今日という日の朝
命の有限さを嘆いても、亡びは止められないのだと、だれかがおしえてくれた。水族館の、老齢のイルカだったか、それとも、動物園の、いつも眠ってばかりいる、白い虎だったか。
ぼくは、あくびをしながら、となりにいる、なまえもしらないひとの寝顔を眺めて、でも、かけらも、不幸だとは思わないし、かといって、微塵の幸福も感じない。そういうことを致すための、ホテルのベッドは、いつからこんなに、高級ホテルのような、寝心地の良いベッドになったのだろう。つるんとしたひたいと、うつくしい鼻筋をもつ、なまえもしらないひとが、今日という日を迎えたときに脱ぎ捨てた、昨日までの皮は、おもしろいくらいに縮んで、くすんだ灰色のカーペットのうえに、ごみくずのように落ちていて、泣きたいような、叫びたいような、そんな義理はないのに、そういう感情にさせる虚しさを湛えていた。
今日は、土曜日だ。果たして、この街の、どれくらいのひとが、休日、なのだろうかと、ふと思い、そもそも、土曜日イコール休日につながる思考は、世間の植えつけた、一種の洗脳めいたものに近いと思い直し、ぼくは静かに、ベッドから起き上がった。
薄暗がりのなかでもわかる、みずみずしく、新鮮な皮膚をてにいれた、なまえもしらないひとは、まだ、すやすやと、安らかな寝息をたてている。
今日という日の朝