21時に本屋で

 本屋さんの、だれの手にも触れられず、そこに置き忘れられたような、すこしばかり背表紙の色褪せた詩集をひらいて、詩だ、と思う。それ以上も、それ以下もなく。
 時折、海の声がきこえた。
 正確には、海にいる生きものたちの声で、にんげんのように話す声ではなくて、どちらかといえば喃語に似ている。それがいくつも、かさなりあって、ふくざつにきこえるものだから、たまに頭が痛くなるのだけれど、都会の雑踏で立ち尽くしているよりも、まだ、わたし、という人格をたもっていられた。
 詩集の、ざらりとした紙質の表紙を撫でる。
 しらないひと。
 しらない出版社。
 二十一時に、コミックコーナーのまえでまちあわせをしている。かなりあ。こどもがえりをしてしまった、わたしの恋人。いや、かなりあは、さいしょから、こどもだった。気に入らないことがあると、たやすく癇癪をおこした。いらだちにまかせて、だれかを傷つけた。感情的で、無垢だった。
 赤子も同然だった、かなりあが、それなりに世の中のしくみがわかってきた頃の、ただ泣くだけではままならないこともあると気づきはじめるまで成長して、それでも、わたしの恋人であることに変わりなかった。かなりあは、ちいさな虫もころせないような、おとなしいこどもになった。
 くじらの声だけ、ふいに、はっきりときこえるときがある。
 これがくじらの声だと、わたしはなにをもって判断しているのか。でも、これはぜったいに、くじらのものだという自信が、なぜかあった。ふとやかで、のびやかで、平淡な声色だ。
 水平線のようだ。

21時に本屋で

21時に本屋で

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-22

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