綺麗な瞳をください。

「綺麗な〇〇をください。」シリーズ第2弾

「ただいま~」
私は家に帰ってきて、誰もいないリビングに向かって一人で挨拶をする。あほくさいけど、なぜかどうしてもこの習慣は消えない。手を洗うために洗面所へ移動する。そして鏡を見つめる。私の視線は、自然と、鏡に映った私の瞳を指した。
 まつ毛がない。
 悪いことをしているんだ、と私は思う。毛を抜くっていうと、痛そうかもしれないけれど、プチッと毛根が私の身体から離れる感覚が気持ちよくて、どうしてもやめられない。この悪癖に名前があることは、中学生になってすぐの春に知った。あれから1年が経つが、まだ誰にもこの癖のことは言えていない。誰にも言えない、私だけの秘密。
 初めてまつ毛を抜いた日のことは、今でもはっきり覚えている。小学5年生の秋、母にすすめられたのだった。


 わたしは宿題をとく。たんじゅんな計算問題がわたしはとくいだから、あっという間に終わらせられそうだ。今日は宿題だけじゃなくて、じしゅ勉強ノートもやろう。きぶん的に、今日はもっとたくさん算数がやりたいから、まだならっていないところにちょうせんしてみよう。わたしは周りの子たちとはちょっとちがって、算数が好きだ。
 このあいだ、好きな科目について英語を使って話すという授業があった。わたしはまよわずarithmeticと答えた。そしたら、笑われた。「涼香は算数なんかが好きなんだって」と。すごくつらかった。でも、だれにもそのことは言っていない。わたしがまちがえただけだから。こういうときは音楽とか体育って答えないと笑われるって、ちゃんとわかってなかったのがわるいから。家でも、学校でも、習い事の先生にも、学校は楽しいとうそをついていた。本当はぜんぜん楽しくない。なにかにつけて笑われる。気づいたらうわばきがなくなっている。それとか、朝、わたしが教室に入ろうとしたら、上から黒板消しが落ちてきたりする。りふじんなことだらけだ、学校は。
 ん? なんか、目がかゆいな。ちょっとだけこすっちゃおう。いつもならお母さんにおこられるけど、気付かれないように気を付ければきっとだいじょうぶ。
 ゴシゴシ……
 手の指を見ると、太くて長いまつ毛がついていた。そうか、コイツが目に入ったからかゆかったんだ。
 わたしは抜けたまつ毛をかんさつした。
「涼香、なに見てるの?」
 お母さんがわたしに話しかけた。
「いや、なんでもないよ。」
「ああ、それはまつ毛ね。抜けたんだわ。」
 お母さんは私の手元をのぞきこんで言った。
 わたしは抜けた一本のまつ毛をシキンキョリで見つめる。お母さんはわたしのそんな姿をふしぎそうに見つめていた。
 根本は白くて太い。小さな玉のようなものが先端についている。反対側は、色は黒でだんだん細くなっている。
「まつ毛が抜けると目に入って痒いのよねえ。そういう時は抜いちゃえばいいのよ、涼香。」お母さんは言った。
 わたしは言われたとおり、目に手をのばした。親指と人差し指でまつ毛をつまみ、グッとひっぱる。すると、注射をさされたときのようにチクッと痛み、そして手を見ると見事なまつ毛が三本も抜けていた。わたしは最初に抜けた一本と次に抜いた三本を足して四本のまつ毛を真っ白なノートの上に並べた。
 なにこれ、痛いけど気持ちいい。プツッと抜ける時の感覚は気持ちよくて、クセになりそう。わたしはもう一度目に手をのばす。プツッ、プツッ。気が付いたら、何度も何度も、わたしはまつ毛を抜いている。
「そろそろご飯の時間よ」
お母さんが声をかけるまで、むがむちゅうになっていた。
 ごはんを食べ終わり、わたしはおふろに入る。
 そなえつけられている鏡を見て、わたしは仰天した。
 左目がハゲになっている!
 なにもかも、お母さんのせいだ。私にへんなことを教えるから。
 思えば、お母さんからわたしへの助言は、的外れだった。初めてうわばきをかくされたときは、「堂々としていなさい」と言われて、そのとおりにしていたら、どんどんイタズラはエスカレートしていって、毎朝うわばきがなくなるようになった。いつしかうわばきだけでなく筆箱、体操着、さらにはランドセルまでなくなるようになった。それでも、わたしはそういうことなんだってみとめるのがいやで、お母さんに言われたとおり堂々としていた。
 その頃になると、さすがのわたしも、みとめざるをえなくなった。
 わたしはいじめられている。
 でも、そんなことをお母さんに打ち明けて、心配をかけたくない。

 いじめを受けていたあの頃。小学5年生の時。私はついにその事実を隠し通した。でも、苦しいという言葉を飲み込んだ回数に比例して私のまつ毛の本数は少なくなっていった。左目だけでなく右目にもおよんでしまった。
 今思えば、あの時意地を張らないでお母さんに相談していればよかったと思う。
 私をいじめていた子たちは中心人物だった子が中学受験して私立の学校に進んだせいで、中学生になったころにはいじめグループはグループでなくなっていた。でも、5年生から2年間に渡っていじめられた私の記憶は消えない。癒えない。
 今もなお忘れることのできないあの頃のこと。助けてと言えば誰かが助けてくれたのかもしれない。でも、私は相談する勇気を持っていなかった。トラウマと呼ぶほど深刻なものじゃないけど、私は今も辛いんだということはわかる。でも、それは頭で何となく理解できるという程度で、本当に理解しているわけじゃない。辛いってどういうことなのかわからなくて、だから、今の私が辛いのかどうかも判断できない。
 私は手と顔を洗い終わると鏡の前から立ち去った。お菓子が保管されている棚を開けて、なにか好物があるかどうか確認する。残念ながら、小学生の弟用の駄菓子ばかりで、私の好きなものはなかった。
 私は、悩んでいるのだろうか。睫毛を抜いてしまうというクセのことを、私は悩んでいるのだろうか。
 分からない。どうしても、私にはわからない。
 私はソファのどっかりと腰掛けると、テレビをつけた。今日はさいわい各科目の宿題は出ておらず、1日中だらだらしていた。

 翌朝、私はまた洗面所にやってくる。顔を洗って、身支度を整えるためだ。まつ毛の生えていない瞳を見つめても、まつ毛が生えてくるわけじゃない。ただ見つめるだけで、まったくもって意味のない行為だけど、どうしても抜くことがやめられない以上はこうして見つめることもやめられない。まつ毛のコンディションを確認することをやめたら、自分が崩壊するような気がしてる。
 制服を着て、リビングへ行く。母は私よりはるかに早い時間に家を出るので、そして父親はいないので、普段は私と弟の二人だけで朝ごはんを食べる。今日は私は日直なので、いつもより早く家を出なければならない。弟にキチンと戸締りをしてから家を出るよう言い残して、私は先に登校する。教室にはまだ誰もいなかった。
「おはよう」
 相手はいないけど、なんとなく私は声を出した。こんな私でも受け入れてくれてありがとう、教室さん。私は昨日の最後の授業の板書を消し始めた。

ガラガラッ

 突然扉が開いた。現れたのはクラスメイトの三浦くんだ。
「あれ、涼香ちゃん、早いね。」
 三浦くんは、中学生にもなって女の子を下の名前で呼ぶ。また、三浦くんは少し太っているということもあってか、よく女子たちの間でキモイと話題になっている。しかし、私は全く気にも留めず言葉を返す。
「私、今日日直だから。」
「そかそか、お疲れさん。」
 私が三浦くんに背を向けたまま黒板を消し続けていると、彼はまた口を開いた。
「涼香ちゃん、抜毛症って知ってる?」
 ドクン。心臓が大きく跳ね上がる。
「え、突然何を言い出すのよ。知らないわ。」
「昨日テレビでやってたんだ。なあ、涼香ちゃんってさ、」
 三浦くんが近づいてくる足音が背後から聞こえる。うしろでかなり近い距離に三浦くんが立っていることが、気配でわかった。
「まつ毛、ないよね。」
「そ、それがどうかしたの?」
「涼香ちゃんってさ、抜毛症だよね?」
 三浦くんは私の視界に飛び込んできた。そして私の目をまっすぐ見つめながら言う。
「俺見てるからね。授業中、涼香ちゃんがメガネ外して目いじってるところ。」
「それは、たまたま目にゴミが入っただけで、、」
「ゴミが入ったのなら、普通は目をいじるんじゃなくてこするだろうさ。
 昨日見たんだよ、髪の毛やまつ毛をプチプチ抜くことがやめられない病気があるってことを。それで思い出したんだ、涼香ちゃんのこと。いつも静かで真面目な涼香ちゃんだけど、ときどきメガネ外して授業が上の空になってることあるよね。そういう時、決まって君は目をいじってた。ずっと不思議に思ってたんだよ。何してるんだろうって。昨日のテレビで見た患者さんの再現ドラマと、涼香ちゃんのそれは、すごく似てた。」
「全部、三浦くんの勘違いよ。」
 私はしどろもどろになりながらも、なんとか取り繕おうとする。うまくいっているかどうかは、私自身もわからない。涙がじわじわと溢れ出してきて、今にも泣きそうだ。
「何か辛いことがあるなら、言った方がいいよ。俺に対しては無理かもしれないけど、必ず誰かに打ち明けるべきだよ。だって、涼香ちゃんが苦しんでいるということを知りながら見て見ぬフリをするなんて、俺にはできない。」
 私はその場にしゃがみこんだ。顔を隠すためだ。三浦くんに泣いているところを見られたくない。それに、自分は病気なんだって頭ではわかっているけど、心が認めたがらない。
「涼香ちゃん、俺が言ったこと復唱して?」
「なんで?」
「いいから、とにかく復唱して。はい、『た』」
「た」
「す」
「す」
 私はか細い声で三浦くんの指示に従った。
「け」
 分かった。三浦くんは私に無理やり「たすけて」と言わせようとしているんだ。たすけて、たすけて、たすけて。私はその言葉を頭の中で反芻する。そして、私は口を開いた。
「た、た、たすけて……」
 言えた……。初めて、言った。
「よくできました。」
 視線だけを移動し、そっと三浦くんを見上げる。彼はにっこりとほほ笑んでいた。

綺麗な瞳をください。

綺麗な瞳をください。

まつ毛を失った少女の物語

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-08-02

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