「嘆く独身者倶楽部」の思い出

凍実 永

01. 入会届「嘆く独身者倶楽部」

 わたしが子供の頃、父は「嘆く独身者倶楽部」に入っていた。「反靴下同盟」だの「貴婦人襟巻き猫の会」だの妙な倶楽部が沢山ある世の中だから、別に驚くにはあたらない。「嘆く独身者倶楽部」は、その名の通り、独身貴族の集まりで、しかも、わけ有りで独身でいる男達の倶楽部だった。いったい、どんな倶楽部かと云うと、尼僧に焦がれて改宗したものや、毎月違う恋人にふられ続けているものなどがいる倶楽部で、要は、つらい恋を嘆くための倶楽部だった。ちなみに、会員のだいたいが「詩人」だった。
 父は既婚者だったが、早くに妻、つまりわたしの母を失ったという理由で入会を許されていた。ところが、あるとき、その父が倶楽部員の資格を剥奪されそうになったことがある。忘れ形見が居るのだから、慰めは十分あるのではないかという意見が、「思いつきのロメオ」という妙なあだ名の男から挙がったというのだ。ロメオの云い分では、息子のわたしに、亡き妻の面影が残っており、それによって心慰められるのであるから、会員資格を有するほどには「嘆く」ことはできまい、とのことだった。父は胸を張ってこう答えたと云う。
「妻は美しい女だった。ふっくらとした薔薇色の頬と、天国の青の瞳を持っていた。しかし、息子は不幸にも目の色も顔色も冴えず、痩せぎすで、私にそっくりである。」
その言葉を後で聞いたときには、わたしは無論、がっかりしたと云わざるを得ない。だが、父にとってはその後が問題だった。ロメオとその取り巻き連中は、父の言葉を信じようとせず、挙句に妙な替え歌まで作って父をからかう始末だった。仕方なく父は、証明に息子を連れて来ることを宣言した。そして、ロメオの帽子を倶楽部のカーテンの陰に隠してから、憤然として我が家の居間に舞い戻った。
「息子や、出掛けるぞ、身支度をなさい。私は母さんの肖像の複製をとってくる。」
母の肖像は家中いたるところにあったが、それらは全て複製だった。火事や物取りなどあわないよう、万一に備えて、本物を全て銀行の金庫に預けていたからだ。わたしが身支度を整え終わる頃、父がいちばんのお気に入りの肖像の複製を持って戻ってきた。それは父の書斎にかけてあった物で、画面の中では年若い母が、ピンクのドレスを着て愛らしく微笑んでいる。わたしは早速、車に放り込まれ、そのがたがた揺れる車内で事情を聞いた。
「でも、僕の顔色、そんなに冴えないかなあ。」
「大丈夫、私に負けず劣らず冴えないよ。」
「でも父さん、僕、倶楽部に行くの嫌だな。僕は見世物じゃないよ。」
「そんなこと云わないでおくれよ、どうしてもお前の協力が必要なんだ。お願いだよ。まさか、私が倶楽部を追い出されてもいいとは思わんだろう?」
無論、そうは思わなかった。また、庭先で悲しい芝居の上演会が開かれたり、怪しげな交霊術師が家に出入するようになるのはごめんだった。父が倶楽部員である間は、そんなようなことは、すべて倶楽部で行われていた。わたしは、大袈裟に溜息をつき、肩を竦めて、「仕方ないな。」と云って見せた。その頃、わたしはその仕草が、大人っぽくて格好いいと思っていたのだ。
 だが、わたしはすぐに、やはり霊媒師の方がましだったろうかと考え始めるに至った。倶楽部に着いてみると、中央にしつらえられたテーブルの上に、女の子の服が可愛らしい帽子や靴とともに並んでいたのだ。それは美しいブルーの、絹の艶を持って光っていた。そして倶楽部の会員たちの着た紳士服の地味な色合いの中では、それはひときわ神々しく目立っていた。
 ロメオは、多分、父が隠した帽子を探していたのだろう、本棚の上に居たが、わたしたちが戻ったのをみると、「ははあ、戻ったな。」と云って、不敵に笑った。
 「ようし、君の細君の肖像をそこに置きたまえ。そうして息子君には、この女の子の服を着てその隣に立ってもらおうじゃないか。それで、面影があるかないか、全員の投票で決めるとしよう。」
 ロメオが本棚から降りる間、わたしはそのブルーのドレスや帽子を凝視していた。確かに、それらは青いのだから、わたしの顔色の冴えなさをいっそう目立たせはするだろう。しかし、わたしは無論、そのブルーのドレスを着ることだけは断固拒否しようと思った。襟元と裾には繊細なレースが施され、袖はふんわりと膨らんでいる。そんなものを着たことが、万が一、友人たちにでも知れたら、わたしに髭が生えてそれが膝まで延びるくらいの時間が経っても、やはり笑われ続けるだろう。
「嫌です、着ません。」
「ほう、息子君は自信がないようだぞ。」
ロメオが云うと、父は口惜しそうに唸り、それから懇願するような目でわたしを見つめた。その勝ち誇ったようなロメオの顔と、悲しげな父の目を見て、わたしは迷った。わたしが拒否すれば、それはすなわち父の負けを意味するらしいのだ。だが、ドレスはどうしても嫌だった。それで、暫く悩んだ末に、わたしはひとつの妥協案を提示した。
「じゃあ、僕がその可愛い帽子をかぶってみるってんじゃ駄目ですか。」
ロメオは無論、駄目だと云おうとしたのだろうが、周囲ではわたしの男らしい英断にいくつかの溜め息が漏れていた。帽子ひとつにしたって、やはり屈辱に変わりはないのだ。その溜め息の幾つかが、倶楽部の長老連中のあたりから聞こえたこともあり、ロメオは、大袈裟に肩を竦めて、「仕方がないな。」と云ってみせた。
 そして、わたしは恥に耐え、しぶしぶ淡い青の愛らしい帽子を被ったのだった。ロメオが母の肖像の複製を持って隣に並ぶ。わたしは恥と腹立ちのために顔に血がのぼるのを感じた。
「どうですか、母の面影はありますか。」
 わたしは憮然として云った。それから、わたしは父の表情に気付いて、怪訝に思った。父はぽかんと口を開けて、わたしを見ていた。そして、ロメオが得意気に云った。
「みろ、ちっとは面影があるじゃないか。」
「本当だ、普段は顔色が悪いから分からなかった。」
そう云ったとき、父の目はかすかに潤んでいたので、その後、恐らくは、感動的な台詞が吐かれる筈だったのだ。わたしもそれを予感したし、周囲の倶楽部員たちは静まって、その台詞を聞こうと耳を傾けていた。
 だが、その静けさは、遺憾ながら、玄関口の方のなにやら立ち騒ぐ気配によって乗っ取られた。ついで美しい少女が、慌てふためいた倶楽部付きの執事を振り切って、部屋に飛び込んできた。
「叔父様、ひどいわ!それは今日やっと仕立てあがったのよ、かえして!」
少女は果敢にも執事の脛を蹴って振り払うと、テーブルの上の洋服にたどり着き、それを小さな両手に抱えた。それから、その小さな怒れる少女を、ロメオが困った様子であれやこれや宥めはじめたので、わたしは結局、ついに父の台詞を聞かずじまいであった。
 だが、その時には既に、わたしには父の台詞など全くどうでもよろしくなっていた。その少女の美しさに、すっかり心奪われていたのだ。少女は、美しい金の巻き毛に、大きな真緑の瞳をしていた。丸い頬の線は華やかに赤く燃えおり、鈴の鳴るような声で語られる罵り言葉はみな、上品で気が利いていた。わたしはその真新しい恋に心臓を射抜かれて息も出来ないほどであったから、彼女がわたしに視線を向けたときには、失神しそうになった。彼女は大またに歩み寄ってわたしすぐ前に立つと、怒りに燃える目でわたしを睨み付けてから、わたしの頭から帽子をむしりとり、憤然と出て行った。その後をロメオが、慌てふためいて追いかけた。その通りすがりにわたしに場所を尋ねたところから察して、姪をいちばん近くのお菓子屋に連れて行くつもりらしかった。
 結局、父は、決定的な発言をしなかったことと、そして友人の「金魚とりのジョン」の機転により、倶楽部に留まれることとなった。
 倶楽部内に女性が立ち入ったという由々しき事件の後でも、相似裁判は何事もなかったかのように続行された。原告ロメオは既に、姪を連れてお菓子屋へ向かったらしかったが、そのようなことはもはやどうでもよろしかったようだ。皆がこの一部始終を楽しみ始めてしまっていたので、面白いから続けよう、と云うことになったというのがいちばん近いところだろう。それで、もはや帽子こそないものの、再び母の面影の検証に戻ったわけなのだが、わたしの頬は、今度は新しい恋の為に紅潮しており、故に母との僅かな相似が認められたらしい。特に鼻から上唇にかけてが顕著だという。
「これは明らかなる相似ですな。」
長老格の「老オルフェウス」が、興味深げに云った。父は返事に窮していた。わたしは必死に顔をもとの冴えない色合いに戻そうと努力したが、その度に、先程の少女の面影が蘇って、真っ赤になってしまってどうするわけにもいかない。そのとき、父の親友の「金魚とりのジョン」が、静かにわたしの隣に歩み出でた。
「皆さん、お忘れですか、この少年は成長するのですよ。」
彼は優しげに微笑んでそう云い、いい終えるといきなり、どこから持ってきたのやら、わたしの鼻の下に、真っ黒な靴墨を塗りつけた。周囲の倶楽部員からは激しい抗議の声が上がったが、ジョンは相変わらず穏やかに微笑んで云った。
「そうです、酷いでしょう、大変に痛ましい眺めです。でも、これが真実なのです。皆さん、お気づきでしょう。彼にもいずれは、このような黒々しい髭が生えて亡きお母様の面影を覆いつくしてしまうのです。ええ、確かに、この少年は父親似ではありますが、やはりお二人の子供です、お母様の面影も宿してはいるでしょう。しかし、彼もあと数年経てば、我々と同じように勇ましくむくつけき青年になってしまうのです。なんと云う哀れなことではありませんか。彼の父親は妻を亡くしたばかりか、少年の面差しに見える妻の面影が徐々に消え、ついには黒々しい髭の下に埋もれてしまうのまでをも見なくてはならないのです。」
ジョンの声は温和で優しく、その分、人の心に染み入るものがあった。父は、その言葉の意味を飲み込むまでの数秒は、またぽかんと口を開けていたが、やがてすぐに白いハンカチを取り出して、男泣きを始めた。そのうちに、倶楽部員のうちの幾人かがその様な父の様子に倣ったので、倶楽部はその後、男泣きと鼻をかむ音で溢れた。
 そんな大人たちの様子には飽き飽きして、わたしは執事にペンと上等の便箋を用意してもらい、そこにはじめての恋愛詩を書いた。はじめてにしては出来が悪くないと思ったので、そのまま、絶望的表情で帰還したロメオに預けた。ロメオは、これも姪を宥めるにはいい策だと思ったらしく、快く仲介役を引き受けてくれた。
 そんなようにして、わたしは「嘆く独身者倶楽部」の最年少会員になった。少女は「思い付きのロメオ」のお姉さんの子だったが、どうしても事件を許せなかったらしく、以後しばらく倶楽部の関係者一切と連絡を絶っていた。わたしもまたすっかり嫌われたようだったので、花やらチョコレートやらの贈り物のほか、毎年、年に一度、新しい帽子を届けている。そんなことを随分長く続けた甲斐もあり、数年前から、ようやく返事にあと幾つ帽子を贈れば許してもらえるかが明記されるようになった。年に一度の割合で計算するに、彼女が成人する年に怒りが解けるらしい。それで、わたしは帽子の次は指輪を送らねばなるまいと考えている。
 ところで、危ういところで倶楽部に残ることが出来た父だったが、結局その数年後に今度は本当に、倶楽部の会員資格を失ってしまった。母の幽霊が恒常的に出るようになったからだ。どうやら、父がわたしのために、ロメオのお姉さんをお茶に招待したのが原因らしい。やきもちの力というのは偉大だ。父がロメオのお姉さんと軽い談笑を交わすと、それまでどんな霊媒も呼び戻せなかった母であったのに、すぐに舞い戻って手当たり次第に皿を投げ始め、父は喜びの叫びをあげながら皿を避けるという奇妙な夫婦喧嘩が展開された。誤解が解け、夫婦喧嘩が済んでも、母は冥界に帰る気は無いようで、そのまま居ついている。母は身体が半透明なのを恥じてあまり外出はしないが、元来が活動的な気性だ。日々、庭先で悲しい芝居の上演会を開いたり、怪しげな交霊術師を家に招いたり、「死せる婦人の会」を主催などして忙しくしている。父は幸福そうではあるが、時々「嘆く独身者倶楽部」が懐かしくなるのか、こっそりとカーテンの中にロメオの帽子がまだあるのを確認しに来ている。

02. 「金魚とりのジョン」

 わたしが「嘆く独身者倶楽部」に入ってから数年が経ったころ、十代の半ばごろのことだった。わたしがちょっとした旅行から帰ってくると、父が悲嘆に暮れた様子で、居間に座り込んでいた。憂鬱好みの父には、そんなことは珍しくもなかったが、母がその手を取って慰めているのが気になった。よほど深刻なことでもない限り、母はそんなことはしない。わたしが少し驚いて事情を尋ねると、父は重い溜め息とともに、「金魚とりのジョン」が妙な冗談を残して失踪した、あるいは、そしておそらくは、亡くなったのだ、と告げた。
 「金魚とりのジョン」は父の親友で、温厚な人柄と、そのちょっと変わった作風の詩で愛された、有名な詩人だった。彼はいうまでもなく、わたしの所属する「嘆く独身者倶楽部」においても重要な会員だった。なにしろ、彼の詩は女王陛下にまで愛されていたのだから。処女詩集「懐中金魚」から、壮大な「タツノオトシゴ戦争」まで、彼の作品はいずれも評価が高く、それでいて小難しくはなかったから、支持者も沢山いた。代表作「鯨の胃の中で」のなかの一篇、「オキアミと人魚姫」などは歌にまでされ、ちょっとした流行歌になったこともある。そうして、それらの作品群からもうかがえるように、生涯、魚に魅せられつづけた詩人であった。その愛らしい表現で、多くの女性の心を掴み、かつ、その魚に寄せる切ない騎士道精神ゆえに、多くの「嘆く独身者」達に愛されていた。
 そんなジョンが消えた、そしておそらくは亡くなったというのだから、わたしはすっかり驚いてしまった。
「何故、亡くなったと思うんです?」
「それがどうも、病気だった様なんだ。頭の中にできものが出来てね。そこまでは確実だったんだ、医者も証言している。それが失踪する十日ほど前のことだ。」
「では、早く探さなくては。」
「ところが、その次の朝のことだ。執事が起こしにいくと、ジョンのベッドには白骨が寝ていた。頭蓋の中に水が溜まっている以外、きれいなもんで、そのまま倶楽部に飾ろうかと云う案が出るくらいだったらしい。そして、それ以来、行方を捜しても何の手がかりもない。大勢の連中がこれをいつもの冗談だと取っているが、わたしにはそうは思えないんだ。」
確かに、冗談の質が彼らしくなかった。そういう陰気なことを好むたちではないのだ。彼の精神は微笑みと小さな生きものへの深い愛情に満ちており、緑と光と透明な水が彼の住む世界だった。確かに、ジョンは帽子掛けに巨大な昆布を干したり暖炉を使用禁止にしてそこで蟹を飼ったり、いろいろと奇妙なことをする人物ではあったけれど、自分のベッドに骸骨を置くような人物ではないのだ。それでは、本当に、一晩にして骨になってしまったのか。わたしはそれで、にこやかに東洋の金魚文化について語る彼を思い出し、しばらく涙に暮れた。それから、サイドテーブルの上のカラフェに手を伸ばした。わたしはそれをお酒だと思ったので、大人ぶって元気付けに一杯失敬しようと思ったのだ。父がそれを慌てた様子で止めた。
「こら、そりゃあ酒じゃない。ジョンの頭にあったできものが入っているんだぞ。」
「ええ、なんだってそんなもの。」
父はその前に二言三言、だいたい子供が酒に手を出すなんて五十年早い、などとぶつくさ云ってから、大きく溜め息をついて、続けた。
「遺言だよ。頭蓋の中に、水が溜まっていたといったろう、その水に、その青緑のできものが浮いていたそうだ。メモがベッドのサイドテーブルに残っていてね、できものを、そのサイドテーブルの上に同じように置いてあったカルフェにとっておいて、孵化したら秘密の金庫にある、水槽に流し込んでくれ、だそうだ。カルフェにあらかじめ入れてあった調合液と共にそのまま、流し込むようにってね。可哀想に、できものでやられて、ちょっとおかしくなっていたのかも知れないね。明日、金庫を開けに行くよ、ついてくるかね。」
「痛ましいな。ええ、行きましょう。」
そんな会話の間中、わたしはそのカルフェの中身を見ていた。水の中に、できものは静かに沈んでいた。それは、どうも青と緑のきれいな色をしていて、恐ろしい病巣といったようには見えなかった。なにしろ、時折、きらきらと光るのだ。
 次の朝、わたしたちは黒い服に身を包んで「金魚取りのジョン」の家を訪ねた。ジョンの従弟いとこにあたる、「鼻なしシラノ」が、沈痛な面持ちで迎え出でた。「鼻なしシラノ」もまた「嘆く独身者倶楽部」に所属しており、ジョンと共に「えび篭」という小さな出版社をやっていた。シラノはひょろりと痩せた肩を寂しそうに落としていて、背は高いのに、いつもより心持ち小さく見えた。
「たぶん金庫は、南の塔にあるんじゃないかと思います。広い家なんですけどね、使っていない部屋が多いんです。南の塔には、ジョンの書斎と寝室があったんですよ、冬でも日当たりがよくて、暖かくていいってね。作品は皆、そこで書かれたようです。」
そんな話をしながら「鼻なしシラノ」はわたしたちを案内してくれた。
 ジョンの家は広かったが、長年、ひっそりとした生活を好んできた彼の家らしく、薄暗く、しんとしていた。色んな人から贈られた、巨大なかじきや鮫の剥製や、海の絵や船の模型などが、通り過ぎる間にも見受けられる。それなのに、なんとなく人の気配がないなと思わせるのは、ごく限られた部屋しか使っていなかったからであろう。あるいは、剥製なんかはジョンの好みには合わないだろうから、わざと使わない部屋に置いてあったのかもしれない。沈黙に耐えかねてわたしは云ってみる。
「しかし、広いですね。迷いそう。」
「ええ、実は今も少し迷いました。でも、もう着きますよ。」
シラノは悲しげに笑って云った。
 シラノの話どおり、南の塔は暖かく、光に溢れて静かだった。古い塔なのかもしれないが、窓は大きく取ってあり、そこから柔らかな陽光がさんさんと降り注いでいる。その横には空の水槽が置いてあり、シラノが云うには、先月までは小さな蛸を飼っていたそうだ。快適にしつらえられた室内には、彼の人柄を忍ばせるような暖かな色合いの、中世風の簡素な家具が並んでおり、暖炉のマントルピースの上には貝殻が幾つか乗っている。本棚には魚や海洋生物の図鑑や、お気に入りなのか、昔の詩人の本が並ぶ。部屋の中央には大きな書き物机があり、大きなルーペと珊瑚で出来たインキ壷が、窓からの日差しを受けて輝いていた。総じて、部屋の中はきれいに片付いており、机の上には一枚の書置きがあった。
「あれが、執事の見つけたと云う遺書かい。」
父が静かに云うと、シラノは困惑したように云いながら、それを取り上げる。
「いえ、書斎には執事は入っていないんです。執事が見つけたのは、この下の寝室にあった書付です。」
白い紙には、短い文章がジョンの字で書きつけてあった。

「金庫を開けて、水槽に水ごと、わたしを流し込んでいただきたい。計算によれば、わたしが一匹増えても差し支えない筈だが、用意した水と調合液にも必要な成分が混ぜ込んである。窓際の蛸の水槽と間違えないように。」

シラノが読み上げると、我々は頭を振って、心痛を表現した。それとも、本当に冗談なのだろうか。だが、そうではない、と、窓際の空の水槽が告げている。わたしたちは仕方なく部屋を探し回り、しばらくして南側の壁のタペストリーの下に、作りつけの金庫を見つけた。わたしたちはそれで顔を見合わせ、「結構用心深いんだな。」とか何とかいいながら、鍵を開けた。
 重い金庫の扉を開けると、その中には呆れたことに、財産関係の書類や貴重品などではなく、本当に大きな水槽が入っていた。水槽としての瓶、というべきか。要は、水槽瓶、アクアリウムだ。その瓶は、樽ほどの大きさで、水と水草と魚で充たされており、日光に透けて美しく緑に輝いていた。
 だがむしろ、それよりもまず我々の目を引いたのは、その金庫に背面がガラスになっているということだった。奥の壁が頑丈な鉄であるかわりに、窓のようなガラスなっていたのだ。そのガラスを透けて、塔の外の景色が見えている。塔の下の森が、青々として広がっていた。
「きっと、この水槽瓶に日が当たるようにってことなんでしょう。」
そう云って我々は、また溜め息をついた。このような仕掛けをいつ作ったのであろうか。
「しかし、これじゃあ、シラノ君の受け取る遺産がわからんね。」
「いいえ、それなら一週間も前に、郵便で届いているんです。」
「郵便で。それは随分と、無用心だね。」
「ええ、必要な書類一式と銀行の貸し金庫の鍵と、瓶に入った小さな蛸と。蛸の瓶だけが要注意の取り扱いになっていましてね、今も元気です。」
「蛸なら、ここに放り込んで置けばよかったじゃないか。」
父は大きな水槽瓶を覗き込みながら、重い溜め息をついた。それで、わたしたちはしばらくは、溜め息をついたり、額に手を当てたりしていた。そのうち、その大きな水槽瓶を覗いていた父が、突然、大声を出した。
「おい!見たまえ、諸君、見たまえよ!人魚だ!人魚がいるぞ!」
わたしとシラノは息を呑んだ。父が指差したその瓶の中には、確かに、小さな人魚がいたのだ。わたしたちは目を疑った。そして、机の引き出しからルーペを引っ張り出してきて、代わるがわるにそれを検分した。
「これがジョンの金魚姫だったんですね。まさか、本当だったとは。」
シラノが、驚きあきれた様子で云った。わたしたちはまったく、驚いていた。たしかに、ジョンの詩には、度々美しい人魚が登場したし、金魚に奉げる恋愛詩集などもあった。しかし、本当に、その書斎に人魚がいるとは。
「そりゃあ、金庫にも入れるよな。」
そう云った父の感想に、シラノもわたしも、妙に納得してしまった。
「しかし、人魚がこんなに小さいものだなんて。」
「きれいだなあ、本当に金魚みたいだ。」
「一緒にいる魚も随分小さいなあ。」
「蛸を仲間に入れなかったわけも納得いきますね。」
ふたりはかわるがわるにルーペを覗き、まだ老眼鏡の要らないわたしは、ルーペなしでそれをじっと見つめた。
 わたしの観察した感じでは、人魚はちょうど女性の小指ほどの大きさで、赤い髪と金の尻尾をしており、類まれなる美人であった。太陽の光があたるたび、その黄金の鱗はきらきらと光り、赤い髪には光が入り込み、燃えるように揺れた。その黄金の尻尾のひれ先も、やはり僅かに赤みがかり、それが鮮やかに光に透け、色ガラスの美しさだ。そうして、小さな人形のような優美な首の辺り、その真珠のようなきめの肌に、小さなえらの様なものが刻まれている。人魚には我々の姿は巨大すぎて認識できないのだろうか、驚く様子もなく、悠々と、水草の間を行ったり来たりしていた。小魚たちが彼女の友達であるらしく、時折彼女の肩の上に、まるで小鳥のようにとまった。この人魚にはどちらかというと、表情のようなものはないのだが、その無表情の片隅に、この上なく愛らしい微笑とか、悲しみに打ち沈んだような陰りとかが、一瞬、横切るように思える。
「いや、わたしの妻ほどではないが、美しいなあ!」
「しかし驚いたな、確か、このままの容姿の人魚をうたった詩がありましたよ。」
「ああ、読んだことがあるよ。たしか、自分はどんどん年老いてゆくのに、彼女は何も変わらない、といった内容だったかな。しかし、てっきり情熱の擬人化だと思っていたのにな。」
シラノも父も、まるで人魚を脅かさないよう気を使っているかのように、抑えた声で熱心に話した。父とシラノが感心している間に、わたしは驚きを沈めようと、ふらふらと机の方に戻った。
なんということだ、「金魚取りのジョン」の金魚は、実在の小さな人魚だったのだ。そう思うと、彼の詩に満ちた限りない愛情と、時折垣間見せる悲しい程の切なさも、ようやくに理解できるのだった。わたしは少しばかり涙ぐんで、「タツノオトシゴ戦争」の中の一説を暗唱した。

「おお、ごらんなさい、いまやサファイヤの天井は黄昏に赤く染まりました。
太陽さえも姫を慕って、あのように海原に接吻するのです。
どうしてわたくしがお慕いせずにいられるでしょうか。」

これはたしか、もう数十年も前の作品だ。いったい、どのくらい昔から、ジョンはこの人魚を書斎に隠していたのだろう。そう考えながら、何気なく、机の上におきっ放しになっていたカルフェを取り上げた。
 そして、わたしはまた、息を呑んだ。カルフェの底に沈んでいたあの青緑のできものは、本当に卵であったようだ。既に殻は破られ、カルフェの中には、小さなトライトンとでも云うべきものが泳ぎ回っていた。青と緑のそのきらきらした生き物は、ちょうど男性の小指ほどの大きさで、波に揺られては身を翻した。そして、わたしが覗き込んだことになど気付きもせず、ひらひらとそのカルフェのなかを泳ぎ回っていた。無論、わたしは驚いて、それを取り落としそうになるのを持ち直して、かすれた声で父とシラノを呼び返した。それで、今度はカルフェの中身にルーペが向けられた。
「これは絶対、ジョンですよ。」
わたしはそう確信していた。
「たしかに、従兄の若い頃に似ていますね。」
シラノが熱心な声で云うと、父もそのルーペを覗き込んで云う。
「そうかな、ジョンはもっと貧相だった気がする。」
「そうだったんですか。でも、単に若返ったわけではないですしね。」
そんな議論をしながら、わたしたちは少し安心していた。ジョンは亡くなったわけではないのだ、ただ、姿を変えただけなのだ。それを知ることはよいことだった、悲しみの重さが胸から消え、少しばかりの寂しさにとって変わった。しかし、同時にわたし達の頭の中では、数々の疑問が駆け巡っていた。ジョンはどうやってこんな姿に変わったのだろう?いや、そもそも、どこで人魚を手に入れたのだろう?そうして、この自足的な環境であるらしい水槽瓶アクアリウムを、どうやって作ったのだろう?それを説明する書き物は何も残されていなかった。しばらく、説明書きでもないものかと部屋をあさり、やがて諦めてわたしたちは座り込んでカラフェを見つめた。
「このジョンに聞くわけにもいかないしなあ。しかし、ひどいな、親友にも従兄にも説明なしで変身するとは。」
父が、随分と軽くなった溜め息をつくと、シラノが云う。
「従兄は若い頃少し、海洋学を勉強したらしいですけれどね。僕は年が離れているので、あんまり若い時期のことは良くはわからないんですが。しかし、批評家たちもその影響を詩に認めていました。でも、それだってかじった程度だと聞いています。その後、見てのとおり、色々と独学では勉強したようですが、詩作の為のもので、唯美的なものに傾いていたのではないかと思います。」
「作品の中にヒントのようなものはないのですか。」
わたしが聞くと、シラノはしばらく考えていたが、やがて首を振った。
「そのようなエピソードに言及したものがないわけではありません。いくつかあって、確か、初期の作品で、浜辺の古代遺跡で人魚の入った小さなガラス瓶を見つける話はあるんですけれどね。しかし、それも創作ではないかと思います、その頃はまだ、従兄はほとんど旅行なんてしていませんでしたから。本物の人魚が出てきてしまった以上、僕には、従兄の作品がどこから創作で、どこまでが現実なのか、判断できませんよ。」
それが従弟のシラノに説明できるすべてだった。それで、父は、晴れやかな寂しさで微笑むといった。
「さて、いつまでも花婿をカラフェに待たせておくのも気の毒だ。」
それでわたし達は、仕方なく、水槽瓶の固い栓を開けると、「おめでとう、ジョン。」と、口々に云いながら、カラフェからトライトンを水ごと流し込み、また栓を固くした。それから、二人の出会いを観察することも出来たのだろうが、なんだかそのような私的なことを覗き見するというのも失礼な気がしたので、早々に金庫の扉を閉めてしまったのだった。
 それから、数日のちに「嘆く独身者倶楽部」で、わたしは数人の友人たちと議論をしていた。
「だが、君が見たのは本当にジョンだったのかね?」
父が倶楽部から居なくなってから、わたしと仲良くなった「思い付きのロメオ」が云う。
「確かだよ、父もシラノも、若い頃のジョンにそっくりだと請け負ったもの。僕も見たし、たしかにジョンから皺とぜい肉を取った感じだったよ。」
「わからんぞ、ただのよく似たトライトンだったのかもしれん。ジョンが海辺の水溜りで拾ってきただけかもしれないじゃないか、シラノが引き取ったと云う蛸だってそうだったんだろう。」
「蛸ならともかく、トライトンはそうそう浜辺をうろうろしているものではないでしょう。」
「だが、ジョンは人魚は見つけたじゃないか。」
わたしが反論の方法を考えていると、わたしの従兄でもある「松葉杖のファエトン」が云う。ファエトンは倶楽部員であるにもかかわらず、ほとんど倶楽部には顔を出さないのだが、やはりジョンのことは気になるらしく、その日は珍しく姿を現したのだった。
「いやね、僕らはなにもジョンがトライトンになるってことが信じられないんじゃないんだ。ただ、そのトライトンが本当にジョンだという保障がないじゃないか。」
「それはそうだ、君は僕と弟の区別だって付かなかったじゃないか。」
そう云ったのは、「哀れなパラモン」と呼ばれる青年で、彼には仲の良い「行方不明のアルシーテ」と云う双子の弟が居るのだが、彼の行方はとんとわからない。噂では偽名を使って、憧れの人の家に執事見習いとして入っていると聞く。
 要するに、友人たちは、本当にそのトライトンがジョンであるか分からない、と云うのだ。彼らはまだ、冗談という説を信じたいのだろう。彼等はトライトンであれなんであれ、ジョンを失いたくはないのだ。それにしたって皆があまりにもわたしを本気にとらないものだから、わたしはなんだかうんざりして、この際白旗でも振ってだんまりでも決め込もうかという気になったときのことだ。なんだか、倶楽部の入り口の方が騒がしくなった。
「こら、大切に扱ってくれ。ぶつけると硝子ケースがわれる。」
そんな風に人足に指図しながら倶楽部に入ってきたのは「老オルフェウス」だった。彼の後からは、なにやら滑車に載せられた、巨大な四角いものが布を被って、人足に押されながらついてくる。老オルフェの話し振りからして、それは硝子ケースに入った何かなのだろう。ちょっとした段差では、何かが当たってかちゃりと鳴る音がする。
「なんですか、それは。」
倶楽部員の関心はわたしに白旗を降らせることから、その滑車の上の巨大な四角い箱に移ったようで、倶楽部中の連中がその辺りに集まってきていた。
「そんなに騒ぐほどのものでもないわい。ジョンからのちょっとした贈り物だ。退会の記念品とでも云うかの。お前らも退会するときには、このくらいの感謝の念を表しなさい。」
「なんだ、じゃあ、鮫の剥製かなんかだ。」
「鮫ならなかなか面白いじゃないか。」
「あの、頭が金槌みたいになっているのがいいな。」
そんな勝手な会話が始まる一方で、わたしを降参させようとがんばっていた連中は、顔を見合わせた。「退会」と云う言葉が、妙に説得力を持っていたのだ。それで「松葉杖のファエトン」が、神妙な面持ちで尋ねた。
「老オルフェ、ジョンは本当に退会したんですか。」
「ああ、皺と腰痛におさらばして、トライトンになっての。長老会に退会宣言をして行きおったな。もう、嘆く必要も無いし、独身者でもなくなりますので、退会させていただきますとな。せっかく長老会に入れる年齢になったとおもったら、とたんにすっかり若返って消えてしまった。しかし、随分と張り切っておったよ。自慢たらたらでな、うんざりするくらいにいろいろ話してくれたぞ。」
それで、「老オルフェウス」は質問攻めにあうことになったのだが、彼は老獪なことで有名な御仁だった。どうも、退会宣言をしに来たジョンから、変身の方法やそれを知った経緯を聞いたらしいのだが、
「全く理解できなかったがな。だから忘れてしまったわい。」
と笑い、そのあとで、
「誰か末の姪に良縁を紹介してくれたら思い出すかも知れん。」
と付け加えた。あいにく、「老オルフェウス」の末の姪はひどい我侭との評判だったから、わたしたちはお互いに視線を交し合ったものの何も云わなかった。そんなわけで、変身の方法が明らかになることはなかった。老オルフェはそれから、一枚の紙を取り出すと、しばらく時間をかけて老眼鏡を捜し、捜し出してかけると、その紙を読みはじめた。

「長老会の皆様へ。このたび、長年の嘆きに終止符を打つことになりました。ようやくに長老と呼ばれるために必要な年齢に達したところで、退会ということになった次第、お仲間入りがついに出来なくなり、非常に残念です。従弟のシラノや他の友人たちには、知らせず参ります。おそらく、寂しがると思いますし、そうすればわたしの決心も鈍りかねません。それに、追い出し式に参加するのは遠慮したいですしね。間違って葬式でも出されてしまったら、それはそれ、死んだということにして下さって構いません。どのみち、戻ってくるのは少しばかり難しいでしょう。書斎を整理していたら、若い頃に書いた詩がいくつか見つかりました。だいたいが未発表のもので、きっとあまりよくないと思ったから発表しなかったのでしょうが、今となっては全て良い思い出、お預けいたします。そのなかに、少しばかり葬式向きでもあるようなのがありましたから、挨拶代わりに読んでください。


栄光に満ちたる金魚よ、あなたの赤い背びれは、まるで聖堂の窓のよう。
眩しく太陽に透けては、ルビーの如くに燃えて、わたくしを浄化します。
荘厳なる偉大な金魚よ、あなたの薄い尾ひれは、まるで黄昏の空のよう。
繊細な線で走る血管は、雲間のから差し込んだ、輝く黄金の階段のよう。
その荘厳さと繊細さが、 創造主の栄光と偉大を、ちくいち物語ってくれるのです。
わたくしは、あなたの、赤と黄金のひれにより、永遠へと導かるのです。


それでは、さようなら。どうぞ、長老会の皆様、末永くお幸せに。嘆く独身者倶楽部の方々の恋が、わたしのように叶いますように。金魚とりのジョンより。」

老オルフェは、老眼鏡を外しながら、静かに云った。
「こら、そんなにしんみりなさるな。」
それで、老オルフェは締めくくりにこう云った。
「何十年も用意してきたことがようやく完成するといっていたな。嬉しそうにな、わけのわからん科学的な話をしていったわい。だが、お前さんたち、そんなに驚いたり、悲しんだりするようなことかね?わしはよく知っているが、若い頃の彼はちっとばかしきれいな文が書けるだけの、平凡な男だった。それが、小さな人魚によって偉大な詩人になったのだ。それから、ついにちいさなトライトンになった。どちらも同じことではないかね、中身が変わるか外見が変わるかだよ。ジョンは最後の仕上げをしただけじゃないかのね。そうしてその結果、我々の元から居なくなった。しかし、ずっと居なくなりつつあったのさ。」
わたしたちはその言葉に感心して頷いた。
 それから、「老オルフェウス」は、微笑みながら、いつの間にか硝子ケースを滑車から降ろし、倶楽部の奥の一角に据えてしまった人足に心付けを与え始めた。ハンカチで目頭を押さえながらも、「思いつきのロメオ」が、彼に尋ねた。
「そういえば、何ですか、その中身は。」
「決まっておるだろう、ジョンのベッドに残っていた骨だ。」
そういって、老オルフェは澄ましたまま、若者たちが抗議の声をあげながら布を剥ぎ取るのを、にこにこしながら待っていた。
 そんな次第で、ジョンの全身骨格が、倶楽部の隅にお目見えすることとなった。詩を朗読するポーズを取るようにして組み立てられたジョンは、月桂冠をかぶせられ、心なしか満足そうにも見える。硝子ケースは、「ジョンだけが偉そうにケースの中に鎮座しているのは不公平だ。」との理由で、すぐに取り除かれた。そのうちに、誰かがその手に、代表作である「鯨の腹の中で」を持たせた。それ以来、「すっかり解けちまった金魚取りのジョン」はずっと「嘆く独身者倶楽部」に立っている。噂では、ジョンの作品をおおいに愛好した女王陛下が、とんでもない額で買い取りたいとの申し込みをなさったらしいが、いまだに倶楽部に立っているところを見ると、「老オルフェウス」あたりがはねつけたのだろう。なにしろ、ジョンの最上の部分は既に、人魚という女性と共にあるのだ。骨くらいは我々男性に残しておいてもらわなくては。

03. 「オランジェリーのパリス」

 先日、「嘆く独身者倶楽部」で、珍しくわたしの従兄を見掛けた。スポーツマンで、嘆くのが性に合わないらしい従兄は、あまりに長く倶楽部に顔を出さなかったものだから、最近の彼にぴったりのあだ名もない。だから、たくましい青年に成長した後も、その昔わたしがつけたあだ名、「松葉杖のファエトン」と相変わらず呼ばれていた。ファエトンというのは、ギリシア神話に出てくる可哀想な少年神の名前で、太陽神アポロの戦車で無謀な運転をして死んだとされている。このあだ名がついたのはずいぶん昔のことだったので、倶楽部で見掛けた時にはもう松葉杖などついていなかった。代わりに白くてうすっぺらい、馬に似た犬を連れていた。毛の長いきれいな犬だ。その日、わたしが倶楽部に入っていくと、ちょうど常連連中が革張りのソファにふんぞり返って、その犬の毛並について議論しているところだった。

「なるほど、本当に絹のようだな。」
「いや、おばあさんの白髪のようだ。」
「随分と美髪で馬面なばあさんだな。しかしこいつ、本当に犬かい。」
「じゃあなんだって言うんだ。」
「顔つきは鹿に似てるぞ。」
「こんな歯の鹿なんているものか。」
「雑食の鹿なんてどうだ。」

そんな話に退屈していたらしいファエトンは、欠伸をひとつしながら周囲を見回した。そして、すぐさまわたしを見付けると、少年の頃から変わらない明るい瞳で、朗らかにわたしを呼んだ。
「ハムレッティ!何年ぶりかね?大きくなったね、元気だったかね。」
この年で大きくなったもなかろうが、四つ年上の彼からするとわたしはいつでも弟なのだ。ファエトンはアポロの如くに輝かしい笑顔で、犬の綱を引っ張りつつ、倶楽部のソファの間を縫ってきた。躾のなってない様子の白い犬は、低いソファにふんぞりかえった連中の膝の上を歩くので、いくつか抗議の声があがった。
「おうい、なにするんだ。」
「この服、汚すと執事がうるさいんだぞ。」
「ああ、すまんね、みんな。躾がなってなくて。」
ファエトンは独特の晴れやかな声で笑いながら云う。

「でも、かわいいでしょう。名前は、絹手袋って云います。」
ファエトンは、手近な位置にいた「鼻なしのシラノ」に云うと、返答に曖昧な笑顔を受取り、犬はそのままにしてわたしに向き直る。すっぺらい犬は困ったような表情の「鼻なしのシラノ」の膝の上で、少し間の抜けたような顔で口を開け舌を出し、真っ白な毛の中に配置された大きな瞳でこちらを見上げていた。従兄は、晴れやかに笑って、わたしの肩を叩く。
「しかし、久しぶりだなあ、ハムレッティ、いつ以来かね。」
「君が倶楽部付きの執事を泣かせて以来だよ。」
「ああ、あれは不幸なすれ違いだったなあ。しかし、あれは本来、室内用競技なんだよ、まさか、シャンデリアが墜落するはめになるとはなあ。あれには僕も、ちょっと予想が付かなかったよ。ねえ、シラノさん、あの時はびっくりしましたよね。」

「そうだね。」

シラノはあいかわず曖昧に微笑み、ファエトンが膝の上の犬を引き取る気配を見せないので、仕方なく犬を撫で始めた。それを見つけた若い会員の「ふられっぱなしのチェルビーノ」が、面白そうだと思ったのか、声をかける。

「なんだい、そいつ。回転木馬の馬みたいだね、きれいだな。乗ってみてもいいかなあ。」

「それはまずいんじゃないかなあ、きっと、潰れちゃうよ。」

シラノが常識的な答えをしたのを確認してから、わたしたちは犬を預けたままにして、バーカウンターに移動した。「鼻なしのシラノ」はいまや眼鏡を舐められつつあったが、抗議の声はあげていなかった。

「見事な犬だろう?」
ファエトンはバーカウンターに寄りかかり、小さなグラスから一口啜ると云った。
「そうだね、やたらにうすっぺらい。猟犬なのかな?」
「うん、元はね、そういう犬種だ。だが、彼女はあまり狩猟は好かないからさ。きれいだし、愛玩犬にと思って。」
「彼女だって?おいおい、恋人が口を利いてくれる男はここには入れない決まりだよ。」

ファエトンは陰りのない眉間で、ひょいと周囲を見渡した。

「うん、そうか。でも、それなら、つまみ出した方がいいのがちらほらいるなあ。しかしね、僕は大丈夫だよ、だって、会って貰えないんだからね。しかしこれが、まずいんだよなあ。」

そういって彼は話し出した。彼の母方の祖父、つまりわたしとは血の繋がりのない方が、死ぬ気もないのに遺産を分けると云いだした。ところが、この祖父の目当ては、遺産を与える条件に無理難題をでっち上げ、一族が奔走するのを眺めることであったらしい。最近、年寄り連中の間ではこの遊びがちょっとした流行だと云う。

「ゴルゴン三姉妹はえらのある猫を探せと云われてね、足りないお頭を絞っているよ。僕はお爺様のお気に入りだから、まだ簡単な筈だったんだけどね。」

「((キャット・フィッシュ),なまず)の事じゃないのか。なんで簡単じゃないんだい?」

「結婚しろって云うのさ。ところが、僕が結婚したいのは知っての通り、今も昔も、オランジェリーのパリスだろう。でも、パリスはどうも例のオレンジの事で僕には会いたくないらしいし、贈り物も受け取ってくれない。それで、あの木馬みたいな犬を潜入させようかと思って。トロイア戦争作戦さ。ほら、トロイは城壁の守りが堅かったから、ギリシア側は十年間包囲しても、それに勝てなかっただろう。でも、大きな木馬を停戦の贈り物だとして贈る。トロイ側がそれを城壁に入れたら最後、木馬からは伏兵が飛び出しきて城門を開け放ち、ついにトロイは陥落するんだ。」

「ああ、パリスって、あの子か。なんだっけ、オレンジって。」

実際は、わたしはその夏のことを忘れていたわけではない。ただ、当事者の口から、もう一度その成り行きについて聞いておきたかったのだ。「松葉杖のファエトン」はグラスの酒をちょいと啜ると、当事者の言葉で語りだした。

「君も覚えているだろう、僕らがまだ子供のころ、あの緑輝かしい夏の日をさ。親たちが大陸の方へ遊びに行くって云うんで、僕らはお爺様の屋敷に預けられていた。しかし、僕はおおいに不機嫌だったよ、本当なら僕は親たちと一緒に行けた筈だったんだからね。ところが僕は出発の一週間かそこいら前に、足の骨を折ってしまった。痛いしつまらないし、酷い目にあったものだよ。こっそり盗み出した父の自転車を乗り回していたら、車に轢かれてしまってね。まあ、乗っていた自転車の方は大破したから、足だけですんで良かったのかもしれないけれど。それで君から賜ったあだ名が、松葉杖のファエトンと云うわけだ。哀れなファエトンはひと夏、父方の憂鬱な従弟ハムレッティ、ナルシストのゴルゴン三姉妹、それにちびのパリスのお守りで過ごすこととなったんだ。

ところが僕は、この母方の従姉弟、フローラとアウローラ、それにそのお友達のタレイアから構成されるゴルゴン三姉妹が苦手でね。こいつらは、まったく、憶えているかも知れないが、本当にひどいナルシストだった。たしかに、フローラとタレイアはきれいなお嬢さんではあったよ、フローラは金髪、タレイアは燃えるような赤毛で。それにアウローラもまあ、美少年といえばそうだったがね。連中はしょっちゅう恋愛ごっこをしては犠牲者を笑い飛ばして捨てていたのを、君も良く憶えているだろう。酷いものさ、知っていたかい、君が到着する前には庭師の息子が泣かされていたんだよ。たしか、庭師の子が手紙を書いたのは、タレイア宛だったかな、図書室で大声で読み上げていた。連中はいつも餌食を求めていた。しかし、幸いな事に僕は当初、松葉杖が気に食わなかったらしく、相手にされていなかったんだが。むしろ、一週間後に着くという、見知らぬハムレッティ君に期待がかかっていた。ところが、この憂鬱病のハムレッティは、着くなりすぐに、そこに居もしない女の子のためにソネットを書き始めるときた。三美神を自称する連中からすれば信じられない妄論だ。それで連中は、残った僕を、誰が勝ち取るだろうかと賭けを始めた。恐ろしい話さ、美少年のアウローラまで参加するんだから。それで、僕は連中が見つからないように、いつもオランジェリーに隠れていた。医者は日光に当たれと云うのだけれど、庭にはたいていゴルゴン三姉妹がいたからね、日当たりのいい場所といえばそこしかなかった。

ところで、このオランジェリーには可愛い妖精がいてね。男の子の遊び着を着て、オレンジの木に登っているのがいた。これがパリスだ、地中海色の目をしたちいさな子でさ、これがなかなか利発なんだ。君のご両親の友達だったのかな、とにかく、親たちと一緒に旅行に行った婦人権運動家のひとがいたろう。そのひとの娘さんで、その屋敷にいる間だけは男の子の遊びをしてもいいと許可が下りていたんだ。ところが生憎、ソネット作りが趣味の根暗なハムレッティはたいした遊びも知らなかったし、アウローラはアウローラだったし、誰も遊びを教えてはくれない。それで、骨折こそしてはいるがいちばん男らしい僕のところに、遊びを習いにきていたんだ。とはいえ、骨折した僕が教えられて、なおかつオランジェリーで出来る遊びなんて限られているから、僕はそのちびさんにはたいてい、木登りを教えていた。それから、つばの飛ばし方とかかな。

まあ、そんなようにして、毎日、ちびさんと二人か、それに君も交えて三人で遊んでいるうちに、僕はこのちいさな妖精がすっかり気に入ってしまった。でも、これは母親ゆずりらしいのだが、年齢のわりに随分華奢で、よけいに若く見えただろう?だから僕は、彼女にすっかり参っている事に、自分でもなかなか気が付かなかった。まあ、当時は僕もまだ少年で、恋愛なんて馬鹿馬鹿しいとも思っていたしね。あの地中海色の澄んだ瞳、少し褪せたような色合いの髪、今でもはっきり覚えているんだがなあ。気が強くて、いつも登ってみろと言った一本上の枝まで行くんだ、可愛くてね、しょっちゅう、髪に木の葉が引っ掛かってた。まあ、そんなこんなで、僕はとんだ間違いをしでかした。

君がオランジェリーに遊びに来ていた日のことだ、たしか妖精は木の上にいた、それで僕らはゴルゴン三姉妹のことについて話していたね。そのうちに、君がパリスの林檎の話をしてくれただろう。いちばん美しいひとへ、と書かれた林檎を、三人の女神たちが取り合う話さ。それで僕は思い付いて、ちびさんに、オレンジをひとつ、捥いでこさせた。あの傲慢な三姉妹に、同じことをしたらどうなるか、見ものだと思ってね。それで、僕はパリスの役を云い付けて、ちびさんを三姉妹に差し向けたのだけれど。駄目だったね、彼女は、自分がそれを欲しかったみたいだ。それはそうだよな、女の子なら、誰だって、いちばん美しいと云われたいんだろう。そもそも、だからこそ、そんな神話があるくらいなんだからね。だから、僕が彼女をパリス役を任じた時に、彼女は僕が、美しいひとの選択肢から、彼女をまったく無神経にも除外した、と取ったらしいんだ。三姉妹より不美人と、いきなり云われたようなものだとね、すっかり嫌われたよ。僕としては、全く別な問題だったんだがなあ。まあ、そのせいか今では、目が洗われるような美人に成長したのに、パリスは僕からの贈り物は一切受け付けないんだ。関わり合いを持ちたくない、といった様子でね。しかし、僕は木登りの上手い、それに下手ながら唾も吐ける、あの利発な妖精が好きだったんだがなあ。駄目だったね、彼女が女の子だと云うことを半ば忘れていた。可哀想に、よほど傷付いたんだろう。会ってもくれない。」

ファエトンは話し終わると、大きな溜め息を一つ、ついた。わたしは、ファエトンが少しばかりしょげた様子で静かになったのを見ると、頭の中を整理して聞いてみる。

「じゃあ、ファエトンがパリスにオレンジをあげなかったから、彼女は深く傷ついて、会ってくれないと云うことでいいのかな。それに、贈り物も受け取らない、と。」

ファエトンは肩をすくめて頷いたが、わたしは少しばかり首を捻った。パリスはわたしの母の友人の娘だったので、今でも時折交流があったのだが、とてもそんなことを気にするタイプには見えなかったのだ。ファエトンはすぐに元気を回復し、熱心に話し続ける。
「そこでね、君、あの犬を彼女に送り届けて欲しいんだ。あの犬なら、絶対に受け取ってくれるからさ。そうしたら僕は、犬の様子を見るって口実で会いに行けるんだ。」
「かわまわないけど、何故、あの犬なら受け取るんだい。」
「簡単さ、彼女が一年も前から、あの犬を売ってくれとしつこく口説いていたのが、実は僕の狩猟仲間でね。秘密でこっちに売ってもらった。」
わたしはその狡猾な手に少しばかり呆れもしたが、ファエトンはアポロの如くに晴れやかな笑顔で笑っていた。

それでわたしは、その翌日、どんな悪態を吐かれるのだろうかと脅えながらも、白い犬を連れて、パリスの屋敷を訪ねた。パリスの屋敷はわたしの家からさほど離れているわけではなかったので、散歩ついでにパリスの屋敷までを徒歩で向かうという選択をしたのだが、これが間違いだった。この白い大きな犬を屋敷まで引っ張って行くのには、随分と苦労した。薄っぺらく華奢に見えて案外力があり、おまけにひどく好奇心旺盛な犬らしく、道行く人のほぼ全てを、十歩分くらいは追いかけてみないと気が済まないようなのだ。そのうえ、様子がきれいな犬だったから、追いかけられるほうもいちいち立ち止まっては頭を撫でたりするので、ますます遅れる。結局、パリスの屋敷に辿り着くまでには、かけたいと思っていた時間のほぼたっぶり三倍がかかり、ついた頃にはわたしはすっかり疲労困憊していた。

ようやくにパリスの屋敷に辿り着くと、犬はさっそく執事に踊りかかったが、なんとかビスケットでなだめられると、どこかへ引かれて行った。パリスは痩せたすんなりした身体を流行の服に身を包んでいて、笑顔でわたしを迎えてくれた。
「まあ、いい犬を連れてるわね。わたしもそんな犬を買うつもりだったんだけど、先に誰かが買っちゃって。残念だったけど、まあいいわ、見付けたら厳重にご抗議申し上げてやるから。どうぞ、こちらへ。それにしても、相変わらず顔色が悪いわね、大丈夫?」
彼女は独特の涼やかな声で云うと、短くして鏝で巻いた髪をいじりながら、わたしを応接室に通した。彼女は利発そうな女の子にお茶の用意を指示し、ついでわたしに地中海色のきらきらとした目を向ける。
「それで、今日はどんなご用事?女の子で良かったら、優秀な秘書を紹介できるわよ。本当なら女性にしか紹介しないんだけれど、嘆く独身者倶楽部の方なら安心だもの。」
彼女は婦人権運動家の母親と、同じ理想を共有していた。職業婦人を応援する活動をしていて、自らも何かしらの事業を行っているとのことだったが、それが何であったのかは忘れてしまった。なんにせよ、パリスがそんなような女性であったからこそ、わたしはファエトンの説には腑に落ちない点があると思ったのだ。
「いや、秘書は要らないや、仕事をしてないからね。それよりさあ、昔、僕のお爺様の屋敷に子供ばかり六人で預けられてた時のこと、覚えてるかな。」
パリスは、大きな澄んだ目を輝かせて云った。
「勿論よ。貴重な夏だったわ、はじめて母の理想を理解できたの。」

わたしはそんなことは初めて聞いたので、面白いと思い、ファエトンと犬の話は後回しにすることにした。それに、考えてみれば、一年も前から欲しがっていた犬を横取りされて、それを贈り物にされても、むしろ腹を立てることもありうる話だ。もしかしたら、わたしは全く悪くもないのに、厳重にご抗議申し上げられてしまうかもしれない。どうせ怒らせるのなら、できるだけ後がいい。
「へえ、お母様の理想を。それは、やっぱり木登りのせい?」

パリスは微笑んで少し考えるように黙り、それからまた、涼やかな声で言葉をついだ。
「そうね、でも、ちょっと違うわね。説明させてもらってもいいかしら。

あなた、あの夏、オランジェリーで、ゴルゴン三姉妹をからかおうと云う計画をファエトンが立てたのを憶えているかしら。確か、あなたがしてくれた神話の話から思いついたのよね。それで、わたしが伝令役を仰せ付かったでしょう。そうね、計略に参加させてもらうのはそれは楽しかったわ、オレンジを持っていった時の、ゴルゴン三姉妹の顔といったら。見せたいくらいだったわ、みんな、いかにもそれは自分のものだと云う顔をしていたのよ。それから、はじめはみんな、遠慮がちだったのに、最後には本当に神話の通りに、云い争いを始めてね。わたし、おかしくて笑ってしまったのだけど。

そのうち、アウローラだったかな、お前がパリス役なら、このオレンジは誰のものか、いちばん美しい者は誰か選べ、といいだして。ファエトンは神話のパリスは伝令役だと思い違いをしていたけれど、本当は誰がいちばんだか、選ぶ役だったのよね。神話では、それでヴィーナスを選んで、お礼に絶世の美女へレナを貰って、でもそれが人様の奥さんだったものだから、そこからトロイア戦争が始まるの。まあ、そんなことはいいとしても、それで、フローラとタレイアは、選んでくれたらリボンをくれるとか、髪の結い方やしなの作り方を教えてくれるとか、やっぱり神話の中の女神みたいに、自分に有利になるように、いろいろと賄賂を申し出てくれたわね。そのうちアウローラも負けてはいられないと思ったのでしょうね、じゃあ、結婚してあげるよ、と云ったのよ。勿論、それは明らかに嘘なのだけど、わたしは丁重にお断りしたわ。そうしたら、彼、どうせお前てお転婆のちんちくりんは、どうせ結婚できないから野垂れ死にだ、と、憎まれ口を叩くのよ。わたしはそれまで、結婚なんてしてもしなくても一緒だと思っていたのだけれど。だって、母は結婚していたけれど、自分の事業も持っていたから、たとえ父がいなくても、経済的には困ることなんてなかったでしょうから。でも、世の中の多くの女性はそういうわけには行かないらしい、ということに気がついたの。それで、わたし、フローラとタレイアに対する見方が変わったわ。彼女たちは、確かに色んな男の子を泣かせていて、わたしは好きではなかったのだけれど。考えようによっては、将来、結婚相手にあぶれて野垂れ死にしないために、男の子の心を掴む技を、必死に磨いているんじゃないかと思って。そう思ったら、なんだか哀しくなったわ。だって、彼女たちは、本当にそれ以外のことに関しては空っぽに見えたんだもの。誰かを夢中にさせないと生きていけないなんて、哀しいとは思わない?

それから、わたしがぐずぐずして三人のうちの誰も選ばないものだから、じゃあ、お前は誰にオレンジをあげたいんだと聞かれてね。わたしは、ファエトンと答えたの。わたしにとって、彼は美しく見えたのよね、あの朗らかさが好きだったわね。でも、そうしたら、ゴルゴン三姉妹は笑うのよ、女の子が美しい者に男を選ぶなんて、変だって。そうかしらね、男性には男性の美しさがあると思うのだけれど。アウローラみたいな、美少女もどきではなくて、ということよ。でも、彼女らには理解できなかったみたいね、口々にからかうものだから、わたしは腹を立てて、その場でオレンジを食べちゃった。美味しかったわよ。でも、わたし、それからようやく、自分の女性と云う立場について考え始めたの。だから、本当に良い体験だったわ。」

パリスは聡明そうな微笑で話を締め括った。わたしは感心して、パリスを眺めた。あんな小さな頃から、そんな社会的な問題を考えていたとは。だが、実際は小さく見えただけで、案外と年はわたしたちに近かったのかもしれない。ファエトンも云っていたように、細身の彼女は実際よりも若いように見えたのだ。実際、大人になった彼女も、やはりとてもほっそりしているから、妖精のようで、とても若く見える。
「なあんだ。じゃあ君は、ファエトンのことが好きだったのかい。では何故、贈り物やらを受け取らないんだい?彼は君にご執心じゃないか、会ってもくれないと嘆いていたよ。」
パリスは黙ってペンの染みの付いた指でお茶のカップを引き寄せると、考え深げに地中海色の瞳を、その中に落とした。
「だって、ファエトンはタレイアかフローラが好きだったんでしょう、わざわざオレンジをよこすくらいだもの。まさか、アウローラではないだろうとは思ったけど、あの二人のどちらかだったでしょうね。最初はそれでも構わなかったんだけど、色々考えると、やはりそういう女の子を好きな男性はなんだか嫌だなあと思って。早い話が、幻滅したのね。だから、今もやはり避けてしまうわね。それに、わたしに彼女たちみたいな女性を期待されても困るわ。」
そう云うと、パリスは微笑んでお茶を啜った。だが、わたしの方は安心して、もっと大きく笑ってしまった。
「なんだ、そういう事か。じゃあ、大丈夫なんじゃないかな、ファエトンははじめからパリスが好きだったんだよ。」

パリスは驚いたように、地中海色の目をしばたかせた。

「あら、本当なの。だって、ファエトンはわたしのことを、女の子としては見ていなかったじゃない。パリスってあだ名だって、トロイの馬鹿な王子の名前だし。神話のパリスって、情けないのよね、お兄さんのへクトルに頼りっぱなしで。ファエトンは、わたしをそんな弟として見ていたのだと思うのだけれど。だって、わたしのことを時々、彼って呼んでいたのよ。」

「そうだったかなあ。でも、わざとそうしていたんじゃないのかな、あの頃、彼は恋愛なんて男らしくないと思っていたようだからね。僕がソネットを作るのを、散々馬鹿にしたのを憶えていないかな。君に構いたくて仕方がないくせに、女の子に構いかけるのは気恥ずかしかったんじゃないのかな。でもさ、君がフローラやタレイアと区別されていて、なおかつ恋されているんだったら、それはそれでいいんじゃないかなあ。」

パリスは、それでしばらく、きれいな明るい青色の目を空中にめぐらせて考えていたが、やがて、「そうね。」といって、小さく溜め息をついた。

「でも、弟扱いはいやね、なんだか情けないわ。」

「とはいえ、パリスは勇者アキレスの踵を射抜いて、死に至らしめるんだよ。こっちのパリスはスポーツマンのファエトンの心臓を射抜いたんだよ。」

わたしがいうと、パリスはそれが気に入ったらしく、ひとしきり、ころころと笑った。

「ああ、おかしいわ。さすが詩を作るのが趣味なだけあるわね。そう云えば、ソネットの宛て先の方はお元気?」

「元気だけど相変わらず冷たいな。それより、さっきのあの犬、受け取ってくれないかなあ。連れて帰りたくないんだよ、気はいい犬だけど、躾がなってないんだ。でも、あれ、君が買おうとしてた、絹手袋なんだよ。ファエトンが先に買って寄越したんだ、君に会う口実にしたかったらしいんだよ。」
パリスはもういちど、地中海の色の瞳をしばたかせてから、涼やかな声で云った。
「まあ、あれ、絹手袋なの。先に買ってあなたに預けるなんて、卑劣な手を使うわね。」

「なんとしても結婚したいようだからね。トロイの木馬作戦だそうだよ。」

パリスはまた、しばらくころころと笑ったあとに、人をやって犬を連れてこさせた。

「確かにこの犬だわ、この奔放さが気に入ったのよね。そのわりに攻撃的ではないところがいいわ、人懐こくて、好奇心旺盛で。きれいな馬みたいよね。」

絹手袋は、無垢な目をテーブルの上の茶菓子に注ぎながら、舌を垂らしていた。パリスは、その長い毛を手で撫でながらも、しっかりと首輪を掴んで、犬が茶菓子に手を出せないようにしている。それから、パリスはくすっと笑い、こう付け足した。

「この子がトロイの木馬だとすれば、伏兵は差し詰め、あなたってところかしら。だって、わたしのファエトンに対する偏見と云う城門を、崩してしまったもの。」
「じゃあ、君はさしづめ、美女ヘレナってところかな。」

わたしが云うと、パリスは眉をしかめた。

「嫌よ、きれいなだけの女は。そうね、パリスはパリスよ。でも、そうね。」

パリスは、執事がアイロンをかけたであろう新聞を床に置くと、細工の美しい焼き菓子を載せ、絹手袋のおやつとした。わたしはそれを眺めながら、これで、この犬を連れて帰らずに済む、とほっとしたから、パリスがこういった時には実にがっかりした。

「じゃあ、ファエトンにこう云ってちょうだい。わたしとの結婚は真剣勝負の決闘よ。神話のパリスは決闘に負けそうになって逃げたけれど、わたしは逃げ出したりする腰抜けじゃないわ。だからファエトンも、絹でも手袋を投げ付けたいなら、自分でいらっしゃい、とね。」

犬の名前が「絹手袋」だったのは、不幸な偶然だった。パリスは、それにトロイア戦争での決闘と、決闘を申し込むとき相手に手袋を叩きつけると云う習慣を掛け合わせたのだ。それで、わたしは来るときと同じように苦労して、絹手袋を引っ張って帰る羽目になった。だが、翌日には、喜びに顔を輝かせたファエトンがそれを引き取っていったから、それはそれでよかったのかもしれない。ファエトンはめでたく「嘆く独身者倶楽部」の資格を剥奪され、その上で改めて、神父という立会人を立てて、結婚という決闘に挑むこととなった。 

04. 「死んだアドニス」と「丸花蜂のヴィーナス」

 「死にたがりの(deathwish)アドニス」の追い出し式のことはよく覚えている。倶楽部にはだいたい、それぞれに独自の決まりごとやしきたりのようなものがあるというが、「嘆く独身者倶楽部」では、婚約したら出入り禁止というものがある。そして、結婚が決まったら「追い出し式」によって会員を追放する。それがどんなものであるかと云うと、まず、結婚する男は、倶楽部の真ん中のテーブルに立って、退会の宣言をする。それはどんな調子でも良くて、おとなしい会員なら、ただ嬉しそうに笑って、別れの挨拶などをするものだ。アドニスは血気盛んな方だったから、こんな風に云った。
「ははあ、これが僕の今まで居た負け犬の倶楽部の面々か。哀れなもんだな、時は短し、恋せよ諸君!とはいえ、貴君らは恋するままに萎びつつあるもんだ。僕は一足お先に失礼するよ。」
 それから、追い出される男は「裏切り者」と書かれた札を首にかけ、倶楽部じゅうの連中から、紙屑、花、靴下、チョコレートボンボンから卵まで、ありとあらゆるものが、ライスシャワーと共に投げつけられる。そうすると大抵の追い出される者ははにかんでそれから逃げ回るものだが、時折これに激しい反撃をする者もいる。
「抜け駆けだ!」
「幸せものめ!」
「二度と顔を見せるんじゃないぞ!」
そんな言葉が投げ掛けられ、追い出される男は、
「ざまあみろ、羨ましいだろう!」
と、応戦する。追い出す側は、さみしいやら羨ましいやら、うれしいやら妬ましいやらで、だいたいわけがわからなくなって手辺り次第、なんでもかんでも投げつける。それで、追い出される側も、そのいくばくを投げ返すといった感じだ。アドニスが投げ返したのは、たしか、椅子と灰皿とマントルピースを飾っていた東洋の大きな壷だ。
 とにかく、そんな風にしてわたしの所属する「嘆く独身者倶楽部」では、結婚する男を追放するのだが、この「死にたがりのアドニス」は、そんなふうにして追い出された中でもいちばん応戦が激しく、数人の会員と殴りあい、最後は「思い付きのロメオ」と、ステッキで一騎打ちまでしていた。そうして、その勝負にも勝ってしまうと、肩につぶれた卵と花びらをくっつけ、華々しく鼻血をたらしながら、高笑いして出ていった。
「二度と来ないからな!」
と云うのが、倶楽部の会員が彼の若々しい声を聞いた最後だったろう。
 しかし、わたしはその後、倶楽部の禁をこっそりと破ってアドニスの結婚式に参加したから、「誓います」の言葉までよく覚えている。年若いアドニスは、ブロンズ色の横顔がきれいな花嫁のとなりで、緊張した面持ちで頬を上気させていた。倶楽部に所属していた年数と同じだけの長い恋が実ったのだから、喜びもひとしおだったろう。わたしが倶楽部の禁を破ってまで結婚式に出席したのには理由があった。彼とは年も近くて仲が良かったし、それに、彼がそれっきり、遠い南の国へ姿を消すと云う事情もあったからだった。
 「死にたがりのアドニス」とは、縁起も悪いし妙なあだ名だったが、そもそもは、ひどく元気の良い青年、と云うくらいの意味で「命知らずの(daredevil)アドニス」と呼ばれていた。それが「死にたがりのアドニス」とよばれるようになったのは、彼が恋慕う女性が異国の植物学者だったことに由来する。彼がまだとても若く社交界にも出始めたばかりの頃に、あるパーティで、少し年上で博識なチャーミングな女性に出会ったそうだ。彼女は、その会場に飾ってあった鉢植えを教材にして、周囲のご婦人たちにシダ植物の繁殖の仕方について、講義をしていたと云う。アドニスは独特な訛りのある、不思議に低くゆったりとした甘い話し口と、野性的な眉の下に光る深い緑のまなざしに、すっかり参ってしまったと語っていた。アドニスは彼女を、その艶のある褐色の肌の上にさらに深い色で撒かれたそばかす、肉感豊かな二の腕に包容力のあるウエスト、甘く低くゆったりと流れる声を蜜蜂の羽音になぞらえ、「丸花蜂(bumble bee)のヴィーナス」と呼んでいた。だが、彼女はどうやら、ヴィーナスと呼ばれる割には、恋心に関して少しばかり鈍いご婦人であったようだ。初めて出会った日の翌日にアドニスの出した手紙には、返事としてある食虫植物の生態についての詳細な説明書きと、サンプルならばいつでも歓迎との言葉が送られてきたと云う。アドニスの名前を、同じパーティで出会った食虫植物学者と取り違えていたらしい。そして、彼女は南国の総督のお嬢さんでもあるので、なかなか国へ帰ってこない。帰ってきてもいつも植物園に入り浸りで、いくら芝居や夜会に誘っても、彼には目もくれない。それはおそらくは、アドニスに魅力があるなしの話ではなくて、単純に彼女は、オペラ座よりも東方からもたらされた小型の椿の鉢植えの方に関心があったのだろうが、どちらにしろ同じことで、仕方なく、アドニスはオペラ座を諦めて「嘆く独身者倶楽部」に来るようになったというわけだ。
 「ああ、僕が本当にアドニスであって、死んじまって花にでもなったら、ちっとは興味を持ってもらえるんだろうになあ。」
「死にたがりのアドニス」はいつも、そんな風に嘆いていたことから、その名を頂戴した。
 しかし、いくら恋心には鈍い女性でも、何年も飽きずに温室に通い続ける若者が一向に杉と椰子の見分けが付くようにならず、おまけにその彼から山ほどの手紙と、上等なルーペや珍しい鉢植えの贈り物が届けば、徐々にその意図に気が付くものらしい。「丸花蜂のヴィーナス」は父親が総督を勤める南国で研究を続けると云う条件を付けて、ついに結婚を承諾した。そういうわけで、アドニスは結婚式を済ませたらすぐに、国を発ってしまうのだった。仲のよい友人が国を発ってしまうとなればわたしにとっては友情のほうが、あってないような規約には優先し、かくしてわたしは結婚式にこっそり出席したのだった。わたしも男ながらに、ひょっとするとブーケでも拾えやしないかと少しばかり期待もしていたのだが、やはりそういうわけにはいかなかった。仕方なく、新郎の背中にライスシャワーを力一杯投げつけると、幸せそうな二人の旅立ちを見送ったのだった。
 アドニスが結婚してから暫くは、とても幸せそうな手紙が倶楽部宛てに届いていた。倶楽部員たちは嬉しいやら口惜しいやらで、その手紙を壁に貼ってダーツの的にしていたが、それでも必ず、誰かしらが返事を出していた。「嘆く独身者倶楽部」は、倶楽部を卒業してしまった既婚者にも優しいのである。ところが、数年経ったある冬のことだった。「死にたがりのアドニス」は、本当に死んでしまった。これは、倶楽部が始まって以来の悲劇だった。
 ある暗い冬の朝、「思いつきのロメオ」が、真っ青な顔で朝刊を指さして、「おい。こ、これ。」と絞りだし、そののちずっと震えていた。その新聞記事を見た時、わたしはあんなに嫌な気分になったことは他にはない。アドニスの居た国で、暴動が起こり、内乱状態に陥ったと云うのだ。新聞記事によると、総督一家は脱出の際に、年若い婿を失った。彼は救出のための兵が駆けつけるまでは、使用人を含む数十名の逃げ込んでいた一室を、夫婦二人で英雄的な活躍をし守り通した。しかし、兵が到着し、いよいよ脱出というときに、婿は義父の総督をかばって凶弾に倒れたと云うのだ。それから、あまり詳しくはここには書かないが、英雄的な死を遂げたアドニスの葬儀は、国葬で行われた。結婚式には出席しなかった倶楽部員も、皆、揃って出席した。倶楽部員たちはいつもの不真面目な元気をすっかりなくし、低い声で、アドニスが軍神マルスに出世して、オリムポスに帰ってしまったのだ、と慰めあった。重く垂れ込めた冬空の下、すっかり老け込んだ白髪の総督と、黒いヴェールの下でハンカチで目を拭う「丸花蜂のヴィーナス」の打ち沈んだ姿を、今でもよくよく覚えている。
 それから、数日のちのことだった。わたしは暗い気持ちで倶楽部に向かうところだった。冬の重い空は、そのままわたしの心のようだった。それが突然、倶楽部の前で、分厚いコートの襟を立て、帽子を目深にかぶった、不思議な声の男に呼びとめられた。
「ハムレッティ!いや、静かに。ちょっと来てくれ。」
 彼はささやき声早口にまくしたてると、ぐいと腕を掴んでわたしを狭い路地に引っ張り込んだ。わたしは、正直に云うと気味が悪かったのだが、この男に、どことなく見覚えがあるような気がした。男は、路地に入ると、帽子のつばをあげて云った。深い緑色の瞳が野生動物のように濃いまつ毛に囲まれている。
「ハムレッティ、憶えてるかな、ええと、死んだアドニス、じゃなくて、その奥さん、丸花蜂のヴィーナスだよ。」
 その声は蜜蜂の羽音のようにせわしなく揺らぐが、低音が混じると耳に心地はいい。わたしは驚いてその顔をしげしげと眺めた。青銅の肌にさらに深いそばかす、の、下に眉の色に合わせた髭。男物の上着に豊かな上半身をうずめるようにして着て、付け髭こそしているが、紛れもなくアドニスの奥さんだ。しかし、ヴィーナスと云うのは、本名だったろうか。
「ヴィーナスさん!一体どうしたんですか?そんな格好で、まさか、この国にまで内乱の追手が?なにかあなた方一家に恨みを持つ奴でもいるのですか?」
「いや、違うんだ、これはね、ええと。とにかく、倶楽部に入れて貰えないかなあ、ここは寒くて。奥さんが冷えちゃうよ、南国の人なんだから。ね、とにかく屋内へ。そうしたら、全部説明するよ。」
 ヴィーナス婦人の声は耳に心地よいが、この国の言葉は不慣れなのだろう、随分とぞんざいな話し方をする。それに早口だ。アドニスの云っていた蜜の滴るような話し口とは、こういうものだったのだろうか。
「ええと、しかしですね、ヴィーナスさん。ご存知のように、倶楽部というものは基本的に女性の立ち入りは認められないので・・・特に、女性に見向きもされない連中ばかりがいる場所ですし・・・刺激が強すぎると云いますか。しかし、この度のこともありますし、ご心痛に配慮して特別に許可がおりないとも限りませんが・・・。」
「わかってるから、さっさと、連れて入ってくれよ、髭をとらなきゃいいだろう。」
 どういうわけかヴィーナス婦人はよほど、倶楽部に入りたいらしい。それで付け髭までしてきたのだろう。もしかすると、心痛のあまり少し気が触れてしまったのかもしれない。きっと、それで話し方もぞんざいのだ。きっと本来はもっと、蜜のように、というのが相応しい、知識が甘美な詩歌に聞こえるような話し方であったのだ。ブロンズ色の中の睫毛と緑、大きな眼は真剣でこわいくらいだ。わたしは可哀想になって、できるだけ優しく云う。
「しかしですね、突然と云うわけにはなかなか行きません。ここの倶楽部付きの執事はなかなか融通がきかない男なんです。どうでしょう、わたしが許可を取れるよう努力しますから、その間わたしの家でお待ちになっては。」
 しかし、口髭のヴィーナス婦人は語気を強めて憤然と云った。
「わからん奴だな、ハムレッティ、君にはがっかりだよ。僕はアドニスだ。これは僕の奥さんの体だけど、僕はアドニスなんだよ。なんだい、君は幽霊だのなんだのに慣れていると思ったから、寒い中、待っていたんだぞ。」
「ええ?」
「君の父さんが隠したロメオの靴下の場所だってわかる。」
 わたしは今度こそ本当に驚いてしまって、言葉を失った。なんということだ、云われてみれば、声こそ耳に心地良いが、これはアドニスの口調だ。「さあ、わかったら早く倶楽部に通してくれたまえ。僕の大切な奥さんの体が、冷えてしまうじゃないか。風邪なんてひかせてしまったら、それこそ僕は死んじまうよ。」
「丸花蜂のヴィーナス」婦人の、丸花蜂の羽音のように微かに揺らぎ掠れる豊かな声で云うと、アドニスはわたしを倶楽部の方へと引っ張った。
 倶楽部の入り口では、ちょっとした論争が持ち上がった。倶楽部付きの執事が、ヴィーナス婦人の姿をしたアドニスを、中に入れるわけにはいかない、と断固主張するのだ。
「いいじゃないか、いままでも何度か女性は立ち入ってるだろう。」
「だからこそ、です。このところ皆様、規則に対して緩慢になっておられます。」
「だが、僕はアドニスなんだぞ、奥さんじゃない。」
「奥様のお体とアドニス様の精神とのお二方ということになります。また、たとえアドニス様お一人だとしても、当倶楽部は基本的に既婚者の方のお立ち入りも禁じております。」
「でも僕は死んでるんだから、彼女は未亡人だ。」
 そうこうして立ち騒いでいるうちに、周囲には倶楽部員の人だかりが出来てしまった。この倶楽部の会員たちは騒動が好きなので、たちまち皆の顔が揃い、情報交換が始まる。
「いい体格の若者だ」
「レディだそうだ」
「髭が洒落てる」
「いい髭だ。しかし偽髭だろう。アドニスの奥さんだそうだ。」
「だが、自分じゃアドニスだって云ってるらしい。」
「面白いじゃないか、入れたらどうだ。」
 そう云ったのは、「黒い貴婦人の騎士(Dark Lady’s Knight )」と呼ばれる四十がらみの男で、彼は倶楽部のなかでも特に若者に人気があったから、早速意見がまとまった。アドニスの奥さんは人波にさらわれて倶楽部のなかに入った。倶楽部付きの執事は、それを面白がって眺める長老連中にひとしきり、「今度ばかりは看過できかねます、お暇をいただきとうございます。」を繰り返したが、結局受理はされなかったようだ。
 今や「死んだ」アドニスは、付け髭の「丸花蜂のヴィーナス」の姿で温かい暖炉の前から「老アルフォンソ」と「老オルフェウス」を追い払い、細心の注意を払いながらその艶のいい手を火にかざして暖める。なにしろ南国育ちなのだ、冷えは禁物だ、と云う。
「いいや、酒やら珈琲やらはいらん、皆、煙草も消してくれ。暖めたミルクをくれ。砂糖は5つ。いいかい、これは大事な奥さんの体なんだからね。」
 そうして、アドニスは倶楽部の中でもいっとう暖かい暖炉の前の席で、ふんぞり返って、周りを取り囲んだ懐かしい顔ぶれを見回した。ひとしきり手を擦り合わせ、ミルクが届くとそれを丁寧に息を吹き掛けて冷まし、おそるおそる口をつけ、それからもう一度皆の顔を見回す。
「さて。お悔やみの言葉はいいからさ、最近の面白いことを聞かせておくれよ。なんかあった?」
 しかし、目の前の椿事にかまけず、最近の出来事を報告できるような沈着冷静な人間はこの倶楽部にはいなかった。もちろん方々から抗議の声があがる。それで仕方がないというようにして、暖かいミルクを飲みながら、アドニスは、女性にしては低く深い、けれども男性ほどには低くない、不思議に揺らぐ声で語りだした。
「いやあ、凄かったよ、戦闘は。君らもそこに居たらなあ!見せてやりたかったよ、僕は大活躍だったんだぜ。このヴィーナス夫人も椅子を投げたり矢を矢を射ったり大活躍さ、ヤドクガエルって知ってるか?(部屋の隅で「黒騎士」が頷く。)ああそうだ、新聞記事とか、そういうの取っておいてないのかな、見たいな。格好よく書いてかいてあるんだろうに、奥さんが悲しみのあまり全部焼いちまったんだ。で、僕は見てないんだよ。国葬にされたんだろ、とんだ名誉だなあ!生きてないのが残念だけど。でも、勲章は貰えるんだぜ。いいだろ。」
 それからは暫く、若者らしい自慢話が続いたが、わたしにはそれが、自分の死を悼んでいいる倶楽部員たちへの思いやりなのか、本気の自慢話なのかはとんと見当が付かなかった。どうにもその話に区切りが付きそうもないので、暖炉の前を追われた「老オルフェウス」が口を挟んだ。
「いやあ、我々のアドニスも勇ましいマルスに出世したものだ。正式に登録愛称を変えてもいいくらいだ。しかし、やはり我々は君をアドニスと呼ぶほか無いようだ、神話のアドニスと同じように姿を変えて帰ってきたのだから。それにしても、一体どういったわけでオリムポスを放り出されたのかね?」
「天国を追い出されたのか」
「そこまでの悪人じゃない」
「天使でも殴ったんじゃないか」
「オリンポスに天使はいないだろう」
「いやあ、僕が居たのはオリムポスじゃありません。草原ですね、きれいな花がいっぱい咲いていました。その中を大きな河が一本、流れていましてね、それから、大きな木が一本、気持ちの良い木陰を作っていて、その袂に小屋があるんです。そこに、気のいいお坊さん住んでいましてね。空は青いし、風は気持ちがいいし。考えるに、あの草原は、あの世とこの世の境ですね。坊さんは、その大きな木を昇ると天国だよと云っていました。この坊さんが気のいい奴でして、本当は途を尋ねるだけのつもりが、すっかり仲良くなっちゃって、暫く世話になっていたんです。そのうち、僕が奥さんに会いたいなあといったら、坊さんが、河を渡って戻ればいい、と、教えてくれたんです。でも、問題は、舟が無いんですよ。僕が乗ってきたのは沈んじまって。」
 アドニスが早口の語りをいったん止めると、倶楽部の一堂からは、どうともつかない溜め息が漏れた。恐らく、皆、神秘的な死後の世界に思いを馳せて神妙な気分になっていたのと同時に、それを、いくら心地の良い声だとはいえ、こんなにぞんざいな口調で語られるのはいかがなものか、と考えていたのだろう。
「それで、どうしたんだ。」
「うん、それがよくわからないのだけれどね、奥さんが迎えにきてくれたんだ。僕は両手を広げて迎えたんだけど、奥さんは僕に気が付かないんだ。どうも、あたりの景色は見えるみたいなんだけど、僕だけが見えないって様子で、いくら話しかけても手を握っても、気がつきゃしない。せっかく会えたのに、悲しくなっちゃったよ。それで、舟は一人乗りだから、僕が乗って、どうしたものかと様子を見に帰ってきたというわけ。」
「せっかく会えたのに。」
「それは可哀想に。」
「舟ってのが不思議だね。」
「ねえ、その舟って、さ。もしかして、だよ。この世に戻ってくるための肉体なんじゃないかな。」
 わたしが思いついたままを口にすると、倶楽部内は静まり返った。
「君、もう埋葬されてるから…戻る体がないだろ…?」
「お前、奥さんを身代わりにしたのか!」
 怒りに燃える声で、「思いつきのロメオ」が叫んだ。それからは非難の嵐だった。「嘆く独身者倶楽部」の趣旨からすると、ようやくに手に入れた奥さんは、自分の命よりも大切にするのが当然である。多くの倶楽部員たちはおそらく、アドニスを殴りたい衝動に駆られたのであろうが、その体は「丸花蜂のヴィーナス」なのであるから、どうすることも出来ず、怒りのぶつけ先に困って辺りをうろうろし、せいぜい、屑篭を蹴ってみるくらいのことをするばかりであった。
 しかし、そのことでいちばんショックを受けたらしいのは、他ならぬアドニス自身であったようだ。彼は奥さんの美しいブロンズの顔に、どうやったのか蒼白の色を出現させた。そばかすだけがいつもより際立って見える。そして、形よく厚い唇は震えている。
「なんだって・・・?そういうことになるのか!おお、丸花蜂のヴィーナスよ、僕の小毬の蜂の女王よ!こうしちゃおれん、僕は戻るぞ!」
 そう叫ぶと、突然、気を失って椅子に仰け反るように倒れた。騒然となっていた倶楽部内は、水を打ったように静まり返った。
 やがて倶楽部員たちは落ち着きを取り戻したものの、対応に困ってお互いの脇腹をつつき始めた。倶楽部内に失神した付け髭の女性がいる、と云う奇妙な状況に陥ったのだ。倶楽部つきの執事は、だから云ったでしょうとばかりの表情を浮かべ、「ご婦人用の気付け薬はございません。」ときっぱり云い、誰かが仕方なく、頭の下にクッションを差し込み、新聞で顔を仰いでみたりする。
「しかし、アドニスの奥さんは、どうやってあの世との境まで行ったのだろう。」
「後を追おうとしたんじゃないか、可哀想に。」
 そんな会話がひそひそと交わされ始めたが、それにしては先ほどのアドニスの様子は、元気すぎる。生死の境を彷徨ったりするためには、身体が健康なままでは不可能な筈だろう。
 そのうちに、ヴィーナス婦人の頬に赤みが戻り始め、その分厚いまつ毛を纏った瞼がぴくりと動き、付け髭の婦人はゆっくりと身を起こし、小さなあくびをひとつした。
「おお、アドニス、大丈夫かい。」
「ふふ、ご親切であらせらるること。ありがとう。なれども、ええ、今語り申すは我が夫がヴァンブルビー・ヴィーナス、小鞠の蜂の女王と呼ぶ者・・・うむ、さよう・・・よろしい、お判りいただけたご様子。さようであるな。」
 夫人はつけ髭を外すと美しい唇で溜め息をつきながら立ち上がり、我々は一斉に一歩後ずさった。
「うむ、さて。御面前のみなさまがた。」
先ほどまで早口で捲し立てていた元気な声は消え、奇妙な心地よい訛りと腹の底から響くような低く威厳に満ちた音の波が、それでも甘くささやくような優しさで我々の耳に到達し、若い幾人かが片膝を折った。今やブロンズの蜂の女神は瞳に緑の炎を灯し、倶楽部の会員ひとりひとりの顔を見分し始めた。
「けだし、貴君らは噂に聞く長屋のご友人方であろう。ふうむ、そうであらせよう?貴君は・・・チイェルヴィーノー?」
「は、はい。」
 床にへたり込んだ年少の「チェルビーノ」が口を半ば開けたまま頷くと、ヴィーナスは彼に視線を落とし、じっと見据えて鼻の奥で「ふふ」と笑い声を喉へ落とすように響かせ、「愛らしきこと」と呟く。
「噂我が夫はしばし貴殿らの逸話を語り聞かせたもうた・・・。いかにも楽し気に・・・快活に、かように仕草を真似・・・語りを真似・・・。それは聞く者をのをまだ見ぬ親しい人々との会話へ誘うかの如くでありました。おや・・・ふむ、ご挨拶を申し遅れもうした。皆様、よろしく、お願い申し上げをいたします。」
 倶楽部員を見回しながら、蜜の流れるような不規則で遅々とした語りに、丸花蜂が花から花へ移動すような一人一人への目配り。必要のないところに濁点の入る心地よい発音、少し低く囁くような、色気と訛りのある口調で云うと、「丸花蜂のヴィーナス」婦人はにこりと微笑んだ。成る程、同じ声でもアドニスの早口なお喋りとは全く違った印象だ。倶楽部員はすっかり魅了され、彼女の話した内容の半分も理解していなかった。そのくらい、純粋な音として魅力的なのだ。
「皆の者様がた、きっと、甚だしく吃驚なさっておられることであろう。うむ、さようであり申さん。ええ、小生が、うむ、のん、余が?筆者?否、おれ?わたくし?イッヒ?イオ?朕?」
 ヴィーナス夫人は耳に心地の良い振動を部屋中に発生させながら、彼女の複雑に厚く編み上げた暗褐色の髪の中にある類語辞典を読み上げる。候補が多言語を巡って皆の学生時代の悪夢、ラテン語に移ったあたりで誰かが空気を乱し、「わたし、もしくはわたくしがよろしいかと」と呟く。
 丸花蜂のヴィーナスはゆったりと声のほうを視線で探って微笑む。
「うむ、いみじかたぢけない。わたくし。そう、みな、わたくしがにわかに我が夫からの変異を行いまして、いかにか肝を抜かぬかしたまわらん。さぞ、たまげるなることを体感なすったとお見受けいたすしだい。」
 彼女はそう云って両の手を広げ、軽く頭を下げ、何らかの正式で礼儀正しい作法を示した。それはまるで女王が外国の王族に挨拶でもするかのような厳かさだったので、皆、畏れ多くてたじろいだ。そうして、皆が気恥ずかしさにお互いの顔を盗み見ている間に、「丸花蜂のヴィーナス」婦人は亡き夫の遺品であり、今は彼女を包み込む白いシャツのボタンを手早く二つほど開けた。その動きがあまりに素早く自然だったので、運悪くその動作を目撃した紳士が数名、卒倒した。卒倒した紳士に気づいたヴィーナスは可笑しそうに喉の奥で声を立てて笑い、豊かな胸元から、小さくまるめられた婦人用のハンカチをとおぼしきもの取り出し、その包みを片手に持ったまま二つともボタンを留めなおした。安堵の溜め息が流れ、彼女の手元に注目が集まる。薄い青に不思議な網目とグラデーションのある、親指ほどの大きさの包みだ。彼女はそこに私たちの視線が集まり、沈黙が支配するまで待ってから包みを開き始めた。薄い布を幾重にも重ねられた包みの中から、かわいらしい小瓶が現れた。それは三日月の形を模した香水瓶の様であったが、蓋を開ける前から、どうにも強烈で奇妙な匂いを放っている。中の液体は禍々しい赤色で、微かに光っているようも見える。まさか、後を追うのに使った毒薬だろうか。よもや再度それをあおる様なことがあったら一大事だ。そう思ったのはわたし一人ではなかったらしく、数人の会員が身構えた。だが、「丸花蜂」夫人は、これからなにか神聖な儀式でも行うかのように皆へ向かって小瓶を差しだし、よく観察させ、我々の様子を笑みを浮かべた深緑の謎めいた瞳で見守った。
 皆が小瓶を仔細に眺め、運良く清潔なハンケチを持っているものはそれで鼻を押さえる余裕が出るほどに落ち着くと、ヴィーナス夫人は腰をおろし、手元の小瓶を先程のミルクのカップのとなりに置いた。
「ご聴衆の皆の者がたよ、これなるものが如何なる品であるか、ご興味はあらせらるるであろうか?」
 取り囲んだ全員が頷き、数人ができるだけ礼儀正しく同意の言葉を呟いた。
 「教えて下さい!」と、まだあどけなさの残る「チェルビhーノ」が声をあげると、「小毬の蜂の女王」夫人は微笑を浮かべて、蜜が滴るようにゆったりと低く甘く、歌うような口調で語り始めた。
「我が故国には古の森がありなんをご存じであらせるか。多様なる条件あり、多様なる生体あり。我が専攻は植物の薬効に重いをおく物なりしが、こに関わる伝承もまた集めたり。故国には伝承伝説、人の伝うる物語も多々存し、その真偽はいまだ精査されぬものも多数存することは想像に難くなかろうと・・・かような条件にて科学的の思考をもてすればおのおのの口述されたる薬効、多様なる条件下にて、うむ、検討、試用、検査、うむ、詳細にて検分すべきところ。これなるツル植物は幻覚作用が知らるるが、同時にまた解熱と鎮痛作用も分量によりけり・・・」
 それから先は様々な植物の分類と薬効と、採取可能な地域、地域住民の呪術などの講義が音楽的な様態で語られ、聴衆の大半は細部の理解を完全に放棄した。理解とは別の次元でその講義を傾聴し、ジャングルの奥地に伝わる魂寄せの儀式に使う薬草を数種入手したという事実をほぼ一時間かけて音楽的に観賞した。
 その呪術的な音声劇に「スコッツランドなる地の命の水」との親しみのある言葉が登場したことに数名が気付いたとき、いつの間にか最前列で熱心にメモを取りながら聞いていた「黒騎士」が言葉を挟んだ。
「すまない。いや、失敬。そこにスコッチウィスキーを入れるのは何故かをお教え願えないだろうか。」
 丸花蜂博士は黒騎士へ視線を向け、にっこり微笑んで「うむ」と云う。彼女の第一言語で同意を表す言葉なのだろうか。
「ここにいる連中の大半は化学的なことはあまり詳しくないから、概要でお願いできれば。」
「ああ。ふむ。ウシュク・ベーハー・・・?耳覚えございます、無きかな?アクア・ウィタエ?ああ、ご存じか。大変よろしい。泥炭の成分が如何にして作用せんかと問わるるに・・・」
「泥炭!ピートの・・・成程。では、他の酒ではいけないということですな。」
 気が付けば暖炉のぬくもりを求めてヴィーナス博士のすぐうしろにまで椅子を動かしていた「老アルフォンソ」が興味深げに質問する。どうやら倶楽部員の中にも音声の魅力に抗って内容を追えていた猛者が数名いたようだ。
「うむ、貴君様のおっしゃるの通り。ただ泥炭なままでは効果なしであった故、より詳細のところの研究が要求の課題ならん。」
「なるほど・・・それではアルコールとの・・・」
「そういえば、小毬蜂の姫様、あなたのような輝かしい方がなぜ、こんなうらぶれた倶楽部へ?わざわざ髭まで着けて?」
 老アルフォンソの質問が長くなりそうだと感づいたチェルビーノが、すかさず割り込んで魔力的な音声劇の再開を狙う。丸花蜂のヴィーナスは軽く驚いた顔をしてチェルビーノに向きなる。老アルフォンソはしかし、チェルビーノの質問の方がもっともだと思ったらしい、同意を求めるように彼に送られたヴィーナス博士の視線に頷きで応える。そこで、少し腰を屈めて床の上のチェルビーノの巻き毛の頭を優しく撫で、微笑んで云った。
「ああ、うむ、皆の者様がた、わたくしの夫は達者で在りましたでございましょうや?非業なる死ゆえにさぞや悲嘆にくれておらぬかと思い、貴君様らの愉快の友情で、ええ、栄養をつける。いな、元気をつけるをお願いしたく参ずるしだい。」
「元気付ける!それは大丈夫だと思いますよ、彼は…元気でした、ああいう性格だもの。」
「少しはしゃいでいた」
「でも、寂しそうではあった。」
「そうか…」
 我々ははたと気がついた。ヴィーナス婦人は、夫たるアドニスに、彼が亡くなって依頼、一度も会えていないのだ。わたしはつい柄にもなく声を発した。
「あの、彼は気持ちのいい川縁でのんびり暮らしていると云っていました。気のいいお坊さんと友達になったって。」
「うむ。カロンなる老人とは先刻初対面?初のお目見え?いたしたり。」
「ヴィーナスさんは、お坊さんには会えたってこと?」
「うむ。カロン氏いわく、かの若者は河に生息する魚を釣りたがり困る、と。食用には向かぬのかと問うに、大きすぎて惨事でここに人が増えぬ限り食べきれない、と。生き者には出せる茶がないとしきりに謝りたり。」
「仲良くなったんですね。」
「うむ。心優しき老人なり。」
 そうして、ヴィーナス夫人の言葉は止まり、その深い緑の目は沈黙の中で遠くを見つめた。我々が焦りと共にお互いに目配せしあう辺りで、「老オルフェウス」が優しい声で云った。
「お辛いことですな、あちらでもこちらでも、会うことのできぬ人の消息を聞くというのは。」
 想いの中からこちら引き戻された丸花蜂のヴィーナスは、「老オルフェウス」に視線を向け、少し微笑みながら頷いた。
「うい、寂しゅうないかと申せば嘘であろうと思われまする。とはいえ、貴君様らに話を伺えば心晴れまする。うむ、心優しき貴殿らに、我が望みを託しても許されましょうや?」
「勿論です、なんなりと。」
 どうも「丸花蜂」婦人に同情しているらしい「老オルフェウス」は、優しい笑顔で応える。この老オルフェも、冥界に関しては少しばかり知っているという噂だ。
「我が夫はこの倶楽部を、貴殿様らを、深く親愛の情を持ってありなん。それ故に、時折我が身体にて訪ねきたる訳にはいかぬや?彼には友情が必須なり。重ねて依頼するも心苦しきことなれど、もしも不快でなかれば、貴殿様らが我が夫の消息をわたくしに語り聞かせてたまわりはせぬであろうか。」
 なぜか我々のすぐ後ろに来ていた執事が、「何か朗読してくださるのなら」と呟き、驚いた幾人かにうっとりと聞きほれる顔を目撃され、慌てて背筋を伸ばして踵を返した。それを優し見送りながら、長老格の「老オルフェウス」と「老アルフォンソ」に意見を求めた。老アルフォンソが、慎重に尋ねる。
「あなたは、あちらでも夫にはお会いできない、とおっしゃるのですね。」
「うむ、かの地の僧いわく、生あるものの魂は本来旅立つ筈の魂と、境目ではあいまみえる叶わぬ、と。」
 それで、二人の長老たちは軽い頷きを交わし、立場上唯一反対する筈である執事が物陰へ姿を消すのを確認して、老オルフェの方が口を開いた。
「あなたのご希望に沿いましょう。ただし、これはアドニスが再び会員資格を得る、と云う形式を取ります。彼はあなたと言葉を交わせないのですから、また哀れな独身者に戻ったということになりますからね。ですから、あなたは、」
老オルフェは、幾分小声になって云った。
「ここに居るときは、できるだけアドニスのふりをしているつもりになってください、でないと、執事の立場がないですからね。」
「丸花蜂のヴィーナス」婦人は満足そうに微笑んで、「あいわかった」とほほ笑んだ。
 それで、今でも、「死んだアドニス」は、「嘆く独身者倶楽部」の常連となっている。だが、「死んだアドニス」の「嘆き」は、やはり既婚者だけあって、「嘆く独身者倶楽部」には少しばかり相応しくない。
「うん、魚ね、でかいよ、君ら2人分くらいの大きさ。なかなか釣り上げられないよ。でもさあ、なんだか、心配なんだよな。奥さんが、なんだかすっかりあっちの草原の植物に心を奪われちゃったらしくてさ。坊さんが云うには、今はあの河べりの葦の生態について研究しているらしいんだ。別に僕がこっちに長く居られるからいいんだけどさ、やっぱり、あんまりあの世とこの世の境目に居すぎるのは問題だと思うんだよなあ。それに、あの坊さん、奥さんを好きになったりしないか、心配なんだよなあ。なにしろ、こんなに美しいだろう。」
 手鏡を手になされるそんな風な「嘆き」は、恋人に振り向いてももらえない連中からすると、少しばかり、羨ましい気がしないでもないのかもしれない。それでも、アドニスがそこに居るという事実は素晴らしいことだったから、聞いている側としては、うれしいやら妬ましいやらで、だいたいわけがわからなくなって、せいぜい、屑篭を蹴ってみるくらいのことをするばかりである。
 執事のほうは、アドニスよりはアドニスのふりをしているヴィーナス夫人が話すのを楽しみにしているようで、彼女専用の椅子を用意し、音の反射のよい衝立をその後ろに立てて来訪を心待ちにしている。

05. 「ピュグマリオン製粉工場」

 「嘆く独身者倶楽部」で「黒い貴婦人の騎士(Dark Lady’s Knight )」に焚きつけられて、「死にたがりの(deathwish)アドニス」と博物館にミイラを見に行った時のことだった。わたしはあまり気乗りしなかったのだが、その頃はまだ「死にたがり」だったアドニスの方は、展示品とその品々が醸し出す危険な雰囲気にずっかり夢中だった。アドニスは博物館に来る前に聞いた「黒い貴婦人の騎士」の砂漠やら蛇やら盗賊やらが大活躍する冒険譚にすっかり当てられた様子だった。薄暗い照明に照らされた、大昔のミイラが展示されているコーナーにいつまでも張り付いている。きっと、それが動き出して飛びかかってくるのでも期待していたのだろう。
「アドニス、これは王族のミイラなんだよ。生きている時は左うちわで優雅に暮らしながらも、政治に、民の生活にと、いろいろと、心を砕いていたはずなんだ。そんな高貴な人が死んだ後にまで君と勝負したがると思うのかい?」
「わからないさ、きっと邪悪な暴君だって一人くらいいた筈だろ、何か呪文でも唱えれば動き出すんじゃないかなあ。動かないかなあ。」
アドニスの口調は、期待というよりは切望に近い。万一、その願いが叶って暴君だった邪悪なミイラが動き出しでもしてはたまらないので、囲いの周囲をぐるぐるまわってミイラを眺め続けるアドニスを放って、わたしは下の階の、大理石の立ち並ぶ辺りに出かけた。どうも、わたしは冒険譚には引かれるけれども、それは聞くのがいいのであって、主人公になるになるのはごめんこうむりたいのだ。それに、どうせ眺めるのなら、干からびた死体よりは、石造りのきれいな身体の方が良い。
 博物館は曜日のせいか時間帯のせいか、それとも天気のせいかはわからないが全体にすいていてしんとしており、人影もまばらだ。白い彫像の立ち並ぶ一帯もひとけはなく、ただ、大理石のしなやかな形状だけが、優雅に、あるいは激しく、人間の姿を見せている。空気はわたしの足音を穏やかに包み込んで抑え、ここでは古代の夢の続きがいつまでも、ひそやかに息づいている感じで静かだ。記憶の女神、ムネモシュネーのそぞろ歩く足音を聞くようで、わたしはいつの間にやら、汗と砂ぼこりにまみれた冒険譚から、優雅な古代の恋物語に気持ちを移し、ぼんやりとうっとりと、美しい石の肢体の間を漂っていた。そうして、真っ青な地中海と明るい日差しに、これらの大理石の照り映えるさまを想像しては、また何かロマンティックで素敵な良い詩でもできないかしらん、と考えていた。だから、彼を見掛けた時には、驚きのあまり足を止めて息を飲んだものだ。
 その青年はまるで、それらの彫刻の内のひとつに彩色でもして、現代風の服を着せたかのような姿をしていた。彼の肩まで垂れた美しい巻き毛はつややかに輝いており、少し物憂げに伏せた瞳や、形の良い鼻や唇は優雅な気品に満ちている。彼はゆるりと彫像の間を行き来し、たまに立ち止まってはそれらを優雅な身振りで腰を曲げたり見上げたりして仔細に観察している。やがてひとつの女性像の前では跪くようにしてそれを見上げるのを見るにあたって、わたしは感嘆し、こんな感想を抱いた。
『なんて美しい青年だろう!まるで生きた彫刻だ。それにあの様子、まるで神話のピュグマリオンに相応しい。あれこそ、嘆く独身者にとっては理想の自己像だな。』
その青年がどこの誰であるのかは知らなかったが、わたしはすっかり感動してしまった。それと云うのも、どうも最近「嘆く独身者倶楽部」には芸術的な空気が薄い気がする、と考えていたからなのだろうが。詩作や物思い耽る雰囲気はついぞ途絶え、だいたいは誰かが音痴な歌を大声で歌ったり決闘ごっこをしたりと騒がしい。しかし、今になって思い返してみると、芸術志向が強かった時代というものがあったかどうかも疑問ではある。思うに、その頃のわたしは、「金魚取りのジョン」が倶楽部にまだいた頃を懐かしんでいたのだろう。
 青年はどことなく悲しげな瞳で大理石の女性を見上げ、溜め息を付き、頭を振った。そして、繊細なつくりの、しかし、何かを作ることに慣れた感じの手で、彼は自らの美しい額を押さえて、もういちど溜め息をついた。わたしは、感心してそれを眺めていた。「嘆く独身者倶楽部」にもまあまあ見られる容姿の青年たちは居たが、振る舞いがどうもいけない。しかし、この青年は容姿から身振り、溜め息のつき方までもが優雅で物憂げで、理想的な「嘆く独身者」だ。こんな青年が我が倶楽部にもいればいいのだけれど、などと考えながら、わたしは素敵な舞台でも眺めているような気分に浸っていた。だから、わたしと反対側の部屋の入り口から、動かないミイラに飽きたアドニスが入ってくるのに気付くのには、少し時間がかかった。アドニスは最近倶楽部で流行っている間抜けな恋の歌を鼻歌で歌いながら、足音も高らかに部屋に飛び込んで、青年を見つけた。
「いよう、粉挽き驢馬!」
アドニスが元気良く云うと、美しい青年は驚いたように顔をあげた。どうも、二人は知り合いのようだ。わたしは、気分をぶち壊されたのに少し腹を立てつつ、それにしたって、こんな美しい青年にたいして、なんて酷い呼び掛けだ、と考える。
「また女神探しかい?いい加減、人間にも目を向けたまえよ。」
アドニスが笑いながら云って近付くと、青年はゆったりと立ち上がり、薔薇の花開くが如くに美しい笑いを笑って、のんびりと応じた。
「だって、まだ作れないんだもの。出来上がったら、そっくりなひとを探すよ。」
わたしはまだ少し離れて、その様子を眺めていたが、すぐにアドニスが、目ざとくわたしを見つけて声を上げた。
「おうい、そこの円柱の陰に居るのはハムレッティじゃないか。ほら、ハムレッティ、出てこいよ。そんな所に居たら本当に幽霊みたいだぞ。何やっているんだ、こそこそして。ほら、粉屋君、そこの幽霊みたいに陰気な感じのがハムレッティだ。」
そんなわけで、わたしはあまり有り難くない紹介を受けつつ、浮き彫りの施された円柱の陰から二人の元へと、幽霊のように漂い出たのだった。わたしは少しばかり気後れしながら自己紹介をしたのだが、青年はおっとりと美しく笑って握手に応じてくれた。その手は思ったよりも乾燥していて、その握手は力強かった。
「こいつを知らないのかい?そこそこ有名だよ。」
そういって、アドニスは彼を紹介する。青年はなんと、わたしの勝手な妄想通りに、彫刻家であった。しかも、名を聞いて驚いたことに、かなり有名な彫刻家で、わたしも名を聞き及んだことがある。だが、ここでは仮に、ピュグマリオンとしておこう。大理石の彫刻、特に、美しい青年像の制作で定評があり、このピュグマリオン君の作品にはとんでもない値が付くのだ。この若さで写実彫刻においてそのような評価を獲得するには、天才的才能がなければとてもできるものではない。わたしが感心しきって溜め息まじりに心からの賛辞を述べると、どうも芸術的方面に関しては何かが鈍いアドニスは元気よく云うのだった。
「まあ、当然だろう、毎日こんな顔を鏡で眺めて、顔を洗うたびに触っているんじゃあ、再現も易しかろうさ。」 
「そんなこともないだろう。難しいですよねえ、だって、石から彫りだすんでしょう。」
「そうですね。でも、男性像はわりに易しいんですよ。あまり突き詰めて考えなくても済みますから。正直なところ、僕の作品が美しいかどうか、僕にはよくわからないんですよ。」
ピュグマリオン青年は謙虚に微笑んで云う。しかし、アドニスは喜んで揶揄する。
「でも、年増のご婦人の私室には絶対君の作品の模造品がひとつはあるぜ。かく云う僕のママも持ってるしね、親父はかんかんさ。」
わたしは、このピュグマリオン青年がどうして、アドニスの友人であるのかが一向に納得いかない、と考えたが、それについては黙っておくことにした。
「しかし、それだけ美しい青年をお作りになるのなら、女性の像もまた、さぞかし美しいのでしょうね。」
しかし、ピュグマリオン青年はまた、さきほど彫像を眺めていたときのように、メランコリックに微笑むのだった。
「ところが、必ずしもそうとは云えないのです。でも、説明するよりも、お目にかけたほうが早いでしょう。どうでしょう、僕の仕事場がすぐ近くにあります、少し寄っていかれませんか。そうすれば、僕の女性像を見せてあげられますよ。でも、驚かないでくださいね。」
わたしは、何を驚くことがあろうか、と、飛び上がらんばかりに喜んで応じた。天才彫刻家の製作現場が見られるのだ、こんなに嬉しいことがあるだろうか。だが、アドニスは、もう少しミイラを見たい、と辞退した。
「僕はもう何度も行っているから、面白くもなんともないからね。それに、さっき、ちっとばかしミイラが動いた気がしたんだ。本当は、それを見せようと思って呼びに来たんだけど。まあ、製粉工場でお茶でも飲み終わったら、また迎えに来ておくれよ。」
アドニスはそういい残すと、また、ミイラの展示室への階段を駆け上っていった。
 それでわたしたちは、午後の日差しがやんわり暖かいなかを、ゆっくりと話しながら、彼のアトリエに向かった。ピュグマリオン青年の云うには、自分の作品の参考にするために博物館に通ううち、近くに適当な部屋を借りてそこで仕事をするようになったのだという。わたしは、その熱心さに、また感心した。
「実は、今日もそこからやってきたんですよ。服は仕事着から着替えてから来たんですが、靴が汚れたままでしょう。履き替えるのを忘れてしまって。あなたも、注意してくださいね、服でも靴でも、すぐに真っ白になりますから。」
そういわれて見てみると、ピュグマリオン青年の靴には白い粉が付いている。それで、粉挽き驢馬、などと呼ばれていたのだろうか。美しい青年には相応しくないあだ名だ。
「失礼ですが、あなたみたいな芸術家が、何故あのやんちゃ坊主とご友人なんですか。」
「彼の父が僕の従兄なんです。従兄とは随分年が離れているので、彼の方がほとんど弟のようなものですね。元気の良い青年です。あなたはどのようなお友達なのですか?」
それでわたしは、「嘆く独身者倶楽部」の話を始めた。この美しい青年は、アドニスの恋のことについては知っていたが、倶楽部の方については全くいっていほど断片的な情報しか知らなかったようで、大きな瞳を輝かせながら、倶楽部について色々と聞き始めた。どうも、アドニスはいつも自分の恋人のことと、「黒い貴婦人の騎士」に聞いた冒険たんについて話すのに夢中で、倶楽部自体のことはすっかり忘れてしまうようだ。ピュグマリオン青年は、僅かに頬に赤みを浮かべながら、楽しそうに云う。
「それは素敵ですね、僕も入れてほしいなあ。」
「本当ですか。要件さえ満たしていれば、僕がすぐに推薦しますよ。そうなったら、素晴らしいなあ、最近、倶楽部にはどうも芸術家が少なくて。昔は桂冠詩人も会員だったのですが、卒業してしまって。嘆くと云うよりは、毎日お祭り騒ぎですよ。」
 実際のところ、毎日がお祭り騒ぎだというのは近年に始まったことではなくて、「金魚とりのジョン」が居た頃からの話なのではあるが、それをわざわざ云う必要は無いだろう。ピュグマリオン青年は、芸術家の手を形の良い顎に沿わせて、考えるような様子を見せてから、云う。
「要件、か。叶わぬ恋というものですね。」
「ええ。まあでも、実際には、叶ってしまって倶楽部から追い出されるのもなかなか多いんですが。まあ、一応、嘆く独身者倶楽部という名も付いていますから、その名の通りであることが会員の要件ですね。」
「そうですか、それが要件ですか。それでは、もしかしたら、アドニス君が何故僕を製粉工場と呼ぶかをあなたが知れば、認めてもらえるかもしれません。」
ピュグマリオン青年はわたしの顔を見ながらそういうと、また、美しい顔に悲しげな微笑を浮かべた。美しい巻き髪が額に垂れかかり、そこに、先程は気がつかなかった細かい大理石の屑が絡みついている。その姿はさながら、本物のピュグマリオンだ。その微笑は謎めいてはいたが、わたしは勝手な期待をそこに読み込むことにして、なかなかに素晴らしい会員候補を見つけたものだ、誇らしくと考えた。彼が会員になれば、倶楽部の連中も少しは自省するかもしれないし、もしかしたら、彼のような芸術家が他にも入会してくれるかもしれない。わたしはそんな風に考えて、おまけにこれから、いつまで経っても血の通った人間に変身してくれないと云う、その神話の通りの美しい彫刻を見ることになるのだろうと、心弾ませながら道を辿った。
 ピュグマリオン青年の仕事場は、博物館からそう遠くない、小さな感じ良いフラットの地階に入っていた。家を管理しているらしいお婆さんが、皺の寄った優しい笑顔で迎え入れてくれる。
「あらまあ、お友達の方なの。大丈夫?お顔の色がすぐれませんよ。」
そう云われ、元気だとは云いだしそこね、二階の居間で何やら怪しげな香りのお茶を頂く。ピュグマリオン青年は地階をアトリエにしているため、変則的な造りになったこのフラットでは、二階が居間になっているのだ。わたしたちは明るく気持ちの良いその居間でお茶を頂いた後に、地階の、壁をなるべく取り払った造りになっているアトリエに降りていった。
「ここのお婆さんは素晴らしい方です、部屋の改装も喜んで承知してくれたんですよ。ここはね、本来は二階のほうが広かったんです。でも、大理石の塊を持ち込むわけには行かないでしょう。もってあがるのも大変だし、だいいち、床が抜けてしまいますもの。」
ピュグマリオン青年はそう云いながら、わたしを案内してくれた。そこには、簡素な椅子とテーブル、それに白い布を被せた幾つもの、おそらくは彼の作品。わたしは、その簡素な椅子に座りながら、部屋の中を見回してみる。成る程、製粉工場とはよく云ったもので、部屋に敷かれた布の上には、大量の大理石の削り滓が積もっている。それに、鑿やら何やら、色んな彫像用の道具が落ちている。わたしは、白い布の掛けられた幾つかの彫像を眺めては、早く見せてもらいたいものだと考える。
「先月だったかな、完成品はほとんど運び出してしまったので、たいしたものは残ってないんですけれどもね。」
ピュグマリオン青年はそう云って、優雅な仕草で幾つかの彫像の覆いを取って見せた。わたしは、それらの作品の素晴らしさに、思わず息を呑んで椅子から立ち上がった。
可愛らしい仕草で頬杖を付く子供の像、これはまるで生きているが如くで、腹のむちっとした感じが愛らしく、にっこりとした笑顔からはこちらへ寄せてくれる曇りのない好意が素直に伝わってくる。その奥にある、ゴリアテの首を持ったダビデの小さな像は、まだ未完成だが、まるで野の花のようで、野性味がありながらも繊細な美しさだ。同じく、彫りだしかけたヘラクレスの像は、まるでまだ彫りかけの部分の石肌の下にも筋肉が蠢いているように見える。その感じを全体の形態の運動感の表現がますますその感じを強めていて、完成させる必要もなさそうな程、生々しい。また、何かの擬人像だろうか、老人の像もあるが、これが、年齢によって筋肉と分離した皮と少しばかり残った皮下脂肪の表現が見事で、それが聡明そうな眼差しと穏やかな身振りを包み込んで、奥深い知恵を見事に体現している。しかし、なかでも特に素晴らしいのは、さる大きな教会から注文を受けたと云う洗礼者ヨハネの像だ。それは、はじめは汚い浮浪者然として見えるのだが、その鬼気迫る表情を見たとたん、息を呑まされる。威厳と狂気に近い智と、激しく燃える情熱とが渾然一体となった表情だ。そして、その像には、激しい緊張と、大胆な情熱との葛藤と、それらが止揚された一瞬に出現する信仰の表出が、劇的な運動性と身体を作る諸所の要素とによって表現されているのだ。その天に向けられた手は、激しい情動を示しているような身振りでいてなお、凍りついたような静止を見せ、その停止の緊張が筋肉と血管によって表現されている。まるで、激しい仕草で天を示したその一瞬後で、完全に動きを止めたが如くで、それだからこそ、腰に巻いた皮は翻って膝を腿を見せているのだ。唇は半ば開き言葉を発しかけてはいるが、その途中で力が抜けており、代わりに目の表情は中空を見据え、何かに耳を澄ましているが如くにも見える。それでいて、咽喉元には力が入り、これはきっと、このすぐ後には声を発する構えがあると云うことを示している。総じて、この像自身は恐ろしい程すぐ傍に神を感じているのだろうと思わせられ、また、見ている側にもその存在の臨在を、ありありと伝えるのだ。わたしはすっかり圧倒されつくし、しばらくはその像の前に立ち尽くしていた。それから、「素晴らしい」を何十回となく繰り返しながら作品の周囲をぐるぐると回り続け、何十回目かの溜め息をついてから、ようやく、我に帰って、もういちど、簡素な椅子に座り込んだ。
「いやあ、素晴らしい。」
もう一度云ってから、自分の靴にふと目を落として、そして、それが大理石の粉で真っ白になってしまっていることに気がついた。先ほど見たピュグマリオン青年の靴と同じだ。
「ああ、本当に靴が真っ白になっちゃうんですね。しかし、製粉工場って云うのは、このことだったんですか。削った滓が小麦粉のようですね。」
そうわたしが云うと、ピュグマリオン青年は困ったように悲しげな顔をして、見事な巻き毛の頭を振って見せた。
「いいえ、それもそうなんですけれど。アドニス君がわたしを粉挽き驢馬、なんて酷い名前で呼ぶのには、もうちょっと深いわけがあるんです。ハムレッティさん、ここには、女性像が見当らないでしょう?」
「ええ、でも、その覆いの下にあるんじゃないんですか?」
わたしは、今しもピュグマリオン青年がその脇に立って、覆いを取らんとしている像について云ったのだ。その像のすぐ下には、ひときわ沢山の粉が積もっていたものだから、きっと完成も間近なのであろう、と推測された。ところが、その覆いが外されると、わたしはすっかり驚いてしまって、言葉を失った。
「酷いでしょう?」
わたしの驚いた表情を、慰めるように微笑んでピュグマリオン青年は云った。酷いというか、なんと云うか、とてもお話にならない。よく云えばかなり初期のアルカイック、悪く云えば全くの木偶人形が、そこには立っていた。しかも、それはかなり粗い彫りで、作りかけなのだろうが、かなり粗雑な出来の気がする。へたくそというか、まるで素人以下だ。本当にこれが、あの聖ヨハネやダビデの作者と同じ人物の手による作品なのだろうか。先ほどの、掘り出しかけたヘラクレスの方が、完成にはまだ遠い段階であるのに、よほど生きているが如くに見える。
「ええと。抽象的な作品なんですよね。」
「いいえ。彫っているうちに、どんどん上手くいかなくなって、しまいには、こうなってしまうのです。酷いものです。もっと前の段階のものありますよ。」
そう云ってピュグマリオン青年は、他の幾つかの像の覆いを取って見せた。わたしはそちらの方を見て、少しばかり安心した。それらはまだ、きちんとした彫刻の体裁を取っていた。わたしはその内の、特にきれいに見えるものを観察してみる。女性独特の柔らかな肩や腰の線、ぽっちゃりとした手で押さえられた胸元。
「あれ、これは。」
「ええ、あの有名なプシュケの絵をモデルにして彫ってみたんですけれども。どうも凡庸な感じで。あっちのは、ピエタ像の顔を真似てみたんだけれど、全然精神性が出ない。古代の彫刻作品もいろいろ模造してみたんですけれど、どうも駄目で、最近は絵画までモデルにしてみるんです。さっきの木偶人形はね、元はボッティチェルリのヴィーナスだったんですよ。」
わたしは、信じがたい気分でそれらの彫像を眺めた。だが、なるほど、そうやって云われてみれば、活き活きとして真に迫る男性像に比べて、女性像はどれも、どうも冴えない。わたしは、どことなく間が抜けた感じのプシュケと、意地悪そうなピエタを眺め、聞いてみる。
「ええと、何故、女性像は何かを真似て作るんですか。それだから、上手くいかないのかも。」
「そう思うでしょう。ところが、何もないところから始めると、何にも出来ないんです。ほら、あの木偶人形みたいになってしまったヴィーナスがあるでしょう。ああいう風に、何をどう彫ってよいかわからなくなって、どんどん彫りすすんで、おしまいには、大理石の固まりをまるまるひとつ、粉に変えてしまうんです。思うに僕は、僕の理想の女性が、どんな姿をしているのか知らないんです。だから、その姿を見出すきっかけでもないかと思って、色んなものを真似てみるんですけれど。まあ、何かを真似ても結局、納得いかなくて、粉になるまで彫ってしまいますけれど。こんな風だから、アドニス君は僕を粉挽き驢馬だとか、製粉屋とかいってからかうんですよ。」
そう云って青年はもう一度、悲しげに微笑して、それから、作品たちの覆いを戻し始めた。わたしは、粉だらけになるからと手伝いを止められて、仕方なく椅子の上からヨハネの像を眺めていた。傾き始めた日が差し込むアトリエの中、黄金の日差しに輝かしく彩られた洗礼者ヨハネの像は、あまりにも鬼気迫っていて恐ろしく、また、嘆息するほどに神々しく見えた。
 ピュグマリオン青年は、わたしを博物館まで送って行ってくれた。わたしが、帰り道を覚えていなかったからだ。彼はもう一度着替えをして、すっかり粉とは無縁の服装に戻っていたが、やはり靴だけは白いままだった。
「それでは、僕は推薦していただけるんですか。理想の女性の姿も知らないけれど。」
「多分、大丈夫でしょう。死神が恋人と豪語しているものもおりますから。」
そんな話をしながら、帰りの途を辿る間中、わたしは嬉しくてたまらなかった。わたしはこのピュグマリオン青年が天才だというだけでなく、とても感じの良い青年だと云うこともわかってすっかり気に入っていた。それに、こんなに偉大な芸術家が倶楽部に入れば、「金魚とりのジョン」が居なくなってからはどことなく芸術的な感性に翳りが見られる倶楽部にも、また良い刺激になるだろう、としつこく考え続けた。ピュグマリオン青年の方も、長らくの孤独を癒す場が見付かったと云った様子で、嬉しそうであった。
 わたしは、本当に、もう少しで、このピュグマリオン青年が「嘆く独身者倶楽部」の会員になるところだった、と考える。それは確実なことだった、わたしたちは、博物館の入り口で、倶楽部の場所や、わたしの連絡先などについての話を交わしていた。そして、次はいつに会って、いつ倶楽部に案内するか、そんなことまで決めていたのだ。本当に、実に惜しいところだった。結局、お互いの都合の良い次の週にまた会うことに話がまとまり、約束を交わし、お別れを云い、わたしがミイラの辺りにアドニスを探しに行く、その直前のことだった。わたしは、別れの挨拶を云うピュグマリオン青年の表情が突然、凍り付くのを見た。その青い瞳が、一瞬、空白になり、ついで、何かしら明るい色で燃え始めた。悲しげだった笑顔の頬に、ゆっくりと赤みがさした。わたしは怪訝に思って振り返った。その振り返るまでの一瞬間、わたしが予感したことは、やはり的中していた。
 あちらの方に、ラベンダー色のキモノを着た、黒髪の美しい、東洋の婦人が見えた。きっと、博物館のミイラでも見に来ていたのだろう。そのうら若い婦人は髪を高く結い上げており、藤の柄の着物からのびた首はとても細く見えた。その少し前を、黒くて太い眉毛と、同じように濃くて黒い髭をたくわえた、父親と思しき人物が、案内役の大使か誰かと共に歩いている。彼女はわたしたちに気が付くと少し頬を赤らめて、目を伏せた。それでいて、ほんの少しばかり、微笑んでおり、完全に顔をそむけたりはしない。代わりに、袖が長くたなびく着物のその袖元と、その先袖もとから覗く白い蝶々のような指先を口元にあてがい、それによって微笑みを隠し、代わりに恥じらいを示した。それは少女のように可憐で、そしていかにも、上品な仕草だった。ピュグマリオン青年は言葉もなくその場に立ち尽くし、眉毛の太い父親はそんなピュグマリオン青年とわたしたちを疑わしげに眺めていたが、やがて大使らしき人物が何かを耳打ちすると、どことなく感心したような表情を浮かべた。そして、なにか外国語で大使に冗談をいい、大声で笑った。きっと、天才的彫刻家が熱心に見詰めるほどに自分の娘が美しいと知るのは、まんざら悪い気もしないのだろう。髭の父親はこの彫刻家についてもう少し知りたいらしく、大使にあれこれと尋ね始めた。わたしが諦念を抱きながらピュグマリオン青年に視線を戻すと、やはり、彼にはもう、「嘆く独身者倶楽部」に入会する気は無いようだった。それは表情で見て取れた。わたしは、少なからず残念な気持ちではあったが、ふらふらと東洋婦人に向かって歩みだす青年を眺めながら、仕方のないこととして、諦めることにした。彼は夢遊病者のような足取りで女性に向かう途中で大使と髭の父親に呼び止められ、視線だけは女性に固定したままで二人と話始める。それを未練たらしくじっくりと見てから、わたしはようやく、博物館に取って返した。それでもまだ、がっかりとした気分からは抜け出せなかったので、東洋の仏像彫刻のコーナーに向かった。そして、彼が理想の女性を彫れなかったのも無理は無いと、その場で妙に納得してしまった。彼の女神は地中海地方の出身ではなかったのだ。そう感心しながら、見慣れない不思議な精神性を湛えたそれらの東方の彫刻を丹念に眺め、その中の幾つかに、わたしに対してもおおいに魅力を発揮する美しさを見出した。それで、わたしは仕方なく、ピュグマリオン青年は会員にし損ねたが、自分の美術鑑賞眼の幅は広まった、と云うことにして、博物館のどこかで命がけの冒険をさがしているアドニスを探しに行ったのだった。
 アドニスは既にミイラのコーナーにはおらず、かわりに別の部屋で、不気味な青い石で出来たお面の硝子ケースに張り付いていた。とてもきれいな青い色の石で覆われているのだが、恐ろしい顔をしている。アドニスは誰に聞かれるでもないのに、声をひそめて言う。
「すごいんだぜ、このお面を付けて、生贄の心臓を一突きにするんだ。ミイラよりも戦い甲斐がありそうだろ。」
人間は色々なものに惹きつけられるものだ。
 しばらくはそれでも、わたしはピュグマリオン青年がこの東洋の姫君にふられでもすまいかと望みをかけていた。あの髭をたくわえた父親にしても、なかなか心強い味方には思えたのだが。ピュグマリオン青年の婚約発表を聞いたのは、それから一ヵ月後のことだ。以来、彼は製粉工場は廃業して、美しい東洋夫人の像の作者として名を馳せている。
 

06. 「破れ篭のピンカートン」 

 ある日の昼下がり、遅い昼食でも食べようかしらん、と一週間ぶりに「嘆く独身者倶楽部」へ向かったときのことだった。倶楽部の前で、ひとりの小柄なご婦人が、右や左を見回しながら、どこへ向かうでもなく佇んでいた。様子のきれいな東洋のご婦人で、夏のはじめの日差しの中、黒っぽいキモノの袖が風に揺れている。黒い髪を首が出るように結い上げていて、そこに珊瑚のかんざしなどをさしいるのが上品な色気を見せているが、年がちょっとよくわからない。東洋のご婦人は見慣れないものだから、判断が付かないのだ。何か大きな包みを手に、倶楽部の前で、首をかしげて頬に手を当てたりして、中の様子を伺っている。なんだか可愛らしいな、でも言葉が通じるかしら、と考えながら声をかけてみる。
「何かお手伝い出来ることがありますか、お嬢さん。」
婦人はわたしを見上げると、びっくりしたのだろうか、切長のすっきりした眼を見開いていたが、突然、袖を口許にあてがって、可笑しそうに笑った。
「いいえ、お嬢さんではないですのよ。あなたのお母さんと同じくらいの年かしら。(アイム・オールモスト・アズ・オールドアズ・ユアマザー)」
平板な訛りがあるものの、文法的にはほぼ正確に云うものだから、わたしはすっかり安心した。これなら、力になれることもあるかもしれない。
「いやあ、信じられないなあ、お若く見えます。でも、失礼しました、マダム。倶楽部のどなたかに御用ですか?」
ご婦人はええ、と頷くと、黒っぽい着物の合わせ目から、何か白いものを引き出した。見慣れない、柔らかそうな紙だ。表に、見慣れない書体の文字が見える。その文字は、ある倶楽部員の名を宛て先に指定している。この宛名はきっと筆と墨で書いてあるのだろう、絵のように流麗な字体で、わたしはその異国情緒に少しばかりわくわくした。
「あの、この方、こちらの倶楽部へよくいらっしゃると伺いましたもので、お目にかかれたらと思い参りましたらこちらの入り口で止められてしまいまして。」
「ああ、ここの倶楽部付き執事は堅物ですからね、すみません、わざわいらして下さっているのに。お手紙でしたら、わたしが届けましょうか。」
「ありがとうございます、そうして頂けますと本当に助かります。あの、それと、厚かましいお願いなのですけれど。」
そういって東洋のご婦人は、変わった綺麗な布に包まれた荷物を差し出した。上の結び目がそのまま持ち手になるような素敵な方法で結ばれている。荷物自体は四角くて、何かの箱のようだ。きっと貴重品でも入った箱なのだろう。
「ああ、これも届けるんですね、もちろんです。あ、それより、まず本人がいるか見てきましょうか。で、居たらここまで彼を連れてきましょう。」
「いいえ、いいんですの、これを届けていただければそれで十分でございますので。」
「でも、今、本人がここに居るとは限りませんよ。」
「それはご心配には及びません。きっといらっしゃいます。」
そういって、にっこりと不思議な微笑を浮かべると、東洋のご婦人は深々とお辞儀をし、「では、よろしくお願いいたします」と言い、それから振り返りもせずに帰っていった。その、着物の裾を乱さないためなのだろうか、独特の内股な足取りがまた、不思議に印象に残っている。
 わたしは、なにやら不思議なものにでも会ったような気分で、柔らかい紙の手紙の、あて先をもう一度確認した。はて、はたして、これは誰だったろう。確かに名前に見覚えはあるのだが、倶楽部では皆、あだ名が名前のようなものだから、本当の名前はぼんやりとしか把握していない。しかし、差出人が東洋のご婦人だったら、もしかしたらあて先は「破れ籠のピンカートン」かもしれない。この、「破れ籠のピンカートン」は見た目は熊のような印象の男だったが、繊細な東洋の美術品や工芸品を扱う仕事をしていた。彼は数人の共同経営者とともに、東洋の品々を輸入する「トゥーランドット商会」を経営していて、かなり成功を収めている。だが、たしか彼は、婚約したのではなかったろうか。わたしの記憶を訊ねる間でもなく、その筈だ。だからここ半年、倶楽部には出入り禁止になっていたのではなかったか。出入り禁止になってしまっているのであれば、ここに居る筈はない。これはうっかりした、ご婦人の言葉に圧されて、つい、この綺麗な布で巻かれた四角いものを預かってはしまったが。
「参ったなあ、居るわけないよな。預からなきゃ良かったなあ。」
そして、わたしは困ってそんな独り言を云いながら倶楽部に入ったのに、そこには、他の誰でもない、「破れ籠のピンカートン」が居た。ピンカートンは大きな身体をだらしなく椅子に預けている。甲に体毛の目立つ大きな手にハンカチを握り締め、周りには同情と好奇心の入り交じった表情の倶楽部員たちが集まっていた。それで、わたしはその人垣の中に加わると、「嘆く独身者倶楽部」自慢の、ふられた男の嘆きに耳を傾けたのだった。
「五人目だ!」
彼は叫ぶように云った。
「五人目だぞ、なんてこった。今回こそは上手く行くと思ったのに。わざわざ、こっちまで船に乗せて連れてきたって云うのに。式の日取りまで決まっていたのに。直前でまた、掻っ攫われたんだ。」
途中から聴き始めた者にとっては筋のよくわからない嘆き方ではあったが、「破れ籠のピンカートン」の嘆きようはたいしたものだった。たいしたものだったが、それ故に口を挟むのにも遠慮は要らなかった。
「ねえ、ピンカートンさん、はじめからもう一度教えてよ。」
周囲の人だかりの中からわたしが云うと、ピンカートンは鼻をかみ、それから中空に目を泳がせて大きなため息をついた。
「ああ、いいとも、いくらでも聞いてくれ。」
そしまた鼻をかみ、それから話し出した。
「要は蝶々さんだ。東洋の娘たちはいっかな掴めない蝶々のようなものなんだ。もう少しで手が届く、捕まえられそうだと思ったら、また上空にひらひらと飛んでいってしまう。」
「詩的だな。」
「しぃ、黙って聞けよ。」
周囲ではそんな会話がこの倶楽部の常として交わされる。それを無視しながら、わたしはピンカートンの嘆きに耳をすます。詳しい事情がよく飲み込めなかったが、推測するに、商用でよく行く東洋の島国の話なのだろう。そういえば、倶楽部の前であった東洋のご婦人の着物の袖も、大きく垂れて蝶々みたいだった。そういえば、預かった包みを渡さなくてはならないが、渡そうにも、まだ「嘆き」の途中だから、遮るよりは最後まで待とう、と考える。
「これで五人目だぞ、婚約を破棄されたのは。一人目はまあ、仕方がなかったとしよう。幼馴染が好きだったとは気付かなかった。だが、それなら何故、私が国に結婚の準備を整えに帰る前に云わんのだ、婚約を断らんのだ。結婚の準備を整えて迎えに行ったら、もう嫁にやりました、だ。そんなひどい話があるものか。それから二人目、二人目はなかなかロマンチックでさえあったんだ、私が結婚を申し込んだら、嬉しそうに頬を染めて、嬉しいわと云ったのだ。だが、これも一時帰国から戻ってみれば他人の嫁だ。一体何が起こったのかと問い質せば、戻って来ないだろうと思ったのだ、帰国するなら一緒に連れていけ、と逆に怒鳴られる有様。三回目は、どちらか残るだろうと、二人の姉妹、一度に婚約して行ったのに、商用から戻れば、二人とも金持ちの奥様に変わっておる。そして今回もこれだ。」
彼は云い終ると、沈欝な溜め息をついて涙を拭い、それからは周囲での他の連中の嘆きやら、慰めやらに耳を傾け始めた。どうやら、「破れ篭のピンカートン」のあだ名は、こういった蝶々さんを逃がし続ける彼の不運に由来するようだ。そんな風に納得する一方で、わたしはそれではこの綺麗な布の包みを預けてくれた東洋のご婦人は、彼をふった蝶々さんか、あるいはそのお母様だったろうか、と考えを巡らせた。なんにせよ、この包みを渡さねばなるまい。しかし、ピンカートンの周囲には人だかりが出来ていてなかなか近付けない。わたしがその周りを包みを抱えてうろうろしていると、隣で元気な声があがった。
「いよう、ハムレッティ。綺麗な荷物かかえて、どうしたね。」   
若々しい笑顔の「死にたがりの(deathwish)アドニス」だった。彼はまだその頃は、ちゃんと生きていて自分の身体で倶楽部に出入りしていた。今しがた入ってきたところらしく、好奇心に輝く瞳で倶楽部を見回す。
「おや、おはよう、アドニス。可哀想に、ピンカートンの出入り禁止が解けたらしいんだよ。」
「へえ、そいつはめでたいじゃないか。」
アドニスは云うと、元気よく人混みをかきわける。わたしもその後について、なんとかピンカートンの元に辿り着いた。
「ピンカートン、おめでとう!出入り禁止が解けたんだって?」
アドニスの清々しい挨拶に、どういうわけかピンカートンの顔色が変わる。かなしげな瞳に怒りの色が浮かび、顔が赤くなるかと思ったら、元気よく椅子から飛び上がり突然アドニスに掴みかかった。
「お前か!お前が引き合わせたんだろう!」
胸ぐらを掴まれたアドニスは目をしばたかせていたが、次の瞬間には何やら楽しそうな表情を浮かべ、少し声をあげて笑ってから、ピンカートンに一発食らわせた。そこから、ピンカートンの反撃と何故か周囲へ波及する殴りあいの様子を見て、わたしは手近なテーブルの下へ包みを抱えたままもぐり込んだ。
 その後の騒動は割愛するとして、事態が収集し、会員の数割が氷を眼の上やら頬やら、各々負傷した箇所に当て、わたしも包みを抱えたままテーブルの下から這い出す頃には、大方の事情を把握することができた。今回ピンカートンがふられたのは、蝶々さんがアドニスの親戚の「ピュグマリオン製粉工場」と恋に落ちたからだった。その瞬間を見ていたわたしとしては、テーブルの下から這い出すのにも結構な勇気が要ったというものだ。ぼろぼろになったシャツを着た笑顔のアドニスが、それを苦々しげに氷の下から彼を眺めているピンカートンに云う。
「仕方ないじゃないか、あいつはまれに見る美男子だからね。だいたい、自分の年も考えずに若い娘と婚約する方が悪い。」
「うるさい、お前にはわからんのだ、私があの国にどれだけ魅せられているのかを。」
「国が好きだからって、そこの女の子と結婚する必要はないじゃないか。」
アドニスはまだ戦い足りないようで、殴りあいを再会する糸口を探しているらしい。ピンカートンの方でも、鬱憤を晴らそうとでもするかのように身構え、わたしはまた荷物を抱えてテーブルの近くに駆け戻った。が、その時、長老連中が、泣き出しそうな表情の倶楽部付き執事に伴われて入ってきたので、二人は殴りあいを再開することなく居住まいを正した。しかし、長老たちがじっと彼らを見つめるだけで何も云わないのを見ると、ピンカートンは方法を演説に切り替えた。
「いいかね、諸君、君らは何もわかっちゃいない。私が初めてかの国に降り立った時のあの感動!美しい景色と、繊細な人々、緩やかな言葉と裏腹な感情の激しさ。緑はわが国よりも色濃く、鳴く虫は静かな荒々しさを秘めておる。若者は皆知的で、男達は皆、騎士だった。だが、年若い私がいちばんに魅せられたのは、女性たちだった。彼女等が街を行くのはまるで蝶の群れだ、着物の袖は色とりどりにゆらゆらと揺れ、皆、軽やかな笑顔で、私はあれほど美しいものを見たことがなかった。その中でも、」
ピンカートンは感極まったのか、そこで言葉を切った。皆、静まりかえって拝聴していたので、彼が言葉を切ると、物音ひとつしなくなった。
「でも、五人目じゃあな、誰でもいいんじゃないか。」  
アドニスがのんびりと云うと、ピンカートンはまた、真っ赤になった。
「違う!」
しかし、その否定の後には何も続かなかったので、ピンカートンの敗色が濃くなった。隅の方では老アルフォンソが片付けの指示をだし始めた。
「違う、皆、ちゃんとした方の紹介だったのだ。」 
ピンカートンは元気無く云うと、肩を落として、ソファに腰を降ろした。そして、毛の生えた手の甲で顔を隠し、静かに泣き始めた。周囲では後片付けが始まった。わたしは、ひどく落胆した様子のピンカートンが、なんだか気の毒になった。長老連中は、せっかく登場したにも拘らず、老アルフォンソや老アストロフェルは後片付けの指示出しに忙しく、老オルフェもどこへ消えたのやら姿が見えない。可哀想に、ピンカートンは独り取り残されて、ずっと椅子の中で毛むくじゃらの手で顔を覆ったままだった。
 周囲では相変わらず片づけが続いていたが、わたしはそのままピンカートンを眺めていた。顔を手で覆ったピンカートンの周囲では、ひっくり返った椅子やテーブル、割れたグラスなんかを片付ける連中が忙しく立ち回っている。だが、わたしは乱闘には加わっていないのだから片付ける義務はない。見れば、半分以上の連中のシャツはボタンが飛んだり、破れたりしている。ちょっとしたきっかけさえあれば、各々自分なりの理由を見つけて殴りあったり、かと思えば互いに肩を叩きながら号泣したりと、この倶楽部の会員は本当に仲が良い。アドニスはひとりきちんとした身なりのままのわたしを見て笑う。
「なんだ、もったいない。参加しなかったのかい。」
アドニスは上機嫌だが、大好きな乱闘を再開するつもりはもうないらしい。
「わたしには保護すべき預かりものがあったんだよ。壊れちゃまずいだろ。」
だから、あんな騒ぎには参加しないのが当然なのだ。わたしはアドニスと自分に云い訳をすると、届けものを持って、ようやくにピンカートンに歩み寄った。彼はまだ、毛むくじゃらの手の中の落胆の世界に身を沈めていたが、わたしの気配に気が付くと泣くのをやめて、氷の袋をに手に取って、反対の手でハンカチに鼻をかんだ。
「ピンカートンさん、大丈夫ですか。あの、これを倶楽部の前で預かったんですが。」
ピンカートンは涙を氷の袋の下に隠し、興味のないような様子で見上げる。可哀想に、髭に、ハンカチに収まりきらなかった鼻水が垂れている。わたしが「髭にも…」と言うと、面倒くさそうにそれをふく。そうしながら、彼は、わたし抱いていた包みを見ると、驚いたような顔をし、ハンカチと氷袋を放り出し、ひったくるようにしてその包みを受け取った。
「君、これを預けたのは中年の、びっくりするような美人だったろう?」
「さあ、東洋のご婦人でしたが、お年の方は僕には…あちらの女性はみんな、お若く見えますからね。でも、小柄な可愛らしい方でしたよ。」
ピンカートンは手の甲で残りの涙と鼻水を拭くと、そのまま頭を掻き毟る。
「ああ、やはり、香月さんだ。ああ、また破談だ、しかも娘さんにまでふられたなんて。どうやって顔をあわせればいいんだ。しかしこれは何だ。」
ピンカートンがひとりで騒ぎたてるので、片付けを放り出した連中が再び、周囲に人垣をつくりはじめた。ピンカートンは独り言にしては大きな声でぶつくさ云いながら、少しばかり震える手で器用に包みを開いた。
 包みの中身は、綺麗な漆塗りの箱だった。真っ黒なつやつやした漆塗りで、上に白のきらきらした絵が書いてある。それは、貝の裏を使った綺麗な白で、白だけれどもいろんな色に見え、それでもって月にかかった雲と、風に吹かれて花びらを散らす立ち木の風景が描いてある。真っ黒な艶には、吸い込まれてしまいそうな美しさがあるし、貝の裏の絵は幻想的だが、素敵な様式化が見られてモダンでもある。あまりに素敵なので、わたしは思わず感心して溜め息をついた。こんな綺麗なものを持っていたのだ、騒ぎの間、テーブルの下にいて本当に良かった。巻き込まれて壊れでもしたら、取り返しの付かないことになっていたに違いない。ピンカートンはそれをまじまじと見つめると、例の嘆くような調子で云った。
「これは、あの硯箱!何故これをわたしに。」
倶楽部の会員たちは次の幕が始まったと見たのか、片付けなど忘れてぞろぞろと集まりだした。皆様、乱れた髪に破れたシャツで、ピンカートンとわたしを取り囲み、好奇心溢れるまなざしで眺めている。わたしも興味があったから、皆の疑問を代弁する。
「綺麗な箱ですね。一体それは何ですか?」
「うん、これは硯箱といってな、東洋のレターケースだ。」
「へえ、そりゃあすごいや。」   
あちらでアドニスが云うので、わたしは少し警戒する。
「立派なレターケースですね、すごくモダンなデザインで。」
「モダン?いやいや、これはとても古いものだよ、由緒ある品なんだ。元々、さる良家の娘の嫁入り道具として作られたそうでな。この硯箱は他の幾つかの品とともに、代々、娘から娘へ嫁入りの際に伝えられたものなのだ。見なさい、箱の表の絵を。この絵はな、貝殻の裏を使って描かれておって、この技法は螺鈿と云うんだ。そして、この螺鈿によって、月にかかった雲と、風に散る花をあらわしておる。これはな、世の中の好いことには、難しいことが付きまとう、ということを云う警句を、そのまま絵に写したものだ。どうだね、この国は警句まで美しいだろう。おそらく、そのような事柄があっても、動じることなく構えていろ、ということで主題に選ばれたのだろう。筆を執るときには、そのような困難な状況も多々あるだろうからな。だが、この絵を見たまえ、警句をそのまま絵に写したといっても、どこにも人為的で記号的な感じがないだろう。この絵自体は実に、なんと云うか、自然を上手く抽象化して、その本質を芸術的に結晶させている。まるで、こうして眺めていると、春の夜に、あの淡い花が雪のように散る、ぬるさと冷たさの混じったあの空気を感じられるようだ。」
講釈を始めると、ピンカートンの瞳には輝きが戻り始め、その目の輝きは次第にうっとりと回想に変わる。この人は、本当にこの東洋の国が好きなのだろう。周囲がしんと静まり返ったのに気がついたピンカートンは、はっとして、また講釈を再開する。

「つまりだ、この国では、自然は本質を持った哲学であり、その本質は抽象的に把握されるものなのだ。その本質はだから、警句でも絵画でもそれに適した様態と形態によって再現され、そこにもやはり、抽象的な本質として現れるのだろう、というのがわたしの勝手な意見だ。わかるかね?いや、わからんか、残念だな。まあ、いい、それにまた、この繊細な風景は、もうひとつの寓意を持っていてな、美しいものの儚さをも表現しておるのだ。これは嫁入り道具として作られているが、そこにこの警句を選んだのは、美しい時分に嫁に行き、やがて美しさは花と散って、老いてゆくのだ、という戒めをもあらわしているのだ。」

「バロックな精神ですね。」

わたしが感心して云うと、ピンカートンは少し考え込んで、

「いや、バロックとも少し違うのかもしれん。」

と呟いた。わたしとしては、この東洋美術の講義が面白くてたまらなかったのだが、退屈した会員もいたらしい。あちらでがたっと音がして、誰かが倒れた椅子を立てる作業を再開したのがわかった。そこへ、のんびりと間延びした声が云う。

「しかし、お嫁に行くときの持ち物にしては、やっぱり縁起が悪いなあ。僕なら娘にそんなもの、持たせないよ。」

繊細さにはおおいに欠けるアドニスには、やはり美的なものの話は難しいようだ。

「いや、縁起などではなくな。お前さんは話を聞いていたのかね。」

ピンカートンは呆れ返ってアドニスに云った。無論、聞いていた筈がない。

「ああ、そうか、ご婦人も持たせたくなかったんだ。だからあなたにあげることにしたんだよ。」

アドニスは無邪気にそう云って、元気を取り戻しつつあったピンカートンの表情を、また絶望へと、押し戻してしまった。

「違う、もともとこれは、習慣どおりにお嬢さんが結婚の時に持ってくるとおっしゃっていたのだ。」
「じゃあ、受け取る権利は無いんだから返さなきゃ。」
アドニスは悪意が有るのか無いのかよくわからないが、からかうような話し方をする。しかし、悪意ありと判断した会員もいたのだろう、わたしの背後で誰かが腕まくりを始め、また乱闘がはじまりそうな気配がする。それでわたしは慌てて、アドニスと睨み合ったままのピンカートンに云ってみる。
「あの、逆に慰めるつもりで下さったのかもしれませんよ。どうでしょう、お手紙も包みに挿してあったはずです、読んでみたら。」
ピンカートンは包みに気を取られて、手紙を読み忘れていたのだ。それは箱を包んでいた綺麗な布の下に隠れていたので、ピンカートンは少し探すのに手間取ってから取り上げた。
「好事魔多し、という訳か!せめて箱だけでも、と。あの方がそんな回りくどいやり方でわたしを慰めようとなさっているというのか。いや、しかし、あり得んことではないな、何しろ、奥ゆかしい方だからな。死ぬほど喉が渇いていても、今日は暑いですわね、としかおっしゃらないような方なんだ。だが、それにしたって、そんな理由だけでこんな大切なものを下さるだろうか。」
ピンカートンはぶつぶつ云いながら柔らかい紙の手紙を広げる。手紙からは、なんだか好い匂いがする。周囲の人だかりは東洋の香水も素敵じゃないかと呟きあい、それから、東洋の文字で書かれた内容をピンカートンが読み終わるまで、静かに待っていた。
 皆が眺めている前で、ピンカートンは奇妙な表情を浮かべはじめた。それから、奇妙な表情のまま、手紙を翻訳して、読み始めた。
「このたびのこと、まことに失礼いたしました。お詫びのいたしようもございません。お詫びの品というにはあまりにつまらないものですが、姪の代わりにお受け取り下さい。」
ピンカートンは、それから、まだ、奇妙な顔をしている。
「姪の代わりにって、やっぱり、慰めのプレゼントじゃないか。」
アドニスがまだからかい調子で云う。しかし、ピンカートンは心持ち、どことなく嬉しそうで、アドニスを振り返って、云う。
「姪、だと、姪だとおっしゃる。あの方の子ではない、と。」
アドニスは、「へえ。」と云ったきり、少しばかり天井を睨んだ。考え事をしているようだ。それから、顎に手を当て、自信の無いように云う。
「ああ、そういえば。あの女の子ね、いつも頑固そうな髭の親父と、きれいな叔母さんには付き添われていたけど、お母さんは知らないなあ。」
「なんだって、じゃあ。これをわたしに寄越したのは。」
「香月さんは結婚しておらんよ。彼女は、あの厳めしい親父の妹さんじゃ。」
人だかりが驚いてその周囲から離れ、見通しをよくすると、老オルフェの隣には、たぐい稀なる美青年が立っている。ピンカートンの蝶々さんを横取りした当の本人の「ピュグマリオン製粉工場」だ。
「粉引き驢馬くんじゃないか!逃げろ、ピンカートンに殴られて美貌が損なわれるぞ。」
アドニスが楽しげに云うが、ピンカートンは殴りかかる様子を見せない。その代わりにピンカートンは、希望に満ちた目を老オルフェに向けている。
「香月さんが結婚していないですって。本当ですか。」
「ああ、本当だ。早くにお母様を亡くされた姪を不憫に思って、ずっと母親代わりをしていたのでお嫁に行かなかったそうだ。まあ、ちいとばかり教養がありすぎて貰い手が付かなかったと、ご本人はおっしゃっておるがの。ところで、この青年がお前さんに謝りたいと云っておるんだがね。」
ピュグマリオン青年は促されて進み出、なにかしら、婚約者を奪った申し開きだか詫びだかをのべるために、口を開く。
「ピンカートンさん、なんと云ったらよいか、本当に。」
「いや、済まない、後にしてください。いや、怒っているんじゃないんです、おい、ハムレッティ、もうしばらくそれを預かっていてくれ。」
云うと、ピンカートンは倶楽部を駆け出し、それからいったん引き換えして、ピュグマリオン青年の掌を奪って激しく握手をしながら、「末永くお幸せに!」と嬉しげに云うと、再び駆け出していった。ピュグマリオン青年を含め、倶楽部の人だかりはみな、口をぽかんと開けてそれを見送った。
「やれやれ、香月さんも、五人も貰い手を探すのは大変じゃったろうなあ。どれ、皆、真相を聞きたくば片付けをせい。」
「老オルフェウス」が云うと、皆、いっせいに後片付けを始めた。今回は、わたしもそれに加わらないわけにはいかなかった。
 片付けが一通り済み、壊れたものの修理代を徴収すると、老オルフェは先ほどのピンカートンの席に腰を降ろし、ゆっくりと語り始めた。
「皆、この美青年に礼を述べたまえよ、我らがピンカートン君のためにな。さて、勘のいい会員諸君ならもうお気付きだろうが、ピンカートンは一人の東洋婦人を長年にわたって熱愛しておってな。彼女は香月さんとおっしゃる。
 香月さんはたいした才媛でな、ピンカートンの事業に、昔から協力していらっしゃる。もともと、通訳を主にしていらしたんだが、最近はトゥーランドット商会の商品の買い付けなんかもなさっておるらしいの。ピンカートンは何年前になるのかは知らんが、出会ったその時から香月さんを好きになった。しかし、どうも、香月さんは男性と住んでおって、このいかつい男と苗字が同じである。実際はこの男は香月さんの兄上なわけだが、いかつい兄に香月さんがあまりにも似ていないので、ピンカートンは兄妹を夫婦と勘違いしてしまってな、諦めなくともいいものを、諦めおった。おまけに、姪御さんは香月さんに育てられたに等しいものだから、香月さんをお母様と呼ぶし、厳めしい兄は家の女性たちのことについては殆ど話さないのが、誤解に輪をかける。それで、ピンカートンはすっかり誤解したまま今日まで至ったらしいな。
 勘の鈍いピンカートンは、香月さんの奥ゆかしさが許す範囲での訂正のほのめかしには、全く気付かんかったようだ。気付かないまま、香月さんと結婚できぬのなら、せめて紹介してくれた娘さんと結婚しようと躍起になる。どうも、紹介してもらえばそれが香月さんででもあるかのような気になるらしいんだが、まあ、実際そんな幻想は長持ちせんだろう。見越して、香月さんは彼が帰国している間に別の貰い手を見つけるわけだ。だが、今回は姪御さんということでな、嫁ぎ先も決まらず、ひやひやしたそうじゃよ。幸い、この青年が一目惚れしてくれたからよかったものの、彼が居らんかったら、どうなっていたことか。」
 語り終えると「老オルフェウス」は、皆の前に「ピュグマリオン製粉工場」を押し出して、紹介した。それで、皆は口々に礼を述べながらピュグマリオン青年と握手をし始めたわけだが、わたしは少しばかり不満だった。無論、ピュグマリオン青年にも、感謝の念はおおいに示されてしかるべきである。しかし、包みと手紙を届けたわたしにもやはり、多少の感謝の念が示されるべきではないだろうか。なぜなら、あのきれいな箱と、それに付けた柔らかい紙の手紙は、奥ゆかしい香月さんの、奥ゆかしさが許す限りでのプロポーズの形であったに違いないのだし、それをピンカートンの元に届けたのは、他でもない、わたしだったのだから。

07. 「老アルフォンソの友人」  

 わたしの所属する「嘆く独身者倶楽部」には、少し変わった人物や、その会員資格の有無が怪しい会員が沢山居るのだが、「老アルフォンソ」に関してはそのなかでもいっとう会員資格の有無が疑われる人物だった。ひどい女性不信と云うか、恋愛不信で、わたしたちのような恋する若者達をからかい、笑いながら論破するのを無上の楽しみとしているらしいのだ。わたしたちが輪になって、自作のまずい詩なんかを朗読していたりなどすると、決まっていつも陣取っている革張りのおおきな肘掛け椅子で読んでいた新聞か哲学書から目をあげる。それから丸い眼鏡の向こうからきらきらした目でもって、大抵は朗読者を検分し、それから、楽しげに野次を飛ばすのだ。
 たとえば、「ふられっぱなしのチェルビーノ」の時は、こんな風だった。わたしたちが、お互いに恋人を讃える詩を持ち寄って朗読会をしていた時のことだ。かなりまずい詩を、まだ少年と云った方が良い年齢のチェルビーノが、声変わりもしない声で朗唱していた。
「夜の女王よ、
今一度その美しい面を今いちど、
この若者に拝ませてくださいまし。
狭霧の夜のオペラ座の、
桟敷の煌く貴女のお姿に、
哀れな小鳥はすっかり魅せられてしまいました。
恋の闇夜に盲て、めくらめっぽう飛び回っております。
あなたの艶やかな黒地の裾衣には
逞しいマルスも、陰鬱なトゥルヌスも、
あの天帝ユピテルさえも居るではありませんか。
今更小さな羽虫を加えたところで何の損になりましょう。」

あちらこちらの人様の奥方に一目惚れを繰り返しているチェルビーノは、今度はオペラ座で見掛けたどなたかに詩を送りつけるつもりらしい。チェルビーノが行間に一息つく隙に、あちらの隅から、絶妙なタイミングで続きが詠まれる。
「さよう、わたくしのすることと云えばせいぜい、
あなたの裾衣に羽虫特有のかじりあとをつけ、
翌朝にはおねしょの後片付けを泣いて頼むくらいでございます。」
吹き出すのを我慢してふり返れば、いたずらっぽい瞳で老アルフォンソがこちらを眺めている。そして、その隣では「黒い貴婦人の騎士(Dark Lady’s Knight )」が堪えようともせず大声で笑っている。いつも本人としては恋人のつもりなのが、気が付けば息子のような位置に収まってしまうチェルビーノを皮肉った数節を、黒騎士はいたく気にいったらしい。若者には人気のある「黒い貴婦人の騎士」に笑われた「ふられっぱなしのチェルビーノ」は、すっかり真っ赤になって、その場を飛び出していってしまった。しかし、子供らしく気の変わるのが早いチェルビーノだから、どうせすぐに忘れてしまうだろう。とはいえ、わたしたち若者は彼が可哀想になり、一通り抗議の声をあげてみた。しかし、「老アルフォンソ」はいつものように澄まして新聞に目を落とし、そのまま新聞から視線を上げようともせず掌を振るだけであった。それで、わたしたちは彼の親友の「老オルフェウス」の元へ問題を持ち出すことにした。
「いくら稚拙な詩だったとはいえ、あれではチェルビーノが可哀想です。まだ子供なんですよ。」
「老アルフォンソは恋を侮蔑しているとしか思えません。」
「いったい彼には会員資格があるのでしょうか。」
我々の剣幕に、「老オルフェウス」は、しわだらけの瞼をしばたかせた。それから、事情を聞き出すと、声をあげて笑った。
「それは仕方がないな、わしにも、チェルビーノは母親の数を増やしているとしか思えん。」
「しかし、老アルフォンソは恋自体を嘲笑しています。」
「髭も桃の毛(peach fuzz)程度の若者ではな、奴の恋とはまたわけが違うわい。アルフォンソにも彼なりの恋愛哲学があるのだから、君等も尊重しなされ。彼も、ただのひねくれものではないのだよ。とはいえ、彼が嫌われてしまうのも良くない。どれ、少しばかり対策を取るとしよう。」
老獪ではあるが賢明なこの長老の言葉を聞くと、我々はようやくに満足して引き上げにかかった。ぞろぞろと背を向けて退散して行く若い連中の中から、老オルフェはわたしを引き留めた。
「ハムレッティ君、君は少し待ちたまえ。ロキの奥方にお使いを頼んでも良いじゃろ。」
「大叔母様ですか、構いませんよ。」
そう云うと、わたしは老オルフェの隣に腰を降ろし、彼が手紙を書き終るまで待つことにした。わたしの大叔母は老オルフェや老アルフォンソの共通の友人で、昔から仲が良いようだ。実際、わたしが「老オルフェウス」に初めて出会ったのは、実はこの「嘆く独身者倶楽部」ではなくて、大叔母の屋敷でのことだったらしい。らしい、と云うのは、その頃、わたしはまだ赤ん坊だったので、憶えていないと云う理由からだ。そして、大叔母は、広大な庭を持っているからだろう、ゲニウス・ロキとあだ名されていた。
「大叔母様には暫く会っていないなあ。お元気なんですかね。」
「ひどい甥じゃな、彼女には子もおらんと云うのに。わしが使いを頼まなければ会いにも行かんというのかね。」
「でも、父がよく会いに行っていますよ。」
大叔母はまれに見る美しい老女なのだが、子供も孫もいなかった。若い頃には随分美しかったらしいのに、どういう訳だか、一度も結婚しなかった。直接の甥にあたる父から聞いた話では、庭が大好きで、それに入れあげすぎて婚期を逃したのだと云う。だが、大叔母の妹で、当時を知るわたしの祖母に云わせると、もてすぎて選べなかったのだと云う。まあ、過ぎ去った時代の確かめようもない事柄なので、わたしにはどちらでも良いことだ。そんなことよりも、素敵な絵画のような風景式庭園と、その隅に近年付け足された素敵な薔薇園が楽しみだ。大叔母のところには他にも整形式庭園やオリエント風の庭園、温室まであるが、わたしは薔薇園がいちばん好きだ。父の話では、大叔母はその中に自分の墓を作るつもりらしいと云う。まだまだ元気であるというのに、気の早い話だ。わたしがそんなことに思いを巡らせている内に、手紙を書き終った老オルフェが云う。
「それ、この手紙を持って行きなさい。アルフォンソの奴を叱ってくれるように頼んだからな。」
「あれ、オルフェ長老から云ってくれるんじゃないんですか。」
「わしからでは彼は云うことを聞かんわい。わしは哲学者ではないからな。」
「でも、大叔母様も哲学者じゃないですよ、庭にしか興味はないみたいだし。」
「そうかな。」
老オルフェは云うとにやりと笑った。わたしは何かしらありそうだとは考えながらも、はたしてその真相がわたしに明らかになるのかどうかは甚だ怪しいものだ、と考えて手紙を受け取った。昔から、大叔母様と老オルフェは、わたしを煙に巻いては楽しんでいるようなふしがあるのだ。           
 そんなわけで、わたしはその午後、久しぶりに列車に揺られて、少し田舎に引っ込んだところにある大叔母の屋敷を訪ねた。天気は良く、気も解く晴れ上がった素敵な午後で、わたしはこれからどんな煙の巻かれ方をしようとも構いやしないと思う程に、すこぶる機嫌が良かった。それに、あの庭が楽しみだった。しかし、いざ大叔母を訪ねてみると、来客中だという。しかも、その客と一緒に庭のどこかへ散歩に出てしまったというので、わたしには暫く、することが何もなくなってしまった。
「仕方ないや、僕も庭でも見て待ちますから。大叔母様が戻りそうな時分に、僕も戻ってきますよ。」
実際のところ、仕方があってもなくても庭に行きたかったので、執事にそう云い残すとすぐさま、わたしは黄金の日差し溢れる庭の中へ歩み出たのだった。
 勿論、向かう先はわたしのお気に入りで、大叔母様のご自慢でもある、あの薔薇園だった。これがちょっと変わった庭で、それがわたしの気に入っている点でもあるのだけれど、その周囲の生垣が、入り組んだ迷路園になっていて、それを抜けないと薔薇園には辿り着けないのだ。薔薇園自体はその中央にあって、背の高い壁のような生垣に囲まれた様は、まるで秘密の花園といった感じだ。それに、その生垣の黒っぽい真緑の色の濃さが、中央の薔薇の色彩を、これ以上ないほどに際立たせるのがまた素敵だ。そんな風にして、生け垣はやたらに背が高く、真緑なのだが、特にわたしが気に入っているのは、薔薇園に接したぐるりの生垣に刈り込まれた窓だ。これは内側の薔薇園が覗けるような、ちょっとした窓のようにして刈り込みが入っているもので、窓そのものよりも、その後ろに隠されたスペースの方が広くて、まるで中世の城の窓か、列車のコンパートメントのようなっている。そして、生け垣に入り込んだ形でベンチが置いてあり、その薄暗い空間にゆったりと座れるようになっているのだ。その生け垣の木は葉が鬱蒼と繁る種のものだから、その自然のコンパートメントの中は薄暗くて、窓から見る薔薇や空や緑などの景色は、余計に鮮やかに見えるのだ。
 わたしは、そんなことを思い返し、迷路園で出会った白い孔雀をひとしきり追い掛け回してから、ようやくに中心部に近付いて、さて、あの生垣のコンパートメントはどこにあったかな、と、見渡した。 そうして、あちらの方に、生け垣の窪みがあるらしいのを見付ける。このコンパートメントにあたる窪みが、遠くからだと、注意して見ないとなかなか見付からないのだからくせものだ。そう思いながら近付いて、中を覗いて驚いた。子供だ。金のくるくるとした巻き髪に、あれやこれや枝を絡ませたのが見える。それはベンチの上で屈んで、窓から薔薇園の様子を窺っている。どうも、見たところ、悪戯小僧が石でもぶつける孔雀をでも狙っているといった様子だが、大叔母が子供を預かっていると云う話も聞かない。髪の枝葉からして、どこかの悪餓鬼が潜り込んだのだろう。
「おい、君、どこからきたの。」
ふり返った顔をみて、わたしは驚いた。
「ハムレッティ!しっ、屈んで、見付かってしまう。」
わたしの服を引っ掴んで無理に屈ませたのは、膝のでた子供服を着たチェルビーノだった。よく似合う子供服は、変装と云うか、現役そのものだ。屈んだせいで目の前に来た泥のついた膝と脛には、まだ毛も生えていない。
「チェルビーノ!何故、君がこんなところに?」
「決まってるよ、憧れの奥様を眺めに来たんだ。」
わたしは屈んだまま、疑わしげに「ふられっぱなしのチェルビーノ」を眺めた。
「奥様?ここにはお婆さんしかいないよ。」
「失礼な事を云わないでおくれよ、あの雪のような白銀の髪を美しいとは思わないのかい?いや、あの方を美しいと思わないなら、一体何故ここに来たのさ?」
「だって、わたしの大叔母様の家だもの。」
「ええ、本当に?ねえ、紹介してよ、このまんまじゃあ、僕は恋い焦がれて死んじゃうよ。」
そんな会話が、生垣の窪みの暗がりに屈んだまま、ずっとこそこそとした囁き声で続いた。わたしは、こんな様子だときっと大叔母様は中の薔薇園にいるのだろうと、眼をあげた。少し向こうには、よく手入れの行き届いた大きな白い薔薇が咲いている。そして案の定、薔薇と薔薇の間には、綺麗な濃い青の服を着た大叔母様が、白い細身のステッキを手に薔薇の間をゆっくりと歩むのが見える。先ほど執事から聞いた話では、来客と一緒に散歩をしているとのことだったが、だからといって別に、声をかけても失礼には当たるまい。
「じゃあ、紹介してあげるよ。でも、結果は保証しないぞ。」
そう云ってわたしが立ち上がろうとするのを、チェルビーノが慌てた様子で服を掴んで止める。
「なんだい、先に子供服を着替えてくるかい。というか、着替えは持ってきてるの?」
「しっ、あれを見なよ。」
わたしはそれで、また屈み込んだままで、「ふられっぱなしのチェルビーノ」が示す先を眺めて、そして小さく驚きの声をあげた。
 大叔母様が立ち止まり、ある人が追い付くのを待つ。それは他でもない、老アルフォンソだった。老アルフォンソが追い付くと、二人はごく自然な身振りで腕を取り合い、それから何か話しながらゆったりと歩き続ける。わたしの隣では、チェルビーノが爪を噛みながら唸り声をあげる。来客とは、老アルフォンソのことであったようだ。
「あれ、老アルフォンソじゃないか。」
わたしが云うと、チェルビーノが口惜しげに云う。
「そうなんだ。さんざっぱら僕を馬鹿にしておきながら、自分は僕の愛する女性の腕をとって歩いているんだ。きっと、僕の詩の宛先に早々に見当をつけて、わざと意地悪をしたんだよ、ああ!」
そう嘆いて、チェルビーノは枝の絡まった金髪を手で掻き回した。
「うん、でも、ほら、あの二人は古い友人らしいからね。いくら親密でも、恋人とは限らないよ。」   
そうは云ったものの、やはり随分仲はよさそうだなと、わたしは逍遥する二人の姿を見て考えた。  だが、なんにしても、涙眼で爪を噛んでいるチェルビーノを見るにつけ、こんな子供じゃあ、大叔母の恋人にはまず向かない、老アルフォンソのほうがまだましだな、とわたしは考えずにはおれなかった。
 子供服のチェルビーノをいったん薔薇園に置き去りにして、わたしは 大叔母と老アルフォンソより先に屋敷にたどり着こうと、屋敷に引き返すことにした。緑の芝を越えて少し急ぎ足で屋敷の壁際に作られた花壇で、顔なじみの庭師に出会った。
「こんにちは、お久しぶりです。」
「こんにちは、坊ちゃん。随分と大人になられましたなあ。」
この庭師は背の高い体格のいい男で、大叔母と同じくらいの年齢なのだろうが、日に焼けた肌と日々の労働で鍛えられた感じが精悍で若々しい。彼は長年、大叔母の庭の管理を任されていて、庭師と云うか、造園家と云った方が近いかもしれない。時折、珍しい植物を外国から採種してくるといった、プラントハンターのようなこともするらしい。そういったところもどことなく、風来坊の芸術家的な風があってわたしはこの男が好きだ。
「顔色もだいぶ良くなりましたな。」
「そうかなあ。だと嬉しいんだけど。」
それからは、少しばかり世間話が続く。わたしが以前から気になっていた柳の木の生態についてしつこく質問を続け、やがてその疑問もおおかた片付いた頃、庭師は思い出したように云った。
「ところで坊ちゃん、庭で何か、変わったものはお見掛けしませんでしたでしょうかね。」
庭師は日に焼けて濃くなった眉の間の皮膚に皺を刻み、少しばかり心配顔だ。わたしは、恐らくはチェルビーノのことを云っているのだろうと見当を付ける。これは、しらばくれる他あるまい。
「ええと、大叔母様とお客様を見ましたよ、お客は、僕の倶楽部での知り合いでもあるんだけど。二人は友達なんだって?」
「ええ、存じています。なんでも、彼は昔、奥様の妹君の家庭教師をしていたとか。坊っちゃんのおばあ様のですね。ええ、あの方はご友人の筈です。」
なんだか、その言葉には力がこもっているような気がする。庭師の心配顔が直らないので、わたしはやはりチェルビーノのことかと思い、聞いてみる。
「何か気にかかることでも?」
わたしが尋ねても、庭師は男らしく角張った顎に手をあて、暫く考えていた。しかし、やがて軽く笑って目をあげた。
「いや、なんでもありません。」
  庭師は云うと、手押し車に乗せてあったきれいな檸檬をわたしに手渡して云う。
「温室でとれたものです、お茶にどうぞ。わたしの云ったことは忘れてください。」
わたしはその檸檬を眺めながら、釈然としないまま、屋敷に戻った。
 釈然としない気分のまま暫く待って、やがて客間に大叔母が戻ってきたのを出迎える。叔母は青い服をきて、白い髪を美しく纏め上げている。ゆったりとソファに腰を下ろすと、わたしに微笑みかけながら云う。
「おやまぁ、今日はお客様が多いこと。しかも、みんな同じ倶楽部からだなんて、興味深いわね。」
大叔母にはいつも目元に微笑んだような力をいれる癖があり、それが大きなシワを作るのにも拘わらず、なんだか不思議に余裕をもった華やかな印象を与える。親類ながら、綺麗な老婦人だと感心せずにはおれない。
「あら、あなたの連れていた小鳥は逃げてしまったの?」
大叔母はそう云って、それ以上説明もなしに、執事が運んできた紅茶をわたしに手渡す。大叔母は詩的な物云いを好むので、わたしはいつも解釈に少しどまどうのだが、今回は勿論、チェルビーノのことだろう。
「ええと、ええ、見てらしたんですか。」
「わたくしは何でもお見通しなんですのよ。連れてくればよかったのに。」
「お気に召すか分からなかったんです。それに僕が来たのは、このお手紙を、老オルフェから預かったんで、渡そうと思ってのことだし。」
わたしが差し出した手紙を受け取ると、大叔母は礼を云って受け取った。しかし、それを読まずに横に、すぐに置いてしまった。
「あれ、大叔母様、読まないんですか。」
「大体の用件はわかりますもの、後でゆっくり読みます。それにしても、小鳥を苛めるのは良くないわね。叱っておきました。」
大叔母は声にも不思議な品のよさと、聡明さと少女っぽさを感じさせる何かを持っている。それはなんだか、少しのんびりとした印象さえ与え、わたしは、いつもなんだか、奇妙に煙に巻かれた気分になる。だが、大叔母はひとを煙には巻くが、やはり優しいので、わたしは大叔母には素直だ。それで、やはり素直に、気になっていた事を聞いてみる。
「ねえ、大叔母様、もしかして老アルフォンソの恋人なんですか。」
大叔母は、ちょっとの間、驚いた顔をして、それからころころと笑い、やがて華やかに微笑んで云う。
「違うわよ、昔からのお友達なの。」
そして、執事を呼んで、わたしの持ってきた檸檬をスライスするように云い付けた。
「あなた、面白いことを云うのね。それに、この檸檬。庭師にも会ったみたいね。彼、なんだかやきもきしていたでしょう。」
「ええ。彼は、いったいどうしたんですかね。」
「あの人はね、わたくしが堅物の学者さんと結婚しないか、いつも不安なのよ。心配しなくてもいいのですけどね、わたくしは庭を離れないのだから。」           
では、大叔母の恋人はあの庭師なのだろうか。なさそうなことでもない、彼は立派な男だ。わたしはその庭師に、好感とちょっとした憧れを感じていたから、嬉しくなって云う。
「じゃあ大叔母様は、老アルフォンソじゃなくて、彼がお好きなんでしょう。」
だが大叔母は、また、ふんわりと華やかに笑って云う。
「違うわ。彼も良いお友達だけれど、わたくしは庭が好きなの。と、云うよりわたくしが庭なのよ。」
「あなたが庭?ちっともわからないや。」
わたしは混乱したまま、大叔母の柔らかで華やかな笑顔を見つめていた。
「庭はね、だれでも歓迎するの。人は庭を慕うわ、でも人はそこで庭ではなく、自分の魂出会い、恋するの。それはまるで、一本の木のようね。庭は魂の隠れ家に過ぎないわ。」
その言葉には、わたしは間抜けな返事をすることしか出来なかった。
「はあ、そんなもんですか。」
「分からないのね。構わないのよ、それで。あなたは若いもの。」
大叔母は、目元に微笑んだような力を入れたまま、窓の向こうの緑を眺めていたが、やがてそう云い、美しく笑うと、執事の持ってきた檸檬をお茶に浮かべた。
「そうね、隠れ家に逃げ込んだきりにならないと、生きていけない人もいるけれど。でも、庭師はいてもいいわね。」
わたしはそんな呟きをききながら、その後一時間、全く煙に巻かれどおしだった。   
 一時間たっぷり煙に巻かれた後に、大叔母様においとまを告げ、わたしは屋敷の前の車付けに向かった。わたしはのんびりとそこまでを列車で来たもので、帰りも駅までは大叔母の運転手にでも送ってもらうつもりだったのだ。ところが、車付けには見慣れない立派な車が見える。つやつやとした黒い車の中に、ゆったりと外に腕を垂らした老アルフォンソと、チェルビーノがちょこんと座っているのが見えた。
「あれ、お二人お揃いで。チェルビーノ、とっ捕まったの。」
「違うよ、僕が捕まえたんだ。」
「いいから乗りなさい、送ってやろう。」
そんなわけで、わたしは老アルフォンソの車の後部座席に収まることになった。郊外の緑が目に眩しい中を、車を走らせながら老アルフォンソが云う。
「まったく、屋敷にまで押しかけるなど、とんでない。恥を知りたまえ、ちびすけ。」
「押し掛けたのはあなただって同じでしょう。なんにせよ、あなたがただのお友達なら、僕にも望みはあるわけだ。本当は悔しいんじゃないですか。」
チェルビーノが口を尖らせて云うと、老アルフォンソは数秒、理解する間を取ってから、大笑いをした。お陰で車はぐらぐらと揺れ、わたしは車の壁に張り付いた。老アルフォンソはご機嫌のようで、笑い終わって息を整えながら云う。
「おい、ハムレッティ、このちび燕に望みはあるのかね。ほら、あの丘が見えるかね。」
「丘ですか、見えますよ。さあ、僕には大叔母様の考えている事はちっともわかりませんよ。しかし、老アルフォンソは大叔母が好きなんじゃないんですか。」
「わしかね、わしはあの方自体を愛しているのではない、あの方がわしの愛するものを知るきっかけになるにすぎん。わしは地上の女を愛しているのではないのでな。ところで、あの丘で昔有名な詩が詠まれてな、知っておるかね。」
老アルフォンソが愉快そうに云うと、チェルビーノは腕組をして不機嫌に云う。
「全然わかんないや。」
「わしの話はわからんでよろしい。しかし、お前たちは作るばかりで過去の詩人に興味はないのかね。」
老アルフォンソがいつものからかうような調子を崩さないので、車はチェルビーノの不機嫌な沈黙に支配されてしまった。それで、わたしは老アルフォンソの反応を見るつもりで、チェルビーノに話しかける。
「でも、チェルビーノ、あそこの庭師も君のライバルらしいよ。」
チェルビーノは愛らしい顔に不機嫌を湛えて振り返る。しかし、彼が何か云う前に、老アルフォンソが相変わらずの調子で云う。
「あいつか。あれはな、可哀想な男だよ、その昔、事故で妻と子を亡くしてな。あの方がおらんかったら、とうに梁に縄かけて首を括っておるわい。」
「それは可哀想ですね。では、大叔母は彼のために結婚しなかったのですか。」
「いやいや、あの方はそんなに優しくはないわい。自分のために自由を選んだのだよ。チェルビーノ、あのご婦人は相当な食わせ者じゃよ、追い掛けるなら心せいよ。しかし、あの丘の詩を知らんのか、有名な詩なんだが。嘆かわしい。」
チェルビーノは不機嫌におし黙ったままだったので、残りの帰路は、老アルフォンソによる陽気な郷土史の講義となった。どうも、ここでもわたしは煙に巻かれてしまったらしい。
 次の日、わたしが倶楽部で、老アルフォンソの云った事を考えている時のことだった。倶楽部の隅では、「思い付きのロメオ」が、女王陛下のスパイがジョンの頭骨を狙っているとの演説をしていたので、わたしはさらに隅に引っ込んでいた。ついつい考えがジョンの頭骨に向いて、一向に良い解釈が浮かばない。頬杖をついて考え込んでいると、老オルフェがにこにこと笑いながら話しかけた。
「どうだったね、大叔母様のご機嫌は?」
それでわたしは、老オルフェに疑問の全てをぶつけてみたのだった。老オルフェは、わたしが十分に煙に巻かれたらしいのを見て、これ以上の謎かけは勘弁してくれる気になったらしい。聡明な瞳を巡らせて、分かりやすく話そうと努めてくれた。
「アルフォンソはな、知っての通り、哲学者だからな、話がややこしくていかん。たとえば、ここに青年アルフォンソが長年、頭を悩ませてきたひとつの命題がここにあるとする。その命題の証明を、まだ少女であったロキ嬢が、茶飲み話に織り込んで、ちょいと気の利いた警句で表現しているのを奴は聞く。確かに、ロキ嬢は精緻な理論を組み立てることはなさらんから、それは哲学としては不完全なものだ。だが、青年アルフォンソにはその一言で、そこに秘められた決定的な本質を把握できるようになるそうでな。その奇跡は、あたかもソクラテスが美少年を眺めては、美である真理(イデエ)を垣間見るが如くであったらしい。そういうことがたびたびあるもので、青年アルフォンソはその内に、自分が愛しているのがロキ嬢なのか、真理のイデエなのかわからなくなったそうだ。それで、まあ、彼はそもそもが哲学者であったので、ソクラテスの説を採用して、自分の愛しているのは、真理(イデエ)の方だと決めた。それで、哲学者たるもの、一度明晰判明だとして採用したものを放棄するわけにも行かず、彼はロキの奥方を愛しているとは決して認めんのだよ。」
老オルフェとしては、できる限り易しい説明をしようとしてくれたようだったが、わたしはすでにあまりにも煙に巻かれすぎていて、どんな解釈にも自信が持てなくなっていた。わたしがぽかんとしていると、老オルフェは笑ってこう付け加えた。
「まあ、しかし、そんなことよりも、こういったほうがわかり易いかも知れん。きっと、アルフォンソは、哲学がロキの奥方から区別できなくなっておるのだろうて。だから、自分が慕っておるのがどちらともわかっておらんで、友人だと云い張るのだろう。」

「じゃあ、やはりアルフォンソ長老は、大叔母のことが好きなんですね。」
しかし、老オルフェは、わたしの結論を肯定するでも否定するでもなく笑い、話をジョンに移した。
「ところで、女王陛下はジョンの頭骨に、幾ら出すとおっしゃっているか知っとるかね?」
そんなわけで、わたしは未だ、老アルフォンソの友人である大叔母を理解するには至っていないのかもしれない。

08. 「鼻なしのシラノ」

 「嘆く独身者倶楽部」から、「金魚取りのジョン」が奇妙な脱会を遂げてから、女王陛下のお気に入りの詩人のうち同時代のものでは、「鼻なしのシラノ」がいちばんになっていた。しかし、女王陛下は本当に「鼻なしのシラノ」の詩を本当に気に入っていらっしゃるのかと云うと、それがよくわからない点で、と、云うのも、シラノの詩は、どちらかと云うと抽象的で現代的なのだ。お年を召した女王陛下は、もしかしたら「金魚取りのジョン」の従弟と云う理由で彼を取り立てていたのかもしれない。だが、何にせよ、彼の詩は若い世代には相当な人気があったし、それにその優しい人好きのする人格のお陰で、やっかむものもいなかった。
 では、彼がどんな人物なのかと云うと、この「鼻なしのシラノ」は、鼻なしと云うくらいだから、まあ鼻は普通の大きさで、容姿としても普通のどこにでもいる紳士といった感じだ。ひょろりと背が高くて、愛嬌のある丸い眼に丸い眼鏡をかけていた。だから、戯曲のシラノ・ド・ベルジュラックのように、恋をする資格がないと自分で宣言したりする必要はなかったのだけれど、その分おとなしい性格のひとだった。はにかみやの優しい心の持ち主で、他人の恋文を添削したり、はては詩の作れない連中には代わりに書いてやったりもしたから、そんなあたりからあだ名が付いたようだ。わたしは10歳かそこいら年上の、この穏やかな詩人に、ジョンの脱会以来すっかりなついてしまった。シラノの方も、もともと友人選びに年齢は考慮にいれないたちの様で、わたしや他の若い連中とも仲がよくて、いろいろと世話を焼いてくれた。とはいえ、この「鼻なしのシラノ」は少しばかり抜けたところのある人物でもあったから、世話を焼くのはお互い様ではあったのだが。そうして、わたしたちは、あんまりシラノの世話を焼きすぎて、結果、彼を「嘆く独身者倶楽部」から追い出すことになってしまった。
 ある時、彼が絶望的な表情で倶楽部に現れたことがあった。驚いたわたしたちが、何事かと問いただすと、彼は蒼白のまま、こう云った。
「わたしの新作の発表を祝って、女王様が祝宴を開いてくださると云うんです!」
わたしたちは静まりかえって、それのどこが悪い知らせなのだろうかと思案した。予算を全額自分で出せとでも云うのだろうか。
「それは、王宮で、と云うことになるのかね。」
老アルフォンソが訊ねると、シラノは眼をどこか中空に泳がせたままで答える。
「いいえ、それはなんとかお断り申し上げたんです。実際、今回はジョンもいないし、小さな出版社だし、パーティなんてやらないつもりだったんです。ところが、費用は持つから、必ずパーティを開くように、と。厳命でした。」
わたしたちはそれを聞くと、安心したのとシラノの様子の哀れっぽいのとで、どっと笑った。「思い付きのロメオ」が、ひょろりとしたシラノの肩を叩きながら云う。
「なんだ、驚かすなよ。そんなことは今までもやってきたじゃないか。」
「あなたたちはわかっていないんだ。今まではジョンがいたから人が集まったんですよ、わたしの作品では。」
シラノがおろおろと云うのを、「老オルフェウス」が笑いとばす。
「馬鹿を云うな、印刷屋が度重なる再販にてんてこ舞いだって云うじゃないか。」
「でも、今までは、全部ジョンが取り仕切って来たんです!わたしにパーティの手配なんて出来ません!」
シラノの哀れっぽい悲鳴を聞くに至り、わたしたちはもはや笑うのを止められなくなった。ようやく落ち着いた頃、倶楽部の中では、その手の華やかな催しを得意とする連中が、シラノのために名乗りをあげはじめた。その中でも、中心は「若作りのドリアン」と、「破れ篭のピンカートン」だった。
 二人が張り切ったことと、女王陛下の気前の良い資金提供によって、パーティは素晴らしいものとなった。だが、ここで先に、シラノの新作、「青い悪魔」について少しばかり述べておいた方がよいだろう。
 「青い悪魔」は、どうやらイカロス神話に題材をとったものらしいが、肝心の翼は飛行機であり、形而上学的な用語が、飛行機のメーターやら何を示すのかわからない部品や気象用語と共に並ぶ。つまり、完全に現代的な奇妙な作品であるわけだが、それでも主題はまだはっきりしている。飛行機乗りの主人公が「青い悪魔」に魅せられて、空をどんどんのぼってゆく。空気は薄くなり引き返すのに必要な燃料は既に切れ、それどころかもう数分と飛んでいられないだろうと云う状態になる。だが、彼は最後まで機体を上空に向け続けたまま、いつエンジンが止まるのか、と云う瞬間まで、全速で飛び続ける。だが、その状態が何分も、何十年も続くのだが、その間の緊迫感の描写が堪らない。そうして、最後に、ガシャン!と物凄い音が鳴響く。彼は空の天井を突き破ってしまったのだ。眩しい光が眼を射り、ぎらぎらと光る空の破片が機体を酷く傷つける。光に真っ白くなった空間をぼろぼろの飛行機は飛行を続け、辺り中に真っ青な空の破片が降り続け、それは雨か雪のように見えると云う。やがて次第に破片は眼下に消えて溶け、飛行機乗りは無の空間を、しばし彷徨う。真っ白い光に晒されて喘ぎながら、やがて彼は視界の底に消えていったはずの、青い破片達を、なんと頭上に見出す。それはひとところに集まり、やがて、巨大な蜻蛉の姿を取り、飛行機へと襲いかかる。飛行機乗りは気を失い、ようやくに気付いた時には海の上、海面すれすれに飛んでいる。見上げれば、頭上には何も変わらぬ青い空が広がっていた、と、まあ、長くなったが、「青い悪魔」はこんな感じの詩だ。
 一見、おとなしいシラノからはなかなか想像しにくい英雄志向な長編詩なのだが、主人公の飛行機乗りの、ある意味では誠実ですらある落ち着きや諦念にも似た愛情が作者の人柄をうかがわせないでもない。この辺りが、若い世代の支持を得る理由でもあるらしい。
 なんにせよ、パーティはこの「青い悪魔」に主題を取って、天上風に仕立てられた。会場に屋敷を提供した「若作りのドリアン」は、どうもかなり張り切ったらしく、屋敷の部屋はカーテンまで青色に新調され、天井は青い絹と雲の張りぼてで彩られた。それから、こちらは詩とは関係ないのだけれど、執事以下ボーイに至るまで天使の扮装をさせられた。そして、参加者は皆、何かしらの仮装をしてくるように義務づけられた。天上の仮装パーティと云うわけだ。とはいえ、何の扮装をしてくるのかは特に指定をするのを忘れてしまったものだから、パーティは天上を舞台にはしたものの、古典古代風から中世からロココ風、そして哲学者から道化師や案山子、はては動物に至るまでありとあらゆる扮装で溢れ、いったい何がなんだかよく分からない状況になってはしまったのだが。とにかく、そんな風に、しつらえられた天空の間には、いつの時代の何かとも知れぬ扮装の人々がひしめいていた。
「こりゃあ、むしろ天国の待合室といったところだな。妙なのが多すぎる。」
「思い付きのロメオ」が、あだ名通りのロメオの扮装で云うと、奥さんの身体に美しく古代風の衣装を着せたアドニスが「そうでもないさ。」と、わかったような口を利きながら、髪に飾ったアネモネが萎びていないか気にしている。
 人波は華やかで、中には知り合いもちらほらいる。あちらには老アルフォンソの友人の学者たちがターバンを巻いたり襟の立った東洋風の絹服を着ていたりすると思えば、こちらには白い犬を連れた綺麗な妖精の衣装のパリスや、その友人とおぼしき大きな白い鬘をつけた若者や、飛行服を着た美青年もいる。巨大なスカートを引きずった女性もいれば、腰帯ひとつの男まで走り回っている。
「やあ困った、ジョンがいなくなったぞ。誰か見なかったか。女王陛下のスパイの仕業かもしれん、随分とご執心のようだからな。」
そう云いながら、「若作りのドリアン」が、フリルの沢山付いたシャツと付け黶でうろうろしている。わたしはデンマークの王子風の格好をして、少しばかり浮き立った気持ちで周囲を見渡した。白い髭と重そうな羽を背負った執事から飲み物を受け取ろうとして、隅の方で、ごくごく平凡な、普通の背広を着て座っているシラノに気付いた。
「あれ、シラノさん、なんであんな地味な背広。」
「ああ、あれはな、事務員の扮装らしいよ。しかし地味だなあ、あれで主役かね。」
「思いつきのロメオ」が云っていることは確かに正しい。どうも、ジョンがいた時代からそうなのだが、シラノはこういう場が苦手だから、いつも隅に隠れるようにしているのだ。シラノはわたしに気づいた様子で、相変わらず隅のほうで、何か白い物を持ってわたしに手を振る。どうも、こちらへ来るようにと手招いているようだ。
「呼びましたか。しかし、シラノさん、そんな隅にいては誰もあいさつできないでしょう。」
「ああ、ハムレッティ君。この骸骨は君のじゃないかい。」
彼は、つやつやに研きあげられた骸骨をわたしに差し出した。確かに、わたしが仮想したデンマークの王子の物語には骸骨に語りかけるシーンがあるので、役どころとしては骸骨を持っていても良さそうなものだが、それはわたしのものではない。
「もしかして、これ、ジョンじゃないですか。さっき、ドリアンが探していましたよ。」
「ええ、まずいな、本物の骸骨かあ。まいったなあ、頭だけ持ってきているとは思わなかったよ。」
シラノは、地味な背広のまま困ったように頭をかいた。
「ええ、全身骨格だとかさばって大変だからって、頭だけ連れてきたそうです。大丈夫、今のうちに元の場所に戻しておけば平気ですよ。この頭、どこにあったんですか。」
「あっちの青い椅子の上だよ。」
「どこですか、人混みで見えないなあ。」
シラノは「ほら」と云って指をさしたが、そのとたん、どういうわけかその椅子のように真っ青になってしまった。手が震えている。わたしは一体どうしたのだろうかと、改めてそちらを眺めなおすが、パリスと白い犬と、その友人らしきのが幾人か固まっているだけで、特に変わった様子も無い。
「あのパリスがいるあたりですか。」
「ああ、いや、うん。君が置いてきてくれ。」
シラノは震える手でわたしにジョンを押し付けた。
「どうしたんですか。」
「なんでもないさ、ちょっと、飲み物をもらってくるよ。」
「飲み物ならここに沢山あるじゃないですか。」
聞こえない様子でシラノは立ち上がったが、彼は立ち上がるついでに、飲み物を沢山置いたテーブルをひっくりかえして転倒し、こぼれた飲み物の大半を引っかぶってしまった。
「ああ、一体どうしたんですか、大丈夫ですか。」
仕方なくわたしが手を貸しすと、シラノは立ち上がって曖昧に笑い、
「着替えてくるよ。」
と云ってふらりと逃げ出して、途中、飲み物を持った可愛らしい天使姿のボーイを転倒させながら、隣の部屋に消えていった。まったく、奇妙な振る舞いだ。
「どうしたんだろう。ねえ、ジョン。」
わたしは話し相手が居なくなったので、とりあえずジョンの骸骨に云ってみるが、当然ジョンは何も答えてはくれない。
「あら、ハムレッティ、こんな所でお芝居?悲劇はごめんこうむりたいわね。」
妖精の翅を背負ったパリスが、笑いながらやって来た。パリスの連れている愛犬は、わたしのことを覚えていたらしい。激しく尻尾を振って飛びかかろうとするので、わたしは少し、後ずさる。
「やあ、パリス。ファエトンは元気?」
「また自転車で怪我をしたの。可哀想に、また足を折って家で休んでるわ。」
パリスは溜め息をつき、白い犬にテーブルの上の食べ物を取ってやる。どうも、だいぶ甘やかしているようだ。
「へえ、ファエトンが自転車で怪我か、それはまた因果だね。一体、どうしたの?」
「堀に落ちたのよ。ねえ、あのテーブルを引っくり返していた人はシラノさんでしょう。相変わらず地味な方ね、仮装もなさってないし。」
「ああ、あれね、事務員の扮装らしいよ。そうか、でも、じっとしてなきゃいけないなんて、ファエトンには苦痛そうだね。」
「ええ、だから、お見舞いに来てあげて。それより、ねえ、わたしのお友達を紹介するわ。」
どうやらパリスはファエトンの怪我の話は避けたいようだ。わたしに犬を預けて、少し遠くの、人垣へ向かう。そして、その中心にいた飛行服の美しい青年を引っ張ってきた。パリスと同じように細身で背が高く、すらりとしていて、華奢なくらいだ。まるでガラスのような薄青い目をしている。
「こちら、わたしのお友達のステラさん。社交界の花形よ。」
「はじめまして。」
彼女は美しく笑い、女性の声で云った。飛行服の美青年は、美しい女性だったようだ。パリスの友人ならば、別に驚くにはあたらない。
「はじめまして。しかし、僕から云うのも何ですが、青い飛行服とは、素敵な敬意の示し方ですね。詩の内容にすごくよく合ってる。」
「ええ、素晴らしい作品ですもの。」
ステラさんは華やかな笑顔を浮かべて応じてくれた。
「ステラさんはシラノの詩がとても好きなのよ。ねえ、ハムレッティ、彼女をシラノさんに紹介してあげてくれないかしら。」
「いいのよ、パリス。」
彼女が遠慮するので、わたしは言葉を継ごうとした。遠慮も何も、シラノを紹介することくらい簡単なことはないし、こんなきれいな女性が読者だと知ったら、シラノもさぞかし自信が付くだろう。むしろ、紹介させてくれ、と頼みたいほどだ。しかし、わたしが「もちろん、是非」とまで云ったところで、どうもわたしはあまり好きにはなれない例の元気な犬が、勢いよくわたしに飛びかかったので、わたしはジョンの頭骸をかばって、シラノのこぼした飲み物にしりもちをついてしまった。
「ガラスもあるし、あぶないから着替えていらっしゃい。」
パリスの厳命で、わたしは仕方なく、客用の部屋をひとつ借り、そこへ引っ込んだ。執事が渡してくれた予備の天使の服に着替えていると、扉からもうひとり、天使が飛込んできた。シラノだ。珍しく興奮気味のようだ。
「ハムレッティ君、彼女と話しただろう?なんて云ってた?」
「なんの話です、パリスですか。」
長身のシラノには天使の衣装は短いらしく、ひょろりとした脛が見えている。そして、その脛の上の裾を翻しながら、シラノはうろうろと歩き回る。
「違うよ、あの飛行服の美しい方だよ。彼女、作品について何か云ってたかい?その、つまり、ちょっとでも気に入ってたかな?」
シラノは椅子に腰かけると、心配そうに手を顔の前で組み合わせてわたしを見上げる。体重をかけて椅子との間に挟んだので、背負っていた天使の羽根は曲がってぼさぼさになったろう。
「ああ、ステラさんのことか。見ればわかるじゃないですか。このパーティであなたの作品に敬意を示したのは、少なくとも仮装の話だけでは、彼女とボーイくらいのものですよ。」
だが、シラノは組んだ手の中にひょろりとした鼻を埋めて、哀れげな顔をしている。
「彼女ならそのくらいの心配りは好きじゃなくてもするよ。いいかい、彼女は社交界の花形なんだよ、気の利いたことならお手のものなんだ。それに、とても礼儀正しい方なんだから、好きじゃなくても僕の作品に敬意を表することくらいして下さるんだ。」
なんだかシラノは必死になって、気に入っていないと思い込もうとしているようだ。わたしはそのあたりの事実はあまり良くわからなかったので、からかってお茶を濁そうとする。
「シラノさん、そんなにあの人が好きなら、新作でも献呈してきたらいいじゃないですか。」
わたしはからかい気味に云ったつもりだったのに、シラノは真面目にそれを拒否した。
「いや、駄目だよ。」
シラノの目は、眼鏡の中で真剣な光を宿している。わたしは少しばかり驚いた。シラノの恋の相手はあの、ステラさんであったのか。どうりで、パリスの友人たちを見てテーブルをひっくり返したりするわけだ。
「何故です、青い悪魔の作者なら、そのくらいの勇気はあるはずですよ。」
わたしが云うと、シラノは少し考え込むような表情をした。
「いや、その勇気がない事はない、筈だ、と思う。けど、そういう理由からではなくて、駄目なんだ。僕はね、待っているんだ。僕からじゃない、彼女から来てくれなきゃ。」
「ステラさんから?いったい何故です。」
「見ればわかるじゃないか、僕は地味で何の取り柄のない男だよ、ひきかえ、あの人のまわりはいつも崇拝者の輪だ。僕は、彼女にまとわり着いて迷惑をかけたくはないんだ。だけど、幸いなことに彼女は、詩が好きなんだ。そして、僕には詩が書ける。僕がまがりなりにも気を引こうと努力して、愛の言葉を伝えることが出来るのは、彼女の愛する詩の世界でだけなんだ。もしも彼女が、そこに書かれている愛を気に入ってくれるのなら、それと同じものを、人生でも彼女に奉げる男も気に入ってくれるかもしれない。そうしたら勿論、僕は想いを伝えるよ、ふられるかもしれんがね。そうしたら、筆を折って首を括ればいいだけの話だ。しかし、もし、その詩に描かれた愛が気に入らないのだったら、なにもそこでわざわざ、その愛はあなたに向けられたものです、なんて云って、不快な思いをさせる必要はないんだ。」
なんだかよくわからない理論だが、非常な気遣いだ。もしかしたら、彼にとっては詩が恋文と同一のものであるのかもしれない。
「でも、青い悪魔じゃあ、ちょっと愛を伝えるのは難しいんじゃないですか。」
「そうかなあ、あれは不滅の愛の精神を描いたつもりだったんだ。」
「え、あれは愛の詩だったんですか。てっきり勇気と冒険の物語かと…」
わたしにはそちらの方が驚きだ。事情は全くつかめなかったが、シラノが自信なさげに肩を落としているので、わたしとしては励ます他はない。
「でも、ステラさんは、あれを素晴らしいと誉めていましたよ。」
「そのくらいの事は云うよ、本当に、礼儀正しい方なんだから。毎回、ちょっとした持ち物や仮装で敬意を示してくれるからね。でも、まだ一度も挨拶はしてくれない。だから、本当は気に入っていないんだとは思うよ。そして、詩の段階で気に入らないのなら、僕自身を気に入る可能性はまったく無いんだよ。」
その云い方がいかにも確信に満ちているので、わたしはそんなものかと納得してしまった。しかし、詩で愛を表現したのなら、飛行機だの無線だのといわないで、もう少しわかり易い恋愛詩でも書いたほうが、よほどわかってもらえそうな気もするものだが。
 ところで、先ほどからなんだかパーティ会場の方で騒がしい。わたしは、それを口実に、シラノを元気付ける援軍を探しに会場に戻ることにした。
「なんだろう、騒がしいですね。ちょっと、見てきます。」
わたしが羽をしょって天使の格好で会場に戻ると、なんだか会場が荒れている。テーブルがあちらこちらで引っくり返り、部屋の隅の方では客が濡れた衣装を拭いたり、なんだか逆上した様子で話し合ったりしている。まるで誰かが暴れた後みたいだ。いったい、何があったというのだろう。わたしは会場をぐるりと回ってみて、隅でひとり、すらりとした身体を青い飛行服で包んで、グラスを傾けているステラさんを見付ける。シャンパンを飲みながら、テーブルの上に置いたジョンの頭骨を眺めている姿が、現代的な絵画のようで格好がいい。わたしはそれに近付いていって、声をかけた。
「いやあ、酷いですね。何が起こったのですか?」
「パリスの犬が。」
ステラさんは、笑い出しながら云った。
「ハムレッティさん、相当あの子に気に入られているみたいですね。あなた、ハムレッティさんとおっしゃるんでしょう、パリスから聞きました。あの犬、あなたが居なくなったらとたんに哀れげな声で啼きだして。五分経ったら大暴れで、テーブルは引っくり返すわ、あちらこちら飛び回るわ、凄かったんですから。笑ってもいけないのでしょうけど、面白かったんですよ。でも、パリスはあの犬には甘いんですよね、その点はどうにかすべきだな。ご主人が怪我をしたのも、自転車の前に飛び出したあの子を避けようとしてのことなんだし。」
わたしはあの無邪気な犬の、喜びに輝く瞳を思い出して、多少ぞっとした。それから、あの犬の悪口でも云おうか思ったりもしたのだが、その前にステラさんがシラノの想い人だと云うこと思いだし、詩の感想を聞こうとする。
「そういえば、シラノの新作は、本当のところ、どうでした?」     
ステラさんは、繊細な笑顔で答える。
「素晴らしかったわ、あれこそ恋、想うことの本質ですね。」
わたしには全くそうは思えなかったから、わたしはすっかり感心してしまった。
「では、あの、シラノに何か、ちょっと、励ましの言葉でもかけていただけないでしょうかね。彼、いい作品を作るわりに、本当に自信がなくて。パーティを開くってだけで卒倒しそうな始末ですよ。ステラさんから何か誉めていただければ、ちょっとは自信が付くと思うんです。」
ステラさんは、ちょっと驚いた顔をした。それから、きれいな細作りの顔に、砂糖菓子のように繊細な笑顔を浮かべて、きっぱりと云った。
「残念だけれど、それはできません。」 
「でも。」
わたしが云おうとするのを、ステラさんは口に付けたシャンパンのグラスの上から、視線で押し留めた。気の強い青年のような眼差しで、わたしはなんだか一瞬、「青い悪魔」の飛行機乗りが本当に目の前にいるような、ちょっと奇妙な気分に襲われて、押し黙った。ステラさんはそれを宥めるように、女の人の優しい笑顔に戻って云う。
「ねえ、ハムレッティさん、私は全部、ジョンから聞いているんです。あの方の最初の詩集が出たとき、ジョンが私に本をくれて、云ったんです。従弟のシラノはあなたを崇拝しているけれど、意気地がないから、自分で献呈するには随分時間がかかるだろうって。ジョンがくれたのは椿姫を題材にした詩で、ごく小さな本でした。ピンク色の絹張りの表紙には、きれいな白い椿が描かれていましてね、可愛いなとは思いましたけど。正直云って、中身の詩を読むまでは私、シラノさんのことはどうでもいいと思っていました。私を愛する殿方は沢山いますからね。それに、詩を書いてくださる方も中には居るんです。でも、詩を読んで分かったんです、このくらい愛してくれる方はいないでしょう。それで、ジョンからでなく、直接ご自分で私に本を渡して下さいねと、と云うのを表すつもりで、最初の出版パーティの時には、白い椿を胸にさしていきました。でも、駄目でしたね、渡してくれません。それどころか、挨拶もしてくれないんですよ。それから私は、毎回そんな風にして、何かしら関係のあるものを持っていくのだけど、一向に駄目なんです。そのうち、あの方が好きなのは本当に私なのか、よく分からなくなりましたし、もしかしたら、私じゃないから私を避けるのかもしれないとも思うようにもなりました。私の姿を見ると真っ青になって飛び出していくので、もしかしたら嫌われているのかもしれません。本当のところをジョンに聞こうにも、いなくなってしまいましたしね。それでも、まあ、賭けのような気持ちで、待っているんです。だから、私から挨拶はしないんです。でも、このことは秘密にしておいてくださいね。賭けに負けるたら、きっと悲しくなる。」
いい終ると、ステラさんは寂しそうに微笑んだ。 
「いつの間にか、私の方が青い悪魔に魅せられてしまいましたわ。本当に、私自身があの飛行機乗りなんです。いつ届くとも知れない、あるのかどうかもわからない、空の天井に向かって飛び続けているんですよ。」
わたしは、是非ともこの台詞をシラノに聞かせてやりたいと思ったが、生憎、そこにあったのはジョンの頭骨だけだった。
 案の定、シラノはわたしが聞いた台詞を繰り返してみせても、「礼儀正しい方だから」を繰り返すばかりで、納得しなかった。とはいえ、聞いた話を全部話すのも、秘密にすると云う約束破るようで、具合が悪い。それで、わたしたちは一計を案じて、シラノを倶楽部から追い出す事にした。せっついて新作を書かせると、またパーティを開き、倶楽部員の他には、ステラさんしか招待しなかったのだ。これなら、どちらから声をかけるということもあるまい。それでシラノは、新作の「涼やかな星」を、真っ赤になってどもりながら、きらきらとした星のモチーフのティアラをしたステラさんに手渡した。
「ご迷惑でなければ、僕の詩を受け取ってください。」
それに対して、ステラさんはシラノの詩を引用して、
「詩が愛であるのなら、私の左指に飾る星はどこですか。」
と、微笑んで云ったので、シラノは宝石店へ飛んでいった。後日、宝石店から倶楽部宛てに、「婚約指輪のお求めは営業時間内にお願い致します。」と云った内容の苦情が届いた他は、全てが予定通りだった。   

09. 「黒い貴婦人の騎士」

 「黒い貴婦人の騎士(Dark Lady’s Knight )」は、「嘆く独身者倶楽部」でも、若い世代に絶大な人気を誇る会員だ。倶楽部のなかでもいっとうのハンサムで、その肌は日に焼けてあさ黒く、広い肩幅に確実に割れているであろう腹、背はとても高いというほどではないが、とにかく均整のとれた素晴らしい体格をしている。そして、いつもふらりとやって来ては異国情緒あふれる煙草入れだとか、そのなかに潜ませた「おっ、こいつは見ちゃいけない」品だとか、先週巻き込まれた事件の裏事情から荒々しい冒険譚だとかで、倶楽部の若い連中を魅了していた。「嘆く独身者倶楽部」には恋人の定まらぬものや、中には恋人を恋人として認めようとしない変わりものもいたけれど、その中でも特殊な恋人を持ったのが、この、「黒い貴婦人の騎士」だ。ふっつりと顔を見せなくなったと思ったら、思い出したように戻ってくるので、よもやついに「恋人」と結ばれたのではあるまいかと、倶楽部員としてはひやひやさせられる。
 「黒い貴婦人の騎士」は登場の仕方からして、強烈で印象的だった。わたしが、思春期真っ只中の頃のことだった。わたしは、いつものように倶楽部にのんびりとくすぶっていた。その日は朝のうちだったせいか倶楽部には人が少なくて、眠たげな空気が倶楽部の広い部屋全体に充満して、ちらほらいる会員に欠伸を強要していた。突然、大きな音をたて、扉を肩で押し開けて入ってきた男がいた。ガタン、という音で皆の寝ぼけ眼はいっせいに扉に向けられ、そこで広い肩で息をしている男の姿に眠気を追い払われた。男は上着も着ていない泥まみれのシャツという姿で、いったん後ろを振り返り、それから部屋へ転がり込んで、すごい勢いで扉を閉める。そして、手近にあった椅子をその扉の前に投げると、
「裏口はどこだ!」
と叫んだ。生憎、裏口は数年前に運び込まれた本棚に隠れてしまっていたから、唖然としつつも、会員のうちの数人が、ぼそぼそと、ない、と告げた。その間も、男はこの部屋唯一の出入り口の前に椅子を積んで簡易バリケードを作っている。それで、聞こえなかったろうと思ったのか、「思いつきのロメオ」が、少し大きな声で云った。
「無いんだ、その本棚のうしろになってる。」
「なんだって、ええ、畜生。仕方ない、みんな伏せてろよ。」
男は叫び、それから部屋の壁にかけてあった鹿の剥製に向かって、突然取り出した拳銃で銃弾を数発打ち込んだものだから、伏せるどころか、会員の数人は卒倒した。ついで、それを合図にしたかのように、どしん、どしんと何かがバリケードの向こうに隠れた扉にぶつかる音がして、それがやぶられる。そして、どこぞの民族とも得体のしれない、奇妙な衣装の連中が倶楽部になだれ込んできた。男は何か悪態らしき言葉を叫ぶと、その内の一人の足を撃った。そして、そいつにの向こう側にいた覆面に体当たりを食らわしてから、また弾丸のように飛び出して行った。追っ手達は何やら聞きなれない叫びをあげて、それを追い掛けた。足を撃たれた男も、少し遅れつつも絨毯に血を残したまま、それを何か叫びながら追って出て行った。後には、カーペットの上の血だまりと、卒倒した会員数人が残された。       
 数日のちに、あの男が新聞に載っていた。我が国のスパイが他国の危機を救った、と云うような見出しだった。どこぞの王権相続に関するいざこざを、うまく立ち回って解決したらしい。しかし、最後は市街地を撃ち合いながら走り回ったらしく、秘密裏に処理されるべき一件が、すっかり明るみに出てしまったようだ。
「ああ、確かにこの男だ。随分としっかり写真を撮られたもんだな。見てみろ、映画スターのようにポーズまで決まってるじゃないか。」
そう、新聞を手にした「思い付きのロメオ」が云うと、わたしたちはそれを取り囲み、勝手な議論を始める。
「いやあ、本当にスパイっているもんなんだねえ。」
そう感心したように呟くのは、新聞記事の男が発砲したときに、卒倒こそしなかったものの腰は抜かした「鼻なしのシラノ」だった。彼はその後、震えながらも失神した会員のに 介抱にずいぶんと尽力したことも、彼の名誉のために付け加えておこう。
「ここにも来たんだろ、見たかったなあ。」
多少、血気盛ん過ぎるきらいのある「死にたがりの(deathwish)アドニス」が、ロメオの手にした新聞を覗き込みながら溜め息をつく。それで、わたしは少し良識人ぶってみる。
「でも、街中で撃ち合うなんて、感心しないなあ。誰かが怪我をしたらえらいことじゃない。」
「それは彼の失策じゃないんだよ、ほら、ここに書いてあるじゃないか。」
アドニスがロメオの新聞を引っ張りながら指を指す。
「それでも、僕はハムレッティ君の意見に賛成だな。銃は街中で発砲すべきものではないよ。」
ロメオの正面に座っていたシラノは、口調が諭すように優しくいう。アドニスはシラノの詩どういうわけか好きだったので、普段から一目置いていることもあり食ってかかるわけにもいかず、少し消化不良のような表情を浮かべる。
「で、扉は?銃痕は?」
「ないよ、扉は撃ってないもの。バリケード破るときに外から蹴ったみたいで、外側はちょっとへこんでるけど。塗装がえらく剥げてるけどね。」
「あのへこみはおととし、ファエトンが自転車で突っ込んだ痕だよ。じゃあ、撃たれた鹿は?」
「随分と丈夫な扉だなあ。」
「それより、鹿は?」
「わかんないよ、誰かが片付けちゃった。」
つまんないな、とアドニスがつぶやき、少し沈黙がながれる。そして、それまで熱心に記事を読んでいた「思い付きのロメオ」が、半分独り言のように感想を述べる。
「しかし、正体がばれては引退だな。残念じゃないか。」
すると、ちょうど皆の珈琲のお代わりを持ってきていた倶楽部付きの執事が、
「しかし、絨毯の代金を請求できるというものでございます。」
と、きっぱりと云った。彼は、絨毯と扉の塗装が台無しになったこの一件以来、えらく不機嫌だった。聞くところによると、例えばこうやって珈琲なんかを持ってきてくれていた侍従が、事件のせいで暇を取ってしまって、なかなか後任が決まらないのもあったらしい。いずれにせよ、彼がわたしたちの会話に、抗議以外の理由で口を挟むのは珍しかったから、わたしたちは顔を見合わせた。きっと、新聞にアイロンをかける間に、記事にはすっかり目を通したのだろう、彼は不機嫌ではありながも感情をきれい包み隠して、お天気の話でもするかのように品よくいう。
「どなた様の過失からであろうとも、この倶楽部の絨毯には無関係でございます。」
そして、我々一同から、うん、とか、まあそうだ、という曖昧な同調を引き出すと、にっこり微笑んでから、一礼して立ち去った。アドニスはそれから、嬉しそうな顔をして絨毯に出来たという血だまりの跡を探し始め、わたしは、あの執事は少しばかり堅物だが、そのくらいがこの倶楽部にはちょうど良いな、と考えた。この執事はどういうわけか撃たれた鹿の剥製に関してはこだわりは無かったらしく、きっちりと扉の塗装と絨毯の代金だけを請求したらしいと聞いている。そうして、この絨毯代がきっかけで「黒い貴婦人の騎士」は「嘆く独身者倶楽部」に入会することになったのだ。わたしが思うに、執事はそれをいたく後悔していることだろう。       
 数日の後の宵のことだった。その男はまた突然に、倶楽部の扉を肩で押して入ってきた。そして、彼はまた、どこぞの民族とも分からない連中を連れていたが、しかし今度は若干衣装が違う。そして、衣装も違えば立場も違うらしく、今夜の彼らは追っ手ではなかった。倶楽部の会員たちが口を半ば開けてその一団を観察している間に、男が彼らに、何語だか見当も付かない言語で指示をだした。すると、あっと云う間に不思議な衣装の一団は倶楽部の会員たちを席から立たせて部屋の隅に追いやり、全ての椅子や家具類は外に担ぎ出し、絨毯はひっぺがされ、室内はもぬけの殻になった。それから、男がまた何か云うと、今度は上等の東方風の絨毯が一面に敷き詰められ、それから、家具類がきちんと元の通りに配され、部屋の隅でびくついていた会員たちも席まで運ばれてもどされた。人足たちの作業は完璧で、そちらにも気をとられたが、それより驚いたのはこの絨毯だ。それらがこの上なく素晴らしい品なのは一見して明らかで、わたしはこんなに大きく、美しく色鮮やかで柔らかい絨毯を他に見たことはない。男は、家具が元通りしつらえ直されるのを見ると、ふと何か思い出したらしく、おそらくは東方の言語で何事かを叫んだ。すると裏口を塞いでいた本棚は移動され、それが済むとまた、彼は満足そうに笑って頭領とおぼしき人物と握手を交わして分厚い封筒を渡し、人足たちを引き上げさせた。
 それから、わたしたちが見守るなか、彼は上着を脱いでその辺りにの椅子に放った。そして、部屋の中央のソファに大またに歩み寄り、どっかりと座ると、足を組み、煙草を吸い始めた。どうも、絨毯の弁償という用は済んでも、まだ帰る気はなさそうだ。彼の煙草入れには何やら爬虫類の皮が使ってあるが、何故か玉虫色に鈍く光っている。そして、煙は紫がかった渦を巻き、不思議なシナモンに似た臭いがした。男は、どっかりとソファに座ったまましばらく室内を眺め回していたが、やがて朗らかにこう云った。
「なかなか良い倶楽部じゃないか。俺も仲間にいれてもらおう。」   
そうして、わたしたちに微笑みかけ、満足そうに煙草を吸い続けた。こんな時、勇気があるのが「思い付きのロメオ」で、真新しい絨毯をおそるおそる踏むと、それからしっかりと両足を踏ん張って、断固抗議した。
「君はここで何をしたのか忘れたのかね。倶楽部を血の池にしかけた奴に会員資格はないぞ。用が済んだのなら、早く出て行きたまえ。」
その声は多少上擦ってはいたが、なかなかの迫力だ。だが、百戦錬磨の元スパイには、感銘を与えなかったようだ。男は、にやりと笑って灰皿を引き寄せながら、
「血の池にしないように射殺しなかったんだ。お陰で面倒なことになった。が、まあ、いいじゃないか。お互い水に流して、仲良くやろうじゃないか。」
と、澄まして云い、「まあ、座りたまえ。」と、勧めるものだから、ロメオは意地を張らないわけにはいかなくなった。
「君が出て行くの見るまでは座らん。」
そして、ちょうど長老連中が留守にしていたのもあり、留守を預かる責任を感じていたのもあったろう、もう一度、断固として云う。
「この倶楽部は、麗しき恋人を静かに想い慕うための崇高な倶楽部なんだ。君みたいな冷血漢の死人製造器の来るところじゃない。」
だが、ロメオはいいながらも、どうも興味があるらしく、男の一挙一動を窺っている。その間に男は、シナモンの匂いのする煙草を咥えながら、ポケットから小さな包みを取り出している。
「だいいち、こんな会じゃ、君も退屈するだろう。何だね、それは。」
男は、面白そうにロメオを見上げながら、小さな包みを手でもてあそんでいた。そして、ロメオがその包みに気を引かれ、黙ってしまうまでは何も云わなかった。
「ふむ。恋人かね。」   
ロメオの関心を引いたとはっきりすると、男は煙を吐き出しながら云い、小さな包みを開いた。中から転がり出てきたのは、一つの指輪だった。
「なんだね、うす気味悪い指輪だな。」
ロメオが、表情に悪趣味の断罪を表してしいたのも無理はない。指輪には、愛らしくもないが、どこかひょうきんな髑髏が、歯を向き出して笑っていた。わたしはつい、それを見て、普段の控え目さを忘れて、倶楽部の隅から云う。
「メメント・モリですね。けっこう古いんじゃないですか。」
「よく知ってるじゃないか。」
男は、倶楽部の隅のわたしを見つけると、骸骨に負けず白い歯を見せて笑う。噛みつかれたら痛そうな、素晴らしい歯並びだ。それでわたしは控え目さを取り戻し、内気に笑って、もう少し隅に引っ込んだ。この男が倶楽部に受け入れられるにせよ、受け入れられないにせよ、責任の一端を担うのはごめんだ。男はわたしが引っ込んで、それ以上の説明をしないのを見てとると、自分で講釈を始めた。
「まさかメメント・モリの意味を知らん奴はおらんとは思うが、一応、死を想えとの軽口が流布していた時代があったとは云っておこうか。そうだよな、そこの血色の悪い青年君。ところでな、これは俺がさる美しい女から受け取った物だ。この骸骨を持ち上げると、ほら、ルビーで出来たハートがお目見えする。」
そう云って彼が、ロケットになっていた白いエマーユの骸骨を持ち上げると、そこにはハート型にカットされたルビーが台座に鎮座している。それを眺めるために、彼の回りには倶楽部員がそろぞろと集まり始めた。とりあえず、彼が倶楽部の連中の好奇心を警戒心に打ち勝たせたと云って良いだろう。男は、周囲に集まった倶楽部員の好奇心を、沈黙によって十分にかきたてておいてから、語り始めた。
「これをくれた女に出会ったのは、俺がそれまでした仕事の中でも、いっとう危険な仕事の最中だった。北の国の真冬、辺りは一面真っ白い世界だった。女は毛皮の襟巻きに白い顔を取り巻かれ、それは美しく見えたものだ。はじめて出会ったとき、彼女は橇に乗っていて、故意にか偶然にか、俺をひき殺しそうになった。金の髪に薔薇の唇、その目は、氷のようにグレーともブルーともつかぬ色で冷たく燃えていた。彼女は敵と味方の間の、微妙な立場に居る女だった。そして危険で大胆で、お陰で俺は何度も死にかけた。橇犬を撃ち殺されて、雪原で立ち往生したこともあったし、凍死しかけた俺を凍った湖から引きずり出すと、まるで、俺が死のうが生きようが興味はないといったぞんざいな様子で暖炉の前に放り出して去ったこともあった。そうだな、その時は仲間が俺を見つけ介抱していなかったら、死んでいたかも知れん。その時のことだ、激しく震えながら仮死状態から目覚めると、この指輪が薬指にはまっていた。彼女はたびたび、死ねと云わんばかりに俺を危険な状況に追い込み、それでもたまには助けたり、役に立つ情報をよこしたりした。無論、俺は猛烈な恋をした。だから、仕事に片が付いた時、俺は彼女を迎えに行った。
 それは夏のはじめの暗い夜、南国の片田舎だった。湿った空気は咽るような霧雨のせいだった、むっとする花のにおいがした。霧雨が雨に変わった夕刻、俺は彼女が身を潜めていると云う、小さな田舎屋を訪ねたんだ。ところが、だ。」
「死んでいたんですね。」
周りに集まった倶楽部員の誰かが云った。男は、ふっと片頬で笑ってそれを制した。
「いいや、そうじゃない。扉を開けた彼女は、怪訝な顔をしていた。雨に濡れた帽子の下の、俺の顔を不安そうに見ていた。足元には小さな子供がまとわりついていた。奥から、親切そうな亭主が出てきて、俺に中へ入るように勧めた。俺はさっぱり事情が掴めなかった。」
「彼女に騙されたんだ。」
先刻とは別の誰かが云った。男は、それには肩を竦めて見せた。
「いや、そういう訳じゃないさ。ただ、彼女は彼女じゃなかったのさ。女は困ったような親切な笑顔を浮かべていた。瞳の冷たい煌めきは消え、優しげな妻と母親の役に満足していた。忙しく立ち働いて俺達の食事の給仕をした。俺の知っている面影は既に跡形もなく、亭主は彼女が台所に消えている間に、こんな話をした。妻はここ数ヶ月失踪していて、帰った時にはその間の記憶が全くなかった。帰ってきてはじめに云ったことは、買い物に出たのに、買った筈の牛乳と芋がない、だった、と。俺は彼女を見ていて、納得した。彼女は別人だった。それで、俺はその数時間後には立ち去った。雨は降り止んでいなかったが、俺は構いやしなかったさ。」
「じゃあ、未だにその女性の消えた人格を忘れられないと。」
そういって状況を整理しようとしたのは、たぶん「哀れなパラモン」の声だったと思う。
「消えた人格への恋か、会員資格はあるんじゃないか。」
「思いつきのロメオ」が、珍しく建設的な発言をしている。ざわざわと、会話が次第に議論めいて膨れ上がりそうになるその直前に、男はどこか自嘲的に笑いながら掌を振って、関心を引き戻すのに成功した。
「ああ、そんなところだ。だが、この話にはまだ続きがある。俺は次に、黒髪の東洋人に恋をした。あの広大な、乾いた大陸のど真ん中での話だ。俺はその女を知らなかった。だが、彼女がはじめに俺に云った言葉は、お久しぶり、だった。重ねて云うが、俺は彼女も、他の東洋人もそれまで、まったく知らなかったんだ。だが、俺は彼女に何か見知ったものを感じた。彼女は、あの北国の女と同じ目をしていた。その砂漠の夜闇のような瞳の中に、冷たく煌く星があった。彼女は俺に、指輪をまだ持っているかと聞いた。謎かけのような会話が会う度に続いた。俺はその謎に魅せられていった。そして、彼女は不幸にして死んだ。辺り中が血の海と云う、壮絶な最後でね、俺は弔いに油をまいて火を放った。謎のなかに置き去りにされたようでね、悲しかったとも云える。だが、俺はその翌朝には、違う女と昨日の会話の続きを話していた。大陸を横断する汽車のコンパートメントの中でだ。短い髪で眼鏡をかけた、背の低い女だった。彼女は消えたが、俺は探さなかった。
 何年か経ち、忘れかけた頃、やはりそいつは現れた。今度は黒い帽子にヴェールの、中年の未亡人だった。そいつは何にでもなれた、褐色の肌の女から、厳寒の地の娘、燃えるような赤毛。十代の少女から、年寄りといってもいい女まで。そいつは誰にでも乗り移り、世界一の美女にしてしまう悪霊なんだ。そしてある時、ようやく名乗ったその名前は、mortis、死というのさ。だから俺の恋人は死神だ。」
そう云って男は語り終え、指輪の歯をむき出した骸骨にいとおしげにキスをすると、それからそれを、左手の薬指にはめた。
 倶楽部は沈黙に包まれた。好奇心に駆られて男を見つめていた倶楽部員たちは、やがて、奇妙な顔をしてお互いに視線を交しあった。ちょっとした、気まずい雰囲気が出来あがっていた。なんというか、薄ら寒いような気分だ。皆、少しばかり、怖いのだ。「鼻無しのシラノ」が、死神が闖入してくるのではないかと不安になったのだろう、気味悪そうに入り口の方を眺めている。だが、男は堂々としたもので、薄笑いと云うには少しばかり逞しい微笑みを浮かべて、新しい煙草に火をつけている。普段ならこういった不測の事態には長老連中が対応してくれるのだが、生憎、その日は長老会の湯治旅行の期間中に当たっていた。「思い付きのロメオ」は留守を預かる責任を感じているのか、黙ったままだ。それで、勇気を出してはじめに口をきいたのは、「破れ籠のピンカートン」と云う男だった。
 「しかしね、君、それじゃあ、二度と会えんという訳でもなかろう。なんというか、あちらさんのほうでも君を好いていないわけでもなさそうであることだし。」
すると、それまでは誰も近寄れない男の中の男、一匹狼にして情熱的な恋人、といったような雰囲気をかもし出していたこの男は、ちょっと傷ついた少年のような顔をした。
「わからん奴だなあ、俺はスパイを廃業したんだぞ。もう、死神とタンゴを踊るような機会には恵まれないんだよ。」
「しかし、人間いずれは死ぬのであるし。」
「のんべんだらりと日向ぼっこしてぽっくり逝くのでは、死神を恋することになんかならん。死と運命、銃弾と刃をかいくぐってこその恋の駆け引きなんじゃないか。」
「しかし、それにしたって。」
ピンカートンがなんとか反論を続けようとしていたその時、まったく突然、倶楽部の明かりという明かりが全て立ち消えた。
「おい、明かりが!」
真っ暗になった倶楽部は、しんと静まり返った。ちょうど話題が話題であったため、空気は凍りついていた。皆、冷たい目をした死神の姿を思い描いていたのだろう、静けさには恐怖が漲っていた。それから、突然、何かが倒れるものすごい音がし、誰かがもみ合う音が聞こえはじめた。当然のことながら、倶楽部は恐慌状態に陥った。皆が出口を求め、悲鳴が上がり、様々なものが暗闇の中でひっくりかえされる音がする。
「出口はどこだ!」
「死神だ!あの男が死神を連れてきたんだ!」
「落ち着け!」
そう叫んだのは、多分、後に「黒い貴婦人の騎士」とあだ名されるようになる、あの男だたと思われる。その迫力ある声に、再び倶楽部は静まりかえった。
 それから、数秒の後に、再び明かりがともったとき、倶楽部員たりは、すっかり驚いて言葉を失ってしまった。倶楽部の真ん中で、「黒い貴婦人の騎士」が、見知らぬ屈強そうな男を組み伏せているのだった。見知らぬ男はなおも暴れ続けていたから、「黒騎士」はそれを手近な灰皿で殴りつけて、卒倒させた。
「おい、見ていないで誰か手を貸せよ。だれかこいつを縛り上げろ。」
倶楽部の中でも若い連中が、嬉しそうにその役目を買ってでた。その作業に夢中になっている若者以外は恐らく、ジョンの骸骨がそのすぐ傍に転がっているのを怪訝に思ったはずだ。真新しい絨毯の上に、ジョンの白い頭骨が不当にも投げ出されている。黒騎士は、ジョンの頭を拾うと、元の位置に、つまり倶楽部の隅の全身骨格の上にすげなおした。思い出したように、倶楽部にはざわめきが戻った。「思い付きのロメオ」が、いまだ蒼白な顔で問い質す。
「おい、あの縛られている男は一体、誰なんだ。この騒ぎは一体、何なんだ。」
黒い騎士はジョンの傍らで振り返り、呆れたように云った。
「知らんのか、君達は呑気なもんだな。このジョンの頭骨はな、欲しい奴には喉から手が出るほどに欲しいものなんだ。」
「ええと、まあ、ジョンは人気があったからな。偉大な詩人だった。」
ロメオはそうは云うものの、この強盗騒動がいまいちジョンに結びつかないといった様子だ。
「違う。」
黒騎士は、片笑いをし、ロメオが何か云おうとするのを手振りで押しとどめた。
「人気があるのは、ジョンの開発した変身法さ。半ば呪術めいているがな、これを軍事的に応用したい奴は居るのさ。それで、この頭になんかの化合物でも残ってないかと、盗もうとしたってわけだ。」
「そんな馬鹿な。応用法なんて、あるわけがないですよ。」
わたしは騒ぎの間中テーブルの下に居たので、その発言もテーブルの下から這い出しながら行われたが、ジョンの変身自体を見たわたしとしては、云わずにはおけなかった。
「だって、ジョンは愛する女性のために変身したんですよ。」
「愛はともかく、俺もそう思うがね。詩人の骸骨なんて調べてどうなる、耳糞くらいしか出ないだろう。だいたい、方法が科学的だったのかどうかも疑わしいしな。しかし、思いついたら試してみたいのが悪人の性ってやつだ。これからも度々、こういうことは起こるだろうな。どうだね、こんな物騒なものを倶楽部は抱えているんだ。少しは俺を入会させたくなったんじゃないか。」
これにはさすがに、「思いつきのロメオ」も沈黙してしまった。それで、男は、思い出したように、上着を取り上げてそのポケットを探った。また煙草でも取り出すのかと思ったら、出てきたのは一通の手紙だった。男は、それをテーブルの上に投げ出すと、云う。
「そういえば、紹介状もあるんだがね。」
無造作に投げ出された書面を手に取り、広げると、「思いつきのロメオ」は、これ以上驚かされることがまだあったのかといわんばかりに、目を丸くした。
「これじゃ、長老連中でも断るわけにはいかんじゃないか!」
それは、どうやら、女王陛下からの紹介状であるらしかった。ただし、公式の書面ではなく、個人的に使う私信用の便箋で、上品だがつつましい印象だ。だが、そこに記されたサインと印章は、あくまでも女王陛下のものだった。
「そうそう、女王陛下はその頭骨のファンだとか云うしな。何と云っていたかな、そう、わが国でも随一の詩人の頭骨が盗難の憂き目に会うのはまことに嘆かわしいことだとか。それで、第一線を退かざるを得なくなった俺に、この倶楽部の骸骨の御守りを頼んだってわけだ。俺としては、もっと危険な仕事が良かったんだがね。」
男は、一仕事終えた、といった風情でまたソファにどっかと身を投げ出し、
「まあ、この様子じゃあ、意外に危険かも知れん。」
と、嬉しそうに云って、逞しく微笑み、また煙草に火を点けた。どうも、彼はよほど早く死神に会いたいようだ。
 その後、彼の入会は正式に決定し、あだ名もロメオの考えた「黒い貴婦人の騎士」に落ち着いた。これなら、「黒い貴婦人」が死神でも、また旦那様が亡くなって以来ずっと喪服で通されている女王陛下でも意味が通る。そうして、倶楽部員の多くは、その名で女王陛下を思い出すたびに、死神の恐怖を忘れて、少しばかり誇らしい気持ちになれるのだった。また、倶楽部員にとっては幸運なことに、そして「黒い貴婦人の騎士」にとっては不幸なことに、その後、ジョンの頭骨を巡ってはさほどのトラブルは起こらなかったから、やがて「黒い貴婦人の騎士」は頭骨の御守りには退屈したと見える。冒険家となり、荒々しい自然やら太古の遺跡などをほっつき歩くようになった。そして、その持ち帰る奇妙な土産物が倶楽部を飾ることになったのだが、これがどうも、倶楽部付きの執事は気に食わないらしい。元々、鹿の剥製からしてあまりご執心の様子でもなかったのだから、やはり、巨大な熊の毛皮やら呪術用の薬壷やら、色とりどりの房のついた仮面や、天井まで届くパンの木などは好きになれないのだろう。しかし、神出鬼没の「黒騎士」は、たいていの場合不在だったか、居ても執事の抗議など受け付けないかのどちらかだったから、かわりに、苦情はいつも「思いつきのロメオ」のところに行くのだった。
「仕方が無い、俺が入会させたんだから。」
ロメオは、少しばかり参った様子で云っていた。
「しかし、最近、俺はたばかられたんじゃないかと思うんだ。あれ以来、ジョンの頭を狙う連中も見ないし、だいたい、やはりどう考えたって詩人の頭骨を欲しがるのは詩人か読者か研究者か、どちらにしてもおとなしい連中に決まってるんだ。外国のスパイなんて、荒っぽい連中の欲しがるもんじゃない。俺が思うに、あれは演出だったんじゃないかな。本当は、女王陛下と、長老会と、黒騎士の間にはとうに話が付いていて、一幕演じたんだよ。でなかったら、いつもはうろうろしている長老連中が、あの日に限って揃って湯治旅行なんてことがあるかい。あの厄介者を入会させるのに、責任を俺に押し付けたんだ。」
「でも、何でそんなこと。」
「決まってるじゃないか、ここの執事がうるさいからだよ。」
ロメオはわたしに答えると、溜め息をついて、その膝の上で歯をむき出している仔鰐の剥製を撫でた。仔鰐は「黒い貴婦人の騎士」の土産にしてはおとなしい方だったが、倶楽部に置くのを拒否されたらしく、仕方なくロメオが貰い手を捜していた。
「でも、いいのさ。俺は奴が気に入っているんだ。」
そう云って、「思いつきのロメオ」は男気を見せると、だれか仔鰐の剥製の欲しいやつは居ないか、と、声を張り上げるのだった。その声を聞いて、あの時、「落ち着け」と叫んだのが、もしかしたらロメオだったのではないかと思ったのは、わたしの考えすぎだろうか。

10. 「ふられっぱなしのチェルビーノ」

 わたしの所属する「嘆く独身者倶楽部」には、年寄りから少年まで幅広い層の年代のものがいる。その中でも、いちばん若いのが「ふられっぱなしのチェルビーノ」で、まだ声がわりもしていなければ、髭も生えていない。それでも、このチェルビーノはわたしがこの倶楽部の会員になった頃の年よりは少し上だ。だから、わたしの最年少記録を破ったものはまだいない、と云うのがわたしの自負だ。
 それはそうと、この「ふられっぱなしのチェルビーノ」だが、ひとの奥様ばかり好きになると云う悪い癖がある。特に好んで人妻を選んでいるわけではないのだろうが、失礼ながら、好きになるのがどれも妙齢の女性と云うには少しばかり年齢が行きすぎているのであって、要は、分かりやすく云えば、年増好みなのだ。そのくらいの年齢の、しかも美しい女性には、大抵の場合、既に立派な旦那様がいる。その上に、チェルビーノは子供らしい朗らかな魅力にはたっぷり恵まれているので、大抵の奥様は、愛らしい子供を得たような気になって、恋文の代わりにお菓子、秘密の指輪の代わりに仔犬なんかを送って寄越すのだった。それでも本人は立派な愛人気取りで、頬にキスをくれた奥様の名前をリストにしている。こんな風に可愛らしいチェルビーノだったから、倶楽部の会員は喜んで彼をからかったりたきつけたりしていた。しかし、事情を知っている一部のものは、約一名を除いては、決して彼をからかわなかった。
 チェルビーノが年齢の高い女性を慕うのは、彼に母親がいなかったからだ。まだチェルビーノがよちよち歩きだった頃、花のように美しかった彼の母親は、不幸にもパーティの最中、自分の屋敷で火災のために亡くなったのだった。幼いチェルビーノを探しに燃え盛る屋敷に飛込んだ両親の内、生還したのはチェルビーノを抱えた父親だけだった。屋敷は全焼し、数人の犠牲者が出たという。これを知っていれば、心ある人物なら、とてもからかう気にはなるまい。ところで、ここに約一名、心ない人物がいた。ある日、チェルビーノが嬉しそうに、軽い足取りで倶楽部に入ってきた時のことだ。
「やあ、チェルビーノ。昨日はママと買い物だったのか、アーケードで見掛けたぞ。なんだ、新しい乳母車でも買ってもらったか。」
黒い貴婦人の騎士(Dark Lady’s Knight )」が云った。チェルビーノをからかうのを、退屈な日常の素敵な暇潰しだと考えているそうだ。彼にこの楽しみを教えたのは「老アルフォンゾ」だと聞いている。
「違うよ。」
チェルビーノは澄まして答えた。チェルビーノはこういう問掛けには大抵の場合、奥様の名誉がどうこうと真っ赤になって怒り出すのが決まりだが、どういうわけかこの日の彼には余裕があるようだった。       
「奥様はね、僕に、どの帽子がお似合いになるか選ばせて下さったんだから。僕は断然、緑をお勧めしたね。瞳がはえるからね。」
チェルビーノはそう取り澄まして云って座ると、手にした林檎ジュースを気取って啜った。
「なんだ、つまらん、目の色で選んだのか。ありがちだな。で、お前のママは云うとおりのものを買ったのか。」
「僕が選んだ色のものを買ったよ。いいじゃないか、そんな事、どうでも。」
チェルビーノが控え目に云うのを、黒騎士は意地悪く掘り返す。
「ほう、じゃあ、ママは緑を買ったのか。」
「紫だよ。」
黒騎士は傑作だといわんばかりに笑いだし、隣にいたシラノとわたしも、笑いを押さえるのに懸命だった。
「うるさいな、いいだろう、被ってみたらそっちの色の方が似合ったんだよ。それに、奥様はママじゃない。」
ようやくに真っ赤になって怒り出したチェルビーノを、黒騎士は面白くなってきたといわんばかりにからかい続ける。
「ママじゃなかったら何なんだ、あの家にはお前と三つしか変わらない息子がいるじゃないか。」
「ママじゃない。奥様は僕をお友達だと云って下さる。」
「ほら、お友達止まりじゃないか。」
チェルビーノは、ここで何故か、勝ち誇った顔をした。
「お友達で十分だね、残念ながら、あの方はひとの奥様だもの。それに、僕には今、別に好きなひとがいるんだから。」   
「へえ、好きなひと。それはどんな方なんだい?」
これ以上からかわれるのも可哀想だと思ったのだろう、シラノが優しい口調で聞いた。
「それがね、」
チェルビーノは誇らしげにひと呼吸置いて云った。
「女の子なんだ。」
他の倶楽部員ならまだしも、これはチェルビーノとしては前代未聞のことだったから、わたし達は驚いてしばし彼をまじまじと見つめた。恋のはじめの紅潮したはにかみを湛えて、チェルビーノは得意気に質問の矢つぶてを待っていた。
 数時間の後には、わたし達はチェルビーノに連れられて、青い空の下にいた。良い天気で、空は申し分なく晴れ渡り、わたしたちは何故かに、緑の繁茂した雑木林のような場所を、苦労して歩いていた。目の前の小枝を払い絡み付く下草を踏みわけ、顔に張り付いた蜘蛛の巣を拭きながら行く。チェルビーノのと黒騎士だけは慣れた様子で振り返りもせずにどんどん進んで行くがわたしとシラノは髪と眼鏡についた蜘蛛の巣を気にしながらの行軍だ。と、やがて視界が開けると、たどり着いたのは明るい廃墟だった。崩れ落ちた壁が立ち並び、がらんとした感じで、遠くで小鳥の鳴き声が聞こえいた。あちらこちらにきれいな野生の花も見え、そこは廃墟は廃墟ながら、いきいきとした雰囲気を湛えて、平和だった。
「なんだねここは。まさかお前の姫君は宿なしなんじゃないだろうな。」
黒騎士が袖に付いた毛虫を払いながら云うと、チェルビーノの代わりにシラノが答える。
「近所の娘さんなんじゃないかな。このあたりには大きなお屋敷が沢山あるからね。」 
少し抗議の口調を見て取れるのは、たぶん、シラノが宿なしの少女だからといって悪く云うのは気に食わないと思っているからだろう。だが、チェルビーノはいつになく神妙な面持ちだ。くるくるとした髪に枯れ枝が絡み付いている。
「宿なしだかもよくわからないよ、それなら僕んちに来てくれるかもだから都合がいい。でも、もしかしたら、妖精か、幽霊かもしれない。」
黒騎士はそれについて馬鹿にしたような笑い声をあげたが、チェルビーノが「しっ、静かに。」と云うので、にやにやしたままに口をつぐんだ。チェルビーノは暫く、あたりを執拗に見回していたが、やがて、
「静かに。この陰へ来て。」
と囁き声で云って、近くの崩れた壁の陰に手招きをするので、わたし達はその比較的狭い陰に収まった。チェルビーノはわたし達の顔を見回して云う。
「いいかい、笑うのは結構だけど、何を見ても大声は出さないでおくれよ。ほら、あちらの壁の方。」
それで、わたし達は崩れた壁の左右から、四つの顔を覗かせて、チェルビーノの示した方をみたのだった。
 明るい午後の日差しが降り注いでいた。ずっと向こうの、崩れかけた大きな壁の前を、ゆっくりと空色の服を着た少女が歩いていた。少女は淡い茶色の髪を腰まで垂らし、物思いにふけっている様子で逍遥している。時折、何に対するでもなくうなづき、壁を見上げたり、立ち止まり、足元に落ちている金具のたぐいをしげしげと眺めたりする。遠目にも愛らしく、ふんわりとした雰囲気のある少女だ。だが、驚くべき事は、彼女が一歩足を進めるごとに、なんというか、そこだけに一点照明が当たるが如くに、昔の情景が蘇っていると云うことだ。わたしは目を疑った。緑の下草は彼女の足元でだけ美しい絨毯に換わり、彼女の背景にだけ、壁紙や壁に掛けられた肖像画が見える。おぼろながらも、その壁の手前には家具までが見えるのだ。つまり、少女の居るその周囲だけ、廃墟が、立派な館の姿に変わり、通りすぎれば元の廃墟に戻るのだ。
「何と云うことだ。」
シラノが呟いた。すると、遠く離れた少女にはその呟きが聞こえたわけはないのに、少女はふいに視線をあげた。その視線は中空をしばしさ迷ったかと思うと、突然、わたし達に向けられた。そして、少女は、突然駆け出していって視界から消えてしまった。
「ああ!シラノさん、黙っていてと云ったのに!」
チェルビーノは絶望的な叫びをあげると、それからシラノに食ってかかったが、シラノは責められていることは意に介する様子はない。彼は蒼白になって、ずりおちた眼鏡をなおしながら云う。
「チェルビーノ君、あれはいけない、きっと幽霊だ。」
「だから、かもしれないって云ったでしょう。」
チェルビーノはシラノの反応に驚いたようだ。しかし、シラノは青い顔のままで続ける。
「チェルビーノ君、ここいったい、何処なんだい、焼け跡のようだが。それも、元はかなり大きなお屋敷だったようだが。ここは、ひょっとして、」
シラノはそこで答えを求めて言葉を止めた。チェルビーノは答えにくそうに暫く黙っていたが、やがて、野鳩が鳴き終るのを待ってから、俯いてぽつりと云った。
「僕の昔の家だけど。」
「やっぱり。」
どういう意味かとわたしと黒騎士は顔を見あわせたが、シラノは溜め息をついて、急に優しい口調になって続ける。
「ねえ、チェルビーノ君、君は生前のお母様のお姿を覚えているかい?あるいは、肖像か何かで知っているかい?」
シラノの優しい口調は感銘を与えなかったようで、チェルビーノは口をとがらせて答える。
「しらないや。肖像は全部、火事で焼けちゃったもの。お母様の実家は外国だから行ったことがないし。」
それからシラノは少しばかり沈黙したので、チェルビーノは苛立ったように地団太を踏む。
「いったい何だっていうのさ。」
シラノがそれでも困ったように黙っていると、黒騎士がにやりとして云う。
「おや、わからんのかね。俺にはわかるがね。シラノは、チェルビーノ坊やが焼け跡でママの幽霊に恋をしたんじゃないかと気をもんでいるのさ。」
どうやら、黒騎士は自ら悪役を買って出たようだ。しかし、相変わらずにやけているから、優しさからではないのだろう。
「まさか!あれがママだっていうんですか。」
チェルビーノは大きな目をさらに大きくして、シラノをまじまじと見つめた。普段、味方をしてくれているこの人物の言葉を、信じられないと云った様子だ。
「いや、でも確かじゃないんだ。でも、昔、あの娘さんに似たご婦人を見たことあるんだよ。でも、そのご婦人が君のお母様だ云う確信はないのだけれどね、でも、多分、」
チェルビーノは、シラノが言葉を継ぐのを遮って、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ひどいや、みんなして馬鹿にして!」
何も云っていないわたしまでを皆にひっくるめてしまったのかは知らないが、チェルビーノは叫ぶなり駆け出して行ってしまった。野兎の如くに素早く草叢に姿を消し、わたし達は、小鳥達が元気よく鳴き交す緑の廃墟の中に取り残されたのだった。
 それで、仕方なくわたしたちは、帰り道がよくわからないまま、散策しながらそのことについて話し合ったのだった。黒騎士が慣れた様子で、時計と太陽の位置から方角を割り出し、戻るべき方向を示しながら云う。
「しかし、お前さんがなんでチェルビーノの母親を知っているんだね。」
「いや、知らないんだ。ただ、ある僕の知っているご婦人の仲の良いお友だちの輪の中に、チェルビーノのお母様がいたと云う話を聞いていてね。そういえば、随分昔に、よく似たご婦人を見た気がするんだよ。」
「へえ、シラノ君、君は社交界には疎いと思っていたがな。」
「だから確じゃないんだよ。それに、小さな女の子とご婦人では、やっぱり印象も違うし。」
云いながらシラノは木の根につまづくが、黒騎士は構いかけず、先に進む。
「でも、可哀想だけど、幽霊はまずいよ。」
シラノは汚れた膝を叩きながら云う。
 わたしはどちらかと云うと、その帰り道の間中、言葉少なだった。と云うより、押し黙っていたと云った方がいい。何もチェルビーノの扱いに対する抗議だとか云うのではなくて、考え込んでいたのだ。そんなことはよくあることだったから、二人はわたしを考え込んだままにしておいてくれた。   
 とはいえ、わたしが押し黙ったままでいたのには、考え込んでいた他にも理由があった。それは考えていたことに関連してもいるのだが、わたしはなんというか、ちょっとした事情があって、幽霊だとかその手の方向には多少目が慣れている。それで、要は、少女は幽霊ではないのではないかと疑っていたのだ。しかし、それはまだ疑いの段階であったから、シラノに反論するのもなんだと思い、黙っていたのだった。それで、その疑いを確信に変えるべく、わたしはあるご婦人の元を訪ねた。しかし、このご婦人は社交界に顔を出すのを止めていたから、あれやこれや苦労して、最終的にはパリスに頼み込んで訪問の約束を取りつけたのは、既に廃墟を訪ねてから一週間後の事だった。
 車で向かう折、わたしはその屋敷が、思った通りに、先日の廃墟からほど近い場所にあるのを確認した。通りすがる道の上、車の窓からは大きな雑木林と、その中の廃墟の端くれがうかがえた。わたしは、車か降りると、辺りを暫く見回してから、呼び鈴を押した。
 そのご婦人は、薄い紫色のドレスを着て、わたしを出迎えた。品の良い感じの人で、美しい栗色の髪に、白い物が混じってはいるが、目元の笑い皺がなんとも云えずチャーミングだ。
「こんにちは。パリスさんのお友だちなんですって?この頃はお客様も少なくて、十分なおもてなしも出来ませんけれど、お許しになってね。」
そう云ってご婦人は、わたしを応接間に案内した。わたしはお茶の準備がととのうまで、部屋の中を見渡した。応接間は綺麗に片付いていて、ロココ調の繊細で優美な雰囲気に仕立てられていて、なんだか花のような良い香りがする。大きく取った窓からは窓の下の薔薇がよく見え、その向こうの方は芝になっていて、それがずっと向こうの雑木林まで続いている。その雑木林の向こうに、例の焼け跡の廃墟があるのだろう。わたしが室内をひととおり眺め終わると、ご婦人はお茶と、皿に山と盛ったお菓子を勧めてくれた。
「甘いものはお好きかしら?家は女ばかりですし、お菓子が沢山ありますの。」
わたしはそれで、お菓子の山から小さなクッキーをひとつ頂戴した。それから、落ち着かなくて、もういちど部屋を見渡す。暖炉の上に幾つか、可愛らしい瀬戸物の置物が飾られ、その向こうには若い男性の肖像がかかっていた。一体、何から話し始めればよいのかわからなかったから、そこから始めることにした。
「いやあ、ハンサムな方ですね。旦那様の肖像ですか?」
するとこのご婦人の顔には、哀しげな影が差した。だが、すぐにそれは、晴れ間に一瞬落ちた雲の影のように消える。婦人は微笑みながら肖像画を見上げて云う。
「ええ。亡くなった主人です。見る度に思い出してしまうのですけれど。掛けておけば、娘が父の顔をよく覚えておけるでしょう。夫が亡くなったのは、娘の随分小さかった頃なんですの。」
わたしは、やはり娘さんがいたか、と思い、その話に食いつく。
「娘さんがいらっしゃるんですか。ご両親のどちらに似ても、きっときれいなお嬢さんなんでしょうね。」
「残念なことに、娘は私似なんですの。もちろん、ひとり娘ですし、可愛い事に変わりはありませんけど、できれば、少しは夫の面影も欲しかったですわね。」
やはり、思ったとおりだ。やはり、チェルビーノの小さな姫君は、このご婦人の娘さんだとわたしは確信した。実は、それを確かめに、わたしはこの屋敷を訪ねたのだった。
 わたしの推測では、シラノが云っていた、あの廃墟で見た少女に似たご婦人というのは、チェルビーノの母親ではなくて、このご婦人のことだ。きっと、チェルビーノの母親が亡くなったのと、このご婦人が社交界に顔を出さなくなったのが同時期だったので、二人を混同したのだろう。パリスによれば、このご婦人の旦那様も、あの火事で亡くなったようだというのだから、その時期が重なっているのも奇妙ではない。後は、それが事実かを確かめるだけだが、突然、旦那様は火事で亡くなったのかと問い質すわけにもいかず、また、理由もなくお嬢さんに会わせろというのも奇妙だ。
「面影ですか、そういえば、わたしも父によくそんなことを云われました。」
「そういえば、お父様はお元気ですの?昔、お会いしたことありますのよ。」
「ええ、とても元気ですよ、相変わらずの憂鬱質ですが。」
それから、話題は共通の知り合いの近況に移っていった。話がパリスの犬の悪口で盛り上がり、やがてそれが一段落した頃、どうやらご婦人はわたしの訪問の用向きを訝りだしたらしい。わたしがなかなか本題に入らないからいけないのだが、しかしどうやって切り出せばいいのかわからない。わたしが沈黙に困り果てて暇ごいを口にしようとした矢先に、天だか幽霊だかの助けが割って入った。執事が新たな来客の知らせをもたらしたのだ。
「あらあら、今日は珍しくお客様が多いわね。お通しして。」
その言葉を待つか待たぬかの内に飛込んできたのは、花束を抱えたチェルビーノだった。
「こんにちは、奥様!あれ、ハムレッティ。」
チェルビーノはわたしを見つけてもたいした関心もないらしく、そう云った後は奥様の手にご挨拶のキスをするのに全神経を集中させた。
「あら、妖精さん、人間にもお友だちがいらしたの?」
どうも、チェルビーノはこのご婦人には妖精と名乗っているらしい。
「ああ、そいつは幽霊です、青白いでしょう。それより、ねえ、奥様、僕、とっても素敵な芝居の券を持っているんです。こんな陰気臭い奴は放っといて、一緒に行きましょうよ。」         
どうも、先日の廃墟の一軒をまだ根に持っているようだ。ご婦人は、わたしに気兼ねしながらも吹き出している。
「ほほ、元気な妖精さんだこと。まあ、落ち着いて、あなたもお茶でもどうかしら。お菓子をたくさん用意してあるのよ。」
「いいけど、お芝居はご一緒してくれます?」
ご婦人は誤魔化すように笑い、それから、ちょっと困ったようにわたしを見た。どうも、行きたくはなさそうなご様子だ。旦那様が亡くなってからは、あまり社交界にも顔を出さないと云うことだし、落ち着いた生活をお望みなのだろう。それで、わたしはこう云ってみた。
「それなら、娘さんと三人で見に行かれは?」
これは我ながら素晴らしい発言だったと思う。ご婦人はこの助け舟に、いち早く飛び乗る。
「そうだわ、わたしでなく、娘を連れて行ってもらいましょう。どうかしら、妖精さん、ちょうど年も同じくらいだし、きっとおばさんと行くよりも楽しいはずよ。」
ご婦人はそう云うと、わたしに感謝の視線を一度投げてから、そそくさと次の間に消えた。その姿が見えなくなったとたん、チェルビーノは恨みがましい溜め息をつく。
「ああ、奥様。もう、娘なんてどうでもいいんだけどなあ。」
そうしてわたしを睨み付けるので、わたしは慌てて云う。
「チェルビーノ、何でこんなところにいるの。廃墟の姫君はもういいの?」
「なんだい、笑ったくせに。どうでもよくは無いけど、さ。おとついね、また僕のうちの跡に行ったら、そこで、ここの奥様に出会ったんだよ。きれいな方だったから、つい、ふらりと。」
それから十分かそこいら、わたしはチェルビーノのしつこい抗議に耐え続け、ついにその時が来た。ご婦人が、娘さんを伴って入ってきたのだ。娘さんは依然見かけた通りの淡い茶色の髪をたらし、今日はピンクのドレスを着ている。ご婦人が手招きをすると、はにかんだように微笑んでそのとなりに駆け寄る。わたしは、隣でチェルビーノが凍りつくのを見て、思わずにやりとする。奥様は、娘の頬にキスをしてから微笑んで娘を前に押し出して云う。
「妖精さん、こちらがわたしの娘ですの。仲良くしてあげて下さいな。ほら、リリィ、こちらがお芝居に連れて行ってくれるチェルビーノさんよ。ご挨拶なさい。」
娘さんは優しげに母親に背中を押されて、照れくさそうにうつむいて前へ出た。そして、照れたようにちらっと瞳をあげ、ちらっと瞳を上げてチェルビーノを見たとたん、娘さんはその気恥ずかしそうな様子をかなぐり捨てた。
「嫌よ、行かないわ。」
娘さんは腕組をしてきっぱりと云った。一方のチェルビーノは、思わぬところでめぐり会った姫君を、感動のあまり涙目になって見つめていたものだから、その拒絶に悲鳴を上げた。
「お嬢さん!何故、なぜですか。」
チェルビーノは、それ以上云うことができず、黙り込んでしまった。涙の塊が喉をふさいでしまったのだろう。だが、娘さんは哀れみを見せずに、軽蔑したようにまくし立てた。
「あなたのことは知ってるわ、あの焼け跡に昔住んでいた家族の子でしょう。この間、お父様と散歩をしている時にいたわね。聞いたわよ、あなたは人の奥様ばっかり追いかけているのでしょう、みっともない。嫌よ、そんなひと。あなたとなんか、絶対にお芝居になんか行かないんだから。お父様が云ってらしたわよ、あちらの世界であなたのお母様がひどく心配してるんだって。あなた、恥ずかしくはないの。」
そのしっかりとした話し振りにわたしは感心し、チェルビーノは目を丸くして黙り込み、母親の夫人は喫驚して暫く言葉を失った後に我に帰り、慌てて云う。
「まあ、リリィ、お客様に向かってなんて失礼な!それに、お父様は。」
云い終わらないうちに、娘さんは踵を返して、断固とした足取りで歩み去り、ご婦人はこちらに困った顔を向け会釈をしてから、あわてて娘さんを追いかけた。扉の向こうから、娘さんの大きな声がもれ聞こえてくる。
「嫌よ、謝らないんだから。ええ、お父様とはよくお会いするわ。お父様は幽霊になってよく焼け跡にいらっしゃるのよ。お母様、やっぱり知らなかったの?だからいらっしゃらなかったのね。お父様が寂しがっていたわよ。ええ、そうよ、わたしから云うと驚くからって、云うのを止められていたの。お会いしたいの?ええ、いいわよ、じゃあ、ついてきて。」
きっと、婦人は早速に、旦那様の幽霊のもとへ案内してもらうことにしたのだろう、扉の向こうはすっかり静かになった。亡くなった旦那様の前では、愛らしいチェルビーノも、顔色の悪い新参の客も、すっかり存在感が薄くなって忘れ去られてしまったのだろう。それでわたしは、すっかり静まり返った居間から、べそをかきはじめたチェルビーノをそっと促して、出て行くことにした。
 チェルビーノは、帰路の車でもひとしきりぐずぐずと泣き続けたが、そのうちに服の袖に涙と鼻水を全て吸い取られて、しょんぼりと泣き腫らした目を上げた。
「ハムレッティ、あの子、妖精じゃなかったね。」
「うん、そうだね。でも、よかったんじゃないの、人間で。」
「でも、ふられちゃったよ。」

まあ、それは仕方のないことなので、わたしは、いつか気が変わるさ、とだけ自信なさげに云っておいた。娘さんはあくまで正論を述べたまでだ。
「でも、あの娘さん、やっぱり君のお母様じゃなかったじゃないか。これは黒騎士とシラノに報告しないとね。彼らの鼻をあかしてやらなきゃ。」
 わたしが少しばかり優しい口調で云うと、チェルビーノは嬉しそうに微笑んだ。あんまり愛らしく微笑むので、わたしにも彼を息子扱いしてしまうご婦人方の気持ちが少しわかるような気がした程だ。だが、問題はその点にあるのだから、諭さなくてはなるまい。
「それに、あの子、君のお母様の話をしていたね。君の心配をしているって云っていたじゃないか。」
「うん、お母様は、あちらの世界でお元気にしていらっしゃるんだね。家に帰ったら、お父様にも報告しなきゃ。きっと喜ぶよ。」
それから、チェルビーノはくるりと瞳をめぐらせて、付け足す。
「そういえば、あの子が人間だったのなら、なんで、周りが変わって見えたのかな。」
「一緒に、あの娘さんのお父様の幽霊が居たからだよ。よく、一緒に散歩をするみたいだね、皆で覗きに行ったときにも、彼はそこにいたんじゃないのかな。ほら、僕らが見ていたとき、ひとりで頷いたり、色んなものを手に取ったりしていたろう?きっと、お父様が、昔の屋敷がどんなだったかを見せていたんじゃないかな。それにしても、あの娘さんの話によると、君のお母様は、君の素行について随分と案じていらっしゃるようだね。」
わたしが、お母様の話についてあえて二度も触れたので、チェルビーノにもようやく、わたしの云いたいことが伝わったようだった。それで、チェルビーノは暫く黙っていたが、やがて、他の年上のご婦人ではなくて、わたしを芝居に誘ってくれた。だが、反省したのだろうと思ったのは一幕目までで、二幕目には彼は向かいのご婦人の桟敷にいて、しっかり手まで握っていた。こんな風な彼だから、相変わらずチェルビーノが倶楽部の会員であり続けているというのも、納得のいく話だ。そして、聞くところによるとそれでも、あの焼け跡の廃墟には、まだちょくちょく、通っているらしい。

11. 「老オルフェウスの回想」

 わたしが「嘆く独身者倶楽部」の会員になってから随分の年月が経ち、そろそろ追い出されるのも近くなってきた頃、早春の宵の口のことだった。珍しく誰もいない倶楽部で、わたしは独り、物思いに耽っていた。ロメオの姪、わたしの愛する怒りっぽかった少女は、既に成長して、春の女神のように聡明で愛らしいお嬢さんになっていた。長らく帽子と詩と手紙を送り続けた甲斐もあって、この頃はお茶までご一緒してくれるようになった。相変わらず口はきいてくれないが、それは倶楽部の決まりを知ってのことらしく、手紙には思慮深く、かつ英雄的な文体で、わたしの人生を絶望に陥れるような真似はするつもりはない、と書いてくれる。わたしはそれで、必ず、次の帽子記念日には指輪を送ろうと心に誓い、それでいながら不安と、時間の流れる緩慢さに苛まれていたのだった。春先の宵はまだうすら寒かったが、わたしは燃える暖炉の傍で、わたし自身の感情の閃きに目を凝らしていた。
「おや、今日は閑散としとるね。」
静かな声が云ったので、振り返ってみると、「老オルフェウス」が佇んでいた。しかし、その言葉はわたしにではなくて、部屋の隅に相変わらず立っている、「金魚取りのジョン」の全身骨格に向けられていたらしい。わたしは立ち上がり、声を掛けようとしたが、老オルフェは言葉を続けた。
「まあ、仕方があるまい。今夜は、皆、ロメオの家でハムレッティ君の追い出し式の打ち合わせらしいからの。覚えておるかね、君が靴墨を顔に塗ったくった、あの小さな男の子を。相変わらず髭もろくに生えておらし、相変わらず青白いがね、随分背は伸びた。しかし、早いな、もう追い出し式とは。」
ゆっくりとジョンの前のソファに腰を降ろしながら、老オルフェはそんなことを云うものだから、わたしは声を掛けづらくなってしまった。どうやら老オルフェは、わたしの存在には気付いていないらしい。まあ、わたしも正式のあだ名は「幽霊の王子(Ghost prince)ハムレッティ」であるだけあり、存在感は稀薄であるから仕方ない。少し寂しいのと、気まずいのとで、どうしようかと迷っている内に、「老オルフェウス」はまた、ジョンの全身骨格に語りかけ始めた。
「歳月の過ぎるのは早いものだ。最年少の会員は追い出される年齢になり、君は肉体を捨て去り、だが、わしはまだここにいる。わしが再びあの凱旋車に乗って、妻に出会えるのはいつになることだろうな。しかしな、わしはこれでも、満足かもしれん。あの時、妻を連れて帰れなかったのは無論、悔やんでおる。だが、それも必要だったのかもしれんな。少なくとも、死ぬのを恐れる理由が全く無くなったことだし。
 わしはもう、二度死んだ。はじめは、初めて妻の瞳を見た時だった。黄金の矢がわしの心臓を貫いた。それから、わしはすっかり変わってしまった。古いわしは死んで居なくなった。だが、この死でこそ、わしの生は初めて始まったのだ。そしてわしは、もう一度死んだ。妻を亡くした時だ。だが、それもまた、新たなる生の始まりでしかなかった。最初の死は目覚めをもたらし、二度目の死はわしを教えた。三度目の死は、わしに永遠をもたらすだろう。そして、妻はその間ずっとわしと共に在る。」
 わたしは、この、とりとめもない独白を聞いていてよいものだろうかと、激しく迷った。老オルフェは、わたしがここに居ることを知らないのだ。盗み聞きは全く、よろしくない。しかし、わたしは老オルフェの逸話については、ほとんど何も知らないのだ。暫く、善と悪が心の中で戦った挙げ句、結局、勝ったのは好奇心だった。万一見つかった時に備えて目を閉じ、少しソファに沈み込んで寝たふりを決め込んで、聞き耳をたてる。
「わしが初めて妻に出会ったのは、山あいの小さい村だった。妻はその村に古くからある修道院の尼僧だった。彼女は讃美歌を歌いながら、草原を歩いていた。夏の初めの天気の良い日で、彼女は用事のついでに、祭壇に飾る花を摘んでいたのだろう。その様子はあまりにも神聖で、美しかった。わしはただ、歌声になんとなく目を上げ、それを見たのだった。彼女は肩までに短くをろえた髪に野の花を挿し、鼻唄を歌っていた。奇妙な感覚だった、それは絶望にすら似ていた。まるで、世界が轟音を立てて崩れ去るが如くに感じた。それも、そのただひとりの、ありふれた乙女のために。なんと云い表せよう、わしはただ、昼寝をしていたに過ぎなかったのに、突然、世界がひとつの力に変わった。周囲の緑は燃える穏やかな炎に変わり、純粋な風景は彼女を包み込んで賛美していた。わしは何を見ているのか知らなかった、だが、わしは彼女が驚いた顔で振り返った瞬間に、そこに神を見たのだ。生憎、わしはそれまで、神のことなぞ考えたこともなかった。だが、それは神だった、神がその最も繊細な指をもって、その場でこの女の姿を創り、支えていた。彼女は、昼寝をしていた軍人のわしに、ただ、優しい微笑を投げて会釈して立ち去った。
 だが、わしはその場で死んだ。神の力の顕現を見た後で、どうして古いものが滅びずにいられようか。全てがわしは熱病にかかったようにして国に戻り、結局、軍人を辞め、その村に戻った。わしは神がわしに示したものを見た。だから、他のことなど構いはしなかった。財産は十分にあったし、無くても同じようにしただろう。名誉は要らなかった。彼女が手にはいるかもわからなかった。もし、結婚を断られたなら、同じ村の修道院に入り、そこでやもめで死のうと考えた。勿論、わしは自分を笑わずにはおれなかった。娘ひとりのために一生を棒に振るのは馬鹿げたことだった。だが、ここで彼女を見失ったら、わしは自分の魂を見失い、一生は無意味になると分かっていた。彼女を思うのは激しい喜びと苦痛だったが、それだけで浄化の炎だった。短い旅の間にわしの顔付きはすっかり変わり、軍人時代の放埓や虚栄や、下らない嫉妬や、支配欲まで消え去った。目に映る全ての花、緑、雲、鳥、人々までが、彼女を指し示し、美しかった。わしは心臓を傷つけられながら、それによって初めて、幸福だった。
 妻は身よりのない娘で、修道院で育っていた。博識でしとやかで、聡明で優しく、無邪気で、何より信仰深かった。わしは青くなって、院長に話を切り出した。修道女に結婚を申し込むほど、無謀なことはなかった。わしは前線に居た時よりももっと恐ろしかった。魂の生死がかかっていた。だが、院長は微笑んで、わしに彼女の手を取らせた。おめでとう、恵まれた方、と、院長は云った。あなたは、神がどのように我々ひとりひとりを愛されるのかを学ぶことができるのです、と。わしは無論、神よりも愛する、と誓ったが、彼女は微笑んで、では、ふたり一緒に学ぶことができますね、と云った。
 結婚式はささやかで、家庭生活はもっとささやかだった。ささやかだったが、これ以上偉大なものはなかった。全ての感情が、光溢れる泉のように喜びに満ちていた。わしらは村から少し下った所に住んだ。あの幸福はわしの魂以上の価値があった。あらゆるものが美しく、あらゆる時が無上の価値を持っていた。わしらはそこで二年間暮らした。そして、妻は死んだ。もともと体の弱い方だったが、風邪をこじらせてあっけなく逝ってしまった。
 わしは三日三晩くらいは、その傍らで泣き続けていたろう。泣き続けて、とうとう眠り込んで目覚めると、妻の身体は消えていた。わしは修道院の人々が盗んだのだと思い、気の触れたようにして怒鳴り込んだ。だが、彼らは何も知らず、かえってわしのもたらした知らせに、声を上げて泣いた。修道院長は泣き腫らした目で、わしに聖書を手渡した。
 だが、わしにどうしろというのだろうね。わしは妻と、つつましく、穏やかで、信仰にも溢れた、地上の楽園のような暮らしを営んでいた。それなのに、神は妻をわしから取り上げたのだ。わしは、院長の求めるようなやり方では聖書を読まなかった。わしは、神の残酷さを証明しようと、聖書や、そのほかのあらゆる物語や記録を読みふけった。わしは絶望していたから、完全なる絶望を求めたのだ。わしは長い間、家からは一歩も外へは出なかった。食事は、わしを不憫に思った村や修道院の人々が届けてくれたが、わしはそれらに人々に顔をあわせることを避けた。それどころか、窓を木で打ちつけ、光を締め出し、小鳥の鳴き声を締め出した。ありとあらゆる美しいものを締め出した。それらは全て、妻を思い出させるからだ。だが、わしは何を読んでも、人間に絶望し切れなかった。最も美しいものを知った後で、それらがいかに悪辣で穢れていようと、それが何だというのだろう。美しい思い出を帳消しには出来ないのだ。わしは、せっかく光を締め出しておきながら、毎日、妻の着物を抱いて眠った。結局、わしはいつの間にやら、書物の中に、光を探し始めていた。慰めが欲しくなっていた。木枠から漏れる光に、気配だけでもいいから妻を感じたかった。だが、そこで生まれる愛の感情に対象が存在しないのだという激しい恐れが、わしをそれから遠ざけた。わしは毎日、泣きながら眠った。
 何年過ぎたかはわからんが、わしが真夜中に目を覚ますと、二階へと繋がる階段から、光が漏れていた。二階は寝室があり、妻の着物もそこに置いてあった。わしは、誰かが妻の着物を盗みに入ったのかもしれないと、恐れて二階へ駆け上がった。だが、そこには誰もいなかった。そして、わしはまだ、一階にいた。わしは奇妙に思った。そして、相変わらず光の差している、二階への階段を登った。だが、また同じことだった。わしはこの事態にも、さして驚かなかった。深い悲しみの内にあるものに、驚きなどあるだろうか。わしは、そのまま、一階の床で寝てしまおうかと思った。だが、そのとき初めて、わしの心は驚いた。激しく疼いた。二階から、妻の声に似た声が聞こえたように思ったのだ。わしは階段を駆け上がった。
 それはまた、一階だった。そして、そこには、妻はいなかったが、わしがいた。わしは、その時より少し老けていたが、肉付きもよく、健康で、幸福そうだった。彼は、二階に声をかけた。古い毛糸玉だって、どこにやったかな、いいよ、わたしが探そう。もうひとりのわしはそう云って、二階に上がっていった。それから、笑い声が聞こえた。間違いなく、それは妻とわたしの笑い声だった。わしは泣きながら二階に駆け上がった。だが、そこはまたしても一階だった。そこには、わしと、わしの友人たちがいた。わしは先ほどよりもさらに少し老けていたが、男らしく、頑丈そうで、何より嬉しそうだった。友人に向かって、わしは妻のことを自慢していた。妻の、青いインクなんて見当たりませんよ、と云う声が二階から降ってきた。わしは気が違ったかのように叫びをあげて、二階へ駆け上ったが、そこもやはり一階で、幸福そうなわしがいて、二階の妻と言葉を交わしているのだった。わしは泣きながら何度も何度も、それを繰り返し、その間には何度も、疲れ果てて階段で眠った。わしは何十年という時間をその中で見、わしの娘の婿の顔を見、わしの孫たちを見た。わしは悲しかった。これら全てが、現実ではなかったが故に。だが、ともすると、わしは、そこで気付かずに妻の名を呼んでいるこの幸福そうな男の方が現実なのだと、感じることがあった。そして、その感じは徐々に強くなっていった。
 わしは階段を登り続けた。わしの、現実にならなかった人生の、幸福な場面を見ていたかった。わしは幽霊のように、自分の存在を削り、目の前の幻の自分を本物だと思い込もうとした。そして、それは徐々に成功を収めていった。だが、ただひとつ、消えない望みがあった。わしは、妻をの姿を見たかった。妻を見たい、その一心で昇り続けるようになると、幸福そうなわしの姿など、どうでもよくなった。わしはもう、一階の情景には目もくれず昇るようになった。」
 それで、老オルフェが言葉を切ったので、わたしは思わず、彼から見えないように、ソファに身を沈めた。わたしはこの話に、いたく心を動かされて、少し前から泣いていたのだが、もしかしたら、鼻をすする音が聞こえたかもしれない。わたしは多少、驚いていた。普段はなんのこともない、優しくて老獪で、のんびりとした性格の老オルフェであるのに、この語り口には、何か芯の通った男らしいものがあった。わたしがソファの陰に身を潜めている間に、また、老オルフェはゆっくりと語りだした。
「今思うと、わしは、望むことを忘れておったのだよ。悲しみが削げ落ちて、ようやく、透徹した望みだけが残った。わしは希望があったと云っているわけはではない。希望なんてものは、絶望の中にしかないのだ。希望ではなく、望むことでのみ、人間は在るようになる。まあ、ジョン、君なら分かるのかもしれんが。
 それは唐突にやってきた。まったく唐突に、わしは、二階にたどり着いた。わしは驚いて見回し、妻を目で探したが、妻はそこにはいなかった。代わりに、本来ならそこに無いはずの、もう一階上へ行く階段があった。光はそこから、目も眩まんばかりの眩しさで迸っていた。わしはもう、何も考えずにそれを上った。妻を捜すことのほかは考えてはいなかった。そして、わしはそこにいた。天の御国にだ。
 その国の様子を言葉にしようとしたって、どだい無理な話だ。だが、そこは天の御国の、ほんの門前街と云った所だったのかもしれない。まだ、我々の目に慣れた形態を取るのを止めてはおらなかったから。陽光のような黄金の建物があり、流れ滴るような緑が溢れ、透明な象牙のような人々が、音楽のような言葉を交わしていた。そこにはあらゆる色彩が溢れていたが、その色は交じり合ってもくすまず、かえって白っぽく眩しく光った。わしは巨大な部屋の中に、馬鹿みたいに突っ立っていた。そして、叫び声を聞いた。妻だった。妻が、遠くからわしを見つけ、喜びに叫びながら走ってきたのだ。妻は泣きながら、髭も髪も伸び放題の、汚らしいわしの姿にも構わず、わしの首に飛びついた。わしもまた、ないていた。わしらは抱き合って口付けをした。
 それは長い長い抱擁だった、何百年も、何千年もそうしていたかのように思うが。わしは失ったものを、今再び得たのだった、それは他でもない、妻の人格、それと触れ合えること、そのものだった。長い長い間、わしらは泣きながら抱擁し、やがて涙が悲しみを荒い流すと、それは陶酔になった。どのぐらいそうしていただろう、やがてわしは、妻に何かをしてやりたくなった。かといって何も出来はしないが、何か素晴らしいもの、何かよりよいもの、わし以上によいものを与えたくなった。そして、神のことが頭をよぎった。わしは戸惑ってようやくに、身を引き離した。
 だが、わしの戸惑いはすぐに、周囲の群衆の歓迎と喜びの声にかき消された。いつの間にやら、周囲は祭りのような様相を呈しており、皆、楽器を奏で、歌を歌い、踊りを踊っていた。そして、光に包まれた人が、わしらにこういった。さあ、あなたたちを地上に送り返してあげましょう、神がそれをお望みですから、と。わしは、妻に結婚を申し込んだときを思い出した。実際、天上の人々やそれに近い地上の生を送る人々は、真実の望みに対しては何も惜しみはしないのだ。そして、その人は云った、たたし、帰る道すがら、駱駝の針の門を過ぎるまでは、決して振り返ってはなりません、と。わしにはそれが何故だかはわからなかった。
 彼らはわしらを、巨大な白金の凱旋車に乗せてくれた。それは本当に巨大な車で、それ自体が王宮のひとつほどもあった。それを曳くのは、真っ白な孔雀たちで、その孔雀もまたあまりに大きいものだから、その尾の模様のひとつひとつが、真夏の太陽のように眩しく、その孔雀が行く道は、真珠で敷いてでもあるかのような光沢を放っていた。そして、その凱旋車は巨大であったにも拘らず、それの行く道沿いの建物の方が、なお巨大だった。その道沿いの建物からは、皆がわしらに手を振り、花を投げた。通り沿いにもまたずっと、人々が踊り、笑い、極彩色の花びらを撒き散らす。わしらたったふたりの為にも、彼らは喜んでいた。そして、素晴らしいのはこの凱旋車もまたそうで、全てが白金で出来ているにも拘らず、触れると柔らかく暖かく、その箇所からは素晴らしい音が鳴り響く。そして、それがそのまま、柔らかい芝のように変わって生え出でた毛の上に、わしらふたりは座り、周囲では、やはり白銀の植物が茂る。それはきらきらと光るその中にだけ、緑を宿している。そして、ここでもまた、人々は楽しげに笑い、歌と踊りが繰り広げられ、親切で美しい人々が、わしらにこの上も無く甘い果実を取り分けてくれる。それはまるで宝石のように美しく、また、宝石のように甘い。そしてわしらを中心とした輪から少しはなれたところでは、哲学者が講義をし、演奏家たちが腕を競い、子供たちは遊んでいる。わしは微笑んで妻を見つめた。妻は、天上の美しい衣服を身に纏い、髪には花を挿し、本当に美しかった。妻は、嬉しそうにわしに云った、あなたとまた、地上で暮らせるのは何と云う喜びでしょう。共に生き、共に喜び、悲しみ、共に老いましょう、と。わしは、そこまで登ってくるまでにずっと眺めてきた、あの幸福な自分自身の姿を思い出した。あれら全てが、現実になるのだ。わしは嬉しかった。そして、楽しみでならなかった。だが、何かが頭をよぎった。わしはせっかくの幸せを曇らせたくなかったから、それを無視し、すぐに忘れた。
 しかし、この凱旋車での旅は、長いものだった。わしはこの上なく幸福で、この先に待ち受けているものにも喜んでいたのに、何度も、何かが頭を横切る感覚があった。どうしたのです、と妻は聞いた。わしは、いや、わからない、おおかた何でもないのだろう、とわしは答えた。だが、完全なる幸福の中を横切るこの疑問は、次第に大きくなっていった。わしには理解ができなかった、何がこの不安を産み出すのか。わしは天上におり、何よりも愛するこの妻と、今再び、地上での生活へ降りて行こうというのに。わしはその不安を抑えながら長い凱旋車での旅を続けた。
 そしてやがて、その長い長い旅も終りに達した。やがて遠くに、真珠色に光る門が見え始めた。駱駝の針の門だ。だが、何が駱駝の針なものか。それは巨大な門だった。あまりに巨大で、目の前に立つと、わしはその全てを視界に納めることができなかった。見上げるとはるか上空にその梁が見えたが、それには遠さのあまりうっすらと靄がかかり、そのずっと下には鳥たちが飛んでいた。わしは、凱旋車を降りようとしたが、人々は、このまま進めば良いと云った。この凱旋車には、地上での幸福のために必要なあらゆるものを積んであるから、それらを全て持っていくように、そう人々は云い残し、凱旋車を降りた。わしは感動に満たされて、ひとり残った妻を見つめた。妻はこのうえなく美しく愛らしく、まるで花のようだった。わしはこみあげる愛を感じ、その愛は涙となって頬をつたった。だが、その時、わしはふいに悟った。だが、わしは何をしているのだろう、と。たとえあらゆる幸福を妻に与えることができたとしても、わしが与えうる最上のものは、わしの愛でしかない。だが、わしの愛では、この妻には、あまりに貧しすぎる。わしは不安にかられて、それは禁じられていたのに、振り返った。そして、見たのだ。
 それを、なんと云い表そう。わしは今まで自分が目にしてきた、凱旋車や巨大な都市が、それに比べれば無にも等しいものだと知った。その向こうには、それよりも遥かに大きな黄金の都市が横たわっていた。だが、それも小さな塵だった。その向こうには、まるで重さから開放されたかのように、自由に生きて動いている水があった。それはまるで、巨大な川か泉のようで、うごめき、流れ、回転しながら、黄金の都市の周りを取り囲んでいた。その河の向こうには、光の白い薔薇があった。いや、河は、その薔薇の中ではひと粒の朝露にすら及ばず、都市は朝露の中に煌く塵よりも小さなひかりにも及ぶまい。それは一つ一つが、太陽よりも大きな光のかたまりでできた、認識もできぬほど大きな花で、そこからは、耳を聾するほどの大きな、繊細な、甘やかな、それでいて英雄的に壮大で、哀切に満ちた神秘的な音楽が響き渡っていた。だが、それすら、何でもなかった。その向こうには、神秘な、光に満ちた闇があり、その遥か深淵からは、理解もできぬ何かが流れ出ていた。
 わしは叫びをあげた。わしは悟ったのだ、わしが妻を、何から引き離そうとしていたのか。わしは何故、振り返ることが禁じられたのかが良くわかった。これほど素晴らしいものを目にしておいて、どうしていとしい妻をそれから引き離せよう。わしは、そして、痛みと喜びを感じた。わしは悲しかったが、同時に、この上もない喜びも感じたのだ。よりよいものを与える方法がわかったのだから。今や、わしのできることはただひとつだった。
 わしは妻に、微笑んで云った、戻りなさい、と。妻は嫌だと云った。だから、わしはもういちど云った、わたしに与えられるものは貧しい、わたしはもっと良いものがあなたにはふさわしいと思う、だから、戻りなさい、と。妻は云った、あなたは何故そのような事を云うのですか、あなたが望みさえすれば、これら全てのものが、あなたを通してわたしに与えられるのです、わたしはあなたと行きます、と。しかし、わしはそれは不可能だと思った。わしの愛は、あの闇に比べれば無だった。だから、わしはもういちど云った、どうか、戻りなさい、と。それで妻は云った。では、あなたがここにお戻りになるまで、わたしはここを一歩も動かず待ちましょう、と。
 それで、わしはひとりで、凱旋車を降り、ひとりで駱駝の針の門を通り抜けた。通り抜けると、巨大な階段が、地平線の彼方まで広がっていた。この門もその前の階段も、わしには果てが見えぬほどに巨大だったから、人に出会うことはほとんどなかった。どのくらい歩いたろうか、わしはいつの間にか、自分の家の二階から、一階に降りる階段を下っていた。それは、来た道と同じように何度も繰り返された。わしは、そこに幸福そうな自分の姿を、同じようにまた見た。だが、わしにはもう、彼が羨ましくはなかった。妻が居る場所を思うと、満足だった。そこは神の御許だった。  階段を一段下りるたび、寂しさだけは募ったが、その寂しさはわしが負うのにはちょうど良い重さのものだった。わしは、妻を想う喜びを糧として、その重みに耐えてゆけることを知っていた。そして、わしはようやくに一階にたどり着くと、全ての窓を塞いでいた板を外した。窓から見える景色は、五月の光に煌めき、わしが天上で見たあらゆるものより遥かに貧しかったが、なお、美しかった。天上の国を目にした後でも、やはり地上は美しく見えるものだ。いや、なおさら、美しく見えるものだ、その小さな健気さに宿る偉大さゆえに。そして、その全てには、天上の闇と妻の面影があった。わしは膝をついて祈った。長い間、祈る日々を続け、やがてわしはその国を離れた。
 あとは、ジョン、お前も知ってのとおりじゃ。いつの間にやら、愛することの喜びと、手に入らないことの寂しさを分かち合うこの倶楽部に入会し、いつの間にやら長老にまでなった。まったく、月日の経つのは早いことだ。それにしても、なあ、ジョン、もう少し出発を遅らせても良かったのではないのかね。おまえさんも、もう少しで長老になれるところであったにのう。」
老オルフェは静かに語り終え、何事かを静かに歌い始めた。わたしは、この壮大な話に圧倒されたまま、黙っていた。なんだか、なんと云うか、わたしは何を考えたらよいかもわからずに、ただ、黙っていた。暫くの沈黙の後、また、老オルフェは口を開いた。
「だがな、わしはこの頃、思うのだよ。もし、妻の云ったことが本当で、わしが望みさえすれば、あの光に満ちた闇の愛を、自らの愛として妻に与えることが出来たのであったとしたら、とな。なにしろ、ひとは神の似姿だ、というからの。のう、ハムレッティ。」
わたしは突然に名を呼ばれて、驚いて飛び上がった。老オルフェは振り返り、にやりとして云った。
「わしがおまえさんに気付かんほど耄碌しておると思ったのかね?」
そうして、老オルフェは大きな声で笑いながら、ジョンの骨に挨拶をして、出て行った。わたしはそれで、呆気に取られながら、また、暖炉の炎を見つめ始めたのだった。

12. 「記憶をなくした男」

 それは秋口のひんやりとした小雨降る夕方の事で、街は霧に覆われていた。その日、わたしの所属する「嘆く独身者倶楽部」は人が多く、少しばかりこみごみとしていたにもかかわらず、天気のせいでどことなく陰鬱な雰囲気に支配されていた。したがって会員たちは珍しく皆おとなしく、打ち沈んだ様子でぶつぶつと暗い詩を朗読したりしていて、普段の活気はなかった。だから、入り口辺りで執事と押し問答をしている男がいても、最初は誰も気にもとめなかったのだ。
「いいえ、ミシャッソーさん、貴方のお名前は会員名簿にはございません。」
「しかし、それが本名かもわからないのです。それに、僕が会員だったかどうかも、確かじゃないんです。でも、確実に関係はあったと思うんです。」
「そうおっしゃられても。」
「誰か、僕の顔を知っていそうなひとはいませんか。」
室内があんまりにも静かだったもので、そんな会話が漏れ聞こえてくる。その内に興味を惹かれたのか、「思い付きのロメオ」がむくりと身を起こした。既に十五分も前から、絶望的表情をしてソファに引っくり返るのに飽きた様子で、遠慮がちに冗談を飛ばし始めていたから、ちょうどよいと思ったのかもしれない。立ち上がったロメオは、入り口に向かい、執事と元気よく一悶着してから、訪問者を伴って室内に帰還した。どうも、憂鬱には完全に飽きていたらしい。ロメオはようやくに面白いことがあったとばかりに表情をかがやせながら、元気よく云った。
「おい、みんな、彼を知らんかね。記憶喪失らしい。」
その横で所在なさげに佇んでいる記憶喪失者は、二十代後半と思われる痩せた男で、優しそうな大きな黒い目が印象的だった。真面目そうな若者で、少し緊張した面差しで、倶楽部の沈んだ面持ちを見回す。それからあいまいな笑顔を浮かべて挨拶をした。
「こんにちは、皆さん。ええと、どうやら皆さんとは初対面のようですね、残念ながら。しかし、ひょっとして、どなたか、僕をご存じないでしょうか。この方がおっしゃった通り、記憶喪失なんです。何か手掛りがないものかと思ってこちらにうかがったのですが。」
会員たちは皆ソファやテーブルから身を起こし、沈欝だった室内の空気にはざわめきが広がる。
「なんだって?」
「記憶喪失だそうだ」
「ドラマティックじゃないか。しかし、見かけん顔だな。」
残念ながら、どうやら皆、初対面らしいとの判断は正しかったようで、やはり誰も彼が何者であるかはわかる会員はいない様子だった。しかし、彼の登場はそれでも、倶楽部に居た者達全員に、確実な変化をもたらした。つまり、欠伸と溜め息を、好奇心と活気に切り替えたのだ。こうなると、まとまりが付かなくなるのはこの倶楽部においては必至なので、お互いに見交わす視線から、陽気な怒号とよる嬉々とした質問の嵐に切り変わるまでには、そう時間はかからなかった。
「で、君はいつ記憶をなくしたのかね?」
「今はどこで何をしているんだい?」
「座りたまえ、珈琲はいらんかね?」
「記憶がなくなるとどこまで忘れるんだい?親の顔は?文法の知識は?文字はよめるのかい、踊りは踊れるのかい?」
皆が皆、思い付いたままに大声で質問をし、むりやりに青年を部屋の真ん中に座らせ、珈琲とブランデーとケーキと煙草を勧め、青年が困惑する間に周囲が人だかりになる間、「思い付きのロメオ」は自制して沈黙を守っていた。ロメオここ数年、以前には目立たなかったある資質を発達させてきていて、それはなんというか、時としてまとまりを欠く会員達にとっては良き指導者になりうる種類の資質だった。それで、青年がすっかり人垣に囲まれ、珈琲だの煙草だのチョコレートだのを持たされて、すっかり困惑した表情になるのを待って、ロメオはその資質を発揮した。
「諸君!」
そう怒鳴ったロメオの声はあまりに大きかったので、倶楽部中が静まりかえった。それから、ロメオはお得意の芝居がかった調子で大袈裟に額に手を当てて溜め息をつき、十分に自分に関心を集めてから云った。
「諸君、あまりお客人を悩ませるものじゃない。見ろ、すっかり困っていらっしゃるじゃないか。」
それで、両手に珈琲と煙草とチョコレート、膝には今にもこぼれそうな紅茶と、何故か仔鰐の剥製を乗せたままの青年は、やはり曖昧に微笑んだ。
「質問はいちどにひとつだ。だが、彼からまず、話を聞いた方が早いんじゃないかね。」
ロメオは相変わらずもったいぶって続け、ゆっくりと青年に歩み寄ると、両手のあれやこれやを取りあげてテーブルに置き、ついで膝の上の仔鰐の剥製をつまみあげた。そして、暖炉のマントルピースのうえにそれを安置してから、部屋の隅から大きな椅子を引っ張ってきて、それを青年のすぐ隣に置いて座り、云った。
「さて、記憶喪失者君。何が君をこの、嘆く独身者倶楽部を訪ねしめたのか、話してくれたまえ。」     
 倶楽部を占める沈黙は、今や好奇心で満ちていた。それで、青年は少し緊張したように、膝の上から紅茶を取りあげてすすり、何かを云おうとして、沈黙の内に誰かが差し出した檸檬のスライスに中断され、それを紅茶に浮かべてまた一口すすってから、ようやくに話を始めた。
「僕が記憶をなくしたのは、どうも二ヶ月かそこいら、前の様子です。僕はあの、大きな河の近くのフラットにすんでいます。毎日、若い忠実な侍従が家に来て、身の回りの世話をしてくれています。彼は僕をミシャッソーさんと呼び、僕が外国から来た何かの学者で、古代の言語の研究をしていて、一年ほど前から彼を雇っているといいます。僕にはよくわかりませんが、僕のものだと云う銀行の口座には、毎月、かなりの金額が、知らぬ人から振り込まれていますから、そこから彼の給金は払っています。侍従は僕の素性について、あまりよくは知りません。詮索するなと云われていたそうで、今でもそのいいつけを守っています。僕は彼の云う通り外国人らしく、訪ねてくる友達もいません。それで、二ヶ月たった今でも、僕には以前の記憶を取り戻す手掛りがほとんどないのです。
 奇妙な事ですが、僕の記憶は、河から始まるのです。僕は死んだようになってそこに浮いていたようです。水は冷たく、辺りは薄暗く、僕は自分がどこにいるのか全くわかりませんでした。全く突然に、僕は水に浮いていたのです。それでびっくりして、僕はもがき始ました。すると、突然、僕を引っ張るものがありました。僕は恐ろしくて、なおもがきましたが、僕を引っ張ったのはどうやら救出者であったらしく、僕を一発殴っておとなしくさせてから、僕を岸部に引っ張ってゆきました。救出者は僕を岸部に放り出すと、全く、とんだ目にあったもんだ、と怒ったようにいいました。僕が混乱したまま、水を吐き、とにかく命を救ってもらった礼を云おうとすると、彼は、自分の面倒くらい自分で見ろ、と、また怒ったように云って、立ち去ってしまいました。夜明け辺りの時間帯で、よくは見えませんでしたが、逞しい体格をしていました。きっと、通りすがりの人だったのでしょう。もっとよく見ておけばお礼もできたかもしれないのに、と今更に悔やまれますが、なにしろ僕は混乱していました。そして、混乱したまま、その場に蹲っていました。
 自分が、どこの誰だか、何をしていたのか、全く思い出せないのです。家に帰ろうにも、その家がどこなのかすら、わかりません。僕は途方に暮れ、夜明けの冷え込みの中、河縁に蹲って震えていました。すると、やがて、遠くから叫びが聞こえました。ミシャッソーさん、とその若者は叫びながら走ってきました。僕にはその若者が誰だかわかりませんでしたが、彼は僕の侍従だと名乗りました。彼はずぶ濡れの僕を、僕のものだと云われているフラットへ連れていってくれて、介抱してくれました。はじめ、彼には僕が記憶を無くしていることに気付かなかったようです。ただ、あまりに酷い目にあったので、パニックに陥っているのだと思っていたそうです。それに、僕は溺れかけて散々水を飲んでいた上に、寒い河辺にびしょ濡れのまま蹲っていたこともあって、きっと冷えたのでしょう、大変具合が悪かったのです。それに、体中には殴られたような痕もあり、彼は、僕がきっと強盗にでもあったのだ、と。しかし、暖かいココアなどを飲んで次第に僕が落ち着いてくると、ようやくに、彼は僕が記憶を全く失くしていると云う事実に気が付きました。彼はほとんど涙を流さんばかりになって、僕を哀れんでくれました。
 侍従は気立てのよい若者です。僕が以前に、彼の病気の父親の入院費用を出したことだとか、妹によい就職口を見付けてやったことだとかを、非常な恩義に感じているらしく、とても親切にしてくれます。彼の妹に紹介した仕事というのは、さる貴婦人の身の回りの世話をするというものらしいのですが、しかし、外国人で友達もいない僕に、どうしてそんなことができたのかはさっぱりわかりません。僕はその婦人の名前さえ知らないのです。しかし、侍従は、僕がいつも、彼の父や妹のことを気にかけていて、様子を聞いてくれたといっています。僕は、侍従があんまり僕を大切にしてくれるので、もう少しで、僕は以前には非の打ち所のない紳士で、優しく寛大で、親切な良い奴だったと思い込むところでした。
 しかし、実際、そうだったのでしょうか。自分自身のことを悪く云うのもなんですが、僕にはどうもそうは思えないのです。そしてそれは、現在の僕自身の人格ゆえの実感と云うよりは、僕が見付けたあるものによるのです。僕は一ヶ月ほど、記憶をなくしたまま、困り果てて生活していました。とりあえず、フラット中部屋の中を、手掛りを求めて探し回りましたが、めぼしいものは出てきません。僕は、自分が本当に考古学か何かを勉強していたのかすら、疑わしくなりました。と、云うのも、部屋にはその研究に必要だと思われる本も書類も、ほとんど見当たらないのです。代わりに外国語の詩集が数冊ある程度です。僕はその詩を読んで理解することが出来たので、もしかしたらその国の出身なのかもしれませんが、しかし、もしかしたら以前に勉強したことがあるだけなのかもしれません。他には、部屋にいくつかの、ルネサンス時代の絵画がかかっていました。僕はこのうち、白貂を抱いた若い婦人の絵に奇妙にひかれました。それで、それを調べようと壁から外しました。すると、驚いたことに、その後ろに隠し金庫があったのです。僕はしかも、その番号を知っていたのです。奇妙に思いながら、その通りに数字を回すと、金庫は開きました。僕はそれで、自分の素性がわかるものと期待して、それをあけたのですが。はたして、そこに入っていたのは、一冊の日記帳と、拳銃だけでした。拳銃とはぞっとしますが、日記の方にはもっとずっと、ぞっとしました。それは、どうやら僕の研究していた古代語で書かれているらしいのですが、その中身が全く、狂気じみたものだったのです。それは日記とすら云えません、ただの、膨大な量の記録でした。それは、『白貂の婦人』と呼ばれる婦人がいつ、どこで何をしたか、誰と会って何を買い、何を食べたのか、健康状態は良好そうか、そういった事だけがずっと、感情の一切を交えずに書いてあるのです。それ意外の記録はほとんどありません、ただ、たまに『報告書を送る』とか『研究員に接触』とか、少しばかり学者の仕事に関すると思われる書き付けがあるばかりです。僕は気分が悪くなりました。なんと云うことでしょうか。僕がそれ以前にどこで、何をしていたにしろ、この一年近くの間は、この不幸な婦人を付け回すことに専念していたらしいのです。これが紳士のすることでしょうか。僕は激しく落ち込み、記憶を失ったことを感謝したくらいでした。僕はこのことを、気立ての良い侍従にも話すことができず、苦しみました。いくら優しい彼でも、これを知れば僕をひどく軽蔑するでしょう。そして、辞めてしまい、僕は見知らぬ世界で、まったくひとりぼっちになってしまいます。
 しかも、もっと悪いことが起こりました。僕が、何か手掛りでもないかと、博物館を訪ねた時のことです。ああ、なんと云うことでしょう。そこへたどり着く前、丁度ある角を曲がった所でした。僕は、彼女を見付けてしまったのです。彼女は、部屋の肖像画の婦人によく似た、きれいな婦人でした。僕は、一目見て、その婦人が『白貂の婦人』だと、はっきりわかったのです。そして、記憶と共に失われていた情熱が、再び燃え出したのです。僕は一目で、再び恋に落ちてしまいました。しかし、今度は彼女の後をつけることはしませんでした。僕が以前にどういう人間であったとしても、これからは紳士として人間として、恥じるべきことをするつもりは一切ありません。しかし、博物館へ行くのを止め、フラットへ戻り、散々に泣いても気が晴れません。僕が記憶を失ったことは天の恵みだったのかもしれません。彼女をつけ回すような恥ずべき事をやめることができたのですから。しかし、新たになった恋は向かう先がありません。それで、僕はあることを思い出しました。あの日記帳に、『困った場合にはここへ』と書かれた名刺が挟まれていました。それが、こちらの倶楽部の名刺だったのです。それで、僕は、もしかしたらこの倶楽部のどなたかが、以前の僕の気違いじみた恋を見かねてその名刺を下さったのではないかと思い、今日、お尋ねしたわけです。」
そうして青年は語り終え、すっかり冷めた紅茶を飲み干し、云った。
「どなたか、こんな僕をご存じありませんか。以前には唾棄すべき人間であったのは確かです。しかし、これからそんなことは絶対にするつもりはありません。どうか、途方に暮れた僕を助けて頂きたいのです。」
悲しげに微笑むと、青年は会員たちを見回し、それから、礼儀正しくも、すっかり冷めきって酸っぱくなった珈琲に手をつけた。倶楽部の中には、また、ざわざわとした囁き声が沸き起こりつつあった。どうやら、この青年を軽蔑するのが半分、同情するのが半分と云った様子で、放っておけば議論から殴り合いに発展するのは明らかだったから、それがまだざわめきの間に、ロメオが大きな咳払いをひとつして場を納めた。そして、自分は倶楽部の代表と話し出す。
「それで、君はこの倶楽部に入会したい、というのかね。」
「ええ、できれば。そうすれば、僕も少しは気分が晴れるでしょう。」
青年は酸化した冷たい珈琲を飲みながら云い、ロメオは不満そうな一部の会員の顔を見渡す。ロメオは、彼等の顔を見ながら、暫く黙っていた。おそらく、「黒い貴婦人の騎士(Dark Lady’s Knight )」の入会の責任を負ったが故に陥った面倒を思い返していたのだろう。しかし、彼はこの記憶をなくした男の責任もまた、負う覚悟を決めたようだ。
「どうだろうね、諸君、彼を我々の仲間に入れてやろうじゃないか。そうしたら、せっかく新しく生まれ変わった彼が、以前の堕落に再び身を投じる危険を防ぐことにもなると思うが?」
ロメオの言葉は的を得ていたので、倶楽部員たちからは納得の呟きが漏れた。これで、この記憶をなくした男の入会は決定的になったかに思えた。 だが、いつの間にやら、やって来て隅に腕組みをして立っていた「黒い貴婦人の騎士」が、「ちょっと待て。」と云ったので、視線は自然、そちらに集まった。彼はこの数ヶ月、姿を見せていなかったので、突然の出現に皆、驚いてもいた。
「なんだ、話を終りあたりしか聞いていなかったが、こいつにはまだ、記憶がもどらんのか。」
黒騎士が云うと、青年は驚きと期待に満ちた目で彼を見つめた。
「僕をご存じなんですか。」
「ご存じも何も、お前を河から引きずり出したのも俺だし、お前が放り出した分の仕事まで押し付けられたのも俺だ。」
 黒騎士は云うと、立ち上がって礼を述べようとする青年を無視して、ロメオに、「ちょっと、試していいか。」と尋ね、ロメオがよくわからないままに頷くと、つかつかと青年に歩み寄り、突然、彼を一発殴った。
「おい!客に何をするんだ!」
ロメオが慌てて叫び、黒騎士と、倒れて脅えた様子の青年の間に立ち塞がる。
「だから、ちょっと試したいだけだよ、記憶が戻るか。おい、ミシャッソー、立て。何が恋だ、馬鹿馬鹿しい。お前の感じた情熱は職業意識だよ。」
云うと黒騎士はロメオを押し退けて、また青年に殴りかかった。無論、皆止めに入ろうとしたが、そういう元気のある連中から先に黒騎士に殴り飛ばされて卒倒していった。わたしは困ったままそれを手をこまねいて眺めていたのだが、その内に、奇妙なことに気が付いた。はじめは殴られるがままだった青年の表情が徐々に変わり、それと同時に、防戦から、攻撃に転じた。そして、今や、黒騎士と互角に戦いはじめ、いつの間にやら、お互いに隙を窺いあって、睨み合い始めた。そこには激しい緊張感が漲り、倶楽部員たちは息をのんで見守った。
「思い出したようじゃないか、ミシャッソー。」
黒騎士がにやりと笑っていうと、ミシャッソー君は、先ほどまでと打って変わった冷静な声で云う。
「ええ、思い出しました。で、もう、止めてもいいですか。」
そうして、青年ミシャッソー君が、急に殴り合う構えを解いたので、倶楽部に漲っていた緊張もまた、一気に解けた。しかし、緊張はとけても、疑問は解けてはいない。見ている方としては何がなんだかよくわからず、ただぽかんとして見つめるだけだ。ミシャッソー君はロメオをはじめとする、殴り飛ばされた会員を助け起こすと、それから云った。
「皆さん。大変申し訳ありませんでした。僕はとんだ思い違いをしていました。それに巻き込んでしまい、このような事態になったことをどうかお許しください。」
ミシャッソー君は会員たちを見回し、しっかりと落ち着いた声で云う。その言葉には、先ほどまではなかったかすかな外国訛りが混じっていた。
「いや、こういう事はよくあるから、構わんのだがね。」
ロメオが、殴られた顎をさすりながら、多少混乱した表情で云う。
「しかし、記憶は戻ったのかね。」
「ええ、全て思い出しました。僕は、白貂の婦人を、強盗から助けて逃がしました。そして、数人の男と格闘していたのです。今、それと同じような状況を再現していただいたお陰で、思い出しました。多勢に無勢ではありますが、多少の武術の心得はあるので、そこまで圧されていたわけではなかったのです。しかし、全ての男に目を配れていたわけではありませんでした。それで、卑怯にも後ろから殴られて気を失い、同時に記憶まで失い、死んだようになっていたところを、おそらくは本当に死んだと思われて、河に捨てられたのです。しかし、これは何も、恋からくる騎士道精神から行われたことではありません。それが、僕の仕事だったのです。
 白貂の婦人は、さる国の高貴な身分の方のお嬢さんに当たる方です。彼女は、望まない婚約から逃げ出して、この国へやってきました。そして、僕は本来は、彼女を連れ戻すために派遣された者です。しかし、僕がこの国に着いて数日と経たない内に、肝心の婚約者の方が倒れ、昏睡状態に陥ったのです。その彼は既にご高齢でしたから、回復するかはわかりません。それで、暫くは様子を見ると云うことで、僕の役割が秘密裡の警護に変わったのです。不幸にして、倒れた婚約者の方は、数ヶ月の内に亡くなりました。しかし、彼女は自分達よりもはるかに年上の男性に自分を嫁がせようとしたご両親を許せず、帰国なさいません。それで、僕は引き続き秘密裏に彼女の警護を続け、帰国するよう説得するのはご家族がなさるということになりました。それで僕は、この一年、秘密裡に白貂の婦人の警護にあたり続け、報告書を書き送ると云う生活を続けていたのです。この国の政府の方のお力添えにより、僕の侍従の妹をこの方に紹介したのも、そのためです。白貂の婦人の身の回りに、危険そうな人物がいないかを知り、また、彼女の無鉄砲さに歯止めをかけるためです。なにしろ、外国にひとりで逃亡したり、夜中に散歩に出たりするような方ですから。それで彼女はある時、あるパーティでご友人と喧嘩をし、車無しで歩いて帰られようとして、強盗に合われたのです。僕は幸い、彼女を逃がすことに成功しましたが、記憶を失いました。そして、現在に至るのです。」
ミシャッソー青年が語りおえると、黒騎士が付け足す。
「で、その仕事を俺が全部ひとりで引き継ぐはめになったんだ。同盟国のお嬢さんだからな、ひとりでうろうろしているのを無視するわけにもいかん。それで俺に、こいつの補佐役が回ってきた。それが一年ほど前の話だ。最初はまあ、手助けをする程度でよかったんだがな。肝心のこいつが記憶をなくすもので、俺は二ヶ月も移り気なお嬢さんのお守りをしなきゃいけなかったわけだ。」
黒騎士が多少苦々しげに云うと、ロメオが困ったように口を挟む。
「しかし、君はスパイを引退したんじゃなかったのかね。」
「だから、こういうつまらん仕事しか回ってこんのだ。」
「倶楽部には危険はないんだろうな。」
それから、ロメオは外国の秘密使節、恐らくはスパイに倶楽部の名刺を渡すのはけしからん、と黒騎士に説教を始め、そのあたりは倶楽部員の当面の関心事ではなかったから、視線はまた、ミシャッソー君に集中した。
「では、あなたは、特に白貂の婦人に感情を抱いていたというわけではないんですか。」
代表者のロメオが隅で説教中なので、代わって近くに居た「鼻なしのシラノ」が尋ねる。
「ええ、仕事では一切、私情を挟まないことにしています。」
ミシャッソー君は、その仕事の最中ででもあるかの如くに、沈着冷静にそう云う。
「ですから、僕はこの仕事を辞めるつもりです。」
あまり落ち着いてミシャッソー君がそう云うものだから、わたしたちは、その意味がよく飲み込めなかった。だが、あちらで薄笑いを浮かべてロメオの説教を聞いていた黒騎士には飲み込めたようだ。表情を変えて抗議の声をあげる。
「なんだって、おい、何を云い出すんだ。」
ロメオは事情が掴めずに、振り返って手近な連中に、「おい、どうしたんだ。」と尋ねる。ミシャッソー青年はしかし、相変わらず落ち着いた様子で、黒騎士に云う。
「仕方がありません。実際的に考えて、この仕事を続けるのは無理です。」
「何を云ってるんだ、思い出したなら続けられるじゃないか、全て二ヶ月前と変わらんよ。」
ミシャッソー君は、静かに中空を十秒ほど見つめる。そして、
「いいえ、変わります。」
と云った。
「僕は仕事に私情を挟まないからこそ、この仕事が出来たのです。僕は、仕事に入る前には、必ずそれに関わる人間に関しての感情のスイッチを切ります。侍従に親切に出来たのもそのためです。人間は個人的な感情に拘泥しなければ、他人に寛大になったり、彼らを自分の味方につけたりするのは意外と簡単なものなのです。しかし、そのような一種の感情のガラス窓が、開け放たれた状態のときに、僕はあの、白貂の夫人を見つけてしまったのです。記憶をなくしていなかったのなら、そんなことは決してなかったでしょう。しかし、いちど恋してしまえば、それはもう、ガラス窓の外には帰ってくれません。そういうわけで、僕は今までどおりに仕事を続けられないでしょう。ですから、仕事は辞めます。それに、あの侍従も気に入った、今までどおり手元に置きます。」
「ああ、もう、勝手にしてくれ。」
黒騎士は怒ったように云い、ソファにどっかと腰をかけ、煙草に火をつけると、ブランデーの瓶を開け、乱暴に云った。
「お前は記憶が戻ってないのさ、そういうことだ。国の連中にも記憶消失者として哀れまれたまま、惨めに異国で余生を送れや。裏切り者扱いされないだけましだと思え。畜生、あのまま河に流しときゃよかった。」
わたしは黒騎士のこの台詞を、かなり素直ではないが、後は任せろ、といったような意味なのだと解釈した。恐らく、ミシャッソー君もそうだったろう、少し、微笑んだ。そして、ミシャッソー君は今度は、ロメオに向かって云う。
「それに、この倶楽部も気に入りました。是非、入会させていただきたいのですが。」
ロメオは、「少し考えさせてくれ。」といって、近くの椅子に座り込む。二人目の元スパイを抱えこむ責任は、少しばかり重過ぎると思ったのだろう。
「しかし、まずは白貂の婦人に直接会いに行ってみた方がいいんじゃないのかね。意外と、想いに答えてくれるかもしれないじゃないか。」
「ええ、いずれはそのつもりですが。実は、もうひとつ、重大なことを思い出しまして。亡くなった彼女の婚約者というのが、実は僕の唯一の親類であった、祖父だったのです。おそらく、数年はその孫の顔も、見たくはないと思いますので。しばらくここで待ちたいのです。」
隅で黒騎士が大声で笑い出し、ロメオは深い溜め息をつき、そして「嘆く独身者倶楽部」は二人目の元スパイを受け入れたのだった。

13. 退会届「ギャニミード君の助力」

 その日、わたしが「嘆く独身者倶楽部」へゆくと、誰もいなかった。最近、こういうことがよくあるのだ。わたしは倶楽部の連中に避けられているような気がして、なんだか悲しかった。それと云うのも、どうやら、わたしの結婚が時間の問題らしい、と、皆が考えているらしいからだ。確かに、次の帽子記念日はもうすぐだし、今年はわたしの愛するひとが成人に達するから、帽子に指輪をつけて送れる。そうしたら、受け取ってもらえそうな気配は濃厚ではあるのだが。それにしたって、それはまだ確実ではないのだし、わたしにも不安や悩みは尽きないのだ。倶楽部の友達に相談したいことが山とある。
「なんだい、みんな冷たいな。」
わたしはひとり声に出して呟いた。呟いてはじめて、倶楽部にひとが居たのに気がついた。
「ほう、君がハムレッティ君かね。」
そう云って、あちらの席から立ち上がる人物が居た。わたしは息が止まりそうになった。その青年は、わたしの愛するひとにそっくりだったのだ。とびきり伊達な仕立ての服を着て、短い髪をきっちりと撫で付けてはいたが、わたしが卒倒しそうになるには十分だった。
「まあ、驚かないでくれ、僕はギャニミード、ロザリンドの双子の兄なんだ。」
彼は微笑んで云って、つややかに研かれた爪の手で握手を求めた。
「妹を嫁にくれてやる相手に会ってみたくてね。」
彼は云うと、わたしに座るようにと勧め、執事に珈琲を頼んでくれた。しかし、わたしはまだ動揺を押さえきれず、じっとギャニミード君を眺めていた。髭も生えていないし、声変わりもしていない。本当に、わたしが恋慕うひとその人ではないのだろうか。ギャニミード君は利発そうにてきぱきと話す。
「僕を疑っているね、無理もないことだ。だが、そんなことは後でいい、今はあまり時間がないんだ。僕は君を助けようとここに来たんだ。」
「助けに、ですって。」
「そうだ、助けに、だ。君はこの後、ある選択をしなきゃならない。ロザリンドとロメオが君を試そうとしているんだ。そして僕は、君が間違えないように手を貸そうと思うんだ。」
ギャニミード君は執事が持ってきた珈琲をわたしに手渡した。わたしはその間に、わたしの恋慕うひととの、若干の相違点を彼に見い出した。まず、彼は少し物静かな感じがしたし、眉毛がしっかりしているし、鼻が少し反り返っている気がする。それに、わたしに珈琲を渡したその手は、しっかりとしていて大きい気がする。全て、美しいことに変わりはないが。しかし、わたしはすっかり当惑していた。いったい、何を試そうと云うのだろう、そして何故、彼はわたしを助けようと考えるのだろう。
「何故、あなたは僕を助けようと思うんですか、僕を知らないのに。」
「うん、だから、僕は君を知るために、まず幾つかの質問をするよ。そして、僕が気に入ったら助けてあげよう。僕は不思議なんだ。何故、君はよく知りもしない妹をそこまで愛しているのかね?」 
ギャニミード君は捜査中の探偵のようにわたしをじっとみながら云った。わたしはそも視線に気圧されてか、このギャニミード君が、なんだかとても立派な人物のように感じ始めていた。それは不条理なことではあるのだが、わたしの慕う人に良く似て美しいのだから、仕方がないのかもしれない。動揺しながらも、なんとか答えようと努力した。
「ええと、あなたはダンテやペトラルカを読んだことはありますか。僕は彼女を見た瞬間に、心に愛の痛手を受けたのです。それからは、彼女があらゆる愛と美しさの源なんです。」
ギャニミード君は、その答えでは満足しなかったようだ。わたしの気を悪くしないように、言葉を選んで云う。
「うん、それはわかるよ。散々君の作品に書いてあった。しかしね、彼等は結局、恋人と結婚しなかったんじゃないかね。僕が問題にしているのはその点だ。彼女は天才たちのミューズや天使ではない、人間なんだ。ゲップもすれば眉毛の手入れに失敗して間抜けな顔になる事もあるんだ。この倶楽部の連中にしてもそうだ。君達は勝手に作り上げた幻想を愛しているのではないのかね?」
ギャニミード君のきれいな緑の瞳は、厳しく、真剣な光で輝いていた。ギャニミード君の口調に責めるようなところは見られなかった。彼は妹に恋する者を前にした兄として、当然の権利のある質問をしているのだ。わたしはうろたえた。確かに、その通りなのだ。そのようなことは度々、考えたことはあったのだ。だが、答えが出たことはない。わたしは仕方がなく、正直に答えた。
「確かにそうです、僕は彼女とろくに話したことすらありません。しかし、僕は彼女を愛することで、愛されないような点を改善してきたつもりです。それに、きっと彼女は、僕のどんな幻想よりも素晴らしい方である筈です。」
ギャニミード君は今度は、この答えが気に入ったように、微笑んだ。
「よろしい、君は真面目だ。では、君は幻想を壊すことが怖くはないのかね。君はダンテを引き合いに出したね。ダンテにとって、ベアトリーチェは天への導き手だった。君にとっては、ロザリンドがそうだったのかもしれん。まあ、多少怒りっぽいベアトリーチェだが。しかし、もし結婚したら、そうはいかないだろう。」
「そうでしょうか。」
「そうだとも、幻想はひとを天上に引き上げるが、現実はそうはいかない。」
ギャニミード君は、多少哀しげに云った。
「ロメオを知っているだろう、彼は僕の叔父だが、これをよく知っていた。だから、愛するひとにその秘めたる想いを一言ももらさないまま、今に至っているよ。彼はロザリンドの家庭教師を愛している、聡明な女性で、彼女もまたロメオを愛している。だが、お互いに自分を高めてくれる幻想を守るために、何も云わない。今度、ロメオは彼女を校長に学校を建てるそうだよ。そして、それもまたひとつの愛の形だ。君は何故、そうはしたくないのかね。」
わたしはそう質問されて、どきりとした。ダンテはベアトリーチェと結婚しなかった。ロメオもそれに倣い、老アルフォンソもまた、ある意味ではそうなのかもしれない。そして、わたしは先日聞いた、老オルフェの話を思い出した。彼が泣きながら眺めたと云う地上の生活、彼が喜んで手放した地上の生活、それがわたしは欲しかった。
「だけど、僕は彼女と結婚したいのです。天上に導いて欲しいのではなくて、地上で隣にいて欲しいのです。僕は美しいものだけが欲しいのじゃないんです。ロザリンドさんがお婆さんになって、僕に小言を云うのが聞きたいんです。」
ギャニミード君は黙っていた。彼は全く無表情で、緑の目だけが明るく燃えてわたしを見守っていた。わたしは理解してもらおうと必死になった。
「僕は老オルフェが亡くなった奥さんの事を話すのを聞きました。老オルフェは、奥さんと一緒に老いたかったんです。でも、天国で見た神の愛から比べて、自分の愛の貧しさを知って、そちらに奥さんを委ねて一人で生きることを決めました。でも、ロザリンドさんは生きています。そして、僕は、この地上で、二人で一緒に小さな天国を日々見ていきたいんです、一緒に。」
ギャニミード君は、まだ黙っていた。
「それに、僕は老オルフェがこう云っていたのを聞きました。人は神の似姿です。そして、神が愛だというのなら、僕が愛することを助けてくださるでしょう。だから、僕は自分の愛しうる能力を疑ってはいけないんです。」
わたしは必死に語り終え、ギャニミード君の返答を待った。それ以上、語る気はなかった。わたしは正直云って、自分自身に驚いていた。いつの間にか、自分でも思ってもみなかったことを云っていたのだ。しかし、それはわたしの心の底に、ずっと在った言葉だった。わたしはその言葉を語ったことで、ずっと失くしていた何かを見付けたような気持ちになった。そして、ギャニミード君は微笑んだ。
「よろしい、それだけわかっていたら十分だ。僕は君を助けることにしよう。君は絵が好きだそうだね、ならばティツィアーノの、愛の寓意の絵を知っているね?」

それは、裸体で表された天上の聖なる愛を示すヴィーナスと、豪華な衣服を身に纏った地上の俗的な愛を表すヴィーナスのいる絵だ。わたしはそれを知っていたので、頷いた。ギャニミード君は微笑んで応じる。
「君は、その絵のなかの、どちらかを選べと言われる筈だ。そして、地上の愛の方が君の求めるものには近いだろう。だが、君はそこにこそ、天上の愛も見出さなければならない。だから、君はどちらも選んではいけない。どちらが欠けても君にとっては不完全だからだ。そこで、第三のものを選びたまえ。それは、君が見ればすぐにわかるものだ。」
そう云うと、ギャニミード君は立ち上がった。
「もう行かなくては。彼等が来るからね。君は、選択を間違えないように。」
そうして、すばやく踵を返して、出て行った。わたしは、黙って呆けたままそれを見送ってしまったが、彼が姿を消してしまってからようやく、お礼を云い損ねたことに気がついた。そうして、わたしはひとり倶楽部に取り残された。ギャニミード君の登場は短くて真剣で、なんだか幻のような印象を残していた。しんとした午後に耳を傾け、わたしはなんらかの思いのたけを託して、ほう、と大きな息を吐きだした。
 それから、突然、入り口の方が騒がしくなった。執事の悲鳴にも似た抗議の叫びと、楽団、ざわめきは陽気な叫び声に溢れ、それは部屋になだれ込んだ。それはさながら、祭典のごとくに華やかな一行だった。倶楽部員達は頭に花など戴いて、若い連中が籠に持った花びらを巻き散らし、どこで雇ったやら揃いの制服を着た楽団は賑やかな音楽を奏で、回りではやはり若い連中がそれに合わせて出鱈目に踊っている。年嵩の連中は白い古代風の衣装なんぞを着込み、熱心に話しながら若い連中に花をぶつけられている。
「いよう、ハムレッティ!」
奥さんの体にきれいな白い衣装を着せたアドニスが、わたしに花を投げ付けた。それから、小さな子供が二人、わたしの前に楽しげに笑いながら、転がり出てきた。二人とも、天使の羽を背負っている。ひとりはほとんど素っ裸で、ひとりは綺麗な青い衣装だ。二人は手にそれぞれ、綺麗な指輪の入った箱を掲げ、わたしの膝に飛び乗った。
「さあ、ハムレッティ、この可愛らしい双子の天使をご覧。指輪を選んでもらおうじゃないか。」
そう云いながら、前に進み出たのはロメオだった。
「そうだ、僕の妹に贈る指輪を選ぶんだぜ。僕は兄のギャニミードだ。」
そういって、笑いながらロメオの前に進み出たのは、ギャニミード君だった。先刻と同じ、思いっきり伊達な仕立ての服を着て、にやりと笑っている。わたしは、しかし、彼の鼻がそんなに反っていないのと、手が心持ち小さいのに気が付いた。これはギャニミード君ではではない、ロザリンドさんだ。
「さあ、選びたまえよ、二人のアモーレの内の、どちらの指輪を取るかね?」
ギャニミード君のふりをしたロザリンドさんは、楽しげに攻撃的に云った。わたしは、すっかり黙り込んで、震える手で、膝の上の子供たちを押しのけた。二人とも押しのけたものだから、周囲の人だかりは、なんだかびっくりしたような、白けたような抗議の声をあげたが、わたしは構わなかった。わたしは、震えてがくがくとする膝で何とか歩きながら、ギャニミード君の扮装の美しいひとに歩み寄った。口の中が渇いていたが、わたしはその心持ち小さな手を取り、その緑の瞳を見つめていった。
「あなたが持っている指輪です、ロザリンドさん!」
その声は上ずってひっくり返ったが、ロザリンドさんは真っ赤になって、指輪の箱を差し出した。倶楽部中がどっと沸いて、音楽と、陽気な怒号が飛び交った。それから、皆はてんでばらばらに、祝い酒のシャンパンを栓を飛ばしたり、踊ったり、賭けた金のやり取りをしたりし始めたので、ロザリンドさんは真っ赤になったまま、わたしに照れくさそうに笑いかけた。ロメオが、嬉しそうにシャンパンを煽りながら割ってはいる。
「しかし、すごいなハムレッティ、絶対無理だと思ったが。なんでわかった?」
「ギャニミードさんが、ヒントをくれたんです。」
「ギャニミード?あれは嘘だ、俺に甥なんていないぞ。」
わたしが驚いてロザリンドさんを振り返ると、彼女はそそくさと逃げ出して入り口から消えるところだった。ロメオは、大声で笑うと云った。
「ははあ、さては姪の奴、自分で云い出しておいて自信がなくなったな。」
ギャニミード君は終始、ロザリンドさんであったようだ!

「嘆く独身者倶楽部」の思い出

20年くらい前に書いた短編集です。その間にあちこち投稿したり、消したり。若い頃に書いておいてよかった、今じゃ書けない話だなとおもいます。

「嘆く独身者倶楽部」の思い出

「嘆く独身者倶楽部」という、報われない片想い中の有閑紳士倶楽部での日常を書いています。20世紀初頭の雰囲気で、ドタバタと楽しくできればと思って書いていた気がします。片思いの楽しさと、愛するって何だろうとか。詩、哲学、古典的心理学やら神秘主義やらに関心があったので、そんな雰囲気もちょっと入っていますが、細かい点はスルーして喜劇的に楽しんでいただければと思います。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-11-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 01. 入会届「嘆く独身者倶楽部」
  2. 02. 「金魚とりのジョン」
  3. 03. 「オランジェリーのパリス」
  4. 04. 「死んだアドニス」と「丸花蜂のヴィーナス」
  5. 05. 「ピュグマリオン製粉工場」
  6. 06. 「破れ篭のピンカートン」 
  7. 07. 「老アルフォンソの友人」  
  8. 08. 「鼻なしのシラノ」
  9. 09. 「黒い貴婦人の騎士」
  10. 10. 「ふられっぱなしのチェルビーノ」
  11. 11. 「老オルフェウスの回想」
  12. 12. 「記憶をなくした男」
  13. 13. 退会届「ギャニミード君の助力」