約束 【連載中】

アオイ トンボ

1か月に最低でも1~2回(1回につき2000~2500字程度を想定)の更新を予定しています。最新話のみ、常にトップに来る設定にしています。

6.

 その日は陽介の店を手伝う日で、沙羅は走行距離を稼ごうと自転車で店に向かった。店の前に着くと、沙羅は店の入り口を背景に、スマホで自転車の写真を撮って光汰に送った。ドアを開けると、カウンター席に客が3人。その内の1人は光汰だった。光汰は自分のスマホの画面を沙羅に見せながら、
 「あまり手の内を見せないほうがいいんじゃない? 勝負なんだからさ」
 と言って楽しそうに笑った。続けてカウンターの向こう側から陽介が言った。
 「聞いたぞ、勝負の話。勝負の行方は、この俺が公平な目で見守ってやろう。そして、俺も焼肉をご馳走になろう! で、沙羅は今のところどれくらいの距離なんだ?」
 「言わない」
 「光汰は俺に教えてくれたぞ」
 「私は言わない。二人がグルかもしれないから絶対に言わない」
 本気で警戒する沙羅を見て、陽介と光汰はゲラゲラ笑った。
 「勝負期間はあと2週間だな。二人の健闘を祈って、今日は店から1杯ずつご馳走しよう」
 そんな陽介を横目に、光汰は沙羅に向かって言った。
 「陽介だけノーリスク焼肉リターンは無いよな?」
 「無い。あり得ない。意味不明」
 沙羅はそう言いながら、そんな他愛ない会話が流れる空間に癒されていた。そして、その空間に、思い出せそうで思い出せない記憶を重ね、自分の意思とは無関係に湧き上がってきてしまう懐かしさを感じながら、令子が言っていた退行催眠のことを思い出していた。

 バイトの帰り、沙羅は自転車で遠回りをして家に帰った。店から家に最短距離で帰ってしまったら、今日の走行距離を光汰に推測されてしまうと思っての、沙羅なりの作戦だった。サイクルメーターを見ると22.2㎞。その時、沙羅はふと思った。  
 (2が3つ。私と陽介、陽介と光汰さん、光汰さんと私。『2人』の組み合わせも3通り)
 帰宅すると、沙羅は背負っているバックパックをおろすこともせず、令子から渡された本と資料の束をマガジンラックから取り出し、テーブルの上にバサッと置いた。見出しや小見出しだけを拾い読みしていると、ある見出しに目が留まった。
 『退行催眠が、記憶のかけらをつなぎます』
 見出しの脇には、退行催眠を施術するという女性の顔写真が載っていた。見知らぬ女性なのに、瞬時にして「会いたい」と強く思っている自分がいた。この絶対的な感覚は令子に相談するまでもない。沙羅は、退行催眠を受けたいというよりは、写真の「七海真由」という女性のことを知りたいとの思いから、その女性のウェブサイトをスマホで開いた。女性のプロフィールや退行催眠の定義、退行催眠を実際に受けた人の体験談などが書かれているのかと思いきや、サイトは拍子抜けするほど簡素なものだった。

・退行催眠に必要な時間は最低でも3時間
・費用は時間に関係なく3万円(現金のみで後払い)
・退行催眠に失敗した場合は8割返金
・申込者の基本情報を記入する欄
・候補となる希望日時を記入する欄
・「申し込む」のボタン

 申し込みボタンのすぐ下には、ご丁寧に【退行催眠が失敗した場合にいただく20%(6000円)は、使用するビジネスホテル(東京23区内)のデイユース代です】と書かれていた。沙羅は必要事項を入力し、躊躇なく「申し込む」のボタンを押した。

 数時間後、沙羅のスマホに届いた七海真由からメールには、沙羅が送った候補日時の1つとビジネスホテルの住所が書かれていた。加えて
【当日は、うたた寝ができるくらいのリラックスできる服装でいらしてください。キャンセルは48時間前までとさせていただきます。もし、質問があれば、本メールへの返信でどうぞ。七海真由】
 と書かれていた。見知らぬ女性にビジネスホテルで会うことにも、退行催眠そのものにも不安はなかった。ただ、退行催眠によって知らなくてもいいものを知ってしまうことに対する不安だけが、日を追うごとに大きくなっていった。

 そうこうしている内にキャンセル期限は過ぎ、沙羅は疑問と不安を七海真由にメールでぶつけた。
【明日は、どうぞ宜しくお願いします。お聞きしたいことが3つあります。
1)私が何百回も生まれ変わっている場合、退行催眠で知る過去世は、どの過去世で、それは誰がどう決めるのですか?
2)その、過去世の1つを知ることで、現世にどんな影響がありますか?
3)記憶のかけらを書き留めている手帳があるのですが、それは持参したほうがいいですか?
以上です。3)以外の回答は、明日、お会いしたときでも構いません。】

 七海真由からの返信はすぐに来た。
【簡単にお答えさせていただきますね。
1)今のあなたが最も知るべき過去世の記憶にアクセスすることになります。あなたの潜在意識はどの過去世にアクセスするべきかをわかっています。
2)現世にどう影響するかは人によってさまざまです。ただ、1つ言えることは、私が知る限り、退行催眠で過去世のことを知って、後悔している人は1人もいません。
3)手帳はご自身がそうしたほうがいいと感じるのであれば、お持ちください。
退行催眠は、あなたの中に埋もれている、あなたさえも気づいていないあなた自身を表出させるためのお手伝いをする手段の一つだとお考えください。では明日はお気をつけてお越しくださいね。】

 退行催眠の当日。沙羅は自転車で行こうかどうか迷ったが、道に迷って遅刻をしてはいけないと思い、電車で指定のホテルの最寄り駅に向かった。駅を降りて改札を出ると、声をかけられた。
 「沙羅さんですよね? 七海です」
 「あ、はじめまして」
 沙羅はそう言いながら、七海というこの女性にも、過去世のどこかで出会っていると確信した。
 「はじめてじゃないですね」
 七海が屈託のない笑顔でそう言うので、沙羅は思わず、
 「え? わかるんですか?」
 と尋ねた。
 「ええ、なんとなく。お申込みいただいたときから、なんとなく感じていました。早くお会いしたくて、ここまでお迎えに来てしまいました」
 沙羅を真っすぐに見つめる七海真由の瞳の色は、夜空のような不思議な色をしていた。沙羅は、すっかり気を許した。

 七海に案内されたホテルの部屋は、沙羅が想像していたよりも広く、大きな窓があって解放感があった。小さなサイドテーブルの上には、所狭しと小さな遮光瓶が50本以上並んでいる。七海に促され、沙羅はソファに腰掛けながら尋ねた。
 「これ、全部エッセンシャルオイルですよね」
 「もしかして、お詳しい?」
 「少しだけアロマセラピーの勉強をしたことがあります。自宅にも30種類くらいはあると思います。特定の香りに特定の感情や感覚が伴うことを自分なりに解明しようと思った時期があって」
 「そうですか。それなら色々と話が早いかもしれません。では、今の沙羅さんが最もいい香りだと思うものを1つだけ選んでください」
 実は部屋に入ったときから、遮光瓶から漏れている数十種の香りの中から、沙羅はある香りだけを、いい香りとして嗅ぎ分けていた。
 「この中にサイプレスがありますよね?」
 「これです」
 七海は1本の瓶を沙羅に手渡した。蓋を開けるまでもなかったが、念のため、沙羅は蓋を開けて香りを嗅いだ。サイプレスは和名を西洋といい、その香りはヒノキに近い香りがする。沙羅にとっては、いい香りに感じるときと、そうでないときの差が最も激しいのがサイプレスだった。
 「沙羅さんは、サイプレスに関する知識をすでにお持ちですか?」
 「知識といえるかどうかはわかりませんが、ゴッホが好んでたくさん描いたことは知っています。ゴッホは自分が死ぬ2か月前に『糸杉と星の見える道』という作品を描いていて、中央にイトスギ、つまりサイプレスを描いているんです。あ、お伝えしていませんでしたが、私、画廊に勤めているんです」
 「そうでしたか。私は絵には疎いから、そのゴッホの話は初めて知りました。ゴッホはどこかで自身の死を予感していたのかもしれませんね」
 「え? なぜですか?」
 「では、今度は私が知っていることを少しだけ」
 七海はにっこりとほほ笑んだ。
 「サイプレスは古代エジプトやローマの時代から聖なる木として大事にされてきた樹木なんです。聖なる木と呼ばれる樹木はサイプレス以外にもあって、その中には人間が『生きる』ために邪気を払う目的で重宝されるものもあります。でも、このサイプレスは『生きる』『死ぬ』で言うと『死』のほう。だから棺にも使われてきました。墓地や教会で見かけることが多いのも、サイプレスが死を象徴する木だからです。一方で、1年を通して緑色をしているので、サイプレスの学術名に含まれるsempervirents(センパービレンス)という言葉には『永遠に生きる』という意味があります。死の象徴でありながら、学術名には『永遠の生』の意味が含まれているなんて不思議ですよね。そんなストーリーがあるサイプレスを、嗅ぎ比べることもせずご自身にとっての『いい香り』として選んだ沙羅さんは、今日、ここへいっらしゃるべくしていらしたんだなと思いました。では、今日の沙羅さんの退行催眠にはサイプレスの香りを使っていきますね」
 七海はそう言って、ベッド脇にあるアロマポットにポタポタとサイプレスのオイルをたらした。
 「質問があれば、このタイミングでどうぞ」
 「失礼なことをお聞きしますが、退行催眠が成功する率ってどれくらいなんですか?」
 「5割です」
 (2人に1人は失敗なんだ…)
 沙羅が心の中で思ったことがわかったかのように七海が言った。
 「沙羅さんは大丈夫。ここまでの話で、失敗する要素が見当たりませんから。ほかに質問は?」
 「退行催眠中のことを、録音させてもらってもいいですか?」
 「もちろん」
 沙羅はバッグの中から、大学での講義を録音するのによく使っていたICレコーダーを取り出し、電源を入れた。七海に促され、沙羅はベッドに体を横たえた。
 「寒くないですか?」
 との七海の問いに
 「手は冷たいです。眠るとき以外は、1年中いつも冷たいんです」
 と答えながら、沙羅は
 (同じようなことを言ったな…)
 と光汰のことを思い出していた。

プロローグ

 私は『100万回いきたねこ』(講談社/佐野洋子)が子どもの頃から好きだった。私が「生まれ変わり」を当然のことだと思っているのは、この絵本の影響が少なからずあると思う。

 私には過去世の記憶がある。正しくは、過去世の記憶の「かけら」がある。小学校にあがった頃から過去世の一部分を、ふとした時に思い出すようになった。それは小さな「点」のようなレベルのもので、そこからは何も読み解けない。初めての場所なのに「この場所、知っているかも」とか、初めて会った人なのに「会ったことがあるかも」とかそんなレベル。10代になると、記憶の「点」が何かを機につながって、「線」になることが度々起こるようになった。「この人とは近い存在だったことがある。なつかしい」とか、「この音、大事な人が亡くなったときに聞こえていた音だ」などとわかり、心が勝手に動いてしまう。それが「線」のレベル。高校を卒業する頃になると、無数にある記憶の「線」の2~3割に対して、より鮮明な感情と景色や場面が付随するようになって、過去世の記憶の一場面を表現できる4コマ漫画がストックされてきた。こう書くと、過去世が整理されて、記憶が鮮明に蘇っていくように聞こえるかもしれないが、それは全く違う。
 過去世は1つではない。何回、生まれ変わっているかによって、過去世の数は異なる。つまり、時代も場所も異なる過去世が数回の人もいれば500回を超えるような人もいるということ。もし、思い出される記憶のかけらが、今世に生まれる直前の人生、つまり「前世」に限られているなら、記憶の点が線と化し、4コマ漫画になっていくことは「『前世』を思い出す」一助になることだろう。ところが、私の記憶の点や線は、時代も場所も異なる上、思い出す順番もバラバラ。また、これは、私の感覚的なものに過ぎないが、私は最低でも300回は生まれ変わっている。その300回分の人生の記憶を断片的に覚えているということは、例えるなら、完成図の異なる300種類のパズル(各パズルともに1000ピースくらい)のピースが全部一緒になってしまっているような、そんな感じ。しかも、記憶の点はよほど強烈なもの以外は、放置しておくと、日々の出来事や感情に上書きされ、いつのまにか思い出せなくなる。要するに、過去世の記憶を整理することなど到底無理なことなのだと私は諦めていたし、整理できないからといって今を生きるのに困ることもなかった。ただ、説明のつかない懐かしさや恐怖、あるいは特定の人への根拠のない感情に、私自身が戸惑うことは多々あった。
 例えば、私は「水」が好きだ。絵なら水彩画や水墨画、スポーツなら水泳、色なら水を想起させる青や青緑、自然界のアイテムなら海や川や湖、みんなが疎ましがる雨も私は嫌いじゃない。こうした、今世の私の魂にしっかりと刻まれているようなものがある一方で、自分でも予想だにしないタイミングで特定の感情が湧きあがってくることがある。数日前の出来事がまさにそれだった。土曜日の昼下がり。買い物に行こうと住宅街を歩いていたら、ある家の前に置かれた水連鉢に目が留まった。吸い寄せられるようにして水連鉢を覗くと、そこにはメダカがいて、少し淀んだ水のにおいがした。その瞬間、切なさがこみ上げてきて不覚にも涙がこぼれた。空は青く、初夏の風は爽やかで、涙がこぼれる理由などどこにもないのにだ。慌てて涙をぬぐい、心に広がった切なさの波紋を必死で追いかけたが、波紋は消えてなくなった。
 「淀んだ水のにおい」と「切なさ」、「夜風の音」と「戸惑い」、「木漏れ日」と「解放感」、「冷たい手」と「愛おしさ」。どの組合せも、今世の私には説明がつかない。
 300種類の異なるパズル×1000ピースがごちゃまぜに入った器の中から、何の気なしに取り出した2ピースが、たまたま1つのパズルで使われるピースで、なおかつ隣り合うものだったと表現すれば、少しは伝わるだろうか。要するに、2ピースだけがつながったところで、全体像なんて全く見当がつかない。モヤモヤするだけで役に立たない過去世の断片的な記憶にどんな意味があるというのか。一時期は真剣に悩んだりもした。しかし、20代後半くらいから、何の前触れもなく現れる2ピースを楽しめるようになり、30代では「死ぬまでに1つでいいからパズルが出来上がると面白いな」と思うようになった。つながった2ピースを青い手帳に書き留めるようになったのは、その頃からだったと思う。つながった2ピースは、景色や感情以外にも、香りや感触、時には誰かが放った言葉なんかも運んでくるようになった。私の青い手帳は、1年に1冊くらいのペースで増えていき、そこには、私の過去世における断片的な記憶を表現する言葉たちが無秩序に並んだ。何度読み返しても、全体像が見える気配は、これっぽっちも無かった。けれど、私も知らないところで「ソートボタン」が押され、少しずつ並べ替えられていたことを、私はだいぶ後になってから気づくことになる。

1.

 「沙羅! おーい、聞こえてんのかー」
 陽介に呼ばれているのはわかっていた。が、その声は厚い鉄の扉の向こうから呼ばれているかのよう遠く、その上、身体は硬直して全く反応できなかった。「息をのむ」。人は息をのむ瞬間、息をのむこと以外、瞬きの一つさえできない。その間、おそらく7~8秒。しかし、沙羅には、その人が店のドアを開けて入ってくるところから、カウンターに着席するまでの全てがスローモーションだったため、1分近くに感じた。やっと、現実に引き戻され、やっとの思いで言った。
 「いらっしゃいませ」
 「お前さあ、客が来た時くらいシャキッとしてくれよ。こいつは俺の友だちだから、まあいいけど。こちら中学で一緒だった光汰」
 「どうも、はじめまして」
 その光汰という人は上手な笑顔で沙羅に挨拶をした。「上手な笑顔」という意味は、上手な愛想笑いということだ。沙羅は、幼い頃から、相手が自分に対して、どういう距離感でいるのかを瞬時に感じ取れた。つまり、初対面時に大概の人がそうであるように、光汰も上手に愛想笑いをしたということだ。
 「はじめまして」
 と言いながら、沙羅は(全然、はじめましてじゃないけど)と心の中で付け足した。
 
 沙羅は普段は画廊に勤めているが、陽介に頼まれたときだけ、陽介が脱サラして始めたバルを手伝っている。陽介とは、大学時代にアルバイトをしていた市営プールで出会った。沙羅は監視員のアルバイト、陽介はプールに来ていた客の1人だった。プールサイドで転んで、膝を派手に擦りむいた陽介が、監視員の休憩室兼救護室に現れたときも、景色がスローモーションになった。目の前の出来事がスローモーションになるのは、2ピースがつながる前兆であることを、沙羅は経験的に知っていた。陽介の日焼けした足、擦りむいた膝がしらに、沙羅はある種の愛おしさを覚えた。が、そんなことはおくびにも出さず、沙羅は極めて冷静に傷口を消毒し、大きな絆創膏を貼った。
 思い出せそうで思い出せない。今世ではないどこかで出会っている。
 (誰なの?)
 そう心の中で強く思った瞬間、女性の声が聞こえた。
「陽介! みんなで探しちゃったじゃない。全然見つからないから、迷子のアナウンスをしてもらおうと思ってここに来たの」
「ああ、ごめんごめん。すっころんでこの通り。でも、もう大丈夫。このお姉さんが手当てをしてくれたから」
 そう言って、陽介は、沙羅に向かって小さく頭を下げた。そして、彼女と思しき女性と二人で肩を並べ、ごった返すプールサイドに消えていった。
 その日のバイトを終え、沙羅が自分のバイクを停めた場所に行くと、縁石に座って煙草を吸っている男がいた。陽介だった。
 「え? このバイク、お姉さんのバイクなの? 俺も同じバイクなんだよね。色もモデルも全く同じ。違うのはマフラーくらい。俺のは、マフラーをチタン製にカスタムしてんだよね」
 「あ、そうなんですね」
 「ねえ、後ろに乗せてよ」
 「は?」
 沙羅は、この手の軽いノリが苦手だ。愛想よくあしらうことができず、つっけんどんな応対をしてしまう。そんな沙羅の心の動きになど、まったく気づく様子もなく、陽介は調子よく話し続けた。
 「じゃあさ、俺が運転するから後ろに乗る?」
 「乗りません。ナンパにもバイクの後ろにも乗りません」
 沙羅は何の感情も込めずにそう言って、ヘルメットをかぶり、臙脂色のKAWASAKI ZZR250のエンジンをかけた。駐車場から出るのに一時停止をした際、大きく手を振る陽介がミラーに映った。その姿は少年のようだった。そのとき、沙羅は、過去世のどこかで、自分が大事な誰かを置き去りにしたことを思い出した。胸がえぐられる感覚が蘇り、景色がスローモーションになった。
(ノートに書き記す2ピースは「遠くなっていく少年」と「未練」?「後悔」?)
 そう思った瞬間、沙羅はバランスを崩し、ずるずるとバイクごと地面に倒れた。いわゆる立ちごけ。あまりの自分の無様さに、沙羅は倒れたまま声を出して笑った。陽介が慌てて駆け寄ってきてバイクを起こした。
「ありがとう」
 沙羅の口から、素直な言葉と笑顔が出た。
「やっぱりさ、俺が運転するから後ろに乗りなよ」
「乗りません」

 陽介とはそれ以来の付き合いだ。付き合いと言っても、あくまでも「仲の良い友達」。出会った当時、陽介は24歳で、沙羅は20歳。傷口の消毒をした時、陽介に「お姉さん」と言われても、さほど違和感を持たなかったのは、陽介が童顔で、ちょっと落ち着きがなかったせいだろう。陽介との付き合いは、女友達との付き合いよりも圧倒的に楽だった。用事が無ければメールも電話も互いにしないし、それに対する不安も落胆もない。でも、困ったら、素直に「助けて」「手伝って」と言い合える関係。ただ、その関係も長くは続かなかった。陽介が28歳で結婚したからだ。沙羅は陽介を頼ることを遠慮するようになった。しかし、陽介のほうは全く変わらずだった。30歳で脱サラをしてバルを始める時も内装の相談を散々された。店を開店してからもホールを手伝ってほしいというメールが度々来た。その要請に応えるのは、月に1度くらいだったが、それが、ある意味、二人が疎遠になることを防いでいたともいえる。光汰という同級生が店に来た日も、沙羅は1か月ぶりくらいで、ヘルプに入ったのだった。

 「嫁さんか?」
 沙羅の顔と陽介の顔を交互に見ながら、光汰が言った。
 「まさか」
 と、沙羅が言うと、陽介が間髪入れずに、茶化すように言った。
 「沙羅さん、33歳、独身でーす」
 沙羅は陽介を睨んだ。すると光汰が言った。
 「俺ね、結婚するんだわ」
 「聞いてないし」
 「昨日、決まったことだからな」
 光汰は、芸能人がするみたいに、左手の甲を陽介に見せた。その薬指に、指輪はまだ無かった。沙羅がまるで振られたかのような空気感に対し、沙羅は小さなため息をついた。そして、表情を崩さないまま赤ワインをグラスに注ぎ、光汰の前に置いた。
 「え? 俺、まだオーダーしてないけど」
 「あ、すみません」
 「いや、これで合っているから別にいいんだけど」
 
(いつのことなのだろう。私は、この人に赤ワインが入ったグラスを出したことがある)

 沙羅は、ワイングラスを持つ光汰の右手の甲をぼんやりと眺めた。そこには、火傷の後のようなものが見て取れた。

2.

 陽介に出逢って間もないころ、沙羅は陽介に名前の由来を尋ねたことがある。
 「俺の名前をつけたのは母方の爺さん。どんなときも、場や人を太陽のように明るく照らせる人になれって願いがこめられているらしい。ちゃんと、その通りの大人になったなあと自分でも思うよ」
 陽介が真顔で言うので、沙羅は笑った。
 「え? 笑うとこあった?」
 「あった。『大人』にはなれてないじゃん」
 沙羅は、陽介のことをただの一度も大人だと思ったことはない。まっすぐな人間ではあるが、それは裏を返せば身勝手ということだ。
 ずいぶん前に交わした、そんな会話を思い返していたら、陽介から電話が来た。誰かのことを考えていると、その本人からメールや電話が来たり、ばったり遭ったりということが、沙羅にはよくあった。
 「明日の土曜日の昼頃って暇?」
 「なんで? 第2土曜って、お店は休みだよね?」
 「店は休みだよ。お客さんから、映画のチケットをもらったんだけど明日までなんだよ。嫁は予定があるっていうから、沙羅が行けるなら、どうかなって思って」
 「何の映画?」
 「ウルトラマン」
 「ごめん、私も予定あるわ」
 「お前、今の断り方はウルトラマンに失礼だぞ。ま、想定はしていたけど。光汰を誘ってみるよ」
 「もし、映画の後、飲みに行くなら誘って」
 「わかった。また連絡する」

 陽介と光汰は、二人で午前中から『ウルトラマン』を観に行き、沙羅が合流した14時には、二人ともすっかり酔っていた。何とも楽しそうにしている37歳男性二人を前に、沙羅は男同士の友情を羨ましく思った。
 女の友情は、なかなか長くは続かない。恋人ができたり、結婚したり、子どもが生まれたり、そんな人生の節目ごとに、女は自分と同じ境遇の相手を友達に選ぶからだ。女が、共感し合うことでコミュニケーションを取る生き物であることを思えば、それはとても合理的ではある。でも、実際に心から共感し合っているかと言えば、意外とそうでもない。恋人がいる者同士でのろけ合っているかと思いきや、実は恋人のルックスや経済力を推し量っていたり、結婚した者同士で夫の悪口を言い合いながら、実は互いの生活レベルを探り合っていたり、子どもの出来の悪さを愚痴りながら、実際にはそれぞれが心の中で、互いの子どもに優劣を付けたりしている。女全員がそうだとは言わないが、多かれ少なかれ、そんな傾向があることは確かだ。
 それに引き換え、この目の前の男二人はどうだろう。『ウルトラマン』の話で盛り上がる二人に、「実は」腹で思っていることなど皆無だ。そんな陽介と光汰を見ながら、沙羅は確信した。
(二人がこうして屈託なく笑いあっている光景を見たことがある)

 「沙羅、お前、光汰のことガン見しすぎだぞ」
 陽介に声をかけられて、沙羅は我に返った。
 「いやいや、二人のことを見ていたの。男の友情はいいなって思いながら見てた。それより、あのー、私、なんとお呼びすればいいですか?」
 沙羅は光汰に尋ねた。
 「光汰で」
 「いや、さすがに、会って2回目の年上の男性を呼び捨てにはできないので、『光汰さん』にします」
 「なんだか『距離感を縮めません宣言』をされた感じだな。俺は、沙羅ちゃんが陽介の昔からの友達だからなのか、あまり距離を感じていないんだけどね」
 光汰が、そう言うと、陽介がニヤニヤしながら言った。
 「沙羅、聞いたか? お前、『沙羅ちゃん』て呼ばれたぞ」
 沙羅が陽介に一瞥くれると、光汰が言った。
 「女の子に『ちゃん』を付けるのは普通だろ」
 「沙羅、聞いたか? 今度は『女の子』って言われたぞ! よかったな!」
 陽介が沙羅を茶化すのは毎度のことだ。陽介の店を手伝っているときにも、常連さんが沙羅のことを、ちゃん付けで呼び、それを陽介が茶化す。いつものことなのに、このときばかりは茶化し続ける陽介に軽く腹が立った。
 この日は3人ともよく飲んだ。と言っても、沙羅はさほど飲めないので、ほろ酔いレベルだったが、それでも光汰に対して使っていた「ですます調」は、アルコールに溶かされてしまったかのように数時間で完全消滅した。そもそも、沙羅にとっては過去世で出会っている感覚がある相手なだけに、「ですます調」で話すことのほうが違和感があったわけだが。
 店を出ると、外はまだ明るかった。繁華街の広い通りを、3人は夕日に照らされながら横並びで歩いた。沙羅を中央に右側に陽介、左側に光汰。沙羅よりも頭一つ分ほど背の高い陽介と光汰は、沙羅の頭の上で、またウルトラマンの話をしている。
 正面から軽トラックが結構なスピードで走ってきた。道路の左端を歩いていた光汰が沙羅の左手を引き、沙羅が陽介の左手を引き、横に広がっていた3人の影が一気にくっついた。
 沙羅の左手を握ったまま光汰が言った。
 「夏でも、こんなに手が冷たいの?」
 「眠るとき以外は、1年中いつも冷たいかも」
 光汰が、沙羅の手を離さないのは、光汰がひどく酔っぱらっているからだ。わかっているのに、沙羅は動揺した。中学生の時、好きだった男の子と二人で雪道を歩いているときに滑って尻もちをついたことがある。そのときに手を引いて起こしてもらった後も、ずっと手をつないだまま歩いたときの目眩にも似た高揚感が蘇った。
 このときほど、陽介の鈍感さをありがたく思ったことはない。陽介は、沙羅の手が冷たいことにも、沙羅が動揺していることにも全く気付いていない様子で、沙羅の手を振り払い、走り去っていった軽トラックを10メートルほど追いかけ、何やら大きな声で毒づいていた。
 沙羅は自分の動揺を光汰に悟られまいと、光汰の右手から自分の左手をできるだけ自然に放しながら尋ねた。
 「この前も思ったんだけど、右手の甲にあるのは火傷の痕?」
 「そう。これは、大学生のときに花火で遊んでて火傷したときの痕。ここにさ、本当はほくろがあったんだよ。火傷のせいでほくろは消えちゃったんだけどね」
 沙羅は、自分の右手をそっとジーパンの後ろポケットに突っ込んだ。沙羅の右手の甲には、光汰の火傷の痕とほぼ同じ位置にほくろがある。沙羅は、そのことを、光汰に気づかれたくなかった。

3.

 「ところで、例の彼とはちゃんと別れたの?」
 沙羅は、こくりと頷いて、自分の前に置かれたアイスウィンナーコーヒーをストローでかき混ぜ、俯いたまま令子の次の言葉を待った。
 令子は沙羅の幼馴染で、他の誰よりも、おそらく沙羅本人よりも沙羅のことを理解している。沙羅の価値観や世界観はもちろん、沙羅の過去世の記憶についても、信じてくれているのは令子だけだ。
 「そっか」
 言い方はクールだったが、沙羅が顔を上げた先には、令子のやさしい眼差しがあった。

 沙羅が働く画廊に初めて来る1人客の大半は、中の様子を窺う感じでゆっくりとドアを開け入ってくる。そして、作品を一通り見たら、大概はそのまま出て行く。しかし、初めて見る顔の、その男性は、躊躇なく店の扉を開け、颯爽と中に入ってきて、初めから決めていたかのように1枚の絵の前で立ち止まった。そして、そこから5分以上動かなかった。沙羅は、ついじっくりと観察してしまった。仕立ての良いスーツにノーネクタイ。磨きこまれた革靴は琥珀色をしていた。歳は40歳前後だろうか。
 沙羅は、頃合いを見計らって声をかけた。
 「モディリアーニがお好きなんですか?」
 「いえ、窓から見えて気になったので近くで見たくなっただけです。作者の名前も今、あなたに言われて初めて知りました。覚えられませんでしたけどね」
 と言って、男ははにかんだ。
 沙羅は男の隣に並ぶようにして立ち、作品を前に説明をした。
 「アメデオ・モディリアーニ。イタリア生まれのユダヤ系の画家です。風景画は4点しかなく、それ以外は全て人物画。そのほとんどが首の長い、アーモンド形の瞳をした美人です。彼は売れない画家のまま、35歳で病死しました。でも今や、モディリアーニの原画がオークションに出ると100億円を超えることもあります。うちにあるものはリトグラフなのでこのお値段ですが」
 「こういうところでお仕事をされているだけあって詳しいんですね」
 「いえ。卒論のテーマがモディリアーニだったのでたまたまです」
 今度は、沙羅がはにかんだ。
 「この絵のモデルは誰なんですか?」
 「ジャンヌというモディリアーニの内縁の妻です」
 モディリアーニの子を宿していたジャンヌが、モディリアーニの死を悲しみ、後追い自殺をしたことは言わなかった。せっかく気に入った作品にネガティブな印象をつけたくなかった。
 男はその絵を購入はせず、毎月好きな絵を借りられるレンタル契約をした。契約の書類を書き終えると、男は沙羅に名刺を差し出した。
 沙羅は、名刺の社名にも肩書きにも目を止めることはなく、名前にだけ反応した。
 「『小説の神様』と同姓同名なんですね」
 「『や』の漢字が違いますけどね」

 沙羅は、その日の晩、令子と食事をしながら、志賀直也という男のことを話した。
 「いくつくらいで何してる人?」
 「40歳くらいかな」
 沙羅はそう言って、直也の名刺を令子に見せた。
 「海外のリゾート開発で有名な会社ね。しかも、40歳でこの肩書なら出世組だわ。普通に考えれば既婚者だから気を付けてね」
 「なに、それ」
 「その無防備な子犬みたいな感じを出さないように気を付けてねってこと」

 そう忠告を受けていたにもかかわらず、沙羅は直也に対して、無防備そのものだった。直也の話は沙羅が知らないことばかりで、新鮮で興味深く、それを表情や態度に出さないことなど、沙羅にはできなかった。
 沙羅は200色を超える水彩色鉛筆を持っている。中学生の頃から買い揃え、大事にしてきたものだ。新色が出るたびに、沙羅は必ず手に入れてきた。沙羅にとって直也は「新色」そのものだった。自分が持っていない色は欲しくなる。その色を使ってみたくなる。自分が持っている色と混ぜてみたくなる。それは沙羅にとって、ごく自然なことだった。

 直也が自ら既婚者であることを口にしたのは、沙羅と付き合い始めて半年ほどが過ぎてからだった。
 その日は7月なのに肌寒く、シトシトと雨が降っていた。直也は沙羅のマンション前の路上に車を停め、エンジンを切り、ハザードを出してポツリポツリと話し始めた。結婚していること、10歳になる息子がいること、その息子には先天的な障害があること、絵を描くのが好きな息子のために名画ばかりをレンタルしていること、沙羅の存在に癒されていることを、直也は前を向いたまま静かに話した。
 シトシトと降る雨がフロントガラスに小さな雨粒を次々とつくっていく。その中の一粒を見つめながら、沙羅は直也の話を黙って聞いていた。見つめていた小さな雨粒に新しい雨が落ちて、粒が少しずつ大きくなる。傾斜に耐えられない重さになった雨粒は、フロントガラスをツーッと滑り落ち、姿を消した。
 直也の話を聞き終えても、沙羅には怒りも悲しみもなかった。
 (過去世のどこかでも、こんな雨の日に、誰かに何かを打ち明けられて沈黙したことがある)
 と、沙羅は過去世に思いを馳せていた。
 直也が沙羅のほうを向いて言った。
 「俺は全部言った。あとは沙羅に決めてほしい」
 沙羅は、今にも滑り落ちそうな大きな雨粒を見たまま、やっと口を開いた。
 「もし、この雨粒に感情があるとしたら『フロントガラスの傾斜がもっとゆるやかだったらいいのにな』って思うかな。それとも『どうせ滑り落ちるなら、もっと急な傾斜のほうがいいのにな』って思うかな。どっちだと思う?」
 沙羅の唐突な問いに、どう答えたらいいかわからずにいる直也を、沙羅は気の毒に思いながら車を降りた。
 自分の部屋の玄関を開け、鍵を閉めるのと同時に涙があふれた。それは、直也が「全部」を話すことなく、その場をやり過ごそうとした狡さに対する虚しさからの涙だった。涙を完全にしまってから、沙羅は令子に電話をかけた。
 「なーにー?」
 のんきな声を出す令子に、沙羅は真面目な声で言った。
 「さっきね、神様のお告げがあった」
 「は?」
 沙羅は、今しがた起きたことの全てを令子に話した。令子は驚きもせずに言った。
 「ぜーんぶ、想定内。で、今の話のどの部分が神様のお告げなの?」
 「私が、フロントガラスの雨粒を見ながら、雨粒の感情について質問した部分」
 一拍置いてから、沙羅は一気に話した。
 「私ね、あの人の車の助手席に乗るたびに、倒れすぎのシートをいつも起こしてから乗ってたの。今日やっと気づいた。奥さん、妊娠してる。最近やけにシートが倒れてるなって思ってた。きっともうすぐ生まれるんだと思う。神様が雨粒に姿を変えて、私に教えてくれたんだよ。そのおかげで、私、車を降りてから振り向かずに済んだ」
 令子は黙り込んだ。電話の向こうで令子が鼻をすする音が聞こえた。
 「どうして令子が泣くの?」
 「怒りも頂点に達すると涙になるって知らないの? その男にも腹が立つし、沙羅にも腹が立つ。だって、私、雨粒の神様よりもずっと早い段階で、沙羅にちゃんと忠告したもの」

 ひとつの恋が終わると、何か新しいことがしたくなる。これは沙羅が自分をリセットするための儀式のようなもので、これまでも編み物をしたり、植物を種から育ててみたり、ピアノの新しい楽譜を買うなど、いろんなことをしてきた。
 (今回は何をしよう)
 そう考えているときに、何気なくつけたテレビに映ったのがツール・ド・フランスの映像だった。
 (自転車、いいかも)
 沙羅はすぐにスマホで自転車のことを調べた。沙羅の心を惹く色の自転車は1分とかからずに見つかった。その色にはチェレステという名前が付いていて、イタリア語で「空色」「天空」の意味なのだと知った。「水」に対して絶対的な思い入れのある沙羅は、雨を降らせる空にも思い入れがあった。
 「買う!」
 沙羅は、一人でそう声に出し、陽介にメールを送った。
 <私、チェレステカラーの自転車を買う。だから、今度、お店が休みの日に、買いに行くの付きあって>
 沙羅がツール・ド・フランスのことを知っているのは、陽介から聞いたことがあったからだ。案の定、陽介からはすぐに返事が来た。
 <急にどうした? ビアンキは高いぞ?>

 陽介には直也とのことは話していない。「陽介には」というより、「令子にしか」話していない。陽介に話せば根掘り葉掘り無遠慮に聞いてくるのは目に見えていたし、相手が既婚者だとわかれば反対してくるのが目に見えていたからだ。そういう意味では、陽介の知らないところで、恋が始まり終わったことに、沙羅はどことなく安堵していた。

4.

 蝉がうるさいほどに鳴く日曜日、遅めの朝食を食べてから、沙羅は陽介が指定した自転車ショップへと向かった。そこには沙羅が好きなチェレステカラーの自転車ばかりが並んでいた。
 「お客様、ご予算はどれくらいでしょうか」
 遅れてきた陽介が声色を変え、沙羅の背後から店員を装って声をかけてきた。そんな三文芝居に沙羅が騙されるはずがない。
 「20万以内。ごめんね、休みの日に」
 「少しは騙されたふりをしろよ。ところで、どうして急に自転車? しかもどうしてビアンキ?」
 「前から欲しかったの」
 鈍感な陽介も、さすがにこれは口からの出まかせだとわかったらしい。
 「うそつけ」
 と言って、沙羅のことを睨んだ。

 2時間かけて選んだ自転車は予算オーバーだったが、沙羅は大満足だった。
 陽介までがうれしそうに、
 「いい買い物をしたと思う」
 と何度も言い、あたかも自分の自転車を買ったかのように、陽介は自身のSNSに沙羅の自転車の写真をアップした。
 「お、光汰が真っ先に『いいね!』を押したぞ」
 「ちょっと待ってよ。私が自分のSNSにあげたいのに」
 「お前、SNSなんてほとんどやってないじゃん」
 「これからはやるの! 自転車で行った場所を記録していく意味でもやろうと思ってるの!」
 そう言って、沙羅は自分のSNSを久しぶりに開いた。友達リクエストが来ている。光汰からだった。沙羅はこれまでにただの一度も自分から友達申請をしたことが無い。そして、会ったことの無い人からのリクエストは無視すると決めていた。理由は3つ。来るもの拒まず去るもの追わず、の考え方が好きだから。とは言え、見知らぬ人とつながる意味が沙羅には見いだせなかったから。もう一つは、自分自身がいつでもSNSをやめられるようにしておきたかったから。そのことは陽介にも話したことがあった。
 「光汰さんから友達リクエストが来てる」
 「会ったことあるんだし、別に何も問題はないだろ?」
 「そうね。営業マンにとっては、SNSも営業ツールみたいなもんよね」
 沙羅は光汰からの友達リクエストを受け入れた。

 自転車を手に入れたその日から、沙羅は自転車で出かける先々で写真を撮っては走行距離と一緒にSNSにアップした。自転車に乗りながら心惹かれる景色を探すことは探検のようで楽しく、アングルや光にこだわって撮った写真をSNSという場所に保管していく作業は宝物が増えていくようでうれしかった。そんな沙羅にとって、「いいね!」の数はさほど意味を持たなかったが、自分でも感嘆するほど美しい景色の写真をアップしたときに「いいね!」の数が増えると、それは自分の宝物を褒めてくれる人がいるように感じられ、漕ぐモチベーションにつながるのだった。
 
 気づけば季節は秋になっていた。沙羅はその日、電車で陽介の店の手伝いに向かっていた。自分のこれまでのSNSを見返すと、そこには夕日が反射して赤く染まる川面、月の白い光に揺れる緑の木々、土砂降りの雨がつくった水たまりに映る青空など、色んな夏があった。そして、写真の3割くらいには、沙羅にしか知りえない温度や匂いがあり、そして「過去世の記憶のかけら」があった。それらの情報はSNSには書きこまず、自分の青い手帳にだけ書き記した。

 陽介の店に着くなり、陽介が言った。
 「お前、アホみたいに漕いでてスゲーな。意外と根性あるんだな」
 沙羅がSNSを更新すると、だいたい真っ先に「いいね!」を押すのが陽介だった。
 「アホだけど根性はあるの」
 「光汰も感化されて、しばらく乗っていなかったクロスバイクに乗り始めたらしいぞ」
 「ふーん」
 沙羅はそっけない返事をしたが、心の内側には小さな波が立っていた。

 その日のバイトを終え、沙羅は令子に会う約束を取り付けた。
 「急に呼び出すなんて珍しいじゃない。どうかした?」
 「どうかした。過去世の記憶のかけらが、今までにないくらいに現世とつながり始めてこわい」
 沙羅は、自転車を漕ぐことで、青い手帳に記す回数が増えていったことを話した。そして、光汰に初めて会ったときの光景がスローモーションになったこと、不意に手を引かれたときに動揺したこと、右手のほくろのこと、過去世の記憶が掘り起こされた景色をSNSにあげたときに限って光汰が「いいね!」を押すこと、光汰が自転車に乗り始めたことを話した。そして、沙羅は青い手帳を取り出し、あるページを開いて令子に見せた。
 「例えば、ここを見て」
 沙羅が開いたページには、こう記してあった。
 【赤い川面で石切り】
 【平たい石を探す男性の右手の甲にほくろ】
 「私が手帳にこう書いた翌日に、SNSにこの書きこみ」
 沙羅は、夕日に染まる川面と自転車の写真を載せた自分のSNSを開き、そのコメント欄を令子に見せた。そこには光汰による短い書き込みがあった。
 『川を見ると石切りしたくなる』
 「ほかにも、これとか」
 沙羅は青い手帳の別のページを開いた。
 【鏡のような水たまりに完璧に空が映って、向こう側にも、別の世界が広がっているみたい】
 「こう書いたら、この書きこみ」
 『その水鏡(みずかがみ)、パラレルワールドにつながっているかもよ』
 
 令子が沙羅の顔をまじまじと見ていった。 
 「つまり、その光汰って人に、沙羅は過去世で出会っているってこと? 運命の人ってこと?」
 「過去世のどこかで出会っているとは思う。でも、運命の人ではないと思う。だって、この人、結婚したばかりだもん」
 沙羅は自分でそう否定しながら、胸にかすかな痛みを感じていた。
 「『運命の人=結婚相手』とは限らないでしょ? 『運命の人=かけがえのない存在』だと私は思うけど」
 令子の言葉に救われそうになる自分を打ち消すように沙羅は言葉を被せた。
 「まだ2回しか会ってないのに『かけがえのない存在』なんてありえない」
 「『かけがえのない存在かどうかは、共有した時間の長さと全く関係ない』って、沙羅が私に言ったんだよ?」
 「そんなこといつ言った?」
 「昔、そう言ってた」
 「言ってない」
 「言った」
 「絶対に言ってない!」
 「絶対に言った!」
 この子どもみたいな押し問答に、沙羅の心に広がった痛みを伴う切なさは、うまい具合にかき消された。

5.

 秋が深まった自転車日和の土曜日、沙羅はサイクリングコースが併設されている広い公園にいた。すっかり色づいたイチョウ並木を背景にチェレステカラーの自転車の写真を撮っていると、沙羅の目の前に赤い自転車がとまった。光汰だった。
 「なんで?」
 あまりにも想定外で、沙羅の口からはそんなぶっきらぼうな言葉しか出てこなかった。
 「最近よくこの公園の写真をSNSにあげているから、どれだけ面白い場所なのかと思って来てみたけど、たいして面白いコースじゃないな」
 2人は近くのベンチに並んで座った。
 「私に感化されて自転車を漕ぎ始めたって陽介から聞いてはいたけど、本当に漕いでるんだ」
 「俺のほうが沙羅ちゃんよりも前から自転車に乗っているんだから感化はされていない。しかし、よく飽きずに毎日のように乗ってるよね」
 「景色も空気も毎日変わるから飽きないよ。雲なんて5秒で形が変わるもの」
 「匂いも変わるよね。匂いで思い出すものがあったりもするし。それでも俺は飽きるけど」
 匂いで思い出すものがあるという光汰の言葉に沙羅の心が揺れた。得体のしれない何かに浚われてしまいそうになった沙羅は、話題を変えるためだけに思いつきで言った。
 「ねえ、私と勝負しない? 1か月でどれくらいの距離を漕げるかって勝負」
 「俺ね、さっきも言った通り飽きっぽいから、そういうコツコツ頑張るの無理」
 光汰はそう言って立ち上がると、ヘルメットをかぶりながら、沙羅のほうを見た。
 「あれ? ヘルメットは?」
 「持ってない」
 「ヘルメットをかぶらない奴が、よくも勝負しようなんて言えたな」
 光汰は本気で呆れた顔をした。思いつきだったとは言え、勝負の提案をあっさりと断られたことにも、本気で呆れられたことにも、沙羅は傷ついた。そんな沙羅に構いもせず、光汰は、じゃあ、とだけ言って、その場を走り去った。
 沙羅は、一人でベンチに座ったまま色々と考えた。20メートル先に自販機が見える。缶コーヒーでも買って渡せば、もっと長く話せただろうか。最初に放った一言が「なんで?」ではなく、もっと可愛げのある言葉だったら会話の流れが変わっていただろうか。挙句の果てには、勝負をしようなんて言わなきゃよかったと、本気で後悔した。そこまで考えてから、沙羅は全ての考えを覆すべく思い直した。過去世でどんなに縁が深かったとしても、今世は今世で別の世界で、別の人格で、別の人生なのだ。過去世の記憶そのものが、沙羅の妄想だと言われてしまえばそれまでだ。そう思ったらずいぶんと気が晴れた。それでも沙羅は、光汰に呆れられたことを打ち消したくて、その場でスマホからネットショップにアクセスし、チェレステカラーのヘルメットを購入した。

 数日後、届いたヘルメットを、沙羅は自分のSNSにアップした。陽介ではなく光汰が真っ先に「いいね!」を押した。呆れたことを撤回してもらえたように感じて、沙羅は安堵した。
 その翌朝。目が覚めてスマホを見ると光汰からメールと写真が1枚届いていた。
 <今日から勝負な>
 写真には光汰の赤い自転車と、古めかしい鉄製の洋門が写っていた。
(飽きっぽいから無理って言ったくせに)
 沙羅は心の中でつぶやきながら、写真の場所を割り出そうと、写真を拡大した。門にはてんとう虫のレリーフが施されている。見覚えがある。でもそれ以上のことは思い出せない。画像検索にかけると、その門が1800年代後半に建てられた洋館に続く門であることが判明した。住所を見る限り、沙羅はそこに行ったことはなかった。
 沙羅は、陽介にメールを送った。
 <朝からごめん。光汰さんて、どこに住んでるの?>
 <おいおい、光汰は既婚者なんだから変なちょっかい出すなよ>
 <ちょっかいなんて出さないってば。最寄りの駅でいいから教えて。勝負に関わる重要なことなの>
 <勝負って?>
 <長くなるからあとで話す>
 沙羅は陽介から聞き出した駅名と、洋館のある場所を地図のアプリに入れて距離を調べた。片道20㎞強。沙羅は急いで顔を洗い、サイクルウェアに着替え、食パンをかじりながら自分の家から片道20㎞以上がどのあたりになるのかを調べた。
 沙羅は自転車を漕ぎながら、てんとう虫のレリーフが付いた門の記憶を懸命にたどった。自転車を漕いでいると、心なしか記憶をたどりやすい気がして、沙羅はここぞとばかりにペダルを踏んだ。門の向こう側に、10歳くらいの少年の姿が見える。名前こそわからないものの、名前で呼べそうなくらいに、その少年には親近感があった。ふとサイクルメーターを見ると、走行距離は22㎞を超えていた。沙羅は自転車を降り、遠くに見える白い橋を背景に自転車の写真を撮り、メールと一緒に光汰に送った。
 <勝負にのってくれてありがとう。 30日後の走行距離で勝ち負けを決めて、負けたほうが焼肉をごちそうするってことで>
 返事はすぐに来た。
 <先に言っておく。ごちそうさま!>

 こうして勝負は始まった。毎日ではないものの、仕事に行く前の早朝、帰宅後の夜、あるいは週末、沙羅も光汰も自転車を漕いでは行った先で写真を撮り、短い文面と共に送り合った。写真の場所を記載しないことが暗黙の了解となり、写真だけを手がかりに相手がどこまで行ったのかを推測することが、沙羅は楽しくてうれしくて仕方がなかった。そして、少しだけ苦しかった。楽しい理由は、その謎解きのような仕掛けが面白かったから。うれしい理由は、その相手が光汰だったから。少しだけ苦しい理由は、かけがえのない存在かもしれない人が、すでに誰かのかけがえのない人だったから。そんな中で、沙羅は過去世のどこかで長きにわたり、大切な誰かと文通をしていたことを思い出していた。手紙で何かを伝える喜び、返事を待ち焦がれる感覚、封を開けるときの胸の高鳴り、そうした感情の輪郭が、光汰と写真の交換をするたびに明確なものになっていった。しかし肝心の相手や手紙の内容は全くわからないのだった。

 一連の出来事を令子に話すと、令子が珍しく神妙な面持ちで言った。
 「ねえ、退行催眠を受けてみたら?」
 「やだ。テレビで見たことがあるけど、自分の意思とは関係なくペラペラ話したり、泣いたり笑ったり踊ったりしちゃうアレでしょ? 恥ずかしいからやだよ」
 沙羅は全力で拒否した。
 「それは催眠術。私が言っているのは退行催眠。過去世のことがわかるみたいよ」
 「令子には何度も話しているけど、私ね、何百回も生まれ変わってる感覚があるの。 例えばの話だけど、100回目の人生を明らかにしたいのに101回目の人生のことがわかっても全く意味がないんだよ。それにもし、過去世の記憶が整理されたところで、今ここにある現実は何も変わらない。だから、今のままでいい」
 沙羅は自分でそう言ってから考えた。もし過去世での大事な約束を思い出して、それを今世で果たせるとしたら、自分はその約束を果たそうとするんじゃないか? 約束を果たしたら何かが変わるんじゃないか? 今世では変わらなくても来世で何かが変わるんじゃないか? そんな沙羅の考えを見透かしたかのように令子が言った。
 「私は変わると思う。だって、些細なことで気持ちって変わるし、気持ちが変われば行動が変わるし、行動が変われば人生が変わるもの。退行催眠を無理に勧めるわけじゃないけど、もしその気になったら、これ読んでみて。この前、沙羅に青い手帳の話を聞いてから、ずっとモヤモヤが止まらなくて調べたの。沙羅みたいに過去世の記憶がある人って、世の中にはチラホラいるみたいよ」
 そう言って令子は、インターネットで調べたものを出力したような資料の束と数冊の本を沙羅に手渡した。

約束 【連載中】

約束 【連載中】

約束を果たせば、その約束は時空を超えて存在し続ける。 約束を果たせなければ、約束したこと自体が消えて無になる。 過去世の「記憶のかけら」を持つ主人公の沙羅が、 過去世で出会ったことのある人々と現世で出会い、 今を生きる意味や幸せとは何かを見つけ出そうとする物語。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-12-05

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