまってしまっている気がします。

「僕たちの秘密、知りたい?」

 ヒューが私を抱きしめて誘うように訊くので、私は返事に困ってしまいました。

「私、知るのが怖いの……きっと私の罪、よね?」

「じゃあ知らなくていいよ」

 私が戸惑うと、ヒューは怖いほどあっさり提案を引っ込めてしまいます。

「私、どうしたらいいかな……?」

「姉さまって本当、一人じゃ何も決めないんだね」

 私はまた怒られたと思ってしょんぼりしましたが、ヒューは始終嬉しそうでした。

「姉さまの、なんでも僕に相談してくれるところ大好き」

 ヒューは私の鼻や頬に降るほどキスをくれると、

「僕とキスして。ずっと、僕を愛して。それだけでいいから」

 そう言って、すべてを甘くぼかしてしまうのでした。

◇◇◇

 町を歩きオペラを鑑賞して、楽しい時間が過ぎていきました。一つのジェラートを互いに食べさせあって。かなり恋人らしいアピールはできたと思います。日も暮れるので、また別荘へ戻ろうと歩いている時でした。

「ヒュー、あの……」

 私はヒューにしか聞こえないくらいの小声で、そっと話しかけました。

「さっきから誰か、後ろからついてきてる気がするんだけど……」

「気づいた?」

 ヒューは、寄り添って歩く私を嬉しそうにぐいと引き寄せると、

「姉さまにまで気づかれるようじゃ、よっぽど素人なんだろうね」

 クスリと笑って囁きます。

「町からずっとだよ。よっぽど僕たちに用があるらしい。ちょっとからかってやろうか」

 ヒューはそう言うと、別荘から逸れて人気のない林のほうへ歩を進めました。私は武器を持った怖い人だったらどうしようと思いながら、ヒューにぴったりくっついて歩きます。
 夕暮れの太陽が優しく私たちを照らして、季節は夏から秋へ変わろうとしていました。背の高い木々が一定間隔に植えられている遊歩道に来たとき、ヒューはくるっと後ろを振り向き、大きな声で言いました。

「出てきなよ! 下手な尾行者さん。僕たちに用があるんだろ?」

 林にはヒューの声だけが響いて、しばらく何も起きませんでした。ヒューは注意深く辺りを見回しながら、さりげなく懐の銃に手をかけています。私はヒューの左腕を胸に抱くように掴んで、息をのんで見守っていました。数分の後でしょうか、帽子をかぶった人が一人、太い木の陰からのっそり姿を現しました。

15.少年

 木立から出てきた人は、まだ少年のようでした。十歳くらいでしょうか? 黒いキャスケットを目深にかぶり、土で汚れた服を着た、貧しい子供のようです。
 ヒューは銃にかけていた手をスッと離すと、髪をかき上げ、少し困ったような表情をしました。その子はそんなヒューの様子を気にするふうもなく、帽子の下から私をじっと見つめて言いました。

「サラさん、だよね? 僕、手紙の差出人に頼まれて来たんだけど。お金、用意してくれた?」

「こんな子供に使い走りさせるのかよ……」

 ヒューはそのことがショックだったらしく、ハアと大きなため息をつきました。

「うちに手紙を放り込んだのもお前か?」

 少年はヒューの質問には黙ってしまって、答えません。

「金が要るんだろうけど。もっと仕事を選べないのか」

 ヒューの言い方はぶっきらぼうですが優しいものでした。それでも少年はヒューの質問には頑なに答えず、ただ私だけを見つめています。
 そのうち少年が黙ったまま二、三歩私に近づいてくるので、ヒューは私を背後にかばって少年を睨みつけると、そっけなく言いました。

「手紙の答えならノーだ。あんたらに出す金はない。帰ってくれ」

 その時初めて少年はヒューを見て、冷たい声で言いました。

「僕はおねーさんに訊いてるんだけど?」

 二人の無言の睨みあいが続いて。私は何も言えず、ただヒューと少年を交互に見つめていました。


「おねーさんはそうやって、一生その人のオモチャになって生きてくの?」

 さりげなく放った一言なのでしょうが、あまりに重く、私はヒューがグッとこぶしを握るのを見ました。

「お前……言っていい事と悪い事があるだろ」

 背後からなので顔は見えませんが……。ヒューは相当怒っているように見えました。拳を震わせ、今にも少年に殴りかかりそうな様子です。私はヒューの背後からそっと顔を出すと、少年の前まで行ってしゃがみ、静かに答えました。

「オモチャには、なってないよ。大切にしてもらってるよ」

 少年は私を見下ろすように見つめていましたが、何も言いません。私はこの貧しい少年がなぜか昔のヒューに似ているような気がして、つい少年をじっと見つめてしまいました。

「お金は出せないの。ごめんね……」

 少年は右手を伸ばすと私の頬にそっと触れて、たった一言

「弱虫」

 とだけ言い残すと、林の中へ姿を消しました。

16.ヒューの涙

 少年が去ってしまうと木立にはまた涼しい風が吹いて。辺りは静かな湖畔に戻ったようでした。
 不思議な夢から覚めたような気持ちで私がぼんやり立ち尽くしていると、ヒューは私に歩み寄り、頭から抱きしめて長いキスをくれました。

「あいつ今は子供でも、五年もしたら立派な大人になるよ」

 ヒューはキスの合間に、ため息をつくように言います。

「僕はあいつが今にも姉さまにキスするんじゃないかと思って、嫌だった」

 ヒューはキスも上手で、私は体の芯から力を抜かれていくような気がしました。

「姉さまは無防備過ぎるよ。浮気、しないで」

 私を支えて木陰に座らせてくれると、ヒューは私の首や胸元に跡が残るほど強いキスをしました。力が強くて、怒っているのがわかります。

「ごめん、なさい……」

 私はやっとの思いでそれだけつぶやくと、

「もう、日が暮れちゃうよ」

 夕暮れの残光を頬に受けながら、少し焦って言いました。この辺りは夜真っ暗になって、獣も出てきてしまいます。秋の日は短いし……。
 ヒューは名残惜しそうでしたが、私を立ち上がらせると、手を繋いで別荘まで帰ってくれました。静かに乾杯してディナーは頂いたのですが、楽団の生演奏はキャンセルしてしまって。お互い言葉少なに、今日のことを思い出します。

「もう、寝ようか」

 今夜のヒューはだいぶ疲れているように私には見えました。

「少し飲もう」

 ベッドに座り澄んだグラスに赤ワインを注ぐと、私に勧めてくれます。私は少し口を付けましたが、飲み切れずにしばらく持っていました。ヒューは私の手からグラスを取ると、残りを一息に飲み干してくれました。

「僕、姉さまのことオモチャにしてた?」

 ベッドに入り、私の胸に顔をうずめながら、ヒューは静かにききました。

「そんなこと、ないよ……」

 私も静かに答えます。

「姉さまはオモチャじゃないよ」

 ヒューは私に強く抱きつくと、確かめるように言いました。

「オモチャをこんなに好きになるわけ、ない……」

 私の胸に熱い涙がこぼれて。ヒューが泣くのを見るのは初めての気がして、私は何と言ったらいいかわからず、胸が痛く、苦しくなりました。

「愛してるよ、ヒュー」

 私がヒューの髪を撫でると、ヒューもキスをしてくれて。私たちは抱き合いながら、長い夜を静かに慰めあいました。

17.お花畑の思い出

 湖畔の別荘から帰ると季節はさらに進んで、メイドたちも冬服を着るようになりました。ヒューが新調してくれたドレスや靴も届いて。今度は私に値段を教えてくれます。

 ヒューが忙しすぎないか私は常に心配していましたが、ヒューは国境管理の仕事を決して人に任せたがりませんでした。「人は信用できないからね」と口癖のように言います。
 人に任せたことで過去に痛い目を見たことがあるかのような口ぶりなので、私は何も言うことができませんでした。もう少し年を重ねれば信頼できる部下も増えて、少し楽になるのかもしれません。

 私はお仕事を手伝うこともできないので、ヒューをこれ以上心配させないよう、ただ自分の健康を保つことを心がけていました。「日の光を浴び、よく歩くように」とお医者様も仰るので、毎日家の周りを散歩しています。
 私はヒューが「小さな村みたい」と褒めてくれた広い敷地内を歩いて、放し飼いにされている馬や牛を撫でたり、のんびり羊を追ったりしました。それから森を抜け、小高い丘の麓に差し掛かると、春ならば薄紫色のスミレが群生しているはずの場所があり、私は昔、幼いヒューとここを歩いたことを思い出しました。

「ヒュー、お花は好き?」

「うん」

 私が七歳、ヒューが五歳くらいの時でしょうか。始終一緒にいた私たちは、その日も敷地内を探検して回っていました。薄暗く、ちょっぴり怖い森を抜けた先に綺麗なお花畑を見つけた私は嬉しくて、つい駆け寄って一輪摘もうとしました。

「姉さま、僕の分はいらないよ」

「どうして? とってもきれいよ」

「だって可哀想だから」

 ヒューはお花畑に座る私を優しく見つめて言いました。

「ここで咲いたんだから。そのままにしておいてあげて」

 私はなんて優しい人なんだろうと思いました。その日は二人でずっと、小さな指先で花を触ったり眺めたりして。その後しばらく私たちは毎日ここへ通いました。追いかけっこやかくれんぼ、虫捕りをして遊んで。花々がチョウやハチや、たくさんの生き物に必要とされるところを見ました。


 ヒューは本当に優しかったなあ。出会った時からずっと、今も優しい。
 あの男の子に会ったせいでしょうか、私は幼いヒューと共に過ごした思い出がただ懐かしく、ヒューを愛しく思いました。ヒューが私を責めることは減ってきていて。
 もう私に飽きちゃったかな。ついに愛想を尽かされたのかもしれない。私は自分の役目もそろそろ終わりに近づいている気がして、寂しく思いました。

18.永遠の罪人

 どうしたら、ヒューはもっと楽になってくれるかしら。
 小川のほとりに座って戯れる鳥たちを眺めながら、私は持ってきたハープを奏でました。
 私がそばにいて、いいのかな。いないほうが、いいのかしら。ヒューは時折とてもつらそうに見えるので、どうすればいいかわからなくなります。

 私の居場所が少しでも曖昧になるとヒューはとても不機嫌になって、メイドたちが叱られることもあるので、スッと姿を消すのは難しそうに思えました。
 病気やケガで……。でも健康に気遣うよういつも言われているし、ヒューはお医者様と難しい相談をして、常に私を元気にしようとしてくれるので、それも申し訳ない気がします。

 このままここにいたい、なんて、ワガママかしら。
 以前は、ヒューが素敵な奥さまをもらって幸せに暮らすのを遠くから見守れたらと思っていました。でも、今は……。ヒューから離れることを想像しただけで身を切られるようにつらく、どうしようもありません。一緒にいたい、けれど、それでいいの?
  私はポロンポロンとハープを鳴らしながら、重いため息をつきました。そんな私の視界が突然暗くなって。誰かが後ろから両手で私の目を隠しているのがわかりました。

「だーれだ?」

 私は、なんだか泣けてきてしまって。ヒューの温かい手の中で、ぽろぽろ涙がこぼれました。

「泣いてるの?」

 目隠しした手のひらに涙が付くので、ヒューは驚いて私の頬を拭いてくれました。

「なんで泣いてるの? 何かあったの?」

 ヒューは自分以外の原因で私が傷つくことを極度に恐れるところがありました。私は何と言ったらいいかわからず、ただヒューの胸に顔を押しつけ、静かに抱きしめてもらいます。今だけは最高の恋人でいたい、のにな。もっとヒューを喜ばせたいのに。

「お仕事、大丈夫?」

「うん。ちょっと時間が空いたから」

「ありがとう。会いに来てくれて」

 私はヒューにキスをしました。やっぱり、ヒューが好き。会えるとこんなに安心するもの。

「僕に会えなくて、寂しくて泣いてたの?」

「うん」

 私がうなずくとヒューはホッとしたように笑って、お返しのキスをくれました。それから私を背中から包み込むようにぴったりくっついて座ると、一緒にハープを弾いてくれます。

「良い音だね」

「うん」

「何か、考え事してたの?」

「うん……」

 私は、本当にヒューには何も隠せないなと思いました。私たちの秘密が明らかになったら。その瞬間に、この関係は終わるような気がします。終わっちゃうの、悲しいな……。
 私は永遠に罪人でいたい気がしました。この人に捕えられたまま、償いきれない罪の中で、ずっと一緒にいたい。

「僕のこと、好き?」

「うん」

「どのくらい好き?」

「世界で一番、好き」

 素直に言えて、私はホッとしました。

「僕と離れたくない?」

「そう、だね。でもヒューに全てを(のこ)して消えてしまいたいと思う時もあるよ」

「どうして?」

「私、邪魔なのかなって思うから」

 ヒューは私の頬から首、肩を撫でるように何度もキスをくれました。

「邪魔じゃないよ」

 ため息をつくように言います。

「ヒューには幸せになってほしいの」

 私の願いはそれだけでした。私といても、いなくても、笑って。幸せでいて。

「僕は幸せだよ」

 ヒューはそう言ってくれて。私たちはいつまでも、木陰の草地で抱きしめあっていました。

19.追悼礼拝

 私の家の敷地内に教会があるのは、歴代家族のお墓があるためでした。「金持ちの墓は荒らされやすいから、自前で管理するんだよ」とヒューが教えてくれたことがあります。
 ふだんあまり行かない邸の北側のよく日の当たる丘に、私の先祖の墓地はありました。お父様が亡くなられてそろそろ一年が経とうとしていたので、いろんな方の予定を調整して、ある冬の午後、追悼礼拝を行うことになりました。


 礼拝には百名近い方が来て下さいました。遠い親戚、お父様のお知り合い、ヒューのお仕事関係の方、貴族のお付き合いとしてお呼びする方……。私が会ったことのない方も多く、社交下手の私は緊張しましたが、ヒューがいつも隣にいていろいろ教えてくれますので、私はとても助けられました。

 礼拝が終わり、会食をして、食後のお茶でおもてなし……。私はかなりの疲労を感じましたが、何とかつつがなく終われそうかなと思った時でした。お客様のお見送りを終え、庭のベンチで休んでいる私に後ろから声をかける人がありました。

「サラお嬢さんだね?」

 貴族のアクセントではないので、町の人だろうと思います。

「はい、そうですが」

 私が振り向くと、そこにはあの少年のように黒いキャスケットをかぶった、でも大人の男の人が立っていました。礼拝に来た方ではないようで、庭師のような格好をしています。

「どなたですか」

 メイド長のエマが私をかばうように前に立ち、その方に尋ねました。

「ちょっとそこのお嬢さんに用があるんで」

 その方はニヤッと笑うと、例の差出人不明の白い封筒と同じ物を持って、顔の前でヒラヒラさせました。この人が差出人だったのかしら……。私はあまりの不安で、一気に顔から血の気が引くのがわかります。

「ずいぶんコケにしてくれたねえ。嘘だと思ったのかい?」

「いえ、それは……」

「金なら要らねえよ。もう別口から取ったからな」

 その人はへへッと笑うと、私たちの方へ近づいてきました。エマがベンチから腰を上げた私をかばいながら後ずさるので、私もエマの肩に手を置いて、ゆっくり後ろへ下がります。ちょうど建物の陰で、人目に付かない場所でした。

「それより訊きたくねえかい? 例の秘密をさ。まあもう町に出りゃあ誰でも知ってることだからよ、あんたんとこの使用人にでも聞けばいいんだろうがね」

 みんな知ってる……? 私は驚いて思わずエマの顔を見ました。エマは表情を変えないよう努めていましたが、一瞬ぎくりとしたように見えたので、私は悲しくなりました。私以外、みんな知ってる……。

「今から話してやるからよ。耳かっぽじってよく聞くんだね」

「結構よ。下がりなさい」

 エマが気丈に言ってくれるのですが、この人にはちっとも堪えていないようでした。

「おいおい、俺は今日ここの招待客の連れで来たんだぜ? 勝手に追い返すのがこの家のマナーかい?」

「どこのどなたです」

「それは言えないね」

 男の人は笑うと、さらに私たちのほうへ近づいてきます。

「あんたも年増だが、なかなかじゃねえか」

 キッと怒ったエマにまでこの人が手を伸ばそうとするので、私はエマの手を引いて逃げようとしました。ちょうどその時、

「何の騒ぎだ?」

 私たちの間にスッと割って入ってくれた人がいました。ヒューだ。ヒューはいつになく冷酷な表情で、この男性を見下ろしています。
 私はヒューが来てくれてよかったと思いながら、ヒューの目の前で私たちの秘密が明かされることを恐ろしく思っていました。ヒューはエマに何事か囁いて下がらせたので、この場にはヒューと私とこの男性の三人だけになりました。

20.秘密

「おいおい、騎士(ナイト)のような顔してるがあんただってこの子を脅してんのは同じだろ? まああんたは金じゃなく、体で払わせてるようだが」

 その男性は帽子の下からヒューを睨むと、二ヤリと笑いました。

「過去の罪をダシに女をいたぶるのは楽しいか? それとも何も知らせず甘い恋人気取りか。良いご身分だこって」

 ヒューは冷酷な表情のまま、グッとこぶしを握りました。その様子が可笑しいのか、男性が煽るように続けます。

「おっと、ここで俺の口を塞いでも無駄だぜ? この噂は誰でも知ってる。人の口に戸は立てられねえってな」

「今すぐここから立ち去れ」

「それはた・だ・の・同・居・人・であるあんたの命令かい? それとも当主であるお嬢様のか?」

 私は怖くなって、ヒューの上着の裾を後ろからぎゅっと掴みました。聞きたくない、けど、聞かなきゃ……。私以外皆知ってると言われては、これ以上無知を通すのはあまりにも無責任な気がします。
 男性は私たちが止めないのを見ると、勝ち誇ったように語りだしました。

「半年ほど前、ある日記が発見された。サラお嬢様、あんたの父親の日記だ。年寄りの元執事が主人の死後も大事に保管してたようだが、その執事もとうとう死んじまって、遠縁にあたる男が遺品を整理したものの、外国暮らしが長くこの国の字を読めないって言うんでね。知り合いである俺が訳したってわけだ。しかしなんでこんなもん後生大事に取っといたんだろうねえ。いつか処分するつもりだったんだろうが……」

 男性はここで一息つくと、ゾッとするような笑みを浮かべて私を見ました。

「お嬢さん、あんたの爺さんは人殺してるよ。このヒューって男の祖父をさ」

 えっ……?
 私は意味が分からなくて、その言葉を脳内で繰り返しました。
 私のお爺様が、ヒューのお爺様を殺している……?

「この家も妻もすべてが欲しかったあんたの爺さんは、王家の血を引くレイクロード卿を事故に見せかけて殺害し、何食わぬ顔で後釜に座った。家も女も乗っ取ったってわけだ。その後生まれてきたのがあんたの母親。日記を書いた父親は、その婿だ」

 王家の血を引くレイクロード卿……。
 私はヒューの背後からそっとその横顔を見ました。ヒューは顔色一つ変えず、でもとても悲しそうで。この人の話を否定しません。
 私はヒューの上着を掴んでいた手を力なく離しました。ヒューが陛下と似ていたのは、偶然ではなかった……。

「あんたの父親、相当悩んでたようだぜ? 妻や娘にだけはこの事実を知られないよう、細心の注意を払ってさ。悩みのタネはこのヒューって男だ。こいつを引き取ったのも手・元・で・監・視・す・る・た・め・ってハッキリ書いてある。レイクロード卿殺害後、相続権は当時十歳だったこいつの父親に移ったが、こいつは当初から突然現れたこの義父を疑っていたらしい。まあ当然だわな。十八で家を出ると、何とか証拠を掴んで父親の死の真相を明らかにしようとしていたらしいが、報われないまま早死にだ。その恨みつらみをたっぷり聞かされて育ったこいつが、何もしないわけねえもんなあ」

 手元で監視するため……。お父様がヒューを後継者に指名して下さらなかったのはそのせいなのでしょうか。私はあまりのショックに呆然としました。ヒューのお爺様も、お父様も、ヒューも、私たちのせいで酷い目に遭って……。

「その怯えたような眼、そそるねえ」

 男性は、話している最中も私ばかり見ては二ヤニヤ笑いました。

「俺たちはこの日記を好色で下世話なある貴族に売った。あんたがはした金をケチったばかりに、今じゃ町までこの話題で持ち切りだ。義弟に復讐される哀れな姉のあんたを悪く言う奴はいないよ。ただ勝手に、不埒な妄想をして楽しんでるだけさ」

「いい加減黙れよ」

「そうカッコつけんなって。あんたこそ、さんざん楽しんで捨てるつもりなんだろ? この子がどう身を落とすか、期待してる下種な輩も少なくないんだ」

 男性はヒューの言葉を嘲笑うかのように私を見つめると、目を細めて笑いました。

「実物を初めて見たが、腐っても貴族だ、可愛いねえ。こんな子が巷に落ちてきてくれるかと思うと、噂を広めた甲斐もあるってもんだぜ。王族殺しか。過去の話だが、どんな咎めがあるやら」

 この人はそう言って低く笑うと、向こうへ行ってしまいました。私はその場に座りこんでしまって。何も考えることができませんでした。

21.最後の夢

 その後どうやって部屋に戻ったのでしょう。何も覚えていませんでした。気付いたらベッドに寝かされていて。多分ヒューが付き添って連れてきてくれたのでしょう。

「ごめんなさい、ヒュー、私……」

 私は悲しくて、ベッドに横になったまま、涙ばかりあふれました。ヒューに申し訳なさ過ぎて、何も言えません。
 ヒューは微笑んで首を横に振ると、私を撫で、おでこにキスをくれました。お互い何も言わなくて。私は何日も寝込み、懐かしい夢を見ました。

「どうして僕と寝たの? 男なら誰でも良かった?」

「そんなこと、ないけど……」

 ヒューの瞳は曇りなく、いつも宝石のように澄んでいました。私はその瞳が大好きで。ヒューに見つめられるたび、ぼんやりした、曖昧な自分がちっぽけに思えます。

「どうして誰とも付き合ったことなかったの? 僕を想ってじゃないよね。男が嫌い?」

「臆病なの。何となく、怖かっただけ」

「ふうん」

 ヒューはまだ疑っている様子で私を覗きこみながら、懐かしそうに話しました。

「学生時代、姉さまが今にも結婚しちゃうんじゃないかと気が気じゃなかったよ。女って十五くらいで決められちゃうでしょ? 父上も病気がちで寝てるし、ろくでもない男が婿に来るんじゃないかとヒヤヒヤしてた」

 ヒューは十二歳から十六歳まで寄宿学校に通っていました。休暇のたび家に帰ってきてくれるのですが、これまでのように毎日会えるわけではないので、ヒューが大好きだった私は寂しくて仕方ありませんでした。三日に一度はヒューに手紙を書いていたことを覚えています。

「ヒューはとても優秀だったんですってね。飛び級で卒業したって」

「姉さまのせいだよ」

「えっ?」

「一刻も早く姉さまの無事を確認したくて、死に物狂いで勉強したんだよ」

 ヒューが恨みがましい目で私を見ながらそう言いますので、私は驚いてしまいました。

「本当なの? どうしてそこまで……?」

「知らないよ。姉さまが僕にお見合いのことまでいちいち相談してくるからでしょ」

「そう、だったかしら?」

「そうだよ。僕が断れって言ったら本当に全部断っちゃって。絶対僕に気があるんだと期待してたのに、帰ってみたら相変わらずのほほんとしてるし。何なの?」

「ごめんなさい」

 私は反省して謝りました。

「でもその間に背も伸びて、見違えるほど立派になったわよね。私の中のヒューは、いつまでも可愛い子供のままなのだけれど」

「僕も驚いたよ、姉さまがあまりにも変わってなかったことに。いつまでも子供みたいな顔してボンヤリしてるんだから」

 ヒューは辛辣な言葉の割にはあどけない顔で笑うと、私をギュッと抱きしめてくれました。

「まあ、僕が教えてあげたから少しは大人になったかな」

 私は恥ずかしくなって、でもヒューの腕に抱かれるのは気持ちよくて、身を任せ、つい甘えてしまいます。

「姉さまって無邪気な子供のようなのに、たまに母親のように大人びて見えるときもあるし。不思議な人だね」

 私はヒューの胸に頬を摺り寄せて、熱い鼓動を聞きました。ヒューはいいなあ。ヒューみたいな素敵な人に抱きしめられたら。誰だって恋に落ちてしまうでしょう。

「でもこんなダメな母、いないと思うわ」

「そうだね」

 私が笑うとヒューは優しくキスをしてくれました。髪に指を入れて撫でてくれるのが嬉しくて。私はいつまでもずっとこうしていたいと思いました。

22.再び王都へ

 幸せな夢から覚めた絶望で、私はほの白い部屋で鈍い瞬きをしました。早朝、でしょうか……?
 ヒューに、謝らなきゃ。謝ってすむことじゃないけれど。そして国王陛下に、私の処分についてご指示を仰がなければ。処刑の可能性は低いでしょうが、国外追放は免れないだろうと思います。ヒューがこの家と国境伯のお仕事を継げますように。私はそれだけを願って、ベッドから身を起こしました。

「起きた? 気分はどう?」

 驚きました。私の様子に気づいたヒューがソファから起き上がり、心配そうに私を見つめてくれます。私はベッドから降りるとヒューの足元に両膝をついて座り、深く頭を垂れました。

「本当に申し訳ございませんでした、殿下」

「やめてよ」

 ヒューはつらそうに笑って私の手を取ると、そっと立ち上がらせてくれました。そして私を包み込むように、強く抱きしめてくれます。

「私たちの秘密、想像以上に酷かったね……」

 私はしょんぼりしてしまって、ヒューの胸でつぶやきました。

「そうだね」

 ヒューも少し笑って、私の額にキスをくれます。

「私、ヒューにこの家をお返ししたいの。陛下にお話して、どんなお咎めも受けるわ」

 私は早くこの家から出て行かなきゃと思いました。過去の罪は消えないけれど。私が去るから、これからは元通りに戻ってほしい。そしてヒューにはこれまで以上に幸せになって―――。

「僕も一緒に行くよ」

 ヒューは私を抱きしめたまま、静かに言います。

「でも……」

「姉さま一人で陛下に謁見できるの? そもそも事前にお許しを得ないと、すぐには会えないよ」

「そう、だよね」

 そうだと思って私は反省しました。手続きとか、何もしてなかった。ヒューは昔からこうやって思いつきばかりの私を助けて、いつも希望を叶えてくれます。どうしてそんなに優しいんだろう。私は不思議で仕方ありませんでした。私の存在自体が許せないくらいでしょうに……。
 秘密が暴かれてしまった後も、ヒューは私をここに居させて、変わらず優しく接してくれました。心なしか、前より優しいくらいです。私は陛下へ謁見をお願いする手紙を書きました。そして陛下のお許しを頂いてから、ヒューと一緒に再び王都へ向かいました。


 決意したものの不安はぬぐえず、私は心配で仕方なかったのですが、ヒューはとてもリラックスした様子で、道中私に花を買ってくれました。

「そんなに心配しないで。僕が陛下にお取り成しするから大丈夫だよ」

 私の手を握って、優しく言ってくれます。

「陛下はヒューのことご存じだったの?」

 私は不思議に思ってききました。

「違うと思うよ、僕も話してないし。ただ何となく親しくさせて頂いててね。見た目が似てるからかな?」

 ヒューもよくわからないようで、首をかしげています。

「でも、絶対大丈夫。僕を信じて」

 ヒューがそう言って抱きしめてくれるので、私は有難くて涙が出そうでした。あと少しだけ、甘えてもいいかな。王都に行くのもこれで最後になるかもしれないと思いながら、私は馬車に揺られてお城へ向かいました。

23.謁見の間

 私たちはお城に着くと謁見の間へ通されました。舞踏会の催された大広間より、もっと荘厳な感じのするお部屋です。ヒューが先に立って歩いてくれて、私はヒューの後に続きました。陛下にお会いするのはやはり怖くて足が震えましたが、ヒューはそんな私の手を引いて、陛下の御前まで付き添ってくれました。

「ヒュー!」

 陛下はヒューをご覧になるなり玉座から駆け下りて、熱いハグをして下さいました。ヒューも陛下と談笑して、二人はやっぱりとても仲が良さそうです。
 私はそんな二人の様子を嬉しく、でも遠い気持ちで見守りました。二人の後方で両膝をついてうつむき、黙って控えます。私はいつまでも待てる気がしました。いつまでもこの時間が続けばいいのに、などと願いながら……。

「サラ、君も大変だったね」

 やがて、陛下が私に呼び掛けて下さるお声が聞こえました。陛下は舞踏会の時と同じように、とても優しく私に話しかけて下さいます。

「亡くなったヒューのお爺様は、僕の大叔父にあたる方なんだ。ヒューと僕はは・と・こ・だったんだね。この事実を知ったとき、僕もとても驚いたよ」

「本当に……お詫びのしようも、ございません」

 私はなんとか申し上げましたが、声が震えて上手く言えませんでした。

「僕たちが生まれる前のことだから……。僕は苦労したヒューの希望を一番に叶えてあげたいと思っているんだけれど。顔を上げてくれるかな、サラ」

 陛下がそう仰るので、私は緊張しながらそっと顔を上げました。私の目の前にはヒューがいて、その後ろには陛下が立っておられ、二人はよく似た笑顔で微笑んでいます。

「ヒューから君にお願いがあるんだって」

 陛下は私にパチッとウインクなさるとそう仰いました。ヒューは私の手をとってゆっくり立ち上がらせてくれると、

「僕と結婚して、姉さま」

 逆に私にひざまずいて、スッと右手を伸ばしてくれます。私はあまりのことに困惑してしまって、陛下とヒューを交互に見つめました。

「ヒューはどうしてもサラじゃないと嫌みたいだよ」

 陛下は微笑んで頷いて下さいます。私は涙ばかりぽろぽろ溢れてきてしまって、両手で顔を覆いました。そんな私をヒューはそっと抱きしめて、頬を摺り寄せてくれました。

「僕と一緒にいて、僕だけを愛してほしい。これからも、ずっと」

 ヒューがそう囁くので、私は今まで抑えていた声を漏らして、ヒューの胸で泣いてしまいました。

「でも、いいの……?」

「逃がさないって言ったでしょ」

 ヒューはそう言って笑うと、私の涙を拭って、誓いのキスをしてくれました。

24.おめでとう

「おめでとう、ヒュー、サラ!」

 陛下は私たちの結婚を大変喜んで下さいました。

「盛大な祝賀の宴を開きたいところだけど。二人きりの時間を邪魔しないほうがいいよね!」

 私たちの噂が町にまで広まっていることを考慮して、陛下がお気遣い下さいます。

「大叔父様の所領でヒューのお父上が継がれなかった分があるから、ヒューに返しておくね!」

 陛下は非常にあっさりしたご様子で、ヒューに新たな爵位と領地を与えて下さいました。

「あと、二人の結婚を祝福する王令を国じゅうに出しておくよ。サラももちろん、何の罪にも問われないからね!」

 陛下は寛大な措置で私をお許し下さると、この夜は来客として私たちをお城に泊めて下さいました。

◇◇◇

「まだ夢みたい……」

 二人してベッドに腰掛けながら、私は以前ヒューに買ってもらった右手の指輪を眺めて不思議な気持ちでつぶやきました。その指輪をスッと抜いて、ヒューが私の左手の薬指にはめ直してくれます。

「僕はこうなると思ってたよ」

 嬉しそうにフフフと笑うので、私は深いため息をつきました。慧眼、と言えばいいのでしょうか。この人は本当に、何という人でしょう。

「陛下は過去の罪で人を裁くようなことはなさらない方だよ。大叔父様だから、謹慎くらいはあるかもと思ったけど。どんな罰が下ろうと、僕は姉さまと共に受けようと思ってた。僕は姉さまと一緒にいられたらどこでもいいんだから」

 私は有難いような恐れ多いような気がしてしまって、ただヒューを見つめました。

「僕の願いは最初から姉さまを自分のものにすること、それだけだったんだ。姉さまにどんな男がいても必ず奪い取るつもりだった。まあ、どんな男もいなかったようだけど」

「なんか、ごめんなさい……」

「いいんだよ。僕が最初の男である方がよっぽど嬉しいわけだし」

 ヒューは私の微妙な顔がよほど可笑しかったのか、私を抱き寄せて頬を指でつつきました。

「父は僕に長い手紙を残して、昔のこと、忘れたわけじゃないんだけど。僕四歳からこの家にいるでしょ? 姉さまは可愛くて優しくて頼りなくて、僕は一目見て好きになった。もっと嫌な人なら恨みもしたんだろうけど……。何も知らない姉さまの優しさは償いとかそういう悲しいものじゃなく、いつも本心からの真心で、僕は本当に癒された。憎むなんてムリだったよ」

 私の涙があふれてくると、ヒューはいつも指で拭ってくれました。

「この気持ちが愛か復讐か、未だにわからないんだけど。物心ついた頃から、僕は姉さまが欲しくて仕方なかったんだ。姉さまは無防備だし、チャンスなんていくらでもあったけど。僕の気持ちに気づかない姉さまに腹も立ったし、ちょっと意地悪したくなったのさ。姉さまは困った顔も可愛いし、体もいいし、もっと前から彼女にしとけばよかったってイライラした」

「そう……」

 私は何と言ったらいいかわからず、恥ずかしくなって下を向いてしまいました。ヒューが喜んでくれてるなら嬉しい、かな。

「僕は噂なんてどうでもよかったんだ。誰に何を言われようと姉さまは僕だけのもので、絶対誰にも渡さないつもりだったから。まあ陛下が王令を出して容認してくれたから、悪い噂も下火になるかもしれないね」

「ヒューって、強いんだね」

 私は尊敬の気持ちを込めて言いました。

「違う違う、こういうのは執・念・深・い・って言うんだよ」

 ヒューはヒラヒラ手を振ると、機嫌よく笑ってくれます。
 ヒューがいなかったら今頃どうなっていたかしらと私は考えこんでしまいました。国を追われ、町の人達に笑われて、見世物になって……。もっと危険な目にも遭っていたかもしれません。私はヒューにいくら感謝してもしきれないと思いました。

「ありがとう、ヒュー。私を助けてくれて」

「お安い御用だよ」

 ヒューは私の鼻と自分の鼻を軽く触れ合わせながら、何度もキスをしてくれました。

「僕が好き? 姉さま」

「うん、好き」

 私はヒューに抱きついて目を閉じると、小さく尋ねました。

「私、どうしたらいいかな……? やっぱり何かお詫びと、お返しがしたいの」

 このまま自分だけ幸せになるのはどうしても申し訳ない気がして。父祖の罪ではありますが、その罪がなければ私は生まれなかったでしょうから……。

「姉さまは本当にいい子だね」

 ヒューは長い腕を巻きつかせるようにして強く私を抱きしめると、耳元で熱く囁きました。

「何をしたらいいかは、僕が教えてあげる」

 そうして私をベッドに沈めて長い長いキスをくれます。私はだんだん気が遠くなってしまって。

「一生愛し合おうね」

 揺らめく灯りを背に、全て思惑通りといった顔でヒューはにっこり笑いました。私は静かに目を閉じて。ヒューの幸せと恩返しということだけをただ願っていました。

復讐婚〜姉さまは永久に僕のもの〜

復讐婚〜姉さまは永久に僕のもの〜

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-01-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 01.王都にて
  2. 02.ヒューと陛下
  3. 03.世間知らず
  4. 04.結婚しないの?
  5. 05.ぴったりの人
  6. 06.素敵なデート
  7. 07.婿にしてくれるの?
  8. 08.恋人同士
  9. 09.帰宅
  10. 10.逃げられない
  11. 11.刹那の愛
  12. 12.怪しい手紙
  13. 13.お金がほしい
  14. 14.誕生日デート
  15. 15.少年
  16. 16.ヒューの涙
  17. 17.お花畑の思い出
  18. 18.永遠の罪人
  19. 19.追悼礼拝
  20. 20.秘密
  21. 21.最後の夢
  22. 22.再び王都へ
  23. 23.謁見の間
  24. 24.おめでとう