夢ごこち


 日は殆ど西の山脈に隠れ、残照も次第に弱まっていった。千代が食品センターに入った頃に勢いよく夕焼けていた遠くの空も、とっくに消沈してしまっていた。食品センター内は不健康なまでに明るいため、千代は一歩外に出た瞬間あまりの暗さに立ち止まる。食品センターに長く居すぎたのか、日が暮れるのが早いのか、多分そのどちらでもあるのだろう。荷を詰めた段ボールとエコバッグを軽自動車の後ろのスペースに置く。一息つく。ダウンのポケットから赤ペンを取り出し、「えんじゃくいずくんぞ/こうこくの志を知らんや/面白い?」と、思い出したことを忘れないように書いた。三行に渡る文字は勢いが良く、線と線とが流れるように繋がり、形が半ば崩れかかっている。千代は自ら赤ペンで書いておきながら、書き終えた途端に手首が汚れているように見え出して恥ずかしかった。隠すように左袖を引っ張り、ハンドルを握った。
 帰りがてら、不意に思い出した諺のリズムを面白がった。さっき目に入った、広告チラシから「こうこくの志」が導き出されたのは我ながら馬鹿げているが、それが余計に面白可笑しい気もした。千代は、こういうのはお義父さんが詳しいから知らぬ間に刷り込まれているのかもしれない、と思った。長くのっぺりした道を街灯が照らす、舗装工事が必要そうな道をざらざらと走っていく。ささやかな心地よさを覚えたが、それは寂れた町の不便さを無理にでも楽しもうとする遊びみたいなものだった。絶えず本気に楽しむ自分と不便さを味わっている自分の差異をこそ、楽しんでいるのかもしれない。こちらに嫁いでから覚えたこの心の動かし方はいつしか習慣になったが、彼女自身あまり意味のないことだとは気づいていた。「こうこくの志」にしても、そんな癖が働いたのかと思うと、途端につまらない音の連なりに戻って行く。信号が赤くなり、車内にも赤い光が入ってくる。反射的にブレーキを踏むが、気持ちの上では戸惑いが生じる。なんだろう、これは。
 遠くで老人は咳を連発していた。浴衣に着なれない旅行客のように崩れかけの和装をして、その上から朱色の半纏を羽織っている。不恰好なうえ下半身が涼しすぎるので、することがなければ常に布団に潜っている。髪は白髪混じりで短い割にいつも乱れている。髭は胡麻塩をまぶしたように小汚い。以前の精悍とした面立ちに翳りが差し、こうも容貌が浮世離れしだしたのも外に出る機会が減ったからだけなのかは定かならぬところだ。
 この老人、今日の昼間などは駅のホームで電車を待つでもなく、疎らな人の流れを感じるためにベンチに腰を据えていた。その異様とも言える風態を見て、やけに忙しげに過ぎていく者もいれば、歩きながらまじまじと見つめる者もいた。彼の方では全身で足音や話し声、電車が通過する際の音と振動、音声案内などを深く吸い込もうとはしていたが、それらを理解しようとはしていなかった。一つ一つを分解することなく総体として受け取り、忘我の境地に到っていた。大学研究室での、学問分野での彼が、一体どのように古代中国世界を受け止めていたのかは何人も推しはかり兼ねるところだが、そこでもその足音が学者のものなのか、はたまた武人のものなのかも曖昧としたまま、誰かが足早に立ち去ったり注視したりするのを仄かに感じながら、忘我の境地で腰を据え続けていたのかも知れない。そんな思いさえ起こさせるような座り様だった。けれど、二十分もすると何かに要請されるように電車内へ入っていった。帰りは歩きながら、高い声で音声案内を口ずさんだ。「2番線のホームに参ります電車は、短い7両編成です」。
 彼が息子夫妻と同居を始めてから、もう半年になる。妻を亡くして独り身になった彼を案じて、息子が同居を持ちかけた。一度は老人ホームに住むことも検討されたが、移り住むのが殊の外早かったのでその話は立ち消えになった。細糸に引っ張られるように「旅沢音比古」としての生活に移り、所謂第二の人生が始まっていたが実感は湧いてこないままだった。「旅沢教授」としての生活が終わるともなく終わっていたのも意識には上らない。


 文身、そう声に出さず呟いたのは千代の手首にある走り書きを見てのことだったが、かつての研究対象であった古代中国のことなど殆ど考えもせぬ暮らしを送っていただけに、その言葉が浮かんだことには、些か感慨深いものがあった。文身とはつまり刺青である。千代は彫り込んでいる訳ではないし、ここで彼が思い浮かべたのも普通の刺青ではない。咳の次は大欠伸をして、暢気に思い浮かべたのは殷王朝期の中国に行われていたとされる彫り込まずただ描くだけのものだった。千代はダウンをハンガーにかけた。袖口から赤ペンで書かれた文字列が露わになり、あたかも蛇が悪しき外界を睨みつけているかのように見える。音比古はそんな連想をした。しかし、こんな出し抜けな連想は、彼の学識の高さの示すものではないだろう。むしろ、喜寿を迎えていよいよ過去と現在とが混淆した脈絡のない世界へ踏み込んだのだと取る方が妥当だ。実際、本当に袖口や襟元から良からぬものが入り込むと信じられていたのか、それとも自分の勝手なこじつけなのか、判断がつかなかった。一方で千代はその手首をぶらつかせながら買い出してきた食料品を冷蔵庫に仕舞っていた。肉を冷凍し、バナナをテーブルの上の椀に盛り、そうして傍らに立つ老人からの視線を気にもかけないで黙って動いた。
「まだお体はいけませんか」
「うん、どうだろうねえ。さっきまでは風邪なんて意識してなかったけど、そう訊かれると強ちまだ自分が病人だという気もしてくるね」
「左様ですか」千代は反応に困ったが、こんなことも滅多にないと思って、特段煩わしくも思わなかった。半年前に住み始めるとなった時には、介護に追われることを恐れたが、その懸案も肩透かしだった。ヘルニアのことも、本人が過度に意識し過ぎているように見える。心配していない訳ではなかったが、それよりも今案じているのは遼平のことだった。しかし、考えても仕方がない。取り敢えず年末には帰ってくるようだから、その時にどう接するか。
 音比古は黙って酒を飲んだ後、布団の上で硬直しているかの如く臥していた。ヘルニアのため、いつ腰をやられるか分からず下手に動きたくないのだ。何せ喜寿の祝いに教授職を辞した原因でもある。加えて、今は足裏にイボ用のサリチル酸パッチを貼っているため、歩いた時の変な踏み心地が不快だった。長年のヘルニア、妻の病没、喜寿の祝い。結局どれが表向きの辞職理由となっていたのかは知らないが、予想以上にあっさりと過ぎていった。最早、自分とは関係のない記憶にも思える。今暮らしている息子とその妻のことでさえ、昨日のことなってしまえばもう思い出すこともない。そんなことを言い出しても始まらないのでわざわざ言わないが、これは呆け始めたのだろうか。
「水、水をください」自分では動かずに、そう叫んだ。
 水を差し出されて音比古は起き上がった。そのまま布団の上に胡座をかいて直ぐに飲み干した。千代は発熱でもあるのかと怪訝そうに眺めたが、そうではないようだ。見ていると、立ち上がりざま軽くよろけつつも、紙を持ってきて何か短文を書いた。そして、「ヘルニア腰に王手を打つは意識朦朧アルコホル」などと都々逸を朗詠し出した。その気味の悪さに、千代は初めて義父を怖いと思った。元から風変わりな人ではあるけれど、都々逸なんかやりだして、今に漢詩でも大音量で読み上げられるのではないか。結局そんなことはしなかったけれど、千代は気持ちが怯えていたのには、変わりはない。
「もう一杯、お水を持ってきましょうか」
「うん、その方が良さそうだ」
 千代はコップを二度も三度もすすいでから、水道水を注いだ。


 夕飯が出来た頃にちょうど、勤務先の郵便局から修二が帰ってきた。缶詰の鯖の水煮やら、南瓜を甘く煮つけたのが食卓に並んだ。味噌汁の種は麩だ。
「お父さんの、風邪はもういいの?」
「いや、しつこいね。寄せては返す波の如く」
「波の如くなんて言って、さっきは忘れてお酒なんて飲んでたじゃないですか」
「ああ、道理で減ってると思った」久々に飲んだ酒は僅かではあったが、確かに音比古の臓腑を暖めた。耳の裏で血が迸るのすら聞こえそうだ。隠れて食前に飲んだ甲斐はあったが、体の調子が狂いかけて次の瞬間にはどうなっているか分からない。気が気ではないから、早く過ぎ去らないものか。デザートのコーヒーゼリーにフレッシュを垂らしながら、音比古は平静を装うのが精一杯だった。修二には、風邪が治り切らないのだと思われている。ともすれば、おどけた振りをしているかに見えた。だが、何れにせよ大して気にしていない。修二の気にかかっているのもやはり、遼平のことだった。とはいえ、三人で暮らし始めてからの父が、あからさまに老い衰えているのを感ぜざるをえないのは、悲しいことだった。
「遼平は年末年始、帰ってくるんだろう」
「ええ」
 修二は妻の所在なさげな返事を果たしてちゃんと聞いてるのか、些か唐突にテレビの電源をつけた。誰も何も言わない。彼は、父がコーヒーゼリーにフレッシュを二つも入れているのを見て、健康に悪いと注意するか迷った。あまりに珍しく酒なぞ飲んでいる父が何を考えているのか分からなかった。しかし、何か酒を飲むようなことがあった、などと考えるのは気を回し過ぎかも知れない。昔は未成年の内から酒を飲んで母に心配された、その母ももういない。この父がどれだけ酒を飲もうと、フレッシュを入れようと、誰も何も言わない。ピスタチオを袋を開けて、殻を割る。
 長いこと父親として振る舞っていたのが、また自分が息子という立場になり、避けられないしがらみに捕えらた気分がないではない。確かに自分が父親でいる間も、自分は父親の息子だった。そして、今も依然息子の父親である。けれど、いつの間にか遺伝子を伝達され、伝達している。この関係性は単線的かもしれないが、それ故に解きほぐし難い気がする。例え死んだとしても、自分は永遠に誰かの子孫であり、永遠に誰かの先祖であるという仕組みが恐ろしい。脈々とした作為を感じる。自分のしている郵便業にしても、そういう作為の片棒を担いでいるのではないかと思う時がある。遼平が幼い頃に何度も行った科学館のことまでもが、思い出される。それは、恐竜の化石の展示であり、天体を映したプラネタリウムであった。ああいうものもみんな長い時間の流れに囚われている、個が死んでも全体は死なず、種が滅んでも別の種は残り、継承され、やはりしがらみに違いないだろう。あの頃は車で四十分もかけて行っていた。今度また行ってみようか、一人で。風呂に入りながら、歯磨きをしながら、そんなことを考えて修二はくたばるように眠った。
 日が暮れた。朝になり、修二は家の裏庭から嫌な羽音がするのに気づいた。蜂の巣が出来ていた。呼んだ業者はその日の夕方に来た。厚いビニールの袋の中を暴れる蜂が業者に持ち去られていくと、修二は悩みの種がすっかり取り除かれた気がした。啓示を得た、という言い方は大仰過ぎるが、あれだけ確かな悪意の塊のようなものが失せたのは、はっきりと自分の脳裏で鳴っていた通奏低音のような不安が振り払われたことを意味するだろうと思ったのだ。それは、些か能天気な発想には違いなかったが、さして悪い傾向でもない筈だった。少なくとも、彼らしからぬ悩みを抱え続けるよりかは、余程。
 遼平から帰ってくる正確な日時の連絡があった、年が暮れていた。


 遼平は懐かしい家で最初の朝を起きた。明けの空は澄み渡り、荒涼とした上空を真っ黒な鳥がすべった。居間の大窓から入る光はまだ浅く、遼平には部屋全体が目が粗く灰色の網を掛けられたように思えた。昨日と比べて物の配置が変わったり、新しい物が増えたりしている訳でもないのに、見え方が随分違う。早朝の部屋、そこでの陰影、色彩とはこんなものか。彼は単純にそう感じて、部屋が光の辺り具合によって様々に移ろうのを夢想した。遼平は祖父がもう起きてホットコーヒーを飲んでいるのに気づいた。傍に立ち、尋ねた。
「ピスタチオいる?」
「いらん」
「米粒ついてるよ、肘」
 音比古は黙って半纏の肘にある米粒を手で探り、剥いだ。寄生虫のようだ。いや、小さな蛹にも見える。そんなことを考えるのは、音比古の足裏にイボが出来たからだった。
「あ、取れた」
 尋常性疣贅、というらしい。皮膚科でレーザー治療を受けようにも、面倒で行かなくなり、結局サリチル酸を含んだパッチを貼ったり貼らなかったりして症状は一進一退である。足裏を蛆に食われているかのように疼く、と常々思っていた所為でか米粒まで虫に見える。そもそも何故イボになったかといえば、新聞を取りに郵便受けまで裸足で出た際に段差でよろめき、足裏を砂利で傷つけたからだった。そのときは腰が痛いのに気を取られて足裏なぞ放っていたが、気がつけば皮膚の組織が死んで固くなっていた。その領域が明らかに当初より大きくなっていることに気づくのが遅く、根治に手間取っている。まるで自分の足裏を食っていた虫の正体を捕まえたかのように剥いだ米粒を手で弄んでいる。そんな想像をしてるとも知らず、遼平はぎこちなく話しかけた。
「お爺ちゃんさ、ずっと昔の中国のこと研究してたじゃん。俺、今もそれしてるのかと思ってたけど辞めたんでしょ、なんか辞めちゃった理由あるの?」
「何でだろう」
「……」
「まあ、辞めるつもりはなかったけど、辞める形になっただけだね。大学って建物があったお陰で、毎日そのことに思いを馳せてたけどね、こう此処に居着いてるとだめだな。だめな場所って訳ではないんだが」
「そっか」
「後ろから押し出されるみたいな感じだよ。別に学会追放じゃないけど」
「俺、水泳選手辞めるかどうか迷っててさ、ずっと打ち込んでたとこから出ちゃうのって、どんなのかと思ってさ」
「それはそれでも遼平ならば、楽しくやれる気がするよ」音比古は敢えて都々逸で、ふふん、と口ずさむように返した。
 都々逸だと気づかず、そんなことを言うとは思っていなかった遼平の目には、記憶にあるかつての祖父と比べて今の祖父が呆けて憔悴気味になっていると映っていただけに、意外だった。案外これで余生を楽しんでいるのだろうか。それとも、若者である自分のことを何か慮ってのことなのだろうか。どちらにせよ、人からいざこう言われると鵜呑みにはできないと思ってしまう。けれど、我に帰ることを繰り返していたところで、今後の自分の方針を決められるのだろうか。それも、押し出されるようにして決まってしまうのだろうか。悩みながらピスタチオの殻を割り続け、ボリボリと一口に頬張った。
 雲が退き俄に明るくなった。


 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、千代は喉の奥で唱える。意味は覚えていない。確か、あまりパッとしなかったとだけ覚えている。ただ、鳥の名前が幾つも入っていて賑やかだと思っていた。意味も知らず、ただ音だけが運ばれていくのは面白い。別段会話の中で使える訳ではないから喉の奥で唱えて消えていくだけなのだが、何処かにツバメでもコウノトリでも飛んでいそうな気がしてくる。大晦日も元日も近いから、鳥ならなんでも、飛んでいれば瑞鳥とやらに違いない、千代はそう思った。そして、漢文は案外、暗誦向きの言葉だとも。
 千代が義父の蔵書から、比較的手触りの良い新しい本を借りてきて無心で漢詩文を音読しているのを隣の部屋で耳にして、遼平は何事かとゾッとした。しかし、それも落ち着いて聞いていみると、普段より声が澄んでいて、悪い気分にはならなかった、この平家では、いつまでものんびりと暮らせそうだが、果たしてそれで良いのだろうか。遼平は我に帰る。選手生活で二度目、日本水泳選手権の決勝トーナメントへ食い込んだのが今年の夏だった。その結果、8着というかつてと同じ順位を喫した夏だった。二十七歳にして最高潮に達していた緊張が解け、時間が伸び縮みしているような感覚に襲われた。もはや時計やタイマーが同じ時間を刻んではいないかのようだった。
「君問歸期未有期   
巴山夜雨漲秋池
何當共翦西窓燭   
却話巴山夜雨時」
千代はいつか古文・漢文の教科書で見たような名前の作者が書いた漢詩を読んだ。言い間違うことなく、家中に声が届き渡った。他人の言葉、それも遠くの国、遥か昔の人の言葉を自分の口から繰り出すことは、それなりに彼女を楽しませた。意味が汲み取れない、分からないということに居直ってしまえることの気安さもあった。それでいて確かに、それが言葉だというのが分かるのも良かった。
「君は帰期を問うも未だ期有らず/巴山の夜雨秋池に漲る/何か当に共に西窓の燭を翦り/却って巴山は夜雨の時を話すべき」
 李商隠か。その声は音比古に懐かしい思いを起こさせた。読み上げる清朗な声と悲しげな詩に との間に、不思議な調和を覚えた。意味が分からないなりにも誠実に読むとこうも美しく聞こえるものか。自分は暇つぶしに都々逸を作っては修二に呆れらるばかりだが、これだって千代が読めば様になりそうだ。そう考え、箪笥から裏紙を引っ張っり出してくる。精を込めて、うんとくだらないものを作ろう、と。
「キミキキヲトウモイマダキアラズ」
「ハザンノヤウシュウチニミナギル」
「イツカマサニトモニセイソウノショクヲキリ」
「カエッテハザンヤウノトキヲハナスベキ」
 我に帰ると言っても、特に帰り着く先はなかった。遼平は次第に、母親の声にうなされるかのようになってきた。かと言って、止めに行く気もしない。単に話したくないのだ。子どもの頃は、テレビを勝手に消して親に怒られることがよくあった。きっと、今だって止めてようがない、仕方ないと割り切る他ない。それに、自分は親をも失望させてしまったのだから強気な発言を出来る訳はない、という負い目もある。こちらの方は中々割り切ることが出来ずにいる。
 修二は、こんこんと眠っていた。


 旅沢家では年末でなく、年始に湯に浸かりに行くのが習わしになっている。近くに一軒だけある銭湯も、年末には一年の垢を落とそうとする人で溢れ返る。年始はさほど混まない。それは音比古の言い分であり、修二の言い分でもあったが、もう十年以上年始にしか行っていないため、実際のところどれほど混むのかは分からなかった。千代も遼平も特に拘りはない。さっぱり出来るのは変わりないから、誰も気にしてはいない。
 夕方になってから修二の運転で銭湯へ向かった。修二は「明けましておめでとうございます」を言い合った朝の気分が長引き、子供のように興奮していた。着くと例年通り一時間後にロビーで集まる約束をし男と女に分かれた。男組は三人とも手早く脱衣し、露天へ入った。寒さが堪えるのか、音比古の腰の具合はますます悪くなる。近々検査をせねばなるまい。この程度の湯治は、気休めにもならないだろう、と思いつつも一番長く浸かっていた。上がると、乾燥した肌が蒸れて痒くなるのを扇風機で冷やした。
 髪と体を洗い掛け湯を済ました千代は汗を流そうとサウナへ入ったが、五分もしない内に出て冷水シャワーを浴びた。冷水は浴びれば浴びるほど体が清められていくようで、心地良かった。
 ロビーで集まり、食堂で各々山菜天麩羅付き蕎麦やカツカレーを食べる。
「幸せだわ」千代が言う。
「そうだね」遼平は、母に照れがまるで無いのに苛立ちを覚えるが、表面には出さない。
 数週間してどんと焼きがあった。
公園は寒く、真ん中の火に近寄っては遠のいていく幾人かの影が揺れた。千代は特に気にする風でもなく手首の汚れと、持っている串に刺した餅を交互に見遣り、ぼんやりと裏表を返しながら、こんなもんかなと思った。ブロックを組んだ上に鉄網を載せただけの簡素な炭焼きの上を転がした。隣では修二が餅を食っている。簡素な炭焼きは十個あるかどうか、等間隔に配置されている。時たま火が風に煽られて翻り、火種を飛ばしてくるが、燃料である松飾りの類が投下されなくなるとそれも落ち着き近寄る人影も散っていった。千代には意味も取れない文字の名残りが、却って元より重要めいた痕跡に見えた。上二行はほぼ霞んでいるとはいえ「面白い?」の部分は未だに判読可能なのを見ると、余程濃く書いてしまったのかもしれない。走るように書いたのは軽やかに書いたのではなく、相当の筆圧で刻むように書いていたのだろう。修二は横目に見て、変な色だなと思った。
「それ何、手首の汚れみたいなの」
「なんか前に走り書きしたのが消えきらなくてね。なんて書いてたのかは忘れちゃった」千代は本当のことを口に出して言っても突拍子がなく白けてしまうと思ってか、そう言った。あるいは説明をするのが手間なうえ、しても伝わらないと考えたのかもしれない。自分でも隠すようなことではないと分かっていながら、咄嗟に忘れた風を装ったのが、後ろ暗いとまでは行かずとも妙に悪い気がした。言葉を継ぐ。「確か、諺か何かじゃなかったかな。元は漢文とかの」
「そうか、じゃあ父さんに教えてもらったのかもな」
 二人とも餅を食べ終え、火の勢いが弱まるのを見守りつつ話した。修二は手持ち無沙汰に炭をトングでいじった。小さなものを叩き割ってもみた。粉々になった炭をブロックを擦りつけるのは、子供じみた単純作業だった。辞められなくなる前に立ち上がった。「そろそろ帰るか」
「じゃあ、私ちょっと買い物だけしてくるから」そう言って、千代は先に立ち去った。修二は新年を迎えた時のような寒々しいたのしさが再び体中に湧き起こるのを感じた。
 日は高く昇り、そこかしこに影を作った。
 その年の春に遼平は水泳選手を辞め、フィットネスクラブの係員になった。

 音比古は重い眠りにから中々這い上がれずに嫌な夢を見た。悪酔いの所為だろう。人影一つ見えぬ葦だらけの場所で、ひたすら足音に怯えながら逃げ隠れする夢だった。目覚めても暫く心に怯えと疲れが残っていたが、眠気に組み伏せられままに微睡んでいると消え失せた。眠気がさっぱり流れ落ちると、今度は空腹がやってきた。暗く静かなキッチンに立ち、タッパーに入ったとろろを米のよそってある椀に溢して食べた。顎髭の辺りが痒いような気がしていたが、とろろを食べるとその痒みが喉奥に移ったようで厄介だった。「もうじき時計も二時は回るが、回るに回らぬウイスキー」、呟いてみた先から言葉は消えてしまう。音比古はほぼ毎日、寝酒をするようになっていた。それまでも寝れない訳ではなかったが、飲むと変な夢を見るのが面白いとも楽しいとも言えぬ奇妙な習慣になっていた。
 飯はとろろでかきこんだため、すぐになくなってしまった。何か工夫をして薬味でもかければ良かったと、食べ終えてから思っても遅い。音比古はウイスキーの壜に目をやったが、これ以上は意味のないことに思え、誰が居る訳でもないのにばつが悪くなって髭を掻いた。そうして食べている内に安心を回復した。夢から受けた傷が癒えてしまうと、どんな夢を見ていたのかと思いを馳せることも出来なかった。夢の名残を引き摺るのは愚かしいことかもしれない。大欠伸が出たが、これが布団の上に行くとまるで眠れないのが分かっているから、暇を持て余す。音量を絞って、テレビを見る。知らない番組に出ている知らない芸能人に興味はないのだが、他にすることもなく漫然と眺めた。千代が起きてきた、もうそんな時間になっていた。
「あら、お早いお目覚めで」
「いや、ずっと起きてんだよ」
「昨晩からですか」
「昨晩寝て中途半端に起きちゃってから」
それきりで話は途切れた。早朝のニュースでは、男二人が決闘をして捕まったのが報道されている。音比古は決闘をしたいと思ったことはなかったが、何となく誰かが自分の代わりに出来ないことを果たしてくれたようで胸がすく思いがした。思えば風通しの良い国である、殴りたいと思ったら捕まりはするけれど、大抵思いは全うできる。刑罰も近代に入ってから、身の毛もよだつようなのはなくなった。勿論、刑を受けたことはないから身に染みては分からない。自分にも昔は殴ってやりたいと思う人間が一人くらいはいた気がする。結局、行動には出なかったがいざとなったら出来る、というのは心の安らぎになっていた筈だ。しかし、当然それは恐ろしいことでもある。自分の意思と関係なく、何かの弾みで相手に危害を加えられてしまうというのは。修二が若かった頃、彼の枕元に睡眠薬の壜が三つもあるのに心臓が止まる思いをしたことがあったが、あの時の修二もいざとなったら死ねるという思いと、ふいに自分が死んでしまうかもしれないという危うい均衡の上に生きていたのだろうか。あの壜は問いたださない内に消えていた。しばしば自由意思に就いて思いを巡らそうとしたがこれほど胡散臭い言葉もないと、ニュースを見続けて思考を止めた。
「お義父さん、夜中に食べたんですか」
「うん、少しね」
「あんまり食べない方がいいですよ、夜は」
「まあ、食が細るよりかはいいじゃない」修二はそう言いつつインスタント味噌汁の素に湯を注いだ。修二もまた食が細ることなく、朝起きてすぐ腹に物を放り込み、帰ってきてすぐご飯の用意を催促するので、千代に嫌がられていた。「俺も若い頃はよく夜食したし」
 夫のやる気のない擁護の弁を聞き流しつつ、千代はテレビを消した。
「見てないでしょ」そう、誰に言うともなく言った。

夢ごこち

夢ごこち

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-11

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