THE PALE
登場人物
レオンハルト・ハワード……医者
イアン・グレイ……濡羽色の髪の少年
ヘンリー・ニューカッスル……奇抜な画家
アン……ハワード家の雑役女中
ベティ……ハワード家の雑役女中
コニー……ハワード家の雑役女中
バーニー……御者
※新たな人物が登場時代更新
一章
光を拒む仄暗い空の下に、血塗られた歴史により造り上げられた荘厳な建築物が並ぶ都市ロンドンでは、様々な人種と三つの階級に区別された人々で溢れている。そんな文化の中心であり、浪漫溢れる「霧の都」の異名を持つ陰気な都市を窮屈極まりない馬車の中からレオンハルト・ハワードは静かに眺めていた。
色彩豊かな植物や木々に恋しさを覚える暗い配色が広がり、死が身近に潜む暗澹たる世界に嘆き、千編一律な景色を見渡す。すると、レオンハルトの眼にロンドン橋とその欄干の上にぽつんと立つ一人の少年が映った。かれは眉を顰め、眼を向けると、少年は腐蝕した都市の空気を肌に包み込ませるようにゆっくりと歩む。
レオンハルトは驚きで眼を見はったが、その愚行に嘲笑し、まるで三流作家が作り上げた低俗な笑劇を鑑賞するかのように耽る。が、次第に深い悲しみと狂気に心を蝕まれ、花や蝶と戯れながら口遊む憐れな少女オフィーリアを彷彿とさせる少年の不可解な動きに疑懼と不安に身体を顫わせた。咄嗟に馬車から身を投げ、少年の元に駆ける。地面を叩き踏む激しく乾いた音が響き渡ると、レオンハルトに呼びかける雷鳴のように鋭い御者の叫喚、馬車を引く車輪の音、馬の悲鳴、それらが同調することにより狂想曲が奏でられる。
すると、少年はすぐに異変に気付き振りかえった――その瞬間、平衡が崩れ、身体が大きく蹌踉めく。テムズ川の黒く暗い底なしの闇に引き込ませまい! と、少年の細い腕を掴む。掴んだ細い腕を力一杯に引っ張り、その小さな身体を抱き留めながら後ろに転倒した。かれは僅かに安堵の表情を泛べて体を起こし、少年を腕の中から解放した。背中に巡る鈍く重い痛みで顔を顰めながらゆっくりと立ち上がり、赤く火照る頬と乱れる呼吸を整え、飾り気のない灰色の外套に付着した砂や泥を念入りに払う。やがて愁を帯びた勿忘草色の瞳に濡羽色の髪の少年がなにかを言いたげな様子で歩み寄ると、レオンハルトはその小さな両肩を掴み叫ぶように言った――「正気か! テムズ川には死神が潜んでいるのだぞ!」
少年は大きく眼を見はり、動揺を示す。突然現れた脊が高い金髪の男の言動に身体が竦み、声を出せずにいた。すると、愚かなる好奇に支配された者たちがまるで獲物に群がる餓えた獣たちのように囲い、瞬く間にふたりは好奇の目に晒された。ある者は憐れみの眼差し向け、ある者は嘲笑し、ある者はただ傍観する。あらゆる視線を浴び、身体の底から込み上がる憤りと不快感に襲われたレオンハルトは大袈裟に尋ねた。
「ロンドン橋でこんなに人盛りが出来るとは大変珍しいこともあるのですね。一体、何があなたたちを魅力させているのでしょうか? よろしければ教えて頂けませんか?」と天色の鋭い眼差しを向けた。
レオンハルトの皮肉まじりの問いに対し、人々は一斉に尻込み始める。かれは更に憤りを感じた。ロンドン橋は異様な静けさに包まれると、呪詛の言葉を囁き、そっと少年の手を掴む。少年の手を引き、他人の好奇に満ちた視線を感じるたびに顔を顰め、人混みを掻き分けながら、乗車していた馬車へと向かうと御者に憂慮な眼差しを向けられた。が、かれは気に留める事なく、引き続きロンドン・ブリッジ駅へ向かうよう告げ、少年と共に乗り椅子にどっかりと腰を掛けた。
少年は僅かな時間で繰り出された奇想天外な出来事と未知との遭遇により、初めは緊張で強張った顔つきをしていたが、新たなる智慧が器に満たされるにつれて次第に無垢な子供同様に眼を焔のように輝かせ寛ぎ始める。そんな少年に対し、微かな苛立ちを覚えながらも身なりに着目し始めた。十二歳前後の背丈、英国人にはあまり馴染みのない珍しい濡羽色の髪、勿忘草色を称する可憐で透き通った青い瞳、かつては純白である事を物語る襟のついた黄ばんだシャツと黒いベールを被せるように煤がつき草臥れ退色した瑠璃色の背広、そして、乾いた黒い泥が付着した栗色の革靴、身体的特徴を除けば下層階級である事を示す。しかし、上位中流階級や上流階級特有の薔薇のように赤く血色の良いなめらかな肌に強い疑問を抱かせた。
レオンハルトは奥深くにしまった厭らしい記憶を辿る。下層階級の子供は、大人同様に労働を強いられ餓えに苦しみ、小枝のように貧相な身体とオリーブ色の窶れた顔に生気を失い酷く爛れた肌、猜疑心を伺える鋭く暗く澱んだ瞳をしている――何故、この少年はそれらを全て否定するのだ? 長い顎に手を添え、思索に耽るもそれを阻むかのように馬車が生み出す心地よい揺れは鎮まりロンドン・ブリッジ駅に到達した事を告げた。ふたりは、速やかに馬車から降りて窮屈な空間から解放されるとレオンハルトは乱れ垂れた前髪をかき上げてから帽子を被り、御者にそっとチップを渡して淡白な別れを告げた。
「君、名前は?」かれは少年の名前を尋ねる。
しかし、少年は反応を示す事はなく、その場で佇み名残惜しそうに馬車を見届けていた。レオンハルトは大きく咳払いをし、再び尋ねた。
「君、名前は何だ?」すると、少年はすぐに振り返り首を傾げる。かれは鼻を鳴らし不機嫌そうに言った――「先に名乗れとでも言いたいようだな。レオンハルト・ハワードだ」
少年ははっとして、名乗ろうとすぐに口を動かす。しかし、まるで声を失ったかのように上手く喋る事が出来ず、困惑した眼差しでレオンハルトを見つめた。かれはすぐに状況を理解した。聴覚は十分に機能しても、声を使い言葉を交わし合うことが困難である事に悲観し、両手で顔を覆い隠すように眼頭を指で強く押さえた。懸命に平常心を乱すまいと自分に言い聞かせているかれを目前に、少年は名前を明確に伝える方法を探し始める。うつろな表情をたたえる肉体労働者たち――ヴィクトリア朝の象徴の一つである『禁欲的』とは程遠く胸元を大胆に露わにした肉欲的で派手なドレスを身に纏うけばけばしい若い娼婦――悪事を働き逃奔する少年たちなど多くの人々が混同するロンドン・ブリッジ駅周辺を見渡しながら歩くと、少年は地面に散らばる石ころを見つけて先端が欠けたものを手に取ると足早でレオンハルトの元へ戻り、外套の裾を掴み強く引っ張った。
「何だ?」僅かに声を震わせながら、レオンハルトは呟く。少年は眼頭を強く押さえたままでいるかれの関心を引こうと、足元に腰を落とし、手にした石ころで地面を数回叩く。鈍い音に気づいたかれは、眼頭から指を離し、顰めた顔で少年に眼を注くと、少年は手にした石ころを見せて地面に文字を書き始めた。
レオンハルトは、当意即妙な少年の行動に驚歎し、賛辞の言葉を洩らす間に特定のアルファベットが地面に浮かび上がる。
I A N G R A Y――
レオンハルトは少年の名前を読み上げた。
「イアン・グレイ。それが君の名前なのか?」少年は二度頷き、微笑を泛べた。
「そうか。君、一人でこんな陰気なところにいても退屈するかもしれない――何もすることがなければ、早く親元に戻るといい」レオンハルトは少年の目線に合わせ腰を落とし言うと、イアンは続けて文字を綴り答えた。『お父さんはいないよ。気づいたら、僕はここにいたんだ』
「つまり、父親と逸れてしまったのか?」
『逸れてなんていないよ。ここにいないだけ。きっと、どこかにお父さんはいると思う』
「ロンドンにか?」
『きっと、そうだと思う』
少年の支離滅裂な発言にどうしたものかと、レオンハルトは立ち上がる。両手に腰を当て、俯きながらその場を二、三度行ったり来たりをしたのち、かれは肩をすくめ沈黙をした。
『どうしたの? 大丈夫?』とイアンは沈黙を破るように訊く。
「大丈夫だ――恐らく、問題ないだろう。それより、当てはあるのかい?」と、熱のない口調で尋ねると、イアンは首を横に振った。
「勘弁してくれ」レオンハルトは想定通りの返事に頭を抱えると共に、これまでに感じたことの無いもどかしさに弱々しい苦悩の声を洩らした。
しんとした沈黙が生まれ、レオンハルトは古錆色の懐中時計を取り出す。時針が一、分針が九を差し、午後一時四十五分を打っていた。午後二時の列車が発車するまでの時刻が迫り、一刻も早く偏見屋が集うロンドンから立ち去りたい焦燥感に駆られ、しばらく少年と懐中時計を交互に見つめたのち、「くれぐれもこの街が君を引き止めない事を祈る」と見捨てるかのように足早で切符売り場へ向かった。
切り裂き魔が齎した憂苦な空気により、混沌と化したこの街で訳もなく子供が一人出歩くだなんて奇妙だ。出来る限り、面倒な事に巻き込まれたくない。だが、せめてもの慈悲で孤児院へ連れて行く、あるいは、良心を捨てそこらを彷徨く警察たちに賄賂を渡して代わりに救貧院へ連れて行くように頼むべきなのだろうか? どちらが最善の選択だ? いや、待て。何故、俺は見ず知らずの子供に対して親身になっているのだ? あの子の兄でもなければ親でもない――赤の他人だ。子供とは言えどあの子は既に大人だ。そうさ、小さな大人なのだ。世間を知らないのなら今から学べばよい、これ以上干渉する必要はない――時間の無駄だ! それに、あの子がこの世からいなくなったとしても貴族を含む裕福な生まれの者でない限り、誰一人気に留める者はいない。産業革命以降、人々は慈しみを忘れ、あらゆる形の死を眼の当たりにしすぎたのだと、かれは本心を偽り懸命に自分に言い聞かせた。が、少年との距離が空けば空く程、罪悪の病が良心を喰らい、耐えがたい苦悶の瞬間が訪れる前にかれは立ち止まり、渋々と振り返って低く倦怠感を宿した声で言った。
「君、いつまでそこでお絵描きする気だ。さっさと此方に来い」イアンはレオンハルトの言動に狼狽えながらも立ち上がり、かれの元に駆け寄った。
「もう一度聞こう。本当に当てがないのだな?」
少年が訝しげに眉を顰めながら頷くと、レオンハルトは手招きをした。
ふたりは切符売り場に向かってカンタベリー行きの切符を購入すると、一枚をイアンに渡した。初めて手に取る切符に興味を唆られ、じっと眺める少年にレオンハルトは咳払いをし、妙に穏やかな声とは裏腹にどこか威圧感を与える口調で喋り始める。
「よほどロンドンから離れたくないのだな。この場に留まりたい気持ちはとてもよく分かるが、残念ながら汽車は待ってくれないのだよ――分かるだろう?」
イアンはかれの静かな憤りを感じ取り、鎮めようと切符に向けていた視点をかれに戻した。レオンハルトはにこりと微笑むが、間を置かずに暗く冷淡な顔に戻る。ふたりは歩廊へと続く門に向かい、番人の如く入り口で仁王立ちする強面の駅員に切符を見せ、門を潜る。道中、乗客たちの長く退屈な時間を有意義な時間に変える新聞、雑誌、大衆小説等が無秩序に並べられている売店が見え、ふらりと立ち寄ると、白髪まじりの痩せ萎びた険しい顔の店主が生暖かい眼差しで歓迎した。
「必要なものがあるなら今のうちにここで買い揃えておくといい」レオンハルトは新聞と雑誌を手に取ると、三ペンスを店主に渡しながら言った。
イアンは迷うことなく新聞紙を取り、それをレオンハルトに見せた。
「それだけで良いのか?」レオンハルトは怪訝そうに訊くと、少年は首を傾げる。
「これから長い時間汽車に乗る。新聞だけでは退屈にならないか? 大衆小説として、ウォルター・スコットやチャールズ・ディケンズにシェリダン・レ・ファニュ、若者向けの安価な低俗小説だと侮蔑されているが、扇情的で刺激的なペニー・ドレッドフルだってある」
何か言いたそうにもどかしげな表情を泛べるイアンに「興味ないと言いたいのか?」と訊くと、すぐに首を横に振る。かれは続けて訊いた。「では、読んだ事があるのか?」
少年は頷いた。
「君は随分と物好きだな。本が好きなら幾らでも読ませてやろう」
すると、イアンの脣には期待に満ち溢れた微笑が泛び、次第に喜びの色と表情が無邪気な勿忘草色の瞳に宿る。
「燥ぐにはまだ早い。無事に帰宅してからだ」
異様に眼を輝かせている少年の無垢で熱烈な視線を浴びながら、店主に追加で一シリング渡して売店を後にした。間もなくして、駅員たちの乗車を促す声が歩廊に響き始めた。かれはすぐに少年の小さな手を握って、小走りで汽車に乗り込んだ。
「君、汽車に乗るのは初めてか?」
イアンは頷くと、レオンハルトは手を離し、腰を落としてから言った。「そうか。なら、先程渡した切符に俺たちが座る席の番号が記載されている。席の番号は扉に表記されているから照らし合わせれば見つけられる――君がよければ一緒に探してくれないか?」
イアンは勿忘草色の瞳を輝かせ、仔犬のように燥ぎ車内を駆け、探し始める。かれは、慌てて乗車客の通行の妨げにならぬように呼び掛けながら後を追う。途中、丸々と肥え、締りのない身体を高価な鼠色の外套と背広で包む老いた脚の短い紳士と熟れたブルーベリーのような濃い秋色のドレスの優美さをかき消し、文質彬彬とは無縁で高慢な顔つきの淑女たちのイアンに向けられる侮蔑をたたえた眼差しと呪詛の言葉にレオンは忿懣を感じてぶるぶると右手を顫わせた。かれは、病的なまでに家柄・血筋・身分に執着する高貴な差別主義者である一部の上流階級の人間を酷く毛嫌っていた。階級に支配された社会の中で上位に立ち、逍遥自在な彼らにとって異邦人または労働を要する階級に属する者たちは、たとえ教養深く豊かな智慧を持つ聡明な者であろうと、下劣で慢侮の対象であると思想にしているからだ。そんな穢らわしく醜悪な少年を連れたレオンは再び好奇な視線を浴びることとなる。あらゆる罪が許されるのであれば、激情に身を委ねて楯突きたいと思いながら、忿懣の情を悟られぬように理性で抑圧し、いつもと変らぬ冷淡な顔つきで優越感に浸かる彼らを黙殺して横切り、イアンを追い続けた。
そんな暗いかれとは対照的に、朗らかな微笑を浮かべているイアンは指定席を見つけると、レオンの方に向き変えて両手を名一杯に振って訴えかける。
「上出来だ。さあ、中に入って席に着こう」
レオンハルトは歩み寄り、扉を静かに開けると、イアンはかれを勢いよく押し退けて我先にと中へ入り、窓際の席を占領した。かれは落ち着きを失い、車窓にべったりと張り付くイアンに呆れながら、帽子と手荷物を置き、静かに戸を締めて倒れるように座席にもたれた。鞄から唐草模様を施こした金属製の巻煙草入れとペイズリー柄のマッチ入れのケースを取り出し、阿片入りの巻煙草を薄い脣の上まで運び、火を点けると妖しく青白い煙がレオンハルトを包み込み甘美なる毒と快楽がかれの肺を満たす。
イアンはすぐに奇妙な香りに気づき、巻煙草に眼を注ぐ。レオンハルトは燻る巻煙草を差し出すと、少年はすぐに手に取って物珍しそうに眺める。まもなくして、焼けた野草の香りと煙が空間を満たし、穢れを知らない小さな身体と肺を毒と不快感で犯した。
レオンハルトは鼻を鳴らし、小さな指から巻煙草を回収して再び脣まで運んだ。イアンは初めて嫌悪の情を露わにし、子供らしく力任せに車窓を開けて、厭らしい香りと煙をロンドンの汚染された空気と入れ替える。
「随分とお気に召されたようで」かれが巻煙草を咥えたまま言うと、少年はそっぽを向いた。
すると、発車を告げる汽笛の哀愁漂う音がロンドン・ブリッジ駅内に響き渡り、ゆっくりと列車が動き出す。灰色の空へたっぷりと吐き出される蒸気と黒く無骨な車体を支え動かす車輪に興味を唆り、車窓から半身を剥き出して眺める。レオンハルトは「何をしている! 落ちたら怪我どころでは済まないぞ!」と叱り、すぐに巻煙草の火を消してイアンを強引に車内に引き戻すと、車窓を乱暴に閉じた。
真新しい物を目にし、昂揚感に浸るイアンは新聞紙を座席一杯に広げ、特定の単語を指で一つずつ丁寧に差し時間を掛け言葉として繋ぎ合わせて尋ねる。
『何か書く物を持っていない? お兄さんとお話がしたい』
反省の色を見せる事なく、筆談を試みるイアンにレオンハルトはため息を洩らしながら、鞄から使い込まれた黒い革製手帳と金属製のペンを取り出し、空白の頁を開いてから渡す。少年はそれらを受け取ると、すぐに言葉を綴ってかれに見せた。
『ありがとう。この汽車はカンタベリーに向かうのでしょ? 僕は生まれて初めて行くからとても楽しみ! それと、カンタベリーは十三世紀から十六世紀のはじめまで黒死病で人口が三千人近くまで減ったって本当?』
レオンハルトは、無邪気な表情から発せられるイアンの問いに戦慄を覚えた。智慧と教養が求められるたった一つの少年の質問に積み重なった疲労による停止寸前の思考を巡らせ、喉につまる言葉を無理矢理絞り出し、声を震わせながら答えた。
「黒死病があった事は確かだ。しかし、人口に関しては答えることは出来ない。何故なら俺はその時代を生きていないからだ。正確な数字を求めるならば本に尋ねれば良い」
『本で読んだ事があるから気になったから訊いてみたの』
「それは素晴らしい。だが、俺の専門外だ」
『分かった。ヘンリー八世の離婚問題でカトリックと絶縁したって歴史もあるのでしょ?』
「それも専門外だ! しかし、事実であると認める。一つ尋ねるが、君はもう少し愛らしい内容の質問をすることができないのだろうか?」
かれの厳しげな口調により、しんとした沈黙が生まれた。少年はしばらく悩み始める。再び型破りな質問をされるのではないかと、レオンハルトはどこか落ち着かない様子で待ち構えていると、少年ははっとした表情を泛べてからようやくペンを動かした。
『カンタベリーにはどれくらいで着くの?』
平凡でありふれた質問に安堵したレオンハルトは、「新聞を読み、飽きたら羊を数えていれば良い」と答えた。イアンは、早速と言わんばかりに革手帳とペンを膝の上に置き、礼儀正しく座り紳士らしく新聞を黙々と読み始める。
ようやく待ちに望んだ静寂が訪れ、レオンハルトは新たに巻煙草とマッチを取り出し、火を点ける。肺を毒で満たしてから新聞を広げ、ざっと眼を通す。英国を震撼させる「ホワイトチャペル殺人事件」の新たなる犠牲者スピタルフィールズのハンベリー・ストリート二十九番地の売春婦アニー・チャップマンが九月八日土曜日午前六時ごろ、「子宮」の一部が取り除かれた惨たらしい遺体が発見され、ヴィクトリア女王は、一人住まいの男の聞き込みと切り裂きジャックの逃亡を防ぐ為、船の捜査、夜警を徹底すると公表した。程なくして起きるであろう警察と自警団による対立の激化、死に脅える市民たちの罵詈雑言の嵐、鎮まる事のない暴動などの光景とロンドンのいやな思い出が脳裡に泛び、辟易とした。
ひとつ息をつき、レオンハルトは再び眼を通すと、無名女優の事故死――玩具屋の店主の変死――霊媒師の毒殺――誠実なる自由を求め米国へ渡る者たち――若い男の失踪――悍ましい事件と同日に開幕されたフットボールリーグ――淑女としての幸せを得ようと生き方を改める娼婦、行き遅れた憐れな上流の男、新たな伴侶と安らぎを求める未亡人たちによる恋人募集の広告など統一性に欠け、混在とした情報の中で身の毛がよだつ程美化されたであろう失踪した若い男の人物画に興味を唆る。
「九月八日午後六時ごろ、エリス・グレイが失踪――白い髪、菫色の瞳を持つ二十歳前後の若い男の目撃情報を求む」
レオンハルトは、瞼の上と肩につかない程度の長さに規則正しく整えられた髪、頬に丸みを帯び、女性的で柔らかな顔の輪郭、細く滑らかな曲線で描かれた『エリス・グレイ』を否認した。まったく想像力豊かな者がいるものだ! 白い髪、菫色の瞳、そして、見目麗しい女性を彷彿させる風貌を持つ美男子がこの世に存在するとでも言うのか! 現実味のない妄想の産物を大胆に公にするとは狂気の沙汰だ! これが、たとえ「美」に心酔している芸術家でもだ! 偶然とは言え、目の前にいる小さな紳士と名字が共通しているとは馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そうだ、この件についてイアンはどう捉えているのだろうか? かれは、新聞を乱雑に折り畳み座席に置いて、「イアン」と、初めて少年の名前を呼んだ。
イアンは、新聞からひょっこりと顔を覗かせたのち、読みかけの新聞を膝の上に置いた。
「エリス・グレイを知ってるか?」とレオンハルトは声を張り上げ尋ねると、イアンは手帳を開き、文字を綴り答えた――『新聞に載っている失踪した人のこと?』
「そうだ。君と同じ名字をしている――身なりからするとそれなりに身分が高いように見える。何か知っているか?」と続けて訊くと、少年はエリス・グレイをじっと見つめたのち、静かに首を横に振った。
「そうか――くだらない事を聞いてすまなかったな」
『僕には何がくだらないのか分からないけど、エリス・グレイって人見つかるといいね』
レオンハルトは乱雑に折り畳んだ新聞に手を伸ばし、再びエリス・グレイの記事を開きながら語を継ぐ。「見つかるといいね、か――記事では失踪したと述べているが、この時代に明確な「写真」ではなく曖昧な「人物画」で掲載している事が奇妙だ。これでは、まるでエリス・グレイの存在を否定しているように感じる。しかし、この画のように美しい女の風貌をした男が実在するならば、世にも珍しい白い髪と菫色の瞳とやらを見てみたいものだ」
『なんだか否定的だね。けど、そこまで言うなら本当は女の子の可能性もあるかもしれないよ?』レオンハルトは鼻先で笑い、更に語を継ぐ。「まるでジャンヌ・ダルクの再来とでも言いたいようだな。が、国を救うにしてもとうの昔に戦争は終わっているぞ。それよりも、もし彼が本当に存在するのならば軽蔑の眼差しを向けられない事を願うばかりだ」
『軽蔑? 一体、何を見て軽蔑するの?』
「白い髪と菫色の瞳だ」
『たったそれだけで?』イアンは眉を顰めて尋ねた。
「ああ、そうだ。英国で生まれ育ち、英国人として生きていた者でも、いつの日か「名前が英国人らしくない」を理由に蔑まれる。故郷を諦めてまでジャガイモ飢饉から逃れようと渡英したアイルランド人のように、あのヴィクトリア女王の亡き夫アルバート公も貴族にも関わらず貴族社会や社交界では「異邦人」として疎まれていた。だから、愚蒙で軽忽な人間はそこらに転がる石ころのようにいると思った方がいい」
『同じ人間なのにほんの少し違うだけで冷たくされるのはなんだか悲しいね』イアンは悲しげな顔をした。
「信仰深かった時代に愚かな神とその憐れなる子たちが「完全なる秩序」を病的なまでに愛し、他者に強要したのが全ての発端だろう。バイキングをはじめとする異人種による侵略、大陸続きの欧州とは戦争を含む長年の交流に各国から亡命者を受け入れてきたこの英国に「完全なる秩序」はとても不似合いすぎる。現に王室の血筋はドイツ系なのだからそろそろ「多様性」を受け容れるべきだ」
『僕のお父さんも同じような事を言うけど、ハプスブルグ家のような純血主義はもう古いって事?』
「純血主義とは、君は変わった言い方をするのだね。そうだな――簡単に言えばそう言う事になる。今は具体的に意味がわからなくてもいずれ分かる日がやって来る。「あらゆるものはこうあるべきだ」と言う思想は、危険で破滅を招く事もある――いつしかハプスブルグ家のように滅びるのだと、頭の隅にでも入れておいてくれ」
『分かった。質問だけど英国が「完全なる秩序」を追求したらどうなってたの?』
「これは俺の推測になるが、集団心理の暴走の一例として挙げられる一七世紀の米国に起きたセイラム魔女裁判のように、反発する者は問答無用で無差別に絞首刑だ。同調圧力の前では一人の理性や正しいであろう倫理ですら無力と化し、報復と呼ばれる告発によっては、権力争いや迫害などが日常的に見られる「完全なる無秩序」な世界になっていただろう。さて、エリス・グレイを含めて難しい話はここまでにして、外の景色でも見たらどうだ?」レオンハルトは、閉ざした車窓を開けながら言った。
イアンは車窓に眼を注ぐと、豊かな緑と秋の訪れを感じさせる紫色のヒースの花が咲き乱れる郷愁の世界が広がっていた。ありとあらゆる汚物に塗れたロンドンでは決して見る事のない美しい景色に心奪われ、手にしていた筆記用具と膝の上に置いた新聞をそっと丁寧に座席に移し、身体を窓側に向ける。壮大な自然が生み出す爽やかな空気とヒースの花の甘く安らかな香りが車内を包み、心地良い風がふたりの頬を優しく撫でた。
「良い景色だろう」レオンハルトは優しい声音で言うと、イアンは向き直し柔かに微笑む。
「ロンドンが恋しくなる前に、今のうちにこの景色を目に留めておけ。ただし、車窓から絶対に顔を出すな」
イアンは頷き、車窓の向こうに実在する絵本の世界を眺める。レオンハルトは古く馴染み深い景色に安堵を感じ、しばらく少年を暖かな目で見守る。束の間の休息を得ようとゆっくりと瞼を閉じ、やがて眠りに落ちた。
二章
ふと浅い眠りから覚めると、膝に重みを感じた。レオンハルトは髪をかき上げ、霞む眼でその正体を突き止めようとそっと触れる。そこにはイアンが眠っていた。あまりの厚顔無恥さに溢れんばかりの不満の言葉を喉につまらせつつ、慎重に懐中時計を取り出す。時針が三時、分針が十を差し、午後三時五十分の時刻を打っていた。待ち焦がれた故郷カンタベリーへの到着が目前に迫り、昂る喜びを抑え、心地良さそうに眠る少年を優しく揺さぶる。
淑やかな眠りを妨げられたイアンはぎゅっと眉毛を顰め、ゆっくりと身体を起こし重たげな目蓋を開く。革手帳とペンを手に取り、強い眠気が抜けきれていない事を物語る乱れ綴った文字をレオンハルトに見せた。
『着いたの?』
「いや、もうすぐだ。今のうちにその気怠げな顔をなんとかしておけ」新聞を小さく折り畳み、喫煙具を鞄の中にしまいながら言った。
イアンは開放されたままの車窓に顔を向け、そこに映る目を細めた間抜けな自身と睨み合い、癖がついた柔らかな髪を整えた。車窓の向こうに広がる豊かな草木で囲まれた大きな池の中でゆったりと優雅に泳ぐ鴨の親子と広大な草原を駆ける羊の群れが視界に入らなくなるまで眺めたのち車窓を閉す。少年はレオンハルトの方に向き直すと、かれは帽子を被りコンパートメントの戸を開け、鞄を手にして先に退出した。イアンは慌てて、かれの外套の裾を掴み、革手帳とペンを差し出す。しかし、かれは受け取るのを拒んだ。
「それはイアンがきちんと話せるようになるまで持っていると良い。それと、俺のことはレオンと呼んでくれ」と答えた。
廊下の車窓からカンタベリー駅の歩廊が見えると、レオンは不安定に大きく揺らぐ廊下を軽快な足取りで歩きながら乗車口まで向う。イアンは革手帳とペンを肌身離さずしっかりと持ち、かれの後をついて行く。汽車が停まると、かれは固く閉ざされた戸を勢いよく開け、ふたりは外に出た。
数少ない乗客たちが次々と出て行き、やがて出発を告げる汽笛の音が静寂を破り、カンタベリー駅付近に響き渡り始める。イアンは振り返り、汽車との別れを惜しむように悲哀を宿した眼差しでじっと見届けた。
「イアン、行くぞ」レオンは声高に呼びかけた。
悲哀を勿忘草色の瞳に秘め、少年は出入口付近で待機するかれの元へ駆け寄り、小さく飾り気のない素朴なカンタベリー駅を出た。
「ここで少し待っていてくれ」レオンは囁いた。
一牛鳴地の平々凡々な地を見渡し、黄昏れの兆しが見える青く澄んだ空を見上げる短かな褐色の髪に、垂れ気味な瞼から見える朽葉色の瞳をした若い御者が眼に留まり、かれは親しげに声を掛け近づく。
「バーニー。退屈そうだな、待たせてしまったか?」
「レオンか。俺が黄昏れるほど退屈そうに見えるか?」
「黄昏れるほど多忙なら君の負担を減らす為にも、他の御者を雇うことにしよう」バーニーは立ち去ろうとするレオンを呼び止めた――「そうか。寂しくなるな」
レオンは振り返って「君の言う通り、長い道を黙々と歩くのは、実に退屈で惨めだよ」と、微笑を泛べて言った。
バーニーはかれの顔を見て、笑いながら言う。「レオン! 俺を悪者にして楽しいか? そうでないなら、乗ってくれ」
「ありがとう、バーニー。その前に、少しだけ待ってくれないか」
レオンは数メートル離れた場所で待機しているイアンの名を呼び手招きをすると、少年はゆったりとした足取りで歩み寄った。
かれは、イアンに先に馬車へ乗るように促す。
「イアン? いつから子供を?」とバーニーは訝かしげな表情でレオンを見つめた。
「そんな顔で俺を見るな。君とは長い付き合いだから知っていると思うが、俺に甥や姪はいても子供はいない。この子はロンドンにいる意地の悪い遠い、遠い親戚の子供だ。どういうわけか、しばらく預かって欲しいと頼まれたのだよ」顰めた顔を左右に小刻みに揺らしながらレオンは言った。
バーニーは片眉をつり上げ、座席に座る薄汚れた少年に対し、疑念に満ちた眼差しを向けながら呟く。「相変わらず面倒事を押し付けられてばかりだな」
「勘違いしているようだが、俺の周りにいる人間が押し付けがましいだけだ!」レオンは不機嫌そうに言った。
「そう言う事にしておいてやる。だから、早く乗ってくれないか?」
レオンは不貞腐れた顔でバーニーを睨みながら馬車に乗り、座席に身を投げ出す。御者が手網を引き、逞しく大きな体と艶のある栗毛の馬に出発の指示を送る。蹄で力強く土を踏み、規則正しく重い音を響かせ馬車を前進させた。
イアンは手帳を開き言葉を綴り、それを見せようとレオンに眼を向ける。しかし、かれは長い腕と脚を組み険しい顔で街を眺めていた。威圧感漂う姿に怯み、躊躇うが、少年はかれの逆鱗に触れぬよう慎重に肩に触れる。
「どうした?」レオンは眉を上げ振り向き、穏やかな声で訊く。イアンは安堵し、すぐに手帳を見せた。
『どうして親戚だなんて言ったの?』かれは眉を顰めて囁く。「どうしても何も正直に全て話す必要がないからだ」
『だからと言って、嘘をついて大丈夫なの?』少年が不思議そうに首を傾げ尋ねた。
「得体の知れない君のことを親戚として扱うことにすれば、余計な詮索をされずに済むからだ。それに、たとえ親戚でも必要以上の関わりがなければ他人同然だ」
懐疑心を持ったイアンは赤く小さな脣を歪ませた。
「やれやれ、君は面倒な質問ばかりするのだな」かれはため息混じりに言った。「不正直者は、いずれ狼少年のように蔑まれるとでも言いたいのだろう?」
少年が力強く頷くと、レオンは喋り始める。「君が想像している通り、正直者とは、誠実かつ人望が厚いのは確かだ。だが、けして有能ではない。正直が故に、愚かすぎるのだよ。例えば、ある裕福で正直な男が見知らぬ小さな少女を隣町から連れて帰ってきたとしよう。そして、男は不特定多数の人たちに『その少女は?』と問われ、男は『憐れ故に、引き取ったのだよ』と述べた。すると、ある者たちは聖人だと讃頌し、ある者たちはピュグマリオーンのようだと言った。イアン、君がその光景を目の当たりにしたらまず何をする?」
イアンは視線を左下に向け、しばらく考え込んだが、やがてこう答えた――『僕ならお父さんに貧しい女の子を連れた優しそうな紳士を街で見かけた、と話していると思う。レオンは?』少年は、かれに尋ね返す。
「俺も君と同じだ。街に風変わりな男がいたとメイドたちに話す。ここで気付いたと思うが、人間は何かしら得た情報を他人と共有をしたがる――何気ない会話や俺たちが読んでいる新聞など様々な形で耳や目に入ってくる――いつしか噂話となり、世に広まるのだよ」
『噂話ってそんなに広まるのが早いの?』
「街や村の規模にもよるが、小さければ小さいほど伝染病の如く広まる。先程、君が汽車の中で質問していた黒死病のようにだ」
『そんなに早く広まるなら、悪意ある好奇心を持った人たちが、腐乱死体に集る蝿のように詮索し始めてもおかしくないね』
レオンは濃い三日月型の眉を上げ、笑いを含んだ声で言った。「ロンドンに住んでいた頃、よく警察たちが新聞記者たちの事を蝿と呼んでいた。まさか、君の口からその言葉を再び聞くことになるとは」
『僕のお父さんも新聞記者の人たちことを、『死体に集る忌々しい蝿どもめ!』とよく蔑んでいたよ』
「そうだったのか。一つ尋ねるが、お父さんの名はなんと言うのだ?」
『ラファエル・グレイだよ。僕に沢山お話を聞かせてくれるんだ。昨日はね、お父さんのお友達について話してくれたんだよ!』
「そうか。後程、君のお父さんについて詳しく聞かせてくれ。少し話が逸れしまったが、蝿を含めて噂話を嗅ぎつけた悪意ある連中はテリトリーを侵害してまで詮索をするのだよ。それだけではなく、理由がどうあれ、娯楽の一環として事実を捻じ曲げてまで噂話を広める者もいる――イアン、捏造された情報が世に広ってしまうのはとても怖しいことなのだ――心弱き者は自滅を選び、笑みを絶やす事のない沈まぬ太陽のような者ですら、じわじわと命を削る強力な神経毒のように精神を蝕む。あまりこのような事は言いたくないが、正直者が馬鹿を見るこの不条理な世界を生き抜くには、上手に嘘と向き合う必要がある――自分の身を守る為にもだ。特に田舎のような狭いコミュニティーでは余計な事を喋らないのが賢明だろう。常に、自身が噂話を提供している側だと意識することだ」
『分かった――レオン、もし例え話の男が嘘をついてたらどうなってたの?」
「伝え方と嘘の内容次第では、未来が大きく左右されると考えている。そこでだ、イアンならばどう答える?」
イアンは考える間もなく、手帳に言葉を綴りそれを見せた。
『僕は聖人でもなければ、ピュグマリオーンでもないから涙ながらに失踪した我が子をようやく見つけたと答える!』レオンは声をたてて笑った。「なんて狡猾なのだ。そして、大胆で大袈裟でもある――だが、君は最後までその嘘を突き通せるのか?」
『僕なら突き通せるから答えたんだよ!』少年は不機嫌そうな顔で、かれを睨むように見つめた。
「面白い、その自信はどこから来ているのかね?」
少年は自信に満ち溢れた微笑を泛べて答える。『たった今、レオンに譲り受けた智慧から来ているよ。正直に全て話す必要はないと。それに、譲り受けたからにはきちんと活用しないと無駄になるでしょう?』
「智慧を授けた覚えはない。だが、けして悪い事に活用するな。嘘を嘘で塗り重ねた者は、嘘に支配され、制御出来なくなり、いずれ破滅する」
『わかってるよ! 気をつける! そういえば、バーニーってお喋りなの?』
「バーニーを含め、カンタベリーの人間はお喋りだ。秘密や俺の悪口を共有すれば、数刻には皆大騒ぎだ」
この世で最も怖しい物を目の当たりにしたと言わんばかりにイアンは眼を見張らせた。
『そんなに驚く事はないだろう。仕方がないと言えば可笑しな話だが、文化の街と呼ばれるロンドンとは違って、何もないこの田舎では噂話と新聞が唯一の娯楽なのだよ』
『レオンは悪い噂を広められた経験はあるの?』
かれは首の後ろをさすり、少し間を置いてから、「どうだろうな」と、答えた。
少年は眉を寄せ、『話したくないんだね』と訊く。すると、レオンの眼は見張り、困惑の色が顔をかすめた。
「いや、違う」かれは咳払いし言った。「俺の話を聞いたところで何も面白くない。それより、建築物には興味はあるか?」
イアンはかれが指を差した方向に眼を向けると、遠く離れたカンタベリー大聖堂が視界に入った。千百七十年に政教分離を巡り、プランタジネット朝初代の王ヘンリー二世と対立したカンタベリー大司教トマス・ベケットが殉教し、聖人に列せられた事から、多くの巡礼者が訪れる聖地はイアンの底知れぬ探究心と知的好奇心に刺激を与えた。
喜色満面な少年はその純粋な勿忘草色の瞳に願いをたたえてレオンをまじまじと見つめるが、かれは顔を背けて呟いた。
「カンタベリー大聖堂ならそのうち連れて行ってやろう」
消極的なかれの言葉にイアンの顔は青ざめ、全身をわなわなと顫わせる。昂るばかりの悲しみを抑えることが出来ず、少年は手帳に感情を表すかのように乱れた文字を綴り、それをかれに見せた。『僕はレオンを怒らせてしまったの? 口ではそのうち連れて行くとは言っているけど本当は、本当は……』
涙で滲む勿忘草色の瞳を向ける。レオンはけして眼を合わさぬよう顔を背け続けるが、懇願の視線を浴びるにつれて困惑の表情がありありと泛び、少年を宥めるように不安定な声音で囁いた。
「分かった。悪かったからその忌々しい眼差しを向けるのをやめてくれ! 次の休日には必ず連れて行くと約束しよう!」
すると、少年の顔に宿る悲嘆の情はあっという間に消え、喜悦をたたえた微笑を見せた。かれは狡猾な少年の小さな罠に嵌り、眼頭を指で押し当て俯き大きくため息をついた。
「なんだレオン。突然大きなため息をついてどうしたんだ?」
「バーニー、心配するな。思いのほか疲れていたらしい」
「ご苦労さん――そういえば、|例の件はどうなったんだ?」
「何を言っているのだ? 俺はとうの昔に英国に身を委ねたのだぞ?」
「それは大変おめでたいな」バーニーは声をたてて、笑いながら言った。
「当分の間、俺の話題で退屈せずに済むだろう。感謝して欲しいものだ」
「そうだな――それで本当のところはどうなんだ?」レオンは額に手を当て、躊躇ったが「すでに結果は分っているのだろう?」と渋々と答えた。
「そろそろマティルダさんを安心させてやれよ」
「バーニー! 頼むからその恐ろしい呪文を唱えるな。唱えたところで何もないが、最善を尽くす」かれは低く声に失意を宿し、苦しげに言った。
御者は、手網を引き進行を止めるよう合図を送る。土を踏み潰す音が鳴り止むと共に馬は鼻息を荒げた。
「おい! 着いたぞ」バーニーは振り返り、声高に言った。レオンは、上機嫌で小さな鼻歌を歌い、手帳に馬を描くイアンの肩を叩き、目的地に到着した事を告げる。ふたりは速やかに馬車から降りた。
「ご苦労だった、バーニー。明日も頼む。では、また」かれは淡白な別れを告げ、デタッチド・ヴィラと呼ばれる赤褐色のレンガで造られた新ゴシック様式の屋敷へと向かう。すると、クレマチス、コスモス、コルチカム、ダイヤモンドリリーなど秋の象徴とされる花が咲き乱れる庭で脊は高く、華やかな蜂蜜色の髪、眉尻にかけて上がった太く濃い眉にどこか力強さを感じさせる薄い灰色の瞳、真っ直ぐ通った鼻筋とすっきりとした小鼻が印象的な容姿端麗のメイドが植物たちの世話をしていた。レオンはメイドの名前を呼んだ。
「アン!」
アンはすぐに手を止め、声がする方角に向き変える。主人であるレオンの顔を眼に留めると笑みを溢し、軽やかな足取りで歩み寄り、暖かく迎えた。
「お帰りなさいませ、旦那さま。長旅お疲れ様でした! 如何でしたか?」
「何処ぞの家の見目麗しいだけのメイドと違い、忠順でよく躾けられていた」
「その様子ですと、相変わらず身を固めるつもりはないようですね」アンはため息混じりに言った。
「俺は事実を述べたまでだ」
「そうですね。ところで、旦那さま。そちらのお方は?」レオンの後ろに隠れ庭や屋敷を眺める少年に興味を唆り、覗き込む。
「この子はイアンだ。ここで話すと長くなる。一先ず、この野良犬の世話を頼んでも良いだろうか?」
アンはレオンとイアンの顔を交互に見つめたのち、にこりと微笑み「坊っちゃんは、こちらの野良犬のお世話に興味はないようですね」と優しい声で答えた。
「アン、坊ちゃんとは誰の事だ?」
「あらあら、これは大変失礼致しました。旦那さまは、もう坊ちゃんとお呼びするようなお方ではありませんでしたね」と、アンは呟いた。レオンは肩をすぼめ、皮肉なメイドから逃れようと真鍮のドアノブに手を伸ばし、上部に着色ガラスがはめ込まれた扉を開けた。色彩豊かで様々な模様が施された陶器のタイルが貼られた床の玄関ホールへ入ると、二日ぶりの自宅から仄かに香る花の匂いにかれは安堵を感じた。
「ああ、旦那さまですか。随分と遅かったのですね」階段で行儀よく座る大きく丸っぽい鼻先に暗い栗色の髪の二人目のメイドのベティが気怠そうに顔を上げ、冷めた無機質な眼差しでレオンを迎えた。
「ベディ。読書するのは構わないが、堂々と怠けるとはいい度胸をしているのだな」
「テーブルにお紅茶と軽食をご用意しておきましたのでお好きに召し上がってください」
レオンは、太々しい態度を取るベティを無言でじっと見つめた。すると、視線を感じたメイドは渋々としおりを挟み、「先程、旦那さまとアンの話し声が聞こえましたので、お二人が会話をしている間にお連れ様の分も合わせてご用意しておきました――それより、こちらの小説の新刊はまだですか? 私は続きをとても楽しみにしているのです」と、小さく薄い脣には期待の微笑が溢れ、先程まで冷めていた緑色の大きな瞳を煌く穏やかな湖のように輝かせ、手にしている小説を見せながら言った。
「『緋色の研究』の続きが読みたければベティが執筆すれば良いだろう」鞄から雑誌を取り出し、レオンは語を継いだ。「出版されるまでは、このペニー・ドレッドフルで凌ぐとよい」
すると、ベティの脣から微笑が一瞬にして消え、失意がありありと泛んだ。「残念ですが、ペニー・ドレッドフルのように、低俗な私には執筆出来るほどの教養を持ち合わせておりません。そこは藪医者の旦那さまが執筆して頂けないでしょうか?」メイドは嫌味を溢した。
「ベティ、紹介状なら喜んでいくらでも書いてやろう」
「有り難きお言葉です! 是非、アンとコニーの紹介状も書いて下さいね」メイドは、主人の皮肉に対して、柔かに答えた。
かれは「そのうちな」と顔を背けて、ため息混じりに呟いた。
レオンは鞄を殺風景な玄関ホールに置かれたどっしりとしたオーク材のホールスタンドの側にある椅子の上に置き、気怠げに外套と帽子を脱ぎ始めると、ベティは速やかに立ち上がって、主人の帽子と僅かに汚れが付着した外套を受け取った。
一連のやり取りを目の当たりしたイアンは、レオンとベティの没落した主従関係に度肝を抜かれ、二人の顔をまじまじと見つめた。
「どうかしたのか? どこか具合でも悪いのか?」かれは腰を落とし、呆然としているイアンに呼びかけると、少年はまるで息を吹き返したかのように勢いよく首を横に振った。
「そうか。なら、よい。さあ、ついて来い」
階段を横切り、メイドたちにより隅々まで掃除が行き渡ったホールを歩き、突き当たりの扉を開け部屋に入る。すると、鼻は小さく、琥珀色の髪と丸く大きな狼の瞳を持つ三人目のメイドのコニーが額に汗を流し、疲労を赤く火照る顔に宿しながら浴室を清掃していた。
「コニー、そこにいたのか」
聞き慣れた低い声にコニーは慌てて振り返り、背筋を真っ直ぐ整えると微笑を泛べて軽く膝を折る仕草を見せた。
かれは笑いながら言った。「コニー、ここは貴族の屋敷ではない――慣れるまでもう少し時間が掛かるだろうが、どうかここではもう少し気を楽にしてほしい」
「ありがとうございます」メイドは深々と頭下げた。
かれは謙虚なメイドを見守りながら蛇口を捻り、あらゆるものに触れ汚れた手を少量の冷たい水で濡らし、石鹸で念入りに清潔にする。レオンは濡らした石鹸をイアンに渡すと、手にした筆記用具を置き、かれの動作を真似て手を洗い始める。
コニーは窓際の側に設置された高い戸棚を開け、規則正しく並べられた真っ白いタオルを一つ取り、レオンに渡した。
「ありがとう」
「とんでもございません。旦那さま、お湯が張り次第、お呼び致します」
「よろしく頼むよ。それより、ひどく疲れているようだが、気分はどうだ? もし、優れないのであれば、ふたりに代わるなり、相談をしてくれ」
「お気遣いありがとうございます。万が一、メイドとしての勤めを果たす事が困難になってしまった場合、とても温かく見守って下さる紳士が常に側におります。少々気難しい方ですが、いざと言う時には頼りになります。どうかご心配なさらないでください」
レオンは妙な微笑を泛べて沈黙をした。かれは沈黙を守り、タオルを半分に畳み乾いた面をイアンに渡し、速やかに浴室から出た。少年は慌てて手を拭い、狼狽えていると、コニーはにこりと微笑を泛べてタオルを受け取り、筆記用具を渡した。
イアンはコニーに一礼をした。浴室を出るとかれは玄関ホールへと向かい、そのまま左折して、広々とした部屋に入った。少年も続けて入ると、部屋には豊かな紅茶の香りが満ち溢れ、木材ならではの温かみを感じさせるマカボニー材の床には差し色の金色が美しい真紅のペルシャ絨毯、壁一面はダマスク柄の鮮やかなサイアンブルーで彩られている。その壁には植物や風景が描かれている絵画が飾られ、大きな窓には詩人、芸術家、マルクス主義者の様々な肩書きを持つウィリアム・モリスの作品の一つ「いちご泥棒」を連想させるロンドンの夜空のように深く暗い重厚的な青いジャカード織カーテンと清らかな白に花と孔雀の尾が広がる繊細な刺繍が施された東洋的な雰囲気を持つレースカーテンが掛けられていた。広々とした空間の中で一際目を引く装飾的なタイルに囲まれた暖炉と趣味よく厳選された数々の調度は過剰装飾な空間に調和を与え、繰り広げられる極めて芸術性の高い世界を少年は鑑賞していた。
レオンは窓際に置かれた英国の花々をモチーフとしたと華やかなカーヴィングに優雅な曲線、高貴で印象的な深みのある真紅のベルベット生地が張られたウォールナット材のショーウッドチェアにもたれる。
「落ち着きのない空間だが、向かい側の椅子に座ってくれ」少年は静かに腰を掛けた。
『質問しても良い?』
かれは頷き、小さな円テーブルに用意された紅茶を啜った。
『さっき、よそのメイドは従順って言っていたけど、具体的にレオンのところのメイドとは何が違うの?』
「やれやれ、変わった質問をするのだな」
『メイドは主人に対して従順、基本的にメイドは主人に話しかけてはいけない、中流階級の家庭でも鍵やドアを開けるのはメイドのお仕事って聞いたことがあるから気になったの』
レオンはしばらく考え、やがてこう答えた。「従順である事は認めよう。だが、皆がそうとは限らない。見て分かると思うが、俺とメイドたちの間には主従関係は無いに等しい。なによりも主従関係を設けて、彼女たちを奴隷同様に扱うことに抵抗があるからだ」
『それって一般的に見れば大丈夫なの?』少年が眉を寄せると、かれは紅茶を啜り答えた。「下層階級者たちは二流であり、苦労や労働は当然のものだと考えられている一般的な視点から見れば、極めて異端的で、深刻な問題になるだろう。だが、ボヘミアニズムをたたえるハワード家では、彼女たちにはメイドとして各々の役割・仕事をきちんと熟すことを条件に、対等の権利と自由を与える、と双方の合意の上で雇用したのだから全く問題ない。家庭と言うのは人の性格・顔立ちのように一つひとつ異なるのだから無理に他者のやり方に合わせる必要はない。身近なもので例えると、君の好きな本も同じ分野であったとしても執筆者の思考や価値観によって、内容が大きく変わっていくだろう?」
『確かに。全てが同じだったら退屈だね』
「そうだ――『それぞれ異なる性質を受容れるか、受け容れられないか』が問題だ。とは言え、メイドたちが無礼なことをしたら報告はしてくれ」
『分かった。けど、体罰は与えたりはしないよね?』
レオンが笑いを含んだ声で、「君には、彼女たちが体罰を与えるほど教養のない間抜けなメイドに見えるかい?」と言うと、イアンは慌てて首を横に振った。
「旦那さま!」コニーは背後から大声でレオンを呼ぶ。かれは驚きのあまり低く小さな悲鳴を上げて椅子から立ち上がり、血の気が引いた顔をメイドに向ける。
「コニー、驚かせるな!」かれは声高に言った。
「旦那さま、それはこちらの台詞です! 先程からおひとりで呟いてらっしゃるようですが、大丈夫ですか? 少し休まれてはいかがでしょう?」苦しげな声でコニーは言った。
レオンは大きく息をつくと、やがてとても穏やかな口調で答えた。「大丈夫だ――イアン、少し席を外す。しばらく手帳を借りるぞ――テーブルに置いてあるサンドイッチだが好きなだけ摘むといい」
イアンは柔かに笑みを泛かべて頷いた。
「コニー、こちらへ」憂わしい眼差しを向けるメイドを廊下へ誘導し、ふたりは一度部屋から離れた。かれは再び一息ついてから口を切る。「連れてきた少年の事だが、後程、詳しく話す。あの子は、どうやら上手く喋る事が出来ないのだよ」
「それは、お気の毒に。何か深刻な病でも?」コニーは狼の瞳を涙で僅かに滲ませ暗く重々しい表情を見せた。
「そんな顔をしないでおくれ。恐らく、過度な緊張により一時的に上手く喋れないのだろう。特に人見知りな子供にはよく見られる。それに、十分に読み書きが出来るようで、そのおかげもあり、こうして筆談をしている」レオンはコニーを宥めるように言うと、使い古した黒い革手帳を開いて筆談による会話の一部分と当時の状況を簡易的に説明した。
「これほど語彙が豊かなのであれば、お育ちの良い方だと見受けられます」
「俺も君と同じ意見だ。とても浮浪児だとは思えない。この豊かな語彙が下層階級では釣り合わないと物語っている」
「仰りたい事はよく分かります。他にも、血色の良い肌、お召し物は色褪せ草臥れておりますが、とても上質な生地が使われている事に強い違和感を感じます。旦那さま、イアンさまの身元については、一度警察に相談されてみては如何でしょうか?」
「あのろくでなしな忌々しい警察の世話になるのなら、執念深い私立探偵に依頼した方が良い。金なら幾らでもあるのだから」かれは厳しめの口調で言った。
「旦那さま。このような事申し上げるのも難ですが、探偵なんて本当にいらっしゃるのでしょうか?」メイドは弱々しくか細い声で言った。
「心配ない、いるさ。それに、依頼するまでもない。もしあの子が、名家の御子息や裕福な家庭で生まれた子供であれば、今頃、愛する我が子の為に警察署と新聞社を往復しているに違いない! きっと、明日の朝刊には大々的に掲載されるであろう。万一、掲載されなかった場合、例の件で街へ出掛けるからそのついでに調査してみるとしよう」
「そうですか」コニーは顔に暗い影を落とした。
「ところで、イアンの入浴だが、頼めるだろうか?」レオンが遠慮気味に尋ねる。
コニーはすぐに微笑して、「子供の世話は得意な事をお忘れですか? すぐに取り掛かりますよ」と、答えた。
「とても頼もしい」ふたりは再び部屋に入ると、壁に飾られた風景画を上機嫌に眺めているイアンの元へ歩み寄る。少年はふたりの気配を察し、振り返った。かれは預かっていた手帳をすぐに返し、少年はそれを受け取り、文字を綴ってふたりに見せた。
『サンドイッチとお紅茶とても美味しかったよ、ご馳走さま。僕、キュウリなんて久しぶりに食べたよ』
ふたりは驚愕し、顔を合わせて沈黙をした。なぜなら、産業革命による工場の増加と英国の気候に適さず栽培困難が合い重なり、裕福な者のみが口にするのを許される高価な輸入野菜である事を十分に認知しているからだ。新たなる謎と疑問が生まれ、少年の生い立ち、度々口するお父さんとは一体何者なのかと、額に手を当てて静かに思索に耽る。
『僕、何か失礼な事を言った?』少年が不安げに眉を寄せて尋ねた。
「いや、口にあったようで何よりだ。イアン、先に風呂へ入ってくると良い。不潔なままでは身体に害を及ぼす」
『分かった』
「イアンさん、行きましょう」コニーは、イアンを連れて部屋を出た。レオンは再び椅子にもたれ、眉を深く寄せながら、香りが薄れたぬるい紅茶を啜った。
「珍しく難しい顔をされているようですね。少し会話を聞いたのですが、コニーにあのようなことを言って大丈夫なのですか?」庭の手入れを終えたアンが静かに歩み寄り、先程まで少年が座っていた椅子にもたれる。
「どうか問題ないと願いたい――情けない話だが、朝刊に掲載されなかった場合、私立探偵に依頼すると咄嗟に口にしてしまったことを少し後悔している。先が思いやられるが、きっと、なんとかなるだろう」かれはため息混じりに言った。
「全くあなたという方は……つい先日、ベティが好奇心で『ロンドンに私立探偵はいらっしゃるのですか?』と尋ねた時、旦那さまは『パディントン駅周辺にいる噂なら聞いた事ある』と、お答えしたのを覚えてますか? あの栄えているロンドンですら噂程度なのですよ。こんな遠く、遠く離れた退屈な田舎にいるとはとても思えません」アンは深刻そうな表情を泛かべて言った。
「アン、君も悲観的なのだな。コニーにも言ったのだが、例の件で街へ出掛けるからそのついでに調査する――街について最も詳しい頼もしい男バーニーに尋ねてみれば有力な情報を得られるかもしれない」
「これでは、まるで旦那さまが探偵のようですね」
「カンタベリーが誰でも探偵として振舞えるようにさせているだけだ」
「そうですね。ところで、差し支えなければ、イアンさんについて、知っている範囲で教えてくれませんか?」
「勿論だ――帰路であるロンドン・ブリッジ駅へ向かっている時の事だった。あの子がロンドン橋の欄干の上で落ちそうになったところを助けたのだよ。その後、親と逸れてしまったものかと思って尋ねてみたら、『父親と逸れてはいない。どこかにいる』と、訳の分からないことを言うのだよ。孤児院、あるいは、警官に引き渡すべきかと悩んだが汽車の出発時間が迫っていたこともあり、仕方なく連れて来た」
「要するに、お優しい旦那さまは迷子のイアンさんを放って置けず保護したのですね」
「何故そうなるのだ。と、言いたいところだが、そう言うことにしておいてくれ。明日の朝刊がとても待ち遠しいよ」
「例の件になると、常に逃げ腰な旦那さまとは違って朝刊は逃げませんので、どうかご安心下さい」
アンのとげとげしい言葉に戦慄が走り、レオンの顔はみるみると蒼白となっていく。重く凍りついた空気とメイドの暗く冷たい冬の海のような眼差しに戸惑い、ぬるい紅茶を一気に飲み干し、「アン。一先ず、俺はあの子の服を探しに行くよ」と、逃げるかのように部屋を出た。すぐさま仄暗い階段を上り、二階へたどり着くと左手には二部屋、右手には四部屋が並んでいる。かれは右折し大きな重い靴で床を鳴らしながら右奥の燻んだドアノブに手を伸ばし、扉を開けた。中は大胆で装飾的な居間とは対照的に、落ち着いた色味のアイボリーの壁に部屋を彩る家具と調度品は最小限に置かれた素朴な空間となっており、隅々まで掃除が行き届き、きちんと整理整頓がされている。どこか寂れた部屋に置かれた箪笥の引き戸を開けると中には仕立ての良い真新しい子供用の花紺青色と紺桔梗色の背広が衣紋掛けに掛けられていた。
レオンは、それを取り出すと物憂げな眼差しでしばらく見つめた。
「こんな形で下ろす事になるとは……」
低く憂いを帯びた声で呟いた。真新しい背広に皺がつかぬよう丁重に扱い、純白なシャツ、綿生地の肌着、靴下などを引き出しから取り出し、それらを左腕に掛けて部屋を出た。廊下を横切り、階段を大きく鳴らしながら降り、小走りで浴室へと向かう。ノックをして中に入ると、入浴を済ませた少年の髪を慣れた手つきで優しく拭きながら乾かすコニーに眼を注いだ。
「旦那さま、お召し物は見つかりました?」
ずしりと左腕に掛けている衣服をメイドに見せた。濡れたタオルをかごの中に入れ、真新しい服を受け取り、イアンに綿生地の肌着、靴下、シャツの順に着せた。
「イアンさん、どちらに致しますか?」花紺青色と紺桔梗色の背広を並べ、少年は交互に眺める。しばらく悩んだのち、花群青色の背広に指を差した。メイドはすぐに指定されたものを着せると、少年は洗面台の壁に設置された鏡の前に立つ。一夜限りの魔法をかけられたかのように美しい自身と対面した少年は頬に赤い影を落とした。小さな幸福に胸を踊らせ、舞踏会で豪華絢爛なドレスを身に纏う淑女のようにくるりと舞うその姿にコニーは微笑みながら筆記用具を渡して「着心地はいかがしょうか?」と尋ねた。
『ピッタリだよ。二着目の背広は次の日に着ても良い?』
「それは既に君のものだから好きな時に着てくれ」
『ありがとう。二着ともレオンの?』
「いや、亡くなった弟リアムのものだ」
少年は驚愕し、手にした筆記用具を落とした。レオンは少年が落としたものを拾い上げ、再び渡した。「そんな深刻な顔をしないでおくれ。追悼ミサではあるまいのだから……」かれは少年を宥めるかのように言った。
『僕が着ていいの?』
「是非、君に着て欲しい」レオンが語を継いだ。「メイドたちの掃除用具として使われるよりこうして着られる方がリアムもきっと喜ぶ」
『ありがとう。弟さんの事だけど、どうして亡くなったのか聞いても良い?』
「ジフテリアだ。もし生きていたなら今年で十五歳だ」
『僕と同じ歳になってたんだね』
「十五歳だと!? 十二歳前後かと思っていたが、年齢の割には随分と体が小さいな」
イアンは頬を膨らませ口を尖らせた。『それはレオンが大きいから僕が小人に見えるんだよ――これから大きくなるから見ていてよね!』
懸命に背伸びする少年の姿に愛おしさを覚えたコニーは口元に手を当て、くすっと笑った。そんなメイドとは対照的にかれは「そうか、期待している」と、不安を含んだ声で答えた。
「旦那さま、イアンさんに屋敷の案内をされてはいかがでしょうか?」
「それは名案だ。ついて来い」
ふたりは浴室を出て、左の扉を開けると台所でふたりのメイドが会話を弾ませながら夕食の仕込みをしていた。
「見ての通り、ここが台所だ。奥にいる容姿だけが美しい蜂蜜色の髪のメイドがアンだ。手前にいる暗い栗色の髪のメイドが本の虫ベティ、君の世話をしてくれたのが琥珀色の髪のメイドが慌て者のコニーだ。長居は禁物だ――アンたちに仕事を押し付けられる前にさっさと次に行くぞ」
メイドたちの熱烈な視線を浴びながら逃げるように台所を出ると、玄関ホールに戻り、階段前の扉を開けた。すると、不快感の強い刺激臭が漂い、イアンは未知なる臭いに顔を歪ませ、扉から逃れるように階段を数段登る。
「念の為に言っておくが、仕事場でもあるから出入りは控えるようにしてくれ」
『どんな時に入れるの?』少年は顔を顰めながら尋ねた。
「なら、そこの階段から勢いよく落ちれば良い」
『レオンがテムズ川に身を投げ出したら考える』イアンは初めてレオンに冷めた眼差しを向けて答えた。『それより、他の部屋を案内して欲しい』
かれは肩をすくめ、異質な臭いに支配された部屋の扉を閉めたのち、再び二階へ上がる。子供部屋に入ると、少年は部屋を見渡す。すると、「元はリアムの部屋だ。しばらくの間にはなるが、今日から君の部屋として好きに使うと良い。それと、向かい側は姉マティルダの部屋になる。十年ほど前に嫁ぎ、今は家にいないが月に一、二回の頻度で帰ってくる。近々顔を出しに来るだろうから姉についてはメイドたちに聞くと良い。ああ、そうだ! 左奥の部屋は整理中だから立入らないように。最後に右隣は俺の部屋だ。その奥が書斎室になっているから本は好きなだけ読んでくれ。きっと退屈せずに済むだろう」と、かれは機械的に喋り続けた。
瞳をきらきらと輝かせているイアンはレオンの背広の袖を引き、書斎室に連れて行くように求める。かれは喋るのをやめ、要望に応えるべく部屋を出て、書斎室に向かう。扉を開け、中に入ると壁一面を本棚で埋め尽くし、収まりきれない書籍は床と部屋の中央に置かれた机の上に乱雑に積み重ねられ、仄暗い部屋に窮屈な印象を与えた。
レオンは雑然とした光景に嘆息を洩らし、呟いた。「酷い有様だが、しばらく眼を瞑っていてくれないか。後日、片付ける」
『気にしないよ。ここにある本は読んでも良いの?』
「全て読み尽くす勢いで読んでくれて構わない。一部、ドイツ語の書籍が混ざっているかもしれないが、一旦、どこかに避けてくれ――聞いてないようだな」
一瞥を与えず、一心不乱に、智慧を取り込む少年の姿にレオンは、小さな愁の影を顔に落とす。イアンの小さな背中を見守り、静かに書斎室を後にした。
三章
「おはようございます、旦那さま。昨日はよく眠れましたか?」ベティは身支度を整えた主人に冷淡な眼差しを注ぎ、相も変わらず太々しい態度で迎えた。
そんな異端的なメイドに対し、主人であるレオンはどうしたものかと、眉を顰めて、いかめしい脣から低く倦怠感を宿した言葉を発する。
「おかげさまで、素敵な夢を見たよ。それより、イアンはどうしている?」
「イアンさんでしたら、既に朝食を済ませて書斎室に閉じこもっております」
「やはりな」かれは嘆息混じりに言うと、窓から斜めに差し込む木漏れ日の中で、小さな円テーブルに用意された朝食の席に着き、愁の影で覆われた顔を隠すかのように身体を窓側に向けて雲ひとつない青い空の下でゆらゆらと揺らめく豊かな色彩の花々を眺める。
メイドは円く白い陶器に乗せた温かく量感のある朝食を円テーブルに静かに置き、珈琲を注いだ。
「外出前に、一度イアンさんにご挨拶されたらどうですか?」
「そうしたいのは山々だが、今はそっとしておこう。後々、何処ぞのメイドのような態度を取られても困るからな」不満をたたえた眼差しでベティを見つめながら珈琲を啜る。けれども、メイドは臆する事なく、微笑を泛べて「どうされましたか?」と妙に穏やかな声で尋ねた。
「何でもない」かれは鼻を鳴らし、むっとした顔つきで言った。「アンとコニーは?」
「アンは洗濯、コニーは街へ――私はこの後、屋敷全体の清掃に取り掛かります」
「そうか。コニーは何故街に出掛けたのだ?」
「必要なものがあると言って急遽街へ買い物に出掛けました。きっと、イアンさんの服地を買いに行ったのだと思います」
「なら、アンには正午前までには戻ってくると伝えておいてくれ。それと、今日は見送り不要だ」
「承知しました」メイドは恭しく深い一礼をして引き下がった。
レオンは豊かなバターが香るきつね色のトースト、カリカリに焼かれたベーコンエッグ、ソテーされたトマト、ベイクドビーンズの順に喫っする。珈琲をゆっくりと啜りながら、庭の中をひらひらと舞う鮮やかな橙色の翅に黒い斑点が散りばめられた二匹の蝶と花々を眺めて、束の間の平穏を堪能し、量感のある朝食をあっという間に平らげるとテーブルに置かれた新聞を手に取る。メイドが丁寧に皺を伸ばした新聞を広げ、煩わしく退屈な記事にざっと眼を通しつつ、見目麗しいエリス・グレイに続くイアン・グレイの記事を探し始める。が、得られた情報は落胆だった。
レオンは額に手を当て俯き、深い、深い溜め息を洩らした。ラファエル・グレイは一体何を考えているのだ? 切り裂き魔が潜むロンドンであの子を野放しにするとは、やはり正気ではない! かれは新聞を畳み、気鬱さを晴らす為、珈琲を一気に飲み干す。席から立ち上がり、仮にラファエル・グレイが貴族ならば、何故寵愛しているであろうイアンを置き去りにしたのかを問い質したい、と考えながら、胸の秘めたる苛立ちを露わにするかのように重い靴で床を大きく鳴らして玄関ホールへと向かう。ホールスタンドに予め掛けた鼠色の山高帽子と外套を身につけ、鏡で風姿を整えると、椅子に置いた鞄を持ち、鍵を開け玄関を出た。心地の良い乾いた風が吹き、庭を大々的に彩る秋薔薇の香りに満ち溢れた小さな園路を抜けて庭門をくぐると、青白い煙が燻り、一服する見慣れた若者の姿が見えた。
「バーニー、待たせてしまったか?」
「まったくだ! このまま二十世紀まで待たせられるかと思ったぞ」バーニーは僅かに顔を顰めて言った。
「安心しろ。待たずとも二十世紀はやってくる」
バーニーは鼻を鳴らして言った。「そんなにのんびりしていると、お前だけ十九世紀に取り残されるぞ」
「是非とも、穏やかだった一八八四年に取り残されたいものだな。ところで、聖オーガスティン修道院前の郵便局まで頼めるだろうか」
「もちろんだ。その前に、ひとつ聞いていいか? 手紙に綴った言葉は、承諾と拒絶、どっちなんだ?」
「いい質問をするのだな。もし、俺が承諾を選択したのならば、それは再出発を意味し、君と三人のメイドを含めて、俺たちは別の道を歩む事になる。一方、拒絶は、変わらぬ退屈な日々を送る事を意味する。俺が綴った言葉は――」
「拒絶だろう。限嗣相続制について、詳しくは分からないが、とにかく面倒であることはよく分かるよ」
「君にもわかるように言おう。要するに、政略結婚だ。あのような制度は、一部の人間に不幸を齎す。さっさと限嗣相続制を廃止して欲しいものだ」
「なら、早いところ行こうぜ」
若い御者はすぐに巻煙草の火を消し、馬車に乗るように促す。かれが座席に腰を掛けた事を確認すると、手綱を引いてゆったり心地の良い速度で馬車を動かした。
「レオン」とバーニーは口をきった。
「なんだ?」
「今朝、コニーがカンタベリーに私立探偵はいないのか? と、突然尋ねてきたのだが、何かあったのかい?」
一瞬、レオンはかすかに眉を顰めて、薄い下脣を噛んだ。そして、しばらく考えてから、かれは冷静に答えた――「ここ最近メイドのベティを夢中にさせている推理小説『緋色の研究』に、登場する主人公が英国ではあまり馴染みのない私立探偵をやっているのだよ。珍しさ故、カンタベリーに存在しているのかと興味を持ったのではないだろうか?」突然若い御者が振り返り、声高に言った。「あまり馴染みのない? そんなに探偵が珍しいのか?」
「君が想像している以上に珍しいものだよ。こうして物語の題材として使われているのだからな。俺がロンドンで外科医をやっていた頃に遡るが、パディントン駅周辺に探偵がいる噂を幾度か小耳に挟むにも関わらず、仕事で立ち合うこともなければ個人的に会うこともなかった」
「それでは、まるで幻じゃないか! 文化の街はあらゆる刺激に満ち溢れているかと思っていたが、ひと時の夢、浪漫もないのだな!」
レオンは憂鬱に襲われ、苦悶の表情を泛かべて深いため息を洩す。なぜなら、一八世紀半ばから十九世紀かけて綿織物の生産過程における技術革新を起こし、波紋が少しずつ大きく広がるように工場制機械工業の成立、蒸気機関の出現とそれに伴う石炭の利用による鉄道や蒸気船の実用化など『産業革命』と呼ばれる大きな社会変動を生み出し、さらに資本主義社会の確立をさせ、『世界の工場』と君臨した大英帝国は、眩いばかりに煌めく功績と黒く澱む大いなる負の遺産を残したからだ。
産業革命の影響による生産基盤を農業から工業への転換に伴い、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールなどの新興都市の誕生と共に、地方から多くの仕事を求めし者たちを迎え、次第に発展都市として繁栄して行き、今近代社会の象徴である機械が普及するにつれてまるで役目を終えたかのように特定の職を失う者たちも現れると、権利と人権が存在しない労働者たちの鎮まぬ憂苦は憤りに変わり、ラダイト運動、地位と権利の向上、あるいは開放を目指した労働組合が資本家に対して劣悪な労働環境・条件の改善を求める社会運動を起こして一時的に英国を混沌へと陥れたのだ。が、それらは始まりにしか過ぎなかった――政治的迫害、貧困など故郷を諦めた大量の不純な異邦人たちが「幻想」を求めて英国に流入した事により、小規模で纏り、決して同化することのない彼らがロンドン内の特定地域に集中するに当たって更なる混沌を齎す。住宅不足による賃料高騰と権利金制度の導入、貧困が故に救貧法の救済を受ける者が増加する毎に上昇する他方税、同じ人種や宗教の者同士たちが集うことによって生じる国内商人の雇用奪取を目的とした排他的取引、失業から免れたいが為に低賃金で快く働く非熟練労働者に依存した資産家により発生する国内労働者の追放と貧困、異教たちによるキリスト教の祭日妨害などあらゆる破滅を及ばした。それらの悪意ある異邦人たちの罪の傷痕は、古くから人類に強く根付くレイシズムの発展に拍車を掛けると、貴族たちは地位が低い者に対して侮蔑をたたえた眼差しを向け、道徳を捨てた英国人たちは異邦人や風変わりな者たちを異端的だと虐げるなどの負の遺産の一つを残したのだ。レオンハルト・ハワードは負の遺産により、一人の英国人でありながらドイツの血筋を引くが理由に双方から蔑まれた故、ロンドンを忌み嫌っていた。都会に憧れを抱く一人の若い男に、レオンは忠告の言葉を含めて言う。
「バーニー、もしロンドンに足を運ぶ機会があればの話だ。期待はあらゆる苦悩のもとである事を忘れないで欲しい――それに、皆とは言わないが、あの街の人間ほど保守的で偏屈な者たちはいない。澆季溷濁な地で、創設当初の|警察たちのように世間からも全く理解されず“他人の秘密の詮索を怖しいと口にしながら本心では娯楽のように興じる蛮人”として疎まれる中で探偵として生きていくのは窮窟だと思うぞ」
「窮窟か……」バーニーはくるりと前に向き変えりながら語を継いだ。「レオン――秘密の詮索と警察で思い出したのだが、俺たちが生まれた頃だろうか――捜査に関わった刑事の一人がまるで探偵気取りだと批判され、話題になった事件はなかったか?」
眼頭を指で押さえ、脳中の奥深くに埋もれた記憶を掘り起こしレオンは口を開く。
「一八六〇年に起きたロード・ヒル・ハウス事件の事か? 俺の記憶に間違いがなければ、十六歳の姉が三歳の弟を殺した事件だ」
「それだ! 当時は扇情的な事件だったらしく屋敷絡みの事件が起きる度、酒場で話題になることがあるのだよ。それで、遺族たちは不思議にも捜査には非協力的だったそうだな」
「真実よりも家名を優先し、乞食飯牛である|警察たちに各々の楽園を踏み荒らされたくなかったのであろう。それに、最初の刑事であるジョナサン・ウィッチャーは遺族たちによる不可解な言動の中に隠された“真実を突き止めたい”という欲に駆られ、事件の犯人である狡猾なコンスタンス・ケントに執着するのだが、有力な情報や証拠は関係者たちと地元警察たちによる隠蔽――新聞記者たちは面白半分に“家庭の秘密を暴く悪魔”だと報道――挙げ句の果てには、証拠不十分で無能な刑事の汚名を着せられ苦悶する日々を送る事になる――彼女が自白するまでの五年間もだ」
「誰よりも熱心で事件を解決に導こうとした男に与えられたものは名声ではなく汚名とは屈辱的だな――そのあと、ウィッチャーはどうなったのだ?」
「コンスタンスの罪が正式に公表された途端、皆手のひらを返すかのようにウィッチャーを賛美したさ。彼女の自白により、彼は無事に汚名返上を果たし、その翌年には私立探偵になったところまでが俺の知る情報だ。明確にとは言えないが、英国初の探偵はウィッチャーなのかもしれない」
「へえ、元刑事が探偵とはね――探偵としてのウィッチャーの話はないのか?」
「残念ながら探偵としてのウィッチャーの話はない。死体が届くまでの間、時間潰しに片っ端から署内の資料を読み漁ったつもりでいたが、それらしい記録は見当たらなかった」
「そうだったのか。なら、仕方ない」バーニーは残念そうに言った。「レオン。探偵についてだが、実はコニーに尋ねられた時に初めて存在を知った――初めから期待していないだろうがカンタベリーにはいないと思え」
「へえ、街一番の情報通であるバーニーが存じないとは、カンタベリーには夢や浪漫すらないのだな」
バーニーは声を立てて笑った。「こんな辺鄙なところに夢を見るのは聖職者、浪漫を抱くのは見て呉ればかりの上流階級者たちを除き、芸術家くらいだろう」
「そうだな、景色だけは別格だから彼らが見惚れるのも十分理解できる」
「誰よりもカンタベリーを愛してやまない男の言葉にしては皮肉的だな」
「何の事やら――バーニー、郵便局は目の前だからここで降ろしてくれ。話の続きはまた今度にしよう。では、二時間後に」
若い御者は二つ返事で承諾し、手綱を引き馬車を人通りの少ない場所に停め、レオンを下ろした。ふたりはすぐに顔を見合わせ、変わらぬ淡白な別れの言葉を交わした。
鞄から白い便箋を取り出して、それを見つめながら、「こちらから願い下げだ」と呟き、数十歩先の小さな郵便局に入った。受付の若い娘に挨拶をし、予めポケットに入れた一ペンスと便箋を若い娘に渡すと、別れの言葉を告げてすぐに退出をした。かれは、メイドのコニーを探しに街の方へ足早に歩き始める。廃れ、静まりかえった聖オーガスティン修道院を囲む塀が続く街道を抜けて、街に踏み入れると、今日を生き抜く為に足掻き続ける労働者たちと聳え立つカンタベリー大聖堂を一眼見ようと遥々遠方から旅行で訪れたであろう裕福層の者や信仰深い巡礼者たちで修道院の静けさを忘れさせるほどとても賑わっていた。
レオンは人混みをかき分けながら、琥珀色の髪と特徴的な狼の瞳に、小柄であどけなさの残る愛らしい少女のような顔立ちをした女性を探すも眼に留まるのは美しさと引き換えに、高慢さを引き立てる仕立ての良い鮮やかな色のドレスとけばけばしい高価な宝石を身につけた貴婦人。そして、対比的な薄汚れた服を身に纏う痩せ萎びた若い女性や小さな子供ばかりだった。かれは、もどかしさを胸に募らせた。いち早く合流したい一心で人目を避けて仄暗い路地裏へと逃げ込み、メイドが足を運びそうな大聖堂へと小走りで向かった。
信仰深いコニーの事だからカンタベリー大聖堂周辺に行けば見つけられるはずだ。礼拝堂で祈りを捧げるはず! どうかそこにいてくれ! ささやかな願いを胸に抱き、入口に辿り着くと、レオンは再びコニーを探し始める。が、数秒、数分と時間だけが流れてとうとうメイドは姿を現す事はなかった。胸に募るもどかしさは、次第に不安へ変わり、焦燥の影がかれの顔を覆う。鞄から喫煙具を取り出して乱れが生じた感情を和らげようと、俯きながら、路地裏に向かって歩き始める。すると、「旦那さま?」と聞き慣れた女性の声が耳に入り、咄嗟に振り返った。
「コニー! ここに居たのか」焦燥の影が消えて安堵の微笑を泛べながらレオンは言った。「ベティから必要なものを買いに街へ出掛けたと聞いたのが……」
「昨日、イアンさんをしばらく保護するとおっしゃってましたよね。一度、旦那さまにご相談しようと思いましたが、いくつか着替えが必要になるのではないのかと思い、取り急ぎ服地を買いに来ました。今回ばかりは私のお給金から差し引いてください」
「いや、気にする事はない。どの道必要になるものなのだから――それよりも、バーニーに探偵について尋ねたそうだが、朝刊を読んだのかい?」
「はい。どうしても気になってしまい、街に詳しい御者のバーニーにお尋ねしました。何か問題でもありましたか?」
レオンは険しい表情を泛べてしばらく俯くと、やがて、顔を上げて口を開いた。「コニー、君の気遣いにはとても感謝している。が、あの男と真剣な話をする場合、今後は内容を濁すようにして欲しい」
「それは何故ですか?」
「あの男は酒に支配されると饒舌になり、あらゆる事が公になるのだよ。コニーが屋敷に来る前の話に遡るが、ロンドンでの愚痴や不満をバーニーに話した後日、たまたま酒場に足を運んだ時には皆に憐れみの眼を向けられ、慰めの言葉を掛けられた事がある――つまり、洩らされたのだよ」
「それはお気の毒に……」
「バーニーにイアンのついて何か聞かれた際は、意地の悪い遠い、遠い親戚の子供を一時的に預かっていると言い通しておいてくれ。身元不明の子を保護していることを知られると、後々が面倒だ」
「承知いたしました」
「ただ、君のおかげで探す手間が省けた。街に詳しいあの男が知らないとなると、望みは無いに等しい。あまり気は進まないが近々ロンドンに足を運んでみることにするよ」
「無理していかれる必要はないかと……」
かれは肩をすぼめた。「率直に述べると行きたくはない。しかし、イアンの身元を調べるにはそれしか方法がないのだ」
「一つご提案があります。私が代わりにお伺いするのは如何でしょう?」
メイドの怖しい言葉に全身の血の気が引き、怒りに震える声でレオンは叫んだ。「君は自分が何を言っているのかきちんと理解しているのかい? それだけは、絶対に許さん!」
驚きで目を見はり、コニーは手にしていた花の刺繍が施された小さな巾着袋を落とした。眼にうっすらと涙を浮かべて、か細い声で主人に謝罪の言葉を述べると、こみ上がる罪悪感と後悔に苦痛の表情がレオンを覆った。地面に落ちた巾着袋を拾い上げて、砂埃を払いコニーに渡すと、かれはひとつ小さな息をつき、眉を下げ、穏やかな声で言う。
「取り乱してしまい、すまなかった。ロンドンはあまりいい街ではないから、行って欲しくないのだよ――君の身に何かあったとしたら……」
「私はただメイドとして、旦那さまのお役に立ちたいだけなのです」
「コニー、危険を冒してまで行く必要はない。それに、君は役に立っているさ。充分すぎるほどに――さあ、三人とも君の帰りを待っているのだから早く屋敷に戻ると良い」
主人の温かな言葉にコニーは頬を豊かな薔薇色に染め、花を咲かせるように微笑んだ。「承知致しました。その前に、私は礼拝堂でお祈りをしてから屋敷に戻ります。旦那さまもどうかお気を付けてお帰り下さい」
コニーは主人に恭しく頭を下げると、くるりと向き変わってカンタベリー大聖堂へと歩み始める。メイドが聖域に踏み入れるまで見届けると、かれは厭らしい人の海と化した広場を後にした。
レオンは俯き、再びロンドンに足を運ばなければならないのか、と灰心喪気した。愁の情を晴らそうと、再び仄暗い路地裏に向かうが、得体の知れない黒い影に視界を遮られ、全身に鈍い衝撃が走った。宙には多量の紙が舞い、地面には重く乾いた音と金属の掠れる甲高い音が交互に響く中で、かれは投げ出されるように倒れた。
「ああ! なんて事でしょう! そこのあなた、大丈夫ですか!?」黒尽くめな男は慌てた様子でレオンの元に駆け寄り、まるで舞台の上で演じる役者の如く、大袈裟に尋ねた。
レオンは顔を歪めながら呪詛の言葉を小さく囁き、ゆっくりと立ち上がって、外套に付着した砂埃を念入りに払うと、黙々と地面に転がり散らばった絵の具とカートリッジ紙を拾い男に渡した。
「ありがとうございます。それより、お怪我はございませんか?」
「ご心配なく。あなたこそお怪我は?」かれは不機嫌そうに言った。
「ご覧の通り問題ございません。全く陽気な人たちで困ったものですよ」と、男は笑いながら答えた。
「次はお淑やかな人たちをお連れする事を推奨致します。では、私は失礼致します」
胡散臭い! ああ、なんて胡散臭い! 妙に馴れ馴れしいあの男とはなるべく関わりたくない、と、レオンは思った。榛色の瞳、純白のシャツに首元を飾る紅色の蝶ネクタイ、十六世紀を彷彿とさせる懐古的なシルエットに緩やかなフリルが施された長く張りのあるチュールスカート、踝まで丈のある外套、ごく一般的に見られるダブルの胴衣、幼きアリス・リデルのように黒く東洋的な髪に紳士の装いを纏め上げるシルクトップハットを乗せたあらゆる時代の流行を取り入れたかつてない奇妙な雰囲気にどこか怖しさを感じたからだ。奇抜な男に背を向けて、かれはその場からすぐに立ち去ろうとした。
「おっと! 駅はどちらの方角にありますか? これからロンドンに戻ろうと、駅へ向かっているところなのですが、どうやら迷ってしまいまして……」
奇抜な男に呼び止められたレオンは、小さな溜息を洩らし、渋々と懐中時計と出向時刻を細かく記した小さな手帳を鞄から取り出して時刻を確認すると「駅はすぐそこにあります。出発の時間も迫っているでしょうからご案内しますよ」と熱のない声で言った。
「ご親切にありがとうございます! 私はヘンリー・ニューカッスルと申します。ロンドンで画家をしております」
「そうですか、こんな田舎で退屈でしょう。あなたのようなロンドンが見合う方を引き止めないと良いのですが……」かれは、明るく友好的なヘンリーに冷たく返事をした。
「初めてカンタベリーに来たのですが、あなたの言う退屈とは無縁でとても素敵なところですね! ストウ川を行き交う小舟に乗りながら、歴史的建造物の間やあらゆる花が咲き誇る庭園、チューダー朝の面影が残る美しい街並み、そして、なによりも荘厳なカンタベリー大聖堂に圧倒されました。常に何かと騒々しいロンドンとは異なり、とてもゆったりとした時間が過ごせそうです。ところで、随分と手肌が荒れているようですがあなたはお医者さまですか?」
饒舌で詮索し始めるヘンリーに対し、次第に苛立ちが募るレオンは無言で足早に歩く。が、厚かましい奇抜な画家はまるでかれを阻むかのように勢いよく前に出てさらに喋り続ける。
「おやおや、気を悪くされましたか? 医療に携わる方は石灰酸によって手肌がひどく荒れている人が多いと、優れた洞察力を持つ元警官の同居人から伺っていたので、気になり質問をしてみたのです」
レオンは募りゆく苛立ちを懸命に抑えて、ひとつ息をつくと、画家の歩く速度に合わせて答えた。「これは偶然なったものですよ。医者と話がしたいのであれば、診療所へ行く、或いは、あなたの身近にいる元警官の同居人に頭を下げて検死室に案内してもらってはいかがでしょう?」
「とても素晴らしいご提案ですね! しかし、残念ながら、それらは当の昔に試行済みです。後者に至っては、元警官のアーネストに『君は惨たらしい死体と萎びた外科医を描こうとしているのかい? 随分と素晴らしい趣味をしているのだね』と、冷ややかな眼差しを向けられ、断られてしまったのです――悲しいでしょう?」
「それは残念ですね。そのアーネストさんが倫理に欠如した者であれば、次は賄賂でも用意し、再び頭を下げてみましょう。それでも、断られるのであれば、事件と関連性の強い死体でも見つけて警察署に駆け込むのも一つの手です」
「おやおや、随分と甚だしい事を言うのですね――嫌いではないですよ」
「なら、試してみてはいかがでしょうか?」
「大変素晴らしい案ではありますが、ご検討させて下さい。こう見えて私はあなたのように慎重で繊細なのですよ。そう言えば、まだあなたのお名前をお伺いしてなかったですね。差し支えなければ、教えて頂けないでしょうか?」
レオンはぎこちない微笑を泛かべると、顔を背けるようにそっと俯き、視点を左側に向けた。咳払いをし、瞬時に画家の眼を見つめて「ナサニエル・ライトです」と名乗った。
「ナサニエル・ライトですか、あなたのような礼儀正しい方にはとても相応しい名前ですね。改めまして、ナサニエルさん、ご親切に駅までご案内して下さり、ありがとうございました。ロンドンに足を運ぶ機会がございましたら、是非、私にご案内させて下さい。あなたが思う以上にロンドンは素敵な都なので……」
「名案ですね。どうなる事でしょう」
「きっと楽しめますよ」画家は自信に満ち溢れた顔で汽車に乗り込みながら、別れの言葉を述べた。「ナサニエルさん。それでは、またお会いしましょう」
「その日が来ることを願います。さようなら」
レオンは、二度と会うことのないヘンリー・ニューカッスルに向けた再会を望む友愛の言葉を並べて、足早に駅を後にした。画家は車内をゆっくりと歩きながら、かれの淋しげな背中を見届けると、鞄からカートリッジ紙と鉛筆を取り出して、不敵な笑みを浮かべながら何かを描き始めた。
THE PALE