翳ろう空/ 霧 作

――貴方の視線は
さながらに狭霧(さぎり)(おお)われているようだ。

神秘的な眼の色は、
(碧いのか、灰色か、それとも緑か、)

かわるがわるに、なごやかに
時には夢をみるように

時にはまた残忍に、
大空の無感覚と蒼白さとを反映させる。




かつて知らない苦しみに
捻じ曲げられて 苛立った

神経が、鋭く冴えて、
静かに眠る精神を嘲笑う時、

恋愛に呪縛された人々が
さめざめ泣きたくなるような

あの生白く、温かく、曇った日々は、
さながら貴方――





 いつしか、夏は終わろうとしていた。
 青々としていた木々の葉は色()せ、見る影もなくしおれている。あの清々しいまでに雲一つなかった青空は嘘だったのだろうか。今では陽の光も弱々しい。あの頃の力強い生命の面影は、全くもって消え去ってしまっている。
 そんな海岸沿いの閑散さは、そこに建つさびれたサナトリウムによって一層引き立っていた。
 サナトリウムの住人たちは皆、心か体、あるいは両方とも病んでいる人々であるが、そこの医師とて例外ではなかった。一体いつまでこのコンクリの箱の中で病人どもと衣食をともにすればいいのか。よもや一生このままではあるまいな――そう思うにつけ、こちらまで病に侵されてしまいそうな心持ちになる。
 そうはいっても、この二流医者がここを辞めたところで、街中の医者には太刀打ちできまい。そのことは彼自身が一番分かっていた。生きていくためには、ここにとどまらなければいけないのだ。だが、生きていくためとは? 生きていくとは、このサナトリウムで病人と戯れながら年老いていくことなのか? 一体いつまでそんな生活が続くのか……? こうした自問自答はこれまで何度も経験したし、つい昨日も、そして今日も直面している。
 こうして頭の中で堂々巡りに興じていると、コンコン、と診察室の扉を叩く音が耳に入った。きやがったぞ、と医師は心中で舌打ちしながらも「入って」と入室をうながした。
 入ってきたのは、一人の()せこけた男だった。今のノックひとつで今日一日の力を使い切りました、と言わんばかりの疲労を顔に浮かべている。
「精神分裂病にモルヒネ等の麻薬依存、それと時折訪れる極度の躁鬱(そううつ)、ね」
 医師は机に積み重なったカルテの山から男のものを見つけ、読み上げた。男はうつむいたまま、一言も発しない。
「それから……抑鬱状態のときは他人との意思疎通が困難と」
 面倒なやつが来たもんだ。そう思いながら、いかにも専門家ぶってこう言った。
「無理に他人と関わる必要はない。そういう時は自分と向き合って心を整理することも大切だ」
 男は相変わらず無反応で、聞いているのか聞いていないのか良くわからない。しかし、そんなことは意に介さず医師は続けた。
「君の病室にタイプライターがあるだろう。なに、私に提出しろということではないし、いつまでに書き上げろということでもない。君が思っていることを書いてもらえればそれでいい。まあ気長にやってくれ」
 こうして病人を厄介払いすると、医師はカルテを机の上に投げ捨て、いつもの堂々巡りを再開するのであった。

***

 病室に戻ると、確かにタイプライターが机の片隅に置いてあった。これまで気が付かなかったし、見つけたとしても気にも留めなかった。なぜなら男は食事の時間と定期健診を除いて、外の風景を眺めるのが日課だったからだ。それは、外の生気をコンクリの箱に囚われた自分に取りこむためだったのかもしれないし、あるいはもう二度と叶わない自由への渇望の発露だったかもしれない。
 ともかく、彼は格子付きの窓越しの風景を四六時中眺めていて、病室に何が置いてあるかなど知らなかった、ということだ。
 男は文字盤に指を置いて書き始めた。
「私は新聞社に勤めていた、記者として……」
 だが、すぐに男は頭を抱え込んでしまった。どうしようもなく不安な気持ちに襲われて、まるで真っ黒なヘドロが心の隅から隅まで満たしていくような感覚になる。

 書き上がるのはまだ先のことになりそうだ。






 私は新聞社に勤めていた、記者として。私が学生時代、第一に希望したのは新聞記者だった。
 大学生だったころの私は学生運動の分派(セクト)を先導していた。小さなセクトであったが、資本主義に醜く染まったこの国を変えてやろう、革命に殉じようと明けても暮れても仲間たちと息巻いていた。まあ残念というか、当然というか、革命を起こすことは叶わなかったが、それでは終わらない。今度は記者としてこの世の欺瞞(ぎまん)を、資本主義社会の矛盾をすべて暴いてやろうと血気盛んな若者だったのだ――最初のうちは。
 しかし、大人として学生運動を傍から見る立場になると、あることに気づいてしまった。警察に蹴散らされ鎮圧される若者たちを目の当たりにして、二十そこらの学生が巨大な国家体制に立ち向かうなど、所詮は蟷螂(とうろう)の斧に過ぎぬと悟ってしまったのだ。自分が学生の時はあたかもゴリアテに立ち向かうダビデのような、そんな英雄気取りでいたのに。悲しいかな、立場が変われば一瞬で世界が変わってしまうことを理解した。
 加えて言うなら、学生自体がどうしようもなく馬鹿で愚かなことが分かったのだ。彼らは「共産党宣言」だの「毛沢東語録」だのを小脇に抱えながら、さも我こそは世界の真実を知る者なりといったふうに正義を語る。だが、自分で学費も払えぬような学生風情が世界を語るなど、滑稽(こっけい)もいいところだ。夢や理想では食っていけるはずがない。
 こうして私は若者をやめ、ひとつの歯車としてあれほど嫌悪していた資本主義の装置に組み込まれていった。担当する記事も、議員や大企業の不祥事などといった大仰なものではない。田舎で起こった盗みや火事といった下らないことばかりだ。真実の追求などするはずがない。ただ読者が関心のありそうな出来事を拾い上げては捨てるという作業の繰り返しに終始していた。しかし読者の反応も芳しくなく、日ごとに与えられる紙面は少なくなっていく。そろそろ首になるかと覚悟していた私のもとに、ある話が舞い込んできた。



「君の知り合いを名乗る男が、話があると言っているそうだ」
 狭いデスクに座って三文記事を作っていた私に、上司はそう呼びかけた。はて、わざわざ社に来てまで私を訪れるような知人などいただろうか。(いぶか)しみながら席を立ち、応接室に入る。すると案の定、見たこともないスーツ姿の男が座っていた。
 赤の他人が何の用だ。私は聞こうとしたが、そうする前に、彼は素早く黒い手帳のようなものを私の眼前に突き付ける。その黒地の手帳には、「公安調査官」という金色の文字が重々しく鎮座していた。
 あまりに唐突なこの出来事と、有無を言わせぬといった彼の態度。どんな愚鈍な者でもこの状況が並々ならぬことであると分かるものだった。あまりに予想外な事態に固まっていた私に、
「ここでは都合が悪い」
と彼は言った。そして、ついてこいとだけ告げると、応接室から出て、社外へと歩き始めた。私は何も言えずに、言う通りに付いていくしかなかった――こういう切迫した状況では、誰もが人の言いなりになってしまうものである。
 社から出て十五分ほど歩いた路地裏に、地下へ続く入り口があった。「喫茶 ナカノ」と看板があったが、よほど注意しないと見えないような、不自然に小さく目立たないものだった。彼は地下へ進み、私も後を追って喫茶店の中へ入っていった。
 店内は異常なほど静かで薄暗く、人と言えば店長らしき男一人だけ。その店長も挨拶一つせず、こちらを素早く、鋭く一瞥するだけであった。
「こちらに座って」
 彼に指図されるまま席へ着いた瞬間、先ほどの店長がにわかに立ち上がり、扉の方へ走っていったかと思うと、OPENの札をCLOSEDにひっくり返して錠を下ろした。その間、わずか十数秒ほど。瞬時にして地下の密室に閉じ込められたのである。やはりただの喫茶店ではなかった。よもやこの喫茶店自体が公安の施設なのではあるまいか。とんでもない場所に来てしまった。
「先ほど見せたように、私は公安調査庁の者だ。ササキという。キズキマサヒロさんだな。今日はちょっとした話があってあなたとお会いしたわけだが」
 私はぎょっとした。前述した通り、学生時代の私は学生運動に明け暮れていた。角材と火炎瓶を持って機動隊とやりあったこともある。そのことで公安からマークされていたということか? いわゆる破防法というやつか? しかし、あれは若気の至りであったし……他の連中だってやっていた……セクトのリーダーだったのがいけなかったのか? 公安にはお見通しだろう。あんな厄介な役などしなければよかった……!
「どうしたのかね?」
 よほど焦っていたようだ、顔に出ていたらしい。ササキは私を不思議そうに見ている。良かった、相手は知らないとみえる。少し安堵して、私は誤魔化した。
「いえ、こうした状況ですので……」
 私の様子が可笑しかったのか、ササキは少し笑ってこう言った。
「まあ、分からないでもない。でも、何もやましいことをしていなければ我々を恐れることなど何もないからな」
 さて、とササキは改まって切り出してきた。
「善良なる市民のキズキさん、あなたは新聞記者という職に就いているのだそうだな。あなたの職を生かして我が国に貢献しようという気はないかね」
「国に貢献……と言いますと?」
 私がそう尋ねると、彼はこれが本題だというばかりに語勢を強めて答えた。
「先の大戦から二十年余、戦火によって荒廃した大地から奇跡的な復興を遂げ、今や世界屈指の大国へ成長した。しかしだ。現在、この栄光を汚す輩が蔓延(はびこ)っている。世間が新左翼、過激派と呼ぶ連中だ。奴等が自らの独善的思想のために市民の生活を脅かし、国の顔に泥を塗ってまわっている。我ら公安調査庁は、この()れ者どもを絶対に許さない。微力ではあるが、私も奴等の最後の一人の首をもぎ取るまでは、この職に骨を埋める所存だ」
 そして一呼吸置くと、ササキは机に一枚の顔写真を置いた。
「あなたに頼みたいのは他でもない、この活動家の身辺情報を提供して頂きたいのだ。あなたの情報収集能力、取材のノウハウ、そして新聞記者という立場を利用すれば、我々よりも(はる)かに円滑にことを進められるだろう。そして……」
 彼は机の下から金属ケースを取り出し、中身を見せながらこう続けた。
「もちろん、ただでとは言わない。一つの情報につき、十万円の報酬を出そう。デモや闘争活動の日程など重要情報なら五十万だ」
 どんな情報でも十万、重要なものなら五十万……。このとき、私はさも宝くじに当たった貧乏人のような顔をしていただろう。無理もない。日々食っていくので精一杯な当時の私にとっては、まぶしいほどの大金だったのだ。
 そんな私をササキは見透かしたのだろうか。金属ケースから札束を一つ掴みとって机に置くと、こう畳みかけてきた。
「まあ、いきなりそういわれても戸惑うだろうし信用できないだろう。これは前金だ、受け取ってほしい」
 ……目の前に百万円がある。この事実だけで私の心は揺るぎないものになった。
「はい、是非!」
 あの日の熱き反骨精神など、今や眼前の百万円で遥か百万里。魂とはそんなにも軽いものなのか。金には羽が付いているというが、魂のほうにはもっと大きな翼が付いているということか。
 仮に私の様子を見た人がいたのなら、皆口を揃えて私を(あざけ)るだろう。もっともである。思えば、このときのササキも心なしか嫌らしく口元が綻んでいたような気がする。
「感謝する。あなたのような善き市民がいてこそ国はもつというものだ。官と民で協力してこの国をより良くしていこうではないか」
 ササキと固い握手を交わした後、私は地下の喫茶店から解放された。もう夕暮れ時であった。とんだ時間の無駄だった、といつもなら腹を立てるところだ。だが、今日は違う。夕陽を背に意気揚々と弾むようにして社に戻っていく私の様子は、えも言われぬ滑稽さだったに違いない。

 私は早速ササキから受け取った写真の人物に連絡を取った。話はとんとん拍子に進み、実際に会うところまで約束を取り付けた。セクトの元リーダーだったと伝えたのが大きかったのだろう。
 公安相手には過去を隠し、過激派相手にはそれをひけらかす。その時の私ならこう言ってのけただろう――目的のためなら手段を選ぶべからず、と過去の偉人もいっているではないか――と。今思えばその卑しさにただ閉口するばかりである。

 だが、その時は全てが上手くいくと思っていた。



 それから一週間後、私は太陽が照りつける通りを歩いていた。汗を垂らしながら通行人をかき分けていくと、ある喫茶店が見えてくる。これが、写真の人物が言っていた「喫茶くれない」だった。軽妙な鈴の音とともに入店すると、久しく目にしていなかった光景が飛び込んでくる。
 クセの強い長髪をたくわえた者、色眼鏡をはめた者、太く丈が長いジーンズを履いた者……世間など知らぬとばかりに思い思いの恰好をした若者たち。カウンターのステレオからは割れ気味に『人民に力を!(Power to the People)』と叫ぶ声。傍若無人に、青く香る安煙草のにおい。緑に萌える街の樹々のごとく、思わず目を覆わんばかりの(まばゆ)い「自由」あるいは「若さ」があった。一週間前の冷たく閉ざされたあの喫茶店とはえらい違いである。
 もっとも、この私もかつてはこのふたつを謳歌していたのだから、目を覆って有難がる道理などないはずだ。ただ十年近くもそれらと無縁な生活を送っていたために、特別輝いて見えるだけであろう。なんでもない陽の光でもトンネルから出るとやけにまぶしく感じる、あの感覚と同じである。所詮は限りある享楽にふけって粋がっているに過ぎない。私と同じようにトンネルに入るときがすぐにやってくる。
 一瞬感じた憧憬(どうけい)を冷笑で消し飛ばす。私は席につこうとした。
「毎朝新聞社のキズキさんね」
 そのとき、若者の集まりからひとりの娘がこちらに歩み寄ってきた。
「西都大学『闘革連』のアンドウアオイよ。よろしく」
 新左翼団体「闘革連」の指導者アンドウ彼女こそがササキが指定した活動家だった。
およそ女子学生らしからぬ闘争心を湛えた鋭い眼、大人と対峙しても一切の怯みを見せぬ態度、どこをとっても公安調査庁が標的となしえるような、ある種の風格があった。
「学生時代にはセクトを率いて活動していたとか。同志として歓迎するわ」
 そして促されるまま、学生たちの輪に入っていった。彼らと何か談笑などしたような気がするが、なにを話したかは憶えていない。私を賛同者とみなして歓迎する者と部外者とみなして警戒の色を見せる者。反応は様々だったが、どうでもよかった。ただ私が欲していたのは金になる情報ただそれだけだったからだ。
 かくして、「学生運動を密着取材する」という名目での接触は成功したわけである。



 アンドウ率いる「革闘連」は「全国革命的共産主義ヘゲモニズム闘争者のための連帯」の略称らしい。どうやらこの手の連中は凝った命名がお好きとみえる。これ以外にも「革命的共産主義者同盟革命的マルクス云々(うんぬん)……」。忘れた。
 それはともかくとして、彼らの性格は名前に偽りなく「革命的」で「闘争的」だった。

 真夏が近づくある日の昼下がり。古びた学舎の一角で、アンドウは声を張り上げた。
「先の大戦中、暴走した帝国主義のもと、この国は愚かしくも周辺諸国を侵略しその人民を蹂躙した。それは諸君も知ってのとおりだ。翻って、今はどうだ? 帝国主義時代の政権の中枢が未だに権力を独占し、自衛のためだと偽って再軍備を進めているではないか。加えて、資本主義に染まり『企業』という名の尖兵を以て他国へ侵略、『貿易』という名の搾取で再び国外の人民を苦しめている。これを新たな帝国主義、ファシズム資本主義と呼ばずしてなんと呼ぼう! 加えてそれにいささかの疑問も抱かずに過ごしている大多数の国民。彼らもまた同罪であり、いわばファシスト民族と呼ぶべき存在である!」
 そこに会したアンドウの仲間達は、もっともだとばかりに頷きつつ彼女の演説に耳を傾けていた。さらに彼女は続ける。
「ファシズム資本主義国家にファシスト民族、そこから生み出されるファシズム社会……。この状況において、我らのなすべきことは何か? それは腐敗した社会の徹底的解体に他ならない!」
「異議なし!」
 一同は口を揃えて答える。
 それでは、と彼女は彼らに問うた。
「その達成のためには、民衆の理解を獲得し、支持を広げ、議会での多数を取る必要があるか?」
「ナンセンス!」
 この手の連中が言う「ナンセンス」とは反対の意を示すこと、早い話が「異議あり」という意味である。あえて「異議あり」と言わないところが彼ら流であり、彼らが一般人と分かり合えない部分が端的に現れていると思うのだが、どうだろうか。
「その通り。そもそも共産革命は暴力革命をもってしかなし得ない。従って先ほどの既成左翼の諸政党、議会主義的クレチン病に冒された退歩的修正主義者どもは小市民(プチブル)主義に堕した豚である! 奴らの存在自体が、我ら真の共産主義者に対する階級的裏切りなのだ!」
 彼女は手を振り上げてまくし立てた。それに呼応するかのように、「そうだ、そうだ」と賛同の声が飛び交った。この狭苦しく埃臭い教室の熱気は最高潮に達しようとしていた。季節も相まって、暑苦しいことこの上ない。
 そして、彼女の最後の駄目押しが入る。
「それでは、何が必要か。それはただひとつ。武力による赤色革命、進歩なき国家と社会の粉砕だけである!」
 一同は一斉に沸き立った。彼らの興奮は絶頂を迎えたようだ。絶叫の渦がうねる。
「異議なし!」
「断固粉砕せよ!」
 遥か異国の地に、今まさに神の言葉降りにけりと感動と興奮とで身を打ち震わしたことから「クエーカー(震える者)」と揶揄(やゆ)された人々がいると耳にしたことがあるが、この時の面々はまさにそんな様子だった。
 枯らさんばかりの声を張り上げ、恍惚(こうこつ)に浸る。その様子は傍から見れば異様の一言であるが、そんなのはお構いなしだ。何かに魅入られたように、揃いも揃って武力革命、暴力革命と叫んでいた。

 この一連のやり取りを聞いて、その内容を隅から隅まで理解できる人はいるだろうか? もしそうなら、こうした思想に深く染まっていた人間か、それともこちら方面の専門家か。大半は理解できないだろう。
 なぜなら彼らの言葉は小難しく、それでいて中身がないものが多いからであろう。「帝国主義・ファシズム」は反対勢力に対するレッテル貼り、「ナンセンス」は「異議あり」の気取った代替語、「既成左翼」は「新左翼」である自分達が先進的であることを誇示するための対比、「修正主義者」は「穏健主義者」の言い換え、「階級的裏切り」は単に「裏切り」と言っても差し支えなし……。言い出したらきりがない。「議会主義的クレチン病」――これは議会制や選挙制にこだわるあまり自党の成長がないことを身体的・知的に発達が遅れる先天性の病になぞらえた罵倒語なのだが――そもそも「成長がない」という一点のためにこんな長ったらしい言葉を使うこと自体、一般的な感性をしていたら首を傾げるところだろう。
 しかしながら、かく言う私もかつては同じような雄弁をふるっていたものだ。だからこそ、こうして彼らの言葉を読み解くことができるというものである。その上でこの演説を「翻訳」してみると、
「この国は戦争で負けたくせに右翼主導で再軍備、生意気にも他国を利用してぼろ儲け、けしからん。そんなものはぶち壊してくれよう、国家も国民も軟弱左翼もみんな敵だ。正義は我々にあり」
ということだろう。少々乱暴かもしれないが、間違ってはいまい。
 この程度のことを言うだけでいくつも専門用語じみた言葉を濫用し、いちいち「異議なし」だの「ナンセンス」だの合いの手を挟み、最後には正気の沙汰とは思えない騒ぎになる。体制を破壊した後のビジョンが全く見えてこないところも含めて、新左翼的には百点満点中の百点演説といったところだろう。元々そうだった私が言うのだから間違いない。もちろん一般的には言うまでもなく落第点である。
 彼ら「革闘連」はこうした乱痴気騒ぎを集会のたびにやっていた。しかも毎回ほぼ同様の内容である。私が現役時代のときでもこうした演説をしていたが、せいぜい月の始めにやっていた程度なのだから恐れ入る。

 さて、こうしたことから「革闘連」がいかに熱狂的で攻撃的であったかが窺えると思う。それは未熟者につきものの極端な原理主義と不定形な正義感に裏打ちされたものであり、言うなれば「青い情熱」によって燃え上がったものであろう。加えて、若年者に特有なある種の破壊欲求に似たものもあったに違いない。
 いずれにせよ、あの若者たちが真に「革命的」で「闘争的」であったわけだ。

 その事実が彼らの行く末にどのような影を落とすことになったのか。そのこともいずれ書かねばなるまい。



 閑話休題。人はなぜ思想や哲学を学ぶのだろうか。その答えは二つあると私は考える。
 一つは、自分の考えの浅はかさを偉人が放った言葉の引用によって埋め合わせるため。この場合、はなから自分に都合の良い思想しか受け入れる気はないため、はたから見れば酷く独りよがりでいびつな持論が出来上がる。そのくせ、あの偉人もこう言ったのだから間違いない、と当の御本人は満足気に見せつけるのだから手に負えない。
 二つ目は、その思想家に魅了され、彼の世界の隅々までを探求するため。この場合、怪しげな書物を読み漁ることになり、気がふれたのではないかと周囲から陰口を叩かれる羽目になる。その末に、才能があれば歴史に残る偉人が、才能がなければしみったれた読書家が生み出されるわけである。
 このうち、前者は健全な動機だ。本来、人間とはそういうものではないか――聞き心地の良い言葉しか聞こうとしないものである。哲学を(たしな)む数少ない人間のうち、九割九分は意識的に、あるいは無意識的に哲学を「利用」しているに過ぎない。
 対して、後者は不健全である。そもそも、他人の考えを一から十まで理解することなど到底不可能だからだ。偉人と言えど所詮は人間だ。自らの心の深淵にあることを完全に言葉にあらわすことなどできない。身勝手にもそれを分かった気になれるのは、自己欺瞞か自己陶酔のなせる業である。これをやってのける残りの一分は病的であると断言できよう。その思想を理解した気になれず、それでも思考を放棄できず、頭を抱えながら無産な一生を過ごす者もまた同様だ。
 また、哲学者や思想家の特徴として、ときとしてとんでもなく現実離れした放言をすることがある。無理もない、彼らの本職はあくまで「思想」することであるからだ――カント曰く、「理論家とはボウリングにて十一本のピンを一度に倒したと豪語する者であるから十分注意しなければならない」。
 もっと言えば、彼らは一方で持論を世にひけらかすくせに、一方で市井の俗物には理解頂けなくても結構、と居直る習性を持っている――「世の六分の五の人間は道徳的あるいは知的に劣った者であるからして、そうした者どもとは即刻縁を切るか、まえもって関わりを避けるべきである」というのはショーペンハウエルの自白である。
 哲学者や思想家といった(たぐい)の連中はこうしたいい加減で不誠実な者だ。こうした者たちが言い張る主張もまた空虚なものである。それゆえ、世間の大多数は思想や哲学といったものを生来備わった直感でもって避けるのだ。対して、そうした者たちの空論を有難がって武器にする者も、彼らが指した道なき道を往こうとする者も、総じてある種の白痴だと言わざるをえない――本で頭を叩くとむなしい音が鳴るが、それは本か、頭か、それとも両方がうつろであるからだ。

 この二者のうち、彼ら「革闘連」は前者であったのだろう。つまり、理論の濫用者である。いや、この手の連中は多かれ少なかれ理論好きだが、彼らは特にそうだった。
 「革闘連」に接触して一ヶ月後のある日、私は彼らが開く「革命理論の会」の席についていた。こちらのことを賛同者であると思い込んでか、「我々の考えを深く知って欲しい」と誘われたのだ。結構だ、と言いたいところだったが、無碍(むげ)にすれば今後の「取材」に響くかもしれない。二つ返事で参加することにした。もちろん、それが開かれる場所と日時は、すぐ公安調査官ササキに伝えておいた。
 いつも集会が行われている古びた教室の教壇に立ち、アンドウは「革闘連」の面々を見回していた。一堂に会した学生たちの視線も、教壇の上のアンドウ一点に集められている。それはさながら、玉座の女帝と、彼女にかしづく臣下であった。
 その様子に満足したのか、アンドウはおもむろに口を開く。
「それでは同志諸君、これより革命理論の会を行う」
「異議なし!」
 例の号令が湧き上がる。それに応えるかのように、彼女は続けた。
「我々はこの社会を根底から転覆させんとする革命戦士だ。しかし、権力者やその走狗どもは日夜、革命を欲する闘争に不当な弾圧攻撃を仕掛けてくる。我々はこの状況に甘んじるべきか?」
「ナンセンス!」
 幾度となく繰り返されてきたであろう予定調和。期待通りの答えにアンドウは深く頷く。
「そうだ! 我々はこの現状をひっくり返さなければならない。そのためには『力』が必要だ、絶対的な『力』が! 何人にも勝る『力』が! もはや我々は黙してはいない!」
 拳を突き上げ、彼女は唾を飛ばす。
「異議なし!」
「人民に力を!」
 アンドウの熱弁に呼応するがごとく、学生たちも口々に声を上げた。地割れのような叫喚に耳を塞ぎたくなる思いだ。しかし、それをやってしまうと「反革命分子」などとして吊し上げられかねない。最後列に下がり、メモを取るふりに徹することで、何とかやり過ごす。
 ひとしきりの喧騒の後、それが終わるのを見計らったようにアンドウは彼らに語りかけた。
「そう、同志諸君も十分理解しているように、『力』こそ我々が希求するものなのだ。我々は愚直に『力』を求める。それは決して恥ではない」
 そして、彼女は決め台詞のように言い放った。
「なぜなら、『力』を求め、より高次を望むこと、すなわち〈力への意志〉こそが正しい人間の生き方だからだ!」
 なんだ、それは。私は我が耳を疑った。
 〈力への意志〉とは、ニーチェが唱えた「人間を突き動かす、より強く、より高みを目指そうとする根源的動機」のことであったと記憶している。学生の頃に読んだ本にはそう書いてあったはずだ。哲学に少しでも興味がある者ならば耳にしたことがあるのではないだろうか。そうでなくとも、〈力への意志〉を筆頭に、ニーチェの言葉が持つ神秘的な響きに心惹かれたことがある者も少なくないはずである。私もそうであった。早い話が、「格好いい」言葉なのだ。だから、若者がニーチェを引用するのは何らおかしくない。
 異様なのは、彼らがニーチェを革命理論に組み込んでいることだ。革命理論といえば、マルクス、レーニン、トロツキー、毛沢東あたりが相場だろう。共産とニーチェの組み合わせなど聞いたこともない。ニーチェ思想を利用したのは、彼らが憎悪するファシズムのほうである。
 こちらの混乱をよそに、アンドウは続ける。
「我々は〈力への意志〉に従い、革命を推し進める。その先にあるのは何か? それはすなわち、〈超人〉としての革命家だ! 〈超人〉として、〈善悪の彼岸〉にある革命を必ずや実現させるのだ!」
 私にとっては、怪しげな宗教の呪文にしか聞こえなかった。思考のなかに渦巻く混沌に拍車がかかる。
 それなのに、学生たちは皆、彼女の弁舌に熱心に聴き入っている。私ひとりが取り残されているようだった。
「……ちょっといいか?」
 もはや限界だった。
 私の声に一同は静まり返った。こちらを振り返り、凝視する視線の数々。その圧力に負けじと声に力を入れる。
「さっきから聞いていたが、革命とニーチェにどういう関係があるのか教えてくれないか」
 何とか言い切った。ほんの少し残った記者の矜持(きょうじ)がそうさせたのだろうか。このまま聞き流すわけにはいかなかった。
 わずかにざわめく「革闘連」の面々。そのとき、眼鏡をかけた痩身(そうしん)の男が、学生の群れを押し分けてこちらに向かってきた。その顔には、どこか見覚えがあったような気がした。
 そして私の前に立ちはだかり、こう吐き捨てた。
「おい、ブン屋。我が親愛なる革命戦士、同志アンドウに疑義を挟むつもりか。貴様のごとき俗物風情が、何様のつもりだ!」
 こけた頬に釣り合わない大きな丸眼鏡。その奥から覗く、細くつり上がった狐のような目。思い出した。この男とは、最初に喫茶店で「革闘連」に接触したときに出会っている。好ましからざる者を見るかのように、妙にこちらをじろじろと(にら)んでくる者がいたが、この男だったか。
 口を歪ませ汚く(ののし)るその言葉には、私に対する剥き出しの敵意と、アンドウに対するひときわ(あつ)い忠誠心が見て取れる。いや、忠誠というよりも崇拝か。
 しかしその心情とは裏腹に、アンドウは壇上から静かに告げた。
「そこまでにしなさい、サカモト。そう言うのなら、あなたが説明してみなさい」
 この男を制止する目的だったのだろうが、演説のときとは打って変わって低く冷たい声色だ。気色ばんだ男の顔が、途端に引きつっていく。自分でも理論をよく分かっていなかったのか、それともアンドウの反応が期待と違ったのか。おそらく両方だろう。
「い、いや……同志の理論は良く分かっている、分かっているんだが……。たまたま、それを書き留めたノートを今日はたまたま持ってきていなくて……」
 先ほどの威勢はどこへやら。舌がもつれ、しどろもどろになっているではないか。|狼狽(ろうばい)し、縮こまっているこのサカモトという男のことを、私は内心で嘲笑った。
 顔を赤らめ、うつむくサカモト。小さく震えているのは、大勢の面前かいた恥からか、それともその原因をつくった私への怒りからか。すると、奥から背の高い男が助け船を出すかのごとく歩み寄ってきた。
「失礼しました、キズキさん。ただ、サカモトさんに悪気はありません。古くからのメンバーゆえ、我らの考え(イデオロギー)に対する思い入れも強いのです。許してやってください」
 長身を折り曲げるようにして、彼はこちらに頭を下げた。いかにも人畜無害といった雰囲気を醸している。年はサカモトより少し年上といったところだろうか。奴と違って極めて物腰の柔らかい人物である。小さな犬ほどよく吠える、ということわざの逆を地で行く若者であった。
 つくづく、この世には色々な人間がいるものだ、と実感させられる。一方のサカモトは彼の擁護に気をよくしたのだろう、満足げに頷いていた。
「僕は大学院哲学科のイトウといいます。この手の理論は得意とするところ。よろしければ僕から説明して差し上げましょうか」
 哲学や思想が彼の専門分野であるようだ。先ほど述べたように、私は思想家や哲学者を信用していない。ただ、少なくとも他の連中よりはまともな人間であるようだ。穏やかな態度や物言いから私はそう判断し、彼の話を聞いてやることにした。
「まず、『史的唯物論』というものがあるでしょう。つまり、封建社会から資本主義社会へ、資本主義社会から社会主義社会、そして共産主義社会へ発展していくのは歴史の必然であるという考えです。キズキさんも学生運動経験者ということですので、これはご存じかと思います」

 史的唯物論――物質的な生産力・生産関係の変化こそが、歴史を動かす原動力だという|
考え《イデオロギー》だ。
資本主義社会について言えば、資本主義の発展によって富が増大していくが、一方で富を生み出す生産手段は資本家(ブルジョア)によって独占状態にある。すなわち、富の増大という形で生産力は変化していくが、富を我が物にする資本家と、ただ働き搾取されるだけの労働者(プロレタリアート)という二者の関係は固定されるのである。そして周期的に訪れる不況や大量失業といった資本主義の矛盾によって労働者の抑圧が限界に達したとき、資本家との階級闘争の末に労働者は「革命」を起こして資本主義は崩壊する。つまり、資本主義は資本主義であるがゆえに否定されるということだ。そして、その次にやって来るのが、生産手段の私的所有を禁じ、共同所有する共産主義社会というわけである。

 以上、長ったらしくなったが、要するに「資本主義は絶対に崩壊し、革命が起きて共産主義社会は必ず実現する」という都合のいい思い込みであり、決めつけである。少なくとも私はその程度の理解であった。
 私の冷ややかな回顧をよそに、イトウは続ける。
「一方、ニーチェは〈超人〉思想を唱えました。現代、人々は生きる意志や目的を見失い、虚無主義(ニヒリズム)に生きています。こうしたなかにあって、善や悪といった既存道徳に囚われることなく〈力への意志〉を追及し続けることで人は〈超人〉へと昇華するのです。そしてあらゆる運命を肯定した〈運命愛〉によって善悪を超越した領域、すなわち〈善悪の彼岸〉に到達し、〈超人〉は無から新価値を創造するといいます。善も悪もない境地においては、しがらみも伝統も秩序もまったくの無であり、そこからあらゆる新価値、新秩序が生まれるということです」
 まるでお気に入りの詩のように、イトウはすらすらとそらんじてみせた。いや、まさに難解な(ポエム)そのものだ。いくつかの用語に聞き覚えこそあったものの、まったく頭に入ってこない。そんなものお構いなしに、ここからが本題だとばかりに彼は語勢を強める。
「この〈超人〉思想が描く世界と〈史的唯物論〉には通じるものがあると思いませんか? 虚無主義に陥った世界は、まさに現代の資本主義社会だと考えます。労働者は皆搾取され、社会の歯車としての価値しか与えられていません。それを変えるには、革命しかない。
 マルクスによれば共産主義革命は必然であるということですが、つまるところ革命は運命であるということと同じでしょう。善も悪もなく、〈善悪の彼岸〉にある運命そのものです。ならば、〈運命愛〉をもって、いかなる困難をもいとわずに革命を成し遂げるべきなのです。
 そのためには、我々が〈力への意志〉を追求し、〈超人〉として革命を起こして人々を導くほかありません。そして〈善悪の彼岸〉にて新たな秩序、つまり来たるべき共産主義社会を創造するのです」
 そして、イトウはさも誇らしげに言ってのけた。
「お分かり頂けましたか。マルクスの〈史的唯物論〉とニーチェの〈超人〉思想。我々は、歴史的な巨頭の理論の融合に成功したのです!」
 このとき、私はどんな顔をしていたのだろうか。きっと、驚くような間抜け面を晒していたに違いない。
 それもそうだ、分かるはずがない。こんな、経済と哲学がごちゃ混ぜになった複雑怪奇な代物を分かってたまるか。
 しかし、ひとつだけ分かったことがあった。それは、彼らはまごうことなき思想の剽窃(ひょうせつ)者にして、濫用者であるということだ。
 残念ながら私は博識ではないので、連中の理論の欠陥を突くことはできない。しかし、この話の至るところから、空虚な衒学のにおいがひしひしと伝わってくる。こうしたつぎはぎだらけの考えは一見もっともに見えても、早晩瓦解(がかい)するのがおちだ。
 ならば、どうしてそんなことをするのか。答えは簡単だ。これは、彼らなりの理論武装である。もっともらしい言説で若者を惑わし、反対者を(けむ)に巻くためのものだ。私も、かつては理論武装に熱を上げていたが、彼らはニーチェにまで手を伸ばしているのか。まったく恐れ入る。
 そして、それはうまくいっているようだ。さすが哲学専攻、とばかりに教室の学生たちは感心した面持ちをしているではないか。彼らの多くは、この革命論に「何となく」納得していることだろう。我こそ真実を知る賢者、という気になっている者もいるに違いない。サカモトもすっかり回復したようで、
「そういうことだ。まあ、ブン屋には難しいか?」
などと得意げな顔をしている。
 この状況で、万が一にでも「分からない」と言ったらどうなるか。間違いなく馬鹿者扱いされるだろう。崇高なる革命論を解さない無教養な輩である、と。今後、まともに取り合ってくれなくなるかもしれない。私は引き下がる他なかった。
 ただ、それだけではプライドが許さなかった。私は、代わりにこう尋ねてみた。
「君たちの考えはよく分かった。……じゃあ聞くが、その理論をどう実践しているんだ?」
 論より証拠――机上の空論を並べ立てる者に対しては、これが一番だ。こうした者はおつむだけ立派だが、現実のことを聞かれたが最後、口をつぐむ。彼らが頭だけの連中かどうか、試してやろうじゃないか。
 底意地の悪い内心を隠しながら、私は答えが返ってくるのを待った。
 しかし、その返答は意外なものだった。
「よくぞ聞いてくれた。我々は、〈力への意志〉に基づいて、あらゆる革命勢力の統一に乗り出している」
 アンドウの答えは、極めて明瞭だった。
「『力』、その一つは敵を打ち倒す力、すなわち武力である。しかし、それだけでは足りない。あらゆる敵対勢力を凌駕(りょうが)し、覆い尽くす力、つまり『数の力』が重要だ。そのために、我々『革闘連』と他のセクトを統合する組織化(オルグ)を推し進め、革命勢力におけるヘゲモニーを握ることを目指している」
 そして、アンドウは一気呵成(いっきかせい)に言葉を続ける。
「我々は帝国主義者どもの凶悪な攻撃をはねのけ、ファシズム社会の変革という使命を果たさなければならない。そのために、あらゆる分派的行動を許さず、革命勢力を結集させることが必要だ。そう、我々はあらゆる革命者の覇権(ヘゲモニー)に向けて闘争する、〈ヘゲモニズム闘争者〉なのだ!」
 〈ヘゲモニズム〉。〈史的唯物論〉と〈超人〉思想に基づき、すべての新左翼の覇権(ヘゲモニー)を握ることを目指す理論らしい。要するに、『力』を求めて他の過激派を従え、一致団結して革命を起こそうということか。
 私が学生だったときとは大違いだ。私が現役のときはセクト主義――些細な思想信条の違いから、他者とは絶対に相容れないとする考え――に囚われていたのだから。私だけでなく、私の周りもそうだった。だからこそ、セクトどうしの争い、いわゆる内ゲバが絶えなかったわけだ。革命を成し遂げられるはずもない。「革闘連」はそれを克服しようとしているということか。
 ……少し彼らに感心してしまった自分に気が付く。しかしキズキよ、よく考えてみよ。「あらゆる分派的行動を許さない」とアンドウは言っていた。これはつまり、「革命の遂行」という大義名分のもとに、あらゆる思想の違いを認めないことを宣言しているのと同じではないか。内部で考えが対立したときは、相手が「分派的」だとレッテル貼りをして意見を封殺するに違いない。そう、連中は口先では大層なことを言っているが、やっていることは有象無象のセクトと変わらないのだ。
 そう自分に言い聞かせ、彼らの会合に意識を戻すことにした。教壇に目を向けると、相変わらずアンドウは熱弁を振るい、聴衆はそれに熱をあげている。
「やりたい放題の政府権力やそれに飼われた警察、そして海外の帝国主義者と通じた戦争屋……。いまや奴らはひとつになって革命の機運を潰そうとしている。それなのに、こちらがバラバラになっていていいだろうか? 否、いいわけがない。極めてナンセンスだ!」
「ナンセンス!」
 いつもの合いの手が一層大きくなる。
「そう、我々もひとつになって、小汚い帝国主義右翼を完膚なきまでに粉砕しなければならないのだ。そして、この現実に直面しておきながら、我々に賛同しない者はもはや革命を成す者ではない。獅子身中の虫、革命に潜み込んだ反動主義者なのだ! 我々は権力体制だけでなく、こうした者どもとも断固闘争しなければならない!」
 思った通りだ。やはり、かつての私と変わらない連中だ。そう思うことで、私は大いに安堵(あんど)した。
 しかし、それと同時に心の片隅に芽生えたのは、一抹のわだかまりであった。
 それが何か、そのときは分からなかった。いや、分からないようにしただけだったか。今となってはそれすら分からない。

「この理念に基づき、我々は日夜、他セクトに対するオルグを行ってきた。反動主義者の抵抗に対しては、犠牲も厭わず闘争も敢行した。その結果、西都大学にあった五つのセクトのうち、四つが我々『革闘連』に合流した。残る一つが落ちるのも、時間の問題だ。我々はこれだけに飽き足らない。いずれ他の大学にも勢力を伸ばし……」
 室内に響き渡る声で弁を振るうアンドウ。熱心に聞き入る聴衆。その光景は、いつまでも続くかのように思われた。
 そのときだった。不意に後ろの扉が(きし)み、音を立てて開け放たれた。
「君たち、そこで何をしている。教室の使用許可はとっているのかね!」
 振り返ると、大学の職員らしき年配の男が立っていた。学生相手に一人で対峙するのは分が悪いと考えたのか、両脇を屈強な若い職員で固めている。
 それで気が大きくなっているのだろう、尊大な調子で言い放った。
「無断使用ならば出て行ってもらおうか。本学を君たちの勝手にされては困る」
 突然の介入に慌てふためき、うろたえる学生たち。しかし、アンドウは別だった。彼女は怯まず、たったひとりで職員たちに噛みついた。
「いいえ、大学は公共の空間のはず。私たちを追い出す権限など、あなたたちにあるはずがない。これは不当な弾圧介入よ!」
 方や大学当局、方や過激派の指導者。互いに譲らぬ二者がにらみ合う。まさに、一触即発の状況であった。
「ちょっといいですか」
 彼らを前にして、私は声を上げていた。
「私は新聞記者のキズキといいます。実は、彼ら若い学生を対象に取材をしていまして。今日もこの教室に集まってもらって取材をしたのですが、それも私のお願いでした」
 その場の視線が、すべて私に向かっていく。それは、アンドウとて同様だった。わずかに見開いた彼女の瞳。そこには、驚嘆の念が宿っていた。
「ですから、彼らを責めないでください。事前に許可を取っておかなかった私が悪いんですから」
 なぜ彼らを(かば)ったのだろうか。単に、これからの取材を円滑にさせたいという思惑からか。それとも、そういう打算とはまったく別のものか。ともかく、気が付いたときには、自ら勝手に罪を被っていた。
「ふうん、そうですか。……次からは気をつけてくださいよ」
 大学の職員たちは訝しげな顔をしていたが、やがて諦めて退散していった。
 当局が去り、騒然としていた教室はすっかり静まりかえっていた。想定外の事態に、誰もが口を開けなくなっていたのだろう。
「……ふん。今日はこのあたりだな。解散だ、解散!」
 静寂を破ったのはサカモトだった。ぶっきらぼうに言ってのけると、大股で教室を出て行った。それに追随するように、ひとり、またひとりと去って行く。イトウも気まずそうに頭を下げ、教室を後にしていった。
 残ったのは、私とアンドウだけだった。彼女は私を一瞥(いちべつ)すると、かすかに呟いた。
「……ありがとう。キズキさん」
 「ありがとう」。確かに、私はアンドウを庇った。私は革命を潰すための間者だ。なのに、彼女の助けになるようなことをした。助けようという意図があったのか、なかったのか。しかし、結果としてはそうなったのだ。
 それだけ言って、アンドウは足早に立ち去っていった。
 そのとき、私は見た。張り詰めた彼女の横顔がわずかにほころび、安らぎの色が浮かぶのを。はっきりとは分からなかったが、確かにそんな気がした。

 ひとり取り残された、若者の(やど)。彼女が一瞬見せた表情と言葉を反芻(はんすう)するたび、胸にかかる霧もやが濃くなるようだった。



***

――つい先日、接触に成功しました。はい、奴です。今回の標的です。


――まだ、目立った動きはありません。しかし、そのうち本性を現すでしょう。


――ええ、今は泳がせておきましょう。引き続き監視を続けます。












 四

 それから数ヶ月、私は「革闘連」及びその指導者アンドウとの接触を続けていた。
 しかし、彼らが大がかりな破壊活動を行うことはなかった。せいぜい、定例の集会と、勧誘演説(アジ)やアジビラ配りといったオルグ活動程度である。記者である私がいるせいか、それとも単に今は小康状態であるだけなのか。公安にとって価値のありそうな情報は手に入れられなかった。
 それでも、報告さえ行えば、ササキは「そうか、そうか」と言って、しっかり報酬を払ってくれた。
 あのとき覚えた小さなわだかまり。それが何なのかも分からぬまま、公安への報告を逐一こなしていた。

 いつしか陽に(かげ)りが差し、街吹く風にわびしさを感じる頃であった。その日の午後、アンドウとその取り巻きたちは、学舎のある一画に集っていた。
 学舎の最上階、小さな物置場のような部屋。集まった人数は、いつもより少ない。恐らく、「革闘連」の中核をなす人々なのだろう。場所といい、メンバーといい、今日の集会は、定例のものではないことは明らかだった。
 それでは、なぜ部外者の私が呼ばれたのだろう。まさか、公安と通じていることがばれたのではあるまいか。もしそうなら、非常に危険だ。彼らは血気盛んな過激派である。
 しかし、逃げることもできない。もしここから逃げ出せば、疑惑は確信に変わるだろう。やはり奴はスパイだったのだ、と。彼らは私を血眼になって探し回るに違いない。そうなれば、命の保証はないも同然だ。
 私が取るべき選択は一つだった。この集会に堂々と出席すること。そして、何としても疑いをごまかし、彼らを煙に巻くこと。それだけだ。私は平静を装っていたものの、内心は穏やかでなかった。
 同席したメンバーを前に、アンドウが口を開く。
「同志諸君、よく集まってくれた。今日は重大なる緊急事項を伝えなければならない」
 「重大なる緊急事項」。思った通りだ。それは想定済みである。私は表情が強ばらぬようつとめた。
「諸君は夏頃に行われた、大学当局による不当介入を覚えているだろうか。近頃、権力による監視・弾圧が激しさを増している。国内外の帝国主義者と共謀して監視網を張り巡らし、革命を潰そうと企んでいるに違いない。我々の勢力が増し、革命の機が熟してきた証左だ。奴らにとって、我々は無視できない存在になっているのだろう。今こそ同志の連帯によって奴らの卑劣な攻勢を撃砕し、革命へ跳躍しなければならない」
 場の緊張感が高まっていくのを感じる。あの一件が、彼らを大いに刺激したようだ。
 緊張を感じたのは彼らだけでない。私もしかりだ。言うまでもない、彼らを監視しているのは他ならぬ私だからである。
 すると、イトウが進み出て、アンドウの言葉を継ぐように続けた。
「その通りです。権力攻勢は日増しに激しくなっている。大学当局はもちろん、公安による監視もあるという話です」
 「公安による監視」。この言葉に、私の心臓はわずかに縮み上がった。やはり、公安の影に勘づいているというわけか。こうなったらシラを切り通し、ごまかすしかない。証拠らしい証拠はないはずだ。覚悟を決めるほかない。
 しかし、イトウの続けた言葉は予想外のものであった。
「こうした状況で、我らが指導者、アンドウさんの情報が大学当局に握られたままなのは非常にまずい。よって、アンドウさんは大学を退学することに決めました。今後は、我々の運動に専念するとのことです」
 何だ、「緊急事項」とはその程度のことだったのか。私は小さく息をついた。
「最近手に入れた情報によると、大学や公安による監視だけでなく、『キャノン機関』なる米帝資本による関与もあるとか。アンドウさんの言うとおり、敵は外国のファシストどもと結託しており、まったく油断できない状況です。この現状を打破するために、アンドウさんは大きな決断をしました。彼女の英断に惜しみない賞賛を」
 ほこりくさい部屋に鳴り響く拍手喝采(かっさい)。その熱狂の裏で、私は胸をなで下ろした。
 米帝資本――アメリカによる資金関与など、私は預かり知らない。「キャノン機関」など、聞いたこともない。何かの陰謀論だろうか。とにかく、彼らは偽の情報を掴まされている。私が公安と通じていることなど、思いもよらないだろう。
 そんなこともつゆ知らず、喝采が収まるのを見てイトウは切り出した。
「ここからが本題です。先の一件もあったことです。突然退学を申し込めば、必ず当局に怪しまれるでしょう。そうなってしまうと、意味がない。こちらも奴らの裏をかかなければなりません」
 そして、彼はアンドウを見やって言った。
「そこで、結婚による中退という形をとるのです。結婚を機に中退するというのはそう珍しいことではないでしょう。それに、結婚したとなれば、家庭のこともあるので革命運動からは手を引くだろう――そう考えるに違いありません。偽装結婚によって当局の目を欺き、油断させるのです」
 「結婚」という言葉で、にわかにざわめきが起きる。当然だ。彼らにとって、アンドウは忠誠を捧げる指導者である。その彼女が表向きだけとはいえ「結婚」するとなれば、それはまさしく重大事件に他ならない。「重大なる緊急事項」の意味がやっと分かった。ただ、私を呼ぶ目的がよく分からないが……。
「そして偽装結婚の相手ですが――」
 騒然とした場を制するように、イトウが声を上げる。そして、真っ直ぐ私に視線を定めて言った。
「驚かないでくださいね。キズキさん、あなたにその役をやってほしいのです」
 私は息を呑んだ――驚くな、といわれても無理な話だ。
 再びどよめく学生たち。彼らも困惑しているのだろう。しかし、私のそれは、彼らの比ではない。私を呼んだ理由はそれだったのか、などとぼんやり考えることしかできなかった。乱れる頭を落ち着け、何とか声を絞り上げる。
「……どうして私なんだ?」
 混乱のただなかにある私に、彼は平然と答えた。
「それは、あなたが我々『革闘連』に所属していない人間だからです。もし、我々のなかから結婚相手を出したら、(かえ)って余計に怪しまれます。また、あなたには新聞記者という肩書きもある。社会的な信用は十分でしょう。あなたを結婚相手として選んでも、何も不自然ではありません」
 確かに彼の言う通りである。偽装結婚をするなら外部の、「普通」の人間が適当だ。彼らと接点がある者のうち、こういった条件を満たすのは私であったのだろう。
 突然のことでよく頭が回っていなかったのだろうか。あくまで理路整然としたイトウの理屈に、妙に納得してしまった私がいた。自分のことなのに、どこか他人事のように、うわの空で彼の話を受け止めていた。
 イトウの説得に納得したのは、学生たちも同じようであった。互いに顔を見合わせながら、「確かにそうだ」「その通りだ」と口々に言い合っている。困惑を含んだ喧騒はすっかり鳴りを潜め、多数の賛同が固まろうとしていた。
 もはや大方は決しつつあった。そのときであった。
「ふざけるな! ナンセンス、俺は異議ありだ!」
 賛意の空気を破らんとこだまする、感情的な叫び。その主は、サカモトであった。もう我慢ならぬ、というように顔を赤く引き攣らせ、声を振り絞って喚き立てる。
「なぜ、こいつなんだ! 俺は納得できないぞ! 大体、革命戦士でもない、単なるノンポリブン屋に、我が同志アンドウを任せられるか! それくらいならば、この俺が……!」
 時折ひっくり返りそうになりながら、ありったけの声で訴えるサカモト。そんなものは眼中にないかのように、イトウは静かに奴をあしらった。
「理由ならば、先ほどお話ししました。そして、これはもう決まったこと。我らが指導者たるアンドウさんの承認を経た決定事項です」
 そして、有無を言わさぬとばかりに告げる。
「それでも()えて反対なさるというのなら、例えあなたであっても分派的行動であるとみなしますが」
 「分派的行動」。組織を分裂させようとする裏切り行為のことだ。学生運動を行う者にとって、人格の全否定にも等しい宣告である。「数の力」を重んじていた彼らにとっては、なおのことだ。
 サカモトは目を見張らせ、わなわなと震えた。奴は何か言いたげだったが、言葉にならなかったのだろう。イトウを鋭く一瞥(いちべつ)し、素早く(きびす)を返して部屋を飛び出していった。
 サカモトがいなくなった今、この場に私とアンドウの偽装結婚に反対する者はいないようだ。そこにはただ、私に向けられた期待のまなざしがあるのみだった。全員の賛意が決まったことを察したイトウは、私に語りかけた。
「……そういうことです。ご迷惑をかけますが、これも革命という大いなる目的のため。学生運動を率いていたあなたになら、分かってもらえるはずです」
 そう言うと、少し微笑んで付け足した。
「あの一件で、あなたは我々を助けてくれました。そのとき、私は確信したのです。あなたは我々と真に同じ志を持っていた方だ。そして、その情熱はいまだ消えていないのだと。僕はあなたに、心からの敬意を表します」
 イトウの言葉にとともに、自然と他の学生からも賞賛の声が上がる。それはやがて万雷の喝采となり、この狭苦しい部屋を埋め尽くした。いまや、異を唱えることは許されなかった。
「それでは決まりですね。革命への新たな前進を祝しつつ、今日は解散としましょう」
 告げられる解散の声。それはどこか明るく、淡い希望が宿っていた。学生たちは次々と私のもとへ握手を求め、感謝の言葉を口にした。そして、ひとり、またひとりと帰っていく。
 ただひとり、アンドウのみが沈黙を貫いたまま、無言で去って行った。



 熱くも冷たくもない、生ぬるいビル風が吹き抜ける街通り。仕事帰りの群衆に紛れ込み、頭を抱えながら私は歩いていた。
 大変なことになってしまった。何が大変なのだといえば、まず、当初の想定よりも彼らに深入りしてしまったことである。元はといえば、公安からの報奨金が目的だったはずだった。つまり、金だけが目当てだったのだ。
 そのはずが、気が付いたときにはこの有様である。引き返す機会は、何度もあったはずだ。先ほどのことにしても、無理なものは無理だと断ることもできた。なのに、なぜそうしなかったのだろうか……。
 これだけでも頭が重い。しかし、それ以上に私の心を悩ませるものがあった。
 恥ずかしながら、私は女性と深い関係になったことが一度もない。
 言い訳をさせて欲しい。決して容貌が著しく劣っているとか、性格が尋常でなく(ひね)くれているとか、そういうことではない。少なくとも私はそう思っている。
 これは一種、私の勤勉さが招いたことなのだ。中学生のときから、私は人見知りだったが勉強だけはできた。残念ながら他はからっきしだったので、それだけが取り柄だと思っていた。地元有数の高校に進学したときも勉学を怠らなかった。より良い大学へ受かるため、学問に打ち込む日々。異性との付き合いなどもっての外である。
 その後、私は大学で学生運動に出会う。いかにこの世が腐っているか、いかに社会が欺瞞に満ちているか。机上の勉学以外に何も知らなかった私は、そこで初めて世の中のことを知った。そして純粋にも、この世の腐敗を変革すべく運動に身を投じていくことになる。
 その中で、私は意図的に女性を避けていた。セクトの指導者として、女性との関わりを禁じたのだ。恋愛などにうつつを抜かしていたら、革命などできっこないと思っていたからである。
 そう、あくまで「女性と関われなかった」ではなく敢えて「関わらなかった」のだ。そのつもりであったから、私は彼女たちへの無関心を装うことに腐心した。大学を卒業し、社会に出てからも依然としてそうであった。
 しかし、世間はそう見てはくれない。年を重ねるにつれ、女性からの冷たい目線に気付くようになった。そして、私自身も街中の恋人たちに疎ましいような、羨ましいような気持ちを抱くようになっていった。ここまで来て、私はようやく理解できた。私の言い分はただの日陰者の負け惜しみ、引かれ者の小唄に過ぎなかったのだ、と。
 ただ、そんなことを自覚したところでどうにもならない。生来の人見知りも相まって、私が女性と関わるのは至難の業だった。
 こういう訳で、私はこの年になるまで一度も女性と深い関係になれたことがない。
 かつては、このことに酷く悩まされていた。しかし、虚無な日々を送るうちにそれに慣れてしまったのだろうか、ここ最近はその悩みすらなくなりかけていた。
 ここに至って、忘れかけていた劣等感が蘇ってくる。よもやこんな形で再び我が身に降りかかってくるなど、思いも寄らなかった。

 そうしてあれこれ考えているうちに、大分時間が経ったようだ。茜色の夕陽に照らされた、古ぼけた安アパート。気が付けば、その前に立っていた。
 これが、イトウから告げられた、アンドウの家だった。今日から、ここで暮らすことになる。イトウ曰く、結婚実態がなければ、公安や警察から目を付けられるからとのことだった。彼に言われるがままに来てしまったが、大変なことに巻き込まれてしまった、と改めて心が重たくなる。
 何しろ、これまで女性とまともに接したことがない男だ。そんな私が、深い仲でもないアンドウと暮らすなど果たして出来るだろうか。難しければ毎日でなくてもいい、週に何日かだけでも、とのことだったがそれすら無理筋だろう。
 そもそも、アンドウ自身はどう思っているのか。形だけとはいえ、私のような冴えない三文記者風情とお近づきなんてまっぴらだ、というのが本音かもしれない。思い返せば、先ほどの集会のときでも、アンドウはこちらの顔すら見ず、黙って去って行ったではないか。一体、どんな顔をして彼女に接すればいいというのだ……。
 膨れ上がっていく、子どもじみた不安。私は、アパートの前に立ち尽くし、しばらく逡巡(しゅんじゅん)していた。しかし、あれだけの面前で決まってしまったことなのだ。もう引き返すことはできない。これも「取材」を続けるためだ、と言い聞かせ、意を決して部屋のドアを叩いた。

「……あら、キズキさんね。待っていたわ」
 部屋の奥から出てきたアンドウ。私は少し身構えた。しかし、そこにいたのは、いつもとどこか違う彼女だった。
 あの射るような眼光は消え去り、ただ透き通った瞳があるのみ。険しく引き攣った表情が嘘のように、どこかあどけなく顔をはにかませる。学生たちを煽動し、鼓舞する叫びは、柔らかな声色に変わっていた。
 これらは一見、些細なものなのかもしれない。あるいは、単に私の思い違いか。しかし、これらの小さな変化が、私の胸にかすかなさざ波を起こしたのだった。
 いつもと違う彼女に、言葉が詰まる。結局どうしたらいいか分からない私に向かって、アンドウは言った。
「ごめんなさい、私のために迷惑をかけてしまって。あと、さっきの集まりのときのことも。あのとき黙って出て行ったのは、皆の前で、誰かひとりと親密になり過ぎてはいけないと思ったからよ」
 そして、彼女は少し寂しげに微笑した。
「私は『革闘連』の指導者だから。誰に対しても、そうなのよ」
 それから、アンドウはこちらに瞳を向けると、どこか嬉しそうに続けた。
「……それから、ありがとう。あなたが当局から私を庇ってくれたこと、忘れないわ。あなたのような人、初めてだった。きっと、とても優しい人なのね」

 このとき、私はどう返答したのだろうか。適当に相づちでも打っていたのだろうか。未だに、思い出せない。

 ともかく、かくして私とアンドウの奇妙な生活が始まったのだった。















 五

 巡る月日とともに、アンドウとの日々は過ぎていった。
 無論、「結婚」とはいえ、偽装したものだ。夫婦や恋人のような生活ではない。私とアンドウは、単なる同居人に過ぎなかったのだろう。せいぜい、居間で鉢合わせしたときに一言二言交わしたり、時たま食事を共にしたりといった程度である。ある意味、私の抱えていた懸念は杞憂(きゆう)であったと言える。その一方、極めて無味乾燥なものだったと思われるかもしれない。
 しかし、私にとっては違った。この部屋で、彼女がふとした瞬間に見せる柔らかなほころびが、いつしかくらしを温かく彩っていった。学生たちの前で弁をまくし立てる姿からは、想像もつかぬ彼女の微笑み。それを目にするたびに、これまでの日常が、どこか遠い過去となっていった。
 下らない記事を書いては捨てた毎日。若者たちのあふれる情熱を冷笑するしかなかった日々。数え切れない荒んだ日常が、やがて透明になって消えていった。まるで、はじめから存在しなかったかのように。
 そんな気がしていた。思い込みでも構わない。私にとっては、揺るぎない事実であったのだから。
 そうして、アンドウとの毎日は、ゆるやかに流れていった。



「じゃあ、いってらっしゃい。気を付けて」
アンドウの見送りとともに、足取り軽く雑踏を行く。この日も、私は新聞社に出社していた。
 「革闘連」への接触を始めてからは、大して他の業務を行えていない。それでも、出社だけは毎日欠かさず行ってきた。業務時間中にデスクを空けることが多くなっても、「学生運動への密着取材」という体裁はある。午前を適当な雑務で潰して昼食をとった後、その日も「取材」のために席を立とうとしていた。
「おい、君」
 背後に響く、荒っぽい呼びかけ。その声は、私の上司のものであった。突然のことに、困惑を隠せない私。上司は厳しく問うた。
「どこへ行くつもりだ。この頃、記事もまったく書いていないらしいが。それもなしに、また取材というのかね」
 上司は険しい表情で、こちらを見据えた。そこには、明確な苛立ちが浮かんでいた。
 私は口ごもった。確かに、ここ最近は記事らしい記事を書いていない。アンドウたちへの「取材」やら、公安への報告やらで他のことを取材する時間などなかったのだ。
「……いえ、記事を書くだけでなく、真実のために取材を続けるのも記者の仕事ですので……」
 こう言葉を濁すしかなかった。そんな私に、呆れ混じりの怒鳴り声が飛んでくる。
「記者の仕事、だと? お前ごとき木っ端記者がでかい口を叩くな! その取材とやらが、部数に貢献しているのか? 我が社の利益になっているのか?」
 堪忍袋の緒が切れたかのように、上司はまくし立てる。そして、私を口汚く罵った。
「勘違いするなよ、お前の代わりはいくらでもいるからな! 何がジャーナリズムだ、それで食っていけると思っているのか? お前はおとなしく記事を書いてりゃいいんだ、そうじゃなきゃ金にならないだろうが!」
 次々と飛んでくる侮蔑(ぶべつ)の怒声。口をつぐみ、うつむくしかできない私。追い打ちとばかりに、上司は吐き捨てた。
「何が学生運動だ! クソガキどもの革命ごっこなど、何になる! 答えられるなら答えてみろ、この給料泥棒め!」
 ここまで言われても、私は一言も言い返すことが出来なかった。凄まじい剣幕に、気圧(けお)されてしまったのだ。押さえつけるような威圧の前に、黙り込むのみだった。
 上司はわざとらしいほど大きなため息をつくと、ずかずかと自分の席へ戻っていく。残された私に待っていたのは、同僚から向けられる冷たい視線だった。私を取り囲む、軽蔑と嘲笑とがない交ぜになった氷のような眼差し。そこかしこから、失笑やひそひそ声が聞こえる。
 上司だけでない。今、私は職場中の人間から辱められているのだ。そう気が付いたとき、私はひとりでに走り出していた。後ろからは、囃し立てる笑い声がこだまする。しかし、そんなことに構ってはいられなかった。とにかく、ここから抜け出したい一心だった。

 会社のビルを出た頃には、「革闘連」の集会の時刻はとっくに過ぎていた。取材道具も持ってきていない。だいいち、「取材」をする気力も失われていた。
 行く当てもなく街を彷徨(さまよ)っていると、大通りの外れに小さな公園があることに気が付く。いつもこの通りを歩いて出社しているのに、これまでまったく気付かなかった。
 ベンチに力なく座り込み、私は息をついた。それと同時に、波のごとく押し寄せる疲労。私はゆっくりと目を閉じた。
 不意に訪れる暗闇。再び目を開けると、雲がかった空が、眼前に迫っていた。街に吹く風も、どこか冷たい。公園の木々は色褪せ、その葉を落としていた。いつの間にか、季節は晩秋にかかろうとしていた。
 ぼんやりと遠くを見やる。多くの人々が行き交う、ビルだらけの無機質な街。その中のひとつに、私の勤める新聞社がある。この公園からでもはっきりと見えるのだから、この街の中でもとりわけ大きな建物であるに違いない。
 大学を卒業したばかりの頃。初めて出社したときは、高くそびえるその姿に、ある種の頼もしさと誇りを感じたものだ。これからは、この巨塔から世界を変えてやろう。我こそは、真実をもって社会を正しく導く者だと。それが、今となってはどうだ。あのビルは、私を飲み込み、押しつぶす巨石にしか見えない。どうして、こうなってしまったのか。
 戻ることのない、若き日々。それと対なす、目の前の現在。アンドウとの生活の中で薄れかけていた現実は、なおも私の前に居座っていたのだ。
 私は背もたれに身を委ね、とりとめもなく記憶の中を行ったり来たりしていた。そのとき、つま先に何かがぶつかる感触がした。足下には、ピンク色のゴムボールが転がっている。
「あ、あそこだ!」
「リョウタが力いっぱい投げるからー」
 二人の男の子が、こちらに走り寄ってくる。このボールは、彼らのものだったようだ。私は足下のボールを拾うと、軽く投げ返してやった。
「ありがと、おじちゃん」
 彼らはこちらに頭を下げると、仲間たちのもとへと走って行く。そして、また皆でボール遊びを再開したようだった。既に、私のことなど頭にないだろう。
 「おじちゃん」、か。私は反芻した。そうだ、私はもう若くはない。学生だったのも遠い昔のこと。もう三十も目前だ。世間ではまだまだ若いというのだろうが、所詮気の持ちようである。大体、世の三十路(みそじ)で、自分がまだ若者だと本気で思っている者がどれだけいるだろう。それはただの未熟であって、真の若さではない。
 真に若かったときは、今とは違った。情熱にあふれ、活力に満ちていた。世の腐敗を憎む一方で、最後には正義が勝つものだと思っていた。そもそも正義が勝つのなら、社会は腐敗しないはずなのだが。そんな絵空事を疑いなく信じるだけの、純粋さがあった。いや、絵空事とすら思わなかった。嘘もまことも関係なく、信じたいものを信じられる真っ直ぐさがあったのだ。今より良い日々が必ず、絶対にやって来るものだと、無邪気に待っていた。
 我が物顔で、公園で遊ぶ子どもたち。彼らを見ると、どういうわけか胸が痛んだ。彼らが持っているであろう純粋さや真っ直ぐさ。それが、私が失ってしまったものなのだ。それこそが、前へと生きていく力の源だったというのに。
 ここは、私の居ていい場所ではない。子どもたちに気が付かれぬよう、私は静かにベンチを立った。

 日が暮れる頃、私はアンドウの家に帰った。無言でドアを開け、靴を脱ぎ捨てる。
「あら、お帰りなさい」
 アンドウは先に帰って来ていたようだ。彼女をあしらうように、ああ、とだけ答えた。いつもなら、多少なりとも言葉を交わすのに。普段と違う様子の私に、アンドウは心配そうに尋ねる。
「今日は、結局取材に来なかったわね。何かあったのかしら」
 何があった、と聞かれても困る。会社で罵られた挙げ句、職場を放棄して街中でぶらついていたのだ。そんなこと言えるはずがない。
「……いいや、別に」
 と答えたきり、口を閉ざすしかなかった。食事中も口をきかない私のことを、アンドウは黙って見ていた。
 なぜ、こんな態度をとってしまったのだろう。彼女には何の非もないはずなのに。どこかでやめなければならないのに、どんどん時は過ぎていった。
 そして夜も更け、互いの部屋で床に就こうとしたときだった。
「ねえ、キズキさん」
 自分の寝床に向かおうとする私を、アンドウが呼び止めた。そして少しためらった後、こう口にしたのだった。
「うちの近くに動物園、あるでしょう。明日、そこへ行きたいのだけれど。……あなたと一緒に」
 それは、あまりにも唐突な提案であった。そもそも、近くに動物園があることすら知らない。面食らった私は、呆然としながら彼女に聞いた。
「……動物園に? どうして?」
 率直すぎる疑問だった。普通なら、こういう聞き方をしてはいけないのだろう。しかし、このときは無理からぬことだった。彼女は一瞬、はっとしたように口をつぐんだ。そして少し視線をずらし、口ごもりながら答えた。
「……ええ、そうよ。よく考えてみれば、私たちは一緒に住んでいるだけじゃない。これじゃ、やっぱり公安に偽装結婚だと思われるかもしれない。だから、少しでも結婚実態があるように見せないと」
 思えば、弁舌が立つアンドウにしては、どこかたどたどしい答えだったのかもしれない。しかし、そんなことは気にせず、私は承諾した。
「ああ、分かった。そうしよう」
 特に断る理由もなかった。いずれにせよ、明日は会社を休むつもりだったから。それに、彼女に合わせることで、早いところ眠りに就きたかったというのもあった。昼間のこともあって、これまでになく疲れていたからである。そんな私の本音はつゆ知らず、彼女は顔を綻ばせた。
「ありがとう。明日、楽しみにしてるわ」
 そのときは、「楽しみ」などという言葉が、初めて彼女の口から出てきたことに気が付かなかった。それどころか、「公安の目を欺くため」という目的とはちぐはぐな発言であったことにも、思い至らなかった。








 翌日のこと。私とアンドウは、隣町の動物園にいた。駅に向かい、電車に乗って十五分ほど。アンドウの言う「近く」とはそういうことであったか。どうりで、これまでその存在を知らなかったわけだ。
 前日とは打って変わって、見事なまでの秋晴れの日だった。どこまでも突き抜ける、雲一つない青空。穏やかに降り注ぐ陽が、日ごとに増す肌寒さを和らげていた。
 穏やかな天気に誘われて、園内は人で賑わっていた。その日は日曜であったこともあってか、とりわけ子どもが多かったように思う。世間では、日曜は休日なのだ。
 そんな世の常識すら、なくしかけていた。記者の休日は不定期なので、実感がわかない。夜討ち朝駆けで走り回る日々を過ごすうちに、そうなってしまったのだろうか。会社を欠勤した日にそう気付くとは、何とも皮肉な話だ。
 思えば、誰かとどこかへ出かけることも、いつしかなくなっていた。最後に動物園に来たのは、いつだっただろう。どれだけ思い出そうとしても、記憶の障壁に阻まれてしまう。きっと、この園ではしゃぎまわる子どもたちと同じ頃だったのかもしれない。
「さあ、行きましょう」
 アンドウの呼びかけで、私は我に返った。彼女も誰かと外出することは少ないのだろうか。慣れない薄化粧がかかった横顔が微笑む。
「今日は少し寒いわね」
 彼女はそう言って、コートに突っ込んでいた手を外に出した。言葉とは裏腹の行動だった。そしてその指を、私の指に絡ませた。
 私は驚いて、アンドウの方へ顔を向けた。しかし、私が何か言う前に、彼女は前を向いたまま(ささや)いた。
「……今の私たちはカップルよ」
 私の無骨な手に繋がった、ひとまわり小さな手。それは柔らかく、ほんのりと温かった。柔肌から伝わる、官能的な温度。熱にうかされた私に、冷たい風が吹きつける。
「やっぱり寒いわ」
 アンドウは柔らかに笑った。ルージュが乗った唇がわずかに動く。私も、ぎこちなく笑った。

 園内は、様々な生き物がひしめいていた。群れるシマウマ。首をもたげるキリン。寝そべるライオン。来園した人々は、これらの動物たちと一緒に写真を撮ったり、気を引くために手を振ったりしている。
 そのなかでも、幼い子どもの人気を集める一画がある。そこには、数羽のペンギンが棲んでいた。ご存知、飛べない鳥である。
 翼をばたつかせ、赤子のごとくよろよろと歩く鳥たち。その姿に、歓声がわき上がる。
「飛べない鳥だー!」
 手を叩いて喜ぶ子どもたち。彼らの笑顔が、辺りを包み込む。大人たちも、どこか嬉しそうである。
「子どもたちはいいわね、キズキさん」
 この園の雰囲気につられてか、アンドウは朗らかに言った。その表情は、見たことがないほど安らかなものだった。傍から見れば、とても過激派の指導者とは思うまい。
「楽しそうね。若くて、元気いっぱいで……」
 彼女は小さく嘆息する。私はその言葉を拾い上げ、彼女に返した。
「……君が言うことじゃないだろう」
 年もさることながら、心もそうじゃないか。学生を率いて、愚直に革命を目指す情熱があるだろう――口まで出かかった言葉を飲み込む。
「それもそうね」
 アンドウは小さく笑った。そして、誰に言うとでもなく、独りごちた。
「……今が、いつまでも続けばいいのに」
 その言葉は本心から来るものか。それとも、偽装結婚という仮面の下から発されたものか。私には分からない。



 アンドウとの動物園での一日は、ゆっくりと幕を閉じた。それは一見、何事もなく終わったように思われた。
 二人で家に帰った後のこと。彼女との一日を終えた私は、不思議な充足感に満たされていた。つい昨日まで自暴自棄になりかけていたというのに、単純なものである。
 それと同時に、昨晩のことが胸をかすめる。こちらにも事情があったとはいえ、彼女に辛く当たってしまった。どんな理由があるにしろ、アンドウからすれば八つ当たりのようなものだ。今更ながら、私は自らのしたことを悔いた。
 アンドウに対する感謝の思いと、私自身に対する自責の念。心に芽生えた、二つの相反する感情。これを素直に伝えられるのは今だけだ。意を決して、彼女に向き直る。
 しかし、それが言葉になることはなかった。私が見た先にいたのは、虚ろなアンドウの顔であった。目は宙の一点を見据え、心ここにあらずといった様子だ。何か思い詰めているかのように、その表情からは苦悩の色がにじみ出ている。険しい面持ちの彼女に、私はかける言葉を失ってしまった。どうしていいかわからず、心の中で右往左往するのみである。
 どういうわけか、突如として無口になってしまったアンドウ。もとより、彼女は口数が多い方ではない。しかし、明らかにいつもとは違った。昼間とは打って変わって、二人の間に重苦しい空気が垂れ込める。
 結局、帰宅してからアンドウと言葉を交わすことはなかった。夕食のときですら、会話の一つもない。このままではいけない。何より、私がこの重圧に耐えれそうになかった。ここを切り抜けなければ、二度といつもの彼女が帰ってこないのではないか。焦りが胸を満たしていく。
 そうしている間にも、沈黙のうちに夜は更けていく。就寝の時間になったとき、思い切って私はアンドウに声をかけることにした。さながら、アンドウが私にしたように。
「……今日は楽しかった。いい一日だった」
 その背に向かって、どもりながら呼びかける。しかし、彼女は私に背を向けたまま、冷たく言った。
「いいえ、あなたがそんなことを言う必要はないわ。今日の外出は、公安をまくため。革命のためだもの」
 すがる私をアンドウは突き放す。確かに、昨日彼女はそう言っていた。あくまで、偽装を通すためだ、と。だが、しかしである。だからといって、すべては嘘、すべては演技だったというのか。
 彼女の豹変に衝撃を受け、私は黙り込んでしまった。不意に訪れる、耳が痛いほどの静寂。
「……革命のため。すべて、革命のためなのよ……」
 そう言ったきり、彼女は夜の闇へと消えていった。





 六

 アンドウと出かけたあの秋の日。結局それ以来、彼女と出かけることはなかった。あれだけ「革命のため」と言っていたのに、「革命のため」の外出は二度となかった。
 それでも良かった。あの夜から日が経つにつれ、彼女の様子は徐々に元に戻っていった。冷めた眼差しが温かな微笑みへ、重苦しい沈黙が軽やかな会話へと。それを目の当たりにすれば、ひとときの平穏が心に訪れた。私とアンドウとの生活は、少なくとも表面上、私のもとへと帰ってきたのだ。
 あのとき、様子がおかしかったのはなぜなのか。そんな当たり前の疑問も、気にしないふりをしていた。私と同じで、何か気にくわないことがあったのだろう、と。無論、その程度の理由付けで、あの豹変を説明できるわけがない。それにも関わらず、深く考えることを避けていた。見かけだけでも構わない。アンドウとの安らかな日常を壊したくなかった。
 そんな毎日の中でも、私の悩みの種になっていることがあった。それはつまり、金のことである。
 私は、新聞社に出勤しなくなっていた。あれほど冷罵されたのだ。そんなところにのこのこ出向いてやるほど、私は馬鹿ではない。あの会社が私を拒否したのではない、私があの会社を拒否したのだ。「代わりはいくらでもいる」だと? 今頃、必死に私の穴を埋めようとしているに違いない。いい気味である。
 しかしながら、不都合なことがある。当然だが、給料がもらえないのだ。なけなしの蓄えは、時間とともになくなっていった。今では、公安からもらえる報酬がほとんど唯一の収入となっている。だが、それすら底をつきようとしていた。このままでは、生活が破綻してしまう。日々近づいてくる冬の気配を感じながら、私は公安との面会日を待ち望んだ。
 よく考えてみれば、変な話である。アンドウたちを監視する見返りにもらっている金が、アンドウと暮らすための金となっているのだ。勿論、平穏な日々に波風が立たぬよう、公安には重大な情報を伝えていない。というより、さして大きな情報がこれまでなかったためにそうなっているともいえるが、問題はそこではない。問題なのは、アンドウとの生活を続けるために、彼女の敵である公安と組んでいたことなのである。しかし、そんな倒錯が突きつける矛盾ですら、彼女との日々を守るためという目的の前には無力だった。



 木枯らしが吹き、寒さが一段と強まる頃。すっかり枯れ並木となった街道を通って、私はササキが待つ喫茶店へと向かっていた。そう、ようやく公安との面会日になったのだ。これで、アンドウとの生活を続けられる。私は上機嫌で歩みを進め、店のドアを叩いた。
「……待っていたよ。キズキさん」
 腕を組みながら、ササキは席についていた。
 切れかけの電球が揺れる、地下の薄暗い店内。ここが「革闘連」を監視することを提案された場所であり、毎月の情報提供を行っていた場所である。私にとっては、通い慣れたものだ。この日も、いつも通りの報告をするはずだった。
「――というわけです。集会、活動の日時は以上です。他に、大きな動きはありません」
 私は手短に告げた。いつもなら、ササキは「そうか、そうか」と言って報酬を渡すはずだ。私は期待の色を浮かべ、彼を見やった。
 しかし、ササキは黙したままだった。こちらをじっと見据え、口を開かない。いつもと違う様子に、私に狼狽した。そんな内心を見抜いてか、追い打ちをかけるようにササキは言った。
「……それで?」
 うろたえる私に、彼は冷や水を浴びせかける。心の内にあった浅ましい高揚感が、見る間にしぼんでいくのが分かった。
「それで、と言っているんだ。他には何かないのか、と聞いているんだよ」
 ササキは私を鋭く見つめ、詰問する。思いもよらぬ圧迫的な態度に、私はすっかり萎縮してしまった。
「いえ……先ほどのことがすべてです」
 消え入りそうな声で、そう答えるのがやっとだった。
「そうか。ならば、こちらから言ってやろうか?」
 ササキは貼り付けたような笑みを浮かべ、小馬鹿にするように言った。そして懐から手帳を取り出し、ページをめくりだした。
「キズキさん、あなたは数ヶ月前からある人物と同居している。そして、つい先月も、その人物と仲良く出かけたらしいじゃないか――その人物が誰か、ということまで私に言わせないでくれよ」
 私は唖然とした。それこそ、私が知られまいと隠していた最大の秘密だったからだ。だから、そのことについてだけは、口を閉ざしていた。それにも関わらず、公安はその秘密をいとも容易く把握していたのだ。
 鼓動がにわかに早まり、焦燥が身体を駆け巡る。動揺を隠しきれない私に、ササキは冷たく言い放った。
「我ら公安調査庁を舐めてもらっては困る。すでに過ぎたことならまだしも、今も続いていることを報告しないとは。どういうつもりか知らないが、報酬は渡せないな」
 作り笑いは剥がれ落ち、こちらを射殺すような視線が向けられる。苦しまぎれに反論をしようと試みたが、その無情な威圧の前に、抵抗心はあっけなく圧殺された。黙り込んだままテーブルを叩き、席を立つのが関の山だった。
「愚かなことだ。あの女に関わりすぎて毒されたのか。もはや、あなたに用はないようだな」
 私のささやかな反抗に対しても、ササキは微動だにしない。そして去り行く私を、意地悪く笑った。
「『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている』とはよく言ったもの。身を滅ぼさないように、精々気をつけることだ」

 暗雲の下、北風が吹き付ける。通りをふらつきながら、私は途方に暮れていた。
 これから、一体どうすればよいというのだ。会社も辞めてしまった。その上、公安からの報酬がなくなれば、一文無しになるのも時間の問題だ。そうなったら、もうアンドウとの生活は続けられない。以前のような、色褪せた毎日に逆戻りしてしまう。いや、待っているのはそれ以上の暗黒かも知れない。
 私はどうするべきだったのだろう。あのまま、会社に残るべきだったのか。あのように蔑まれ、人格を否定されてでも、家畜のように従い続けるべきだったというのか。あるいは、アンドウとの同居をそのまま公安に伝えていればよかったのか。彼女を売るような真似をしてでも、今ある安楽の日々を少しでも引き延ばす方がましだったのだろうか。
 ……すべては、金か。あの新聞社と同じだ。公安の連中も、私に利用価値がなくなったと判断したのだ。無用な情報ばかり持ってくるから、揺さぶりをかけて私を試したに違いない。おとなしく帰順すればまだ使えると判断したのだろうが、反抗的な態度を取ったので切り捨てられたということだ。どこでも、私は道具に過ぎなかった。
 どこまでも腐りきった世の中だ――私は心の中で絶叫した。
 そのとき、私の心の内に、一つの炎が宿ったのが分かった。それは、この社会の不条理に対する憤怒(ふんぬ)であった。学生以来、封印してきた激情が蘇ってくる。
 ここで、私はようやく理解した。あの「革命理論の会」で感じたわだかまりの正体を。新聞社と公安という(かせ)によって分からなかったが、学生時代から抱える社会への怒りは、決して死んではいなかったのだ。金のための建前と、心の底に眠る本心とのせめぎ合いが、あのわだかまりを生み出したのである。
 しかし、そんなことが分かったところで無駄だ。私ごときがこの社会をひっくり返すなど土台無理なことは、自分の経験からよく知っている。今さら学生時代に退行したところで、何の意味があるというのだろう。
 行き場のない憤りは、どこへ向ければよいのか。この街の地面に向かって、私は地団駄を踏むのみだった。

 悲嘆と憤慨にまみれながら、私は家路についた。結局、いつもこうだ。会社から逃亡したときも、そして公安に拒絶された今も。私は、アンドウのもとへ帰るしかなかった。
 白状しなければならない。アンドウとの日々を過ごすうち、私の平穏は彼女との暮らしに頼りきりになっていた。いくつも年下のアンドウに、私は依存していたのだ。彼女の存在そのものが、厳しく思い通りにならない現実からの逃げ場になっていた。どうしようもなくなったときの、唯一の救いになっていたのだ。会社から逃げ出したあの日、彼女に辛く当たったのも、子どもが母親に八つ当たりするようなものだったのかもしれない。情けない限りだった。
 そう分かっていても、私はアンドウとの暮らしに固執せざるを得なかった。これからの生活がどうなっていくのかも分からないというのに。彼女の家へ続く道をひたすら歩いていく以外、私に選択肢はなかった。
 やがてその道は終わりを迎え、私はアンドウの家にたどり着く。そして、いつものように戸を叩いた。
「あら、遅かったわね」
 玄関で出迎えた彼女は、普段通りの微笑みをたたえていた。私も、いつもと同じように、つとめて笑顔で応えた。
 以前のような過ちを犯したくない。無論、そういうこともある。しかし、それ以上に、「いつも通りの日常」を一分一秒でも続けたかったのだ。今となっては、いつまで続くか分からないこの日々。ならば、せめてその日々を壊さないようにしたかった。私のできることは、それ位しかなかった。
「今日は鍋にしようかしら。寒くなってきたものね」
 いつもと変わらず、穏やかに語りかける彼女。その背に向かって、私は思わず口にしてしまった。
「……ありがとう」
 そんなことを言うつもりはなかったのに、勝手に口をついて出てきたのだった。
「変な人ね。そんなに鍋が好きだったかしら?」
 くすり、とアンドウは顔を綻ばせる。私はただ、彼女と同じように笑う他なかった。
 こうして、互いに笑い合える日が、あとどれだけ続くのだろう。あと何ヶ月か? そんなに持つとは思えない。あと何週か? いや、あと何日、といったところなのかもしれない。不確かに、しかし確実に迫り来る終末の日。その押しつぶされるような重圧に、私の心は戦慄した。
「ああ、そう言えば」
 苦悩渦巻く私の内心。それを遮るように、アンドウは言い出した。
「さっき、あなた宛てに手紙が来てた。そこに置いてあるわ」
 机の上を見ると、アンドウの言う通り、封筒に入った一通の手紙があった。先のことを思い悩むあまり、気が付かなかったのか。
 封筒に、差出人の名はなかった。ただ、私の名が宛名として書いてあるのみだ。それを開けて出てきたのは、一枚の紙きれだった。そこには、こう書いてあった。

『明日、西都大学学舎、例の会言ギ場(かいぎじょう)にて待つ
                    サカモト』


 殴り書きされた、極々短い文言。どういうわけか、そこに私は何やら不穏なものを感じたのだった。尋常でない筆圧で書かれた真っ黒な文字も、不安を煽り立てた。
「誰から?」
 アンドウの問いかけに、私はとっさに平静を装って答えた。
「……ああ、(ふる)い友人からだった」
 このとき、素直に差出人を打ち明けていればよかったのだろうか。しかし、彼女を巻き込みたくないという一心で、他のことに頭が回らなかった。出社するついでに会ってくるよ、と嘘を重ねることがやっとだった。















 次の日、私は大学の学舎にいた。前日の手紙の通り、サカモトが待つ「例の会言ギ場」に行くためである。この奇妙な書き方は「ゲバ字」というもので、この手の学生たちが好んで使うものだ。他にも、例えば「労仂者(ろうどうしゃ)」や「斗争(とうそう)」などがあったはずである。要するにカタカナや略字を使った文字なのだ。普通なら、こうした文字は、立て看板やプラカードに目立つように書くものである。しかし、サカモトは違うようだ。手紙にも使っているあたり、常時ゲバ字を好んで使用していることがうかがえる。奴がこの文字を好むのは、これを格好いいと思っているのか、それとも単に漢字が書けない馬鹿なのか。
 とは言え、私も多少なりともゲバ字を使っていたから、「会言ギ場」が読めるのである。だが、読めても不明なことがあった。それは、「例の」会議場というのが一体どこなのか、ということである。そこが一番重要だろう、と私は悪態をついた。
 ただ、「例の」と言っている以上、「革闘連」が頻繁に使っているところなのだろう。いつもの集会や「革命理論の会」に使っていた教室か、あるいは、アンドウの偽装結婚が知らされた最上階の小部屋か。私は適当に見当をつけ、まずは集会が行われていた教室に向かうことにした。
 しかし、私の目算は外れたようだ。教室に行ったはいいものの、中はがらんどうだった。となると、残るはあの小部屋か。深く息をつくと、私は最上階へ続く階段を上り始めた。

「やっと来たか。人を待たせるな」
 ようやくたどり着いた私に投げかけられた言葉は、これだった。
 案の定、この小部屋の方にはいたようだ。サカモトは足を組みながら、窓辺に寄りかかって立っている。その眼鏡の奥には、明らかな苛立ちが見て取れた。
「いや、場所が分からなかったんだ」
「例の会議場といったら、ここだろうが。やっぱり、お前は『革闘連』のことが分かっちゃいないな」
 それはそうだろう。こちらは「革闘連」を知ってから一年も経たない部外者だ。そんなこと知っているはずもない。好き勝手言っているサカモトに、私は呆れるばかりだった。
「まあいい……ところで!」
 閉口している私に、サカモトは詰め寄ってきた。
「同志アンドウをたぶらかすのはやめろ。これは忠告だ」
 奴は顔を近づけ、蛇のごとくこちらを睨みつけた。高ぶる感情を抑えているのか、口元を引き攣らせている。
「この反革命分子め……。同志ならいつかお前に見切りをつけると思って我慢していたが、もう限界だ。彼女も随分と毒されたようだな」
 一人で怒りに打ち震えるサカモト。奴はなぜこんなにも憤っているのか。私には皆目見当が付かなかった。
「……何のことだ?」
「とぼけるな! 前の月、同志と一緒に動物園に出かけただろう! 俺をだませるとでも思ったのか!」
 私の一言で、あっけなくサカモトは激昂(げっこう)した。頬は憤怒で紅く染まり、口からは唾が飛び散る。
 ここで、私にある疑問が生じた。なぜ、奴はそんなことを知っているのか。公安が知っていたのは分かる。彼らはその道のプロだ。人員も駆使して、広く張り付くことができる。だが、サカモトは別だ。奴一人で仕入れられる情報など、たかが知れているはず。
 頭の中で湧き上がる疑念。しかしここは、今にも飛びかかりそうな勢いのサカモトに弁明するのが先だ。この疑問は、奴が落ち着いてから考えることにしよう。
「あれは、革命のためしたことだ。結婚実態があるように見せかけて、公安を欺くことが目的だった。アンドウがそう提案したんだ」
 熱くなったサカモトの調子に乗せられないよう、私はいたって冷静に説明した。しかし、それは逆効果だったようだ。私の言葉を聞いた途端、サカモトは凄まじい勢いで私に掴みかかった。そして、気でも触れたかのように、間近で喚き立てた。
「きさま、ふざけるのも大概にしろ! 革命のため? アンドウがそう言っただと? きさまごときに俺たちの何が分かる、同志の何が分かるというんだ! 化粧に紅なんぞつけて……あんな売女のような、堕落した姿にさせたのはきさまの他に誰がいる!」
 怒り狂い、早口にまくし立てるサカモト。双眸(そうぼう)は敵意でぎらつき、口は醜く歪む。悪鬼のごときその形相に、私は思わず恐れおののいた。胸ぐらにしがみつくひょろひょろの腕を払いのけることなど、普段ならわけないはず。だが、このときばかりはそれも出来なかった。
「そう、きさまには分かるまい。俺が、俺だけが同志を理解してやれる。俺だけが、彼女のすべてを見ている(・・・・・・・・)。だから、彼女のすべてを分かってやれるんだ。俺こそが、唯一の理解者なんだ……!」
 突然、サカモトは声を潜めて呟き始めた。徐々に奴の腕から力が抜けていく。解放され、咳込む私をよそに、ぶつぶつと何やら独り言を言っている。
「どいつもこいつもそうだ、同志のことを分かった気になりやがって……。あのイトウとかいう野郎もだ。数年前に来たぽっと出の癖に、今じゃ一介の軍師気取りか?
彼女を正しく分かってやれるのは、ずっと共に闘争してきたこの俺だけなのに……」
 しばらく辺りを行ったり来たりしていたサカモトは、いきなり声を上げた。
「……そうだ! もっと成果を出せばいいのだ! 同志にもっと貢献すれば! 彼女は必ずこちらを向いてくれるはずだ……!」
 そして、あっけに取られている私に、不敵な笑みを浮かべた。
「おいブン屋。明後日、定例の集会があるだろう。その前に、ここへ来い。いいものを見せてやる」
 そう薄気味悪く笑って、サカモトはふらふらと部屋を出て行った。奴の得体の知れない所業に対する、底知れぬ恐怖。サカモトが去った後も、それだけが小部屋を支配していた。



 その翌々日。私はあの小部屋に向かって、階段を上っていた。
 無視することも出来た。しかし、サカモトのただならぬ様に、何か看過出来ないものを感じたのだ。
 アンドウにこのことを言うべきか思案したが、結局黙っておいた。サカモトが関わっていることが分かれば、アンドウは必ずついてくるだろう。あの狂人じみた様子を思い返すと、彼女に本当のことを言う気にはとてもなれなかった。
 私とて、行きたいわけではない。何を考えているのか、何をしでかすかまったく読めない相手だ。そういう人間と対峙する不安がなかったと言えば嘘になってしまう。脚に変な力が入ってしまうのも、そのせいだ。
 私は歩みを進め、最上階に差し掛かろうとした。そのとき、上階から妙な音がかすかに聞こえてきた。何かと何かが激しくぶつかる物音、そして悲鳴とも叫喚ともとれる唸り声。
 あの部屋で、ただ事でない何かが起きている――私の直感はそう告げている。増大する不安を押し殺し、私は階段を駆け上っていった。

「来たか、ブン屋……」
 虚ろな目をしたサカモトが、そこには立っていた。
 その視線の先にあったのは、一脚のパイプ椅子。そこに、ある男が座っていた――否、縛り付けられていた。ビニール紐で拘束され、ズタ袋をかぶせられた頭からはおびただしい血が流れ出す。
 サカモトも同じく、血塗(ちまみ)れだ。だが、奴には傷一つ付いていない。代わりに、手にした角材から赤黒い液体が滴っていた。
 彼に害をなしたのは誰か。それは、聞かずとも明らかだった。
「これは一体……」
 眼前の地獄絵図に絶句する私。それに対し、サカモトは意気揚々と答えた。
「知りたいか? 教えて欲しいか。こいつは、俺の手柄だからな」
 薄明かりの下、返り血がぬらぬらと照り返す。赤く染まったサカモトは、不気味な笑みを浮かべた。
「同志アンドウも言っていただろう、この大学でただ一つ、俺たちに(くみ)しないセクトの連中がいたことを。こいつは、そいつらの指導者だ。昨日拉致してきた。実に簡単だったよ。一人で学舎を歩き回るなんて、無用心にもほどがあるぜ」
 さも愉快そうに、サカモトは角材で椅子の男を小突いた。
 西都大学の五つのセクトのうち、四つが『革闘連』に合流した――奴の言う通り、「革命理論の会」でアンドウは確かそう言っていた。この男は、合流しなかった残り一つの指導者ということか。
 だが、私が聞きたいのはそんなことではない。どうしてそいつにこんな仕打ちをしたのか。そのセクトと抗争状態にあったのか。そんな話は知らない。
「……どうしてこんなことを」
 やっとのことで、喉から絞り出す。声が震えるのが自分でも分かった。
「どうしてって、やっぱりお前は何も分かってないな。同志の言ったことを忘れたのか? 俺たちと組まない奴らは反革命分子なんだ。革命を内側からぶち壊す、人間のクズなのさ。そういう奴らには、本来なら死しかのこされてない。こいつが死ねば、残党は俺たちの傘下になるしかないしな」
 さも当然、といったようにサカモトは言ってのけた。自分のしたことはあくまで正しい。そう信じて疑っていない様子だ。
「だが、俺は慈悲深くも、こいつに『自己批判』をさせてやることにした。反省のチャンスをやったんだ。なのに、こいつは『知らない』の一点張り。仕方なく、ゲバ棒で正気に返らせてやろうとしたまでだ……こうやってな!」
 そう言うが早いか、サカモトは角材を大きく振り上げ、目の前のズタ袋に叩きつけた。
 鈍い音を立ててめり込む角材。口の位置から噴き出す血の泡。あまりの凄惨さに、私は目を覆った。無理もない。私がセクトを率いていたときですら、ここまで酷たらしい私刑を見ることはなかったのだから。
「さあ、これを持て」
 怯える私に歩み寄るサカモト。そして、角材を差し出してきた。
「聞こえないのか? ゲバ棒を持て、と言っているんだ。そんで俺と同じようにして、こいつにとどめを刺せ。お前が反革命分子でないことを証明しろ」
 これほどの恐怖を感じたことがあっただろうか。この気狂いを前にして、私は完全に怖じ気づいてしまっていた。逃げようにも、足が言うことを聞かない。
「さあ、やるのかやらないのか! きさまはこいつらと同じ反革命分子か!」
 小部屋に響く絶叫。立ちすくむ私に、サカモトはゆっくりと迫ってくる。私は観念する他なかった。

 そのときだった。何者かが、サカモトを羽交い締めにしたのだった。
「サカモトさん! 落ち着いてください!」
 大きな体躯(たいく)に抑えられ、あっけなく無力化されたサカモト。奴を止めたのは、イトウだった。その後ろには、アンドウも立っている。
「いつまで経っても集会に来ないから、何があったかと思えば……一体何をやってるんですか!」
「離せ! この帝国主義者め!」
 サカモトは手足をばたつかせ、大声で喚いている。しかしアンドウの姿を見つけると一転、彼女に満面の笑みで呼びかけた。
「同志アンドウ、見てくれ! あの男が残ったセクトの指導者だ! 俺がやったんだ!」
 サカモトが見やった先に、やってきた二人も目を向ける。そこには、あの無惨な現場があった。
 イトウは言葉を失った様子だった。その拍子に力が緩んだのだろう。サカモトは彼の腕からするりと抜け出すと、椅子の男のそばに走り寄った。
「最後の敵もこれで陥落した。同志、これで俺たちのヘゲモニーは揺るぎないものに!」
 まるで戦利品を見せびらかすように、誇らしげに語るサカモト。一方、アンドウは顔色一つ変えず、奴に尋ねた。
「どこまでやった? この男はどうなっている?」
「さあ、死んでるのか生きてるのか。一応、『自己批判』はさせたが」
 そんなことはどうでもいいだろう、とばかりにサカモトは肩をすくめた。その言葉を聞きたアンドウは、目を閉じて腕を組むだけだった。
 そんな二人のやりとりに、イトウは苦々しげな顔をした。
「サカモトさん、これはいくらなんでもやり過ぎですよ。たとえ勢力の拡大が目的だったとしても……」
「ふん、軟弱者が。闘争は暴力(ゲバルト)でしかなし得ないことなど、当然だろうが」
 イトウの苦言など、どこ吹く風。勝ち誇ったように、サカモトは涼しい顔であしらった。
「いえ、そういうことでは……!」
「まだ言うか。役立たずは黙ってろ」
 イトウはなおも食い下がったが、当のサカモトは聞く耳を持たないようだった。
「ところで、それ(・・)は本当にあのセクトのリーダーなのか?」
 二人の言い争いを止めたのは、アンドウの一言だった。一瞬の沈黙が、不意に訪れる。
「そうに決まっているじゃないか。同志は、俺を疑っているのか?」
 真っ先に口を開いたのは、サカモトだった。奴の弁明を遮るように、アンドウが問う。
「なぜ、そう言い切れるのだ。確証はあるのか?」
「俺に間違いはない。こいつの顔なら、前連中にオルグしたときにしっかり見たからな」
 自信満々に、サカモトは答える。しかし、それに反してアンドウの表情が険しくなっていく。
「……イトウ、悪いけれど確認してほしい。あなたなら、何度もオルグ活動に行っているから分かるはず」
 アンドウからそう頼まれ、イトウは椅子の男のもとに近づいた。そして、血の染みこんだズタ袋をめくり上げる。
「うっ……」
 袋の中身を覗き込んだと同時に、イトウは嘔吐(えず)いた。何が起きたのかと近寄る私を、彼は口を押さえながら押しとど止める。
「……見ない方がいい」
 そして、イトウは声を絞り上げた。
「こいつは、あのセクトの指導者じゃない……! それどころか、構成員ですらない一般人だ!」
 そう叫ぶと、サカモトの胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「やってくれましたね……! 自分のしでかしたこと分かっているんですか、これは完全なる人殺しですよ!」
 感情を露わにして、イトウは怒声を上げる。そんなことなど素知らぬ風に、サカモトは目をそらして居直った。
「これは仕方ないことだ……。俺はあくまで革命のためにやっただけ。革命という大義の前には必要な犠牲だったんだ」
 これほどの事態になっても悪びれる様子のないサカモトに、イトウは呆れたようだ。奴から手を離すと、アンドウのもとに駆け寄った。
「アンドウさん、このままではまずい……! ぐずぐずしていれば公安に嗅ぎつけられます。ここにはもういられません、これからどうしましょうか?」
 黙ったまま天を仰ぐアンドウに、必死に問いかける。彼女はしばらく無言を貫いていたが、おもむろに口を開けた。
「……私たちには『山岳拠点』があったはず。明日早朝、そこへ前進(・・)しよう」

 翌日、まだ夜も明けぬうちに、アンドウたちは大学の駐車場に集った。
「……集まったのはこれだけのようですね」
 イトウは寂しげに言った。集ったのはアンドウ、イトウ、サカモト以下十数人、彼の言う通りいつもより人数が少ない。あの後、集会でも知らせたはずなのだが。詳しい理由を伏せたまま、突然告知したのがいけなかったのか。不穏な気配を察してか、遁走(とんそう)した者が大半だったようだ。
「キズキさん。あなたまで巻き込まれることはなかったのに……」
 渋い顔をして、イトウは言った。昨晩、アンドウも同じようなことを言っていた。
 しかし、彼らが案ずることはない。ここに来て、アンドウを見捨てられるはずがなかった。どうせ、彼女との日々にも終わりが見えていた。ならば、最後まで彼女と時を共にしたかったのだ。記者を辞め、公安と関係を絶っていたことも私の決断を後押しした。最早、私を縛り付けるしがらみはない。
「それでは、これより『山岳拠点』への前進を始める!」
 アンドウのかけ声で、総員が動き始める。車のトランクへと次々に運び込まれる、「革斗連(かくとうれん)」と銘打ったヘルメットや角材、生活資材の数々。すべてが積み終わると、人員が二台の大型車へ乗り始めた。
「ちっ。ブン屋、お前も来たのかよ」
 私の顔を見るなり、サカモトは舌打ちした。そして、そそくさと別の車に乗り込んでいった。
 五分もしないうちに、準備は終わったようだ。狭い車内に全員が押し込まれると同時に、二台の車は動き出した。

 エンジンは唸り声を上げ、私たちを運んでいく。街を抜け、川を渡り、谷を越えた頃には、見知らぬ土地の山道を私たちはひた走っていた。標高が高くなってきているのだろうか。車が坂を登っていくたびに、耳が痛くなる。
「……雪だ」
 車内の誰かが、そう漏らした。車窓から外の景色を見ると、今年で初めての雪がちらちらと降っていた。その色に呼応するように、一面に白樺が立ち並ぶ。見渡す限りの白い景色。どこまで行っても同じ風景だ。一度迷い込んだら、二度と出られないのではないか――そんな錯覚が脳裏によぎる。
 そして道の舗装が粗くなり、獣道との区別が付かなくなるまで進んだ頃。そのときには、陽はすっかり傾きかけていた。
「着いた。ここが、『山岳拠点』だ」
 車から降りた面々に、アンドウは終着を告げた。
 斜陽に照らされた、古びた山荘。それは静かにそびえ立ち、私たちの方へ深い影を落としていた。

















***

――ついに動きを見せました。奴です。今回の目標です。


――まさか、これほど早々に尻尾を出すとは。こちらとしても驚きです。


――はい、そうしましょう。制圧の準備が出来次第、帰投します。













 七

 最後に筆を取ってから、何日が経っただろう。カレンダーすらないこの部屋では、それも分からない。
 私に分かるのは、あれから随分と時が経ってしまったようだ、ということだけである。タイプライターに触ることすらできない日が、何日もあった。
 これから書こうとしている出来事。それは、私の記憶のなかで、最も忌まわしいものだ。鍵盤を叩く指が鈍っていくのが分かる。
 だが、私は書かねばならない。最後まで。



 人里離れた山奥にひっそりと佇む、二階建ての廃別荘。これが、アンドウらの言う「山岳拠点」だった。それはまさしく、山中に立つ荒城であった。
 格安で買い取ったのか、それとも放棄されたのを乗っ取ったのか。それは分からないが、彼らによってこの山荘には様々な手が加えられていた。二重の錠によって閉ざされた正面の扉。屋外だけでなく、屋内にも設置されたバリケード。籠城戦を想定したのか、銃眼が設けられた二階部分。もはや、往時の面影は残っていない。外敵との戦闘を想定したつくりであることは、明らかだった。
 これらの改造に加えて、この山荘の地形も特異なものであった。それは、切り立った断崖絶壁に建てられているということである。正面には崖、背面には山肌という地形から、この山荘に侵入するには山道を迂回して攻めなければならない。こうしたこともあって、彼らの「山岳拠点」は天然の要塞のごとき様相を呈していた。

 ここについてから最初になされたのは、人員を二つの班に分けることであった。
 その一つが、「実力班」である。その役割は、ヘルメットや角材、そしてこの「山岳拠点」に隠し持っていた数丁の猟銃の管理だった。それに加え、現実に敵が攻め込んできたときに前線に立つのも彼らであると決められていた。
 もう一つは、「調達班」だ。彼らは、食糧や生活資材の調達を担っていた。また、調達と併せて、外の様子の偵察も行うこととされた。そのため、彼らのみが(ふもと)へ下山することを許されていた。
 そして、「実力班」の指揮はサカモトが、「調達班」の指揮はイトウがすることとなった。下山する権利が「調達班」に与えられている以上、その指揮は信頼できる者にしか任せられない。その役割をイトウに任せ、一方で古参メンバーのサカモトを「実力班」の指揮にあてがうことで体裁を整えたのだろう。「闘争は暴力でしかなし得ない」と主張していた人間を満足させるにはうってつけの人選だ。その程度の意図ならば、部外者の私も察することができる。もっとも、サカモト本人は分かっていなかったようだ。
「武器の管理は俺に任された! 敵を迎え撃つのも俺だ!」
 などとはしゃいでいた。それだけならまだ良い。この人選に増長したのか、イトウたち「調達班」のことをあからさまに見下すようになっていった。
「雑用は『調達班』の仕事だな」
 これがサカモトの口癖になっていた。「暴力こそが闘争」という奴の思考の前には、「調達班」のやることはすべて雑用に見えていたのだろう。
 事実、「調達班」の最初の仕事は、サカモトが人違いで殺害した犠牲者の死体処理だった。
「武器の管理・敵の迎撃という最重要任務を負っている俺たちに、そんなことをやらせるというのか。雑用は『調達班』の仕事だろう」
 サカモトの主張はこうしたものだった。どう考えても奴がやるべきことなのだが、「実力班」が負う役割以外は「調達班」がやるべきという発想らしい。
 こんな言い草にも関わらず、イトウは別段反論しなかった。結局、死体処理は「調達班」がやることになったのだった。
 寒風に吹かれながら、遺体が入った麻袋を担ぎ歩く調達班員たち。人間の死体というのは、思いの外重いらしい。彼らは三人がかりで、歯を食いしばりながら運んでいく。
「ほら、早く運べ!」
 その姿を尻目に、サカモトは猟銃を片手に彼らを(はや)し立てた。気分は革命軍の将校なのだろう。調査班員たちは面白くなかっただろうが、イトウが何も言わない以上彼らは黙って歩くしかなかった。
 彼らが目指す場所は、「山岳拠点」から少し離れた場所にある崖だった。ここから遺体を投下して処理しよう、ということである。「死んだ奴など革命に不要。崖下にでも投げておけ」というサカモトの提案であった。
 そうして崖にたどり着き、いざ遺体を捨てようとなったわけであったが、ひとつ小さな事件が起きた。先頭を歩く若い班員が足を滑らせ、遺体もろとも崖下に落下しそうになったのである。幸い他の班員によって支えられて一命を取り留めたが、こちらも思わず冷や汗をかいてしまうほど危ないところだった。しかし、奴は違った。
「おお、こいつは傑作だな!」
 そう笑ったのである。ここで、私は改めてサカモトという男の異常性を思い知った。しかし、それでもイトウが奴に何かもの申すことはなかった。なぜ、ここまでされても黙ったままなのか。私には到底理解出来なかった。
 このとき以降、イトウたち「調達班」が何かにつけて面倒事を押しつけられるようになる。しかし、彼はまったく反発せず、そのためアンドウが介入する余地もなかった。
 かくして、イトウが握っていた主導権はサカモトに移ろうとしていた。しかし、その実態はサカモトの身勝手な横暴と、イトウの不自然ともいえる不干渉によって出来上がったものだった。この構造に、私は何か不気味なものを感じずにはいられなかった。

 死体処理の一件のように、サカモトは「調達班」に対して極めて横柄に振る舞った。それは、自分が彼らより上の立場にあるという思い込みから来ていたのだろう。加えて、彼らの指揮をとるイトウへの悪感情をぶつけていたということもあるに違いない。
 しかし、サカモトの横道はそれだけにとどまらなかった。時に、その牙は自ら指揮する「実力班」にも向けられた。
 サカモト率いる「実力班」は、外敵を迎え撃つことを任されている。そのため、彼らは毎日のように「射撃訓練」を行っていたが、これが異様の一言だった。
 「射撃訓練」といっても、ただ単に銃を構えたり下ろしたりを繰り返すだけだ。それも、弾丸がもったいないということで実物は使わず、代わりに「バーン」などと言わせて代用していた。
 この珍妙な繰り返しは、一日の大半に及んだ。もちろん、サカモト自身はやっていない。ただ横に立って、見張っているだけだ。
 それどころか、虫の居所が悪いときには部下に暴力を振るうこともしばしばだ。やれ腰が引けているだの、やれ声が小さいだのと難癖をつけては、彼らを棒切れで殴りつけるのだ。そして、少しでも反抗的な態度を見せた者には、夜中まで「射撃訓練」を続けさせた。
 寒空の下、虐待まがいの仕打ちを受けながら「射撃訓練」を強いられる「実力班」の学生たち。私は見かねて、サカモトに言ってやった。
「いい加減にしたらどうだ。仲間にあんなことばかりしていたら、彼らにもアンドウにも愛想を尽かされるぞ」
 柄にもなく、私は真面目に諫めた。だが、奴の反応は空しいものであった。
「ブン屋ごときに、何が分かる。あいつらは途中で『革闘連』に入ってきたクズだ。だから、古株の俺が教育してやってるのが、分からないのか」
そして、自信に満ち溢れたように言ってのけた。
「同志アンドウが俺を切り捨てるなど、絶対にあり得ない。俺は誰よりも同志の夢を理解している。同じように、同志は俺を誰よりも信頼してくれているから、『実力班』を任せてくれたんだ。イトウの奴も、ようやくそれが分かってきたから俺に意見しなくなったというのに、まだ分からんとは。とんだ愚図だな、お前は」
 そう嘲弄するだけで、奴はまったく取り合おうとしない。私の忠告など、サカモトの耳には届いていないようだった。
 「調査班」に対しては優越的な立場で抑圧し、「実力班」に対しては暴力と恐怖で支配する。相変わらずイトウは沈黙を守り、古参であるがゆえにアンドウも強くは言えないようだった。

 とどまることを知らない、サカモトによる専横の日々。そんなある日のことだった。
 「山岳拠点」に到着してから数週間。備蓄されていた食糧がなくなりかけようとしていた。そのため、「調達班」が下山し、食糧を確保してくる手筈(てはず)だった。
 食糧事情を心配していたメンバーたちは、拠点の中で彼らの帰還を心待ちにしていた。しかし、待てど暮らせど帰ってこない。初めての下山ということで、道に迷っている可能性もある。しかし、陽が落ち、夜になっても一向に戻ってくる気配がなかった。
 そして夜が更け、皆が苛立ちを口にするようになった頃。突如として扉が開け放たれ、冷えた外気とともに「調達班」の班員が駆け込んできた。
「まずい……! アンドウさん、まずいことになった!」
 彼らは憔悴(しょうすい)した様子で、口々にそう言った。何度も倒れながら戻ってきたのだろう、身体の至る所に泥が付き、擦り傷が出来ている。思いもしなかった何かが起きたのは、言わずとも明らかだった。
「しっかりしろ、一体何が起きた!」
「仲間が……仲間が警察に捕まった! 山中に、警察が潜んでいたんだ!」
 班員は狂乱しながら、そう叫んだ。同時に、学生たちの間に驚嘆のどよめきが巻き起こる。平静を保っていたのは、イトウだけだった。
「……そうか、ついに警察が……」
「馬鹿野郎、呑気に言ってる場合か! 奴らが目の前に来ているんだぞ!」
 対して、最も動転していたのはサカモトだった。外敵が来たとき、命をかけて対峙しなければならないのは「実力班」である。それが現実になりつつあるのを知って、驚きを隠せないようだ。つくづく小心者である。
 しかし、奴の言う通り、事態が急転したことは確かだ。この「山岳拠点」は、武装が施されたアジトである。その存在は「革闘連」のメンバーしか知る者がいないはずだ。いくら何でも、勘づかれるのが早過ぎるのではないか。嫌な考えが頭をよぎる。
「……スパイだ。公安のスパイが、ここにいるはずだ!」
 何か腑に落ちたような顔で、サカモトはそう言った。不本意ながら、私も同じ意見だ。これほどの早さで警察の手が回るということは、裏切り者の存在を疑わざるを得なかった。その考えは、学生たちの間でも現実味を帯びて捉えられたのだろう。重苦しい空気が漂い始めていた。

 その日以来、「山岳拠点」を取り巻いていたのは尋常ならぬ緊迫感だった。
 スパイ探しをするということは、仲間を疑うことに他ならない。取るに足らない言動や仕草が、命取りとなる。アジトの学生たちを待っていたのは、互いが互いを疑いあう異常な毎日だった。
 それだけではない。警察の存在が判明したことにより、調達班が下山できなくなった。いまや、備蓄された食糧はわずかに残るのみ。持ってきた食糧もあるものの、それが尽きたら終わりだ。彼らは次第に食うに事欠くようになっていった。その上、寒さも日ごとに厳しくなっていった。雪が降り積もり、周りを閉ざしていく。その様子が、若者たちに言い知れぬ不安をもたらした。
 飢えと寒さが襲いかかる、相互監視の日々。学生たちの心は蝕まれ、目に見えて荒んでいった。にわかに頻発し始めた、口論や小競り合い。それらのほとんどが些細な原因によるものだった。組織が危機にあることは、誰の目にも明らかであった。
 そうした中、行動を起こしたのはイトウだった。彼一人で警察の包囲を突破し、食糧を調達してくるというのだ。
「こうなった責任のすべては、『調達班』の指揮をした僕にある。せめて食べ物さえあれば、皆の気が収まるでしょう。僕に行かせてください」
 そう告げて、彼は下山していった。
 確かに、状況は厳しい。正確な場所こそばれてはいないものの、この山が潜伏先であることは把握されている。山中に警察が徘徊しているこの状況で下山すれば、いつ捕まってもおかしくない。
 それでも、このときは一縷(いちる)の希望があった。それは、イトウならば大丈夫だろう、という根拠のない信頼感であった。あの男が何の考えもなしに行くはずがない。何か、彼にしかない秘策があるのだろう。この飢えから解放されるのも時間の問題だ――と。強ばった学生たちの表情は和らぎ、束の間の楽観がもたらされた。
 しかし、その期待は脆いものだった。イトウは戻らないまま、時だけが無情に過ぎていく。昼を過ぎ、日が暮れ、夜が訪れ……。時間が経つとともに、明るかった彼らの顔に影が落ち、淡い希望は色褪せていった。
「……やっぱり、イトウさんもだめだったんじゃないか」
 誰かが、そう呟いた。その瞬間、皆が確信した。結局、イトウも警察に捕らえられたのだ、と。それはすなわち、今後一切の食糧供給が絶たれたことを意味していた。沈黙の内に、大きな失望が広がっていく。
「ほら見たことか! やっぱりあいつは口だけの無能だったんだ!」
 皆が黙り込む中で発せられた、威勢のいい大声。その主は、サカモトだった。奴は薄ら笑いをたたえ、鬼の首を取ったような顔をしている。そして「調達班」へ残忍な眼差しを向け、彼らを問い詰めた。
「前の奴らにとどまらず、イトウまで下手を踏むとはな。そろいもそろって、お前らには革命への志が欠けているんじゃないか。この責任、どう取るつもりだ?」
 返す刀でイトウの部下たちを非難するサカモト。そしてアンドウの方を見やり、こう続けた。
「同志、こいつらには再教育が必要だ。奴らに『自己批判』を要求する!」
 「自己批判」。その言葉を耳にした途端、「調達班」の学生たちの顔から血の気が引いていった。彼らは青ざめ、助けを求めるような視線をアンドウに向ける。しかし、彼女はうつむいたまま、首を縦にも横にも振らない。その顔には、深い苦悩が刻まれていた。
 拒否の意志表示がないことを知ったサカモトは彼女に背を向け、邪悪な笑みを浮かべた。そして、残された「調達班」の面々を引き立てていった。

 凍てつく雪風が吹きつける、傾きかけの掘っ立て小屋。かつては、物置か何かだったのだろう。山荘から離れたこの小屋で、「自己批判」が強要された。「自己批判」といっても、ただ単に反省の弁を述べれば終わりではない。そこには、想像を絶する激しい制裁が加えられた。
 後ろ手に柱に縛りあげられた、「調達班」の班員たち。無抵抗の彼らに、容赦なしの殴打が浴びせられた。
「『自己批判』はまだか、クズども! いつまで経っても終わらんぞ!」
 罵声を上げながら、サカモトは彼らに手をあげた。腹や顔面に激しく打撃が加えられる。
「もう勘弁してください……。我々には革命への熱意が足りませんでした、革命戦士になりきれていなかったのです……!」
 嗚咽(おえつ)混じりの「自己批判」を口にする若い班員。しかし、サカモトは意に介さず、嗜虐の眼光を覗かせた。
「勘弁してくれ、だと? そう言いたいのはこっちの方だ。お前らがまともな『自己批判』をしないから、こうやって正気に戻らせてやろうとしているんじゃないか。俺は泣く泣く手助けをしてるんだ、感謝しろ!」
 正しい「自己批判」をさせるために、仕方なくやっているつもりらしい。しかし言葉と裏腹に、奴の顔には薄気味悪い笑みが浮かぶ。これほど醜く、おぞましい笑顔を、私は知らない。それはまるで、獲物を追い詰め、いたぶる野獣のごとき表情だ。
「大体、イトウの言っていた組織拡大なんか反対だったんだ! お前らみたいな訳分からない奴らが入ってきたのも、そのせいだ! 俺がお前らを教育し直してやる!」
 半狂乱で殴る蹴るを繰り返すサカモト。何かに取り憑かれたような姿に、誰もが恐れをなすばかりだった。
「サカモト!」
 周囲の沈黙を破り、声を上げる者がいた。それは、「調達班」の一番年長らしき青年だった。あざで腫れ上がった目で、彼はサカモトを睨みつける。
「仲間を痛めつけて、一体何がしたいんだ? 正気の沙汰じゃないのは、お前のほうだ!」
 身動きを封じられてもなお、彼ははっきりと言いきった。それはまさに、皆の思いを代弁するものであったに違いない。しかし、それが奴に伝わることはなかった。
「……何だと」
 動きを止め、ゆっくりと面を上げたサカモト。先ほどの醜悪な笑みはそこにない。その代わり、冷たい石のごとき表情が貼り付いていた。あらゆる感情を排した、完全なる無表情。サカモトは、死んだ魚のような目を青年に向けた。
「……『自己批判』すら放棄するのか。革命戦士からは最も程遠い行為だ。正体を現したな、公安のスパイめ」
「そんな、馬鹿な……」
 絶句する青年。いきなりスパイと決めつけられるとは思ってもいなかったのだろう。そして、それは他の学生たちも同じだったようだ。彼らは息を呑み、動きを止めた。
「おい、ズタ袋とゲバ棒を持ってこい。処刑の時間だ」
 配下の「実力班」に、サカモトは命じた。しかし、彼らも理解が追いついていないようだった。班員たちは、おずおずと奴に尋ねた。
「処刑、ですか……? その証拠は一体どこに……」
「うるさい! 『自己批判』が必要な身分のくせに、俺に盾突いたのが証拠だ! 早くこいつに袋をかぶせろ!」
 けたたましく響く金切り声。鬼気迫る狂気に縮み上がる「実力班」。彼らに残された選択肢は、奴の言いなりになることだけだった。
 両手両足を縛られ、ズタ袋をかぶせられた青年。角材を片手に揺らめくサカモト。大学での凄惨な記憶が蘇る。
「死ね! 反動主義者!」
 大きく振りかざされる角材。まさに処刑が始まろうとしていた、そのときだった。
「やめなさい、サカモト!」
 悲鳴のような声がこだまする。そこにはアンドウが立っていた。急いで駆けつけたのだろう、息が上がっている。サカモトは角材を下ろすと、彼女に振り返った。
「ああ、同志アンドウ。ついに見つけた。こいつが公安のスパイだ」
 アンドウに、奴は淡々と告げた。彼女は息を切らしながら、サカモトに問う。
「彼がスパイ? 何か証拠はあったのか?」
 先ほどの「実力班」と同じ質問だった。しかし、相手がアンドウならば、奴も少しはまともな答えをするかもしれない。私はわずかばかりの期待とともに、答えを待った。だが、奴の言葉とともに、その望みもすぐに崩れ去ることとなった。
「こいつは、『自己批判』中に反抗的な態度をとった。真の革命戦士なら、こんな行動はしない。だから、こいつが公安のスパイなんだ」
 私の願いも空しく、サカモトは蓄音機のように同じ答えを返すのみだ。当然のように、アンドウは奴に反駁(はんばく)した。
「そんなことで、スパイと決めつけられるはずがないだろう。それに何だ、この有様は……。まるで拷問じゃないか」
 柱に縛り付けられた「調達班」たちに目をやりながら、彼女は語気を強めた。その声には、わずかな動揺と怒りが宿る。しかし、それも無駄だったようだ。サカモトは彼女の思いをはねつけるように言った。
「同志、あんたは甘い。だから、イトウの口先八丁に乗せられたんだ。あいつの言う通りに拡大路線を取ったから、えせ者や回し者が入ってきたんだろう。スパイだろうが何だろうが、俺たちの革命の邪魔になる奴は排除しなきゃならない」
 アンドウに対してさえ、サカモトは冷たくあしらった。それでもなお、彼女は食い下がる。
「何を言っているんだ。あなただって、最後には組織拡大に賛成しただろう」
「だが、それは失敗した。これが現実なんだ」
 アンドウの必死の説得にも関わらず、サカモトは頑なに聞き入れようとしない。代わりに奴は、にわかに安らかな声色で彼女に語りかけた。
「あのとき、同志は俺に言ってくれた。『共に新しい世界を創ろう』と。もう一度、最初からやり直すんだ。俺たち二人で、『新しい世界』を」
 自分だけの理想に入り浸り、恍惚の表情を浮かべるサカモト。アンドウの言葉すら、その耳には入らない。彼女はただ、奴に哀願するのみだった。
「そんな……。お願いだ、目を覚まして……」
 威厳も何もかなぐり捨て、か細い声ですがるアンドウの声。それを振り払うかのように、サカモトは答えた。
「俺は至って正気だ。他の奴らがおかしいから、俺がおかしく見えるんだろう」
 今日はこれ位にしておいてやる、とうそぶき、サカモトは小屋を出て行った。
「……どうしてこんなことに」
 奴への怒りだろうか、それとも悲しみだろうか。残されたアンドウは身ぶるいしながら、小さく呟いた。以前では考えられないほど、素の感情を露わにした彼女。その様子に、私は声をかけることが出来なかった。しかし私の心配など及ばず、すぐに彼女は顔を上げた。
「キズキさん、悪いけれど戻ってほしい。私は彼らと話さなければならないことがある」
 そう告げる彼女は、何かを決意したようだった。



 翌日は、かつてないほどの大雪になった。打ち付けるように吹き荒れる猛吹雪。立ちこめる暗雲が陽を遮り、一寸先も見えないほどだ。
 そのために、屋外での活動は一切中止となり、山荘内での待機が命じられた。当然、「射撃訓練」もなしだ。それならば、と「自己批判」の続行をサカモトは要求した。どうしても昨日の続きをやりたくて仕方ないようだ。しかし、アンドウは拒絶した。
「外は危険だ。小屋へ行くのは後にしてほしい」
 夕方には緊急の集会があるから、と付け加え、アンドウは自室に入っていった。
 自らの提案が拒否されたにも関わらず、サカモトは何やら満足げだった。自分の心配をしてくれたのが素直に嬉しかったのだろう。それに、アンドウは「後にしてほしい」と言っただけだ。「自己批判」自体が否定されたわけではない。どんな形であれ自分の行為が認められたのだ、と捉えたのだろうか。鼻歌交じりに、サカモトも部屋へと消えていった。

 そして時は経ち、時計が夕刻を指した頃。そのときには、学生たちは山荘のホールに会していた。彼らの中心にはアンドウが立ち、久方ぶりの熱弁を振るう。
「諸君も知っている通り、我々は市井の闘争を繰り広げてきた。しかし、それだけでは飽き足らない。かくして、我々は革命の前衛に躍り出たのだ。この『山岳拠点』に前進し、軍事訓練を重ねてきたのもその一環だ。我々は迫り来る困難を退け、さらに強大にならなければならない……」
 以前と変わらず、情熱的な弁論で(げき)を飛ばす。空腹と酷寒で疲弊していた学生たちも、彼女の言葉に少しずつ勇気づけられていったようだ。サカモトも、感動したように繰り返し頷いている。冷え切っていた山荘に、少しずつ熱気が戻ってくるのが分かった。
 しかし、この集会の目的はそれだけでない。緊急の集会というからには、何か重大なことが伝えられるはずだ。
 一通り演説が終わると、アンドウはこう切り出した。
「権力者や反動主義者は、こうした我々の闘争を幾度も妨害する。しかし、敵は外にだけいるのではない。我々の内にも、前進を妨げる敵がいる!」
 予想通りだ。これこそが、集会の主眼になる事柄に違いない。アンドウは鋭い眼光を宿しながら、聴衆を見渡した。
「これより、人民裁判を始める! 我らは敵対者を厳しく処断する!」
 アンドウは大声を張り上げ、開廷を告げた。
 「人民裁判」。法に則らず、民衆だけで断罪することを意味する。要するに、無法者による裁判ごっこである。そして、必ず誰かが吊し上げられ、犠牲になるのがお決まりだ。
 こうした過酷さを伴う宣言にも関わらず、サカモトは嬉々として歓声を上げた。
「そうだ! 裏切り者に死を!」
 目は爛々(らんらん)と光り、興奮で鼻息が荒くなっている。奴の頭は、昨日の残忍な光景で埋め尽くされているに違いない。これで正式にあの青年を処刑できる、と息巻いているのだろう。
 色めき立ったサカモトを一瞥するアンドウ。奴は気が付かなかったかもしれないが、彼女はほんのわずか、顔を伏せた。そして、こう続けた。
「……では、告発者よ。前に出なさい」
 アンドウの呼びかけに応じて、サカモトは意気揚々と進み出ようとした。しかしその歩みは止まり、氷のように動かなくなった。
「馬鹿な……。一体どういうことだ……?」
 奴は目を白黒させ、言葉を詰まらせた。揺らぐ視線が向けられた先。そこにいたのは、「調達班」の面々だった。手当を施された彼らは、ホールの一画にある部屋からアンドウのもとへ歩み出る。
「何でお前らがここにいる! こいつらを解放したのは誰だ!」
 錯乱し、喚き散らすサカモト。しかしアンドウは目もくれない。
「さあ、告発すべき内容を述べなさい」
 構うことなく、アンドウは裁判を進行させた。彼女に促されるまま、「調達班」の班員たちは口を開き始める。
「はい。アンドウさんのいう通り、我々の内部に革命の敵がいます。本来なら協働すべき「実力班」と「調達班」の分裂を煽り、組織を崩壊させようとした敵が。奴は同胞に危害を加え、外部の敵を利しようと企む内通者なのです」
 そしてサカモトを真っ直ぐに見つめ、憎悪に満ちた口調で断じた。
「軽蔑すべき反革命分子。それはサカモト、あなたの他にいない」
「黙れ、このゴミクズども! きさまら全員皆殺しだ!」
 顔面を紅潮させ、肩を震わせながらサカモトは吼える。しかし、アンドウがそれを遮った。
「厳粛になさい。いまやあなたは断罪される立場だ」
 彼女は奴を一喝する。そして、告発者たちに尋ねた。
「では、どのような罪で、どのような罰を彼に求めようと考えているのか」
「分派策動と内通の罪です。これは万死に値する。我々は死刑を求めます」
 決然と断言する「調達班」たち。その宣告を聞くやいなや、サカモトはいきり立って叫声を上げた。
「この犬畜生が……! きさまらごときが俺を陥れるつもりか!」
 サカモトは怒号とともに猛進し、告発者に詰め寄ろうとした。しかし、それが叶うことはなかった。
「動くな、裏切り者」
 奴の背に突きつけられた銃口。動きを制止したのは、「実力班」だった。唖然とするサカモト。その脳天を、銃床の一撃が襲う。
「俺たちをだましやがって、この帝国主義者め。すべてアンドウさんから聞いたぞ。俺たちをこんなところに追い込んだのは、きさまの仕業だったのか……!」
 床に崩れ落ち、呻くかつての指揮者を彼らは罵倒する。そして、たまりにたまった鬱憤をぶつけるように、うずくまったサカモトを次々に蹴り上げた。
 それでも、奴はしぶとかった。「実力班」の暴行を受けながらも、ほうほうの体でアンドウのもとへ這い寄っていく。
「俺はスパイじゃない、同志なら分かってくれるだろう。一体何の証拠があって、こんな仕打ちを受けなきゃならないんだ……」
 泣き出しそうな勢いで、サカモトは訴えかけた。つい前日まで、独断で私刑を執行しようとしていたのにも関わらず、だ。まさしく、笑止の沙汰である。惨めに命乞いをする様に、呆れを含んだ冷笑が漂う。
 しかし、それもサカモトには分からないようだ。恥も外聞もなく、なおもアンドウに追いすがる。
「同志、あんなクズどもの戯言(ざれごと)など聞いてはだめだ。あんたを理解できるのは俺しかいない。俺たちだけで、新しい世界を、革命を……」
 打たれた子犬のように、サカモトは懇願する。しかし、アンドウは奴を見下ろしながら、短く告げた。
「……もういいでしょう、サカモト」
 その目には、もはや何の感情も存在してはいなかった。あるとすれば、ほんのわずかな哀れみだけだった。
「スパイであるにしろないにしろ、もう我々にあなたの存在は不要よ。あなたは、それだけのことをしてしまった」
 最後に残った希望の欠片が、サカモトの顔から消えていった。そして、絶望に染まっていく。それに構わず、彼女は会衆に命じた。
「この反革命分子を追放せよ! 二度と戻ってこれないように、外の闇に追い出せ!」
 アンドウの声に合わせ、サカモトに押し寄せる学生たち。瞬く間に奴は取り押さえられ、縛り上げられた。そして、罵りを受けながら、引きずられていく。
「……そんな! 同志、我が同志アンドウ! お願いだ、共にいさせてくれ! 共に革命を、共に世界を……!」
 身をよじらせ、声の限り泣き喚くサカモト。しかし、いまやいかなる抵抗も哀願も意味をなさない。奴を待っているのは、怪物のごとく大口を開けた鉄の扉のみだ。その向こうには、どこまでも冷酷な夜闇だけが広がっていた。
 サカモトは為す術なく山荘の外へ蹴り出され、扉が閉ざされた。外からは、人とも獣ともつかぬ絶叫がこだまする。だが、それも吹雪く風音にかき消され、やがて聞こえなくなった。
 最後に響いたのは、鈍く重い錠の音だった。

 吹雪が収まったのは、翌日のことだった。外の様子を見ようとした学生が、サカモトの亡骸を発見した。
 驚く者は、一人もいなかった。あの夜に、着の身着のまま晒されればこうなるはずだ。誰もが分かりきったことだった。
 アンドウにもそのことが知らされたが、「分かった」と言うだけであった。
 彼女の指示で、遺骸は崖下に投げ捨てられた。
 真っ逆さまに墜落していく、髄まで凍り付いた身体。それは谷底でひしゃげ、ばらばらに四散した。



 サカモトによる恐怖支配は、その死によって終わりを迎えた。それとともに、「山岳拠点」を取り巻く張り詰めた空気は、次第に薄れていった。「実力班」と「調達班」はともに解体され、指導者アンドウを中心とした体制が形成された。学生たちは、再び結束を取り戻したのである。
 無論、すべての問題が解決したわけではなかった。山には雪が断続的に降り続き、吹雪が襲うことも幾度かあった。食糧問題も日に日に悪化していった。下山できないのだから、当たり前だ。備蓄は尽き、持ってきた食糧で食いつなぐこととなった。
 しかし、そうした困難に対しても、彼らは果敢に立ち向かった。外に出られそうなときは枯れ枝を拾い集め、皆で暖をとった。食事のときも、数少ない乾パンを分かち合って空腹を満たした。彼らは一つになって、状況を打開しようとしたのである。
 それができたのは、アンドウのカリスマによるところが大きいだろう。彼女は折に触れて得意の雄弁を振るい、学生たちを鼓舞した。しかし、それだけではない。加えて、サカモトがいなくなったことも重要な要因だった。サカモトという共通の敵が倒れたことが、彼らの結束を強めたのだろう。結果として、奴はスケープゴートになったのだ。何とも皮肉な話である。
 こうして「革闘連」は再生の道を歩み、学生たちの団結は盤石のように見えた。

 サカモトの粛清から、一週間ほどたった頃だっただろうか。その日は久々に雪がやみ、朝から野外での活動が行われた。
 「山岳拠点」の前で、猟銃を繰り返し構える学生たち。あれ以来、初めてとなる「射撃訓練」だった。とはいえ、以前のように強制されたものではない。「実力班」がなくなった今、「調達班」だった者も銃の扱いに慣れておいた方がいいだろう、ということで自主的に始められたものだった。そのためか、彼らの表情はどこか活気が感じられるものだった。
 そんな学生たちの様子を、少し離れたところで眺めていた。すると、誰かが私に話しかける声がした。
「どうかしら。皆の様子は」
 (かたわら)には、アンドウが立っていた。いつからいたのだろうか、私は気が付かなかった。
「……ああ、皆明るくなったみたいだ。以前よりも(・・・・・)
「そう、ね。私もそう思う」
 私の言わんとすることが伝わったのだろうか、彼女は頷いた。そして少し間を置いて、私に尋ねる。
「キズキさん。サカモト……彼のことなんだけど。彼は本当にスパイだったのかしら」
 そう問うアンドウの表情には、少しばかりの(うれ)いが宿っていた。それを打ち消すように、私は彼女を見つめて答える。
「さあ。そうであってもそうでなくても、君が悩むことじゃない。彼らの顔を見れば分かるだろう」
 サカモトがスパイだったかどうか。それは、私にも分からない。だが、奴がいなくなったことで、「革闘連」が再生しつつあったのは事実である。アンドウの選択は、決して間違っていなかったのだ。
「……ありがとう。あなたの言う通りね」
 彼女はほっとしたように、息をついた。
 そう、サカモトがスパイかどうかなど、今となっては不毛な問いだ。そもそも、スパイがいるというのも奴が言い出したことである。同意見だった私が言うのも何だが、そもそもスパイがいるのかどうかすら確証がない。警察だって、こちらを追っているかどうか分からない。あのとき、たまたま麓にいただけかもしれないではないか――。
 思えば、随分と楽観的な考えである。サカモトという害悪が取り除かれたことで、心に緩みが生じていたのだろうか。そして、それは学生たちも同じだったに違いない。皆で団結すれば、何とかなる――そんな雰囲気が、彼らの中に共有されていた。

 そうして陽は高く昇り、時刻は正午に差し掛かっていた。私は昼食を食べるため、学生たちとともに山荘に戻ろうとしていた。
 そのとき、中から異様な音がした。階段を転げ落ちるような、慌ただしく騒々しい足音。驚く私たちの目の前で扉が勢いよく開け放たれ、一人の若者が飛び出してきた。
「大変だ……! 全員、今すぐ中に戻ってくれ!」
 焦燥した様子で、彼は大声で告げた。突然の事態に戸惑う学生たち。伝令の学生を、アンドウは質した。
「落ち着いて! 一体、何が起こった!」
「見た方が早いです! アンドウさんも、拠点に戻るのが先だ!」
 彼はそう怒鳴り声を上げ、建物の中に入るよう促す。そして、全員が戻ったことを確認すると、扉の錠を下し、アンドウを二階に案内した。
「さあ、これで見てください」
 渡された双眼鏡で、二階の窓から彼女は外の様子を覗いた。あちこちを移動する、双眼鏡の視線。それはやがて、一点に止まったまま動かなくなった。
「何ということ……」
 アンドウが発したのは、その一言だった。彼女は双眼鏡にくぎ付けになったまま、言葉をこぼす。
「……奴らだわ。しかも、たくさん……こちらに近づいてきている」
 言葉少なに、アンドウは続けた。その口調からは、これまでにない焦りが伝わる。そして、それは学生たちも同様だったようだ。彼女の発言とともに、やにわにざわめきが起こる。
「どうしたんだ。ちょっと、私に貸してくれ」
 居ても立ってもいられなくなった私は、半ば強引に彼女から双眼鏡を取り、その中を覗き込んだ。
 雪が積もり、白樺の樹が立ち並ぶ白銀の世界。その片隅に、黒い列をなして(うごめ)く何かがあった。倍率を絞り、それを凝視する。
 それは、人の群れであった。紺色のヘルメットと制服に身を包んで隊列をなし、山道を練り歩いていた。ゆっくりとだが、着実にこちらへ向かってくる。
「警察、いや、あれは……」
 私は言葉を詰まらせた。それを継ぐかのように、アンドウが口を開く。
「いいえ、あれは機動隊……。奴ら、本気で私たちのことを……」
 彼女の言う通りだ。私が見たのは、列をなして前進する機動隊だった。警察どころではない。相手は武装した治安部隊なのだ。こちらの想定以上に、あちらは総力を結集させて動いていた。それも、かなりこちらに近づいてきている。一糸乱れぬ歩調から、「山岳拠点」の位置は把握しているに違いない。
 やはり、楽観論は楽観論でしかなかった。こちらの状態が分かるわけでもない、ましてやこの山荘にいるのかどうかすら分からない状況で、機動隊が出動するはずがない。つまり、こちらが集団で武器を所持し、山荘に潜伏しているという情報を掴んだ上で行動しているということである。
 私は確信した。これまで「山岳拠点」の情報はすべて筒抜けになっていた。そう考える他ない。サカモトが言った通り、内部にスパイがいたのだ。
「奴らが襲ってきた! 国家権力の弾圧だ! 総員、すぐに抗戦の準備を!」
 アンドウは声を荒げた。それとともに、素早く動きだす学生たち。彼らは二手に分かれ、準備に走る。屋内の障壁は固められ、二階の銃眼には猟銃が据えられた。山荘内の用意が終わると、彼らは自らの身を固め始めた。ヘルメットをかぶり、タオルで顔を覆う。手には軍手がはめられ、角材が握りしめられた。
 こうして戦備体制が整うと、学生たちはアンドウのもとへと集結した。彼女は静かに語り始めた。
「同志諸君。帝国主義者の犬が、こちらに向かってきている。こちらにたどり着くのも時間の問題だ……。あと一日もかからないだろう」
 固唾を飲んで聞き入る学生たち。一人一人の表情を見つめるかのように、ゆっくりと彼らを見渡すアンドウ。そして、発破をかけるように、彼女は怒号を上げた。
「時は満ちた。右翼攻勢との決戦だ! 権力の走狗(そうく)どもを、徹底的に粉砕するのだ!」
 角材を天高く掲げるアンドウ。それに呼応して、学生たちも次々に武器を振り上げた。
「そうだ、徹底抗戦だ!」
「断固粉砕だ!」
 彼女の鶴の一声で、彼らの意志は固まったようだ。目という目に、燃えるような敵意が宿っている。もはや、全面衝突は不可避だった。
 その夜、彼らは交代で見張りを行った。そうでない者は仮眠をとるとともに、武器の製作に励む。油で空き瓶を満たし、布で栓をすれば火炎瓶だ。並んで、鉄パイプに火薬を詰める作業も行われた。手製爆弾というやつである。数は少ないが、切り札になるだろう。学生たちは車座をつくり、仮眠を取りつつ夜もすがら機動隊の襲来に備えた。





 明くる日の早朝。一発の銃声が轟いた。山荘内に叫び声が響き渡る。
「来たぞ! ついに奴らが来た!」
 その声に応じ、アンドウは二階へ駆け上がった。見張りを押しのけ、窓の外を確認する。
「……やはり、来たか」
 彼女が見たのは、おびただしい数の機動隊員だった。陣形をなして密集し、山荘を包囲する様は、さながら角砂糖に群がる蟻のよう。彼らは大盾と棍棒で武装し、「山岳拠点」へにじり寄ってくる。
 アンドウは意を決し、声を張り上げて呼びかけた。
「同志たちよ、とうとうこの時が来た! 革命の進退は諸君にかかっている! 帝国主義者と断固闘争せよ!」
「決戦だ! 革命万歳!」
 彼女の叱咤が響く。同時に、学生たちは鬨の声を上げ、持ち場へ走って行った。

 侵入対策に抜かりはない。裏口や側面は溶接され、正面の扉は厳重に施錠された上で鉄パイプ爆弾が仕掛けられた。
 上階へ続く通路や階段に張り巡らされたのは、廃材と|土嚢(どのう)で築かれたバリケード。その影に猟銃や角材を手にした学生が潜む。
 二階の正面にある窓は四つ、それぞれに銃眼が備えられている。そこから銃口が外部を睨み、その横でアンドウが指揮を執った。
「犯人に告ぐ! 抵抗を止め、今すぐ投降せよ!」
 遠方から投げかけられる、機械を通した無機質な声。それに刺激されたように、二階の射手はすかさず発砲した。
「馬鹿いえ、権力の犬!」
 火を噴く銃口。それは、徹底抗戦と宣戦布告を意味していた。機動隊は盾を構え、拳銃を抜き取って応戦する。銃弾が窓に当たり、亀裂が走った。
 音を立てて割れたガラスから、冷えた朝陽が流れ込む。日の出とともに、戦いの火蓋が切って落とされた。

「構うな! 撃て、撃て!」
 アンドウは指揮を執りながら、学生たちを鼓舞する。撃っては撃ち返され、撃っては撃ち返される一進一退の攻防だ。
「だめだ! 敵の反撃が激しすぎる……」
「うろたえるな! 相手はまだ威嚇射撃のはず、これからもっと激しくなる! その間になんとしても損害を与えるんだ!」
 彼女に後押しされ、銃座の学生は無我夢中で引き金を引く。だが、こちらが持っているのはあくまで猟銃だ。装填できる弾数は多くなく、射撃にも時間がかかった。銃撃で相手を足止めしても、次に撃つときには漸進を許してしまっている。まさにイタチごっこだ。
 すると、突如学生のひとりが窓を開け放った。そして、外に向かって何かを投げつける。
「食らえ、ファシストども!」
 怒声とともに、火柱が上がる。火炎瓶を投げ込んだのだ。数人が巻き込まれ、火だるまになっていた。火を消そうと、雪の上を転げ回る機動隊員。陣形が乱れるその一瞬を、「革闘連」は見逃さなかった。
 刹那、鳴り響く轟音。山荘からの一斉射撃だ。銃弾の雨が、機動隊に浴びせられる。隊員たちは攪乱され、体勢が乱れた。被弾した者もいるようだ。何人かが倒れている。
「やったぞ! 帝国主義者どもにさらなる鉄槌を!」
 歓声を上げる学生たち。そして弾を込め、追撃を試みようとした。
 そのときだった。突如、何かが尾を引いて飛来してきた。それは空いた窓から屋内へ着弾した。
 その正体を確認する間もなく、部屋中に広がる煙幕。同時に、焼けるような痛みが顔面を襲う。目や鼻には鋭い刺激が走り、涙や咳が止まらない。
「催涙ガスだ……! 皆、口と鼻をしっかり覆え!」
 ガスに(もだ)えながら、アンドウは叫んだ。私も、事前に渡されたタオルで口元を覆う。しかし、それでも目からは止めどなく涙が流れ、咳で呼吸すら困難だ。
「この、舐めやがって! ぶっ殺してやる!」
 学生の一人が雄叫びを上げ、窓から身を乗り出して反撃を試みる。しかしその直後、凄まじい水流とともに彼が吹き飛ばされるのを私は見ることになった。
 放水砲による追撃だった。それを直に受けた学生は、窓から少し離れたところでぐったりと伸びている。恐らく、倒れた勢いで頭を打ったのだろう。
「大丈夫か! やむを得ない、一階へ退避だ!」
 彼らは銃を抜き、弾薬を抱えて下階へ駆け下りていった。その間にも、次々に催涙弾が撃ち込まれ、放水は止むことなく続けられていく。倒れた学生が運び込まれる頃には、一階にもガスと水が流れ込んでくるほどになった。
 その後、放水の直撃を受けた学生は、幸いにもすぐに目を覚ました。そして、タオルを二枚重ねにしすることで仕切り直しを図ることになった。勿論、ガス対策のためである。彼らの持ち合わせでは、その程度しかできなかった。
 彼らが再度上がっていったときには、二階は水浸しになっていた。ガスは薄くなっていたものの、火炎瓶や爆弾の多くはだめになっている。銃座から離れた十数分の間、包囲網をかなり詰められたようだ。窓からは、機動隊がどんどん近づいてくるのが見える。
「ちくしょう、これならどうだ!」
 浸水した鉄パイプ爆弾を投げ込む学生。やけくそで投げ込まれた爆弾は、当然爆発しない。軽い音を立てて転がるのみだ。
 だが、それは思わぬ効果を発揮した。数人が不発の爆弾に駆け寄り、何か作業しているのだ。恐らく、爆発物の処理をしているのだろう。予想外にも、足止めする意味はあったようだ。
 学生たちは、次々に湿気った爆弾を投擲(とうてき)する。そのたび、機動隊は処理に追われた。隊列が乱れたところに、容赦ない銃火が加えられる。
 徐々に後退していく機動隊員たち。それでも、機動隊が爆弾を無視することはなかった。実際に爆発するかしないかは、そのときまで分からないからである。事実、数発は浸水を免れて大爆発を引き起こし、相手に甚大な被害を与えた。
 結局、陽が沈むまで攻防戦は続けられた。戦線は膠着(こうちゃく)したまま、互いの陣営は最初の夜を迎える。

「ようやく敵の攻撃が止んだようだ。被害状況はどうなっている?」
 蝋燭(ろうそく)が揺らめく山荘の一室。アンドウは学生たちに尋ねた。
「ええ、目立った怪我をした者はいません。ただ、火炎瓶の半分以上が水に浸かってしまっています。浸水したものも含め、爆弾はほとんど使ってしまいました」
「そう……。まあ、負傷者がいなくて何よりだ」
 戦闘から解放され、彼女は少しだけ安堵を見せた。しかし、状況を伝える学生の顔は未だ険しい。
「……どうした? まだ何か?」
 訝しげに訊くアンドウ。学生は、言いにくそうに答えた。
「実は、残った食糧のことですが……。あれももうだめかも知れません」
 そう言って彼が持ってきた乾パンは、水でふやけて汚れていた。いや、それだけではない。鼻を突き刺す匂いがする。涙が出そうになるくらい、きつい匂いだ。
「ふやけたところに例のガスが染みついたみたいだ……。これでは食べられない」
 アンドウはタオルで口を覆いながら、顔をしかめた。最後に残った食糧は、あっけなくガスで汚染されてしまった。誰も何も口にしないまま夜が更けていく。
「短期決戦あるのみだな……」
 戦闘の疲れからか、それとも空腹からか。アンドウがそう言ったきり、口を開く者はいなかった。












 機動隊と対峙してから二日目の朝。仮眠をとっていた私は、ふと目を覚ました。いくつもの話し声、雪を踏む音。前日よりも、遙かに多くの気配がする。
「敵襲だ! 昨日よりも多い!」
 狼狽した見張りの声がする。窓を覗き、私は言葉を失った。山荘を取り巻く機動隊員の数は、前日の倍近くになっていた。その事態はすぐ全員に伝えられ、戦闘が開始される。
 次から次へと投げ込まれる催涙弾。香を焚いたかのように、内部は煙で充満している。それに加え、放水も激しく山荘を打ち付ける。ガスにまみれ、水をかぶりながらも学生たちは死に物狂いで抵抗した。しかし、増員された機動隊からの攻勢は苛烈さを増していくばかり。やがて、「革闘連」は劣勢に立たされていった。
「くそっ! 敵が多すぎる! 撃っても撃っても次から次へと……!」
 射手は咳き込みながら、無我夢中で乱射する。そばに置いてあった弾薬は、底を尽きそうになっていた。
「むやみに撃つな、指揮系統を潰せ! 妙なヘルメットを付けているのが指揮官だ!」
 雷鳴ごとく銃声が響く中、アンドウは声を張り上げた。
「ガスでよく見えない! 一体どいつなんだ……!」
 目をこすり、声を枯らす学生。彼は銃を抜き、窓に手をかけた。
「だめだ! 昨日の二の舞になる!」
「こうするしかない、水が来る前に仕留めてやる!」
 学生は叩き割るように窓を開け、木枠に足をかけて猟銃を構えた。
 そのとき、何かが反射したような閃光が私の目をかすめた。同時に上方から鋭い発砲音がこだまする。次の瞬間、痛々しげな悲鳴が上がった。
「どうした、何があった!」
 学生のもとへ駆け寄るアンドウ。彼は顔を苦痛に歪ませて呻いた。
「アンドウさん、どうやら撃たれたみたいだ……。指を持っていかれてしまった……」
 そう言って息を切らす学生の手からは、だらだらと血が流れている。そこにあるはずの指は、何本か根元から吹き飛んでいた。
「あなたは一階に退避して! 私がやる!」
 アンドウは銃をひったくり、銃眼に戻した。
 機動隊には、とうに発砲許可が出ていたようだ。しかも、銃を持つ手を狙い撃ちできるほどの精度。外部の至る所に、狙撃手が配備されているのだろう。安易に身体を晒すことはできない。
 そのことを分かってか、彼女は銃眼から銃を離さなかった。目を真っ赤にしながら、わずかな隙間から必死に索敵している。だが機動隊の指揮官は見つからず、やがて手当たり次第の発砲に後戻りしていった。
 防戦が続いたまま、時刻が正午を回った頃。時間の経過とともに襲ってきたのは、耐えがたい空腹だった。一昨日の夜から、誰も何も食べていない。学生たちの苛立ちと不安は、最高潮に達しようとしていた。
 唐突に立ち上がる、一人の若い学生。火炎瓶を握りしめ、窓際に向かっていく。
「くそが! これでも食らいな!」
 火炎瓶を投げ込み、鬱憤を晴らそうというつもりらしい。この雪が積もっている状況ではすぐ消火されてしまうが、それでも良かったのだろう。瓶に点火すると、怒鳴り声を上げて投擲しようとした。
 しかし、その動きは唐突に止まった。彼は燃え盛る瓶を手にしたまま、目を見開いている。
「危ない! 燃えている!」
 私がそう警告したときには、その手を炎が包んでいた。あまりの熱さに我に返ったのだろう、学生は慌てて火炎瓶を放り出す。それはあらぬ方向に落下し、誰にも知られず雪の上で燃え尽きた。
「どうした、何かあったのか!」
 彼の仲間が心配そうに尋ねる。学生の右手は火で焼かれ、赤く(ただ)れていた。
「いいや、何でもない……」
 若い学生はそう繰り返しながら、水浸しの床で手を冷やすのみだった。

 その後も、機動隊と学生たちとの攻防は休みなく繰り広げられた。だが多勢に無勢、山荘からの攻撃は徐々に押し切られていく。再び夜が来る頃には屋外のバリケードはすべて破壊され、包囲網はますます狭まっていった。
 疲労困憊で、床にへたり込む学生たち。割れた窓からは、凍てつく夜風が入り込んでは吹き付ける。食糧は手に入らず、飢えはますます酷くなっていく。ガスの染みた乾パンを食べようとした者もいたが、すぐ吐瀉(としゃ)するはめになった。
 余計な労力を使わないよう、誰もが口を開かない。いつまでも続く静寂。その中で、小さな声がした。
「ああ、寒い、寒い……」
 見ると、ある学生が真っ青になりながら震えていた。呂律が回らない口で、ひたすらに寒さを訴えている。蒼白になった顔面が、凍死したサカモトに重なった。
「まずい、かなり冷たくなっている! はやく暖めないと……!」
 彼に触れたアンドウが助けを求める。極寒の夜に、水に濡れたままだったのがまずかったのか。どうやら、急性の低体温症になっているようだ。
 一刻も早く彼を暖めなくてはならない。だが、問題があった。今ここで火を焚けば、機動隊に見つかってしまう。そうすれば、こちらはいい標的だ。それは相手も同じなようで、夜間はどちらも灯りを消して攻撃を中断していたのである。結局、一階の奥の部屋で火を焚き、凍える学生を数人がかりで運ぶことになった。
 ドラム缶に枯れ木と火炎瓶が投げ込まれ、炎が上がる。それに当たる、布にくるまれた学生。いまだ震えは止まらず、青ざめた表情はうつろだ。
「温かいもの、温かいものが食べたい……」
 彼はうわごとのように繰り返す。その様子に、アンドウは苦虫を潰したような顔をした。
 そのとき、誰かが声を震わせながら叫んだ。
「もう限界だ……! 俺たちは何のためにやってるんだ!」
 突如として発せられた、悲痛な叫び。それは、昼間火傷した年少の学生のものだった。彼は心を乱し、息を荒くしている。それをなだめるように、アンドウが尋ねた。
「落ち着きなさい。一体、昼間からどうしたというんだ」
 未だに痛むのだろうか。彼は包帯に巻かれた右手を押さえながら、こう打ち明けた。
「……俺は見たんだ。俺たちが凍え、腹を空かせている中で……あいつらはほかほかの飯を食っていやがった!」
 その声には、怒気と悲哀が混じる。どうやら、機動隊は温かい食事を摂っていたらしい。どんなものかはよく分からないが、白いどんぶりのようなものに湯を注いでうまそうに食べていたという。湯気立つ食事をする機動隊と、食べることもままならない自分。その落差に、彼は少なからずショックを覚えたということだった。
「俺たちの革命は必ず実現する、それが歴史の必然だ……イトウさんも、アンドウさんもそう言っていたじゃないか。〈超人〉として、革命をするんだと。だけど俺は分かったよ、所詮みんな人間なんだって! 腹も空くし力もないんだ!」
 抑えていた感情を吐露するように、学生は取り乱しがなり立てた。アンドウはただ、目を閉じて苦渋の表情を浮かべるだけだ。
「いい加減にしろ! 言わせておけばお前は……」
 喚き立てる学生に飛んできた、拳と怒声。怒りをぶつけたのは、「調達班」に所属していた年長の青年だった。サカモトに処刑されかけた人物である。あのときに勝るとも劣らない勢いで、青年は彼を叱り付ける。
「飯ごときで、お前は革命を諦めてしまうのか! 革命という来たるべき未来を疑うのか! これまで我々が払ってきた努力や犠牲を何だと思っているんだ、恥を知れ!」
 並々ならぬ気迫を発する青年。だが、学生は黙らない。先ほどよりも感情を剥き出しにしながら、掴みかかった。
「じゃあ、どうして! どうして俺たちは凍え、飢えてるんだ! いつになったら、俺たちの革命はいつになったら現実になるっていうんだ……!」
 そう問いかける学生の声は、やがて痛ましい慟哭(どうこく)になっていく。
「一体……俺たちは一体、何のために戦っているんだ……」
 青年にすがり付き、悔しさの涙を流す若い学生。目をうるませて訴える彼を抱きとめ、青年は静かに告げた。
「……もうよせ。それ以上は言うな」
 そして、力なく言葉をこぼす。
「それ以上言ったら……。俺たちの過去が全部無駄になってしまう」
 そう言ったきり、沈痛な面持ちで頭を垂れた。後に残ったのは、山荘に舞い戻った静けさだけだった。







 三日目の朝。空腹と寒さで朦朧(もうろう)とする意識に、あるものが入り込んできた。
 地響きを起こす振動。低く轟く駆動音。仰々しい物音が、外から聞こえてきたのだ。まるで大きな機械が、地を揺るがしながら迫ってくるようだ。
 ふらつきながら窓辺に足を運ぶ。私以外の学生たちも、皆そこにいた。目に隈をつくった彼らは、口々に囁き合っている。
「何だ、あれは……」
 彼らが見る先。そこには、名状しがたい無機物が闊歩(かっぽ)していた。戦車のごとく、鉄板で装甲された本体。そこから鋼鉄の太い腕が伸びている。そこに、巨大な黒い鉄球が垂れ下がっていた。
 まるで、鉄球をぶら下げた鋼鉄のクレーン車といったところか。奇怪な重機がエンジンを唸らせながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「……モンケンだわ」
 呆然とした学生たちの様子に反して、アンドウは焦りながらそう言った。そして、大声で学生たちに呼びかける。
「全員、あの車を狙え! ここに到着させる前に必ず破壊するんだ!」
 そう命じると、自らも猟銃で攻撃を始めた。それに追従し、次々と射撃を行う学生たち。重機に一斉掃射が浴びせられる。だが、分厚い装甲に銃弾は弾かれ、傷一つ付かない。十字砲火をものともせず、着実に迫ってくる。
 しばらく銃撃が続いたが、まるで歯が立たないようだ。アンドウは銃を捨て、渾身の力で火炎瓶を投げ込んだ。炎に包まれるクレーン車。動きがわずかに止まる。
「瓶だ! 火炎瓶を使え!」
 彼女の号令とともに、次々と投げられる火炎瓶。火柱が高く上がり、辺りは業火に包まれる。一時、重機の動きは完全に停止した。
 だが、それはあくまで一時的なものだった。地面が積雪していたために、延焼しなかったのだ。火はすぐ消し止められ、重機は再び進み始めた。最後の抵抗と言わんばかりに残りが投下されたが、もはや前進を阻むものではなかった。
 銃撃も弾かれ、火炎瓶も効かない。その間にも、エンジン音の咆哮が近づいてくる。ついに、アンドウは抵抗を諦めたようだ。二階を離れ、階段を駆け下りた。
「一階に居ては危険だ、すぐにこっちに!」
 そう言って、一階を防衛する学生たちに退避を促した。
 一階の学生が全員退避し終えたとき。攻撃の手が緩んだからだろう、クレーン車はさらに距離を詰め、ほとんど山荘に肉薄していた。
 進行を止め、停止する重機。鉄球を付けたクレーンの腕がゆっくりと動いていく。学生たちは間近にいながら、その様子を見守るのみだ。皆、茫然自失として動けなくなっている。
「鉄球が来る! 何かに掴まれ!」
 アンドウが声を荒げたときには、もう遅かった。地震のような揺れが山荘を襲い、学生たちは次々と転倒した。窓の外では、砂煙とともに鉄球が揺れている。
「ああ……」
 彼女は失意の呻き声を上げた。
 一階部分に、あの鋼鉄の振り子が打ち付けられたらしい。下階を覗き込むと、そこはすでに瓦礫(がれき)の山と化している。
 山荘一階の横っ面に大穴を開け、そこから中に突入する――これがあちらの算段なのだろう。二重錠やらバリケードやらでいくら防御が固かろうが、こうなってしまえば侵入は容易だ。機動隊にとっては、勝利も同然である。それは同時に、学生たちの敗北をも意味していた。
 だが、もう彼らに反抗する術はない。鉄球が打ち付けられるたびに倒れ、立っていることすらままならない。ただ、迫り来る衝撃に逃げ惑うだけだ。さながら、檻を揺さぶられたネズミのように。
 鉄球の打撃は緩慢に、しかし何度も襲いかかる。もはや何者もその攻撃を止めることは出来ない。夕刻には側面の壁がほとんど崩れていた。もはや、機動隊の突入は秒読みの段階だった。

 窓という窓は割れ、ガラス片が散乱する山荘二階。そこに、学生たちは集まっていた。全員が来たことを確認すると、神妙な面持ちでアンドウは語り始めた。
「同志諸君。巨大な国家権力を相手に、今日まで我々は戦い抜いた。だが今日、この『山岳拠点』の防壁は破壊され、崩壊した。敵が突撃してくるのも時間の問題だ。こうなれば一人でも多くの敵を倒し、革命に殉じる他ない。明日は殲滅(せんめつ)戦になるだろう」
 口を閉ざし、うつむく学生たち。アンドウの声にも力がない。彼女の弁舌が生む神通力も、今となっては失われてしまった。もう歓声も喝采も起こらない。無謀な戦いの果てに疲弊し、やつれた姿があるのみだ。すり切れた彼らの様子に、アンドウは悲しみの表情を浮かべた。
「だが、それを諸君には強制しない。『革闘連』の指導者ゆえに、私は最期まで戦う。捕まったとしても、死刑が待っているだけだからな。しかし、諸君は違う。私と運命を共にする必要はない。投降したい者は、そうするがいい」
 その言葉に、学生たちは面を上げた。そこには、ある種の驚きが見て取れる。
「そんな! これまで共に革命を目指してきたじゃないか! アンドウさんだけに戦いを押しつけることなど……!」
 「調達班」の青年が驚きを口にする。しかし、アンドウの胸の内は決まっていたのだろう。いつもの威風を取り戻し、後押しするように学生たちに語りかける。
「私は、決して革命を諦めろと言っているのではない。むしろ、生きて革命を成し遂げてくれと諸君に言っているのだ。諸君の投降は決して敗走ではない、革命のための投降なのだ!」
 高らかに宣言するアンドウ。もっともらしい理屈に、もっともらしい顔で、彼女は投降を勧めた。それとともに、学生たちの面持ちが少しづつ変わっていく。言葉は発せずとも、彼らの心が揺らぎつつあることは明らかだった。

「分かった。あなたがそう言うのなら、俺たちは降りさせてもらう」
 最初に手を挙げたのは、火傷を負った若い学生だった。その傍にはもうひとり、生気のない顔をした若者がいる。昨夜、寒さを訴えて震えていた学生だ。いまだ回復しないのだろうか、ぐったりとした彼に肩を貸しながら、言葉少なに告げる。
「もう俺たちは戦えない。革命を諦めたわけじゃないが……もう無理だ」
 そう言ったきり、彼らはアンドウに背を向けた。そして、足取り重く一階への階段を下りていく。
 この二人が皮切りとなって、学生たちは次々と脱落していった。彼らは武器を捨て、一人、また一人と山荘を後にしていく。アンドウは何も言わず、去りゆく仲間たちの後ろ姿をただ見送っていた。

「アンドウさん……。申し訳ない、もう俺だけになってしまったようだ」
 最後に残っていた学生は、「調達班」の青年だけだった。往時の覇気は失われ、彼は力なく言葉をつなぐ。
「もう勝機はありません。せめて、俺とともに投降しましょう。命だけは助かるかもしれません」
 最後の説得だというように、彼は願い出る。しかし、彼女はかぶりを振るのみだ。
「いいえ、それはできない。言ったでしょう、革命の火を保っていけるのはあなたたちだけよ」
 彼女の答えに、青年は目を伏せた。分かりきった答えだったのだろう、それ以上の言葉は彼の口から出てこない。その代わりに、消え入りそうな言葉が漏れ出す。
「革命の火、ですか……。あいつの言った通りだった……俺たちの戦いは何だったんでしょうね」
 それはアンドウに向けたものか。それとも自らに向けたものか。蚊の鳴くような声で、彼は独りごちた。
「……革命、万歳」
 青年は肩を落とし、うつむきながら外の暗がりへと消えていく。彼が最後に残したのは、孤独な叫び(シュプレヒコール)だけだった。



「皆、行ってしまったわね」
 もうすっかり夜になっていた。山荘に残っているのは、私とアンドウだけだった。
「……あれで良かったのか」
 私は彼女に訊く。
「ええ。あれが精一杯。彼らへの、せめてもの償いよ」
 漂う寂寥(せきりょう)感。しかし、そこに悔いは感じられない。
 「革命のため」という思考が染みついた若者たち。あのように言わなければ、きっと彼らは投降しなかっただろう。無謀な戦いを最後まで続けたに違いない。彼女は、学生たちに生き延びる建前を与えたのだ。
「そういうあなたは、投降しないのかしら。キズキさん」
 彼女は私に訊き返す。しかし、私の答えは決まっていた。
「ああ。最初からそう決めていた」
変な人ね(・・・・)。……でも、嬉しい」
 いつか聞いたような言葉で、アンドウは優しげに笑う。いつの頃だっただろうか。彼女と共に過ごした日々。それはつい最近のことのようで、遙か遠い思い出のようだ。
 その郷愁も、夜が明ければ露と消えるだろう。彼女が言う通り、明日の朝には「殲滅戦」が始まるからだ。
「本当に、戦うのか。死ぬかもしれないのに」
「そうなるわね。指導者として、当然の責務よ」
 平然とした顔で、アンドウは首肯する。二十そこそこの娘だというのに、こうした状況になっても物怖じしないようだ。
「死ぬのは怖くないのか。君にも肉親がいるはずだろう」
 重ねて私は尋ねた。彼女の死への恐怖心のなさに、異様なものを感じたからである。
 私の問いに、アンドウの表情は少しだけ動いたように見えた。そして少しだけためらいを見せ、彼女は答えた。
「死ぬのは怖くないわ。……私の場合はね」
 そう言う彼女の口調には、どこか悲壮な孤独感が宿っている。分かち合いたいのに分かち合えない、そんな秘密を抱えているように見えた。
「ねえ、キズキさん。最後に、私の過去を聞いてくれないかしら」
 そう言って、アンドウは私に切々と打ち明け始めた。



「……あなたの言う肉親など、私にはいない。昔にはいたけれど、もう今はいないわ。どこにも」
アンドウがまだ幼い頃。そのときは父も母もいた。けれど、それはつかの間だった。土方をしていた父が、突然死んだのだ。造っていた建物の材料が悪かったんだと噂で聞いたが、原因はうやむやにされ、闇に葬られたままだった。
 父が死んだ後の生活は、悲惨の一言だった。まさしく極貧、社会の底辺である。ゴミや雑草を食べることもしばしばだ。そんな暮らしに嫌気が差したのだろう。母はある日何も言わずに彼女のもとを去っていった。そして、二度と帰ってくることはなかった。
 父の死、母の出奔。これが、アンドウに肉親がいない理由だった。
「その後に私を待っていたのは何だと思う? 親戚中でたらい回しにされた挙句、孤児院へ入れられたのよ。私は邪魔者だったということね。このとき、幼心に激しい感情を覚えた。そう、この無情な社会に対する怒りよ」
 静かな語り口に、明らかな怒りが宿る。この憤怒こそが、彼女を学生運動へと駆り立てたのだ。
「私が運動を始めたのは高校のときから。そのときは、私とサカモト、それと数人の小さいセクトだったと思う。私たちは必死で、この世の中を変えようとした。けれど、それは実らなかったわ。それどころか、他のセクトとの内紛に明け暮れることのほうが多い有様だった」
 セクトどうしの内ゲバ。それは、学生運動につきものの光景だ。こうした現状の中、ある考えがアンドウに浮かんだという。
「そう、私は悟ったのよ。すべてを解決するのは、『力』なんだと。貧乏になるのも力がないから、世の中を変えられないのも力がないから。このときから、私は『力』に固執し始めたわ」
 飽くなき「力」への信仰と探求。彼女の言っていた〈超人〉やら〈力への意志〉の考えも、ここから来ていたのだろう。
「ちょうどそのとき、私たちのセクトに入ってきたのがイトウだったわ。彼はとても博識だった。『共産主義』という共通の理想と、『力の探求』という私個人の理想を、いとも簡単にくっつけて見せた。
 そして彼は私に言ったわ、『力が欲しいならセクトを大きくするしかない』と。サカモトは反対したけど、私はこれにかけてみることにした。その結果、どんどんメンバーが増えて、セクトの影響力は大きくなっていった。『革闘連』と名前を変えたのも、この頃だったわね……」



 彼女の口から明かされる、「革闘連」の成り立ち。アンドウとサカモトによる小セクトが巨大化したのは、どうやらイトウの功績によるものだったということだ。そして〈ヘゲモニズム〉の名の通り、学生運動のヘゲモニーを握っていったのだ。
「けれど、それは失敗だった。私は『力』に溺れ、『力』に振り回されるだけだったということね。その末路が、この有様よ」
 彼女はわざとらしく、大げさに自嘲する。
黙って聞いていた私は口を開き、彼女に尋ねた。
「じゃあ、やはり君は後悔しているのか。自分が過ごしてきた日々に」
 はっとしたようにアンドウはこちらを向き、言葉を濁らせた。私の問いが、彼女の何かに触れたのだろうか。少し口ごもりながら、彼女は答える。
「全部、自分がした選択だもの……後悔はないわ」
 その言葉とは裏腹に、わずかに声が震えている。
 何も言わず、アンドウを見つめる私。やがて彼女は私から視線を外すと、ぽつりぽつりとこぼし始めた。
「……そうね。けれど、私は孤独だった。誰も彼も、『革闘連』の指導者としてしか見てくれなかった。そして、いざというときは、いつも矢面にたたなければいけなかった。私はリーダーだったから、誰の助けも期待してはいけなかったのよ」
 アンドウの目は、窓の外に向けられていた。そこには、果てしない暗闇が広がっている。誰も知らない、悟られてもいけない。行き場のない苦悩を、寂しそうに彼女は告白した。
 そして再び彼女はこちらに振り向き、薄くはにかんで見せた。
「覚えているかしら。あの夏の日、あなたは私を助けてくれた。今更だけど、そんなあなたとの毎日は短くも楽しい日々だったわ」
 思えば、そういうこともあった。集会に大学当局が介入してきた日のことだ。私ですら忘れかけていた記憶を彼女は覚えていた。
 彼女が抱えていた孤独はどれほどのものだったのだろう。私への感謝の言葉にはさえ、深い悲しみが見え隠れしていた。次第に笑みは消え、影が落ちていく。
「けれど、怖くもあった。私はずっと革命に身を捧げてきたから。あなたといると、私が私でなくなるような気がしたのよ」
 そこまで言うと、彼女は声を詰まらせた。これまで抑えてきたものを吐き出すかのように、言葉を繋ぐ。
「でも、今になってようやく分かった。心では、あの日々が続いていくことを願っていたんだって。本当は、もっとあなたといたかった。もっとあなたと……」
 アンドウは崩れ落ち、ひたすらに咽び泣く。そんな彼女に、私は何も声をかけられなかった。ただ、その肩を抱き、あふれ出る感情を共にするしかなかった。
「本当は、とても怖いのよ……。明日が来てしまうのが、本当に……」
 彼女も私の肩に抱きつき、子どものように嗚咽する。
 割れた窓から差した月明かり。その光が、私たち二人を冷たく照らし出す。涙が伝う、彼女の青白い横顔。いまや、勇ましい革命家の仮面は剥がれ落ちた。そこにあったのは、小さな娘の剥き出しの素顔であった。
「大丈夫だ……。私が君とともにいる」
 私は声を絞り出す。私にはこれが精一杯だった。こんな陳腐な文句など、何の慰めにもならないだろう。
 だが、私の言葉とともに、私にしがみつく力が一層強くなっていく。感極まったように、アンドウは激しく慟哭していた。
「ありがとう……キズキさん。ありがとう……」
 頬にあふれる、幾筋もの涙。それは彼女のものか、それとも私のものか。互いのそれは交ざり合い、温もりを失いながら流れていく。凍てついた二人の涙は虚空を滴り落ち、闇に溶けていった。













 長い夜が明けた。粉雪が舞い散る暗い朝であった。アンドウは窓辺に立ち、外の様子を眺めている。
 白く染まった山地に、続々と現れる機動隊員たち。その数は、以前にも増して多くなっているように見えた。残る一人の首謀者を、全力で叩き潰すつもりなのだろう。
「……最後の戦いね」
 彼女は猟銃を手に取り、弾薬を詰め込む。とは言っても、込められるのはたった数発だ。それだけで、何が出来るのであろう。
「犯人に告ぐ! 今すぐ人質を解放し、投降せよ!」
 山荘のすぐ近くで、野太い声が聞こえてくる。
 アンドウは私を肘で小突き、いたずらっぽく笑った。
「人質、ですって。誰のことなのかしらね」
「さあ、誰だろうな」
 私も思わず笑い出す。かつて彼女と暮らしたときのように、互いに私たちは笑い合った。
 そうしたやりとりをしている間にも、一階からは数え切れないほどの足音が聞こえてくる。追い詰められていく、私たちの平穏。
「……じゃあ、行くね」
 アンドウは踵を返し、歩いていく。私は、何か彼女に伝えようとした。
 だがその前に、彼女は背を向けたまま小さく私に告げた。
「キズキさん……さようなら」
 もう、彼女は振り返らない。銃を構えたまま、下階へと走っていく。消えゆく後ろ姿を、私は呆然と眺めていた。
 その間、様々な音が聞こえてくる。

 階段を駆け下りる足音。

 呼応するかのように静まる一階。

 次の刹那、響き渡る一発の銃声。

 直後、鳴り響く何発もの轟音。

 かき消される、短い断末魔――。

 雑多な響きが、走馬灯のごとく消えては浮かぶ。
「……アンドウ」
 最後の一音が失われたとき。私の口から、彼女の名前がひとりでに漏れ出した。
 その後には、もう涙も何も出なかった。



「人質発見、確保!」
 やがて、二階に機動隊がなだれ込んできた。
 私は銃を取ろうと手を伸ばす。だが、銃眼に収まったそれには手が届かない。近くに落ちた角材を拾い上げ、がむしゃらに振り回す。だが、それは無駄骨だった。抵抗むなしく私は取り押さえられ、外に引きずり出されていった。
 山荘の外では、隊員たちが慌ただしく走り回っている。その中で、ヘルメットや制服を着けずに指揮をしている男がいた。引きずられる私と、不意に目が合う。男は、悪辣な笑顔をこちらに向けた。
「やあ、人質様のお出ましだ」
 私は愕然とした。私の見た男は誰であろう、あの公安調査官ササキだったのだ。
「ササキ……!」
 ササキを睨みつけ、歯ぎしりする私。そんなことは気にも留めず、彼は素知らぬ顔をして言った。
「どうしたのだ。何をそんなに興奮しているんだね、キズキくん」
 飄々(ひょうひょう)と神経を逆なでするササキの言い草。いとも簡単に、私は激昂した。
「きさま! アンドウをどうした!」
 ササキに飛びつこうと、私は身を乗り出す。しかし、即座に両脇の隊員に押さえられ、私は地面に突っ伏した。
「アンドウねえ……。ああ、あそこに転がっているやつかい?」
 ササキは私を見下ろしながら、ゆっくりと指をさした。
 そこにいたのは、変わり果てた姿のアンドウだった。一斉射撃を受けたのだろう、彼女は蜂の巣になって横たわっていた。肉も骨も粉々になった彼女は、まるでぼろ雑巾のよう。周りに積もる雪は、鮮やかな赤で染まっている。
「まさか、銃を持って突っ込んでくるとは。まったく、痛ましい話だ。そう思わんかね?」
 言葉と裏腹に、ササキは嬉々として話している。だが、もう彼の話は耳に入ってこない。上気した頭の中から、言葉がついて出るのみだ。
「……同じようにしてくれ。私も彼女の仲間だ。私も彼女と同じようにしてくれ……」
 壊れたラジオのように、私はひたすら繰り返す。その姿に、ササキは嘲笑と軽蔑の眼差しを向けた。
「何を言ってるんだ? 君は人質で被害者だ、一ヶ月以上も閉じ込められていたんだろう? 君は理解し難いことを言うのだな」
 惨めに死を願う私を、彼は一笑に付した。それでも、私はなりふり構わず彼に切願する。
「お願いだ! 同じようにしてくれ! 彼女と同じように、私を撃ってくれ!」
 しかし、その願いが聞き入れられることはなかった。私の叫びなど耳を貸さず、ササキは機動隊員に指示した。
「見ての通り、被害者は錯乱状態にあるようだ。連れて行け」
 命令を受けた隊員は私を引き起こし、無理矢理連れ去っていく。もはや何の抵抗も叶わない。捕らえられた虫けらのように、私は四肢をばたつかせるのみだ。
 その姿に、まるで唾棄すべき者を見たかのごとくササキは吐き捨てた。
「まったく、救いようがないな。やはり、あの御仁が言っていた通りだ。『過去の残響は決して絶てない』と」
 ササキの姿が遠くなっていく。そして、彼の姿が完全に見えなくなったとき、私は得体の知れない車に乗せられた。
 暴れる私に拘束衣が被せられる。抵抗を封じられた私の首筋に刺さる、鋭く尖った針。そして、車の扉が閉まると同時に、私の意識は遠のいていった。

 それから先の記憶は、私にはない。
 気が付けば、何年、いや十何年の年月が経っていた。
 この冷え切った、白い監獄の中で。





 ***

――そうですか。先ほど目標の拘束に成功したのですね。


――それでは準備が出来次第、早急に本国へ帰還します。


――ええ、これで終わりです。作戦は成功です。













 八

 雲がかかる、真冬の空。時宜(じぎ)をわきまえた寒々しい光景は、殺風景な執務室には似つかわしい。
 そこに、一本の電話が届いた。

「こちら、内務省公安調査庁です。
……ええ、その節はご協力感謝します」

「しかし、完璧な作戦でした。まず、過激派どもを野合させ、烏合の衆を作らせる。そうすれば、もうこっちのものです。無理に作った組織には、必ず綻びが出るもの。ちょっとしたきっかけで勝手に崩壊する。それを待ってから、弱体化した残党を一気に叩く、と」

「あんな暴徒どもと真正面からやり合えば、こちらの被害も大きいですからね。こちらの損害を最小限に抑えつつ、あのならず者どもを一網打尽に。まさしく一石二鳥、まったく理にかなっていますな」

「あなた方の人選も素晴らしかった。さすがにそちらの工作員では怪しまれると思いましたが、まさか日本人部隊、第四四二連隊から引き抜いた人材とは。さすがは、あの『キャノン機関』創設者だ」

「ええ、彼は優秀でした。作戦を遂行するために、上手く立ち回ってくれました。手を変え品を変え、時には敵対者さえ利用しながら……。今回の成功は、彼の手腕によるところが大きいでしょう」

「そして、もう一つ。平行して行った作戦も覚えていらっしゃいますか。そうです、革命運動の過去を持つ人間の行動監視です。明らかになったのは、やはり運動歴は危険因子になるということ。『過去の残響は決して絶てない』、あなたの言ったとおりでした」

「こちらも、この貴重な結果を活用するつもりです。うちとしては、むしろこっちのほうが本題なのでね。これからは、そうした過去のある人間をも監視対象に入れて活動しなければなりませんな」

「ええ、それは問題ありません。指導者は死亡、監視対象も精神病院の中です。狂人の陰謀論など、誰が信用するでしょう。この作戦が明るみに出ることはありません。私かあなた、どちらかが吐かない限りはね」

「……おお。いえ、先ほどから窓辺の机で話していたのですがね。こうして話しているうちに、にわかに陽が差してきたのですよ。ずっと曇り続きでしたからね、つい声に出してしまいました。そちらはいかがでしょう。
……おや、そうですか。そちらも同じ、と。それは良かった。実にめでたいことです。功労者の凱旋にはちょうどいい」

「では、彼が帰国したときによろしくお伝えください。最大の功労者はイトウ中尉――彼本人なのだと」

「勝利は我々西側陣営の手に。それでは失礼します、ジャック・キャノン中佐」











 机の上に置かれたタイプライター。今日まで、何度も何度もその鍵盤に触れてきた。だが、それもこれまでのようだ。
 今日書いたのが、最後のページだ。その続きを男が書くことは決してない。それから先の記憶は、すべてこのサナトリウムのものなのだから。
 男の傍らに積み上げられた、紙の束。これまで書き連ねてきた記憶の数々だ。その一番上は、白紙になっている。誰も見ない、誰に見せるでもないのに、一丁前に題名をつけるつもりだったのだろうか。結局ここに至るまで、名前を付けていなかった。

 どんなものがふさわしいだろう――ふと、彼は外を見やった。
 そこに広がっていたのは、鉄色に沈んだ波立つ海。岸に沿って並ぶ木々は葉を落とし、枝幹が骸骨のように残っているのみだ。空は曇天に閉ざされ、太陽はその姿を隠している。男が過去と対峙している間にも時は進み、景色は変わろうとしていたのである。
 分厚い雲間からおぼろげに漏れ出す、一筋の陽光。それに向かって、彼は手を伸ばした。しかし、冷たい鉄格子が行く手を阻む。指は光には届かず、ただ空を切るのみだ。

 そうか、すべて同じだったのだ――ここも外も、何もかも。
 あの学生たちも、そして自分も。誰もが、必死になって何かを掴もうとしていた。自らが思い描く世界、理想の日々。そのすべてを、愚かしくもひたすらに望んでいた。
 しかし、それはただの蜃気楼(しんきろう)に過ぎなかった。長くはかない白昼夢からさめた後には、厳然なる現実がそびえ立っているだけだった。
 皆、決して届くことのない光を追い求めていたのだ。

 男は振り向き、インク壺を掴み取る。そして、表紙の上に中身をぶちまけた。
 黒く汚く侵されていく、無垢なる白。
 これで、いいのだ。この物語、この虚構の日々にはこれで十分だ。
 すべてが黒く染まりきったとき、彼はそうこぼした。


 男はベッドに腰掛け、以前と同じく窓の外を眺めている。
 淀んだ瞳に映り込む、無感情な灰色の空。そこには暗雲がひしめき、見るものすべてを薄暗く包み込む。
 翳ろう空に、光はない。わずかな明かりも、今やどこかへ消え失せた。
 もはや、時は過ぎた。あの熱に浮かされた季節は、とうに終焉を迎えたのだ。

 夏は終わった。

 冬が来る。

翳ろう空/ 霧 作

翳ろう空/ 霧 作

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-03

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