ネオ・テセウス/ 荒波 作

授業の終わりを知らせるチャイムが講義室に流れると、真っ先に大沢(おおさわ)が立ち上がった。
 僕もそれに続いた。周りの学生が騒がしくなる前に、この空間から離れたかった。いかに部屋の移動を簡単にすませるか。ほとんどの学生が気にも留めないようなことについて、僕は入学してこの方、ひどく悩まされてきた。それもこれも、ほとんど動かすことのできない、重い左足のせいだった。
大沢は僕に合わせて、ゆっくりとドアの方へ歩いていく。毎度彼の配慮に感謝せずにはいられなかった。最後まで取り残されたときの惨めさといったら、とても言語化はできないのだ。
 高速エレベーターに乗り込むと、彼はようやく口を開いた。
「実験のレポート、来週の月曜までだってさ。データ送っといた。あの教授結構うるさいから、考察は適当に変えといた方がいいかもしれない」
「ありがとう」
「あいつ、無駄に学生に辛く当たるよな。噂で聞いたけど、子供がちょうど反抗期らしいぜ」
 僕は少し笑った。途端に、唇の周りの腫れた皮膚が引きつった。針で皮膚を引っかいたような鋭い痛みが走る。その部分に指先を当てて、撫で回したいという衝動を、抑えなければならなかった。
大沢は異変に気付かなかったようだ。流行りのエレクトリック・ミュージックを口ずさみながら、僕の少し前を歩いていく。その姿を見て安堵した。これ以上彼にむやみな心配をかけるわけにはいかない。
彼は爽やかで気配り上手で、その上成績優秀だ。五千人いる同級生の中で主席を取るような、人一倍頭が切れる人物である。にもかかわらず、入学時のオリエンテーションで知り合ってからというもの、何かと用事を見つけては、こちらに近寄ってくるのだった。なぜ自分のような人間と親交を持とうとするのか。一度だけ、その疑問を口にしたことがある。彼は不機嫌そうに「仲良くするのに理由がいるかよ、水臭い」と言った。それ以降、僕らは一緒に過ごすようになった。
一体彼は僕のどこに興味を示しているのか? その疑問は相変わらず心の奥に存在していた。あるいは彼は「僕」という存在そのもの、無様な見てくれを超越した、可視化できない一部分に共感を示したのではなかろうか。それはたいてい「心」や「性格」などという安直な名前で呼ばれているが、残念ながら僕自身ですら明確に認識することはできない。
ともかく確実なことがひとつ。大沢を除くたいていの同級生は、僕の腫れた顔や潰れかかった目、不格好な左足を嫌っていた。いや、憎んでいたといってもいいかもしれない。向けられる視線は冷たく、排他的で、ときには明確な拒絶の意志を示していた。
正直な悪意を受け入れられなかった僕は、周りの嫌な視線を避けるためにあらゆる努力をした。外出するときは、肌に密着する長袖シャツと手袋を身に着けた。特殊樹脂製のマスクも欠かせない。外気の刺激から皮膚を守るために必要なのだ。このマスクはかなり大きかったから、顔面の露出を減らすのにも役立った。僕の醜い顔のほとんどは、質の悪い人工皮膚で覆われていた。資産を持たざる者に施される最低限の治療。それはやがて積極的に僕を滅ぼしにかかる。命のバトンを繋いでくれたドナーに感謝する一方で、延々と続く生き地獄への絶望は増していくばかりだった。
「うわ、今日いい天気だな。こんなん久しぶりだ」
 大沢の声に立ち止まると、ガラスから差し込んでくる陽の光が、廊下を明るく照らしていた。
「ずっと雨だったからね」
「せっかくだし、ちょっと寄り道しよう」
大沢は慣れた動きで手のひらをドアへかざした。音もなく開いたドアの向こうへ視線を向ける。彼の言う通り、重厚な建物の外には気持ちよい風が吹いていた。僕は周りに人がいないことを確認して、保護マスクと眼鏡を慎重に取り外した。
皮膚に冷たい空気が当たる。
その瞬間だけ、普通の人間と同じように、良い天気を楽しむことができた。新鮮な空気を思いきり吸い込み、吐いた。
存分に風を浴びた後、僕たちはまた少し歩き、いつもの場所で別れた。それからは一人だった。
道中ずっと頬がむず痒く、何度も掻きむしりたい衝動に駆られた。だがそうするわけにはいかなかった。消毒液と保湿スプレー以外のいかなる処置も、痒みと化膿を悪化させるだけだからだ。人工皮膚は、八年の時を経て腐敗しつつあった。それは同時に僕の死を予感させた。僕には再手術をするだけのお金がなかったのだ。
痒みから気を逸らすため、火事から救出された日のことを思い出す。それはいつもの癖だった。身体中を包み込むガスのことを思い出すと、今の自分の状況も少しはましに感じられる。もちろん惨めであることに変わりはないのだけれど。良かったね、生きているだけで偉いよ……そう言って肩を叩いてくれた消防官は、一体何をしているのだろうか。
あのとき思いきり吸い込んだ不味い空気によって、声帯が壊れた。旧式の人工声帯はくぐもった音しか発することができない。涙腺は熱気によって機能の大部分が失われた。僕は人並みに泣くことすら許されなかった。
八年前の炎は、僕を未だに内面から炙り続けている。
涙が不格好に滲み、つられて鼻の粘膜が痛んだ。僕は自分をごまかすために、大沢の真似をして鼻歌を歌った。そして家へ向かって歩き続けた。
ここまでは、普段と何も変わらない、平凡な一日であった。
異変を感じたのは、マンションの姿が見えたころである。
 小さな入り口の前に、誰かが立っていた。何だか嫌な予感がした。こういう来客で、いい目にあった試しがない。学校の関係者だろうか、それとも負債の取り立てだろうか。後者だったら面倒だ。というのも、僕には何もないからだった。あの忌まわしい火事のせいで、すぐに自己破産へと追い込まれた。手元に戻ってきたのは、僅かな貯蓄とワンルームマンションだけだ。助けてくれる人はただの一人もいなかった。
 僕が生まれる少し前まで、こんな世の中ではなかったらしい。子供は可愛がられ、老人は尊敬され、皆が皆を支え合っていた。今の時代は違う。人工胎盤の開発により、妊娠から出生までのプロセスが完全に自動化されたこと、そして特殊ホルモンが普及したことにより、人口は爆発的増加の一途をたどっている。人権という言葉は死語と化し、政府は弱者の冷遇にご執心だ。その末端の末端に僕は辛うじてしがみついていた。
 虚しさをごまかすつもりで、何度かまばたきをしてみる。相変わらず謎の客は入り口を塞いでいた。僕は振り返り、来た道を戻ろうとした。本能に近い感覚が、その客に対する警告を発していた。
影はそんな心情を見透かすかのように僕の方へ近づいてきた。
「無視なんてひどいじゃないか」
上背の高い男はからかうような口調で言った。
 彼の右胸には稲妻型のバッジが光っている。それは男が高等研究院――この国で最も権威のある研究機関――に所属していることを示していた。一体、何が目的なのだろう。
男は歯を見せて笑った。まるで僕の心を読み取ったかのように。そして、僕が反応するまもなく、思いもよらぬことを口にしたのだった。
「君。身体をリフォームしたくないかい?」
「誰ですか、あなた」僕はそう吐き捨てた。
 彼は胸ポケットから名札を取り出した。『高等研究院第二十九部主任 高尾(たかお)』と印字されていた。僕はますます不安になった。第二十九部は高等研究院の中でも特に機密扱いされている部署だ。その正体を知る人はほとんどいない。研究内容の公表が行われないことから、実在するかどうか定かでなく、都市伝説の題材として扱われることもあった。
「色々調べさせてもらってさ。うん、本当に同情するよ。八年前の火災事故に巻き込まれて全身を損傷、左足の麻痺と視覚障害が残る。両親は死亡、破産申請済。僅かな補助金と奨学金で糊口をしのぐ生活だ。友人はほぼゼロ。人工皮膚は近く壊死するが再手術する金はない。人生どん底じゃない、永井(ながい)(たくみ)君」
「プライバシーも何もあったもんじゃありませんね」
「高等研究院は、有用な研究のためならあらゆる情報を得る権利がある。君には我々の助けが必要だし、我々は君の協力を欲している」
「具体的に説明してください」
「もちろん。さ、これを見てくれ」
高尾は手に持ったタブレットをこちらに示した。画面には細い管や塊状のぶよぶよしたものが映っていた。骨のような形をした棒が、数本横たえられている。
「要するに、君の身体の損傷部分をすげ替えるんだ。第29部では十年前から生体樹脂の研究を行っていた。分かりやすく言うのであれば、人の細胞を用いずに身体を造る研究だね。倫理的な障害を克服することに成功したんだよ。つい先日、動物実験が全行程問題なく終了した。我々は次の段階へ移る必要がある」
「僕に実験体になれと?」
「まあそう言うな。生体樹脂は君の思っているよりずっと強靭だ。老化しないし、代謝機能はかなりの精度で再現されている。もちろん、膿も出ない。君は痒みを我慢する必要がなくなる。そのしゃがれた声とも永遠のお別れだよ」
 僕の心に迷いが生じた。高尾の話が本当ならば、このようなチャンスは二度と巡ってこない。高等研究院の幹部がわざわざここまで冗談を言いに来たとも考えにくい。無論、とんでもないギャンブルであることは分かっていた。失敗すれば恐らく命が失われるだろう。ただ、このような奇跡への片道切符が、今後僕に巡ってくることなどあるのだろうか? 僅かな成功の可能性があるなら、一歩踏み出すべきではないのか。
 僕は大沢の顔を思い浮かべた。彼はどのような態度を取るだろうか。新しい僕を見て、きっと喜んでくれるに違いない。大沢の幸せはそのまま僕の幸せでもある。彼が心から笑う姿が見たい。哀れみの笑いでも同情の笑いでもなく、破顔するところを見てみたい。
僕は息を吸い込んで、彼の隣に座る新しい自分、何気ない生活を楽しむ普通の大学生である自分を想像した。このままでは一生得ることのままならない、素敵な生活を想像した。
「分かりました。協力します」

 高等研究院は今まで行ったどの医療施設より清潔だった。僕は仰向けになったまま、この後自分がどうなるのか考えてみた。緊張と、僅かな恐怖心があった。
 高尾は分厚いアルバムを熱心に読んでいた。時折僕にページを示し、意見を求めることもあった。一面にたくさんの人間の顔が載っている。顔面形成術のサンプル・モデルだ。
「鼻はこれなんてどうだろう」
「いいですね」
「目の色だって変えられるよ。何か希望は?」
「今のままで大丈夫です」
「君、昔の写真を持ってないかい? もしあるなら参考にするけど」
「ほとんど燃えて灰の中です。いいですよ、どうせならまるきり別人になりたいです」
 高尾は僕の方をじっと見た。
「本当に、いいのかい? 君はもう少し自分のことを大事にした方が良いと思うが」
「いいんです、手術が待ち遠しいくらいです」僕は言い終えてからあわてて付け加えた。「不細工はやめてくださいね」
「もちろんさ」
高尾が声を立てて笑った。僕は少し目を閉じた。火事が起こってから、過去の写真を意図的に見ないようにしていた。昔の自分がどんな顔だったか、ほとんど思い出せなかった。僕という人間は、炎に炙られる前と後とで、救いようのないくらい変質してしまったのだ。
 しばらくして、看護師が部屋に入ってきた。怯えた表情を浮かべている。今から行われる手術の内容を知っているからに違いない。彼女は準備が整ったことを高尾に伝えた。
「匠君、本当にありがとう。君のおかげで多くの人が救われることになるだろう。自分の過去と、醜い見た目とは、永遠のお別れだ」
 僕は皮膚が引きつらないように、ほんの少し微笑んだ。看護師がチクリと針を刺した。強い眠気が僕を襲った。
 次に目覚めたとき、最初に目に入ったのは、高尾のやつれた顔だった。
彼は僕が目を開けた途端、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。余計に隈が目立った。今までで一番穏やかな笑顔だ。僕は自分の左手の皺を凝視してから、窓の外に視線を移した。頭がひどく痛んだけれど、そんなことがどうでも良くなるくらい、周りの景色は美しかった。信じられない程鮮やかに見えた。光がまぶしすぎるからだろうか、目の奥がチリチリと痛んだ。
「四日と十三時間眠っていたんだ。もう起きないんじゃないかと心配したよ……」
「不思議な気分です」
喋った後、反射的に喉に手を伸ばしていた。深みのある穏やかな声だった。自分のものとは思えない。
「目と声帯の調子は良さそうだ。顔を見てごらん」
 高尾が手鏡をこちらに渡した。向こう側には、精悍な顔つきをした青年がいた。澄んだ茶色の瞳がこちらを凝視している。透き通った肌、高く伸びた鼻筋。火傷痕を連想させるものは、もう何も残っていなかった。
「信じられないだろう?」と高尾が言った。「整形ついでに、君の脳をスキャンさせてもらってね。内なる理想をできるだけ忠実に再現したつもりだ」
 部屋の隅で記録を取っている看護師が、小さな声で高尾に囁いた。
「早速で悪いが、記者会見をしなければならない。第29部が税金泥棒となじられることは、金輪際なくなるだろう。永井君、準備ができたら教えてくれ。起き上がるのが厳しいなら車いすを用意するけど」
「大丈夫だと思います」
僕は立ち上がった。左足が信じられないくらい軽くなっていた。
そう、この日を境に、惨めで不幸せな人生から解放されたのだった。
全世界中継で行われた成果発表会見は、相当な反響を呼んだらしい。過去の醜い姿と不憫な境遇は、同情を誘った。何百というメディアがこぞってフラッシュを焚いた。僕は何だかこそばゆかった。
 第二十九部主導の生体樹脂開発事業には「テセウス・プロジェクト」という名前が付いていた。テセウスとは、ギリシャ神話で活躍した半神半人の英雄のことらしい。始めは名前の仰々しさに苦笑いしていた人たちも、徐々にその態度を変えていった。拒否反応を伴わない人工器官は、あらゆる身体障害を解決する可能性を持つ。これは忌まわしき臓器売買の根絶へ向けた、大きな前進でもあった。
僕は様々な会見をこなしいくつかのCMに出演した。入れ代わり立ち代わりやってくるインタビュアーは、僕の一言一言を熱心にメモしていた。
数日も経つと、僕のことをひどい目つきで見る人間は一人もいなくなった。僕はその事実に不満を覚えた。誰も僕の本質を、心の形を見ていなかったのだ。見てくれだけで人を判断する奴のどれほど多いことか。僕は、出来損ないの永井匠は、相変わらずここに存在するというのに。痛む頭をそっと撫でると、パーマのかかった髪の毛の手触りが愛おしく感じられた。

 高等研究院に来てから一週間が経った。今日から大学へ戻ることになっていた。新しい身体に完全に適応したと判断されたのだ。もちろん経過観察は続く。研究院の職員から渡されたシール状のスキャナーを貼り、種々の誓約書にサインした。
「君の身体は何よりも大事にしなければならないよ。下品な話だが、近々この技術を海外諸国の富裕層へ売りだすつもりなんだ。生き証人がいないと困る」
高尾は退院の際、何度もこう繰り返した。僕は適当に頷いておいた。この無味乾燥な建物から、できるだけ早く出ていきたかったのだ。頭が時々痛むことは黙っていた。
彼は退院にあたって、様々な物品を贈ってくれた。それは以前の僕には手の届かないものばかりだった。送り迎えのタクシーに乗っていると、まるで自分が富豪の息子であるような錯覚に陥った。
流行りのファッションに身を包んで、構内の廊下を堂々と歩いた。浮かれていたせいか、何度か躓いたり、人と接触しそうになったりした。大きく開くようになったまぶたに慣れるには、しばらく時間がかかりそうだ。だが、そんなことがどうでも良くなるくらい、非常に愉快な気分だった。僕は普通の人と同じように、二十歳の青春を謳歌する権利を得たのである。
首の後ろあたりをブンブンと飛び回る機械虫は、僕の一挙手一投足をリアルタイムで報じている。シャッターを切る音が、近くから遠くから、絶え間なく聞こえてくる。さながら一流俳優の気分だった。
どこへ行っても人が集まった。彼らは皆判を押したように同種の反応を示した。尊敬、あるいは恐怖。凡庸な感性と波風の立たない言葉遣い。個性の感じられない同級生たちは、投げやりな教育が産み落とした犠牲者たちだ。最初のうちは楽しかったけれど、すぐに相手に飽きてしまった。
 僕は早く大沢に会いたかった。その日に限って、彼の姿を見なかった。周りに聞くと、体調不良が続いているという話だった。僕は迷ったが、放課後の用事を全てキャンセルして見舞いに行こうと決めた。彼はきっと、自分の生まれ変わりを心から祝福してくれるだろう。そう信じていた。
 無限に引き出せる電子貨幣で、新鮮な果物を籠一杯に購入した。彼の家は大学のほど近くにあった。僕は手のひらをセンサーに近づけて、呼び出し発信を行った。そして彼が気付いてくれるのを待った。
 しばらく時間が経ってから、ドアが少しだけ開いた。僕は左足を挟み込んで中に入った。大沢は本当に具合が悪そうだった。髪の毛はボサボサだし、目の周りが腫れている。
「やあ。お見舞い来たんだ」
「見りゃ分かるさ」彼は低い声で言った。
僕は違和感を覚えた。これほど無愛想な彼を見たことがなかったからだ。よほど気分が悪いのだろう。
「悪性感冒でも引っかけたのか」
 大沢は何かを言おうとしたが、すぐ口を閉じた。
「高等研究院、すごかった。お前確かあそこが第一志望だったよな。部門別で建物が分かれてて、このリビングのゆうに百倍の面積がまるごと研究室として……」
「そうかい。すごかったな。手術は口数の多さも調節できるのか」
「そんな言い方ないだろ。ほら、これ……」
「悪いけど食欲はないし、熱で頭がくらくらしてるんだ。もう帰ってくれないか」
「何、僕のことが妬ましい? 引き立て役がいなくなって悲しいのか?」
 余計なことを言ってしまったと気付いたときには、もう遅かった。彼は僕の髪の毛をひっつかんでいた。頭に激痛が走る。
「帰れ」
 大沢は大きく息を吸った。
「俺が永井と一緒に行動してたのは、お前が誰よりも必死に生きてたからだよ。そういうお前を尊敬してたからだ。それが今はただの見世物じゃないか。もう、帰ってくれよ」
 彼は乱暴に手を離して、奥へ引っ込んだ。僕は髪を撫でた。ワックスで固められた人工毛は、自分の体の一部というには、あまりによそよそしかった。
僕は無言でその場を去った。彼のマンションが視界に入らなくなるまで、一度も後ろを振り返らなかった。
無性に腹が立った。大沢にではない。わざと彼を傷つけるような言葉を選んだ自分が憎くなったのだ。僕は鏡を取り出して、自分の顔をじっと見た。整った冷酷な顔が、そのまま自分を見返してきた。大沢の言ったことは正しいのかもしれない。僕はいつからこんな風になってしまったのだろう?
 鏡をしまおうとしたとき、鈍い痛みが胸を襲った。
 僕はその場にうずくまった。誰かの悲鳴が聞こえた。
胸に当てた手を見ると、血がべっとり滲んでいた。次いで、頭部に激痛が走った。事情を呑み込むことができないまま、意識が急に遠のいていった。

 目を覚ますと、高等研究院の天井が広がっていた。
大学でのことや、大沢との喧嘩は、全部夢であるかのように思われた。だが、高尾の姿を見て、それが間違いであると知った。
彼はベッドの隣に座り、今まで見たこともない表情を浮かべていた。怒っているようにも、ほっとしているようにも見えた。
口を開こうとしたとき、心臓付近に激痛が走った。
「何が起きたか覚えているかい」と高尾が言った。
「胸を怪我して……その後は分かりません」
 彼は僕をきっと睨んだ。
「第一次テセウス・プロジェクトに何円かかったか知ってるか? 約五十億円だ。君一人に国民の貴重な税金が注ぎ込まれたわけだ」
 僕はあまりの剣幕に、頷くことしかできなかった。
「なぜそんなに予算が出たか、君なら推測できるだろう。……この国全体が、経済的にも技術的にも停滞しているからだ。第二十九部は資源の乏しいこの国の希望だ。生体樹脂だけではない。あらゆる医療技術の最先端を追い求めてきた。我々はね、この技術から生じる莫大な特許料で、経済を回していかないといけないんだよ。君は、永井匠は、今後我が国が世界での居場所を失わないために、必要不可欠なのだ。逆に言えば、他の国からしたら邪魔な存在ということだ」
「じゃあ、僕は殺されそうになったんですか。僕のことを邪魔だと思っている誰かに」
「そういうことだ」
 高尾はタブレットに一枚の写真を表示した。色のついていない、筋肉の塊のようなものだった。
「君は瀕死状態だった。我々は第二次テセウス・プロジェクトを開始しなければならなかった。予定よりずっと早く。事前に準備をしていなければ、どうなっていたことか」
「これは何ですか?」僕は聞いた。
「人工心臓だ」高尾は苦虫を噛み潰すような顔をしていた。「これひとつで五十億」
 胸のあたりに手を当てた。一定のリズムで振動が伝わってくる。とても人工物とは思えなかった。
「もちろん、完全に動作が保障されているわけではない。ただでさえ人工神経は不安定なのだ。さらに言えば、これから何度か適合手術を受けてもらうことになるだろう。君が予定を急にキャンセルしなければ、このようなことは起こり得なかったのだが……まあ過ぎたことを言っても仕方ないな。幸い実行犯は逮捕された。さる国の諜報員であることが明らかになったところだ。世論は変わらず我々を支持するだろう。すまないが、これからは一人で出歩かないようにしてくれ。外出の際は必ず護衛をつけること。いいね?」
 高尾はため息をついた。僕は何も言い返すことができなかった。涙を堪えるために左手を強く握りしめた。生体樹脂が頑丈なのは本当らしい。痛みは感じたけれど、爪を離しても跡ひとつ残らなかった。
「君を追い詰めたいわけではないんだよ」高尾が声色を変えた。「悩み事があるなら話してみなさい。我々はいわば、運命共同体なのだから」
「身体組成を教えていただけますか」
「生体樹脂、補助ペースメーカー、諸々含めて人工物が七十三パーセントだ」
「高尾さん、このまま手術を続けていけば僕は何になるんでしょうね。果たしてその成れの果ては、人間と言えるんですか」
 高尾がタブレットを机の上に置いた。
「それは誰にも分からない。前例がないからね。ところで、君は確か応用物理学専攻だったか」
「はい」
「ではギリシャ文学について何も知らないんだね」
「ええ、まあ」
「テセウスの船という有名なパラドックスがある。ある日彼は、冒険の旅を終えて、クレタ島から帰還した。アテネの若者と共に、船に乗ってね。人民はこの船を保存しようと試みた。海水の影響で徐々に朽ちていくから、何度も何度も修理をした。しまいには、元々船を構成していた木材はすっかり取り替わってしまったらしい。果たしてこの船はテセウスが乗ったものと言えるのだろうか?」
 僕は黙り込んだ。
「私の考えとしては、言える。間違いない。なぜなら周りの人々がそうであることを望み続けるからだ。元々のいかだ船が朽ち果ててしまったとしても、人々の心にある『英雄テセウスが乗った船』は消えないわけさ」
 高尾は再びタブレットを手に取った。せわしなく画面を操作する様子を見て、何だか申し訳なくなった。
「つまり、君がほぼ改造人間だからといって、大した問題ではない。物事をわざわざ悲観的にとらえる必要などないだろう? 君が永井匠であり続けること、これが私にとっても君にとっても一番重要なことだ。言いたいこと、分かってくれたかい?」
「はい」
 僕は小さな声で答えた。頭がまた痛み始めた。高尾はそんな僕の様子を見て、ようやく笑った。

 それからひと月は高等研究院で過ごした。大学に戻ろうという気持ちはほとんどなくなっていた。わざわざキャンパスへ向かわなくても、希望を出せば、たいていの人と面会ができる。何より、優秀な科学者のレクチャーを受けられる環境は、貴重なものであった。胸に残る大沢へのわだかまりは、徐々に薄れていった。
時間の流れが緩慢になっていくのを感じた。僕は新しい人生を取り戻したのだ。そう自分に言い聞かせるほど、心の中に空いた穴が、広がっていくように思った。僕はその穴に引きずり込まれないよう、ますます勉学に集中した。
ところが、事態は急変した。
 量子力学のシミュレーション実験を見学しているときのことだった。看護師が僕のことを呼びに来たのである。
「永井さん。少しお話ししたいことがあります」
「今忙しいんですけど」
「どうしても、お時間いただけないでしょうか」
しょうがないので、呼ばれるまま個室へ向かった。どうせ数値不良か何かだろう、と思いながら。だが看護師はドアを閉めると、意外な言葉を口にした。
「大沢さんのことですが……」
 頭にひどい痛みが走る。僕は思わず頭皮を掻いた。どれだけ掻いても違和感はおさまらなかった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、たまにこうなるんです。気にしないでください。それより、大沢がどうしたんですか。僕は彼に顔向けする資格なんてないですよ」
「いえ、そうではなくて。個人的に伝えたいことがあるのです」
 僕は眉をひそめた。
「単刀直入におっしゃってください。あの実験はなかなかお目にかかれるものじゃない。早く戻りたいんですが」
「分かりました。ただこれだけは約束してください」
看護師が俯いた。ひどく怯えていることが容易に見て取れた。
「私は永井さんを信用しています。永井さんがお変わりになっていないと信じるからこそ、この話をするのです。どうか、この気持ちを裏切らないでくださいね」
「分かりました」
「大沢さんがつっけんどんな態度をとられたのは、全て高尾主任の指示です」
 僕は耳を疑った。
「一体どうして……?」
「ですから、高尾主任が悪いのです。大沢さんは、何よりあなたのことを思っておられたので、自分から友達という身分を放棄しました。手術前後にお見舞いに来られなかったのも、高尾主任が止めたからです」
「どうしてそんなことをする必要があるんですか」
「高尾主任は、大沢さんがあなたの弱点になるだろうと思ってらっしゃったようです。つまり、何者かが彼に危害を加えた場合、あなたが正常な判断をし損ねるだろう、と」
 僕は大沢と別れたときのことを思い出した。僅かな違和感は、看護師の話と合わせると辻褄が合った。
謝らなければならない。今すぐに。
「僕が出ていったら、あなたはきっと処罰されるでしょうね」
「それは構いません。前々から別の就職先を探していましたから。それに、永井さんはこれ以上ここにいるべきではありません。通用口に車を用意してあります。少し抜け出しても、ばれないはずです」
「ありがとう」
 僕は全速力で通用口へ向かった。そして型落ちの傷病者用自動車に乗り込み、エンジンをかけた。アクセル全開で優先道路を突っ走った。できるだけ早く、大沢に会いたかった。
 頭の痛みはますますひどくなっていた。僕はふと、火事に巻き込まれた日のことを思い出した。大沢と初めて喋った日のことも。様々な場面がぎこちなく眼前に展開される。手術を受けてから、本当に大切なものを見失いかけていたのかもしれない。
 残念なことに、運転操作を行っている間、もう一つ大切なことを忘れていた。
僕は長い間、ほとんど動かないまぶたの下から世界を眺めてきた。視野が広がってからも、全体の一部分にしか気を配らない癖があったのだ。そういうわけで、視界の左側に赤い車が見えたときには、全てが手遅れだった。
 一瞬、身体中に衝撃が走る。

 病室の中に、白衣を着た男が二人。どちらもよく似た姿をしており、ほとんど判別がつかない。
片方がちらりとベッドを見て、ため息をついた。
「俺らこれからどうなるんだろうな。監督不行き届きで懲戒免職かもしれないぜ。よりにもよって交通事故とは」
「そうかな? むしろ高尾主任は喜ぶと思うけど。前の狙撃事件のときみたいに」
「あれは傑作だったなあ」
「目撃者の記憶を修正するだけで一苦労だったんだ。一本一本シナプスを遮断するのがどれだけ大変か……第十六部の同期が嘆いてたよ」
「頭蓋骨から人工脳が垂れる記憶なぞ、消してもらった方がいいに決まってる」
「違いないな。しかし、二度とあんなことが起こらないように注意せねばならない。五十億と第二十九部の信用が吹っ飛びかけたんだ」
「記憶のバックアップを取っておいて正解だったな。あれだけ再現性が担保されるなら、もっとも、第二十九部に信用なんて残っているのかどうか。たかが生体樹脂の開発に何十億もかかるわけがないんだって、どうして気付かないのかな」
 二人はくすくす笑った。
「まさか、脳幹まですっかりやられちまうとは。お手柔らかにって感じだよ。人工物に置き換えてなければ、即死だったはずだ」
「しかしかわいそうだなあ」
「何が?」
「永井だっけ、この子。最初の手術で脳がすっかり取り替えられてたって、気付いてたのかな」
「そんなわけないさ。自覚症状は報告されていなかったわけだし。仮に気付いたとしても、どうしようもないだろう。もとより彼は死ぬはずだったんだ、皮膚の壊死によってね。さ、そろそろオペを始めよう」
 男がメスを手に取った。
「残っていたオリジナル部分は、完全に摘出されることになるのか」
「構わないね、今回置き換える部分は単純な筋組織だけだろ。それに、オリジナルが中途半端に残っている方が問題だ。過剰免疫応答のリスクが高まるだけなのだから」
「大沢君、悲しむだろうな」
「そろそろ作業に戻ろう。万が一目を付けられたら、大変なことになるぞ」
「すまない」
「彼が全身サイボーグになろうが、ゴム人形になろうが、どうでもいい話なんだ。俺たちにとっちゃ。彼にはもう少し、向こう二十年くらいは役目を果たしてもらわなければ。我々はもう一度脚光を浴びるだろうよ。『完全な自我の引継ぎに成功』と一面大見出しさ。事実上の不死。金持ちはこぞって喜ぶだろうな。彼には同情するけど、仕方ない。今更どうしようもないのだから。テセウスの船は、何度修理されても、たとえ元の材料がなくなっても、『テセウスの乗った船』というアイデンティティは失わなかったわけだ。彼もまた同じ。我々が望む限り、永井匠は生き続けるのさ……」

ネオ・テセウス/ 荒波 作

ネオ・テセウス/ 荒波 作

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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