さくら貝の落陽
さくら貝の落陽(ひ)
シナリオ「さくら色の落陽」
─波音。
─波間に揺れる月明かり。
ガス灯の明かり。
回っている灯台の明かり。
─男の嗄れ声が入る。
声「─綺麗だね。久しぶりだ。港
も─」
婦人。妻、燈子(すみこ)ソフト
フォーカス越しの様な映
像。以下、ずっと。
老齢の男。究(きわむ。78歳)
─薄いサングラスを掛けてい
る。
─燈子に眼差しを移し、
究「─君も─いや、むしろ君が美
しい」
燈子。にこやかに微笑む。
燈子「─ありがとう。いつも優し
いのね。あなたも素敵よ」
究「─ありがとう」
唐突に振り返り怪訝に目線を泳
がせ、
究「─あ、まただ─」
─の目線の先に見える、同年代
くらいの男。
究。眉間に皺を寄せ、
究「─何だって、僕らの後をつけ
回すんだろ─」
燈子。笑って、
燈子「─どうしてかしらね。ま、
気にしなきゃいいのよ」
究「─うん。しかしどこかで見た
ような─」
─首を傾げる。
─眼を戻し、
究「─歩こうか─」
燈子。優しく頷く。
─波音。
レンガ通り
ガス灯の明かりに照らされ、
─寄り添いながら歩く二人。
究。そっと燈子の掌を引き寄せ
る。
燈子。笑みを浮かべる。
究「─後悔してない?こうなって
しまったこと─」
燈子。笑って首を振る。
燈子「─何言ってるのよ。もうど
れだけ時間が過ぎたの。─
それともあなたは、後悔し
てるの?」
─悪戯な眼差しで覗き込む様に
究を見る。
─ピアノ曲、静かにイン。
ラウンジバー─
─シャンパングラスを傾ける究。
カウンター。から、
─訝しげに究を見ているマスタ
ー。
究「ちょっと小腹がすいたね。」
─右手をあげ店員を呼ぶ。
究「─パスタにする?それともピ
ッツァ。いつものマルゲリー
タがいい?」
燈子。にこやかに頷き、
燈子「あなたのお好みで─」
究。も笑みを返し、店員を見上
げ、
究「─じゃ、マルゲリータを」
店員「かしこまりました」
─頭を下げ去る。
─店内に流れているピアノ曲。
究「─あ。この曲。何だっけ─」
燈子「─ポロネーズよ」
究「─そうだ。君の好きな曲だっ
たね─ショパンの」
燈子。笑みを浮かべる。
─ピザが運ばれてくる。
究。店員に頭を下げる。が、首を
傾げ、
究「─足りないよ─?」
店員。究を見る。
店員「─は─?」
究「─取り皿が、一枚足りない
─」
店員。もう一度究を見る。
─短い間。
究「─早く持ってきて」
店員「─あ、はい─」
─曖昧に頭を下げ去る。
怪訝な眼で店員を見送る究。
美味そうにピザを頬張る究。
─目線を上げて。
究「─進まないね。体調でも良く
ないのかい─」
─不安げに燈子を見る。
燈子。小さく頭を振り、
燈子「─胸がいっぱいになるの。
あなたとこうして、デート
する度─幸せな気持ちでね
─」
究。飲みかけたシャンパンの手を
止め、
究「─あ。─ありがとう。ごめん
よ。僕は多分─退屈な男だか
ら─器用じゃないし。君を楽
しませてあげられないね─」
燈子。じっと究を見つめる。
─突如その眼差しが潤み、涙が
こぼれる。
─ポロネーズ、急激に遠ざかる。
究。慌てて、
究「─ど、どうした─」
─立ち上がり掛けた時、飲み差
しのグラスを手前に倒す。
テーブル。から、
─滑り落ちるグラス。
─無声音で床に砕ける。
─よろけ膝から崩れ落ちる究。
─画面。不安定に暗転して、同時に、
「さくら貝の歌」遠くからイン。
・地面から、立ち上る灰色の煙。
・表情乏しく歩く人々。
・兵服の男たち。疲弊した足を
引きずる様にして歩く。
・頭陀袋を持ち、忙しげに働くモ
ンペ姿の女たち。
・配給の食料を広げ手際良く分け
ている。
焼け野原。に、
─立ち尽くしている復員。
若き日の究(20歳)右目に
眼帯をしている。
─「さくら貝の歌」。
究。悄然と、
究「(呟く)何だ。ここは─」
声「(突如)─み、水─く、れ
─」
究。驚愕し声の主を探す。
─の足首を、
掴んでいる汚れにまみれた手。
究。思わず足を引く。
恨めしげに、究を見上げている老女。
老女「(嗄れ声で)─どこからき
た─」
究。生唾を飲み、
究「─え」
─老女を見下ろす。
老女「─ここの世のものではない
な─早う、去(い)ね─」
究。老女を見ながらおずおずと後
ずさる。
─空を見上げる。
夕陽─見事に空を染めている。
究。
─その耳に、
「さくら貝の歌」徐々に高まる。
瓦礫
─の中に立ち尽くしているやは
り若き日の燈子(23歳)
燈子。胸に両手を合わせ姿勢正し
く「さくら貝の歌」を唄っ
ている。
その美しい歌声。
究。思わず眼を閉じる。突如、
─身体がよろける。
─の下げている鞄を、
懸命に奪おうとしている子ども。
究「─何をするっ!─」
─振り払う。
─倒れる子ども。
究を見上げる。悲しげなその眼
差し。
究。ちょっと考え、鞄の中を探
る。
─何やら油紙に包まれた物を差
し出す。
包。に包まれたサツマイモ。
子ども。ひったくる様にそれを
手にする。
─走り去る。その様子を見てい
た燈子。─歌を止め、究を見
つめる。
子ども。離れた場所から究に手を
振る。
究。─初めて笑みを浮かべる。
遠くから「ポロネーズ」イン。
燈子の声「─優しい人だった。昔
から─」
ラウンジバー(現実)
─膝を上げ立ち上がる究。
店員。慌てて駆け寄り割れたグラ
スを片づけ始める。
究。辺りを見廻す。
─首を捻る。
究「(呟く)僕は、何をして
た?」
─店員に丁寧に頭を下げて、
究「─いや、申し訳ない─」
店員「大丈夫ですよ。お怪我はあ
りませんでしたか?」
究「─あ。はい」
─もう一度頭を下げ、テーブル
を見る。
燈子。─が居ない。
─短い間。
究。店員を見、
究「─あ?─燈子─いや、妻は
─」
店員「─は?」
─究を見返して首を傾げる。
声「─何だろう?入店してから
ちょっとおかしくないか?様
子が─」
カウンター。
─他の店員二人がこそこそ話し
ている。
究。所在なく椅子に掛ける。
片づけが済み去りかけた店員に、
究「─妻は、トイレかね─」
店員。再び首を傾げ、曖昧に頷き
去る。
究。残りのシャンパンを自分のグ
ラスに注ぐ。
カウンター席。に、
─掛けている究と同年代と思し
き男。正木(まさき)。
─コーヒーを飲みながらを時折
窺う様に究を見ている。
燈子の声「─どうしたの─」
燈子。いつの間にか席に着いてい
る。
究。相好を崩して、
究「─ピッツァも冷えてしまっ
た。代わりを頼もう」
燈子。笑みを浮かべゆっくり首を
振る。
究「─いや、しかしまだほとんど
何も口にしてないじゃないか
─」
─不安げに燈子を見る。
燈子「─だいじょうぶ。もうたく
さんよ─」
究「─そうか。君がそう言うな
ら」
─ふと笑みを浮かべ、
究「─さっき、何故だか夢を見た
よ─」
燈子。笑って、
燈子「─あら。不思議ね。起きて
るのに─」
究。頷き、
究「─君の夢だった。─初めて出
逢ったあの日の─。さくら貝
の歌を唄ってた─美しい声で
─」
燈子「─さくら貝の歌─懐かしい
わ─」
究「─もう一度、聴きたい─」
燈子。優しく見返す。
究「─なあ。さっきは何故、─涙
を─」
燈子「─あなたが、あまりにも優
しいから─」
おもむろに立ち上がる。
─画面、すっと暗転しスポットが燈子に。
燈子。唄いはじめる。
─澄み切ったその歌声。唄いな
がら、
─その目元に浮かんでいる涙。
究。じっと閉じたその目尻にも光
るもの。突然、
天井から。舞い降りて来る桜の花
びら。
イメージ(一瞬)
─川面。を見下ろし佇む二人。
─「さくら貝の歌」
究の声「(若い)綺麗だ─」
イメージ(一瞬)
─若き日の燈子。
美しいその横顔。
記憶
─橋の欄干。に、
佇んでいる若い二人。
燈子。の後れ毛が風になびく。
究。水面を見下ろしたまま、
究「─綺麗だ。花筏も─いや。む
しろ、君が─」
燈子「─ごめんなさい─いけない
ことに巻き込んでしまった
─」
究「─悔いはないよ。─正木には
僕からきちんと─」
燈子。俄かに潤んだ眼差しを俯け
燈子「(かすれて)本当に、─ご
めんなさい─」
二人の眼下を、
─流れる花筏。花びらたちの
淀む情景。
声「─どう言う意味だ。よく分か
らんが─」
居間(正木の家)
─深々と頭を下げている究。
正木。曖昧に笑みを浮かべ、究を
見下ろしている。
─小さく咳払いをして、
正木「─何だよ。何を詫びる─」
─間。
究。緊張したその顔に、
燈子の声「─わざわざ、すみませ
ん─」
正木の家(記憶)
燈子。林檎の皮を剥き始める。
究「─いや、しかし大したことな
いようでよかった─」
燈子。笑みを浮かべ、
燈子「もう痛がり方が酷くて、救
急搬送されたんですのよ」
究「術後、暫く入院だね─」
燈子。手元に視線を落としたまま
燈子「─はい。でも胆石くらいで
よかった。本当に─」
─つい、と手元が滑る。
燈子「─あ、─」
─左の人差し指の先に滲む血。
見る見る流れ出て来る。
究「─いけない。上潮だ。─」
─急いで自分のポケットからハ
ンカチを取り出し燈子の傷口
を抑える。
燈子「─あ、ありがとうございま
す─」
究。抑えたハンカチを見つめたま
ま、
究「(掠れて)また、さくら貝の
歌を─聴きたい─」
燈子。
究「─あなたの歌声を─できれば
─いつも─」
─左手をおずおずと伸ばし、震
えながら燈子の肩に触れる。
現実(正木の家)
究。目線を上げ、
究「─話した通りだ。─しかも、
お前が─不在の折に、─」
─再び頭を下げる。
正木。その表情がみるみる険しく
なる。おもむろに浮かび上
がるその憤り。
正木「(精一杯抑えて)ふざけて
んだよな─?─冗談、だよ
な─?─」
─煙草を咥え掛けた口元が震
える。
究。身じろぎしない。
─長い間。
正木「(震えて)ふざけんなよ。
竹馬の友の─貴様が─そん
な─ふざけんなよ─な─同
じ日に赤紙が届き─砲弾を
一緒に潜り抜けた─貴様、
が─」
─必死に何かに耐えている。
縁側(究の家)
─針仕事の手を止め、茫然と究
を見上げている妻、かや
(26 歳)
─長い間。
かや。小さく息を吐き、
かや「(力なく)そうですか─わ
かりました─仕方ありませ
んね」
─その肩が小さく震える。
かや「(消え入りそうに)お世話
になり─ました─」
究。蒼白にかやを見下ろす。
声「─悔いてるのね─」
現実(ラウンジバー)
燈子。にこやかに究を見ている。
究。俄かに狼狽える。
究「─い、いや。そんな─そんな
わけ─ある筈ないじゃないか
─」
燈子「(笑って)嘘おっしゃい。
お鼻がひくついてる」
究。曖昧に目線を逸らせ、グラス
に口をつける。
燈子「お綺麗な方でしたものね」
─悪戯な目線で見つめる。
─「ポロネーゼ」─間。
究「─幸せに─やっとるさ─」
イメージ(一瞬)
─かやの笑顔。
究「─あいつが─正木が─ついて
おる─」
イメージ(一瞬)
─項垂れていたかや。
突如、
─響き渡るバイクの騒音。
窓外
─を、走り抜けるバイクの集
団。
燈子「(笑う)若さ、ね─」
究。その耳に突然、
─突撃ラッパの旋律。同時に、
─けたたましい銃声。
記憶(戦場)
正木と究。
けたたましい
─爆撃音。
土を掘り起こしただけの要塞。
─正木の頭を咄嗟に抑える究。
─降下してくる戦闘機。
─掃射。
究。正木に身体ごとを被せる。
轟く爆音─
右目の機能を失した究。白濁した
その眼。
正木の声「─俺はな。生涯を貴様
に感謝せねばならんのだ
。その眼と俺の、この命
に誓ってな─燈子に─気
持ちを─確かめる─」
究(現実・ラウンジバー)
─サングラスの向こうの焦点の
定まらぬ眼差し。
声「─な。ああしてずっと独り言
を言ってる。薄気味悪いなあ
。お引き取り願うか─」
正木。カウンターで目を上げて、
正木「─最愛の奥さんを亡くして
ね─もう、三年になるが─
時が止まったままなんだ─
今日が彼女の命日でね─す
まない。あのままにしてや
ってくれ。迷惑は掛けない
。責任は持つよ─親友なん
だ─俺の─」
─その顔に、
正木の記憶
(究の元家)
─垣根の向こうで、
鉢植えに水遣りをしているかや。
正木。ぼんやり見ている。
喧しい蝉の鳴き声。
照りつける強い陽射し。
かや。目眩がし、ふと膝から崩れ
る。
正木。
正木の声「─大丈夫ですか─」
寝間
─敷布団の上にいるかや。
かや。不意に目を開け身体を起こ
そうとする。
─慌ててそれを抑える正木。
正木「急に起きちゃいけない─」
かや「─すみません─」
─大きく息を吐く。
正木「─ずいぶんと─痩せてしま
われた─」
かや。ぼんやりと正木を見る。
正木「─以前、お見受けした時よ
りも─ずいぶんと─」
イメージ(記憶)
─座卓を囲み和かに食事してい
る四人。究とかや。正木と燈
子。
かや。
─長い間。
かや。静かに反対側を向く。
─その眼から涙がこぼれ落ち
る。
現実(ラウンジバー)
正木。その脳裏に浮かぶ、
遺影─若き日のかやの笑顔。
正木。振り返る。
─ぽつねんとテーブルにいる究。
懸命に独り言を呟いている。
正木。その顔に弱々しい、
かやの声「─あなた。たくさんを
ありがとう─本当に─
ありがとう─」
究。無人の席に向かい、笑みを向
けている。
正木の記憶
─食卓に並んだかやの手料理。
かや。笑みを浮かべ、
かや「─今日は阿羅が上手に炊け
たわ。よかった─あなたの
好物ですものね─」
正木の声「─かや─何でもよかっ
た─お前が拵えるもの
─何でもが─ご馳走だ
った─」
イメージ(一瞬)
─かやの遺影。
正木の声「─ふかし芋。山菜の天
ぷら、カツレツ─栗ご
飯─赤だしに麩の味噌
汁は殊に絶品だった─
どれも工夫したが─真
似できずにいる─かや
─馳走になったな─か
や─かや、─かや─」
病室(記憶)─じっとかやの手を
握りしめている正
木。
かや。懸命に眼を上げて、
かや「─ごめんなさい。何も残し
てあげられない─子宝さえ
─ごめんなさい─」
ラウンジバー(現実)
正木。
─究を見つめる。その眼から突
然、
─涙が溢れ出る。
どこからか聴こえて来る赤児の泣き声─
ラウンジバー(現実)
究。─振り返る。
立っている幼い男の子。
笑みを浮かべている。
究「─どうした。子どもが来るよ
うな所じゃないぞ。─お父さ
ん、お母さんはどうした─」
幼児。
─じっと究を見つめる。
究。燈子に目線を戻し、
究「─迷子かな」
燈子。不意に顔を歪め首を振る。
─その瞳から、
─見る見る溢れ出す涙。
究「─どうした─」
幼児。
─徐に究の上着の袖を引く。
究。じっと幼児を見つめる。
─長い間。
燈子「─遥、よ─」
究。幼児を見つめる。
─長い間。
─その顔に、
声「─育ち切らなかったんですよ
─」
記憶(産院)
─茫然と顔を上げる燈子。その
瞳が見る見る潤む。
医師「(淡々と)お腹の中で育ち
切らなかった。残念ながら
ら─。性急に施術の必要が
あります─」
究。
手術室─点灯している「手術中」
の文字。
─調度の良くない長椅子に
掛けている究。
─不安げなその顔に、
究の声「─すまん。銭が無かっ
た─」
究。
究の声「─この歳になって職探し
に喘ぎ─二人分の糊口を
凌ぐのがやっとの今─」
イメージ(一瞬)
─懐妊を知った燈子の笑顔。
究の声「─先を─食わせて行くこ
とが─出来るのか─」
イメージ(一瞬)
─慈しむ様に腹を撫でる燈
子。
究の声「─産まれて─産まれて本
当に─大丈夫─なのか
─」
イメージ(一瞬)
─愉しげにオムツを縫っている
燈子。
究の声「─授かりものに掌を合わ
せるどころか─養えるの
か─そんな罰当たりな鬼
畜の、意気地のない─愚
かが─神に─裁かれた
─」
究。手術室に向かい眼を閉じ、じ
っと両の掌を合わせる。
究の声「─我が児を─殺し、た
─」
診察室(施術後)
究「(やっと)お腹の子は、─女
の子ですか─男の子、─でし
たか─」
─短い間。
医師。俄かに目を俯け、
医師「─男の子、でした」
経過観察室
─横たわる燈子。その掌を、
じっと握り締めている究。
哀しいその風景─。
究の声「─言えん─燈子─(震え
る)すまん─到底─言え
ん─」
究「─名をつけた─」
究の声「─すまん─。燈子─」
燈子。泣きじゃくっている。
究「─遥。─僕らにとって─永遠
に─これからも─」
─その眼からも、溢れ出す涙。
究「(詰まりながら)永遠に子ど
もであります─よう、に─」
現実(ラウンジバー)
究。唾を呑む。
究「─はる、か─遥なのか─」
─震える指で幼児の手に触れ、
驚き指を引く。
究「─つ、冷たい─」
─思わず立ち上がり、また膝
から崩れ落ちる。
焼け野原(幻影)
─霧が立ち込めている。
─聴こえて来る「さくら貝の歌」
美しい歌声。次第にはっきりと
究「─燈、子─?」
─歌声、ぴたりと止む。
究「─ここは─どこだ─」
霧の中─に、薄ら浮かぶシルエッ
ト。若き日の燈子。
燈子「─あなた。ありがとう─
ずっと、いつまでもわたし
を愛してくれて─」
究「─夢か─また夢なのか─」
─シルエットに近づき触れよう
と指を伸ばす。が何故か届か
ない。
─シルエット。徐々に明瞭にその
姿を映し出す。
燈子。若き日のままのその姿。
究「─美しい。─燈子─」
燈子。笑みを浮かべて、
燈子「─帰り支度よ。─もう時間
なの─」
究「─時間─?何の時間だ─?」
─短い間。
燈子「─あなたは今を生きる人。
わたしは─あなたの中に生
きる─」
究「─なに─何を、言うとる─」
─長い間。
燈子「─ここまでよ。あなたはも
う戻らないとね─」
究。もう一度近づこうとする。
燈子。それを抑えるように右手で
遮る。
究「─燈子─」
燈子。笑みを向ける。
究「─言えずにいたことが─あ
る─」
─その唇が震える。
究「─僕は、─我が児を─遥を
─」
燈子。つと究に顔を近づけて、
燈子「─ありがとう。ずっと、ず
っとあなたを─愛してる
─今だけよ。─今だけ、─
さよなら─」
─唇を寄せる。
─そっと口づける。
究。
─ふとまた意識が遠退く。
現実(ラウンジバー)
テーブルについたまま、
前のめりに突っ伏す究。
グラスが倒れ食器に当たる。
激しい物音。
正木。慌てて立ち上がる。
─究の元へ。
正木「究っ!おいっ!─」
─懸命に肩を叩く。
究。頭を起こし、ぼんやり正木を
見る。
正木「─だいじょうぶかっ─」
究。擦れた眼鏡を直し、周りを見
回す。
究「─正木、─」
─短い間。
正木「─分かるのか─俺が─俺が
分かるんだな─!?─」
究。じっと正木を見つめる。
究「─どうした─」
正木「─気がついたか─気がつい
たんだな─?」
究。改めてぼんやり正木を見上
げ、
究「─僕は、─何をしていた─」
正木。突如その顔がくしゃっと歪
む。
正木「(やっと)─何でもない。
お前は─ちょっと─寄り道
をしてただけだ─」
究「─寄り道、─」
正木。何度も頷きながら、
正木「─そうだ─(詰まる)寄り
道、だ─」
究「─そうか。─何だか、永い夢
を見てた─気がする─」
正木。究の杖を取り肩を起こして
やる。
正木「─帰ろう─」
究「─あゝ。うん─」
─初めて笑みをこぼす。
遠くから、
─聞こえて来る霧笛。
レンガ通り─を、
─支え合うようにしながら歩く二
人。
正木「─珍しいな。霧が立ってる
─」
究「─うん。─正木。僕は何故─
港に来とる─」
─短い間。
正木「─今日がな。今日が─貴様
の奥さんの命日だからだ。
─奥さんはきっと、この場
所が好きだった─」
究。ふと立ち止まり正木を見つめ
る。
究「─そうじゃった─燈子の─命
日─」
正木「─そうだよ。来月は─また
─今度は─かやの、命日だ
─」
究「─そうか。お前の─早いな─
日の廻るのは─早い─」
正木「(笑う)─光陰矢の如し、
だ」
究「─うん」
正木「─貴様も─俺も─ずいぶん
と歳を重ねた─だがな。ま
だまだやるべきことを残し
てる─」
究「─やるべきこと、か─」
正木「そうだ─」
究「─お前は─お前は許せるのか
─大切な─掛け替えのない人
を奪ってしまった─僕を─許
せるのか─」
正木。立ち止まり、究を見つめ
る。俄かに笑って、
正木「─何言ってる。お互い様じ
ゃねえか─」
究「─うん。すまん─今更じゃが
─」
正木。究の肩を強く叩き声を立て
笑う。
究「─ 正木─お前は、逃げたく
ならんのか。─僕は─逃げ出
したかった。戦からも─」
イメージ(一瞬)
遺影─微笑む燈子。
イメージ(一瞬)
究。目の前にある薬瓶。震える指
で蓋を開ける。
─生唾を飲む。
究「人生からも─逃げ出しかけた
─」
正木「─ 何を言ってる。これか
らさ。俺たちはまだ、これ
からだ。俺はまだやるぞ。
まだまだだ。胸の中で、い
つもあの日の突撃ラッパが
鳴り響いてるんだ。」
遠くから、
─響いてくる突撃ラッパ。
正木「─ 示してやらんとな。次
の世代にだ。俺らの轍を─
必ず、伝わる─」
究。不意にその眼から涙が溢れ出
す。
究。詰まりながらやっと、
究「─うん」
霧に霞むガス灯のぼんやりした明かり中、
─もつれ合う様な二人のシルエッ
ト。次第に遠ざかる。
─静かに忍び寄る、
「さくら貝の歌」(燈子の歌声)
─了─
さくら貝の落陽