シェアハウスの空き

そう言うことあるらしいですよ

それまでずっと一緒というか、一緒に、長い事、連れ合って生きてきて、生きてきた。生きてきたのにある日突然にその、その片割れ、片割れっていうと私は違うんだけど、まあ、一部分っていうかな。シェアハウスの住人っていうか。がいなくなると、例えば、死んだりとか、どっか行ったりとか。そういう事があると、残された側っていうのは意外とどうにかなるものらしい。父の話。私は。こないだ父が死んだ。その話。
「知り合いが言ってたんだけど、旦那さんが無くなって、お母さんが、奥さんが残って、でも、その方も、半年くらいだって言ったかな。おかしくなって、結局、一人でね。家に居て。だから今はそういうホーム、ケアセンターに入ったんだって」
母親が晩御飯の席でそういう話をした。
父が死んで、葬儀ホールに一日安置して、帰省した私と姉が合流して火葬場に行って、火葬して、すっかり骨になって、父の面影も無くなって、父かどうかもわからなくなって、それを割り箸でステンレス製角型バット(深)に入れて、そっから布袋に入れて木箱に入れて御寺さんに一日お預けして、次の日再び御寺さんに行ってお世話になってる御住職にお経を読んでもらって、最後にみんなして布袋になった父を墓に押し込んで、
「お疲れさまでした」
と、ひと段落。とりあえずひと段落ついたその日の夜、その日の夜の晩御飯の時、母親はそういう話をした。
「そういう事あるらしいねえ」
んで、その話に対して姉はそんな事を言った。私は、はーとかへーとか、言いながら興味深くその話を聞いていた。何せいつか死ぬわけだから。必ず死ぬわけだから。誰しもそうだけど。
連れ合いを無くしたら、そういう風になる事もあるらしい。
「あなたは大丈夫なの」
姉がそんなことを母親に聞いた。
「私は大丈夫に決まってるでしょう」
母はそう言った。そんなもんお前。そういう顔であった。
「ブログやりなよ。私アメブロやってるから」
私は母にブログを勧めた。
「そんな事しません。時間が無い」
母親は吐き捨てるように言った。
この一年の間に色々な事があった。一月だったか二月だったかに父がおかしくなって病院に行ったら癌があった。手術が必要になって、姉に手術同意書が届いたらしい。母親のサインと、もう一人の名前が必要だとかで。そのあと手術をしたが、父の内部にいた癌は思った以上に大きく、一度の手術では取れなかった。血が沢山出たんだそうだ。五月のゴールデンウィークに私と姉が帰省した際、父はまだ話していたし、意志の疎通、コミュニケーションも取れた。しかし何も食べずにいたために再び入院することになった。その入院の際、全く何のコミュニケーションも取れなくなって、終末病院に転院することになった。九月下旬、父がもう長くないとのことで、見舞いに帰省した。終末病院に居た父はもう死ぬ感じだった。もう。すぐ。今にも。そして十月の一日に死んだ。葬儀の為に私と姉は再び帰省した。そんでとりあえずの全部、九月の下旬に帰省した際に三人で葬儀の流れを確認したりしていた。祖母が死んだ時の流れを参考にして、また母親に何かあった場合の、例えば父が死ぬ前に母親が車に轢かれて死んだりしたらというような事。その時どこに、どれだけ連絡したらいいのか私も姉も何もわからなかったから。だからもしもの時の連絡先の確認等。そういうことをしていた。そんなことがあって、でも、とりあえず全部終わらせて、諸々全部終わらせて、とりあえず。父が死ぬ前に母は死ななかったし。あと親戚とかには連絡してなかったけど。それは私も姉も別にどうでもよかった。どうでも。
父は癌の発見から一年足らずで死んだ。一年かからずに死んだ。私は良かったなと思う。ネットニュースを見ていると寝たきりの夫を刺して殺したり、殺した後自分も自殺したり、心中したり、そういうニュースも別に珍しくない。死んだあとどうしたらいいのかわからなかったと言って放置している人もいる。居た。こないだ。
だから、良かったなと思う。一年かからずに死んでくれて。祖母の時結構大変だった記憶もあるからなおさら。祖母が高齢でおかしくなって、でも、若い頃の自分と変わらないと思っていたのか、あるいはこの家は自分でもってると、回していると思っていたのかわからないが、勝手にどこぞかしこぞにうろつきまわるようになった。最終的にはご飯を食べずに食べたふりをしてティッシュに包んで自分の部屋に隠していた。死んだあとに部屋を掃除をした時、そういうものに虫が湧いていた。
病の期間が長ければ長いほど、一緒に居る側のメンタルも削られて、壊れてくる。それを考えると、父は良かった。残された私達は誰も殺人者にならずに済んだし、死ぬ前から死ぬのが分かったし。父が死ぬ前、前日だったかな、六代目円楽師匠が亡くなったニュースが流れて、死んだあと少し、ニ、三日したらアントニオ猪木さんが亡くなったニュースが流れた。六代目円楽師匠と父は同い年だった。アントニオ猪木さんも、七十九だったかな。でお亡くなりになった。
「男の人は大体、七十台で死ぬんだな」
私はそう思った。
全然死ぬ感じがしない状態で死んで、残された人間が悲しみにくれたり、あの人はまだ生きていると思いながらその後も暮らしていかなくてはいけない様になるより、死ぬんだろうなと思ってたらやっぱり死んだ。っていう方が、負担が少ない。少ないと思う。父はそうやって死んだ。すごい方々が亡くなったニュースの間で死んだ。良かったじゃん。って思う。
で、良かったじゃんとは思うけど、思うんだけど、でもやっぱりこう、父だったから、実の父だったから。DNAとか調べたわけじゃないけども、まあ、少なくとも父だったから。私にしても、姉にしても。
私は関東圏に戻ってからすぐに風邪をこじらせた。コロナじゃなくてホントよかったけど。でも、久々に、四、五年に一回くらいしかひかない風邪をこじらせた。父が死んだ為に、いなくなった為に、私の中のその部分が、突然に空き地になって、売地になって、テナント募集になって、そこに風邪が入ってきたような感じだった。そんな感じで風邪をひいた。それが治るまで一週間くらいかかった。その期間中ずっと動揺していた。葛根湯とか咳止めとかそういうのをたくさん買って散財した。冷えピタに至っては間違えて子供用のを買う始末だった。
姉は職場で腕をぶつけて骨折したと言っていた。なんか本人は軽くぶつけただけだと思っていたが、痛みがひかず病院に行ったら骨折してたらしい。利き手じゃなくてよかったと言っていた。
私も姉も自分の中の父の部分が無くなって、無くなったってことはないか、縮小して、その分空き地や空き家、売地、テナント募集の場所が出来て、そこにするっと、そう言ったことに、何かに入り込まれた感じがあった。
母親は大丈夫だろうか。
「今日荷物送りましたから」
電話口で話す母親の感じは以前と変わりない。
でも、送られてきた荷物を開けたら、新聞で包まれていたものが入っており、これが大根かなと思って、その新聞をはがすと、

うわああ

それは日本人形だった。実家にある。私が生まれる前からある。二階の前の部屋にガラスケースに入って飾られていた。日本人形だった。母親は電話口で言っていた。
「あと、新聞に包んだ大根。送ったから、煮るかなんかして食べて」
確かにそう言っていた。普通の感じで。口調で。何の違和感もなく。

でも、日本人形だった。人形の髪は乱れていた。元がどういう感じだったかもわからない程ひどく乱れていた。
死ぬと思っていても、死ぬとわかっていても、死ぬとわかって前もってその準備が、心の準備が出来ていたとしても、死んだらそうなるんだなあ。長年連れ添った父が、夫が死ぬと、そうなるんだなあ。

シェアハウスの空き

シェアハウスの空き

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-19

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