不死の村に棲む人

残酷な描写があるため、苦手な方は注意して下さい。

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 薫は山奥の川辺に倒れ伏していた。周囲は背の高い樹々に覆われ、それらに隔絶された僅かに明るい曇天模様が、まだ日中であることを感じさせる。川の浅い部分でうつ伏せになっており、体の前半分が水に浸かっている状態であった。薫が流れ着いた場所からほんの少し上流には二メートル程度の高さの滝があり、滝壺の周囲には大きな岩が大量に転がっている。それによって水の勢いが殺され、浅く緩やかな流れが作られているのだろう。
「どれぐらい流されたんだ……?」
 薫は立ち上がり、ところどころに破れやほつれが目立つびしょ濡れのシャツの裾を絞って申し訳程度に水気を排すと、ズボンのポケットに入れていた折り畳み式の携帯電話を取り出す。全身と同様に水が滴るそれは、薫の手から滑り落ち、川原の石に激突した。あっ、と吐息のように小さな声が漏れ出すが、すぐに薫は冷静に考えた。
「まあどうせ使えないか」
 携帯電話には今しがた落下した衝撃だけでは到底作られないであろうヒビが縦横無尽に疾走しており、蝶番の部分からはコードが顔を出している。周囲に電波塔や基地局の類いは見えず、通信圏外になっている可能性が高い。薫は無用の鉄塊を背後の川に投げ、森の方へと歩き始めた。
 水音の大きい滝壺から少し離れると、草をかき分ける音が聞こえているのが分かった。薫は木に隠れるように背を当て、音の主を探す。
「そこにおっとは誰ね?」
 森の奥から現れた、猟銃を抱える初老の男性が、聞き慣れない訛りで声をかけてきた。兎の耳を左手で掴んでおり、その口元と背中から血が滴っている。
 薫がなかなか姿を現さないので男性は訝しげにこちらを睨んでいたが、猟銃と兎の死体に怯えていると思ったのか、それらを地面に置いて再度優しく語りかけてきた。
「そげん隠れんでん、取って食うちこつはなかよ」
 一瞬躊躇ったが、ここで隠れたままでは本当に怪しまれ、警察などに通報されるかもしれないと考えると、薫は木の影から姿を露にした。敵意はないことを示すために両手を挙げ、事情を説明する。
「あ、その、怪しい者ではないんです。この辺りで釣りをしていたんですが、道に迷ってしまい、川沿いを辿っていたら誤って落ちてしまって……」
 話を聞いた男性の目が鋭くなったような印象を感じたのだが、刹那に目を瞬かせると、元の優しげな表情に戻っていた。薫の思い違いかもしれない。男性の服に付着した返り血の固まりが、じわりと湿った光を反射させている。
「釣りばしよったんか、そいで川に落ちてそげん濡れとっとね。そんならおいの村にきい、乾かしちゃるけん。暗くなるけん、晩は泊まらんの」
 聞き慣れない抑揚と早口で異界の言語のような彼の言葉を、薫は脳内で反芻してようやく理解し、一人納得する。
「……お金とか、持ってないんですけど、大丈夫なんでしょうか?」
 恐る恐る薫は尋ねたが、彼は質問には答えず、自身が歩いてきた方向に顎をしゃくった。皺だらけの首で大きく存在感を放つ喉仏が、くい、と上がる。
「ついてきい」
 男性は地面に置いていた猟銃と兎の死体を持ち直し、奥の方へと歩き始めた。兎のビー玉のような深紅の瞳がこちらを覗き込んでいる。薫はついて行くべきかしばし迷いはしたものの、他に行く場所もなく、道も分からないため、仕方なく彼の後を追った。



「あんた、名前はなんち言うと?」
 薄暗い森の中を歩きながら、男性は薫に問う。落ちた枝が踏まれ、蛙の背骨を折るような音が辺りに響いた。カラスや山鳩、虫の鳴き声や羽音が呼応するように、四方から引っ切り無しに薫の耳元へと届く。
「薫……松木、薫です」
「薫くんね。おいは山本っちゅうもんよ」
 自己紹介がお互い終わると、山本は勢いよく肩を上げて落ちかけた銃をかけ直し、顔をこちらに向けた。
「言うとらんかったばってん、おいん村は一月に一ぺん山ば降りてから立花で情報ば仕入れてくるき、時代遅れで退屈かもしれんけどよかね? テレビやらラジオん線も通っとらんきね、なんもなかよ」
 薫は一瞬何かに反応したようにびくりと体を震わせたが、山本は気付かなかった。
「大丈夫ですよ。泊めてくれるだけでも助かります」
 笑顔を作ってそう答えると、再び沈黙が二人の間に生まれた。しばらくして今度は薫から口を開いた。
「情報が月一ってことは、ここ数日話題になってる噂も知りませんか?」
「噂?」
 山本がおうむ返しに尋ねる。
「はい。……死なない人間が発見された、なんていう噂です」
「へえ、知らんねえ。そげん人がいるとなら会うてみたかねえ」
 山本は全く信じていない様子で、白い髭の剃り残しのある顎を右手でさすりながら軽口を叩いた。
「ですよね、変な話してすみません。最近流行っていたもので」
 薫も小さな笑みをこぼす。
「そういやあ、うちん村ば作った人が不死やったっちゅう言い伝えがあったねえ」
 山本がぼそりと漏らした一言が気になり、薫は詳しく尋ねたくて口を開こうとしたが、山本の次の言葉は薫の口が音を発するより早かった。
「それより、薫くん。ズボンがボロボロやき、草にまけとるやん」
 まだあまり山道に慣れない薫の足取りはおぼつかず、木の枝に引っかかって小さな傷がいくつも出来ていたり、皮膚が草でかぶれたりしていた。
「つまらん道しかないき悪かね」
 山本は最初よりも少し歩く速度を緩めてくれた。薫は舗装されていない山道を歩いた経験がほとんどないため、地面の窪みや石、植物によってその歩みをしばしば阻まれる。
「あとで薬ば塗っとかんとの。もういっときもせんに村やけん、がんばんなさい」
 猟銃を肩にかけ、血を流す兎を手にしている姿からは想像もできないほど山本は優しく、薫は逆に恐怖を感じて気を張っていたが、村に着く頃にはその緊張もだいぶ解れていた。
「ここがおいん村の入口ばい」
 獣道のような草むらを抜け、車一台が通れる程度に開けた道を十数分ほど進み、ポツポツと家が見え始めたところで彼は振り向いて薫に告げた。その足元には薄く消えかけた文字で「ようこそ、伏野村へ」と書かれた木製の立て札が刺さっており、この村が伏野村という名前であることが分かる。
 夕陽に照らされた山本の長い影が、朽ちかけの立て札を覆った。
「こまい旅館があるき、泊まるるごつ話してくったい。ここにきで待っとかんの」
 手のひらを薫に見せながらそう言って、山本は立て札から二軒目の民家に入っていった。近付いて民家の表札をよく見ると、それは住人の名前ではなく宿の名前を示したものだと分かった。
「伏野荘……か」
 まるで返事をする様にカラスが鳴いた。
 道に沿った面は周囲の民家とほぼ変わりない、二階建ての木造家屋だ。しかし隣接する家との間から覗くと、通常の民家の三倍は奥行きがあることが見て取れる。旅館と言うからには部屋がいくつか用意されているのだろう。
「薫くん、入ってきい」
 山本の声が玄関の奥から聞こえたので、はい、と薫は返事をして、伏野荘の敷居を跨いだ。
「伏野村にいらっしゃい、薫くん。小さくて古い旅館でごめんね。私は女将をしている谷岡です」
 待ち受けていたのは、二十代後半ほどの女性だった。薫は村の寂れた様子や旅館の外装から老婆が現れるのだろうと思っていたので、考えていたよりも遥かに若い女将の登場に驚いた。更に、方言が強い山本とは打って変わって、節々のイントネーションに多少の違和感はあるものの、谷岡は標準語で話している。旅館という外部の人間を招き接客する施設で働くために身に付けたのだろうと薫は解釈した。
「松木薫です。……あの、僕お金持ってないんですけどいいんでしょうか……?」
 薫は名乗って軽く頭を下げ、山本にも尋ねた際と同様に恐る恐る確認する。すると、谷岡は自嘲気味な笑みを浮かべながら答えた。
「お代は結構ですよ。村にはお客さんなんて滅多に来ないので、元々商売のための旅館ではないんです。代わりに仕事を少しお手伝いいただいてもよろしいでしょうか?」
「わかりました。よろしくお願いします」
「現代的なものは何もないところだけど、自然を楽しんでいって下さいね。……では、お部屋に案内しますので、私についてきてください」
 薫は靴を脱ぎ彼女の後を追って板張りの廊下に足を踏み入れる。体重をかけると、床が軋んで割れるような音が聞こえた。慌てて足を横にずらして床を確認するが、割れたような形跡はなく、薫は胸を撫で下ろす。
「そんなら谷岡さん、薫くんばよろしく頼んますね」
 背後で山本の声が聞こえると、谷岡は足を止め、振り向いてはーいと明るく返事する。薫も山本の方に向き直り、案内してもらった礼を告げた。
「山本さん、ここまでありがとうございました」
「気にせんでいいんよ」
 山本はこちらに手を振って、いつの間にか闇を迎えていた外に溶けていく。玄関の扉が山本によって閉められると、谷岡と薫は奥へと向かった。
 案内された部屋は、一人で泊まるには充分な広さである八畳一間で、入り口から向かって左側の壁に押入れがあり、正面には腰高窓が一つ付いていた。中央には長方形のテーブルが一台あり、部屋の隅に座布団が四枚重ねられている。
 建物の外見や軋む廊下とは似ても似つかぬほど部屋は綺麗に保たれており、薫は修学旅行を思い出して少々気分が高揚していた。
「あの、とりあえず、お風呂に入りたいんですけど、いいですか?」
 尋ねると、背後で静かに佇んでいた谷岡は笑顔で手のひらを上に向け、浴室らしき方角に手を向けた。
「わかりました。あちらへどうぞ。服やタオルはお持ちでないでしょうから、お貸ししますので使ってください。その間にお布団を敷いておきますね」
 身分すら証明できない一文無しの自分に対してここまでよくしてくれるのは妙だと感じた。明日はこの世のものとは思えないほど大変な肉体労働が待っているのかもしれないし、知らないうちに莫大な借金を抱えさせられてしまっているのかもしれない、などと無粋な妄想が湧き立つ。が、今更断ったとて行く当てなどなく、折角の親切をここまで来て疑う方が悪い気がした。
「本当に、何から何まで色々ありがとうございます」
 薫は本日何度目かの礼を言い、谷岡に示された浴場の方へ足を運んだ。



 竹林の中に隠れるように作られていた小さな露天風呂を堪能した薫が、谷岡に用意されていた下着と修行僧のような純白の作務衣を着て部屋に戻ると、敷かれた布団の側に谷岡が正座して待機していた。
「お帰りなさいませ。お食事の用意はどう致しましょうか」
 まるで創作物の中でよく描写される新婚夫婦のように思えて、薫は気恥ずかしさで顔を逸らす。
「あっ、おっ、お願い、します」
 全身が火照るような気がするのは風呂上がりだからだと自分に言い聞かせながら、言葉に詰まりながらも答えた。
「すぐにお持ちしますね」
 言葉を優しくその場に置くようにして立ち上がり、谷岡は部屋を出て行く。その後ろ姿を見送りながら、薫は先程の新妻のような彼女の姿を重ねていた。
「お待たせしました」
 ほどなくして谷岡が、料理を載せたお盆を運んできた。大きなヤマメの塩焼き、胡麻だれがかけられた山菜のサラダ、キュウリの漬物、艶やかな白米、湯気の立つ味噌汁。つい先刻やってきたばかりの薫のためだけに用意されたものにしては、とても手の込んだ豪華な食事だ。
「このヤマメは山本さんが薫くんを見つけた場所から少し上流の方で、今朝釣ってきたヤマメです。山菜は村の周辺で採れたものですし、キュウリとお米は村で育てたものです。お味噌汁は麓から仕入れた具材を使用していますが、それ以外は自給自足なんですよ。それと、お味噌汁に入っている肉は山本さんが取ってきてくれた兎の肉を早速調理したんです」
 料理をテーブルに並べながら一通り料理の説明をすると、谷岡は空になったお盆を胸元に持ち、「ごゆっくりどうぞ。しばらくしたら食器を片付けに来ます」と言い残して部屋を去った。
 薫は手を合わせ、夕方山本に掴まれていた兎の死体を思い返しながら、いただきますと呟く。出会った時には既に死んでいた兎だが、スーパーで売っているパックに入れられた解体済みの肉とは異なり、一時とはいえ生きた姿が想像できるほどその存在に肉薄した。そんな生物の肉を食べるという事実を噛み締めると、薫は味噌汁から一口大の肉を掴み取り、数秒まなざし、そして意を決して口に入れる。
 あっさりとした味だった。鶏肉のようだがパサパサしておらず、脂身が少なくて食べやすい食感だった。
 米は甘みがあり、山菜は瑞々しくて香り高い。ヤマメは、口に入れた瞬間は淡白に感じるが、噛むと独特のほんのりとした旨味が現れる。どの料理も薫を幸福の世界へと引き摺り込んだ。
 気付くと料理をすべて平らげており、いつの間にか部屋の隅に谷岡が正座していた。薫の顔は綻んでおり、一目見ただけで谷岡にも彼の幸福は伝わっているだろう。
「すごく美味しかったです。今まで食べてきた中で一番かもしれません」
 率直な感想を谷岡に伝える。
「それなら作った甲斐がありました。綺麗に食べていただきありがとうございます。……ところで、足を怪我されているんでしょう? よく効く塗り薬を持ってきたので、良かったら塗っておくといいですよ」
 谷岡が差し出したのは、小さな円柱形の薬瓶だった。それを聞いて思い出したようにふと自分の足を見ると、枝による引っ掻き傷や雑草による肌のかぶれで赤みが増している。
「そういえば、お風呂ですごく沁みたんですよね……。お気遣いありがとうございます」
 薫は谷岡から薬を受け取り、蓋を開けて中の白い滑らかなクリームを指に取ると、右足から塗り始める。
「では、今晩はごゆっくりどうぞ」
 薫が薬を塗っている間に谷岡は盆に食器を重ね、厨房の方へ戻っていった。挨拶からして、おそらく今日はもう来ないのだろう。
 部屋と廊下を隔てる扉を閉め、鍵をかけようとした。しかし、鍵は錆び付いているのか、半分しか回らない。この旅館には自分と谷岡しかおらず、更には金目の物どころか服すら借り物であることを思い出した薫は、締めるのも面倒になってそのまま布団に入った。
「今日は疲れたからかなあ……なんか眠いや」
 部屋には時計がなく、現在の時刻もわからない。薫の体感としては二十ニ時程度のところだが、実際の時間は確かめる術がなかった。谷岡に聞けば或いは分かるのかもしれないが、わざわざ尋ねに向かうほど気になる訳でもないため、薫は考えるのをやめて電気を消し、静かに眠りに就いた。

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 翌朝、雀の鳴き声と共に目覚めた薫は、まるで元旦の朝のような爽快感に溢れていた。田舎の澄んだ空気に当てられたからではない。昨日はあれほど体が疲れていたというのに非常に体が軽く、足の痛みも全く感じられないからだった。作務衣の裾を捲り上げて見てみると、痛々しく刻まれていた切り傷やかぶれは一切の痕跡を残すことなく消えており、夢か幻でも見ていたようだ。薫は不気味に思い身震いする。普通なら一晩で完治するような怪我ではないはずだった。
 そのとき、背後で大きなビニールのようなものが落ちる音が聞こえた。驚いて反射的に振り返ると、開いた扉の向こうで谷岡が折り畳まれたブルーシートを拾いあげようとしている。
「お、驚かせてしまってすみません! おはようございます、起きていらしたんですね」
「……いえ、大丈夫です、おはようございます」
 瞬時に笑顔を作った谷岡に、薫は平静を装いながら挨拶を返す。寝汗で濡れたシーツが、薫の体重を支える右の手のひらを湿らせた。
「すぐに朝食の準備を致しますね!」
 そう言い残すと、谷岡は先程廊下に落としていたブルーシートを胸に抱き、パタパタと小走りで姿を消した。
 十数分もすると、谷岡は昨日と似たような食事を運んできた。テーブルに並べられたのは、白米、味噌汁、サラダ、漬物。昨晩の料理からヤマメを除いたものだ。
「昨日と同じものしかなくてごめんなさいね……。こんな場所だから、食材のバリエーションがとても少なくて……」
 谷岡は申し訳なさそうにこうべを垂れ、盆を抱く。
「大丈夫ですよ、そもそもお金も出していない身で贅沢なんて言えませんし。泊めていただき、美味しい料理を頂けるだけでも、とてもありがたいです」
 そんな彼女に自虐的に笑いかけ、薫は手を合わせて食事に手をつけ始める。最初に味噌汁を啜ると、昨晩のものとは異なり、芳しい香りが鼻を突き抜けた。
「柚子胡椒ですか?」
 爽やかな辛味が味噌の甘味と旨味を引き立て、目が覚めるので、朝に最適な組み合わせだ。これまで薫の周囲には味噌汁に柚子胡椒を入れる文化が存在しなかったが、今後の味付けの有力な選択肢として脳内で追加する。
「はい、全く同じ味では悪いと思いまして、少し変化を付けております」
 谷岡は、バツが悪そうに苦笑して、頬を軽く掻いた。
「とても美味しいですよ」
 薫は瞬く間に味噌汁を飲み干し、山菜のサラダに箸を伸ばす。こちらも昨晩とは胡麻だれの風味が違い、新鮮な気持ちで食べることができた。白米、漬物は昨晩のものと変わりないのだが、無論美味しいことにも変わりはない。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
 食べ終わった薫が手を合わせると、谷岡はホッと安堵の表情で胸を撫で下ろした。
「本当に、昨晩と同じもので申し訳ありません。綺麗に食べていただいてありがとうございます」
 テーブルの上の食器を盆に集め始めた谷岡に、薫はこれからの予定を尋ねた。
「あの、仕事をするようにと言われていましたが、これからどうすればいいでしょうか?」
 代金無しで旅館に泊まる代わりに村の仕事を手伝うという約束だったので、果たさない訳にはいかない。これほど美味しい食事を振る舞われているのだから、尚更だった。
「もう少ししたら村の者が迎えに来ますので、彼と一緒に山に入っていただきます。作業服はこちらで用意しますので、お気になさらずにね」
 谷岡は両手で盆を持って立ち上がり、頭だけを少し下げて軽く会釈した後、廊下をキシキシと鳴らしながら部屋を離れていった。



 腰高窓に体重をかけて外を眺めながらしばらく待っていると、背後に人の気配がして薫は振り向いた。
「君が薫くんね? 今から山菜採りばかせしてもらうき、こん服に着替えんね」
 部屋の入口に立っていたのは、四十代程度に見える作業服の男性だった。短く揃えた黒髪の中にぽつぽつと白い針が混ざったような頭は、若者から老人へと移りゆく象徴のようだ。差し出された彼の手には、彼が着ているものと同じような濃緑色の作業服がかけられていた。
「松木薫です。今日はよろしくお願いします」
 薫は窓から離れて彼の元に向かい、作業服を受け取る。相手は男性なので気遣いもいらないだろうと思い、その場で一晩お世話になった作務衣を脱いで薫は衣を替えた。
「おいは川村っち名前やけん、よろしく。ついてこんね」
 川村はぶっきらぼうに名乗ると、薫の返事を聞くこともなく玄関の方へと歩き出した。谷岡や薫が歩いた際よりも大きな家鳴りが廊下に響く。薫は反応に戸惑いながらも、急いで彼を追った。
 玄関には大きな背負い籠が二つ置いてあり、傍には鎌が一本ずつ並べられていた。薫は川村が山菜を採りに行くと言っていたことを思い出し、一セットは自分のものでどのような使い方をするのか即座に想像した。
「なら薫くん、一個からって鎌ば持ち」
 薫はからう、という方言に一瞬思考が停止したが、川村が籠を背負い始めたのを見て、先程のイメージ通りに使うのだと確信する。
 薫が無事に籠を背負い、用意されていた靴を履き、鎌を手に持ったことを確認して、川村は無言で頷くと、玄関の戸を勢いよく開けた。雲の隙間から差し込む日差しが薫の瞳に直撃し、薫は少し顔を背ける。目を細めながらも外に出ると、六月らしい湿気を孕んだ生温い風と、湿った森のにおいが全身を撫で回した。
 川村は玄関を出てすぐ左、昨日山本と共にやってきた道の方へと進んでいく。遅れないように、薫も玄関の戸をゆっくりと閉めて小走りで追いかけた。
 車の轍で草が生えていない部分を踏みながら、舗装されていない一本道をしばらく歩き続けていると、突然川村が口を開いた。
「山菜ば採ったこつあっとね?」
「えっ、いえ、今日が初めてです」
「そんなら採っとば見とかんね。食えんとやら採ったらいけんもんがあっき、よーと見てな」
 川村は話しながら山の斜面に生えていた渦を巻いたような植物を千切り、背負った籠に投げ入れる。
「こいはぜんまいち言うてね、こっちん男ぜんまいば採ると生えんごつなるけん、女ぜんまいだけ採るごつね」
 群生した植物体から川村が摘み取った葉、女ぜんまいは、綿毛に覆われた渦巻き部分が扁平だ。彼が指を差して採らないように言った男ぜんまいは、渦巻きがつぶれた球体のような形で、小さな胞子がびっしりと付いている。また、女ぜんまいよりも背が高い。触ってみると、男ぜんまいは表面がざらざらしているのに対し、女ぜんまいは滑らかで柔らかい。
 薫は言われた通り、女ぜんまいと呼ばれた方だけを根本から折って籠に入れていく。付近の女ぜんまいを粗方採ってしまうと、川村はまた道なりに歩き始めたので、薫も後を追う。数メートルほどで次の群生を見つけ、採取する。この繰り返しが二、三度続くと、川村は道を外れて草むらの中に分け入った。小枝や雑草、落ち葉を踏みながら、薫も彼から離れないように付いていった。


 ぜんまい以外の数種類の山菜を含め籠一杯に採り、薫の足取りも重くなってきた。時刻は正午を回った頃で、良い具合にお腹も空いてきており、薫は今日の昼食のことを考えていた。午後には宿に戻り、谷岡の作った料理を召し上がる予定なのだ。
 まだ見ぬ食事に胸躍らせながら歩いていると、明らかに自然の物ではない、大きな木製の箱が三つ並んでいるのを発見した。そのうち一つは無数の蔦で覆われており、見える部分は広範囲が黒く変色し、朽ちかけている。残りの二つは多少黒ずんでいるが、まだ綺麗に形を保っているように見える。
 あれは何だろうと薫が考えていたその時、川村が何かを見つけたらしい。
「ああ、今日やったね」
 呟くや否や、小走りでそちらの方に向かう川村を見て、薫は彼が何を見つけたのかまだ分からなかったが追いかける。「それ」が近付いてきて、木々の隙間から漏れる光の筋が薄くなり、その輪郭が瞳に鮮明に映った時、薫は自らの目を疑った。
 太い木の枝に縄を掛け、男性が首を吊っていたからだ。
 こちらに背を向けているため表情は見えないが、だらんと力無く下がる手足と、糞尿が滴り落ちる様子から、彼はもう既に死んでいることが推測された。
 薫はその背格好に見覚えがあるような気がした。だが、この村にやってきて出会った人間は、わずか三人しかいない。山菜採りを教えてくれた川村、旅館で世話をしてくれた谷岡、そして村まで案内してくれた山本。
 遺体に駆け寄る薫の脳裏に彼らの顔が浮かんだ時、少し強い風が吹き、吊るされた体が横方向に回転してこちらを向いた。
「山本さん……?」
 その苦悶に満ちた表情と今しがた頭に浮かんだ優しい表情とは似ても似つかないのだが、死んでいるのは山本だとすぐに理解した。
「どうして……」
 昨日話した限りでは、自殺しそうな素振りや雰囲気、陰鬱とした様子など全く見られなかった彼が、現在このような姿になっていることに薫は困惑し、怯えるように数歩後退した。
 そんな薫とは対照的に、川村は臆することなく遺体の元へと歩みを進め、首を吊す縄を鎌で切った。宙に放り出された遺体が地面に落下し、数本の枝が折れるような音が鈍く響いた。反射的に薫は目を背けてしまう。
 腰のベルトに引っ掛けている鞘に鎌を差した川村は、山本の腕を自分の首に回して彼を支えた。おそらく村の方まで運ぶつもりだろう。
「薫くんもそっちん腕ば支えてもろてよか?」
 声をかけられた薫は、微かに震える足に鞭打つ。鎌を背負った籠に入れると、川村と同様に、冷たく硬くなった山本の腕を首に回す。そして二人は来た道を引き返し始めた。

 村に戻ってくると、薫が泊まった宿よりも更に道を進んだ村の奥にある、長家のような木造の建物に遺体を運び込んだ。村の集会所として使われている建物らしい。
 玄関には遺体を収容するための木棺が置いてあったので、川村と二人で棺に遺体を寝かせる。森の中で見つけた木棺と同じ物のようだった。よく見ると釘などは使われておらず、木材を上手く嵌め込んで作られている。
 いつの間にか集まっていた村人達が、次々と遺体の周囲に花を飾っていったその様子に、薫は違和感を覚えていた。
 川村が遺体を見つけた時の、山本が自殺することを知っていたような口ぶり。その際彼には動揺も感じられなかった。そして既に木棺が用意されていること。
 それに加え、山本が死んでいたことは薫も川村もまだ誰にも伝えていなかったはずなのに、村人達が集まって花を手向けている。彼らが山本の死を知るタイミングは無かったし、たとえ村に戻ってくるところを誰かが見ていて全員に知らせたとしても、花を用意する時間などあるはずがないのだ。
 山本が亡くなることは、予め知られていたとしか思えない。
 村への不信感を抱き考え込んでいた薫は、村人が抱きかかえていた双子の赤ん坊の泣く声で現実に戻ってきた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
 放心状態だった薫を心配してか、小学生ほどの少年が袖を引いていた。周囲の村人も薫を訝しげに見つめている。
「ああ、ごめんね、大丈夫だよ。少しぼーっとしてただけ」
 薫は笑顔を作って彼に答えた。一瞬不気味に見えていた村人の目は、もうこちらに向いていない。
「薫くん、谷岡さんが昼ごはんば作っとうんやろ? こっちはよかけん、食べちこんね。今から向かうち連絡はしとくけん」
 川村が薫の肩を軽く叩いた。薫はもう食欲など微塵も感じられないのだが、彼や谷岡の好意を無碍にもできず、その言葉に従うことにした。


 伏野荘の前には三台の大型バイクが停められており、玄関に三人の若い男性が立っていた。男性達は外部からやってきたのだろう。昨日薫が初めてやってきた時のように、谷岡が応対している。薫に気付いた谷岡は「すみません」と断り、一旦彼らへの説明を止めて薫へと声をかけた。
「薫くん、お帰りなさい。昼食は部屋に用意していますので、お召し上がりください」
「分かりました。ありがとうございます」
 薫は礼を言うと、男性を避けて端の方に靴を脱ぎ、廊下に上がる。背後で三人への対応が再開されたのを耳に入れながら、部屋へと向かった。
 部屋のテーブルには、ざるに盛り付けられた蕎麦とつゆ、大葉と大根の敷きづまの上に並べられた魚の刺身が用意されていた。敷かれていた座布団に腰を下ろし、割箸の先を両手の指で摘むと、親指と人差し指に軽く力を入れる。
「いてっ」
 箸の上の方が斜めに割れてしまい、鋭く尖ったその破片が人差し指の腹を刺した。血がぷくりと小さな玉を作る。ふと、箸が変な形に割れてしまうと受験に落ちる、という都市伝説があったことを思い出した。
 側に置いてあったおしぼりで軽く血を拭き、気を取り直して刺身に箸を伸ばした。鮭のように半透明で薄桃色の刺身を口に入れると、口の中で柔らかく溶けていった。タイやヒラメのような旨味が口全体に広がる。
 気付いた時には皿の上から刺身が消えていて、大根の敷きづまと大葉が寂しそうに残っていた。
 薫は蕎麦をつゆに付け、口へと運ぶ。非常に芳ばしい香りで、歯応えがしっかりとしている。つゆは甘さ控えめで、香り高い蕎麦を引き立てるようなあっさりとした味だ。
 山本の死を目撃して食欲を無くしていたはずの薫だったが、用意されていた食事を目にして、ひとたびその味を堪能してしまうと、純粋に食事を楽しんで最後まで平らげていた。美味しい食事は人に多幸感を与え、心を満たす効果があるという。気分が沈んでいた薫もその効果を多大に受けたという訳だ。
 それから少し部屋で待っていると、谷岡がやって来た。
「お構いできずにすみませんでした。お客様の対応をしていたもので……。本日はお仕事お疲れ様でした」
 正座して頭を下げる谷岡に対し、薫も同じく正座して食事の礼をする。
「いえ、気にしないでください。ご馳走様でした。今回もとても美味しかったです。……ところでさっきの三人は?」
 谷岡は立ち上がって食器を纏め始める。そしてカチャカチャと皿を鳴らしながら答えた。
「たまたまこの村を通りかかったそうです。お風呂に入りたいとのことだったので案内してきました」
 こんな山奥を偶然通りかかるなどということがあるのだろうかと薫は訝しんだが、キャンプを伴い長距離を数日間かけて行うツーリングも存在するようなので、その過程で近道をするために山の中を通るというのも珍しくはないのかもしれない。
「そうなんですね」
 薫は一仕事終えて汗もかいたので風呂に入りたかったのだが、もう少し時間を置いてから風呂に向かうことにした。
 数秒と経たないうちに谷岡はお盆の上に食器を全て重ね、持っていくだけとなった状態で手を止めた。そして逡巡するように目線を下に落としたが、やがて決心したように口を開く。
「山本さんのことは、ショックでしたでしょう。薫くん達が見つけたとお聞きしました」
 まさか谷岡の方から山本の話題を出してくるとは思っておらず、薫は彼女の顔を二度見した。山本の死にはあまり触れない方が良いと思っており、また薫自身積極的に触れたい話題ではなかったからだ。
「はい、本当に驚きましたよ。……それにしても、この村は情報が回るのが早いですね。僕らが山本さんの遺体を運んだ時にはもう沢山の方が集まっていましたし」
 薫は気持ちを少しでも落ち着かせるべく、山本の死そのものではなく、その後の周囲の行動を話の中心に置き換えた。
 するとまたもや答えに詰まり、考え込むように目を逸らした谷岡は、歯切れが悪そうに言葉を漏らす。
「実は、その、山本さんが死ぬことはみんな知っていたんです」
 集会所のような建物で薫が覚えた違和感と推測はやはり正しかったようだ。山本の死を予め分かっていたから、村人達はあれほどまでに迅速に別れの儀式を執り行うことができていたようだ。
「……どうしてですか? 昨日はあんなに」
 衝撃や村への不信感、恐怖により語気が荒くなった薫の言葉を遮るように、谷岡は説明する。
「村の外から来た薫さんには理解できないことかもしれませんが、この村の人々は魂の不死を信じているんです」
「不死、ですか?」
「はい。伏野村の人間は、肉体が老いると魂を次の命に移すんです。この村では、寿命や病気で亡くなった人の魂は現世に残り、次に生まれる子に宿ると言われています」
 谷岡は自らの腹部をゆっくりと撫でる。
「ただし、村の女性のお腹に新たな命が宿った時、そこに収まるべき村人の魂がない場合は死産になるとされています。なので、その時点での村の最年長の者が自ら命を断ち、その子に魂を授けることになっています」
 淡々と事実を告げる谷岡の物言いに、薫の頭は理解を拒んでいた。二十一世紀になり早十年が経とうとしている現代に、そのような前時代的な、それどころか古代まで遡らなければ類似のものはないとも思えるような信仰と慣習を続けている村が存在するなど、考えもしなかったのだ。
「じゃあ、えっと、待ってください。山本さんが自殺したのは、誰かのお腹の子になるためってことですか」
 冷や汗が薫の頬を伝っていく。
「ええ、そういうことです」
 村人の魂は生まれ変わりを経て連綿と受け継がれていく。魂が不死の村。そこから伏野村という名に転じたのだと谷岡は語った。



 食器を持った谷岡が厨房の方へ戻っていき、部屋は再び静まり返る。網戸の向こうからは、鈴を転がしたような虫の鳴き声や、録音でも流しているかのように一定の音色を発する鳥の声、風で木々の葉が擦れる音が耳に入ってくる。自然そのものを凝縮したような世界に、心が洗われるような感覚だった。
 しかし、谷岡の言っていた狂気的とも言える信仰内容を思い出して身震いした。そもそも信仰と狂気は紙一重とも言える。
 谷岡に聞いた話を整理すると、死んだ村人の魂は次に村に生まれる子へと引き継がれ、死者がいない場合は最年長が死ぬように定められている。また、彼女は「村人」「村の人間」などと殊更に強調したように思えた。
「それなら村以外の人間に対してはどう考えられているんだろう」
 そのようなことを考えていると、突然背後で扉が強く開けられる音がして、薫は肩を震わせた。
「お、いたいた」
 ノックもせずに激しく扉を開けて部屋に入り込んできたのは、昼間に玄関で見た三人組だった。
「何か用ですか?」
 薫は平静を装い、作り笑いを浮かべる。
「やっぱり間違いないって」
 扉を開けた男の後ろにいた彼より少し背の高い男は、薫の問いにも答えず、目を細めて仲間の肩越しに薫の顔を凝視して声を上げた。
「あんた、橘薫だろ? あの女がそう呼んでたからピンと来た」
「いえ、僕は松木薫です」
 薫は即座に否定して名乗ったが、別の男が一歩前に出てこちらに指を差し向けた。
「しらを切っても無駄だ。あんたの顔はニュースで有名だからな」
「捕まえて警察に突き出せば賞金が貰えるんだったよな?」
 どうやら薫が何を言ったところで、彼らをやり過ごすことは出来ないようだった。そう理解した薫は、諦めたように溜め息を吐いた。
「ここなら安全だと思ったのにな」
 三人は薫の呟きを聞いて、彼が自分達の想像する通りの人物であることを確信したように顔を見合わせた。
「あんたには恨みはないが、俺達のために捕まってくれ」
 じりじりと滲み寄ってくる三人に扉付近は塞がれており、唯一の窓は閉まっている状態なので開けようとしている間に捕まってしまうだろう。逃げ場を失った薫は、一か八か体当たりをして強行突破を狙った。しかし、薫より背が高く筋肉もついた男性三人には敵うはずもなく、真ん中にいた一人を突き飛ばした程度で勢いは殺され、他の二人に腕を拘束されてしまった。
「いってえな……」
 薫が突き飛ばした男が、壁にぶつけて打った後頭部を押さえながら立ち上がる。そして床に座ったまま腕を掴まれて動けない薫の顔面に蹴りを入れた。左頬と鼻の奥に熱を感じると、刹那に口の中には鉄の味が広がり、鼻からは血が流れて床に滴り落ちた。
「大人しくしてくれよ」
 男は足を曲げてかがみ込み、薫と目線を合わせてそう言った。
「嫌だね。僕だって捕まりたくないんだよ」
 薫は彼の顔に血の混じった唾を吐きかけた。動揺した隙に腕の拘束を解こうと試みるが、力を入れても二人の腕はびくともせず、立ち上がることさえ困難を極めた。
「何しやがる!」
 怒った男性は、右の拳を薫の鳩尾にめり込ませた。まるで結び目を解かれかけたゴム風船のように、薫の口から空気が漏れ出る。更に顎を殴り、返す拳で右頬を殴打する。その瞬間、薫には正面の男の輪郭が揺れたように見えた。部屋の壁が揺蕩うように歪んで、視界が狭まっていく。
「あんまりやると死んじまうんじゃ……?」
 後ろの一人が少し慌てた様子で声をかけていたが、薫の耳にはもう届いていなかった。

◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎

 目を覚ますと三人の男性は部屋から消えていて、畳には薫自身の物と思われる血が何箇所か滲んで水玉模様を作っていた。薫は痛みのない頭を押さえて呟いた。
「そうか、僕は死んだのか」
 薫は世にも珍しい不死者だった。数週間前に駅の階段で足を滑らせて落下して、首の骨を折って死んだ状態からすぐに生き返ったことで不死が判明し、瞬く間に人々に知られると、彼は追われる立場となってしまった。追手を避けて近くの山に逃げ込み、迷った末に山本と出会い、現在に至る。
 世界では、薫を含めて不死の人間が既に四人確認されている。いずれも人類の不老不死の研究の礎として捕まっていることが知られており、彼らが自由と尊厳を奪われていることは想像に難くない。
「あの三人はどこに……」
 廊下から顔を出してみるが、近くに人が居る気配は全くない。おそらく殺してしまった薫を拘束するために縄か何かを探しに行ったのだろうと推測される。薫が死んでどれだけの時間が経ったのか、正確な時間は不明だが、窓から差し込む夕陽によってかなりの時間が経過していることは分かった。
 今のうちに逃げようと思い、薫が立ち上がったその時、廊下の軋む音が耳に入った。足音は一人分。壁に張り付いて恐る恐る廊下を見やると、谷岡が料理を運んできているのが見えた。薫は一瞬安堵したが、彼らによって薫の特殊な体質が谷岡らにもバレてしまっている可能性が脳裏を過ぎる。だが彼女は皿が数枚載ったお盆を両手で持っており、少なくとも薫を捕まえようとしている様子ではないし、万が一不審な動きがあっても彼女一人相手なら逃げられるだろう。
「薫くん、夕飯をお持ちいたしました」
 いつもの笑顔を浮かべ、特に変わった様子のない谷岡がテーブルに皿を並べる。白米が盛られた茶碗以外の四皿は、全て肉料理のようだ。おおよそ一人で食べ切れる量ではない唐揚げ、同じく大量のハンバーグ、肉たっぷりの野菜炒め、そして馬刺しのような物が綺麗に並んでいる。もちろんレタスや山菜なども皿の彩りのために添えられているが、あくまでもメインは肉であり、野菜の主張は薄い。
「ありがとうございます。今回は肉が多いんですね」
「ええ、先程村の猟師が獣を狩猟されまして、新鮮なお肉を使用した料理を用意させていただきました。この他にもつ鍋もあります」
「でも、さすがに量が多すぎないですか?」
 テーブルいっぱいに広がる料理を眺めて薫が問うと、谷岡はバツが悪そうに微笑んだ。
「久しぶりの大きな肉で奮発してしまって……。食べ切れる分だけ食べていただければ結構です」
「そうですか。それではいただきます」
 薫はいつも通り手を合わせる。食べ切れずに残ってしまった料理が勿体無いとは思うが、流石にこの量を一人で平らげるのは物理的に不可能だろう。
「そういえば、昼間の三人も同じ物を食べているんですか?」
 遠回しに彼らの所在を確認する。
「いえ、彼らは少し前にお帰りになられました」
 谷岡はそう答えた。薫を捕まえようとしていた彼らが結局何もせずに帰ったというのはにわかには信じ難いが、彼女がそう言うのであればそれ以上尋ねようがない。
 薫は箸を手に取り、食事を始めることにした。
 赤黒い刺身を口に入れると、豚肉に似た味だがそれ以上にドロっとした脂と血の混じった臭味が口いっぱいに広がり、お世辞にも美味しいとは言えない味だった。
「あの、これ、何の肉ですか? ……猪?」
 思わず眉を顰めたが、不味そうな顔をしては申し訳ないと無理やり口角を上げ、茶で口に残った肉を飲み込んだ。豚肉に近く、山に出現する獣ということなら猪ではないかと予想する。
「……ええ、そうです。猪の肉を食べるのは初めてでしょう」
「そうですね。なんというか、だいぶクセが強いです」
 口直しになるかどうか分からないが、見た目は普通の唐揚げに見える物を箸で掴み、口に放り込む。こちらはしっかりと下味が付けられているようで、生姜とにんにくの香りでマスキングされており先ほど感じた臭味はなかった。少し硬めではあるが、噛み切れないほどではない。咀嚼回数が増えて顎が疲れるが、刺身に比べれば断然美味しく、薫はこちらを三個食べた。
「唐揚げの味付け、良いですね。美味しいです」
「そう言ってくださると嬉しいです。ありがとうございます」
 肉の合間に、唐揚げに添えられた山菜のお浸しを食べる。その形状を見るに、おそらく昼に薫達が採ってきたゼンマイだ。さっぱりしたつゆの味と少し苦味のあるゼンマイがマッチしており、非常に箸が進む。
 ハンバーグは肉汁たっぷりで弾力もあり、牛肉と豚肉の中間のような味がした。谷岡の特製らしい、和風のソースが爽やかでこちらも食べやすい。
「もつ鍋はどうされますか?」
 しばらく薫が食事を堪能していると、谷岡はそう尋ねた。
「ああ……少しなら食べれますよ」
 折角作ってもらったのだし全く口を付けない訳にもいかないという、妙な思いやりのような精神が働き、もうだいぶ満腹に近いのだが薫はつい食べると答えてしまう。
「では持ってきますね」
「鍋は重いでしょうし、僕も何か手伝いますよ」
 立ち上がる谷岡に声をかけ、薫も立ち上がる。
「いえ、大丈夫ですよ。お客様に手伝わせる訳にもいきませんし、調理場は汚れているので……」
 そう言葉を残して谷岡が部屋を出ると、薫は座ることも歩くこともなく、行き場のない感覚でただ立ち尽くしていた。しかし、金も払っていない自分が手伝いの一つもせず、ただもてなしを受けるだけではやはり悪かろう。調理場が汚れているのであれば、行って片付けでも手伝おう。そのように考えた薫は、谷岡が向かった調理場へと足を運ぶことにした。
 電気に小さな虫が誘われる廊下を軋ませながら進み、調理場を探す。玄関のすぐそばに暖簾のかかった、いかにも関係者以外立ち入り禁止のような部屋があったことを知っており、谷岡もいつもそちらの方面から料理を運んでくるため、おそらく調理場はそこだろう。
「谷岡さん、やっぱり僕も何か手伝いますよ。片付けとか……でも……」
 暖簾を右手で押し上げ、部屋の中の光景を目にした薫は、言葉を失った。
 調理場の中央にある大きなテーブルには、先程薫を殺した三人の男性の頭部が置かれていた。三人とも恐怖に歪んだ顔をしており、瞳孔の開いた目でこちらを凝視しているようで、薫は足に力が入らなくなり床に尻餅をついた。
「来なくていいと言いましたのに、どうして来たんですか?」
 鍋を煮込みなおそうとコンロに立っていた谷岡は、この異常な状況にも関わらず、いつもと同じような声音で語りかける。
「え、でも、これ、なんで、え?」
 膝が震えて立ち上がることさえままならない。テーブルからは彼らの血が滴り落ちて、床板に染みを作っていた。部屋の隅には残飯入れと思しきバケツが三つあり、それぞれ中身が一杯になって溢れかけている。バケツからはみ出した細長いソーセージのような血塗れの管や、拳大の空豆のような物体が、小腸や腎臓といった人間の内臓であることはすぐに分かった。不死者である薫は、自分自身の腹からこぼれ落ちた内臓を目にしてしまったことが過去にあったからだ。
 そして、ここに彼らの死体の一部があるということは。
 その続きを脳内で考えるより早く、喉の奥から熱い物が湧き上がってきた。我慢することもできず、四つん這いになって血の広がる床に吐瀉物を撒き散らす。
「あらあら……薫くん、吐き出してしまっては、彼らの魂は浄化されませんよ」
 薫が激しく嘔吐しても、谷岡は至って冷静な様子で薫に近寄り、吐瀉物に膝をつけて正面に正座した。そして薫の吐瀉物の中からまだ消化されていない小さな肉の塊を素手ですくい集め、あろうことか薫の口の中に押し込んだ。
「彼らの魂は穢れてしまっていたんです。薫くんが食べて、飲み込んで、清めなければいけないんですよ」
 涙で谷岡の顔が滲んで見える。口の中に広がる血の臭いと胃酸による刺激とその味が、薫の吐き気を更に促進した。谷岡が薫の口を押さえていたので、胃から逆流した液体が行き場をなくし、鼻から吹き出す。つんとした臭いが痛みを伴い、鼻の奥を貫くように刺激する。
「薫くん、大丈夫ですか? 頑張って下さい」
 谷岡は吐瀉物に塗れた右手で薫の頭を優しく撫でる。そしてその頭をゆっくりと自分の膝に乗せた。
「なんで……こんな、ことっ……」
 嗚咽を漏らしながら、薫は谷岡に問いかける。
「私達の村では、村の外に住む人間は神様が姿を変えて地上に降りてきていると考えられてきました。私達の村に訪れた神様を手厚くもてなし、最終的にその魂を神の国に返すことが、村に住む人の使命なのです。また、自然や食べ物、生き物に敬意を持たない者は魂が穢れており、その魂を浄化することも我々の使命です。そしてその方法が、心の清い神様に彼らの肉体を食べていただくことなのです」
 谷岡はまるで幼い子供をあやすように、薫の頭や背を撫で続けた。薫が我慢できずその膝に吐いても、嫌な顔一つしない。
「一部でも飲み込んで下されば良いのです。頑張って、薫くん」
 幾度となく逆流した胃液で喉が焼けるように痛む。咳き込む薫を介抱するように、谷岡は優しくその背中をさすった。
 薫が諦めて口の中にある「彼らだったモノ」を飲み込むと、谷岡はえらいですねえと彼を褒め、まるで愛犬を愛でるようにその頭を撫で回した。薫の目は既に光を失い、何も考えられなくなっていた。



 両の手のひらに鋭い痛みを感じて意識を取り戻すと、薫は祭壇のような木製の棺の中に寝かせられていた。首を傾けると、手のひらには五寸釘が突き刺さって、下の棺にまで貫通していた。薫の叫び声が神社の境内に響き渡る。手首、足首、腹部には鎖が巻き付けられており、薫の体は完全に固定されていた。
 軽く頭を上げると棺の周囲を村人達が囲んでいるのが見え、祈るように合わせたその手には数珠のようなものが握られていた。
「目を覚ましてしまいましたか」
 薫の頭側に立っていた、神主と思われる白い袴を纏った初老の男性が、村人で作られた円から一歩前に出る。
「これより送りの儀を始めます」
「待って下さい! どういうことなんですか!」
 薫は手のひらの痛みを堪えながら、泣き叫ぶように尋ねた。微かに体が動くだけでも釘と手の接する部分が擦れ合い、傷口を抉る途方もない痛みが薫を襲った。鎖がジャラジャラと音を立てる。
 男性は何も答えることはなく、薫の足元に立っている女性に合図を送った。女性は巫女装束に身を包んでおり、手には火の点いた松明を持っている。そして彼女は煌々と燃えるそれを、薫が入れられた棺の下部に押し当てた。薫からは見えないのだが、棺は石の台座に藁を並べた上に載せられており、今その藁に火が移されたのだ。弾けるような音を発しながら藁や木棺の底が焼け始め、薫の足元から黒い煙が上がっていく。
 生きたまま焼かれようとしているという、自分が今置かれている状況を完全に把握してしまった薫は必死に叫ぶが、村人達は一人として助けようとする素振りも見せない。ただ祈るように手を合わせ、何か呪文のようなものを唱え続けているだけだった。
 次第に火は藁全体に広がっていき、棺の底面が熱くなっていく。踵に火が当たり始めると、反射的に足を上げようとして鎖が足首を削った。滴る血は炎に触れ、音を立てながら蒸発する。数分と経たずに底面の隙間から抜けた火が薫の体に達し、まず衣服が燃え始めた。皮膚の表面が爛れ、全身を貫くような痛みと煙による息苦しさが薫を襲った。涙を流しながら咳き込む薫は、一酸化炭素中毒により意識を失った。

◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎

 薫の意識が戻ると、服は焼け焦げて全裸となり、火は大きく木棺全体を燃やしていた。復活した肌や髪が瞬時に焼け始め、皮膚が泡立つ。体内の水分が蒸発して筋肉が縮み、薫の意思とは無関係に体が屈曲しようとして鎖に阻まれる。腹部の表面に出来た大きな水膨れが弾けると、風船の空気が抜けるような音を上げながら噴水の如く血が吹き出した。背中側は燃え上がる炎で炙られて既に炭化している。皮膚の薄い肩や指の骨は露出し、焼け落ちた肉が焦げるにおいがあたりに充満した。痛みに叫ぼうにも、薫の周囲の酸素は既に燃焼し失われていたため、金魚のように口をパクパクと開閉しただけだった。

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 木棺は完全に朽ちてしまい、手のひらに刺さっていた釘は抜けて炭の上に転がっていた。数度生き返った薫の目には、これだけ焼けても生きている自分を目にして恐れ慄く村人達の顔が、燃え盛る火の向こうに映った。薫が死に至ると、焼け朽ちた全身が再生し復活を果たす。その様子を目の当たりにした村人達の中には、何度燃えても生き返る彼を、信仰上の神ではなく本物の神なのではないかと思い始める者も少なくはなかった。

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 ついに炎が消えてしまい、石壇に積もった灰の上には五体満足で拘束される薫が残った。火が消えても鎖はまだ熱を持っているため、鎖の触れている部分のみが火傷に爛れていく。
 木棺が燃えてなくなった分、鎖に余裕が生まれたため、薫は上半身を起こすことが出来た。境内では石畳の左右にある灯籠に灯された火の光が揺めき、周囲を照らしている。辺りを見渡すと、村人達は地面に膝をつき、薫を崇め奉るように手を合わせていた。新月で星が輝く上空では、薫が燃え上がって発生した黒煙が薄く広がり分散しようとしていた。
「薫さんは、本当に神様だったのですね」
 儀式の進行を促していた神職の男性が、目を輝かせながら邪悪にも見える笑みを浮かべた。薫は返す言葉も浮かばず、ただ困惑して呆然と沈黙していた。
 薫に火を放った巫女装束の女性は、いつの間にか包丁を手にしている。
「青木さん、準備をお願いします」
 神主の男性に青木と呼ばれたその女性は頷くと、薫の口に布の塊のようなものを詰め込んだ。そしてその白い細腕で薫の右腕を掴み、内側を上に向け、肘窩付近より少し手首側に刃を当てた。男性の方は分厚いゴム手袋を付け、薫の手のひらを石壇に押さえつける。その行為に薫は背筋を凍らせ、腕に力を入れて振り解こうとするが、押さえられた右腕はほとんど動かせない。青木は包丁を小刻みに前後させ、薫の腕の肉に食い込ませていく。血が滲み出て石壇の灰に染み込む。声にならない叫びが布に吸収され、微かな喚きが薫の口から漏れた。やがて包丁は靭帯を切断し、薫の腕には力が入らなくなる。尺骨と橈骨に当たって包丁の動きが止まると、別の村人が持ってきた鉈を包丁の刺さっていた場所に刺し替え、骨を強く擦った。少しずつ骨が削れていく過程で、激しい痛みにより薫は失神する。青木が鉈を前後すると、それに伴い意識を失った薫の体がビクンと反応して小さく震えた。
 数分で薫の右腕が完全に断たれ、その腕を青木が持ち上げると、村人からは歓声が上がった。白を基調とした巫女装束は薫の血に塗れている。青木の隣に立つ村人が抱えていた竹製の編み籠に、切り落とされた薫の右腕が載せられる。そして同様の行為が左腕でも行われた。左腕が完全に切断される頃には、薫の命は事切れていた。

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 何度目か分からない死を迎えた薫は、生き返ってもその意識を保つことが困難になっていた。生きたまま幾度となく腕や足が切断され、腹部を切り開かれて内臓が取り出され、薫が死亡して失った部位が復元されると、再びそれらの行為が繰り返される。気が狂うほどの苦痛を受け続け、薫の心を虚無が埋め尽くしていた。

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(以下、ある記録より抜粋)
 二〇〇九年十二月、○○県○○郡北部の山中で、市町村合併に際する調査により地図に記載されていない村が発見された。人口はわずか七十九名、面積はおよそ三千平方メートル程度の極々小さな村だった。名を伏野村といった。
 村の近辺にある大岩の前からは多数の人骨が出土し、その近くでは一人分の人骨が納められた木棺が朽ちかけた物を含めて四つ発見された。身元は不明である。
 また村人達の家からは多数の人体の一部が押収され、この村では人肉食が行われていたことが発覚した。DNA鑑定の結果、各家庭から押収された四本の右腕、六本の左腕、九本の右足、四本の左足、約九キロの内臓は、全て同一人物のものであることが判明。更に村の最奥に建てられていた神社に鎮座する石壇には、鎖で拘束された男性を発見。男性は二〇〇九年六月に指名手配されたのち行方不明となっていた不死の少年、橘薫であり、先に述べた腕等はすべて彼のものであった。発見当時、彼は強い精神的ショックにより重度の記憶障害と心神喪失、幼児退行、不安障害等を併発しており、発見者との会話もままならない状態であった。



「彼は、神様をもてなし天上の世界へとお返しする儀式に抗い、もてなしの礼である肉体を半永久的に我々に与えて下さっています。我々は彼を崇めその血肉を食することで彼と共に永遠を生き、真の不死となるのです」

不死の村に棲む人

不死の村に棲む人

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2022-09-18

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