ふぁみりー・れすとらんて

一話完結の習作。




 数字が好きなタキタさんは苦手とするカルボナーラに手を付けようとする前にトマトケチャップをテーブルに倒して零してしまった。タキタさんより前にこの席に,座ったことがある人がサラダドレッシングを取ろうとする人のことを考えないか,そもそもそんな人いる訳ないと思ってトマトケチャップをその辺に置いたらしい(どれくらい前かまでは判断できない。最も近ければ一つ前かもしれないし,遠ければもっと前かもしれない。社員教育がしっかりしていれば最も遠くて今日の開店後からになるだろう。)。しかしタキタさんにも『考え中であった』という落ち度がある。一概にその人だけが悪いとは,タキタさん本人も正に考えやしない。
 考え事はしていてもそつ無く物事をクリアにするのがタキタさんだ。なのでタキタさんはすぐにナプキンを二,三枚取り,まずは二枚重ねて厚くしてからテーブルを大きく綺麗に拭くことを心掛け,次に一枚で細かくも綺麗にすることを心掛けて零したケチャップを拭き取った。最後にはテーブルが『元の状態』になったかをきちんと確認することまでした。『ズレなんてあり得ない金の出入り』というタキタさんの心の模範に照らしてタキタさんは,カルボナーラと向かい合うファミレスのテーブルの価値を検分した。赤がまだ残っていた。だからもう一枚でもう一回,拭いた。目で見て確認する。いやまだ赤は取れない。もう一度拭く。いややはりまだ赤は拭き残る。再度拭く。いやいややはり。さらに再度。いやいやいや。
 とうとう拭き取れないとタキタさんが思ったテーブルの赤は立ち退きを拒むイシダさんのようだ。もう乾き,こびりついてまでそこを離れない。しかし時間はない。これから実際にイシダさんに会いに行かなければならないし,比較的調理時間が短くすぐに運ばれてくると思い実際に早くテーブルに運ばれて来た苦手なカルボナーラを,巻いて『美味しく』頂かなければならない。このファミレスの店員にやる気があるかはしれないが,お店側の反感は向こうから致し方なく売りつけられても,こちらから積極的に買い込む必要はない。こちらはこちらとしての努力をし,どうしようもない結果に手を付けるだけだ。『ベターで良い』とは田中芳樹さん著の『銀河英雄伝説』に登場するヤン・ウェンリー氏が言っていたことだ。タキタさんもこれに同意する。同盟軍のベレー帽はなくても『3』という数字の下腹部に似た窪みで昼寝をするには,それでこと足りないことはない。
 タキタさんはこの赤をそのままにしてカルボナーラを頂くために『正式に構えを』とった。胡椒も効いて味が濃い白のソースを一口目の口で感じてしまい,眉間の皺が酔っているようにふにゃけてきちんと寄れないタキタさんの頭は,もう白で一杯になって赤はもう端にもない。タキタさんと赤は一時的に関係が取れなくなった。それでも赤はもう乾いてこびりついてまでそこを離れない。遠からずに訪れる『辛うじて小さな死』のように,支払いを済ませるまで無くなりはしないオーダーを記した紙の伝票のように。
 ファミレスの一角を彷徨うタキタさんの目は外に向いた。『大通りに通じる準大通り』な佇まい雰囲気が窓ガラスとセメダインのように合いやしない相性で商店街は繋がっていて,口当たりの苦手さが排気ガスで飛んで行くような心持ちになる。タキタさんの二口目はその間に収まった。






 Mr.オディは怪我をした。ファミレスの厨房の一角で,足りない葱を刻んでいる包丁で深く中指を切ってしまった。 その日の朝から寒波は満遍なく皆を襲い(水道から流れる水もその例外でなく),水仕事が嫌いなMr.オレゴンはそのことばかりを気にして自分の指運びに余りにも疎かになってしまっていた。血は音もなくスッと流れて,『一応気付けばそれを回避出来た』のだけれども,水と同じ液体であり続ける血までを重力は引っ張って下方に向かって流れ落ちてしまうから,切った痛みで受けてしまった焼く前のピザ生地に広げられたケチャップに,Mr.オディの血は入ってしまったかもしれない。しかし痛みでそのことを告げる余裕が無い。もう焼かれてしまうようだ。この事実は黙っておくしかない。
 厨房のチーフがMr.オディの様子に気付き,救急セットがある場所で治療を施してからすぐに戻ってくるように指示した。Mr.オディは指示通りに救急セットがある場所向かって歩き出した。忙しい時間で,厨房スタッフはできる限り調理を邪魔する動きを煙たがる。Mr.オディの動きは回る換気扇と一緒になって外へ外へと向かっていった。痛い痛みほど,ゆっくりで鈍く疼く。自律的に拍動する心臓に落ち着くように言っても聞く耳を持っていない。血が多く出てしまいそうな気分はより増す痛みに繋がりそうであった。窓際の一角に座るサラリーマン風の男性の後頭部を横目で更に視界の隅に追いやってMr.オディは店内の奥へ進んで,関係者以外立ち入り禁止の程度を深めていく。救急セットは休憩中なのだ。体調不良で致し方なく退場せざるを得なくなった日本の黒子は居るのだろうか?同じ厨房で働く女性スタッフで日本の伝統文化に詳しいキョウコさんに聞いてみたい気持ちになった。彼女は30代で少女とはいえないが可愛い女性といっていい容姿で,つむじが見える背の低いボブヘアが厨房を低く駆け回ると空気が良き方向に動く。だからMr.オディは思った。あとで彼女に聞いてみよう,と。黒子について,退場について。







 ネクタイピンは付けないタキタさんの背広の内ポケットは細かい糸屑もなく綺麗であって,唯一の異物としてタキタさんのスマートフォンが外部からのノックのように,表示者の名前をマナーモードで音も無く,ヴァイブレーションで小刻みに光る画面に表示していた。しかし背広はタキタさんの上半身を覆っていなくて,反対の座席のソファーに掛けられるという素っ気ない時間を迎えていたために,その表示から電話に展開することなく,ただ一つの伝言として録音されることとなった。
『お疲れ様です,タキタさん。私です。社長からイシダさんの件で伝言をお預かりしたのでお伝えします。立ち退きの件,上手くやれ。但し,イシダさんには気を付けろ。人によって対応を変え,人に寄り添って心を溶かす。イシダさんはそれが上手い。決して個人になるなよ。いいな,決して個人になるなよ。以上です。タキタさん,時間がまだあるようなので私から,先回りをしてお節介になるかもしれない補足をしておきます。念のためです。貴方が思うように社長からのこの伝言はエッセンスは伝えているけれども肝心なところは決して貴方に伝えていません。けれども秘密の伏線といった大層なものでなく,分かるけれどもそれしか出来ない,というものです。言葉に出来ない厄介なものです。私は伝言を残す役割をこれまでも担ったことがあるものとして補足します。イシダさんが立ち退きの障害としてそこに居続けているのはきちんと理由があるのです。タキタさん,気を付けて個人にならないで下さい。これは私の補足です。ではこの辺で,お疲れ様です。』
 フルタイムで満タンになった伝言を録音し保存して,スマートフォンはまた異物として,タキタさんの背広の内ポケットで震えて光ることをやめて静かに収まった。電源ボタンを押せば,電話があったこととメッセージが録音・保存されていることがタキタさんにも分かるだろう。しかし残念なことにタキタさんはまだ食事中で,イシダさん宅を訪問する約束の時間も迫っている。会計が得意なタキタさんは,咀嚼しながら使っているカロリーとこの食事から得るであろうカロリーの計算を自然に行ってしまっている。右脳に置いたダイエット本のイメージに,単純ながらも詳細な数字を左脳の速さで回して正答の赤マルをつけることを優先している。メッセージに大事なのはタイミングで,後からでは遅いこともある。そしてタイミングは全てがどうにかなるものでない。ハマるのもタイミングならばズレることもタイミングだ。だからどうにかなるものではなく,タキタさんのせいではない。






 救急セットが使われたのはつい最近もあった。飲み過ぎで胃腸が荒れたカトウくんが胃腸薬を探し出して飲んだし,火傷をしてしまったマリちゃんが冷やした指を傷パワーパッドで覆ったりした。救急セットに埃は被らない。怪我をする可能性は無くなりはしないのと一蓮托生の運命になって,今日も怪我人を待つ。怪我なんて無くなればいいのに,なんて天使のような心は持たずに,まあまあの数の怪我と程度を望んでいる。
 消されて死んだようなテレビに同情し始めた頃合いに,クォーターに合わせたように『薄く彫りが深い』Mr.オディが休憩室に苦悶の表情で入ってきてすぐに,留め金を顔のように正面に向ければ丁度頬っぺたや耳に当たる救急セットの左右の横面の一方を掴んで,落としそうになりながらガラス張りのテーブルにガチャンと置いた。割れてはいない安心感を足場に救急セットはMr.オディを見た。確か利き手は右だから(彼は煙草を右手で吸うし,主に右手でチャンネルをつける。),今は利き手じゃない左手の何処かの指を痛く怪我したようだ。押さえているフキンは血で赤く染まって固まっていない。
 Mr.オディは痛みに耐えて痛みと一緒に救急セットの中身を良く見分し始めて,手を止めてしまった。傷パワーパッドはマリちゃんが使ったのが最後だった。バンドエイドは随分前から補充されていない。鎮痛剤はある。胃腸薬はもっとある。しかし傷口向けの医療品が足りない。Mr.オディは痛みを浮かべる。Mr.オディは『マジかよカミサマ。』と日本語で言ってしまって,思わず『ソーリー。』と英語で続けて言ってしまった。






 カルボナーラの濃い味にタキタさんが参った気持ちになる頃には,サラダもパスタも残っていなくてあとは食後の珈琲を急いで飲むだけになっていた。その前にトイレに立つ。今のうちに済ましておくのがベターだと,タキタさんはここのファミレスからイシダさん家まで移動する時間と自身の歩幅が縮める距離を,上手いこと掛け合わせて計算した。初めてでも迷わないトイレットへの道案内はお客様向けに天井から吊るされている。タキタさんはそれを疑う時間よりも信じる時間に使って,ファミレス内を歩んでいく。男女の双方が別れて向かい合う2つのトイレの真ん中で扉の仲介をするように,設置された銀の蛇口とタイルな排水口が見えてから,左手にある男のトイレのドアーを開ける。芳香剤の匂いが先にしてから見た中は『概ねは良し。』とタキタさんも納得できた。切れたトイレットペーパーが散乱していることもないし,用を足すのを『躊躇うような困った状態』になんてなっていない。細かく見れば気を及ぼすのが足りないところも当然あるだろう(自宅の掃除を欠かさないタキタさんは調理する時のキッチンで,掃除時には全く気付けず気付けば気になってしようがない細かい何時かの油汚れを見つけて溜息をついた事がある。)。しかし『概ねは良し。』だ。タキタさんはそれで十分にトイレを済まそうと便器に腰をかけた。するべきことをするべきときにし,コトを済ませるがために済ませる事をしてトイレを出るための最後の手順に掛かろうタキタさんは手を伸ばした。タキタさんが『躊躇うような困った状態』になったのはその時だった。十分にあると思っていたロールは『もう頼りない。』と分かる細身になっていて,『誰のイタズラか,はたまた顔をあわせて顔見知りになることがないことに甘えた単なる嫌なこと』としてタキタさんより前にこの席に座ったことがある人が重ねたであろう細いロールの盛り上がりは,タキタさんにペーパーは十分にあるという判断を不用意に行わせた。数字が好きなタキタさんはロールに巻かれているはずのペーパーの長さを,目測するロールの直径と回して使える幅の限界とを上手いこと調整しながら計算して落ち着こうとした。数字は正答に向かって進んで行く。計算式が桁を一つ繰り上げる。しかしタキタさんは立てない。このトイレットにはペーパーが十分に足りない。






 Mr.オディは段々と,耐えられない痛みに浮かびすぎた脂汗でさっきまで作っていた春巻きが嫌いになっていた。かいてしまった脇汗と背中の汗は廃油よりトロンとしているように感じて,追い立てる一定の暖房音が生温かさだけは下げないようにしているようで,気持ちが悪くなっていた。『しかし戻らなければ。』。そう思ってMr.オディがかいた汗で沈んだように窪みを作っている薄クッションのソファーを立ち上がろうと『諦めた決意』を実行しようとした。『ハマるのもタイミング』だ。ハーレーダビッドソンを乗りこなす豪快な曾祖父が浮気の言い訳に使うように開いたドアーはMrs.カガミが開けた。『KYカガミ。』,どんなに忙しい時間であろうが関係なしに休憩室で休憩するべく休憩室に行くスタッフ唯一の既婚者である彼女は仲間内でそう陰口を叩かれる。耳には入っているだろう。何せ全員がそう言っているようにスタッフの空気は作られているからだ(一言も発さないMr.オディだってそうで,ボブが可愛いキョウコさんもそうなのだ。)。
 彼女はMr.オディを一瞥し,『先に済ませる用事なの。』とクールに言うように入り口から一番近いソファーに腰を降ろしてから,それなりに高いジッポを制服のポケットから取り出し,『LARK』と印字された煙草の一本を口に咥えて『ボシュっと』立てた音を消すように吐いた灰色の煙を追っかけて,顎を斜め上に向けて静止した。『ああ,KYカガミ。』。Mr.オディが苦しみながら誰かに向かったかのように先の1フレーズを呟き,そのまま部屋のライト付近に漂わせてから,部屋を出るための礼儀のように「ソリー。」とMrs.カガミにどうにか言って,Mr.オディはMrs.カガミが漂わせた灰色に煙ごと大きく息を吸ってしまった。煙草を吸わないMr.オディは喉が痛んだことがバレないように息を細かく吐いて,嫌なものから逃げるようにソファーを横切って玄関に向かった。
 顎が元の位置に戻るのがスイッチである。そういうように顎を降ろしてこちらを向いたMrs.カガミはMr.オディに端的に言った。
「怪我したの?」
 Mr.オディはもう一度,『ああ、KYカガミ。』呟いてから一応答えた。
「はい,ケガしました。」
「そう,やっぱりそう。一応『見ても』わかるけど,でも違うかもしれないじゃない?だから一応聞いてみたの。ごめんなさいね。」
「いえ,どういたしまして。」
 Mr.オディは礼儀にならって答えた。
「そんまま戻るの?治療は?」
「なにもないのです。キュウキュウセットには。ボクのケガにタイオウできるものが,イソイデないのです。」
「イソイデ?…『アリソウで』?」
「ああ,はい『アリソウで』,です。」
「ふーん,そうなんだ。チーフにしては珍しいわね。」
 Mrs.カガミは救急セットをMr.オディと変わらないもののように一瞥した。しかしMr.オディはそれを気にする余裕と時間がない。けれどもまた,部屋を出るタイミングもズレていた。話し掛けて呼び止めているのはMrs.カガミ。空気が読めない『KYカガミ』。Mr.オディは空白で呟いた。どうせフレーズは一緒だった。
「痛いでしょ,Mr.オディ?」
「はい,痛いです。」
「痛みを和らげるか,治したいよね,Mr.オディ?」
「はい,そうですMrs.カガミ。」
「じゃあその玄関に向かう足をそのまま動かさずに居られるかしら,Mr.オディ?」
 Mr.オディは返事をせずそのままその場に留まった。Mr.オディを今度は一瞥もしないで,同じく立ち上がったMrs.カガミは自分が着ている制服の,見れば大きいお尻を包んで狭そうなポケットに手を突っ込んで軟膏と大型の,2枚のバンドエイドを取り出してMr.オディに差し出し言った。
「必要ならどうぞ?要らないなら結構よ?」
 期待したい通りの展開になって喜ぶべきなのだが,果たして喜んでいいのか何故か躊躇うMr.オディはとにかく「サンキュー。」と言ってからMrs.カガミからその全てを受け取ってソファーの元の位置に戻って座った。押さえつけていたティッシュを離せばまだ血は滲んでまだ凝固せずに,触れた空気が鈍い痛みを鋭くして疼かせる。Mr.オディは『Mrs.カガミ』の風評と自分が感じた実感のせいで急展開になっている今の展開に表情筋をほおけさせられつつ,片手の治療に取り掛かった。そうする中で空気を読まずにMr.オレゴンの隣でMrs.カガミは,Mr.オディが破いていないもう一枚のバンドエイドを破いた袋から取り出し,ガーゼ部分に蓋がなくて邪魔されることがない軟膏を適量塗ってから,傷口を自分に向けさせてさっさと貼り付けた。Mr.オディがどうにかシールを剥がしたもう一枚にもあるガーゼ部分にもMrs.カガミは軟膏を塗って,『自分で貼れるよね?』とばかりに灰皿に置いていた煙草を吸わずに消し,新しい一本を点けて新たに吸い始めた。軟膏が良いのかバンドエイドが上等なのかは知らない。けれども痛みはさっきより引いた。脂汗も内側に引っ込んで,外に浮かぶことをやめた。
「大丈夫そうね,Mr.オディ?」
 Mrs.カガミは吸った煙は『本当にどうでもいいのよ』とばかりに適当に吐いてから,煙草の火元で煙の出処をMr.オディに一番近づけて言った。
「はい,ダイジョウブです。イタくないです,Mrs.カガミ。」
Mr.オディは『一番近くで濃いその煙』を短時間でも今までで一番煙たがって答え,「サンキュー。」ともう一度言った。
 Mrs.カガミは「どう致しまして。」と言ってから煙草を吸い,Mr.オディの斜め上に吐いた。さっきMr.オディが呟いた場所を巻き込んで,煙は部屋に漂った。呟きは浮かびそうであった。そうでなくても座り心地は悪かった。
「お疲れ様,Mr.オレゴン。」
再び灰色で曇りを行く煙を追うように Mrs.カガミは,『従業員のテンション』を感じさせても,横に座るMr.オディをきちんと見てから言っていた。だからMr.オディは聞いて見た。
「クロコを知っていますか,Mrs.カガミ?」
「クロコ?歌舞伎とかで見る,真っ黒な衣装を着て幕を下ろしたりする人である,あの黒子のこと?」
「イエス,そうです。そのクロコです。」
「ええ,知ってるわ。それで,Mr.オディ?」
 Mrs.カガミは煙草を吸いながら続きを促す。
「そのクロコがもしブタイのサイチュウにキモチがワルくなったり,ボクのようにケガをしたりしたら,どうなるとオモいますか?どうなるかシッていますか?」
聞いてみて,Mr.オディは『ああ,カミサマ!』と強く思った。聞く人も当初と違う上に聞く流れも,急に捻って驚く湯量のように唐突で手を離してしまうものになっていた。『KYオディ。』。Mrs.カガミは煙も吐かずにMr.オディを見て,スタッフの誰かが後ろで見ていて呟かれている妄想は一速のギアを入れて順調に走り出しそうであった。
「知らないわ,Mr.オディ。」
 Mrs.カガミは端的に言ってから,それまで出さずにいた煙を宙に吐いた。『ああ,カミサマ。』。溜め息を反映しない呟きが嘆きになりそうであった。『ああ,カミサマ。ああ,カミサマ。』。
「でもね,こう思うわMr.オディ。」
 Mr.オディの気持ちを読まないMrs.カガミは,吸い終わった煙草を灰皿に押し付け,『これで良い?』とばかりに言った。
「誰か居れば頼る。誰もいなければベターを尽くす。最善も出来ればそうする。舞台は壊さないできる限りのことを影だから,見えないようにするんじゃない,Mr.オディ?クロコの役割ってそういうものでしょ?」
 『クロコ』のイントネーションを変えてMrs.カガミは言ってから,『まあやっぱり知らないけど。』。そう言うようにMrs.カガミはパンプスを直し始めた。流れはやっぱりどうでも良いのよ,Mr.オディ?分かるかしら,Mr.オディ?
「そうかもしれません,Mrs.カガミ。ヘンなことキいてスイマセンでした。」
 それでもMr.オディは答えて流れを保ち,Mrs.カガミは首を傾げて不思議そうに答えた。
「別にヘンじゃないわよ,Mr.オディ。聞きたいことを聞いただけでしょ?それを何で謝るの?」
『ああ,KYカガミ。 』。同じフレーズでも違う響きは表示されない呟きになって,諦めずに部屋の宙空を漂っていった。「イエス、Mrs.カガミ。」。口に出して言った言葉の,取り方なんて気にしなかった。
「私,行くわねMr.オディ。」
 『貴方はどうする?』と言わずにMrs.カガミはソファーを立ち上がった。それなりに高いジッポを制服のポケットに仕舞い込んで出て行こうとする。Mr.オディは和らいだ,痛みととも言ってみた。
「ボクもデます,Mrs.カガミ。」
『そう? 』という反応も見せずにMrs.カガミは休憩室のドアーを引いて『どうぞ?』と促すようにMr.オディを見た。レディファーストが気になったが,しかし相手は『KYカガミ』。『ソーリー。』と謝っても謝らなくても良いように思った。
 二人は休憩室を出て行った。煙はまだ失くなりそうにならない換気扇回りであった。






 タキタさんが落ち着き始めたのは,ロールの長さの答えを出して,間違いがないことを間違いなく確かめてから3分過ぎた時であった。タキタさんは『どういうことをしてココから出ようか?』という手段に限った自問自答を始めていた。選択肢は『綺麗にするために出来ること』を『今あるもので可能にすること』であって,できる限り避けたいことは『何もしないで外に出ること』であった。タキタさんは綺麗になりたい。タキタさんは綺麗に出たい。
 しかしタキタさんが座っているココのトイレは全くもって無駄が無く,想定外のことを考えていない。スッポンは詰まった時にしか使えないし,芳香剤はブルーベリーな匂いで男子トイレごとタキタさんを包むだけだ。トイレ清掃の担当者を記す数枚に膨らんだ紙だけは最も遠い関係性をもってタキタさんを慰める。今日の担当者は『キョウコ』と言うそうだ。名前だけ記している。タキタさんは復唱する。担当者は『キョウコ』。苗字を隠した『キョウコ』。
 男子トイレ内に出来ない期待はタキタさん自身に向けられる。しかしタキタさんが席から男子トイレに持参したものは財布だけだった。確かに『数枚の紙』はある。けれども『それはこんなことに』使っちゃいけない。選択肢として選択できない。タキタさんにも手段はない。
 では別の人が来訪する可能性はどうか。いやしかしこれは期待できない。このファミレスはタキタさんと同じく会社員が多い。たとえばタキタさんがトイレに向けて席を立ったとして長い時間(それは10分前後で),トイレが空かなかったとしたら近くのコンビニか駅へ向けて会計を済ませるだろう。よ程の事態でもない限り『コンコン』と,訳せば『すみません,いらっしゃいますか?』なんていうノックはしない。同じ利用者は当てに出来ない。同じ利用者は先を行く。タキタさんは留まっている。
 『ガチャッ』と鳴って,『ガチャッ』と鳴った。隣のトイレに誰か入った。そう,隣のトイレに誰か入ったのだ。タキタさんは考えた。コミュニケイトの方法を考えた。合図するには難しくない。声をかけたり,ドアーを内側から叩いたりすればいい。けれども怪しい。それは怪しい。トイレという社会的に個人的で最たる私的事項を済ませている真っ最中に,内側から呼び掛けられることはこうしているタキタさんだって怪しむ。『あり得ることであるけど,あり得たら変なこと』。トイレットのデリケートな問題だ。
 タキタさんは叩くより,呼びかけることにした。『すいません』と声をかけることとした。その方が相手に用事があることが一番伝わり,『中で何かがぶつかった音で,私向けでない。』と誤解で遠くに去られることもないと判断したからだ。仮に叩くとしても呼びかけた後でいい。『確認のように』叩けばいい。タキタさんはじっと待った。他人のトイレ時間を計ってしまう自身の癖が嫌になったが致し方ない。これは緊急事態で例えば『救急箱だって必要とすること』と同じなのだ。傷口に治療を施すために衣服を破くことと変わらず,タキタさん個人にとって必要なことだ。巻き込む形になるけれど,タキタさんに大事なことだ。タキタさんは耳を澄ます。間違いがないように耳を澄ます。
 5分は経つ。7分も経つ。10分も経って20分も経った。隣の相手には先に謝ってタキタさんは,『失礼だが長い』と思った。タキタさんにとってどうしようもないことだが,最もどうにかしたいとこれ程に思ったことはない。しかしタキタさんはじっと待った。そうするしかなかった。
 30分を迎える。そうなるとタキタさんは自身の耳を疑った。自分は聞き落としたのでないか?自分は音を拾えなかったのでないか?もう相手は出ていて,隣のトイレには誰も居ないのでないか?疑いに拍動は大きく畝って静かに姑息に変わり始める。焦りは禁物とこれ程に思ったことはない。そうじゃない可能性を考えると,焦りなんて禁物なのだ。可能性は消えていない。
  と,思ってタキタさんは考えてしまった。紙は隣にはあるのか。『キョウコ』さんは信じられるのか。もし隣の人もタキタさんと同じ状況になってしまった場合。もし隣の人もタキタさんと同じように考え始めている場合。僕らはどうやって出るのだろう。どうやって出られるのだろう。




 
  『時刻は只今40分を経過したところです。ドライバーの皆さんは安全運転を心がけて下さい。』。通勤の途中で毎日聴いているラジオのアプリから聞こえる素敵に女性なDJはいつもこうしてタキタさんの朝を進める。今日もそうだった。時刻は40分を経過していた。
 隣の人の動きが感じられなくてタキタさんは聞き落としよりもそうでない可能性に汗をかき始めていた。額に浮かべばそうなるのであれば脂汗を流していて,状況に影響された通常でないものをいうのであればタキタさんは額に脂汗をかいていた。背中も同様,脇も同様であった。冬のトイレは冷えるというのに汗は流れて止まらない。
 嫌でも目に入る今日の担当者『キョウコ』氏は今どこで何をしているのか気になって,期待なんてしなかった。仮に男女とも平等にトイレの手入れはして補充は怠った『彼女』だ(たとえ『キョウコ』氏が同性でも,『彼女』と呼ぶ決意はドアノブなんて目じゃない。)。今来てくれるなんて思いたくもない。頼りになんてしたくもない。僕らは『彼女』の手の内の中で,僕らは『彼女』にこうされたのだ。
  タキタさんはもう覚悟を決める覚悟に向けて準備をしていた。状況は変わったのだ。『もう出る』しかない。選択肢のボーダーラインは大きく後退を始めた。戦術レベルでどうしようもないのであれば,戦略レベルでどうにかするのが有効だ。惑星フェザーンを支配して戦術的に攻略し難いイゼルローンを戦略レベルで無力化したカイザー・ラインハルトをヤン・ウェンリー氏は評価した。それと似ているのだ。そうすることでタキタさんの状況は変わる。『本当に見える景色が変わるぐらいに大きく』変わる。秘密なんて誰でも抱える。匂い立つのもありはするのだ。
 いやしかしそれだけではない。仮の可能性が現在『目で見えないお隣で』進行中であるのならば,タキタさんは隣の人の手助けが出来る。まずは黙って軽くノックし,内側のノックが同じく軽く帰って来れば立ち去れば良いし,そうでないならお店の人(やはり女性)を呼んで適切な対応をして貰えばいい。ネームプレートに『キョウコ』と書いているのであれば,既にその手を脱しているタキタさんだ,どうにでも何にでも出来る。タキタさんはまず立ち上がった。ひんやりとした臀部を特に一番感じつつ,見える景色の変化を見る。換気扇も近付いた。『ゴウン,ゴウン』と鳴っている。タキタさんは背中にかきやすい汗が重力引っ張られて落ちていき,腰当たりで巻いていたシャツか肌着に汗が吸い込まれるのを確認した。もう汗は引いている。脂汗なんてかきやしない。
 タキタさんがつい最近購入した街が描かれたオシャレなパンツのゴム紐に手をかけてから,然るべき所に然るべきように止めようと,感謝とも謝罪とも取れるように頭を屈めれば足音は聞こえて止まった。そうして『キュッ』と金属が擦れるようになって,水道水が流れた。『カシュッ』とした一回で十分なような間が空いて,手を洗うように水が大きく流れを妨げられる音もした。仲介役のように設置されたのは銀の蛇口とタイルな排水口であった。手を洗う人もいるのだ。綺麗になって,歩むために。






 よく分けて聞けば『ドンドン』と『すみません』は混ざって左手からもたらされていた。慌てているのは迫力で分かる。緊急なのは回数でも分かる。だから「どうしかしましたか?」と尋ね返した。傷を負っていない残りの手を衛生な調理のために洗ったMr.オディは,水飛沫ごとソコに備え付けられたティッシュで拭いた。




タキタさんは事情を端的に説明した。伝えるべきは『無いトイレットペーパー』を持って来てもらうことであった。運良く彼はファミレスの従業員で,最もスムーズに問題なくそれを持って来て貰えた。解錠とともに開いた隙間に白いロールが2個届けられた。タキタさんはそのうちの1個は使って1個は『棚に補充として』置いた。




 Mr.オディは念のためと思い,赤く鍵かかった隣の女子トイレに何も言わずに軽くノックして,単純に返って来た内側の軽いノックを受け取った。男子トイレの方とのやり取りは『彼女』にも聞こえているであろうから問題はない。Mr.オディは仕事場に戻った。初めにチーフに怒鳴られて,事情を話した後にさっさと遅れを取り戻せと注意された。「了解,ボス。」と短くもMr.オディは返事をした。




 トイレから出てきた時にタキタさんは『あの男性従業員』にお礼を言い忘れたことを思い出した。男子トイレより広い店内に戻っても『彼』が誰かは判断出来ない。だから大きく言ってみた。『有り難う。』と言ってみた。
 戻った席では概ね片付けは進んでいて,冷めた珈琲がカップの中で黒い光沢をたたえて待っていた。背広の内ポケットに収めたスマートフォンを見るより前に店内の時計でチェックした時間はイシダさんの家まで時間通りに行けないことを数字できちんと教えていた。お断りの電話と会う約束の変更を通話することは可能だから,タキタさんは冷めた珈琲を淹れ直してもらうためにチャイムでホールの人を呼んだ。果たして人は来た。ネームプレートは苗字だけで『アリカワ』と記した女性が素敵な笑顔でやって来た。ボブが似合う可愛い娘であった。タキタさんも笑顔になって,ゆっくりとオーダーを伝えた。かしこまって『彼女』は席を離れる。タキタさんは費やした時間を数字で正確に数え直し始めた。






(了。)














 
 

ふぁみりー・れすとらんて

ふぁみりー・れすとらんて

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-26

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著作権法内での利用のみを許可します。

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