
時雨を喰らうリコリス
時雨を喰らうリコリス
私はあの日の光景を死んでも忘れることはないのだろう。
アラスカの海岸に群生する赤いリコリス。降り積もる雪と彼岸花の織り成す白と赤のコントラストに包まれて、朗らかに微笑んでいる君の白い顔。
「君は世界で一番美しいよ」
私はその日、全ての罪を背負ったのだ。
私はしんしんと降る雪の中に黒い光を見た。その光が、私の未来を貫いて、瞬く間に私の前に横たわる全生涯を断罪するかのように強く照らした。その光は少年から大人に変わる狭間にいた当時の私にとっては、あまりにも眩しすぎた。それでも雪は降り続ける。寒さが背中に纏わりつく。だが、その雪もいつかはみぞれとなって、雨となった。
私は水に濡れた彼岸花を一つ手に取ると、旅立つ彼女への手向けとした。
ゴールデンウィークが明け、学校が再開した。渡辺が朝早く登校して自分の所属するクラスの教室に入ると「どこに遊びに行ったか」「ゴールデンウイーク中、何していたか」「宿題はやったか」などという話題で、読書の邪魔になるくらいにはクラスメイト達が五月蝿かった。
渡辺は仕方なくイヤフォンで両耳を塞ぐことにした。音楽再生機能だけを搭載した赤い色の音楽プレーヤーを操作して、いつも聞いている音楽フォルダーをリピート設定で聴く。『doublet』と『Leo』。この二つの曲は永遠と終末の狭間にいるような気分にさせてくれる。
そして今読んでいる途中の本を栞のところから開く。渡辺はそのまま本の世界に没頭する。独りで本の世界に逃げている罪悪感と戦いながら、ある本を読み進めていると、渡辺は不意に肩を叩かれた。思わずびくっとして視線を上げると、隣の席の榊原が渡辺のことを興味津々と言った風に覗いていた。
榊原は「久しぶり、渡辺くん」と微笑みながら言って、渡辺が読んでいる本に視線を移し始めた。渡辺はそれに感づいて、反射的に本を閉じながら「久しぶり、榊原さん」と紛らわすように答える。だが、榊原は渡辺の手の中にある本を指さして、やはり訊いてきた。
「これ、何の本を読んでいるの?」
「えっと、友達に勧められた本だよ」
渡辺は咄嗟に誤魔化した。別に、知られて困るようなものではなかったが、今読んでいる本については人にはあまり知られたくなかった。
「ふーん。タイトルは?」
それでもその本について訊いてくる榊原に、渡辺は諦めていっそのこと包み隠さず彼女に教えることにした。小説カバーを外して舌が蛇のようになっている独特な女性の絵が描かれた表紙を見せながら、申し訳程度に榊原に解説する。
「『蛇にピアス』っていう、芥川賞を受賞している小説だよ」
「あ、これ読んだことあるよ」
渡辺が言い訳をするようにこの小説が芥川賞を受賞していることを告げると、榊原からは意外な答えが返ってきた。この小説はかなり大人向けであり、ある種の凄みとエロスを兼ね備えた鋭利なアイスピックのような小説なのだが、それを榊原が読んでいることなど思いもしなかった渡辺は、戸惑いよりはむしろ喜びを感じていた。
「そうなんだ。これ、いいよね。実は僕、二回目なんだ」
「そっか。私は四回くらい読んでるよ」
「それはすごいね」
それから二人は高校一年生にとってはまだ少し早めなその小説について語り合った。性行為のシーンも含めて語り合った。その時間はとても楽しく、あっという間に朝のホームルームの時間になった。
「また後で話そうね」
榊原はそう言って渡辺の隣にある自分の席に座った。渡辺はホームルームの時間、先生の話を聞き流しながら、隣に座る榊原のことをちらちらと見る。
榊原は美人という感じではないが、少なからず整った顔立ちをしていた。黒髪のミディアムヘアーはボーイッシュな感じで、榊原はいつもクールビューティーな雰囲気を纏っていた。スタイルは抜群で、身長は渡辺より少し小さいくらい。女性にしてはやや高身長といったところだろうか。このことに加えて、同じ小説を読んでいるという事実に、渡辺は榊原のことが気になり始めていた。渡辺はその日、ろくに授業に集中できなかった。
今日の授業もいつもと変わらずとても退屈なものだった。だが、一つだけ渡辺には深く考えさせられたことがあった。五年前から高校で課されるようになった環境学の授業でのことだ。今回のテーマは地球温暖化だった。二十世紀後半から問題視され始めた地球温暖化という問題と人類がどう向き合い、どう解決したのかという内容だった。
今、世界では化石燃料は一切使われていない。代替する新しいエネルギーが見つかったからだが、そのエネルギーの発見までに人類は地球温暖化を加速させ続けた。その結果起こったのが異常気象、生態系の破壊、海水面の上昇などの諸問題だった。
かつては日本にも雪が降ったが、今では日本の地で雪が降ることはない。北海道でさえ、もう雪は降らなくなった。事実、生まれてこの方、渡辺は一度も雪を見たことがなかった。
今ではもう、北極圏や南極圏、高山などのごく限られた地域でしか雪は見ることができない。死ぬまでに一度雪を見てみたいと渡辺は思っていた。それももし願い叶うならば、榊原と一緒に見られたらと想像する。渡辺が物思いに耽っているとあっという間に授業は消化されていき、放課後になった。
「ねぇ、一緒に帰ろうよ」
帰りのホームルームが終わると、渡辺は榊原に話しかけられた。突然のことに渡辺は驚いたが、その誘いを渡辺は笑みを浮かべて快諾した。
「ねぇ、セックスしたことある?」
榊原と一緒に帰っていた渡辺は、榊原に突然そう訊かれた。渡辺は一瞬心臓が凍りつくような錯覚を覚えたが、無視もできないので、正直に答えることにした。
「いや、まだない」
「そう。実はさ、私もないんだ」
渡辺は榊原の顔を直視することができなかった。恥ずかしさと、惨めさで、次に何を話せばいいのかが分からなくなった。それに榊原の本心がつかめない。渡辺が次の話題を空回りする頭で考えていると、榊原が周りに聞こえない小さい声で、でも、確かにこう言った。
「する?」
渡辺の口から出たのは「えっ」という言葉にもなっていない声だった。「何をするの?」という阿呆みたいな返答しか頭の中で用意できずにいた渡辺が黙り込んでいると「嘘、冗談だよ」と、手をひらひらとさせながら榊原はどこかぎこちなく笑った。それを見て渡辺は余計分からなくなった。
「榊原さん、あの……」
訊かなければと思い彼女の名前を呼ぶも、どうしてもその続きが出てこない。もどかしい。心が苦しい。渡辺が逡巡していると
「里奈って呼んでよ」
と榊原が呟いた。渡辺は「里奈」と反芻するしか能がなかったが、それでも及第点だっただろう。
この日から渡辺と里奈は毎日一緒に帰るようになった。お互い帰宅部だったので、学校が終わると、二人で学校の最寄り駅近くの図書館に行き、閉館の十九時ぎりぎりまで読書をして駅で別れた。それがいつものルーティンになっていった。お互いの好きな小説を見せあったり、感想を言い合ったり、内容に関して議論したり。図書館だからあまり大声では話せないが、閉館時間の間際になると人は渡辺と里奈を除いて誰もいなくなる。司書さんも語り合う二人のことを微笑ましく見ていた。
そんな日々が一ヶ月くらい続いたある日、いつものように図書館の二階のフロアの隅にあるテーブルで里奈と本を読んでいると「今日さ、私の家に来ない?」と渡辺は誘われた。
すぐさま首肯する渡辺を見て、里奈は美しく微笑んだ。里奈が時折見せる可愛らしさに、渡辺は思わず彼女を異性として捉えてしまう。その度に渡辺はあの日の言葉の真意を考えては悶々としてしまうのだった。
その日、図書館を出ると小雨が降っていた。里奈は傘を持っていなかったので、渡辺は鞄の奥底にいつもスタンバイさせている折りたたみ傘を開いて、里奈と相合い傘をした。
里奈と肩が触れ合うのを渡辺が気にしていると里奈が手をお椀の形にして雨を掬いながらこう呟いた。
「そろそろ梅雨の時期ね」
相合傘をしながら里奈の家へと歩いた。渡辺は緊張していて里奈とうまく話せなかった。
里奈も黙り込んで、家へと渡辺を案内する。15分ほどで里奈の家に着いた。彼女曰く、今日は親の帰りが遅いらしい。渡辺は促されるままに里奈の家に上がり、彼女の部屋に入る。
終始、渡辺の臆病な心臓はドキドキしていた。恐る恐る里奈の部屋を見渡していると、びっしりと本の詰まった本棚が目に入る。本の数はざっと三百以上はあった。
「本の数すごいね」
「ありがとう。でも、本当はもっと読んでるよ。図書館で借りたやつとかね」
渡辺は感嘆のため息を漏らしてしまう。彼自身、自分は結構本を読む方だと思っていたが、里奈とは次元が違い、渡辺はなんだか申し訳なくなった。
「あのさ、祐介くん」
祐介とは渡辺の下の名だ。渡辺が「どうしたの?」と聞き返すと里奈は先程とは少し声色を変えて話し始めた。
「今日家に君を呼んだのには理由があります」
畏まってそう言った里奈は学生服の胸ポケットから紙切れを取り出して渡辺に渡した。
「これ読んで……」
渡辺は言われた通りにその紙切れに書かれてあった文字を読んだ。そこにはこう書かれてあった。
『私を殺してほしい』
渡辺は一瞬何がなんだか分からなくなった。思考回路がオーバーヒートした彼を置いてきぼりにして、里奈は説明を始める。
「祐介くんは知っているかな? 最近の睡眠薬はいくら飲んでもなかなか死ねないのよ」
里奈はそう言いながら今度は一つの本を渡してきた。
『阿寒に果つ』
渡辺が呆然と雪の絵が描かれたその小説の表紙を眺めていると里奈が語り始めた。
「私、別に生きるのが辛い訳ではないのよ。ただ美しく死にたいの。この小説に出てくる純子のようにね。だからこれ以上歳は取りたくないの。私には時間がないの。お願い、協力してくれる?」
里奈の言っていることを理解するのに渡辺にはしばらく時間がかかった。冷や汗が背中を伝う嫌な感触を味わいながら、渡辺は彼女の質問に質問で返す。
「いや、それって、僕に、殺人犯になれってことだよね?」
渡辺の呂律は全然回っていなかった。その時、動揺している渡辺の右手を里奈は手に取った。一体彼女は何をするのかと渡辺が思案していると、なんと里奈は彼の右手を自身の胸に押し付けた。掌から胸の柔らかな感触が伝わる。その際、性的興奮を少しでも抱いてしまった自分が渡辺は憎かった。
「祐介くん、私のこと好きだよね?」
首を傾げながら上目遣いで里奈は渡辺に訊く。
「ああ、好きだよ。だけど……」
「だけど?」
「僕は殺さない」
「いや、君は私を殺すよ」
「殺せないよ」
「殺すよ。だって、もし私を殺してくれるって約束してくれたら、私何でもするよ」
里奈はそう言うと渡辺のズボンに手を伸ばした。渡辺は焦って里奈の手を握って止めさせようとしたが、次の瞬間に渡辺の理性は保たなくなった。里奈が渡辺の唇にキスをしたのだ。ファーストキスだった。渡辺は初めてのキスの感触に戸惑いながらも、好きな人とキスをしているというこの状況に、否応なくとても興奮してしまった。二人はお互いに腕を背中に回して、舌を絡め合い始める。最初はぎこちなかったキスも次第に慣れ始め、二人はお互いの舌の感触を味わう余裕が出来てきた。
「私のこと、殺してくれる?」
渡辺をベッドの上に強引に倒すと、再び里奈はあの質問をした。
「……分からない」
「そう」
里奈は渡辺の回答を聞くと満足げに微笑んだ。
一人の少年はこの日、悪魔と契約を交わした。その悪魔は本や映像の中で登場するような恐ろしい姿ではなく、どこにでもいるような少女の姿をしていた。この日、否応なく彼の人生は変わってしまった。それが良いか悪いかなんて関係ない。少年は自らが負ってしまった定めを呪うことも好むこともしない。
「私、君のこと好きかも」
横に寝ている一糸まとわぬ姿の里奈がぽつりとそう言った。渡辺はその言葉の真意を考えては、もうどうでもいいことだと諦め、里奈の汗ばんだ髪を撫でる。しなだれかかる里奈は今まで見た彼女のどんな姿よりも一番美しく見えた。
渡辺はその日から里奈の家に通うようになった。里奈のご両親には彼氏だと紹介されたが、実際は付き合っているわけではなかった。ただ、死という黒い糸で繋がっているだけだ。もしくはセックスを通して繋がるだけ。運命の糸は黒色をしているものなのかもしれないと、渡辺は思った。
二人は来る日も来る日も快楽に身を任せてはお互いの身体を貪り尽くした。里奈は渡辺のことを愛しているのだという。二人の愛は歪だった。そもそもこれが愛と呼べるのかも怪しい。だが、渡辺はもうこの関係から抜け出せないことを悟っていた。「それでもいいさ」という諦念や、「やはり殺せない」という不安に苛まれて、でも里奈とキスやセックスをしている時はそんな不安も紛れた。
渡辺は今日も里奈と性行為をした。行為の後、彼は暗い天井を見つめながら考える。次の冬、阿寒の地にて、本当に僕は里奈を殺すのだろうか。何故、里奈はそこまで美しく死にたいのだろうか。その日、里奈は何を思い、どう死を受け入れるのだろうか。いや、本当に里奈は死を受け入れることができるのだろうか。ここでひとつ答えが見えた気がした。
「そうか。生きたいと思わせればいいのか」
「なにか言った?」
「いや、何でもない」
思わず呟いた言葉は里奈には届かなかったようで、渡辺はひとまず安心した。そうだよ、僕が頑張って里奈を未来志向にさせればいいんだ。美しく死のうなんて考えない程度には人生に希望を与えればいいじゃないか。暗い部屋にカーテンの隙間から光が差し込んで里奈の顔を照らす。渡辺はそんな里奈の美しい顔を見て、ひとつ気になっていたことを尋ねた。
「どうして僕だったの?」
渡辺がそう尋ねると、里奈はふふふと微笑んでから応えた。
「君、『蛇にピアス』を読んでいたでしょ。だからだよ」
里奈の提示した理由について渡辺は思考をめぐらした。ただ単に同じ本を読んでいるということで趣味や価値観が合いそうだからか、もしくは他に何か特別な理由でもあるのだろうか。渡辺は考えて、また一つ疑問が湧いた。何故、彼女はわざわざ僕を巻き込んだのだろうか。彼女は美しく死にたいと語った。なら、ひとりで阿寒の地にて果てればいいじゃないか。でも里奈はそうはしなかった。現に里奈は僕を自身の死に巻き込もうとしている。
もしかして、彼女はひとりで死にたくないのだろうか。殺されるということは死の瞬間を殺人犯と分かち合うということ。つまり、誰かにその美しい死に様を見届けて欲しかったとも考えられる。だが、体を重ねる度に渡辺には里奈の心の中にまだ生きたいという生への執着が残っているような気もした。だからふと渡辺は里奈に訊く。
「どうしても死にたいの?」
「何度も言っているでしょう。私は美しく死にたいの」
光が象る里奈の冴えない横顔を渡辺は言語化できない気持ちで見つめる。その瞳が一体何を見ているのかは、今の彼には分からなかった。
それから季節は瞬く間に過ぎていった。長い梅雨が終わると、騒がしいほどに暑い季節がやってきて、二人は普通の恋人のようにあちこちをデートした。水族館に動物園、カフェに旅行に遊園地。その頃には里奈は死という単語を口にはしなくなった。白いワンピースを着て夏の日差しを受けて微笑む彼女の姿には、死の翳りなどは一切見えなかった。渡辺は彼女が死ぬことを諦めたのかと考えるようになった。
秋の心はつれない。だから哀愁というのだろうか。中学生の頃はそんなことを季節が巡る度に考えていて渡辺だったが、鎌倉の紅葉の下を浴衣姿で歩く里奈を前にしては、過去のような愁いは伴わなかった。十一月の終わり、東京都美術館で開催されていたグスタフ・クリムトの没後二百年記念展に行った帰りに渡辺が絵を描けることを里奈は知った。
「じゃあ今度、私のことを描いてよ」
手ぶらの里奈が訊くと、グッズでいっぱいの袋を両手に提げた渡辺が頷いて応える。
「いいけど、そんなに上手くはないよ?」
「いいの。だからお願い」
「わかったよ」
数日後の秋の夕暮れに、里奈の部屋で渡辺は裸の里奈を描いた。渡辺はその時に里奈が前よりもかなり痩せていることに気づいた。その痩せ方は病的だった。心配になった渡辺は彼女に訊く。
「前より痩せた?」
「うん。今、ダイエット中なの」
渡辺は痩せ過ぎなのではとも思ったが、何となくそのことは指摘しなかった。渡辺が描いたのは真っ白なキャンバスの真ん中で微笑む裸の里奈だった。渡辺はあえて背景は描かなかったのだ。里奈はそれを大切に取っておいて欲しいと渡辺にお願いした。それが何を意味するのかを渡辺は薄々感じていた。里奈はやはり死ぬつもりなんだと、渡辺は悟る。だけど、依然として里奈の瞳には生への葛藤が映っているようにも思えた。その瞳を見る度に、渡辺は分からなくなる。
果たして、付き合い始めに彼女が渡辺に約束させたお願い「私を殺してほしい」はまだ有効なのだろうか、と。何故か日に日に里奈が遠くに行ってしまう気がして、その分二人は長く一緒に過ごした。
徒然なるままに秋が終わり、いつもの如く冬が来たが、日本には当たり前のように雪は降らなかった。冬休み明けの朝の教室で、渡辺は里奈が来るのを心なしか不安に思いつつ待っていた。というのも、里奈の具合が悪いからと、約束していたクリスマスのデートも新年の初詣も、二人は会えていなかったからだ。だが、朝のホームルームの時間になっても彼女は現れなかった。無慈悲にも時間は流れて、一限と二限が過ぎた。昼休みの時間になっても来ない里奈を心配して、渡辺は連絡を取ることにした。結果は音信不通。その日、里奈はとうとう学校に来なかった。
次の日も、そのまた次の日も里奈は学校に来ることはなかった。渡辺は不審に思い、ある日の放課後に里奈の家を訪ねた。玄関のチャイムを押すと、インターフォン越しに里奈の母親が出た。
「榊原ですが」
「すみません。渡辺ですが、里奈はいますか?」
「里奈……。誰のことかしら。それに、あなたは誰?」
「え? 里奈はあなたの子どもですよ」
「はい? 私にこどもはいませんよ」
渡辺は困惑する。一体この人は何を言っているのかと。
「では失礼します」
「あ、あの」
インターフォンはすっかり黙り込んだ。渡辺も黙り込んで、立ち竦んでしまう。一体どういうことだろうか。子どもがいない? 里奈は確かにこの家に住んでいた。じゃあ今はどこで何をしているのだろうか。渡辺は少しして、もう一度呼び出しボタンに手を伸ばそうとする。その時一人の男が渡辺に声をかけた。
「君、祐介君だね?」
「あ、お父さん」
声をかけたのは里奈の父親だった。仕事帰りなのか、スーツを着ている。彼はネクタイを緩めながら渡辺に言った。
「君の父になったことはないし、もうなることもないよ」
「それはどういう?」
「近くに奇麗な公園があるんだ。少しどうかね?」
渡辺は同意して、里奈のお父さんについていくことにした。黙々と里奈のお父さんについていく中で疑問が胸の中を巡る。里奈の母の言っていたことだ。渡辺はその問いをお父さんへ言い出せずに公園まで着いてしまった。里奈のことを聞こうとして口を開こうとする渡辺に、里奈の父はこう告げた。
「里奈はな、死んだんだ」
「え……」
渡辺はその言葉の意味を受け止められなかった。里奈が死んだ? 何故? いつ?
戸惑う渡辺を置き去りにして、里奈のお父さんは話の先を続けた。
「里奈はな、生まれつき先天性の病気で、もとから永くはなかったんだ」
ベンチに腰掛ける里奈のお父さんの声は近くの噴水の水の音がかき消し、渡辺以外の人の耳に入ることはなかった。
「里奈は病気だなんて一度も……」
「里奈はずっと気にしていたよ。君に病気のことが知られたらどうしようとね」
「何故ですか」
「里奈の病気はな、治ることもないし、美しい死に方もしない」
「美しい死に方……ですか」
「だが、君に里奈の病気のことを教えなくてよかったと、改めて思ったよ」
醜い姿を見られたくなかったのだろう。渡辺は里奈が病気のことを話さなかった理由が分かった気がした。渡辺は力なく里奈のお父さんに告げる。
「そう、ですか……。里奈は僕のことをなんと言っていましたか?」
「そうだな……。君の子どもを産みたいと言っていたよ。それくらい里奈は君のことを愛していた。元から子どもを産める体ではなかったがね」
里奈の父の話を聞いて、渡辺は泣きそうなのに泣けなかった。心が現実に追いついていなかったのだ。心は遠い後ろで躓いて、足を引きずっている。もしくは、まだ里奈は生きているとどこかで信じていた。いや、信じていたかった。
「私の妻はね、弱っていく里奈のことで耐えられずに、果てには健忘症を患った。だから、妻は里奈のことは忘れて、自分に子どもはいなかったと思うようになったんだ。里奈はね。高校に入るまではかなり精神的に不安定だったんだよ。病室で本ばかり読む子でね。むしろ、君に出会ってから人生に前向きになったんだよ」
「そうなんですね」
「だから私は君に感謝している。里奈に人として幸せな経験を与えてくれてありがとう」
「どういたしまして。僕で良かったんでしょうか」
「ああ。君で良かったんだ」
そう語る里奈のお父さんは少し寂しげに見えた。そんな彼は何かを思いついて顔を上げ、渡辺の方を向いた。
「そうだ。君にあてた里奈からのボイスメッセージがあるんだが、聞くかね?」
里奈のお父さんの思いがけない提案に、渡辺は疚しさを拭って、頷いた。
『……行きたかったところはね、やっぱりアラスカかな。雪原に咲く彼岸花と、降りしきる雪を見てみたかったんだ!』
雪がしんしんと降る海岸には、赤いリコリスが群生していた。異常気象と生態系の破壊の産物は、皮肉にも美しかった。僕は痛いほどに寒い風の中にイーゼルを立てて、絵を描いていた。そう、他でもない君の絵を。
『君と雪を見たかったな。それが心残り』
その絵には背景が足りなかった。
『実はね、君の子どもも生みたかったんだ。願わくば結婚したかったな』
絵に描かれた少女の瞳に雪が落ちて、まるで君は泣いていた。僕も懐かしい声に感極まって涙を流す。
『出会ったばかりの頃、私『殺してほしい』ってうるさかったよね。今思い出すと恥ずかしいな。でも、病気に殺されるくらいなら、やっぱり君に殺されたいな。でも、君を殺人犯にしちゃうから、我慢しまーす』
君のこと、殺せばよかったかな。そうしたら君は世界で一番美しい死に方ができたのかな。思わず手に握る筆に力が入った。
『そうだ! 今ね、君が誕生日にくれたマフラー使ってるよ! このマフラーを君だと思って頑張ってるんだ!』
君の声を聴きながら、絵の中の君の周りに、雪の白とリコリスの赤を満たしていく。
『祐介さ、タイムマシンって知ってるよね?』
何故タイムマシン?
『今、なんでって思ったでしょう?』
「え?」
僕は突如のことに混乱して、筆を雪の上に落とした。なんで録音の声が自分の思いを知っているのか、現実に理解が追い付かなかった。
『私ね、脳の病気なの。症状で全身の筋肉が委縮していくから、恥ずかしくて今の体は君には見せられない。でもね、病気は悪いことばかりでもなかったんだよ! この病気のおかげで魔法を使えるようになったんだ!』
「魔法?」
渡辺はそう独りごちると、まるでそれさえも知ってるかのようにボイスメッセージの中の里奈は続ける。
『そう、魔法。今のわたしの脳はね、タイムマシンでもあるの。過去と未来につながっているんだ。だから、君が今考えていることがわかるの!』
そんなこと、起こるわけない。
『本当だって、信じてよ! でね、私の命日は今日なんだ……。あと少しで死んじゃうの。だから、最後に一つお願いがあるんだ』
最後なんて言うなよ。旧式の音楽プレーヤーはそれでも音声を流し続ける。君の次の言葉を僕は何となくわかっていた。
『私のことを殺してほしい』
『君の記憶の中から私を殺して、私を忘れてほしいの』
「無理だ……。そんなの」
僕は絵の中の里奈に向かって語る。
「一番忘れたくない君を忘れるなんて……」
『うんうん。君のことだから、いつまでも私のことを考えていそう』
「……」
『お別れなの。出会いがあれば別れがある。諸行無常。祐介だって、いつか死ぬんだから。だから、お願い。私を忘れて。祐介には新しい人を見つけてほしいの』
「そんな……」
『ほら、絵を描いて! 雪が雨になる前に!』
こんなぐちゃぐちゃな感情で絵なんて描けるはずがない。
『……あまり長いのもあれだし、そろそろ終わりかな』
「待ってくれ」
『じゃあ、最後に。祐介。愛している。君と過ごした日々は楽しかった。私たち、体の相性も良かったし、もしかしたら運命だったのかもね。でも、君の未来に私はいることができません。未来が見える私が言うんだから、絶対だよ。このメッセージを聞き終わったら、データを消去してください……。じゃあね、バイバイ!』
私はあの日の光景を死んでも忘れることはないのだろう。
アラスカの海岸に群生する赤いリコリス。降り積もる雪と彼岸花の織り成す白と赤のコントラストに包まれて、朗らかに微笑んでいる君の白い顔。
「君は世界で一番美しいよ」
私はその日、全ての罪を背負ったのだ。
私はしんしんと降る雪の中に黒い光を見た。その光が、私の未来を貫いて、瞬く間に私の前に横たわる全生涯を断罪するかのように強く照らした。その光は少年から大人に変わる狭間にいた当時の私にとっては、あまりにも眩しすぎた。それでも雪は降り続ける。寒さが背中に纏わりつく。だが、その雪もいつかはみぞれとなって、雨となった。
私は水に濡れた彼岸花を一つ手に取ると、旅立つ彼女への手向けとした。
時雨を喰らうリコリス