リョウ
アタシはだあれ
アタシの好きなもの。
細く曲がった眼鏡のつる。ほのかに香るくすりの匂い。細い首筋と短く切りそろえられたすこし色素の薄い髪。ときおり目元に下りてくる前髪をかきあげて後ろになでつけるしぐさ。少しくたびれた白衣とそれに包まれた細身の体躯。童顔と、その割に落ち着いた高さの声。チョークをつまむ細く長い指。漢字の口という部分をくるんと丸く略す癖。
そして、そのすべてを持っているリョウ。
ううん、リョウがそうだから、アタシはそれを好きになった。
リョウ、リョウ、リョウ。
名前も好き。透明感のある名前。キレイな響き。いつまでも、いつまでも呼んでいたくなる。
リョウ。
名字はフジタって言う。何の変哲もない、目新しくもない、珍しくもない、面白くもない、ありきたりな名字。
同級生はフジタって呼ぶ。リョウは若いから、友達感覚で呼ぶのかもしれない。
でもアタシはリョウって呼ぶ。アタシだけが、そう呼ぶ。
アタシ以外がリョウと呼ぶことはない。
アタシが決してそれを許したりしない。
リョウって呼ぶのはアタシだけ。アタシだけの、特権。
リョウはそう呼んでも困った顔をしたりしない。
リョウはそう呼ばれる事をイヤがったりしない。
リョウは、リョウ。アタシだけの、リョウ。
記号、結合、化合物。
カツカツコツコツと軽快な音が鳴る。
チョークが黒板を滑るたび、くるんくるんと丸が増えて行く。
リョウは化学教師だ。
授業中は、前を向く。リョウを眺めるために。
あの純粋な瞳で見つめられたらどんなにか昂るだろう。
あの細い指先で触られたらどれほど肌が熱くなるだろう。
ホントウは、ノートは要らない。教科書も要らない。机も座席も要らない。
アタシはリョウさえ眺めていられればそれで良い。
けれど今は授業時間中で、そしてアタシは生徒だから。
大人しく席について大人しく右手にシャープペンシルを持って大人しくノートを取っている。
はたから見ればただただ真面目な女子高生してる。
アタシがリョウにとってトクベツになるのは今じゃなくていい。
今トクベツである必要なんてない。
リョウがアタシにとってトクベツなのは間違いないけれど。
休み時間にはリョウのところへ行く。
できるだけ、リョウの存在を感じていたい。
何かリョウの側にいられる用事を作って一緒にいたり、―これはなかなか難しい
化学準備室の扉に背中を預けて、気配を感じてみたり。―なのでいつもはこっち
これでも節度はある方だから、無理やり触れたりはしない。
襲ったりもしない。
したいけど。
リョウ、リョウ、リョウ。
アタシは部活をしていないけれど、朝も早い。
リョウが来るまで教室にいて、車が見えたら小走りに職員室の前まで行く。
おはようございます。
きちんと挨拶をして、教室に戻る。
そして日課の占い。
アタシの教室前の廊下からは窓ガラス越しに職員室の中が見える。
バッチリと凛々しい姿が見える日は当たり。
カーテンの陰でリョウが見えない日は外れ。
当たった日は手帳のカレンダーにピンクのハートマークを付けて、
外れた日は生徒手帳に挟んだ写真にキスしてからハートを付ける。
リョウへのLOVEは年中無休。
パタンと閉じた手帳には、アタシがリョウを好きになった日から今日までの分の愛がしまいこまれてる。
そして手帳は胸ポケットに。
そう、アタシのココロに一番近い場所にいつもいるの。
アタシがいかにしてリョウを愛するようになったか?
そんなの、リョウがリョウだからに決まってるじゃない。
なんて。
そういうことじゃないわよね。
きっかけはとてもシンプル。
リョウが、リョウだけがアタシに気づいてくれた。
ただそれだけ。
アタシはもともとそんなに自己主張が激しい方でもなかったし、オンナノコ特有の群れたり群れたりときどきハブったりっていうのが得意じゃなかった。
だから、気がつけばアタシはクラスメイトからは離れたところにいた。
アタシがそれを選んだって言われても違うって言えないのは、アタシにとってもそれが楽だったから。
ううん、実際選んだんだと思う。
気遣うような他の教師の視線はただ鬱陶しいだけだったし、何か諭すようなことを言われてもアタシは応えなかっただろうし。
言われた事は、ないけれど。
たったひとり。
たったひとり、リョウだけがアタシを見つけることを許された人。
リョウだけが。
リョウはきっとアタシとは違う。
毎月のように血を流したりはしない。
リョウはきっとアタシとは違う。
憎しみに流されて全てを壊したりはしない。
リョウはきっとアタシとは違う。
リョウは絶対、アタシとは違う。
――そう、アタシとは違う。
「お知らせがあります」
授業もすべて終わり騒然とした教室内で、落ち着いた声が告げる。
音量低めの、けれど凛とした声。
リョウの声。
あぁ、その声を聴いているだけでもアタシは恍惚とする。
あぁ、その音を耳にするだけでもアタシは心揺らされる。
あぁ。
けれど。
続きは聞きたくない。
続きは言って欲しくない。
嫌な予感がする?違う。そうじゃない。
続く言葉をアタシはもう知っているからだ。
この風景はもう幾度も繰り返されるアタシの記憶。
けれど、アタシの思い通りになってくれない記録。
この教室は幻で、室内の煩い連中も幻で、気付けば喋っているのはリョウだけで。
アタシはリョウのところへ行くことが出来ないし、耳を塞いでも音は止まらない。
リョウの声は告げる。
「子供が、できました」
リョウ、リョウ、リョウ?
どうして。どうしてこっちを振り向いてくれないの?
アタシはこんなに愛しているのに。
リョウをこんなに愛しているのに。
リョウ。
ねぇ、
リョウ?
途端に勢い上がる周りの声。
高い声の女が喚くのは余計に耳触りになる。
いつ産まれるの?男の子女の子?名前決めた?結婚は?相手の年齢は?背格好は?カッコイイ系?カワイイ系?何してる人?いつからの付き合い?
うるさい。
うるさい黙れおまえら。
うるさい。
そんなことどうだっていいだろ黙れ。
うるさい。
頭の中でうるさいと叫ぶアタシも黙れ。
ほらみろ。
そんなことばかりやっているから。
気付けばリョウの声が聞こえなくなって。
気付けばリョウの姿も見えなくなって。
アタシは夢から醒めることも出来ずに椅子に座り続けている。
茫然と。
ただただ呆けているアタシは人形みたいに無機質で、影絵のように無彩色だ。
暗転した世界でフラッシュする光景
窓の外に灯りはなく、窓の内にも灯りはなく、なのに手にした光沢だけが光っている。
見慣れた教室内では無いけれど、外の景色も無いけれど、ここは確かに学校内。
大きく黒い机が等間隔に並ぶ、そう、ここは化学の実験室。
黒々とたゆたう闇の中、黒々と沈み込むたった一つの姿。
目にした物はたった一つ。
それはアタシ、だ。
誰かがひねり損ねたどこかの蛇口から零れ落ちた水滴がシンクを鳴らす。
大きめに設えられた黒板上の時計の針が歩を進めてはハグルマを鳴らす。
黒々としたカタマリが呻き声とも悲鳴ともつかぬ音を立ててくずおれる。
アタシの世界に音が戻ってくると同時に、アタシの世界から音が消えていく。
起きればそこが夢の中?それともここが夢の中?
これが胡蝶の夢だとしたら、アタシは向こうではリョウになりたい。
ちょうちょなんかじゃなくって、リョウに。
ねぇ、ねぇ、ねぇ。
意識が次第に薄れていく。
曖昧に曖昧になっていく。
ねぇリョウ、そっちのアタシは幸せかしら?
ねぇリョウ、そっちのアタシは幸せかしら。
ねぇ、リョウ。
リョウ?
リョウ。
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「被害者は丸川高等学校で化学教師として勤める女性藤田涼子、二十九歳。化学準備室で業務を終えて帰宅しようとしたところ隣室の実験室で物音がしたため確認のため入り、その際背後から何者かに刺されて転倒したと証言しています。電気は点灯していなかったため犯人の顔は確認できず、走り去る足音も聞いていないとのことです」
「……ふむ、それで何か変な点があると聞いたがそれは?」
「被害者は数分後自力で立ち上がり準備室内の電話で助けを呼んだそうなのですが、その際準備室及び実験室の鍵が施錠されたままだったとのことです。どちらも内側からは簡単に施錠出来ますが外側からは鍵を使わなければならず、その鍵は被害者が所持したままだったため犯人の逃走ルートが不明となっているのです。また、こちらの施錠は未確認ですが窓が開けられた様子もなく現場の教室は四階にあるため飛び降りての逃走も難しいかと」
「凶器も不明か?」
「いえ、凶器は救急車で搬送されるまで被害者の背に刺さったままでした。刃渡り十二センチと小ぶりのナイフです。ただ、こちらからは被害者の指紋しか検出されていません」
「被害者の指紋が背に刺さったナイフに?」
「その原因については不明なままです。背中に刺さったままのナイフにも無理に手を伸ばせば触れなくはなかったそうですが、鑑識によれば指紋はもっと鮮明に握ったような状態でついているとのことです」
「……もう少し証言を取ってみないとなんとも言えんな」
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パチリ
と、目を開ける。
身体を起こしてあたりを見回す。
見慣れない天井と、見慣れない室内に少し戸惑う。
「ここは……?」
ぼんやりとしか見えないのがもどかしい。
近くに眼鏡がないか探そうとして、手が止まる。
「あれ……?」
おかしい。
おかしい?
……ううん、おかしくなんてない。
ここは入院室のベッドの上で、刺された背中がまだ痛い。
……なにも、おかしくなんてない。
眼鏡はレンズが割れてしまって、見慣れない服を着て。
……そう。
アタシは、
リョウ
おかしなお話を書こうとしました。チャレンジ精神!