ルートヴィヒ美術館展




 意欲溢れる画家は型に嵌った描き方を脱しようとするのと同時並行で、観る側が拠って立つ評価基準の刷新も図ろうと試みる。その試みを性急に実現してみせることのインパクトと、より現実的な一手として打つその表現の技術面における新しさないし発展可能性を説く論理を頭に浮かべて画家は日々描き続ける。今までを突き放し過ぎない落とし所を探り、「今まで」をぶち壊すぐらいに革新的な表現を目指して邁進する。
 かかる目的達成の為に自分の作品を厳しくジャッジしなければならない表現者は、けれど一方で完成のピリオドを打つ唯一の決定者でもある。だからその命運を賭ける程に思い詰めることも、日用品を購入する場面と変わりなく費用対効果に基づいて省エネルギーな判断を下すこともできる。決定者として選べる道のど真ん中にあって自分の中の確信と周囲の鑑賞者一般が抱く趣味趣向に挟まれて、画家は苦しみながらも作品完成の判断基準を磨き上げる。見る目、描く手、思う頭。最低限の人数を揃え得た三者協議の議論は互いに影響を与え合って、総合的な変容を遂げていく。
 一人の画家の成長過程として記せるその内容は、また一方で作品を介した画家同士の接触によるアイデアの盗み合い、より穏当に言えばオマージュという名の触発としても妥当すると筆者は考える。モチーフの内外を自然に跨ぎ、色と質感の絵画世界へと傾いた「マンドリン、果物鉢、大理石の腕」にはパブロ・ピカソという画家の根本に根を張り続けるキュビズムという名の空間分割の技法の消せない痕跡があり、他方でパブロ・ピカソ以降の画家が採用し展開できる絵画独自の、奥行きを犠牲にした表現として芽吹くだろう発想の種があった。
 名声を得る為に欠かせない大いなる運に遭遇する瞬間に立ち会えるように、または内的イメージに接触するという実に個人的で半永久的な幸せに接近する機会を一つでも多く得られるようにその表現者は売れたいという野心、それと識別不能なぐらいに燃え上がる好奇心、そして己の腕に対して抱く自尊心と見据える未来に向けて目に見える「世界」を刻一刻と変えていく。ときに時代的要請も利用して又は絵画市場における消費者の感覚も貪欲に取り込んで、いまや時代遅れと評される筆を手に認識の階段を駆け上る。表現という欲に真摯に向き合って、お腹を摩り、人の可能性を大きく頬張る。




 国立新美術館で開催中の『ルートヴィヒ美術館展』で展示されているパブロ・ピカソの「アトリエにて」は画家とモデルの立ち位置をキャンバス上で大きく縦に分割し、二分割された後の左右の空間をさらに細かくかつ等しく分割して部分、部分での形象極まる関係と垂れ落ちる色彩の欲求を描いてみせる。人の「世界」認識を理論的に支える図形らしさを曝け出すまでに筆を走らせ、即興的に現れるモチーフでもってアカデミックな絵画の分厚い壁を押し広げようとするパブロ・ピカソな「遊び方」は誰にでも出来そうな外見を装いながらも才能に甘んじることなく絵画を学び、実践し続けた経験と足跡を現す。だからこそ成し得たキュビズムという名の空中戦だったのだと確信する。
 かかるピカソの偉大なる画業を越えようとジャクソン・ポロックが実践したいわゆるアクションペインティングの作品を目にして素人な筆者が思ったのは、その表現の構成要素を線や色のみに絞っているにも関わらずキャンバス上から取得できる情報量の多さとその錯綜ぶりによって誰が、何を、どのように描こうとしたかという理性的な認識を揺さぶる。作品全体像の把握を可能にはするがその食い違いを観る側に常に発見させ、修正に向けた反省を自発的に行わせる。形象の無いモチーフの存在感だけを採用して再出発の鑑賞を見る側に求める。決着付かずの混沌を産んで、話題性を掻っ攫う。
 そのために画家は何も決めてはならないと自身を律したかも知れず、と同時に「何か」を描いたと確信できるまでに何度も何度も完成作を生み出さなければならなかった。そういう負荷を一身に背負い、これらの要請に応えるのに最も適した手段、すなわち絵具間缶から絵具をそのままキャンバスに滴らせる技法(ドリッピング)や絵筆から垂らす技法(ポーリング)によって無計画でも思い出に残る想像の旅路に歩み出さなければならなかった、無意識という名の、理性的にはあるかないかも判然としない真っ暗な穴ぐらにダイブするかように。毎回、毎回と。
 統一作用を得意とする脳の機能に反する様な「世界」の見方をジャクソン・ポロックという画家が行い続けなければならなかったとすれば、それは精神的に相当のキツさを伴うものだっただろう。言葉の論理にしがみつき、趣味で行う詩的表現に挑戦する時の苦痛を思い出して自然と寄る眉根を直し見つめる筆者個人の想像は、しかしそれを踏破した結果として目の前に存在する彼の作品への尊敬に変わる。
 『ルートヴィヒ美術館展』で拝見できたジャクソン・ポロックの「黒と白」は前衛書を思わせる。アクションペインティングによって画面上に「乗せられた」黒く太い線はキャンバスの色と隙間に意味を与え、シュミラクラ現象を利用して認識できる人の顔を窺わせて表現に向けたイメージ喚起の手助けする。
他の作品と比べて情報量が少なく、また錯綜ぶりもそれ程見せないために本作品は「ジャクソン・ポロックの絵画」として把持し易いものと言える。意地悪く言えば他の作品の様な異常性が無い分、話題性も乏しくなり、ジャクソン・ポロックとしての新規性は画面上に認められない。
 しかしながら個人的な感想として「黒と白」の方が絵画表現の可能性に満ちていると感じた理由は、キャンバス上の情報の量と関係性に依存した表現を排した分だけ「黒と白」は作品の意義を観る側に委ねている。だからこそ時代性といった文脈の一過性に足を引っ張られることなく、その時を生きる、その人の全てで表現を受け止めてもらえる。ある意味で受け身となったその姿勢が異なる文化、異なる時代の流れに乗った愛され方を可能としている。ひょっとすると市場においては積極的に評価されることがないかもしれないこのポイントは、けれど絵画表現として生き延びるのに有利でないかと素人な筆者は思っている。抽象表現は珍妙、奇抜であればいい訳ではない。人の認識に寄り添った開拓精神を表してこその抽象性だろうと絵画好きの一人として信じているからだ。この点で「黒と白」の在り方に好感を抱く。見るものを選ばない、その力強さに魅了される。アーティゾン美術館で開催されていた『Transformation 越境から生まれるアート』で鑑賞できたジャクソン・ポロックの同年の作品である「ナンバー2」と比較してその印象の違いを、色彩の有無によって生まれ得る発展可能性の違いを想像して今も楽しんでいる。
 他方、同じ抽象表現でも完成度は段違いだと判断したベルナルト・シュルツェの「風景のように」は絵画としての叙情性を携えた動的印象が、額縁の内側で物質的に固められているという客観的事実により静かに読み解ける。混じり合いそうで決して実現しない、本作に備わる両面性がそれこそピカソのダブルフェイスの様などっちつかずの心情を引き起こして正しい口の開き方を忘れさせる。結局、観る側は只々その前に立って見つめ続けるしかないという「風景のように」独自の感想方法を学び続けるハメに陥る。動かずの姿にじわじわと湧き起こる関心と興味を次第に自覚していき、唯一無二の表現から離れ難くなる感覚に従順になる。
 多産が生む表現の質があると思うから全ての表現が「こうあれ!」などと主張する気は一切ない。けれど「風景のように」の様な分厚い表現に直面するとピリオドを打たずに時間を掛ける、終わったと思った所から再び始める事の大事さを痛感する。作っている、表現していると認識する自意識を易しく鎮め、目の前のものを未完成と評することが可能となるその目を、その「世界」観の一端を感じ取れたらと切に願う。
 それもまた無類の幸せになるだろうと予見しながら。



 エーリヒ・ヘッケルの「森の中の情景」に、彫刻作品であるエルンスト・バルラハの「うずくまる老女」。またはアウグスト・ザンダーの「菓子職人」やホルスト・パウル・ホルストの「マンボッシェのコルセット」の素晴らしい写真表現。
 さらにはナターリヤ・ゴンチャローワの「オレンジ売り」、モーリス・ド・ヴラマンクの「花と果物のある静物」。はたまたリチャード・エステスが描く「食料品店」のスーパーリアリズムか、あるいはルーチョ・フォンタナが作り上げる「空間概念、期待」のコンセプチュアルな絵画表現か。
 と、充実したパブロ・ピカソの収蔵作品を中心にして『ルートヴィヒ美術館展』では言葉で触れてみたい近代作品が充実している。その歴史は表現が辿り着ける楽園を見失ってしまうぐらいに表現の内奥まで突き進み、開き直ったかのような広がりを見せたのかもしれない。けれどルートヴィヒ美術館設立の経緯を紹介する映像のための映像作品となる、マルセル・オーデンバハの「映像の映像を撮る」のシュルレアリスティックな可笑しみに最後まで触れるとその終わりはまだ見えないし、悲劇になるとも思えない。
 過去を知って未来を思う。その機会に満ちた本展に足を運ぶことを筆者はお勧めしたい。

ルートヴィヒ美術館展

ルートヴィヒ美術館展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted