【歌を忘れたカナリアは】

楪 花梨

序章【いえいえ それはなりませぬ】

〜プロローグに代えて〜

 人の個性なんて十人十色、みんな違って当たり前。だからこそ、どんな作業や役割でも、人によって向き不向きや得手不得手が発生するのは必然だ。それは、国家や自治体などの大きなコミュニティも、PTAやクラブ活動などの小さな集まりでも、組織の規模こそ違えど、様々な個性の集合体という意味では大差がない。
 そもそも、コミュニティを構成する個々の分子が全て同一規格なら、最終形態の自由度は狭められ、出来上がる形もある程度は決められてくる。サイコロを幾つ積み重ねても、絶対に球は作れないように——。
 無個性集団のつまらなさは、要するにそこに集約されるだろう。でも、実際には、人それぞれに個性は宿るもの。大きさも形も色も質感も、様々なピースがあるからこそ、組み合わせの可能性は無限に広がるのだ。
 社会のしくみも、まさにこの原理が利用されている。大多数が率先してやりたがる仕事を忌避する者もいれば、その逆もある。コツコツと地道な作業に向く人もいれば、短期集中型の人もいる。体を使う仕事が好きな人、計算が得意な人、創作に向く人、接客が好きな人、特別なスキルを活用する人、何かに使命を感じる人……色んな個性があるからこそ、職業も多種多様に富むのだろうし、ざっくりと言ってしまうと、社会はそのようにして成り立っているのだ。

 ただ、ランダムに集めても意味がない。「適材適所」なんて言葉もあるように、チームや集合体の機能を最適化、若しくは効率化するに当たり、誰をどの役割に配置するのかはとても重要だ。会社や軍隊、国家組織やプロスポーツといった大きなコミュニティに限らず、自治会やママ友グループ、小学生の騎馬戦に至るまで、「組織」や「チーム」と括られる団体にとって、「適材適所」は必要不可欠な要素となる。確かに、個々の特性を見極め、最も能力を発揮出来る場所に嵌め込めば、システムは潤滑に機能し、集合体としてのポテンシャルを最大限に引き出せ、生産性は向上するだろう。
 それに加え、ケースによっては「適時」という概念も無視出来ないだろう。要は、タイミングだ。誰を何処に配置するにせよ、最も適切なタイミングでないと効力が半減しかねない。いや、ややもすると逆効果になることさえ起こり得る。プロスポーツの選手交代なんて、典型的な例だろう。

 そして、最後にもう一つ大切なこと、尚且つ、絶対に無視出来ないものがある。それは、感情だ。
「あなたはコレが向いているからコレをやりなさい」と嵌め込もうとしても、本人の希望が余所にあれば想定通りに機能するとは限らない。逆に、例え適材じゃなくても、本人の強いモチベーションでカバー出来ることもある。要するに、向いていることとやりたいことは、必ずしも一致するわけではないのだ。

 そもそも、人の感情なんて、本人にしか分からないことの方が圧倒的に多い。また、外部から容易く調節やコントロールが出来るものでもない。そう考えると、「適材適所」なんて考えは理想論に過ぎない。機械的な分類では、決して上手く機能しないだろう。むしろ、感情を無視した人材配置は、時としてチームの崩壊に向かうこともあるのだ。いや、チームだけではない。そこから飛び火し、特定の個人まで潰れてしまうこともあり得るだろう。

 では、どのような事情であれ、個性を活かせず、能力を発揮出来ない人間、或いは、環境要因などで個性や特性を失った人間は、組織にとって無価値な存在となってしまうのだろうか?
 そのヒントは、西条八十(さいじょうやそ)の『かなりあ』という詩に窺えるかもしれない。この詩は、後に成田為三により曲が付けられ、『かなりや』へと改題され発表された。1920年のことである。
 更に、1952年に小学唱歌として取り上げられたのを機に、『唄を忘れたカナリヤ』へと再度改題されている。現在では、「唄」が「歌」、「カナリヤ」が「カナリア」と表記されることもあるし、最後に「は」が付くこともあるそうなので、ソースによってタイトルの表記は様々だ。
 それでも、西条八十の詩は、百年経った今でも変わっておらず、痛切なまでに厳しい現実社会の試練を提示し、それを乗り越えた先に訪れるであろう明るい未来が謳われているのだ。
 そう、唄を忘れたカナリアも、決して無価値な存在ではない。いつかきっと、美しく歌える日が訪れるはず……


『かなりあ』 作詞 西条八十

唄を忘れたカナリヤは
後ろの山にすてましょか
いえいえ それはなりませぬ

唄を忘れたカナリヤは
背戸の小藪に()けましょか
いえいえ それはなりませぬ

唄を忘れたカナリヤは
柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう

唄を忘れたカナリヤは
象牙の船に銀の(かい)
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄をおもいだす


 さて、この物語は、些細なこととも思える出来事をきっかけに、奇異な人生を送ることになった実在する知人を参考にしつつ、80%ぐらいのフィクションを混ぜ込んで書いたものだ。逆に言えば、ほぼフィクションだが、ごく一部、実例を参考にした部分もある、と言うべきだろう。

第1章【穀雨・ごようのないものとおしゃせぬ】

 貧乏暇無し……とはよく言われるが、実際は暇がないのではなく、単純に貧乏人には金がないのだ。その結果、やることがないままに過ごす時間のことを「暇」と認識するだけの心のゆとりがないのだろう。そう考えると、「暇」を感じ取れる境遇は、それだけで贅沢ではないだろうか。結局のところ、金が腐るほどあれば、時間も作れるのだ。まさに、「時は金なり」——。
 どうであれ、どうせ私なんかには暇なんてない……そんなささやかな憤りも、虚しく空回りする毎日を懸命に過ごしていた。
 世間では、間もなく大型連休を迎えるというのに、休む暇なんてない毎日。かといって、毎日忙しくしているわけでもない。矛盾しているが、どちらかと言えば——特に第三者に判断を委ねると——「暇」に分類されるかもしれない生活リズムだ。仕事の入らない日、イコール「休みの日」である自営業にとって、「暇」はただただ不安でしかない。もちろん、贅沢気分に浸ることもない。いや、とても浸ろうなんて思えない。要するに、休みの日は売上げがないのだから、休んでる場合じゃないのだ。
 やることがなくても、精神的に追い詰められている状態。もっと言えば、仕事が入っていない日だからこそ、何とか明日以降の仕事を増やす努力に充てがわないと、こういった贅沢な日(ヽヽヽヽ)は増える一方となる。そうならない為にも、気持ちだけが急いている休日は、やはり暇とは言えないだろう。

「ちょっと先の話なんですが、多分……そうですね、早くても連休明けぐらいになると思うのですが、◯◯区にS型を納めることになりましてね。なので、また納調と今後の保守、お願いしてもよろしいでしょうか?」
 そんな折、同業の知人、岩木から連絡があった。その口調に少しの違和感を抱いたものの、素直に有難いと思ったものだ。と言うのも、私も岩木も個人事業主(フリーランス)として活動する調律師であり、そのスタンスを貫く上で、たった一件の顧客の獲得が如何に困難なことなのか、常日頃から痛感しているからだ。
 だからこそ、岩木が中部地方へピアノを販売したり顧客が転居した時は、必ず私に声を掛けてくれるのだ。もちろん、岩木の拠点、中国地方へ私が販売した場合も、必ず岩木に依頼している。いや、顧客の紹介に限らず、ホームページやブログでの相互リンクやSNSでの繋がりなど、私と岩木は何かと協力し合う関係を築いていた。
 とは言え、私と岩木が友好的な関係でいられる大きな要因の一つは、ただ単に居住地が遠く離れているからに過ぎない。つまり、開業している地域が近ければ、顧客を奪い合う競合相手にはなっても、顧客を譲り合う協力業者にはならないだろう。純粋な「人と人」の交流よりも、業務上の付合いが優先されるのは、個人事業主同士の関係では当然な成行きと言えよう。
 また、同業者とは思えない程、私と岩木ではキャラクタが異なった。厳しい徒弟制度での工房ワークでキャリアを形成した私は、自分の技術に揺るぎなき誇りを持っていた。いや、それこそが全てと盲目に信じ切ってさえいたのだ。
 しかし、いざ技術力を売りに開業してみると、いきなり大きな壁に跳ね返された。自営業としてやっていく為には、技術力だけではどうにもならないことに否応なく気付かされたのだ。それまで疎かにしていた営業スキルや接客マナー、商品知識、トーク力、事務ワークなど、調律技能以外の能力の重要性に打ちのめされたのだ。そう、技術を活かそうにも、何事も、まずは人と人の繋がりから始まるもの。だが、話術に乏しく接客マナーもスマートとは言えない私は、技術を活かすところまで辿り着くことさえ困難だったのだ。開業前には、夢や野望ばかりに目が向いてしまい、そんな当たり前のことすら見えていなかった。
 一方の岩木は、独立前は大手楽器店の外回り調律師として活躍し、毎月五十件もの顧客訪問調律を行っていた。更に、勤続十年が経った頃には、訪問調律だけでなく、エンジニア・サービスとして販売や営業にも携わり、メーカーや運送屋との窓口も務め、部下の育成も担っていた。その中で培った「人間力」は卓越していた。根を詰めて技術を学ぶ機会にこそ恵まれなかったものの、トーク力や人間的魅力で技術をカバーし、豊富な知識やアイデアで突出した成績を残し、三十三歳の年に独立した。奇しくも、私と同じ年、同じ歳でのことだ。つまり、私と岩木は同学年に当たるようだ。

 独立したばかりの頃、私も岩木も、自分に無いもの、不得手な分野の克服に懸命だった。
 ある日のこと、関西にある取引先へピアノの選定に出向いた時、たまたま岩木もその会社に来ていた。その日が、彼との出会いだ。取引先の社長に紹介され、挨拶を交わしたのだが……その瞬間に、私は岩木のことを本能にも近い直感に基づき、「最も苦手なタイプ」の人種に分類した。おそらく、岩木も私のことをそう捉えたに違いない。育った畑が違い過ぎるのだ。人は、野生的な嗅覚で、自分に似た人種を嗅ぎつける。同様に、対極に位置する人種のことも直ぐに見分けがつくのかもしれない。不思議なことに、仲良くなるのも敵対するのも、大抵はどちらかの人間であることが多い。愛憎紙一重とは、正にこのことだろう。
 おそらく開業前に出会っていたなら、敵対したり歪みあったりする以前に、ろくに挨拶も交わさず、接点を持つことさえ避けていた可能性が高いだろう。それぐらい、彼には嫌悪にも近い拒否反応を第一印象で抱いたのだ。しかし、岩木には、私にないもの、そして、当時の私に必要なものが全て備わっていたのだ。それは、おそらく逆も然りだろう。つまり、フリーランスの調律師として、私と岩木は互いに補完し合う間柄に収束したのだ。
 おそらくは、私も岩木も、独立して間もない毎日を懸命に生きていた時期だったからこそ、直感的にそこに気付いたのだろう。そして、実際に私と岩木は程よい距離感ながらも親密になり、互いに協力し、アドバイスし合う関係を構築したのだ。いや、本音では、「利用し合う関係」と呼ぶ方が正確かもしれないが。

 結局のところ、岩木とは、決して友人と呼べる間柄ではないのだ。そして、この先も、おそらくそうはならないだろう。お互いの立場を理解し合ってはいるが、人としての付合いは皆無に近い。業務上、協力し合っている部分がある為、表面的にはお互い仕事をお願いするというニュアンスを取るものの、内心ではむしろ仕事をあげてやる、ぐらいに思っていることは否めない。
 実際のところ、年に数回程仕事の依頼を頂いているが、メールの文面や電話の音声に変換された言葉の端々に、「依頼」というオブラートには包まれているものの、上から目線の「命令」にも近い「譲与」の響きが垣間見えるのだ。
 だからこそ、今回の連絡には違和感があった。何時もと同じ事由から発生した流れではあるが、何時もと違うのは、その言葉遣いだ。確かに、事象のピアノが、最小サイズの中古グランドピアノとは言え、名器「Steinway&Sons」のS型という機種なのも要因だろう。薄利多売方式を採用している岩木とは言え、流石にスタインウェイを格安で販売することは考えにくい。おそらく、どれだけ安くても、四百万円以上で、おそらくは五百万円近くで販売しているはずだ。その分、アフターケアや保証も慎重にならざるを得ず、勿論、出荷時の調整にもいつも以上に細心の神経を配っただろう。
 それでも、環境の変化にピアノが対応出来ず、納品後に不具合が発生することも珍しくない。その時に、販売責任を負いたくないという心理は、勿論理解出来る。接客や販売のスキルに長けており、人間的魅力も備えている岩木は、客から厚い信頼を得ているのだが、キャリアに比した技術力にはやや難があるのだ。なので、勘繰って考えると、高価で販売したものの、整備が万全でない可能性も考慮しておかねばならない。

 しかし、そういったことを差し引いて考えても、岩木の連絡は何時もと違い不自然に感じた。つまり、それは紛れもなく、正真正銘の「依頼」だったのだ。あの岩木が、下手(したて)にお願いしてくるなんて有り得ない。絶対に何か裏があるはず……ほぼそう断定出来るにしても、仕事が一件増えるありがたみ、ましてやスタインウェイを所有する顧客の獲得という魅力を覆すまでには至らない。なので、私は喜んでこの「依頼」を受託した。もう、引き返せないことは承知の上で。
 少なくとも、休業日に一つ仕事が取れたことは、ポジティブに受け止めよう。おかげで、ほんの少しだけとは言え、()を享受出来る休日になりそうだ。

第2章【晴明・はるがきた どこにきた】

 春と聞いて連想するものを列挙すると、必ず出てくる単語に「卒業式」や「入学式」がある。年度の開始を四月からと定めたこの国では、春は別れから出会いに、終わりから始まりへと代謝する季節なのだ。
 そして、春を象徴する花と言えば、真っ先に「桜」が思い浮ぶだろう。実際、世に沢山存在する春の歌にも桜はよく登場するし、入学式の記念写真でも、桜の木の下は定番の舞台となる。しかし、三月末頃に桜が開花することが多い関西においては、当然ながら卒業シーズンにはまだ桜は咲いておらず、入学式の頃になると、既に殆んど散っていることが多く、桜と両式典は植え付けられたイメージの中でしか結び付かないのだ。

 例年より早く開花したこの年の松野市の桜は、四月に入る頃には散り始めていた。その上、カレンダーの都合上、この年の始業式は九日までずれ込んだ。そうなると、品種によっては既に新緑が眩しく映えていた。葉桜である。
 松野市立晴美ヶ丘中学校の桜も、始業式の日には既に花は散り、新緑が芽吹き始め、葉桜へと変貌する最中にあった。もっとも、この桜は「彼岸桜」という品種で、一般的な「ソメイヨシノ」よりも数日開花が早い。例年3月の末頃、丁度春休みが後半に差し掛かろうという時期に満開を迎える為、元々入学式や始業式で満開になっていることはないのだが。

 晴美ヶ丘中学校の正門をくぐると、左手に大きな彼岸桜が四本並んで植えられており、その奥には体育館がある。いよいよ今日から新年度が始まるのだが、体育館前の掲示板には、新しいクラス分けの名簿が貼り出されていた。
 二年二組に自分の名前を見つけたKは、担任教諭よりも先に、同級生の名前を一人一人確認した。すると、いきなり出席番号順に書かれた女子の一人目に期待していた名前を見つけ、喜びの余り、ついガッツポーズをしてしまった。
 石原唯香……小学五年生の三学期にKのクラスに転入してきた彼女と、その時以来の同級生になれたのだ。小柄で華奢な身体つき、透き通るような白い肌、愛くるしい大きな瞳、薄い唇から発する甘い声、ナチュラルな栗色のストレートヘア……当時、ほぼ一目惚れに近い感情を唯香に抱いたものの、Kにとって三学期は残酷なぐらいに短く、殆んど会話も出来ないまま五年生を終えたのだ。
 親密になることを望みながらも、女子との付き合い方が分からなかったKは、たまに距離が近付いた時でさえ素っ気ない態度しか取れず、唯香に好印象を残したとはとても考えられないだろう。そもそも、ほんの二ヶ月強という短い期間、単に同じクラスだっただけに過ぎず、ろくに喋ったこともないKのことなんて、唯香の記憶に留まってすらいないのかもしれない。
 その後、六年生への進級、そして中学一年への進学の際もKの願いは叶わず、別のクラスへと引き離されたのだ。Kは、学内で唯香の姿を常に探し求め、遠くから眺め、他人に向けて発する声が、微かに耳に届くとことしか接点がなかった。

 それでも、Kは唯香の身体の成長を、常に遠くから感じ取っていた。中学生になると、唯香は急激に身長が伸び、全体的に身体が少し丸みを帯びてきたようだ。小学生の時はクラスで一番小さかった唯香だが、今は背の順に並んでも真ん中よりやや後だ。そして、同級生と比べても、明らかに胸が大きく膨らんできた唯香は、夏服になるとブラジャーが薄っすらと透けて見えることもあった。それでも、仔犬のような愛くるしい笑顔は健在で、凛とした美しさも兼ね備えるようになっていた。
 思春期真っ只中のKは、いつしか夜毎妄想や夢の中で彼女を抱き締めるようになった。夢の中の唯香は、Kにとても従順で、Kに惚れ込んでいるという、何とも都合の良い設定だ。しかし、リアルでの恋愛経験に乏しいKには、妄想の中ですら具体的なラブシーンは表現出来ず、いつも幼稚でワンパターンな恋愛劇しか創作出来ない。Kは唯香にキスをせがまれ、恥ずかしがる唯香の服を脱がし、柔らかく形の良い乳房を撫でながら抱き合うシーンを思い浮かべ、覚えたての自慰行為に耽るようになった。
 それ程までに恋い焦がれた彼女と、ついに同じクラスになれたのだ。これから一年間は、毎日彼女に会え、直接話す機会もあるかもしれない。いや、ひょっとすると親密になれる可能性だってあるはずだ。Kは、自身に訪れたこの上ない幸運につい口元が緩み、新しい一年が順調なスタートになったことに胸が弾んだ。

 幸いなことに、小学五年生からずっと同じクラスの親友、矢野悠馬も二組のようだ。これまたKにとっては、好都合かもしれない。と言うのも、矢野は女子とのコミュニケーション能力に長けており、誰とでも親しく打ち解けることが出来るのだ。Kが女子と会話出来るのは、今までも矢野と一緒にいる時だけだった。つまり、矢野と行動を共にしているだけで、唯香と話をするチャンスが訪れるかもしれない……そうKは踏んでいた。

「おぉ、K、また一緒やん! マジで腐れ縁もえぇとこやな!」
 唯香に思いを馳せていたKに、矢野が唐突に話し掛けた。Kはすぐ側に矢野が来ていたことすら気付いておらず、飛び上がりそうなぐらい驚いた。
 つい数ヶ月前のこと、矢野やK達の間では、互いをイニシャルのアルファベットで呼び合うことが流行っていた。ある洋画の影響だが、矢野悠馬は必然的にYと呼ばれていた。他にもTやS、A、O、Mなどもいたが、瞬く間にくだらない流行は廃れてしまった。基本的に呼び難い上、大して面白くもなく、熱しやすくて冷めやすい年頃だ。しかし、ブームが去った後も、何故かKだけはずっとKのまま定着していた。悠馬を強引に「Y」と呼ぶのとは違い、「K」は元々呼ばれていた本当の名前に近い響きだった上、やはり、呼びやすい「音」であることが理由だろう。

「何やねん、おまえ、いつからそこにおったんや? ビックリしたやろ!」
「ハハハ、お前こそ、何ニタニタ名簿見てんねん? あ、ひょっとして、好きな子と一緒になれたんか?」
「ドアホ! そんな子おらんわ!」
「それよっかさぁ……オレたちの担任、向井やってな。最悪やん」
「なんで? 別にオレは向井嫌いやないけど?」
「あ、そうか、Kはピアノ弾けるもんな。向井は合唱コンクールに命懸けるからな、練習が地獄って噂やん。オレ、音楽全くダメやから、今から鬱になりそうや」

 晴美ヶ丘中学校の恒例行事の一つに、毎年秋に開催される合唱コンクールがあった。これは、学年毎にクラス対抗で競わされ、見学に来た父兄と他学年の生徒達が審査を行うコンテストだ。
 基本的に、各クラスの担任教諭が指導に当たるのだが、コンクールへの取り組みは担任の匙加減に委ねられていた。歌そのものよりも、お笑いの要素を組み込んだコント仕立ての表現でウケ狙いに走るクラスもあれば、正攻法の合唱で、完成度の高いハーモニーを築くクラスもある。
 入退場を含めたステージマナーも含め、クラスによる個性を楽しめる、父兄にも人気のイベントだ。担任を中心にクラスの結束が生まれたり、協力し合うことにより新たな友情が育まれることも多く、有意義な行事として認知されていた。中でも、音楽教諭の向井葉子の熱の入れようは名物にもなっていた。彼女は、常に正攻法での優勝しか考えておらず、厳しい指導で取り組むことで有名なのだ。
 実際に、向井のクラスは毎年のように優勝していた。練習量も指導の質も群を抜いているのだから、この結果は当然とも言える。音楽が好きな生徒にとっては、向井は憧れの先生でもあり、向井のクラスになることを望んでいた。特に、女子にとっては、音楽を抜きにしても向井は理想の大人像に映ることもあった。向井は、極端なフェミニストでもあったのだ。独身のアラサーで、正統派の美人でスタイルも良く、男勝りのバイタリティで男女平等を常に唱え、男性教諭とも激しく口論する向井は、一部の女子には格好良い大人の女性に見えたのだろう。
 反面、音楽が苦手な生徒には、向井のクラスは大きな試練になる。特に、この時期の男子は変声期に当たる者も多く、「歌う」という行為すら羞恥心が先に立ち躊躇いがちだ。しかし、向井は容赦しなかった。
 行き過ぎたフェミニズムは、時に男女平等を通り越し、女性を極度に優遇し、男声蔑視へと振り切られることがある。向井にも、この傾向が見受けられ、男子には特に厳しく接した。特に、歌いたがらない男子生徒には、虐めにも近い厳しい指導で取り組ませた。皆の前で一人ずつ歌わせるのは当たり前、音程が取れない生徒や上手く発声が出来ない生徒には、繰り返し一人で歌わせ、萎縮して声が出なくなるとヒステリックに怒鳴り散らした。
 一方で、音楽の素養がある女子には人が変わったように優しかった。楽しいジョークを交え、褒めるのも上手く、やる気を引き出す指導力にも優れていた。同じように一人ずつ歌わせても、男子の時のように懲罰的なニュアンスはなく、むしろお手本として讃えたのだ。

 Kは、幼い頃からピアノを習っていた為、去年のコンクールでは伴奏を担当した。今年も密かに伴奏の座を狙っているが、実はKにとっては歌も苦ではなかった。むしろ、自信すらあるのだ。勉強もスポーツも「中の下」ぐらいに位置するKにとって、唯一誇れる科目が音楽だったのだ。もちろん、人前で歌ったことはないが、そのシチュエーションに遭遇しても上手くやり抜く自信はあった。
 それよりも、どちらをやれば唯香の気を引くことが出来るのか、Kにとってはそのことの方がずっと重要だった。

「合唱コンクール、今年だけでも無くならんかなぁ……」
 憂鬱気に呟く矢野を尻目に、Kは、早く合唱コンクールやりたいなぁ、と楽しみにしていた。もちろん、矢野の前でそれを口に出さない程度の良識は持ち合わせていた。

第3章【立夏・いつのまにかつぼんだ】

 春分と夏至の中間に当たり、春が極まり夏の気配が現れる頃——鯉のぼりが爽やかな青空の下、気持ちよさそうに泳ぎ、地上では半袖で出歩く人も増え始めている。一年で一番過ごしやすいと言われる季節、立夏。
 岩木が販売したスタインウェイは、予定通り連休明け直後に納品されたと連絡があった。そして、翌週には、私が購入者宅へ伺い、納調を行うことになっていた。時節通り、清々しい流れになることを期待したものだ。

 ちなみに、納調とは納品調律を略した業界用語で、ピアノを販売した際に販売業者により行われる、点検を兼ねた無料の調律サービスのことだ。一般的には、納品から一週間前後の間に実施される慣例がある。今回は、岩木が販売したピアノの納調を私が代理として実施するのだが、サービスするのは岩木、されるのはお客様だ。さすがにタダ働きするわけにはいかない。なので、調律代金は岩木に請求することになるのだが、私と岩木の間でお互い納調は五千円で請負うことを約束している。販売した方は、少しでも利益を計上出来ることになるし、納調を実施する方も、その時だけは赤字に近い労働にはなるが、顧客が増えることになるので決して悪くない取引だ。
 今回も、当然ながら五千円で請けるつもりにしていたのだが、岩木から連絡があり、「今回はスタインウェイなので一万円お支払いします」と言われた。ケチな岩木からは、想像も出来ない台詞だ。これは、ますます怪しい。もちろん、こちらとしては有難い。断る理由もないのだが、どこか釈然としない一抹の不安を抱えたまま、納調の日が近付いていた。

 しかし、納調予定日の前日のこと、岩木から着信があった。業務上の連絡は、普段は後から内容を確認出来るようにメールを使うことが多い。直接電話で話す場合、大抵は緊急性の高い用件だろうし、あまり良い話じゃないことも多い。この時も、例に漏れなかった。

「明日の納調ですが、申し訳ないのですが、今日になってお客様から連絡がありまして……言い難いのですが、実は、ちょっとキャンセルしたいって言われまして……いやぁ、本当に申し訳ない。予定してもらってるのに……」
 確かに、前日になってのキャンセルは痛い。しかし、お客様都合のキャンセルなので、岩木が謝る必要はない。なのに、平身低頭に(もっとも電話なので姿は見えないが)謝罪する岩木に、私は本当のところを尋ねてみた。
「キャンセルは仕方ないのですが……岩木さん、今回のお客様のことで何か隠していませんか?」
 すると、電話越しなのに、明らかに岩木が狼狽する様子が明白に伝わっきた。

 実際問題、ピアノ販売に伴うトラブルには、これまでにも何度か出くわしたことがある。その殆どは、支払いのトラブルだ。反社会的勢力の構成員や自己破産者、生活保護者を始め、破産寸前の法人から大赤字の第三セクターなど、事務的にどのような処理を行い、高価なピアノを購入するに至ったのかは定かではないが、真っ当な手段ではないだろうと予測出来る購入者に当たると、ただただ不運と言えよう。大抵の場合、支払いの段階になって、問題が表面化するので、未然に防ぐ手立てはほぼないのだ。
 また、家族間のトラブルに巻き込まれることも時々ある。例えば、音楽に理解のないご主人に内緒でピアノの購入を決め、奥様が工面したお金で支払いも済まされており、納品間際にようやくご主人に話をするというケースもある。おそらく、もう引き返せないところまで引っ張り、強引に説得する算段なのだろう。もちろん、それまでにも何度も打診はしているはずだ。
 だが、この後に及んでご主人はなおも猛反対することもある。ピアノなんて誰が買って良いって言った? 何処に置くつもりだ? 俺は許さん! 直ぐにキャンセルしろ! ……といった具合に。

 しかし、岩木の話では、今回のお客様は四百万円を優に超える支払いを一括で終えている上、ピアノも既に納品されている。よくあるトラブルのパターンには、どうも当てはまらない感じだ。
「隠してるつもりはなくて……えぇと、どっちみち今日中にはお話するつもりだったんですが……」
 渋々ながら、岩木はようやく事情を話してくれた。

 岩木の説明によると、この度スタインウェイを購入された方は、市内に住む川口健太という二十四歳の男性だ。健太は、ご両親と同居しているのだが、仕事らしい仕事はしていない。無職やフリーターなんて境遇にすらたどり着いておらず、それ以前に、彼此十年ぐらい家から出たことがないとのこと……いわゆる「引き籠もり」なのだ。

 健太の両親は、既に息子の扱いに疲れ果てていた。
 最初は、両親も理解に努めようとした。原因を探ろうとし、解決策を模索した。時間を掛けてでも社会復帰出来るように、専門家にも相談してきたし、良かれと思うことはどんなことも取り入れてきた。数年前には、一か八か環境を変えてみようと考え、全く所縁のなかった那古野へと引越したぐらいだ。
 だが、健太の抱えた闇には微かな光すら灯すことは出来ず、あらゆる策は全て徒労に終わった。しかも、やがて健太は両親に暴力を振るうようになった。それでも、両親は諦めなかった。荒れるということは、それだけ健太本人も辛いのだろう……そう自分に言い聞かせ、何とか理解しようと努力したのだ。
 那古野に来てからも、健太の生活や態度に改善の兆候は全く見受けられず、出口の見えない陰惨な生活が続いたが、二年ほど前に嘘みたいな奇跡が起きた。陳腐な映画やドラマにありがちな設定のようだが、なんと、宝クジが当たったのだ。健太がネットで購入した宝クジが、高額と言ってもいい金額に当選していた。これを機に、健太の暴力は収まり、両親に泣きながら謝ったそうだ。そして、健太はついに少しだけ心を開き、本音を語り始めた。
 健太は、当選金を全て両親に渡した。父親のカードで勝手に購入したクジなので、そもそも健太に受け取る資格もないのだが、それでも少しでも改心の形跡が見られたことに両親は感激した。健太なりに、両親に酷いことをしてきたこと、迷惑を掛けっ放しだったことを悔いていたのだろう。変わらないといけないのに、動き出すきっかけがなかった分、一層追い詰めらるという悪循環に陥るのだ。何でもいい、取っ掛かりさえあれば身動きが取れるもの。現状を誰よりも憂い、何とか打破したいのは、他でもない、健太自身だったのだ。
 健太は、一つだけ両親に希望を伝えた。
「もうハタチ過ぎちゃったし今更難しいかもしれないけど……オレ、音大に行きたいな、と思ってて……でも、高校も行かなかったから、とりあえず、通信で大検取れれば、と考えてるんだけど」

 健太が人生について語ったのは、小学生以来かもしれない。確かに、引き籠もりが始まるまでは、熱心にピアノを習っていた。引き籠もりの間も、時々ピアノを弾くこともあった。しかし、趣味や遊びの範疇にしか思えず、健太にそのような夢があったとは、両親も知らなかった。気付いてあげることも出来なかった。
「やってみてどうしてもダメそうなら、諦めてちゃんと仕事する。でも、やれるところまでやってみたい。もし音大に入れても、音楽で食べていけるかなんて分からないけど、出来るところまでは行ってみたい。散々迷惑掛けてきたくせに、偉そうなこと言う資格ないのは分かってるけど、挑戦させて欲しい……」
 両親は、突然の健太の変化に戸惑いつつも、前向きに受け止めた。宝クジの当選という、あまり人に言えないような出来事がきっかけとは言え、健太も変わりたい気持ちを抱えていたのだろう。今しか更生のチャンスはない。音大に行くなんて馬鹿げた夢のようにも思えるが、目標を持って行動することは応援すべきだろう。ましてや、長年引き篭もっていたのだ。結果的に音大に入れなかったとしても、今よりはずっとマシだろう。

 しかし、変化を希望し、実行に移そうとしたものの、健太にはどうしても外出することに抵抗があった。人に会うことは出来ないし、面と向かって会話も出来ない。人に見られることを恐怖し、人と目を合わすことを怯えた。
 結局、大検は全て通信講座で学ぶことにした。そして、一年半掛かったものの、無事に取得することが出来た。
 とは言え、大検に受かったところで、所詮は高卒の資格を得たに過ぎず、即大学入試に繋がる筈もない。しかも、中学生の途中から引き篭もっている健太にとって、大検には受かったとは言え、学力はまだまだ難がある。その上、音大という特殊な大学を目指すのだから、専門的な勉強も必要になる。ピアノやソルフェージュも必須だろう。
 この時になって、健太はもう一つ打ち明けたことがある。両親は、てっきりピアノを専門的に取り組みたいものだと思い込んでいたのだが、健太が目指しているのはどうやら声楽家らしいのだ。まさに寝耳に水……というのも、健太は本格的に声楽に取り組んだことなど一度もなく、何を根拠に目指そうと思ったのか見当もつかなかった。

 健太の志しが本気だと分かると、両親はグランドピアノを購入することを決めた。健太に伝えると、泣いて喜んだ。子どものようにはしゃぎ、数年振りに満身の笑みを浮かべた。
 しかし、部屋のスペースの都合上、小型のグランドピアノしか置けないことが判明。色々調べていると、160cm未満の小形グランドピアノには、設計上にやや難があることも多く、タッチや音も満足出来るレベルにはないらしいのだ。もちろん、それでも今使っている長年未調整のアップライトピアノよりは遥かにマシだ。でも、折角グランドピアノを買うのなら、しかも、健太が真剣に音楽に取り組むのなら、より良いものが欲しい。
 そんな折、健太はネットで岩木のホームページに出会ったのだ。メールでコンタクトを取ると、岩木は色々な事情も親身に聞き、適切な対応に終始した。そして、スタインウェイのS型という機種を紹介したのだ。小型のピアノなのに、中型の国産ピアノよりパワーがあり、タッチのレスポンスもすごく良い。弾き易く、よく鳴り、よく響き、よく伸びるのだ。その分、中古でもビックリするような値段なのだが、岩木を全面的に信用するようになった健太と両親は、結局岩木からスタインウェイを購入することにした。

 岩木は、健太の両親から何もかも聞いていた。一度は、那古野まで足を運び、両親と長時間に渡り話もしたそうだ。しかし、その時も健太は同席しなかった。信用する岩木とは言え、まだ他人と会うことは出来なかったのだ。
 問題は、ピアノの設置場所が健太の部屋であることだ。もう自室に引き篭もってばかりではなくなった健太だが、彼の城に立ち入ることは両親でも許可されていない。そこで両親と岩木が考え出した案は、常識ではあり得ない奇想天外なものだった。
 一旦、健太の部屋を入れ替えるのだ。
 つまり、健太の部屋の隣室を一度空にし、そこを彼の仮部屋にする。最低限必要なものは健太自身が運び、彼の部屋を一度解放してもらうのだ。
 仮部屋での生活に慣れてきたら、元の健太の部屋にスタインウェイを納品する。そして、再び健太に自室へ戻ってもらうという、非常にまどろっこしい方法だ。一般人には、非常に馬鹿げた面倒臭いやり方としか思えないだろうが、健太にとってはこれが唯一無二の方法だった。一ヶ月も前に納調の依頼があったのも、こういう期間が必要だったからだろう。
 ともあれ、納品は無事に済んだ。

 最後に残された問題は、調律だ。つまり、私の訪問である。
 いっそのこと、納調が終わるまで仮部屋にいて貰おうとも考えたそうだが、ピアノの音やタッチに要望がある場合、可能な限り使用者と話す必要があるのだ。
 とは言え、実際のところは、要望の書いた紙が置かれているケースもあるし、殆んど場合は調律の作業は「お任せ」で上手くいく。使用者が感じる不具合は、調律師なら指摘されなくても分かるし、そのピアノに今何が必要かを判断し、それに従って作業を行えば、ほとんどの場合、使用者は満足してくれるものだ。つまり、使用者の要望は、調律師が見ると、ピアノが無言で訴え掛けてくれるものが大半なのだ。
 なので、必ずしも健太が立ち会う必要はないのだが、何故か彼自身が立ち会いを望んだそうだ。それに、健太は仮部屋生活がそろそろ限界に感じていた。

 そして、いよいよ納調予定日の前日のこと。健太は、岩木にメールを出した。文面は簡潔だ。
「すみません、明日の調律キャンセルさせてください」
 あと一歩の所まで来たものの、やはり、まだ無理だったようだ。こうして、納調は無期限で延期になった。

第4章【小満・あっちのみずはにがいぞ】

 新学期が始まり一ヶ月も経つと、Kは新しいクラスにも慣れ、不良でもガリ勉でもない主流派グループに属することも出来、毎日を充実して過ごしていた。まだ唯香と二人っきりで話をする機会には恵まれていないが、唯香も女子の主流派に属していたので、団体での交流は少なからず持てていた。何より、毎日唯香の顔を見れるだけで幸せだった。
 更に、Kにとって体育の授業は特に素晴らしい時間となった。体操服姿の唯香はとても愛らしく映え、いつもと違うポニーテールもよく似合った。体操服越しに乳房の膨らみがハッキリと分かり、長くて白い綺麗な素足にも見惚れた。Kは、夏を待ち焦がれた。制服はもっと薄着になり、水泳も始まるのだ。水着姿の唯香を想像しては、自慰行為に没頭した。

 連休が明けると、いよいよ合唱コンクールの練習が始まった。と言っても、こんなに早い時期から取り組むのは、全校でも二年二組だけらしい。向井のコンクールに対する気合いの入れようは、今年もまた健在のようだ。
 そんなわけで、二年二組のホームルームや学活の時間は、全て合唱の練習に充てがわれることになったのだ。向井からその旨が発表されると、クラスからはごく一部の歓迎の声と、それらを包み込む大多数のブーイングが湧き起こった。向井は、ネガティヴな反応にはお構いなしに淡々とスケジュールを説明し、様々な係を決めた。
 また、今回取り組む曲は、男女それぞれにソロパートがあった。他のクラスは、ソロと言っても二~三人ずつで歌わせることが予想されているが、向井はそれを許さなかった。つまり、男子も女子も、一人ずつソリストを選出することになったのだ。

 Kは、希望通り伴奏に任命された。と言っても、すんなり決まったわけではない。向井の熱血指導を恐れたのか伴奏志願者はとても多く、オーディションで決めたのだ。少しだけピアノを習ったことがある、という程度の人も挙って伴奏を志願したが、Kの演奏は抜き出ていたし、流石に音大出身の向井がKの実力を見落とすことはなかった。
 唯一、Kに匹敵するレベルの実力者は、中北清也という男子だった。いや、Kとの技量差は明白だったが、伴奏を担当するに足る十分な実力は備えていた。
 中北もKと同様に、長年ピアノを習っているそうだが、普段の彼からはそんなイメージが全くなかったので、大半のクラスメートは驚いた。Kも中北とはあまり交友がなかったのだが、彼が甘いマスクのスポーツマンで背も高く、女子に人気のある生徒だということは知っていた。その上、実はピアノも高度なレベルで弾けることが分かったのだから、ますます中北の株は上がっただろう。

 その中北は、ピアノがダメならソロをやりたいと言い出して、他に立候補もいないことから、男子のソロはすんなりと中北に決まった。おそらく、大半の男子は胸を撫で下ろしただろう。殆んどの男子は、まさか自分が選ばれることはないとは思いつつ、選考の為に一人ずつ歌わされたり、その都度向井に「個別指導」されるであろうことを、何よりも恐れていた。なので、男子にとっては、中北は救世主のような存在だ。
 女子にはモテて、男子には感謝され……普段からの人当たりの良さもあり、中北は、間違いなくクラス一の人気者の地位を得ただろう。
 一方で、女子のソリスト選考は難航した。立候補が二名いたのだが、どちらも向井を納得させるだけの歌唱力がなかったのだ。
 教育的配慮という観点からすると、ソロは二人の中から選ぶべきだろう。しかし、向井のコンクールに賭ける意気込みは、教育者としての道徳観を遥かに上回っていたのだ。それに、この曲のソプラノソロは、男子のソロとは比較にならないぐらい重要な役割を担うのだ。立候補したからといって、簡単に大役を任すわけにはいかない。優勝を目指せる人選にすべきだ。皆で協力して結果を残す喜びこそ、生徒達の人生で大きな糧になるはず……向井は、そう考えていた。
 そこで、向井は女子だけを集め、オーディションを行った。女子全員に、一人ずつソロパートを歌わせたのだ。立候補した二人は採点で優遇すると言いつつも、最終的に向井が決めたソリストは石原唯香だった。立候補の二人と唯香の意思は尊重されず、向井による絶対的な決定事項だった。

 Kは、唯香が選出されたことを知り、歓声を上げそうになった。と言うのも、ソロパートとピアニストだけの練習もスケジュールにあったからだ。つまり、向井とK、そして中北と唯香だけでみっちりと練習する時間があるのだ。しかも、ソプラノソロの時は、二人っきりで音楽を創ることになる。これほど唯香に近付けるチャンスはないだろう。

 本格的に合唱の練習が始まると、クラスメートの反応は二極化した。「やりたい」派か「やりたくない」派だ。大切なのは、「やる」か「やらない」か ではないこと、つまり、「やらない」という選択肢は、生徒には最初から与えられていない。中学校とは、ある意味では封建制度が残っているコミュニティだ。そう、決められたことはやるしかないのだが、「やりたくない」のに付き合わされる生徒も沢山いたのだ。

 矢野悠馬も、典型的な「やりたくない」派だ。実際、矢野の歌は酷かった。音が正確に取れないのはまだしも、矢野はリズム感も悲惨だった。裏拍や付点リズムは壊滅的で、失笑が起きることもあるぐらいだ。向井の格好のターゲットにもなり、故意に恥をかかせてるかのように一人で歌わされることも多く、矢野はかなり精神的に参っていた。
 一方で、Kは合唱の練習が楽しくて仕方なかった。伴奏は既に暗譜しており、どこからでもスムーズに弾き始められる。向井の創りたい音楽の方向性も理解出来、感性が共有出来た。なので、向井にもかなり気に入ってもらえ、練習中に褒められことはあっても、嫌な思いをしたことは一度もなかった。そればかりか、合唱の練習以外でも、向井には何かと優遇されるようになった気がした。
 その影響もあるのだろうか、矢野とKの関係はギクシャクしてきた。休み時間も一緒に過ごさなくなり、殆んど会話もしなくなった。いや、Kと矢野に限らず、合唱への取り組み方の相違により、クラスの各派閥のパワーバランスが崩れ始めていた。今までの関係はリセットされ、合唱に取り組む姿勢や向井の評価の似た者同士が結び付き、そうじゃない者とは距離を置くようになったのだ。

 Kは、当初は矢野が落ち込んでいるだけと思い込み、特に気にも留めなかった。だが、次第に話し掛けても無視されることが増え、意図的に関わらなくなっていた。
 実際のところ、矢野はKに裏切られた気分だったのだ。そればかりか、下手な歌を嘲笑されている気さえしていた。苦しんでいるのに助けてもくれず、自分だけ褒められ、楽しんでいるように見えたのだ。妬みや僻みと言えばそれまでだが、合唱の練習では、Kと矢野は対極のポジションにいたのも事実なのだ。
 やがて、矢野はKのことを疎ましく思うようになっていた。ちょっと音楽が得意だからって、調子に乗りやがって……と敵意剥き出しに睨みつけることさえあった。Kの言動一つ一つが、優越感と特権意識から生まれているように思えてきたのだ。どうやら長年の友人関係は、向井の音楽指導の陰で引き裂かれたようだ。

 こういった傾向は、Kと矢野に限った出来事ではなかった。クラス中の様々なグループで、友達関係の入れ替えが起きた。まるでクラス替えでもしたかのように、二年二組の人間関係は代謝した。険悪になって離れたり、新たな結び付きが発生したり。幸いなことに、中学二年生の感性はまだまだ柔軟だ。新たな派閥が出来ても、皆その中でそれなりに立ち位置を見つけたことは、せめてもの救いだろう。
 音楽の起源は諸説あるが、自然の音の模倣から始まり、プリミティブな感情表現を経て、宗教的、民族的なセレモニーへの活用へと発展したと推測されている。そして、そこから更に長い年月を掛け、多様な進化と発展を遂げ、現在では、平和や友好の象徴として、人種や国境、時代、文化を越えて愛されるものとなった。娯楽として、または、芸術として。
 しかし、そんな音楽は向井のクラスには存在しなかった。ここにある音楽は、人を分類する残酷な道具だ。向井の主観によるリトマス紙で、優等生と劣等生のタグを取り付けらた。そして、分類の先には、天国と地獄が準備されていたのだ。

第5章【夏至・かごのなかのとりは いついつでやる】

 スタインウェイの購入者、川口健太についての情報をかなり詳しく説明してくれた岩木は、どうやらそれで喉のつかえが取れたかのように、川口健太との関係を切り捨てたようだ。
 最後に、「あとは直接連絡取合ってくださいね」とだけ告げ、前払いで私の口座に一万円を振込んだ。もう後は知らん! という意思表示のつもりだろうか、或いは、後ろめたさを払拭出来た解放感からだろうか、投げ出すことを「任せる」という美化された表現のメッキで覆い隠し、健太の対応から綺麗さっぱりと手を引いた。おそらく、これで販売責任は果たしたつもりなのだろう。ピアノを売り、納品し、入金を確認すれば、それでおしまいなのだ。
 岩木は、顧客からの評判はすこぶる良いのだが、本質的にはこういう男だ。接客時の言葉遣いやマナーは超一流で、私も学ぶべき点は沢山ある。しかし、販売という大きな目的を達すると、その後のことは大したケアはしない。セックスの前後で態度が豹変する男のようなものだろう。無事に商品を納めることが出来ると、後のケアは提携業者に丸投げし、責任から逃避するのだ。

 残された私は、兎に角、健太と連絡を取る必要があった。健太の自宅に何度となく電話したが、いつも電話に出るのはご両親のどちらかだ。本人には取り次いでもらえない。どうやら、本人が断固として代わってくれないようだ。腑に落ちない話ではあるが、ご両親の一存では納調の予定は組めないとのこと。本人の意思次第、覚悟次第なので、何とか直接確認を取るしかないようだ。平謝りのご両親に「気にしないでください」と応えることが、私には精一杯の配慮だ。本音は、親なら何とかしろよ! と怒鳴りつけたい心境だが、流石に悪態を言葉に出すことはなく、飲み込むことぐらいは出来るようになっていた。
 しかしながら、実際のところ困っていた。岩木の話だと、健太は専用の携帯電話は持っていないそうだ。もっとも、持っていたところで人付き合いはないだろうし、携帯して(ヽヽヽヽ)出歩くこともないのだから、使い道もないだろう。
 ただ、専用のノートパソコンは所有しているらしい。メールアドレスも聞いていたので、何度かメールも出してみたが返事はなかった。岩木なら口を開いてくれるかも……と思い、相談してみたが、岩木の対応は他人事のように素っ気なかった。
「なんでしたら、もう納調しなくてもいいですよ。お客様都合で組ませて貰えないなら、仕方ないですもんね。保証書にもそう書いてあるので……あ、一応うちの保証書のコピーも送りますね。お支払いした代金は、納調の実施に関係なく、そのまま受け取ってくださって構いませんので」と、これ以上ないぐらいに冷たい対応だ。まがいなりにも、自分が販売した顧客である。しかも、世界最高級の高価なピアノだ。それなのに、彼にとっては、もうどうでもいいことのようだ。普段から、ビジネスシーンにおける立居振る舞いや処世術には学ぶことも多い岩木だが、今回ばかりは参考にしようとは思えなかった。
 電話を切ってものの数分後には、岩木から契約書と保証書の写真がメールで送られてきた。内容を確認した私は、数日後には少し脅し気味のメールを健太に送ろうと決めた。岩木とは違い、「もうどうでもいい」と割り切る前に、すべきことはしておきたかったのだ。

「この度、岩木調律事務所よりご依頼を頂き、納品後の点検調律を担当させて頂くことになりました篠田ピアノサービスの篠田と申します。先日より、何度となく連絡差し上げておりますが、なかなか電話に出て貰えず、またメールの返信も頂けない為、大変困惑しております。
 さて、川口様のスタインウェイですが、納品されてから一ヶ月以上が経過しました。スタインウェイは、殊更繊細な楽器です。環境の変化に適応出来ず、様々な部品に調整の狂いが生じていないか心配です。音やタッチが、正常なポテンシャルを発揮出来ているとは思えません。
 通常、納調は納品後一~二週間以内に行います。と言いますのも、それ以上経過した場合、発生している不具合が、納品による環境変化に起因する狂いなのか、或いは、納品後の設置環境や使用状況に影響を受けた不具合なのか判断が出来なくなる為、販売者としての責任を負い兼ねることになるからです。
 また、今回ご購入されたスタインウェイにつきましては、保証書が効力を持つ条件として、納品調律を適時に実施することが含まれております。従って、お客様都合で納調が極端に遅れた場合、一切の技術サービスが有料になるだけでなく、保証書も無効になります。今一度、契約書と保証書をご確認ください。前述したことを含めて、重要な項目につきましては、岩木より全て説明済みとのことですし、マーキングもしてあると聞いています。
 残念ながら、川口様のピアノは、川口様の一方的なご都合で納調が延期され、その後の度重なる連絡にも一切対応して頂けず、一ヶ月以上も経過してしまいました。なるべく寛大に対応したいとは思いますが、今週中に予定を組ませて頂けない場合、納調は辞退したと判断させて頂き、保証書も無効とさせて頂きます。従って、今後何らかのトラブルや不具合が発生しましても、岩木調律事務所への販売責任は問えなくなります。また、調律等の技術サービスにつきましては、全て新規依頼扱いとなりますので、通常の技術料が発生することを予めご了承ください。
 尚、本メールと同文の書面を、本日付けで内容証明にて発送しました。これをもって、最終の通告とさせて頂きます。
 では、今一度、ご検討くださいますようお願い申し上げます。篠田」

 最終通告のメールを送っても、結局健太からの返信はなかった。何もしないで調律代を受け取るのも気が引けたが、責任を負いたくない岩木は返金に応じてくれない。納調を中止することに関しても、岩木は了承している。八方塞がりだ。もう、これ以上はやりようがない。籠の中の鳥は、扉を開放しても出てこなかったのだ。そう、鳥は、外部の意思では羽ばたかない。自らの意思で飛び立つしかないのだ。
 健太の翼は、はためかせるだけの十分な準備が、まだ出来ていなかったのだろう。ピアノの購入は、少し早過ぎたと言わざるを得ない。技術を活かすにも、先ずは人と人の繋がりから……最後まで意思疎通が叶わぬまま、私は健太と連絡を取ることを断念することにした。

 それから、数週間経過した頃。
 一年で最も日が長くなる夏至を超え、いつの間にか七月に突入し、暦の上では間もなく小暑を迎えようとしていた。池では蓮の花が咲き、天の川に想いを馳せる時期。本格的な夏の始まりである。そんなある日のこと、健太から一文だけのメールが入った。ほぼ消滅し掛かっていたものの、頭の片隅にほんの微かに残っていた責任感が、望んでもいないのに、針で突かれて再起動してしまった……そんな気分だ。

「明日の十時から納調をお願いします」
 しかし、私は、健太からのメールを一読してウンザリした。そもそも、幾ら売れないフリーランスとは言え、さすがにいきなり明日の十時と言われて、「はい、分かりました」と言えるほど暇ではない。それに、納調の期間はとっくに過ぎていることも通告済みだ。第一、これまでの経緯を考慮すると、先ずは謝罪から入るべきではないのだろうか? あまりにも非常識な文面に、つい厳しい口調で返信してしまった。
「先月、メールと書面にて通告しました通り、川口様のピアノは既に納調(ヽヽ)の期限は過ぎていますので、お請け出来ません。ご了承ください。一般的な調律依頼としてでしたら改めて検討させて頂きますが、こちらにも顧客を選ぶ権利があることをご承知置きください。正直なところ、これまでの経緯を鑑みると、お断りすべきかなと迷っています。もちろん、お請けするならば、正規の調律基本料金にプラスして、調整費も別途頂くことになります。総額は、当日に見積もらせて頂きます。また、作業に要する時間もその時にならないと分かりません。ついでに申し添えますと、いきなり明日の十時を指定されても、既に予定が入っておりお受け出来ません。来週以降でしたら、お伺い出来る日もありますので、ご希望日を幾つか教えて頂ければ、お請けするか否かも含め、熟考させて頂きます。お急ぎでしたら、他店への依頼もご検討されてはいかがでしょうか? 篠田」

 すると、今回は直ぐに返事があった。
「ごめんなさい。来週のいつでもいいです。お金は三万円あります。篠田さんにお願い出来ればと思っています。よろしくお願いします。川口健太」
 とても二十四歳の大人が書いたとは思えない拙い文面ながらも、今度こそ調律が出来るかもしれないと感じた。直感的に、いよいよ覚悟を決めたように思えたのだ。
 別に健太に会いたいわけでも、彼のピアノを調律したいわけでもないが、少し嬉しく思ったことは否めない。褒められた話ではないが、正直なところ、川口健太とはどんな人物なのだろうか? という野次馬的な関心もあった。また、岩木がどの様な状態でスタインウェイを販売したのか、ということにも興味があった。
 ともあれ、翌週の金曜日に調律を行うことになった。今度こそ、キャンセルにならないことを祈るばかりだ。
 籠から出られない鳥だけど、私が鳥籠に入ればいいのだ。

第6章【芒種・すましたおみみにかすかにしみた】

 じっとしているだけでも汗ばんでくるような、湿った空気が重く感じる日だった。六月——梅雨の季節だ。例年なら六月上旬頃に梅雨入りする関西地方だが、この年は例外的に五月末には梅雨入りし、それ以降、一週間以上も鬱陶しい雨の日が続いていた。しかし、この日のKの心は、雲一つない青空のように晴れ渡っていた。念願だったソロパートの練習を行う日がやって来たのだ。
 ホームルームの時間に音楽室の使用許可がおりた二年二組は、ソリストの二人とKの三人だけで自主練習することになったのだ。向井は、教室で他の生徒の指導を行うことになっており、広い音楽室をKと中北、そして唯香の三人だけで、贅沢に使えるのだ。もちろん、ピアノの使用も許可されていた。
 三人で音楽室に向かう途中、少し気まずい空気になっていた。と言うのも、この三人は、一方的にKが唯香に恋心を抱いているだけで、これまでの学校生活では特に接点がなかったのだ。もちろん、同級生となって二ヶ月が経ち、しかも、ソリストとピアニストを担うことになった三人だ。最低限の仲間意識は持っている。しかし、Kは、中北とは過去に同じクラスになったことはなく、ほとんど口を聞いたことはなかったし、中北と唯香もほぼ交流はなかった。
 三人で無言でダラダラ歩く空気に、最初に耐えられなくなったのは、先頭を歩く唯香だった。唯香は、すぐ後ろを歩くKを振り返り、(にこや)かに話し掛けたのだ。
「K君ってさぁ、ピアノは小さい頃から習ってるの?」
 Kは、唯香のクリクリとした愛くるしい瞳を直視出来ず、唐突に、初めて訪れた会話のチャンスにドキドキしながらも、なるべく平静を装い答えた。「まあね」と——。
 そう口に出してしまった後、一秒も経たないうちに、何てぶっきらぼうで投げやりな反応をしてしまったのかと後悔した。気障で嫌味なヤツに映ったかもしれない。変に自意識の高い勘違い野郎と受け取られたかもしれない。渋々答えただけに思われたかもしれない。少なくとも、良い印象を与えたとは思えない態度を取ってしまった。話し掛けてもらえた喜びすら、全く伝わらなかっただろう。むしろ、迷惑だと受け止められたかもしれない。折角のチャンスをふいにしてしまったのだろうか。今からでも、どうにかして立て直せるのか……と考えていると、中北が実にさり気なく会話に滑り込んできた。

「オレも年長からずっと習ってるんやけど、とてもKの敵やなかったもんな。いやぁ、メッチャ上手いからビックリしたわ。オレ、今思うと恥ずかしいんやけど、密かに自信あったのになぁ……でも、Kの演奏聴いたら、負けたのに悔しくないって言うか、これは仕方ないわなって思ったもん」
「そうよねー、K君上手やったもんね。でも、中北君もメッチャ上手やったよ。それに、まさか中北君がピアノ弾けるって思ってへんかったから、ビックリしたわ」
「そうなん? でも、別に隠してないんやけどな。去年も伴奏立候補したのに、ダメやったしなー」
「へぇー、そうなんや。中北君って去年何組やったの?」
「五組やで。担任が今本のクラス。伴奏は広野が弾いたけど、彼女もメッチャ上手いからなー、俺なんかじゃ、とても敵えへんなって。二年連続で負けたけど、二人とも上手過ぎるから、逆に応援したくなるわ」
 あれよあれよという間に、唯香と中北の会話が盛り上がりつつあるのを目の当たりにし、Kは腹立たしく思い始めた。唯香は、Kに話し掛けたのだから、上手く対応していれば中北のポジションに自分が居たはず……そう思うと、ハラワタが煮え繰りかえりそうな気分になった。

「中北君って、意外と謙虚なんやね」
「えっ? そんなことも知らんかったん?」
「ヤダ、何言ってんのよー」
「ハハハ、でも、石原も大変やな。ソロ、立候補したんやないやろ?」
「うん……千尋と芽衣に悪いなって。でも、私、自分でやりたいなんて言ってへんのに、あの二人に最近無視されとって……」
 尾崎千尋と西浦芽衣は、唯香と共にクラスの中心的グループの一員だ。二人とも音楽の素養があり、伴奏にもソロにも立候補したのだ。しかし、伴奏はあえなくKに敗れ、ソロは立候補すらしていなかった唯香に持っていかれた。一メンバーとして、女声パートを牽引する役割こそ担ってはいるが、この結果は、二人には受け入れ難いものだろう。唯香が悪いわけじゃないことは理解出来ても、つい唯香に当たってしまうのも無理はない。

「そうなんや……酷いな、石原は悪くないのにな。でもな、立候補した彼女達にしてみたら、奪われたって思ってしまうのも無理ないかも」
「でも……そんなこと言われても……」
「誤解すんなって。悪いのは向井や。石原は何も悪いことしてへんやん。そうやな、立候補者から選んであげなアカンよな」
「私、別にソロなんか歌いたくないのに、勝手に決められて、友達に無視されて……なんでこんなに辛い思いせなあかんの? ほんま、アホみたいやわ」
「……変な話やな。今度、俺、二人と話してみるわ。もちろん、石原に頼まれたとかは絶対に言わへんから安心して。だからな、石原は絶対に彼女達のこと悪く思ったらあかんで。余計にこじれるだけやから。大丈夫やって、元々仲良かったんやから、またすぐ仲直り出来るって!」
「ありがとう……中北君、優しいんやね」
「えっ? それも知らんかったん? 石原は無知やなー!」
「もう、感謝取り消しね!」
 いつしか、中北と唯香は恋人同士のように仲良く話し込んでいた。まるで、そこにKが存在しないかのように、二人はごく自然に二人っきりの世界を築いたのだ。
 蚊帳の外に置かれたKは、とてつもない疎外感を味わうことになった。さっきまで晴れ渡っていたはずのKの心は、突然の豪雨に襲われたかのように、真っ暗で陰鬱に淀んだ。こんなにすぐ近くに、手が届きそうなぐらいの目の前に唯香がいるのに、太平洋を跨ぐぐらいの隔りを感じた。ついさっきまで、意気揚々としていた自分が情けなかった。折角唯香から話掛けてくれたのに、無駄にしてしまったことを悔いた。どうして中北のように振る舞えないのだろうか……夏服に変わった唯香の背中を凝視しながら、Kは深い自己嫌悪に陥り、不甲斐ない自分を呪った。

 音楽室に着き、練習の時間が始まっても、唯香と中北はペチャクチャと喋っていた。先生がいないのをいいことに、単に授業をサボってるだけだ。Kは、この二人が会話をするシーンを今までに目にしたことがなかった。今日の練習がキッカケだったとしたら、自分にもチャンスがあったことになる。少なくとも、三人で仲良くなれたかもしれない。そう考えると、一層悔しく惨めな気分になった。
 二人から全く相手にしてもらえず、何もすることのないKは、一人でピアノを弾くことにより気を鎮めようした。女子とも普通に話すことが出来る中北を羨ましいと思ったし、唯香が再度話し掛けてくれることを期待した。今度こそ、上手く対応してしてみせる、だから、もう一度だけチャンスをくれ……Kは、そう密かに願いつつも、自分から二人の話に入ることは出来ないのだ。遠くから眺めるだけで精一杯。それでも、唯香の屈託のない笑顔があまりにも可愛くて、ピアノを演奏しながらも、楽譜を見るフリをしてつい唯香の顔ばかり見つめてしまう。
 しかし、唯香は恣意的にKの視線を避けようとしている気がしていた。たった数分の間に、無関心な人から嫌いな人に変わったのかもしれない。でも、無関心より嫌いの方がマシだって聞いたこともある。もう、どっちでもいい。手遅れかもしれない。唯香は中北に夢中のようだ……Kのネガティヴな思考は一人歩きしながら膨張し、どうしようない敗北感を植え込んだ。今はただ、やり場のない感情を事務的にピアノの音へ変換することにより、必死に誤魔化し、取り繕うことしかやる術がなかった。

 その時、突然向井が音楽室に入ってきた。
「コラッ! 何サボってるの! 真面目に練習しないとダメでしょ!」
 入って来るなり、三人に怒鳴りつけた。Kは、「俺は練習してたよ。この二人がサボってるだけだ!」と反論したかったが、言葉に出来るはずもない。三人には比較的優しい向井も、サボっていたことは許せなかったようで、激しくヒステリックな説教を食らった。Kは、矢野達が練習を嫌がってる気持ちが少し理解出来た気がした。こんな感情的な叱責を毎日繰り返されたら、とてもじゃないけどやってられない……そうKは思った。

「石原さん、あなたには期待してたのにガッカリだわ。あなたは、女子の代表なのよ! その自覚を持って、本腰入れて練習してくれないと、優勝なんか出来っこないわよ!」
「中北君は自分で立候補したんでしょ? やる気ないなら他の子に代わってもらうわ。いいの? さっき教室の練習みてたらね、吉武君とか加賀美君とかね、上手な子も何人かいるのよ。何も君に歌ってもらう必要はないから! そのつもりでいてね」
「K君、君はね確かにもう練習しなくても弾けるでしょうし、先生のやりたい音楽も理解してるわね。でもね、今は授業中なの! サボったらダメ! 余裕があるならね、二人にアドバイスしてあげたらどうなの!」
 どうやら、向井は根本的な部分で勘違いしていた。皆が力を合わせて、優勝を目指していると思い込んでいるようだ。
 Kは、単に楽だろうとの判断で伴奏を選んだに過ぎない。それに、唯香へ何らかのアピールに繋がれば、という下心もあった。中北は、どうせやるなら目立ちたいだけだし、来年の受験に向けて、あわよくば内申点を稼げるなら……という思惑もあった。つまり、元より、中北はソリストに執着はないのだ。唯香に至っては、希望すらしていないのに勝手に決められただけだ。その前提を理解しようともせず、現実を自分の理想に上塗りしたところに基く指導は、どうしても空回りになってしまう。三人には、そのことが滑稽に思えたが、今は向井の逆鱗に触れないことの方が大切だと判断した。つまり、反省している振りを貫き、時間の経過を待つだけだ。

 向井の癇癪が治ると、ソロパートの個別指導が始まった。先ずは、唯香のソプラノソロだ。Kの伴奏に合わせ、唯香が恐る恐る歌い始めると、すぐに向井は演奏を止めた。
「音程はバッチリね。でも、よく楽譜を見て。ここはフォルテで入るのよ。思い切って、ポンって歌い出してね。じゃ、K君、Dの二小節前からお願い」
 再度、Kが弾き始めると、今度は唯香は大胆に入った。いきなりのハイトーンも擦れずに発声出来ており、正確なピッチで情緒的に歌い上げた。テンポも乱れない。
「石原さん、あなた、歌習ってるの? 素晴らしいわ。今の部分、もう直す所がないぐらい完璧じゃないの!」
 向井はスッカリご機嫌になり、唯香の歌唱力を褒めた。唯香は、特に歌も音楽も習っていないらしい。つまり、天性の才能に恵まれていたのだろう。正確に歌えるだけでなく、何とも言えない魅力的な声質に、やや官能的にも思える艶っぽい表現力が備わっていたのだ。声量も申し分ない。おそらく、本人は何も意識していない。自然と出来てしまうのだろう。
 しかし、向井のご機嫌も、中北の指導になると豹変した。中北によるテノールのソロは、ほんの数小節しかない。しかも、難易度も高くなく、その部分は特に問題なく終えた。
 問題は、二人による二重唱だ。これもほんの数小節とは言え、テノールにはかなりの難易度が求められる。低音から高音まで、上下動の激しい動きに中北は全く付いていけなかった。向井は、何度もやり直しを命じ、中北は一人で歌わされた。しかし、抜本的な問題があった。どうやら中北の声域は狭く、この部分の最低音と最高音が、どちらも出せないようだ。そのことが分かると、向井は八つ当たり気味に中北にキレた。

「君ね、こんな音も出せないのによくソロに立候補したね。先生、騙された気分だわ。どうするの? 高音は練習で出るようになるかもしれないけど、低音は君には無理ね。来週から全体練習したかったのに、これだと出来ないわ。予定がメチャクチャよ。皆に謝ってくれる?」
 流石に理不尽な言い掛かりに、中北は反論出来ないまま涙ぐみ、黙り込んでしまった。
「何黙ってるのよ! 今からソリスト変わっても間に合わないわ!」
「す、すみません……」
 蚊の鳴くような声で謝る中北に、向井は更に怒声を浴びせた。
「先生に謝ってもどうしようもないでしょ? 練習の計画が台無しになったの! クラスの皆に謝りなさい!」
 その時、唯香が中北を庇うように反論した。
「先生、いくら何でも中北君が可哀想です。ソロは希望者が歌うべきだし、上手い下手なんて誰も気にしてません。先生だけです。こんな練習が続くのなら、私は耐えられません。私はソロやりたいなんて言ってないし、他にやりたい人もいたので、辞めてもいいですか?」
 すると、見る見るうちに向井の顔は怒りで真っ赤に変化した。
「あなた! 自分で何を言ってるのか分かってるの! 合唱はクラス皆で取り組むことが大事なの! 皆で決めたことを勝手に辞めたいって、そんな我儘許しません!」
「皆で決めたんじゃないです。先生が決めたんです」
「石原さん、あなたがそんな口ごたえする子だとは思わなかったわ。ガッカリね。でも、ソロはあなたが歌うこと。これはもう決まったの。今問題なのは、男子のソロなの。それをどうしようかって話をしてるんでしょ?」
 向井は、唯香の実力を知ってしまった以上、ソプラノソロを意地でも歌わせたいようだ。とても論理的とは言えない理屈で、強引に承服させようとした。一方で、中北には歌わせたくないのだろう。しかも、本当は代わりのアテもないに違いない。なので、八つ当たりしてるだけだ。
「あのぉ……」
 その時、恐る恐るKが発言した。向井が睨みつけるようにKを見つめ、続きを促した。
「僕が歌いましょうか?」

 向井は、全く予期しなかった提案に、薄ら笑いを浮かべあしらおうとした。
「いや、僕が歌います。伴奏は中北君も上手く弾けますし、今からでも間に合います」
「K君、気持ちは嬉しいけど、あなたはピアノを希望したのでしょ?」
「確かに伴奏を希望しました。でも、ダメならソロを希望していました。一度歌わせて下さい!」
 向井は、困り果てた表情を浮かべつつも、面倒くさそうに「分かったわ」とため息と一緒に吐き出した。一応、教育者であることを思い出したかのように。渋々ながらも、Kに一度歌わせてみることにした。向井自らがピアノを弾き、Kが発声した。
 すると、Kの歌声は三人の想像を大きく飛び越え、呆然とさせた。感想を言おうにも、逆に言葉なんて不要なぐらい、素晴らしいとしか言いようがなかった。全方位に向け力強く照射された真っ直ぐな声は、とても太く、丸みを帯び、大地を揺るがすような豊かな倍音を含み、音楽室の隅々まで響き渡ったのだ。
 向井は唖然とした。その声量、その声質に、理性を見失う程に興奮した。そして、Kを抱き締めんばかりに歓喜の声をあげ、女子高生のようにはしゃぎながら褒めちぎった。
「K君、凄いわよ! あなた、どうしてそんな才能隠してたの? 素晴らしい! そうね、絶対にあなたが歌うべきだわ! 中北君、あなたは元々伴奏希望だったわよね?」
 泣くのを堪え、無表情のようにも見える中北に、最早反論する余力などない。ハッキリと肯定しなかったことが、精一杯の抵抗だ。勿論、向井には通用しなかったのだが。
 Kは、悔しそうに下を向く中北を、少しだけ同情しつつも、内心では嘲笑った。唯香を取ろうとした仕返しだ……Kにとって、これは軽い報復のつもりでもあった。ただ、この先唯香に近付く為には、中北とは友好的な関係を築いていた方が得策だとの判断もあり、恩を着せる目的もあったのだ。

第7章【大暑・いきはよいよい かえりはこわい】

 七月下旬のことだ。
 朝目覚めると、既に残酷なまでに、容赦なく太陽は照射を始めており、煩いぐらいに鳴き叫ぶ蝉の声が不快に神経を逆撫でする。昔の人は、本当にこの「音」に風情を感じたのだろうかと、疑問に思うこともある。
 世間では夏休みに突入し、連日茹だるような猛暑が続く中、日中には子ども達の黄色い元気な声が各所で響き渡る。別に子ども好きでもない私だが、元気な子どもの楽しげな声は、蝉ほど不快には感じないから不思議なものだ。周波数や音質、音量などを波動で表して人の心への影響を精査すると、蝉の声も子どもの声も、どちらも大差がないようにも思えるのだが。

 那古野の夏は、日本で最も暑いとも言われている。しかも、よりによって暦の上では一年で最も暑いとされる大暑の日に、私は川口健太のスタインウェイを調律することになった。
 ここに至るまで、本当に長かった。納品後、一回目の調律の予定を組むのに、これほど苦労したのは初めてのことだ。四月の頭に岩木から連絡が入り、五月の連休明けに納品したピアノだ。オーバーホールしたピアノは、新品のピアノ以上に狂い易い。なのに、既に納品から二ヶ月半も経過した。おそらくピッチは半音近く低下しているだろう。ユニゾンもグチャグチャに乱れ、まともな音律を保てていないことは想像に難くない。
 もちろん、付属サービスとしての調律はもう出来ない。一般依頼として受けたのだが、何年も放置されたピアノ以上に面倒な仕事になることは予想出来た。
 それに、もっと言えば、タッチも酷いことになっているのは間違いない。リバウンドという二度打ちの症状が出ている恐れもあるし、重さや感触もバラついているだろう。「スティック」という動きが鈍る症状や、雑音、止音不良などの故障が生じてる可能性もある。
 もし、想定する一番酷い状態にまで乱れていると、正直なところ、数時間で必要な全ての作業を行い、スタインウェイのポテンシャルを取り戻すことは困難だろう。必要な時期に必要なメンテナンスを行わなかったツケは、後々響いてくるものだ。これは、人間関係と似ているかもしれない。一度壊れた信頼関係は簡単に修復出来ないように、ピアノの音とタッチも狂い過ぎると容易には直らないのだ。

 健太は、今回の作業代として、三万円準備しているとメールに書いていた。相場も知らないどころか、作業内容も未定なのに、勝手に三万円と言ってくる厚かましさに辟易した。
 既に岩木から受け取った一万円と合わせても、とてもじゃないが割に合わない仕事になる。いや、それでも次からの定期的なメンテナンスが確約されているお客様なら、喜んで足を運ぶだろう。しかし、健太の場合は、「次」があるとは限らないのだ。今回限りの仕事になる恐れがあるのなら、本当なら断った方が賢明だったのかもしれない。
 どうしてもネガティヴな方へと思考が流されてしまう程、この日はとにかく暑かった。
 また、最悪なことに川口邸には車庫がなく、近くに路駐するスペースもない為、有料パーキングから歩かなければならないのだ。調律工具は、全部で15kg以上ある。風もないジメジメした炎天下の中、五分以上も歩かなければならなかった。両手が塞がっている為、額から流れ落ちる汗を拭うことも出来ない。殺人的な真夏の熱射は、少し歩くだけで私の体力を急激に蒸発させた。
 だから、ようやく川口邸に辿り着いた時には、既に私は疲れ切っていた。これからスタインウェイと対峙するというのに、始める前から呼吸が乱れ、工具鞄を握り締めていた右手が痛んだ。立ち止まると全身から一気に汗が吹き出し、シャツは雨に打たれかのようにびっしょりと濡れていた。
 私は、インターホンを鳴らす前に足元に工具鞄を置き、駐車場の自販機で買ったスポーツドリンクを一気飲みした。水分と塩分の補給だ。さもないと、熱中症になり兼ねない。
 昔、調律の師匠から、工具鞄はお客様の床に置くものだから汚してはいけない、と口うるさく言われた。地面に置いた鞄を室内に置くのは、土足で家に上がるようなものだと——。徒弟制度の世界において、師匠の命令は絶対的な服従が強いられる。でも、今はそんなルールに構っていられない。それぐらい、暑さに参っていたのだ。冷たいドリンクが、乾き切った体内に浸透するに連れ、身体に篭っていた熱が汗と共に一気に放熱される感じがした。その時、ほんの少しだけ吹いた風が冷たく感じ、一瞬だけ生き返った心地になった。

 呼吸が整い、少し汗も引いてきたところで、いよいよインターホンを鳴らした。緊張の面持ちで出てきたのは、健太の母、川口頼子だ。とりあえず、簡単な挨拶を交わし、リビングへ上げてくれた。川口邸は緩くエアコンが効いており、とても快適に感じた。テーブルには、冷たいお茶が用意されていた。少しだけ後ろめたさを感じながら、私はそっと工具鞄を床に置いた。
 頼子は、私の汗の量に気付いたのか洗面所に案内してくれ、顔を洗わせてくれた。相変わらずシャツは身体に張り付いており不快なのだが、冷たい水で顔を洗うと随分とスッキリした気分だ。
 リビングに戻った私に、頼子は、今日に至るまでのことを謝罪してくれた。一度決まった予定を、土壇場になりキャンセルしたこと。その後は電話にも出ず、メールも返信せず……挙句は、最終通告さえ無視しておきながら、今頃になって何もなかったかのように一方的に連絡したこと。しかし、健太にはそれらが非常識なことだという認識はないそうだ。その説明の裏側には、「少なくとも悪気はない。だから、大目に見て欲しい……」そんなニュアンスが、言葉の節々に感じ取れた。
 思えば、健太は中学生の途中から社会との関わりを絶っているのだ。学業はもちろんのこと、学校生活で身に付け、育まれる人との関わり方、そして、社会的な一般常識やマナーなどは、著しく劣っているのも当たり前かもしれない。だからと言って、無礼を容認するほど寛容な人間でもないのだが、気に留めていないように装う方が賢明でだとは思ったし、それぐらいのことを熟す社会性はいつしか私にも身に付いていた。

 さて、頼子に案内されて、二階にある健太の部屋に入る時がやってきた。扉をノックすると、中で人がゴソゴソと動く気配を感じ、無言でドアが空いた。健太は、内側に開いたドアの影にいるのだろう。何も言葉を発しないので、私は「失礼します、入りますよ~」とわざとらしく語り掛けながら、いよいよ健太の()へ足を踏み入れたのだ。
 部屋は思いのほか広く、小さく見積もっても、おそらく八畳ぐらいはある洋間だ。と言っても、見たところ、綺麗に整理整頓されている感じはするが、家具類が多いため生活スペースは限られているようだ。ベットにテレビ、学習机、洋ダンス、パソコン台、本棚で、床面積の半分程度は占有されている。そして、残されたもう半分のスペースに、スタインウェイのS型が窮屈に設置されていた。明らかに設定温度が低過ぎるであろうエアコンの風が、残念なことにスタインウェイに直撃している。効き過ぎたエアコンの所為で室内は肌寒く、汗まみれの私の身体は一気に冷え込んだ。

「あ、あのぉ、よろしくお願いします」
 私の背後から、蚊の鳴くようなか細い声で、恐る恐る城主(ヽヽ)が話し掛けてきた。私は、特に何も気にしてない振りを装い、普段の一般家庭調律を行う時のように接した。
「篠田です。こちらこそよろしくお願いしますね。まずお聞きしますが、ピアノを弾いてて、何か気になることや不具合などはありますか?」
 そう質問しながら、初めて健太の姿を見た。彼は180cmジャストの私よりも少し背が高く、色白で痩せていた。全く筋肉が付いてなさそうな細い腕は青白く、指だけが異様に長く見えた。明らかに運動不足なのだろう、全体的にガリガリと言ってもいいぐらい細いのに、お腹だけはポッコリと飛び出していた。
 確か、彼は二十四歳のはず——。
 アスリートなら、丁度最盛期を迎える年齢だ。人として、男性として、人生で最も健康で、最も強靭な肉体を誇る時期だろう。それなのに、長年この部屋に引き篭もり、無為に過ごした影響だろうか、健太は実年齢より遥かに老けて見え、姿勢も悪くてナヨナヨしていた。
 また、顔の下半分が隠れる大きなマスクを着用しており、髪の毛は無造作に伸ばしていた。おそらく、自分で乱雑にカットしているのだろうか、アンバランスで奇妙な髪型だ。もし、これが「前衛的」なのだとしても、流行がくるのは二世紀ぐらいは先に違いない。前髪を鼻下ぐらいまで伸ばしているのは、おそらく顔を隠す為だろう。しかし、そこまで防備していても、私と面と向かって話すことは出来ないのだ。

「音が変です。弾きにくくなったし、ペダルも変です。三万円で直りますか?」
 健太は、決して目を合わそうとせずに、そう答えた。狭いスペースを忙しなく動き、何かに脅えるように無駄に意味もなく、目に付いた本や小物を捏ねくり回している。長い前髪の隙間から時々垣間見える眼光は鈍く、不安と緊張に怯えているようだ。切れ長の細目で、目尻が少しつり上がっている。しかし、その瞳は、どこにも焦点を合わさず不規則に泳ぎ、落ち着きがない。「人に懐いていない神経質なリス」——初対面の健太からは、そういう印象を受けた。
「えぇとですね、ちょっと一通り見せて貰ってから詳しく説明しますね。その前に、申し訳ございませんが、掃除機と絞った雑巾をお借り出来ますか?」
 無言で部屋を出た健太が、慌ただしく階段を降りていく音が聞こえた。その間にスタインウェイの音とタッチ、ペダルをチェックし、アクションや鍵盤のコンディションも一通り確認した。

 健太のスタインウェイは、私が想定していた範疇の、最も悪い方に近い状態だ。幾ら納調をパスし、エアコンの風が直撃しているとは言え、ここまで狂っているとは思わなかった。
 いや、違う、狂ったというより、元から大した調整をしていないのかもしれない。岩木のことだから、相手が引き籠もりでクレームを言ってくるような人じゃないと判断し、手抜き調整で出荷したのかもしれない。そう仮定すると、どことなく、後ろめたそうな態度に終始したのも、特別に一万円払うと言い出したことも、全て説明が付く。真偽はともあれ、その可能性はかなり高いだろう。
 しばらくすると、ゆっくりと階段を登ってくるリス(ヽヽ)の足音が聞こえた。どうやら、掃除機と濡れ雑巾を持って来たようだ。こちらを見ようともせず、言葉を発することもない。無言で掃除機を床に置き、雑巾は机の上に置いて、そのまま出て行こうした。なので、私は健太を呼び止めた。

「ちょっといいですかね。さっきの質問ですけど、まず音は半音近く落ちています。二回取り調律と言って、一度ザッとピッチを引き上げてから、もう一度丁寧にやり直す必要があります。それでも、多分数週間で狂い出して、数ヶ月後には今と同じぐらいまで狂いますから、年内にもう一回調律した方が良いでしょうね」
 健太は、身体だけ私の方を向き直したものの、やはり目を合わそうとしない。下を向いたまま黙り込む。話を聞く気があるのか定かではないが、気にせずに私は説明を続けた。
「ペダルは、遊びが多くなってます。これは簡単に直ります。問題ありません。タッチは、色んな調整が狂ってるので、ちょっと時間は掛かりますが、部品の故障はなさそうですね」
「……」
「ご予算が三万円ってことですが、二回取り調律が二万円、ペダル調整はサービスですが、タッチ調整は、それだけで最低でも三万円ぐらい掛かります。全部直すと、そうですね、サービスしたとしても税込み五万円ぐらいになりますね。どうします? 調律と、最低限のタッチ調整だけにしましょうか?」
「……」
 健太は、相変わらず黙り込んだまま、目も合わせない。意思疎通は諦めた方が良いと判断した私は、一方的に必要なことだけ伝えることにした。
「あとね、エアコンが効き過ぎです。温度は安定していれば多少低くても高くても問題ありませんが、これだけ冷房が効いてて、しかもピアノに直撃してますから、過乾燥が心配になります。今はまだマシだけど、冬になったら暖房になるでしょ? エアコンの暖房が直撃すると、一気に乾燥しますよ。ピアノは木材の部品が多いので、乾燥し過ぎると割れてしまいます。下手したら、百万円単位の修理になりますからね。冷房であれ暖房であれ、直撃しないように工夫してください。急激な温度変化は、金属にも木材にも悪影響です」
 ピアノに起こり得るリスクを、少し大袈裟に盛って話してみたが、それでも健太は何も言わずに立ち尽くしている。猫背で首を項垂れ、話を聞いているのかすら判断出来ない。追い詰める気はないのだが、私も早く作業に取り掛かりたい。しかし、段取りの都合上、何をどこまでやるのか決めて貰わないと困る。なので、もう一度尋ねようとした。
 すると、その時静かに健太が口を開いた。

「ごめんなさい。今日は三万円しか持ってないので、それで出来ることだけやって下さい」
「分かりました。では、全部は無理だとして、優先したいのは何でしょう?」
 そう聞くと、健太は意外なことを言い出した。
「低い音と高い音が繋がらないです。途中で二回ぐらい色が変わります。それを繋げてください。弾きにくいのは我慢します」

 この回答に、私は純粋に驚いた。どんなピアノでも、設計の都合上、二~三ヶ所、微かに音色が変わってしまうところがある。しかし、その差はとても小さく、一般人はもちろん、ピアニストやレスナーでも気付かない人がいるぐらい、若しくは、気付いても気にならない程度の差異だ。
 メーカーは、この差をいかに小さくするか試行錯誤を繰り返しただろう。しかし、特にベースから中音に切り替わる部分は、どんなピアノでも弦の材質が異なるため、完璧に揃えることは物理的に不可能なのだ。その上で、上手くボカすしかない。それを行うのが、現場での最終仕上げを行う調律師の仕事になる。調律師は、設置環境や奏者の特性、ピアノの経年変化などを見越した上で、言葉は悪いが「バレないように誤魔化す」作業を行うのだ。
 とは言え、安価なアップライトや国産の小型グランドピアノでは、誤魔化すにも限度がある。メーカーの理念にそこまでの追求がない上、実際に目立つ差異が残されたまま出荷されるので、現場で音色を完璧に繋げることはかなり困難なことなのだ。
 一方で、音に拘った高級機種は、何もしなくても、目立つような違和感は残されていない。特に、ドイツ製の高級メーカーのピアノは、まず気付く人はいないだろうと思えるぐるいに音色が綺麗に繋がっている。しかも、その中でもスタインウェイは、群を抜いて完成度が高いピアノなのだ。
 しかし、健太は、普通はまず気付かないであろうスタインウェイの微かな音質の違いを、明確に認識していたのだ。演奏の実力は分からないが、恐ろしい聴力と感性の持ち主には違いない。でないと、このことに気付く人はいないだろう。少し、畏怖にも似た思いで、健太を見た。相変わらず、視線は泳ぎ、忙しなく手先を意味もなく動かし、挙動が安定しない。しかし、その内側には、とても繊細で鋭敏な感受性を秘めた「音楽家」が宿っているのかもしれない。
 そして、この健太の要望は、私の調律師としての本能を刺激したのも事実だ。大して気の進まなかった仕事から、やってやろうじゃないかという気合いに切り替わった瞬間だ。調律師として、こういう専門的な高い次元のオーダーは、とてもやり甲斐がある仕事なのだ。
 それに、この表情も表現も乏しい引き籠もりの男を満足させ、感情を引き出してみたいと思ったのだ。

第8章【小暑・つるとかめがすべった】

 合唱コンクールの練習が本格化するに連れ、向井はあからさまにKを贔屓するようなった。
 Kは、勉強もスポーツも中の下ぐらいに位置し、性格も悪く言えば陰気で大人しく、決してイケメンでもなければクラスの人気者でもない。背が高いだけで、他には何も目立つことのないKだが、音楽センスだけはズバ抜けていた。歌もピアノもKの実力は際立っており、他を圧倒したのだ。音楽教諭でもあり、しかもコンクールに全身全霊を注ぐ向井に気に入られるのも当然だろう。とは言え、向井のKへの見苦しいほどの寵愛は、クラスメートからは異常に映った。
 初めてソリストだけの練習を行った日、向井から伴奏と男子のソロを交代したとの発表があった。生徒の前でKの歌唱力を興奮気味に讃え、コンクールに向けて新しい体制で頑張って行こうと熱弁を振るう向井に対し、生徒達の反応は冷め切っていた。
 実際のところ、本当に優勝を目指して頑張ってる生徒も少しはいたのだが、残り大多数にしてみれば、コンクールなんてどうでもよいイベントだ。日々を楽しく過ごすことの方がずっと大切な中学生にとって、中北とKの交代なんて瑣末なことだった。そんなことよりも、厳しい日々の練習を、向井のターゲットにされないように乗り切ることの方が重要で、優遇されている者同士が入れ替わったところで、特に変わることなどない……はずだった。
 しかし、全体練習が始まると、クラスの雰囲気は一気にネガティヴな方向へと舵を切り、急加速した。もちろん、合唱の練習、いや、向井の感情的で過酷な指導が原因だが、特に男子への当たりは異様な程に強かった。(あたか)も恐怖政治のようでもあり、今で言う「パワハラ」や「教育虐待」、或いは「モラハラ」そのものでもあったのだ。

「ダメダメ、男子だけでもう一回歌ってみて! 中北君、頭から弾いて」
 この日も、向井の甲高い声が教室に響いていた。その声質は、明らかに不機嫌な棘と毒を孕んでおり、どうやら男子全体がターゲットにされたようだ。
「ちょっと、ピアノ! ミスタッチ多過ぎるでしょ! それに、テンポがブレブレじゃないっ! じゃあ、もう一回頭から」
 中北は、元々希望していた伴奏を担当するようになったのだが、喜びより苦痛の方が大きかった。向井は、前任のKの文句のつけようのない演奏を基準に考えるので、そこまでの技量がない中北のちょっとしたミスやテンポの乱れを執拗に注意した。
 そもそも、この曲の伴奏は難易度がかなり高い。それでも、Kはほぼ初見で通せる技量があったが、中北の場合は譜読みだけでも数日は掛かる。いや、中北に限らず、この日の段階でスラスラ通せるだけの演奏技術のある生徒は、全校中でもKぐらいだろう。向井は、そんな客観的事実にも目を向けず、Kを基準にした出来を求めたのだ。
 とは言っても、コンクールは十一月だ。他のクラスは、ようやく練習を始めたか否かという段階で、伴奏に完璧を求めるのは無理がある。しかも、中北は先日のソリスト練習の日に楽譜を渡されたばかりだ。あの日から、まだ一ヶ月弱……現段階の中北の完成度合いは、辛うじて弾き通せるかどうか、といったところなのだ。
 弾くだけでも精一杯な現時点の中北にとっては、細かい指示や深い要求には応えられるはずがない。それなのに、皆んなの前で何度も弾き直しを命じられ、その都度ガミガミ言われるので、中北は惨めな気分になっていた。
 精神的に参っているのは、中北だけでなかった。ほとんどの男子も突出した実力を持つKと比較され、完全に嫌気が差し、やる気を失っていた。歌もピアノも、向井はKをスタンダードと考えているようだ。勉強でもスポーツでも、際立った実力を持つ人を基準にされると、残りの大多数の「一般人」は、「諦め」にも似た感覚でやる気を失くすだろう。要するに、向井は高望みし過ぎていたのだ。

「男子はK君の声しか聞こえないわ。全然ダメ。ちょっと一回K君はお休みして、他の男子だけで歌ってみようか。中北君、もう一回頭からね」
「だから、そこはミスらないでって言ってるじゃないの! そこ間違えると、皆んなが入れないでしょ! 家で集中的に練習してきなさい!」
「K君、ちょっと今だけピアノ弾いてくれる? 折角、音楽室の使用許可が取れたのに、ピアノが通せないなんて時間の無駄じゃない。中北君はK君のピアノ、ちゃんと見ておくのよ!」
「ちょっとみんな、ちゃんと声出して! もう、K君が抜けただけで全然聞こえなくなるじゃないの!」
 そんな具合で、向井の男子への熱心な(ヽヽヽ)指導は延々と続けられるのだ。

 一学期が終わりに近づく頃には、普段から素行の悪い、いわゆる「不良」と呼ばれるグループの男子数人は、合唱の練習をボイコットするようになった。Kの親友だった矢野悠馬も、いつしかこのグループに仲間入りし、むしろ今ではリーダー格となっており、練習の時間になると真っ先に教室から消えるようになった。
 中北も揺らいでいた。中北への向井の風当たりは日毎厳しくなり、いつもKとの比較で(けな)される。次第に、中北も矢野達のグループと付き合うようになり、練習をさぼろうか迷っていた。
 しかし、中北は一応音楽の心得もある上、伴奏を担当している。中北が来ないと、練習は成立しない。いや、もうこの際、そんなことはどうでもいいぐらいにやる気を削がれてはいたが、中北がサボると、間違いなく残された仲間達が向井の癇癪の犠牲になるのだ。その結果、中北は皆に恨まれるだろうし、皆にも申し訳ないと思う。なので、ギリギリのところで何とか踏みとどまっていたのだった。
 男子で進んで参加しているのは、今ではKだけだろう。Kは、ちょっとした優越感を感じていた。他の生徒にも、尊敬の念で見られているものだと思い込んでいた。しかし、実際はボイコットしてるグループは勿論、嫌々出席してる生徒でさえ、Kの尊大な態度をうざったく思い始めていたのだ。女子からは、既に総スカン状態。そのことに今尚気付いていないのは、K自身だけだった。

 Kは、何よりデュオの練習を楽しみにしていた。しかし、一度音楽室で合わせて以来、今のところソリストだけによる自主練習の時間は設けられていない。次の機会では、唯香に良いところを見せることが出来るはず……と、その時が来るのを心待ちにしていた。
 しかし、終業式間近についに訪れたソリストの自主練習の日、よりによって中北と唯香は、直前に二人揃って体調を崩し、二人とも保健室で休むことになった為に中止となった。Kはとても落胆した。急遽、音楽室で全体練習を行うことになったのだが、唯香のいない練習なんて気が進まなかった。
 この日は、中北の代わりにKが伴奏を弾くことになった。不機嫌を隠そうともしない向井のヒステリーは、いつもにも増して凄まじかった。主要メンバーの二人が欠け予定が狂った上に、男子の数人はボイコット。男子も女子も、今となっては声に覇気がなくなっていた。
 この日の向井は、半ば八つ当たり気味に「指導」した。自分への飛び火を恐れ、生徒達は下を向く。向井としては発破を掛けてるつもりだろうが、完全に逆効果だ。もう既に生徒たちは冷め切っており、取り返しが付かないところまでモチベーションは低下している。向井一人が空回りしている滑稽な有様だ。

 何故、今年は上手くまとまらないのだろう……向井は、自問自答を繰り返したが、明確な答えは見つからなかった。このままでは、とても間に合わない……そんな焦燥感が苛立ちを呼び、つい厳しく叱ってしまう。すると、生徒は萎縮しやる気を失う。そして、また焦りを招くという、完全に負のスパイラルに突入していたのだが、根本的な理由が自身にあることを、残念ながら向井は気付いていなかった。
 その一因として、学内での向井のポジションも、決して安泰とは言えなかったことがあるだろう。
 向井は、過度のフェミニズムへの傾倒により、男性教員には敬遠されがちで、当たり障りのない事務的な用件でしか交流はなかった。平たく言えば、避けられていたのだ。
 かと言って、女性教員の共感を得ているかと言えば、決してそうでもないのだ。彼女等は、もっと賢明で現実的なのだ。向井が説く男女平等の精神は理解出来ても、男女の性差は埋められないことも知っていた。つまり、どうしても区別が必要な時もあるのだ。しかし、向井のような闇雲で強引な理論では、常に女性の権利だけを優遇しているようにしか映らない。実際に、いつしか男女平等では物足りず、男性を敵視し、男性を蔑視しないと気が済まなくなっていたのだ。
 しかも、その女性が圧倒的に優遇された状態こそが真の男女平等だと思い込んでおり、女性教員には手当たり次第に同じ思想を強要しようとするのだ。しかし、良識的な殆んどの女性は、ここまで歪んだ妄信のフェミニズムには、むしろ女性として軽蔑する傾向がある。「だから女は……」と、本末転倒になり兼ねず、逆効果を生み出す恐れすら含んでいることを知っているからだ。
 更に言えば、教員の世界は、まだまだ不十分とは言え、一般職と比べると比較的男女平等が進んでいることも知っており、わざわざ事を荒立てる気もないのだ。

 なので、向井にとっての合唱コンクールは、孤立した自身のアイデンティティをアピールする場でもあったのだ。その為に、必要以上に意地になって取組んでいた面も否めない。しかも、今年の向井のクラスには、Kと唯香という、稀に見る優秀な人材が揃っていたのだから、知らず知らずのうちに目標到達点を手の届かない所まで高くしてしまい、過剰に入れ込んでしまっていた。
 しかし、他の生徒は平均的で例年と変わりがないのだ。彼等を二人の実力と釣り合わそうとしても、彼等自身にその気がない限り、とても無理な話だ。それなのに、今年の向井は、生徒達の意欲を掻き立てることに失敗し、そのことに気付かないまま暴走して、恐怖政治のように抑えつけてしまったのだ。結果として、今となっては空中分解寸前になっている。向井が何とかしようすればするほど、生徒の気持ちは離れていく反比例グラフに、向井は目を向けられないでいた。

 向井の癇癪に付き合わされただけの練習は、生徒達にとっては天使の声にも聞こえる終業ベルの合図で、ようやく終了になった。皆、ホッとして、強制労働を強いられた捕虜から健全な中学二年生の顔に戻る。彼等にとって、合唱の練習なんて苦痛な難業に過ぎない。二年二組の大半は、トラウマになるぐらい音楽を嫌うようになっていた。
 さすがのKも、クラスの様子がおかしくなっていることに気付き始めた。自分がどれだけ上手く歌い、上手く弾いても、今では冷ややかな反応しかない。向井に褒められてる時も、色んな所から睨みつけられてる気がする。そう、表立った被害こそないものの、クラス全員から敵視されていることに気付き、Kは孤立し始めていたのだ。K自身の立ち振舞いにも問題があるのだが、本人はそのことに全く気付いていないのだ。
 そんなKでも、中北だけは唯一の仲間だと思っていた。矢野を始め、Kと親しく接していた友だちからは、距離を置かれるようになっていたが、中北だけは今も普通に接してくれていたのだ。

 Kはふと思い立ち、保健室に足を運んでみることにした。体調を崩した中北が休んでいるはずた。それに、唯香も……そう、中北を見舞うという建前で、唯香の様子も覗き見ようと考えていたのだ。ひょっとすると、話をするチャンスもあるかもしれない。
 少し期待しながら、休み時間にそっと保健室に入ると、カーテンに仕切られたベッドの上に誰か座っているのが分かった。中北か唯香か分からない。たまたま保健の先生を始め、他には誰もいない様子だ。
 Kは、そっとカーテンに近付いてみた。すると、ベッドから中北と唯香の声が漏れてきた。楽しげに屈託無く笑っている。二人とも、とても調子が悪そうには思えない……その瞬間、Kは悟った。二人は、示し合わせて合唱をサボっていたのだ。
 Kは、ショックだった。中北と唯香だけは、真剣にコンクールに取り組んでいると思っていたのだ。それに、この二人が異様に仲良く見えるのも辛かった。唯香は、中北のことを好きなのかもしれない。二人でコッソリ……明らかに計画的だ。しかも、よりによって、ソリストの練習の日にサボるなんて……と考え、そこでようやくKは気付いた。
 二人は、合唱の練習をサボったのではなく、ソリストの練習(ヽヽヽヽヽヽヽ)をサボったのだ。俺を避けてるのか? いや、違う、そんなわけない! ……必死で打ち消そうとしても、Kには他に合理的な理由を見つけられなかった。
 二人の親しげな談笑が漏れ聞こえる中、Kは蒼白な表情で、過呼吸気味に口をワナワナ震わせながら、そっと保健室を抜け出した。

第9章【処暑・きょうのわざをなしおえて】

 七月末に川口健太のピアノを調律した後、私は岩木にようやく調律が出来たことをメールで報告した。その際に、形式的に紹介してくれたお礼も伝えたが、ついでに、ピアノの状態がかなり酷かったことも皮肉のつもりで書き加えておいた。と言うのも、もし通常通りに納調出来ていれば、とても五千円ではやってられない作業が必要だったのだ。岩木が、急に今回は一万円支払うと言い出したのも、おそらくは後ろめたかったからだろうが、それでもとても割に合わない仕事になっていたところだ。
 そもそも、最高級のピアノと謳われる『スタインウェイ』のオーバーホール品を販売するなら、協力業者としては、キチンと整備された状態で出荷するモラルは持ち合わせて欲しいものだ。いや、もっと言えば、それは調律師としての最低限のモラルとも言えよう。
 もちろん、岩木もそれぐらいの道徳感は持ち合わせていると思っていた。業界の中には、詐欺として立件されてもおかしくないような、悪どい商売を行っている会社もある。いや、フリーランスの調律師でも、かなり悪質な商売を行っている人もいる。ただ、それらはごく一部の例外と言えよう。当然、岩木も健全で真っ当な商売をしていると信じていた。
 しかし、今回の件で、その信頼が揺らぎ始めたのだ。もし、岩木に、ただ売れば良いという考えがあったのなら、今後の協力関係も見直した方がいいだろう……そう考えるようになった。
 元々、私と岩木とでは、性格は正反対に近い。その結果、考え方も仕事のスタイルも、真逆に近いスタンスを取っていたと言えよう。だからこそ、そのことが奏功して補完し合う関係に収束し、協力業者として支え合ってきたのだ。
 だが、例え価値観や考え方は真逆だとしても、調律師としての最低限のモラルは共有したいと考えるのは当然のことだろう。平たく言えば、調律師としての「心」の問題だ。少なくとも、お客様を欺いたり言いくるめるような仕事はして欲しくないと思っていた。

 しかし、岩木の考えは全く違った。
 彼は、私に力説した。調律師の技術なんて、ある程度の水準に達した、それ以上の高度な技量は必要ない、そんなものを身に付ける時間があれば、専門家としての自分磨きに力を入れるべきだし、音もタッチも、物理よりも心理的な変化の方がより反応するもの。その為にも、何より人と人としての信頼関係を築くことが大切だ……と。
 そうすると、「軽くしましたよ」「少し柔らかい音にしておきました」「タッチを揃えておきました」と伝えるだけでそんな気になって貰えるし、満足もしてくれる。そう、お客様の満足が何よりも大切なのだ。信頼関係がないと、幾ら物理的に完璧な調整をしても、本当に良くなったのか疑われる。そもそも、ある程度仕上げてしまえば、その先の音やタッチの狂いなんて、言葉で微調整出来るものだ……と岩木は主張した。
 しかし、私は、根本的にそれは違うと否定してしまう。
 実際に、川口健太は、ピアノが届いた時点で不具合に気付いていた。信頼する岩木が言った「完璧な状態で出荷する」という言葉を持ってしても、全く通用しなかったのだ。
 その点を突くと、「それは、僕は直接彼に会ったことがないから、完璧な信頼関係にはなってなかったのかもしれない。それに、その段階で直接指摘されれば、納得して貰えるように説明出来たと思う。どっちにしても、これからは篠田さんが信頼されるようになる方が大切でしょ? 完璧に信頼されればね、そんな細かいことは、わざわざ直さなくても、スタインウェイはこんなものですよ、と言えば解決するものですよ。逆に言うとね、もしそれで納得してもらえないようじゃ、言っちゃ悪いですけど、調律師として失格だと思いますね」と言い返された。
 確かに、一理あることは認める。しかし、私に言わせれば、本質的な齟齬を感じる。岩木の言う通り、お客様との信頼関係は大事だが、やはり技術者はユーザーの要望に技術で応えてこそ存在意義がある……という思いが強い。なので、ついつい、強い口調で言い返してしまった。

「つまり、岩木さんは技術者じゃない、少なくとも、技術で結果を出すつもりがないってことですね? 確かに、お客様との信頼関係の構築はすごく大切だと思ってますよ。でも、私は、調律師って技術職だと信じてますし、言葉で言いくるめて思い込ませるって、詐欺師みたいなもんだと思ってますので。私は、黒を白とは言えませんし、言うつもりもないですね」
「詐欺師って言い方はないでしょ? 僕だって、長年調律師やってますし、技術がメインになることは分かってますよ。今回も、最低限のやるべきことはやってます。篠田さんから見ると不十分かもしれないけど、僕は物理的な仕上がりに完璧を求めないだけですよ。どんな綺麗事並べても、結局は物品販売ですからね、トータルパフォーマンスとしては、金額相応以上の商品価値はあると自信を持って出荷していますし、言っちゃ悪いけど、篠田さんより販売の実績は上げてますよ? そりゃ、徹底的に直す方が良いですよ。でも、その為にコスト掛けて価格も高騰させて、お客様は喜びますか? それで売れるなら、勝手にそうすればいいじゃないですか。健太さんも不満ならクレーム出すなり返品するなり、何らかのリアクションを起こせばいいだけのこと。信頼関係が築けていれば、その先は上手く心理的に働きかける方が、愚直な技術での対応より有効なことも多いんだって話をしてるんです」
「言ってることは分かりますよ。でも、そうじゃなくて、私はやってないことをやりましたとは言えないって話をしてるんです。何もしてないのに、タッチを軽くしました、とか、音を柔らかくしました、なんて、結果的にお客様がそう信じたとしても、詐欺と同じじゃん、ってことが言いたかったんです」
「それは、逆も然りでしょ? 見た目じゃ分からない世界だから、幾らキチンと直しても、お客様が直った、良くなった、って感じなければ、直したことになりませんよ。技術者の独りよがりになってはダメなんです。それに、何も良くなってないって不満持ったままお金を払わされる方が、もっと詐欺だと思われますよ? 何も直さなくても、いや、極端な話、元より酷くなったとしても、お客様に良くなったんだって思わせることが出来たら、喜んでくれますからね。要はね、お客様がいかに満足したのか、納得したのか、ってことが最優先だと思うんです。その近道が、信頼関係なんです」
 岩木も私も主張を重ねる毎にヒートアップしてしまい、話はいつまでも平行線を辿った。やがて、着地点を見失う程に険悪な雰囲気になっていった。どうやって会話を終わらせたのかは覚えていないぐらい、意見はぶつかり続けた。これまで築いた関係性が、いかに見せかけだけで、お互い我慢していただけなのかがよく分かった。結局、最後までどちらも折れることがなかったことだけは確かだ。

 数日経って、少し頭が冷静になると、少しは岩木の言ってる意味も理解出来た。確かに、調律師に限らず、信用出来ない人がどれだけの技術を施しても、たとえそれが正当な手段と仕上がりであっても、疑念を抱いてしまうことはあるだろう。時に、感情は理屈を凌駕し、物理を捻じ曲げてしまう。白がグレーに見え、丸が楕円に見えることもあるだろう。信頼関係の構築が出来ていないと、穿った先入観は容易に排除されないこともある。悔しいが、それは認めざるを得ない。
 しかし、更にその上をいく技術も存在するはずだ。
 その時、私はある日本人指揮者の話を思い出した。ヨーロッパの伝統あるオケを振ることになった際、彼はまだ無名の日本人ということもあり、団員から冷ややかな態度で迎えられたそうだ。「お前なんかに音楽の何が分かる?」「俺たちを指揮するなんて烏滸がましいにも程がある!」といった、挑発的で反抗的な態度だったそうだ。
 しかし、その日本人指揮者は、コンマスにヴァイオリンを借り、挨拶代わりと言って無伴奏でバッハを弾いた。その演奏は、あまりにも素晴らしかった。完全に彼を見下し、蔑んでいた団員達にも、指揮者の奏でるヴァイオリンを通し、音楽性の高さやスキル、音色や表現力の卓越した技術は、十分に伝わった。団員達は急に黙り込んだ。そして、熱心に彼のヴァイオリンに耳を傾けた。一曲弾き終えると、誰からともなく拍手喝采が沸き起こった。それからは、指揮者の指示に素直に従うようになったそうだ。
 極端な話、どんなに嫌われ不信感を抱かれても、問答無用に認めさせる技術があれば、これ以上の説得力はないのだ。そして、それこそが本物の技術だろう。我々の世界でも同じだ。もし調律師を名乗るなら、何よりも技術と真摯に向き合うべきだろう。常に今以上の技術力を養う努力をすべきだし、ピアノと対峙する際は、今ある技術を全霊で注ぎ込むべきではないだろうか。
 それを飛ばして、言葉巧みに心理的に誘導する岩木の手法は、そもそもお客様との信頼関係の構築とは別問題で、単なる欺瞞に過ぎないのだ。
 そう結論付けた私は、岩木と連絡を取り合うのは、当面は自重しよう……と決意した。

第10章【立秋・そっとのぞいてみてごらん】

 夏休みに入っても、二年二組は週に数回登校し、合唱の練習を行うことになっていた。いや、これは二年二組に限った話ではなく、それなりに熱心に取り組んでいるクラスは、同じように練習を行っていた。
 もちろん、受験を控えた三年生は父兄の反発に合い、練習は行っていない。一、二年生も、両親の実家に帰省する子もいれば、連日部活動に励む子もいる。また、塾の夏期講習が忙しい子もいる。野球やサッカーの合宿に行く子もいる。なので、全員に出席を強要することは出来ない。これは、二年二組にも当然同じことが当てはまる。この事実をいいことに、二年二組でさえ練習日の出席率は軒並み低く、向井は毎回不機嫌だった。

 そんな中、Kは毎回練習に出席した。夏休み前から、Kはクラスで完全に孤立した存在となっており、誰からも遊びに誘われなくなっていた。それに、塾にも部活にも入っていない為、毎日特にやることがなかったこともある。また、ソリストとピアニストは、出来るだけ参加するよう要望があったこともある。その為か、唯香や中北も半分以上は出席していた。Kが練習に参加するモチベーションは、今では夏服姿の唯香を眺めることだけだ。
 しかし、時々出席率の高い日もあった。プール開放日だ。向井は、プール開放日は必ず合唱の練習に充てていた。プールに来た生徒は、練習がサボりにくくなるからだ。この姑息なアイデアは功を奏し、プール開放日だけはクラスの半数程度が練習に参加していた。

 八月に入り、お盆が近付いてくると、殆んどの部活も夏休みに入り、合唱の出席率も少し改善していた。そして、お盆前の最後のプール開放日、Kは前日に珍しく矢野に呼び出され、早めに登校していた。
 合唱の練習が本格化するに連れ、矢野はあからさまにKを避けるようになっていたので、話をすること自体、とても久し振りだ。急な呼び出しに嫌な予感がしなくもないが、仲直り出来るチャンスかもしれないし、心の何処かでまだ矢野を信頼していたのだろう。

 男子更衣室に入ると、既に矢野は来ていた。
「おぅ、悪いな、早くから」
「いいけど……で、話って?」
「ちょっと待って、中北も呼んでるねん。もう来るはずや」
 と話してる最中に、中北がやってきた。
「ごめんごめん、遅くなってもうたわ」
「で、用事って何?」
 Kがそう尋ねると、矢野と中北は顔を合わせ、ニヤリと微笑んだ。

「お前な、石原唯香のこと好きなんやろ?」と矢野が不躾に聞いてきた。
「え、な、何言ってんの、そんなこと……」と否定しようとするが、中北が被せてきた。
「えぇからえぇから、バレバレやって! 大丈夫、誰にも言わへんし、別に冷やかしてるんやないで」
 中北は、矢野と違い、言い方が穏やかだ。
「だとしたら……何?」
 すると、矢野が急に神妙な顔になり、小さな声で話し始めた。
「あのな、今日でプール最後やろ? でもな、先生の手違いでな、昨日から女子更衣室のエアコン工事が始まってるんや。なもんで、昨日から女子は家庭科室で着替えることになってんねん」
 家庭科室は、プールのすぐ近くの校舎の一階の端にあり、普段の授業でも、時々更衣室として利用されていた。

「それが、どうしたの?」
 すると、今度は中北が話を引き継いだ。
「Kには言ってへんかったけどな、俺、千尋と付き合ってんねん」
「うそ? 千尋って尾崎のこと? 中北は石原と付き合ってんのかなって思ってた」
 Kは、予想外な表情を装いながらも、唯香と中北が付き合ってないことを知り、ホッとしていた。

「石原は、特に好きな人おらんって言うとったで。ま、いいわ、それでやな、千尋って石原にソロ奪われたこと、今でも根に持っててな、それに、西浦もそう。覚えてるか? 西浦もソリストに立候補してたやろ? だから、前から二人で唯香に復讐したいって言っとって……」
「復讐? ウソ? あの三人、仲良さそうやのに?」
「そんなもん、見せ掛けに決まってるやん! 女ってそんなもんやって!」
「でも……石原に何するつもり?」
「何もせぇへんよ。ただな……まずは、プールの着替え中に、西浦と尾崎がグルになって、石原の水着とかタオルとか、全部隠す。で、石原を素っ裸の状態にしてな、さり気なくどっちかがカーテンを少し開けてくれるから、俺たちが石原の全裸ヌード、タダで見させてもらうってこと」
「そ、そんな、やめてあげてよ、可哀想じゃん……」
「何やねん、折角誘ったったのに。お前、石原のおっぱい見たくないんか? それに、石原は俺たちに見られてるってこと知らんから、復讐って言っても俺たちが得するだけで、石原が傷付くわけでもないやろ?」
「そうやで、西浦と尾崎がちょっとザマァみろって思うだけの復讐やん。それにお前な、最近孤立しとって可哀想やなぁと思ってな、久し振りに誘ったったのに、付き合ってくれてもええやろ?」
「お前が来なくても、俺たちだけで石原のおっぱい見に行くで。場所は打ち合わせ済みやし、廊下やなくて、校舎の裏側の窓からのぞくから絶対バレへんって」
「乳だけちゃうで、ケツとオメ毛も見れるかもしらんぞ? それに、他の女の裸も見れるかもな? えぇんか? 俺たちだけで見に行っても? お前は見たくないんか?」
「でも……そりゃ、見たいけど、本当にバレない?」
「アホ! 女子が二人も味方におるんやで。こんなチャンスないわ!」
「どうすんねん? 行くか止めるか?」
「……わかった、俺も行く」
「よっしゃ! じゃ、三人で行こうぜ! 石原万歳!」

 Kは葛藤していた。唯香の裸が見れるなんて、夢のような話だ。もちろん見たい。何度も妄想し、思い描いた唯香の裸だ。その胸も尻も、毎日のように夢の中で撫で回し、舐め回した。とは言え、所詮は空想の産物。実際の大きさや形は知る由もない。だからこそ、とても見たい。
 しかし、罪悪感も完全には拭えなかった。もしバレたらどうしよう、という恐怖もあった。それでも、早く見たいという焦燥や興奮を、打ち消すまでには至らない。中二の男子には、ネガティヴな感情より、性的な興味や欲望の方がずっと大きいのだ。

 それに、二人の計画したシナリオは、完璧のように思えた。しかも、中にいる女子にも味方がおり、手引きしてくれる。なので、最も良いタイミングで、最も良い位置から覗けるのだ。確実に、そして効率良く裸が見れる。覗きに関して、これほど完璧な計画はないだろう。
 確かに、矢野と中北の言う通り、バレない限りは唯香が傷付くことはない。当たり前だが、唯香は覗かれていることを知らないのだ。そう、バレなければ何も問題はない……そうなると、どうしても唯香の裸が見たくなってきたKの欲望は、徐々に理性やモラルを食い潰した。いつしか、恐怖や罪悪感は、「スリル」という都合の良い言葉に変換され、ちょっとしたゲーム感覚へとすり替えられていた。
 盲目になったKは、ちょっと考えるだけで気付くはずの矛盾を見落とし、張り巡らされた蜘蛛の糸に向かって、自ら歩み出していることに気付いていなかった。

 プール開放は、学年毎に時間が割り当てられるのだが、この日の二年生のプール開放は、一番目の九時からだ。これも、計画を遂行するのに都合が良かった。朝一の場合、多少早目に着いても入らせてくれるのだ。この特権を利用して、尾崎達は唯香を八時半に誘っていた。既に、K達は校舎裏で待機していた。
 計画通り、八時半過ぎに三人は更衣室に入った。同じように早目に来ている女子も数人いたが、計画には影響なさそうだ。むしろ、ついでにその子達の裸も見ることが出来るかもしれないので、ラッキーと言うべきだろう。
 打ち合わせでは、端から三番目の窓から覗くことになっている。幸い、この窓の前には先客がいない。尾崎と西浦はさり気なくこの位置を陣取り、唯香と共に着替えるのだ。全て予定通り、ここまでは何もかも順調だ。
 計画では、予め西浦と尾崎は制服の中に水着を着用している。つまり、二人は脱ぐだけだ。文字通りここで着替えるのは、唯香だけ。この時間差を利用することになっている。
 そして、予定通り、二人はあっという間に水着姿になったが、唯香はまだ下着だけの状態のようだ。
「えぇ! 二人とも水着着て来たん? ズルい! 言ってよぉ!」と唯香の愛らしい声が窓越し聞こえてきた。Kは、緊張しつつも興奮していた。すぐそこに、壁を一枚隔てただけの所に、下着姿と思しき唯香がいるのだ。すぐにでも見たい衝動を、必死に抑えた。

「あれ? 言ってへんかったっけ? ゴメンなー、ってかさ、早く着替えなよ! 先行っちゃうで」
 と、西浦の声も聞こえた。すると、僅か数秒後に再び唯香の声がした。
「あれ? 私、水着何処に置いたっけ?」
 その時、ほんの数センチ、そっとカーテンが開いた。唯香が真っ裸になった合図だ。

 Kは、いよいよその時が来たのを悟った。予め、話し合いで順番を決めていた。もちろん、誘われただけのKは最後だ。でも、構わない。もう直ぐそこに真っ裸の唯香がいるのだ。
 最初に矢野が覗いた。「どうや? 見えるか?」と、直ぐさま中北が聞く。
「すげぇ、石原の乳、意外とでけぇぞ!」
「まじか! おい、そろそろ代われ!」と中北が言う。
「もうちょっと待てよ、おぉ、毛も見えた!」
「お前、ズルいぞ、早く代われや!」

 中北が本気で怒りそうになったところで、ようやく矢野は中北に譲った。
「どうやった?」とKが聞くと、「丸見えやで、石原のおっぱい」と矢野はニヤリとしながら答えた。
 Kは早く代わって欲しくて、ウズウズしていた。既に、Kはズボンがはち切れんばかりに勃起しており、身を屈めながら待ち侘びていた。それに、唯香の着替えが終わってしまわないか焦っていた。早く見たい。唯香の裸、唯香のお尻、唯香のおっぱい! Kは、もう我慢出来なくなった。
「おい、中北、長いよ!」
「おぉ、悪い悪い、しかし、ほんまにえぇ乳してるわ!」
「だから、代わってくれって!」
「分かった分かった、代わったるわ。安心しろ、まだすっぽんぽんやで」

 いよいよ自分の順番が回ってきたKは、興奮を抑え切れず、股間を押さえながらがっつくようにカーテンの隙間に顔を近付けた。ところが、唯香を見つけられない。すぐ近くにいると思っていたが、そうではなかったようだ。
「あれ? ねぇ、石原達どの辺におる?」
 そう尋ねると、「右の方におるやろ?」と矢野が答えた。なので、もう少し顔を上げて、更衣室の右の方を覗いてみるが、なかなか室内は見辛く、唯香達が確認出来ない。と、その時、もっと奥の方で、裸らしき女子が動いているのが分かった。アレが唯香に違いない。なんであんな遠くに行っちゃったんだ? よく見えないじゃないか? ……そう嘆きながらも、もっと見えるようにとKは更に首を伸ばした。
 その時、突然左端の窓が激しく開いた。

「ちょっと、アンタ、そこでなにしてるん!」
「えっ! K、アンタ覗いてたの?」
「ウソ、最低! ちょっとみんなー、Kが着替え覗いてたよー! 最悪ー!」

「い、いや、ち、違う、何もしてない、あの……」
 その時になって、中北も矢野もいないことに気付いた。しかも、窓を開け騒ぎ立てたのは、尾崎と西浦だ。そして、その傍らには……唯香も冷ややかな目で見ていた。中では、何人かの女子が本当に着替えの最中だったが、唯香達三人はまだ制服のままだ。まだ、着替えなんてしていない。その時になって、Kはようやく気付いた。
 ハメられたのだ。

 全てが計画されていたのだろう。よく考えると、彼氏に唯香の裸を見せても、何の復讐にもならない。そもそも、中北と尾崎が付き合ってるというのも嘘かもしれない。本当だとしても、彼氏に他の女の裸を見せるなんて、あまりにも不自然な行為だ。
 騒ぎを聞き付けて飛んできた向井に、指導室へ連行されてる間、Kは全てを悟ってしまった。もう、何を言っても信じて貰えないだろう。あそこには、最初から矢野も中北もいなかったことになってるだろうし、西浦と尾崎は唯香の親友だ。元々、復讐なんて考えてもいない。唯香の裸を見る計画なんて、最初からどこにもなかったのだ。そんな話、誰も信じるわけがない。そう、全てKの単独行動と考えるしか、論理的な着地点はない。

 Kは、もうそんなことどうでも良かった。矢野には、やはり修復不可能なぐらい嫌われていたのだろう。やり直せるかも? と期待した自分を呪った。
 中北とは、それなりに上手く付き合えていると思っていた。まさかこんな計画に加担するほど嫌われているなんて……Kは、裏切られた気分で虚しく、そして悲しくなった。
 そして、唯香……彼女も最初から計画に参加していたことになる。どうやら、唯香にもそこまで嫌われていたのだ。それに、最後に顔を出した唯香の目が、蔑むような冷ややかな目付きに見え、脳裏にこびり付いて離れない。きっと、とてつもなく下劣で、まるで汚物を見るように、唯香はKを見たのだろう。もう、絶望的だ。

 唯香を含めた五人により、Kは見事に騙されたのだ。しかも、唯香の裸という餌に食い付き、間抜け面で鼻の下を伸ばして、勃起した股間を押さえながら必死に覗こうとするKを、五人は軽蔑しながら嘲笑ったことだろう。Kは、醜態を晒したことが恥ずかしく、バカみたいな計画に騙されたことが情けなく、裏切られたことが悔しかった。
 もう、Kには自然と溢れ出た涙を、拭う気力すら残されていない。あらゆる感情が制御の範囲を超えてしまい、零れ落ちていく。心にポッカリと穴が空いたように、半ば放心状態で、焦点を失った目で虚空をぼんやりと眺めていた。

第11章【小寒・あんなことこんなことあったでしょう】

 年が明けていた。また、新たな一年が始まったのだ。過去に何度も繰り返し、これからも経験を積み重ねるであろう特殊な時期。私は、場違いな環境に部屋着で放り出されたような居心地の悪さを感じながら、年末年始を過ごしていた。どこか落ち着かないのだ。
 とは言うものの、独立開業してからは、年末年始なんて概念も、実生活の中での区切りの様な感情も、ほとんど希薄になっていた。大晦日も元旦も、否応にも受け止めてしまう外的刺激により、いつもと何か違う雰囲気だけは感じ取りつつも、これといって特別視はしなくなったのだ。
 それでも、世間一般においてはやはり特殊な時期であることには違いない。実際、この時期に外回り調律なんてほぼ組めないし、取引業者も軒並み休業中。仕入れも運送もストップするし、顧客にアポ取りの電話掛けなんてしようものなら、クレーム案件に発展する可能性も否めない。そう思うと、やはり年末年始は特別な時節なのだろう。一昔前より、その期間が縮小されてきたことだけでも、前向きに受け止めるべきなのか。

 実際のところ、年末年始には仕事らしい仕事はなかった。なので、備品の在庫チェックや事務ワークをして過ごしていた。やはり、「暇」を「暇」として感じ、享受するだけのゆとりは私にはなかったのだ。直接収入に繋がらなくても、何かしておかないと落ち着かない性分……と言えば少しだけ聞こえは良いかもしれないが、実際は仕事を休みたくないという焦りであり、仕事への渇望でもあった。
 楽器店で正社員で働いていた頃は、毎日のように会社を休みたかったし、もう仕事なんてやりたくない! と思ったものだが、独立すると真逆の考えになるのだから、我ながら勝手なものだ。結局のところ、人間は「ないものねだり」をする生き物なのだ。
 何であれ、空いた時間を埋める為に渋々手を付けた事務ワークだが、やり始めると、確定申告の準備を始め、溜まりに溜まっている伝票の整理や帳簿付けなど、やることはたくさんあった。ただ、元々が苦手で嫌いな分野だ。集中して取り組んだつもりでも、直ぐに息切れしてしまう。息抜きや気分転換と称して、ついつい無駄に時間を過ごしてしまう。いつしか、どちらが息抜きなのか分からないほどに、取り組む時間は逆転している。やはり、それが叶う程度には「暇」なのだ。

 一年を区切ることに抵抗を感じつつ、時折、去年の出来事に思いを馳せてしまう自分もいる。開業以来、ずっと協力的な関係を維持してきた岩木とは、夏の電話での口論以来、疎遠になっていた。お互いの譲れないプライドが衝突した結果だから、やむを得ない部分はある。だが、やはり同業者に敵は作りたくないし、協調し合い、協力し合える仲間は一人でも多いに越したことはない。あそこで自分が一歩引き、相手を立てることが出来たなら……と後悔もした。一方で、根本的に分かり合えない人種だから、どの道こうなったのだろう……と達観する自分もいる。
 いずれにしても、その後のケアも含め、私の最も劣る部分が表出した気がする。良かれと思い仕事をくれた岩木に対し、多少の不手際があったにせよ、あそこまで強硬な攻撃は不要だった。それに、岩木はもう納調はしなくてもいいと言ったのだ。その上で、返金も不要と——。
 私がそこで彼に従っていれば、話は丸く収まったのかもしれない。調律師としてどうなのだろうか? という疑問は残るが、健太の調律依頼を受託する義務も義理も、既になくなっていたのは事実と言える。つまり、依頼主がそれでいいと判断したものを、わざわざ覆したのは私自身なのだ。
 しかし、結果として調律に伺ったからこそ、岩木の本性が垣間見えたのも、これまた事実なのだ。幾ら時期がズレ込んだとは言え、初期設定に疑問が生じるレベルまでに調整が狂うことは考えられない。つまり、それはもう疑問(ヽヽ)ではなく、実際に出荷調整に問題があったのだと断定せざるを得ないだろう。おそらく、そのことは岩木自身も把握していたはず。だからと言って、それを過剰に皮肉った私の責任は重い。口論の原因は私にあるのだ。少なくとも、口火を切ったのは私なのだ。

 いずれにせよ、例え完璧な状態で出荷し、適したタイミングで納調を行っていたとしても、オーバーホールしたばかりのピアノが尋常じゃない狂い方をすることは避けられない。しかも、「完璧な状態での出荷」と「適したタイミングでの納調」という、二つの条件共クリアしていない健太のピアノは、通常とは比較にならない程に狂いやすくなっていたのは必然だ。なので、安定するまでは調律のスパンを縮める必要があった。
 健太のピアノは、本当なら年内に再調整を行うべきだった。夏の訪問時に、そのことはキッチリと伝えたつもりだ。それなのに、十一月の中頃から何度となく案内の連絡をしたにも関わらず、例の如く電話は全く出ないし、メールにも返信がなかった。納調の時と同じ状況に戻ってしまったのだ。
 さすが二回目となると、私もどうでもよくなってきた。その後も何度となく連絡を試みたが、納調の時のようなモチベーションはない。もう義務は果たしたつもりだし、責任を問われることもない。岩木とも険悪な関係になってしまった為、逆に岩木に気を遣う必要もなくなった。そして、そのまま年の瀬を迎え、いつしか年を跨いでいた。同時に、今度こそ、私も諦めることにした。もう、こちらからの連絡はやめようと決めたのだ。

 七月の調律は、結局やるべき調整を全て行ってしまった。今思うと、本当に馬鹿げている。損した気分にしかならない程、全く予算に見合った仕事ではなかったのだが……その時は、健太の要望に応える為には必要だと判断したのだ。この辺りの不要な優しさや甘さも、私の欠点だろう。岩木の言う通り、上手く言葉を交えながら、技術は適当に済ました方が賢明なのかもしれない。要するに、私は頭が固くて融通が利かないということだろう。
 ただ、どんな理由であれ、実際に調整に手を付け始めると止まらなくなるのは、技術者の(さが)だろう。ピアノの音色を揃える為には、先ずはタッチを揃える必要がある。殊更、スタインウェイなどの高品質のピアノほど、些細なタッチの違いが鋭敏に音色の違いへと結び付くのだ。健太のスタインウェイは、実際のところ、そこまで気になるような音色のバラつきは見受けられなかった。しかし、一般人はおろか、プロのピアニストや調律師でさえ気付かないであろう微細なズレを、健太は指摘したのだ。

「弾き難いのは我慢する、音色を揃えて欲しい」
 限られた予算の中で、優先的に直して欲しいことを尋ねると、健太はそう答えたのだ。本当にこの微かな違いを認識しているのか疑ってしまう程、スタインウェイの音色は綺麗に繋がっていた。
 このズレをもっと詰めるとなると、調律もタッチ調整も完璧な状態にしないといけない。その為には、彼が用意した三万円ではとてもやってられない。

 余談になるが、以前イタリアの北部にある小さな街を旅したことがあった。ストラディヴァリウスやグァルネリアスといった、天才的なヴァイオリン製作者を生んだ「クレモナ」という街だ。その時に、ある日本人リュータイオ(ヴァイオリン職人)と話す機会があった。彼は、今までで一番困った依頼は「綺麗な音で良く伸び良く響く楽器が欲しい。ただ、音量は小さくして欲しい」と要望された時だと言った。
 一般的に、よく響く楽器は音量も増し、響きを抑えると音も小さくなる。なので、よく響く状態で音量を抑えるという条件は、自己矛盾しているのだ。
 そのリュータイオは、なるべく顧客の要望に応えるように、試行錯誤を繰り返した。しかし、本能的に湧き上がる良い楽器を作りたい欲には勝てず、鳴らない楽器を追求することに嫌気が差してきたそうだ。結局、彼はよく響き良く鳴る楽器を作製した。良い音の条件の一つに、良く鳴ることも含まれるのだ。なので、音量を抑えるのは楽器の特性に委ねることではなく、演奏技術で補うしかないと結論付けたとのことだ。

 健太の言う「弾き難くてもいい、音色を揃えて欲しい」という条件も、「よく響くけど鳴らないヴァイオリン」と本質的には同じ自己矛盾を内包している。現状のバラついた「弾き難い」タッチのままでは、音色を統一されることは不可能なのだ。
 結局、私は長時間掛けて、タッチ調整を完璧に行った上で音色を可能な限り揃えてみた。そこまでやってやる筋合いはないのだが、技術者としてのプライドに火が点き、後戻り出来なくなったのだ。
 健太は、仕上がったスタインウェイを弾くと、感情を表すことなく一言「ありがとうございます」と述べた。どうやら気に入ってはくれたらしいが、割の合わない作業を「してやった」のに、何とも張り合いのないリアクションだ。しかし、健太の試奏したラフマニノフがとても美しく、やはり音楽的には只者じゃない才能を備えていることは理解出来た。
 もし、この先も定期的に調律の依頼が貰えるのなら、初期投資として、ギリギリ許せると思っていたのだが……結局、年内に連絡が取れることはなく、どうやら一度切りの割の合わない仕事に終わりそうな雲行きになっていた。少なくとも、もう私から連絡することはないだろうし、新年を迎えたのを機に、彼の存在を私の記憶から消去することにした。

第12章【白露・このよにいきるよろこび そしてかなしみのことを】

 矢野悠馬、中北清也を中心に、尾崎千尋と西浦芽衣、そして石原唯香を合わせた五人で計画した夏休みの悪戯は、最後に予想外のトラブルが起き、収拾がつかなくなった。
 始めは、軽くKを揶揄うだけのつもりだった。Kが唯香に好意を寄せているのは誰の目にも明らかで、唯香本人ですら気付いていたぐらいだ。このことを利用しよう……と考えたのかどうかは定かではないが、ちょっとしたドッキリを仕掛けようと言い出したのは、他でもない、唯香自身だったのだ。
 唯香は、Kがクラスで孤立していることを、良くも悪くもずっと気に掛けていた。折角二人でデュオを歌うことになったのに、本当はソリストの練習ぐらいは楽しく和気あいあいと練習に取り組みたかったのに、Kは一向に打ち解けようとしなかった。それどころか、むしろ内に篭ってしまうので、練習の雰囲気が暗くなるのだ。なので、ソリストの自主練習は、気不味いぐらいに重苦しい空気になるとしか思えず、中北に相談し一緒にサボることにしたのだ。
 更に、二組全体の雰囲気を悪くしているのも、Kに責任があるように思っていた。ドヤ顔で自慢気に歌い、時にはピアノを弾き、向井に溺愛され、お手本と讃えられ……そこから生まれた慢心の所為か、Kは明らかにクラスメートを見下すようになっていたのだ。

 もちろん、何よりも向井の指導に問題があったことは確かだ。向井にとっての合唱コンクールの位置付けはあまりにも高過ぎて、クラスの雰囲気は徐々に歪な空気に侵食されていった。女王による絶対王政の元、服従する一般庶民達。その間に、Kという女王に溺愛された高級官僚がいるような感じだ。
 やがて、合唱とは関係ないことでも、向井が寵愛するKには何も言ってはいけないという、暗黙の圧力が掛けられるようになった。そう、もしKに口答えすると、故意か偶然か判別出来ないギリギリの状況で、合唱の練習で向井に辛酸を舐めさせられたのだ。もし故意だとすれば、軽い報復に他ならない。そして、大半の生徒はそう受け止めていた。なので、誰もが腫れ物を触るかのようにKと接し、やがて、関わらないようになったのだ。そう、Kを嫌ったのではなく、Kに怯えたのだ。
 しかし、Kは自分が嫌われてると思い込むようになり、余計に鬱ぎ込むようになった。人付き合いもなくなり、クラスから孤立した。練習以外で、Kの居場所はなくなったのだ。

 唯香は、Kの為というより、クラス全体の雰囲気を改善する為に、Kにドッキリを仕掛けようと言い出した。仕掛ける方も仕掛けられる方も、最後に皆で笑い合えればと思ったのだ。なので、最初は中北と二人で他愛のないドッキリ……「ちょっとだけ驚かす」という程度で考える予定だった。それが、どうせならと他の三人も誘って、皆んなで計画を練る内に次々と色んなアイデアが浮かんでは暴走を始め、凝りに凝ったドッキリのシナリオが出来てしまったのだ。
 そもそも、時にブレーキを失う中学生のノリと勢いは、暴走や脱線もどこ吹く風——いつしか、完全に冷静な判断を失ってしまい、明らかにやり過ぎな内容にまで突き進んでいても、全員がその場のノリに流され盲目になっていたのだ。
 五人の計画では、最後に矢野と中北が女子の制服を着用して「いやん、K君に覗かれちゃったぁ」と登場する予定だった。そこでネタばらしして、みんなで笑って、それを機に打ち解け合えれば……と思ったのだ。Kに明るさを取り戻して欲しかったし、また皆が仲良くなれば、クラス全体の雰囲気も良くなるはず……そう考えたのだ。
 少しでも冷静になれる人が一人でもいれば、やり過ぎな計画であることに気付いたかもしれないが、生憎、五人は制御を失ったまま突き進んでしまった。
 唯香同様にKを心配していた矢野と中北は、率先して恥ずかしい役を引き受けたし、中北のおかげで仲直りしていた尾崎と西浦も、積極的に協力を申し出てくれた。皆、K次第でクラスがまとまると考えていたし、Kにも変わって欲しかったのだ。向井はともかく、Kの態度次第では、合唱コンクールもそれなりに楽しく取組めるだろうという思いは、全員が一致していた。

 計画は、想像以上に上手く行っていた。だが、明らかな過剰演出には、実際にシナリオ通りに動き出しても気付けなかった。恋愛経験すらないKに、女子の裸を覗かせるというドッキリは、あまりにもリスキーだ。もっと早い段階で切り上げるべきだったのに、修正も中断も出来ないままに事は進み、最後の最後に予想外の事態が発生したのだ。
 唯香達三人のあまりにもリアルな演技に、たまたま更衣室に居合わせた他のクラスの女子が、泣きながら部屋を飛び出したのだ。しかも、三人はそのことに気付かなかった。すると、事もあろうか向井がすぐ近くを歩いており、異変に気付いたのだ。
 更衣室に来るなり、向井は金切り声を上げて怒鳴り散らした。向井は、Kのいる校舎裏に回り込み、それまでの贔屓が嘘のようにKを罵り、叱りつけた。過度のフェミニストでもある向井にとって、女子更衣室の覗き行為は許されない犯罪(ヽヽ)なのだ。
 向井のあまりもの剣幕に女子達はつい黙り込んでしまい、恐怖心から正直に打ち明ける間合いを掴めなくなり、被害者で通すしかなくなった。女性用のセーラー服を着て隠れていた矢野と中北も、流石にその格好で向井の前に出ることは出来なかった。火に油を注ぐようなものだ。結果、説明するタイミングを逃してしまい、Kの単独行動による犯罪が出来上がってしまったのだ。
 向井に連れられ、指導室へと歩いていくKを見送った五人は、複雑な面持ちで対策を考えた。勿論、正直に話さなければと思った。しかし、五人で指導室に向かったはいいが、向井は我を失ったかのような癇癪を起こし、正に鬼の形相でKを叱り付けており、五人はその剣幕に圧倒されてしまい黙してしまった。Kは、下を向いたままボソボソと「すみません」と繰り返しいた。
 それでも、五人は何とか勇気を出して振り絞り、意を決して向井に説明しようとした。しかし、向井は生徒達の主張に全く聞く耳を傾けようとしないのだ。それどころか、嘘をついてKを庇おうとしてると受け取られ、逆に厳しく叱責された。そして、Kは女子達に土下座させられた。これだと、Kに謝らせる為に来たようなもの、まさに本末転倒だ。
「覗きをしてごめんなさい。嫌な思いをさせてしまい、ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で、Kは皆んなの意図も分からないままに土下座で謝罪をし続けた。

「そんな謝り方で許してもらえると思ってるの! あなた、本当に反省してるの!」と怒鳴りつける向井に、女子達は「違います、K君を騙しただけです」「私達が悪いのです」「ちょっとした悪戯のつもりで……」と抵抗してみた。
 しかし、向井には逆効果でしかない。ろくに生徒の話なんて聞こうともせず、「同級生だからって、そんな見え透いた嘘で庇ってはいけません! 彼のやったことは、卑劣な犯罪です! あなた達も女性なんだから、男のこういう行為には毅然と立ち向かいなさい!」と言い返される始末。挙句、五人はKに謝ることも説明することも出来ないまま部屋を追い出され、途方に暮れるしかなかった。

 その日の練習はもちろん、お盆休みが明けてからもKは練習に参加しなくなった。向井は、気にする素振りは見せず、淡々とK抜きで練習を続けた。
 しかし、二学期が始まってもKは登校しなかった。心配した矢野と中北は、何度かKの自宅を訪れたが、どうやら部屋に閉じこもり、内側から鍵を掛け、全く出てくることもないらしい。ドア越しに話し掛けても返事がなく、両親でさえ何日も顔を見ていないそうだ。Kの母親から、何か事情は知らないかと探りを入れられたが、二人は大人には本当のことを話せなかった。恐怖なのか保身なのか、自分達にもよく分からなかった。
 それからも、何度かKに会おうとトライした。時には、唯香達も同行したが、Kは部屋から出てくることはなかった。手紙も書いてみたが、本人が受取りを拒否したそうで、申し訳なさそうに母親から未開封のまま返された。
 それでも、何とかして謝りたいし説明もしたかった五人だが、会うどころか話すことさえ拒否する頑な態度に打つ手をなくし、次第に諦めにも似た境地へ辿り着いた。やがて、もう取り返しがつかないのかも……と考えるようになっていった。実際、中学二年生の彼等には、もうそれ以上のことは、出来ることも考えることも残されていなかったのだ。

第13章【立春・おんもへでたいとまっている】

 二月上旬のことだ。暦の上では春の訪れを告げる立春を過ぎたとは言え、現実にはまだまだ寒さの厳しい真冬のその日。那古野では、数十年振りとも言われる程の記録的な大雪が降り、一晩で積雪は20cmに達した。これは、雪国からすると何てことのない降雪量だろうが、滅多に雪の降らない地域では都市機能が麻痺するレベルなのだ。
 この日は、訪問予定の客から朝一で電話があり、仕事をキャンセルされた。その客は、ピアノを三台も所有しているレスナーだ。なので、予定では丸一日掛けて、三台のメンテナンスを行う予定だった。逆に言えば、その日の予定は一件だけだったのだ。
 つまり、その方にキャンセルされると、丸一日仕事がなくなることになる。それだけは避けたい私は、スタッドレスを履いているし、それ程距離も遠くないので大丈夫、と説得を試みたが、どうやらその客のご主人も仕事が休みになり、終日自宅に居るので来て欲しくないというのが本当の理由のようだ。
 結局、私は客の身勝手な理由に対する怒りを飲み込み、自宅で悶々と過ごす羽目になった。もっとも、幼少から数回ほど居住地の変わった私ではあるが、雪国に住んだことは一度もなく、雪の積もった道路の運転は正直なところ不安も大きかった。なので、キャンセルされてホッとした思いも少しだけあった。
 それよりも、そもそも、何故ご主人が在宅している時には調律が出来ないのか、という点が意味不明だった。しかも、旅館やレストランなどと違い、調律はキャンセル料も発生しないのだ。ドタキャンは、そのまま空白になり、見込んでいた売上も消え、虚しさだけが残るのだ。私もこんな天候の中を運転することに躊躇いはあったとは言え、やはり相手からキャンセルされたことは腹立たしく思ってしまう。何とも身勝手な感情なのだろうが。
 さて、今日一日、何をして過ごそうか——。
 そう考えていた矢先、突然携帯電話のメール着信音が鳴った。開いてみると、差出人は川口健太だった。待受画面に表示された彼の名前を見て、「今更何だろう?」という疑問と同時に、怒りに似た感情も湧き上がった。ただでさえ、苛ついていた私だ。そのまま削除しようかとも思ったが、辛うじて僅かに残されていた冷静な判断力により、文面だけは目を通すことにした。

「また狂ってきたので調律してください。今度は二万円しかありません。大丈夫ですか?」

 年末に調律の案内をメールした時に散々無視しておきながら、数ヶ月経って平然と依頼してくる無神経なところは、事情を知っていても腹立たしいものだ。それに、相変わらず予算も一方的に決めてくる。その学習能力の低さにも苛立ちが起きる。確かに、今回はタッチ調整は微調整で済むかもしれない。そこまで乱れているとは思えないが、調律はかなり狂っているだろう。
 実際のところ、急激に半音近くもピッチを上げたピアノは、せいぜい三ヶ月ぐらいしか保持出来ないことは調律師にとっては常識なのだ。抗い様のない物理現象に従い、直ぐにピッチは低下する。健太のピアノも、おそらく、既に4~5Hzは落ちていると想定される為、今回も二回取り調律が必要になる。そうなると、二万円だと……と思いつつも、あのスタインウェイはもう一度見ておきたかったのも事実だ。
 健太に会うことも、九割以上の嫌気と共に、不思議と若干の楽しみもあった。普段は、もうあんなヤツには会いたくもないと思っているのに、実際に再会するとなると不思議と期待してしまうのだ。もっとも、何に期待をしているのか、私自身でさえ理解していないのだが。
 結局は、やむを得ず、という体裁を保ちながらも、私は健太の申し出を受託することにし、調律日時を打ち合わせた。
 しかし、予定日の前日になると、健太からメールが届いた。納調時のドタキャンの記憶がフラッシュバックした。またキャンセルするつもりか? と訝しく思ったが、メールを開封してみると意外な話が拙い長文で綴られており、少し戸惑ったものだ。

「篠田さんにこんなことお願いしていいのかずっと悩んでいましたが、思い切って相談させて頂こうと思います。ご存知だと思いますが、僕は十年ぐらいずっと引きこもっています。この間に、家族以外で直接会ったのは、篠田さんだけです。最初は会うのが怖くて(今も怖いです)なかなか踏ん切りが付かず、キャンセルしたり迷惑掛けてしまいました。本当にごめんなさい。でも、篠田さんに会ってみて、僕のことを変な目で見ずに普通に接してくれて、すごく嬉しかったです。篠田さんなら信頼出来ると思いました。あと、篠田さんの作ったピアノの音もタッチも、すごく好きです。岩木さんも良い人と思いましたが、あのスタインウェイは完璧な状態で届けると言ってたのに、届いた時からおかしな音をしていました。メールで音が変と言ったら、篠田さんに言ってくれ、と言われ、何もしてくれませんでした。さて、篠田さんに相談なのですが、僕は今からでも可能性があるなら音大に行きたいと思っています。歌が好きで本格的に勉強したいのです。でも、何からどういう勉強したら良いのか分かりません。なので、発声の指導とか音大受験の勉強を見て下さる方を紹介して頂けないでしょうか? 直ぐにじゃなくても構いません。僕は、本気で取り組むつもりです。その為なら、家から出る覚悟も出来ています。なので、もしそういう方がいれば、紹介してくれないでしょうか? 他にお願い出来る人もいません。ご迷惑でなければ、また明日頑張って説明させて頂きたいと思います。よろしくお願いします」

 私は、「とりあえず明日話しましょう」とだけ返信した。健太の本気具合も分からないし、本気だとしても、好きで入れる程音大は甘くない。確か、健太は二十四歳か二十五歳のはず。まさか一年で音大に入れるとは思えないが、上手く行ったとしても卒業時には三十歳を超えているだろう。
 さて、もしそこまで順調に行けたとして、その後はどうするつもりなのだろうか? そもそも、そこまで考えているのだろうか?
 もちろん、それ以前の問題も大きな壁になるだろう。長年引き籠もっていた健太は、明らかに社会性が欠如している。言葉遣いや態度、常識やマナーなど、一般的には十代の間に自然と身に付くものが、健太には何も付いていない。
 もっと言えば、見た目もマイナスだ。マスクの着用や無様な髪型など、服装や身なりの問題も改善すべきだが、それよりも誤魔化しようのない姿勢や目付き、手癖、挙動などは致命的だ。優れたビジュアルは必要ないにしろ、人に不審や不安、不快を与えるような外見では、音楽家なんてなれるわけない。

 そういったこと全てを解決出来たとして……私には、一人だけ紹介出来る先生が思い浮かんだ。広田正信という七十代後半の大御所だが、様々な音大や芸大に太いパイプを持つ、東海地方を代表する音楽家だ。
 広田は、声楽家と同時に指揮者でもあり、作曲家、ピアニストでもある。また、地質学や物理学、天文学にも精通しており、環境運動にも取り組み、英語、イタリア語、ドイツ語を話す超絶なまでの天才肌の人物だ。もちろん、ピアノや声楽の指導は卓越しており、プロ、アマ問わず、全国から指導希望者が集っている有名人だ。
 ただ、名教授に有りがちな話だが、広田もまた気難しい人物でもある。正義感が非常に強く、不正や不義理を毛嫌いする人だ。でも、普段はおおらかで優しい人物でもあり、冗談好きの楽しい酒飲みでもある。ウマが合うと、徹底的に面倒を見る親分肌だが、その反動なのか、もし逆鱗に触れるような不義理を働くと地獄を見るだろう。
 私は、何故かピアノの調整を気に入ってもらうことが出来、そこから良好な関係を築くことになり、今ではことある毎に自宅に呼びつけられたり呑みに連れ出されたり、良くも悪くも親戚のように可愛がってもらっていた。なので、私の紹介という前提ではあるが、健太が本当に覚悟を決めて取り組むのなら、その熱意は広田には伝わるはずだと思っていた。

 翌日、予定通り私は健太の自宅を訪問した。健太は、今回はすんなりと入室させてくれ、普通に挨拶を交わした。多分、無理しているのだろうが、前回ほど余所余所しい態度にはなってなかった。少なくとも、本気で変わろうとしている意気込みは何となくだが伝わった。
 ピアノのコンディションは、想定と遠くない所にあった。やはり、少し音色の繋がりに不自然な所があり、健太は見事にその部分を指摘した。なるほど、音楽的な聴力は人並み外れている。ごく僅かな差異を完璧に見抜き、直ると納得する。大多数のピアニストは、そのビフォーとアフターの違いに気付かないだろう。それぐらい小さなズレを、健太は的確に指摘するのだ。

 作業を終えると、健太と本格的に話し合うことになった。こちらは、どの程度本気なのか探りたかったのだが、幸い、健太も如何に本気なのかアピールしたかったようだ。そして、辿々しくも熱弁をふるい、熱く夢を語った。とても現実的ではない幼稚な面もあることは否めないが、少なくとも、本気で音楽を学びたいことは伝わった。
 そこで、私は確認した。それが、私なりの最終テストのつもりだった。

「一人、紹介出来る先生がいます。指導者としての実績は申し分ないでしょうし、高齢ですが、未だにプロの声楽家が指導を仰ぎにくるような方です。ただ、とても厳しくて、月謝も高いです。一分でも遅刻すると追い返されるし、ちょっとでも失礼な態度を取ると、即破門になります。まず、そこまでは覚悟出来ていますか?」
 そう尋ねると、健太は「頑張ります」と返事した。
「あのさ……そこは、頑張ります、じゃないでしょ?」
「す、すみません……あのぉ、本気で取り組みます」
「まぁいいや。来週中にでも面談して貰えるようにお願いしてみます。確約は出来ないけど、君の熱意を信用して、私も真剣に頭を下げて頼み込んでみます。その前に……あまり過去のことを蒸し返したくはないけど、君はもう二回も私に不義理を働いてます。三回目は絶対になしですよ? その先生は、一回の不義理で即アウトですからね。本当に覚悟はできてますか?」
「はい、覚悟を決めて真剣に取り組みます。もう二度とご迷惑を掛けないようにします。勿論、先生に対してもです」
「分かりました。信じましょう。でも、幾つか条件があります。先ず、その身だしなみは絶対に許されません。声楽家を目指すのなら、移動中はともかく、先生の前では必ずマスクを外してください。服装も、スーツまでは必要ないですが、それなりに小ざっぱりした服を用意してください。それと、その髪型は非常識です。顔を隠したいのなら、音楽家なんて諦めてください。特に声楽の指導は、発声時の顔の形も重要なチェックポイントです。髪の毛はザックリと切ってください。面談の日はいつになるか分かりません。なので、今日か明日にでも散髪してください。後は、先生と話をする際は、必ず先生の目を見てください。特に、先生が何か話をされる時は、ちゃんと目を見て聞いてください。それが紹介する条件です。約束出来ますか?」

 健太は、目を涙で潤わせながら、しっかりと私の目を見て、「分かりました。約束します」と誓った。私は、健太を信じた。ここまで散々な目に遭わされたが、彼も必死に飛び立とうともがき苦しんでいたのだ。
 健太の過去に、どれ程辛いことがあったのか私は知らない。でも、誰にでも、健太ほどではないのかもしれないにせよ、辛い過去はあるだろう。その時の様々な条件次第では、誰でも引き籠もりになった可能性もあるのだ。
 しかし、殆んどの人は、その時にいた周囲の人間や環境に支えられ、乗り越えてきたのだろう。或いは、時間が解決を導いたのかもしれない。かく言う私も、それは同じだ。知らず知らずのうちに、誰かに、又は、何かに助けてもらいながら、生きてきたのだ。
 そして、今の健太の傍には、私と音楽しかない。これも何かの縁かもしれない。多少の非常識な振舞いは、大目に見てあげないといけない。そう、彼が引き籠っている(かご)の扉は、とっくに開いていたのだ。後は、健太自身が自分の意思で飛び立つだけ……その手助けぐらい、なんてことはないではないか。
 いよいよ、健太が飛び立とうと、羽を羽ばたかせている。

第14章【秋分・ぼっちゃんいっしょにあそびましょう】

 コンクールまで、あと一ヶ月半しか残されていない九月の中旬頃、二年二組は完全に空中分解していた。例の事件の当事者五人以外にとっては、理由も原因も分からないままに、突然Kが学校に来なくなったのだ。五人は完璧に箝口令(かんこうれい)を遵守した。自分達の保身だけなら口が滑ったかもしれないが、何より、誤った情報が流れることにより、Kの名誉が傷付くことを恐れたのだ。他の生徒にとっては、先生からの説明もなく、理解も追いつかないままに日常は過ぎていた。
 しかし、あれほどクラスメイトからウザったく思われていたKではあるが、いなくなると練習が完全に滞ることが判明した。まがいなりにも練習の体裁が保たれていたのは、Kの存在が大きかったようだ。今となっては、生徒達は誰一人としてやる気がない。向井が一人でギャーギャーと当り散らすだけの練習は、生徒達にとっては無為に時の経過を待つだけの苦行と化し、完全に練習は行き詰まっていた。
 このままKが登校しなかったら、誰がソロを歌うのだろう? 中北が歌うとしたら、誰がピアノを弾くのだろう? 向井は、一体何を考えているのだろう? このままでは崩壊するに違いない……そう危惧していた唯香と中北は、思い切って向井と話すことにした。別に合唱をやりたいわけではないが、暗く澱んでしまったクラスの雰囲気を何とか変えたいと思ったのだ。

「先生、このままだと合唱コンクールにはとても間に合わないと思います」
 三人の面談で、そう中北が口火を切ると、向井は見るからに目が吊りあがり、ワナワナと震えるかのように怒りを露わにした。今、目の前で対峙しているのが、自分が担任をしている生徒であることを忘れてしまったかのようだ。
「そうよ、とても間に合わない……誰の所為でしょうね。K君も来ないから、ボイコットしようかなって考えてたの」
 向井のこの発言には、唯香は呆れ果てた。そして、直ぐに怒りと悲しみが込み上げ来た。とても容認出来ない発言に、「酷い……」とつい口に出してしまった。この言葉を、向井は聞き逃さなかった。
「酷いってどういうこと? 私はやることやってきたでしょ? まぁ、ボイコットは言い過ぎたかしらね。それは謝るわ。勿論コンクールは出ないといけません。何としても出ます。男性ソロは中北君、歌いたかったんだよね? 嫌なら、誰でもいいし、何なら適当に二〜三人選んで一緒に歌わせてもいい。中北君がソロ歌うなら、ピアノは私が弾けばいい。指揮は……そうね、尾崎さんか西浦さんでいいんじゃない? 二人ともピアノもソロもやりたがってただけのことはあって、音楽センスは申し分ないものね。残ってるメンバーでは適材よ? どちらかにやらせればいいわ。ま、最悪、何とでもなるの」
「そんな……今までの練習は何だったのですか?」
「仕方ないでしょ? あなた達がやりたがらないのだし、K君も今頃になって登校拒否、じゃあ、他にどうしろって?」
「先生、メチャクチャです。伴奏もソロも、やりたい子がやるべきなのに、先生が掻き乱してるんです。指揮も、やりたい子がいるかもしれないし、絶対やりたくないって子もいます。芽衣も千尋もやりたいのは伴奏かソロで、指揮やりたいなんて言ってないのに、どうして先生が勝手に決めるのですか? 中北君のソロも、ダメ出ししたの先生じゃないですか。誰だってやりたいことを取り上げられたら、やる気なんて無くします。嫌なこと押し付けられても、やる気なんか起きません。それに、上手く歌えなくてもいいじゃないですか。綺麗に発声出来ないことは、そんなに怒られることなんですか。みんなのやる気をなくしてるのは、先生です」
 泣きながら、そう唯香は訴えた。すると、向井はまた目が吊り上がり、頬を紅潮させた。噴火寸前の火山のようだ。
「石原さん、あなた自分で何を言ってるか分かってるの? 何よ、偉そうに。合唱に限らずね、団体での取り組みってのはね、適材適所に上手く配置しないと、みんなが好き勝手にやってたらそれこそ崩壊するの! 野球だってそうでしょ? 皆んながピッチャーをやるって言い張ったらどうするの? サッカーで、誰もキーパーやりたがらなかったらどうするの? 皆んなの希望も大切かもしれないけど、チームとして最大の力を出せるように、個々の向き不向きとか能力の見極めも大切でしょ? そうやって全体を見渡して、最終的には監督とか指導者がメンバーを適材適所に嵌め込まないと、チームは成り立たないの」
 辛うじて怒りを抑え込みつつも、見下すように、そして、諭すように、向井は唯香に説明した。有無を言わせない結論ありきの断定口調に、唯香は咄嗟に反論出来ずに黙り込んでしまった。
 しかし、その時、中北が口を挟んだ。
「適材適所って、監督とか指導者にも当てはまりませんか? 誰も先生に付いて来てません。それに、歌えない子、歌いたくない子に、皆んなの前で無理矢理一人ずつ歌わせるのが、適材適所なんですか?」
 すると、向井は更に顔が真っ赤になった。爆発寸前の火山は、ついに水蒸気が漏れ出した感じだ。もう、いつ大爆発が起きてもおかしくない。

「あなた達、何が言いたいの? 先生がダメだって言うなら、あなた達だけでやってみたらどうなの? 出来るつもり?」
 向井は、とても教員とは思えない喧嘩腰のセリフを吐き捨て、二人を挑発した。しかし、二人は全く動じなかった。
「やっていいなら、私達だけでやります」
「俺と石原が仕切ります。その代わり、先生は何もしないで下さい」
 二人のあまりにも毅然とした態度に、言い負かしたつもりだった向井は何も言い返せなくなった。
「分かったわ、勝手にやってごらんなさい。生徒達だけでってのもコンセプトとしてはいいでしょうね。結果はどうでもいいから、本番にはきちんと仕上げること。分かったわね?」
 二人は顔を見合わせ、無言で頷き合い、向井に約束した。

 その日のホームルームの時間、始業ベルが鳴っても向井は教室に来なかった。代わりに教壇に上がったのは、中北と唯香だ。合唱の練習を迎え、沈み切っていた皆んなの表情が少し明るくなった。イレギュラーな出来事が起きそうな雰囲気を敏感に感じ取り、ややざわつき始めたクラスメイトを前に、中北がみんなに向けて話を始めた。

「皆さん、ちょっと聞いてください。僕と石原さんから話があります。コンクールまで、あと一ヶ月半しかありません。それまでにK君が登校してくれるのか、分かりません。それに、多分、殆んどの人は合唱なんかやりたくないと思います。実は、今日、石原さんと僕は、向井先生と話し合いをしました。そして、先生抜きでコンクールに出ることになりました。今日から、僕と石原さんが練習を仕切ることになりましたので、よろしくお願いします」
 中北がそう言うと、意外なことにクラス中から大きな拍手が起きた。どうやら、暖かく迎えられたようだ。
「五月からずっと練習してきましたが、今更ですが、一度リセットしたいと思います」
 今度は、唯香が話し始めた。
「中北君と二人で話し合いました。K君が担当していた男子のソロは、元々立候補していた中北君に歌って貰おうと思います。でも、もしK君がまた登校してくれるようになったら、K君が歌います。中北君に交代するのではなく、中北君は代理です。皆さん、よろしいでしょうか?」
 すると、クラス中から再び拍手が起こり、「賛成!」の掛け声も飛んできた。と同時に、「じゃあ、ピアノはどうすんねん?」って声も上がった。
「ピアノは、尾崎さんか西浦さんに弾いて貰いたいと思います。そして、二人のうち、ピアノじゃない方には、女子のソロをお願いしたいと思います。皆さん、どう思いますか?」
 唯香がそう話すと、皆から賛成の声が聞こえた。
 しかし、「私、今からじゃ間に合えへんかも……」と、当の尾崎千尋が不安そうに発言した。西浦芽衣も、心配そうな表情で唯香を見つめている。
「でも、二人ともピアノかソロ、やりたかったんでしょ? 別に、失敗しても本番で間違えてもええやん。お願い、二人ともやってよ!」唯香がそう言うと、クラスのみんなも拍手で後押しした。「そうやで、別に間違えてもえぇって!」「まだ一ヶ月半もあるやん! 二人やったら出来るって!」と皆が励ました。

「じゃ、女子のソロとピアノは二人で決定にしましょう。どっちがどっちをやるかは二人で決めてもらうということで……実は、もう一つ、ちょっとアイデアがありまして……」と今度は中北が話し出した。
「矢野君に指揮をやって貰おうかなって……ダメかな?」
 突然話を振られた矢野は驚き、慌てて拒否した。
「何言ってんねん! 俺に指揮なんか出来るわけないやろが!」照れながらも断る矢野に、中北は言った。
「あのな、俺とお前の仲なんでハッキリ言わせてもらうわ。お前、リズム感全然ないやん。まともに指揮出来るなんて思ってへんよ。でも、それを逆手にとってやな、まだ何するか決めてへんけど、違うことやりたいねん。どうせ、歌ってても楽しくないやんな? だから、お笑いを取り入れたらどうかなって石原と考えてんねん」
「どういうことやねん?」
「例えばやけど、まず、お前がしかめっ面で登壇するやろ。んで、客席に一礼して、さぁ演奏始めようとしてピアノに合図出すけど、ピアニストにシカトされる。大袈裟に怒ったり戸惑ったりする振りして、やり直しても無視されて、何やってんだって殴り掛かる振りした途端、その身振りに合わせて音楽が始まって……って、まだそこまでしか考えてへんけど、そういうコント仕立てでやるんやったら、お前が一番指揮者に合ってるんちゃうかなって思ってん」
「ちょ、ちょっと何やねそれ、おもろいけど、そんなにふざけてもえぇんか?」
「えぇよ。責任は俺が取るから。だから、皆んなも聞いて欲しいんやけど、指揮だけコメディみたいなことしながら、皆んなは真面目に歌うってスタイルでやってみたらどうかなって……」
 そう説明すると、「それ、めっちゃおもろそうやん!」「おぉ、矢野には向いてるな!」「俺も笑いの方で何かやりたい!」「そんな、男子だけズルイよ、私も何かやりたい!」など、皆に好意的に受け止められた。
「何かお揃いの衣装作ろうよ」「皆んなでベレー帽被りたい!」「シュール系の笑いにしたいな」「指揮棒で色々ボケれそう!」……中学二年生の柔軟な感性は、次々とアイデアを捻出し、クラス全員で盛り上がった。
 この日の練習は、そういった感じの話し合いだけに終始したが、皆で意見を出し合い、和気あいあいと楽しい時間を過ごした。合唱コンクールの練習が始まってから、初めてクラスが一つになった感じだ。その根底には、やはり楽しさがあった。そう、忘れていたけど、本来は音楽って楽しいはずなんだ……唯香は、そんなことを思い出していた。そして、Kは戻ってきてくれるのか、それだけが少し気掛かりだった。

 廊下から、そっと教室の様子を覗きに来た向井は、皆の楽しそうな表情と積極的な取組みに愕然とした。全員が団結し、意見を出し合い、協力して創り上げようとしている。自分の指導を省みて、悔しさと情けなさが絡み合いながら絶望の淵へと堕ちていた。このクラスの担任になって、教え子達のこんなに生き生きとした明るい表情を見たのは初めてだったのだ。
 教師失格ね……向井は、自分自身にその言葉を投げ掛けた。そう、私は適材じゃないし、ここは適所でもない……ぼんやりと朧げながらも、そんな考えが向井の脳裏の片隅にポツンと生まれた。
 教師失格……指導者としても失格……。だったら私の存在価値は何? 向井は自分に問い掛けてみるが、答は導き出せなかった。
 やがて、その思考の塊は、少しずつ巨大化していき、向井の心身を徹底的に蝕んでいった。

第15章【雨水・すがたやさしくいろうつくしく】

 川口健太に指導者の紹介を頼まれてから、ほんの数日後のことだ。メールで相談を受けた時から、お願いするならこの先生しかいない、と思っていた広田正信に、私は電話を掛けてみた。少し緊張しつつも、相談したいことがある旨を告げてみると、今すぐうちに来い! と呼び付けられた。もっとも、おそらくそうなるだろうと予想していたので、その後の予定は空けていたのだが。

「実は、ご都合が宜しければ、先生に会って頂きたい人がいまして……」
 広田の自宅に上げてもらうと、挨拶もそこそこに本題を切り出してみた。誰よりも礼儀やしきたりを重んじる広田だが、ある程度親交が深まると、逆によそよそしい紋切型の表現による上っ面だけの挨拶を嫌う人だ。それよりは、広田に対しては遠慮なく本音を語る方が好転することを、私は知っていた。目論見通り、先生はいつも通りに豪快に笑い、内容もろくに確認せずに快諾してくれた。
「僕に都合なんてない。いつでも連れてきなさい。でも、僕に会いたいって、そいつは頭大丈夫なのか? ハッハッハッ……」
 その楽天的な対応は嬉しいのだが、川口健太の為人(ひととなり)は知っておいて貰わないといけない。でないと、後になって「こんなヤツ、連れてくるんじゃない!」と怒られそうだ。
「実は、その人にはちょっと問題がありまして……」
「人間には、誰にも問題があるんだ。問題のない人間こそ、一番問題なぐらいにな」
「その通りだと思いますが……えぇと、彼は声楽で音大に行きたいと言ってるんです。ピアノは弾けますが、声楽の勉強をしたことがなくて、本格的に学びたいと相談されまして……」
 そう説明すると、広田は明らかに不機嫌になった。広田には、音楽家になった門下生が沢山いる反面、音楽家を目指すことには必ず猛反対するのだ。
「馬鹿者が! 音楽家になんかなるもんじゃない! そんな暇があったら、もっと他の勉強しなさい。音楽なんか、誰でも出来るんだ」
 この回答も、私には予想通りだった。広田は、口癖のように「音楽は音楽しか出来ない馬鹿がやるもの」と日頃から言っているのだ。本格的に音楽をやりたければ、むしろ社会的地位と収入を獲得し、趣味でやりなさいと。僕のような、他に出来ることがない音楽馬鹿以外は、音大には行くべきでない……広田は、事あるごとにそう口にしていた。なので、私も次の言葉を準備していた。

「彼は、音楽馬鹿かどうか分かりませんが、大馬鹿野郎には違いありません。本当に音楽ぐらいしか出来ません。今二十四歳なのですが、もう十年ぐらい家から一歩も出たことがない引き籠もりです。その間、家族以外では私しか会ったことがないそうです」
 そう言うと、流石の広田も少し驚いた。ただし、予想外の驚き方だったのだが。
「彼ってことは男か? 二十歳前後の十年間、誰とも会ってないってことか? セックスはどうしてたんだ? もしかして童貞なのか? ずっとオナニーか? それはなかなかの変態だな」
「そういう話はしたことありませんが、中学二年生の途中から、一度も外出したことはないそうです」
「若いうちにセックスしない男は、ろくな人間にならん! 僕なんて、常に二、三人は彼女がいて毎日のようにしてたぞ」
「先生は特別です。彼の場合、とにかくずっと家に引き籠もっていたので、外に出るのも人と会うのも怖いそうです。でも、もういい加減、そんな生活はやめにしたいようで、今から何が出来るかって考えたら、歌しかないって思ったようです」

 広田は、まるで宇宙語でも聞いてるかのように、ポカンとしていた。理解の範疇を超えているのだろう。引き籠もりどころか、無職という肩書きすら信じられない広田にとって、そういう人生が実際にあるなんて想像も出来ないのかもしれない。また、そんなヤツが簡単に声楽家になりたいと考えていることにも、腹立たしさを通り越して呆れ果てているのかもしれない。
「篠田君、君はそいつの歌を聞いたのか?」
「いえ、でもピアノは聞きました。耳はかなり良いと思います」
「僕に会ってどうしたいんだ?」
「差し当たっての目標は、音大入学です。声楽家になりたいそうで、その為の勉強を学びたいと言っています。なので、先生が宜しければ、見て頂きたいと思っています。もちろん、会ってみてコイツはダメだと思えば、私から伝えますので断ってください。とにかく、一度だけでも会って頂ければと思っています」
「あぁ、そうだな、会うのは構わんよ。一つ聞いていいかな? 何故、君はそんなヤツの為に動くんだ?」
 そう聞かれて、ハッとした。そう言えば、何故私は健太を助けようとしているのだろうか?
 納調をキャンセルされ、その後の連絡はずっと無視され、忘れた頃に謝罪もなく不躾なメールを送ってきた。会ってみて、会話も弾まないし、ろくに目も合わさない。言葉遣いも失礼だし、常識がない。見た目も正直気持ち悪いし、彼の為に何かしても、私には何のリターンはない。

「分かりません。彼の要望を断る理由なら幾らでも思い付くのですが……何で彼の為に動くのか、自分でも分かりません。ただ、一つ思い当たるとすれば、私も中学生の頃、学校が大嫌いでサボってた時期がありました。一歩何かが違っていたら、そのまま引き篭もりになってたかもしれないし、逆に彼もちょっとしたキッカケで普通に生活してたかもしれません。なので、何となくですけど、他人事のように思えないところもありまして……知り合ってしまったから、無視出来なくなったというのが本音ですが」
 正直にそう伝えると、広田は爆笑した。
「ワッハッハ、そりゃ良いことだ。僕もその童貞君に会ってみたいよ。知り合っちゃうと、無視出来なくなるのは人間らしくていいことだ。OK、明日にでも連れて来なさい。午後の三時頃でどうだ?」
「ありがとうございます。彼は、予定なんかないはずなので、三時に来るように伝えます」
「あぁ、楽しみにしてるよ……そうか、二十四歳か。二十四は美しい数字だな。僕は六の倍数が好きなんだ」
 広田は、時々突拍子もないことを言い出すことがある。先生との交流が始まった頃は聞き流していたが、少しずつ親しくお付き合いさせてもらえるようになるに連れ、突っ込んだ話を詳しく聞かせてもらう機会も増えた。すると、広田の一見何の脈絡もないような発言は、単なる思い付きとかではなく、実に興味深い意味があることばかりで、いつも驚かされている。
「六の倍数ですか? それはまた、どうしてなのでしょう?」
「僕はね、自然界は十二進法で解くのが正解だと思ってるんだ。人の指の数が五本だから、人類は十進法を採用しただけで、自然界にとっては十なんて半端な数字なんだよ」
「そうなんですか?」
「十と十二だと、約数の数が違うだろ? 十は二と五でしか割れないんだ。でも、十二は二、三、四、六で割れる。二十四なら、そこに八と十二も加わるんだ」
「確かに、十は三等分も四等分も出来ないので、子どもの頃は不便だと思ったことがあります」
「六も十二も二十四も美しい数字だ。そして、何かと便利なんだよ。自然の摂理に合致しやすいんだ。だから、知らず知らずのうちに我々の身の回りには、十二進法が溢れてるんだよ。例えば、一年は何ヶ月だ? 一ダースは幾つだ? 円の角度は? 蜂の巣の形は? 雪の結晶は何角形だ? 干支も十二支、星座も十二個。世界の文化を見ても、キリストの弟子は十二人、ギリシャ神話は十二神、仏教は十二因縁を説いてる。一日は二十四時間。一分は六十秒で、一時間は六十分だ。他にも、太陽暦でより正確に季節を表すには、四季をそれぞれ六つに分けるんだ。そうすると、一年は二十四個の季節に分けられる。これが二十四節季ってやつだ」
「すごい。そんなに……でも、確かに言われてみれば……」
「もっと大切なのもあるぞ。バッハとショパンと言えば分かるだろ?」
「えっ? ……あっ! 調性ですね!」
「そうだ。音階は十二音で出来てる。それぞれの長調と短調で、音楽には二十四個の調性があるんだ。だから、バッハの平均律クラヴィーアもショパンの前奏曲も、二十四曲なんだ」
 言われるまで気付かなかった、いや、考えたことすらなかったが、広田の言う通り、自然科学は十二進法が適しているのかもしれない。そう考えると、広田が二十四を美しい数字と言った理由が少しだけ分かった気がした。
「その童貞君、人生で丁度区切りのタイミングだったんだ。そう思わないか?」
「はい、先生のご指摘で、今はそうとしか思えなくなりました」
 そう答えると、広田は静かに、そして、(にこや)かに微笑んでいた。

 私は、自宅に戻ると直ぐに健太にメールで連絡した。すると、まるで待ち侘びていたかのように、直ぐに返信があった。
「もう覚悟は出来ています。明日の三時、分かりました。ありがとうございます」
 こうして、ついに健太は、約十年振りに外の空気を吸い、街を歩き、地下鉄に乗る日がやってきたのだ。

 運命の日。
 私は、午後の仕事をキャンセルし、十四時半には広田邸の前で健太が来るのを待っていた。私の指示通り、散髪したのかも心配だったし、それ以前にキチンとした身なりで本当に来れるのか不安だった。
 地下鉄の乗り換えや出口を間違えないか、道順は本当に分かっているのか、そして、時間通りに到着出来るのか……広田先生は、時間や服装にルーズな人を嫌う傾向がある。なので、五分前に駅の方から歩いてくる健太の姿を確認した時は、ホッと胸を撫で下ろしたものだ。
 健太は、約束通り髪の毛をバッサリと切っていた。サングラスとマスクは着用しているが、先生の前では外すだろう。服装も、上から下まで明らかに買ったばかりのユニクロだが、小綺麗にまとめている。背が高く、痩せ気味の彼は、遠目にはモデル体型のいい男に見えなくもない。
 しかし、歩き方がだらしなかった。足を痛めたのか、引き摺り気味にモタモタと歩いている。靴もおそらく新品……とそこで気付いたのだが、健太は靴を履くのも約十年振りなのかもしれない。あの歩き方は、きっと靴擦れでもしたのだろう。
 ともあれ、無事に時間通りに到着した。久し振りの運動と緊張からか、健太は既に呼吸が乱れ、息切れしている。「大丈夫か?」と聞くと、「頑張ります」と返ってきた。違う意味で受け取られたのかもしれないが、どうでもいい。そして、いよいよ呼び鈴を鳴らした。
 広田のレッスン室には、国産の大型グランドピアノが置いてある。実は、他の部屋にもピアノはあり、計四台も所有しているのだが、歌のレッスンに使う部屋はここと決まっている。人の声と調和するらしい。四台とも私がメンテナンスをしているのだが、音に対する先生の感覚と評価は尋常ではないぐらいに鋭く、時々私の理解を超えることもある。
 簡単な挨拶を交わすと、先生は健太を質問攻めにした。

「君、音楽家になってどうしたいんだ?」
「なってどうしたいというより、これしかないと思ってるので、出来るところまで頑張ってみようと思ってます」
「頑張るだけじゃダメだ。音楽家になりたいのだな?」
「はい。声楽家になりたいです」
「そうだ。先ずはなりたいって気持ちがないとな。頑張るのは当たり前なんだ。ところで、篠田君に聞いたけど、君はどうして家から出ないんだ? 僕なんか、逆に家に帰りたくなかったぐらいだぞ?」
「恐かったのです。みんなに馬鹿にされて笑われるのが」
「馬鹿にされるのは賢い人だけだ。馬鹿は馬鹿にされないよ。つまり、君は賢いんだな」
「そんなことないです。馬鹿だと思います」
「じゃあ、馬鹿にされてもいいじゃないか? 僕はね、僕みたいな馬鹿を馬鹿にする人は、本当の馬鹿だと思ってる。カラスを黒く染めるようなもんだ」
 その時、初めて健太が少しだけ笑った。かなり不躾な質問をしつつも、広田先生は健太を揶揄するつもりがない。そのことは、健太にも伝わっているようだ。すごく素直に、真剣に先生と向き合っている。しっかりと目を見て、ハキハキと喋っている。

「どうして歌をやりたい?」
「昔、まだ学校に行ってた時、歌だけは褒められました。僕自身、勉強もスポーツも苦手でしたけど、歌だけは自信もあったし、クラスメイトにも驚かれました。それぐらいしか、出来そうなことないです」
「でも、ピアノも弾けるんだろ?」
「少しは弾けます。でも、ピアノで音大に行くのは、今からだと何年掛かるか分かりません。いや、それは歌も同じかもしれませんが、そんなことよりも、とにかく歌がやりたいのです」
 二人の会話を聞きながら、私は健太が普通に受け応え出来ていることに驚いた。広田の導き方が上手いのだろうか、健太はとてもリラックスしているように見えた。

「じゃあ、早速だけど声を聞かせてもらおうか」
 広田は、そう言うと徐ろに立ち上がり、ピアノに向かった。健太は、まさか歌わされるとは思っていなかったようで、急に緊張の面持ちに変わり、黙り込んでしまった。
「おい、何してるんだ? 早くそこに立って! そうそう、じゃ、こっち向いて僕の顔を見て。いいか、今から出す音を、あーでいいから発声してみるんだ」
 広田は、先ずはドミソの和音に乗せてGの音を出した。見るからに緊張で身体が硬直している健太は、弱々しく震える声で「あー」と発声した。

「ダメだ、もっとリラックスして! 肩の力を抜きなさい。足は肩幅に開いて、腕はブランと下げる。しっかりと足腰を踏ん張って立つ。それ以外は全部脱力する。ちょっとだけお尻を突き出し気味にして、そうそう、あと、少し顎を引いて。うん、それでいい。じゃあ、もう一回いくよ」
 すると、今度は声質が明らかに変わり、太く強い音になった。半音ずつ音が上がっていっても、健太は綺麗に発声し、その声は部屋中に響き渡った。
「うん、君は横隔膜の使い方が非常に上手い。見事に引き下げてるな。確かに、センスはある。でも、声帯が綺麗に振動していない。あと、肺活量も弱い。この二つは君の弱点だ。音はほぼ正確に取れている。アレだな、君はバリトンだな。高音はあと三度ぐらいは出せるようになる。でも、その低音の響きは、バリトンの方が活きるだろう」
 広田は、僅か数分の発声練習でそこまで見抜いた。健太は、戸惑っている。おそらく、言われたことが理解出来ていない。ただ、ひどく興奮している様子でもある。
「何か質問はあるか?」
 すると、間髪入れずに健太は言った。
「来年、音大に入れますか?」

 この質問に広田は急変し激怒した。
「馬鹿野郎! 来年なんて無理に決まってるだろ! そんな舐めた考えなら、音大なんか目指すのやめちまえ! 君は、歌をやりたいのか、音大に行ければいいのか、どっちだ? 音大に行きたいだけなら、二度とうちに来るな!」
 突然の広田の豹変振りに、健太は驚き、萎縮し、硬直した。そして、小さく「すみません」という言葉を絞り出した。泣き出しそうな顔で縮こまっている健太に、先生は少し怒りを鎮め、穏やかに話した。
「君は、音大に行くことがゴールになっていないか? 音楽はな、一生続くんだ。本気で音楽家になりたいなら、一生続けられる努力をしないといけない。だから聞いたんだ。音大に行ければいいのか? それとも音楽をやりたいのか? ってな」
 健太は、涙をこらえながら、黙って頷いた。
「君が音大にいつ入れるかなんて、僕は知らないよ。でも、来年は無理だ。間に合わない。再来年かもしれないし、十年後かもしれない。一生入れないかもしれない。でも、音大に入れるだけの実力は、二年ぐらいで叩き込んでやる。それをするだけの価値は君にはある。いつ入るかなんて問題じゃない。一生音楽が出来る下地を築くんだ」
「すみませんでした。一人で焦っていました……先生の仰る通りだと思います」

 健太が反省の弁を述べると、広田は今度は優しく微笑んだ。そして、柔和ながらも厳格な意志を込めて、健太に言った。
「君には時間がない。早速明日から取り組んで欲しいことを言うから、メモを取りなさい」
 健太は、慌ててメモの用意をした。
「先ずは、明日から毎日六時に、どんなに遅くても七時には起きなさい。起きたら顔を洗い、ゆっくりとストレッチすること。やり方はなんだっていい。身体を傷めないように、のんびり時間を掛けてやりなさい。ストレッチは、日中も夜も、何回でもやりなさい。柔軟性がないと、良い声は出ないんだ。朝のストレッチの後は、最低三十分ぐらい、ゆっくりと外を歩きなさい。雨が降っても休まないこと。君は、足腰が弱過ぎる。それだと正しい発声は出来ない。声楽家は身体が楽器なんだ。歪んだ不安定な楽器で、良い音は出せないよ。もう一つ、声楽家になりたいなら、靴に慣れないとダメだ。だから、毎日歩きなさい」
 なんと、広田は健太の靴擦れに気付いていたようだ。その洞察力に、私は驚愕した。家に上がってから、健太は足を痛がる素振りなど見せていない。
「まだあるぞ。ご両親に協力をお願いして、三食きちんと食べなさい。歌以前に、君は何より体力を付けないといけない。特に、肺活量だ。可能なら、プールに通いなさい」
 健太は、真剣な眼差しで必死にメモを取っている。
「あとは、明日にでも歯科に行きなさい。虫歯か歯並びの所為か分からないが、君の発声は空気が漏れるんだ。直ぐに治しなさい」
 健太は、不思議そうに頷いた。先程のちょっとした発声で、広田は健太の歯に問題があることに気付いたのだ。後日確認すると、広田の予想通り、数本の虫歯で悩んでいたそうだ。

 いつもの先生らしくない……私は、普段は冗談ばかり言ってる広田が、これ程真面目に話す姿を初めて見たので、口を挟むことも出来ず、少し戸惑っていた。一方の健太は、神妙な顔で、細かくメモを取っている。その後も、レッスン料の支払い方に始まり、発声練習や用意する教材について説明があった。更に、音楽理論やピアノ、ソルフェージュなども日頃の取り組みについて、細かく指示があった。
 もちろん、受験対策として一般教科の勉強もしないといけない。他にも、毎日新聞を読むこと、週に一冊は本を読むこと、そして、音楽誌の購読も勧められていた。月に一度は、コンサートにも足を運ぶようにとの指令もあった。そして、読書や何かを鑑賞した後は、必ず二千文字程度の感想を書けと言われていた。
「君は、パソコンを持ってるのか?」
「はい、持っています」
「じゃあ、ブログを開設しなさい。レビューは全てブログに書くといい。ブログは不特定多数の人が見るし、僕もチェックしやすいんだ。人に読んでもらうつもりで書きなさい。いや、でも無理して上手く書く必要はないぞ。文章力云々じゃなく、上手く伝えることが大切なんだ。声楽は、音楽の中で唯一文学と直接繋がっているんだ。感情を言葉にすること、そして、言葉を音楽に乗せて伝達すること、こういった力を養う為に、レビューを書くことはとても有効なんだよ」
 健太は、大きく頷きながら、広田の言葉一つ一つを丹念に記録し、徐々に顔付きが変わってきた。気合いが漲ってきたのだ。

 そんな感じで、健太と広田の最初の面談は終わった。健太の帰り際に、広田は思い出したように一つ付け加えた。
「あぁ、そうだった。言い忘れてたよ。直ぐには無理だろうけど、三十歳までたくさんセックスしなさい。やり方は、追々詳しく教えてやるよ」
 最後に、ようやく広田らしくなったようだ。さすがに、健太もそれだけはメモを取らなかった。

第16章【寒露・まけてくやしいはないちもんめ】

 中北と唯香を中心に、生徒だけで取り組むことになった二年二組の練習は、予想以上に順調に進めることが出来ていた。
 細かい音程やハーモニーを追求し、リズムや強弱に気を付け、姿勢や発声を注意されたそれまでの厳しい練習とは違い、お笑いのパフォーマンスを取り込み、各自の得意分野ややりたいことを発揮させる計画は、全員から楽しさとやる気を引き出したのだ。
 もちろん、下手すればそのまま暴走し、カオスと化す怖れも紙一重だったのだが、唯香と中北の仕切り——飴と鞭というのは大袈裟にせよ——メリハリを効かしたコントロールは絶妙だった。何より、二人の人柄の良さ、クラスメイトからの信頼の厚さにもよるのだろう。
 また、それまで抑圧されていた鬱憤を晴らすかのように、或いは、向井に見せ付けたい思いの共有もあり、クラスメイト全員が団結し、成功を目指した。残り数週間、何とかまとまるはず……全員がそう信じて練習に励んでいた。少なくとも、そういったモチベーションは、向井の時には全くなかったものだ。

 中北と矢野は、時間を見つけてはKの自宅を訪問した。直接夏休みの一件を説明したいし、謝りたかったのだ。しかし、一度たりともKに会えることはなかった。声を聞くこともなかった。
 時折、学校から何らかの説明を受けているはずの両親から、本当は何があったのか? と遠回しに問い質されたこともあったが、その時は「よく分からない」で通した。学校から、あの事件がどのように報告されているか、矢野と中北は知らなかったからだ。
 表面上は、Kによる更衣室のぞき未遂事件として学内で処理されているということは、向井から聞いた。そして、その被害者が、尾崎と西浦、そして唯香ということになっている。多感な年頃のデリケートな事件なので、何よりも被害者の保護と意向が最優先に考えられた。
 しかし、被害者といっても、当の三人にはそんな意識は皆無だ。むしろ、自分達が仕込んだドッキリが誤爆して、想定とは真逆の結末になっただけなのだが、嘘と誠が反転したまま元に戻せなくなっていた。教職員は、誰も生徒の話に聞く耳を傾けなかった。と言うのも、K自身が単独でのぞき行為を行ったと全面的に認めていたからだ。
 もちろん、三人はKへの処分を求めなかったし、公になることも避けるように配慮を求めた。Kへの偏見が生まれてはいけない。学校には信じて貰えなかったが、そもそもKは加害者ではなく被害者なのだ。
 また、三人共まだ着替える前だったことは分かっており、言わば「未遂」に終わったこと、それに、Kが深く反省していることもあり、Kへの厳重注意だけで、双方の両親へ連絡することもなく解決を計ったのだ。
 しかし、Kがそのまま自室に引き篭もり、不登校となった為、Kの親は学校へ説明を求めた。その時に、学校がどういった説明をしたのかは、五人には知らされていないのだ。
 表面上は軽度とはいえ「性犯罪」だ。被害者もいる。ただ、当事者同士で直接謝罪をし、赦しは得たのだ。被害者側からKの親へ改めて謝罪等の要求がない限り、誰が被害者なのかは学校は伝えないだろう。つまり、K本人が口を(つぐ)む以上、Kの親も漠然としか概要は伝わっていないだろう。

 学内での向井の評判や立場はかなり危うくなり、教職員同士のコミュニティでも完全に孤立していた。自分のクラスから登校拒否の生徒が出たのだ。向井は、毎日のようにKの自宅に電話し、時間の許す限り訪問もした。生活指導の先生や学年主任の教諭も同行することもあったが、Kは一切の面会を拒絶した。それどころか、鍵を掛けた部屋に閉じ籠もり、呼び掛けに返答すらしないのだ。一度は強行突破も検討したが、両親に自殺をほのめかすこともあった為、両親の強い意向で断念した。
 Kの不登校について、二組では匿名のアンケート調査が行われた。すると、向井にも責任の一端があるのではないかと思しき事情が、垣間見て取れたのだ。特に合唱の練習では音楽センスのある生徒を優遇し、中でも特にKは贔屓されており、そのことを不満に思う生徒もたくさんいたことが判明した。また、それが原因で、Kがクラスで孤立していたという意見もあった。
 更に、二組の練習はほとんどの生徒が厳し過ぎると感じており、ほぼ全生徒が楽しくないと回答した。懲罰的に一人ずつ歌わせたり、暴言や虐待と取られても仕方のない行為も目立ち、練習時間を怯えストレスを感じていた、と答えた生徒も過半数を超えていた。合唱練習になると、授業そのものをサボることさえある生徒が数名いたことも判明した。

 また、偶然とは言え、のぞき事件直後に直接Kの対応をしたのも向井だ。気性が激しく、フェミニストでもある向井が、のぞき行為を過剰に毛嫌いすることは容易に想像出来る。それまで贔屓していたKとはいえ、いや、だからこそと言うべきか、果たして、直後の指導は適切だったのだろうか? 過剰な叱責を超えた恫喝や虐待、暴力、暴言、若しくはそれに準じる行為は、本当になかったのだろうか? 真相は密室に閉ざされたままだ。
 Kに確認する術がない限り実際にどのような「指導」だったのかは分からないのだが、その直後から引きこもりが始まった事実を鑑みて、どうしても疑惑だけが尾鰭を付けながら一人歩きしたのもやむを得ないだろう。
 教職員の中には、男性教諭を中心に、元々向井を快く思っていない人も多かった。過度のフェミニズムに気性の激しい攻撃的な性格は、どうしても男性には毛嫌いされがちだ。しかし、それまでの向井は、勤務態度や能力には目立った穴がなく、業務は雑用でさえ完璧にこなす教員だったので、誰も文句を言えなかった。強いて言えば、時々男性の教諭、特に歳下の男性教諭に対して、冷淡で厳し過ぎる指導が目に付いたぐらいだ。
 だからこそ、ここぞとばかりに向井に牙を剥き、遠回しに向井の責任を糾弾する教員も多かった。まさに、因果応報だろう。しかも、二学期に入ると、向井のクラスは合唱コンクールを生徒だけで取り組むことに決めた。これは、向井の指示ではなく、生徒達が自主的に決断したことだ。つまり、向井の指導は、生徒達に完全にそっぽを向かれたのだ。
 ここにきて、今までは誰も気付かなかった向井の教員としての資質や指導力の欠如が、いよいよ浮彫りになってきたのだ。大半の同僚教員は、男女問わず、そのことを陰で嘲笑した。

 Kは、皆に騙された上、大恥をかかされ、向井に激怒されたショックと土下座させられた屈辱から立ち直れないでいた。直後に矢野や中北達が指導室に駆け付けたのも、おそらくKを解放させ、苛めの続きを行なう為だと思い込んでいた。
 彼等にしてみれば、さぁこれから、という時に向井が来た為、不完全燃焼のまま中断を余儀なくされ、物足りなかったのだろう。あの時のKの目付きや言動、そして、恥ずかしいぐらいに勃起していたことなど、女子も含めた五人で揶揄して笑いたかったのだろう。徹底的に辱しめ、屈辱を与えるつもりだったに違いない。だから、ドッキリだったという突拍子もない嘘を思い付き、助ける振りをしたに過ぎない……Kは、そう確信していたのだ。
 これで、唯香には絶望的に嫌われてしまった……元々、嫌われていたからこそ騙そうとしたのだろうが、助平心を刺激するやり方は卑劣だし、見事に引っ掛かった自分を嫌悪した。
 どっちにしても、こっそり唯香の裸を覗き見ようとしたことには違いない。見たいと思ったし、見られてる唯香の気持ちなど考えていなかった。バレない限りは傷付かない……そんな身勝手な理屈を自分に言い聞かせて、行為を正当化しようとした。
 結局は、欲望とエゴに動かされ、最低な行為を楽しもうとしたことが本質だ。そうするように導かれたことは、言い訳に過ぎない。こんな気持ち悪いヤツ、嫌われて当然だ……Kは、客観的に自分をそう評価した。

 Kは、自分にとっての合唱コンクールも、これで終わりだろうと悟った。ピアノも歌も、二組には自分より上手い人はいないだろう。でも、代わりがいないわけではない。むしろ、誰がやっても、のぞき魔のKよりは歓迎されるだろう。Kは、もう歌うつもりもなかったし、練習に出る気にもなれなかった。
 本当なら、Kはコンクール当日に両親を驚かすつもりだった。自分がソロを歌うことを、両親には黙っていたのだ。当日は、きっと驚くだろうし、喜んでくれるだろうな……と、楽しみにしていたのだが、もうそんなサプライズも必要ない。違う意味で、両親をもっと驚かすことになってしまった。元はと言えば、コンクールの練習が始まってから、全ての歯車が狂い出したのだ。
 そう、全てはコンクールの所為だ。そして、向井の所為でもあるし、音楽の所為なのだ。Kは、音楽を心底呪い、憤懣(ふんまん)()る方ないほどに歌を憎んだ。そして、何より自分自身の存在を、吐き気を催すぐらいに嫌悪した。

第17章【小雪・きりのなかにうかびくる】

 広田を紹介して以来、健太が確実に変わったのは誰の目にも明らかだ。長年に渡り続いた、太陽の動きと連動しない気儘な生活リズムは改められ、毎朝早起きし、三十分以上歩くのが日課になった。週に二回はプールにも通い、体力も付けてきた。指摘された虫歯の治療も終え、三食きちんと食べ、ストレッチで身体の柔軟性を高めた。
 生活面だけではない。発声練習はもちろん、ピアノもソルフェージュも毎日懸命に練習するのは当然で、受験に必要な最低限の一般科目も、毎日欠かさず勉強の時間を作った。毎朝新聞を読み、週に一冊ペースで読書もし、音楽誌も購読するようになった。時々、様々な演奏会にも足を運び、開設したブログにレビューを書き綴った。私も、何度か彼のブログを見てみたが、レビューだけでなく、ほぼ毎日、その日の出来事を綴る日記のような感覚で更新しているようだ。もちろん、何かを鑑賞した後のレビューは真摯に取り組んでいる様子だ。拙い文章ではあるが、何かを「伝える」ことを重視している飾らない文面から、広田の意図が正しく伝わっていることは理解出来た。
 ここまでのところ、広田に指示されたことは、全てクリアするように心掛けているようだ。ただ、セックスだけはまだだったが、こればかりは致し方ないだろう。

 月に数回、私も保護観察者のような立場で健太と会っていた。大切な顧客でもあり、個人的に尊敬もしている広田に紹介した以上、迷惑を掛けないように経過観察すべきだとの自主的な判断に過ぎず、誰に命じられたものではない。しかし、会う度毎に垢抜けし、表情も明るくなっていく健太を見ていると、嬉しくなるのも事実だった。
 一つ気がかりだったのは、時々、健太が失った過去を取り戻そうとしているのでは? と感じることがあったことだ。その心理は理解出来なくもないが、彼には過去を振り返っている暇も寄り道する余裕もない。前だけを見て進むべきなのだが、外で見聞きしたもの全てに興味を持ち、体験してみたくなるようだ。
 ファッションやスポーツ、その他様々な流行りもの、パチンコ、ゲーセン、カラオケ、お酒、レジャースポット、車、外食……引きこもっている間も、テレビやパソコンのモニターを通して様々なものを見てきたであろうが、直接的に見て触って体験する機会はなかったのだ。
 実際、健太は何でも知ってるようで、何も知らなかった。この約十年の大半を、ゲームや動画などパソコンの前で過ごした健太は、色んなことに対して沢山の情報は持っていても、全て頭でっかちの知識だけに過ぎず、実際の経験値は中学二年生で止まっているのだ。
 知識と経験を合致させてみたい気持ちは、分からなくはない。しかし、今は音大を目指す上で、日々のやるべきことがあまりにも多い。途中で娯楽を覚えると、歯止めが効かなくなるだろう。

 週に一度の広田のレッスンは、とにかく厳しかったようだ。毎回のように泣き、挫けそうになったが、その都度、これ以上ないタイミングで、これ以上ない言葉を投げ掛けられ、健太は辛うじて踏み止まっていた。
 何より、広田のことを信頼し切っていたことも大きい。人間として、また音楽家として、健太は広田の言葉に疑問を持ったことは一度もない。盲目とも言えるぐらいに従順に、音楽に限らずあらゆる面で、まさに人生の師のように仕え、従ったのだ。
 師との交流を重ねていくうちに、いつしか健太は外出を恐れなくなり、人と話すのも苦でなくなっていた。身体も随分と丈夫になり、声量は増し、音域は広がった。
 とは言え、健太の指導にあたり、広田も相当な忍耐が必要だったそうだ。健太には、社会的な常識や空気を読む感覚が、絶対的に欠如していた。雑談とレッスンの切り替えが鈍かったり、ちょっとした言葉遣いや思考、作法が非常識だったりと、音楽や学問以外でも身に付けなければいけないことが山のようにあり、広田も「苦慮することの連続だ」とよく言っていた。
 こればかりは、マニュアルも教科書もない。その都度、指摘し、注意するしかないのだ。また、怒っても意味がない。理由が理解出来ないのだ。なので、怒りを堪えながら、懇々と辛抱強く言い聞かせなければならなかったのだが、これは膨大なエネルギーを消費したそうだ。

 数ヶ月が経過した頃、健太は広田が主宰している合唱団に入団した。声楽の訓練は、一人で歌っているだけでは限界がある。合唱団の一員として歌うことにより、声を聞き合い響かせ合う難しさ、そして、覚えた音を出すのではなく、その時の響きに合わせて臨機応変にハーモニーを作る楽しさを身に付けることが出来るのだ。また、健太に決定的に欠けていた人とのコミュニケーション能力も、合唱団に所属し、団体行動を余儀なくすることで多少は養えるだろう。
 広田の合唱団「那古野ムジカ・ハルモニア」のメンバーは、特殊な経歴を持つ健太を快く迎え入れた。毎週の練習に顔を出しているうちに、健太は団員と親しくなり、練習後に食事に誘われるようになった。団には、音大を出た者も多く在籍しており、皆が健太の為に様々なアドバイスを授けた。やがて、特に気の合う友人も出来、休日に一緒に出掛けることもあった。
 健太は、面倒見のいいその友人から、色々なことを学んだ。お酒の飲み方、カラオケ、ファッション、競馬やパチンコ、ビリヤード、ボーリング、SNS、お洒落なお店……冬にはスキーに連れて行ってもらう約束もしたし、女性を交えての食事にも誘われたようだ。

 私は、定期的に健太と会ってはいた。しかし、彼が少しずつ遊びを覚えるに連れ、私と会うことを嫌がる素振りを見せるようになっていることに気付いていた。広田に指示された取組みをきちんと遂行出来ているのか? ……と、私は、いつもそのことばかり尋ねていたからだろう。何人かの友人が出来、少しずつ遊びを覚えた健太は、勉強や練習の時間を削らなければならないのだろう。おそらく、サボる日も増えてきたのだ。だから、私に会うことが後ろめたいのかもしれない。
 私は、自分なりに広田の負担を軽減したかった。広田に迷惑が掛からないないように、健太がきちんとやることをやっているか監視したのだ。しかし、そろそろキツくお灸を据える時期なのかもしれない。明らかに、健太は緩んできている。そう考えていた折、広田から電話があった。うちに飯でも食いに来いと。

 広田は、年に数回、気まぐれて食事に招待してくれるのだ。大抵は、先生の生まれ故郷である八丈島の郷土料理でもてなしてくれる。この日も、名産物のくさやと島寿司が準備されており、広田が愛飲するテキーラを嗜みながら会食を楽しんだ。
 途中、必然的に健太の話題になった。私は、今がチャンスと思い、ちょっと心配していることを伝えた。友達が出来たのは良いが、少しずつ遊びを覚え、昼夜問わず出歩くことも増え、肝心の練習や勉強が疎かになっている気がする、日々のプログラムも適度にサボってると思う……そういった報告をした。
 すると、広田は見るからに少し不機嫌な表情を浮かべた。まだ、広田には伝えるべきではなかったのか……と直ぐに後悔したが、そうではなかったようだ。広田は、真面目な口調で私に言った。

「それの何が問題なんだ? 朝から晩まで真面目に言われたことだけやってるヤツに、ろくな人間はいない。僕は、ようやく人間っぽくなってきて喜んでいたんだよ。彼は、勉強もしてなかったけど、遊びもしなかったんだ。人生にも音楽にも、どちらも大切なことだ。真っ暗闇に長いこと閉じこもっていて、音楽という微かな光に向いて歩き出したら、もっと色んな所からも光が差し込んでいた。それだけだよ。興味持たない方がおかしいんだ。興味持たせないようにする教育は、間違っている。いいんだよ、遊んでも。何も心配いらない」
 私は、広田のおおらかな考えを聞き、自分自身の窮屈な考えを改めなければと反省した。そう、健太にとっては外で見聞きするもの全てが新鮮で、興味を持って当然だ。その当たり前のことを、私は取り上げようとしていたのだ。その方が、より音楽に集中出来ると思ったのだが、間違いだ。残酷で非道な発想でしかない。
「篠田君、君は、健太を心配しているんじゃない。健太の行動や態度が、僕に迷惑を掛けるんじゃないかと気を揉んでるだけだ。でも、それはだな、その所為で自分が僕から怒られるんじゃないかって心配なんだ。違うか?」
 私は、何も言い返すことが出来ず愕然とした。核心を突かれたのだ。確かに、広田の言う通りかもしれない。私は、結局のところ自分の心配をしていたに過ぎないのだ。健太の為、先生の為というのは詭弁に過ぎず、その結果に生じる私の立場だけが大切だったのだ。
「篠田君の気遣い、健太へのサポートはありがたいと思っているよ。でも、君は何も案ずることはないんだ。健太は、フラフラしながらも音楽には真面目に取り組んでいるし、僕は例え健太が人殺しだったとしても、君への信頼は変わらない」
 私は、自分は何てちっぽけな人間なんだと無性に恥ずかしくなった。広田と健太は、僅か数ヶ月間で揺るぎない師弟関係を築いており、私なんかが立ち入る隙は最早ない。単なるお節介に過ぎないようだ。
「健太はな、今年の受験はもう断念することに決まったよ。一般教科の勉強がとても間に合いそうにない。先週から予備校にも通ってるよ。君に言われなくても、健太はやるべきことを見失ってはいないさ」
 そう言って、広田は少しだけ優しく微笑んだ。

「そうそう、受験の代わりにな、何か一つ課題と言うか目標を与えようと思ってな、十二月のうちの定演で、健太にソロを歌わせることにしたよ。今年も篠田君に調律をお願いすることになるけど、ついでに演奏会も聴いてくれるかな?」
 先生の合唱団と言えば、那古野でも屈指の実力を誇る「那古野ムジカ・ハルモニア」のことだ。入団したばかりの健太にソロを歌わせるなんて、考えられないような冒険だ。
「もちろん、本番も聴かせていただきます。でも、健太君がソロ……ちょっとビックリしました。いや、すごく楽しみです。ところで、健太君は何を歌うのでしょうか?」
 そう尋ねると、先生はニヤリと笑みを浮かべ、簡潔に答えた。
「リベラ・メだよ」

 リベラ・メ——。
 つまり、フォーレの『レクイエム』を演奏するのだ。この曲は、元はオーケストラ伴奏の合唱曲だが、ピアノ伴奏版で演奏されることも多く、広田の得意なレパートリーでもある。ソプラノとバリトンのソロも含むのだが、特に一番の盛り上がりを見せる終盤の第6曲目『Libera me(リベラ・メ)』は、バリトンソロが哀しく重苦しい願いを歌に託す名曲だ。そして、どうやらこのソロを、健太が歌うのだ。
 当日の仕上がりはどうであれ、健太にとってはこの曲の持つ意味……音楽的な技巧であれ、歌詞に秘められた思いであれ、学ぶべきことはとてもたくさんあるだろう。
 そして、今、このタイミングで『リベラ・メ』に取り組ませることは、偶然なんかじゃない。間違いなく、広田の意図的な計画だろう。そう、健太の音楽家人生の最初のステップとして、これほど相応しい曲はない。

第18章【霜降・うしろのしょうめんだあれ】

 十一月の第一土曜日……松野市立晴美ヶ丘中学校では、同校の名物イベント、合唱コンクールを迎えていた。
 正門から体育館に向かう左手には、四本の大きな彼岸桜が並んでいる。しかし、幾ら立派な桜の大木でも、関西地方でのこの品種は、卒業式シーズンにはまだ開花せず、入学式の頃には散っているので、何とも間の悪い人のように残念な感じは否めない。しかも、五月の運動会の時期には毛虫が大量に発生し、折角木陰を提供しているにも関わらず誰にもレジャーシートを広げてもらえないし、毎年恒例の文化イベント、合唱コンクールの時期は、まだ紅葉には早く、静かで立派な「ただの木」として佇んでいるだけだ。
 しかし、「ただの木」でも一つだけ役立つことはある。彼岸桜は、「平成◯年度 晴美ヶ丘中学校 合唱コンクール」と書かれた横断幕をロープでぶら下げるのに、場所も高さも強度もちょうどいい感じだったのだ。
 生まれ持った魅力や才能を適時に適所で発揮出来ない人のように、晴美ヶ丘中学校の彼岸桜も、桜であることを忘れられるぐらいその長所が活かされていないのだが、それでも年に一度の大役は今年も務めてくれるだろう。

 晴美ヶ丘中学の教諭、一ノ瀬良和は、合唱コンクールが近付くに連れ気分が優れない日が増え、目覚めも寝付きも悪く、職場への足取りも重くなっていた。過度のストレスだ。向井葉子のアシスタントとして、コンクールの運営を担当することになったことが原因だと自分でも分かっている。つまり、一ノ瀬は、二年先輩にあたる向井が大の苦手だった。
 一ノ瀬は、新卒で晴美ヶ丘中学校に配属された時、密かに憧れた先輩が向井だった。音楽教諭の向井は独身で人目を惹く美人でもあり、明るくサバサバした性格は生徒からも絶大な人気があった。スタイルも良く、チャーミングな笑顔とドルチェなメゾソプラノの美声。恋人のいないことが不思議なぐらい、魅力的な女性だと思ったものだ。
 しかし、翌年当たりからフェミニズムに傾倒し始めた向井は、次第に好戦的な性格に変貌していった。比例するかのように顔付きもキツくなり、笑顔が減り、棘のある発言が増え、何かと攻撃的で挑発的になっていった。また、何かにつけては女性の権利を過剰に主張するようになり、男性教職員へ辛辣な態度を取るようになった。
 一ノ瀬を始め、歳下の男性への態度は特に酷く、鼻で嘲笑うかのようにあからさまに小馬鹿にした。意図的に無理難題を押し付け、否定や拒否を示そうものなら仰々しくフェミニズムを掲げ、人格攻撃に転じた。

 しかし、夏休みに起きた生徒による更衣室のぞき事件を機に、向井の立場や評価は、世界恐慌の時の「暗黒の木曜日」並に急激に暴落した。学内での調査により、向井による生徒への暴言や恫喝、虐め、八つ当たりとも取られ兼ねない行き過ぎた指導が少しずつ浮き彫りになり、教員による不適切な指導として教育委員会にも報告されることとなった。
 現在は、校長の監視のもと、向井は通常勤務のまま毎日指導監察記録が付けられることになった。いずれ、教育委員会の判定を受け、向井は強制的に改善研修を受講することになる。その後、改善や改心の兆候が認められない場合、何らかの厳しい処遇が決定されるだろう。
 そんな折、ついにクラスの生徒たちも向井に反旗を翻したのだ。
 向井にとって、生徒たちのこの行動は屈辱以外の何ものでもないだろう。この学校の教員として、自身のアイデンティティを最も発揮出来る場が、合唱コンクールだったのだ。その指導を生徒たちに拒否され、向井は自分のクラスなのに関与出来なくなったのだ。
 その所為か、コンクール実行委員による運営会議の席では、向井はもう不機嫌を隠そうともしなくなった。仕事の取組は、半ば投げやりですらあり、雑務を一方的に一ノ瀬へ押し付けたのだ。タイムスケジュールの作成から客席の入替え方、ステージの入場と退場、スポットライトの位置、切替、緞帳(どんちょう)の上げ下ろし、審査の手順、プログラムの作成、来賓の招待、会場の設営……毎年中心となって担当している向井は、全ての段取りに精通しているはずだが、殆んどを一ノ瀬に丸投げした。アドバイスをもらおうにも、自分で考えろと不機嫌に突き返される始末だ。
 向井は、もう、完全に気力を喪失していたのかもしれない。教員としても、合唱コンクールの運営委員としても。内外様々なプレッシャーに押し潰されそうな中、連日のように不登校生徒への訪問や電話などのケアも欠かすことは出来ず、心身ともに限界が近付いていたのかもしれない。
 同じく、一ノ瀬も疲弊していた。進学を控えた三年生を受け持つ数学教師の一ノ瀬にとって、合唱コンクールなんてどうでもいい行事だったし、その為の準備よりも、進路指導など優先してやるべきことも多かったのだ。その中での慣れない音楽イベントの取り仕切りは、一ノ瀬には酷な仕事でしかなかった。それなのに、肝心の向井がやる気を無くし、常に苛ついており、一ノ瀬に理不尽に仕事を押し付け、尚且つ当たり散らす……そんな毎日が、夏以降続いていたのだ。
 しかし、過酷な日々もあと少しの我慢……ようやく本番当日を迎えることとなった。一ノ瀬は、いつもより一時間も早く登校し、予め補助をお願いしていた新任の教師二人を引き連れ、体育館の設営を行っていた。あるだけのパイプ椅子を綺麗に並べ、来賓席を確保する。司会用のマイクのチェック、花屋や撮影班との打合せ、照明の確認など、開演ギリギリまで走り回った。
 向井は、朝から不登校生徒の自宅を訪問し、コンクールの出席を促した。残念ながら、いつものように部屋から出ようともせず、両親に伝言を託すのみ。この日も、本人と面会すら出来なかったようだ。

 舞台上では、二年一組の生徒達が退場し、二年二組のステージが始まろうとしていた。緞帳(どんちょう)が上がり照明が点くと、男子ソロを歌う中北清也を先頭に、先ずは男子、続いて女子が入場した。最後に、女子のソロを歌うことになった尾崎千尋が登壇した。皆、お揃いのベレー帽を被っている。中北と尾崎は赤、他の生徒は皆黄色の帽子だ。
 少し間を置き、ピアニストの西浦芽衣が入場した。西浦は、青いベレー帽だ。その後に、楽譜を持った石原唯香が緑のベレー帽を被って入って来た。唯香は、譜めくりを担当することになったのだ。
 皆が整列したところで、ピアノによる前奏が西浦によって演奏された。数小節後、全生徒による tutti(総奏)で元気良く歌が始まった時、指揮者の矢野悠馬が慌てて走ってきた。ジェスチャーで、怒りを大袈裟に表現し、必死に演奏を止める。そこで、ネタだと分かった客席から、笑いが起きた。
 矢野は、改めて客席に一礼し、ピアニストを向き指揮を振る……が、タイミングが全く噛み合わず、前奏が上手く入れない。客席からくすくすと笑い声が漏れる。三度目ぐらいでやっとピアノが弾き始めたと思いきや、テンポが異常に速すぎる。しかし、皆んな澄まし顔で、そのままのテンポで早口言葉のような歌も入り、慌てて指揮者が演奏を止めた。観客は大爆笑だ。
 チャプリンやミスター・ビーンを彷彿させるようなコミカルな動きで、矢野は大袈裟に慌てふためく。もう一度、やり直そうとした時、中北が矢野の背後にそっと近付き、指揮を始めた。矢野に気付かれないように振る中北のタクトに合わせ、今度こそ綺麗に音楽が始まった。客席から、笑い声の混じった拍手が起きた。
 しかし、折角演奏が始まったのに、矢野は僅か数秒後にタクトを落としてしまったようだ。必死に誤魔化そうとしながら拾う振りをするが、なかなか上手くいかない。すると、前列の生徒が、そっと隠し持っていた代用品を手渡す。孫の手だったり、虫取り網、釣竿、警棒、竹定規……その都度矢野はオーバーアクションのノリツッコミで笑いを取る。その間も、演奏は普通に続いていた。
 そして、中北のソロが始まった。一歩前に出た中北は、胸を張り、自慢気にソロを歌った。しかし、その間他の生徒達は、不快そうに頭やクビを掻き毟ったり、耳を塞いだりと拒絶反応を示す。客席は、どっと笑いに包まれた。
 続いて、尾崎のソロだ。尾崎も少し前に出て、仰々しい動きでソロをアピールする。しかし、いつ間にか派手な衣装に着替えていた唯香がステージの真ん中に立ち、尾崎のソロに合わせて大きな振付で口パクをする。まるで、唯香が歌ってるようだ。尾崎は気付いていない。
 そして、最後のソリストのデュエットは皆が紙テープや花吹雪を撒き散らし、そのまま全員による大合唱になだれ込む。指揮者は、まだタクトを拾おうとしている。そのままフィナーレを迎えた時、矢野はようやく拾い上げたタクトを、思いっ切り振り下ろそうとして指揮台から落ちた。

 二組のステージが終わると、客席から一際大きな拍手が沸き起こった。しかし、出入口で受付をしていた向井だけは、絶望的な面持ちで二組のステージを睨み付けていた。ソロもピアノも指揮も合唱も、向井が指導していた時期とは打って変わり、下手くそだ。ピッチもテンポもブレまくっていたし、音楽的にはメチャクチャな演奏だ。
 なのに……生徒達は、皆とても楽しそうに活き活きとしていた。清々しい表情で、誇らし気に、そして、満足気に退場していった。何より、クラス全員が一致団結し、呼吸を揃え、綿密に打ち合わせた計算が随所に垣間見れた。自発的、そして積極的に取り組まないと得られない成果だ。衣装や小物も自分たちで調達し、誰一人として、嫌々出演している者はいなかったのだ。
 向井は、いよいよ自分の過ちを認めざるを得なかった。自己満足の追求の為に、生徒達に過酷な練習を強いていたのだ。上手か下手かに拘り、上手くなることだけを考えていた。少しでも高みを極める為に、人選も生徒達の希望を無視して割り振った。適所に適材を上手く配置してこそ、全体の完成度を高めることが出来ると頑なに信じた。
 しかし、生徒達を音楽の本質に向き合わせことがあっただろうか?
 では、音楽の本質とは何だろうか?
 考える間でもない。目の前の生徒達を見れば一目瞭然、つまり、楽しむことに尽きるだろう。そう、音楽は楽しい。至ってシンプルだ。なのに、そんな当たり前のことを見失っていたのだ。

 向井は、果たして自分の音楽は何だったのだろうかと振り返った。生徒達は誰も楽しめず、むしろ練習を嫌悪し、時に友人関係を引き裂き、ビクビクと怯えながら過ごし、苦痛にしか感じなかった。それでも、皆で一曲やり遂げ、結果が伴えば、最後には音楽の魅力が伝わると信じていた。
 ところが、そのアプローチは大きな間違いだったようだ。もっとも才能を感じたKは孤立し、挙句、不登校になり、天才的なセンスを持つ唯香は、向井のやり方にいち早く反発した。向井が落第させた二人の女子は、希望したピアノとソプラノソロで見違えるように笑顔を取り戻した。向井により、意欲を削がれていた中北は、クラスを一つにまとめ、先頭に立って皆を引っ張った。全くやる気がなく、練習をボイコットしていた矢野も、楽しそうに道化を演じた。
 全てが正しい音楽のあり方なのだ。向井の音楽では、決して体現出来ない世界だろう。それを、生徒達は自分達だけの力でやり遂げた。適材適所……皆で同じ目的を共有してこそ、成立する言葉だ。

 夏休みの事件のことが頭を過る。思えば、あの事件を機にクラスがバラバラになった。いや、その前から兆候はあったのだ。ただ、Kがいなくなったことが引き金となり、狂い始めていた歯車が軸から外れてしまったかのように二組は崩壊した。
 事件直後、中北達五人は、直ぐに指導室に飛んできた。「Kを揶揄うつもりの悪戯でした」「計画的な悪ふざけで、Kを騙しただけです」……五人が口を揃えてKを擁護した。
 向井は感情的になっており、全く聞き入れず、むしろ嘘だと決めつけ、五人をきつく叱った。
 しかし、五人の話が本当だったとしたら……?
 本当だとしても、Kは何も知らなかったことには違いない。嘘にしては、今思うと出来過ぎた話だ。中学生が、僅か数分で作り上げるストーリーとは思えない。もっと、話を聞いてあげるべきではなかったのか?
 しかし、どちらにしても、Kがのぞこうとした事実は変わらない。Kもそれを認め、謝罪し、反省したはず。ただ、皆にそう仕向けられたのか、自発的に単独で行ったかの違いはとてつもなく大きい。
 いや……もう一つある。そうだ、K自身は皆にハメられたと考えたのなら……ドッキリなどの生温い悪戯ではなく、陥れるために騙され、裏切られたと。だとすると、Kが負った傷は尚更深くなる。そうか、だから素直に行為を認め、殻に閉じこもったのかもしれない。そう、抵抗を放棄した裏には、絶望があったのだ。
 あの時の向井の対応如何では、全て笑い話に昇華することも出来たかもしれないし、Kが不登校になることもなかったかもしれない。クラスの主要メンバーの団結が深まり、向井の指導の元、再出発出来たかもしれない。生徒達の意見を聞き入れ、皆で楽しくステージを作り上げたかもしれない。そう、あの時、あの場所での対応次第で、全てが好転したかもしれないのだ。そう思うと、Kの学校生活を狂わせたのも、クラス全体の雰囲気を壊したのも、全て向井自身に責任があったことになる。

「適材適所って、監督とか指導者にも当てはまりませんか?」
 中北は、確かにそう言った。その通りなのだ。向井は教師としても指導者としても適材ではなかった。向井の居場所は、合唱の練習でも教室でもなかった。少なくとも、生徒達は向井が手を引くことにより団結し、皆で楽しく意見を出し合い、見事なステージを披露した。

 一ノ瀬は、合唱コンクールがようやく終わり、安堵していた。余計な雑務からの解放感と、何も分からない手探り状態から何とか無事にやり遂げた充実感が入り混じり、何より、今日で向井とのコンビが解消されることが嬉しくて、感極まっていた。
 かつては憧れたこともある先輩の向井ではあるが、この数ヶ月は嫌な上司でしかなかった。もっとキビキビと動く人だったのに、最近の向井はろくに仕事もしないくせに、口撃だけは激しいクソ女だ。何がフェミニズムだ。女性の権利を主張する前に、自分の義務を果たせ! ……一ノ瀬は、爆発寸前で辛うじて踏み止まっていたのだ。

 終演後の職員会議の後、一ノ瀬は向井と体育館へ行った。後片付けが残っていたのだ。一ノ瀬は、これが最後の仕事と割り切り、どうせ何もしないであろう向井を無視し、一人で黙々と仕事をしていた。
 いつしか、向井の姿が見えなくなっていた。しかし、一ノ瀬は全く気にも留めなかった。どうせ、どこかでサボっているのだろう。トイレかもしれないし、外の掃除とかいって油を売ってるのかもしれない。正直なところ、一ノ瀬にとっては向井がいない方が気が楽だ。実際、片付けは手際よく済んだ。一ノ瀬はそろそろ体育館の照明を落として施錠しようとした。しかし、その前に、まさかとは思ったが、館内に向井が残っていないか確認した。
「向井先生!」と大声で叫んでみたが、夜の体育館はすぐに静寂に包まれる。「向井先生、照明落としますよー!」一ノ瀬は、最後にもう一度叫んだ。やはり、何処からも返事がないので、一ノ瀬は体育館の照明を落とし、ドアを施錠した。

 鍵を引き抜きながら、これで本当に終わりだ、と思った一ノ瀬だが、「あっ」と一声発した。桜の木に縛り付けた横断幕を忘れていたのだ。ひょっとしたら、向井が一人で外していたのかもしれない。体育館の照明を消したので、彼岸桜の近辺は既に暗くなっていた。それでも、見たところ、横断幕は外されていることは分かった。やはり、向井が一人で外してくれたのだろう。しかし、折角外してくれたのなら、畳んで片付けてくれればいいものを、横断幕は無造作に丸めて放置されていた。
 それにしても、向井は何処に行ったのだろう? 一ノ瀬は、訝しく思いながら、横断幕を綺麗に畳んでいた。そっと校舎の方を見てみると、既に職員室の電気も消えていた。ひょっとすると、向井も挨拶もせずに帰ったのかもしれない。何て女だ……一ノ瀬は、独り言のようにそう毒付いた。
 何とか横断幕とロープを纏めたものの、一ノ瀬はロープが一本足りないことに気付いた。最近は、備品の管理には口煩く注意される。何としても。探し出さないといけない。ひょっとすると、まだ木から外していないのかもと思い、一ノ瀬は懐中電灯を手に彼岸桜を調べることにした。
 すると、なるほどロープが一本だけ、まだ木からぶら下がっていた。一番右端の彼岸桜の塀側に掛かっていたので、見落としていたようだ。そして、ロープには、ついさっきまで向井だった物体がぶら下がっていた。

 桜の枝は、(たわ)んだり折れたりせず、しっかりと負荷に耐えるという重要な役割を果たしていた。

第19章【大雪・ゆめはいまもめぐりて】

 アマチュアの合唱団としては那古野でも有数の実力を誇り、三十年という長い歴史を育んできた「那古野ムジカ・ハルモニア」は、広田正信の門下生だけで設立された合唱団だ。そもそも、設立のコンセプト自体、広田正信の音楽を届けることであり、直接広田の指導を受けた経験のある者しか入団出来ない、まさに広田の為の合唱団と言えよう。
 創設時から、この合唱団の指導も広田が受け持っており、定期演奏会の指揮も、三十年間欠かさず広田が振ってきた。アマチュアとは言え、個々のメンバーの実力は相当なもので、音大を出た者もいればコンクールの入賞経験者もいる。いや、プロの歌手として活動している者さえいる。今尚、広田のレッスンを受けている人も多数在籍している。何より、一般のアマチュア合唱団とは違い、ピアノもソロも全て団員だけで賄える実力者揃いの合唱団なのだ。
 そして、この年も十二月上旬に、三十一回目の定期演奏会を迎えようとしていた。指揮は今年も広田正信、男声のソリストには、数ヶ月前に入団したばかりの川口健太が抜擢された。

 今年の「那古野ムジカ・ハルモニア」の定期演奏会は、二部構成のプログラムだった。第一部では、日本のメジャーな童謡を混声合唱曲に編曲した全十曲からなる曲集で、何と、十曲全てが広田による編曲だ。よく聴くと、とても難易度の高い現代的で複雑なリズムと和声が盛り込まれているのだが、聴き慣れたノスタルジックな主旋律のおかげでとても親しみ易い演奏だった。
 広田は、常日頃から歌の詩の意味を自分で考えるように、と口煩く指導していた。特に、日本語の歌詩は、様々な受け止め方が可能となる。ネットや書物で調べると、有名な曲ほど一般的な「解釈」や「正解」に容易に辿り着くだろう。しかし、そういった先入観に捉われず、自分で感じ、自分で解釈したものを表現して欲しい……それが広田の指導の根幹だ。
 その為、広田による編曲は、いつも歌詞の言葉が伝わりやすいように計算されていた。しかし、言葉をどう受け止め、どう表現するのかは個々に委ねていた。つまり、全員で感情を統一させる必要はないのだ。この辺りのアプローチは、普通の合唱団とは大きく一線を画すだろう。皆んなが其々の感情をぶつけて欲しい……広田の音楽は、何よりも多様性の融合を重視したのだ。

 元より、「皆んなで気持ちを揃えて」という欺瞞を広田は嫌った。スポーツでチームのメンバーが気持ちを一つにするのとは違い、アートの場合は多様な心で受け止める方が自然なのだ。そもそも、物事の感じ方は、人によって違って当たり前。その人の思想や感情、育った環境や体験、現在の境遇など、様々な要素で受け止め方は変わるもの。それを「ここは、こういう意味が込められているのだ」と押し付ける教育に、広田は辟易していた。もちろん、創作者にはそういう意図は必ずあるだろうが、受け手の感情には正解を定めず、感じたままに表現すべきなのだ。
 要するに、音楽に限らず、発信者は受信者に全てを委ねるべき——広田はいつもそう言っていた。どのようなジャンルであれ、作品に様々な意味や思いを込めて表現することは大切だ。しかし、鑑賞した人がどう受け取るのかまではコントロール出来ない。いや、しようとしてはいけない。全く意図と違う解釈をされても、それに否定や拒絶を示すのは間違いだ。発信者が受信者のインスピレーションを操作してはいけない。おそらく、広田が健太にレビューを書かせているのも、これが理由だろう。健太自身が感じたことを、健太自身で表現して欲しいのだ。

 一方で、「歌」は音楽の中で最も感情を伝えやすいジャンルだともよく言っていた。言葉だけだと何通りもの解釈が可能でも、それをメロディに乗せると必然的に方向性が定まってくるのも事実だ。
 例えば、「アイラブユー」という言葉でも、それが文字通りの「愛してる」なのか、皮肉なのか笑いなのか、或いは狂気的な意味合いなのか、詐欺や嘘から出た言葉なのか、深い意味のない単なる挨拶なのか……文字情報だけだと様々な解釈が成立するのだ。もちろん、前後の流れで選択肢はある程度制限されるが、そこにメロディが付くと、もっと限定的になる。更に伴奏も付けば、ほぼ特定に近付くだろう。そして、それこそが「歌」という音楽の一番の特徴だ。
 それでも、全員から全く同じ感情が引き出せることはない。広田は、答を提示せず、団員個々の感情を最優先する音楽を創る。そうして出来上がった音楽もまた、どのように受け取られるかは聴衆に委ねるのだ。それこそが、真のアートの姿だろう。簡潔に言えば、「自由」なのだ。
 まさに第一部の童謡曲集は、そういった広田の思惑が見事に嵌り、喜怒哀楽を織り交ぜた多様な表現が、時にぶつかり時に溶け合いながら、才気溢れる広田のアレンジに乗り、一つに集積された感動的な音楽だった。

 そして、いよいよメインステージ、第二部のレクイエムが始まった。健太は、最前列の右端にいた。背が高く細身の健太は、年配者の多い団員の中では目立つ存在だ。しかし、初めて広田の自宅を訪れた時のような、ナヨナヨしい印象はない。体幹が強くなったのか姿勢も良く、挙動も落ち着いており、僅か九ヶ月にして別人のようにリニューアルされていた。
 フォーレのレクイエムは、広田の得意なレパートリーだけあって、細部にまで行き届いた緻密な演奏は圧巻だった。静的な旋律線、機能的な和声、そして感得させられる「死の甘美」。
 個人的には、鎮魂歌とは言え、フォーレのレクイエムにはモーツァルトやヴェルディほどの強い宗教色は感じない。最後の審判に挑む恐怖を「鎮める」のではなく、水彩画のような淡い美しさとピュアな響きで「慰める」感じで、優しく天国に導く印象だ。
 その中で、唯一激しく、悲劇的に盛り上がる第六曲、『Libera me』が始まろうとしいた。健太がスッと前に出てくると、広田の合図でピアノが短調の和音を重々しく刻みながら進行させる。そして、いよいよ健太の独唱が始まった。
 健太は、その細心のスタイルからは想像出来ないような圧倒的な声量で、太く重く会場の底を揺さぶり、憂いを秘めた甘美で哀しい歌を感情を込めて歌った。歌詞に重みを置く広田の指導だからこそ、きっと健太もこの歌の意味を知り、自分に置き換えているに違いない。自らの救済を求め、過去と訣別し、永遠の安息を照らす光を求め、信じ、歩み出す。
 そう、健太にとって、「主」は「師」に他ならない。
 まさに、そういった解釈としか思えない魂の叫びに、そして、そのあまりの迫力に心を揺さぶられ、私は知らず知らずのうちに涙が溢れ出た。そして、悟った。健太は既に過去と訣別したことを。動かない過去に捉われず、未来への強い志向を持ち、現在を懸命に生きていることを。師を信じ、光を求め、殻を破り、一心に歩み出しているのだ。

 つい、自分に置き換えてみる。誰にでも辛い経験、苦い思い出、消してしまいたいような過去はあるだろう。私にも、岩木との確執や幼少期の思い出など、幾つか思い当たることはある。しかし、過去は過去と割り切れる人もいる反面、私のように、いつまでも過去に捉われて未来を志向出来ず、自分の殻に閉じ籠もり、何となく現在に生かされてるだけの人もいる。でも、それだとダメだ。私も、苦い過去とは訣別し、光の射す方へ歩かなければいけない。その為に、自分の殻を破らなければいけない。
 健太の過去のことは、私は知らない。でも、長年に渡って引き篭もっていたぐらい、きっと私の苦悩なんか比にならないような壮絶なまでに辛く悲しいものだろう。それでも、師の導きで、健太の魂は蘇ったのだ。「私を解き放ってください」と切実に願う健太の魂の祈りは、私の心の奥底まで深く深く浸透し、重々しく鳴り響いた。

『Libera me』

Libera me, Domine, de morte aeterna, in die illa tremenda,
Quando coeli movendi sunt et terra:
Dum veneris judicare saeculum per ignem.
Tremens factus sum ego, et timeo, dum discussio venerit atque ventura ira.
Quando coeli movendi sunt et tera.
Dies irae, dies illa, calamitatis et miseriae, dies magna et amara valde.
Dum veneris judicare saeculum per ignem.
Requiem aeternam dona eis, Domine: et lux perpetua luceat eis.


(日本語訳)
主よ、私を解き放ってください、恐ろしいあの日に永遠の死から。
その日には、天と地は震動する、
主がこの世界を炎によって裁きに来られるのだから。
私はいずれ来る裁きと神の怒りを思い、震えおののく。
その日には、天と地は震動する。
その日こそ怒りの日、禍の日、悩みの日、大いなる悲嘆の日。
主がこの世界を炎によって裁きに来られるのだから。
主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光により彼らを照らしてください。

第20章【立冬・こわれてきえた】

 火曜日の朝、松野市立晴美ヶ丘中学校では、校庭に全校生徒を集め緊急全校集会が開かれた。壇上に上がった校長が、気難しい表情を浮かべ、悲しい事件の報告と説明を生徒達に向けて話していた。
 つい三日前の土曜日に開催された合唱コンクールは、例年以上の盛り上がりを見せ、その充実感や達成感は心地良い余韻として、しばらくは学内に充満されるはずだった。
 三年生は、間もなく迎える受験に向け、最後の大きな思い出作りとなるはずのイベントだった。二年生や一年生にとっても、進級を前に、残りの学校生活を今のクラスメイトとより密に過ごす為の、絶好の機会だった筈だ。苦労や辛酸を分かち合い、楽しみや充実感を共有し、クラスで力を合わせてやり遂げたのだから、それぐらいの価値は与えてあげるべきだし、学校としてもそういった目論見も含めた行事なのだ。
 しかし、よりによって行事を終えた夜、大変なことが起きてしまい、全てが台無しになった。楽しい思い出は、残酷なぐらいに悲惨な記憶へと塗り替えられ、多感な中学生の心に深く刻印されることとなった。

 向井が自殺したらしい——。
 その衝撃的な噂は、コンクールの後、土曜日の夜から日曜日、そして翌日の代休の月曜日に掛けて、ほぼ全生徒に知れ渡ることとなった。すぐにローカルニュースでも取り上げられ、噂は事実と証明され、月曜日の夜には緊急保護者会も開催された。おそらく、全国ネットのワイドショーで取り上げられるのも時間の問題だろう。現役の教諭が勤務先の校内で自殺したのだから、その影響は計り知れない。緊急保護者会の席で、数日間の休校も提案されたが、結局は火曜日から通常授業を行うことで落ち着いた。
 しかし、学内で起きた悲しい事件の余韻は、数週間経っても消えることはなかった。ナイーヴな中学生にとって、あまりにも刺激が強過ぎたのだ。泣いて過ごす少女もいれば、強がって平静を装う少年もいた。事実から目を背ける者もいれば、意識的に部活や勉強に打ち込む者もいた。塞ぎ込む女子、明るく振る舞う男子、ショックで寝込む子もいた。それだけ、中学生の心を抉るような出来事だったのだ。
 教職員も、平静を装いつつも、何処かよそよそしい感じは隠し切れず、空元気に見えた。生徒の前では、必死に取り繕うとしているが、若い女性教諭の中には情緒不安定になり、休職する者もいた。いや、女性に限った話ではない。第一発見者となった男性の数学教師は、精神的ショックによる急性ストレス障害と診断され、無期限での自宅療養となった。他の教員も同僚が職場で自殺したのだから、何事もなかったかのように普通に過ごす方が困難だろう。

 件の合唱コンクールでは、一際客席を沸かせたステージを披露したクラスがあった。他でもない、向井が担任をしてきた二年二組だ。
 しかし、二組は二学期に入った頃から、向井との間に出来ていた溝が致命的な深さに達し、修復不能になっていた。やがて、その軋轢から生徒一同は向井の指導を拒絶し、全て生徒達だけで作り上げたステージを披露することになった。アイデアも練習も衣装も演出も、全て皆んなで知恵を出し合い、協力し合った結晶だ。その結果、二組は見事に優勝を果たした。生徒全員が団結し、生徒一同で掴み取った栄誉だ。
 壇上で見事な道化を演じ、会場を笑わせた指揮者。ソロパートを揚々と歌い上げた二人のソリスト。リズミカルに、そして時にコミカルにピアノを弾いた少女。地味な譜めくりを装いながら、美味しいところを持っていた美少女。クラス全員で呼吸を揃え、絶妙なタイミングで小ネタを挿入し、コント仕立ての演出で歌い切った。そのメンバーも、今はやり場のない感情を必死に抑え、喜怒哀楽のベクトルも見つけられないままに、立ち尽くしていた。
 それも当然と言えば当然だろう。そのステージを作り上げる過程で、不登校となった一人の男子を除く二組の全生徒は、どのクラスよりも強く結束し、皆んなで意思を統一して、向井を排除したのだ。もちろん、生徒達にとっては、そうなる理由は全て向井にあった訳だし、一人の生徒が不登校になった理由の一端も向井にあると考えていた。つまり、自業自得なのだ。
 だからと言って、この結果には誰も喜べない。どう向き合い、対処すべきか分からないでいた。向井の死を、まともに受け止められる生徒はいなかった。まるで、自分達の責任を咎められている気がしたのだ。
 実際に、何人かの生徒は、自分達が向井を追い詰めたのだと、酷い罪悪感に苛まれていた。また、別の何人かは、生徒たちへの卑劣な復讐だと受け止める者もいた。決行した場所とタイミングからして、学校やコンクールに対する当て付けや嫌がらせだ、と捉える者もいた。
 いずれにしても、「教諭の自殺」だけでも大ごとなのに、そのバックボーンまで含めると、とても中学生が真正面から抱え込めるような出来事ではなかった。だからこそ、「そうじゃない。子どもたちには何の罪も責任もない」という大人からの強い言葉が必要だったのだ。

 しかし、教育現場は不都合なことには蓋をし、目を背け、保身に走る傾向がある。晴美ヶ丘中学校もそれは同じだった。
 その日から、二組は教頭が急遽代理で担任を受け持つことになった。定年間近の男性教諭だが、生徒へのケアよりも自らの保身が優先であるかのように、向井の死について生徒たちと向き合って話をしようとしなかった。
 自分達の力で乗り越えて欲しい、彼等ならきっと大丈夫だ……表向きはそういうスタンスを取りつつも、単に踏み込むことを恐れただけだろう。教頭にとっては、平穏に定年を迎えることが最優先なのだ。だからこそ、下手な発言や対応を恐れただけだ。わざわざ荒波を立てるリスクは犯したくない……あくまで一時的な代理という立場をいいことに、取り返しが付かなくなる「失言」のリスクより、何かあっても弁明の余地のある「無言」を選択したのだ。ただただ、狡猾だ。

 緊急全校集会に話を戻そう。全校生徒を集め、既に十分以上も校長が熱弁をふるっていた。
「……だからと言って、逃げるだけは、何の解決にもなりません。もちろん、逃げないといけない時もあります。立ち向かう勇気が出ないこともあります。大切なことは、そんな時には、いつでも近くの大人に相談して欲しいってこと。両親に言いにくいことなら、担任でも部活の顧問でもいいし、スクールカウンセラーでもいい。君達は、大人が信用出来ない年代かもしれない。でも、これだけは信じて欲しい。君達の近くにいる大人達は、いつでも君達を応援しているんだってこと。だから、学校でもし困ったことがあれば、一人で悩んでいないで、いつでも相談して欲しい……」

 深妙な面持ちで、校長が延々と喋っている。爽やかな秋空に似つかわしくない重苦しい話が、長々と続けられた。生徒たちにとっては、校長の話なんて事実を伝えてくれたら、あとはどうでもいい。それよりも、少しでも早く友達とこのことについて話し合う方が、メンタル的にもずっと有益なのだ。
 しかし、そんな中学生の心情さえ理解出来ていないことが、教育現場の最大の欠点だ。それなのに、大人に相談しろ、と荒唐無稽な話を続けている。逆に、大人は子どもに信頼されていると思っているのだろうか? 相談しろと言う前に、相談されるような信頼関係を築くべきなのに、その点は全く考慮に入っていない。むしろ、そこはクリアされている前提で話を進めている。
 校長は、深妙な顔付きを崩さずに、無為な説法を懲りずに続けていた。せめて、「生徒達には何の責任もないんだ」という強いメッセージを伝えるべきなのに、そんなことにすら考えが至らずにいた。それどころか、学校は懸命に問題に取り組んでいる、向井先生の自殺は個人的な悩みが原因、皆さんは普段通りの学校生活を送りましょう、記者に話しかけられても無視しましょう、困ったことがあれば先生に相談しましょう……と、そんな話を延々と繰り返している。
 生徒達は知っている。向井が、自らの間違った教育と指導で一人の生徒を不登校に追い込んでしまったことを。そして、受け持つクラスの生徒から疎外され、職員室でも孤立し、教育委員会にも不適切な指導が報告されたことも。近日中に改善研修の受講が義務付けられていたことも。何より、内外のプレッシャーに耐えられなくなっていたであろう時に、自分抜きで合唱コンクールに出場したクラスが見事なステージを披露したのだ。おそらく、向井は、自分のちっぽけなプライドによる虚勢さえ失い、自信の存在意義を完全に見失い……突発的なのか復讐なのか、或いは当て付けなのかは分からないが、自死を決行した。
 生徒達は、ここまで理解しているのだ。それなのに、学校側は、生徒が理解していることを理解出来ていない。生徒を子ども扱いし過ぎているのだ。つまりは、見縊(みくび)っているのだろう。
 そして、おそらくは向井も生徒を子ども扱いし過ぎていたのだ。だからこそ、自己保身や自己満足を優先し、生徒達の主張に耳を傾けず、反対意見には言いくるめることで蓋をして、中学生の自尊心を(ないがし)ろにしてきたのだ。それで通用するだろうと見下していたのだ。突き詰めて考えると、最終的にはそこに辿り着くのかもしれない。
 向井の傲慢な思想や哲学や教育理念は、シャボン玉のように膨らんだものの、所詮は中身のない見掛け倒し。膨らむ程に脆くなり、呆気なく、本人諸共「壊れて消えた」。

第21章【啓蟄・あおげばとうとしわがしのおん】

 そろそろ連絡が来ても……と、ここ数日はソワソワしながら過ごしていた。ひょっとして、ダメだったのかも……そんな不安も完全には拭えない。まだ結果が届いてないのだろうか……期待と焦りと不安が入り混じる中、こちらから直接聞いてみるべきなのかという迷いも加わり、私は居ても立っても居られない数日を過ごしていた。
 健太の入試結果を待っていた。

 広田に師事するようになり二年——持って生まれた才能に恵まれていた健太の実力は、広田の指導で劇的に向上し、実技だけなら大抵の音大で通用するレベルにまで成長していた。ピアノやソルフェージュ、聴音、楽典、コールユーブンゲンなども問題なく、入試合格水準には十分に達していた。
 問題は、一般科目だ。つまり、国語、英語、小論文……など。音大と言えど、大抵の入試ではこのうち二教科以上は必要なのだ。健太は、大検にこそ合格はしているものの、一般大学入試レベルの学力にはとても届いていない。配点の大きい実技で挽回したところで、基礎学力が足りていないと、それだけで不合格になり得るのだ。
 それでも、毎日新聞を読み、定期的に読書をしてきたことにより、多少とは言え自然と国語力は身に付いていた。もちろん、それだけだと不十分なので、予備校にも通い対策してきた。また、広田の指示で定期的にコンサートを聴きに行き、レビューを書いてきたことは、小論文対策も兼ねていたのだ。広田は健太のブログを読んでは添削し、文章の書き方を教えてきた。実は、広田はかつて長年に渡って某新聞の音楽評を担当していた経験があり、文章力も卓越していたのだ。
 国語と小論文は大丈夫だろう……模擬試験の結果をみても、そういう見通しは立っていた。問題は、英語だ。中学生の途中で学業を投げ出した健太にとって、大検には受かったとは言え、大学入試レベルの英語力の習得はとても間に合わなかった。
 日常会話程度の英語を難なく操る広田と言えど、受験英語は全く別物で教えることは出来ない。基本的には独学で、途中からは予備校でも学んではいたが、義務教育レベルの英語が精一杯で、大学入試となるとかなり危うい水準までしか到達出来なかった。
 実技や専門科目でパスしても、英語で落第することはどうしても避けたい。もう一年、浪人を続けるという選択肢も捨て難かったが、一年延ばしたところで見違えるほどの改善は見込めないだろうし、必ず合格する保証はない。なので、今年こそ受験することは決定していた。

 問題は、どこを受けるのか……実は、英語が苦手とは言え、入学だけが目的なら幾らでも入れそうな音大はあるのだが、勿論、広田はそれを許さないし、健太にも健太なりの志望校は幾つかあった。ただ、健太の希望は大学の水準は考慮に入れておらず、自宅から通えることを優先した選択だ。そうなると、選択肢自体がかなり制限される。
 広田は、自身のコネクションとネットワークをフル活用し、全国規模で情報を収集した。すると、健太に合いそうな入試システムを採用している大学が見つかった。試験科目自体は、実技と専門、そして、楽典、国語、外国語、小論文とごく一般的なのだが、国語と外国語の配点が極端に低いのだ。ここだと、かなり大きな配点を貰える楽典と小論文で挽回出来るだろうし、国語もそれなりには稼げる。なので、もし英語が0点でも受かる可能性はあるのだ。大学のランクも決して低くはなく、教授陣の顔触れを見てもそれなりにレベルは高い。広田は、健太にその大学の受験を勧めた。
 しかし、もし合格すると一人暮らしをしなくてはいけないという、大きな課題に直面してしまう。健太にその覚悟があったとしても、実際にやっていけるかどうかの確証にはならない。両親の意向も無視出来ない。とは言え、今年入学したければ、一番可能性の高い選択ではある。
 結局、健太はその大学を受験することにした。一人暮らしも、やらなければいけない状況になれば何とかなるだろうと判断したようだ。しかし、この音大を受験すると聞いて以来、健太との連絡は途絶えていた為、私はどういう行動を起こすべきなのか悩んでいた。
 そんな折、数日後にメールが届いた。とても簡潔な文面だが、私にはとても長くて、深く重い言葉に感じたものだ。

「色々とありがとうございました。おかげさまで、この度、鷹咲音楽大学音楽学部声楽科に合格しました。川口健太」

 健太がついに二十六歳にして、音大生になれた。声楽家として、音楽家としてゆっくりと歩み出す瞬間だ。あまりにも遅いスタートだが、中学二年生で一時停止した人生だ。そして、リスタートが遅過ぎたことを考えると、素晴らしい成果と言えるだろう。
 健太に伝えたい言葉は山ほどあるが、文面に起こそうとすると煙のように消えてしまう。照れなのか、文才の無さなのか……散々悩んだ挙句、私は、「おめでとう」と一言だけ返信した。

 三月中旬、健太は両親と共に中国地方の小都市、鷹咲市へ出向き、部屋探しを行なった。防音室を備えた音大生用の部屋は少なく、しかも、そのような部屋は入居者が退室する際に後輩へ引き渡すことが多い為、なかなか空くことはない。
 健太としては、ピアノが置けさえすれば間取りや地域など何でも良かったのだが、一人暮らし用のマンションでピアノ設置可の物件はまず見つからない。音出し以前に、床の強度の問題で、ピアノの設置そのものが禁じられているケースも多い。なので、防音室を設置することも、消音機能付のピアノを持ち込むことも、なかなか容易ではないのだ。
 他にも、通学の便宜性も考慮に入れる必要があるし、予算の問題もある。それでも、都内や大都市なら、何とか探し当てられるだろう。しかし、地方の小都市では、そこまでの需要もない為、健太の部屋探しは困難を極めた。
 結局、その時の滞在では、部屋を見つけられなかった。消音機能付のアップライトピアノなら設置可の部屋はあったが、健太はグランドピアノに拘ったのだ。

 健太の両親から相談を受け、私も部屋探しを手伝うことにした。私には、一つだけアテがあったのだ。岩木である。
 岩木は、鷹咲市に隣接する光岡市を拠点としており、当然鷹咲市も営業エリアに入っているはずだ。むしろ、小都市とは言え、三岡市よりは都会の鷹咲市の方に、より仕事の重点を置いているに違いない。つまり、何らかのコネクションを持っている可能性は高い。
 しかし、健太の納調で言い争いをして以来、岩木とは疎遠になったままだ。なので、一年半振りの連絡は拒絶の可能性もあり緊張を要した。だが、一方では楽観視もしていた。というのも、健太の在学中はピアノのメンテナンスを岩木にお願い出来るので、損得勘定の得意な岩木は、おそらく相談に乗ってくれるのでは? と予想していた。
 また、小さなこととはいえ、私自身も一つ殻を破るチャンスだ。今までの私なら、岩木との関係は有耶無耶なままフェードアウトさせただろう。でも、私も変わっていかねばならない。健太のように劇的な変化は無理でも、自分の欠点と向き合い、改善は試みてみたい。あの「リベラ・メ」を聞いて以来、私にはそういう気持ちが芽生えていた。
 勇気をふり絞り岩木に電話を掛け事情を説明してみると、ありがたいことに岩木は部屋探しに協力してくれる約束をしてくれた。ちょっとしたきっかけと、ちょっとした小さな勇気。ちょっとした小さな一歩を踏み出すだけで、意外と事態は好転するのだ。私は、身をもってそれを体感した。岩木にも、私に対して色々思うことや(わだかま)りもあるだろうが、こちらからの歩み寄りを受け入れ、何事もなかったかのように私と接してくれたのだ。
 そして、地元の強みなのだろうか、僅か数日で一つの物件を見つけてくれた。岩木の顧客が所有するアパートに、空きがあるそうだ。アパートと言っても2LDKの広さがあり、退室時の原状回復を条件に防音室の設置も許可を得た。一階なので、グランドピアノの持込みも大丈夫だ。通学にも便利な立地で、家賃も予算の範囲内。この話を健太に伝えると、借りたいと即答した。

 岩木に、部屋を取り押さえて貰うと、若干予想はしていたのだが、恩着せがましく条件を出してきた。この辺りも、良くも悪くも元の岩木そのままだ。
「四月には入学式でしょ? 防音室無しじゃピアノ搬入は駄目なんで、今日にでも防音室の設置に取り掛からないと間に合いませんよ。こっちで全て手配してもいいですよね?」
 岩木は、有無を言わせぬ説明で、防音室の仕事を奪うつもりだ。でも、確かに一理はある。直ぐに取り掛からないと、引越しに間に合わない可能性もあり、ピアノの搬入もそれからになるので、急ぐ必要はある。防音室の設置は、百万円を遥かに超える事業なので岩木に取られるのは悔しいが、必ず下見も必要な上、毎日施錠と解鍵が必要だ。那古野から手配していると、間に合わない可能性が高い。やはり、現地にいる岩木に任せるしかない。

「あれ? 言ってませんでしたっけ? すみません、もちろん、そのつもりですよ。岩木さんなら安心してお任せ出来ますので、直ぐに手配して下さいね。後でお客様のデータを送りますので、打ち合わせが必要でしたら直接お願いします。ご請求先も、直接聞いて下さった方が間違いないですよね? 本当に助かります。よろしくお願いします」
「お任せください! 直ぐに手配して間に合わせますよ!」
 私は、せめてもの抵抗として、最初から岩木に譲るつもりだったというスタンスを貫き、しかも謙って感謝も伝えた。すると、彼もハイテンションで請け負ってくれた。以前の私なら、皮肉を交えたかもしれないが、私もモデルチェンジが必要なのだ。岩木には、感謝しないといけないことも認めないといけない。
 しかし、岩木には健太の正体を明かさなかった。何故かと問われても、上手く説明出来ない。とは言え、そう遠くない過去に、自分でスタインウェイを売った客だ。普通なら、名前や住所を見て瞬時に思い出すだろう……が、岩木は忘れているような気もしていた。なので、岩木を試したかったのかもしれないし、確認したかったのかもしれない。

 進学、そして引越しの準備を始めた健太は、スタインウェイは那古野に置いておく決断をした。帰省した時に弾きたいし、将来的には那古野を拠点に活動したいそうだ。なので、在学中は別のピアノを用意することになった。流石にもう一台スタインウェイを購入することは、非現実的な贅沢だろう。数年間の期間限定で使用することも踏まえ、国産の中古グランドピアノで手頃なものを探すことになった。
 私は、複数の提携業者の在庫を撤退的にチェックし、何台かの中古ピアノをピックアップし、全てを慎重に精査し、一台に絞り込み工房に入れた。音に敏感な健太なので、調整は丁寧に行ったが、どうしてもピアノ固有の限界を越すことは出来ない。案の定、健太に試弾してもらうと、音色の繋がりの違和感を指摘された。
 でも、これがこのピアノのポテンシャルの頂点だ。これ以上の仕上がりを求めるなら、メカニックの入替えが必要になる。本体の響きは駄目でも、アクションや弦をドイツ製に替えると、随分とマシになるのだ。もちろん、たとえスタインウェイのパーツに替えたとしても、本体は国産ピアノのままなので決してスタインウェイにはならないのだが、今よりはずっとパフォーマンスは向上する。ただ、何よりも作業に時間と予算が掛かってしまう欠点も生じる。
 健太は、それでもアクションと弦の交換を望んだ。納品が入学に間に合わない可能性も出てくるが、そのことも了承してくれた。これから最低四年間弾くことを思うと、数日の遅れは何てことない。その数日の為に、大きな妥協は割に合わないとのことだ。

 結局、健太がオーダーしたピアノは、ギリギリ入学式に間に合わせることが出来た。配送手続きも忙しい時期に関わらず、奇跡的に上手くいった。
 弦とアクションをドイツ製のパーツに入替えたピアノは、スタインウェイには遠く及ばないものの、国産ピアノとは思えないレスポンスと豊潤な響きに生まれ変わり、既に鷹咲市への引越しを終えていた健太も、ピアノが届くなり「これならば……」と満足してくれたようだ。
 私は、岩木に納調を依頼した。その際、お客様がとても音に敏感なこと、そして、ピアノが弦とアクションを交換した特殊な仕様であること、納品前に完璧に調整しており、納品直後の状態ではお客様が満足していたことを岩木に伝えた。軽くプレッシャーを掛けたかったのだ。そして、今後のメンテナンスもお願いした。

 どうやら、岩木は健太のことを覚えていないようだ。確かに、メールのやりとりだけで直接会ったことはないのだろうし、健太も当時とは見違えるほどに変わった。それでも、スタインウェイという特殊なピアノを四百万円超えの価格で販売したお客様だ。僅か三年も経たない内に、名前を聞いても思い出せなくなるなんて……まぁ、岩木にとってのお客様なんて、その程度の軽さなのだろう。
 しかし、当然ながら買った方は覚えているものだ。間違いなく、健太は岩木のことを覚えているだろう。なので、岩木もそのうち、健太の正体を知ることになるかもしれない。その時に、岩木はどのように反応するのか楽しみだ。
 ともあれ、このピアノは特別仕様に改造している上、弦を交換したので狂いやすくなっている。そして、音にとても敏感なお客様なので、納調代は一万円支払いますと伝えた。いつかの岩木が私にそうしたように、後ろめたさがあったのではない。岩木の技術では、おそらく対処出来ないことを知っている、つまり、苦労することが分かっていたからだ。
 岩木の技術では、健太の高い次元の要求に応えられないだろうし、このピアノのポテンシャルを引き出せないだろう。お客様と信頼関係を築けば、細かい技術は不要、大切なことはお客様が満足すること……岩木が、いつか私に言った言葉だ。もし本当に出来るものなら、是非健太を満足させて証明して欲しい……そういう皮肉と期待も少しだけあった。

 さて、話を少し戻そう。健太の合格通知が届いた夜、広田の自宅でささやかなパーティが開催された。那古野ムジカ・ハルモニアのメンバーと私、そして健太が招待された。皆で先生の好きなテキーラを飲み、健太の合格を祝った。健太は、恐縮そうに肩を窄め、縮こまっていたが、その表情は晴れやかで自信と希望に満ち溢れていた。
 私は、初めて健太と会った日のことを思い出していた。顔半分を隠す大きなマスク、伸び放題の前髪、忙しげに目に付いたものを意味もなく触り、常に何かに怯えてるような不安定な挙動。どこにも合わない焦点と、青白く痩せ細った身体。
 しかし、そんな健太はもう存在しない。僅か三年弱の間に、健太は見た目も中身も大きなモデルチェンジを遂げた。もちろん、健太自身の意志の強さも大きいが、何よりも広田の導き、そして音楽の力によるものだろう。

 その日、最後に広田が健太に話し掛けた。それは健太にとって、那古野で師にかけられた最後の言葉となった。この日を最後に、広田はもう役割を終えたかのように、健太に会おうとしなかった。きっと、広田の中でも完全燃焼したのだろう。やるべきことをやり尽くし、そして、未来を信じてるのだろう。雛が飛び立った後の親鳥のように、広田は健太が離れていくのを静かに見送りたいのかもしれない。

「大学生活が始まっても、君はもっと身体を鍛えないといけない。休んだらダメだ。特に、心肺機能を高め、肺活量を増やさないとプロとして通用しない。声楽家ってのはな、身体が楽器なんだ。声帯が発音体で胴体は共鳴体、肺はフイゴだ。でも、君のフイゴはまだまだパワー不足だよ。アメ車の車体に軽自動車のエンジンを積んでるようなもんさ。特性を活かすには、もっと大きな出力が必要なんだ」

「あとは、今まで通り、毎朝新聞を読みなさい。常に世の中の動きを知りなさい。そして、心で感じ、頭で考えなさい。本も今まで以上に読み、コンサートにも足を運ぶこと。映画も沢山観て、美術館や博物館にも通うんだ。そして、大事なのは、何かを鑑賞したら必ずレビューを書くことだ。レビューを書いているとな、自分自身の感情を客観視出来るようになるんだ。声楽家にとって、これはとても大切なことだよ」

「無駄な過去はないなんて、そんな綺麗事は僕は言わない。実際、君は長い時間を無駄にしたんだ。でも、絶対に取り戻そうとしてはいけない。無駄を埋めのではなく、一度、無駄な過去と訣別し、必要な時には活用することを考えなさい。そうすると、無駄が無駄でなくなるんだ」

「長期休暇も、余程のことがない限り帰ってくるな。もし事情があって帰ってきても、僕には会いに来るな。連絡もするな。ソロリサイタルをやるようになれば、僕から会いに行くさ。いいか、今度会うのは、僕が君のリサイタルに出向く時だ。それまでに那古野に帰る時間があれば、大阪や東京に行け。金と時間があれば、アメリカでもヨーロッパでもいい。目的は、遊びでも勉強でも芸術鑑賞でも何でもいいんだ。沢山の刺激を貰うこと。全てが音楽に結び付くはずだ」

「遊ぶのはいい。好きなだけ遊びなさい。早く恋人も作って、思い存分セックスも楽しみなさい。風俗にも行けばいいさ。酒も飲んだらいい。喉が焼けない程度にな。タバコはダメだ。薬もダメ。ギャンブルはやりたければ破産しない適度にやればいい。要するに、自分の楽器さえ大切にするのであれば、何をしてもいいんだ。その代わり、大切なことは、これから君が行なう行動全てを音楽の糧にすること。それだけは守って欲しい。もう、僕は君を見てあげることは出来ない。これからは、新しい先生を見つけ、師事しないといけないんだ。でも、今言ったことが出来れば、もう僕のところなんか来る必要はない。何も教えることなんかないんだ。心置きなく見送れるよ」

 健太は、立ったまま号泣しながらもしっかりと話を聞き、先生の目を見つめ、力強い信念を込めて大きく頷いた。何も言葉に出来ないことが、何よりの気持ちの表れだろう。
 奇しくも、その日は二十四節季の第三節、啓蟄だった。冬籠りの虫が這い出てくる……そんな由来の日だが、春の始まりを告げる日でもあり、人間社会では「さぁ、動くぞ(働くぞ)」と意気込み始める季節とも言われている。「啓」には、「解放する」「夜が明ける」という意味もあるのだ。
 健太の人生は、いよいよリスタートを切る。

第22章【冬至・ぼくらはみんないきている】

 冬休み前の最後の休日を利用して、中北清也の自宅では、少し前倒しになるが、ささやかなクリスマスパーティーを開催していた。中北以外の参加メンバーは、矢野悠馬、西浦芽衣、尾崎千尋、そして石川唯香。つまり、あの時の五人が久しぶりに一堂に会したのだ。もちろん、パーティーとは表向きのキャプションに過ぎず、誰も口にこそ出さないものの、実質的にはちょっとした反省会、若しくは討論会のような集まりだと認識していた。
 夏休みの事件に始まり、Kの不登校、向井との確執、クラスメイトの団結、そして向井の自殺——。僅か四ヶ月の間に、五人の周囲は慌ただしく、尚且つ劇的なまでの変容を見せた。多感な中学生にとって、この事実はあまりにも重い。正面から受け止められず、無意識に目を逸らす者もいれば、抱え切れずに押し潰されそうになる者もいた。前者は矢野悠馬、後者は石原唯香だ。

「とりあえず、オカンがケーキ用意してくれてるから、食べようぜ」
 険悪ではないにしろ、重苦しい空気の停滞を打破しようと、ホスト役の中北清也が努めて明るく声を掛けた。
「あ、私、ジュース買ってきた! コーラ二本と紅茶二本、あとジンジャエールも一本。何がいい? 早いもん勝ちやで!」
 西浦芽衣が中北の意図を咄嗟に汲み取り、さりげなく後に続いた。
「そやな、とりあえずケーキ食おう! 俺、ジンジャエールがいい!」
「あ、私もジンジャエールがいい! あとな、私もポテチの大袋のやつ、持ってきたで!」
 矢野と尾崎千尋も、すかさず流れに乗った。この辺りの空気を読む力は、とても鋭敏な年代なのだ。
「マジか? オレだけ手ぶらやん。何か、タダ飯食いに来たみたいで悪いな」
「矢野君らしくてえぇやん!」
「は? それどういう意味やねん? オレが貧しい人みたいやん」
「アハハ、ごめんごめん、そう意味じゃない……ってこともない」
「なんやと!」
「もう、怒んないで! ごめん、冗談やん。その代わり、ジンジャエールあげる。私はコーラでいいや」
「いぇーい、ジンジャエールゲット!」
 矢野と千尋は、軽口を叩き合い、いつもの中学生の雰囲気に戻そうと懸命だ。
「なぁ、石原、悪いけどケーキ切ってよ」
 ずっと俯いて黙り込んでいる石原唯香に、中北は声を掛けた。唯香は少しだけ顔を上げ、小さな声で「うん」とだけ頷いた。
「じゃあさ、とりあえず話は後にして、みんな、メリクリ!」
「メリクリ!」
 ただケーキを食べるだけの簡素なクリスマスパーティーは、辛うじて和気藹々とした空気を取り戻して始まった。

 ささやかなパーティの後、他愛のないトークを楽しんでいた五人だが、全員共に何処か気分は晴れないまま、無理して明るく努めていた。だからなのか、たまたま全員が黙った瞬間——時間にしてコンマ数秒の沈黙だが——を機に、重苦しい空気が再度下りてきた。その時、意を決したように矢野が口火を切った。
「Kの引越し先、どうやら那古野らしいで。オレのオカン、PTAやってるやろ。学校で教頭に聞いたって」
 矢野と中北は、向井が自殺した後も、時々、Kの家を訪問していた。とは言え、その頻度はかなり減っていた。結局、一度もKと会えることはなかったし、Kの両親も少しずつ態度が冷たくなってきて、あからさまに面倒臭そうな表情を浮かべるようになっていたのだ。
 そして、十日ほど前、最後に二人で伺った時、Kの家はもぬけの殻になっていた。一見しただけで、留守というレベルではなく、完全に空き家になっていることは分かった。
 引越してしまったんだ……矢野と中北は、何とも言えない脱力感に襲われ、途方に暮れた。もうこれで、Kに真相を伝えることは出来なくなったのだ。既に、冗談で済まされることではなくなっているが、それでも冗談のつもりだったことは直接伝えたかったのに、その機会は喪失した。
 学校からKの転校について話があったのは、それから数日後のことだった。Kの家族の意向なのか、学校による何らかの配慮なのかは不明だが、Kの転居は直ぐには公にされなかった。
 ともあれ、ちょっとした悪戯のつもりが、Kの人生を狂わせてしまったことは間違いない。せめて、きちんと説明したかったし、謝りたかったのに、どちらも叶えることは出来なかった。中学生にとって、那古野はあまりにも遠い。もう、会うことは出来ないだろう。転校先では、昔のように、シャイながらも誰とも適度な距離で付き合えるKを取り戻して欲しい……それだけを願った。

「那古野かぁ……謝れんかったね」
「でもさぁ、矢野君と中北君は、最後まで諦めんと頑張ったと思うよ。私なんか、結局三回ぐらいしか訪問してへんもんな」
「うん、私も。唯香もやんね?」
 尾崎と西浦に話を振られた唯香は、淋しそうに口を開いた。
「ごめん、私は皆んなで行った時以外も、何回か一人でも謝りに行った。一回も会えんかったけど……あのドッキリ、言い出しっぺは私やもんね。私が変なこと思い付かんかったら、こんなことならんかったのに……みんな、巻き込んでしまってごめんね……K君にも、ホント酷いことしてしまって……」
 話ながら、唯香は堪え切れずに泣き出してしまった。
「唯香の所為やないって! 私も千尋もノリノリやったし」
「そうそう、それに、あの時、大袈裟に騒いだのは私やもん。その所為で向井にバレたんやから、私が一番悪いんやと思う」
「千尋だけやないよ。Kに『何やってんねん!』ってキツく怒鳴ったのは私やし、あの言い方の所為で他の子に気付かれたんやから、私が一番アカンかったんやと思う」
 西浦と尾崎は、唯香を庇おうと必死だ。そこに、矢野も参戦した。
「女子は何も悪ないで。一番アホなんはオレやねん。ちょっとしたドッキリの予定って聞いとったのに、オレがどうせやから大掛かりなことやろうって言い出したんや。で、Kに更衣室を覗かせようって考えたんもオレやし……あ、そうや。なかなか言う機会なかったけど、ついでに三人には知っといて欲しいことあるねん。石原の裸を覗きに行こうって誘った時、Kは猛反対したからな。ホンマに。可哀想やからやめてあげて! って言われたぐらい。結局、中北と二人で何とか丸め込んだけど、Kは全然乗り気やなかったってことは分かってあげて欲しいねん……」
「うん、K君らしいね。矢野君の話、私は信じるで」
 西浦がそう言うと、尾崎と唯香も小さく頷いた。

「……で、話戻すけど、向井が来た時も、オレ達が出て行けば冗談で済んだかもしれんのに、怖くて出て行かれへんかったのもアカンかったと思う。中北は出て行こうとしたけど、オレが止めたしな。やっぱ、あの時直ぐに出て行っとったら、向井もドッキリって信じたかもしらんやん。オレが悪ノリして、そのクセ、いざって時にヘタレやったからこうなってしまったんや。少なくとも、女子の所為やない」
「それは違うやろ? お前な……って言うか、矢野だけやないな。石原も皆んなにも言いたいんやけど、誰か一人の所為なんかやない! 俺も悪いし、皆んなも悪い。それでええやん。誰かが特に悪いってのもないし、誰かはそこまで悪くないってのもないねん。皆んな平等に、同じように悪かった。チームやもん。だから、自分一人を責めたらアカン。自分一人で被るのもアカン。違うか? それでえぇと思わんか?」
 中北の真剣な眼差しに、皆んなが黙り込んでしまった。少し間をおいて発言したのは、唯香だ。

「でも、やっぱり言い出したのは私。それは変わらへんやん。結局、私がドッキリやろうなんて言わんかったら、こんなことにならんかったやん」
 ようやく泣き止んでいた唯香だが、自責の念は解消されていないようだ。切実なまでに自分の行動を責め、罪を背負おうとしている。
「そうやな。確かに、石原が俺に持ち掛けて来たんが最初やな。でもな……じゃあ聞くけど、あの時に俺が断ってたら、石原は一人でもやったんか? それいいな、やろうやろうって賛成したのは俺やん。どうせやるならって矢野を誘ったのも俺。石原の理屈やったら、俺が反対してたらこんなことにならんかったのに、ってことやろ? 矢野が俺の誘いを断ったら、って話にもなるで。そもそも論なんて、どこまで遡るか、何処から考えるか、ってことだけやん。そんなもん、その人の匙加減やもんな。少なくとも、言い出しっぺが一番悪いってことは絶対にないよ」
「そうやね……私も、中北君の言う通りやと思う。結局な、誰も途中で()めようとせぇへんかったもん。皆んな、やる気満々やったし」
「うん、K君の気持ちも考えんと、今思ったらメッチャ不謹慎やけど、私はもう前日からハラハラドキドキして楽しんでた」
 尾崎と西浦は、中北の主張に同意した。と同時に、矢野も口を挟んだ。
「オレも……そやな、やっぱ中北の言う通りやと思うわ。結果論で言うたら、止めるタイミングは幾らでもあったんや。それやのに、誰もブレーキ掛けへんかったんやから、皆んな同罪や。でもな、石原の真似してそもそも論を持ち出したら、向井が悪いんちゃうかな。アイツの所為でKがおかしくなったし、その所為でクラスがバラバラになったし。だからこそ、ドッキリしようって思い付いたんやし。それに、ドッキリの後もオレらの話、全く聞いてくれへんかったやん」
 矢野は、さりげなく論点をズラして、向井への糾弾へと話を振った。
「うん、必死に説明したのに、全然聞いてくれんかった。それどころか、K君を庇うな! って怒られたわ」
「そうそう、フェミニズムかなんか知らんけど、女は男に立ち向かえ! とか言うて、一方的にK君だけ責めて、私らの話は聞こうともせんかった!」
 矢野の目論み通り、いつしか五人の話は向井の悪口大会になっていった。しかし、ここでも唯香と中北は冷静だ。
「でも、先生死んじゃったやん。うちらのこと残して、K君のこと解決してへんのに。ズルいと思う」
 唯香の本質を突いた言葉を、中北が受け継いだ。
「うん、向井はズルいよな。あんなタイミングで自殺するなんて、俺らの方が間違ってたみたいに感じてしまうやん。でもな、このメンバーやから正直に言うけど……ハッキリ言うて、俺、向井が自殺したって聞いた時、あんまり悲しくなかってん。その時は、ズルいとか可哀想ってのもなくて、それより、俺らの所為なんかな? 何か責任取らなアカンのかな? って不安の方が大きかった。遺書に俺のこと書かれてたらどうしよう、とか、合唱コンクールで生徒にハブられたから嫌になった、とか書かれてたら、ってメッチャ怖くなってん。自己中のエゴかも知らんけど、それが本音」
「私は、今でもそう思ってる。向井先生は、うちらの所為で死んだんやろなって。あの時も、私と中北君が言い出しっぺやんね。もう向井先生とはやりたくないって」
「そやな、俺も同じこと考えた時期もあるよ。でも、自己弁護になるかもしらんけど、さっきと同じなんや。確かに俺と石原が向井に話に行って生徒だけでやるから口出ししないでくれって言うたけど、クラスの皆んなに報告した時、誰も反対せぇへんかったやん。それどころか、皆んな大賛成やったやん」
 大きく頷きながら、西浦が口を挟む。
「私は大賛成どころか、二人にメッチャ感謝してるで。お陰でピアノ弾けたもん」
「それは私も同じ。まさかソロ歌わせてもらえるとは思わんかった。唯香には、奪うみたいな形になって悪いなぁと思ったけど、やっぱり歌いたかった。二人のおかげやと思ってる」
 尾崎も同じ考えのようだ。
「オレなんか、音楽嫌いやし、ずっと練習サボってたし、当日もサボるつもりやったのに、二人のおかげで主役みたいになれて、メッチャ楽しかったで。まさかオレが合唱コンクールを楽しむなんて、自分でもビックリやもんな」
 矢野もすかさず追従する。
「結局な、誰が最初に言うたんかってことは、そんな重要やないって自分に言い聞かせることにしてんねん。大事なんは、向井がクラス全員に嫌われてたことやないのかなって。で、そうなった原因も向井にあると思わん? 言いにくいけど……これはあくまで俺の考えやけどな、向井は勝手に皆んなに酷いことして、勝手に皆んなに嫌われて、勝手に死んだって思ってるねん」
 中北の話に、皆んな真剣に耳を傾けている。
「まぁ、死んだ人のこと悪く言うたらアカンってことぐらいは分かってるからもうやめるけど、でも、いつまで話し合っても、Kも向井ももうおらへんから何にも答えなんか出えへんと思うし、今更どうしようもないと思うねん。でも、こうやって時々皆んなで話し合って、意見ぶつけあって、Kのことも俺達がやったことも、向井が死んだことも忘れんようにせなアカンと思うねん」
「オレは忘れたいけどな……」
 そう口を挟む矢野と頷く尾崎。しかし、中北は気にせずに話を続けた。
「でもな、覗き事件の真相なんて、今となっては俺達五人しか知らんわけやん。学校にも向井にも何回も説明はしたけどな、誰も信じてくれへんかったし、作り話扱いされたし、学校の人間は、もう覚えてへんと思うねん。だから、俺達は絶対に忘れたらアカンと思う。忘れたら、何もなくなるやん。お前が偉そうに言うな! って思うかもしらんけど、大切なことは、向井と違って、Kも俺達もこれからまだまだ長い人生が残ってるってこと。死んだらおしまいやん。忘れるってそれと一緒やない? 忘れるって、言葉悪いけど、真相を殺すってことにならん? だから、俺たちに出来ることは、忘れんように反省しながら生きることやないかな? いつか、大人になったらKと会えるかもしらんし、その時に忘れとったら申し訳ないやん」
 中北の熱弁を、今度は誰も口を挟むこともなく聞き入っていた。そして、しばしの静寂が訪れた。しかし、今回の沈黙は、ケーキを食べた後の気不味い静寂とは違い、もう空気は重苦しくない。

「ねぇ、中北君は、いつかまたK君と会えると思う?」
 唯香がそう尋ねた。
「分からんな。でも、いつか会えるかもって思いたいやん。もしその時が来たら、ちゃんと説明して謝れるようにしたいなって思ってる」
「中北君って、頼りがいのあるお兄ちゃんみたい」
「あれ? 知らんかった? 石原は無知やなぁ」
「もう、またそれ言う」
 唯香が、この日初めて笑った。二人が初めて話をした時も、似たようなやりとりをしたことを思い出したのだ。Kと中北と三人で、無言で音楽室へと歩く廊下で。もう、何年も昔のことのような気がしていた。
 そんなこと知る由もない矢野が、冷やかすように口を挟んだ。
「おいおい、お前ら何イチャついてんねん。何やねん、いつの間にか出来とんのか?」
「アホ! 石原とイチャついたら、それこそKに怒られるわ」
 その時、唯香は初めてソリスト練習をした日のことを思い出していた。Kも中北も唯香も、まだ新しくクラスメイトになったばかりでほとんど話したことがなく、緊張しながらKに話しかけたのだ。しかし、Kとは会話が全く弾まず、横入りしてきた中北と話し込んでしまった。そして、向井が中北に八つ当たりし、Kの歌を褒め称え、ソロとピアノを交替させ……あの日から、既に歯車は狂っていたのだ。

「三年になったら、皆んな違うクラスになるかもね」
「俺と矢野は、絶対違うクラスにされるやろな。尾崎と西浦と石原もな。ってかさ、五クラスあるから、皆んなバラバラにされると予想! 学校ってそういう汚いこと、平気でやりよるで」
「ねぇ、三年生になっても、五人で集まらへん?」
「いいな、定期的に集まりたいな」

 そのまま、何となく話題は逸れていき、代理の担任をしてる教頭の悪口など、当たり障りのない学校での話で盛り上がり、やがてパーティーは解散となった。しかし、集まった時とは違い、五人ともサッパリと清々しい表情に変わっていた。そして、また春休みにでも五人で会うことを約束した。

第23章【春分・さっきのてがみのごようじなあに】

 地球は太陽の周りを一年掛けて周っている。どこをスタートにしても、三百六十五日——厳密には、三百六十五日と五時間四十八分四十六秒——が経過すると、公転軌道をぐるっと一周して元の位置に戻ってくるのだ。つまり、太陽を中心とした円の円周を、一日に約一度ずつ移動するということになる。これを十五度ずつ(約十五日ずつ)に区切ると、軌道の円周は二十四の節に分割出来る。これが二十四節気だ。
 地軸は太陽に対して、23.5度傾いている為、昼夜の長さは季節によって違ってくる。北半球の場合、夏は昼が長いが、冬は夜が長いのだ。具体的には、二十四節気の「夏至」の日が最も陽の出ている時間が長くなり、そこから日照時間は減っていき、「秋分」になると昼と夜の時間が丁度半々になる。その後、日照時間は更に減っていき、一番少なくなる日が「冬至」だ。
 冬至を越すと、今度は少しずつ昼の時間が長くなっていく。とは言え、寒さはこれからが本番で、二十四節気の小寒、大寒と続くのだ。その後、春の訪れを告げる立春(と言っても二月だが)を迎え、雨水、啓蟄、と続き、少しずつ昼の時間は伸びていく。そして、ようやく「春分」が訪れ、昼夜の時間が再度半々になるのだ。この先は、六月の夏至に向けて、どんどんと昼の時間が長くなっていく。
 この春分の日は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」として、国民の休日に指定されているが、実は二十四節気はこの春分をスタートにカウントすることになっている。年末年始で一年を区切る人もいれば、年度末で区切る考えも浸透しているが、二十四節気ではここが区切りなのだ。
 もっとも、時間の流れはシームレスで本来は区切りなんてない。人間が勝手に分けているだけだ。それでも、自然は何の問題もなく移ろい、変化や代謝を繰り返す。そんな自然を讃える日だから、春分を区切りとするなら相応しいのかも、と思えてくる。

 健太が旅立って一年が経とうとしていた。最初の頃こそ、頻繁にメールを出してくれたが、夏頃からめっきりと減り、もうこの数ヶ月は全く音沙汰なし。逆に言えば、スッカリ大学生活にも一人暮らしにも慣れ、充実した毎日を過ごしているのだろう。私は、そうポジティブに受け止めていた。
 数日前、広田から電話があり、「近々、ランチでも付き合ってくれ」と誘われ、この日が指定されていた。健太は居なくなっても、広田と会う機会は何度もあった。元々ピアノを四台も所有している上、全て半年周期で調律を頼んでくれていたので、それだけでも、年に八回は会っているのだ。更に、合唱団の定期演奏会やピアノ講師の奥様が運営するピアノ教室の発表会でも指名してもらえたし、何より月に一〜二回、気紛れで食事にも誘われていたのだ。外食することもあれば、自宅に招かれることもあったが、その為に、ありがたいことに、顧客というよりほとんど親戚のような関係に昇華されていたのだ。
「飯終わったら、ちょっとうちに寄る時間はあるか?」
 食事中に、広田に聞かれた。もちろん、そうなることは多かったので、広田の誘いの後は基本的に予定を空白にしていた。
「もちろん大丈夫です」と私は即答した。

 広田の書斎には、スタインウェイが設置されている。「コイツは僕のバディなんだ」とよく口にしていた。このピアノの音は、広田のインスピレーションを刺激し、創作をアシストしてくれるそうだ。なので、調整のほんの少しの狂いや乱れも許されず、シビアに管理されている。演奏で弾くことはほぼないらしく、基本的には作曲や編曲の時にだけ使うそうだ。そして、なんと、奥様にも触らせないとのこと。なので、私なんかが保守管理をしてもいいのだろうかと、いつもビクビクしながら触れていた。
 今、そのスタインウェイの譜面台には、手書きの楽譜が置かれていた。つい興味を持って覗き見てしまった私に、広田は笑いながら話してくれた。
「これはね、僕のライフワークなんだよ。去年の定期演奏会で日本の童謡シリーズは一区切り付けたんだ。あれもね、実は十年近く掛けて書いた曲集だったんだよ。でもって、次はコレをやろうと思ってね。日本にはね、ナンチャラ音頭とかナンチャ節ってのが、色んな地方に沢山あるだろ? あれは、カッコよく言えば民族舞踊なんだ。舞曲だよ。僕はね、生きてる間にそれらを集めて西洋音楽のスタイルで混声合唱曲に書き直したいんだ。多分、僕の最後の作品になるだろうな。日本の伝統美とか、日本特有の響きやリズムを尊重しながらね。言ってみれば、日本の伝統音楽と西洋音楽のハイブリッドだな。まぁ、まだまだ長生きするつもりだから、のんびりとやり始めたところだよ」
 そう言って、微かな笑みを浮かべた。確か、広田は八十歳になったと聞いた。それなのに、前作が集大成ではなく通過点……まだまだ現役で、それどころか今から新しいプロジェクトを始めようとしているのだ。
「仕上がりが楽しみです。那古野ムジカ・ハルモニアで演奏する時は、絶対に聴きに行きます! ……そう言えば、ムジカ・ハルモニアで思い出したのですが……健太君は元気でしょうか?」
 そう口にしてしまってから、マズかったかな? と不安になった。健太が旅立ってから、何故か広田とは健太の話をした事がなかった。
「健太か……どうだろうな。僕には連絡してくるな! って言ってあるからな。まぁ、便りのないのは、って言うじゃないか」
「本当に一度も連絡がないのですか?」
「そうだな、夏に一度だけ手書きの長い手紙を貰ったよ。赤ペンで文章を添削して送り返してやったわ。はっはっはっ、アイツ、焦っただろうな。でも、一言添えといたよ。こんなもの書く暇あるなら、音楽でも聴いとけ! とな」
「手紙には何が書かれていたのですか?」
「それがだな、文章のおかしな所を直すことしか考えてなくて、内容は頭に入ってないんだよ。まぁ、アイツのことだ。大したこと書いてないさ」
 アイロニックな言い方をしているが、きっと広田は真剣に読んだに違いない。そして、彼の充実した音大生活を喜び、安堵したのだろう。健太も、広田に返送された手紙を見て、広田なりの愛情表現は伝わったに違いない。師弟という関係性を、羨ましいと思った。

「今日は、仕事抜きで篠田君と話がしたかったんだ」
 今度は、広田が唐突に話題を変えてきた。
「え? 私とですか? えぇ、まぁ、何なりと私でよろしければ……」
「率直に言おうか。君は、いつまで殻に閉じ籠もるんだ? いや、懸命に殻を破ろうとしてるのは分かる。でも、無理して人付き合いをしてるだろ? もっと自然体で生きるべきだよ」
 広田の全てを見透かしたような鋭い洞察に、私は言葉を失っていた。この一年、私は自分を変えたくて、努めて明るく振る舞ったり、積極的に人と話をするように心掛けたり、いわゆる「営業トーク」にも挑戦してみたり……堅苦しくて無口で生真面目で内向的な印象を変えようとしてきた。しかし、その歪みが精神的な苦痛となって、内面を蝕み始めていたのだ。どうやら、長年の付き合いの広田は、そんな私の微細な変化を見抜いていたのだろう。
「君は、この数年……いや、多分十年以上は心の底から大笑いしたことがないだろう? 大泣きしたこともないだろう? 怒鳴るぐらいに怒ったことも、泣くほど喜んだことも悲しんだこともないだろう?」
「はい……言われてみると、確かに」
「人生なんて感動の連続だよ。でも、君は感情に蓋をしてるんだ。きっと、君の蓋は外すのが難しいのだろうな。健太もそうだったよ。君と健太は似てる。もちろん、君の方が人生経験も豊富だし、健太よりずっとノーマルな人生を送ってる分、良識も世渡りのマナーも弁えてるさ。でも、本質は同じだ。二人とも、感情を閉ざしてるんだ」
「そうかもしれません。健太君は、他人事のように思えないところはありました。でも、健太君は先生に弟子入りして変わりました」
「僕が変えたんじゃない。勝手に変わったんだ。どうしてか分かるか?」
「いえ……全く見当も付きません」
 すると、広田はいつもの優しいような、皮肉っぽいような、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。そして、一言で答えた。
「歌だよ」
「歌……ですか?」
「そうだ。僕も大笑いなんかしない。大泣きもしない。怒鳴りつけることはあるけど、喜怒哀楽は少ない方だ。でも、感情的だと言われる。分かるか? 僕も健太も歌ってるんだ。大声で感情を込めて歌うとだな、泣かなくても泣いたのと同じ心が生まれ、笑わなくても大笑いした時の心になる。知らず知らずに、感情の蓋が外れていくんだ」
 一理ある……私は思った。たまたま最近読んだ心理学の本にも、似たようなことが書いてあったのだ。しかし、広田の話はもっと深かった。
「例えば、ボールを遠くに投げてみろ、と言われて、いきなり出来る人は少ない。投げ方を知らない人には、どんな投げ方が一番良いのかも分からないし、知っててもイメージ通りに上手く身体が動かせない。勿論、いきなり出来る人もいるし、少しの練習で出来る人もいれば、どれだけ練習しても上手く投げられない人もいる。要はな、ボールを投げる為の身体の使い方をどれだけ習得出来てるか、その為の筋肉がどれだけ付いていて、必要な関節を必要なタイミングで理想的に動かせるか、そういったところに個人差があるだけなんだよ。幾らやっても投げられない人は、身体の使い方を間違っているんだ。直ぐ出来る人は、使い方のセンスがあるんだ」
「はい、仰ってる意味は分かります」
「君はね、心の動かし方が下手なんだよ。心も身体も一緒なんだ。健太も下手だった。でも、アイツは動かし方を知らなかっただけだ。歌うと直ぐに心を開き、蓋が外れ、閉じ込めていた感情を取り出せるようになった。でも、君は多分動かし方が間違ってる。だから、思い切り歌うといい。大声で、歌詞を感じ、思いをメロディに託すんだ。そこで、これが本題なんだが、うちの団に入ってみないか?」
 突然の広田の誘いに、私はビックリし過ぎて返答に窮してしまった。
「えっ? わ、私が歌ですか? そんな、カラオケすらもう何年も行ってないし、声楽を学んだこともないのですが……」
 広田は、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべている。何を考えていることやら……少し、不安になった。
「歌なんて、誰でも歌えるさ。君はなかなか良い声をしてる。音楽を聴く耳も感受性も持ってる。音も誰よりも理解してる。他に何が必要なんだ? 僕が発声は教えてやるよ。君から金なんか取らないよ。君に足りないのは、表現する力なんだ。心を動かせないから、感情を表現出来ない。逆に、感情を上手く表現出来ないから、たまに出てきた感情を馬鹿正直に態度や表情に出してしまう。その辺をコントロール出来るようになれば、社会人として、いや、調律師としても、もっと大きく成長出来るはずだよ」
「……私なんかに、歌が出来るのでしょうか?」
「何言ってるんだ? 歌なんてな、僕や健太のようなバカでも出来るんだ。君に出来ないわけがない」
「そんな、健太君はともかく、先生はバカじゃないですけど……分かりました……先生がそう仰ってくださるなら、挑戦してみたいです」
「では、明日からいつでもレッスンに来なさい。週に何回でもいい。お互いの予定さえ合えば、君がやりたい時にいつでもレッスンをしよう。何も準備するものもない。健太と違って、音大目指すわけじゃないからな」
「ありがとうございます。……ところで、健太君は、結局過去に何があったのですか?」
「それは僕も詳しくは聞いてない。ただ、クラス全員に無視されて、酷いイジメにもあったらしいな。可哀想なやつだ。何より、自分を否定して、存在意義を見失うことが可哀想だよ」
「先生と出会えて、健太君は本当に幸運でした」
「それは違うだろ? 健太を救ったのは篠田君、君じゃないか。君が彼の話を聞き、信じ、助けたんだ。あれだな、さっきも言ったけど、君と健太は似てるんだ。だから、君は、彼のことを放っておけなくなったんだろう? 少し、自分を投影する部分を感じたんだろう?」
 広田にそう言われて、私はいよいよ認めないといけないと思った。そうなのだ、私と健太は似ている。人生の何処かで、ほんのちょっと何かのタイミングがズレていただけで、私が健太になっていたかもしれないし、その逆もあり得る。本質的には似た者同士なのだ。私は、たまたま健太より上手く生きて来れただけなのだ。
「私も、大昔ですけど……ちょっとした嫌がらせと言うのか、軽いイジメのような被害にあったことはあります。健太君と比べると些細なことでしょうけど、それでもその時は自己嫌悪に陥り、存在価値を見失い、生きてるのが嫌にもなりました。いや、誰でも中学生ぐらいの時は、多かれ少なかれ、そういう辛い体験ってあるんじゃないでしょうか? 幸い、私やほとんどの人は、健太君みたいに十年も引き籠もるなんてことはそうそうないだけで……もし、その時の鬱屈した部分が今も引き摺っているなら……歌を歌うと、私は変われるのでしょうか?」
 すると、広田はとても穏やかに笑みを浮かべ、自信に満ちた言葉で断定した。
「必ず変われる。全てが好転する。心が開けると、人付き合いも増え、関係性がスムーズになり、仕事も充実する。約束しよう。僕に、その手伝いをさせてくれ。もう一つのライフワークにしたいんだ」
「分かりました。僕も音楽は好きなので、真剣に取り組んでみます。よろしくお願いします」
 こうして、私は広田の元で歌を習い始めることになった。この日は、二十四節季の始まりの日、春分だった。

第24章【大寒・わすれたうたをおもいだす】

【件名】お久しぶりです
【本文】
 突然のメール、しかも長文で失礼します。
 K君ですよね? 僕のこと、覚えてくれてるか定かではないのだけど、随分と昔、松野市の晴美ヶ丘中で二年生の時に同じクラスやった中北清也です。分かりますでしょうか?

 もし、誰のことか分からないのでしたら、残念ですが本メールは無視してくださって構いません。でも、きっと憶えてくれていると信じています。短い期間だけど親友やったと……少なくとも僕はそう思っています。もっとも、ピアノも歌も僕はK君の足もとにも及ばなくて、親友なんて烏滸がましい表現かもしれませんね。
 仮に、親友どころか友達とさえ思われていなかったとしても、一時期は同級生として、親しく交流していたことは事実やので、僕が誰なのか分かっているはず……ということを前提に、以下を書き進めさせていただくことにします。

 さて、これはホンマに偶然なのですが、先日、休日にやることなくてダラダラとネットサーフィンしてる時に、たまたまK君のブログを見つけました。
「嘘やろ?」とは思ったんですが、本名も公開されてるし、幾つか記事を読んでみて間違いなくK君やって確信したので、最初はコメントを入れようと思ったんです。でも、よく見たらメールも出せることが分かったんで、長文になりそうなんで、こちらから失礼させてもらうことにしました。
 こんなこと言う資格ないんでしょうが、ブログの記事でK君が歌を学んでるってことを知って、とても嬉しく思いました。

 それにしても、ホンマに久しぶりですね。おそらく、僕のことは恨んでいるやろうな、と思ってます。僕達がK君にしたことは、到底許されるもんではありません。今思うと、本当に愚かで残酷で、非道な行為やと思います。何も言い訳は出来ませんし、するつもりもありません。
 でも、当時からずっと、どうしても説明だけはさせてもらいたいなと思っていました。

 信じてもらえるのかは分かりませんが、あれはホンマに悪ふざけのつもりやったんです。
 あの時、僕と矢野は木陰でセーラー服に着替え、飛び出すタイミングを計っていました。三人の女子も、もちろん協力してくれてただけで、全てが演技でした。本当やったら、最後に種明かしをして皆んなで笑い合えれば、という計画やったんです。えぇ、とても浅はかで杜撰で、幼くて悪趣味なドッキリです。
 でも、まさに若気の至りというのか……中二の悪ノリと勢いで暴走し始めて、皆んなでワイワイと考えてるうちに歯止めが効かんくなって。いつしか、どんどん悪ノリがエスカレートしてしまって、明らかにやり過ぎな計画になったのに誰も気付けず、本当にK君には失礼過ぎる行為をしてしまったと思っています。

 それでも、未熟で幼かった僕達は最期まで楽観的で、上手くいくと思い込んでいました。
 しかし、最後の最後になって当時の僕達の担任だった向井教諭に見つかってしまったんです。その時の先生の怒り方が僕達には異常な程怖く感じて、女性三人は完全に萎縮して黙り込んでしまって、僕と矢野も間抜けな女装姿で先生の前に出る勇気がなくて、K君が単独で覗きを行ったかのようになってしまったんです。本当に申し訳ありませんでした。

 もちろん、すぐに五人で話し合い、K君が連れて行かれた指導室に向かいました。しかし、これはご存知やと思いますが、向井教諭は僕達の説明に全く耳を傾けようとせず、見え透いた嘘でK君を庇おうとしているんやと決め付けて、逆に僕達まできつく叱られる羽目になり、部屋を追い出されたのです。
 その時の僕達には思い至ることが出来なかったことですが、おそらくK君は僕達五人に嵌められたと考えたのでしょうね。

 どうしてK君は「中北と矢野に誘われただけだ!」と正直に話さず、一人で覗きをやったと嘘の自供をしたのか……当初、僕達には理解出来ませんでした。向井先生に無理矢理言わされたのか? とも思ったんですけど、後になってから、ひょっとして皆んなに計画的に嵌められたと考えたのかも、と気付いたんです。
 確かに、女子も誰も着替えてなかったですし、僕と矢野は消えていたし、状況を客観視するとまさに騙して嵌めたような感じになってしまいました。

 自己弁護なんてするつもりは一切ありませんが、僕達にはK君を嵌めようなんて意図は全くなかったからこそ、K君がそう考えてるかも? と気付くのが遅くなってしまったのです。
 しかし、そんな風に受け止められたのかも……と考え始めた時、全てに説明が付いたのです。と同時に、その時のK君が感じたであろう屈辱と絶望は、想像するだけで胸が押し潰されそうになりました。さぞかし悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、辛かったことでしょう。人間不信にもなるでしょうし、僕達を恨み、憎んだことでしょう。そうされても当然のことを、僕達はやってしまいました。

 事件の後も、僕達はどうしてもK君に説明したかったし、謝りたかったのですが、結局は叶いませんでした。何度となく、矢野と一緒にご自宅へ伺いましたが、会ってもらえなくて……そりゃ、会ってくれるはずないですよね。
 手紙を書いてみたこともありましたが、未開封のまま戻ってきました。それも当然やわな、とよく矢野と話しました。逆の立場なら断固拒絶したと思いますので、会ってもらえなかったこと、手紙を読んでもらえなかったことに、どうこう申し上げるつもりはありません。
 それでも、僕達は、K君が引っ越した後も定期的に集まり、絶対に僕達がやってしまった過ちを忘れない、と固く誓い合いました。それは本当です。そして、今も皆んな誓いを守っていると思います。

 せめてもの罪滅ぼしがしたいとか、自分がスッキリするだけの上っ面の謝罪とか、決してそういうつもりではありません。もちろん、言い訳とか弁明の意図もありません。今更どうしようもないことも理解しています。それでも、改めて謝らせてください。本当に申し訳ありませんでした。取り返しのつかないことをしてしまいました。

 差し支えなければ、他の四人にも、こちらのブログのURLをお知らせしてもよろしいでしょうか?
 皆んながどういう思いでこのブログを読むのか、メールやコメントを出すのか出さないのか、その辺は個々に委ねますが、おそらく、皆んなも僕と同じように、何年も経った今でも、当時のことが心のどこかに引っ掛かってると思います。
 でも、もしそういう関わり自体がご迷惑でしたら、どうぞそのようにお申し付けください。

 中学生にとっては、とてつもなく遠く感じた那古野ですが、社会人となった今、車でも電車でも日帰りが可能な距離になりました。もし機会を頂けるのでしたら、いつか直接お会いして謝罪させて頂ければと思っています。
 他にも、何か私に出来ることがございましたら、何なりと申し付けください。可能な限り、ご要望にお応えしたいと思います。

 それでは、突然の不躾なメールをお許しください。
 月並な言葉ですが、ご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。 中北清也

【件名】Re:お久しぶりです
【本文】
中北様、ざっと流し読み程度ですが、メールを拝読しました。
また折りを見て熟読させて頂きますが、先ずは端的に返信させて頂きます。

①貴方や矢野様のことは、もちろん憶えております。
②本ブログは、インターネット上に誰でも見ることが出来る状態で公開されています。本ブログのURLを貴方が誰かに教えるか否かは、私が決めることではありません。どうぞご随意に。但し、本ブログは業務用として運用していることをご理解頂けますと幸いです。
③直接お会いする必要性は感じておりません。お会いする理由や目的も、当方にはございません。尚、謝罪も必要ありません。
④貴方に出来ることですか。そうですね、お互いいい大人ですので、もうKと呼ぶのは勘弁して欲しいですね。それに、私は既に、Kと呼ばれていた時期の私とは訣別したつもりでいます。お察しください。
⑤過去の無礼をお許しください。お互いに、今と未来に生きましょう。

返信としては以上です。
でも、折角の機会なので、少しだけお話させてください。

歌は、まだ習い始めて一年弱です。
貴方にとっては、私と言えば「歌」というイメージなのかもしれませんね。
でも、あの時期以降、特に歌とは縁のない人生でした。
それが、色々なご縁から尊敬する先生に教わることになり……すっかり忘れていた歌の喜びを思い出すことが出来て、今は楽しく続けていきたいな、と思っています。

あとね、貴方達は決定的な思い違いをされていますよ。
私が不登校になったことに関して、貴方達五人には何の責任もありません。
どうぞ、お気になさらないで。


ご存知のように、私は中二の冬に転校しました。
実は、転校してからは、普通に学校生活を送れるようになり、現在に至ります。
確かに、数ヶ月の不登校は学力に多少の影響はありましたが、一過性のものでした。
それに、元々馬鹿でしたから、どのみち、大した違いもなかったでしょう。
今は、訣別した過去も含めて形成された現在の自分を土台に、未来を見て生きていこうと思っています。


最後に。
中北君、メールをありがとう。
そして、今更だけど、コンクールの優勝おめでとう(笑)
あれから、もう二十四年ですね。

私の歌の先生は、二十四という数字が好きなんです。
なんでも、一周回ってリセットするキリの良い数字なんだと言ってました。

ということですので、このメールの往復を持って、お互いキッパリと過去に区切りを付けましょう。


では、どうぞお元気で。 篠田圭




(完)

【歌を忘れたカナリアは】

【歌を忘れたカナリアは】

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-08-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章【いえいえ それはなりませぬ】
  2. 第1章【穀雨・ごようのないものとおしゃせぬ】
  3. 第2章【晴明・はるがきた どこにきた】
  4. 第3章【立夏・いつのまにかつぼんだ】
  5. 第4章【小満・あっちのみずはにがいぞ】
  6. 第5章【夏至・かごのなかのとりは いついつでやる】
  7. 第6章【芒種・すましたおみみにかすかにしみた】
  8. 第7章【大暑・いきはよいよい かえりはこわい】
  9. 第8章【小暑・つるとかめがすべった】
  10. 第9章【処暑・きょうのわざをなしおえて】
  11. 第10章【立秋・そっとのぞいてみてごらん】
  12. 第11章【小寒・あんなことこんなことあったでしょう】
  13. 第12章【白露・このよにいきるよろこび そしてかなしみのことを】
  14. 第13章【立春・おんもへでたいとまっている】
  15. 第14章【秋分・ぼっちゃんいっしょにあそびましょう】
  16. 第15章【雨水・すがたやさしくいろうつくしく】
  17. 第16章【寒露・まけてくやしいはないちもんめ】
  18. 第17章【小雪・きりのなかにうかびくる】
  19. 第18章【霜降・うしろのしょうめんだあれ】
  20. 第19章【大雪・ゆめはいまもめぐりて】
  21. 第20章【立冬・こわれてきえた】
  22. 第21章【啓蟄・あおげばとうとしわがしのおん】
  23. 第22章【冬至・ぼくらはみんないきている】
  24. 第23章【春分・さっきのてがみのごようじなあに】
  25. 第24章【大寒・わすれたうたをおもいだす】