こころと
――悔しい。
僕はギュッと唇を結んだ。悔しい、本当に悔しい。
目の前のおっさんもそうなのだろうか。その口から出る声は、大きく震えている。
泣くなよ、大のおとなが。
情けないだろ。
――悔しい。
感情を、四角く切り取りたい。僕の心の中から、悔しいという感情を綺麗さっぱり消し去ってしまいたい。そうしたら僕は、今よりきっとスッキリするだろうから。そんなこと、出来るはずないってのはわかってる。
でも、消し去ってしまいたいのだ。僕の心に芽生えたこの感情を。僕の心にできたこのシミを。
悔しいから。
痛いから。
悲しいから。
辛いから。
感情がなければどれだけ幸せなことだろう、とは思わない。だってそうしたら、嬉しいことも楽しいことも、全部消し飛んで跡形もなくなってしまう。だから、感情はあって構わない。でも、悔しさも、辛さも、悲しみもいらない。
心に痛みはいらない。
涙などいらない。
僕が今泣いているのか、こらえているのか、僕は今どんな顔をしているのだろう。わからない。心でせき止められた感情は溢れ出し、中枢という精密機械を侵していく。僕は今何を思っているのだろう。わからない。わからないが、
――悔しい。
それだけが、心から溢れ出る。
痛みなど、知りたくもなかった。知らずに生きていたかった。どんなに幸せだろう、そんなことができるのなら。だが、僕は知ってしまった。これが痛みだ、悲しみだ、辛さだ。
悔しさだ。
僕は未だに整理がつかないでいる。初めて出会う感情に、名前をつけてあげることだけで精一杯だった。
「裕太、悔しいか。」
目の前のおっさんはそう言った。外の風に吹き飛ばされそうなほど、弱々しい声で。
そうなのだ。
これが――悔しい――ということなのだ。
「悔しいか?」
もう一度、おっさんは尋ねる。その声は先ほどよりも小さい。
僕は口を開く。
でも、出てきたのは声じゃなかった。
嗚咽だ。
うぐっ、とも、えぐっ、とも言えないような、そんな記号が僕の口から漏れ出した。
「悔しいなぁ、俺は、悔しい。」
おっさんの声は震えている。おっさんも泣いているのだろうか、いや、わからない。僕は顔を上げることができない。
誰も、何も喋らない。
ロッカールームには、約十人分の嗚咽だけが延々とこだまする。
「お前ら、忘れんな。悔しさを忘たらいかん。忘れなければ、お前らはもっと強くなれる。」
おっさんの声は、相変わらず震えていた。弱々しい声だった。しかし、この声は、言葉は、全身に染み渡るようにはっきりと聞こえた。
悔しさなんぞ、知る気もなかったし、知りたくもなかった。
僕はずっと下を向いて、唇をギュッと結んでいる。
ぐっと、奥歯の方で悔しさを噛み締める。
苦い。
辛い。
悔しさとはこんな味がするのか。
僕はずっと下を向いて、唇をギュッと結んでいる。
こぼれてしまう気がして。
口を開けば、嗚咽とともにこの感情がこぼれてしまう気がして。
僕は、固く口を結んでいる。
心に痛みなどいらない。
辛いなら。
悲しいなら。
痛いなら。
悔しいなら。
その思いを、捨て去ってしまえばいい――
だが、強くなるためだというのなら。
足を前に進めるためだというのなら。
この思いだって、痛みだって、悪いものじゃない気がする。
忘れることは、見ないふりをすることは、同じ場所で足踏みをするに過ぎない。堂々巡りで、どこにだってたどり着けやしない。
目を背けるな。
この感情は、僕のものなのだ。僕が生んだ、僕が作った。
この思いは忘れてはならない。
この感情を捨ててはならない。
このシミを、心に出来たシミを、消し去ってはいけない。
強く生きるために。
逃げてしまいたいが、逃げることはできない。それは、まるで影のように。
しつこく。
逃げていてはいけない。逃げるのではなく、この思いに真正面から対峙しなければいけない。
僕はずっと下を向いて、唇をギュッと結んでいる。
こぼれてしまう気がして。
口を開けば、嗚咽とともにこの感情がこぼれてしまう気がして。
僕は、固く口を結んでいる。
少しだって、この感情をこぼしてなるものか。
「いい顔してるで、裕太。その顔や。その気持ちは、絶対に忘れんな。」
感情を、四角く切り取ることなんてできない。
ならばいっそ額縁でもつけて、大事にしてあげようか。
でもきっと、この感情は枠組みから溢れ出て、いろんな色のシミを作るだろう。
きっと明るい色ではない。醜い、暗い色だろう。
しかし、絶対にそれを消し去るまい。たった今、そう決めた。
これが、悔しい、ということなのか。
わからない。というか、知るか。
心に湧いたなんだかよくわからないモノを、皆が感情と呼ぶモノを、僕は心の奥底にしまった。
コイツは、俺の腹の中で一生飼っていくのだ。
やがてこの感情は、
この悔しさは、
心のあちこちに、様々な色をぶちまけて。
いろんな色になって。
いろんなシミを作って。
いつか、僕の心は僕にしかない色になる。
僕は、僕の心と生きてゆく。
こころと