よりよく



 私たち人間の認識過程においてシナプス間では合成された神経伝達物質によって情報の伝達が行われ、興奮や鎮静の調整が行われる。その結果としての気分ないし精神状態の様相に喜怒哀楽の感情は名付けられる。
 コミュニケーションの過程で行われる表現行為はその主体と客体を観念できるから、例えば精神的に辛い出来事を言葉や図象などによって表現し、そのあり様を自分自身で観察することでそれまで覚えていた感情の荒波に攫われることなく、対象となった感情体験を客観視できる可能性はある。一種の「壁」としてクライアントに対面し、その言葉をできる限りそのまま受け止めて精神面での変化の契機を待つことを肝とするカウンセリングやセラピストに見守られる中で砂の入った箱の中で玩具や砂自体を用いる遊びを行い、無意識へのイメージ的アプローチを試みる箱庭療法は複雑に絡まった感情を表現行為又は表現物を介して解きほぐそうとするものであり、臨床事例を踏まえてメソッド化し、その都度で改善を試みる手法であると筆者は理解する。
 これらの手法で評価すべきは仮にクライアントが何の表現行為も行えず、または箱庭の中に何の表現物を生み出せなかったとしても「何もできなかった」という作為を言葉=意味の網の目をもって捉え得る。これもまた変化の兆しに向けた営為と認められるから、精神療法の過程は(何をもって完治したといえるかという議論すべき問題はあるのだろうけど)治療に至るまで継続する。クライアントとカウンセラー又はセラピストとが対面して作り上げる「表現可能な状況」そのものが起きる事象全てに意味を与える。精神的な安定に向けた地歩を固める。
 しかしながら言語が有する意味の一般性は自分以外の誰かに通じる出発点となる一方で、私(わたくし)自身を置いてけぼりにする。この点を踏まえずに行う感情体験の言語化は私以外の他人が理解できるようにその内実を合わせたものとなりかねない。謂わば窮屈な衣服を自分に無理矢理に着せる行為となって、その意に反した付き合い方を感情面に強いることになりかねない。ここで生まれる衝突は、精神的なバランスを偏らせる将来的なリスクといえる。
 ここで鳴り響いて欲しい警告音としての不満足、言い換えれば「私の思いはこんなものじゃない、圧倒的に足りない、私のこの怒りは、悲しみは、苦しみはこんな奴らが納得できるようなものじゃない!」と叫べる表現意識は言語化した感情体験を誰よりも自分自身が真摯に見つめて、向き合い、育てなければ芽生えることがないだろう。「表現して、評価する」という主観と客観の往復運動。それはきっと大きな「私」を観念させ、概括的に把握できる外の世界の広大さを気付かせる。その詳細ぶりを発揮する個人的事象と、その近似値としての他の存在との接触面における世界の創造と喜びを教える。
 小説家である村上春樹が『若い読者のための短編小説案内』で記したエゴとセルフの関係図や、エッセイなどで用いる「くぐり抜ける」という表現はこのような主客の跨ぎ方とその大切さを指摘するものでないだろうか。



 どこまでも我が儘に、と同時にこれと等しく、どこまでも開いていくという表現を介した主観と客観の往復運動。心身ともに充実した生活を継続可能な日々として過ごすと定義されるウェルビーイングの概念と「表現」を繋ぐ結節点を求めるのなら、この点をおいて他にないと筆者は考える。かかる観点から森美術館で開催中の『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング』で拝見できた表現を思い返すと特に際立つのが梶尾貞治の表現活動の幅広さとその量であり、また一方で堀尾昭子が日々の合間を縫って行い続けるコンセプチュアルな表現の核心の強さとその質の高さである。
 両人共に具体美術協会の会員であったが前者の展示コーナーでは高さのある白い壁一面を覆い尽くし、また床にも並べられる作品数の多さには一目で圧倒される。しかしながら梶尾貞治の表現の本領だなと思えた点は発想から直結した印象が強い即興的な表現であるのに乏しい排他性の無さ、近付いて鑑賞すればする程に明瞭になる個々の作品の重複のし無ささであると思った。
 三菱重工株式会社神戸造船所に就職してから活動を始め、10万点を超える作品を制作したという解説文からは表現行為が梶尾貞治のライフワークになっていたと想像できるが、特に好感を持てたのは手袋や金物といった日常生活で用いる対象に向けて施される表現意思のあちこちに未知への好奇心が溢れている所だった。完成度を追求する道を大いに踏み外してドタドタと駆け抜ける表現姿勢のイメージは、しかし「一分足打法」として描かれた抽象的なドローイングの、鑑賞者としてこちらが想定する美術的な道幅の拡幅工事を続けて邁進した歴史としての地金の鈍い輝きによって印象がガラリと変わる。梶尾貞治は前のめりな鑑賞者として誰よりも常に客観の側に立ち、そこから舞い戻って瞬間的な主観の表現可能性を追い求めていった。その轍を目で追い、匂いを嗅いで肌で感じる。厚みある表現者としての姿から貰える力は大きい。
 他方で、堀尾昭子の小さな作品たちからは主観に向ける関心の強さが窺えた。数学的な図象に還元できる形から逸脱する意識が選択した奇妙さや色合いは無関心を装った計算の形を取り、論理を突き詰めた先にある真理という名の人外の領域で拾えた偶然として可能的世界の扉を開く。
 看護師として働き、動物福祉運動なども積極的に行なった堀尾昭子は結婚後の家事育児に追われる日々の隙間を縫うように創作活動を続けた。掛けられる時間は午後九時以降の一、二時間。制作する作品の規模も縮小していったが、かえって表現意思のコントロールに集中できたという。
 解説文の内容にあるその作家人生において見失わなかった非日常への希求と、それに最も適した手段としての創作ないし表現活動に傾ける熱意、その結果として得られる充実感が合わさって日常生活に向けて振るわれる鋭いメスとなったという短絡的な想像は、しかしどの作品にも題名を付けないスタンスと小規模ながらも各作品に用いられる材料のバリエーションの豊富さに表れるチャレンジ精神によって裏付けられ、確信に近い推測の形を成す。きっと、堀尾昭子の表現で導入される客観的視点は出来上がった作品に対して十全に適用できない論理の機能不全として重宝されている。喩えれば沢山覚えた言葉を一気に取り上げられ、途方に暮れていた所で仕方なく思い出す意味内容をコンパスとして利用することで鑑賞者は区切りのない世界の、そこら辺りを彷徨える幸せに近付く。この体験こそが彼女の表現の核心になるのだろう。こう結論づける一人としては各作品の一つひとつに込められた表現者の眼差しを夢想してしまうし、そこに込められた愛情の詩形を否定するのが難しくなる。



 働きながら独学で創作を学んだロベール・クートラスは流行に左右される美術界に馴染めずに画商との契約を自ら解除し、極貧生活に身を置いて創作を続ける道を選んだ。材料集めに費用をかける訳にはいかない表現者は日中に段ボールを集め、カード状に切り取ったものを支持体として深夜に絵を描いた。数日から数週間にわたって同じモチーフを描き、しばらく放置してから作品を見直して気に入らないものを描き直したりし、一部のみを作品として残した。「僕の夜」と名付けられたかかる作品群のうち469点は包括遺贈者に指定された知人によって保管され、その全作品が保管時の配置通りに本展にて鑑賞できる。
 イラストを思わせるそのタッチは奔放で、自由で、夢に溢れている。装飾の構図やデザイン性も他の作品との兼ね合いが考慮されていて、個々の作品が織りなす「ひと回り大きな作品」としての様子も十分に楽しめる。
 流行を拒絶している以上、かかる表現者が目指す創作の境地において排除されている見方はあるのだろう。けれど「僕の夜」が作品として残されているからには誰かに見られることを表現者は意識している。ここにおいて興味を抱くのは、その「誰か」に含まれるべき者として表現者が想定した人物はどのような者だったかのかということ。かかる人物が有する様々な社会的記号は一体どれだけ捨象されていただろうかということ。そしておよそ「人」一般にまで抽象化されただろう鑑賞者たちの喜怒哀楽といった主観的要素を、ロベール・クートラスという表現者がどれだけ信じていただろうかという点である。
 神や悪魔な似姿をしたキャラクターが入り混じる「僕の夜」には、しかし悲観的要素が認められない。また文字と色のみで表されたカードの抽象表現を極北に見据えて、表現者が最後まで描いた世界の内奥に限界が窺えない。ユング心理学で言うところのアーキタイプといった諸概念をそのまま鵜呑みにする気はないが、けれど彼の作品群に対して筆者はその兆しを認めてしまう。言葉によって世界を分節する「人」一般の意識作用を足掛かりに判断することの適切さをも含めて、主客の往復運動が有する可能性を模索する意欲に駆られてしまう。



 生活保障を含めた福祉政策に理念を与えるウェルビーイングの考えを個々人の生活レベルに持ち込もうとする時、範となるべき生活形態を提示して「こうあるべき」と推奨するものではあってはならないだろう。このことは、『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング』についてもきっと妥当する。
 今も猛威を振るうコロナ禍によって日常生活が属する自然的要素の重要性と、理性的振る舞いの脆さ加減を知れた。あらゆるものが半永続的に存在すると信じ「過ぎる」ことの危うさも実感した。ここで語るべき人の想像力は無根拠な夢幻を追う原動力ではなく、現実を見据えてその首根っこを掴み、ぶんぶんと振り回してその行き先を少しずつ変えていく、そういう乱暴さにも似た人間の営みでなかったかと筆者は考えてみる。
 ヴォルフガング・ライプの花粉や牛乳などの自然物を利用したインスタレーションや年が明けるその日、24時間をフルに使って北極点で一周するという途方も無いパフォーマンスを記録したギド・ファン・デア・ウェルヴェの映像作品、または自身も被害に遭ったDV問題について加害者、被害者そしてそのサポートをする人々の姿なき言葉を交えてその実態に迫る飯山夕貴の展示室では日常と同等以上の想像ないし発想が主役となっている。それに牽引されたり又は自ら歩み寄ったりして踏み出していけば、鑑賞者は非現実によって浮き彫りになった現実の実態と対面できる。そこにある悲しみや辛さ、あるいは尊さや可笑しみを噛み締めて私たち人間はまた変われる。ここにおいても認められる運動が、循環にも似た創造への歩みが確かにある。
 『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング』はかかる想像の実際に歩み寄る。この点で、本展は綺麗事として語れる想像と人間の関係性を思い知る実に良い機会となった。

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  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-21

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