夏水仙の騎士

夏水仙の騎士

1

蘭がいた。
背を向けてへたり込むように座っている。声をかけたが動かない。反応がない。
「蘭?」
一哉ちゃん、そう呼んで振り返ることを期待して蘭の名前を呼ぶ。
「蘭ちゃん」
肩に手をかけると、崩れるように蘭の身体が倒れ込む。目に光はない。涙の跡だけが頬に残る。
「蘭ちゃん!?」
力なく倒れた蘭を抱き上げる。蘭は動かないし言葉も発さない。瞳は何も映さない。
「やだよ……名前呼んでよ、蘭ちゃん」
目から涙を溢し、一哉はひたすらに蘭の名前を呼ぶ。

◇◇◇
嫌な夢だった。
自らの叫び声で起きるほどであった。
頬を濡らすのは、涙か冷や汗かは定かではない。
蘭を力いっぱい抱き締めて声を上げて泣いたところで悪夢から解放された。

今日は合唱部の練習がある。
朝食を食べようと部屋から出ると、清子(さやこ)が鬼みたいな怖い顔で睨みつける。
着崩していない女子高の清楚な夏服が似合う清子だが、一哉にとって清子は凶暴な鬼婆でしかない。
「カズ、あんた朝からうるさいわ」
鬼婆こと清子姉に怒られた。
清子の地声は美声と褒められるほどの澄んだソプラノなのに、弟をドヤす時だけはドスがきいている。
「しょーがねえべした。嫌な夢見た」
「ははぁ、蘭ちゃんに振られた夢か?」
「それより嫌な夢」
憎まれ口を叩くはずの清子が珍しく同情のまなざしを向けるが、一哉は既に清子に背を向けて階段を降りていた。

この弟はいつの間にか姉の身長を超えた。

「なあ、カズ」
「んー?」
「蘭ちゃんが気がかりなら慧ちゃんかゴウダ君に聞いたら? あと、悪い夢見たら10時までに誰かに話すと正夢にならないってさ」

◇◇◇
台所に入ると兄が悪夢にうなされたことなど露知らず、花梨(かりん)がシリアルを美味しそうに食べている。
「おはよー」
「うっす。早いな」
「ラジオ体操さ行ってきたの。見てぇ、蚊に喰わっちゃ」
清子が花梨と同じシリアルを食べながら談笑する中、一哉はイマイチ箸が進まない。

O型は蚊に喰われやすいんだと。
えー、そうなんだー。
むやみに搔くなよ? 血だら真っ赤になっから。
わかったー。

「兄ちゃん、食べないの?」
「合唱する時は腹いっぱい食わないの」
花梨は兄の言い訳を真に受ける。確かにそのとおりだが、それが半分嘘の言い訳だと知っているのは清子のみ。
「姉ちゃん食って」
そう言って一哉は白飯に目玉焼きを乗せた茶碗を清子に差し出す。
茶碗の中身は半分ほどなくなっていた。普段なら茶碗二杯はおかわりするのだが。
「バター醤油なら食欲出ると思ったけどだめだった」
「自分から作っておいて何だよ? 私も合唱部の練習あるんだけど?」
あきれて悪態をつきながらも清子は半分減った目玉焼きご飯をかき込む。バター醤油味は食欲をそそる。
「ねー、兄ちゃーん」
間延びした声に気付き、花梨に顔を向ける。
先ほどまでシリアルのチョコレートがしみ出てアイスココア状に成り果てた牛乳を豪快に飲んでいたはずの花梨は、二重の大きな目で兄を見上げる。
「最近、蘭さん来ないねぇ」
「……蘭もオーケストラで忙しいんだろ」
えー、と不満げな声。貧乏ゆすりをするように花梨は身体を揺らして抗議する。
「私、蘭さん好きなのにぃ~。もう一人のお姉ちゃんにしたいもん」
花梨。ささやき声で呼ぶ清子は花梨に耳打ちを始める。
「カズのアホと蘭ちゃんが結婚すりゃいいのさ」と聞こえたのは言うまでもなく、一哉は耳まで真っ赤に染めて咳き込んだ。

2

◇◇◇
パジャマ代わりのTシャツとハーフパンツから制服に着替え、自宅を出ると合田康範が野球部のユニホーム姿で中学校へ向かうところに出くわす。
一哉が合田の名を呼ぶ前に合田から「おいーっす!」と挨拶をされた。

「音澤の夢かぁ」
二人でいる様子を牛若丸と弁慶に喩えられるだけに、この頃の一哉と合田の体格の差は著しい。
合田が平均より大柄なだけなのだが。
「姉ちゃんが悪い夢を見たら午前10時までに話すと正夢にならないって言ったんだ」
「じゃあ正夢にならねえな。俺よぉ、もし飛鳥が私立行かねえで泉清さ通ってたら、音澤も少しは違ったかなと思うんだ。飛鳥は真っ正直だからな。お前の性格なら、周りの目お構い無しで音澤のこと守れるだろ」
「蘭、なんで公立中選んだのかな。頭いいから翠楓も聖桜も行けたのに」
そう口にするも、蘭が経済的な理由を顧みて公立中学へ行ったことを一哉は知っている。
音楽家を目指す蘭。
音大へ進学するなり海外へ留学するとなれば莫大な学費がかかることを見越しての選択だ。
「兄弟が三人いるからだっぺよ……って、飛鳥も三人兄弟なんだった。幸い音澤もダチはいるからなんとかやっているけどよぉ、俺だったら部活追い出されでもしたら転校するわな」
「やっぱり本当なのかよ。蘭が吹奏楽部さ追い出さっちいって!?」
ただでさえ目千両の一哉が(まなこ)を大きく見開く。
その気迫に合田は怯みながら二の句を紡ぐ。
「お前、ずいぶん福島弁に毒されたなぁ。音澤と大槻エリって女子が標的にされたんだ」
「エリちゃんっていつも蘭とつるんでる子だよね?」
一哉も大槻エリは知っている。
蘭とつるんでいる以外に知っているといえば、どんくさいが憎めない、穏やかな面構えの純朴な少女という人物像だ。

「6月に中体連あったっぺよ?」
「うん」
「吹奏楽部が野球部の応援さ行くんだけど、わざと違う時間帯を教えられたんだよ。それも部の連絡網であたかもそれらしい風を演じて」
「何だよそれ?」
「でもよぉ、電話出たのが音澤の母ちゃんでよ、音澤の母ちゃんも勘がいいから何かおかしいと思って顧問に電話したら嘘だってバレてさ。まさかと思って音澤の母ちゃんが大槻ん家さ電話かけて聞いたら同じ電話が来たってよ」
大問題以外の何物でもない案件だ。
正義感の強い一哉は嫌がらせの類いを嫌う。
それらの案件を知れば我が事のように許せない思いを抱く少年だ。
被害者が想い人となれば尚更に怒りは凄まじいものとなる。
「すげかったぞ。顧問と音澤の母ちゃんは嫌がらせしたやつとその親にキレるわ、大槻の母ちゃんも号泣するわ。音澤も軽蔑の目で睨んでたって」
合田のみならず泉清中学校の生徒がみんな知っている。合田はそう語る。
「蘭とエリちゃんは被害者じゃん。なんでやられた方が辞めなきゃならないんだよ?」
「……居場所がなかったんだろ。上級生はそれとなく忠告していたからまだ良い方だ。同級生は強い方に流されるか保身に走って傍観するだけ。俺とハマちゃんと村上を含んで陰で先生に報告するやつもいたけどな。第一、音澤が人を蹴落とすやつが牛耳る部活なんかに居たくないって、文字通り退部届けを叩きつけたんだよ」
納得できないと憤る一哉をなだめる合田。

「焚き付けたの絶対あいつだろ? 小学生ん時に蘭をいじめたやつと、その取り巻き」
蘭は小学三年生の頃にいじめ被害に遭った。
始めは主犯の女子によるちょっとした嫉妬心からの嫌がらせのつもりだったそうだが、蘭の優れた容姿を妬ましく思う女子と、何から何まで出来すぎている蘭をかわいくないと疎む男子までもが悪乗りしてエスカレートしたと聞いている。
蘭が、初めて好きになった男子も「蘭が陰で悪口を言っている」という主犯による嘘っぱちを信じ込んでは蘭を悪者にし、攻撃的な態度に出た。
更には大人びた美少女を苦手とする当時の担任教師がいじめに加担していたという。
これも中学校内では有名な話だ。
小学生時代の実例があるだけに、いじめっ子達に楯突くことで自分にまで被害が及ぶのを恐れて強く出られない生徒が少なくなかった。

主犯の女子は六年生の半端な時期に転校し、引っ越し先の学区にある中学校に通うはずだったのだが……。
「ふざけすぎだよ……! 吹奏楽の強豪校さ行きたいからって、ズルしてまで越境入学? 仮に転校いじめが事実だとしても、おかげで二人も犠牲になったけどな?」
この地域では、部活動を理由とした越境入学が認められていない。
表向きでは「転校先の小学校でいじめを受け、引越し先の中学校には行きたくないと渋った」ことになっているが、吹奏楽部の強豪校である泉清中学校にどうしても通いたかったからという話も皆が知っている。
そこそこ拓けた地方都市でも、そういった噂が近隣住民の間で蔓延するのはよくあることだ。
「そいつは入学式だか入部した日に蘭に謝ったって話だろ? 悪いことしたって。なのに、また同じ手口でいじめるって、あいつは何をしたいんだよ。人様を陥れないと生きていられない病気なのかよ、あの女ぁ……!」
憎しみに拳を震わせ、叫びたいまでの怒りに抗う親友を合田は見守るしかできなかった。

3

◇◇◇
「あらあ、一哉君どしたの?」
音澤家の呼び鈴を押しても反応がなかったので、諦めて玄関に背を向けようとしたその時に快活そうな声が耳に届く。
振り返ると蘭の母親である星が紙袋を下げてこちらを見ていた。
袋の口からは産毛に覆われたピンクの玉が覗く。
直売所で傷みかけの桃を買い込んだのだろうと思ったが、この街では桃は買うものではなく貰うもの(または直売所で規格外を大量に安く買う)であることを思い出した。
「おはようございます。あ、桃だ! 傷みかけたのうまいっすよね!」
「巧君……小百合ちゃんなら知ってるかな。白沢さん家から頂いたの。桃じゃなくて蘭が気になって来たんでしょ~?」
星はひらひらと振った片手を口元へ持ってきてニヤリと笑う。図星を射された一哉は狼狽えた。
「えっ、いや……」
「一哉君がうちに来る理由が蘭一択なのはお見通しよ。蘭はオーケストラの練習に行ったわ」
ハキハキとした星の口調には一切の訛りがない。蘭の訛りは父親に似たのもあるが、環境によるものなのは明らかだ。
星は横浜の出身と蘭の口から聞いているが、野暮ったさの欠片もない垢抜けた容姿を見れば納得だ。
バッサリと顎のラインで揃えた真っ黒いショートボブは戦前のモダンガールさながらのレトロな佇まい。
毛先をすいて明るく染めた流行りの髪型と正反対にもかかわらず、洗練された趣があった。
かつて駅前の百貨店のデパートガールを勤めていただけある、優れた容姿に溌剌とした受け答え。蘭と似ているが星は冷静さよりも勝ち気さが勝る。
我が子のためならば鬼にでもなる覚悟は絵に描いた女傑の星らしい。
「まあ……そのとおりなんすよ。お嬢さん、元気にしてるかな~って来ました」
からからと声を立てて星は笑い出した。
「やーねえ。お嬢さんだなんて大事にされてるようで嬉しいけど、こそばゆいわよ」
そして「蘭でいいわよ」と笑顔で返す。
「いいわね~。蘭も一哉君みたいなかっこいい子と仲良くなれて。蘭ね、夏休み前に部活辞めてオーケストラ一本に絞ったんだけど……」
「噂は聞いています」

星には見えた。
瞳の奥に揺らめく怒りの焔。
蘭を心から想う証し。
この少年ならば、間違いなく愛娘を任せられると確信できた。

「ねえ、気晴らしに蘭をデートに連れていってあげて? 今日だと急すぎるからね……明日はあいてる?」
はい、と答えると「よしきた!」と星は小さくガッツポーズを作る。
「蘭ね、明日は午前中だけオーケストラの練習だから午後から空けておくように伝えるわね。ほら、これ。おつりは持ってていいから。バイト料」
バッグから何かを取り出すと星は無理矢理一哉の手に握らせた。
その『何か』はというと、一万円札。
セピア色の福沢諭吉と目が合うなり一哉は慌てた。
「いやいやいやいや! 受け取れませんってば!」
気が動転し、一万円札を星に突き返す。
「バイト料だと思って受け取ってよ。一人あたり五千円。食費に交通費、雑費、これだけあれば充分でしょう。蘭とデートに行ってきなさいよ。あ、くれぐれも山歩きはダメよ? 蘭は制服に革靴だからね」

星が耳打ちをするように言う。
「周りが何か言ってきても、蘭のことを信じてあげてね。一哉君は蘭の騎士様なんだから」
蘭の騎士様。
そう言われて舞い上がる一哉に星は切なそうな面持ちで続けた。

「蘭を好きでいてくれて、ありがとうね」

4

◇◇◇
翌日。
信夫山に沿って整備された散歩道があり、4号線方面へずっと歩いた先に音楽堂がある。
ガス灯を模した街灯が洒落た雰囲気を与え、祓川のせせらぎが耳に優しい。
部外者が入っても差し支えないかと躊躇う一哉だが、蘭と同じ年格好の少女が三人、更に男子高校生も見えたので蘭はいるかと訊ねることにした。

「あの……蘭、じゃなくて音澤さんいますか?」
「えー! 蘭ちゃんの知り合い!?」
少女達が互いに顔を見合わせて色めく。
恋愛の話に飛び付くお年頃ゆえなのか、思いがけず現れた美しい少年に声をかけられたからか。
「私、呼んできます!」
「あ、俺が行くよ」

男子高校生が呼びに行ってからほどなくして蘭が駆け込んでくる。どれだけ急いだのか息が弾んでいた。
「一哉ちゃん……! どうしたの?」
激しく息をついたまま問いかける蘭の背丈は、165センチを超えたばかりの一哉より若干高い。

蘭は中学校のセーラー服を着ていた。
襟と共布のタイがシアンブルーになっている白いセーラー服は見る者に清涼感を抱かせる。
膝頭を隠す長いスカートは紺色。
真っ白なセーラーブラウスが女子中学生の夏服として採用されがちなこの街で、夏の空を映したの如し鮮やかなシアンブルーの襟は人目を引く。
「あのさ、どっか出かけない? 二人で」
半袖から覗く蘭の腕は思いの外細く、儚げだ。
明るい声色の一哉だが、その胸の内は切なさのあまり押し潰れそうな心持ちだ。
「おばさんに許可取ってあるんだ。まずはメシ食うぞ」
「あっ、ちょっと待って!」
一哉はさすがに強引すぎたかと不安感にかられるも、すぐに杞憂だとわかった。
「アイス……甘いもの食べたい」
蘭が笑う。力の抜けた笑顔。
久しぶりに蘭の笑顔を見た。

◇◇◇
街中にあるソフトクリームの専門店。蘭はここでソフトクリームを食べたいと言い出した。

ことの顛末を、星にバイト料を渡されたことを話すと案の定蘭は驚く。
「お母さんがバイト料渡したの?」
いつもは伏し目がちにしている切れ長の目を見開く様は、相当に驚いていることを物語る。
「うん。受け取れないって断ったけど蘭と遊びに行きなって」
一度ため息をついて、蘭は苦笑いを浮かべる。
「普通、ここまでする親いるかい?」
「おばさん、蘭が心配なんだよ。二年になってから肩肘張って生きてるというか、蘭は表には出さないけど……」
ソフトクリームを片手に、蘭は無言になり動きを止める。
「俺も心配なんだよ。最近は変な夢を見るし」
「変な夢?」
「あ、いや、内容は言えないな。ただ、蘭大丈夫かなーって気になってたんだ」
「そうなんだ……。誘ってくれてありがとう」
座ったまま、蘭はご丁寧に頭を下げた。
同い年の者にも礼儀正しい蘭の姿に一哉は恐縮するも、清廉な心を持ち合わせた者こその振る舞いとわかるので好ましく思う。
「どういたしまして」
「それなら……一哉ちゃんを信じて身を任せていい?」
妙に艶かしい言い回しをするので一哉はたじろぐ。
「おう。俺に任せろ」
セリフだけを聞けば男気溢れる頼りがいのあるものだが、この時の一哉は相当にたじろいでいた。
まだ14歳の、純真な少年であるから無理もない。
伏し目がちな蘭の目はしっかりと前を向き、一哉をとらえる。
「嫌なこと、忘れさせて」

5

蘭の好きなカフェで昼食をとった後の二人だが、結局のところ午後から"どこか"へ行くにしても物足りなくなってしまう。
話し合った末に、丸一日予定の空いている日に改めて"どこか"へ出だすことにした。

まだ夕暮れに程遠い。
別れ難い二人は無人駅を降り、自宅とは正反対の川縁へと歩を進める。
葉桜の木陰に沿って川縁を歩いているうちに、川寒橋の手前へと行き着いた。
渓流さながらの轟音を立てるこの川も、今日は流れが穏やかだ。
「わぁ、綺麗! 空の色に染まってるね」
水面が夏空の青を映す様に感嘆する蘭が愛おしい。
よく晴れた日が続くと、松川を流れる水は川底の小石が見えるほどに透き通る。
川岸まで降りられなくはない。
「あーっ、頭からローストされっちまうような暑さだナイ!」
何それと蘭は笑う。一哉は時折妙な言い回しをする少年だが、一緒にいる誰かを笑わせたり楽しませたいがゆえのものだ。

焼けてしまいそうなほどに暑い夏。
二人の気持ちは同じで川岸で涼をとることにした。
「川さ足突っ込んだら涼しいかな」
一哉は靴下を脱いでスラックスの裾を膝下まで捲った。そして静かな流れに足を入れる。
この街に来たばかりの頃は棒のように華奢だった脚も、14歳の今では筋肉がついている。

静観していた蘭だが「私も入ってみる」と言って立ち上がったので、嫌でなければと一哉は蘭に向けて手を差し出す。
足を滑らせて転倒などさせるわけにはいかない。そう自らに言い聞かせるが、心臓は正直だ。
スマートに振る舞いたいのに、脈打つ心臓は彼を嘲笑う。
足の先、手指の先、体の末端に差し掛かる血管までがドクンドクンと脈打つおかげで、蘭に手を差し出す動作はぎこちないものとなった。

面食らった顔の後、蘭はおずおずと手を重ねようとするも手を止めた。
「本当にいいの?」
俯いたまま問いかける蘭の指先が震える。
水面の美しさに歓声を上げた無邪気な蘭は、そこにはいない。
何かに怯えて踏み込めない蘭がいる。

二年生に進級した頃から蘭は変わった。
常に何かを疑い、何かを恨み、怒りを抱き、怯えている。
和やかに会話を交わす時も瞳の奥底から垣間見えるは、怒りの焔か悲しみの暗闇か。
梅雨入り前、神楽殿の下で泣き崩れる蘭を見て一哉は我が胸に誓う。
何があっても蘭から離れない、と。

蘭。
大好きな女の子の名前を呼ぶ。
膝に手をついて少しだけ屈み、一哉は蘭の顔を覗く。
瞳に宿る星空が揺らいで見えるは、光彩を覆う涙のせいか。
「俺、蘭が足滑らせて怪我する方がやだな」
分かりやすいほどに頬を赤らめる蘭が愛らしかった。
「ありがとう」
はにかみとも微笑みともつかない笑顔を返す蘭に、一哉は再び手を差し出す。
蘭のほっそりとした手が重なる。
桜貝と見まごう、薄紅の爪。
誰よりも愛しい少女は、指の先まで美しい。

清流と変わらない水質でなければ、川の水に浸かるなど叶わない。
足首の深さしかないので、膝下丈のスカートを捲らなくても差し支えないのだ。
時折吹き込む夏の風にスカートとロングヘアがなびく。
日焼けを知らない肌が陽光でより白く輝く様がこの上なく眩しいので、一哉は蘭を水辺に咲く花の姿と重ね合わせる。
蘭の好む朱鷺草は、水辺に咲く蘭なのだ。

◇◇◇
「初夏だったら土湯をリクエストしてたんだけどなぁ」
コンクリートに腰掛けたまま、蘭の爪先が水面を蹴る。
「えー、なんで土湯?」
バスで40分はかかる山あいの温泉地だろ、と一哉は返す。
恥ずかしながら、土湯には片手で数える回数しか行ったことがない。
一哉は元々は新潟県の出身で福島へ来て5年も経っていないのだから、土湯まで足を運ぶ機会に恵まれないのも無理もなかった。
せいぜい、新潟への帰省時に高速道路を利用せず会津方面へ抜ける際に通過するぐらいだ。
「土湯にヒメサユリの群生地があるの。小さい百合で、いい香りがして好き。でも、ほとんど山歩きだからなあ」
制服じゃ無理だね、と蘭は笑った。
蘭は一哉と会う時はなぜか制服にこだわる。
指定の白いスニーカーから革靴に履き替えることも忘れずに。
「蘭は本当に花が好きだよなあ」
「名前自体が花の名前だしね」
「二回目に蘭と会えた時、蘭の花が一番好きって言ってたね」

――私、蘭っていうの――
無邪気な笑顔がそう名乗る。
――桜は好きだよ。でも、一番好きなのは蘭の花――

蝶々に似た華麗な花は女王様の如し風格の少女に似合いすぎていたが、少女は艶やかな大輪の洋蘭よりも、春蘭や朱鷺草のように清楚な蘭が好きだと語る。
初めて聞いた花の名前を、忘れないうちに図書館で調べたものだった。
いずれも今まで抱いていたラン科の花へのイメージを覆す、小さくて、気品の漂う可憐な花。

6

「でも、ラン科の花の群生地なんて希少だよ。だいたいは湿地帯だし、水原の水林自然林にクマガイソウって蘭の群生地があるけど意外と行く機会ないんだ」
どの辺りかと一哉に聞かれた蘭は四季の里の近くと答えた。
吾妻連峰の山裾に近い広大な公園と呼べばよいだろうか。街うちからアクセスするならば車が必須だが、景観は抜群。
立ち寄る機会は少なかったが、確かに花は多く咲いていそうだとわかる場所であった。
「花が見たいの?」
「うん。スイレンとか蓮とか百合とか……私、夏は嫌いだけど夏の花は好き。見に行きたいけど、遠いなぁ……」
夏の花ならばいくらでも思い付くが、蘭は淑やかな風情に哀愁を漂わす花が好きなのか。
「中学生でも車なりバイクなり免許持てたらなぁ」

蘭の心が晴れるのならば、どこへでも連れて行きたい。
スマートフォンがない時代。
携帯電話は高校生になってからと定められた家庭が少なくなかった時代。
デートスポットになり得る遊戯施設が身近にある大都市に住む中学生ならばともかく、地方在住の中学生が自力でデートスポットを調べるなど容易ではない。
親のパソコンか、ガイドブックを借りるほかなかった。
「無理なく行ける距離で花が綺麗な所、あるかなー」
花の名所はないかと考えを巡らす一哉を見つめる蘭。その眼差し(まなざし)が切なげに見えたのは気のせいか。
「一哉ちゃんは、いつも真剣になって向き合ってくれるよね。私が現実離れしたことを言っても笑わない」
「だって、俺自体が元漫画家志望だったし……漫画家志望のやつが笑ったらいい物語を作れないよ」

今でこそ医学部志望で亡き祖父が開業した精神科の診療所を継ぎたい一哉だが、中学受験を意識する前までは漫画家になることが夢だった。
自由帳やテストの裏に、思い思いに絵を描いてばかりいた。
平成の世とはいえど、男の子にインドア派の趣味・特技を男らしくないと敬遠する風潮が残る時代。
男のくせに絵が趣味だなんて……と偏見を抱き揶揄する者も存在したが、それでも一哉は懲りずに絵と漫画を描き続ける。
いつしか、簡単な物語を作れるぐらいには成長した。
そんな彼の趣味・特技が蘭に知られるのは出会ってから早い段階になるが、蘭は一哉が描いた絵を見るなり目を輝かせてラフな画風ながらも繊細な絵柄が好きだと褒め称え、自身をモデルに描いてほしいと願い出た。
躊躇いなく、蘭の前では絵を描けた。
頭に浮かぶアイデアを次々と絵におこし、描いた絵をもとに一つの物語を紡ぐ。
幼子が紡ぎ出す拙い物語を、蘭は興味深そうに読み進める。

「覚えてるかな。私、小6の時に自由研究で『銀河鉄道の夜』の論文を書いたの」
「あれにはびっくりしたよ。『銀河鉄道の夜』って中学で習うのに先取りするんだもんさ」
そして「あーっ」と声を出して一哉は手を叩く。何かしらを思い出したらしい。
「アルビレオの観測所!」
白鳥座で、美しく輝く二つの星。
「そう! もしも実際に存在したら行ってみたいと話しても一哉ちゃんは笑わなかった」
それどころか「俺も行ってみたいなぁ」と同意してくれたのが嬉しかったことを蘭は思い返す。

蘭が笑わなかったから、絵を描き続けた一哉。
一哉が笑わなかったから、幻想的な夢を語る蘭。

「サファイアとトパーズに見立てた星がくるくると回る光景って、考えただけでも綺麗だと思わない?」
アルビレオの観測所への憧れを、生き生きと語る蘭の瞳こそ宝石の如し美しさ。
初めて会った時などは鋼の如し妥協なき強さを(まなこ)に宿し、年端のいかない少女ながらも気高さを纏う姿は瞬く間に十つの幼子だった一哉の胸を捉える。
そんな蘭も、一哉との逢瀬を重ねるごとに瞳に潜む星の煌めきが増していった。

幼く愛らしい夢を語る蘭の傍らで、一哉もアルビレオの観測所への思いを馳せた。
紺青の空に包まれ、対になり輝く星を二人並んで眺める。
蘭は他にも『小さな炎が燃えている水晶の砂』の描写が好きだと語っていた。宝石が絡む表現が好きなのかもしれない。

7

合唱部の練習か、予備校の講習が終わればオーケストラの練習帰りの蘭と落ち合った。
とはいっても図書館で夏休みの宿題を片すことと自主学習が常だが、図書館までの道中で祓川のせせらぎを聞きつつ雑談に興じ、小魚を見つけては歓声を上げる。
信夫山に沿った散歩道は夏になると百日紅が見頃で、複雑に縮れた繊細な花が空に向かってそびえる様は壮観だ。

予定が合わず蘭との逢瀬が叶わない日は、同じ学校の友達や先輩、はては教師からデートスポットの情報を聞き出した。
デートスポットと口に出せば冷やかしを受けるのは避けられないので、表向きは「元気のない友達を元気づけたいのでどこか良い場所はないか」と聞き出すのだが、相談した相手にはことごとく女の子が絡んでいると勘づかれてしまう。
廊下で鉢合わせた教師に至っては「進学校さ通いながら女遊びかい」と冗談半分で苦笑いをされるも、素行に問題はなく上位の成績をキープしている一哉からの相談となれば「しゃああんめなぁ(仕方ないなぁ)」と自ずと協力的になる。

友人からは「元気ねえなら厄払いにでも連れてき」と言われたので、厄払いも悪くない。
寺社仏閣巡りが好きな蘭ならば乗るだろう。
甘党の女の子ならばカフェは欠かせないと言われたので、カフェは必ず立ち寄ることにしよう。

夏休みの翠楓学園中学校には悲壮感の漂う嘆きが飛び交う。
「聞いた? 二年の飛鳥川先輩、彼女できたらしいよ」
「嘘ぉ!? あの先輩、かっこいいから憧れてたのにぃ」
「あれだけイケメンなんだからよぉ、彼女いたっておかしくねぇべした」
一哉に憧れる女の子達による嘆きだった。

◇◇◇
一日がかりのデートがいよいよ明日に迫った日。
夏季講習から帰宅すれば女物のミュールがあり、リビングから花梨(かりん)の笑い声に混じって「えー、何この展開!」と蘭が笑いながら驚愕する声が聞こえた。
何事かと急げば蘭と花梨が録画したアニメを見て笑い転げている。
ノースリーブの水色のブラウスに、紺色に白い水玉模様のスカートの蘭が新鮮だ。

「あっ、兄ちゃん。おかえりぃ」
見ていたアニメはCS放送の子供番組内に組み込まれているのだがキャラクターが流血するなど作風が甚だ過激だ。
一哉は蘭の生真面目な性格上、強いジョークを面白おかしく表現した作品を嫌うだろうと思い込んでいたので、キャラクターの(まなこ)窩に電球が埋め込まれている映像を見て笑い転げている蘭が意外だった。
そして、もう片方の眼窩に埋め込まれたスイッチを押すなり電球が点灯したので一哉は噴き出しざるを得ない。
一哉は笑いを堪えつつ、見る人を選ぶ作品を無闇に薦めるものではないと7歳児にも分かりやすい物言いで諭すのだが、花梨は「おもしぃからいいべしたぁ!」と返すのだった。
「お邪魔してます。さっき慧ちゃん家さ桃届けに行った帰りに花梨ちゃんが一緒に見ようって誘ってくれたの。……一哉ちゃん家、CS見られるんだ。いいなぁ」
セリフを発しないアニメなので、一哉がキャラクターに合わせてセリフを充てては蘭が笑い声を立てる。

時刻は夕方。
長居したと切り上げる蘭を花梨は引き留める。
「また来てもいいかな? 花梨ちゃんと遊びたいし」
「やったー!」
万歳の格好でその場を跳びはねる花梨を蘭は微笑ましそうに見つめている。

一哉は蘭を自宅まで送り届けることにした。
手には紙袋を下げている。お中元のプラリネケーキ。
母方の実家からお中元に頂いた『のし梅』も入っている。
一哉の母は水戸の生まれだ。
目元が儚げな繊細な容姿の母親で、一哉とは似ていない。顔の造作だけを取り上げれば、母親は清子(さやこ)姉と瓜二つ。
花梨を含めた姉弟達に共通する黒目のハッキリとした眼と濡れ羽色の髪は、父方の祖父譲りだ。
そんな彼は瞳をきらきらと光らせながらプラリネケーキが如何に旨いかを蘭に聞かせる。

「プラリネケーキ旨いんだよ。新潟県民のソウルフード。蘭、絶対に気に入るから」
「そんな立派なものを頂いて、却って申し訳ないよ」
「いやいや、母ちゃんがどうしてもプラリネケーキを渡したかったんだよ。蘭が甘いもの好きだと話したっけよ、いつも世話になってっから蘭ちゃんに渡しな~って」
母ちゃん、蘭のこと気に入ってっからよ。照れた様子で語る。
「なんか嬉しいな……わざわざありがとう」
のし梅とプラリネケーキの入った袋は駅前の百貨店の紙袋だ。
「のし梅で思い出したよ。中一ん時にゴウダん家にのし梅をお裾分けしようとしたら途中でゴウダに会ったの。そしたっけよ、ゴウダも俺ん家さのし梅持って行くつもりだったんだよ。ゴウダのやつ、茨城さ帰省した時に買ったってよ。ゴウダは……勝田の出身だったかな」
「桃ならよくあるけどお土産のお菓子で!? そんな偶然あるんだ!?」
更に続きがあると繋げると蘭は「なになに?」と返して続きを聞きたがる。
オチのない話でも、蘭は鬱陶しがることなく耳を傾けるのだ。
「のし梅、ハマちゃんと村上君にも渡したら村上君から山形ののし梅もらった」
「……しばらくはのし梅三昧だったでしょう」

今日は心から笑い転げたようだ。
蘭の眼から怒りの焔も悲しみの暗闇も見えないことに、一哉は安堵する。

8

8

◇◇◇
梅雨時の、神楽殿の下で泣き崩れたその後。
蘭はアスファルトを突き破って咲く百合の花を見て「淑やかに見えて強靭だよね」と感嘆した。

「百合の花を敷き詰めた上で寝たら死ぬって聞いたことあるけど、本当なのかな」
あり得ないのではと一哉は返したが、蘭は花に埋もれて死ねるならば本望、と真剣な面持ちで振り返る。
背筋が凍る思いだった。
一哉を見ているはずなのに、蘭は遥か遠くを見るような眼差し(まなざし)をしていたのだから。
瞳に映るは地獄の業火か、極楽の花園か。

思えば、その頃から蘭を喪うかもしれない焦燥感にかられ、悪夢にうなされるようになった。

うっすらとだが、二年生に進級してから蘭の様子がおかしいとは察していた。
会話の内容だ。
ある時は色の話になり、パリスグリーン、シェーレグリーン、フレークホワイトといった聞き慣れない名前が蘭の口から飛び出す。
「綺麗だけど、これ全部毒なんだよ。シェーレグリーンとパリスグリーンなんてヒ素からできてっかんね。毒性が知られて以降はドブネズミの駆除とか殺虫剤にも使われたみたいだけど」
「シェーレって学者、なんでヒ素から色作る気になったんだろうな」
「ヒ素の毒性があまり知られてなかったからね。だから昔の人って短命だったのかな。でも、パリスグリーンで染めたドレス、綺麗でかわいいんだよ」
「そんな、ドブネズミ駆除するための薬剤で染めた物騒なドレス、着たいなんて絶対に言うなよ?」
「ドブネズミかぁ、それ知ったら興醒めだよね」
「俺はヒ素にまみれた物騒なドレスって時点で興醒めだよ」
このような会話を、13歳の中学生が繰り広げているのだ。
藤の花は生食すると死ぬ。
庭木でよく見かけるカルミアも実は猛毒がある。
山裾で見かけるレースフラワーと瓜二つの花は、実は毒芹だ。
ある時は、触れるだけで肺が壊れて死に至る除草剤の話や自殺の名所の話にもなった。

だいたい、死と直結した話をした後になると蘭が学校で何かされたと友人に聞かされるのだ。

死にたいという願望の、表れだった。

生きてほしい。
離したくない。
蘭がいなければ、今の自分はいない。
才気煥発な蘭と釣り合う男になりたいばかりに知識を頭に叩き込み、中学受験では上位の成績で合格できた。

父方の実家に帰省した際、親族から言われた「中学生になってから、尚更に亡くなったお祖父さんに似てきた」という言葉が誇らしかった。
医師だった祖父は、憧れで目標だ。
祖父が病に倒れた後も時間さえあれば見舞いに出向いた。
女系の一族で男の子が珍しい家系なだけに、祖父からは同性ゆえの気安さから何かと目をかけられ可愛がられた。

じいちゃんが死んだのだって未だに悲しいんだ。
話したかったよ。好きな女の子ができたって。
俺は、蘭まで失いたくはない。

少年を蝕むは燃え立つ怒りと憎しみ。
誰が、そうさせたのだ。
蘭が死を意識する言葉を口にした現実を作り出したのは誰なのだ。
敵方の思い通りには絶対にさせない。
蘭の平穏と生命を、守りたい。

「百合はな、根っこを食うために存在するの」
一か八かのジョークは功を奏したらしく
「やだぁ、百合の花見る度に思い出しそう。一哉ちゃん、ユリネ食べたことある?」
と、笑い声を上げた。
「淑やかに見えて強靭って、蘭を表してるみたいだね」
「え?」
「蘭は見た目も立ち振舞いも品があるからパッと見は温室育ちのお嬢さんっぽいけど、性根は雑草魂。俺は蘭のそういうとこ、かっこいいって思うよ」
でもよぉ……と凛々しい眉をひそめて一哉は言いにくそうに続ける。
「俺、不安になるんだ。弱さを見せない人と、強くあることを強いられて弱音を吐くことも泣くことも許されない人ほど、取り返しのつかないことに成り果てる」
「一哉ちゃんは、優しいよね。今日日、そんなことを考えられる人は珍しいよ」
「それね、亡くなったじいちゃんが言ってたの」
「あの、精神科医のおじい様?」
懐かしい面影を脳裏に描き、一哉は頷く。
「亡くなる少し前に言ってたんだ。じいちゃんは他にも『患者さんのドス黒く染まった心をまっさらに戻すのが仕事』だってよく話してたよ」
「医師の鑑だね! おじい様は、一哉ちゃんのような人が孫で誇らしいだろうね。なんでか知らないけど、私、一哉ちゃんと話しているとまっさらな気持ちになれるの」
一哉のキリッと締まった口元が微笑む。
頬が熱くなり朱に染まる。
「じいちゃんに生きていてほしかったよ。ガンで入院した頃には既に余命いくばくもなかったけど……死んでほしくなかったって泣いた人、いっぱいいたよ」
「蘭」
「なあに?」
「俺は蘭にも死んでほしくないよ」
一迅の風。
「絶対に死んじゃダメだよ」
百合の花が揺れる。一哉の言う通りだと頷くように揺れた。

9

◇◇◇
「あ、夏水仙。明日には咲きそうだね」
音澤家の敷地を囲む格子から、ほっそりとした蕾が顔を出す。
「どんな花だっけか? 彼岸花の仲間って蘭が言ってたような覚えあるんだ」
蘭はそうだよと笑って返した。
「ピンクの花弁にうっすらと青がかって……幻想的な色合いなの。世間ではリコリスの名前が馴染み深いかな? 一日がかりのお出かけ、楽しみだね。夏水仙の騎士様」
「え、ちょっと、なんで俺が夏水仙なの? 俺、5月生まれだから夏水仙が結び付かないんだけど?」
お出かけの時にネタばらしをするから、と言って蘭は門扉から手を振った。
「あ、でも一哉ちゃんは察しがいいから分かるんじゃないかな」
楽しげな笑顔だった。

◇◇◇
過去を消し去ることはできない。
消し去りたい記憶を塗り替えるように現れたのは、澄んだ(まなこ)の美しい少年。
真摯な眼、素直な心根。
戯れ言を口にしても決して嗤わない。
ただただ真摯に耳を傾ける。
全てが慕わしい。
夏水仙の花言葉が似合う、私の騎士様。

以前の、中学生になったばかりの頃の蘭ならば一哉から恋人になって欲しいと乞い願われた暁には喜んで手を取っただろう。
しかし、心変わりを危惧するようになったのはいつからだろうか。
心変わりなどよくある話だと頭の片隅になくもなかったが、他人の口からわざわざ言われれば、堪える。
二人の幸せな時間が永遠のものでありたい。これが蘭の願いなのだ。
彼の瞳に、自分以外の女性が映ると考えただけでも蘭は絶望に苛まれた。
所詮一時の幸せならば、いっそのこと短い少年時代の甘い記憶の欠片として存在しようとさえ考えるようになる。

男は、いとも簡単に手のひらを返す生き物と十つに満たない頃には知っていた。
たとえ嘘の噂を吹き込まれようと、ひとたび気に入らないと見なされれば恋心を寄せた相手でも悪意の刃を情け容赦なく向けるのだから。

一哉は違うと分かっている。その程度の薄っぺらい輩とは違う。
それでも、彼が他の女性に恋心を寄せる未来だってあり得なくはない。
それならば、終焉を迎えるその日まで一緒にいたい。

あのような過去さえなければ、既に思いを告げていた。
恐れも眼中になく、幸せな時間を心置きなく謳歌できた。

消えない過去は、足枷となる。

10

蘭が力なく横たわる。その周りに散らばるのは白い花。
鈴蘭。毒芹。夾竹桃。
繊細な花弁は白い彼岸花。
可憐な姿に似つかわしくない、人を死に至らしめるほどに強力な毒を有する花。
甘さと清々しさを持ち合わせる香りは、蘭を取り囲むようにして敷き詰められた白百合の花。

躊躇いなく一哉は蘭に歩み寄る。

「蘭ちゃん」
歌うような、可愛らしい響きの名。

瞳を閉じたまま動かない蘭の傍らに屈み、その華奢な肢体を抱き起こす。
美しい曲線を描く肢体は、13歳の蘭を大人びて見せた。

白雪姫は王子のキスで息を吹き返す。
眠り姫は王子のキスで長い眠りから目を覚ます。

蘭の紅い唇に、そっと唇を触れ合わせる。
柔らかいと脳が理解する前に身体中がキュッと締め上げられる切なさに襲われる。

蘭ちゃん。
何があっても、俺は蘭ちゃんが大好きだよ。

十つの春、桜の下で初めて会った時から好きだった。
誰よりも高潔で清逸な、可憐な少女。

蘭の瞼が勿体つけるようにゆっくりと動き、睫毛の隙間から宝石の瞳が覗く。
半ば開いた虚ろな(まなこ)に星の煌めきが宿る。

唇が動く。かすかに声が聞こえた。
一哉ちゃん。

「蘭!」
一哉が抱き締める前に、蘭が胸元にしがみついて声を上げて泣いた。

◇◇◇
目を覚ませば辺りはまだ薄暗い。
遠くから響くバイクの音が、夜明け前を知らせる。
蘭は、まだ寝ているのだろうか。
一哉は夢の余韻に浸る。
花の香り。
柔らかな唇。
瞳に宿る星空の煌めき。
今日は蘭と1日がかりで、デートに行く。
夏水仙の騎士は、恋い慕う少女を呪縛から解き放つ旅に出る。

◇◇◇
蘭はいつも待ち合わせより早く着いているのだが、音澤家の前に着くなり蘭が落ち着かない様子で玄関先を歩き回る姿が見える。
右手が、制服のタイの結び目を握り締めている。

胸のざわめきを抑えられない蘭の愛らしさ。
少女らしい振る舞いをかわいいと思わずにはいられない。
蘭は胸の高鳴りに抗う際、制服のタイの結び目に触れる癖があることを一哉は知っている

「あっ!」
おはよう、と弾んだ声。
玄関前を歩き回る時点で桜色に染め上げた蘭の頬は、より一層赤くなり薔薇色へと変わる。
雪の白にかすかな薄桜を帯びた白百合の肌を、薔薇の花色に染める様が初々しくて好きだった。

今にも踊り出しそうな足取りで、蘭は門扉を開ける。膝下で、紺色のスカートが翻る。
門扉を開けた先には三段の低い階段があるのだが、蘭にしては珍しく足がもつれて、躓いた。
きゃああ!
蘭が叫ぶや否や、一哉がその胸に抱き止める。
一哉より背が高いはずの蘭の爪先が浮いた。
「大丈夫!?」
互いの心臓が激しく脈打った。
足がもつれて躓いたことも、不意討ちで抱き合う形になったことも。
「ありがとう」
浮いた爪先を地に置いた蘭が、一哉の肩に顔を預ける。力が抜けたのか、だらりともたれて激しく息をついている。
危うく落下しかけて相当に肝を冷やしたのだから無理もなかった。
制服越しから、蘭の心臓が脈打つ感覚がダイレクトに伝わった。

蘭の細い背中に、腕を回す。震えている。
落下による恐怖が落ち着くまで、蘭を支える柱になろう。

夢の中で、肩に顔を埋めて泣く蘭と重なる。
花の香りは、蘭の艶やかな髪から香る。

「ごめんなさい!」
心臓の高鳴りが収まりかけると蘭は我に返り、真っ赤な顔で1歩退く。
「そんな関係じゃないのに……嫌だったらごめん」
「嫌なわけないよ……」
嫌ならば、蘭の震える背中に腕を回して支えるなどできない。
川縁での逢瀬で手を差し伸べるなどしない。
好きだから、誰に何を言われようと蘭に尽くす。
蘭を支配し足枷となる悲しい思い出を塗り替える為なら、何だってする。

蘭がどういう意味かと問いかける前に、隣に住む男性が玄関から出てきて車に乗り込もうとした。
年の頃は、三十を幾らか過ぎたばかり。
老けて見えがちな禿げ頭だが肌の艶が良く、張りのある頬をしているので寧ろ若々しく見える。
「おはようございます」
生真面目な蘭は中年の男性に向けてぺこりと頭を下げて挨拶をする。
Yシャツにネクタイ。腕にはスーツの上着を引っかけている。出勤前の出で立ちだ。
続けて一哉も挨拶をした。
「おっ、蘭ちゃん早いナイ……いやいやいや、君、男前だナイ。楓と百合の紋章は翠楓の生徒さんかい? 利発そうな目ぇしてるし頭いいんだろうナイ。君、蘭ちゃんの彼氏かい? イケメンっていうよりは美少年ち呼びたい綺麗な顔してっぺしたナイ」
男性は分厚い眼鏡の向こう側の目をくりくりとさせては一哉の端正な顔立ちに感嘆するのだった。
優れた容姿ゆえにやっかみを買われがちの一哉だが、どういうわけか、いささか野暮ったい外見の同性からの受けが良い。
「二人でどこか行くのかい?」
「はい」
唐突に褒められ呆気にとられる一哉の傍らで、蘭がはにかむ。
「楽しんで行くんだで」
「ありがとうございます」
肩にかけた旅館の屋号がプリントされているタオルで禿げ頭を拭い男性は車を走らせる。
この男性が信夫山を挟んだ反対側に位置する市役所に勤める公務員であることは、蘭も昔から存じ上げていた。

「今のおじさん、梅津さんっていうんだけど市役所に勤めてるの。たまーに行政の車でそこら辺走ってる」
「公務員かぁ、蘭の親父さんと同じだ。あ、親父さんは県庁の職員さんだけどな。蘭、夏水仙が咲いたね」
葉のついていない華奢な茎。そこから花開くはほっそりとした花弁の清楚な花。
昨日に蕾だった夏水仙は、砂糖菓子さながらの甘いピンクに真珠光沢を帯びた青をうっすらと掃いた花弁が美しい。

「綺麗な色でしょう?」
「うん。綺麗だね」
花の色合いもだが、夏水仙に笑いかける蘭の横顔に向けて綺麗と発言したのは内緒だ。
スッと切れ込んだ眦の涼やかさに、華やぎを添えるは長い睫毛。
和風の美人と形容したいが、少しばかりの洋の趣を持ち合わせるのは高い鼻筋のおかげか。
隣にいる蘭の滑らかな頬へ口付けたいと願ったのは一度や二度ではない。
夢の中で頬に口付ければ、蘭は花の蕾が色付くように頬を染めて恥じらうのであった。

「蘭が幻想的だって言ったのもわかるよ。花そのものが青く光っているように見えるね」
蘭が一哉へ向けてくるりと振り向く。
二人の視線が絡み合う。
夢で頬に口付けた時と同じように、蘭の頬に赤みが差す。
「そう! 私、夏水仙のそこが好き」
睫毛を伏せて、はにかむ蘭の指先はタイの結び目に触れる。

確信は持てないが、一哉は蘭と相思相愛ではと期待を寄せてしまう時があった。

嫌いならば、騎士だの王子様だのと言わない。
嫌いならば、差し伸べた手に己の手を重ねたりしない。
初恋で手酷く傷ついた結果、男子の友達は作らない主義に成り果てた蘭。
一哉とならば仲良くなれると告げた春の日から、蘭は躊躇いなく一哉の傍らにいる。
背が高いから視界をふさいでしまわぬようにと斜め後ろを歩く幼い優しさも、好意による優しさかもしれないと舞い上がった。
度々、蘭が頬を染めるのも好意ゆえのものか。

目の前ではにかむ蘭を、今、抱き締めたくて仕方がない。
鈴蘭とも白百合ともつかない花の香り。心臓の高鳴り。震える背中のか細さを、忘れようにも忘れられない。
両腕が、蘭の感触を覚えてしまった。
しかし、一哉は二人が想い合っている確信が持てないでいた。
期待が高まったが為の勘違いだとしたら、蘭を傷つけてしまう。
それゆえに、神楽殿の下で泣き崩れる蘭を抱き締めることができなかった。
今しがた蘭を抱き止めたのは、足を踏み外した蘭を助ける為なのだ。
蘭が一哉の腕に身を預けたのは、落下の恐怖を鎮める為だ。

「俺も、好きだよ」
夏水仙について語っているのに、蘭に向けて「好き」だと告げているようで一哉は照れくさい。
「そろそろ行こっか。騎士様」
先ほどまでの震えが嘘であるかのように、蘭はにっこりと笑って足を踏み出した。

11

無人駅の階段を登った先から同じ年頃の少女の笑い声がしたので、一哉は身構える。
仮に蘭を陥れた憎い女とその仲間だとしたら身を挺して守り抜く覚悟だ。
「蘭、俺の背中に隠れて」
そっと蘭へ向けて囁き、前を行く一哉はいつになく(まなこ)光が鋭い。

杞憂だったと知ったのは少女達が私立校の制服を着ていたのと、蘭を見るなりあたかも嬉しそうに表情をパッと輝かせたからだ。
「あ、蘭ちゃんだ!」
花紺色のジャンパースカートは聖桜女学院の中等部の制服だった。
心中を察してか、蘭は一哉を振り返って微笑む。背に庇っていたはずの蘭は、いつの間にか一哉の隣に立っていた。
「心配しなくていいよ。バレエ教室で一緒だったの」
ああ、と一哉は納得した。
素人目でも、前髪ごとひっつめたシニヨンの髪と長い首でバレエ少女とわかる。

「今思ってももったいねえべしたなぁ。蘭ちゃんがバレエ辞めるだなんてよ」
「んだからぁ。ただでさえ上手かったのに高学年になったあたりから表現力さメキメキ上がったち先生褒めてたのによぉ」
いかにもなお嬢様らしい風貌の少女達だが、口から飛び出すは訛りを含んだコテコテの福島弁。
「最後の発表会で披露したオディールのバリエーション、すごく良かったんだけどなぁ」
「オディールの衣装似合ってたしよ」
「ありがとう。でも音楽一本に集中するち決めたから」
「表現力上がった理由って、やっぱりこの人かい?」
ニヤニヤと笑うバレエ少女を前に一哉は「え、俺?」と顔を指差す。
隣の蘭は狼狽えて返答に困っているが、その反応こそ答えがイエスであると物語っていた。
「どおりで」
「それでよ、隣の人は蘭ちゃんの彼氏かい?」
少女の口にした質問文が現実ならば、どれほどに幸せか。
「ひゃー。よく見りゃ翠楓の生徒だべした」
黒のスラックスに白い開襟シャツは、パッと見は男子中学生の夏の装い。
しかし、左袖に施した刺繍を、楓の葉とフルール・ド・リスを組み合わせたエンブレムを見れば翠楓学園の生徒だと一目でわかるのだ。
先ほどに出会した梅津が一哉を翠楓学園の生徒だと見抜いたのも、左袖の刺繍が目に入ったからである。
「翠楓のインテリの彼氏かい。いいなー。しかもイケメンだしよ。うちの学校男子いねえからよ、出会いないんだっけぇ」
「女子校入っといて文句言うなでぇ」
「いやいやいや、共学でイケメンと遭遇すんのも稀だで?」
賑やかに騒ぐ少女達と対峙しつつ、もごもごと口ごもる蘭を一哉は初めて見た。
蘭が困ってるだろうとひっつめ髪のうちの誰かがたしなめる。

「蘭ちゃん、大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
和やかな空気が、緊張感を帯びる。
「うちの学校の吹奏楽部でも噂になってっぞ?
蘭ちゃんが泉清の吹奏楽部さ辞めたって」
「心配してたよね? 吹奏楽部の人達」
「蘭ちゃん、ただでさえ目立つし市内の吹奏楽の界隈じゃ有名だからよ、蘭ちゃんが会場さいねぐて何事だーってなったみたいだよ」
少女達の表情や口振りを、一哉は不躾と承知しながらも注意深く見守る。
蘭を思いやり気づかう心と、蘭を陥れた者達への怒りが確かに認められた。
「蘭ちゃんも聖桜さ行けばよかったのに」
いつだか合田との会話でも同じことをこぼしたと思い出した。
蘭を知っている者達で事情を把握していない者ならば、何故に蘭が私立中学に進学しなかったのかと不思議に思うだろう。
公務員の娘でごく普通の家庭で育ったことが信じられない貴族的な容姿を見れば、優秀なお嬢様がどうして玉石混淆の極みの公立に……と尚更に不思議がられる。
「だからぁ。頭良いのにもったいねえど?」
「私立さ通ってる人達差し置いて市内でトップの成績の持ち主って何だでぇ?」

一哉は安堵する。
蘭には、味方がいる。
「よかったね、蘭ちゃん。聖桜の子達は味方っぽいよ」
互いに顔を見合せる蘭と一哉。
ずい、と一人の少女が二人の前に出る。
「翠楓のインテリさんよぉ、私らも蘭ちゃんが泣くことねえように外堀埋めてんだかんな? 泉清の変なやつがありもしねえ噂流さんねえように」
旧友のまさかの行動を存じ上げていない蘭は「知らなかったよ」と驚く。

「私らも知ってんだっけえ。小学生ん時のこともな」
「蘭ちゃん、小三ん時も気丈に振る舞ってっけどふとした時さ怖えー顔すんだもんなぁ。辛いってわかるわ」
一斉に憤るバレエ少女達だが、一人が表情を曇らせる。
「ただ、上手くいかなかったな……結局は蘭ちゃんも友達も辞める羽目になったんだかんな」
「辞めるなら加害者が辞めりゃいいんだで」
「んだからぁ! 理不尽すぎるも甚だしいべさ。そんなだもん今回東北大会さ出らんねぐなったんだべ?」
「みんなで泉清さ突撃して嘆願書出すかい? 辞めるべき相手が違うって」
賛成と一哉が手を挙げた。
「それなら俺が真っ先に署名していい?」
「いいよー。男気あんなあ、君ぃ」
「翠楓の人達の署名も集めっぞ、俺」

盛り上がりを見せる最中で蘭が両の手を叩いて鳴らした。乾いた音は、静止の合図。
「ありがとう。知らないところで気づかってくれて……」
すごく嬉しい。蘭は旧友へ感謝の念を告げた。
「聖桜の吹奏楽部の方々にも伝えてくれる?
気づかってくれてありがとう、って」

夏水仙の騎士

夏水仙の騎士

時系列は2000年夏、東北。 「雪と花の狭間に」の前日譚。 中二の夏。一哉は蘭を喪う悪夢にうなされる日々が続いていた。 二年生に進級して以降、蘭が同級生からのやっかみを買い吹奏楽部を追い出されたと耳にしたからだ。 一哉との逢瀬で一時の楽しさを得ても、癒えたはずの心の傷の痛みに再び苦悩する蘭。 起きてしまった過去は変えられない。 ならば、悲しい過去を楽しい思い出で塗り替えよう。 君を呪縛から解き放つためならば、俺は何だってする。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-11

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

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