輪郭は青

 夕方の河川敷は豪雨で、間に合わせの安い自転車が悲鳴をあげる。三年ほど前に買ったその自転車は、所々錆び付いてぎしぎし言う。
 激しさに飲み込まれていく。青々としているはずの草木が、薄雲った雨のフィルターでかすんでいる。雨粒が視界を奪い、水を吸ったTシャツが重苦しい。それは皮膚に張り付いて、感覚を奪う。天気にかんする一切を諦めた僕は、時々立ち止まってわざと雨に身を任せてみたりして、濡れることをおもしろく思いはじめていた。
 川沿いのアパートの、二〇五号室が今の僕の帰る場所で、隣の部屋は空き部屋のはずだった。その部屋のベランダに、揺れる何かがぶら下がっている。ひとつではない。ベランダ中びっしりとぶら下がって揺れるそれらは様々な色でそこにあった。
 いつもは駐輪場に止める自転車を、アパートの目の前につける。二階の部屋を見上げてみると、大量の風鈴が、ただ揺れていた。二十、いや、三十。薄暗い雨の気配の中で、居心地悪そうに揺れていた。雨の日と風鈴、なんだかどこかで見たことがあるような気がした。昔みた映画だろうか。部屋の窓からはカーテンだけが見えた。
 階段を上がり、部屋の前に来ると、ドアノブにビニール袋がぶら下がっている。それを取り上げて、鍵をさす。濡れた手が、金属の上を滑った。ドアを開けて、ただいま、と言う。足元に、全身びしょ濡れの僕から伝う水滴が床へ、水のあとを作っていた。コンクリートの床をじわりと濡らしていく様子を眺める。しばらく立ち尽くしていた。ごうごうと降り続ける雨音の中で、ちりちりと風鈴が鳴っていた。ふと思い出して、ビニール袋を広げてみると、引越しの挨拶らしいタオル。丁寧に熨斗までついている。名前はなかった。それを取り出して髪を拭き、Tシャツを脱いでから靴を脱いだ。
 部屋に入るとすぐに目に入る大きな絵は、いつ見ても殺風景な部屋に不釣り合いだと思っていた。ほとんど倒れるようにベッドに寝転んで、その絵を見た。背景は濃い黄色で、真ん中より少し左で、長い髪がうっとおしそうな女性は伏し目がちに微笑んでいる。クリーム色のノースリーブの服から伸びる白い腕。顔の白い肌は病的で、締め切った暗い部屋で、不気味に浮いている。ちっとも幸せを感じない、貼り付けたような微笑み。ありがちな構図だったが、父の遺品だった。
 僕が絵を描き始めたのは父の影響で、それを辞めたのも、父の影響だった。彼は売れない画家だった。この絵のモデルは、僕の母だと聞いていた。
 母のことは、この絵でしか知らない。白いキャンバスに塗り重ねられた作り物の母親、彼女の視線は、いつまでも伏したままで、僕の視線と絡まることはない。
 雨は相変わらず強く、屋根を刺す音がこの部屋のあらゆるを行き来する。たまに混じる風鈴の音は、黒い絵具のようだった。少しの主張でも、確かにそこにあるように。
 ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。あんなに感じていた初夏の気配は、今日はどこか弱々しい。雨は好きでも、嫌いでもなかった。雨のことを考えていたら、昨日見ていた映画が途中だったことを思い出した。雨の中で、少女同士が触れるだけのキスを交わす。たまたま目に入ったその場面が印象的だった。
 僕はよく映画を見るけれど、中身はなんでもよかった。俳優や監督は詳しくないし、あまり興味もなかった。今までに観た映画の、タイトルと内容も一致していない。僕はたぶん、この狭いアパートの一室で、映画が流れているという事実に酔うのが好きなのだ。見ている、というよりは聞いていると言った方が正しいのかもしれない。物語が、台詞と音楽にまかせて進んでいく、その様子を聞いているのが好きだった。テレビのスイッチを入れ、ニュースを映す。貰い物のタオルでがしがしと髪を拭いた。濡れたシャツと貰い物のタオルを洗濯機に放り込み、洗剤と柔軟剤をきっちり量って、スタート。ボタンは一回でいい。冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して、一気に飲み干す。シンクには、二日ぶんの洗い物があったけれど、今日は疲れてしまった。雨のせいなのか、さっき別れた彼女のせいなのかは、わからないでいた。
 生命線がない男は駄目だ、というのが彼女の言い分で、よくわからないまま僕は失恋をした。生命線、というのが手相の線らしい、というのはわかったが、それが何を示すのかまでは見当がつかなかった。
 体つきのやや華奢な、どこにでもいるような女性だった。たくさんの人間がいる中で、彼女を選んだ理由は僕にもわからなかったが、選んだ、という表現はすこし違うような気がしていた。ぶつかった、の方がしっくりくる。それはある意味では特別なことなのかもしれない。人にぶつかる、という運命の事故みたいな出来事から、淡々と続いた半年間を、今日、失った。悲しくはなく、ただ残念だと思っていた。
 占いが好きな女性だった。スピリチュアルっぽいことに傾倒し、日に一度は自身を見守ってくれているのだという天使”様”の話をする。腕にはいくつもの石の連なる輪っかをつけていた。恋愛。人間関係。お金や地位。仕事。健康。それぞれに意味があって、それをつけていると運気が上がるのだそうだ。それが本当なのかは大した問題ではなくて、何かにすがることが目的だったのだと、僕はちゃんと知っていた。
 生命線がなんなのかを調べようと、パソコンに手を伸ばしかけると、左腕につけていた、彼女にもらったブレスレットが目に入る。彼女の自作だと言っていた。淡い水色に繊細な白い模様。石の名前は忘れてしまった。友達の少ないあなたにぴったりの石だ、とも言われた。僕はそれを丁寧に外して、ごみ箱に落とす。明日が燃えるごみの日だったことを思い出してよかった。ところで石は燃えるごみでいいのだろうか。
 テレビの独白は、明日晴れることを伝えていた。

 朝五時の電話はイチからだった。西瓜を食べに来ないか、という誘いは、魅力的だったので、行く、と答えた。
 Tシャツにジーンズ。首にはいつものカメラを、適当なレンズを選んでぶら下げる。
 自転車で十分足らずのイチの部屋は、僕のアパートと同じくらいのボロだった。壁側にはいくつもの書きかけのキャンバスが粗雑に立てかけてある。全体的に青みがかった、涼やかな印象のその絵たち。そこら中に使いかけの絵具や、本やペットボトルのゴミが散らばったその部屋で、それらの絵は周囲を明るく照らすほどに生々しく、自分の持つ魅力を発揮している。
 イチはいつも、青を基調とした絵を描いていた。理由は前に聞いたような気もするが、詳しくは覚えていない。透明を重ねると、青になる。そう話していたことだけは、印象に残っていた。そのせいだろうか、彼の顔を思い出す時、僕はいつも青を感じていた。
 イチの実家から送られてきたのだという、その西瓜は、旬よりいくらか早い割には大きなものだった。部屋の真ん中にある、小さめのテーブルの上の、いっぱいになったまま詰め込まれている灰皿だったりの、細々としたものを床に避け、絵具のついた新聞紙を敷き、その上に西瓜を置いた。イチは躊躇いもなく包丁を入れる。不恰好に、切り分ける。僕が塩はないのか、と聞くと、イスラエルの塩だ、と言いながら持ってきてくれた。
「イスラエルの塩? 」
「そう、イスラエルの塩」
そう言って、タッパーに入った塩を、切り分けられた西瓜のそばに置く。
「イスラエルで作ったってこと?」
「母親が西瓜といっしょに送ってきたんだ」
イスラエルの塩は粒が大きくて、スイカと塩の食感が、喧嘩をしながら口の中で音を立てていた。
 まだ朝。鳴き始めた蝉は、昨夜の天気予報を肯定するように、今日は暑くなると言っている。
 イチは立ち上がり、カーテンを開ける。わざとだとわかるほどに、大袈裟な音を立てた。それから、窓を開ける。蝉の声がよく聞こえて、部屋に差し込んだ光がまるで真夏のようだった。
「昨日、別れたんだ。彼女と。半年しか持たなかった」
言い終えた僕はまた、西瓜と塩をしゃりしゃり言わせた。
西瓜はきんと冷えていたが、あまり甘くなかった。
「へえ、今どんな気持ちなの」
塩をつまんで、西瓜にぱらぱらとしながらイチが訊く。
「清々してる」
そう言って西瓜をかじったとき、舌のはじを噛んでしまった。
「なら良かった」
舌は塩でひりひりしていた。
 朝が加速していく。昨日の雨が夢だったみたいに、日の光は清潔でまぶしい。部屋のちりがきらきらしている。開け放した窓からは、清潔さを孕んだ風が吹く。
「嘘みたいだけどさ、」
イチはおもむろに、扇風機の電源を入れた。回転の音が、夏の気配を加速させる。
「おれも別れたんだ、昨日」
イチが言った。大した出来事ではないような口ぶりだった。
「で、イチはどんな気持ちなの」
「清々してる」
「そうか」
それからは、黙々と西瓜を食べた。水分が体にじんわりとなじむ感覚が心地よかった。大きな西瓜は、気がつけば皮と種だけになった。
「失恋したなら、海に行かなくちゃいけない」
イチが言う。僕は最後の西瓜の種を、舌の先っぽにのせて、それを指先でつまんでいた。
 海は自転車で行ける距離にあるのだけれど、そういえばこちらに引っ越してきてから一度も行ったことがない。海に行く理由はたくさんあるけれど、失恋を理由に海に行くなんて、とても格好悪くて、それでも自分に酔うには最高の行動のように思えて、すこしにやけてしまう。
「行こう」
僕の声は、興奮ですこし上ずった。
 タオルだけを持ち、自転車を走らせた。相変わらず僕の自転車は、がしがしと錆びついた音を鳴らしている。昨日の雨のせいだろうか、道路には草木があちらこちらに散り、道路は茶色く汚れていた。蝉は鳴く。何匹も、一斉に鳴く。空は潔癖症がペンキを塗ったみたいに青くて、白い雲の輪郭が、自意識過剰に主張していた。
 じりり、と太陽の熱が、確実に、当たり前に僕らに注ぐ。まとわりつく汗が気持ち悪かったのだけど、やがて海が見えてくると、そんなことはどうでもよくなっていた。

 ”本日遊泳禁止”
 ”NO SWIMMING”

 看板を一瞥し、ぐるりと見渡すと、砂浜には僕とイチだけだった。朝と海の音がする。砂浜は柔らかく足を包み、さわやかにそこにあった。海に似合う、正しい速度のぬるい風。地平線が近い。海の青と空の青は、全くの別物だなと思った。裸足になる。履いていたジーンズを、膝まで上げる。二人で、示し合わせたように同じ格好になった。足を海水に浸し、僕は、近づいては逃げていく波を目で追った。
「泳いじゃだめなんだって」
「叫びに来たんだよ」
イチが言った。
「そっか」
砂を足ですくいながら訊いた。
「なんて言う? 」
イチは、いちど、深呼吸をした。
「何も無いな」
そう言って健やかに笑った彼が、青く透明に見えた。
「イチも結構引きずってるでしょ」
「さあね」
夏が襲う。気づけば夏の最中にいた僕は、やがてくる秋の気配に早くも少し怯えた。
叫ばないとすると、泳げないので特にやることもなくなってしまった。
「酒、買ってくればよかった」
海から出て、イチは煙草に火をつけると、大げさに見えるほど深く息を吐いた。普段は吸わない僕も、一本、こちらに向けられると断る理由もなく、イチに導かれるままに、火をもらう。咽せながら、吸って吐いてを繰り返した。
「煙草ってさ、毒みたいなもんだろ」
「そうだね」
「ため息をつきたいときに煙草吸うんだ、俺。酸素を煙に変えてさ、ゆっくり自殺してるみたいだなって、いつも思うんだよ」
それをきいて、僕は慎重に、丁寧に煙草を吸う。それから、ため息をつくみたいに深く息をはいた。煙は喉に詰まって、また咽せた。
「だせえな、僕」
「かっこ悪いよ、俺ら」
遊泳禁止の看板を横目に、二人で、ただ海を眺めていた。
 一瞬のうちに終わってしまうのだろうなと思った。夏がうっとおしくなると、夏は終わってしまう。少しの名残惜しさを感じる頃には、いつだってもう遅い。

 昼過ぎにイチと別れ、アパートに帰った。隣人のベランダに吊るされた、たくさんの風鈴は、遠目からでもきらきら光っているのがわかった。晴れた日に見る大量の風鈴。よく見てみると、美しい。黄。赤。紫。緑。橙。透明なガラスに閉じ込められた色が、風の吹くたびに揺れて鳴る。見上げながら、何かを考えることもなく、ただそこに立ち尽くしていた。
 ふと、焦点を現実に戻すと、ベランダに立った女性がこちらを見ていた。目が合った気がする。僕が会釈をすると、彼女は手を振った。ノースリーブのワンピースから伸びているのは、あざだらけの白い腕だった。長く黒い髪を、健やかそうになびかせていた。
「タオルありがとうございました」
「どういたしまして」
それだけ言うと、女性は部屋に入っていった。
 僕も部屋に入ろうと軋む外階段を登り切ると、玄関のドアを開けた先ほどの女性が、こちらを覗いていた。
「隣に引っ越してきました、岸本です」
そういって微笑んだ顔に見覚えがあった。父の描いた母に、どことなく似ていて、少しだけ鳥肌がたったのだ。よく見ると、似ているのは、クリーム色のノースリーブと、長い髪の毛だけだった。ドアを支える腕は細く、あざだらけなのは見間違いではなかった。
「よろしくお願いします」
僕がそう言うと、女性はなんのしがらみもなさそうに笑った。
「ところで、うちでお茶でもどうですか、麦茶だけど」
彼女は絵の母親とは違い、屈託なく、健やかに笑っていた。言葉に詰まり、えーと、と、言葉を前に置く。
「どうしてですか」
僕がやっとそういうと、女性は歌うように言葉を続けた。
「昼間に一人だと気が滅入りそうなの、付き合って」
拒否など聞かぬとでもいうように、女性は僕に近づき、腕を引く。夜の客引きにでも捕まってしまったように、考える隙もなく、僕は女性の部屋に招かれてしまった。
 部屋の中はとても片付いていて、無駄なものなどまったく無いように見えた。僕の部屋も殺風景だけれど、この部屋よりは雑然としている。
 アジアを感じる柄のコースターに置かれた麦茶は、冷えていて、日に晒した体に気持ちよく染みていった。コップをコースターの真ん中に置く。視線が落ち着かず、困った末にベランダに逃した。色とりどりの風鈴。それらはくもりなく透きとおって、窓、レースのカーテン、それから床に、それぞれの色で、影を落としていた。
「君はいつからここに住んでいるの? 」
女性が訊く。
 女性は僕の斜め横で体育座りをして、前後にゆらゆら揺れていた。落ち着きのない人だと思ったが、その口調は、まるで子供をあやすみたいに穏やかだ。彼女は、テーブルの隅に置かれたポーチに手を伸ばす。びっしりとビーズが縫い付けられ、象の模様がかたどられている。そこから出てきたのは、煙草の葉っぱだった。それから、フィルター、紙。葉っぱをほぐしてから、指先でふわふわと煙草を巻いていく。
 年上だと思うが、年齢がわからない。同い年だと言われても、親ぐらいだと言われても、納得してしまいそうなほどわからなかったが、冷静になってみると、正直どちらでもよかった。
 もういちど麦茶を飲んでから、彼女の質問に答えた。
「3年前に越してきました」
「たぶん大学生、だよね。この辺だと美大? 」
そう聞かれて少し言い淀んだ。美大、という言葉が身に余るほど、僕は美大生っぽいことをしていない。
 彼女は巻き終えた煙草に火をつけ、長い息を吐いた。それから、黄色いライターをテーブルに置いた。
「そうです。写真、を、勉強しています」
言葉をもてあましてしまう。なぜだか、納まりきらない恥ずかしさがこみ上げた。
「カメラ首から下げているから、そうなのかなって思ってた」
「見られていたんですね」
「そう。昨日ね、ベランダから眺めてた」
女性はまた、煙草に口をつける。煙からは、チョコレートのような、甘い匂いがした。この人もイチのように、ゆっくり自殺している、と思っているのだろうか。僕の頭の中の出来事なんか関係なく、彼女は煙草を吸って、カラフルな灰皿に、灰を落とした。
「でもお互い様でしょ。君だって昨日からうちのベランダ見てる」
そう言われて反射のようにベランダに目を向けた。風鈴は揺れていた。
「これ、何ですか」
「風鈴」
「何でこんなにこんなにたくさんぶらさげてるのかなって」
「綺麗でしょ? 」
「まあ、綺麗ですけど」
網戸をすり抜けた風が、僕と女性の間を抜けた。
「風鈴を買いなさい、って、頭の中に聞こえる時があってね」
短くなった煙草の先っぽを、灰皿に押し付ける。煙はやがて消え、チョコレートの香りだけが残った。
「頭の中、」
「そのときに買うの。ネットで。気付いたらこんな数になってた」
「おもしろい話ですね」
本当にそう思ったのかといえば違う。もっと別のことを考えていたはずけれど、口から出たのはそんな言葉だった。女性はそんな僕に構うことなく、話を続ける。
「鬱陶しいだけ。注文するボタン、押すまでずーっと、頭の中で言われ続けるんだよ。あ、お茶、お代わりいる? 」
「いえ、そろそろ帰ります」
帰らなければいけなかった訳ではない、帰りたくなったのだ。
「そう、気をつけてね」
女性は少しも声色を変えずに言った。
「ありがとうございます」
「また来てよ、いつでも暇だから、わたし」
「働いたりしていないんですか」
失礼だと思ったが、つい口を出てしまった言葉はもう遅い。女性はいちど口元だけで笑うと、こういった。
「監禁されてるの」
「監禁、ですか」
「そう、監禁」
女性がいたずらをごまかすように笑うと、風鈴が揺れた。

 印象に残りそうな夢を見たけれど、忘れてしまった。
 目がさめてしばらく、動くことを忘れていた。夢の輪郭を追ううちに、意識が現実になっていく。その感覚がいつももどかしいと感じていた。もういっそのことずっと夢でいいのに、と思うのと同時に、片隅に残る不確かな景色が、気だるくてわずらわしいとも思う。
 昨夜、寝る前に見た天気予報では、晴れ時々雨だった。身支度をすませて、外へ出ると、雨の気配なんて微塵も感じない、よく晴れた朝だった。
 河川敷の公園の砂場を掘っていた。できるだけ深い穴がいい。何もかも埋められるような、深い深い穴がいい。一つの作業に集中していると、頭の中を様々なことがよぎっていく。課題のこと。そう簡単にポートレートを撮らせてくれる女性の知り合いなんて、僕にはいない。そろそろバイトをしないと生活費が危ないということ。夕飯はカレーを作ろうかな、ということ。風鈴と、痣だらけの女性のこと。
 ポケットから石のブレスレットを取り出した。
 昨日、女性の部屋を出たあと、自分の部屋に戻るとゴミ箱に目がいった。燃えるゴミの日だったことをすっかり忘れていたのだ。ぱんぱんのゴミの上に鎮座するそれが、嫌に目に余った。
 狭いけれど深く掘ったつもりの穴に、それを置いた。これは石だ。自然に返すのがいちばんいい。砂をかける。埋める。何の躊躇いもなかった。見えなくなって、元通りになるまで、僕は砂をかけ続けた。満足するまで砂をかけたあと、立ち上がって伸びをした。少し目眩がする。ちらちらとした光が、視界の端に散らばる。
 昨日の女性は、岸本と名乗っていた。頭の中で、誰かから命令されるのだという精神疾患がある。彼女がその病気なのかどうかは問題じゃない。僕は医者じゃない。僕はあのとき、彼女のことを怖いと思った。そのことがずっと、頭のどこか深いところに居座って、うねうねと、とりとめなく回っていた。
 瞬きをすると、一瞬暗くなる視界の中で、彼女の煙草を巻く指先と、日に照らされた横顔が浮かぶ。
「あー、くそー」
砂で埋めた穴を、足でがんがんと踏みつける。気が済むまで踏みつけると、首筋にぽつり、と何かが当たった。その違和感を感じた刹那、雨は本降りになった。
 結果からいうと天気予報は正確だった。傘を持ってこなかったことを本当に一瞬だけ後悔した。けれどその雨はやがて、傘なんて邪魔でしかない叩きつけるような雨に変わった。
 諦めて、河川敷の道をゆっくりと歩く。川の水は濁っていて、勢いを増していた。ふと上を見上げる。空には太陽があって、目の玉に当たった雨粒が染みた。一度目を閉じてから、視界を正面に戻す。道端には青々と草が茂っていて、水の玉がするりと落ちていった。
 家の前まで来て、連なる風鈴を見た。雨の中で揺れているそれらは、やっぱり美しかった。

 イチの部屋で久々に開いた僕のクロッキー帳には、下手なデッサンが浮かんでいた。僕はたぶん、絵が苦手だった。それでも他に、進む道が思い浮かばすに、運よく美大に進んだ訳だけれど、受験用に磨いた技術以上の物を僕は持てなかった。
 大学2年のときに、専攻を写真に変えたけれど、そちらの方もお察しだった。写真で食べていくのは早々にあきらめていた。
 イチは、絵がとてもうまく、既に新人賞の類をいくつか持っていた。彼は画家として食べていくつもりだと言っていたし、僕もそれを応援していた。
 僕は彼が描いているのを見ているのが好きだ。潔く、筆を進めていく彼の描き方は、見ていて頭の中がすっきりしていく気がする。自分のクロッキー帳を閉じて、イチのキャンバスを見ると、いつも通り、何の迷いもなく筆を進めていた。
 何種類もの青の絵の具。キャンバスを滑っては彩られていく輪郭が、やがて形になってそこに現れていく様子。青の背景に浮かぶ女性が、この間別れたという彼女であることはすぐにわかった。僕はそれには触れなかった。ただ、ずっと、彼が描くことに飽きるまで、その絵を見ていた。夜中になるまで、それは続いた。
 深夜の気配が迫る23時過ぎに、散歩がてら家を飛び出た僕らは、行きずりのラーメン屋に入った。どうせ食べるのなら旨いラーメンがよかった、と、イチが言い、僕は制止するタイミングを逃した。店主は一度こちらを見たので、せいいっぱいの申し訳なさをこめて頭を下げた。イチは煙草に火をつけた。店主が無言で灰皿をくれる。この人は優しいし、懐が広いのだとわかる。煙がのびる。
 僕とイチは、付き合いが長いわけではなかった。去年の夏休みにティッシュ配りのバイトをしていたときに、たまたま同じオアシスのロゴのTシャツを着ていたので、なんとなく一緒にいるようになったのだった。その後に大学も一緒だったとわかり、お互いの家も近いことがわかった。僕はオアシスがきっかけだと思っているが、イチがどう思っているのかは知らない。
 店を出てから、5キロ程の距離を歩かなければならなかった。コンビニで酒を買い、二人で飲みながら歩いた。次のコンビニで缶を捨て、また新しく酒を買う。真夏の夜にぴったりな遊びだと思った。
僕は酒には強くないので、ほとんどジュースみたいなものを選んだが、イチは違った。彼は酔うために酒を飲む。度数の強いものばかり選ぶので、コンビニを三件回った頃にはへべれけだった。
「おい、轢かれるぞ」
車道に飛び出す彼の腕を引く。
「いっそ轢いてくれー」
イチはそう言いながら、またふらふらと歩き出した。
 夜風が生ぬるく、草の青々しい匂いに僕らは包まれる。どこからか虫の鳴き声の様な音が聞こえていた。そして僕たちの話し声が、夜道に反射して、どこまでも響いた。
 へろへろになったイチを僕の部屋に連れて行き、仕方なくベッドを貸した。残りの酒をのみながら、僕はベランダに出た。隣の部屋を見遣ると、風鈴の数が見てわかるほどに増えていた。風が吹くたびに、それらは揺れて、音を鳴らした。ここまでくると騒音だ、と思った。隣の家はまだ明かりがついていた。監禁されている、といっていた。いや、主婦であることを冗談めかして言っていただけかもしれない。
 ベランダから部屋に戻ろうとしたとき。それは突然だった。どしん、と音が聞こえ、女性のうめき声がした。何が起こったのか、いろいろな想像が頭をめぐる。考えている間にも、その痛々しい声や音が、二度、三度と繰り返され、隣のベランダから漏れる明かりがぐらぐらと揺れているのがわかった。何のしがらみもなく笑っていた、女性の顔を思い出す。思わず部屋の片隅の絵に目をやる。
イチがもぞもぞと起きた。
「警察呼ぶ? 」
僕の声は少し震えていた。
「監禁されてるんだって、隣の人、女性なんだけど」
イチは何も言わずに、缶の半分くらいは残っていた、僕の酒を一気飲みした。
「知らない、寝る」
そう言って彼は本当に寝てしまった。結局何もすることができなかたった。やがて音はやむ。静かにため息をついて、目を閉じた。じんじんと体温がしみる床の上で、しばらく眠ることができなかった。
 ぬるいフローリングの固さを感じながら目が覚めた。
”愛しているなんて伝えることになんの意味があるの、勝手に愛しててよ”
イチは映画を見ていた。無遠慮に大音量で垂れ流される映画。眺めているだけのように見える。彼は僕に視線を向けることなく、おはよう、といった。
「おはよう、よく眠れた?」
「それはもう」
テレビの画面から目を逸らすことなく彼は言った。
「良かったね」
昨晩を思い出して、隣の部屋に耳を澄ませたが、聞こえてくるのは風鈴の音だけだった。
「イチ、今日大学どうするの」
「三限から出る、英語」
「一緒だ、ていうか今何時」
「十一時」
「一回帰る? 」
「このまま行く。それより飯、何かないの」
「バームクーヘンがある」
冷蔵庫のど真ん中にあって邪魔だったバームクーヘンは、ゼミの先輩が突然くれたものだった。賞味期限を見ると、二日前の日付だった。箱入りのままテーブルの上にのせ、うやうやしく取り出すと、おー、とイチが声をあげる。思ったよりも小さかったそれを、イチは手掴みで食べ始めた。僕は二つ用意したフォークのうちの一つで、つつくように、掬って食べていた。テレビからは相変わらず映画が流れている。その音に耳を傾けていると、ピンポンと玄関のベルが鳴る。
「勧誘じゃない? 」
イチはそんなことを言いながら呑気にバームクーヘンを頬張っていた。事前連絡もなく訪ねてくる友人なんてイチくらいだし、何か宅配の類を頼んだ覚えもなかったが、念のため、と僕は玄関に向かう。
 ドアを開けると、どうやら来客は僕の家ではなく、隣の岸本さん宅のようだった。いかに壁が薄いかがわかる。宅配便のおじさんが、岸本さんに荷物を渡している。僕はなぜか焦ってしまった。どうしてか、彼女にばれてはいけない気がしたのだ。そっと玄関を閉じようとした、が、遅かった。
「美大生! おはよう」
「おはよう、ございます」
にこにこを貼り付けた顔は、わざとらしくすら感じてくる。
「今日は大学は? 」
「これから、」
「今から水族館に行こうと思っていたんです、一緒にどうですか? 」
僕の言葉を遮ったのはイチだ。僕の後ろから、玄関のドアノブを奪って大きく開ける。イチに押し出されるように僕は廊下に放り出された。
「お友達? いいね、水族館、行こうよ」
岸本さんも、ドアをいっぱいに開いて、体をこちらに向けていた。相変わらず、何の屈託もなく笑っていた。帰るタイミングを逃してしまったのらしい宅配のおじさんは、居心地悪そうに笑っていた。
 それからは早かった。三十分後には、岸本さんを挟んで、三人で電車に並んで座っていた。岸本さんの腕をちらりと見たが、彼女はワンピースの上に、薄いカーディガンを羽織っていた。彼女は監禁されていると言っていたけれど、出かけていてよいのだろうか。昨日の物音は。痣は増えていないだろうか。頭の中に変な声はないのだろうか。彼女に対する、わずかな情報を総動員して僕が考えている間、イチと岸本さんはずっと喋っていた。時折笑い声を含めながら。
「いや、ほんと綺麗ですよ岸本さん」
「いやいや、お世辞が下手だぞ」
「今度絵のモデルになってください。ああ、ボランティアということで」
「モデルかあ。悪くない響きだね、面白そうだし」
僕は会話に参加することを諦めて、向いの窓の外を見ていた。電車の振動が規則正しい。僕は規則正しいものが好きだ。考えなくていいし、見ていて、感じていて気持ちが整う気がするからだ。
 窓の外の、通り過ぎていく草木は、つやつやと茂っている。嫌に明るい青空との対比が、目に眩しい。今日の天気予報はどうだったろう。思い出せないが、こんなに暑苦しいんだ、きっと晴れだろう。
さらに三十分もすると、僕たちは本当に水族館の前にいた。
「水槽のトンネルがあるんだって」
岸本さんがいう。
「トンネルか、上を魚が通る訳だ」
イチもどこか浮ついた雰囲気だった。二人がクリオネを見ている間、僕はクラゲを見ていた。クラゲはずるい。毒を持っているくせに、無邪気そうに泳いでいるし、それに綺麗だ。風鈴のような形をしているのも何だか癇に障る。泳いでいるのではなく、水流に流されているのだというが、風に吹かれるだけの風鈴だってそうだ。そんな僕にお構いなく、クラゲはすいっと上の方へ登って行く。タコや、チンアナゴや、足の長いカニなどを見た。後ろから眺めるイチと岸本さんは、お似合いのつがいに見える。イチは誰が見ても格好いい顔をしているし、岸本さんは年齢不詳の美人だ。途中、喫煙所があったので、二人は入っていた。僕は煙草を吸わないことを少しだけ後悔していた。
 二人で、ゆっくりと自殺をしているのだろうか。
 近くにヒトデに触れるコーナーがあったので、そちらに出向いてみる。小さい子供に混じって人差し指で慎重に触れたヒトデは、意外と固かった。
 二人が戻ってきたので、メインの水槽トンネルへむかった。水槽の中を様々な生き物が生きている。辺りは薄く青く、僕はいつだったかのイチの言葉を思い出していた。
「透明を重ねると、青になる」
その言葉を呟いたのは、僕でも、イチでもなく、岸本さんだった。
「そういう小説をね、昔読んだ」
僕とイチは黙っていた。
「こうやって水槽のトンネルの真ん中にいると、まるで海の底みたいだと思わない」
振り返って、満面の笑みで、彼女は言った。

 イチと過ごす時間は、目に見えて減っていた。イチは岸本さんの家に入り浸っているようだったが、僕の部屋を尋ねることはなかった。
いつもの帰り道に、いつものように二階の風鈴を眺める。見るたびに数が増えているような気がした。端から端まで、びっしりと並んだそれ。異常なほどのその数。綺麗だと思ってしまう理由がわからなかった。首に下げたカメラのレンズを覗く。夏を孕む風、沈む太陽の気配、きらきらひかる、色とりどりの風鈴。僕は一度だけ、シャッターを押した。
 部屋に戻ると、隣からイチと岸本さんの声がする。最近はそれがだんだんに艶っぽい声に変わり、男女の営みの音に変わるのだった。僕はまるで取り残された捨て犬だと思っていた。たまらなくなり、風呂へ行く。
 頭からかぶったシャワーは熱い。すべて流してくれればいいのにと思っていた。何かが崩れていく音がする。何かから何かを奪われてしまったようだ。何から。誰から。誰を。
 風呂から上がり、まだ聞こえる嬌声を他所に、パソコンに写真を取り込む。
 「アッ」という声が出てしまった。一度だけ押したシャッター。風鈴の写真。ベランダのカーテンは半分だけ開いていた。
 その奥に、岸本さんの横顔が写っている。
「綺麗、だよな」
口に出してから、風鈴のことだと心の中で、もう遅い前置きをした。
 次の日は早起きをした。いつものジーンズに、洗濯してぶら下げてあった適当な半袖のシャツを着る。気象予報士は慣れた口調で晴れを伝えていた。カメラにつけたレンズは、一度も使ったことのない望遠だった。
 河川敷の草たちは、生い茂って熱気を孕んでいる。僕の肩ほどの高さに生い茂っており、濃い緑で目をやられる。かき分けて進むと、腕や掌にちくちくと刺さった。どんどん抜けていき、抜け切ったところで橋へ向かう。渡って対岸に出た。草の陰で、膝を抱えて座った。 
アパートが見える位置で、僕はそのときを待っていた。
 レンズを覗いていると、岸本さんがベランダに出てくる。黒くて長い髪が、ふわりと揺れていた。連続でシャッターを押す。新しく届いたのだろう、風鈴を吊していた。連続でシャッターを押す。これは悪いことなのだろうか。ただ、とてもどきどきして、シャッターを押しただけなのに、ひどく息切れがした。背筋に流れる汗は冷たい。しばらくカメラを抱えたまま、今起きたことを忘れようと、心を無にしようと、ただ黙っていた。急に叫びたくなり、叫びながら、その場を立ち上がりあてもなく走った。
 どれくらい走っただろう。気がつけばこの間、石の輪っかをうめた公園に来ていた。ベンチに腰掛けて、先ほどの写真を確認する。風鈴と、岸本さんが写っている。ベランダの窓を開け、痣だらけの細い腕で、慎重にそれを吊す。風鈴の色は青色だった。一度だけ風鈴をつつき、揺らす。横顔が綺麗に撮れている。背中を向けて、部屋に戻っていく。完璧だった。
「あははは」
お腹を抱えた。僕は何をしているんだろう。そう思ったからなのか、涙が出てきた。泣きながら、何をしたっていいじゃないか、とも思った。イチだって、岸本さんをモデルに絵を描いている。僕だって、彼女をモデルに写真を取っただけじゃないか。ふふふ、と、静かに漏らした声は、砂場でキャッキャとしている、子供の声に消されていった。ひとしきり笑ったあと、ベンチから立ち上がり、背伸びをした。再びベンチに腰掛けるとき、ベンチの青色のペンキが、ひどく目にしみた。
 アパートに戻り、カメラをパソコンにつないだ。連写した写真がずらりとなららぶ。それらを今、吟味する気になれなかった。デスクトップに”新しいフォルダー”を作り、そのままでも良かったのだけど、名前を変更する、を選んだ。迷った末に、”きしもとさん”と打ち込んだ。

 久々に会ったイチは、パーカーを着ていて、確かに今日は少し涼しいなと思った。
 いつも滑るように進んでいく彼の筆は、今日は止まることが多くて、今日のイチは調子が悪いのだと思っていた。 
「イチは最近岸本さんとどうなの」
「どうもないよ」
本当に、何ともないように彼は言った。
「最近はどしん、とか、声とか、聞こえないからさ、あんまり」
僕は二つの意味を込めて言った。男女の声と、暴力の音の意味だった。
「ああ、彼女一人暮らしなんだ」
イチの答えは、僕の言葉とは別の意味だったけれど、興味を引くものだった。
「え、監禁は? 」
「半分本当。彼女病気で親から隔離されてるみたい」
「病気かあ」
初めて彼女にあった日の、頭の中の声を思いだす。
「ほら、夜中の暴力の音あっただろ、あれも全部自分で出してる音でさ」
のんびりしていた彼の筆は、とうとう止まってしまった。彼は筆を、床に敷いた新聞紙の上に置き、座り込んで体を伸ばした。
「この間なんか目の前で自分のこと殴り出してさ」
そう言ってイチは煙草に火をつけた。
「なんか見てて悲しくなったよ」
そう、言葉が続いた。彼がほんとうに悲しそうな顔をするので、僕はかける言葉がなかった。

 岸本さんの隠し撮りは日課になっていた。どんどん増えていく”きしもとさん”フォルダーの中身を、僕が確認することはなかった。心の中で積み重なっていく石のようなものだと思っていた。賽の河原で塔を作るように。フォルダーの中を覗けない僕は、これがいつか崩れてしまうことを、上の空で予感していた。
 今日も対岸の、アパートが見える位置から、彼女が出てくるのを待っていた。レンズを覗くと、ちょうど、彼女の部屋のベランダの扉が開く。連写で捉えた彼女は、スカートを風になびかせて、風鈴を手にした腕をのばし、それを吊す。そして部屋に戻っていく。その一歩手前。こちらと目があった気がした。じわりと汗がにじむ。動いたら、だめだ。震える心臓の上で手を握りしめて、彼女から目を逸らす。この距離でこちら側まで見えるはずがない。そう言い聞かせていた。やがて彼女がいなくなると、ゆっくりと動き出し、その場から逃げるように走り出した。
 アパートに戻ると、いつかのように玄関のドアを細い腕で支え、こちらを覗いている岸本さんと目があった。ぞくり、と、した。
「最近こなくてさ、彼、暇つぶしに付き合ってよ」
風鈴が鳴るような声で、彼女は言った。僕は、先ほどの出来事を思い出しながら彼女をちらりと見た。その様子からは、僕を警戒しているようなそぶりはないように感じた。
「イチと、何してるんですか」
「絵を描いてもらってるだけ」
腕のあざは減っていた。細い腕はすらりと伸びて、ドアの扉をぱたぱたと動かしている。ドアはたまにキーキー鳴った。
「最近見られているような気がするのよ」
彼女の話には筋がなかった。
「気のせいですよ」
「いつか殺されちゃったりして」
ふわいと笑った。
「そんなことない」
僕の声は、思っていたより大きく響いた。
「スナイパーみたいな人に」
遠くからカメラをのぞいている僕は、別の視点から見たらスナイパーそのものではないか。
「本当に、気のせいだと思います、岸本さん疲れてるんだと思う」
努めて冷静に、僕は言う。
「監禁されているだけなのに? 」
「監禁も疲れるんじゃないですか、よく知らないけど」
「お茶、飲んでく? 」
「いえ、帰ります」
「そう」
彼女はそう言って、玄関の戸を閉めた。僕はしばらく部屋には戻らずに、風が汗を乾かすのを感じていた。

 隣の部屋から聞こえる音で、今日はイチが来ていることがわかった。僕は布団にくるまって、音が止むのを待っていた。男女の音になった、と思っていると、突然、耳に石が落ちたような音に変わった。僕は布団から飛び起きて、玄関を出ると、隣の部屋へ向かった。ベルを押すが、人の出てくる気配はない。不安に思ったけれど、部屋に戻った。
 玄関のドアを閉める。鍵をかけようと手を伸ばすと、それは突然、抵抗できない勢いを持った。ゆっくりと、僕の部屋のドアが開く。
 イチは酔っ払っていた。僕の部屋のベッドに座って、酒はないのか、と訊く。たまたま冷蔵庫にあったビールを彼に渡すと、震える手で缶を開け、ゆっくりと飲み始めた。
 真夏なのにパーカー姿が多かった彼の、その理由を今確かめていた。彼は半袖を着ており、両腕はあざだらけで、所々に青い絵具の跡がある。さっきの音の理由を、僕は頭の中だけで勝手に想像していた。その想像の、答え合わせをするように、イチは喋り始めた。
「最初は本当に絵のモデルだったんだよ、そのうちにヤるようになっててさ、気付いたら殴られてた」
そう言ってまた、ビールに口をつける。
「さっきの音もそう? イチが殴ったわけじゃなく」
「包丁とか、向けて来たんだぜ、流石に怖くなってさ」
「関わるのやめなよ」
「理想なんだよ、そう言う、ぶっ壊れてるところとか」
「彼女じゃなくても、イチは誰でも、何でも描けるよ」
「知らないよ」
イチは口元にあったビールを、一気に飲んだ。
「おれは何にもわからないよ」
僕の部屋の、父の遺作を見て、イチは言った。
「この絵、岸本さんにそっくりだよな」
「僕もそう思った」
蛍光灯がちらちらと働く部屋で、絵の彼女は伏目がちだった。
 
 あれから一ヶ月ほど経ったある日。それは部屋で映画を聞いている時だった。知らない番号から電話がかかってきた。電話に出たのは、はきはきした喋り方の男性だった。
「あなたの出品した写真が、賞に選ばれました」
「え、出品ですか? 」
「はい、風鈴の女性の写真です」
それからのことは覚えていない。授賞式、だとかそう言う話をされた気がするが、参加することは断っていた。僕が話す言葉は、僕じゃない誰かが、僕の代わりに話す言葉のようだった。耳元で今起こっている出来事が全く耳に入ってこずに、代わりに聞こえていたのは、騒音じみた風鈴の音だった。
 電話を切ってすぐに、僕はイチに電話をした。ワンコールで彼は出た。
「おい、イチ、お前だろ」
ほとんど吠えていた。あのフォルダーを見られたことに困っていた。僕でも持て余していたあの写真を、僕も見ていないあの写真を、見た人間がいることに焦っていた。
「どうした」
「写真だよ」
「ああ、”きしもとさん”」
「何勝手に出してんだよ、何で勝手にパソコン」
僕の荒んだ声とは対照的に、彼は楽しそうだった。
「何か連絡あった? 」
「何か、賞を取ったんだって」
「おー、おめでとう、良かったな」
本当に嬉しそうな彼の声に、僕は少しだけやけになっていた。
「良くないよ。嬉しいけど、良くない」
僕の声は、本音と焦りが頼りなく喧嘩して、語尾に向かって情けなくひびいていた。
「正直最初は気持ち悪いなって思ったんだけどさ、綺麗な写真だったよ、あれ」
その言葉を聞いた瞬間、何かが僕の中で弾けた。これでよかったのかもしれない、と言う気さえしてきていた。
「……イチはさあ、岸本さんとまだ会ってるの? 」
なにも言えることがなくなって、僕は思い出したように言う。
「たまにね」
イチの言葉は簡単なものだった。
「そう」
彼の腕のあざを思い出しながら、電話を切った。

 賞をとってしまったなら、許可を貰わなければいけない、と思っていた。順番は逆になってしまったのだけど、モデルに許可がない写真なんて使えない。岸本さんの部屋の前で、何度か深呼吸をした。何を言われるかわからない。イチのように、殴られたり、包丁を持ち出すかもしれない。それだけのことをしてしまった自覚が、急に頭の中に芽生える。
 意を決してベルを鳴らすと、出てきたのは男性だった、初老を迎えた男性は、小さくお辞儀をすると、何の用かを促すように、僕の頭の先から足元までを見た。
「岸本さんに用事があって、あの、女性の」
「ああ、ゆかりですか、いま、少し……入院、していまして」
男性はばつが悪そうに言葉を濁す。それからこちらを見て、こう言った。
「あの、どちら様ですか」
「隣人です、ただの」
そうとしか言えなかった。
失礼します、と言って、僕は自分の部屋へ戻った。

「岸本さん、入院してるって、知ってた? 」
「ん、ああ、知ってたよ」
僕の部屋でイチはビールの缶をデッサンしていた。最近描く気力が湧かないのだ、と漏らしていたが、僕から見たら目が浮くほどに上手なデッサンだ。
「いつから」
「先週から」
「どこに入院してるの」
「質問が多いな、今日のお前。隣町の精神科だよ、お父さんから聞いた」
「父親と会ったんだ」
「うん、娘をよろしくお願いしますだってさ」
「よろしくされるの? 」
「しないよ、理想のモデルってだけ」
そのモデルもいなくなったけど。そう、彼はため息でごまかすように言った。

 それからしばらくの間、イチと連絡を取らないでいた。ゼミの教授づてに、イチが大学にもきていないことを聞き、電話をかけたのだけれど、彼が出ることはなかった。折り返しの電話が来たのは、その日の夕方だった。その時僕は、部屋で映画を聞きながら、窓の外をぼんやり眺めていた。日は傾いていて、薄紫に染まる空を眺めているのに、何も思うことがなかった。夕焼けを見て、何か思わなければいけない、なんて誰も言っていないけれど、感傷にすら浸れなくなったら、僕は何かが終わるような気がしていた。
「もしもし」
電話に出た。
「大丈夫、大学来てないって聞いたけど」
返事はなかった。彼はわりとよく喋る方だ。その無言が、何かを知らせているようだった。電話を繋いだままポケットに入れて、カメラだけを持って、自転車に乗る。彼のアパートへ向かった。
 イチの部屋には鍵はかかっていなかった。息を飲む。ドアを開けると、ワンルームの部屋は夕陽に染まっていた。
 しばらく、何もしないでいた。開け放たれた窓から、健やかそうな風が僕の髪の毛をさらっていく。いつも散らかっているけれど、今日は様子が違う。青く塗りつぶされた絵たち。それらはキャンバスの中心から、まるで悲鳴を上げるように裂かれ、部屋のあちらこちらに乱雑にあった。
 薄い色が、部屋中をやわらかく包んでいた。青くなり始めた空は、桃色や紫色を抱えている。色とりどりの、夕日が差す部屋。イチは、その中心に倒れるように寝ていた。
 イチの体は、差す光の反対側で影のように黒く染まっていた。首だけで、僕の方をちらりと見る。それから、左腕をゆっくり上げた。
 床に散乱した薬の殻がキラキラしている。カーテンが揺れている。
「お前、何、撮ってんだよ」
イチは腕をおろして、そう言った。途切れ途切れの言葉が苦しそうに響く。
 そう言われて、僕は初めて、カメラのレンズをのぞいていることに気がついた。かしゃり、とシャッターの音が当たり前に鳴る。
「綺麗だと思った」
「立派だよ、お前」
イチは笑っている。こんな時も、笑っている。
「お前こそ、何やってんだよ」
ポケットから電話を取り出すと、イチと繋いだままだった。一度切り、それから震える手で、119、とダイヤルをした。

 イチは窓際のベッドにいた。カーテンが日光を素直に受け止めて、それによってぼやけた光は、彼の髪の毛を薄茶色く染めていた。
「ゆかりの家の薬、盗んだんだよ。これ全部飲んだら死ねんのかなって思って」
彼はベッドに腰掛けて、足をぶらぶら言わせていた。
「何で死にたくなったわけ」
僕はそう訊いたが、言ってしまってから本当に意味のない質問だと思った。イチはつま先を見つめたまま、何も答えなかった。
 しばらく無言で、二人でただ、光にさらされていた。僕たちは言葉を交わすのもいいけれど、声に出して何かを確かめなくとも、うまくやっていける関係だと思った。言葉があってもなくても、イチと僕はたぶん、どこかでお互いをわかってたし、わからないでいた。わからない、ということがわかっていることは、安心するし心地よかった。
「明後日退院するからさ、そしたら燃やそうぜ」
ふと、イチが言う。
「燃やす? 」
僕が訊く。訊いたけれど、何を燃やすのかはなんとなくわかっていた。頭の中には、彼の部屋の絵と、僕の部屋の絵が、しっかりと浮かんでいた。
「海でさ、絵とか、全部」
「これ、一本ちょうだいよ」
僕はイチの言葉には答えずに、脇の棚にあった煙草の箱を指さした。
「全部持っていっていいよ、どうせ病院じゃ吸えない」
彼は力なくへろへろとした笑みを浮かべた。
 鉄の錆びた階段は、僕のアパートの外階段を思わせた。たん、たん、と一段ずつ登っていくと、屋上の扉は開いている。光に吸い込まれるようにその扉をくぐると、すぐ脇にベンチがあった。傍には灰皿が置いてある。張り紙からするに見舞客用らしいが、僕以外は無人だった。
 たくさんの真っ白いシーツやタオルが干されている。発光するように輝いているそれらを横目に、その青いベンチに腰掛けた。
 ポケットから取り出したのは、イチの病室にあった煙草だ。角の少し潰れた箱から、一本取り出し、吸えないはずの煙草を吸う。チョコレートの匂いがした気がした。ゆっくり自殺している、と言う言葉を思い出す。一口だけ吸って、その煙草の火を消した。
 アパートに帰ると、ベランダの風鈴は無くなっていた。
 玄関のドアノブに風鈴がぶら下がっていた。透明なガラスに、うっすらと青色が透けるそれ。
 風が吹く。青色を孕んだ、疎ましいほどに熱い風が吹く。
 風鈴をそっと外して、僕は部屋に入った。
 真っ先にパソコンを開いた。”きしもとさん”フォルダーを開くと、自分でも驚くほどたくさんの写真が入っていることがわかった。色とりどりの風鈴の中で、新しい風鈴を吊す、どこにでもいる女性だ。喉の奥から、頭の真ん中まで一気に込み上げてくるものがあった。それなのにどうしてか、何も思うことがなかった。
 ”きしもとさん”フォルダーに矢印を当てる。そのままごみ箱へ引っ張っていった。ごみ箱の中も、削除、した。

 僕は今日のために軽トラックを借りていた。最初に積んだのは、僕の部屋にあった父の遺作と、ドアノブにかけてあった風鈴だった。
 それからイチの家に行き、彼の部屋のキャンバスを、余すことなく運び出した。イチの元恋人の絵も、岸本さんの絵も、隅から隅まで、濃い青色に塗りつぶされていた。
「これ、大変だったでしょ」
「儀式みたいなもんだろ」
それらを二人で乱暴に運び出すと、二トントラックにそこそこの量になった。
 寄りたいところがある、と言い、河川敷の公園に寄った。
 トラックから降りて砂場に向かう。ふと思い出したものがあったのだ。確かこの辺だった、と、掘り始めると、それはすんなり見つかった。元恋人からもらったブレスレットだ。友達の少ない僕にぴったりだと言う、淡い水色のその石。あんなに深く掘ったと思った穴は、すぐ掘り出せるほどに浅かった。
「石は燃えないごみだろ」
「いいんだよ、燃やすのは石じゃない」
格好つけたことを言う。イチは、鼻の先っぽで笑っただけだった。
 海は相変わらず、遊泳禁止だった。トラックから絵を運び出す。僕ら以外に人が来ることはなく、この場のあらゆるに、ゆったりとした塩の香りが満ちていた。
「泳いじゃだめなんだって」
分かりきったことを言った。
「燃やしちゃだめとは書いてない」
イチが、がらくたの山に火をつけた。火はすんなりとついた。流木でそれらを突くと、やがて大きく燃え上がり、端っこから墨になる。僕とイチは、燃えあがって消えていくそれらをただ見ているだけでよかった。
 少し伸びをしてから、火から少し遠いところに座る。サンダルと素足の間の砂を落とした。空を見ると、夏は終わりかけていた。
 カメラ越しにイチを覗く。イチは火のそばで煙草を吸い、白い煙を吐いていた。それは大きく燃え盛った夏の残骸の煙と一緒になり、すっと空に吸い込まれていく。やがて、その吸い殻を火の中へ放り込むまでを、レンズの中から追っていた。シャッターは、押してはいけないような気がした。
 真っ昼間の遊泳禁止の海は、ただ青かった。

輪郭は青

輪郭は青

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-30

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