さくら貝の落陽

さくら貝の落陽

さくら貝の落陽(ひ)

シナリオ「さくら色の落陽」


─波音。
─波間に揺れる月明かり。
 ガス灯の明かり。
回っている灯台の明かり。

─男の(しゃが)れ声が入る。
声「─綺麗だね。久しぶりだ。港
  も─」

婦人。妻、燈子(すみこ)ソフト 
   フォーカス越しの様な映
   像。以下、ずっと。

老齢の男。究(きわむ。78歳)
  ─薄いサングラスを掛けてい
   る。
─燈子に眼差しを移し、
究「─君も─いや、むしろ君が美
  しい」
燈子。にこやかに微笑む。
燈子「─ありがとう。いつも優し
   いのね。あなたも素敵よ」
究「─ありがとう」
 唐突に振り返り怪訝(けげん)に目線を泳
 がせ、
究「─あ、まただ─」
 ─の目線の先に見える、同年代
  くらいの男。

究。眉間に(しわ)を寄せ、
究「─何だって、僕らの後をつけ
  回すんだろ─」

燈子。笑って、
燈子「─どうしてかしらね。ま、
   気にしなきゃいいのよ」

究「─うん。しかしどこかで見た
  ような─」
 ─首を(かし)げる。
  ─眼を戻し、
究「─歩こうか─」
燈子。優しく(うなず)く。
  ─波音。

レンガ通り

ガス灯の明かりに照らされ、
 ─寄り添いながら歩く二人。

究。そっと燈子の掌を引き寄せ
  る。
燈子。笑みを浮かべる。

究「─後悔してない?こうなって
  しまったこと─」
燈子。笑って首を振る。
燈子「─何言ってるのよ。もうど  
   れだけ時間が過ぎたの。─
   それともあなたは、後悔し
   てるの?」
 ─悪戯(いたずら)な眼差しで覗き込む様に
  究を見る。

─ピアノ曲、静かにイン。

ラウンジバー─
─シャンパングラスを傾ける究。

カウンター。から、
 ─訝しげ(いぶかしげ)に究を見ているマスタ
  ー。

究「ちょっと小腹がすいたね。」
 ─右手をあげ店員を呼ぶ。
究「─パスタにする?それともピ
  ッツァ。いつものマルゲリー
  タがいい?」
燈子。にこやかに頷き、
燈子「あなたのお好みで─」

究。も笑みを返し、店員を見上
  げ、
究「─じゃ、マルゲリータを」
店員「かしこまりました」
 ─頭を下げ去る。
─店内に流れているピアノ曲。

究「─あ。この曲。何だっけ─」
燈子「─ポロネーズよ」
究「─そうだ。君の好きな曲だっ
  たね─ショパンの」
燈子。笑みを浮かべる。

─ピザが運ばれてくる。
究。店員に頭を下げる。が、首を
  傾げ、
究「─足りないよ─?」
店員。究を見る。
店員「─は─?」
究「─取り皿が、一枚足りない
  ─」
店員。もう一度究を見る。
 ─短い間。
究「─早く持ってきて」
店員「─あ、はい─」
  ─曖昧(あいまい)に頭を下げ去る。
怪訝な眼で店員を見送る究。

美味そうにピザを頬張る究。
─目線を上げて。

究「─進まないね。体調でも良く
  ないのかい─」
 ─不安げに燈子を見る。
燈子。小さく頭を振り、
燈子「─胸がいっぱいになるの。
   あなたとこうして、デート
   する度─幸せな気持ちでね
   ─」
究。飲みかけたシャンパンの手を
  止め、
究「─あ。─ありがとう。ごめん
  よ。僕は多分─退屈な男だか
  ら─器用じゃないし。君を楽
  しませてあげられないね─」
燈子。じっと究を見つめる。
 ─突如その眼差しが潤み、涙が
  こぼれる。

─ポロネーズ、急激に遠ざかる。
 
究。慌てて、
究「─ど、どうした─」
 ─立ち上がり掛けた時、飲み差
  しのグラスを手前に倒す。

テーブル。から、
─滑り落ちるグラス。
 ─無声音で床に砕ける。
─よろけ膝から崩れ落ちる究。
  ─画面。不安定に暗転して、同時に、
「さくら貝の歌」遠くからイン。

・地面から、立ち上る灰色の煙。
・表情乏しく歩く人々。
・兵服の男たち。疲弊(ひへい)した足を
 引きずる様にして歩く。
頭陀袋(ずだぶくろ)を持ち、忙しげ(せわしげ)に働くモ
 ンペ姿の女たち。
・配給の食料を広げ手際良く分け
 ている。

焼け野原。に、
 ─立ち尽くしている復員。
  若き日の究(20歳)右目に
  眼帯をしている。
─「さくら貝の歌」。
究。悄然(しょうぜん)と、
究「(呟く)何だ。ここは─」
声「(突如)─み、水─く、れ
  ─」
究。驚愕し声の主を探す。
 ─の足首を、
掴んでいる汚れにまみれた手。

究。思わず足を引く。
恨めしげに、究を見上げている老女。
老女「(嗄れ声で)─どこからき
   た─」
究。生唾を飲み、
究「─え」
 ─老女を見下ろす。
老女「─ここの世のものではない
   な─早う、去(い)ね─」
究。老女を見ながらおずおずと後
  ずさる。
 ─空を見上げる。

夕陽─見事に空を染めている。

究。
 ─その耳に、
「さくら貝の歌」徐々(じょじょ)に高まる。

瓦礫(がれき)
 ─の中に立ち尽くしているやは
  り若き日の燈子(23歳)
  
燈子。胸に両手を合わせ姿勢正し
   く「さくら貝の歌」を唄っ
   ている。
   その美しい歌声。
究。思わず眼を閉じる。突如、
 ─身体がよろける。
 ─の下げている鞄を、
懸命に奪おうとしている子ども。
究「─何をするっ!─」
 ─振り払う。
─倒れる子ども。
 究を見上げる。悲しげなその眼
 差し。
究。ちょっと考え、鞄の中を探
  る。
 ─何やら油紙に包まれた物を差
  し出す。
包。に包まれたサツマイモ。
子ども。ひったくる様にそれを
  手にする。
 ─走り去る。その様子を見てい
  た燈子。─歌を止め、究を見
  つめる。

子ども。離れた場所から究に手を
    振る。

究。─初めて笑みを浮かべる。

遠くから「ポロネーズ」イン。

燈子の声「─優しい人だった。昔
     から─」

ラウンジバー(現実)
  ─膝を上げ立ち上がる究。
店員。慌てて駆け寄り割れたグラ
   スを片づけ始める。
究。辺りを見廻す。
 ─首を捻る。

究「(呟く)僕は、何をして
  た?」
 ─店員に丁寧に頭を下げて、
究「─いや、申し訳ない─」
店員「大丈夫ですよ。お怪我はあ
   りませんでしたか?」
究「─あ。はい」
 ─もう一度頭を下げ、テーブル
  を見る。
燈子。─が居ない。
 ─短い間。
究。店員を見、
究「─あ?─燈子─いや、妻は
  ─」
店員「─は?」
 ─究を見返して首を傾げる。

声「─何だろう?入店してから  
  ちょっとおかしくないか?様
  子が─」

カウンター。
 ─他の店員二人がこそこそ話し
  ている。

究。所在なく椅子に掛ける。
片づけが済み去りかけた店員に、

究「─妻は、トイレかね─」
店員。再び首を傾げ、曖昧に頷き
  去る。
究。残りのシャンパンを自分のグ
  ラスに注ぐ。

カウンター席。に、
 ─掛けている究と同年代と思し
  き男。正木(まさき)。
 ─コーヒーを飲みながらを時折
  窺う様に究を見ている。

燈子の声「─どうしたの─」
燈子。いつの間にか席に着いてい
   る。
究。相好(そうごう)を崩して、
究「─ピッツァも冷えてしまっ
  た。代わりを頼もう」
燈子。笑みを浮かべゆっくり首を
   振る。
究「─いや、しかしまだほとんど
  何も口にしてないじゃないか
  ─」
 ─不安げに燈子を見る。
燈子「─だいじょうぶ。もうたく
   さんよ─」
究「─そうか。君がそう言うな
  ら」
 ─ふと笑みを浮かべ、
究「─さっき、何故だか夢を見た
  よ─」
燈子。笑って、
燈子「─あら。不思議ね。起きて
   るのに─」
究。頷き、
究「─君の夢だった。─初めて出
  逢ったあの日の─。さくら貝
  の歌を唄ってた─美しい声で
  ─」
燈子「─さくら貝の歌─懐かしい
   わ─」
究「─もう一度、聴きたい─」
燈子。優しく見返す。
究「─なあ。さっきは何故、─涙
  を─」
燈子「─あなたが、あまりにも優
   しいから─」
 おもむろに立ち上がる。
─画面、すっと暗転しスポットが燈子に。

燈子。唄いはじめる。
 ─澄み切ったその歌声。唄いな
  がら、
 ─その目元に浮かんでいる涙。

究。じっと閉じたその目尻にも光
  るもの。突然、

天井から。舞い降りて来る桜の花
     びら。

イメージ(一瞬)
 ─川面。を見下ろし佇む二人。
─「さくら貝の歌」

究の声「(若い)綺麗だ─」
イメージ(一瞬)
─若き日の燈子。
 美しいその横顔。

記憶
─橋の欄干。に、
 佇んでいる若い二人。

燈子。の後れ毛が風になびく。
究。水面を見下ろしたまま、

究「─綺麗だ。花筏(はないかだ)も─いや。む
  しろ、君が─」
燈子「─ごめんなさい─いけない
   ことに巻き込んでしまった
   ─」
究「─悔いはないよ。─正木には 
  僕からきちんと─」
燈子。(にわ)かに潤んだ眼差しを俯け
燈子「(かすれて)本当に、─ご
   めんなさい─」

二人の眼下を、
  ─流れる花筏。花びらたちの
   淀む情景。
声「─どう言う意味だ。よく分か
  らんが─」
居間(正木の家)
 ─深々と頭を下げている究。
正木。曖昧に笑みを浮かべ、究を
   見下ろしている。
 ─小さく咳払いをして、
正木「─何だよ。何を詫びる─」
 ─間。

究。緊張したその顔に、
燈子の声「─わざわざ、すみませ 
     ん─」

正木の家(記憶)

燈子。林檎の皮を剥き始める。

究「─いや、しかし大したことな
  いようでよかった─」
燈子。笑みを浮かべ、
燈子「もう痛がり方が酷くて、救
   急搬送されたんですのよ」
究「術後、暫く入院だね─」
燈子。手元に視線を落としたまま

燈子「─はい。でも胆石くらいで
   よかった。本当に─」
 ─つい、と手元が滑る。
燈子「─あ、─」
 ─左の人差し指の先に滲む血。
  見る見る流れ出て来る。
究「─いけない。上潮(あげしお)だ。─」
 ─急いで自分のポケットからハ
  ンカチを取り出し燈子の傷口
  を抑える。
燈子「─あ、ありがとうございま
   す─」
究。抑えたハンカチを見つめたま
  ま、
究「((かす)れて)また、さくら貝の
  歌を─聴きたい─」

燈子。

究「─あなたの歌声を─できれば
  ─いつも─」
 ─左手をおずおずと伸ばし、震
  えながら燈子の肩に触れる。

現実(正木の家)

究。目線を上げ、
究「─話した通りだ。─しかも、
  お前が─不在の折に、─」
 ─再び頭を下げる。
正木。その表情がみるみる険しく
   なる。おもむろに浮かび上
   がるその憤り。
正木「(精一杯抑えて)ふざけて
   んだよな─?─冗談、だよ
   な─?─」
  ─煙草を(くわ)え掛けた口元が震
   える。
究。身じろぎしない。
   ─長い間。
正木「(震えて)ふざけんなよ。
   竹馬の友の─貴様が─そん
   な─ふざけんなよ─な─同
   じ日に赤紙が届き─砲弾を
   一緒に潜り抜けた─貴様、
   が─」
  ─必死に何かに耐えている。

縁側(究の家)
 ─針仕事の手を止め、茫然と究
  を見上げている妻、かや
 (26 歳)
   ─長い間。
かや。小さく息を吐き、
かや「(力なく)そうですか─わ
   かりました─仕方ありませ
   んね」
 ─その肩が小さく震える。
かや「(消え入りそうに)お世話
   になり─ました─」
究。蒼白(そうはく)にかやを見下ろす。

声「─悔いてるのね─」

現実(ラウンジバー)
燈子。にこやかに究を見ている。

究。俄かに狼狽(うろた)える。
究「─い、いや。そんな─そんな
  わけ─ある筈ないじゃないか
  ─」
燈子「(笑って)嘘おっしゃい。
   お鼻がひくついてる」
究。曖昧に目線を逸らせ、グラス
  に口をつける。
燈子「お綺麗な方でしたものね」
 ─悪戯な目線で見つめる。
 ─「ポロネーゼ」─間。
究「─幸せに─やっとるさ─」

イメージ(一瞬)
 ─かやの笑顔。
究「─あいつが─正木が─ついて
  おる─」

イメージ(一瞬)
 ─項垂(うなだ)れていたかや。
突如、
 ─響き渡るバイクの騒音。

窓外
 ─を、走り抜けるバイクの集
  団。

燈子「(笑う)若さ、ね─」
究。その耳に突然、
─突撃ラッパの旋律。同時に、
─けたたましい銃声。

記憶(戦場)
正木と究。

けたたましい
─爆撃音。
土を掘り起こしただけの要塞。
─正木の頭を咄嗟(とっさ)に抑える究。
─降下してくる戦闘機。
─掃射。
究。正木に身体ごとを被せる。
轟く爆音─

右目の機能を失した究。白濁(はくだく)した
その眼。

正木の声「─俺はな。生涯を貴様
    に感謝せねばならんのだ 
    。その眼と俺の、この命
    に誓ってな─燈子に─気
    持ちを─確かめる─」

究(現実・ラウンジバー)
 ─サングラスの向こうの焦点の
  定まらぬ眼差し。
声「─な。ああしてずっと独り言
  を言ってる。薄気味悪いなあ  
  。お引き取り願うか─」
正木。カウンターで目を上げて、
正木「─最愛の奥さんを亡くして
   ね─もう、三年になるが─
   時が止まったままなんだ─
   今日が彼女の命日でね─す
   まない。あのままにしてや
   ってくれ。迷惑は掛けない
   。責任は持つよ─親友なん
   だ─俺の─」
 ─その顔に、

正木の記憶
(究の元家)
 ─垣根の向こうで、
鉢植えに水遣りをしているかや。

正木。ぼんやり見ている。

喧しい蝉の鳴き声。

照りつける強い陽射し。

かや。目眩(めまい)がし、ふと膝から崩れ
   る。
正木。

正木の声「─大丈夫ですか─」
寝間
 ─敷布団の上にいるかや。
かや。不意に目を開け身体を起こ
   そうとする。
 ─慌ててそれを抑える正木。
正木「急に起きちゃいけない─」
かや「─すみません─」
 ─大きく息を吐く。
正木「─ずいぶんと─痩せてしま
   われた─」
かや。ぼんやりと正木を見る。
正木「─以前、お見受けした時よ
   りも─ずいぶんと─」

イメージ(記憶)
 ─座卓を囲み和かに食事してい
  る四人。究とかや。正木と燈
  子。

かや。
  ─長い間。
かや。静かに反対側を向く。
 ─その眼から涙がこぼれ落ち
  る。

現実(ラウンジバー)
正木。その脳裏に浮かぶ、

遺影─若き日のかやの笑顔。

正木。振り返る。

─ぽつねんとテーブルにいる究。
 懸命に独り言を呟いている。

正木。その顔に弱々しい、
かやの声「─あなた。たくさんを
     ありがとう─本当に─
     ありがとう─」

究。無人の席に向かい、笑みを向
  けている。

正木の記憶
 ─食卓に並んだかやの手料理。
かや。笑みを浮かべ、
かや「─今日は阿羅が上手に炊け
   たわ。よかった─あなたの
   好物ですものね─」

正木の声「─かや─何でもよかっ
     た─お前が拵えるもの
     ─何でもが─ご馳走だ
     った─」
   
イメージ(一瞬)
   ─かやの遺影。

正木の声「─ふかし芋。山菜の天
     ぷら、カツレツ─栗ご
     飯─赤だしに()の味噌
     汁は(こと)に絶品だった─
     どれも工夫したが─真
     似できずにいる─かや
     ─馳走になったな─か
     や─かや、─かや─」

病室(記憶)─じっとかやの手を
       握りしめている正
       木。
かや。懸命に眼を上げて、
かや「─ごめんなさい。何も残し
   てあげられない─子宝さえ
   ─ごめんなさい─」

ラウンジバー(現実)
正木。
─究を見つめる。その眼から突
 然、
 ─涙が溢れ出る。
   
どこからか聴こえて来る赤児の泣き声─

ラウンジバー(現実)

究。─振り返る。
立っている幼い男の子。
笑みを浮かべている。

究「─どうした。子どもが来るよ
  うな所じゃないぞ。─お父さ
  ん、お母さんはどうした─」
幼児。
 ─じっと究を見つめる。
究。燈子に目線を戻し、
究「─迷子かな」
燈子。不意に顔を歪め首を振る。
 ─その瞳から、
 ─見る見る溢れ出す涙。
究「─どうした─」
幼児。
 ─(おもむろ)に究の上着の袖を引く。
究。じっと幼児を見つめる。
  ─長い間。
燈子「─遥、よ─」
究。幼児を見つめる。
  ─長い間。
 ─その顔に、
声「─育ち切らなかったんですよ
  ─」
記憶(産院)
 ─茫然と顔を上げる燈子。その
  瞳が見る見る潤む。
医師「(淡々と)お腹の中で育ち
   切らなかった。残念ながら    
   ら─。性急に施術の必要が
   あります─」
究。

手術室─点灯している「手術中」
    の文字。
   ─調度の良くない長椅子に
    掛けている究。
   ─不安げなその顔に、

究の声「─すまん。銭が無かっ
    た─」

究。
究の声「─この歳になって職探し  
    に喘ぎ─二人分の糊口(ここう)
    (しの)ぐのがやっとの今─」
    
イメージ(一瞬)
 ─懐妊(かいにん)を知った燈子の笑顔。

究の声「─先を─食わせて行くこ
    とが─出来るのか─」
イメージ(一瞬)
 ─慈しむ様に腹を撫でる燈
  子。

究の声「─産まれて─産まれて本
    当に─大丈夫─なのか  
    ─」
イメージ(一瞬)
 ─愉しげにオムツを縫っている
  燈子。
    
究の声「─授かりものに掌を合わ
    せるどころか─養えるの
    か─そんな罰当たりな鬼
    畜の、意気地のない─愚
    かが─神に─裁かれた   
    ─」
究。手術室に向かい眼を閉じ、じ
  っと両の掌を合わせる。

究の声「─我が児を─殺し、た
    ─」

診察室(施術後)
究「(やっと)お腹の子は、─女
  の子ですか─男の子、─でし
  たか─」
  ─短い間。
医師。俄かに目を俯け、
医師「─男の子、でした」

経過観察室
 ─横たわる燈子。その掌を、
  じっと握り締めている究。
  哀しいその風景─。

究の声「─言えん─燈子─(震え
    る)すまん─到底─言え
    ん─」
究「─名をつけた─」

究の声「─すまん─。燈子─」

燈子。泣きじゃくっている。
究「─遥。─僕らにとって─永遠
  に─これからも─」
 ─その眼からも、溢れ出す涙。
究「(詰まりながら)永遠に子ど
  もであります─よう、に─」

現実(ラウンジバー)
究。唾を呑む。
究「─はる、か─遥なのか─」
 ─震える指で幼児の手に触れ、
  驚き指を引く。
究「─つ、冷たい─」
 ─思わず立ち上がり、また膝
  から崩れ落ちる。

焼け野原(幻影)
 ─霧が立ち込めている。
─聴こえて来る「さくら貝の歌」
 美しい歌声。次第にはっきりと

究「─燈、子─?」
 ─歌声、ぴたりと止む。
究「─ここは─どこだ─」

霧の中─に、薄ら浮かぶシルエッ
    ト。若き日の燈子。
燈子「─あなた。ありがとう─
   ずっと、いつまでもわたし
   を愛してくれて─」
究「─夢か─また夢なのか─」
 ─シルエットに近づき触れよう
  と指を伸ばす。が何故か届か
  ない。
─シルエット。徐々に明瞭にその
 姿を映し出す。
燈子。若き日のままのその姿。

究「─美しい。─燈子─」
燈子。笑みを浮かべて、
燈子「─帰り支度よ。─もう時間
   なの─」
究「─時間─?何の時間だ─?」
 ─短い間。
燈子「─あなたは今を生きる人。
   わたしは─あなたの中に生
   きる─」
究「─なに─何を、言うとる─」
 ─長い間。
燈子「─ここまでよ。あなたはも
   う戻らないとね─」
究。もう一度近づこうとする。
燈子。それを抑えるように右手で
   遮る。
究「─燈子─」
燈子。笑みを向ける。
究「─言えずにいたことが─あ
  る─」
 ─その唇が震える。
究「─僕は、─我が児を─遥を
  ─」
燈子。つと究に顔を近づけて、
燈子「─ありがとう。ずっと、ず
   っとあなたを─愛してる   
   ─今だけよ。─今だけ、─
   さよなら─」
 ─唇を寄せる。
 ─そっと口づける。
究。
 ─ふとまた意識が遠退く。

現実(ラウンジバー)

テーブルについたまま、
前のめりに突っ伏す究。
グラスが倒れ食器に当たる。
激しい物音。

正木。慌てて立ち上がる。
 ─究の元へ。

正木「究っ!おいっ!─」
 ─懸命に肩を叩く。
究。頭を起こし、ぼんやり正木を
  見る。
正木「─だいじょうぶかっ─」
究。()れた眼鏡を直し、周りを見
  回す。

究「─正木、─」
  ─短い間。
正木「─分かるのか─俺が─俺が
   分かるんだな─!?─」
究。じっと正木を見つめる。
究「─どうした─」
正木「─気がついたか─気がつい
   たんだな─?」
究。改めてぼんやり正木を見上
  げ、
究「─僕は、─何をしていた─」

正木。突如その顔がくしゃっと歪
   む。
正木「(やっと)─何でもない。
   お前は─ちょっと─寄り道
   をしてただけだ─」
究「─寄り道、─」
正木。何度も頷きながら、
正木「─そうだ─(詰まる)寄り
   道、だ─」
究「─そうか。─何だか、永い夢
  を見てた─気がする─」
正木。究の杖を取り肩を起こして
   やる。
正木「─帰ろう─」
究「─あゝ。うん─」
 ─初めて笑みをこぼす。

遠くから、
  ─聞こえて来る霧笛。

レンガ通り─を、
─支え合うようにしながら歩く二
 人。

正木「─珍しいな。霧が立ってる
   ─」
究「─うん。─正木。僕は何故─
  港に来とる─」
  ─短い間。
正木「─今日がな。今日が─貴様
   の奥さんの命日だからだ。
   ─奥さんはきっと、この場
   所が好きだった─」
究。ふと立ち止まり正木を見つめ
  る。
究「─そうじゃった─燈子の─命
  日─」
正木「─そうだよ。来月は─また
   ─今度は─かやの、命日だ
   ─」
究「─そうか。お前の─早いな─
  日の廻るのは─早い─」
正木「(笑う)─光陰矢の如し、
   だ」
究「─うん」
正木「─貴様も─俺も─ずいぶん
   と歳を重ねた─だがな。ま
   だまだやるべきことを残し
   てる─」
究「─やるべきこと、か─」
正木「そうだ─」
究「─お前は─お前は許せるのか
  ─大切な─掛け替えのない人
  を奪ってしまった─僕を─許
  せるのか─」
正木。立ち止まり、究を見つめ
   る。俄かに笑って、
正木「─何言ってる。お互い様じ
   ゃねえか─」
究「─うん。すまん─今更じゃが
  ─」
正木。究の肩を強く叩き声を立て
   笑う。
究「─ 正木─お前は、逃げたく
  ならんのか。─僕は─逃げ出
  したかった。戦からも─」

イメージ(一瞬)
遺影─微笑む燈子。

イメージ(一瞬)
究。目の前にある薬瓶。震える指
  で蓋を開ける。
  ─生唾を飲む。

究「人生からも─逃げ出しかけた
  ─」
正木「─ 何を言ってる。これか
   らさ。俺たちはまだ、これ
   からだ。俺はまだやるぞ。
   まだまだだ。胸の中で、い
   つもあの日の突撃ラッパが
   鳴り響いてるんだ。」

遠くから、
 ─響いてくる突撃ラッパ。

正木「─ 示してやらんとな。次
   の世代にだ。俺らの(わだち)を─
   必ず、伝わる─」
究。不意にその眼から涙が溢れ出
  す。
究。詰まりながらやっと、
究「─うん」

霧に霞むガス灯のぼんやりした明かり中、

─もつれ合う様な二人のシルエッ
 ト。次第に遠ざかる。
 ─静かに忍び寄る、
「さくら貝の歌」(燈子の歌声)


   

      ─了─

さくら貝の落陽

さくら貝の落陽

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-20

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