シーサイド・クリフ

1、

 目前には広大な青が広がっている。

 空は青々と住み渡り、少し目線を落とすと海の果ての水平線まで見渡せる。波はゆらゆらとおとなしく揺れており、すこぶる穏やかな様子である。私は石碑のあいだをぐぐりぬけ、海の方へと向かった。幾万もの名前が、私の横を通り過ぎる。12月とも言うのに、少し歩けば汗ばんでしまうほど、沖縄の地はあたたかかった。私の出身地であるところの北国とは大違いだ。私は素直に感心する。
 上着を脱いで肩にかける。すうっ、と脇を駆け抜ける風が先ほどよりも気持ちよかった。そのまま、海岸の方に足を向ける。本州からこの島に飛んできて既に三日になるが、何度見てもここの海の青さには驚かされる。青、そう、青だった。私が地元で見る海など、太平洋の荒々しい灰色だ。吹く風に荒立つ飛沫、ゴツゴツとして猛々しい岩肌は、見る人にとっては男らしいと思わせるのであろうが、私はあまり好きではない。それよりも、沖縄の海のようなパステルカラーの青、珊瑚礁、ゆらゆらと揺れる平和的な海の方が好きだった。同じ海でもここまで違う、それに気づいたのが旅行に来て一番の収穫かもしれない。
 辺りには制服姿の学生と思わしき集団もいる。何人かは上着を肩から下げ、ワイシャツ姿になっていた。な、そうだよな。暑いよ、沖縄は。
 戦時中唯一地上戦へ発展したこの地に、この公園は平和を記念して建てられた。広場には大きなモニュメントが建てられ、少し歩いたここには戦争の犠牲者の名前が幾万にも掘られている。その慰霊碑よりも景色を楽しむ私を見たら、ここに眠っている数万人はどう思うことだろう。きっと恨めしそうな目ででこちらを見てるに違いない、そう考えるとなんだか申し訳ないような気がしたが、やはりこのどこか異国じみた景色は私の目を奪っていく。どんどん、どんどん、私の足は海の方に吸い込まれていく。
 やがて、一面を見渡せるあたりで足を止めた。大きな婉曲を描く緑の陸続きに、青い波が打ち寄せている。きれいだ、単純にそう思った。きれいだ、それ以外の言葉なんて必要ないほど、美しく、完璧だった。落下防止用の柵に寄りかかりながら、私は自然と溜息が出た。なるほど、本当に感動すると人は溜息が出るのか、新しい発見だ。
 しばらくその景色に目を奪われていた。漠然と景色を楽しんだり、目線を海、空、島といろいろに動かしたりもした。すると、あるところで目が止まる。手前側の断崖絶壁で、白い板に黒字でなにか書いてある気がしたのだ。じーっと目を凝らす、やはり何かは書いてあるようだが、はっきりとは読めない。・・英語、おお、英語だ。かろうじて見えるのは、アルファベットのようだ。さらに目を凝らす。2単語か。最初はs・・・シ?場所の名前を刻んだものだろうか。沖縄は在日米兵も多いから、英語で観光案内が書かれているとしてもおかしくない。事実、街中ではよく英語を見かけた。場所の名前だとすると、おそらくは、
 「seaside cliff・・?」
シーサイドクリフ、海辺の丘だ。

 「suicide cliffって読むんですよ、あれは。」
 いつの間にか、後ろに老人が立っていた。先程のひとりごとまで聞かれていたようで、恥ずかしくなった。
 「お兄さん、あの看板一生懸命眺めてたでしょ。こっからじゃよく見えないがね、あれはスーサイドクリフ、って書いてある。」
 老人はにこやかに笑う。その口元では白い歯が顕わになった。暖かな、柔らかな声である。その容姿も白髪まじりだがすっと立ち、その年齢を感じさせないような若々しさである。
 「スーサイド・・?」
 私は考えるより先に口に出していた。はて、スーサイド、どんな意味だったか。高校時代に英語と触れ合って以来の久々の再会であるが、名前が出てこない。
 「自殺の丘、っちゅうことだな。」
 説明しなれているのか、老人は淡々と説明した。自殺、などと物騒な言葉をここで聴くことになるとは思わなかったが、老人の表情はほとんど動かなかった。ただ、ほんのわずかに目の奥に色が宿った気がした。
 「太平洋戦争中はなあ、ここは激しい戦場だった。何人も、何人も、死んだ。アメリカの兵隊に殺されてなあ。それでも、逃げ延びた人達がここに集まった。そして、あいつらに殺されるくらいならと、次々と飛んだよ。この丘から。」
 そこまで聞いて、老人の手に花があることに気づいた。はっと、先ほどの疑念が解決する。この老人の目に宿ったのは、深い悲しみの色だったのだ。家族、親友、恋人、誰なのかはわからないが、この老人も大切な人を失ったのだろう。彼の目は今ではないどこか遠くを見ているようだった。
 「ほんと、綺麗な海なのになぁ。」
 涙が出ているのではないか、そう錯覚させるようなか細い声で、老人は声を絞り出した。こんな綺麗な海で人死にが出たことを、ひどく嘆いているのだろうか。
 「綺麗、だからじゃないですか。この海は綺麗だから、この海に抱かれた死んでしまいたい、そういうことじゃないですかね。」
 私の言葉に、老人が一瞬目を丸くした。正直な感想だ。この海には、魔力がある。人を惹きつける魔力がある。美しさ故の、魔力。
 「はは、なかなか面白いことを言う兄ちゃんだな。」
 「いえ、それほどでも。」
 老人は手に持っていた花をそっと、柵の向こう側においた。そしてそのまま手を合わせてしばらく目をつむっていた。少しだけ、口唇が震えたような気がした。気のせいだろうか。

 「どなたか、こちらで亡くなられたのですか。」
 そう聞くと、老人はまあな、と言葉を濁した。目線は地面を捉えたままである。あまり、深く聞こうとは思わなかった。あまり好き好んで話したいような話題でもなかろう。そのまま、二人共黙り込んでしまった。老人はまだうつむいている。
 数分、そのままだったように思う。先に静寂を破ったのは老人の方だった。表情はすっかりもとの表情に戻り、先程までの影が消えている。
 「兄ちゃん、このあと暇か。」
 「ええ、まあ。なんですか、ナンパですか?」
 「難破?まあいいや。俺は近くで喫茶店やってるんだけどよ、兄ちゃん、よかったら寄ってくか?コーヒーくらいサービスするぜ。」
 私は突然の誘いに悩んだが、結局、その老人の提案に乗ることにした。特に予定もなかったし、こういった出会いも旅の醍醐味だと思ってのことだ。

 公園を出て十分ほど歩いたところに、老人の経営する喫茶店はあった。カランと戸を開けて店内に入ると、客は一人もおらず随分さみしいものであった。なるほど、店を空けて外を出歩けるわけだ。
 「好きなとこ座ってな。いまコーヒー出すから。」
 私は一番窓際の海の見える席に座った。木で出来た椅子とテーブルは、どこか懐かしさを感じるようであった。そのまま深く腰掛け、息をつく。
 カウンターにいる老人は慣れた手つきでコーヒーを準備した。そのままコトっと私の前にコーヒーを出すと、私の前の席に座り、窓に目をやった。
 私は出されたコーヒーを口元へ運ぶ。ズズッ、とすすると、苦味と香ばしさが口になかに広がった。
 「・・・うまい。」
 「それは良かった。」
 もう一度、口へ運ぶ。しっかりとした苦味と、その中にほのかな酸味が広がる。少しの間風味を口の中で転がし、飲み込んだ。自然とため息が漏れる。
 「うまそうに飲むねえ、兄ちゃん。」
 「うまいですもん、これ。」
 「そうか、それは良かった。」
 老人は満足そうな顔をしている。こんなうまいコーヒーがあるのに、客がここまでいないと一層心配になる。
 「ところで兄ちゃん・・っと、ずっとにいちゃんだと収まりが悪いか。」
 そう言って老人は目配せをする。名前は、ということだろう。
 「岡野恭介、といいます。」
 「恭介くん、ね。どこから?」
 「岩手です。」
 「それは随分と。どうりで薄着なわけだ。」
 「ええ、まあ。で、あなたは?」
 私は、この老人がしたように目配せをする。
 「え、俺か?俺はなあ・・」
 そこまで言って老人は言いよどむ。
 「・・マスターでいいよ。」
 「はあ。」
 少々拍子抜けしたが、まあいい。私も旅行者の身で、彼の名前をあえて知ろうとする必要はないのかもしれない。以後、私は彼のことをマスターと呼称することにする。
 「恭介くんはどうして沖縄に?」
 「旅行ですよ。」
 「まあ、そうなんだけど、そうじゃなくて。その動機さ。」
 「・・・旅行の?」
 「旅行の。」
 はあ、と私は溜息をついた。今度はいい意味での溜息ではない。私が沖縄に来たのには、まあそれなりに経緯があってのことなのだが、さて、これを赤の他人に話したものかどうか、私が悩んでいると、マスターはこう続けた。
 「赤の他人だから話せることもあるさね。」
 結局この一言に押されて、私が沖縄旅行にひとりできた経緯を全て話す羽目になった。
 
 元々、私はこの旅行に恋人とふたりで来るつもりだった。のだが、一週間前に別れることとなってしまった。なぜかって、彼女曰く、他に好きな人が出来たの、と。それを聞いた私は、ポカンとしていたと思う。呆気にとられていた。引き止めたが、よりが戻ることはなかった。しかしすでに予約していた沖縄行きのチケットはキャンセル料が発生してしまうため、しかも仕事もまとまった休みを取ってしまっており、半ば自棄で仕方なく一人で来ることとなった。いわば傷心旅行だ。
 という旨のことを、マスターにはもっと精一杯の感情を込めて物語った。 
 「なるほど、それはそれは。」
 たった三行程度のことが、いささか感情移入が過ぎてしまい十分程度の話になってしまった。大半が愚痴になってしまったのだが、それでもマスターは嫌な顔をせずに聞いていた。
 「ご愁傷様だったね。」
 「まあ、結局いい機会になったのでよかったですよ。もともと沖縄には行ってみたいなと思ってましたし。」
 「ほほう。」
 「まあ、なんというか、興味あったんです。その・・歴史、とか。」
 あえて、戦争、という表現は使わなかったが、私の意味する所の歴史とはそういう意味であったし、マスターもそれは了解のようだ。ただ、少しだけ、この人の前で戦争という表現を使うことがためらわれたのだ。
 「・・・ひどい、戦争だった。いろんなものが消えた。人も、街も。」
 やがてマスターが語り始める。さっきのスーサイドクリフで見た時と同じ、どこか遠くを見つめているめだった。今ではない、どこか遠い日。彼の網膜には、当時の情景がはっきりと焼きついているのだろう。そして、それをのぞきながら物語る。
 しばらく、戦争の話を聞いた。当時の景色、アメリカ軍が上陸してから、兵隊として駆り出された話、諸々。ふんだんに彼の経験談が盛り込まれ、今まで見たどんな資料よりもリアルな情報として飛び込んできた。そしてマスターはその話をしている間、ずっと遠くを眺めていたのだった。

 気づくと空は朱に染まっていた。昼間の青は消え、すっかりと赤紫になっている。
 「もう、こんな時間か。ごめんね、すっかり話し込んじゃったな。」
 「いいえ、いいお話を聞かせてもらいました。」
 私は席を立ち上がり、入口へと向かった。
 「また、明日も伺ってもいいでしょうか。」
 「ああ、構わんよ。」
 「ありがとうございます。」
 私はそう言って、ドアの取っ手に手をかけた。グリっと回し、カランと音が鳴る。あっ、とマスターが声をかけてきた。
 「そういえば、恭介くんがあの看板、最初なんて読んだんだったかな。」
 「はい?」
 質問の意図が見えなかった。看板、ああ、あの白いやつか。たしか
 「シーサイドクリフ、海辺の丘です。」
 「そうか、シーサイドか。ありがとう。」
 いい名前だ。そう言って、マスターは後ろを向いた。若干の疑念が残ったが、私は特に気にしなかった。なんなら、明日聞いてみよう、その程度にしか思っていなかった。そのまま、店を出て、近くのバス停へと向かった。

 外は、流石に少し肌寒かった。私は上着をはおり、しばしバスを待っていた。海岸線は、夕焼けで嫌なくらい赤かった。
 不気味なほどの、赤だった。

2、

   ◇◇◇


 海岸線は不気味なほどの赤に染まっている。波は、太陽の赤を反射し、キラキラと眩しい。赤い光は大地に長い影を落とし、今日の終わりを告げる。ゆらゆら、と、波のようにその影も揺れているのであった。
 俺は彼女の手を引き、浜辺を駆け回っていた。深い草をかき分け、岩場を這って進む。はあ、はあ、と足を回転させるたびに呼吸が荒くなる。足は鉛が詰まっているかのように重く、自分のものだとは思えない。それでも、俺と彼女は走ることをやめない。
 一瞬、俺をかたどった影が濃くなった。数ミリ秒遅れて、乾いた音が聞こえる。
 止まってはいけない。私も、そしておそらくは彼女もそう思っていた。後ろから、はっきりと形をなして恐怖が追ってくる。立ち止まったとて、待っているのは死のみである。俺はなりふり構わず走り続けた。彼女の方を振り返ることもしない。俺が彼女の手を握り続ける、繋がっている。そうある限り、俺も彼女も生きているということだ。
 海岸線は未だに赤い、赤紫だ。
 
 どれくらい走ったのだろうか、後ろを振り返っても、もう追手はやってこないようだった。俺はその場にへたり込む。ぜえぜえと呼吸が荒れているのが分かる。無理もなかろう、走り続けて、いつの間にか辺りからは赤が消えていた。代わりに、闇の色が一体を支配する。太陽は沈み、月と星の光だけがここを照らす。こんな時じゃなければ、さぞ美しい光景だったことだろう。
 「耕三、耕三。」
 彼女が俺を呼んでいた。いつもよりも、か細い声だった。その言葉と言葉の隙間からは、はあはあと息が漏れている。
 「月・・綺麗だね・・。」
 ああ、そうだな、と俺は彼女の方を振り返らずに答えた。あたりに人影がないか、もう一度慎重に確認する。
 「・・ちょっと、疲れたよ・・。一回・・・休も・・?」
 周囲に人影はなかった。月明かりに照らされているのは、俺と彼女だけ。俺は近くの岩にゆっくりと腰を下ろした。彼女もそれに従って、ゆっくりと腰を下ろした。ぴったりと、体を寄せ合う。
 「海夕希、大丈夫か?」
 横では彼女が、まだ肩で呼吸をしている。正味一時間ほど駆けずり回ったのは、流石に女性にはこたえたようだ。
 「平気・・ちょっと疲れただけ。」
 彼女は微笑んでみせる。まだ幼さを感じさせる彼女の顔の、透き通るような絹の肌は、月の青々とした光を反射して輝いていた。
 「綺麗な・・・場所だね。」
 「ああ、綺麗だな。」
 「私・・来たこと・・・ないよ、こんな所。」
 「ああ、どこだろうな、ここは。」
 俺は周囲を見渡して、ここがどこであるのか確認する。特徴的な、大きなカーブを描いた島の形。ああ、聞いたことがある――私は思い出すと同時に、ひどい後悔に襲われた。なんとも、不吉ではないか。

 スーサイドクリフ、自殺の丘。俺はぼそっとつぶやいた。誰かが、そんなことを言っていたような気がする。


   ◇◇◇


 澄み渡る晴天は、真夏をも彷彿とさせる。どこかからセミの鳴き声が聞こえてきたって、別段驚きはしないだろう。
 
 私はまた昨日と同じように上着を脱ぎ、肩から下げて歩いていた。現地の人は、私を奇異な目で見る。一応、暦の上では12月ということになっているが、最高気温が氷点を超えなくなった私の地元からすれば、まだまだ夏でいい。今日は当てが外れて少し余計に歩くことになってしまったから、その分余計に汗をかいてるらしい。時折吹き抜ける風は、私の表皮の熱を奪っていった。まあ、帰りにもう一度よればいいさ。そうして私は、飽きずにまたあの公園へと向かっていた。
 
 公園は、昨日とはうって変わって多くの人で賑わっていた。修学旅行生だろうか、それにしては随分私服の輩が多いようだが。仕方なく、混雑の少ない坂の上の方へと足を進めた。昨日の情景とはまた違い、高さがあるためその分眺めがいい。相変わらず空と同じくらいに青い海は、やはり何度見ても新鮮だ。道の脇には、南国じみた植物が顔を覗かせている。私はその横を歩きながら、時折見える慰霊碑を見物して回った。
 一時間はたったのだろう。一周してまた下の広場にもどると、比較的人は少なくなってきたようだ。そこで初めて、私はあることに気がついた。見慣れない格好の男たちが、ウロウロしているのだった。
 警察官、あれは警察官の格好だ。ドラマでしか見たことはないが、服装は明らかに警察のそれだった。野次馬根性で、彼らに近づいてみる。彼らは一箇所に集まっている。人ごみも、そこへ向かうにつれて密度を増す。

 ―――昨日、マスターと会った場所。

 そこには、昨日までの緑の他に黄色が存在した。黄色い、規制線。
 何かがあの場所で起きた。それは明らかだった。
 心がゾワゾワしているのを感じた。特に根拠があるわけでもなく、言うならば勘の域だった。しかし先程までとは違う汗が、私の頬を伝ったのは事実だ。背筋が凍りつく。本能が警鐘を鳴らす。近づくな、知る必要などないのだ、あそこで何が起こったかなど。だが一方で、あのことと関係なければいい、それだけでいいから確かめてしまいたい。そう思う私がいたのも事実だ。
 好奇心と本能で挟み撃ちになった私の足は、知らず、一歩ずつ、その場所へ向かうのだった。怖いもの見たさ、そういった気持ちがあったのかもしれない。一歩近づくたびに私の心臓は鼓動をはやめる。ドクッ、ドクッと心音は鼓膜に反響し、外界の音をシャットダウンする。何も聞こえない。私の足は、脳の命令を無視してその歩みをすすめる。
 人ごみをかき分けて、丘の方へと近づく。
 規制線の前までたどり着くと、そこにあったのは昨日と変わらない光景だった。何人かで丘の捜索をしてること以外は。白い例の看板が、風に揺られて少し揺れている。
 何があったのか、そこにいた警官に訪ねてみたが、何も言うことはできないの一点張りだった。仕方なく、野次馬の最前列で踵を返す。まだ、私の鼓動は逼迫していた。心にかかった靄が消えない。なぜだか、私の中の本能が私に訴えてくるようだった。
 だが次の瞬間、耳にした言葉に、私は心臓が止まるような思いをした。

 ―――自殺、だってよ。

 誰が発したかわからない、自殺、という単語。自殺、suicide、スーサイド。その言葉が私の中をぐるぐる回り、心をぐちゃぐちゃにしていく。自殺、スーサイド。誰が。なぜか、マスターの顔が浮かんでは消える。自殺、スーサイド。
 人ごみをかき分け、私の足は自然にある方向へ向かっていた。耕三さんがねえ、とも聞こえたが、誰だかわからない。
 私は、マスターの名前を知らない。
 足は、自然と回転をはやめる。息が上がる。ついには、ほとんど駆け足になっていた。
 あのことと関係なければいい。ついさっきまでの願いは、脆くも粉々になってしまうようだ。
 あのことと関係なければいい――
 今朝方、マスターが喫茶店にいなかったこと、と――
 私の頭の中では、言葉とイメージがぐるぐる攪拌されて不快な色になっている。浮かんでは消えるマスターの顔。自殺、スーサイド。ぐるぐる、回っては、消え。この点が、線にならないで欲しい、私の、ささやかな望み。
 
 喫茶店にたどり着いた。しかし、午前中に見たのと同じように『closed』の札がかかったままである。
 私は、ドアに手をかける。がちゃっと、ノブが回る。鍵はかかっていない。
 私はそのままドアを引いた。カランカラン、と入店を知らせるベルが鳴る。
 「マスター!」
 返事は、ない。
 誰も、いない。

 閑散とした店内。さみしいのは昨日と同じだが、今日は決定的に何かが欠けていた。マスターの代わりに、カウンターの真ん中に封筒が一つ、こちらを向いていた。

3、

   ◇◇◇


 「・・耕三・・・・私ね、」
 彼女はそう言って、俺の頬にそっと手を乗せた。目と目が合い、なんだか少し恥ずかしくなる。顔が近づいてきて、より彼女の表情がはっきりとし、息遣いまで聞こえてくるほどだった。そのままニコッと微笑むと、彼女はこう続けた。
 「・・・もう・・ダメかも・・・しれない・・。」
 俺はそこで初めて異変に気づいた。彼女は俺の方を見ていない、いや、焦点が合わず、虚ろな目をしている。はぁ、はぁと漏らす彼女の呼吸は、徐々に浅く、弱々しくなっていく。頬に置かれた彼女の手からは、温もりが感じられない。
 ぬるっ、と頬で変な感じがした。生臭い鉄の匂いが鼻をつく。俺は彼女の手を引き剥がし、それを月明かりに晒した。
 小さく、繊細で、―――真っ赤に染まった彼女の手。
 ―――血。
 心臓が止まった気さえした。
 「おい、大丈夫か、海夕希!」
 「はは・・ごめんね・・・撃たれちゃったみたい・・・。」
 「馬鹿。なんでお前が謝るんだ!」
 「えへ・・・ごめんね・・」
 訳のわからないやつだ。こんなになってまで、彼女は弱々しくも笑みを浮かべる。その笑みが、俺の心をギュッと掴んで離さない。
 俺は彼女の全身を見回す。それは、月明かりでもはっきりわかるほど赤く染まっていた。右太ももに銃創。大動脈を貫通したのか、ドクドクとあふれる血は止まる気配はない。
 「待ってろ、今止めてやる。」
 俺は、自分の着ているシャツの袖を破って簡易包帯を作り、傷口の上部にきつく巻きつける。
 「・・ありがと・・・。」
 礼を言う彼女の、優しくて暖かい声は、さらに弱々しくなっている。

 馬鹿だ、俺は馬鹿だ。彼女がこんなになっているのに気付けなかった。一回でも、後ろを振り向いてあげれたなら、彼女を気遣ってあげたなら。
 俺は悔しかった。情けない自分が悔しかった。唇を噛み締める。
 「耕三・・そんなに、自分を責めないで・・。」
 彼女は、血だらけの手を俺の頬に再び重ねた。今度は、両手。
 そして、自分の唇を俺の唇に重ねた。
 何が起こったか、一瞬わからなかった。彼女の唇は、俺の体温も奪っていく。そこに温もりはなかった。
 「・・初めて・・・。」
 唇を話すと、彼女は微笑んだ。わずかに頬が赤らんでいる――――そう見えた。
 「・・俺も、初めて。」
 「もう・・することもないだろうから・・・ね。」
 彼女の言葉に、俺は何も言い返すことができなかった。そんなこと言うな、俺が助けてやる、そう言うのは簡単だ。だが俺に何ができる。病院まで運ぶ?助けを呼んでくる?
 それまで、彼女は生きていられるのか?
 わかっている。彼女はもう長くない。俺はここで何人も人が死ぬのを見てきた。銃で撃たれ、出血多量で人が死ぬのも見た。どれくらいなら助かって、どれくらいならダメなのか、感覚的に理解しているつもりだ。
 彼女のそれは、既に大丈夫な域ではない。
 俺は、何もできない。ここで、彼女の緩慢な死を看取ることしかできない。そのことが、たまらなく悔しい。
 「ねえ・・耕三。」
 「・・・なんだ。」
 「お願いが・・・あるの。私を・・・あそこまで・・連れて行って。」
 そう言って、彼女は弱々しく崖の方を指差した。
 「何をするつもりだ。」
 俺はどきりとした。彼女が何をするつもりか、わかってしまったから。
 ここは、スーサイドクリフ。誰かがそう呼んでいた。
 スーサイドクリフ。自殺の丘。
 何をするか?
 決まってる。
 「・・・飛ぶの。」
 なんでだよ。その一言は、もう声にはならなかった。
 「私、ね・・・戦争が始まった時・・・こう決めたんだ。・・・絶対に、殺されない。・・アメリカの・・・兵隊に殺されるのは・・・やっぱり・・なんか、悔しいもん・・・。だから・・・飛ぶの。自殺・・なら、殺されたことにならないもんね・・・・。それに・・ね、」
 彼女はその冷たい唇で言葉を紡ぐ。
 「それに・・この海に抱かれて死ねるなら・・・それも、いいと思う・・・。」
 彼女の言葉は、俺の脳裏に焼き付いていく。もう彼女の言葉を聞くことはできない。たったの一文字だって、たったのひと呼吸だって、聞き漏らすことはできない。
 彼女は終始微笑んでいた。
 だがその目から、どんどん生気が抜けていくような気がした。
 涙が止まらなかった。自分の不甲斐なさに怒っているのか。彼女の死を悔やんでいるのか。俺にはわからない。ただただ、涙は頬を伝った。
 「お願い・・耕三。」
 俺は無言で、彼女の肩に自分の肩を通し、立ち上がった。彼女の顔は痛みで歪んだ。しかしすぐに、もとの生気のない笑顔に戻った。
 「・・ありがとう・・・耕三。」
 「俺は・・」
 そこで言葉につまる。声が震え、口を開けば嗚咽が漏れ出しそうだ。一回、ゆっくりと呼吸をする。
 「俺は、お前に生きていて欲しい。」
 だが、声は震える。かろうじて言葉の体裁をなす程度。

 一歩、一歩、踏みしめる。俺は今、彼女に肩を貸し、生の淵を歩いている。崖からこっちは此岸で、向こうは彼岸。歩くたびに、彼女は死に近づく。一歩、一歩、俺は彼女を死へと導いているのだ。いや、彼女だけではない。時は、止まることなく、俺の足も止まることはなく。一歩ずつ、前へ進む。人生と同じだ。前に歩き、その先で待っているのは、死というひとつの終わり。俺は今から、彼女と一緒に時を止める。
 「耕三。」
 横目で俺の顔を覗きながら、彼女は呼びかける。
 「耕三は・・死んじゃダメだよ・・・。」
 どきり、心臓がびっくりしたのを、俺は聞き漏らさなかった。心を読まれたようで、俺は固まってしまった。
 「耕三は・・生きてるの。まだ・・・生きてる。」
 「お前だってまだ生きてる。」
 「・・いや、もうすぐ死ぬ・・きっと。だってもう・・・耕三の顔・・・・見えないんだもん。」
 彼女は、やはり微笑んでいる。しかし、その頬には光るものがあった。泣いている。あれだけ気丈に振舞っていた彼女が泣いていた。俺は彼女に正対し、両肩を掴んで強くを揺らした。
 「なら、俺も死なせてくれ。」
 「・・だめ。」
 「なんで。」
 「・・耕三が大好きだから。」
 「なら、俺も連れて行け!俺だって、お前のことが」
 「・・・ありがと。でも・・ね、その気持ちで・・・十分だよ。耕三は・・・生きて・・ね。私の分まで・・・ずうっと・・・。」
 彼女から、めいいっぱいの涙が溢れていた。声が、うまく出ない。俺も、彼女も。
 ずっと一緒にいよう。この地上戦が始まった、ちょうど三ヶ月前だっただろうか、俺と彼女でそう誓った。ずっと、砲撃から逃げる時も、飯を食うときも、寝るときも。この戦争が終わってからも。ふたりで、ずっと、一緒に。
 なのに、と俺は歯ぎしりをする。なのに、こんなところで!!
 彼女が死ぬなら俺も死ぬ。当たり前だ、誓ったじゃないか。ずっと一緒にいると。
 お前が破るのか、海夕希!
 ぐるぐると、思いは頭の中を巡って感情をかき乱していく。億千の言葉が浮かんでは消え、言葉にはならない。俺の口から漏れ出すのは、獣の咆哮にも似た慟哭ばかりで、口を開けど、言葉なんぞ出てこない。
 理不尽だ。この世は理不尽だ。なぜ海夕希が死ぬ。なぜ俺が生き残る!
 本当はわかってる。海夕希は、約束を破ったつもりではない。
 俺も、彼女も、互いを愛している。愛してるからこそ、生きていてほしい。自分が死んだとしても、だ。俺だってそうするだろう。あとを追うような、馬鹿な事はするなと。そう、思うだろう。
 彼女も、同じなのだ。わかってる。何もできない、自分が悔しい。
 「わかった。」
 だから、俺にできることがあるとすれば、彼女と約束することくらい。
 「生きるよ。生きて、いつか、必ず会いにいく。」
 彼女との約束を守ることくらい。
 「どれくらいだ。どれくらい生きればいい。」
 「そう・・だね。ううん・・・と、」
 彼女は必死に、考え込んで、そして
 「ここに・・・この丘に・・素敵な名前がつくまで・・・。自殺の丘なんて・・・かわいそうだから。」
 わかった。俺はそう頷いた。そして、彼女と二人、生の淵に立つ。
 まだまだ話したいことはたくさんある。したいこともたくさんある。キスだってたったの一回しかしてないではないか。だが、別れの時は、刻々と近づいていて
 「耕三、」
 彼女はニッコリと微笑み、そして
 「また・・会おうね。」

 そして俺は、彼女の手を離した。


   ◇◇◇

4、

 全て読み終えて初めて、私は自分が泣いていることに気がついた。あたりを確認するが、人影は全くない。私一人、この喫茶店に切り取られている。チクタクと時計が時を刻む音だけが、虚しく店内に響く。やはり、何もない。耕三と呼ばれていた、マスターの影さえも。私はシャツの袖で涙をぬぐい、そのまま椅子にもたれかかった。
 これはマスターの遺書だった。やはり、例の丘で亡くなっていたのはマスターだった。
 私の中で、疑問が消えない。
 なぜマスターが死んだか、ではない。それは既に遺書の中で解決した。
 なぜマスターは、これを私に読ませようとしたのか。それだけが、私の頭にこびりついて離れない。

 私は昨日の席に座りながら、店内を見回した。前の席にはマスターが座っていて、私はコーヒーをすすりながら、彼に愚痴をこぼしていた。あのコーヒーの香りや苦味まで、鮮明に思い出せる。今日も、本当はあったかもしれない光景。
 本当は私は今日も、マスターに会いに来た。きっと、マスターの人柄に魅せられていた。彼の、おそらく遺書に書いてあったような大きな心の闇があり、しかし、それを感じさせないような彼の生き方に、少し、あこがれの念を抱いていたのかもしれない。いや、あこがれとはまた違うような、なんというか・・・
 いや、やめておこう。
 到底、言葉にできることではないのだ。自分の感情は、自分が一番わからない。
 彼との会話を思い出す。彼は全く、自死を決意したとは思えないほど気丈に振舞っていた。普通の老人で、私の愚痴を聞いて、彼の戦争経験を話して。マスターは、強かった。心が、という話ではない。人として、強かった。彼が、海夕希と呼ばれたその人と死別して半世紀超、彼はどういった思いで生きてきたのか。辛かっただろう、苦しかっただろう。嬉しかったことも人並みにはあっただろうが、その度に海夕希のことが頭を過ぎっていたに違いない。彼はどんな思いだったか、想像してみるが、きっとこんなものではない。私が涙を流して済むような、そんな話ではない。私は、彼の生き方に感服した。同時に、自分の小ささが、少しだけ恥ずかしくなった。彼に愚痴ばかりを言っていた私に――
 
 ふっ、と、引っかかった。
 ―――なんだ、答えは昨日、彼が話していたではないか。

 なぜ、私が彼に愚痴を話す羽目になったのか。
 「赤の他人だから話せることもあるさね。」
 そうだ、そうだよ。
 ははっ、気がつくと、自然と笑っていた。先程までの涙が嘘のように。

 彼だって、人の子だった。そのことに気がついた。
 誰かに話してしまいたかったのだ。おそらく、身内ではない誰かに。聞いて欲しかったのだ。
 身内に、例えば妻子に話してしまったらどうなる。夫に昔からの思い人がいて、まだ心から出て行かないと知ったら。傷つくし、きっと悲しむ。だから、絶対に話すことはできない。その思いを彼はうちに抱えていて、日に日に大きくなっていったのだろう。誰かに話して楽になりたかった、それだけなのだ。
 それなら、私は遺書をギュッと握り、そのままポケットの中にしまった。それならこれは、この秘密は、私がひっそりと本州まで持って帰ろう。誰も知らなくていい。マスターだってそれを望んだのだ。
 私は店を出た。カラン、とドアがなる。もうきっとこのベルがなることは無い。
 もうひとつだけ、ここから帰る前にしなければいけないことがある。マスターのために、私がしなければいけないことが。私は携帯を取り出し、近隣のホームセンターの場所を検索していた。
 いつの間にかあたりは真っ赤で、太陽が微睡みかけている。

 翌朝、私は例の丘にいた。事件は解決してしまったのだろうか、黄色の規制線はなくなり、警官の姿も見えない。私は柵を乗り越え、誰もいない丘に足をおろした。
 まだ太陽は昇りかけの黄色で、海面はゆらゆらとその黄色を反射する。光を受けた草木は、昼間の緑を隠して黄金に染まっている。空はまだ暗がりで、太陽の光を受けて眩しそうにしていた。私は、草をかき分け例の白い看板に向かう。
 suicide cliff。白い木の板に、ぶっきらぼうに書かれた黒文字。スーサイドクリフ、自殺の丘。綺麗なこの丘に、こんな物騒な名前は似合わない。私はそれを引っこ抜くと、思い切り海の方へ投げた。遠くの方で、バシャンと波を立てる音がする。
 私はそのまま、そこからの眺めに圧巻されていた。本当に綺麗な場所だった。多くの人がここから飛び降りたとは思えないほど。
 戦時中、米兵に追われた多くの人たちがここで命を投げた。殺されるを良しとせず、自らの時間をそこで止めた。もしかしてこの場所は呪われでもしていたのかもしれない。自殺の丘、そう、不名誉な名前がつくほどに。
 だが、知るか、そんなもの。戦争は終わった。そしておそらく、戦争はもうない。ないであろうと願っている。それならば。
 ここは、きれいだ。
 ここは、美しい。
 それだけで十分ではないか。ここがスーサイドクリフである必要はない。
 ここは呪われた場所、忌々しい場所でなくていい。ここで、もう誰も死ななくていい。
 私は手にもっていた大きな袋を開け、その中身を出した。昨日ホームセンターで揃え、作ったものだ。それを、先程まで看板があった場所に立てる。
 半世紀前、ここでひと組の男女が約束をした。必ず、会いにいくと。女は死に、男は生き続けた。終わりの見えない生を続けた。そしていつしか、終わりの時がやってきた。男は約束どおり、女に会いに行った。50年分の土産話を引き下げて。
 seaside cliff。シーサイドクリフ。海辺の丘。私は、白い板に黒いペンキで、でかでかと書いたそれを、地面に思い切り突き立てた。いい名前だね、そうマスターが言ってくれた名前。少しは彼らの供養になればいい。
 彼は解放されたのか。私が解放したのか。彼にとって、生きることは苦行だったのか。彼の半世紀に私なんかが思いを馳せたところで、決してわからない。だが彼は、マスターは、耕三は、彼女との約束を守り抜いた。

 マスター、生きるのは辛かったですか。
 死ぬのは怖くなかったのですか。
 当然、答えなど帰ってこない。まあいい、私の答えは、これから自分で探すとしよう。生きれるだけ生き抜いたら、少しは答えが見えるのだろうか。

 私は、誰かに見られる前に丘を戻り再び柵を登った。
 先ほどより、少し頭を出してきた太陽に一瞥をくれる。
 強い光で霞んだ視界の中に、一瞬だけ、飛び立つ二羽の鳥が見えた。

 ような気がした。
 

シーサイド・クリフ

拙い文でしたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
何か少しでも感じるところがございましたら、私としては至上の喜びです。
さて、このスーサイドクリフというのは、沖縄の平和記念公園の横にある丘をモデルにしております。一部、史実と違うことがあるかもしれません。私も、高校のときに修学旅行で行ったきりですので(何年前だ・・)。ご容赦を。
フィクションですので、そのへんは割り切って考えていただければと思います。

シーサイド・クリフ

戦争と、恋愛と。 生と、死と。 そんなものを考えながら書きました。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-19

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