坂口安吾の「堕落」とシモーヌ・ヴェイユの「重力」

「自分に正直に生きる」とは。

数年前に書きました。

 坂口安吾そしてシモーヌ・ヴェイユの著作はぼくの愛読するものであるけれども、かれらの思想なぞというものがなんたるか、ぼくはそいつを解説することはできない。ぼくはこの探求を生涯のライフワークとするつもりであり、しかし、言訳をさせていただくが、ぼくはまだ解説可能なレベルには達していないのである。
 しかるにぼくはかれらのしばしば使用する言説の数々、それになにか類似をみるのであり、ぼくの「共感」なぞというたかの知れた感情──しかしひとに無我夢中で読書させる意欲のひとつもまたこれだ──、そいつもまた、このふたりの共通項のようなものへどうやら投げ込まれているようなのである。
 というのも、安吾そしてヴェイユとは、けっして少数ではない、むしろ多数の少年少女が希む──然り、大人になり切れていない人間が希む──「理想の生」のようなものを、全我をかけて追究し、幾らか断片性はもつものも思想として昇華させた人間なのではと、ぼくには疑われるのだ。
 その理想というのは、
「じぶんの感情に正直にしたがって他者に献身し、ひとを愛したい」
 これではないだろうか。
 あなたはこの切なる願いに共感するだろうか? この理想、じつは、ぼくのそれなのである。然り。この希みは夜空に燦めく星であるかもしれぬ、いわく、つかめないそれ。遥かの霧のなか厳然として不可能性の屹立する城、そんなものかもしれぬ。なぜといい、ここには無償の愛めいた──キリスト教的には「神の愛(アガペー)」という、然り、人間のそれではないのだ──感情なしでは、かならずやどこかに命題として綻びの出る言い方であり──と、ぼくには想われてならない──、しかもまた、この願望そのものがナルシスティックなエゴイズムそのものであるように、ぼくには疑われるからである。

  *

 島田雅彦氏の書いたあまりに怖ろしい、そして人間通にしかけっして書くことができない、肌粟立たせるリアリティのある小説を読んだことがある。ぼくはかれの著作はこれをしか読んでいないけれども、この作家は、おそらくや人間の真実を追究し自我の底まで降りたって、地獄を見たのち、良心と全体主義への警告の意思をもってこれを発表したのだと想う。ぼくはこれを二度と読みたくない。なぜってここには、三島文学を誤解して読んでいたかつてのぼく自身がいたからである。
「私は貴女のために死ねる」
 そうつねづね恋人に囁いていた、何か旧日本的なものへの憧憬のにおいのする男が、ただ自分の為だけに彼女を殺し、そして、彼女に似た女性をつぎつぎに殺しつづけるという話。そういうものであった。
 また別の作品、作家本人は淡々と物語を綴っただけであるのにもかかわらず、「純愛の感動作」という解釈の宣伝をされている、東野圭吾氏の「容疑者Xの献身」。いわゆるネタバレであるが──投獄から救うため過剰なくらいに自己を追い詰め──ぼくの感覚でいうと、じぶんの代わりに他人が刑務所に入るというのは耐えがたい──、そして、無関係のホームレスを殺しえた。
 かれらは、けっして、じぶんに正直ではない。無償の愛なぞない。心理のどこかに、ねじくれたカラクリがある。
 じぶんは、善く美しい。その鏡ばかり眺める男たちの自己欺瞞が自尊心を太らせ、むしろ、美と善というものを見失った。そうではないのか。三島由紀夫の勇気と誠実さがない──ぼくはかれをはや好きではないけれど、かれはそうだったと想うのだ、かれには自己欺瞞が可能な限りなかった──。
 然り。ヴェイユはこういっている。
「美と善は、わたしたちに摂りいれられるものではない。それを食欲のように欲してはならない」
 ぼくたちは、もしや、美と善と連続できない。交合不能、あたらな美と善を産み落とすのも不能なのではないか。
 無償の愛。それは人間には実現不可能なのではないか? しかも全体へ捧ぐそれなんて、猶更であるようにぼくにはおもわれる。
 ぼくはこう考えている。すくなくとも美と善、そして愛を尊敬するのならば、その法則に従いたいのならば││人間には、人間に対するある種の絶望が必要なのではないか。
 ぼくは、「じぶん以外に身を捧げる」という右翼めいた観念に憧れている人間には、ただの意地悪として、金子光晴の『絶望の精神史』を差し上げたい。

  *

 ここでようやく、タイトルの話をすることができる。
「堕落」くわえて「重力」、これらは意味もまたどこか類似するものであり、「人間の深いさがに従うこと」というざっくりとした解釈すら、なんとなしに共通しているようである。あきらかな相違は、坂口はこいつを肯定的に用い、ヴェイユはもっと複雑だけれども、この運動のみのそれには否定的であるという点である。
 一般のイメージでいうと、放蕩をくりかえした無神論者の落伍者安吾、潔癖なキリスト者ヴェイユ、とくに性感覚において対照的な二人であるけれども、ふしぎと共通する観念を、双方ともいだいているようだ。
 上への希求──魂の堕ちるうごきへのそれと同時に進行されるそれ──そうである。
 そして双方の文章にどこかニヒリズムのうすぐらい光がみられ、そして、「魂」という在るかもわからぬ神秘の概念を、まるで泣きながら抱きすくめるように大切にし、しかも頻繁につかっている。
(魂。このつねに美と善へ視線をむけんとする聖なる存在を、ぼくもまた信じている。ただし、虚数として。内心では、人間の心なんて脳内物質と体調ではないかと疑っているのだ、しかし、そう信じ込むと、ぼくの大切にしたいものが、ついにばらばらに砕けてしまう。ぼくは冷たい幻を抱きすくめるように、魂なぞという胡散臭い幻を全力で抱き締めるつもりだ。)
 「上への希求」、この実現にはおそらくや、翼を必要とするであろう。ヴェイユにとってそれは「恩寵」であり、宗教心ゆえにその実現を信じていたようにおもうけれども──ぼくにはまだ「恩寵」というものを語りえない──、安吾の場合、もしやそれをすら信じていず、なにかカミュの「シーシュポスの神話」さながら、仮に「神様の国」が在ると設定した上で、ニヒリズムを背後に、それへ向かわんとする「うごき」を、幾度も「そんなものナンセンスである」という虚無に陥りながらも、うごく過程としてのみ──いわばそう生きていることそのものをのみ──好いものだと信じていたのではとぼくには疑われるのである。
 坂口安吾という人間は、ぼくの考えでは、なにをだってほんとうには信じていないのだ。信念というものがない。懐疑主義、そうであるかもしれぬ。かれはなにをだって信仰しなかった、ただ、「生の可憐さ」ともいうべく、せつなき幻の美のほかは。
「天国への道」そして「悪魔の門」、これらは、『私は海を抱きしめていたい』の冒頭に出る言葉である。
 「悪魔への門」。淪落。ざっくりというならば、欲望のままに生きるということ。深くふかく、人間普遍のさがに堕ちるということ。坂口はしかし、人間には堕ち切ることはできぬと書いている。なぜといい、すべての人間には、「善への欲望」があるから、と。
「じぶんは善く美しい」なぞという欺瞞であっても、それによるものではないのか。かれらにだって、美と善がかがやかしいのだ。善くありたい。然り。美と善の落す翳のかさなる処。ぼくはここに、いまとなっては胡散臭い観念となってしまった、「崇高」という言葉をつかいたい。ぼくの愛するものは「可憐」と「俗悪」の美であるけれども。
 ヤクザだって災害時には善行をする。ある者は親分に尽くそうとする。ぼくはこれを美化も否定もしたくないけれども、その心理のカラクリは別として、人性というものの切なき本源を見る。
 ヴェイユはまた、「他者に自分への善行を期待する」という一種甘ったれているともいえそうな感覚に、聖なる魂の存在の証拠を見ている。『人格の聖なるもの』というエッセイにおいてである。
 すべての人間の本源に、「善への欲望」が睡る。この、人類への絶大な信頼ともいえるべく考え。無垢。そうともいえそうだ。このふたりは、やはりどこか少年少女のようであった。眸が、淋しいくらいに澄んでいた。その眸は、きっと秩序と相性が悪いのだ。
 もしこれが正しいとして、この善への欲望というもの、こいつはいずこから来たのか、かれらがいうように動物というものには不在しているのか、ぼくには判らない、しかし、やはりここに、「愛」という重大な問題がよこたわっているように想う。愛を受け、人間に感動し、そこに、美ないし善をみた。この経験がなくては、こんなにも人間を信頼することはできないであろう。この体験の不在はかなしい。
 そしてひとついえそうなこと、それは、かれらこそ、そんな愛を充分に受けられなかった人間だったのではないかということである。
 幼少期より、保護者に否定されつづけた人間は、ともすれば自己否定の地獄から逃れられず、せいぜい自己批判に変えられるくらいをしか改善ができないときさえあり、無頼派という連中は、この悪癖を武器にしたようにも疑われる。自分ばかり凝視し、ナルシスティックに愛やら善やらと自己を比べては一喜一憂し、そんな思春期の少年少女のようなことをつづけ、気づくと「人間通」になっていた。こんな経緯をたどるパターンがあるというように、ぼくには疑われる。

  *

 かれらは、自分が受けられなかった愛に憧れ、どうしようもなくそれを為したくて、それが不在した自分を責めたて、全我を賭けひとびとに与えようとした、切ない、そしてあまりに人間らしい、ただの自己中な淋しがりやであるように想われるときがある。
 これは、太宰治だってそうではないのか。中原中也。かれももしや。
 思想も作品も素晴らしい。されど人間としては、なにも立派ではない。そうではないのか。充分にぼくらの共感を投げこめるではないか。おなじように弱いではないか。ただ、無意味に可憐で、不合理に切ない。それだけだ。人間の魂の重さに、貴賤なぞあるわけがない。ぼくはそう想う。人間は、みな、同じものだ。
 人格の劣等感なぞ棄てちまえ。社会的価値の差がなんだ──ぼくがいうと負け犬、知るものか──。人間なんぞ、みな、たかが知れているのだ。人間は魅力的か退屈かの二択といったのはワイルドの戯曲の登場人物であるけれども、劣等感なぞというものは、つくづく退屈である。魅力がない。それを発条にして実績をえた人間たちの思想、そんなものぼくにはなにも面白くない。
 自己無化に焦がれる人間たちは、むしろ我がつよく、秩序にとってすこぶるエゴイストであるという傾向があるように、ぼくには疑われる。すなわち、たいした人間ではない。闘いと仕事を尊敬すればいい。そう想う。
 人間の美とは、優劣や貴賤にはないのである。人間の美、そいつは、「可憐」と「俗悪」に宿りえるのだ。ぼくはそう信ずる。
 然り。生きることは無意味だ。どうせ死んでしまう。どうせ死んでしまう。感情の美なぞたかが知れる。生涯なぞというのは数十年の幻に過ぎぬ。歴史に残ったからってなんだろう。それは果たして永遠なのか、然り。地球は爆発し、宇宙さえ滅びるのだ。
 そうであるのに人間、その轟然と響く虚無を背後に、俗悪なる肉体をひきずり、幻の美と善を抱き、せいいっぱい限りある生を生きようとし、時には自殺するまで自己を追い詰め、無意味だ、無意味だ、美と善への尊敬のために苦しみを背負い、魂なぞというインチキを生み、ひとを愛し、にくみ、社会や他者に献身し、手を繋ぎ、対立し、それでも善くあろうとし──花である。生きているということは、可憐なのだ。人間は可憐である。動物もまた、ぼくにいわせれば可憐である。現実との一途な格闘、そして愛すら在る時がある。
 ぼくは死をのぞむほどに苦しんでいるひとびとに提案したい、生きる意味、その幻の花びらを、「生きていることそのもの」に与えてはみないだろうか。
 美と善への躰のうごき。いわく、美をみすえ、善くうごく。ぼくは、うごきというものに、聖なるものの証明を見る気がする。つまるところそれは、なんらかの物質である。

  *

 さて、じぶんに正直に生きる。換言すれば、欲望の実現の為に争う。ぼくはこれ、やはりアウトローのような立場でないと難しいようにおもう。じぶんをおしころす生き方はひとを病ませる。ぼくはしかし、おのおのの抱く美と善と、現実というものとの相克の火花にこそ、なにか芸術の源泉というものを見、あるいはそれ、芸術そのものであるかもしれぬ。

坂口安吾の「堕落」とシモーヌ・ヴェイユの「重力」

坂口安吾の「堕落」とシモーヌ・ヴェイユの「重力」

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-06

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